(阿羅藍鬱頭藍品第十二)

 

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太子、阿羅藍に法を求める

阿羅藍鬱頭藍品第十二

阿羅藍鬱頭藍(あららんうづらん)品第十二

阿羅藍(あららん)仙人等に道を求め苦行を経て菩提樹の下に坐るまで。

 

  :阿羅藍(あららん):は数論派の仙人。

  :鬱頭藍(うづらん):後に出る鬱陀(うつだ)仙人。

 甘蔗月光胄  到彼寂靜林

 敬詣於牟尼  大仙阿羅藍

 迦藍玄族子  遠見菩薩來

 高聲遙讚歎  安慰言善來

 合掌交恭敬  相問安吉不

 相勞問畢已  庠序而就坐

甘蔗と月光の胄(よつぎ)、彼の寂静林に到り、

牟尼、大仙阿羅藍に敬詣す。

迦藍玄族子(からんげんぞくし)遠く菩薩の来たるを見、

高声に遥かに讃歎して、安慰して言わく、『善くぞ来たりし』と。

合掌し交も恭敬して、相い問わく、『安吉なるや不や』、

相い労(いたわ)りて問いおわり、庠序として坐に就く。

甘蔗と月光の末裔は、

   ある静かな林に来ると、

   大仙人の阿羅藍(あららん)を敬って訪ねた。

迦藍(からん)の末裔である阿羅藍は、

   遠くから菩薩の来るのを見て、

   声高に遠くから称讃し、

   遠来の客の労をねぎらってこう言った、――

  『よく来られた。』

二人は、

   合掌して恭しく礼を交し、

   こう言い合った、――

  『天のご加護で安らかにお過ごしでしたか?』

このように、

   労をねぎらい、

   挨拶を交しおわると、

      おもむろに座についた。

 

  :甘蔗(かんしょ)、月光(がっこう):釈迦族の祖先。

  :牟尼(むに):身口意に寂静を得た仙人に対する尊称。

  :阿羅藍(あららん):数論派の仙人。

  :迦藍玄族子(からんげんぞくし):迦藍の末裔。阿羅藍をいう。迦藍は不明。

  :安吉(あんきつ):安全と幸運。

  :庠序(しょうじょ):落ち着いて。

  注:胄(チュウ、よつぎ)と冑(チュウ、かぶと)とは別字。

 梵志見太子  容貌審諦儀

 沐浴伏其コ  如渴飲甘露

 舉手告太子  久知汝出家

 斷親愛纏鎖  猶如象脫羈

 深智覺慧明  能免斯毒果

梵志、太子の容貌を見、儀を審諦するに、

沐浴してその徳に伏すること、渇いて甘露を飲むが如し。

手を挙げて太子に告ぐらく、『久しく汝が出家せるを知れり。

 親愛の纏鎖を断つこと、なお象の羈(おもがい)を脱るるが如く、

 深智、覚慧明らかに、よくこの毒果を免る。

梵志(ぼんし、婆羅門)は、

   太子の、

      容貌と態度を隅々まで観察すると、

      沐浴して身を浄め、その徳に敬服した。

まるで、

   渇いた者が甘露を飲むように。

そして、

   太子にこう告げた、――

  『以前から、

      あなたの出家を知っていました。

   あなたは、

      象がその鎖を切って脱れるように、親愛の纏い付く鎖を断ち切り、

      深い智慧と明らかな直感でもって、よくぞこの毒の果(このみ)を免れた。

 

  :梵志(ぼんし):婆羅門の出家者。

  :審諦(しんたい):審査して明らかにする。

  :沐浴(もくよく):髪と身体を洗う。

  :纏鎖(てんさ):纏い付く鎖。

  :深智(じんち):深い智慧。

  :覚慧(かくえ):感覚と判断。

 古昔明勝王  捨位付其子

 如人佩花鬘  朽故而棄捨

 未若汝盛年  不受聖王位

 觀汝深固志  堪為正法器

 當乘智慧舟  超度生死海

 凡人誘來學  審才而後教

 我今已知汝  堅固決定志

 但當任意學  終無隱於子

 古昔の明勝なる王は、位を捨ててその子に付すこと、

 人の花鬘を佩びるに、朽つるが故に棄捨するが如きも、

 未だ汝が盛年にて、聖王の位を受けざるに若(し)かず。

 汝を観るに深固なる志は、正法の器たるに堪う、

 まさに智慧の舟に乗りて、生死の海を超え度(わた)るべし。

 凡そ人の誘い来たって学するに、才を審かにして後教う、

 われ今すでに汝が堅固にして決定せる志を知れり、

 ただまさに任意に学すべし、終に子(きみ)に隠すこと無からん。』

   昔の聡明で勝れた王たちは、

      位を捨てて、その子に譲った、

   まるで、

      人が、花の首飾りを身にまとい、

      それが、朽ちると惜しげもなく捨ててしまうように。

   しかし、

      それも、あなたがその若さで、

      王の位を受けられなかったことには、及ばない。

   観れば、

      あなたは、志が深く堅固であり、

      正法を、入れる器として堪えられる。

   まさに、

      智慧の舟に乗って、

      生死の海を超えることができよう。

   およそ、

      人が来て学ぼうとすれば、

      先ず才能を審らかにして、

      その後に教えることにしている。

   わたしは、

      今、あなたの志が堅固であり定っていることを知った。

   あなたは、

      意のままに学ぶがよかろう。

   あなたには、

      何も隠さないのだから。』

 

  :花鬘(けまん):花の首飾り。

 太子聞其教  歡喜而報言

 汝以平等心  善誨無愛憎

 但當虛心受  所願便已獲

 夜行得炬火  迷方者蒙導

 度海得輕舟  我今亦如是

 今已蒙哀許  敢問心所疑

 生老病死患  云何而可免

太子その教を聞いて、歓喜し報(こた)えて言わく、

『汝が平等心を以って、善く誨うるに愛憎無し。

 ただまさに虚心に受けたれば、願う所便ちすでに獲べし。

 夜行に炬火を得、迷方する者の導きを蒙り、

 海を度るに軽舟を得るがごとく、わが今もまたかくの如し。

 今すでに哀許を蒙る、敢て心に疑う所を問わん、

 生老病死の患、云何が免るべき。』

太子は、

   その教を聞いて歓喜し、こう答えて言った、――

  『あなたは、

      平等の心で人に教え、愛憎によることがない、

      虚心に教を受ければ、願いのものが得られよう。

   夜歩くときの、炬火(たいまつ)、

   道に迷っての、導き手、

   海を渡るときの、足の軽い舟。

   わたしにとって、

      今のあなたは、このように思われる。

   では、

      さっそく、お許しを蒙って、

      心に疑っている所を問うことにしよう。

   生老病死の患は、

      何のようにして、免れればよいか?』

 

