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(合宮憂悲品第八)
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車匿と白馬と城に還り、城中は皆悲泣する
合宮憂悲品第八 |
合宮憂悲(ごうぐううひ)品第八 |
王宮の中の憂いと悲しみ。 |
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車匿牽馬還 望絕心悲塞 隨路號泣行 不能自開割 先與太子俱 一宿之徑路 今捨太子還 生奪天蔭故 徘徊心顧戀 八日乃至城 |
車匿(しゃのく)馬を牽いて還るに、望絶えて心は悲しみに塞がり、 路に随うて号泣して行き、自ら開割(かいかつ)すること能わず、 先には太子と倶にせし、一宿の経路(きょうろ)も、 今太子を捨てて還るは、生きながら天蔭(てんおん)を奪われしが故、 徘徊しては心顧恋(これん)し、八日して乃ち城に至れり。 |
車匿は、 路々泣きながら馬を牽いて還る。 望は絶えて悲しみに心は塞がり、 自らの力では心が開けない。 先には、一夜太子と倶に歩いた同じ路を、 今は、太子を捨てて還らなくてはならない。 天は、自分を見捨てたのだろうか? 後ろ髪を引かれながらさまよって、 八日してようやく城に帰りついた。
注:開割(かいかつ):心が開ける。 注:天蔭(てんおん):天の庇護。 注:徘徊(はいかい):さまよう。 注:顧恋(これん):後ろ髪を引かれる。 |
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良馬素體駿 奮迅有威相 躑躅顧瞻仰 不睹太子形 流淚四體垂 憔悴失光澤 旋轉慟悲鳴 日夜忘水草 遺失救世主 還歸迦毘羅 |
良馬は素より体駿(しゅん、大)にして、奮迅し威相有れど、 躑躅(じゃくちょく)し顧みて瞻仰すれど、太子の形を睹(み)ず、 涙を流して四体を垂れ、憔悴して光沢を失い、 旋転して慟(なげ)き悲しんで鳴き、日夜に水も草も忘れ、 救世の主を遺失して、迦毘羅に還帰(げんき)せり。 |
白馬は、 素より体は大きく、奮迅すれば立派に見えるが、 ゆきなやんで、何度も振り返った。 遥かに仰ぎ見るが、太子は影も形も見えない。 涙を流して四肢には力が入らず、 憔悴して光沢さえも失ってしまった。 ぐるぐると同じところを迴りながら、 悲しげに鳴き声をあげ、 日夜に水も草も忘れている。 お前は、 世を救う主を、何処かに置き忘れたままで、 ようやく迦毘羅に帰りついたのか?
注:躑躅(ぢゃくちょく):ゆきなやむ。 注:瞻仰(せんごう):仰ぎ見る。 |
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國土悉廓然 如入空聚落 如日隱須彌 舉世悉曛冥 泉池不澄清 華果不榮茂 巷路諸士女 憂慼失歡容 |
国土は尽く廓然として、空しき聚落(じゅらく)に入るが如く、 日の須弥に隠れしが如く、世を挙げて悉く曛冥(くんみょう)たり、 泉池は澄清(ちょうしょう)ならずして、華果は栄茂(ようも)せず、 巷路の諸の士女も、憂慼(うしゃく)して歓びの容(かたち)を失えり。 |
国土は、 虚しくも広々として、 無人の集落に入ったようだ。 日が須弥山(しゅみせん)の裏側に隠れたように、 世を挙げて薄暗く、 清く澄んでいた池も泉も、 今は濁り、 盛んに茂っていた花も果実も、 今は見る影もない。 巷では、 諸の男女が憂いに沈み、 歓びの姿を失っている。
注:廓然(かくねん):空しく広い。 注:曛冥(くんみょう):日暮れの暗さ。 注:憂慼(うしゃく):憂いに沈む。 |
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車匿與白馬 悵怏行不前 問事不能答 遲遲若尸行 眾見車匿還 不見釋王子 舉聲大號泣 如棄羅摩還 |
車匿と白馬と、悵怏(ちょうおう)として行けども前(すす)まず、 事を問われて答うる能わず、遅遅として尸(しかばね)の行くが若し、 衆は車匿の還るを見れど、釈王子を見ず、 声を挙げて大いに号泣し、羅摩(らま)を捨てて還るが如し。 |
車匿と白馬とは、 恨みに心がつかえ、 歩いても前に進まない、 何うしたのかと訊ねられても、 何も答えず、 のろのろと、 屍のように歩く。 人々は、 車匿が還るのを見たが、 釈王子は見あたらない。 神話の中で、 羅摩(らま)王子が捨てられた時のように、 大声を挙げて泣きさけんだ。
注:悵怏(ちょうおう):恨み悲しんで心がつかえる。 注:羅摩(らま):神話上の王子、森に追放された。『分舎利品第二十八』の注参照 |
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有人來路傍 傾身問車匿 王子世所愛 舉國人之命 汝輒盜將去 今為何所在 車匿抑悲心 而答眾人言 我眷戀追逐 不捨於王子 王子捐棄我 并捨俗威儀 剃頭被法服 遂入苦行林 |
ある人路傍に来たり、身を傾けて車匿に問えわく、 『王子は世に愛せられ、国を挙げての人の命なるを、 汝はたやすく盗み将いて去れり、今は何所(いづく)に在りとせん。』 車匿悲心を抑えて、衆人に答えて言わく、 『われ眷恋(けんれん)として追逐(ついちく)し、王子を捨てず、 王子われを捐棄(えんき)して、あわせて俗の威儀を捨てたまい、 頭を剃りて法服を被(き)、ついに苦行林に入りたまえり。』と。 |
