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(出城品第五)
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太子、ふたたび出遊する
出城品第五 |
出城品(しゅつじょうぼん)第五 |
太子が老病死の患を克服するため、白馬に乗って城を出るまで。 |
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王復搦種 勝妙五欲具 晝夜以娛樂 冀ス太子心 太子深厭離 了無愛樂情 但思生死苦 如被箭師子 王使諸大臣 貴族名子弟 年少勝姿顏 聰慧執禮儀 晝夜同遊止 以取太子心 |
王はまた種種の勝妙なる五欲の具を増し、 昼夜に娯楽するを以って、太子が心をして悦ばしめんと冀(ねが)う。 太子は深く厭離して了(つい)に愛楽(あいぎょう)の情無く、 ただ生死の苦を思うこと、箭(や)を被れる師子の如し。 王は諸の大臣、貴族、名子弟の 年少にして勝れたる姿顔、聡慧なるをして礼儀を執らしめ、 昼夜に同じく遊び止めて、以って太子が心を取らしむ。 |
王は、またしても 種種に素晴らしい、 眼で見て楽しむもの、 耳に聞いて楽しむもの、 鼻に嗅いで楽しむもの、 舌で味わって楽しむもの、 身に触れて楽しむものを、増やした。 昼夜の娯楽で、 太子の心を悦ばせようと願ったのだ。 太子は、 深く厭い、心が離れてしまった、 まったく楽しもうとしない。 ただ、 生死の苦のみを思っている、 まるで箭(や)で傷ついた師子のように。 王は、 諸の大臣、貴族、名家の子弟の中の、 年若く、姿と顔がよく、聡明で、礼儀を知る者たちを選んで、 昼夜に、 太子の宮に留めて遊ばせ、 それで、 太子の心を引き留めようとした。
注:愛楽(あいぎょう):側にあってほしいと思う気持ち。 注:師子(しし):獅子のこと。 |
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如是未幾時 啟王復出遊 服乘駿足馬 眾寶具莊嚴 與諸貴族子 圍遶俱出城 譬如四種華 日照悉開敷 太子耀神景 羽從悉蒙光 出城遊園林 修路廣且平 樹木花果茂 心樂遂忘歸 |
かくの如く未だ幾時ならざるに、王に啓(もう)してまた出遊す。 駿足の馬に服乗して衆宝の具で荘厳し、 諸の貴族子に囲遶(いにょう)されて、倶に城を出づ。 譬えば四種の華の日照れば悉く開敷(かいふ)するが如く、 太子神景(じんえい)を耀かし羽従(うじゅう)すれば悉く光を蒙る。 城を出でて園林に遊ぶに、修路は広くかつ平らかにして、 樹木、花果茂り、心楽しみて遂に帰るを忘る。 |
このようにして間もなく、 太子は、 王に、ふたたび出遊することを申し出て、 駿足の馬に車をつけさせ、 衆宝の装具で荘厳し、 諸の貴族子たちに取囲まれて、共に城を出た。 譬えば、 青赤白黄の蓮花が、日が照らすと、一斉に花開くように、 太子が、 後光を耀かすと、 ぴったり寄り添う者たちも、 その光りを蒙る。 城を出て園林に至る道路は、広く平坦でよく整っている。 路傍の樹木には、 花や果実が茂り、 心が楽しんで、ついに帰ることを忘れてしまう。
注:服乗(ふくじょう):馬に装具をほどこして乗ること、或は四頭立ての馬車に馬を装備すること。 注:開敷(かいふ):花が開くこと。 注:神景(じんえい):尊い身のまわりにぼうっと光る後光のこと。 注:羽従(うじゅう):鳥の羽が身にぴったり付くように、寄り添うこと。 注:修路(しゅろ):長い大通り。 |
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路傍見耕人 墾壤殺諸虫 其心生悲惻 痛踰刺貫心 又見彼農夫 勤苦形枯悴 蓬髮而流汗 塵土坌其身 耕牛亦疲困 吐舌而急喘 太子性慈悲 極生憐愍心 慨然興長歎 降身委地坐 觀察此眾苦 思惟生滅法 嗚呼諸世間 愚癡莫能覺 |
路傍に耕人を見れば、壤(つち)を墾(たがや)して諸の虫を殺せり、 その心に悲惻(ひそく)を生じ、痛きこと刺の心を貫くに踰えたり。 また彼の農夫を見るに、勤苦(ごんく)に形は枯悴(こすい)し、 蓬髪に汗を流し、塵土はその身を坌(けが)せり。 耕牛もまた疲れ困(くる)しみ、舌を吐いて喘ぐこと急なり。 太子が性は慈悲なり。 極まりて憐愍(れんみん)の心を生じ、 慨然(がいねん)として、長歎を興し、身を降ろし地に委ねて坐せり。 この衆苦を観察し、生滅の法を思惟すらく、 『ああ、諸の世間は愚癡にしてよく覚ること莫し。』と。 |
太子は、 路傍に、 土を耕す人を見た、 土を耕して多くの虫を殺している。 太子の心に、 痛みが走る、『ああ、哀れな。』と。 心が、刺に貫かれるようだ。 太子は、 農夫を、もっとよく見た。 苦労は、ありありと形に表われ、 枯木のように、痩せ細っているではないか、 蓬(よもぎ)のように、髪はぼうぼうに乱れ、 ほこりと土がその身を汚している。 耕す牛はどうだ、 疲れきって、苦しんでいるではないか、 舌を吐いて、しきりに喘いでいる。 太子の本性は、慈悲である。 慈悲が極まれば、憐愍(れんみん)が生じる。 瞋りがわきあがってきた。 長いため息をもらすと、 車を降りて、地に坐った。 太子は、 この衆苦を観察して、 生滅の法を考えた。 『ああ、諸の世間の人は、愚癡である。 はたして、この世間の人は、覚れるだろうか。』と。
