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< 序に代えて >
印度で前一二世紀頃に発達した大乗仏教は、四五世紀に入ると急速に変貌します。 菩薩の荷うべき六波羅蜜が、理想的ではあるが非現実的であるととらえられて、もっと手軽に仏に成る方法が模索されたのです。 般若波羅蜜という智慧は、遥か遠くに忘れ去られてしまい、大乗はかつての小乗のごとく、またしても空理空論にとらえられてしまいました。 そこでは、もはや六波羅蜜を実践することなど誰も顧みようとは致しません。
小乗の時代から仏教は、婆羅門教の哲学に強く影響を与えてきましたが、今では行き詰まりの打開を急ぐ仏教が、逆に婆羅門教の影響を受けることになりました。 『一切は心が造りだす』と考える唯識派は、もともと婆羅門教のサーンキヤ学派の影響を強く受けていただけに、ここにまたしてもヨーガ学派の影響を受けることになり、瑜伽行唯識派と変質して仏教界を主導するようになります。
この二つの教えが出会えば、当然起こりうることが、そのまま起こりました。 『心を鍛錬すれば、神通力を得ることができ、仏あるいは大力の菩薩に成ることができる』と考えるに至ったのです。
婆羅門教の影響を強く受けた結果は、実践面に於いて、ヨーガの行法を取り入れます。 智慧を磨くことを止め、心を鍛えることが中心になったということです。 次のような事が日課となりました。 (1)心を鍛錬して、超人的な力を得る。 (2)神に帰依して、礼拝し讃歎する。 (3)真言(呪文)によって、神に働きかける。
このようなものが修行法の中心的役割を荷うようになり、大乗から、浄土宗、禅宗、真言宗等の日本の諸宗派が生まれる下地ができました。
印度で五世紀に活躍した瑜伽行唯識派の世親は、 『往生論』の中で、 一礼拝:阿弥陀仏の形像を身にて礼拝する、 二讃歎:阿弥陀仏の名を口にて称える、 三作願:極楽に生まれたいと願う、 四観察:彼の国の荘厳の功徳を観察する、 五廻向:一切衆生を捨てず、皆共に仏と成るようにと願う。と言い、 この五念門にて畢竟、 極楽に往生し阿弥陀仏にまみえると言っています。
また、唐で七世紀に活躍した善導は 『観経疏』の中で、 ひたすら 阿弥陀経、無量寿経、観無量寿経等の浄土の、経典を読誦し、 彼の浄土を観察し、 彼の仏を礼拝し、 彼の仏の名を口で称え、讃歎供養して、 彼の国に往生する。と言っています。
わが国では、 法然が、この二人の教えをほぼそのまま引きついで、浄土宗を立てました。
このような中、浄土諸家は仏教全体を二分して、極楽往生を旨とする教えを往生浄土門、その他の雑多な教えを皆ひっくるめて聖道門といいならわし、また浄土門は船に乗った旅のように安楽であるということから易行道、聖道門は茨の道を気の遠くなる程の時間をかけて行かなくてはならないので難行道と呼んで区別してきたのです。
以上、大乗から浄土教に至る過程を略してたどって見ました。 このように一見、大乗の教理からは遠く離れてしまったかにみえる浄土門ではありますが、しかし完全に離れてしまったかというと、あながちそうとばかりも言えません。
浄土門は、そのまたの名を他力門ともいいます。 『他力である阿弥陀仏の本願に、完全に身をまかせる』という教えであり、 それによって、かろうじて 『往生浄土門は大乗である。』と言えるだけの面目を保っているのです。
ある浄土宗の高僧は、『他力の信仰とは、自らを他力にゆだね、まかせきるということである。 赤子が母親の腕の中で、まったく安心するように、親様である阿弥陀仏の腕の中に一切をゆだね、それでもって安心を得るということである。 そのような安心を得たとき、人はただ他の人の為に働くよりしようがないではないか。 他に何をすることがある。 もし、そうでなければ、他力は大乗であると、どうして言うことができよう。』と言っています。