ある人が、 路傍から身を傾けて車匿に問う、―― 『王子は、 世に愛せられて、 国中の人の命であった。 お前は、 そんなことも思わず、 盗んで連れ去ったのか? 王子は、 いったい、 今は、何処にいらっしゃるのだ?』 車匿は、 悲しみを抑えながら、 人々にこう答えた、―― 『わたしは、 未練がましく、 王子の後を追い、 決して見捨てなかった。 王子が、 わたしを見捨てたのだ。 そして、 俗人の衣裳を捨て、 頭を剃り、法服を被て、 苦行林に入ってしまわれた。』
注:眷恋(けんれん):恋いこがれる。 注:追逐(ついちく):後を追う。 注:捐棄(えんき):捨て去る。 注:威儀(いぎ):身分を示す飾りと振る舞い。 注:法服(ほうふく):出家の着る粗末な服。 |
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眾人聞出家 驚起奇特想 嗚咽而啼泣 涕淚交流下 各各相告語 我等作何計 眾人咸議言 悉當追隨去 如人命根壞 身死形神離 王子是我命 失命我豈生 此邑成丘林 彼林城郭邑 此城失威コ 如殺毘梨多 |
衆人出家と聞き、驚いて奇特(きどく)の想を起し、 嗚咽して啼泣(たいきゅう)し、涕涙(たいる)交(こもご)も流れ下り、 各各相い告げて語らく、『われ等何(いか)なる計を作さん。』 衆人ことごとく議して言わく、『悉くまさに追随して去るべし。 人の命根(みょうこん)の壊するが如きは、身は死して形と神と離る。 王子はこれわが命なり、命を失わばわれあに生きんや。 この邑(みやこ)は丘林(くりん)と成りて、かの林は郭邑と成らん、 この城の威徳を失うこと、毘梨多(びりた)を殺せしが如し。』 |
人々は、 思いもしないことを聞いて驚いた。 むせび泣きする者も、 大声を挙げて泣く者も、 涙と鼻汁とをごっちゃに流して、 各各たがいに言いあった、―― 『わたしたちは、 今後、どう暮せばよいのだろう?』 人々は、皆相談して言った、―― 『皆で後を追ってここを去ろう。 人が、 命が終って身が死ねば、 体と魂は離ればなれになるように、 王子は、 わたしの命であり、 命を失っては生きていられない。 この都は、丘や林に変ってしまった、 あの林が、都と同じに見える。 この城は、 威厳も徳も失い、 神話の中で、 毘梨多(びりた、悪魔)が殺されたように成ってしまった。
注:嗚咽(おえつ):むせび泣く。 注:啼泣(たいきゅう):声を挙げ涙を流して泣く。 注:涕涙(たいる):涙と鼻水。 注:命根(みょうこん):生命の根本、いのち。 注:城は成に改める。 注:郭邑(かくゆう):城市。 注:毘梨多(びりた):神話上の悪魔、帝釈天に卑怯な手段で殺された。 |
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城內諸士女 虛傳王子還 奔馳出路上 唯見馬空歸 莫知其存亡 悲泣種種聲 車匿步牽馬 歔欷垂淚還 失太子憂悲 加摯|懼心 如戰士破敵 執怨送王前 |
城内の諸の士女は、虚しく王子還れりと伝えて、 奔り馳せて路上に出づれど、ただ馬のみが空しく帰るを見る。 その存亡を知るもの莫けれど、悲泣する種種の声あり、 車匿は歩みて馬を牽き、歔欷(こけ)して涙を垂らして還る。 太子を失える憂悲は、怖懼(ふく)を心に加増(くわ)え、 戦士の敵を破りて、怨(あだ)を執りて王の前に送るが如し。 |
城内では、 諸の男女が、 王子が還ったと聞き、 路上に走って出てきたが、 ただ馬のみが空しく帰ったのを見て、 王子の存亡を知るわけもないのに、 悲しんで泣き出した。 車匿が、 馬を牽いて歩きながら、 むせび泣き、 涙を垂らして還ってきた。 太子を失い、 憂いて悲しみながらも、 心に驚怖がめばえてくる。 敵に敗れた戦士が捕虜となり、 王の前に引き出されるように。
注:歔欷(こけ):むせび泣く。 注:怖懼(ふく):おそれる。 |
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入門淚雨下 滿目無所見 仰天大啼哭 白馬亦悲鳴 宮中雜鳥獸 內廄諸群馬 聞白馬悲鳴 長鳴而應之 謂呼太子還 不見而絕聲 |
門に入れば涙は雨のごとく下りて、目を満たし見る所も無く、 天を仰いで大いに啼哭(たいこく)すれば、白馬もまた悲しみて鳴く。 宮中の雑なる鳥獣も、内なる厩の諸の群馬も、 白馬の悲しみて鳴くを聞き、長く鳴いてこれに応じ、 呼びて太子還るかと謂(おも)えど、見ざれば声を絶やせり。 |
門を入るとき、 車匿の 目には涙があふれて何も見えない。 天を仰いで大声に泣けば、 白馬もまた悲しんでいななく。 宮中では、 さまざまな鳥獣たちが、 宮内の厩では、 諸の群なす馬たちが、 皆、 白馬の悲しんで鳴く声を聞き、 長く鳴いてこれに応える。 呼べば太子が還るとでも思ったのだろうか? いくら呼んでも太子の姿は見えない、 やがて声も聞こえなくなった。
注:啼哭(たいこく):声を挙げて泣く。 |