注:悲惻(ひそく):哀れに思うこと。 注:勤苦(ごんく):苦労。 注:枯悴(こすい):やせおとろえること。 注:憐愍(れんみん):哀れむこと。 注:慨然(がいねん):嘆いて憤ること。 注:生滅法:万物は生滅し、その故に苦しむこと。 注:愚癡(ぐち):愚かで真実が覚れないこと。 |
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安慰諸人眾 各令隨處坐 自蔭閻浮樹 端坐正思惟 觀察諸生死 起滅無常變 心定安不動 五欲廓雲消 有覺亦有觀 入初無漏禪 離欲生喜樂 正受三摩提 |
諸の人衆を安慰し、各に処に随って坐せしめ、 自らは閻浮樹(えんぶじゅ)の蔭に端坐して正思惟すらく、 『諸の生死、起滅を観察すれば、常変無く、 心定り安んじて動かず、五欲の廓は雲消せり。 覚る有りまた観る有り、初の無漏の禅に入り、 欲を離れて喜楽を生じ、三摩提(さんまだい)を正受す。 |
太子は、 皆を安心させ、各、好きな処に坐らせた。 自らは 閻浮樹(えんぶじゅ)の蔭に 端坐(たんざ)して、正思惟(しょうしゆい)した、 『諸の生死、起滅には常も変も無いと観察すれば、 心は安定して動揺せず、五欲の廓(とりで)も雲散霧消する。 感覚も有り観察も有り。 初めて無漏(むろ)の禅定に入り、 愛欲を離れて喜楽を生じ、三摩提(さんまだい)を正受する。
注:安慰(あんに):安心させ慰めること。 注:随処(ずいしょ):好きなところ、どこでも。 注:閻浮樹(えんぶじゅ):印度所産の喬木。 注:端坐(たんざ):姿勢を正して坐ること。 注:正思惟(しょうしゆい):真に至る正しい思考をいう。 注:五欲廓:五欲(眼耳鼻舌身)を城郭、或は牢獄にたとえる。 注:無漏禅(むろぜん):無漏は煩悩の無いこと、禅は静かに考えること。 注:三摩提(さんまだい):心を散乱させず一処に持(たも)つこと。 三昧(さんまい)ともいう。 注:正受(しょうじゅ):正しく受けること。 三昧に入ることをいう。 |
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世間甚辛苦 老病死所壞 終身受大苦 而不自覺知 厭他老病死 此則為大患 我今求勝法 不應同世間 自嬰老病死 而反惡他人 |
世間は甚だ辛苦なり。 老病死に壊せられ、 終には身に大苦を受くれども、自らは覚知せず、 他の老病死を厭うて、これを則ち大患なりと為す。 我は今、勝法を求めんには、まさに世間と同じくすべからず、 自らも老病死を嬰(わずら)うに、しかも反って他人を悪むとは。』と。 |
世間は甚だ辛苦である。 老病死は必ずおとずれ、身には大苦を受けなくてはならない。 これを、 自らの事だとは思いもせず、 他人の老病死を厭い、最もいやなことであると思っている。 わたしは今、 勝法を求めよう。 世間に同ずるのはいやだ。 自らも老病死はおとずれるのに、 ただ他人の老病死のみを悪むとは。』と。
注:患(かん):憂い、わずらい。 嫌なこと。 |
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如是真實觀 少壯色力壽 新新不暫停 終歸磨滅法 不喜亦不憂 不疑亦不亂 不眠不著欲 不壞不嫌彼 寂靜離諸蓋 慧光轉摶セ |
かくの如く真実に観ずらく、『少壮の色、力、寿は、 新新に暫くも停らず、終に磨滅の法に帰す。』と。 喜ばずして憂えず、疑わずして乱れず、 眠らずして欲に著せず、壊(え)せずして彼を嫌わず。 寂静に諸の蓋(がい)を離れ、慧光は転(うた)た明を増せり。 |
太子はこのように真実を観察した、 『少壮なる者の、 容色、能力、寿命は、 日日にしばらくも停滞せず、 ついには、 磨滅の法に屈伏させられる。』と。 太子は、 喜ばず、また憂いもせず、 疑わず、また乱れもせず、 眠りもせず、 愛欲に著せず、 心を奪われず、 世間を嫌わず、 寂静(じゃくじょう)として、諸の煩悩を離れ、 智慧の光りは、どんどん明るさを増した。
注:寂静(じゃくじょう):心が静かで煩悩に惑わされないさま。 注:蓋(がい):蓋(ふた)のように頭を抑えつけるもの、煩悩のこと。 |
太子、淨居天の化す比丘を見る
爾時淨居天 化為比丘形 來詣太子所 太子敬起迎 問言汝何人 答言是沙門 畏厭老病死 出家求解脫 眾生老病死 變壞無暫停 故我求常樂 無滅亦無生 怨親平等心 不務於財色 所安唯山林 空寂無所營 塵想既已息 蕭條倚空閑 精麤無所擇 乞求以支身 即於太子前 輕舉騰虛逝 |
その時、淨居天は比丘の形に化し、 来たりて太子が所に詣(いた)れり。 太子は敬い起ちて迎え、 問うて言わく、『汝は何人なるや。』、答えて言わく、『これは沙門なり。 畏れて老病死を厭い、出家して解脱を求む。 衆生は老病死に変壊して暫くも停ること無く、 故に我は常楽の無滅にして無生なるを求め、 怨親に平等なる心にて、財色に於いて務めざるなり。 安んずる所はただ山林あるのみ。 空寂(くうじゃく)の営む所無く、 塵想(じんそう)はすでに息みおわる。 蕭條(しょうじょう)として空閑(くうげん)に倚(よ)り、 精麁(しょうそ)は択ぶ所無く、乞い求めて以って身を支う。』と。 即ち太子が前に於いて、軽く挙り虚に騰(のぼ)りて逝けり。 |
