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(厭患品第三)
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太子、園林の外に遊観することを願う
厭患品第三 |
厭患品(えんげんぼん)第三 |
太子は、老人、病人、死人を見て、世を厭い患う。
注:釈迦は園林に遊観しようとし、東南西北の各門にて、老人、病人、死人、沙門を見て出家の志を懐く。 |
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外有諸園林 流泉清涼池 眾雜華果樹 行列垂玄蔭 異類諸奇鳥 奮飛戲其中 水陸四種花 炎色流妙香 伎女因奏樂 弦歌告太子 太子聞音樂 歎美彼園林 內懷甚踊ス 思樂出遊觀 猶如繫狂象 常慕閑曠野 |
外に、諸の園林、流泉、清涼なる池有り。 衆の雑華、果樹は、行列して玄蔭に垂れ、 異類の諸の奇鳥は奮飛してその中に戯る。 水陸の四種の花は、炎色をあげて妙香を流し、 妓女は因みて楽を奏し、弦歌して太子に告ぐ。 太子は音楽の彼の園林を歎美するを聞いて、 内に甚だしき踊悦を懐き、思うて遊観に出でんことを楽(ねが)う。 なおし繋がれし狂象の、常に閑(しず)かなる曠野を慕うが如し。 |
宮殿の外には、 諸の園林、流れる泉、清涼な池があり、 多くの雑多な華、果樹の並木が蔭をつくり、 多くの種類の珍しい鳥が、その中を羽ばたきながら遊び戯れ、 水陸の四種の花は、色の炎をあげて素晴らしい香を流している。 妓女たちは、それに因り 音楽を奏で、 楽器や歌声で 太子に『あの園林に行こう。』といざなう。 太子は、 音楽が、その園林の美しさを歎じるのを聞き、 心に甚だしい躍動の悦びを懐いて、 園林に遊観したいと思った。 繋がれた狂象が、 常に、閑(しず)かな曠野をしたうように。
注:園林(おんりん):田園と林。 注:流泉(るせん):川の流れと泉。 注:清涼(しょうりょう):清らかで涼しい。 注:玄蔭(げんおん):暗い木陰。 注:異類(いるい):めずらしい種類。 注:奮飛(ふんぴ):鳥が飛び立つこと。 注:炎色(えんしき):炎の色。 注:妙香(みょうこう):すばらしい香。 注:妓女(ぎにょ):歌舞管弦をする女官。 注:弦歌(げんか):管弦と歌唱。 注:歎美(たんみ):美しさを嘆ずる。 注:踊悦(ゆえつ):躍り上がるような悦び。 注:遊観(ゆかん):遊覧観光。 注:狂象(ごうぞう):凶暴な象。 注:曠野(こうや):広い野原。 注:水陸四種花:睡蓮と蓮の花。蓮華には四種ある。 一は鉢頭摩華(はづまけ)、赤蓮華と訳す。二は分陀利華(ふんだりけ)、白蓮華と訳す。三は優鉢羅華(うはつらけ)、青蓮華と訳す。四は拘物頭華(くもつづけ)、紅蓮華と訳す。 この中の三と四とは睡蓮、一と二とは普通の蓮である。 |
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父王聞太子 樂出彼園遊 即敕諸群臣 嚴飾備羽儀 平治正王路 并除諸醜穢 老病形殘類 羸劣貧窮苦 無令少樂子 見起厭惡心 |
父王、太子の彼の園に出でて遊ばんと楽(ねが)えるを聞き、 即ち諸の群臣に勅して、厳飾して羽儀(うぎ、威儀)を備え、 平治して王路を正し、並びに諸の醜穢なるを除き、 老、病、形残(ぎょうざん)の類、羸劣(るいれつ)、貧窮の苦の、 少(わか)き楽子をして、見て厭悪心を起こさしむるを無からしむ。 |
父王は、 太子が、彼の園に出て遊びたいと願うのを聞き、 すぐさま、 諸の群臣に、 行列を飾り立てて威儀を備えよと命じた。 また、 王路を平にならして諸の醜悪と汚穢とを除かせた。 老人、病人、不具の類、弱々しい者、劣った者、貧窮に苦しむ者たちを、 少(わか)く楽しんでいる子が、それを見て、 厭い悪む心を起こさないように。
注:群臣(ぐんしん):大勢の大臣。 注:厳飾(ごんじき):威厳のある飾り。 注:羽儀(うぎ):朝廷の威儀。 注:平治(ひょうじ):道を平らにする。 注:王路(おうろ):王の通る道。 注:醜穢(しゅえ):醜くきたない。 注:形残(ぎょうざん):手足の欠落するもの。 注:羸劣(るいれつ):弱々しく劣るもの。 注:貧窮(びんぐ):極めて貧困。 注:楽子(らくし):楽しんでうきうきしている子。 注:厭悪(えんお):いやになってにくむ。 |
