(涅槃品第二十五)

 

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師子離車は憂いと悲しみの中に仏の教をかみしめる

涅槃品第二十五

涅槃(ねはん)品第二十五

涅槃に入らんとする直前に、特に離車衆と力士衆に法を説く。

 佛至涅槃處  鞞舍離空虛

 猶如夜雲冥  星月失光明

 國土先安樂  而今頓凋悴

 猶如喪慈父  孤女常獨悲

 如端正無聞  聰明而薄コ

 心辯而口吃  明慧而乏才

 神通無威儀  慈悲心虛偽

 高勝而無力  威儀而無法

 鞞舍離亦然  素榮而今悴

 猶如秋田苗  失水悉枯萎

 或斷火滅煙  或對食忘餐

 悉廢公私業  不修諸俗緣

 念佛感恩深  默默各不言

仏は涅槃の処に至れり、鞞舎離(びしゃり)の空虚なること、

なお夜の雲の冥(くら)きに、星月も光明を失えるが如し。

国土は先に安楽なるも、今頓(とみ)に凋悴せること、

なお慈父を喪える、孤女の常に独り悲しむが如し。

端正なるも無聞、聡明なるも薄徳、

心に辯ずるも口に吃(ども)り、明慧なるも乏才、

神通あるも威儀無く、慈悲あるも心に虚偽あり、

勝なるも無力、威儀あるも無法なるが如く、

鞞舎離もまた然り、素(もと)栄うるも今に悴(やつ)る。

なお秋田の苗の、水を失いて悉く枯れ萎(しぼ)めるがごとく、

或は火を断ちて煙滅し、或は食に対して餐(くら)うを忘るるが如く、

悉く公私の業を廃し、諸の俗縁を修めず、

仏を念じて恩の深きに感じ、黙々として各々言わず。

仏は、

   涅槃の処をめざして行ってしまった。

鞞舎離は、

   空虚である、夜の黒い雲に、月も星も皆光を失ったように。

   あんなにも安楽に思えた国土も、今は凋落し憔悴してしまった、

   慈父を喪った、孤独な女が、独り悲しむように。

   端正な顔つきなのに智慧たらず、

   聡明なのに薄徳、

   心の中で話せば達者なのに、いざとなれば吃ってしまう、

   智慧は明らかであるが、能力(行動する力)に乏しい、

   神通が有るのに威厳が無く、

   慈悲の行いは有るものの心に虚偽を懐いている、

   高尚なのに無力、

   威厳はあるのに無法とは、この鞞舎離のことか。

   本栄えていたものが、今はやつれている、

   秋の田に芽生えた苗が、水がなくて枯れしぼんでいるようだ。

   或いは火を消されて煙が無くなるように、

   或いは食事を前にして食うことを忘れたように、

   人々は、皆公私の仕事を止めて、俗事に従わない、

   仏の事を心に思い、深き恩に感じて、黙々として無言である。

 

  :涅槃(ねはん):生死の因果を滅すること。寂滅。滅度。

  :鞞舎離(びしゃり):国名。

  :凋悴(ちょうすい):しおれて落ちぶれること。凋落。憔悴。

  :端正(たんじょう):姿や顔つきがきちんと整っていること。

  :無聞(むもん):知識が無い。無文。

  :聡明(そうみょう):耳がよく聞こえ目がよく見える。道理に明るい。さとい。かしこい。

  :薄徳(はくとく):人徳が薄いこと。人の為に力を尽くさないこと。

  :明慧(みょうえ):智慧が有ること。

  :乏才(ぼうさい):才能が無いこと。能力が無いこと。

  :神通(じんつう):超人的な力。

  :威儀(いぎ):威厳のある態度。

  :虚偽(こぎ):うそ、いつわり。

  :勝(こうしょう):けだかい。志行が高潔なこと。高尚。

  :無力(むりき):志を行う力が無い。

  :無法(むほう):法律を無視する。傍若無人。

  :食(じき):食物。

  :餐(さん):くう、くらう。

  :俗縁(ぞくえん):世俗に縁する事。俗事。

 時師子離車  強忍其憂悲

 垂泣發哀聲  以表眷戀心

 破壞諸邪徑  顯示於正法

 已降諸外道  遂往不復還

 世絕離世道  無常為大病

 世尊入大寂  無依無有救

 方便最勝尊  潛光究竟處

 我等失強志  如火絕其薪

時に師子離車(りしゃ)、強いてその憂悲を忍ぶも、

泣かんとして哀声を発し、以って眷恋の心を表す。

『諸の邪経を破壊して、正法を顕示し、

 すでに諸の外道を降せるも、遂に往きてまた還らず。

 世に世道を絶離し、無常をば大病と為せるも、

 世尊大寂に入らば、依(え)も無く救(く)も有ること無し。

 方便の最勝の尊、光を究竟処に潜めんとするに、

 われ等は強志を失い、火のその薪を絶やすが如し。

その時、

   離車(りしゃ、鞞舎離の貴族)の師子(しし、獅子)は、

      強いて憂いと悲しみを抑えていたが、

      ついに泣きそうになり、悲しみの声を挙げた。

      恋いこがれる心が、表に現れたのである、――

     『邪教の経典を破壊して正しい法を現わし

      外道たちをすべて降伏させた方は、

         ついに往ってしまった、

         もう還ってはこられまい。

      世に俗なる邪道を絶やし、

      無常が大病であると教えられた世尊は、

         ついに涅槃に入られた。

      これからは、

         誰を頼りにし、誰に救われればよいのか。

      巧みな説法で、

         世に知られた世尊は、

            その光を潜めて、涅槃に入ってしまわれた。

      われ等は、

         世尊の強い意志を失い、

         火がそれにくべる薪を失ったようだ。

 