その時、 淨居天が比丘の形に化して、太子の前に現れた。 太子は、 この比丘を敬い、起って迎え、こう問うた、―― 『あなたは、どなたですか?』と。 答えて言う、―― 『わたくしは、沙門(しゃもん、出家)です。 老病死を畏れ厭うて、出家し解脱を求めています。 衆生は、 老病死のために変壊(へんえ、変化破壊)して、 少壮を暫くも停めおくことができません。 この故に、 わたくしは、 常楽と、滅することも生ずることも無いものを求め、 怨親(おんしん、敵と味方)に平等な心をもち、 財産と色欲のためには務めません。 わたくしの、 安心できる所は、ただ山林があるのみです。 その 何もない所で 何の営みもせず、 煩悩に惑わされることもなく、 ただひとりさみしく、 静かな所に身を寄せて、 食物は精麁(しょうそ、善いと粗末)を択ばず、 乞い求めたものだけで、 身を支えています。』と。 そして、 太子の前で、軽々と虚空にかけ騰(のぼ)っていった。
注:空寂(くうじゃく):静かで何も無いこと。 注:塵想(じんそう):塵は一切の世間の事物、真性を汚染するもの。 故に塵想は煩悩をさす。 注:蕭條(しょうじょう):ものさびしいこと。 注:空閑(くうげん):静かな場所。 注:精麁(しょうそ):精はていねい、麁はそまつ。 食事の善し悪し。 |
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太子心歡喜 惟念過去佛 建立此威儀 遺像見於今 端坐正思惟 即得正法念 當作何方便 遂心長出家 歛情抑諸根 徐起還入城 |
太子心に歓喜して惟念(ゆいねん)すらく、過去の仏、 この威儀を建立し、像に遺せるを今に於いて見たりと。 端坐し正思惟して、即ち正法を得て念わく、 『まさに何なる方便を作してか、心を遂げ長く出家すべきや。』と。 情を斂(おさ)め諸根を抑え、徐(おもむろ)に起ちてまた城に入れり。 |
太子は、 心に歓喜して、こう思った、―― 『過去に、 仏が、 この行為をなし、 わたしの心に遺した像を、 今の、 わたしは、見ている。』と。 太子は、 姿勢を正して坐り正しく考えた。 そして、 正法を得て、こう思った、―― 『何うすれば、心をとげて永遠に家を出られるだろうか?』と。 感情を静めて感覚を抑え、 おもむろに そこを起つと、また城に帰ってしまった。
注:惟念(ゆいねん):心に留め思いえがくこと。 注:建立(こんりゅう):法門を設けること。 注:威儀(いぎ):振る舞い。 注:遺像(ゆいぞう):前世に記憶した像。 |
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眷屬悉隨從 謂止不遠逝 內密興愍念 方欲超世表 形雖隨路歸 心實留山林 猶如繫狂象 常念遊曠野 |
眷属、悉く随従して『止まりて遠く逝きたまわず。』と謂(おも)えど、 内密は愍念を興して、まさに世表(せひょう)を超えんと欲せり。 形は路に随うて帰るといえども、心の実は山林に留まること、 なおし繋がれし狂象の常に曠野に遊ぶことを念うが如し。 |
従者たちは、 皆後ろに従いながら、 『出家の志を思い止められた。 遠くに行こうとなさらない。』と言った。 しかし、 太子の内密は、 哀れみを興して、 今まさに 世の模範さえも超えようとする。 形は、おとなしく路を帰るように見えながら、 心は、実に山林に留まっている。 繋がれた狂象が、 常に、曠野で遊ぶのを恋しがるように。
注:世表(せひょう):世の模範。 |
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太子時入城 士女挾路迎 老者願為子 少願為夫妻 或願為兄弟 諸親內眷屬 若當從所願 諸集悕望斷 太子心歡喜 忽聞斷集聲 若當從所願 斯願要當成 深思斷集樂 搨キ涅槃心 |
太子は、時に城に入り、士女は路を挟んで迎う。 老者は子たれと願い、少(わか)きは夫婦たれと願い、 或は兄弟、諸親、内の眷属為れと願えり。 『もしまさに願う所に従わば、諸集の悕望(けもう)は断ずべし。』、 太子が心は歓喜せり、たちまち『集(しゅう)を断ず』の声を聞く。 『もしまさに願う所に従わば、この願は要(かなら)ずまさに成ずべし。』、 深く集を断ずる楽を思い、涅槃(ねはん)の心を増長せり。 |
太子が城に入る時、 城の男女は、路を挟んで両側から迎えた。 老いた者は、こんな子が欲しいと願い、 若い者は、夫婦でありたいと願い、 或は兄弟、親戚、内の親族でありたいと願った。 『もし自ら願いに従えば、この集まりの希望は断たれよう。』 太子は、 心に歓喜した、こう聞いたのである、―― 『煩悩の集まりを断つ。』と。 『もし自ら願いに従えば、この願いは要ず成就するだろう。』 太子は、 深く、『煩悩の集まりを断とう。』と思い、 楽しんで、涅槃(ねはん)の心を増長した。
注:悕望(けもう):希望。 注:集(しゅう):集まり、煩悩の集まりの意がある。 注:涅槃(ねはん):煩悩の無い境地。 注:増長(ぞうちょう):養いそだてること。 |
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身如金山峰 傭臂如象手 其音若春雷 紺眼譬牛王 無盡法為心 面如滿月光 師子王遊步 徐入於本宮 猶如帝釋子 心敬形亦恭 往詣父王所 稽首問和安 并啟生死畏 哀請求出家 一切諸世間 合會要別離 是故願出家 欲求真解脫 |