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後宮諸婇女 聞馬鳥獸鳴 亂髮面萎黃 形瘦脣口乾 弊衣不浣濯 垢穢不浴身 悉捨莊嚴具 毀悴不鮮明 舉體無光耀 猶如細小星 衣裳壞[糸*監]縷 狀如被賊形 見車匿白馬 涕泣絕望歸 感結而號咷 猶如新喪親 狂亂而搔擾 如牛失其道 |
後宮の諸の婇女(さいにょ)も、馬と鳥獣の鳴くを聞けり。 髪を乱し面を萎黄(いおう)して、形は痩せ唇と口は乾き、 弊衣して浣濯(かんじゃく)せず、垢穢(くえ)すれど身を浴せず、 悉く荘厳の具を捨てて、毀悴(きすい)して鮮明ならず、 体を挙ぐれど光耀無きこと、なお細小なる星の如く、 衣裳は壊して襤褸(らんる)となり、状(かたち)は賊の形を被るが如し。 車匿と白馬の、涕泣し望を絶ちて帰れるを見ては、 感結びて号咷すること、なお新たに親を喪(うしな)えるが如く、 狂乱し搔擾すること、牛のその道を失えるが如し。 |
後宮では、 諸の女官たちが、 馬や鳥や獣たちが鳴くのを聞いていた。 皆、 髪は乱れ、 顔はやつれて黄色くなっている。 体は痩せおとろえ、 唇はかさかさに乾き、 衣が汚れても洗濯せず、 垢じみても湯浴みもしない。 身につけた装身具は、 見捨てられて、つやを失い、 身体中の宝石は耀きを失って、 極めて小さな星ほどの光さえ無い。 衣裳は破れてぼろくずに変り、 盗賊の着物を身につけたようだ。 車匿と白馬とが 涙を流し、 望を絶やして帰ってきたのを見ると、 感極まって心に結び、 大声で叫びだした、 まるで、 両親が今死んだかのように。 狂い乱れて騒ぎたてる、 まるで、 牛が迷子になったかのように。
注:婇女(さいにょ):女官。 注:萎黄(いおう):しなびて黄色くなる。 注:弊衣(へいい):破れた衣。 注:浣濯(かんじゃく):洗濯。 注:垢穢(くえ):垢で汚れる。 注:毀悴(きすい):壊れてつやが無くなる。 注:襤褸(らんる):ぼろ。 注:号咷(ごうちょう):泣き叫ぶ。 注:搔擾(そうじょう):騒擾、騒がしくする。 |
大愛瞿曇弥、太子の還らざるを聞き悲しみ悶える
大愛瞿曇彌 聞太子不還 竦身自投地 四體悉傷壞 猶如狂風摧 金色芭蕉樹 又聞子出家 長歎摧゚感 |
大愛瞿曇弥(だいあいくどんみ)、太子の還らざるを聞き、 身を竦(すく)めて自ら地に投じ、四体悉く傷壊(しょうえ)して、 なお狂風(ごうふう)の金色の芭蕉樹を摧(くじ)くが如し、 また子の出家を聞き、長く歎いて悲感を増せり。 |
大愛瞿曇弥(だいあいくどんみ、太子の継母)も、 太子が還らないのを聞いた。 身がすくんで地に倒れ臥し、 四肢が傷ついた、 まるで、 狂った大風に、 金色の芭蕉の樹が摧かれるように。 また、 子の出家を聞いて、 声を長く出して歎き、 増々悲しみを感じる。
注:大愛瞿曇弥(だいあいくどんみ):太子の姨母にして継母。 |
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右旋細軟髮 一孔一髮生 K淨鮮光澤 平住而灑地 何意合天冠 剃著草土中 傭臂師子步 脩廣牛王目 身光黃金炎 方臆梵音聲 持是上妙相 入於苦行林 世間何薄福 失斯聖地主 |
『右旋せる細軟の髪は、一孔(く)に一髪生じ、 黒浄鮮やかに光沢あり、平らかに住まりて地に灑(そそ)ぐ。 何なる意ぞ天冠を合し、剃りて草土の中に著(お)ける。 傭臂(ようひ、膺臂)は師子の歩むがごとく、 脩広(しゅうこう、長広)なる牛王の目ありて、 身光は黄金の炎のごとく、方臆(ほうおく、胸)には梵音の声あり、 この上妙の相を持(たも)ちて、苦行林に入る。 世間は何に福薄うして、この聖地主を失える。 |
『右に渦巻く、 細くて軟らかい髪は、 一つの孔に一本の髪が生え、 黒く浄らかな光沢があり、 平らかに乱れることもなく、 地に灑(そそ)いでいた。 何を思って、 冠をぬぎすて、 その髪を剃って、 草の生えた土に捨てたのか? 胸と両肩の筋肉は、 師子が歩むように隆々とし、 長く広い、 牛のように大きな目、 身から出る光は、 黄金の炎のように耀き、 四角く大きな胸には、 浄らかな声が響いていた、 このような、 素晴らしい体で、 苦行林に入るとは。 世間は、 何と福の薄いことか、 このような、 聖なる王を失うとは。
注:天冠を合す:天冠を閉ざす、畳むこと。 注:傭臂(ようひ):両肩と胸の筋肉。 注:方臆(ほうおく):四角い胸部。 注:梵音(ぼんのん):浄らかな声。 |
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妙網柔軟足 清淨蓮花色 土石刺棘林 云何而可蹈 生長於深宮 溫衣細軟服 沐浴以香湯 末香以塗身 今則置風露 寒暑安可堪 |
妙網ある柔軟の足には、清浄なる蓮花の色あり、 土石(どしゃく)刺棘(しきょく)の林を、云何が蹈むべき。 深宮(じんぐう)に生長して、温衣(おんえ)細軟の服、 沐浴するには香湯を以ってし、身に塗るには末香を以ってす、 今則ち風露に置かば、寒暑は安(いづ)くんぞ堪うべき。 |
精妙な網目のある、 柔軟な足は、浄らかな蓮花の色をしていたのに、 あの足で、 土石や刺の林を、 どうして蹈めるのだろうか? 宮の奥深くに生長して、 温かく滑らかで軟らかい衣服を着、 香のよい湯で沐浴し、 末香を身に塗っていたものを、 今は、 風露の中で、 どうして暑さ寒さに堪えられるのか?