  :虚心(こしん):心を空にして。

  :夜行(やぎょう):夜の旅。

  :炬火(こか):たいまつ。

  :迷方(めいほう):道に迷う。

  :軽舟(きょうしゅう):足の軽い舟。

  :哀許(あいこ):哀れんで入門を許す。

 爾時阿羅藍  聞太子所問

 自以諸經論  略為其解說

 汝是機悟士  聰中之第一

 今當聽我說  生死起滅義

その時、阿羅藍、太子の問う所を聞き、

自ら諸の経論を以って、略してそれが為に解説すらく、

『汝はこれ機悟の士にして、聡中の第一なり。

 今まさに聴くべし、われは生死の起滅の義を説かん。

その時、

   阿羅藍は、

      太子の問いを聞き、

      自ら諸の経論を引いて、

      略して太子のために解説した、――

     『あなたは、

         聡明中の第一、間違いなく道理を悟ることだろう。

      よく、

         お聴きなさい。

      今、

         まさに、あなたの為に、

         生死の起滅について解き明かそう。

 

  :機悟(きご):正確に間違いなく道理を悟る。

 性變生老死  此五為眾生

 性者為純淨  轉變者五大

 我覺及與見  隨境根名變

 色聲香味觸  是等名境界

 手足語二道  是五名業根

 眼耳鼻舌身  是名為覺根

 意根兼二義  亦業亦名覺

 性轉變為因  知因者為我

 性と変と生老死、この五を衆生と為し、

 性とは純浄と為し、転変とは五大(地水火風空)と為す。

 我と覚とおよび見とは、境と根に随いて変と名づけ、

 色声香味触、これ等を境界と名づけ、

 手足、語、二道(大小便道)、この五を業根と名づけ、

 眼耳鼻舌身、これを名づけて覚根と為し、

 意根は二義を兼ねて、また業、また覚と名づけ、

 性と転変とを因と為し、因を知る者を我と為すなり。

      性、転変、生老死、衆生はこの五から成る。

      性(しょう、物質的原理)とは、

         もっぱら浄いものであり、

      転変(てんぺん、物質)とは、

         地大、水大、火大、風大、空大の五大から成る。

      我(が、自我意識)と、

      覚(かく、思惟機能、自我意識の本)と、

      見(けん、生老死の覚知)とは、

         境(きょう、感覚の対象)と、

         根(こん、感覚器官)とから成り、

      これも、

         転変である。

      色と声と香と味と触とを、

         境界といい、

      手と足と口と肛門と生殖器とを

         業根(ごうこん、行為器官)といい、

      眼と耳と鼻と舌と身とを、

         覚根(かくこん、感覚器官)といい、

      意根(いこん、心)は、

         業(行為、動き)と覚(感覚)という、

         二つの働きを兼ね備える。

      性と転変とが、

         生死の因となり、

      この

         生死の因を知るものが、

         我である。

      

 

  :性:自性:物質的原理:唯一の実体、永遠の活動性、非精神的質量因。

  :変:転変:自性に対して変化する現象。諸根、諸境、手足口、肛門、生殖器。

  :我:自我意識。

  :覚:根源的思惟機能。自我意識を発生する。

  :見:生老死を覚知する。

  注:自我を精神原理と物質原理に分けて実在するとする数論派(サーンキヤ派)の考えが披瀝される。

 迦毘羅仙人  及弟子眷屬

 於此我要義  修學得解脫

 彼迦毘羅者  今波闍波提

 覺知生老死  是說名為見

 與上相違者  說名為不見

 迦毘羅(かびら)仙人、および弟子と眷属は、

 この我の要義に於いて、修学して解脱を得たり。

 彼の迦毘羅とは、今の波闍波提(はじゃはだい)なり、

 生老死を覚知する、これを説いて名づけて見と為し、

 上と相違すれば、説いて名づけて不見と為す。

      迦毘羅(かびら)仙人と弟子たちは、

         このように、

            我の要義を学んで、解脱を得た。

      迦毘羅は、

         今は、梵天といわれている。

      このようにして得た、

         生老死の覚知を、見といい、

      それ以外の、

         覚知を、不見という。

 

  :迦毘羅(かびら):数論派の祖。

  注:波闍波提は生主と訳す。 梵王の名、一切の衆生は皆彼の子であるという。 釈迦の姨母を摩訶波闍波提というはこれによる。

 愚癡業愛欲  是說為轉輪

 若住此三種  是眾生不離

 不信我疑濫  不別無方便

 境界深計著  纏綿於我所

 愚癡、業、愛欲と、これを説いて転輪と為し、

 もしこの三種に住せば、この衆生は、離れず。

 不信と我と疑と濫と、不別と無方便と、

 境界に深く計著して、我所に纏綿すとなり。

      愚癡(ぐち、道理を知らないこと、無明)と、

      業(ごう、行為と行為の結果)と、

      愛欲(あいよく、男女の性欲)と。

      これが、

         転輪(てんりん、輪廻)である。

      もし、

         この愚癡と業と愛欲との三種に、心が在れば、

         衆生(しゅじょう、生き物)は、輪廻を離れられない。

      そして、

         不信(正法を信じない)、

         我(妄執の我を信じる)、

         疑(正法を疑う)、

         濫(らん、混乱する)、

         不別(分別しない)、

         無方便(尽すべき手だてが無い)、

         境界に深く計著(けじゃく、執著)する、

         我所(がしょ、わが身心)に纏綿(てんめん、纏い付く)するのである。

 

  :輪転:輪廻。

  :計著(けじゃく):執著。

  :境界(きょうがい):諸根の対象。見る物、聞く物等。

  :我(が):自我意識。

  :我所(がしょ):わが物。

  :纏綿(てんめん):纏い付いて離れない。。

 不信顛倒轉  異作亦異解

 我說我知覺  我去來我住

 如是等計我  是名我作轉

 於諸性猶豫  是非不得實

 如是不決定  是說名為疑

 不信とは、顛倒して転じ、異作し異解するなり。

 われ説く、われ知覚す、われ去来す、われ住す、

 かくの如き等、計我する、これを我作転と名づく。

 諸の性に於いて猶予し、是か非かに実を得ず、

 かくの如き決定せざる、これを説いて名づけて疑と為す。

      不信とは、

         逆しまに信じて、

         間違った行為をなし、

         間違って理解する。

      我に執着するとは、

         わたしが話す、

         わたしが知覚する、

         わたしが往き来する、

         わたしが居る、

      このように、

         我は現れます。

      疑とは、

         諸の性を見誤り、

         実の性を正しく見ない、

      このように、

         定らないことをいう。

 