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莊嚴悉備已 啟請求拜辭 王見太子至 摩頭瞻顏色 悲喜情交結 口許而心留 |
荘厳悉く備えおわるに、啓請して拝辞を求む。 王、太子の至れるを見て、頭を摩で顔色を瞻(み)て、 悲喜の情をこもごも結び、口に許せども心に留む。 |
飾り立てが、 すっかり終ると、 太子は、 出発の許しを求めた。 王は、 太子が近寄るのを見ると、 頭を摩でて顔色をながめた。 悲喜の情が、心にこもごも結ぶ。 口では許したが、心では留めているのだ。
注:荘厳(しょうごん):威厳のある飾り付け。 注:啓請(けいしょう):ねがいをもうす。 注:拝辞(はいじ):いとまごい。 |
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眾寶軒飾車 結駟駿平流 賢良善術藝 年少美姿容 妙淨鮮花服 同車為執御 街巷散眾華 寶縵蔽路傍 垣樹列道側 寶器以莊嚴 所W諸幢幡 繽紛隨風揚 |
衆の宝を軒に飾れる車に駟(し、四頭の馬)を結べば、駿く平に流る。 賢良なると、術芸に善きと、年少なると、姿容の美しきとが、 妙浄にして鮮やかなる花の服にて、同車して為に御を執り、 街巷に衆の華を散らし、宝の縵(きぬ)にて路傍を蔽い、 垣樹(おんじゅ)は道の側に列びて宝器を以って荘厳し、 所W(そうがい、きぬの日傘)と諸の幢幡(どうばん、吹き流し)とは、 繽紛(ひんぷん、花の散るさま)として風に随いて揚がる。 |
多くの宝で軒を飾り、 四頭の馬が繋がれると、 車は、 平に流れて走りだした。 賢良な者、 武芸を善くする者、 年少く容姿の美しい者たちが、 浄く美しい花の服を着て、 太子と同車し、御者をつとめる。 街路には、 多くの華を散らした、 宝の幔幕が路傍を蔽い隠す。 街路樹は、 路の両側に立ち列び、 金銀で飾り付けられた。 きぬの日傘と 色とりどりの吹き流しとは、 ひらひらと風に吹かれて舞い揚がっている。
注:賢良(けんろう):賢明にして善良。 注:妙浄(みょうじょう):美しく清らか。 注:街巷(がいこう):大路と小路。 注:垣樹(おんじゅ):大通りの並木。 注:宝器(ほうき):宝石づくりのうつわ。 注:所W(そうがい):絹張りの天蓋。 注:幢幡(どうばん):垂れ布や吹き流しのたぐい。 注:繽紛(ひんぷん):花びらの舞い散るさま。 |
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觀者挾長路 側身目連光 瞪矚而不瞬 如並青蓮花 臣民悉扈從 如星隨宿王 異口同聲歎 稱慶世希有 貴賤及貧富 長幼及中年 悉皆恭敬禮 唯願令吉祥 |
観る者は長路を挟みて身を側め、目に光を連ねて、 瞪矚(じょうそく、目を見張る)して瞬かず、青蓮華の並ぶが如く、 臣民は悉く扈従(こじゅう、従う)して、星の宿王に随うが如く、 異口同声に歎じて、世の希有なるを称慶し、 貴賎および貧富、長幼および中年、 悉く皆恭敬して礼し、ただ吉祥ならしめたまえと願う |
観ようとする者たちが、 長い路を挟んで両側に、 身をななめに、びっしり並び、 光る目を連ねている。 青蓮華が並ぶように 目を見張って瞬かない。 臣民たちが、 悉く、つき従う。 北極星を他の星座がとり巻くように。 異口同声に 歎ずる声が揚がった。 世にも希有なるものを 称えて慶んでいるのだ。 貴賎も貧富も、、 長幼も中年も、 皆が悉く、うやうやしく礼をした、 『ただ願わくは、太子をして吉祥ならしめたまえ。』
注:瞪矚(じょうそく):目を見張る。 注:青蓮花(しょうれんげ):青い睡蓮。 注:扈従(こじゅう):付き従う。 注:宿王は星宿の王、北極星をいう。 注:希有(けう):極めて珍しい。 注:称慶(しょうきょう):めでたさを称える。 注:恭敬(くぎょう):うやうやしくふるまう。 注:吉祥(きちじょう):めでたいこと。 |
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郭邑及田里 聞太子當出 尊卑不待辭 寤寐不相告 六畜不遑收 錢財不及斂 門戶不容閉 奔馳走路傍 樓閣堤塘樹 窗牖衢巷間 側身競容目 瞪矚觀無厭 |