注:妙網(みょうもう):仏の三十二相の中の足下千輻輪相をいう。 注:沐浴(もくよく):髪を洗い体を澡ぐ。 注:末香(まっこう):粉末の香。 |
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華族大丈夫 標挺勝多聞 コ備名稱高 常施無所求 云何忽一朝 乞食以活身 清淨寶床臥 奏樂以覺惛 豈能山樹間 草土以籍身 |
華族の大丈夫は、標挺(ひょうじょう)たりて勝れて多く聞けり、 徳備わりて名称高く、常に施して求むる所無し、 云何が忽(たちま)ち一朝にして、乞食し以って身を活くる。 清浄なる宝床に臥し、楽を奏して以って惛(ねむり)を覚む、 豈(あに)よく山樹の間に、草土を以って身に籍(し、敷)かんや。』 |
成年の貴族の男たちの中でも、 多くの学問では抜きんでて勝れ、 徳の備わることでも名称が高く、 求められれば常に施していたものが、 どうして、 たちまち一朝の間に、 乞食して身を活かすことができようか? 浄らかな、 宝の床に臥せて眠り、 楽を奏して、 目覚めていたものが、 どうして、 山の樹林の間で、 草と土とを身に敷いて、 眠ることができようか?』
注:標挺(ひょうじょう):勝れて抜きんでる。 |
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念子心悲痛 悶絕而躄地 侍人扶令起 為拭其目淚 其餘諸夫人 憂苦四體垂 內感心慘結 不動如畫人 |
子を念うて心は悲しみ痛み、悶絶して地に躄(たお)るを、 侍人(じにん)扶(たす)けて起さしめ、為にその目の涙を拭う。 その余の諸の夫人は、憂い苦しんで四体垂れ、 内に感じて心に惨(さん)を結び、動かざること画ける人の如し。 |
子を念えばこそ、 心は悲しみに痛む。 悶絶して、 地に倒れるのを、 侍女たちが扶け起し、 その目から涙を拭いとった。 その他の、 諸の夫人たちは、 憂い苦しんで、 四体に力が入らず、 心の内に結ぶ惨めさを感じて、 画の中の人のように動かない。 |
太子妃耶輸陀羅、惶怖して車匿と白馬を責める
時耶輸陀羅 深責車匿言 生亡我所欽 今為在何所 人馬三共行 今唯二來歸 我心極惶怖 戰慄不自安 |
時に耶輸陀羅(やしゅだら)は、深く車匿を責めて言わく、 『生きながらわが欽(あが)む所を亡い、 今は何所(いづく)に在(ましま)すと為(せ)ん。 人馬の三は共に行き、今はただ二にのみ来たりて帰る、 わが心は惶怖(おうふ)を極め、戦慄して自ら安んぜず。 |
その時、 耶輸陀羅(やしゅだら、太子妃)は、深く車匿を責めていた、―― 『生きながら、 夫とあがめる人を失い、 今は、 何処にいらっしゃるかも分からない! 人馬倶に、 行ったのは三でも、 今、 帰ったのは、ただの二とは! わたしは、 心が恐れおののいて、 身が震えて止まらない。
注:惶怖(おうふ):恐れおののく。 |
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終是不正人 不昵非善友 不吉縱強暴 應笑用啼為 將去而啼還 反覆不相應 愛念自在伴 隨欲恣心作 故使聖王子 一去不復歸 汝今應大喜 作惡已果成 |
終(つい)にこれ不正の人なり、不昵(ふじつ)なり善友に非ず、 不吉なり強暴を縦(ほしいまま)にす、 まさに笑うに啼(な)くを用(も)って為(なす)べし。 将(ひき)いて去り啼きて還る、反覆(はんぷく、反転)相応せず、 愛念は自ずから伴(とも)に在るを、 欲するが随(まま)に心の恣(まま)に作し、 故(ことさら)に聖王子をして一たび去りてまた帰らざらしむ、 汝は今まさに大いに喜ぶべし、悪を作しすでに果の成ずればなり。 |
とうとう、 お前は、 不正の人になったのか? あんなに親しくしていたのに! 善い友だと思っていたのに! お前のようなものを喜べるものか! こんな暴力を働くなんて! わたしが泣くのを見て、よく笑うがいい! 連れ去りながら、泣いて還るなんて! 手のひらを返したようにしたって、 誰が欺されるものか! 愛すればこそ、側にいさせていたものを! 自分の思いどおりにして! わざと聖なる王子を去らせて還らせないのか! お前は、 今こそ大いに喜べ! 悪の成果がここに見えぬか!
注:不昵(ふじつ):親しくない。 注:反覆(はんぷく):手のひらを返す。 |
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寧近智慧怨 不習愚癡友 假名為良朋 內實懷怨結 今此勝王家 一旦悉破壞 此諸貴夫人 憂悴毀形好 涕泣氣息絕 雨淚流下 |
寧(むし)ろ智慧の怨(あだ)に近づくも、愚癡の友に習わざれ、 仮の名を良き朋と為せど、内には実に怨(うらみ)を懐きて結ぶ。 今この勝王の家は、一旦にして悉く破壊(はえ)し、 この諸の貴夫人は、憂悴(うすい)して形の好もしきを毀(こぼ)ち、 涕泣して気息を絶やし、涙を雨ふらして横ざまに流れ下る。 |
智慧のある敵に近づくほうが、 愚かな友と親しむより、よほどましだ! 良い友とは名ばかりで、 実は心で恨んでいたのか! 今、 この勝れた王の家は、 一朝にして、悉く壊れさった。 この諸の貴夫人たちは、 憂いに憔悴し、 姿形も醜くなった。 泣きに泣いて息も絶え、 涙の雨も横に流れ下るというのに!
