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< 目 次 >
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巻第一 |
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釈尊の誕生 |
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王宮にて世事を楽しみ、一子を得る |
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老人、病人、死人を見て、世を厭い患う |
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女たちが媚びを競うが、世を厭う気持ちは変わらない |
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老病死を克服するため、白馬に乗って城を出る |
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巻第二 |
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太子は、御者の車匿と別れて苦行仙人の林に入る |
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菩薩は、苦行する仙人と火に事える仙人とを諭す |
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王宮に於ける憂いと悲しみ |
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王師と大臣とは、太子を探し求める |
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巻第三 |
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瓶沙王は、太子のもとに赴いて帰城を勧める |
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太子は、瓶沙王に答える |
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阿羅藍仙人等に道を求め、苦行を経て菩提樹の下に坐る |
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菩薩は、菩提樹の下で魔を破る |
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菩薩は正覚を成じ、梵天は法輪を転ぜんことを勧請する |
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仏は五比丘のために初めて法輪を転じる |
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巻第四 |
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仏は次いで長者子耶舎、迦葉三兄弟と眷属、瓶沙王に法を説く |
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舎利弗、大目連、大迦葉等を弟子にする |
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長者給孤独を教化する |
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父浄飯王に相い見えて化導する |
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舎衛城にて祇桓精舎を受け、波斯匿王に法を説く |
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財を守る者と狂酔した象とを調伏する |
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毘舎離にて菴摩羅女を化し、その供養を受ける |
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巻第五 |
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菴摩羅園にて離車衆を教化し、彌猴池にて魔王波旬は仏に涅槃を請う |
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阿難に法を説いて慰め、離車たちに別れの法を説く |
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涅槃に入らんとする直前に、特に離車衆と力士衆とに法を説く |
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最後の弟子須跋陀羅を教え導き、弟子に最後の法を説き涅槃に入る |