  :顛倒(てんどう):逆しまの見解。

  :異作(いさ):間違った行為。

  :異解(いげ):間違った理解。

  :計我(けが):間違った我を信じる。

  :我作転(がさてん):転変して我が現れる。

  :猶予(ゆうよ):決定できない。

 若說法是我  說彼即是意

 亦說覺與業  諸數復說我

 如是不分別  是說名總攬

 愚黠性變等  不了名不別

 禮拜誦諸典  殺生祀天祠

 水火等為淨  而作解脫想

 如是種種見  是名無方便

 愚癡所計著  意言語覺業

 及境界計著  是說名為著

 諸物悉我所  是名為攝受

 もし『法はこれ我なり』と説き、『彼は即ちこれ意なり』と説き、

 また覚と業とを説き、諸の数(心の働き)もまた『我なり』と説く、

 かくの如く分別せざる、これを説いて総攬と名づく。

 愚と黠との性と変と等しく、了せざるを不別と名づく。

 礼拝して諸典を誦し、殺生して天祠を祠り、

 水と火と等しく浄と為して、解脱の想を為す。

 かくの如き種種の見、これを無方便と名づく。

 愚癡の計著する所、意と言語と覚と業と、

 及び境界に計著する、これを説いて名づけて著と為す。

 諸物は悉く我所なり、これを名づけて摂受と為す。

      濫(らん、混乱)とは、

         『法(ほう、事物)が我である。』と説き、

         『あれが意(こころ)である。』と説き、

      また、

         覚と業とを説いて、

         『このような種種の心の働きが我である。』と説き、

      このようにして、

         分別しないものをいう。

      不別とは、

         『愚と賢との性と転変とは等しい。』といって、

         明了にしないことである。

      無方便とは、

         礼拝したり、

         諸の経典を読誦したり、

         生き物を殺して天に捧げたり、

         水や火を浄いものとして解脱しようとする。

      このように、

         種種の見解をなすものをいう。

      計著(けじゃく、誤って存在すると思う)とは、

         道理を知らない愚か者が、

            意(こころ)、言語(ことば)、覚(感覚)、業(行為)の誤った意味に執著し、

         また、

            境界(きょうがい、知覚の対象)の誤った意味に執著することをいう。

      摂受とは、

         『一切は、悉くわが所有である』とすることである。

 

  :総攬(そうらん):混乱。

  :愚黠(ぐげつ):愚かと賢いと。

 如此八種惑  彌淪於生死

 諸世間愚夫  攝受於五節

 闇癡與大癡  瞋恚與恐怖

 嬾惰名為闇  生死名為癡

 愛欲名大癡  大人生惑故

 懷恨名瞋恚  心懼名恐怖

 この八種の惑の如きは、生死に弥淪(みりん)し、

 諸の世間の愚夫は、五節を摂受す、

 闇と癡と大癡と、瞋恚と恐怖となり。

 嬾惰(らんだ)を名づけて闇と為し、生死を名づけて癡と為し、

 愛欲を大癡と名づく、大人も惑を生ずるが故なり、

 恨を懐くを瞋恚と名づけ、心に懼るるを恐怖と名づく。

      この、

         八種の惑(不信、我、疑、濫、不別、無方便、計著、纏綿)は、

         生死の海に深く沈み込ませる。

      諸の世間の愚夫は、

         闇、癡、大癡、瞋恚、恐怖と五段階の闇に包まれている。

      闇とは、

         怠惰のことである。

      癡とは、

         生死のことである。

      大癡とは、

         愛欲のことである。

         聖者でさえ愛欲によって惑を生じる。

      瞋恚とは、

         恨みを懐くことである。

      恐怖とは、

         心が怖れおののくことである。

 

  :弥淪(みりん):深く沈む。

  :摂受(しょじゅ):受入れる。

  :嬾惰(らんだ):怠惰。

  注:八種の惑:不信、我=我作転、疑、濫=総攬、不別、無方便、計著=著、纏綿=摂受。

 此愚癡凡夫  計著於五欲

 生死大苦本  輪轉五道生

 轉生我見聞  我知我所作

 緣斯計我故  隨順生死流

 此因非性者  果亦非有性

 謂彼正思惟  四法向解脫

 黠慧與愚闇  顯現不顯現

 この愚癡の凡夫は、五欲に計著す。

 生死は大苦の本にして、五道に輪転して生じ、

 転生して、『われ見聞す、われ知る、わが作す所』とし、

 この計我に縁るが故に、生死の流れに随順す。

 この因は性に非ざれば、果もまた性有るに非ず。

 謂(おも)えらく、彼正しく四法を思惟せば解脱に向わんと。

 黠慧と愚闇と、顕現と不顕現となり。

      この、

         愚かな凡夫は、

            誤って五欲に執着している。

      生死は、

         大苦の本であり、

         五道(地獄、餓鬼、畜生、人間、天上)に輪転して生まれる。

      転生すれば、

         『わたしは見聞する。』

         『わたしは知る。』

         『わたしの行為である。』とする。

      この、

         誤った我を知ることにより、

         おとなしく、生死の流れに身を任せる。

      この

         因(我)は、性(真実の我)ではないのだから、

         果(我)も、また性ではない。

      思うに、

         四つの事を正しく思い計れば、解脱に向かうだろう。

      四つの事とは、

         賢明と愚闇、顕現と不顕現をいう。

 

  :黠慧(げつえ):賢明。

  :顕現(けんげん):明らかに現れる。

  注:色声香味触の五欲は、人の生存の原点である。

 若知此四法  能離生老死

 生老死既盡  逮得無盡處

 世間婆羅門  皆悉依此義

 修行於梵行  亦為人廣說

 もし、この四法を知らば、よく生老死を離れ、

 生老死すでに尽きなば、無尽の処を逮得せん。

 世間の婆羅門は、皆悉くこの義に依りて、

 梵行を修行し、また人の為に広く説くなり。』

      もし、

         この四つの事を知ったならば、生老死を離れることができるだろう。

         生老死が尽きたならば、無尽の生命を得ることができる。

      世間の婆羅門は、

         皆悉く、

            この道理に依って、梵行(ぼんぎょう、清浄行)を修行し、

            人にも、勧めて説くのである。』

 

  :逮得(たいとく):追求して獲得する。

  :梵行(ぼんぎょう):清浄な行い。

 

 

 

 

阿羅藍、重ねて説く

 太子聞斯說  復問阿羅藍

 云何為方便  究竟至何所

 行何等梵行  復應齊幾時

 何故修梵行  法應至何所

 如是諸要義  為我具足說

太子、この説を聞いて、また阿羅藍に問わく、

『云何なるをか方便と為し、究竟じて何所にか至る。

 何等の梵行を行じて、またまさに幾時をか斉(つつし)むべき。

 何なる故にか梵行を修むる、法はまさに何所にか至るべき。

 かくの如き諸の要義、わが為に具足して説かれよ。』

太子は、

   その説を聞いて、また阿羅藍に問うた、――

     『何のように修行すれば、何のような境地に至るのか?

      何のようなものを梵行といい、それは何れぐらい続くのか?

      何故その梵行を修め、それには何のような意味があるのか?