注:憂悴(うすい):憂悲し憔悴する。 |
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夫主尚在世 依止如雪山 安意如大地 憂悲殆至死 況此窗牖中 悲泣長叫者 生亡其所天 是苦何可堪 |
夫主(ふしゅ)なお世に在らば、依止(えし)するに雪山の如く、 意を安んずるに大地の如し、憂い悲しんで殆ど死に至らんとす、 況やこの窓牖(そうゆ、窓)の中に、悲泣して長く叫ぶ者をや、 生きながらその天となす所を亡い、この苦を何んが堪うべし。』 |
夫さえ世に在れば、 雪山(せっせん、ヒマラヤ山)のように頼りになり、 大地のように安心できるものを、 憂い悲しんで、 殆ど死にそうだ。 まして、 この狭い室の中で、 悲しんで泣き、 長く声を挙げて叫んでいる者のことが、 お前には、 解っているのか? 生きながら、 天とも頼む夫を亡ってしまった、 この苦しみに、 どうして堪えられよう。』
注:夫主(ふしゅ):おっと。 注:依止(えし):たよる。 注:窓牖(そうゆ):まど。 |
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告馬汝無義 奪人心所重 猶如闇冥中 怨賊劫珍寶 乘汝戰鬥時 刀刃鋒利箭 一切悉能堪 今有何不忍 一族之殊勝 強奪我心去 |
馬に告ぐらく、『汝は義の無きなり、人の心の重んずる所を奪いて、 なお闇冥の中に、怨賊(おんぞく)に珍宝を劫(うば)われしが如し。 汝に乗りて戦闘せし時にも、刀刃も鋒(ほこ)も利箭(りせん)も、 一切を悉くよく堪えしに、今は何なる忍びざること有りてか、 一族の殊勝、わが心を強いて奪いて去れる。 |
馬にも言った、―― 『お前には、 恩義が無いのか! 人の大切な人を奪うとは! 暗闇で、盗賊に珍しい宝を奪われたようだ! お前に乗って、 戦闘した時には、 槍も刀も弓矢にさえ、 すべてに堪えてきたものを、 今は、 どんな堪え忍べないことがあって、 一族の名誉と、 わたしの心とを奪いさったのか!
注:怨賊(おんぞく):盗賊。 |
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汝是弊惡蟲 造諸不正業 今日大嗚呼 聲滿於王宮 先劫我所念 爾時何以啞 若爾時有聲 舉宮悉應覺 爾時若覺者 不生今苦惱 |
汝はこれ弊悪なる虫なり、諸の不正の業を造れり、 今日大いに嗚呼(おこ)して、声を王宮に満たせるに、 先にわが念う所を劫いし、その時には何を以ってか唖(おし)たる、 もしその時に声有らば、宮を挙げて悉くまさに覚むべし、 その時にもし覚めたらば、今の苦悩も生ぜざるを。』 |
お前は、 毒蛇か! 悪いことばかりして! 今日は、 大声でいななき、 声を王宮の中に轟かせていたではないか! 先に、 わたしの夫を奪いさった時には、 何故、黙っていた! もし、 その時、声を挙げていれば、 宮を挙げて、皆が目を覚ましたものを。 もし、 その時、目が覚めていれば、 今の苦悩も無かったろうに!』
注:嗚呼(おこ):ああと声に出す。いななく。 |
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車匿聞苦言 飲氣而息結 收淚合掌答 願聽我自陳 莫嫌責白馬 亦莫恚於我 我等悉無過 天神之所為 我極畏王法 天神所驅逼 速牽馬與之 俱去疾如飛 厭氣令無聲 足亦不觸地 城門自然開 虛空自然明 斯皆天神力 豈是我所為 |
車匿苦言を聞き、気を飲みて息を結び、 涙を収め合掌して答うらく、 『願わくは、われ自ら陳ぶるを聴(ゆる)したまえ。 白馬を謙責したもう莫かれ。われを恚(いか)ること莫かれ。 われ等には悉く過(とが)無く、天神の為せる所なり。 われは極めて王法を畏るれど、天神に駆逼(くひつ)せられ、 速やかに馬を牽いてこれと、倶に去れば疾きことは飛ぶが如く、 気を厭うて声を無からしめ、足もまた地に触れず、 城門は自然に開きて、虚空は自然に明らむ。 これは皆天神の力なり、豈これわが為す所ならんや。』 |
車匿は、 この苦言を聞いて息を飲み、 涙をおし止めて合掌し、こう答えた、―― 『どうか、 わたしにも言わせてください。 白馬を責めないでください。 わたしを怒らないでください。 わたしたちに、 罪はありません、 天神のせいです。 わたしは、 極めて王の罰を畏れる者ですが、 天神が無理にこれをさせました。 わたくしが、 何の障碍もなく、 速かに馬を牽いてくると、 馬は飛ぶように疾く走りました、 気配を殺して音を立てず、 足も地に触れないかのようです。 城門は自然に開き、 虚空は自然に明らんで、 路を告げました。 これは、 皆天神の力です、 どうして、 わたしにできましょうか?』と。
注:駆逼(くひつ):強いて迫る。 |
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耶輸陀聞說 心生奇特想 天神之所為 非是斯等咎 嫌責心消除 熾然大苦息 [跳-兆+辟]地稱怨歎 雙輸鳥分乖 我今失依怙 同法行生離 樂法捨同行 何處更求法 |
耶輸陀羅説くを聞いて、心に奇特の想を生ずらく、 『天神の為す所ならん、これはこれ等の咎に非ざるなり。』と、 謙責(けんしゃく)の心消除して、熾然(しねん)たる大苦息(や)む。 地に躃(たお)れ怨歎(おんたん)を称(とな)うらく、 『双輪鳥の分れて乖(そむ)けるがごとく、 われは今依怙(えこ)を失う。 何なる法を行じてか生きながら離れ、 法を楽しんで行を同じうするものを捨つるは、 何処(いづこ)に更に法を求めんとてや。 |
耶輸陀羅は、 これを聞いて心に有りえないことが起った、―― 『天神のせいではしかたない。 これは、これ等の咎(とが)ではないのか!』 責める気持ちはいつしか失せ、 身を焦がす苦しみもいつしか息(や)んだ。 ただ地に倒れ臥し、恨みごとを言った、―― 『おしどりが離ればなれになったように、わたしは頼む人を失った。 何のような法を行って、生きながら離れなくてはならず、 何のような法を楽しんで、同じ行いのものを捨てたのだろう? 何処に新しい法を求めに行かれたのだろう?