  :師子(しし):人名。

  :離車(りしゃ):鞞舎離国の貴族種。

  :憂悲(うひ):憂えて悲しむ。

  :垂(すい):なんなんとして、‥‥。‥‥せんとす。‥‥しようとする。

  :哀声(あいしょう):哀しみの声。

  :眷恋(けんれん):恋いこがれる。

  :破壊(はえ):破ってこわす。

  :邪経(じゃきょう):邪教の経典。

  :顕示(けんじ):世間にはっきりと示す。

  :正法(しょうぼう):正しいおしえ。

  :外道(げどう):邪教の道。

  :世道(せどう):世俗の道。

  :絶離(ぜつり):断絶と遠離。縁を断ち切って遠ざかる。

  :大寂(だいじゃく):大いに静かなること。涅槃。

  :依(え):たよる。たよりにする者。

  :救(く):すくう。すくい。救ってくれる者。

  :方便(ほうべん):目的の為に手だてを尽くすこと。

  :最勝(さいしょう):最も勝れた。

  :尊(そん):尊ばれる者。

  :究竟処(くきょうじょ):これ以上無く最も遠い処。無上の境地。涅槃。

  :強志(ごうし):強い意志。

 世尊捨世蔭  群生甚可悲

 如人失神力  舉世共哀之

 逃暑投涼池  遭寒以憑火

 一旦悉廓然  群生何所歸

 通達殊勝法  為世陶鑄師

 世間失宰正  人喪道則亡

 老病死自在  道喪非道通

 能壞大苦機  世間何有雙

 猛熱極焰盛  大雲雨令消

 貪欲火熾然  其誰能令滅

 堅固能擔者  已捨世重任

 復何智慧力  能為不請友

『世尊の世蔭なるを捨てんに、群生は甚だ悲しむべし、

 人の神力を失わんに、世を挙げて共にこれを哀しむが如し。

 暑を逃れて涼池に投じ、寒に遭うては以って火に憑(たの)むも、

 一旦悉く廓然たらんに、群生何れの所にか帰せん。

 殊勝の法に通達し、世の陶鋳の師為るに、

 世間宰正を失わば、人は道を喪いて則ち亡ぶ。

 老病死は自ずから在るに、道喪わば非道通ず、

 よく大苦を壊(やぶ)る機、世間に何んが双(ふたつ)と有らんや。

 猛熱の極めて焔の盛んなるも、大雲雨ふらさば消えしむ、

 貪欲の火の熾燃たるは、それ誰かよく滅せしむ。

 堅固にしてよく擔う者は、すでに世の重任を捨つ、

 また何なる智慧の力ぞ、よく不請の友為(た)らん。

     『世尊は、

         世間の庇護者たることを捨てられた。

      衆生(しゅじょう、生き物)は、

         皆、それを悲しんでおる。

         人が神の助力を失えば、それを哀しまない者がないように。

      熱さを逃れて身を投ずる涼しい池、

      寒さに遭ってあたる炉端の火、

      すべてが、悉く無くなってしまった。

      衆生は、

         何を頼りにすればよいのか。

      殊に勝れた法に通達し、

      世間を美しく造りかえる陶鋳の師、

      世間は、

         その正義を司る人を失ってしまった。

      人は、

         道を失えば、亡びるよりほかない。

      老病死は、

         自ずから在るというのに、

         道を失えば、非道が残るのみ。

      老病死の、

         大苦を破る人は、

         世間に二人と有るはずがない。

      猛烈な熱さも、

      盛んに焔をふき上げる極大の火も、

         大きな雲が雨を降らせれば消えてしまう。

      貪欲の火が、

         盛んであるのを、いったい誰に消せよう。

      堅固に世間の重荷を擔いでいた方は、

         その重荷を捨ててしまわれた。

      また、

         いつのことだろう?

         智慧の力を持つ人が、わざわざ友となってくれるのは。

 

  :世蔭(せおん):世を覆って強い日差しから護る蔭。守護者。

  :群生(ぐんしょう):群がる生き物。衆生。

  :神力(じんりき):神の助力。

  :涼池(りょうち):涼しい池。

  :廓然(かくねん):がらんとして何も無いさま。

  :帰(き):たよる。

  :殊勝(しゅしょう):特別勝れる。

  :通達(つうだつ):道に通じて奥義に達する。

  :陶鋳師(とうちゅうし):陶師と鋳師。世間を善に形作る師。

  :宰正(さいしょう):正義を司る長官。

  :非道(ひどう):邪教の道。

  :機(き):本来自己の心性に有って、教法に激発されて活動する心の働き。衆生。人。

  :貪欲(とんよく):色欲等の欲望を貪る。

  :熾燃(しねん):火が盛んなさま。

  :不請(ふしょう)の友:招かざるに来る親切な友。

 如彼臨刑囚  為死而醉酒

 眾生迷惑識  惟為死受生

 利鋸以解材  無常解世間

 癡闇為深水  愛欲為巨浪

 煩惱為浮沫  邪見摩竭魚

 唯有智慧船  能度斯大海

 眾病為樹花  衰老為纖條

 死為樹深根  有業為其芽

 智慧剛利刀  能斷三有樹

『彼の刑に臨める囚の、死の為に酒に酔うが如く、

 衆生は識を迷惑するも、ただ死の為に生を受く、

 利鋸は以って材を解き、無常は世間を解く。

 癡闇を深き水と為し、愛欲を巨浪と為す、

 煩悩を浮沫と為し、邪見は摩竭魚(まかつぎょ)となす、

 ただ智慧の船有りて、よくこの大海を度(わた)るのみ。

 衆病を樹花と為し、衰老を繊條と為す、

 死を樹の深き根と為し、有業をその芽と為す、

 智慧の剛利の刀のみ、よく三有の樹を断つ。

     『牢獄で、

         刑を待つ囚人は、死の恐れを逃れるために酒に酔うという。

      衆生は、

         意識を迷わせても、死ねば必ず生を受ける。

      鋸が、

         材木を切り刻むように、

      無常は、

         世間を解きほぐす。

      愚かさの闇は深い水、愛欲は巨大な浪、

      煩悩はあぶく、邪見は摩竭魚(まかつぎょ、巨船を呑込む貪欲な魚)とすれば、

      ただ、

         智慧の船のみが、この大海を乗り切れる。

      種種の病は樹の花、老いと衰えは細い小枝、

      死は樹の深い根、善悪の行いをその芽とすれば、

      ただ、

         智慧の利刀のみが、その樹に譬えた三界の根を断ち切れる。

 