      この、

         諸の要義を、わたしに余すところなく説かれよ。』

 時彼阿羅藍  如其經論說

 自以慧方便  更為略分別

 初離俗出家  依倚於乞食

 廣集諸威儀  奉持於正戒

 少欲知足止  精麤任所得

 樂獨修閑居  勤習諸經論

 見貪欲怖畏  及離欲清涼

時に彼の阿羅藍、その経論に説けるが如く、

自ら慧と方便とを以って、更に為に略して分別すらく、

『初めは俗を離れて出家し、乞食に依倚し、

 広く諸の威儀を集めて、正戒を奉持し、

 少欲知足に止まりて、精麁は得る処に任せ、

 楽しんで独り閑居を修め、勤めて諸の経論を習い、

 貪欲を見て怖畏し、離欲の清涼なるに及ぶ。

その時、

   阿羅藍は、

      その経論に説かれていることを、

      自らの智慧と技術を尽し、

      更に略して要点のみを解説した、――

     『初めは、

         俗を離れて出家し、

         乞食によって生活し、

         種種の修行法を集めて修行し、

         正しく戒をたもって、少欲知足のくらしをし、

         粗末も贅沢も施されるがままに任せ、

         楽しんで静かな処に独り住まい、

         勤めて多くの経論を習い、

         欲を貪る者を見て怖れ、

      やがて、

         欲を離れて清涼になる。

 

  :依倚(いき):依る。

  :威儀(いぎ):振る舞い。

  :精麁(しょうそ):贅沢と粗末。

  :閑居(げんこ):静閑処にて独坐する。

  :怖畏(ふい):畏れる。

 攝諸根聚落  安心於寂默

 離欲惡不善  欲界諸煩惱

 遠離生喜樂  得初覺觀禪

 既得初禪樂  及與覺觀心

 而生奇特想  愚癡心樂著

 心依遠離樂  命終生梵天

 諸根の聚落を摂して、心を寂黙に安んじ、

 欲と悪と不善と、欲界の諸の煩悩とを離れんに、

 遠く離るれば喜楽を生じて、初の覚観の禅を得。

 すでに初禅の楽、および覚観の心を得たりなば、

 奇特の想を生じて、愚癡の心は楽に著す。

 心を楽より遠離することに依り、命終りて梵天に生ず。

      諸根(感覚器官)の動きを抑制して、心を沈黙の中に安んじ、

      欲と悪と不善と欲界の諸の煩悩から遠く離れる。

      これらから、

         遠く離れれば、喜楽を生じて、

         初の覚観の禅を得る。

      初禅にて、

         楽と覚観の心とを得たならば、

      それは、

         初めて味わうという想を生じて、

         愚かな心が楽に執著する。

      心が、

         楽から遠く離れたならば、

      命の終りに、

         梵天に生じる。

 

  :聚落(じゅらく):村落。ここでは単なる集まり。

  :寂黙(じゃくもく):沈黙。

  :覚観(かくかん):感覚と観察。

  :遠離(おんり):遠ざけて離れる。

 慧者能自知  方便止覺觀

 精勤求上進  第二禪相應

 味著彼喜樂  得生光音天

 方便離喜樂  搶C第三禪

 安樂不求勝  生於遍淨天

 捨彼意樂者  逮得第四禪

 苦樂已俱息  或生解脫想

 任彼四禪報  得生廣果天

 以彼久壽故  名之為廣果

 慧者はよく自ら知りて、方便して覚観を止め、

 精勤して上に進みて、第二禅に相応せんと求め、

 彼の喜楽に味著して、光音天に生ずることを得。

 方便して喜楽を離るれば、増々第三禅を修せんに、

 安楽に勝るるを求めずして、遍浄天に生ず。

 彼の意の楽を捨てなば、第四禅を逮得し、

 苦楽はすでに倶に息みぬれば、或は解脱の想を生ぜん。

 彼の四禅の報に任せて、広果天に生ずることを得。

 彼の久しき寿を以っての故に、これを名づけて広果と為す。

      智者は、

         自らをよく知っているので、

         手だてを尽して覚観を止めようとする。

      勤めて覚観を止めて、

         上に進もうとする。

      第二禅に相応すれば、

         第二禅の喜楽を味わうことに執著して、

         光音天に生じる。

      手だてを尽して、

         喜楽を離れ、増々第三禅を修め、

         安楽に勝るものを求めずに、

         遍浄天に生じる。

      第三禅の安楽を捨てて、

         第四禅を得ようと追求すれば、

         苦楽は倶に止まり、

         或は、解脱の想を生じることもある。

      第四禅で得た果報により、

         広果天に生れることができる。

      広果天は、

         寿命が永いので、広果という。

 

  :味著(みじゃく):味わいに執著する。

  :光音天(こうおんてん):色界第二禅中の第三天。

  :遍浄天(へんじょうてん):色界第三禅中の第三天。

  :広果天(こうかてん):色界第四禅中の第三天。

 於彼禪定起  見有身為過

 攝i修智慧  厭離第四禪

 決定攝i求  方便除色欲

 始自身諸竅  漸次修虛解

 終則堅固分  悉成於空觀

 略空觀境界  進觀無量識

 善於內寂靜  離我及我所

 觀察無所有  是無所有處

 彼の禅定より起たば、身有るを見て過ちと為し、

 増進して智慧を修め、第四禅を厭離す。

 決定して求むることを増進し、方便して色欲を除けば、

 始め自身の諸竅(きょう)について、漸次に虚解を修め、

 終に則ち堅固なる分も、悉く空観を成ず。

 空を略して境界を観じ、無量の識を観ずるに進み、

 内の寂静に於いて善くして、我および我所を離れ、

 所有無きことを観察す、これ無所有処なり。

      第四禅の禅定から起ちあがると、

         身が有るので、この禅は過ちであると見なし、

         増々智慧を求めて、第四禅を厭い離れようとする。

      心が、

         増々定ると、手だてを尽して色欲を除く、

      始めは、

         自らの身にある目耳等の孔を、一つ一つ虚であると理解し、

      終には、

         堅固なる部分も、悉く空であると観ることに成功する。

      始めは、

         略して、境界のみが空であると観察し、

      後には、

         進んで、無量の識(しき、心の働き)が空であると観察する。

      心の内が、

         寂静(じゃくじょう、動かない)であると善く観察して、

         自我意識と身心とを離れ、

         何も存在しないと観察する。

      これが、

         無所有処(むしょうじょ、無色界の第三処)である。

 

  :厭離(えんり):厭い離れる。

  :竅(きょう):人体にある目耳等のあな。

  :虚解(こげ):虚無の理解。

  :空観(くうかん):空であると観察する。

  :我および我所:自我意識。身心を我と思いこむこと。

  :無所有処(むしょうじょ):無色界の第三処。

 文闇皮骨離  野鳥離樊籠

 遠離於境界  解脫亦復然

 是上婆羅門  離形常不盡

 慧者應當知  是為真解脫

 汝所問方便  及求解脫者

 如我上所說  深信者當學

 林祇沙仙人  及與闍那伽

 毘陀波羅沙  及餘求道者

 悉從於此道  而得真解脫

 文闍は皮と骨と離れ、野鳥は樊籠を離る、

 境界を遠離する、解脱もまたまた然り。

 この上の婆羅門は、形を離れて常に尽さず、

 慧者はまさに知るべし、これを真の解脱と為すと。

 汝が問う所の方便、および解脱を求むとは、

 わが上に説く所の如し、深く信ぜばまさに学すべし。

 林祇沙(りんぎしゃ)仙人、および闍那伽(じゃなか)、

 毘陀波羅沙(びだはらしゃ)、および余の道を求むる者は、

 悉くこの道に従って、真の解脱を得たり。』

      藺草(いぐさ)の皮と骨とが離れるように、

      野鳥が籠から離れるように、

         境界から遠く離れる。

      解脱とは、

         これをいうのである。

      この上の婆羅門たちは、

         肉体を離れていながら、

         寿命は常であり尽きることがない。

      智者ならば、

         まさに知っていよう。

      これこそが、

         真の解脱であると。

      あなたは、

         『何のように修行すれば、何のような解脱を得ることができるか?』と問うた。

      わたしが、

         今、説いたものがそれである。

         深く信じて、学ばれるがよかろう。

      林祇沙(りんぎしゃ)、闍那伽(じゃなか)、毘陀波羅沙(びだはらしゃ)および、

      その他の道を求める者たちは、

         皆、悉くこの道に従って、真の解脱を得たのである。』

 