注:熾然(しねん):火が盛んに燃える。 注:怨歎(おんたん):うらみごと、怨嗟。 注:双輸鳥は双輪鳥に改める。おしどりのこと。 注:依怙(えこ):頼りにする人。 注:同法は何法に改める。 |
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古昔諸先勝 大快見王等 斯皆夫妻俱 學道遊林野 而今捨於我 為求何等法 梵志祠祀典 夫妻必同行 同行法為因 終則同受報 汝何獨法慳 棄我而隻遊 |
古昔の諸先勝たる、大快見王(だいけけんおう)等は、 これ皆夫妻倶なりて、道を学び林野に遊べり、 しかも今われを捨つるは、何等の法を求めんが為なるや。 梵志の祠祀典(ししてん)には、『夫妻は必ず行を同じうすべし。 同じく法を行ぜば因と為りて、終に則ち同じき報を受く』と。 汝は何んが独り法を慳(おし)み、われを捨てて隻(ひと)り遊ぶ。 |
昔の勝れた王である、大快見王(だいけけんおう)たちは、 皆、夫婦そろって、道を学び林野に遊ばれた。 それなのに今わたしを捨てるとは、何のような法を求めてのことだろう? 婆羅門の経典には、 『夫婦は必ず同じ行いをせよ。 同じ法を行えば、それが因となって、 やがて同じ処に生れることができる。』とある。 あなたは、 なぜ法を独りじめにし、 私を捨てて独りで遊ばれるのですか?
注:大快見王(だいけけんおう):往古の転輪聖王、大善見王ともいう。 注:祠祀典(ししてん):婆羅門の経典。吠陀(べいだ)という。 |
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或見我嫉惡 更求無嫉者 或當嫌薄我 更求淨天女 為何勝コ色 修習於苦行 以我薄命故 夫妻生別離 羅[目*侯]羅何故 不蒙於膝下 |
或はわれに嫉悪(しつお、嫉妬)を見て、更に無嫉の者を求むるや、 或はまさにわれを嫌(いと)い薄うすべく、更に浄天女を求むるや。 何なる勝徳色を為さんとて、苦行を修習(しゅうじゅう)するや。 わが薄命なるを以っての故に、夫妻生きながら別離すとも、 羅睺羅(らごら)は何の故にか、膝下に蒙らざる。 |
或はわたしが嫉妬するから、嫉妬しない者を求めるられるのですか? 或はわたしが嫌いになりうとんじて、浄らかな天女を求められるのですか? 何のような得意顔を為さりたくて、苦行を修習(しゅうじゅう)なさるのですか? わたくしは運が悪く、夫婦が別れなくてはならないとしても、 羅睺羅(らごら、仏の実子)は、 なぜ膝下に遊ぶ幸せを蒙れないのですか?
注:嫉悪(しつお):嫉妬。 注:勝徳色(しょうとくしき):得意顔。 注:修習(しゅうじゅう):修行し練習する。 注:羅睺羅(らごら):仏の実子。 |
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嗚呼不吉士 貌柔而心剛 勝族盛光榮 怨憎猶宗仰 又子生未孩 而能永棄捨 我亦無心腸 夫棄遊山林 不能自泯沒 此則木石人 言已心迷亂 或哭或狂言 或瞪視沈思 哽咽不自勝 惙惙氣殆盡 臥於塵土中 |
嗚呼(ああ)不吉の士なり、貌(かお)柔らこうして心は剛し、 勝族の盛んなる光栄、怨憎(おんぞう)すれどなお宗と仰ぐ、 また子生れて未だ孩(がい)ならざるを、よく永く棄捨せり。 われもまた心腸無し、夫は棄てて山林に遊べば、 自ら泯没(みんもつ)すること能わずんば、これ則ち木石の人なり。』 言いおわりて心迷い乱れ、或は哭き或は狂うて言い、 或は瞪視(じょうし)して沈思し、哽咽(きょうえつ)して自ら勝(た)えず、 惙惙(てつてつ)として気殆ど尽き、塵土の中に臥せり。 |
ああ、あなたとはいっしょにいたくない、顔はやさしいのに心は冷たいのだから! 勝れた一族の名誉の極み、あなたを憎みながらもなお尊び仰ぐとは! また、子が生まれてあやしてもいないのに、もうお捨てになるとは! わたしはもう何も感じますまい、夫は見捨てて山林に遊んでいるのだから! これで死んでしまわなければ、もう木石の人と同じではないか!』 耶輸陀羅は、 こう言いおわると思いが乱れて、 或は泣きわめき、 或は狂ったようにしゃべり、 或はじっと見つめて思いに沈み、 或はただむせび泣くのみで何もせず、 次々と思い悩んで気力が尽き、 塵土の中に倒れてしまった。
注:光栄(こうよう):ほまれ、名誉。 注:怨憎(おんぞう):恨んで憎む。 注:孩(がい):子をあやす。 注:泯没(みんもつ):滅亡。 注:瞪視(じょうし):見つめる。 注:哽咽(きょうえつ):むせび泣く。 注:惙惙(てつてつ):次々と思い悩む。 |
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諸餘婇女眾 見生悲痛心 猶如盛蓮花 風雹摧令萎 |
諸余の婇女衆の見て悲痛の心を生ずること、 なお盛んなる蓮花の、風雹摧きて萎(しお)れしむるが如し。 |
そこにいた女官たちは、 これを見ると悲しみに心が痛んだ、 盛りの蓮の花が、 風と雹に打たれて萎れるように。 |
王の憂い深く、二臣を遣わして太子を諫めんとす
