(離欲品第四)

 

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女たちは媚を競うが太子の心を奪えない

離欲品第四

離欲品(りよくぼん)第四

女たちは媚を競うが、太子は心を留めない。

 太子入園林  眾女來奉迎

 並生希遇想  競媚進幽誠

 各盡伎姿態  供侍隨所宜

 或有執手足  或遍摩其身

 或復對言笑  或現憂慼容

 規以ス太子  令生愛樂心

太子園林に入れば、衆女来たりて迎え奉り、

並びに希に遇うの想を生じて、媚を競い幽誠(ゆうじょう)を進め、

各伎(ぎ)の姿態を尽くして、供侍(きょうじ)して宜しき所に随う。

或は手足を執る有り、或は遍くその身を摩り、

或はまた対(こた)えて言笑し、或は憂慼(うせき)の容(かたち)を現し、

太子を悦ばしむるを以って、

   愛楽(あいぎょう)心を生ぜしめんと規(はか)る。

太子が園林に入ると、

   女たちは出迎えた。

女たちは、皆、

   『こんな人に会えるのは、めったに有るものではない。』と思い、

   媚を競いながらも奥深くにめばえた真心を捧げ、

   各、踊りに姿と技を尽くし、

   側に仕えて意にかなうようにした。

或は、手足を執り、

或は、その身をすみずみまで摩り、

或は、問いに答えてしゃべったり笑ったりし、

或は、心を痛めている振りをして、

   太子を悦ばせ、

      愛する心を起こさせようとした。

 

  :進幽誠:幽は奥深い、誠は真心、進は捧げる。 心の奥深くにめばえた真心を捧げること。

  :伎姿態:伎はおどりて、またその技術。 踊りの姿形と技術のこと。

  :供侍(きょうじ):近くに仕え侍ること。

  :憂慼(うしゃく):憂いて心を痛めること。

  :愛楽(あいぎょう):愛すること。

 眾女見太子  光顏狀天身

 不假諸飾好  素體踰莊嚴

 一切皆瞻仰  謂月天子來

 種種設方便  不動菩薩心

 更互相顧視  抱愧寂無言

衆女、太子を見るに、光顔に天身を状(かたど)り、

諸の飾好(じきこう)を仮らずとも、素より体は荘厳を踰えたり。

一切は皆瞻仰(せんごう)して謂わく『月天子来たる。』と。

種種に方便を設くるも、菩薩の心を動かさず、

更に互いに相い顧視(こし)し、愧(はじ)を抱いて寂として言無し。

女たちが太子を見た、――

『太子は、

    光かがやく顔があり、天のような身がある。

    装身具は必要ない、素の体は金銀で飾り立てるに勝る。』と。

女たちは、皆、

   太子を仰ぎ見て、こう言った、『月の天子がいらっしゃった。』と。

   いろいろ手だてを尽くしても、菩薩の心は動かせない。

女たちは、

   為すすべもなく、

      互いに顔を見合わせ、

      恥ずかしく思いながら、

      静かになり、やがて何も言わなくなった。

 

  :菩薩は太子のこと。

  :飾好(じきこう):身に着ける飾り物。

  :瞻仰(せんごう):仰ぎ見ること。

  :方便(ほうべん):手だて。

  :顧視(こし):振り返り目と目で見交わすこと。

 有婆羅門子  名曰優陀夷

 謂諸婇女言  汝等悉端正

 聰明多技術  色力亦不常

 兼解諸世間  隱祕隨欲方

 容色世希有  狀如王女形

 天見捨妃后  神仙為之傾

 如何人王子  不能感其情

ある婆羅門の子、名づけて優陀夷と曰うが、

諸の婇女に謂って言わく、『汝等は悉く端正なり。

 聡明にして技術多く、色力もまた常ならずして、

 兼ねて諸の世間の、隠秘の随欲(ずいよく)の方を解す。

 容色は世にも希有にして、状(かたち)は王女の形の如く、

 天も見れば妃后を捨て、神仙もこれが為に傾かん。

 如何が人王の子の、その情に感ずること能わざる。

ある婆羅門の子がいた、名を優陀夷(うだい)という。

   宮廷の女たちにこう言った、――

『あなた方は、皆とても端正です。

    聡明であり、踊りや歌も上手で、

    しかも、非常に美しい。

    その上、

       世間には秘密の房中術についても、いろいろご存知です。

    容色は世にもまれであり、

    姿は王女のよう、

    天でさえ、あなた方を見れば奥方を捨て、

    神仙でさえ、あなた方には心を傾けます。

 どうして、

    人の王子が、その感情に堪えられましょう。

 