  :文闍(もんじゃ):藺草の類。

  :樊籠(はんろう):檻や籠。

  :林祇沙(りんぎしゃ)、闍那伽(じゃなか)、毘陀波羅沙(びだはらしゃ):数論論議師。

  注:文闇は文闍に改める。

 

 

 

 

太子、阿羅藍の法を難ずる

 太子聞彼說  思惟其義趣

 發其先宿緣  而復重請問

 聞汝勝智慧  微妙深細義

 於知因不捨  則非究竟道

 性轉變知因  說言解脫者

 我觀是生法  亦為種子法

太子、彼の説を聞いて、その義趣を思惟し、

その先の宿縁を発して、また重ねて請うて問わく、

『汝が勝れたる智慧と、微妙深細の義とを聞くに、

 知因に於いて捨てざれば、則ち究竟の道に非ず。

 性と転変と知因とを、説いて解脱と言わば、

 われは、これは生法なり、また種子法と為すなりと観ず。

太子は、

   その説を聞いて、

   その意味をよく考えて推し量り、

   先世の縁による智慧を発して、

   重ねてこう問うた、――

     『あなたの、

         勝れた智慧で説かれた、

         微妙にして深く細やかな義趣を聞いた。

      しかし、

         性と転変とを知る知因(ちいん、真の我)を捨てていないので、

      これは、

         究竟の道ではない。

      あなたは、

         性と転変と知因とを説いて、

         生死を解脱すると言っているが、

      わたしは、

         これは、

            『生死の法であり、

             生死の種子(たね)の法である。』と観察した。

 

  :知因(ちいん):性と転変とを知るもの、神我、霊魂、観察するのみの我の本体。

  :生法(しょうほう):生れること。

  :種子法(しゅじほう):種子。

 汝謂我清淨  則是真解脫

 若遇因緣會  則應還復縛

 猶如彼種子  時地水火風

 離散生理乖  遇緣種復生

 無知業因愛  捨則名解者

 存我諸眾生  無畢竟解脫

 處處捨三種  而復得三勝

 以我常有故  彼則微細隨

 微細過隨故  心則離方便

 汝が謂わく、『我の清浄なる、則ちこれ真の解脱なり。』と。

 もし因縁に遇いて会すれば、則ちまさに還ってまた縛すべく、

 なお彼の種子の如く、時と地と水と火と風とに、

 離散すれば生理に乖(そむ)き、縁に遇わば種もまた生ず。

 無知と業因と愛とを、捨つれば則ち解と名づくれど、

 我を存する諸の衆生は、畢竟じての解脱無し。

 処処に三種を捨てて、また三勝を得れど、

 我の常に有るを以っての故に、彼は則ち微細に随い、

 微細なる過随うが故に、心は則ち方便を離る。

      あなたは、こう言った、――

         『我が清浄であれば、これが真の解脱である。』と。

      しかし、

         もし、因縁が出会って重なれば、

         必ず、また生死に縛りつけられよう。

      まるで、

         植物の種が、

            時と地と水と火と風とから、

               離散していれば、生じる道理は無いが、

               縁が出会えば、生じるようなものである。

      あなたは、

         愚かさと、行いと、愛欲とを捨てれば、

         それを解脱であると言っているが、

      我が存するかぎり、

         諸の生き物は、解脱するということない。

      処処に、

         愚かさと、行いと、愛欲の三種の過を捨てて、

      代わりに

         智慧と、無作為と、無所著という三種の勝れたものを得ても、

      我というものが、

         常に、有るかぎりは、

         我は、微細な三種の過に随い、

         心は、やがて修行から離れることになる。

 壽命得長久  汝謂真解脫

 汝言離我所  離者則無有

 眾數既不離  云何離求那

 是故有求那  當知非解脫

 求尼與求那  義異而體一

 若言相離者  終無有是處

 寿命の長久なるを得るを、汝は『真の解脱なり』と謂い、

 汝は『我所を離る』と言うも、離るること則ち有ること無し。

 衆数すでに離れず、云何が求那(ぐな)を離るる。

 この故に求那有らば、まさに知るべし解脱に非ずと。

 求尼(ぐに)と求那と、義は異れど体は一なり、

 もし『相い離る』と言わば、終にこの処(ことわり)の有ること無し。

      あなたは、

         『寿命が永い、これが真の解脱である。』と言い、

         『我所(がしょ、身心)を離れる。』と言うが、

      離れるとは、

         そのような事が有るだろうか?

      種種の心の働きですら、

         離れていないものを、

      何うして、

         肉体を離れることができよう!

      この故に、

         知るがよい、

         肉体が有れば、解脱ではないと。

      心(霊魂)と肉体とは、

         意味は異なるが、

         実体は一つである。

      もし、

         『心と肉体とが離れる。』と言うならば、

      それは、

         道理ではない。

 

  :衆数(しゅすう):種種の心の働き。

  :求那(ぐな):性質、物体。地水火風等の実体の色声香味等の徳。

  :求尼(ぐに):性質を具有するもの、物体。

 暖色離於火  別火不可得

 譬如身之前  則無有身者

 如是求那前  亦無有求尼

 是故先解脫  然後為身縛

 又知因離身  或知或無知

 若言有知者  則應有所知

 若有所知者  則非為解脫

 若言無知者  我則無所用

 離我而有知  我即同木石

 具知其精麤  背麤而崇微

 若能一切捨  所作則畢竟

 暖と色との火に於いて離るる、別の火は得べからず、

 譬えば身の前に、則ち身なる者の有ること無きが如し。

 かくの如く求那の前にも、また求尼の有ること無し、

 この故に先に解脱するも、然る後に身は縛せらる。

 また知因、身を離るるに、或は知り或は知るもの無しとは、

 もし『知る者有り』と言わば、則ちまさに知る所有るべし、

 もし知る所有りとせば、則ち解脱と為すに非ず、

 もし『知る者無し』と言わば、我は則ち用うる所無く、

 我を離れて知るもの有らば、我は即ち木石に同じなり。

 具にその精麁を知り、麁に背いて微を崇め、

 もしよく一切を捨つれば、作す所は則ち畢竟す。』

      暖かさと色とが、火から離れることはなく、

      暖かさと色とから、離れた火も存在しない。

      譬えば、

         身体の前に、もう一つの身体が無いように、

      このように、

         肉体の前に、心が有るということも無い。

      この故に、

         先に解脱したとしても、後にはまた縛られるのである。

      また、

         知因(ちいん、霊魂)が身を離れるとは、

      それを、

         知る者がいるのか?