父王失太子 晝夜心悲戀 齋戒求天神 願令子速還 發願祈請已 出於天祠門 聞諸啼哭聲 驚怖心迷亂 如天大雷震 群象亂奔馳 見車匿白馬 廣問知出家 舉身投於地 如崩帝釋幢 |
父王太子を失うて、昼夜心に悲しみて恋い、 斎戒して天神に求むらく、『願わくは子をして速かに還らしめよ』と。 発願し祈請(きしょう)しおわりて、天祠(てんし)の門を出づるに、 諸の啼哭の声を聞き、驚怖して心迷い乱れ、 天の大雷震に、群象乱れて奔り馳せるが如し。 車匿と白馬を見るに、広く問うて出家を知り、 身を挙げて地に投ずること、帝釈の幢(どう、旗)を崩すが如し。 |
父王は、 太子を失って昼夜悲しみ恋いこがれた。 斎戒(さいかい、身を清める)して、天神にこう願った、―― 『どうか子を速かに還らせてください。』 願をかけて祈りおえ天神の廟を出ると、 大勢の人が声を挙げて泣いているのを聞いた。 驚いて怖れた、何故泣いているのだ? 心は乱れた、天の投げた雷震に象の群が走りまわるように。 車匿と白馬を見ると、これに詳しく出家のいきさつを訊ねた。 とうとう出家してしまったのか! 身はくたくたと地に倒れた、 帝釈の廟に掲げられた幢(どう、旗)が崩れるように。
注:斎戒(さいかい):心の不浄を清めて、身の過非を禁じる。 注:発願(ほつがん):願を立てる。 注:祈請(きしょう):祈り求める。 注:天祠(てんし):天神の廟。 注:幢(どう):竿の先より垂す旗。 |
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諸臣徐扶起 以法勸令安 久而心小醒 而告白馬言 我數乘汝戰 每念汝有功 今者憎惡汝 倍於愛念時 所念功コ子 汝輒運令去 擲著山林中 猶自空來歸 汝速持我往 不爾往將還 不為此二者 我命將不存 更無餘方治 唯待子為藥 |
諸臣徐(おもむろ)に扶け起し、法を以って勧めて安からしむるに、 久しうして心小(やや)醒め、白馬に告げて言わく、 『われ数(しばしば)汝に乗りて戦い、毎(つね)に汝が功有るを念えり、 今汝を憎悪すること、愛念する時に倍す。 功徳を念う所の子を、汝は輒(たやす)く運びて去らしめ、 山林中に擲(なげう)ち著(お)きて、なお自らは空しく来たり帰れり。 汝速かにわれを持して往き、爾(しか)らずんば往きて将い還れ、 この二を為さずんば、わが命もまさに存せざるべし、 更に余の方の治する無く、ただ子を待つのみを薬と為すのみ。 |
大臣たちは、 これを扶け起し、 呪文を唱えさせて安らかにさせた。 やがて、 小しばかり醒めると、白馬にこう告げた、―― 『おれはしばしばお前に乗って戦い、 そのたびごとにお前の功を考えてきた。 しかし今はお前を憎んでおるぞ、 愛するときの倍もだ! 功徳を得ようとする子を、 お前はやすやすと運んで去らせ、 しかも山林中に置去りにし、 お前は独り空の鞍で帰ってきた! 速かにおれをそこに連れて行け、 さもなくば行ってここに連れて来い! どちらもできないとあれば、おれの命はもうもたない、 他の方法では治らない、ただ子を待つことだけが薬なのだ。 |
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如珊闍梵志 為子死殺身 我失行法子 自殺令無身 魔[少/兔]眾生主 亦當為子憂 況復我常人 失子能自安 古昔阿闍王 愛子遊山林 感思而命終 即時得生天 吾今不能死 長夜住憂苦 |
珊闍(さんじゃ)梵志の、子死せるが為に身を殺せしが如く、 われ行法の子を失うては、自ら殺して身を無からしめん。 摩[少/兔](まぬ)衆生の主もまたまさに子の為に憂うべし、 況やまたわれは常の人なり、子を失うてよく自ら安んずるや。 古昔阿闍(あじゃ)王は、愛子の山林に遊びしに、 感じ思うて命終れば、即時に天に生ずることを得たり。 われは今死ぬること能わずして、長夜憂苦に住す。 |
珊闍梵志(さんじゃぼんし、往古の王)が、 子が死んだために、 自らの身を犠牲にしたように、 おれも修行する子を失えば、 自らを殺して身を無くしてしまおう。 摩[少/兔](まぬ、人の祖先)でさえ子を憂いていた、 ましておれは人の子、 子を失いながら、 どうして安んじていられるのか。 昔阿闍(あじゃ、往古の王)は、 子が山林に遊ぶのを悲しんで、 絶命すると天に生ずることを得た。 おれは、 今死ぬこともできず、 長い夜を生きながら苦しまなくてはならない。
注:珊闍梵志(さんじゃぼんし):神話上の王。子を授かるために身を神に捧げた。 注:摩[少/兔](まぬ):神話上の人間の祖先。 注:阿闍王(あじゃおう):神話上の王。前出羅摩王子の父。 |
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合宮念吾子 虛渴如餓鬼 如人渴探水 欲飲而奪之 守渴而命終 必生餓鬼趣 今我至虛渴 得子水復失 及我未命終 速語我子處 勿令我渴死 墮於餓鬼中 我素志力強 難動如大地 失子心躁亂 如昔十車王 |