  :優陀夷(うだい):釈迦の学友。 六群比丘の一として悪名が高い。

  :婇女(さいにょ):宮廷の女官。

  :端正(たんせい):美しく整って欠点がないこと。

  :随欲方:房中術。

 今此王太子  持心雖堅固

 清淨コ純備  不勝女人力

 古昔孫陀利  能壞大仙人

 令習於愛欲  以足蹈其頂

 長苦行瞿曇  亦為天后壞

 勝渠仙人子  習欲隨沿流

 毘尸婆梵仙  修道十千歲

 深著於天后  一日頓破壞

 今、この王太子、心を持(たも)つこと堅固にして、

 清浄の徳は純(もっぱ)ら備うといえども、女人の力には勝(た)えず。

 古昔(いにしえ)の孫陀利(そんだり)は、よく大仙人を壊(え)し、

 愛欲に於いて習わしめ、足を以ってその頂を蹈めり。

 長苦行瞿曇(くどん)は、また天后に壊せられ、

 勝渠(しょうこ)仙人子は欲を習い、随って流れに沿(したが)い、

 毘尸婆(びしば)梵仙は、修道すること十千歳、

 深く天后に於いて著し、一日頓に破壊す。

 今、この王太子は、

    心を堅固に持(たも)ち、

    清浄の徳を多く備えていますが、

    女人の力には勝てません。

 昔、孫陀利(そんだり)という女は、

    大仙人の神通力を破り、

    愛欲におぼれさせて、、

       足で頭を蹈みました。

 長苦行瞿曇(ちょうくぎょうくどん)という仙人もまた、

    天の奥方に神通力を破られました。

 勝渠仙人(しょうこせんにん)の子は、

    愛欲におぼれて女に随い、

    流れに沿って行きました。

 毘尸婆梵仙(びしばぼんせん)は、

    一万年も修行したのですが、

    天の奥方を深く愛したので、

    一日にして、神通力が破れました。

 

  :孫陀利(そんだり):釈尊を誹謗した女、また『仏説興起行経巻1(仏説孫陀利宿縁経)』に出る。

  :習う:習慣になる、おぼれる。

  :長苦行瞿曇(ちょうくぎょうくどん):伝説上の仙人。

  :勝渠仙人子(しょうこせんにんし):一角仙人。『大智度論17』に波羅奈国の鹿の腹から生まれた角のある仙人で、山中に住み、雨が降ると足が不便であるからと十二年間、神通力により雨を降らせなかった。 国王は誰か仙人に雨を降らせる者はいないかと募ると、婬女扇陀(せんだ)が立ち、雨を降らせてしかも仙人の頂に乗って帰ると約束した。 扇陀は種種の歓喜丸等の薬、種種の酒、種種の果物などを大量にたずさえ、酒を浄水といつわって一角仙人に飲ませるにおよび、仙人はついに婬事を成して神通を失い、大量の雨が降るに至った。 すでに尽きた酒、薬、果物等を求めて、仙人に山を下らせ、城に近づくと扇陀は疲れたから歩けないと言い、仙人の頂に乗って還った。

  :毘尸婆梵仙(びしばぼんせん):刹利種から苦行して婆羅門種になった仙人。

 如彼諸美女  力勝諸梵行

 況汝等技術  不能感王子

 當更勤方便  勿令絕王嗣

 女人性雖賤  尊榮隨勝天

 何不盡其術  令彼生染心

 彼の諸の美女の如きは、力は諸の梵行に勝る、

 況や汝等の技術は、王子に感ぜしむることの能わずや。

 まさにさらに勤めて方便し、王の嗣(よつぎ)を絶えしむること勿かれ。

 女人の性は賎しきといえども、尊栄ゆれば随って天にも勝らん。

 何んがその術を尽くして、彼をして染心を生ぜしめんや。』と。

 このように、

    美女の力というものは

       仙人の修行に勝ります。

 ましてや、

    あなた方の、

       歌や踊りが、王子を感じさせずにいられましょうか。

 もっと勤めて、

    手だてを尽し、

       王の世継ぎを絶えさせないでください。

 女人の性は賎しいといいますが、

    主人が栄えれば、それに随って天に勝つこともできます。

 どうして、

    秘術を尽し、太子に愛欲を起こさせずにおけましょう。』と。

 