郭邑(かくゆう、城外近郊)および田里(でんり、いなか)は、 太子のまさに出でんとするを聞き、 尊卑辞を待たずして、寤寐(ごび、寝ても覚めても)に相い告げず、 六畜を収むる遑(いとま)なく、銭財を斂(あつ)むるにも及ばず、 門戸の閉づるを容(ゆる)さず、奔馳(ほんち)して路傍を走る。 楼閣、提塘(ていとう)の樹、窓牖(そうゆう、まど)と衢巷(くこう)の間、 身を側めて目を容(い)れんと競い、瞪矚して観るに厭うこと無し。 |
城外近郊および田舎でも、 『太子が、まもなくお出ましになる。』と聞いた。 尊き者も、卑しい者も、別れの挨拶などしてられない、 寝ていようと起きていようと、おしゃべりしてなどいられない、 六畜(馬、牛、羊、豚、犬、鶏)なども、小屋に収めていられない、 銭財さえ、かき集めてはいられないのだ、 門だろうと戸だろうと、戸締まりなど誰もしない。 路傍の溝の中をとぶように走り、 楼閣からも、 堤防の樹の上からも、 大窓からも小窓からも、 街中のいたる所で、 身をななめにして、 競って一目見ようと隙間を探し、 目を見張って厭かずに観ている。
注:郭邑(かくおう):城外の近郊 注:田里(でんり):いなか。 注:寤寐(ごび):寝ても覚めても。 注:六畜(ろくちく):馬、牛、羊、豚、犬、鶏。 注:奔馳(ほんち):とぶように走る。 注:楼閣(ろうかく):たかどの。 注:提塘(ていとう):堤防。 注:窓牖(そうゆう):大窓と小窓。 注:衢巷(くこう):街角と小路。 |
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高觀謂投地 步者謂乘虛 意專不自覺 形神若雙飛 虔虔恭形觀 不生放逸心 |
高く観るものは地に投ぜんかと謂い、歩く者は虚に乗ると謂う、 意を専らにして自ら覚らず、形と神と双(ふたつ)ながらに飛ぶが若く、 虔虔(けんけん)として形を恭(つつし)んで観、放逸心を生ぜず。 |
高いところで観る者は、『地に落ちる。』と言いながら、 歩いている者は、『宙に浮かぶ。』と言っている。 ただ、 一つのもののみに意を注いで、 自覚せず、 身も心も飛び去っている。 うやうやしく形を正し、 ひたすら観るのみで、 他には何も考えない。
注:虔虔(けんけん):つつしむさま。 |
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圓體傭支節 色若蓮花敷 今出處園林 願成聖法仙 太子見修塗 莊嚴從人眾 服乘鮮光澤 欣然心歡ス |
円き体膺(たいよう)と支節との、色は蓮花の敷(ひら)くが若き、 今、出でて園林に処す、願わくは聖法の仙と成りたまわんことを。 太子、修塗(しゅづ、長い道)を見るに、荘厳は人衆に従いて、 服乗(ふくじょう、車馬)は鮮やかに光沢あり、欣然として心歓悦す。 |
円満な身体と四肢、 色は蓮の花が開いたようだ、 太子は、 今、園林にお出ましになった。 願わくは、 聖法の仙と成りたまわんことを。 太子は、 長い路を見渡した。 多くの人々は着飾っており、 馬も車も光沢が鮮やかである。 楽しくて悦びが心にあふれる。
注:体膺(たいよう):身体。傭は膺に改める。 注:支節(しせつ):手足。 注:修塗(しゅづ):長い道。修は脩(ながい)。 注:服乗(ふくじょう):車馬、乗り物。 注:欣然(ごんねん):よろこぶさま。 注:歓悦(かんえつ):よろこぶ。 |
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國人瞻太子 嚴儀勝羽從 亦如諸天眾 見天太子生 |
国人、太子を瞻(み)るに、厳儀は羽従(うじゅう)に勝り、 また諸の天衆の天の太子の生まるるを見るが如し。 |
国民は、 太子を仰ぎ見た。 太子の行列は、 粛々としている、 鳥の羽よりもなおぴったりと太子に寄り添い、 まるで、 天衆たちが、 天の太子が生まれるのを見ているようだ。
注:国人(こくにん):国民。 注:厳儀(ごんぎ):威儀。厳かなようす。厳かな行列。 注:羽従(うじゅう):鳥の羽が身にぴったりと寄り添うさま。 注:天衆(てんしゅ):天の神々。 |
太子、遊観して老を知る
時淨居天王 忽然在道側 變形衰老相 勸生厭離心 太子見老人 驚怪問御者 此是何等人 頭白而背僂 目冥身戰搖 任杖而羸步 為是身卒變 為受性自爾 |
時に、淨居(じょうご)天王、忽然(こつねん)として道の側に在り。 形を衰老の相に変え、勧めて厭離(えんり)心を生ぜしむ。 太子、老人を見て、驚き怪しみて御者に問わく、 『これはこれ何等の人なるや。 頭は白く背は僂(まが)り、 目冥(くら)みて身は戦(おのの)き揺れ、 杖に任(まか)せて羸(つか)れ歩む、 この身は卒(にわ)かに変ずと為すや、 性を受けて自ずから爾りと為すや。』と。 |