身は金山(こんせん)の峰の如く、傭臂(ようひ)は象の手の如く、 その音は春雷の若く、紺眼は譬えば牛王(ごおう)のごとし。 尽くることの無き法を心と為し、面は満月の如く光り、 師子王の遊歩(ゆぶ)して、徐ろに本宮に入る。 なお帝釈子の心に敬いて形もまた恭しきが如く、 往きて父王の所に詣(いた)り、稽首(けいしゅ)して和安を問い、 并びに生死の畏れを啓(もう)して、哀請して出家を求むらく、 『一切の諸の世間は、合い会うとも要ず別離す。 この故に願わくは出家して真の解脱を求めんと欲す。』と。 |
太子の、 身は金山(こんせん)の峰のよう、 腕は象の手のよう、 声は春雷のよう、 紺の眼は牛王(ごおう)のよう、 尽きることのない正法を心とし、 顔は満月の光のよう、 師子王の遊ぶように歩きながら、 ゆっくりと、 本宮に入った。 帝釈天の子のように、 心で敬い、また形も恭(つつ)しみ、 父王の所に至ると、 ぬかづいて機嫌を問い、 ならびに、 生死の畏れをのべて、 出家を請い求めた、―― 『一切の諸の世間は、 会えば、必ず別離があります、 この故に、 出家を願い、 真の解脱を求めようと思います。』と。
注:傭臂(ようひ):腕のこと。 注:稽首(けいしゅ):ぬかづくこと。 注:和安(わあん):平和と安泰。 注:解脱(げだつ):煩悩の縛を解き脱すること。 注:哀請(あいしょう):気の毒に思いながら請うこと。 |
父王、太子を諭し留める
父王聞出家 心即大戰懼 猶如大狂象 動搖小樹枝 前執太子手 流淚而告言 且止此所說 未是依法時 少壯心動搖 行法多生過 奇特五欲境 心尚未厭離 出家修苦行 未能決定心 空閑曠野中 其心未寂滅 |
父王は出家と聞いて、心即ち大いに戦(おのの)き懼(おそ)るること、 なお大狂象の動いて小樹の枝を揺するが如し。 前(すす)みて太子の手を執り、涙を流して告げて言わく、 『しばらくこの所説を止めよ。 未だこれ法に依る時にあらず、 少壮なるは心動揺して、法を行ずれば多く過ちを生ぜん。 奇特(きどく)なる五欲の境をば、心はなお未だ厭離せず。 出家して苦行を修めんにも、未だ心を決定すること能わず。 空閑の曠野の中に、その心は未だ寂滅せず。 |
父王は、 出家と聞いて、心が大いにおののき恐れた、 大きな狂象が、小樹の枝を動揺させるように。 前にすすみ、 太子の手をとって涙を流し、諭してこう言った、―― 『しばらくの間、 それを言わずにおれ。 お前は、 まだ、法を修行する時ではない。 少壮な者が、 心を動揺させたまま、法を修行すれば、 多くは、過失を生じよう。 素晴らしい五欲の楽しみを、 心は、まだ厭い離れたくはないはずだ。 出家して、苦行を修めても、 心が決定できなければ、 さみしい曠野の中では、 心は、寂滅(じゃくめつ)しないだろう。 |
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汝心雖樂法 未若我是時 汝應領國事 令我先出家 棄父絕宗嗣 此則為非法 當息出家心 受習世間法 安樂善名聞 然後可出家 |
汝、心に法を楽しむといえども、未だ我がこの時の若きにあらず、 汝、まさに国事を領(おさ)め、我をして先に出家せしめよ。 父を棄てて宗嗣(そうし)を絶つ、これ則ち非法たり。 まさに出家の心を息め、世間の法を受け習い、 安楽に名聞を善くし、然る後に出家すべし。』と。 |
お前が、 心から法の修行を願っていても、 お前は、まだその時ではない、 わたしこそが、その時なのだ。 お前には、国事をまかせよう、 わたしに、先に出家さえてくれ。 父を棄てて世継ぎを絶やすは、非法であるぞ。 お前は、 出家の事を思いとどまり、 世間の学問を受けて習い、 安楽に名聞を高めよ。 その後に、 出家したらばよかろう。』と。
注:宗嗣(そうし):世継ぎ。 |
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太子恭遜辭 復啟於父王 惟為保四事 當息出家心 保子命常存 無病不衰老 眾具不損減 奉命停出家 |
太子は恭しく遜辞(そんじ)して、また父王に啓さく、 『ただ四事を保つと為さば、まさに出家の心息むべし。 子を保つには命は常に存し、病無く、衰老せず、 衆具は損減せずんば、命を奉じて出家を停らん。』と。 |
太子は、恭しくへりくだって、 父王にこう申した、―― 『もし、 四つの事が保証されるならば、 出家の事は思いとどまりましょう。 子を保つには、 命は常に無くならず、 病は無く、 衰老もせず、 財産が損じることもなく減ることもないことです。 これが保証されるならば、 命を奉じて出家の事は思いとどまりましょう。』と。
注:遜辞(そんじ):へりくだった言い方。 |
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父王告太子 汝勿說此言 如此四事者 誰能保令無 汝求此四願 正為人所笑 且停出家心 服習於五欲 |
父王、太子に告ぐらく、『汝、この言を説くこと勿かれ。 この四事の如きを、誰かよく保ちて無からしめん。 汝がこの四願を求むれば、まさに人に笑われん。 しばらく出家の心を停めて、五欲に服習すべし。』と。 |