  :梵行(ぼんぎょう):清浄な行い。 仙人の修行。

  :尊(そん):主人。

  :染心(せんしん):愛欲に染まった心。

 爾時婇女眾  慶聞優陀說

 搗エ踊ス心  如鞭策良馬

 往到太子前  各進種種術

 歌舞或言笑  揚眉露白齒

 美目相眄睞  輕衣現素身

 妖搖而徐步  詐親漸習近

 情欲實其心  兼奉大王旨

 慢形媟隱陋  忘其慚愧情

その時、婇女衆は、慶んで優陀の説を聞き、

その踊悦の心に増せり。 良馬に鞭策(べんさく)するが如く、

往きて太子の前に到り、各種種の術を進む。

歌舞し、或は言笑し、眉を揚げて白歯を露し、

美目にて相い眄睞(めんらい)し、軽衣にて素(しろ)き身を現わし、

妖しく揺れて徐(おもむ)ろに歩き、詐り親しんで漸く習近す。

情欲その心に実りて、兼ねて大王の旨を奉じ、

形を慢(あなど)り隠陋(いんろう)に媟(な)れ、

   その慚愧の情を忘る。

その時、

   宮廷の女たちは、

      優陀夷の話を喜んで聞き、

      心に踊悦(ゆえつ)を増した。

   女たちは、

      良馬に鞭が入ったように、

      勇んで太子の前に行き、

      各、種種の技術を披露した。

      歌って踊り、

      しゃべって笑い、

      眉を揚げて白い歯を露(あらわ)し、

      美しい目で流し目をくれ、

      軽い衣で白い肌を見せ、

      妖しげに揺れながらゆっくり歩き、

      親しげに近くすり寄り、

      情欲をその心につのらせながら、大王の命を奉じ、

      恥もなく肉体を現わし、

      気安く隠すべき所を見せ、恥も外聞も忘れた。

 

  :踊悦(ゆえつ):心が踊りあがるように悦びがわくこと。

  :慢形:形は肉体、慢は心を配らないこと。

  :媟隠陋:隠陋(いんろう)は隠れた醜いもの。 媟(せつ)は気安いこと。

  :慚愧(ざんき):恥と外聞。 恥ずかしく思うこと。

 太子心堅固  傲然不改容

 猶如大龍象  群象眾園遶

 不能亂其心  處眾若閑居

 猶如天帝釋  諸天女圍繞

太子の心は堅固なり。 傲然として容(かたち)を改めざること、

なお大龍象の群なす象衆に囲遶(いにょう)せらるるが如し。

その心を乱すこと能わず。 衆に処して閑居するが如きは、

なお天帝釈の諸の天女に囲遶せらるるが如し。

太子は、心が堅固である。

   誰もいないかのように、顔色さえ変えない。

   まるで、

      巨象が群の象たちに囲まれているように。

太子の、心は乱せない。

   大勢の中にいても、誰もいないかのように。

   まるで、

      天帝釈が、天女たちに囲まれているように。

 

  :傲然(ごうぜん):誰もいないかのように振る舞うこと。

  :不改容:容は容姿、容貌、身ごなし、振る舞い、様子。 様子を普段と変えないこと。

  :大龍象(だいりゅうぞう):巨象。

  :囲遶(いにょう):取り囲むこと。

  :閑居(かんきょ):静かに独居すること。

  :天帝釈(てんたいしゃく):忉利天の主、帝釈天ともいう。

 太子在園林  圍繞亦如是

 或為整衣服  或為洗手足

 或以香塗身  或以華嚴飾

 或為貫瓔珞  或有扶抱身

 或為安枕席  或傾身密語

 或世俗調戲  或說眾欲事

 或作諸欲形  規以動其心

太子は園林に在りて囲遶せらるることも、またかくの如し。

或は為に衣服を整え、或は為に手足を洗い、

或は香を以って身に塗り、或は華を以って厳飾し、

或は為に瓔珞を貫き、或は扶けて身を抱える有り、

或は為に枕席を安んじ、或は身を傾げて密語し、

或は世俗の調戯(ちょうぎ)し、或は衆の欲事を説き、

或は諸の欲形を作し、以ってその心を動かさんと規(はか)る。

太子も、同じように園林の中で、大勢に囲まれていた。

女たちは、

   或は、太子の衣服を整え、

   或は、太子の手足を洗い、

   或は、太子の身に香を塗り、

   或は、太子の身に華を飾り、

   或は、太子の瓔珞を作り、

   或は、太子の身を抱えてたすけ起こし、

   或は、太子の寝台を整え、

   或は、太子に身を傾けてひそひそ話をし、

   或は、太子と世俗の戯れをし、

   或は、言葉で太子の情欲を煽りたて、

   或は、淫らな姿態を作り、

それで、

   太子の心を動かそうとした。

 