その時、 淨居(じょうご)天の王が、ふっと道端に現れた。 衰老の相を見せて、 厭離(えんり)の心を起こさせようとしたのである。 太子は、 老人を見て、 驚いて御者に問うた、―― 『これは、 いったい、どのような人なのか? 頭は白く、 背は曲がり、 目にはかすみがかかり、 身は振るえて揺れ動き、 杖にすがってよろよろ歩く。 これは、 突然、身がこのように変わってしまったのか? それとも、 生まれつきで、もとからこうなのか?』。
注:淨居天(じょうごてん):色界の最上、第四禅天をいう。 一切の煩悩を断つが故に淨居という。 注:忽然(こつねん):たちまち。ふっと。 注:衰老(すいろう):おとろえておいる。 注:厭離心(えんりしん):世の俗楽を厭う心をいう。 |
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御者心躊躇 不敢以實答 淨居加神力 令其表真言 色變氣虛微 多憂少歡樂 喜忘諸根羸 是名衰老相 此本為嬰兒 長養於母乳 及童子嬉遊 端正恣五欲 年逝形枯朽 今為老所壞 |
御者、心に躊躇して敢て実を以って答えず。 淨居、神力を加えそれをして真の言を表せしむらく、 『色変じ、気は虚ろにして微かなり、憂いは多く歓楽は少なし 喜び忘(さ)りて諸根羸(よわ)し、これを衰老の相と名づく。 これは本嬰児たり、母乳に於いて長養し、 童子たるに及びて嬉遊し、端正たれば五欲を恣(ほしいまま)にし、 年逝きて形枯れ朽ち、今老いの為に壊(え)せらる。』と。 |
御者は、 心に躊躇して、あえて真実を答えようとしなかったが、 淨居天が神力を加え、このように言わせた、―― 『身が、このように変じますと、 気も、虚ろになり微(かすか)になって、 憂いは多く、楽しみは少なくなります。 喜びがすぎ去り、 諸根(眼耳鼻舌身)が弱く衰えた、 このようなさまを、 衰老の相ともうすのです。 これも、 本は、嬰児でございました。 母の乳によって、大きく育ち、 ようやく、 童子になりますと嬉遊いたします。 成人すれば、五欲(色声香味触)を心のままに欲し、 年がすぎれば、形は枯れ朽ち、 今は、 老いによって、 壊れ去ろうとしているのです。』と。
注:躊躇(じゅうじょ):行き悩む。ぐずぐずする。 注:神力(じんりき):神の超越的力。神通力。 注:歓楽(かんらく):よろこびと楽しみ。 注:嬰児(ように):みどりご。 注:長養(ちょうよう):養育。 注:嬉遊(きゆ):よろこんで遊ぶ。 |
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太子長歎息 而問御者言 但彼獨衰老 吾等亦當然 御者又答言 尊亦有此分 時移形自變 必至無所疑 少壯無不老 舉世知而求 |
太子、長歎息して御者に問うて言わく、 『ただ彼独りのみ衰老するや、われ等もまたまさに然るべきや。』と。 御者また答えて言わく、『尊きにも、またこの分有り。 時移れば形は自ずから変ず。 必ず至ること疑う所無し。 少壮の老いざるは無けれど、世を挙げて知りながら求む。』と。 |
太子は、 長くため息をついて、 御者にこう問うた、―― 『ただ、彼のみが衰老するのか? それとも、われわれも、このようになってしまうのか?』と。 御者が答えた、―― 『尊き方々も、 この事に関しては同じでございます。 時が移れば、 形は、自ずから変り、 必ず、こうなることに、 疑う所はございません。 若者が、 老いないということはありません。 世を挙げて、 それを知りながら、 老いないことを求めているのです。』と。
注:嘆息(たんそく):なげいてため息をつく。 注:少壮(しょうそう):少年と壮年。 |
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菩薩久修習 清淨智慧業 廣殖諸コ本 願果華於今 聞說衰老苦 戰慄身毛豎 雷霆霹靂聲 群獸怖奔走 |
菩薩久しく清浄の智慧の業を修習し、 広く諸の徳本を殖えたれば、願は今に於いて果華す。 衰老の苦を説くを聞いて、戦慄し身の毛竪(よだ)つこと、 雷霆と霹靂の声に群獣怖れて奔走するがごとし。 |