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大弟子は仏の涅槃を歎じ、力士族は仏身を荼毘に付す |
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仏舎利を八国に分かち、各国は起塔供養する事、並に無憂王の業績 |
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自 序
仏教とは、神も霊魂も否定し、供犠も礼拝も否定し、神や霊魂にかかわる一切を否定したところに、『人が自らの智慧を開発し、自然の道理を知ることによってのみ、災厄を除き、幸福を得ることができる』、と教えるものである。しかしながら、その智慧の開発には初から大きな困難がともなっていた。『輪廻』の問題がそれである。『輪廻』は、智慧の中心事であり、根幹事であるにもかかわらず、霊魂の問題と強固にからみついている。霊魂の存在なくしては説明には困難を極めよう。そこで説明の方便として後ろめたさを感じながらも霊魂が用いられ、重宝されたのであるが、やがて説明する方でも、その矛盾に無関心になる。今現在、人々に信じられているような仏教的儀礼も、本を正せば土俗宗教の礼拝儀礼であり、人心を掌握するための、一時的方便であったに過ぎない。 仏教とは、と更に問いつめるならば、またしてもそれは智慧であると答えなくてはならない。智慧とは、大自然の中に本来的に存在する法則、即ち道理を見つけて知ることである。それは本より、大自然の中に存在しており、機会があれば誰にも発見でき、何時でも発見できるものである。更に言えば、人々は大自然の中で暮らしているのであるから、薄々は感づいているはずであろう。しかしである、ただ認めたくないからという単純な理由により、決して見つけて知ろうとはしない。釈迦とは、それを発見して教示した人である。その教示は懇切を極め、難しい問題には、やさしく説明した。それでありながら、その説明は真直ぐであり、道理に背くこともない。人々が、その教のままに行うならば、その受ける恩恵は計りしれないほど巨大である。しかしここで、またしても疑問符が付く、その巨大な恩恵は、いったい、いつ受けられるものだろうか? 恐らく無理であろうとは、十二因縁に説かれているとおりである。『人の成り立ちは、その第一原因を無明となす』、と。無明とは、暗闇の中に明かりが無いこと、盲目と同だということである。すべて手探りで行わなくてはならない。これが人の本性である。すぐ前に在るものは、知ることができる。しかし、ほんの少しでも遠くに在れば、もう何も分からない。これが人間である。まさに神に頼るにふさわしい生き物ではないか? 仏教を信じる人を仏教徒というが、仏教とは信じるものだろうか?そのような盲目的行為であるはずがないのだ。正しく見て、間違いなく知る、これが仏教である。しかし、先にも見たとおり、知りたくても、無明である。少し先の事さえ分からない。とうてい分かり得ようがないのである。仏教徒であっても信じなくてはならない理由がここにある。仏道を成じる要件として五根五力というものがあるが、その第一が信根であるのも、まさにこの道理に由る。信じるとは何か?先ず自らの無力を直視しなくてはならない。無智を知らなくてはならない。無智を知るとは、偉大な人の前に跪くことである。謙虚に教を受けることである。 釈迦の神格化も、ここに始まる。われわれは誰も、この無智から脱れられない。その証拠であろうか?釈迦の偉大なる伝記を読むと心が安まるのは。この奇跡に満ちた伝記の中に信が生じて、釈迦の真の姿を見ることができ、その教の真実を悟るからであろうか?中でもこの『仏所行讃』は美しく、まさにわれわれの信を涵養するにふさわしい。五言一句を最小単位として八句、十二句乃至十六句、二十句を一節とするが、節と節とは明瞭に分かたれず、時にはつながり、連綿と続いて感興をいやがうえにもかきたてる。本の梵文『ブッダチャリタ(仏の生涯)』は、四行一節の非常に調ったものであるが、この漢文『仏所行讃』は、それに由りながらも自由に発想を転じて、印度の事情に疎い漢民族にも釈迦の偉大さを知らしめる上において、何等不足しない。或いは聴衆の心を躍らせ、或いは沈ませ、或いは涙をさそい、或いは笑みに口をほころばす。その言葉は平易でありながらも格調高く、梵文の上を行くと言ってよいのかもしれない。訳出するにあたり腐心したのも、ここにある。漢文の調子の、はたして何分を伝えきれたものだろうか?
ここで話を戻して、仏伝の付随的説明に入ろう。釈迦が神格化されるに従い、八相ということが言われるようになった。釈迦の一代を八場面に分けて説くことが一般的になったのである。これが一番簡潔な仏伝であるが、数十巻の大部の伝記も、これを大きく超えるものではない。以下、その説明をもって、『仏所行讃』の梗概に替える。(一)降兜率相:菩薩は兜率(とそつ)天より神(精神)を降して、この閻浮提(えんぶだい)の迦毘羅(かびら)国を観た。この処は、往古より諸仏が最も多く出興し、まさに生まれるに相応しい処である。この時、菩薩は五つの瑞兆を現す。(1)大光明を放ち、(2)大地を震動させて、(3)諸魔の宮殿を隠蔽した、(4)日月星辰を現さず、光明を無くし、(5)天龍等は皆悉く驚怖した。この瑞を現して、兜率天を降る。(二)託胎相:菩薩は胎に託そうと欲して観察すると、浄飯王は性と行とが仁賢であり、摩耶(まや)夫人は前の五百世において、かつて菩薩の母だった人である。まさに降って胎に託すに相応しい。