  :瓔珞(ようらく):金銀宝石を綴った垂れ飾り。

  :枕席(ちんせき):枕と寝台。

  :調戯(ちょうぎ):たわむれ。

 菩薩心清淨  堅固難可轉

 聞諸婇女說  不憂亦不喜

 倍生厭思惟  嘆此為奇怪

 始知諸女人  欲心盛如是

 不知少壯色  俄頃老死壞

 哀哉此大惑  愚癡覆其心

 當思老病死  晝夜勤勗勵

 鋒刃臨其頸  如何猶嬉笑

菩薩が心は清浄なり。 堅固にして転ずべきこと難(かた)し。

諸の婇女の説くを聞いて、憂えずまた喜ばず、

倍して厭いを生じ思惟し、これを嘆じて奇怪と為す。

始めて諸の女人の欲心の盛んなることかくの如きを知る、

『少壮と色とは、俄に傾きて老死の壊することを知らず。

 哀れなるかな、この大惑。 愚癡のその心を覆えること。

 まさに老病死を思い、昼夜に勤めて勗励(きょくれい)すべし。

 鋒刃(ほうじん)のその頸に臨めるに、如何がなお嬉笑せんや。

菩薩は、

   心が清浄である、堅固で転じ難い。

   女たちの話を聞いて、

      憂うこともなく、喜ぶこともない。

   ただ、

      ますます厭わしく思い、

      この女たちの奇怪さに驚くのみである。

   始めて、

      女たちの情欲がこれほど盛んだと知った、――

   『若さも容色も、

       にわかに衰え、

       老死により、

          破壊するのを知らないのだろうか。

    哀れだ、――

       このように惑い狂っているとは。

       愚癡(ぐち)が、この女たちの心を覆っているのだ。

    老病死を思って、

       昼夜に勤めて勉励すべきなのに。

    剣の刃が、頸に当っているのに、

       なぜ、

          あのように喜び笑っていられるのだろう。

 

  :愚癡(ぐち):生まれながらの愚かさ。

  :勗励(きょくれい):勉励。 努め励むこと。

 見他老病死  不知自觀察

 是則泥木人  當有何心慮

 如空野雙樹  華葉俱茂盛

 一已被斬伐  第二不知怖

 此等諸人輩  無心亦如是

 他に老病死を見て、自ら観察することを知らざるは、

 これ則ち泥木人なり。 まさに何の心にか慮りの有るべきや。

 空野の双樹に、華葉の倶に茂り盛んなるが如く、

 一はすでに斬伐を被り、第二は怖るるを知らず。

 これ等の諸の人輩、無心なることもまたかくの如し。』と。

    他人の老病死を見て、自ら観察することを知らないとは。

    これでは、

       泥か木の人形だ。

       当然、何も考えていないのだろう。

    野原にある二本の樹のように、

       華も葉もともによく茂っているが、

          一本の樹はすでに切り倒され、

          残る、もう一本の樹は、

             怖れることを知らない。』と。

 

 

 

 