  :利鋸(りこ):よく切れるのこぎり。

  :浮沫(ふまつ):浮いている泡。うたかた。

  :邪見(じゃけん):邪なるものの見方。邪教の見解。

  :摩竭魚(まかつぎょ):船を飲み込むどん欲な巨魚。

  :繊條(せんじょう):細い小枝。

  :有業(うごう):善悪の行いの有ること。行為。

  :三有(さんぬ):欲界、色界、無色界の三界の異名。生死の世界。

 無明為鑽燧  貪欲為熾焰

 五欲境界薪  滅之以智水

 具足殊勝法  已壞於癡冥

 見安隱正路  究竟諸煩惱

 慈悲化眾生  怨親無異相

 一切智通達  而今悉棄捨

 軟美清淨音  方身纖長臂

 大仙而有邊  何人得無窮

 當覺時遷速  應勤求正法

 如嶮道遇水  時飲速進路

 非常甚暴逆  普壞無貴賤

 正觀存於心  雖眠亦常覺

『無明を鑽燧と為し、貪欲を熾焔と為す、

 五欲の境界を薪となし、これを滅するに智の水を以ってす。

 具足せる殊勝の法は、すでに癡冥を壊(やぶ)り、

 安穏の正路を見て、諸の煩悩を究竟せり。

 慈悲もて衆生を化すこと、怨親に異相無く、

 一切智に通達するも、今悉く棄捨す。

 軟美なる清浄音、方身と繊長なる臂、

 大仙といえども有辺なり、何人か無窮なるを得ん。

 まさに時の遷りの速きを覚るべく、まさに勤めて正法を求むべし、

 嶮道に水に遇い、時に飲まば速かに路を進むが如し。

 非常は甚だ暴逆なるも、普く壊るに貴賤無し、

 正観は心に存りて、眠れると雖もまた常に覚む。』

     『無明(むみょう、生存に対する盲目的欲求)は火打ち石、

      貪欲は熾烈な焔、

      五欲(色声香味触、見るもの聞くもの)を薪であるとすれば、

      この火を消すには、

         智慧の水をかければよい。

      欠けたる所の無い勝れた法は、

         愚かさの闇を破って、

         安らかで穏やかな正道を見いだし、

         諸の煩悩の正体を見破る。

      慈悲の心で、

         怨親の隔てなく衆生を導き教化して、

         一切の智慧に通達していた方も、

         今は、そのすべてを捨ててしまわれた。

      軟らかで浄らかな声も、

      均整のとれた身体も、

      細く長い腕も、

      あの仏でさえ、有限の存在であったのに、

      いったい誰に、無限の生命が得られよう。

      時の遷りは速い、

         勤めはげんで、正しい法を求めよう。

      険しい道で、

         谷川の水に出遇い、

         それを飲んで先に進む勇気を出すように。

      無常とは、

         暴虐なものだ、

         普く壊しつくして、貴賤を択ばない。

      正しく観る力は、

         心の中に在るのだ、

         心が眠っていても、

         それだけは常に目覚めている。』

 

  :無明(むみょう):盲目的な生存の欲求。

  :鑽燧(さんすい):火をつける道具。火打ち石と火打ち金。錐揉みして火を得る道具。

  :熾焔(しえん):盛んに燃える焔。

  :五欲(ごよく)の境界(きょうがい):色声香味触。見る物、聞く者、嗅ぐ物、味わう物、触れる物。

  :具足(ぐそく):満足に具備すること。

  :癡冥(ちみょう):愚かさの暗闇。

  :安穏(あんのん):安らかで穏やか。

  :正路(しょうろ):正しい道。

  :究竟(くきょう):究め尽くす。

  :化(け):悪から善に変化させる。

  :怨親(おんしん):憎い者と親しい者と。

  :異相(いそう):異って見えること。

  :一切智(いっさいち):一切を知る智慧。

  :棄捨(きしゃ):捨て去る。

  :軟美(なんみ):軟らかくて心地よい。

  :清浄音(しょうじょうおん):清らかな声。

  :方身(ほうしん):端正な身体。

  :繊長(せんちょう):細長い。

  :臂(ひじ):うで。

  :大仙(だいせん):大仙人。

  :有辺(うへん):限度が有ること。

  :無窮(むぐう):極まりの無いこと。

  :嶮道(けんどう):険しい道。

  :正観(しょうかん):正しい観察。

 時離車師子  常念佛智慧

 厭離於生死  歎慕人師子

 不存世恩愛  深崇離欲コ

 折伏輕躁意  栖心寂靜處

 勤修行惠施  遠離於憍慢

 樂獨脩閑居  思惟真實法

時に離車師子、常に仏の智慧を念うに、

生死を厭離すれど、人の師子を歎慕するは、

世の恩愛に存らず、深く離欲の徳を崇むればなり。

軽躁の意を折伏し、心を寂静の処に栖(やど)し、

勤めて恵施を修行し、憍慢を遠離し、

楽しんで独り閑居を修め、真実の法を思惟せり。

その時、

   師子離車は、

      常に、仏の智慧を思って、生死を厭い離れていたが、

      人中の師子である仏を讃歎し思慕していた。

   それは、

      世の恩愛(おんない、親しき者の間の愛情)の情からではなく、

      仏の深く欲を離れた徳(とく、善い力)を崇めていたからである。

   そして、

      軽々しく騒がしい心を抑えて、寂静の境地に遊ばせ、

      勤めはげんで施しを行い、高慢を遠ざけ、

      独り静かな処で、真実の法を思い計っていた。

 