菩薩が降る時、素質の勝れた人は菩薩が栴檀の楼閣に乗って降りるのを見、劣った人は六牙の白象に乗って降りるのを見る。菩薩は無量の諸天が諸の伎楽をなす中で、母の胎内に右の脇から入った。その時、母胎は琉璃のように透き通り、菩薩の身は外に映る。(三)降生相:四月八日、菩薩は初めて胎を出た。摩耶夫人は、藍毘尼(らんびに)園において、無憂樹の花を採ろうとして枝に手を差しのべる。ちょうどその時、菩薩は、少しづつ右の脇より出たのである。この樹の下では、七茎の蓮花が、車輪のように大きな花を咲かせた。菩薩は、その花の上に降り立つと、その周りを七歩歩き、右手を挙げてこう言った、『わたしは、一切の天と人との中で、最も尊く、最も勝れる。』、と。その時、難陀(なんだ)龍王と、跋難陀(ばつなんだ)龍王とが、空中から温涼二すじの水を降し、太子の身に潅いだ。太子の身は、その時、黄金色を呈し、三十二相を具えて大光明を放ち、普く三千大千世界を照らした。(四)出家相:太子は、年が十九に至ろうとする時、城の周辺を遊観するために、東西南北四つの城門より出た。この時、太子は、生老病死の相を見て、世の無常を厭い、心に出家を思って、父王に出家を許すよう願った。しかし、それが許されることはなかった。二月七日、身より光明を放って四天王の宮殿、乃至淨居天の宮殿を照らした。諸天は、この光を見て、太子の所に到ると、頭面で太子の足を礼して、こう申した、『無量劫の昔より修めてこられた行と願とを、今こそ熟させる時です。』と。太子は、夜半過ぎ、遂に馬に乗って、跋伽(ばつが)仙人の苦行林に至り、髪を剃り、髭を除いた。(五)降魔相:菩薩が菩提樹の下で、まさに道を成じようとした時、大地は震動し大光明を放って、魔宮を隠蔽した。その時、魔王波旬(はじゅん)は、三人の息女に、菩薩の浄行を乱すように命じた。菩薩が、神力を以って、魔女たちを皆老女にすると、魔王は大いに怒り、部下の魔物に命じて、天雷を震わせ、熱した鉄丸の雨を降らせ、種種の武器に空中から襲いかからせた。しかし弓を引いて放った無数の箭が、空中に停って蓮花の花に変じ、害を加えることができないので、魔物たちは、皆憂い悲しんで、散り散りに迸り去ってしまった。(六)成道相:魔を降した菩薩は、身より大光明を放ち、即座に定に入って、過去に造る所の善悪の事と、此に死んで彼に生まれる事とを悉く知り、十二月八日の明星の出る時、豁然として大悟し、無上の道を得、最正覚を成じた。(七)説法相:菩薩は、道を成じおわると、法を説いて諸の衆生を済度したいと思ったが、『はたして、この衆生たちは信受できるだろうか?わたしは、世に住っていても無益なのではないだろうか?いっそ涅槃に入った方がよいのではないか?』と考えた。その時、梵天が前に現れて、こう言った、『今こそ世尊、法の海はすでに満ち、法の旗竿はすでに立ち、法の太鼓は高々とかかり、法の炬は照しています。衆生を潤し利益するのは、まさにこの時です。何故、一切の衆生を捨てて涅槃に入り、法を説こうとなさらないのですか?』と。この時、如来は梵天の請いを受けて、鹿野苑(ろくやおん)に趣き、先に憍陳如(きょうちんにょ)たちのために、四諦の法輪を転じ、やがて大乗小乗種種の教法を説くに及んだ。(八)涅槃相:如来は、世間を化度して四十五年、まさに涅槃に入ろうとした。二月十五日、拘尸那(くしな)城の娑羅(しゃら)双樹の間に臥せ、後を悲しむ阿難(あなん)に、『私の生きている間であろうと、死んでからであろうと、お前たちは、自分自身を頼りとし、私から聞いた法を頼りとして、他のものに頼ってはならない。では、どのようにすれば良いか、良く身体と心とを、一心に観察して、智慧をみがき、修行に精進して、世間的な執著心を除かなくてはならない。これを自分自身を頼りとし、法を頼りとして、他のものに頼らないという。今日からは、私の制定した戒律を、私の代わりに師匠として、それに書かれているとおりに、行いにも、言葉にも気を付けて修行せよ。』と教えた。これが最後の教である。如来の肉身は荼毘に付され、遺骨は八カ国に分けて供養された。 以上、第一相より第七相までは『佛光電子大辞典(佛光山宗務委員会発行)』に依り、第八相は『大智度論巻2』に依った。
訳すに当っては、『仏所行讃(仏典講座5大蔵出版)』、『仏所行讃(昭和新纂国訳大蔵経東方書院)』、『仏陀の生涯(平等通昭訳注冨山房百科文庫)』等を参照した。ただし現在、それが本となったのであろうと推定される梵文は、『仏所行讃二十八品』中の最初の十四品に相当する部分しか残っておらず、それのみか、或いは別物かと思われるほどに相似していない。『仏陀の生涯』は、それを受けて十四章分があり、『仏所行讃(大蔵出版)』は、漢訳からの訳出にもかかわらず、何故か最初の十五品のみが訳されている。
仏伝は、紀元前後の印度において多く造られ、その中の漢訳されたものだけでも、この『仏所行讃』の他に、更にいくつかが『大正蔵経』中に見受けられる。謂わゆる、本縁部には修行本起経(2巻)、仏説太子随応本起経(2巻)、仏説普曜経(8巻)、方広大荘厳経(12巻)、過去現在因果経(4巻)、仏本行集経(60巻)、仏説衆許摩訶帝経(13巻)、僧伽羅刹所集経(3巻)、仏説十二遊経(1巻)、中本起経(2巻)等があり、阿含部には長阿含第一分遊行経第二(3巻)等があり、その外に律部の中にも、さまざまな記事が散見される。 以上
平成二十一年六月改 玄鳥書屋にて つばめ堂主人著す
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