      それとも、

         知る者がいないのか?

      もし、

         『知る者がいる』と言うならば、

         知られるものが有るはずであり、

         もし、

            知られるものが有るならば、

            それは解脱ではない。

      もし、

         『知る者がいない』と言うならば、

         我は何の役に立つのか?

      もし、

         『我を離れて知る者がいる』と言うならば、

         我は木石と同じではないか。

      このように、

         幹と枝葉とを知りつくし、

         枝葉を捨てて幹を取り、

      その上、

         一切を捨て去ることができれば、真の解脱が得られよう。』

 

  :精麁(しょうそ):精緻と粗大。主幹と枝葉。

 

 

 

 

菩薩は、伽闍山にて五比丘と共に苦行する

 於阿羅藍說  不能ス其心

 知非一切智  應行更求勝

 往詣鬱陀仙  彼亦計有我

 雖觀細微境  見想不想過

 離想非想住  更無有出塗

 以眾生至彼  必當還退轉

阿羅藍の説に於いては、その心を悦ばすこと能わず、

一切智に非ざるを知りて、まさに行きて更に勝れたるを求むべく、

行きて鬱陀(うつだ)仙に詣(いた)る。彼もまた我有らんことを計り、

微細の境を観じ、想と不想との過を見て、

想非想に離れて住すといえども、更に出塗の有ること無く、

以って衆生は彼に至るも、必ずまさに還って退転すべし。

太子は、

   阿羅藍の説に悦ぶことができず、

   これは一切智ではないと知って、

   更に勝れた法を求めて行き、

   鬱陀(うつだ)仙人の所にたどり着いた。

彼も、

   また我の存在を信じていた。

   境界を

      微細に観察して、

      想(おも、境界の心への投影)うことと、

      想わないこととの、

         過を見て、

      想うことからも、

      想わないことからも、

         離れてはいたが、

これも

   やはり、解脱の道ではなかった。

衆生が、

   その境地に至ったとしても、

   必ず、還って退転するに違いない。

 

  :鬱陀(うつだ):鬱頭藍と同じ。

  :出塗(しゅつづ):出世間、煩悩の垢に塗れた世間を出る。

  注:想非想処を離れたとしても、我の存在を信じるかぎり、正しい解決法は見つけられない。

 菩薩求出故  復捨鬱陀仙

 更求勝妙道  進登伽闍山

 城名苦行林  五比丘先住

 見彼五比丘  善攝諸情根

 持戒修苦行  居彼苦行林

 尼連禪河側  寂靜甚可樂

 菩薩即於彼  一處靜思惟

菩薩は出を求むるが故に、また鬱陀仙を捨て、

更に勝妙の道を求めて、進み伽闍山(かじゃせん)に登る。

城を苦行林と名づけ、五比丘先に住せり、

彼の五比丘を見るに、善く諸の情根を摂め、

持戒し苦行を修めて、彼の苦行林に居す。

尼連禅河(にれんぜんが)の側は、寂静として甚だ楽しむべし、

菩薩、即ち彼(かしこ)の一処に於いて静かに思惟す。

菩薩は、

   解脱を求めて、

   また鬱陀仙人を捨て、

更に、

   勝れた道を求めて、

   伽闍山(かじゃせん)に登った。

この辺りを、

   苦行林といい、

   五人の比丘(びく、出家)が先に居ついていた。

菩薩は、

   この五人の比丘を見た、――

   比丘たちは、

      善く諸の欲情を抑制し、

      戒を守って苦行を修めながら、

      この苦行林に住んでいる。

尼連禅河(にれんぜんが)の側(ほとり)は、

   静寂で甚だ楽しい。

菩薩は、

   住まいをそこに定め、

   静かに考えにふけった。

 

  :伽闍山(かじゃせん):伽耶山(かやせん)、仏の成道の場所、今のブッダガヤー。

  :苦行林(くぎょうりん):多くの修行者が苦行する林。

  :五比丘(ごびく):比丘は出家の修行者。この五比丘は仏の説法を最初に聞いた。

  :情根(じょうこん):感情を起す根本、五情、五根。

  :尼連禅河(にれんぜんが):伽闍山の麓を流れ、仏が成道の前に沐浴した河。

 五比丘知彼  精心求解脫

 盡心加供養  如敬自在天

 謙卑而師事  進止常不離

 猶如修行者  諸根隨心轉

 菩薩勤方便  當度老病死

 專心修苦行  節身而忘餐

 淨心守齋戒  行人所不堪

 寂默而禪思  遂經歷六年

五比丘は彼の、心を精(もっぱ)らに解脱を求むるを知り、

心を尽して供養を加え、自在天を敬うが如し。

謙卑して師事し、進止常に離れざること、

なお修行者の、諸根の心に随うて転ずるが如し。

菩薩は勤めて方便し、まさに老病死を度すべく、

心を専らに苦行を修め、身を節して餐を忘る。

心を浄くして斎戒を守り、行人の堪えざる所、

寂黙して禅思し、遂に六年を経歴す。

五人の比丘は、

   菩薩が、心から解脱を求めているのを知り、

   心を尽して食物を給する、

      まるで、自在天を敬うかのように。

   弟子が師に仕えるようにして、

      進むも止まるも常に離れない、

      まるで、修行者の五根が心のままになるように。

菩薩は、

   懸命に手だてをつくして、

      老病死を超えなくてはならない。

   心を統一して、苦行を修め、

   身を節して、食事も忘れ、

   心を浄くして、戒を守り、

   修行者も堪えられないほど、沈黙と瞑想をし、

      とうとう六年が過ぎた。

 

  :謙卑(けんぴ):自ら謙遜して卑しむ。

  :斎戒(さいかい):午後の不食を斎といい、不殺、不盗、不婬、不妄語、不飲酒を戒という。

  :経歴(きょうりゃく):時が過ぎる。

  :禅思(ぜんし):静慮、心を静めてよく考える。

 日食一麻米  形體極消羸

 欲求度未度  重惑逾更沈

 道由慧解成  不食非其因

 四體雖微劣  慧心轉摶セ

 神虛體輕微  名コ普流聞

 猶如月初生  鳩牟頭華敷

 溢國勝名流  士女競來觀

 苦形如枯木  垂滿於六年

日に一麻米を食し、形体は極めて消羸(しょうるい)し、

度を求めんと欲すれど未だ度せず、惑を重ねていよいよ更に沈めり。

道は慧と解とに由りて成り、食せざるはその因に非ず、

四体は微劣すといえども、慧心は転(うた)た明るさを増せり。

神は虚しう体は軽微になり、名徳の普く流聞すること、

なお月の初めて生じ、鳩牟頭華(くむづけ)の敷くが如し。

国に溢れて勝名は流れ、士女競い来たりて観るに、

苦の形は枯木の如く、垂(なんなん)として六年を満たさんとす。

菩薩は、

   日に一粒の麻粒を食い、肉体は極めて衰弱した。

   生死を超えようとしても、未だ超えることができない。

   心は深く惑い、更に深く沈んだ。

道は、

   智慧と理解とによって求めるものであり、

   苦行して物を食わないのは、道の為にならない。

肉体は、

   消耗しながらも、智慧は心に明るさを増す、

   惑は消えて無心になり、身体は軽くなった。

名と徳とが、

   世間に聞こえだした、

   まるで、

      新月が待ち望まれるように、

      睡蓮が池一面に広がるように。

   勝れた名は、

      国を溢れてて流れだし、

      男女が競って観に来た、

      枯れ木のような苦行の肉体を。

六年が、

   過ぎようとしている。

 