父王は太子を諭した、―― 『お前は、そんなことを言ってはならない。 この四つの事は、 誰にも保証できず、無くせないのだ。 お前が、 この四つの願いを求めたならば、 まさしく人の笑い者になるだろう。 しばらく、 出家の事は思いとどまり、 五欲を楽しんでおれ。』と。
注:服習(ふくじゅう):なれること。 |
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太子復啟王 四願不可保 應聽子出家 願不為留難 子在被燒舍 如何不聽出 分析為常理 孰能不聽求 脫當自磨滅 不如以法離 若不以法離 死至孰能持 |
太子は、また王に啓さく、『四願、保つべからずんば、 まさに子に出家を聴(ゆる)すべし。 願わくは留難を為したまわざれ。 子存りても舎(いえ)を焼かるれば、如何が出づるを聴さざらん。 分析して常の理と為すを、だれかよく求むるを聴さざらん。 脱れてまさに自ら磨滅すべきも、法を以って離るるには如かず。 もし法を以って離れずんば、死至るにだれかよく持(たも)たん。』と。 |
太子は、また王にこう申した、―― 『四つの願いが保証できないならば、 どうか子に出家をお許しください。 どうか邪魔をしないでください。 子が家にいたとしても、 家が焼けてしまえば、 何うしても 出ることを許さざるをえません。 考えれば分かることを、 誰か求めを許さずにおれましょうか。 五欲を脱れようとして、 自ら磨滅しなくてはならないとしても、 法により五欲を離れるほか無いのです。 もし 法により五欲を離れなければ、 死が至ったとき、 いったい 誰が命を保てるでしょうか。』と。
注:留難(るなん):邪魔すること。 注:分析(ぶんせき):解明すること。 |
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父王知子心 決定不可轉 但當盡力留 何須復多言 更搶婇女 上妙五欲樂 晝夜苦防衛 要不令出家 國中諸群臣 來詣太子所 廣引諸禮律 勸令順王命 |
父王は子の心の決定して転ずべからざるを知る。 『ただまさに力を尽して留むべし。 何ぞまた多言を須(もち)いん。 更に諸の婇女と上妙の五欲の楽とを増し、 昼夜に苦(ねんごろ)に防衛して、要ず出家せしめざれ。』。 国中の諸の群臣来たりて太子の所に詣り、 広く諸の礼律を引いて、勧めて王の命に順ぜしめんとす。 |
父王は知った、子の心が決して変わらないことを。 『ただ、力を尽してひき留めよ。 もう、何も言うことはない。 もっと、女たちを増やせ。 素晴らしい、五欲の楽しみだ。 昼夜に、怠らず守りとおせ。 必ず、出家させるな。』 国中の 諸の群臣が、太子の所に来て、 種種の、儀礼書などを引き、 王命に、従うよう勧めた。 |
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太子見父王 悲感泣流淚 且還本宮中 端坐默思惟 宮中諸婇女 親近圍遶侍 伺候瞻顏色 矚目不暫瞬 猶若秋林鹿 端視彼獵師 太子正容貌 猶若真金山 伎女共瞻察 聽教候音顏 敬畏察其心 猶彼林中鹿 |
太子、父王の悲しみ感じて泣き涙を流すを見て、 しばらく本宮の中に還り、端坐して黙して思惟す。 宮中の諸の婇女は親近し囲遶して侍り、 伺候しては顔色を瞻(み)、矚目(しょくもく)して暫くも瞬かざること、 なお秋林の鹿の彼の猟師を端視(たんし)するが如し。 太子の正しき容貌は、なお真金の山の若く、 伎女は共に瞻察(せんさつ)し、教えを聴いて音と顔とを候(うかが)い、 敬い畏れてその心を察ること、彼の林の中の鹿のごとし。 |
太子は、 父王が悲しみに感じて涙を流して泣くのを見、 とりあえず、 本宮の中に還り、姿勢を正して坐り、沈思黙考した。 宮中の女たちは、 親しげに、とり囲んで侍る、 ご機嫌をうかがっては顔色を見、 じっと見つめて瞬かない。 まるで、 秋の林で鹿が、猟師をじっと見つめているように。 太子の、端正な容貌は、 真の金山(こんせん)のようだ。 伎女たちも、 共に顔色をうかがい察しようとしている。 命令を聞くときも、 声と顔とをうかがって、 敬い畏れてその心を察しようとしている。 まるで、 彼の林の鹿のように。
注:矚目(しょくもく):じっとみつめること。 注:端視(たんし):じっとみること。 注:瞻察(せんさつ):はたからそっとみること。 |
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漸已至日暮 太子處幽夜 光明甚輝耀 如日照須彌 坐於七寶座 梭ネ妙栴檀 婇女眾圍遶 奏犍撻婆音 如毘沙門子 眾妙天樂聲 太子心所念 第一遠離樂 雖作眾妙音 亦不在其懷 |
漸(ようや)くすでに日暮れに至る。 太子は幽夜(ゆうや)に処せども、 光明、甚だ輝耀(きよう)たりて、日の須弥(しゅみ)を照らすが如く、 七宝の座に坐せり。 薫ずるに妙栴檀を以ってし、 婇女衆の囲遶してノ撻婆(けんだつば)の音を奏づること、 毘沙門子(びしゃもんし)の衆の妙なる天楽の声の如し。 太子の心に念う所は、第一に楽を遠離す、 衆の妙なる音を作すといえども、またその懐(ふところ)に在らざるなり。 |