合宮(ごうぐう)にてわが子を念うに、虚しく渇いて餓鬼の如く、 人渇いて水を探し、飲まんと欲するにこれを奪われしが如し。 渇きを守りて命終らば、必ず餓鬼趣に生ぜん、 今われ虚しく渇くに至り、子の水を得てまた失いぬ。 われ未だ命の終らざるに及びて、速かに我が子の処を語れ、 われをして渇き死なしめ、餓鬼の中に堕とすこと勿れ。 われ素より志の力強く、動じ難きこと大地の如きなるも、 子を失いて心躁乱すること、昔の十車王(じっしゃおう)の如し。』 |
王宮でわが子を思えば、 虚しくのどの渇いた餓鬼のようだ。 のどが渇いて、 水を探し飲もうとして、 これを奪われたようだ。 のどが渇いたまま死ねば、 必ず餓鬼道に堕ちるだろう。 今おれは、 虚しく渇く餓鬼のように、 せっかく得た子をまた失ってしまった。 今にも死にそうな、 おれの為に、速くおれの子の居所を教えよ! おれを、 渇いたまま死なせるな、 餓鬼の中に堕ちてしまうぞ! おれは、 素もと意志が強く、 大地のように動かし難いが、 子を失って心が乱れ騒ぐ、 昔の十車王(じっしゃおう、神話上の王)のように。』
注:合宮(ごうぐう):王宮。 注:十車王(じっしゃおう):神話上の王。上の阿闍王と同じ。 |
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王師多聞士 大臣智聰達 二人勸諫王 不緩亦不切 願自ェ情念 勿以憂自傷 古昔諸勝王 棄國如散花 子今行學道 何足苦憂悲 當憶阿私記 理數自應然 |
王師にて多聞の士なると、大臣にて智の聡達せると、 二人勧めて王を諫むらく、『緩(かん)ならずまた切(せつ)ならざれ、 願わくは自ら情念を寛うして、憂いを以って自ら傷むこと勿れ。 古昔諸の勝王は、国を棄つること花を散らすが如し。 子は今学道を行ず、何んが苦しんで憂悲するに足らん。 まさに阿私(あし、阿私陀仙人)の記を憶(おも)うべし、 理数(りすう、道理と運命)は自ずからまさに然るべし。 |
多聞の宮廷僧と 智慧が聡達した大臣とは、こう諫めた、―― 『のんびりとしてもいられませんが、 あせってもなりません。 どうか、 心をゆったりとお持ちになり、 憂いで自らを傷つけないようになさいませ。 昔の勝れた王たちは、 花を散らすように国を見捨てたものでございます。 太子は、 今、道を学んでいらっしゃいますのに、 何の憂いて苦しみ悲しむことがありましょうや? 阿私陀仙人の予言を、 思い出してごらんなさいませ。 道理として、 こうなる運命なのでございます。
注:王師(おうし):宮廷僧。 |
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天樂轉輪聖 蕭然不累清 豈曰世界王 能移金王心 今當使我等 推求到其所 方便苦諫諍 以表我丹誠 要望降其志 以慰王憂悲 |
天は転輪王の蕭然(しょうねん)として情を累(かさ)ねざるを楽しむ、 豈(あに)曰わんや、世界主のよく金玉の心を移すと。 今まさにわれ等をして、その所に到るを推求(すいぐ)せしむべし、 方便して苦(ねんごろ)に諫諍(げんじょう)し、 以ってわが丹誠(たんじょう)を表して、 要望し、その志を降して、以って王の憂悲を慰めん。』 |
天は、 転輪王(てんりんのう、地上の王)が 静かにされていて、 むやみに情をかさねられないことを楽しまれます。 どうして、 世界主(せかいしゅ、梵天)も、 王の悲しみに心を動かされて むやみに同情されるといえましょうや? 今はぜひ、 わたくし共に、 その行方を探し求めさせてください。 何とかして、 ねんごろにお諫めもうし、 わたくし共のまごころを表してその心を変えさせ、 王の憂いと悲しみとをお慰めいたしましょう。』
注:転輪聖は転輪王に改める。地上の王。 注:蕭然(しょうねん):静かなこと。 注:清は情に改める。 注:世界王は世界主に改める。世界主は梵天のこと。 注:金王心は金玉心に改める。 注:推求(すいぐ):推理して求める。 注:方便(ほうべん):手段を工夫する。 注:諫諍(げんじょう):強く諫める。 注:丹誠(たんじょう):まごころ。 |
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王喜即答言 唯汝等速行 如舍君陀鳥 為子空中旋 我今念太子 便悁心亦然 二人既受命 王與諸眷屬 其心小清涼 氣宣餐飲通 |
王喜びて即ち答えて言わく、『ただ汝等速かに行け、 舎君陀(しゃくんだ)鳥の子の為に空中を旋(めぐ)るが如くせよ。 われ今は太子を念うて、便ち悁(うれ)うるもまた然り。』 二人既に命を受けたれば、王と諸の眷属と、 その心は小(すこ)しく清涼となり、 気宣(とお)りて餐飲(さんおん)通ぜり。 |
王は喜びすぐに答えてこう言われた、―― 『お前たち、すぐに行け。 舎君陀鳥(しゃくんだちょう)が子の為に空中を旋回するように、 わたしは太子を思って心配しているのだ。』と。 二人が、 王の命を受けて行くと、 王と眷属たちの、 心はやや清涼となって息も楽になり、 食事ものどを通るようになった。
注:舎君陀鳥(しゃくんだちょう):鷲の類か。 注:餐飲(さんおん):飲み食いする。 |
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