  :麻米(ままい):麻粒。

  :形体(ぎょうたい):身体。

  :消羸(しょうるい):衰弱。

  :微劣(みれつ):衰弱。

  :慧心(えしん):智慧に満ちた心。

  :軽微(きょうみ):軽くなる。

  :名徳(みょうとく):名称。

  :流聞(るもん):流布。

  :鳩牟頭華(くむづけ):白蓮華。白い睡蓮。

 怖畏生死苦  專求正覺因

 自惟非由此  離欲寂觀生

 未若我先時  於閻浮樹下

 所得未曾有  當知彼是道

 道非羸身得  要須身力求

 飲食充諸根  根ス令心安

 心安順寂靜  靜為禪定筌

 由禪知聖法  法力得難得

 寂靜離老死  第一離諸垢

 如是等妙法  悉由飲食生

生死の苦を怖畏し、専ら正覚の因を求めて、

自ら惟(おも)うらく、『これに由るに非ず。欲を離れて寂観生ずれど、

 未だわが先の時に、閻浮樹の下に於いて、

 得し所の未曽有なるに若かず。まさに知るべし、彼はこれ道にして、

 道は身を羸(よわ)らして得るに非ず、要ず身力を須いて求むべし。

 飲食は諸根を充し、根悦べば心をして安からしむ、

 心安かれば寂静に順じ、静なるを禅定の筌(せん)と為す。

 禅に由りて聖法を知り、法の力にて得難きを得、

 寂静は老死を離れ、第一に諸垢を離る。

 かくの如き等の妙法は、悉く飲食に由りて生ず。』と。

菩薩は、

   生死の苦を畏れて、専ら正しい覚りの因を求める。

   そしてこう考えた、――

     『この修行法ではない。

         欲を離れて、心は静まったが、

         未だ、

            先の世に閻浮樹(えんぶじゅ)の下で得た、

            未曽有の覚りにはほど遠い。

      そうだ、

         あれこそが、正しい道であった。

      道は、

         身を、弱らして求めるものではない、

         必ず、身の力が必要になるのだから。

      食物は、

         諸根を充実させ、

         諸根が悦べば、心が安らぎ、

         心が安らげば、心が静まり、

         心が静まれば、禅定(ぜんじょう、心を静めて対境と合一する)が得られる。

      禅をとおして、

         正しい法を知り、

         法の力で、得難いものが得られる。

      心が静まれば、

         老死を離れることができるのだ。

      第一に、

         諸の煩悩の垢を離れよう。

      このように、

         素晴らしい法は、

         悉く、食物をとおして生じるのだ。』

 

  :怖畏(ふい):怖れ。

  :正覚(しょうがく):さとり。

  :寂観(じゃくかん):心中の寂静の観察。

  :閻浮樹(えんぶじゅ):インド所産の喬木。

  :禅、禅定(ぜんじょう):心を静め、対境と合一する。

  :筌(せん):魚を捕らえる竹の道具。

  :飲食(おんじき):飲食物、またそれを飲み食いすること。

 

 

 

 

尼連禅河にて沐浴し、乳糜を食して吉祥樹の下に坐る

 思惟斯義已  澡浴尼連濱

 浴已欲出池  羸劣莫能起

 天神按樹枝  舉手攀而出

 時彼山林側  有一牧牛長

 長女名難陀  淨居天來告

 菩薩在林中  汝應往供養

この義を思惟しおわりて、尼連の浜に澡浴し、

浴しおわりて池を出でんと欲するに、羸劣してよく起つこと莫し、

天神、樹の枝を按(お)せば、手を挙げて攀(よ)ぢて出でたり。

時に彼の山の林の側に、一牧牛(ぼくご)の長有りて、

長女を難陀(なんだ)と名づく、淨居天来たりて告ぐらく、

『菩薩、林中に在り、汝まさに往きて供養すべし。』と。

菩薩は、

   この道理を思い計ってよく考えると、

   尼連禅河の浜で身を洗った。

   浴びおわって水から出ようとするが、

   衰弱して岸に上ることができない。

この時、

   天の神が、

      岸辺に生える木の枝を押し下げ、枝の先を川に垂した。

   菩薩は、

      手を伸ばして垂された木の枝の先につかまり、ようやく岸に上ることができた。

その頃、

   山林の側らに、

      一人の牧牛場の主がいて、

      その娘の名を、難陀(なんだ)といった。

   淨居天(じょうごてん)は、

      その娘の夢に出て、こう告げた、――

     『菩薩が林の中にいらっしゃる。お前は往って食物を捧げなさい。』

 

  :澡浴(そうよく):水に漬かって身体を洗う。

  :羸劣(るいれつ):衰弱。

  :牧牛長(ぼくごちょう):牧牛場の主。

  :難陀(なんだ):難陀婆羅闍(なんだばらじゃ)ともいう。

  :淨居天(じょうごてん):色界第四禅天。

  :供養(くよう):食物、衣服等の生活の具を給する。

 難陀婆羅闍  歡喜到其所

 手貫白珂釧  身服青染衣

 青白相映發  如水淨沈漫

 信心晄躍  稽首菩薩足

 敬奉香乳糜  惟垂哀愍受

 菩薩受而食  彼得現法果

 食已諸根ス  堪受於菩提

 身體蒙光澤  コ問轉崇高

 如百川搖C  初月日摶セ

難陀婆羅闍(なんだばらじゃ)は歓喜してその所に到る。

手を白き珂釧(かせん)に貫き、身に青く染めし衣を服(つ)け、

青と白と相い映発して、水の浄きに沈漫するが如し。

信心は増々踊躍し、菩薩の足に稽首して、

敬って香る乳糜(にゅうび)を奉る、ただ哀愍を垂れて受けたまえと。

菩薩は受けて食し、彼は現に法果を得。

食しおわりて諸根悦び、菩提を受くるに堪う。

身体は光沢を蒙り、徳は転(うた)た崇高を問い、

百川の海を増し、初月の日に明かりを増すが如し。

難陀は、

   歓喜して、そこへ行く、

   手には、白い瑪瑙の腕輪をはめ、

   身には、青く染めた衣服をつけ、

   青と白とは、互いに映しあって光を放つ、

   まるで、浄く澄んだ水の中に沈んだように。

   信心に心は踊って舞いあがり、

   項を垂れて菩薩の足に礼をして、

   恭しく香のより乳糜(にゅうび)を捧げた、――

  『どうか、哀れみを垂れてお受けください。』と。

   菩薩がこれを受けて食うと、歓喜が体中に満ちる。

菩薩は、

   これを食いおわると、諸根が悦んで目覚め、

   菩提(ぼだい、仏の覚り)を受ける準備ができた。

   身体は光沢が増し、徳はどんどん崇高さを増した、

   まるで、

      百の川によって、海の水が増えるように、

      冬至が過ぎて、日に日に日光の明るさが増すように。

 