  :厭離(えんり):厭うて離れる。

  :歎慕(たんぼ):仰ぎ見て慕う。

  :恩愛(おんない):親しき間の愛情。

  :離欲(りよく):欲望を離れた。

  :折伏(しゃくぶく):屈伏。降伏。

  :軽躁(きょうそう):軽々しく騒がしい。

  :寂静(じゃくじょう):煩悩を離れて諸苦を静める。

  :恵施(えせ):ほどこし。布施。

  :憍慢(きょうまん):高慢。地位や財産を頼んで偉ぶること。

  :遠離(おんり):遠ざける。

  :閑居(げんこ):人と離れて静かに独居すること。

  :思惟(しゆい):思い計ること。深く考えること。

 

 

 

 

蒲加城で比丘たちに法と戒律を違うなと教誡する

 爾時一切智  圓身師子顧

 瞻彼鞞舍離  而說長辭偈

 是吾之最後  遊此鞞舍離

 往力士生地  當入於涅槃

 漸次第遊行  至彼蒲加城

 安住堅固林  教誡諸比丘

 吾今以中夜  當入於涅槃

その時一切智、円身の師子は顧みて、

彼の鞞舎離を瞻(み)て、長辞の偈を説けり。

『これわが最後に、この鞞舎離に遊ぶなり、

 力士の生地に往きて、まさに涅槃に入るべし。』

漸く次第に遊行して、彼の蒲加(ふか)城に至り、

堅固林に安住して、諸の比丘に教誡す。

『われは今中夜を以って、まさに涅槃に入るべし。

その時、

   一切の智慧と、

   円満な肉体をそなえた師子(しし、獅子)は、

      振り返って鞞舎離を眺め、

      長の別れを告げた、――

     『これが最後だ、もう鞞舎離に遊ぶことはないだろう!

      さあ力士の国へ往き、涅槃に入ることにしよう。』

   仏は、

      次第に道を進み、蒲加城(ふかじょう)につくと、

      その安らかな林の中で、比丘たちに教え諭した、――

     『わたしは、

        この真夜中ごろ、涅槃に入ろう。

 

  :円身(えんしん):貧弱な処がどこにもない円満な身体。

  :師子(しし):獅子。仏を百獣の王ライオンに譬える。

  :長辞(ちょうじ):とこしえのいとまごい。

  :偈(げ):韻文。うた。

  :力士(りきし):鳩夷(くい)城の人種名。

  :力士生地(りきししょうち):力士国。摩羅(まら)国、末羅(まつら)国。

  :蒲加城(ふかじょう):力士国の城。

  :堅固林(けんごりん):堅固なる城塞の林。仏の住処としての美称。一説に娑羅樹の林という。

  :安住(あんじゅう):安らかに住まう。

  :教誡(きょうかい):教え誡める。

  :中夜(ちゅうや):真夜中ごろ。

  注:娑羅(しゃら)樹:梵語saala(サーラ、訳語高遠)をsaara(サーラ、訳語堅固)と訳し間違う。

 汝等當依法  是則尊勝處

 不入脩多羅  亦不慎律儀

 真實義相違  則不應攝受

 非法亦非律  又非我所說

 是則為闇說  汝等應速捨

 執受於明說  是則非顛倒

 是則我所說  如法如律教

 如我法律受  是則為可信

 言我法律非  是則不可信

『汝等まさに法に依るべし、これ則ち尊(そん)の勝処なり。

 修多羅(しゅたら)に入らず、また律儀を慎まず、

 真実の義に相違するは、則ちまさに摂受すべからず。

 法に非ずして律にも非ず、またわが所説にも非ず、

 これは則ち闇説と為し、汝等まさに速かに捨つべし。

 明説を執受する、これは則ち顛倒に非ず、

 これは則ちわが所説なり。法の如き律の如き教を、

 わが法と律の如く受く、これは則ち信ずべしと為す。

 わが法と律とを非と言う、これは則ち信ずべからず。

     『お前たちは、

         法のみを、依り所にしなければならない!

         法こそが、聖者(しょうじゃ、仏や阿羅漢)の勝れた住処なのだから。

      もし、

         経を習おうともせず、

         戒律で身を慎もうともしない者、

      即ち、

         真実の義に違背する者は、

      決して、

         僧(そう、教団)に受け入れてはならない!

      法に反する説、

      戒律に反する説、

      わたしの所説に反する説、

      これは、

         暗愚の説であり、速かに捨てなければならない!

         明るい智慧による説を、しっかりと受け取れ!

      そうすれば、

         顛倒(てんどう、正邪、善悪が逆であること)に陥らずにすむ。

      これが、

         わたしの説く所である。

      わたしの、

         『法と戒律とは、そのままに受け取れ!』、これは信じなくてはならない。

         『法と戒律とは、間違っている!』と言われたら、それを信じてはならない。

 

  :尊(そん):尊者。聖者。阿羅漢。仏。

  :勝処(しょうじょ):勝れた住処。

  :修多羅(しゅたら):経本。原義は花を貫いた物。

  :律儀(りつぎ):戒律。比丘の生活規範。

  :摂受(しょうじゅ):受け入れる。比丘として僧に受け入れること。

  :闇説(あんせつ):暗愚の説。

  :明説(みょうせつ):明慧の説。

  :執受(しゅうじゅ):しっかりと受け入れる。

  :顛倒(てんどう):逆しまの見解。

 不解微細義  謬隨於文字

 是則為愚夫  非法而妄說

 不別其真偽  無見而闇受

 猶鋀金共肆  誑惑於世間

 愚夫習淺智  不解真實義

 受於相似法  而作真法受

 是故當審諦  觀察真法律

 猶如鍊金師  燒打而取真

『微細の義を解せずして、謬(あやま)って文字に随う、

 これは則ち愚夫と為す。法に非ざるに妄(みだ)りに説き、

 その真偽を別たず、無見にて闇受するは、

 なお鋀(つ)と金と共に肆(なら)べ、世間を誑惑するがごとし。

 愚夫は浅智を習いて、真実の義を解せず、

 相似の法を受けて、真法を受くと作す。

 この故にまさに審諦し、真の法と律とを観察すべし。

 なお練金師の、焼き打ちて真を取るが如し。

     『微妙な意味を理解せずに、ただ無闇に文字に随う者、

      それは、

         愚か者である。

         法でないものを、法であるとして説き、

         真偽を究めることなく、無定見に受け入れる者とは、

         真鍮と、金とをいっしょに並べて、世間をだますような者である。

      愚か者は、

         浅い智慧を習うのみで、真実の意味を理解せず、

         似たような法を受けて、真実の法を受けたと思いこむ。

      この故に、

         しっかりと見極めて、真の法と戒律とを観察しなければならない、

         精錬師が、地金を焼いて打って、その上で純金を取り出すように。

 