菩薩は、 永い間に、 清浄の智慧の業を習い修め、 種種の徳本(善事)を殖えてきた。 菩薩の願が、 今にして、 ようやく、華と実とを結ぼうとしている。 太子は、 衰老の苦しみを聞いて、 戦慄し身の毛がよだった。 雷鳴と落雷の音に、 群れる獣が怖れ驚いて逃げまどうようである。
注:修習(しゅうじゅう):習慣的に修める。善悪の業を習慣的に修める。 注:徳本(とくほん):徳の根本となるもの。善の業。 注:果華(かけ):果実がなり花がさくこと。 注:戦慄(せんりつ):ふるえおののく。 注:雷霆(らいてい):雷鳴と稲妻。 注:霹靂(ひゃくりゃく):引き裂くような落雷の音。 |
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菩薩亦如是 震怖長噓息 繫心於老苦 頷頭而瞪矚 念此衰老苦 世人何愛樂 老相之所壞 觸類無所擇 雖有壯色力 無一不遷變 目前見證相 如何不厭離 |
菩薩もまたかくの如く、震え怖れて長く嘘息(こそく)し、 心を老苦に繋け、頭を頷いて瞪矚(じょうそく)し、 この衰老の苦を念(おも)わく、『世人は何んが愛し楽しむ。 老の相の壊する所は、類に触れて択ぶ所無し。 壮、色、力有りといえども、一として遷変せざるは無し。 目前に証相を見ては、如何が厭離せざらん。』と。 |
菩薩も、 また同じように震えて怖れ、 ふうっと息をついた。 心を老いの苦しみにかけ、 頭を頷かせて目を見張り、 この衰老の苦しみを念ったのである、―― 『世の人は、 何を愛し楽しんでいるのだろう? 老いの相に壊されるのは、 誰にでも及び、 択ばれた者など無いというのに。 若さ、容貌、体力の、 どの一つとして、移り変わらずにはいられないというのに。 目前に、 このような証拠を見ていながら、 なぜ、 厭い離れようとしないのか?』
注:嘘息(こそく):ふうーっと息をつく。 注:瞪矚(じょうそく):目をみはる。 注:触類(そくるい):同類のものに出会えばそれらすべてに及ぼす。 注:遷変(せんぺん):うつり変わる。 注:証相(しょうそう):証拠。 注:如何(いかん)が:どうして。反語。 注:厭離(えんり):いとうて離れる。 |
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菩薩謂御者 宜速迴車還 念念衰老至 園林何足歡 受命即風馳 飛輪旋本宮 心存朽暮境 如歸空[土*(蒙-卄)]間 觸事不留情 所居無暫安 |
菩薩、御者に謂わく、『宜しく速やかに車を迴らして還るべし。 念念にして衰老は至る、園林の何ぞ歓ぶに足らんや。』と。 命を受けて即ち風馳(ふうち)し、輪を飛ばして本宮に旋(もど)る。 心は朽暮の境に在りて、空塜(くうぼう)の間に帰るが如し。 事に触るれども情を留めず、居る所に暫くの安きことも無し。 |
菩薩は、御者にこう言った、―― 『できるだけ速やかに車を迴らして還ろう。 一刻一刻と衰老が近づいてくるのだ。 どうして、 園林などで楽しんでいられようか?』 命を受けて、 たちまち風のように車輪を飛ばし、本の宮に帰った。 菩薩の心は、 暮れなづむ朽ちた小屋の中に居るようであり、 何もない空漠の地に帰るようであった。 何事も、心の中に留まらず、 居る所には、暫くの安らぎさえ無い。
注:念念(ねんねん):一瞬一瞬。 注:風馳(ふうち):風のようにはしる。 注:朽暮(くぼ):朽ちてたそがれる。 注:空塜(くうぼう):地上に埃が積もり他に何もない意。 |
太子、遊観して病を知る
王聞子不ス 勸令重出遊 即敕諸群臣 莊嚴復勝前 天復化病人 守命在路傍 身瘦而腹大 呼吸長喘息 手腳攣枯燥 悲泣而呻吟 |
王、子の悦ばざるを聞き、勧めて重ねて出遊せしむ。 即ち諸の群臣に勅して荘厳せしむること、また前に勝れり。 天もまた病人に化し、命(めい)を守りて路傍に在り。 身は痩せて腹大(ふと)り、呼吸は長く息を喘(あえ)ぎ、 手脚は攣(ひきつ)りて枯れ燥(かわ)き、 悲泣(ひきゅう)して呻吟(しんぎん)す。 |
王は、 太子が悦んでいないと聞き、 重ねて、遊びに出ることを勧めた。 すぐに、 諸の群臣に命じて、前よりもいっそう美しく荘厳させた。 ある天が、 また病人に化して、淨居天王の命を守り路傍にいた。 身はやせ衰えて、腹だけが大きい、 呼吸は細く長く、息を喘がせて、 手脚は痙攣して、枯木のように乾燥し、 悲しげに、泣きうめいた。
注:悲泣(ひきゅう):悲しげに泣く。 注:呻吟(しんぎん):うめく。 |