ようやく、日が暮れた。 太子は、 ひっそりとした夜の闇の中にいた。 光明が 明るく耀いている、 日が須弥山を照らすように。 太子が、 七宝の座に坐ると、素晴らしい栴檀が薫じられた。 女たちは、 周囲をとりまいて、楽神のように音楽を奏でている、 毘沙門の子のために奏でられる、天の妙音のように。 太子が心で思うことは、 この音楽から離れることである。 素晴らしい音だが、少しも心にしみこまない。
注:幽夜(ゆうや):暗い夜。 注:輝耀(きよう):光り輝くこと。 注:須弥(しゅみ):須弥山(しゅみせん)、世界の中央にそびえる第一の高山。 注:ノ撻婆(けんだつば):天の楽神。 注:毘沙門(びしゃもん):多聞天ともいう。 四天王天の中の毘沙門天の王。 |
太子、天の助けをかり深夜に城を出る
時淨居天子 知太子時至 決定應出家 忽然化來下 厭諸伎女眾 悉皆令睡眠 容儀不歛攝 委縱露醜形 惛睡互低仰 樂器亂縱 傍倚或反側 或復似投深 纓絡如曳鎖 衣裳絞縛身 抱琴而偃地 猶若受苦人 |
時に淨居天子、太子の時至りて、 決定してまさに出家すべきことを知り、忽然として化して来下し、 諸の伎女衆を厭いて、悉く皆睡眠せしむ。 容儀は斂摂(れんしょう)せず、 委(みす)てて縦(ほしいまま)に醜形を露して、 昏睡して互いに低(うなだ)れ仰ぐ。 楽器は乱れて縦横に、 傍らに倚(よ)る。 或は反側し、或はまた深く投ずるに似たり。 瓔珞は鎖を曳くが如くし、衣裳は身を絞りて縛り、 琴を抱きて地に偃(たお)れ、なお苦を受くる人の若し。 |
その時、 淨居天の子は、 太子に時が至り、 心を決して出家することを知った。 姿をかくして地上に下り立ち、 女たちが、うっとおしいので、 皆、眠らせた。 女たちは、 礼儀正しい振る舞いを捨て、 ほしいままに醜態をさらす。 昏睡して、互いにもたれ合い、 或はうなだれ、 或はあおむき、 楽器を、 縦横に乱し、 傍らにひき寄せ、 或は、寝返りをうち、 或は、池の深みに身を投げるようにし、 或は、鎖を曳くように瓔珞を引張り、 或は、衣裳が絞られて身を縛ったようになり、 或は、琴を抱いたまま地に倒れふしている。 まるで、 罪の責苦を受けているように。
注:容儀(ようぎ):姿と振る舞い。 礼儀正しい態度。 注:斂摂(れんしょう):取り締まりて整えること。 注:反側(はんそく):寝返りをうつ。 |
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黃壕゚流散 如摧迦尼華 縱體倚壁眠 狀若懸角弓 或手攀窗牖 如似絞死尸 頻呻長欠呿 魘呼涕流涎 蓬頭露醜形 見若顛狂人 華鬘垂覆面 或以面掩地 或舉身戰掉 猶若獨搖鳥 委身更相枕 手足互相加 或顰蹙皺眉 或合眼開口 種種身散亂 狼籍猶屍 |
黄緑の衣は流散して、迦尼華(かにけ)を摧(くじ)けるが如く、 縦に体を壁に倚せて眠り、状(かたち)は角弓を懸けたるが若く、 或は手で窓牖(そうゆう)を攀(よ)じて、絞死尸に似たるが如し。 頻りに呻いて長く欠呿(けんきょ)し、 魘呼(えんこ)し涕(なみだ)して涎を流し、 蓬頭に醜形を露す。 見れば顛狂人(てんごうにん)の若く、 華鬘(けまん)は垂れて面を覆い、或は面を以って地を掩い、 或は身を挙げて戦(おのの)き掉(ふる)え、 なお独り揺るる鳥の若し。 身を委ね更に相い枕し、手足を互いに相い加え、 或は顰蹙(ひんしゅく)して眉を皺め、或は眼を合わせて口を開き、 種種に身を散乱させ、狼藉たることなお屍を横たうるがごとし。 |
黄緑の衣は、 一面に散らばる、 迦尼迦樹(かにかじゅ)の花のように。 体を、 壁にもたれさせて眠るのもいる、 弓を立て掛けたように。 或は、 手で窓枠をよじ登ろうとしている、 絞死人の屍骸のように。 しきりに呻く者、 長いあくびをする者、 うなされる者、 涙を流す者、 涎を流す者、 頭をぼさぼさにした者、 狂人のように、 華鬘(けまん、髪飾り)を垂して顔を覆う者、 或は、顔で地面を覆う者、 或は、 身を震わせている者、 独り震える鳥のようだ。 互いに、 身を委ねて枕にする者、 手足を相手にからめて。 或は、顔をしかめて眉をひそめ、 或は、眼を閉じて口を開け、 皆、 思い思いに身を散らばらせ、 乱雑さは屍骸が横たわっているようだ。
注:迦尼華(かにけ):迦尼迦樹(かにかじゅ)の花。 蔓をのばして茂り林をなす。 花は金色。 注:角弓(かくきゅう):動物の角で飾った弓。 注:絞死尸(こうしし):絞死人のしかばね。 注:窓牖(そうゆう):壁に開いた窓。 注:欠呿(けんきょ):あくび。 注:魘呼(えんこ):うなされる声。 注:蓬頭(ほうづ):よもぎのように髪の乱れた頭。 注:顛狂人(てんごうにん):狂人。 注:華鬘(けまん):頭の飾り。 |
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時太子端坐 觀察諸婇女 先皆極端嚴 言笑心諂黠 妖豔巧姿媚 而今悉醜穢 女人性如是 云何可親近 沐浴假緣飾 誑惑男子心 我今已覺了 決定出無疑 |
時に太子は端坐して諸の婇女を観察すらく、 『先に皆極めて端厳たり、言笑して心に諂黠(てんげち)し、 妖艶にして巧姿(こうし)して媚ぶれども、今は悉く醜穢たり。 女人の性はかくの如し。 云何が親近すべきや。 沐浴して緑の飾りを仮り、男子の心を誑惑(おうわく)す。 我は今すでに覚了せり、決定して出でんこと疑い無し。』と。 |