  :微細(みさい):微妙。

  :無見(むけん):無見識。

  :闇受(あんじゅ):暗がりで受ける。むやみに信じること。

  :鋀(つ):黄銅。

  :誑惑(おうわく):たぶらかして惑わせる。

  :浅智(せんち):浅い世俗の智慧。

  :相似(そうじ):似て非なること。

  :真法(しんぽう):真実の法。

  :審諦(しんたい):審らかに明らかにする。すみずみまで明らかにする。

  :練金師(れんこんし):金の精錬師。

 不知諸經論  是則非黠慧

 不應說所應  應作不應見

 當作平等受  句義如說行

『諸の経論を知らずんば、これ則ち黠慧(げつえ)に非ず。

 『応ぜずんば応ずる所を説き、まさに作すべくまさに見るべからず。

  まさに平等の受を作すべし。』の、句義は説の如く行え!

     『多くの経論を知らなければ、それは智慧ではない。

      経に、

         『話しかけても応じないようであれば、応じるように説け!

          行動せよ!ただ見ていてはならない!

          苦も楽も無い!同じものだと感じよ!』とあるが、

      これは、

         この言葉どおりに行え!

 

  :黠慧(げつえ):智慧。

  :平等(びょうどう)の受(じゅ):苦楽の感受に対して平等であること。

  :句義(くぎ):一句一句の義理を釈すること。ことば。

 執劍無方便  則反傷其手

 辭句不巧便  其義難了知

 如夜行求室  宅曠莫知處

 失義則忘法  忘法心馳亂

 是故智慧士  不違真實義

『剣を執るに方便無くんば、則ち反ってその手を傷つき、

 辞句巧便ならずんば、その義を了知し難し。

 夜に行きて室を求むるに、宅曠(ひろ)くんば処を知らざるが如く、

 義を失わば則ち法を忘れ、法を忘るれば心馳乱す。

 この故に智慧の士は、真実の義に違わざるなり。』

     『剣を執っても、

         使い方を知らなければ、反って自らの手を傷つける。

      法を説いても、

         その言葉が巧みでもなく滑らかでもなければ、

         その意味を受け取り難い。

      夜、宿についても 、

         宅地が無闇に広ければ、何処に往けばよいのか分からないように、

      本義を見失ってしまえば、

         法はその意味を失い、法が失われてしまえば、

         心は、走り回って乱れる。

      この故に、

         智慧ある者は、真実の本義を見失わないのだ。』

 

  :辞句(じく):ことば。美辞麗句のごとし。

  :巧便(ぎょうべん):巧みでよどみないこと。

  :了知(りょうち):明らかに知る。

  :馳乱(ちらん):走りまわって乱れる。

 

 

 

 

涅槃の床に臥し、諸の力士衆に法を説く

 說斯教誡已  至於波婆城

 彼諸力士眾  設種種供養

 時有長者子  其名曰純陀

 請佛至其舍  供設最後飯

 飯食說法畢  行詣鳩夷城

 度於蕨蕨河  及熙連二河

 彼有堅固林  安隱閑靜處

 入金河洗浴  身若真金山

 告敕阿難陀  於彼雙樹間

 掃灑令清淨  安置於繩床

 吾今中夜時  當入於涅槃

この教誡を説きおわりて、波婆(はば)城に至り、

彼の諸の力士衆、種種の供養を設く。

時に長者子有り、その名を純陀(じゅんだ)と曰う、

仏にその舎(いえ)に至るを請い、最後の飯(ぼん)を供設す。

食を飯(く)うて法を説きおわり、行きて鳩夷(くい)城に詣(いた)り、

蕨蕨(けつけつ)河、及び煕連(きれん)の二河を度(わた)る。

彼(かしこ)に堅固林有り、安穏なる閑静処なり、

金河(こんが)に入りて洗浴せるに、身は真金山の如し。

阿難陀(あなんだ)に告勅すらく、『彼の双樹の間を、

 掃灑して清浄ならしめ、縄床を安置せよ、

 われ今の中夜の時に、まさに涅槃に入るべし。』

仏は、

   比丘たちに教誡しおわり旅をつづけて、次の波婆城(はばじょう)につく。

   諸の力士(りきし、波婆城を含むこの国の種族)たちは、種種に供養を設けた。

その力士たちの中に、

   長者の子で名を、純陀(じゅんだ)というものがいた。

   仏に、自らの家にて食事の供養をしたいと請う。

仏は、

   請いを受け、飯を食いおわって法を説いた。

   更に旅をつづけて、次の鳩夷城(くいじょう)をめざす。

   蕨蕨河(けつけつが)、煕連河(きれんが)の二河を渡り、

   煕連河の辺の娑羅樹(さらじゅ)の林に入った。

   人里を離れて静かな、安らかで穏やかな処である。

   煕連河に入って、真金山(しんこんせん、純金の山)の身を洗い、

   阿難陀(あなんだ、侍者)にこう命じた、――

  『この林の二本の娑羅樹の間を、

      水を打って掃き清め、

      縄床(じょうしょう、木枠付きのハンモック)を安置せよ!