或はこの言葉は、大乗の本義を取り戻す、鍵であるやも知れません。 では、そのあたりを念頭に掛けて、経文を読んでみましょう。
数ある浄土教関連の経典の中から、特に『仏説無量寿経(康僧鎧 訳)』、『仏説阿弥陀経(鳩摩羅什 訳)』、『仏説観無量寿経(畺良耶舎 訳)』を選び浄土三部経と名づけたのは、法然上人です。 法然上人は、この時代も異なり、目的も異なる三部の経典を、敢て一つの経典の如くにして、浄土宗の所依の経典であるとされました。
三部経の異訳は、大正新脩大蔵経に次のものが摂められています。
今回、この三部の経典を取り上げて現代語訳し解説するにあたり、それとは別に各経典の特色をより際だたせながら三部経を総合的に解説した分を『浄土三部経講義』としてまとめました。 先に本文を読んで経文の内容に精通し、その後にこれをお読みください。
その他、各経典の歴史的事実などは、すべて省略します。 以上
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< 総 目 次 >
<仏説阿弥陀経> 1.序分 1-1.聴聞の大衆 2.正宗分 2-1.極楽の荘厳 2-2.極楽の上善人に会う 2-3.六方の如来、称讃する 3.流通得益分 3-1.願を発して往生する
1.序、菩薩功徳分 1-1.聴聞する声聞と菩薩 2.正宗立願分 2-1.阿難、世尊の悦びの理由を問う 2-2.世尊、喜んで阿難の為に説く 2-3.国王、沙門となり、法蔵と号す 2-4.法蔵、世自在王仏の前に願を立てる
2-5.重ねて偈を説く 2-6.法蔵比丘、国土を荘厳する 3.正宗極楽分 3-1.安楽世界 3-2.無量寿仏の光明と寿命 3-3.無量の声聞と菩薩 3-4.七宝の諸樹 3-5.無量寿仏の道場樹 3-6.諸の浴池 3-7.彼の国土の飲食 3-8.声聞菩薩の形貌と容状とは比類なし 3-9.その他の荘厳
3-10.往生者の三輩 3-11.頌を説いて無量寿仏を称える 3-12.観世音、大勢至の光明を称える 3-13.彼の国の菩薩を称える 4.弥勒受勅分 4-1.三毒、その一、貪りの毒 4-2.三毒、その二、怒りの毒 4-3.三毒、その三、愚癡の毒 4-4.生死を厭うて、安楽国を願え
4-5.五悪五通五焼 4-6.その一悪、殺生 4-7.その二悪、偸盗 4-8.その三悪、邪淫 4-9.その四悪、妄語 4-10.その五悪、飲酒 4-11.仏の勅令 4-12.阿難、無量寿仏とその国土を見る 4-13.弥勒、胎生の因縁を訊ねる 5.菩薩往生分 5-1.他方世界の菩薩、往生する 6.流通得益分 6-1.弥勒に経を付属する 6-2.聞法の衆生、歓喜する
1.序分 1-1.阿闍世太子は父の王を幽閉して、母の韋提希は世尊に救いを求む 1-2.世尊、諸仏の国土を現して、韋提希に選ばしむ 2.正宗分 2-0.極楽に生まれる三福業 2-1.第一観、日想 2-2.第二観、水想 2-3.第三観、地想 2-4.第四観、樹想 2-5.第五観、八功徳水想 2-6.第六観、総観想 2-7.第七観、花座想 2-8.第八観、想像 2-9.第九観、一切色身想 2-10.第十観、観世音菩薩真実色身想 2-11.第十一観、大勢至菩薩真実色身想 2-12.第十二観、普観想 2-13.第十三観、雑想
2-14.第十四観、上輩生想 2-15.第十五観、中輩生想 2-16.第十六観、下輩生想 3.流通得益分 3-1.阿難、経と阿弥陀仏の名を付属される
<浄土三部経講義> 1.阿弥陀経講義 2.無量寿経上巻講義 3.無量寿経下巻講義 4.観無量寿仏経講義
以上
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< あ と が き >