その時、 太子は、身を正して坐り、 女たちを観察した、―― 『先ほどは、 皆、極めて端正で礼儀正しく、 話したり笑ったりして、賢く振る舞い、 妖艶な化粧で媚びていたが、 今は、 悉く、醜悪になってしまった。 女人の本性はこれであったか、 何うして親しく近づけることができよう。 沐浴したり、 緑の衣裳で身を飾ったりして、 男子の心を惑わしているが、 わたしには、 今すっかり分かった。 もう、 決心はついた、 出ることに迷いはない。』と。
注:諂黠(てんげち):賢くへつらうこと。 注:誑惑(おうわく):誑かし惑わすこと。 |
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爾時淨居天 來下為開門 太子時徐起 出諸婇女間 踟躕於內閣 而告車匿言 吾今心渴仰 欲飲甘露泉 被馬速牽來 欲至不死鄉 自知心決定 堅固誓莊嚴 婇女本端正 今悉見醜形 門戶先關閉 今已悉自開 觀此諸瑞相 第一義之筌 |
その時、淨居天来り下りて為に門を開く。 太子は時に徐ろに起き、諸の婇女の間より出でて、 内閣に踟躕(ちちゅう)して、車匿(しゃのく)に告げて言わく、 『吾が今の心は渇仰し、甘露の泉を飲まんと欲す。 馬に被せて速やかに牽き来たれ。 不死の郷に至らんと欲す。 自ら心の決定せること堅固なるを知りて、荘厳を誓えり。 婇女は本端正なるも、今は悉く醜形に見え、 門戸は先に関閉なるも、今はすでに悉く自ら開く。 この諸の瑞相を観るは、第一義の筌(せん)なり。』と。 |
その時、 淨居天が、下り来たって、 太子のために門を開いた。 太子は、その時、 ゆっくりと起きあがり、 女たちの間をぬけ出た。 室の前でしばらくたたずみ、 車匿(しゃのく)に命じてこう言った、―― 『わたしは、 今心が渇いている、 甘露の泉を飲みに行こう。 馬に鞍をつけ、 速やかに牽いて来い、 不死の郷へ行こう。 わたしは、 自ら決心が固いことを知った、 修行して、この身を飾ることを誓ったのだ。 女たちは、 先には端正であったものが、今は悉く醜く見える、 門は、 先ほど閉まっていたのに、今は開いている。 このように、 多くの瑞相(ずいそう)を観るとは、 第一義(真理)を得るための第一歩であろう。』と。
注:内閣(ないかく):妻女のいる室。 注:踟躕(ちちゅう):じっとたたずむこと。 注:車匿(しゃのく):仏出城時の御者。 後に仏に従って比丘となったが悪口の性を改めず、悪口の車匿といわれた。 注:荘厳(しょうごん):修行して身を飾ること。 注:瑞相(ずいそう):めでたいしるし。 注:第一義(だいいちぎ):真理。 注:筌(せん):竹を編んで作った魚を捕る道具。 |
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車匿內思惟 應奉太子教 脫令父王知 復應深罪責 諸天加神力 不覺牽馬來 平乘駿良馬 眾寶鏤乘具 高翠長髦尾 局背短毛耳 鹿腹鵝王頸 額廣圓瓠鼻 龍咽臗臆方 具足驥相 |
車匿は内に思惟すらく、『まさに太子の教えを奉ずべし。 脱れて父王に知らしむれば、またまさに深く罪に責めらるべし。』と、 諸天、神力を加うれば、馬を牽いて来たることも覚えず。 平乗の駿(はや)き良馬に、衆宝を鏤(ちりば)む乗具、 高き翠(みどり)の長き髦尾(ぼうび)、局(かが)める背に短毛の耳、 鹿の腹に鵝王の頸、額は広く円き瓠(ひさご)の鼻、 龍の咽、臗臆(かんおく)は方(かどば)りて、 驥(りんき)の相を具足せり。 |
車匿は心で考えた、―― 『ここは太子の命を奉じよう。 もし、 この場を脱れて、父王に知らせれば、 必ず、深く罪を責められるだろうから。』と。 諸天が、 神力で助けたので、 いつの間に、 馬を牽いて来たかも覚えていない。 平に乗れる駿足の良馬は、 衆宝をちりばめた馬具を被せられ、 翡翠色の長い髦(たてがみ)と尾を高くもたげて、 背をかがめ、耳の毛は短く、 鹿のような腹と、鵞鳥の頚、 広い額に、まるい鼻先、 龍のような咽、胸と尻とは角張って、 美しい模様のある白馬であった。
注:平乗(へいじょう):走るとき背が上下せず乗りやすい。 注:髦尾(ぼうび):たてがみと尾。 注:臗臆(かんおく):胸と腰。 注:驥(りんき):美しい模様のある駿馬。は唇が黒く美しいまだらのある白馬。驥は一日に千里を走る駿馬。 |
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太子撫馬頸 摩身而告言 父王常乘汝 臨敵輒勝怨 吾今欲相依 遠涉甘露津 戰鬥多眾旅 榮樂多伴遊 商人求珍寶 樂從者亦眾 遭苦良友難 求法必寡朋 堪此二友者 終獲於吉安 吾今欲出遊 為度苦眾生 汝今欲自利 兼濟諸群萌 宜當竭其力 長驅勿疲惓 勸已徐跨馬 理轡倏晨征 |
太子は馬の頸を撫で、身を摩りて告げて言わく、 『父王は常に汝に乗りて、敵に臨み輒(たやす)く怨に勝てり。 吾は今相い依りて、遠く甘露の津(みなと)に渉らんと欲す。 戦闘は衆旅(しゅりょ)多く、栄楽は伴遊(ばんゆう)多し、 商人の珍宝を求むるに、従うを楽(ねが)う者もまた衆(おお)し、 苦に遭うて良友は難く、法を求むるに必ず朋は寡(すくな)し。 この二友に堪えし者は、終に吉安を獲(え)ん。 吾が今出遊せんと欲するは、苦の衆生を度せんが為なり。 汝は今、自ら利し兼ねて諸の群萌(ぐんもう)を済わんと欲す。 宜しくまさにその力を竭(つ)くすべきも、 長駆に疲倦(ひけん)すること勿かれ。』と。 勧めおわりて徐ろに馬に跨り、 轡を理(おさ)めて倏(たちま)ち晨(あかつき)に征(ゆ)けり。 |