友優陀夷、太子に甘言して欲を説く

 爾時優陀夷  來至太子所

 見宴默禪思  心無五欲想

 即白太子言  大王先見敕

 為子作良友  今當奉誠言

 朋友有三種  能除不饒益

 成人饒益事  遭難不遺棄

 我既名善友  棄捨丈夫義

 言不盡所懷  何名為三益

 今故說真言  以表我丹誠

その時、優陀夷来たりて太子の所に至りて、

宴黙、禅思して、心に五欲の想の無きを見、

即ち太子に白して言さく、『大王、先に勅せらる、

 「子の為に良友と作れ。」と。 今まさに誠の言を奉ずべし、

 朋友には三種有り。 よく饒益(にょうやく)せざるを除き、

 人に饒益の事を成し、難に遭うて遺棄せざるなり。

 我はすでに善友と名づけらる、丈夫の義を棄捨して

 言いて懐う所を尽くさずんば、何んが名づけて三益と為さん。

 今故(ことさら)に真言を説き、以って我が丹誠を表さん。

その時、

   優陀夷が来て太子を見た。

   太子は、

      何も言わずに瞑想している、

      見たり聞いたり触れたりすることに、

         少しも興味が無いようだ。

そこで、

   優陀夷は太子に言った、――

   『大王が、

       先ほど仰られた、『あなたの良い友になれ。』と。

    今こそ、

       まごころから申し上げよう、――

    友には三種あります、

       一は、役に立たないものを除き、

       二は、人の役に立つことをし、

       三は、困難に遭っても見捨てないことです。

    わたくしは、

       すでに善い友といわれています、

       もし、

          立派な男の為すべきことを放棄して、

          心の中を言い尽さないようであれば、

       どうして、

          この三つの役に立つことができましょう。

    今、

       あえて、真実の言葉を尽して、

       わたくしの、まごころを表しましょう。

 

  :宴黙(えんもく):くつろいで黙っていること。

  :禅思(ぜんし):瞑想。

  :五欲(ごよく):色声香味触の五境。 見たり聞いたりすることと、またその対象。

  :饒益(にょうやく):役に立つこと。

  :丹誠(たんせい):まごころ。

 年在於盛時  容色得充備

 不重於女人  斯非勝人體

 正使無實心  宜應方便納

 當生軟下心  隨順取其意

 愛欲憍慢  無過於女人

 且今心雖背  法應方便隨

 年、盛んなる時に在りて、容色の充備せるを得たるに、

 女人を重んぜざれば、これ勝れたる人の体に非ず、

 たとい実の心無きも、宜しくまさに方便して納むべし。

 まさに軟下心を生ずべし。 随順してその意を取り、

 愛欲増して憍慢すること、女人に過ぐるは無し。

 しばらく今心に背くといえども、法はまさに方便して随うべし。

    年が若く盛んな時に、

    容貌と容姿が勝れているというのに、

       女人を重んじないようでは、

       勝れた人とは申せません。

    たとえ、

       実には、興味が無くても、

       適当な方法で受入れましょう。

    どうか、

       軟らかく、へりくだった心で、

       女の意を、受け取ってください。

    愛欲が増すと、恥を無くす、

    これは、

       女人の外ありませんが、

    少しの間、心に背き、

       世間のおきてには、

          従おうとなさらなくてはなりません。

 

  :体(たい):ありさま、行い。

  :憍慢(きょうまん):驕り高ぶること、反省しないこと。

  :法(ほう):法は変わらないもの。 世間のおきて。

 順女心為樂  順為莊嚴具

 若人離於順  如樹無花果

 何故應隨順  攝受其事故

 已得難得境  勿起輕易想

 女に順(したが)うを心に楽と為し、順うを荘厳の具と為したまえ。

 もし人の順うことを離るるは、樹に花果無きが如し。

 何の故にかまさに随順すべき、その事を摂受せんが故なり。

 すでに得難き境を得て、軽易の想を起こす勿かれ。

    女を側において、心から楽しんでください。

    女を側におくのは、身を飾る装身具だと思ってください。

    もし、

       人が女を側におかなければ、

       樹に花も果実も無いようなものです。

    何故ならば、

       側においてこそ、

       楽しめるからです。

    あなたは、

       すでに、得難い境遇に在ります、

       どうか、それを軽んじないでください。

 

  :順:随順(ずいじゅん):逆らわないこと、従うこと、むつまじいこと、なれること。

 欲為最第一  天猶不能忘

 帝釋尚私通  瞿曇仙人妻

 阿伽陀仙人  長夜脩苦行

 為以求天后  而遂願不果

 欲は最も第一たり。 天すらなお忘るること能わず。

 帝釈すらなお瞿曇(くどん)仙人の妻と私通す。

 阿伽陀(あかだ)仙人は、長夜に苦行を修め、

 以って天后を求めしが為に、遂に願いを果たさず。

    愛欲は

       最も、大切なものです。

       天でさえ、

          忘れることも、

          なおざりにすることもできません。

    帝釈天でさえ、

       瞿曇仙人(くどんせんにん)の妻と、

          秘かに通じました。

    阿伽陀仙人(あかだせんにん)は、

       非常に長い間、苦行を修めておりましたが、

       天の奥方に思いをかけたために、

       ついに、

          修行の成果を得られませんでした。

 