   わたしは、

      この真夜中頃に、涅槃に入ることになろう。』

 

  :波婆(はば):力士国の城。

  :純陀(じゅんだ):鳩夷城の工巧師の子。

  :飯(ぼん)、食(じき):共に食うこと、または食い物をさす。

  :鳩夷(くい):力士国の首都の名。拘尸那竭羅(くしながら)。

  :蕨蕨(けつけつ):河の名。

  :煕連(きれん):河の名。尼連禅河(にれんぜんが)。

  :閑静処(げんじょうしょ):人里を離れた静かな所。

  :金河(こんが):煕連の漢訳。

  :洗浴(せんよく):足と身体を洗う。

  :真金山(しんこんせん):純金の山。仏身に譬える、仏身は光を放つが故に。

  :阿難陀(あなんだ):仏の侍者。十大弟子中の多聞第一。

  :双樹(そうじゅ):二本ならんだ樹。

  :掃灑(そうしゃ):掃き清めて水を打つこと。掃き掃除と水掃除。

  :縄床(じょうしょう):木枠に縄を張り、折畳んで携行する寝台。

  注:縄床:或いは木枠付きと木枠無しの二種があったのか。双樹というは、その間にハンモックのように吊す為ではないか?

 阿難聞佛教  氣塞而心悲

 行泣而奉教  布置訖還白

 如來就繩床  北首右脅臥

 枕手累雙足  猶如師子王

 畢苦後邊身  一臥永不起

 弟子眾圍遶  哀歎世眼滅

 風止林流靜  鳥獸寂無聲

 樹木汁淚流  華葉非時零

 未離欲人天  悉皆大惶怖

 如人遊曠澤  道險未至村

 但恐行不至  心懼形匆匆

阿難は仏の教を聞いて、気塞がりて心悲しみ、

行き泣きながら教を奉じ、布置しおわりて還って白(もう)す。

如来は縄床に就いて、首を北にし脇を右にむけて臥せ、

手を枕にして双足を累(かさ)ぬること、なお師子王の如し。

苦を畢(おわ)れる後辺の身は、一たび伏して永く起たず、

弟子の衆(おお)くが囲遶して、世眼の滅するを哀歎す。

風止んで林流静まり、鳥獣も寂として声無く、

樹木には汁涙流れ、華葉は時に非ざるに零(こぼ)る。

未だ欲を離れざる人天は、悉く皆大いに惶怖し、

人曠沢に遊べるに、道険しくして未だ村に至らず、

ただ行けども至らざるを恐れて、心は懼れ形は匆匆たるが如し。

阿難は、

   仏に言われたことを聞き、息がつまって目には涙があふれた。

   泣きながら行き、教えらるがままに縄床などを安置して、

   すべてがすんだと報告した。

仏は、

   縄床に就いて、頭を北に右脇を下にして臥せ

   右手を枕にして、右足の上に左足を重ねた、

   ちょうど師子の王が、横たわるように。

苦しみを終えた、

   最後の肉体はここに臥し、もう起きあがることはない。

弟子たちは、

   仏を取り囲み、

   仏が眼をつぶって、もう開かないことを哀しみ歎いた。

林の中で、

   風が止み、流れも静まる、

   鳥獣は、ひっそりとして声をたてない。

   樹木は、樹液の涙を流し、

   花も葉も、その季節でもないのに、零れ落ちる。

欲を離れられない人や天は、

   皆、大いに怖れおののいた。

まるで、

   人が、曠野の湿地を気ままに旅している時、

   道がだんだん険しくなるのに、次の村に行きつけない。

   行けども行けども行きつけなかったら何うしようと怖れ、

   心はおどおどとびくつき、身はくたくたになってしまったかのように。

 

  :布置(ふち):分布安置。配置。

  :如来(にょらい):仏の異名。

  :後辺(ごへん):最後。もう輪廻しないことを指す。

  :囲遶(いにょう):取り囲む。

  :世眼(せげん):仏の異名。仏は世人の眼となりて正道を示し導く。仏の眼。

  :林流(りんる):林の中の流れ。

  :寂(じゃく):ひっそりと静まりかえること。

  :汁涙(じゅうるい):樹液の涙。

  :華葉(けよう):花と葉。

  :惶怖(おうふ):恐れおののくこと。

  :曠沢(こうたく):広大な荒れた湿地。

  :匆匆(そうそう):あわてる。せかせかする。

 如來畢竟臥  而告阿難陀

 往告諸力士  我涅槃時至

 彼若不見我  永恨生大苦

 阿難受佛教  悲泣而隨路

 告彼諸力士  世尊已畢竟

 諸力士聞之  極生大恐怖

 士女奔馳出  號泣至佛所

 弊衣而散髮  蒙塵身流汗

 號慟詣彼林  猶如天福盡

 垂淚禮佛足  憂悲身萎熟

如来畢竟じて臥し、阿難陀に告ぐらく、

『往きて諸の力士に告げよ、『わが涅槃の時は至れり』と。

 彼もしわれを見ずんば、永く恨んで大苦を生ぜん。』

阿難は仏の教を受けて、悲しみ泣きて路に随い、

彼の諸の力士に告ぐらく、『世尊、すでに畢竟したもう。』

諸の力士これを聞いて、極めて大恐怖を生じ、

士女奔馳して出で、号泣して仏の所に至る。

弊衣にて髪を散らし、塵を蒙って身に汗を流し、

号慟して彼の林に詣り、なお天の福の尽きたるが如く、

涙を垂して仏の足に礼し、憂悲に身を萎熟せり。

仏は、

   涅槃の床に臥せ、阿難陀に告げた、――

  『往って、力士たちに告げよ、

      『わたしには、涅槃の時が来た。』と。

   彼等が、

      もし、わたしを見なければ、

      永く、恨んで大きな苦しみが生じようから。』

阿難は、

   仏に言われるがままに、悲しみ泣きながら、

   路をたどって、力士たちに告げた、――

  『世尊が、最後を迎えられます。』

力士たちは、

   これを聞いて、極めて大きな恐怖を生じた。

   男も女も、走り出し馬を駆って、泣きながら仏の所に急ぐ、

   衣が破れていても構わず、髪が乱れていても気にしない、

   塵をかぶり身から汗を流して、泣きながら彼の林に向かった。

   まるで、天に見放されたかのように、涙を垂して仏の足に礼し、

   憂えて悲しんで身はくたくたになり、力が抜けてしまった。

 