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太子問御者 此復何等人 對曰是病者 四大俱錯亂 羸劣無所堪 轉側恃仰人 |
太子、御者に問わく、『これまた何等の人ぞ。』と。 対(こた)えて曰く、『これは病める者なり。 四大(しだい)倶に錯乱し、 羸劣(るいれつ)の堪うる所無く、 転側(てんしき)して人を恃(たの)み仰ぐ。』と。 |
太子は御者にこう問うた、―― 『これは、また いったい、どのような人なのか?』と。 答えて言う、―― 『これは 病人でございます。 四大(地水火風、物質の四要素)が、ともに錯乱しているのです。 弱々しく、疲れきって堪えられず、 右左に、転がりながら人の助けを仰いでいるのです。』
注:四大倶錯乱:身体は地性、水性、火性、風性のバランスの上になりたつとする印度医学。 注:羸劣(るいれつ):疲れて弱々しい。 注:転側(てんしき):左右にころがる。 |
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太子聞所說 即生哀愍心 問唯此人病 餘亦當復爾 對曰此世間 一切俱亦然 有身必有患 愚癡樂朝歡 |
太子、説く所を聞いて、即ち哀愍(あいみん)の心を生じて、 問わく、『ただこの人のみ病むや、余もまたまさにまた爾るべきや。』と。 対えて曰く、『この世間の一切は倶にまた然り。 身有れば必ず患有り、愚癡なるは朝を楽(ねが)うて歓ぶ。』と。 |
太子は、その話を聞いて、 すぐに哀れみの心を生じ、こう問うた、―― 『ただ この人のみが病むのか? それとも、 他の者もまたこうなるのか?』と。 答えて言う、―― 『この世間では、 一切が同じでございます。 身が有れば、必ず患が有ります。 愚癡の者は、 無事朝がくるのを願い、 朝がくればそれを歓んでいるのです。』と。
注:哀愍(あいみん):あわれみ。 注:愚癡(ぐち):おろか。 |
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太子聞其說 即生大恐怖 身心悉戰動 譬如揚波月 處斯大苦器 云何能自安 嗚呼世間人 愚惑癡闇障 病賊至無期 而生喜樂心 |
太子、その説を聞き、即ち大恐怖を生ずらく、 身心は悉く戦(おのの)いて動き、譬えば波に揚がる月の如し、 『この大苦の器に処して、云何がよく自ら安んずる。 嗚呼(ああ)、世間の人は、愚かにも癡闇の障に惑い、 病の賊の至るに期(ご)無く、しかも喜楽の心を生ず。』と。 |
太子は、 その話を聞いて、 すぐに大恐怖を生じた。 身も心も、 すっかり、振るえあがってしまった。 譬えば、波に映った月のように。 『このような 大苦の器(身心)に居りながら、 何うして、自らを安んじていられようか? ああ、 世間の人は愚かにも、 愚癡の闇に邪魔され惑うている。 病の賊は 時を待たず訪れるというのに、 喜楽の心を生じているとは。』
注:恐怖(くふ):おそれ。恐怖。 注:癡闇(ちあん):おろかさの暗闇。 注:喜楽(きらく):よろこびとたのしみ。 |
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於是迴車還 愁憂念病苦 如人被打害 捲身待杖至 靜息於閑宮 專求反世樂 |
ここに於いて車を迴らして還し、愁憂して病の苦を念い、 人の打害を被りて、身を捲き杖の至るを待つが如く、 閑宮に於いて静かに息(やす)み、専ら世楽に反(そむ)くことを求む。 |
ついに、 車を迴らして還した。 憂い悲しんで病の苦を思ったのである。 太子は、 人が、打たれて傷つけられ、 身を捲いて、すがる杖を待つように、 閑宮の中に、ひっそりと静かにひそみ、 ただ、世の楽しみに反することのみを求めた。
注:愁憂(しゅうう):うれえる。 注:打害(だがい):打撲と殺害。 注:閑宮(げんぐう):閑散とした宮殿。 注:世楽(せらく):世俗の娯楽。 |
太子、遊観して死を知る
王復聞子還 敕問何因緣 對曰見病人 王怖猶失身 深責治路者 心結口不言 復搖齒眾 音樂倍勝前 以此ス視聽 樂俗不厭家 晝夜進聲色 其心未始歡 |
王、また子の還るを聞き、勅して問わく、『何の因縁なるか。』と。 対えて曰く、『病人を見たり。』と。 王怖れてなお身を失えるが如し。 深く治路の者を責め、心に結びて口に言わず、 また妓女の衆を増し、音楽を倍することも前に勝れり。 この視聴を悦ばすを以って、俗を楽しんで家を厭わざらしめんとし、 昼夜に声色を進むれど、その心は未だ歓を始めず。 |