  :私通(しつう):秘かに情を通じること。

  :瞿曇仙人(くどんせんにん):過去世の大仙人。 甘蔗王はこの仙人より生出した。

  :阿伽陀仙人(あかだせんにん):神話上の神。

 婆羅墮仙人  及與月天子

 婆羅舍仙人  與迦賓闍羅

 如是比眾多  悉為女人壞

 況今自境界  而不能娛樂

 宿世殖コ本  得此妙眾具

 世間皆樂著  而心反不珍

 婆羅堕(ばらだ)仙人、および月天子、

 婆羅舎(ばらしゃ)仙人と迦賓闍羅(かひんじゃら)、

 かくの如き衆多に比(およ)びしは、悉く女人に壊せらる。

 況や今は自らの境界にて、娯楽すること能わざりたもうや。

 宿世に徳本を殖えて、この妙なる衆具を得たまえるなり。

 世間は皆楽しみ著すれど、心は反って珍とせざるなり。』と。

    婆羅堕仙人(ばらだせんにん)および月天子(がつてんし)、

    婆羅舎仙人(ばらしゃせんにん)と迦頻闍羅仙人(かひんじゃらせんにん)、

    このように、

       多数におよぶ仙人たちも、悉く女人に力を破られました。

    ましてや、あなたは、今、そのような境遇にお在りです、

    なぜ、

       楽しまないのですか。

    あなたは、宿世にさまざまな善行をしてこられました、

    それで、

       このような素晴らしい境遇に在るのです。

    世間の人は、

       皆、楽しみ愛欲におぼれていますが、

       心では、それを少しも珍しいことだとはしていません。』と。

 

  :婆羅堕仙人(ばらだせんにん):智慧と雄弁の神、木星。

  :月天子(がつてんし):婆羅堕仙人の子。

  :婆羅舎仙人(ばらしゃせんにん):神話上の仙人。

  :迦賓闍羅(かひんじゃら):神話上の仙人。 婆数(ばす)仙人の子。

  :境界(きょうがい):境遇。

  :殖徳本:徳は善い力、徳の根本を植える。  来世のために善い行いをすること。

 

 

 

 

太子は反って優陀夷を諭す

 爾時王太子  聞友優陀夷

 甜辭利口辯  善說世間相

 答言優陀夷  感汝誠心說

 我今當語汝  且復留心聽

 不薄妙境界  亦知世人樂

 但見無常相  故生患累心

その時、王太子は友優陀夷の

甜辞(てんじ)利口の辯にて善く世間の相を説くを聞き、

答えて言さく『優陀夷、汝誠心にて説くに感ず。

 我、今まさに汝に語るべし。 しばらくまた心に留めて聴け。

 妙なる境界を薄(いやし)まざれど、世人の楽を知れば、

 ただ無常の相を見るのみ、故に患生じて心に累(かさ)ぬ。

その時、

   王太子は、

      優陀夷が、

         甘い言葉と、巧みな言い方で、

         世間のありさまを説くのを聞き、

      こう答えて言われた、――

   『優陀夷よ。 

       お前の心のこもった言葉を聞き、わたしにも思うことがあった。

    わたしは、今、

       それを、お前に話してやろう、

       しばらく、

          心をとどめてよく聞け。

    素晴らしい境遇をいやしむのではないが、

       世間の人の楽を知ってみれば、

    それは、

       ただ、無常の相でしかない。

    それで、

       憂いが生じて、

       心に積みかさなったのだ。

 

  :世間相:世間のありさま。

  :無常相:変化せずにいられない、世間のすがた。

 若此法常存  無老病死苦

 我亦應受樂  終無厭離心

 若令諸女色  至竟無衰變

 愛欲雖為過  猶可留人情

 人有老病死  彼應自不樂

 何況於他人  而生染著心

 もしこの法の常に存りて、老病死の苦も無くんば、

 我もまたまさに楽を受けて、ついに厭離の心も無かるべし。

 もし諸の女色をして、至竟(つい)に衰変無からしむれば、

 愛欲の過ぎたりといえども、なお人の情を留むべし。

 人には老病死有れば、彼まさに自ら楽しまざるべし、

 何をか況や他人に於いて染著心を生ぜんをや。

    もし、

       これらのものが常に存(あ)り、

       老病死の苦が無いのであれば、

    わたしも、また

       楽を受入れ、

       世間を厭う心も、起こさないだろう。

    もし、

       女たちの容色が、

          いつまでも衰えず、

          変わらないならば、

    愛欲は、

       過ちであるとは思っても、

       人らしい情を留めるだろう。

    人に、

       老病死が有るかぎり、

       自らを、楽しめるはずがない、

    まして、

       他人を、楽しむことなどできるはずもないのだ。

 