太子は、 馬の頸を撫で身を摩るとこう言った、―― 『父王は、常にお前に乗り、敵に臨んでたやすく勝った。 わたしは、今お前の助けをかり、遠く甘露の津(みなと)へ渉ろうと思う。 戦闘ならば旅団の衆は多く、 歓楽ならば伴に遊ぼうとする者が多く、 商人が珍宝を求めるときも、従おうとするものもまた多い。 しかし、 苦の中で良友に遭うことは難く、 法を求める中にも友は少ないのだ。 この二友になれる者は、 ついに吉祥と安穏を得るだろう。 わたしが、 今出かけようとするのは、 苦の衆生を救おうとするためである。 お前は、 今、自らを利し、 兼ねて、衆生を救おうとしている。 よろしい、 十分にお前の力を尽せ、 長く駆けて疲れたりするな。』と。 太子は、 白馬に、こう力づけると、 轡を執り、 夜明け前の暗がりの中を駆けて行った。
注:衆旅(しゅりょ):軍隊。 注:栄楽(えいらく):盛んな楽しみ。 注:伴遊(ばんゆう):道連れ。 注:群萌(ぐんもう):衆生。 |
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人狀日殿流 馬如白雲浮 束身不奮迅 屏氣不噴鳴 四神來捧足 潛密寂無聲 重門固關鑰 天神令自開 敬重無過父 愛深莫踰子 內外諸眷屬 恩愛亦纏綿 遣情無遺念 飄然超出城 |
人は日殿の流るるが状(ごと)く、馬は白雲の浮かぶが如し。 身を束ねて奮迅せず、気を屏(おお)うて噴鳴(ふんめい)せず、 四神来たりて足を奉げ、潜密(せんみつ)し寂として声無く、 重き門の固き関鑰(かんやく)は、天神が自ずから開かしむ。 敬って重きことは父に過ぐるは無く、愛して深きも子を踰ゆる莫し。 内外の諸の眷属も、恩愛はまた纏綿(てんめん)として、 情を遣れど念を遺す無く、飄然(ひょうぜん)として城を超え出づ。 |
人は、日が流れるように。 馬は、白雲が浮かぶように。 人は身を引き締める。 馬は猛ってはやらない。 人は息をひそめる。 馬はいななかない。 四神(しじん)が来て、 馬の足を捧げる。 声をひそめて 静かに音を立てず、 重い門のかんぬきは、 天神が自ら開ける。 子は父を過ぎて敬うものは無い。 父も子を踰えて深く愛するものも無い。 内外の親族も、 恩愛を心にまつわらせている。 太子は、 情の言葉をのこし、 心をのこすこと無く、 ふっといなくなり、 城を出て行ってしまった。
注:日殿(にちでん):太陽。 注:四神(しじん):四天王。 注:潜密(せんみつ):秘かにする。 注:関鑰(かんやく):かんぬき。 注:纏綿(てんめん):心にまつわりつくさま。 注:飄然(ひょうぜん):ふっといなくなるさま。 |
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清淨蓮花目 從淤泥中生 顧瞻父王宮 而說告離篇 不度生老死 永無遊此緣 一切諸天眾 虛空龍鬼神 隨喜稱善哉 唯此真諦言 |
清浄なる蓮花の目、淤泥(おでい)の中より生じて、 父王の宮を顧瞻(こせん)し、しかも告離(ごうり)の篇を説かく、 『生老死を度せずんば、永くここに遊ぶ縁無し。』と。 一切の諸の天衆、虚空の龍と鬼神も、 随喜(ずいき)して 『善哉(ぜんざい)、ただこれのみ真諦(しんたい)の言なり。』と称う。 |
清浄な、 蓮花の目は、 淤泥(おでい)の中より生じて、 父王の宮をながめ、 別離の言葉を説く、―― 『生老死を救うまでは、永遠にここに遊ぶことは無いだろう。』と。 一切の諸の天衆と、虚空に住む龍神、鬼神たちは、 わが事のように喜んで、こう言った、―― 『善いことだ。 ただこの言葉のみが真実を言っている。』と。
注:淤泥(おでい):どろ。 注:顧瞻(こせん):ふりかえって仰ぎ見ること。 注:告離篇(ごうりへん):別離の辞。 注:随喜(ずいき):人の行為を喜ぶこと。 注:善哉(ぜんざい):善いぞと言うこと。 注:真諦(しんたい):真実を覚ること。 |
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諸天龍神眾 慶得難得心 各以自力光 引導助其明 人馬心俱銳 奔逝若流星 東方猶未曉 已進三由旬 佛所行讚卷第一 |
諸天、龍神の衆は慶んで得難き心を得、 各、自力の光を以って、引導しその明かりを助く。 人馬の心は倶に鋭く、奔(はし)り逝くこと流星の若し。 東方はなお未だ暁ならざるに、すでに三由旬(ゆじゅん)を進めり。 仏所行讃 巻の第一 |
諸の天、龍、鬼神たちは、 めでたさを喜び、 心に得難いことだと思い、 各、自らの力と光で、太子の行方を照らし導いた。 人も馬も、 心を鋭敏にして、 流星のように駆け出す。 東方が、 まだ、夜が明けない中に、 すでに、三由旬(ゆじゅん)を進むことができた。
注:由旬(ゆじゅん):王の軍隊の一日の行程。凡そ10キロメートル。 |
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