王は、 また太子が還ったと聞いて、 命じて何があったのかと問わせた。 答えて言う、―― 『病人を見られました。』と。 王は、 怖れて身を失いそうになった。 路を治めた者を深く責めようとするが、 心が結ばり、口に言葉が出てこない。 また、 伎女たちを増やし、 音楽を前に倍して奏でさせた。 このように、 目と耳とを悦ばせて、 俗事を楽しませ、 家を厭わせず、 昼夜に美女と音楽を進めたが、 太子の 心は、歓ぼうとしない。
注:治路(じろ):道路を修治すること。 注:声色(しょうしき):音楽の女色。 |
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王自出遊歷 更求勝妙園 簡擇諸婇女 美艷極恣顏 諂黠能奉事 容媚能惑人 搶C王御道 防制諸不淨 并敕善御者 瞻察擇路行 |
王は自ら出でて遊歴し、更に勝妙の園を求め、 諸の婇女(さいにょ)を簡択し、美艶を極め顔を恣(ほしいまま)にし、 諂黠(てんげつ、へつらい)してよく奉事し、容媚してよく人を惑わしめ、 王の御道を増々修して諸の不浄を防制し、 並びに善き御者を勅し、瞻察して路を択んで行かしむ。 |
王は、 自ら宮を出て遊歴し、 更に勝れた美しい園を求め、 多くの女官たちを選び抜いた。 王の択んだ、 女官たちは、 美しくつややかに、 顔の表情をほしいままにし、 媚びてへつらい、よく事(つか)えて、 容貌と媚態とで人を惑わせた。 平らな王路は、 ますます平に美しくなり、 種種の不浄物も隠されていた。 王は、 太子のために善い御者に命じた、―― 『園林への路をよく観察し、よい路を択んで行け!』
注:遊歴(ゆりゃく):遊びめぐる。 注:勝妙(しょうみょう):勝れてすばらしい。 注:簡択(けんじゃく):えらぶ。 注:美艶(みえん):うつくしく妖艶。 注:諂黠(てんげつ):へつらう。 注:奉事(ぶじ):奉ってつかえる。 注:容媚(ようみ):容貌と媚態。 注:御道(ごどう):平らな道。御はでこぼこをならすこと。 注:瞻察(せんさつ):視察。 注:防制(ぼうせい):ふせいで制止する。 |
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時彼淨居天 復化為死人 四人共持輿 現於菩薩前 餘人悉不覺 菩薩御者見 問此何等輿 幡花雜莊嚴 從者悉憂慼 散髮號哭隨 |
時に、彼の淨居天、また化して死人と為る。 四人が共に輿を持ちて菩薩の前に現るるに、 余人は悉く覚えずして、菩薩と御者のみが見る。 問わく、『これは何等の輿なるか。 幡(はた)と花とで荘厳を雑うる。 従者は悉く憂慼(うしゃく)し、 髪を散らして号哭(ごうこく)して随う。』と。 |
その時、 あの淨居天が、またしても化して死人となって現れた。 四人の者が、 輿を持って菩薩の前に現れたのである。 他の者たちは、 誰もそれを見ていず、菩薩と御者のみが見た。 太子は問う、―― 『これは、 何のための輿であるか? 幡と花とで、種種に飾り付け、 従者たちは、悉く、憂いに沈んでいる。 髪をふりみだし、泣き叫んでいるものが、 後に随っているではないか?』
注:憂慼(うしゃく):憂いて心が沈む。 注:号哭(ごうこく):泣き叫ぶ。 |
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天神教御者 對曰為死人 諸根壞命斷 心散念識離 神逝形乾燥 挺直如枯木 親戚諸朋友 恩愛素纏綿 今悉不喜見 遠棄空[土*(蒙-卄)]間 |
天神、御者に教えて対えて曰わしむ、『死人たり。 諸根壊して命を断ち、心散じて念識離る。 神逝き形は乾燥し、挺直(ていじき)なること枯木の如し。 親戚、諸の朋友は恩愛して素(もと)より纏綿(てんめん)なるも、 今は悉く見るを喜ばずして、遠く空塜(くうぼう)の間に棄つ。』と。 |
天神は、御者に教えてこう言わせた、―― 『死人でございます。 諸根が壊れ、 命が断たれ、 心がちりぢりになり、 記憶と意識とが 身から離れてしまったのです。 霊魂が行ってしまうと、 肉体は乾燥して枯木の棒のようになります。 親戚も、朋友たちも、 生前、恩愛でまとわりついていた者が、 今は、悉く見ることを喜ばなくなってしまい、 このように、 遠く、空漠とした地に捨ててしまうのです。』