  :珂釧(かせん):白瑪瑙の腕輪。珂は白い瑪瑙。

  :沈漫(ちんまん):水中に浸る。

  :踊躍(ゆやく):躍り上がる。

  :稽首(けいしゅ):首をうなだれる。

  :乳糜(にゅうび):牛乳で炊いたかゆ。

  :哀愍(あいみん):哀れみ。

  :初月(しょがつ):冬至を過ぎて最初の月。

 五比丘見已  驚起嫌怪想

 謂其道心退  捨而擇善居

 如人得解脫  五大悉遠離

 菩薩獨遊行  詣彼吉祥樹

 當於彼樹下  成等正覺道

五比丘見おわりて、驚いて嫌怪(けんけ)の想を起し、

謂わく、『その道心退せり、捨てて善居を択ぶ。』と。

人の解脱を得て、五大悉く遠離するが如く、

菩薩は独り遊行して、彼の吉祥樹に詣(いた)れり。

まさに彼の樹下に於いて、等正覚の道を成ずべし。

五人の比丘は、

   これを見て驚くと、

   疑い怪しんで、こう思った、――

  『彼は、道を求める心が退いた。苦行を捨てて楽な暮しを択ぶとは。』と。

人が、

   解脱を得れば、

   五大(地水火風空、肉体の構成要素)が、悉く離れ去るように、

菩薩は、

   独りで遊行(ゆぎょう、乞食して旅をする)しながら、

   あの吉祥樹(きちじょうじゅ、菩提樹)の下に着いた。

正しく、

   この樹の下で、

   等正覚(とうしょうがく、覚り)への道を得るのである。

 

  :嫌怪(けんけ):疑い怪しむ。

  :道心(どうしん):求道心。

  :善居(ぜんご):善いくらし。

  :五大(ごだい):地大、水大、火大、風大、空大。地水火風空の本体。

  :遊行(ゆぎょう):乞食して旅をする。

  :吉祥樹(きちじょうじゅ):菩提樹。

  :等正覚(とうしょうがく):仏の覚り。

 其地廣平正  柔澤軟草生

 安祥師子步  步步地震動

 地動感盲龍  歡喜目開明

 言曾見先佛  地動相如今

 牟尼コ尊長  大地所不勝

 步步足履地  轟轟震動聲

 妙光照天下  猶若朝日明

 五百群青雀  右遶空中旋

 柔軟清涼風  隨順而迴轉

 如斯諸瑞相  悉同過去佛

 以是知菩薩  當成正覺道

その地は広く平正にして、柔沢なる軟草生ずるに、

安詳として師子歩し、歩歩に地は震動す。

地動きて盲龍を感ぜしむるに、歓喜して目開明し、

言わく、『かつて先に仏を見しに、地の動相は今の如し。

 牟尼の徳は尊長なれば、大地の勝(た)えざる所にして、

 歩歩足に地を履むに、轟轟たる震動の声あり、

 妙光は天下を照らして、なお朝日の明らかなるが若し、

 五百群の青き雀は、右に遶(めぐ)りて空中に旋(めぐ)り、

 柔軟なる清涼の風は、随順して迴り転ず。

 かくの如き諸の瑞相は、悉く過去の仏と同じければ、

 ここを以って知る、菩薩は、まさに正覚の道を成ずべしと。』

その地は、

   広く平らかで、みずみずしく軟らかい草が生えている。

菩薩は、

   ゆったりと獅子のように歩み、

   地はその一歩ごとに震動した。

地が動けば、

   盲目の龍がそれを感じ取る。

龍は、

   歓喜して目が明るく開き、こう言った、――

  『かつて、

      先の仏を見たことがあるが、

      地が震動したのは、今と同じであった。

   牟尼(むに、聖者)の徳は尊いので、

      大地でさえ載せるのに堪えられないのだ。

   一歩ごとに足で地を履むと、

      地が震動して轟々ととどろき、

      美しい光が天下を照らして、

      まるで朝日がさしたようだった。

   五百群の青い雀が、

      菩薩の上を右に迴って飛び、

   軟らかく涼しい風が、

      おだやかに菩薩のまわりで廻っていた。

   このような、

      めでたい兆(きざし)は、悉く過去の仏と同じだ。

   この菩薩も、

      きっと正覚への道を得られることだろう。』

 

  :柔沢(にゅうたく):みずみずしい。

  :安詳(あんじょう):ゆったり落ち着いて。

  :師子歩(ししぶ):獅子のように堂々とした歩み。

  :牟尼(むに):聖者の尊称。

  :尊長(そんちょう):尊い、目上。

  :右遶(うにょう):貴人に右肩を向けて周囲を廻ること。インドの礼法。

  :瑞相(ずいそう):めでたい兆し。

 從彼穫草人  得淨柔軟草

 布施於樹下  正身而安坐

 加趺不傾動  如龍絞縛身

 要不起斯坐  究竟其所作

 發斯真誓言  天龍悉歡喜

 清涼微風起  草木不鳴條

 一切諸禽獸  寂靜悉無聲

 斯皆是菩薩  必成覺道相

彼(かしこ)の穫草人より、浄き柔軟の草を得て、

樹下に布き施し、身を正して安坐す。

『跏趺(かふ)して傾動せざること、龍に身を絞縛せらるるが如く、

 要ずここを起たずして坐り、その作す所を究竟せん。』と、

この真の誓言を発するに、天と龍とは悉く歓喜す。

清涼の微風起れども、草木は條(こえだ)を鳴らさず、

一切の諸の禽獣は、寂静として悉く声無し。

これ皆、この菩薩の、必ず覚道を成ずるの相なり。

菩薩は、

   その場にいた草刈り人から、

   浄く軟らかい草を得て、

   樹の下に敷くと、

   身を正して安らかに坐った。

   『足を組んで坐ったら、もう身動きもすまい。

    まるで龍に身を縛られたようにしよう。

    必ず、ここを起たずに坐ったまま、

    作さねばならぬことを極めつくそう。』

菩薩が、

   こう誓いを立てると、

      天も龍も、悉く歓喜した。

      清涼なそよかぜが吹き、草木も小枝を鳴らさない。

      一切の獣と鳥たちは、静かにして誰も声を立てない。

これ等は、

   皆、『この菩薩は、必ず覚りの道を得る。』ということを表している。

 

  :穫草人(かくそうにん):草刈り人。

  :跏趺(かふ):足を組んで坐る。

  :傾動(きょうどう):身動き。

  :絞縛(きょうばく):縛って絞める。

 

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