  :法とは事物のこと。

  :至竟(しきょう):ついに、つまり、結局、畢竟、究竟。

  :染著(せんじゃく):愛欲に染まり執著すること。

 非常五欲境  自身俱亦然

 而生愛樂心  此則同禽獸

 汝所引諸仙  習著五欲者

 彼即可厭患  習欲故磨滅

 又稱彼勝士  樂著五欲境

 亦復同磨滅  當知彼非勝

 常に非ざるは五欲の境、自らの身もまた然り、

 しかも愛楽心を生ずれば、これ則ち禽獣にも同じきなり。

 汝が引く所の諸仙は、習って五欲に著せし者なり、

 彼は即ち厭い患うべきに、欲を習いしが故に磨滅せり。

 また彼の勝士の楽しんで五欲の境に著せしを称うれど、

 またまた同じく磨滅せり。 まさに知るべし、彼は勝れたるに非ずと。

    非常とは、五欲の境をいう、――

       この身が非常なのも同じである。

    それなのに、

       心に愛欲を生じるとは、

       鳥や獣と同じではないか。

    お前が引いた、

       仙人たちは、五欲におぼれ、執著した。

    かれ等は、

       すぐさま、厭うべきなのに、

       愛欲におぼれて、

          磨滅したのだ。

    また、お前は、

       あの勝れた人たちは、『五欲の境に楽しみおぼれた。』と称えていたが、

       彼等も、また同じように磨滅したではないか。

    お前は、これを知らなくてはならない、――

       『彼等は勝れてなどいなかった。』と。

 

  :五欲の境:五欲の対象。 眼で見、耳で聞き、鼻でかぎ、舌で味わい、身で触れるもの一切をいう。

  :常(じょう):変化しないこと。 非常は無常ともいう。

  :習う:習慣とすること、おぼれる。

 若言假方便  隨順習近者

 習則真染著  何名為方便

 虛誑偽隨順  是事我不為

 真實隨順者  是則為非法

 もし仮に方便にて随順し習い近づく者なりと言わば、

 習うとは則ち真の染著なり、何んが名づけて方便と為せるや。

 虚誑(こおう)と偽の随順は、この事は我は為さず、

 真実の随順ならば、これは則ち非法たり。

    もし、

       『仮の方便(ほうべん)として、側において近づきおぼれよ。』と言うならば、

        おぼれるとは、真に愛欲に染まり執著することである、

        何故、

           それを方便であると言うのか。

        嘘といつわりで、側におくなどとは、

        それは、

           わたしの、しない事である。

        真実の心で、側におけば、

        それは、

           して良いことではない。

 

  :非法(ひほう):してはならない事。

 此心難裁抑  隨事即生著

 著則不見過  如何方便隨

 處順而心乖  此理我不見

 この心は裁抑(さいよく)し難く、事に随わば即ち著するを生ず、

 著すれば則ち過ちを見ず、如何が方便して随わんや。

 虚(いつわ)りて順ずるは心乖(そむ)く、この理を我は見ざるなり。

    この心というものは、

       おさえ留めることの難しいものである。

    もし、

       放任すれば、すぐに執著するだろう。

    もし、

       執著すれば、過ちを見すごす。

    何のような方便で、

       放任せよと言うのか。

    偽って側におけば、心に背く。

    ここに

       道理が見られるのか。

 

  :裁抑(さいよく):おさえ留める。

  :随事(ずいじ):放任すること。

  :処は他本に従い虚に改める。

 如是老病死  大苦之積聚

 令我墜其中  此非知識說

 嗚呼優陀夷  真為大肝膽

 生老病死患  此苦甚可畏

 眼見悉朽壞  而猶樂追逐

 かくの如し。 老病死は大苦の積聚(しゃくじゅう)なり。

 我をしてその中に墜ちしむる、これは知識の説に非ず。

 ああ優陀夷よ。 真に大肝胆(かんたん)たれ。

 老病死の患(うれい)を生ぜよ。 この苦は甚だ畏るべし、

 眼に見るものは悉く朽壊(くえ)するに、

   しかも、なお楽しみて追逐(ついちく)するや。

    このように、

       老病死には大苦が積みかさなっている。

    その中に、

       わたしを堕とそうとするのか。

    それは、

       知識ある人の言葉ではない。

    ああ、優陀夷よ。

       ほんとうに、大親友であってくれ。

    老病死に

       憂いを生じよ。

    この老病死の苦は、

       甚だ畏るべきものなのだ。

    眼に見るものが、

       悉く、朽ちて壊れる。

    それでも、

       まだ、楽しんで追い求めているのか。

 