注:念識(ねんしき):記憶と意識。 注:乾燥(かんそう):からからに乾く。 注:挺直(ていじき):硬直してまっすぐになる。 注:親戚(しんしゃく):親族。 注:朋友(ほうう):ともだち。 注:恩愛(おんない):妻子や父母にたいする愛情。 注:纏綿(てんめん):まつわりつく。 注:空塜(くうぼう):空っぽになって、ほこりが積もる。 |
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太子聞死聲 悲痛心交結 問唯此人死 天下亦俱然 對曰普皆爾 夫始必有終 長幼及中年 有身莫不壞 |
太子、死の声を聞き、悲痛を心に交(こもご)も結べり。 問わく、『ただこの人のみ死すや。 天下もまた倶に然るや』と。 対えて曰く、『普く皆爾り。 それ始めには必ず終り有り。 長幼および中年、身有れば壊せざること莫(な)し。』と。 |
太子は、 『死』という言葉を聞いて、 悲しみと痛みとが、心にこもごも結び、 こう問うた、―― 『ただ、この人のみが死ぬのか? それとも、天下の人は、皆こうなのか?』と。 答えて言った、―― 『普く、天下の人は、皆こうなのです。 その訳は、 始めの有るものには、必ず終りが有るからです。 長じた者も、幼い者も、中年の者も、 身が有れば、必ず壊れるものなのです。』 |
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太子心驚怛 身垂車軾前 息殆絕而嘆 世人一何誤 公見身磨滅 猶尚放逸生 心非枯木石 曾不慮無常 即敕迴車還 非復遊戲時 命絕死無期 如何縱心遊 |
太子が心は驚き怛(いた)み、身は車の軾(まえいた)の前に垂れ、 息は殆ど絶えて嘆くらく、『世人は一(ひとし)く何んが誤れる。 公に身の磨滅するを見て、なお放逸生じ、 心は枯木や石に非ざるに、かつて無常なるを慮らず。』と。 即ち、勅して車を迴らして還す、『また遊戯の時には非ず。 命絶えて死するに期(ご)無し。 如何が心を縦(ほしいまま)にして遊ばんや。』と。 |
太子は、 心が驚いて痛んだ。 身を車の手すりに垂れかけ、 息が殆ど絶えてしまった。 嘆いてこう言う、―― 『世の人々の ひとしなみに、誤っていることよ。 どこにでも、 身が磨滅することを見られるというのに、 それでも、 放逸に遊びほうけている。 心は、 枯木でも石でもないのに、 それでも、 無常を考えようとはしない。』と。 すぐに、 命じて車を迴らせて還した、―― 『またしても、遊び戯れている時ではなかった。 命は絶えて、死はいつでも訪れるというのに、 どうして、心のままに遊べよう。』と。
注:磨滅(まめつ):すりへる。 注:遊戯(ゆげ):遊びたわむれる。 注:無期(むご):時期を限らない。 |
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御者奉王敕 畏怖不敢旋 正御疾驅馳 徑往至彼園 林流滿清淨 嘉木悉敷榮 靈禽雜奇獸 飛走欣和鳴 光耀ス耳目 猶天難陀園 |
御者、王の勅を奉ずれば、畏怖して敢て旋らず。 正しく御して疾(と)く駆馳し、径(こみち)を往きて彼の園に至れり。 林流には清浄が満ち、嘉木(かぼく)は悉く敷き栄え、 霊禽、雑なる奇獣は飛び走り、欣んで鳴(なきごえ)を和す。 光耀(こうよう)の耳目を悦ばすは、 なおし天の難陀園(なんだおん、楽園)のごとし。 |
御者は、 王の命令を受けていたので、 怖れ畏(かしこ)み、 どうしても車を回そうとせず、 まっすぐに車を御して、 さっさと彼の園林に行き着いた。 園林では、 林にも流れにも、清浄の気が満ち、 嘉木(かぼく、立派な木)が、あたり一面に茂って栄え、 美しい鳥たちや、 珍しい獣たちが、 飛んだり走ったりして喜び、 鳴き交わしている。 光は輝いて、 耳目を悦ばせ、 まるで、天の楽園のようだ。
注:畏怖(いふ):恐れて縮こまる。 注:駆馳(くち):車をはしらせる。 注:林流(りんる):林と小川。 注:嘉木(かぼく):りっぱな樹。 注:霊禽(れいきん):美しく珍しい鳥。 注:光耀(こうよう):光のかがやき。 注:難陀園:歓喜園。 忉利天帝釈四園の一。 喜見城の外に北方に面して在り、諸天がここに入ると自ずから歓喜の情を起こすにより歓喜園という。 (大智度論8、起世経6等) |
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