  :臥(が):ねま。寝室。

  :畢竟(ひっきょう):ついに‥‥。物の至極最終。限り有るものが終ること。

  :恐怖(くふ):おそれ。

  :士女(しにょ):男女。

  :奔馳(ほんち):あわてて速く走ること。

  :弊衣(へいえ):ぼろぼろの着物。

  :号慟(ごうどう):大声を挙げ身もだえして泣く。

  :萎熟(いじゅく):しおれて形がくずれること。委頓(いとん、力が抜けること)。

 如來安慰說  汝等勿憂悴

 今應隨喜時  不宜生憂慼

 長劫之所規  我今始獲得

 已度根境界  無盡清涼處

 離地水火風  寂靜不生滅

 永除於憂患  云何為我憂

 我昔伽闍山  欲捨於此身

 以本因緣故  存世至於今

 守斯危脆身  如毒蛇同居

 今入於大寂  眾苦緣已畢

 不復更受身  未來苦長息

 汝等不復應  為我生恐怖

如来安慰して説かく、『汝等憂悴すること勿かれ。

 今はまさに随喜すべき時なり、宜しく憂慼を生ずべからず。

 長劫に規せる所は、われ今始めて獲得し、

 すでに根(こん)と境界とを度せり。尽くる無き清涼処は、

 地水火風を離れ、寂静にして生滅せず。

 永く憂患を除きしに、云何がわが為に憂うる。

 われ昔伽闍山(がじゃせん)にて、この身を捨てんと欲し、

 本の因縁を以っての故に、世に存りて今に至る。

 この危脆の身を守るは、毒蛇と同居するが如し、

 今大寂に入らんには、衆苦の縁もすでに畢(おわ)れり、

 また更に身を受けずんば、未来の苦も長く息(や)みなん。

 汝等またまさに、わが為に恐怖を生ずべからず。』

仏は、安心させるように慰めて説いた、――

  『あなた方は、憂えて悩むことはない!

      今は、まさに喜びの時なのだ。

   憂えて悲しんではならない!

      長いこと探し求めていた物を、

      わたしはやっと今手にしたのだ。

   すでに、

      五根(眼耳鼻舌身)と五境(色声香味触)の大海を渡り、

      尽きることの無い清らかで涼しい所に到達した、

      地水火風からなる肉体を離れて、

      生滅の無い寂静の世界に達したのだ。

      もう憂うことも患うことも無いというのに、

      なぜ、わたしの為に憂えているのだ?

   わたしは、

      昔、伽闍山(がじゃせん)にて、危うくこの身を失うところであったが、

      前世の因縁があって、世に長らえて今に至った。

   この肉体は、

      はかなくも脆く、それを守ることは、

      毒蛇と同居するようなものである。

   今、

      涅槃に入るということは、

         多くの苦をもたらす縁が、すっかり無くなるということであり、

         もうふたたび、身を受けることはなく、

         未来にも、苦を受けることが無い。

   あなた方は、

      わたしのことで恐れてはならない!

      恐れることは何もないのだ。』

 

  :憂悴(うすい):憂悲と憔悴。憂えなやむ。

  :随喜(ずいき):見聞に随って喜ぶこと。

  :憂慼(うしゃく):憂えて悲しむこと。

  :長劫(ちょうごう):劫は宇宙の消滅の一周期。非常に永い間。

  :規(き)す:計画すること。

  :獲得(ぎゃくとく):手に入れる。

  :根(こん)と境界(きょうがい):眼耳鼻舌身と色声香味触。

  :清涼処(しょうりょうじょ):清く涼しい所。

  :地水火風(ちすいかふう):物質を形作る四要素。肉体。

  :寂静(じゃくじょう):煩悩を断って苦を離れること。

  :生滅(しょうめつ):生まれることと死ぬこと。俗世間。

  :憂患(うげん):憂いと災難。

  :伽闍山(かじゃせん):王舎城近辺の山。伽耶山(がやせん)、象頭山(ぞうづせん)。

  :危脆(きぜい):はかなくもろい。

  :大寂(だいじゃく):寂滅。涅槃。

  :衆苦(しゅく):多くの苦しみ。

  注:伽闍山:仏を害して僧団の二分を企図した提婆達多(だいばだった)はこの僧団に属していた。

 力士聞佛說  入於大寂靜

 心亂而目冥  如睹大K闇

 合掌白佛言  佛離生死苦

 永之寂滅樂  我等實欣慶

 猶如被燒舍  親從盛火出

 諸天猶歡喜  何況於世人

 如來既滅後  群生無所睹

 永違於救護  是故生憂悲

力士は仏の、『大寂静に入る』と説くを聞き、

心乱れて目冥(くら)み、大いなる黒闇を睹(み)るが如し。

合掌して仏に白して言さく、『仏生死の苦を離れて、

 永く寂滅の楽に之(ゆ)きたもうこと、われ等実に欣慶せん。

 なお焼を被(こうむ)る舎に、親しきものの盛火より出づるが如し、

 諸天すらなお歓喜せんに、何をか況や世人に於いておや。

 如来すでに滅したまえる後の、群生は睹る所無く、

 永く救護に違わん。この故に憂悲を生ずるなり。

力士たちは、

   仏が、『涅槃に入る』と説くのを聞いて、

   心が乱れて、目の前が暗くなった、

   見ようとしても、暗がりを見るばかりで何も見えない。

   合掌して、仏にこう申した、――

  『仏が、

      生死の苦を離れて、

      永い涅槃の楽に入られることは、誠にめでたく、

   われ等は、

      喜びにたえない。

   まるで、

      家を焼かれた親戚が、

      盛んな火の中から出てきたようだ。

   それは、

      諸の天でさえ、歓喜するであろうに、

      われわれの如き、人間が喜ばずにいられようか?