  :積聚(しゃくじゅう):積みかさなって集まる。

  :知識(ちしき):知識ある友人。

  :肝胆(かんたん):肝胆相照らす。 親友。

  :患(うれい):憂い。

  :追逐(ついちく):追い求める。

 今我至儜劣  其心亦狹小

 思惟老病死  卒至不預期

 晝夜忘睡眠  何由習五欲

 老病死熾然  決定至無疑

 猶不知憂慼  真為木石心

 今の我は儜劣(どうれつ)に至り、その心もまた狭小なり、

 老病死を思惟すれど、卒(にわか)に至り、預(あらかじ)め期せず。

 昼夜に睡眠を忘る、何に由りてか五欲を習わんや。

 老病死は熾然(しねん)たり、決定して至ること疑い無し。

 なお憂慼することを知らざるは、真に木石の心たり。』と。

    今のわたしは、

       極めて、弱く劣ったものであり、

       心も、また狭く小さいものである。

    老病死というものは、考えれば、

       突然、来るものであり、

       いつ来るのか、予期さえできない。

    昼夜に考え、睡眠を忘れるほどなのに、

    何故それほどまでに、

       五欲におぼれよと言うのか。

    老病死は

       盛んで勢いがある、

       必ず来ることに疑いは無い。

    それでも、

       まだ、憂いて心を痛めないか。

       お前の心は木石なのか。』と。

 

  :儜劣(どうれつ):弱々しく劣る。

  :何に由りて:なぜその上に、そうまでの意。

  :憂慼(うしゃく):憂いて心を痛める。

  :熾然(しねん):盛んで勢いがある。

 太子為優陀  種種巧方便

 說欲為深患  不覺至日暮

太子は、優陀の為に、種種に巧みに方便し、

欲の深き患たるを説き、日暮れに至りたるを覚えたまわず。

太子は、

   優陀夷の為に、

   種種に巧みに方便して、

   『愛欲は深い患(わずらい)である。』と説き、

      日が暮れたのにも気づかなかった。

 時諸婇女眾  伎樂莊嚴具

 一切悉無用  慚愧還入城

 太子見園林  莊嚴悉休廢

 伎女盡還歸  其處盡虛寂

 倍摧常想  俛仰還本宮

時に、諸の婇女衆、伎楽、荘厳の具の、

一切は悉く用無く、慚愧してまた城に入れり。

太子が園林を見たまえるに、荘厳は悉く休廃し、

伎女は悉くもとに還帰して、その処は尽く虚(うつろ)に寂し、

常に非ざるの想を倍増し、俛仰(めんごう)して本の宮に還りたまえり。

その時、

   女たちも、伎楽(ぎがく)も、飾り付けも、一切は、

      皆、悉く用が無くなり、

      恥ずかしくなって城に帰ってしまった。

太子は園林を見た、――

   あの素晴らしかった園林も、悉く飾り付けをはがされ、

   あの美しかった伎女たちも、皆帰ってしまった。

園林は、ただ虚ろで寂しい処である。

太子の

   非常の思いは倍増した。

   うつ向き、あお向き、考えながら本の宮に帰った。

 

  :婇女(さいにょ):宮廷の女官。

  :伎楽(ぎがく):音楽と舞踏。

  :荘厳具(しょうごんぐ):庭園の飾り。 金銀宝石の網、幕、吹き流しなど。

  :慚愧(ざんき):恥ずかしく思うこと。

  :伎女(ぎにょ):舞踏、音楽をする女。

  :俛仰(めんごう):うつ向くことと、あお向くこと。

 父王聞太子  心絕於五欲

 極生大憂苦  如利刺貫心

 即召諸群臣  問欲設何方

 咸言非五欲  所能留其心

父王、太子の心の五欲を絶ちたまえるを聞き、

極めて大憂苦を生ずること、利き刺に心を貫かれるが如し。

即ち諸の群臣を召し、問わく『欲すらく、何の方をか設けん。』と。

咸(ことごと)く言わく、『五欲はよくその心を留むる所に非ず。』と。

父王は、

   『太子の心は、五欲を絶った。』と聞き、

      大いに憂苦を生じた。

      利い刺に心臓を貫かれるように。

すぐに、

   群臣たちを呼び出して、こう問うた、――

   『何かよい方法はないのか?』と。

皆は言った、――

   『五欲では、太子の心を留めることはできません。』と。

 

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