もう一年ほども前のことになりますが、維摩経のめどが付いた所でしたので、次は何をやろうかと迷っていました。 そのことが何気なく声になったのでしょう、ちょうどそこに居合わせた家内に『次は何をやろう。』と問いかけたところ、気のなさそうな声で、『もっと普通のものにすれば?』とつぶやくのが聞こえます。 これで次が決まりました。 普通のものといえば『浄土三部経』、これ以上にふさわしいものがあるだろうかと。
『般若心経入門』にはじまる一連の経文解説の中で、『浄土三部経』は、是非ともなさねばならぬ懸案であるのみならず、ある意味での終着点でもあります。
しかし、取りかかるには少しばかりの準備の必要があり、また躊躇するような理由も残っていました。 それは、道綽の『安楽集』、善導の『観経疏』、源信の『往生要集』、法然の『選択集』などの優れた論疏を、何のように扱えばよいか、そこの処の態度を、はっきりさせる必要があったのです。 なかでも『観経疏』は、論議の進め方に独特の妙があって理解しやすく、文章も解りやすく読みやすいので、まさにかっこうの手本として愛読し、座右を離しません。
これを、解説する上での基底とすれば、どれほど面白かろう。 しかし、これは明らかに世親の願求往生の態度を継ぐものであり、経の主旨と本来の目的を覆い隠すものである。 これを何のように扱えばよいか。 迷いに迷いました。 上に挙げた三部の経典と論疏を、連日のように読みふけり、やがてついに結論するに至ります。 やはり、本来の目的をつらぬこう、いかに優れたものであれ、目的を阻害するものは、一切を排除しよう。 と、これが結論です。
それ以後は順調に進みました。 現在、お読みいただいているとおりに、各段落、各文章の一字一句から、レイアウト、文字の色と大きさ、背景の色に至るまで、すらすらと何の問題もなく一気にできあがりました。 要旨も筋がすっきりと通り、曖昧な所がなく明確です。 やはり、これで善かったのです。
ある経典が作られる時、それ以前の経典はその基礎になりえますが、その後の経典、論疏はその基礎とはなりえません。 要は、般若経から三部経に至る経文のみにたより、その後に著された文献経文を捨て去ればよかったのです。 これで、経本来の面目を取り戻すことができるのです。
現代は、前時代の価値感が急速に失われた時代ですが、しかし仏教の価値も同時に失われたとまでは言えません。 行方を見失った時には、基本となる処まで戻り、方向を見定めることが急務です。 この浄土三部経解説は、このような意義をもって書き上げられました。
時代の変遷とともに、いつしか寺はその機能を失い、念仏もその魅力を失っております。 念仏が臨終のみのものであれば、それもまた当然のことでしょう。 皆、飽きるほどの長寿を楽しみ、死ねばそれまでと思っているのですから、念仏の必要など微塵もありません。
しかし、それは間違っています、平生にこそ念仏は必要なのです。 念仏とは南無阿弥陀仏、南無とは帰命すること、帰命とは自らの身心を他力に委ねること、これが南無阿弥陀仏です。
他力にすべてを委ねて、自らのことを計らない。 自ら他力の手足となり、他力の命に随順する。 他力の願いを自らの願いとする。 勘の鋭い方であれば、もうお分かりでしょう。 これは大乗の菩薩の空三昧、無相三昧、無願三昧、即ち三三昧と同じものなのです。 衆生の為に自らを空しうして働く菩薩の心理状態、これが南無阿弥陀仏なのです。 もし、この根本を見失ってしまえば、他力はただ言葉だけにすぎず、南無阿弥陀仏も、その意義を失ってしまいます。 願わくは、よろしくこの基本に立ち返り、ここに安心を見出だされんことを。 そのように読み取っていただければ、それはわたくしの非常なる幸いであります。
平成二十年一月 つばめ堂主人 著す
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