   しかし、

      仏が、涅槃に入られての後は、

      衆生たちは、皆目を亡って何も見えない。

      将来、救い護ってくれる者に行き会っても、

      行き違うばかりで、きっと分からないだろう。

   それを思って、

      このように憂えて悲しんでいるのだ。

 

  :黒闇(こくあん):暗闇。

  :欣慶(ごんぎょう):めでたさを喜ぶ。

  :焼(しょう):火事。

  :盛火(じょうか):盛んな火。

  :救護(くご):救って護る者。

 譬如商人眾  遠涉於曠野

 唯有一導師  忽然中道亡

 大眾無所怙  云何不憂悲

 現世自證知  睹一切知見

 而不獲勝利  舉世所應笑

 譬如經寶山  愚癡守貧苦

 如是諸力士  向佛而悲訴

 猶如人一子  悲訴於慈父

『譬えば商人の衆、遠く曠野を渉るに、

 ただ一導師有りて、忽然として中道に亡(うしな)わば、

 大衆は怙(たの)む所無きに、云何が憂悲せざらん。

 現世に自ら証知し、一切を睹て知見するに、

 しかも勝利を獲(え)ずんば、世を挙げてまさに笑うべき所なり。

 譬えば、宝の山を経(ふ)るも、愚癡のものの貧苦を守るが如し。』

かくの如く諸の力士は、仏に向かいて悲しみ訴う、

なお人の一子の、悲しんで慈父に訴うるが如し。

  『譬えば、

      商人たちが、隊商を組んで遠く荒れ野を渉る時、

      たった一人の、道案内人を、とつぜん道の途中で亡えば、

      大勢の者たちには、誰も頼れる者がない。

   何うして、

      これを憂え悲しまずにいられようか?

   仏は、

      現世の事は、自ら証明されたように、一切を見て知っていながら、

      勝利を目前に、去ろうとしている。

   それは、

      世を挙げての、笑いものではなかろうか?

   譬えば、

      宝の山を通っても、愚かな者は貧の苦しみを抜け出せないように。』

このように、

   力士たちは、

      仏に向かって悲しみを訴えた。

   まるで、

      一人っ子が、悲しんで慈父に訴えるように。

 

  :導師(どうし):道案内。

  :中道(ちゅうどう):道のなかば。

  :忽然(こつねん):突然。

  :証知(しょうち):自ら一切を知ることを知る。

  :知見(ちけん):見て知る。

  :愚癡(ぐち):愚かな者。

 佛以善誘辭  顯示第一義

 告諸力士眾  誠如汝所言

 求道須精勤  非但見我得

 如我所說行  得離眾苦網

 行道存於心  不必由見我

 猶如疾病人  依方服良藥

 眾病自然除  不待見醫師

仏は善き誘辞を以って、第一義を顕示し、

諸の力士の衆に告ぐらく、『誠に汝が言う所の如し。

 求道は須く精勤すべく、ただわが得(とく)を見るのみに非ざれ!

 わが所説の如く行じて、衆苦の網を離るるを得よ!

 行道は心に存し、必ずしもわれを見るに由らず、

 なおし疾病人の、方に依りて良薬を服すれば、

 衆病は自然に除こりて、医師を見るを待たざるが如し。

仏は、

   善き導きのことばでもって、

   力士たちに究竟の真理を示そうと、教を説いた、――

  『誠に、

      あなた方の言うとおりである。

   しかし、

      道を求めるということは、

         ひたすら精進することにあり、

         わたしの得たものを、ただ見ていてはならない。

   わたしの、

      説いたように行い、

      多くの苦しみの網を逃れ出よ!

   道を求めて行うとは、

      あなた方の、心の中にあるものであり、

      必ずしも、わたしを見ることではない。

   ちょうど、

      病人であっても、処方に従って良薬を服すれば、

      病は自然に抜けてゆき、医師を探す必要はないように。

 

  :誘辞(ゆじ):導きのことば。

  :顕示(けんじ):はっきりと示す。

  :第一義(だいいちぎ):究竟の真理。

  :求道(ぐどう):道を求めること。

  :精勤(しょすごん):勤めはげむこと。

  :得(とく):所得。得たもの。

 不如我說行  空見我無益

 雖與我相遠  行法為近我

 同止不隨法  當知去我遠

 攝心莫放逸  精勤修正業

 人生於世間  長夜眾苦迫

 擾動不自安  猶若風中燈

 時諸力士眾  聞佛慈悲教

 內感而收淚  強自抑止歸

『わが説の如く行ぜずんば、空しくわれを見んも無益なり、

 われと相い遠しといえども、法を行ずればわれに近しと為す。

 同じく止まらんにも法に随わずんば、

 まさに知るべし『われを去ること遠し』と。

 心を摂して放逸せざれ!精勤して正業を修めよ!

 人世間に生まるれば、長夜に衆苦迫り、

 擾動せば自ら安んぜざること、なお風中の灯の如し。』

時に諸の力士の衆、仏の慈悲の教を聞いて、

内に感ずるも涙を収め、強いて自らを抑止して帰れり。

  『わたしの、

      説くように行わなければ、

      いくら、わたしを見ても無益である。

   わたしと、

      あなた方とは、遠く離れていても、

      あなた方が、法のとおりに行えば、

      あなた方は、わたしの近くにいるのである。

   わたしが、

      あなた方の、側に止まったとしても、

      あなた方が、法に随わなければ、

   そのとおり、

      あなた方は、わたしから遠く離れているのだ。

   心を収めて、解き放ってはならない!

   怠らず精進して、正しい行いをせよ!

   人は、

      世間に生まれたならば、長い夜を多くの苦しみに迫られ、

      心は揺れ動いて休むひまも無い。風の中の灯のように。』

その時、

   力士たちは、

      仏の慈悲の教を聞いて、内に感ずるものを抑えた。

      強いて涙を収め、心を抑止して還った。

 

  :放逸(ほういつ):したい放題にすること。

  :正業(しょうごう):正しい行い。

  :長夜(ちょうや):長く暗い夜。世間に譬える。

  :擾動(にょうどう):心が乱れ騒ぐこと。

 

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