file8人名、地名、本生因縁

   人名:(固有個人名:天人名、人名、畜生名、仏名、等々)、

   地名:(固有名:印度地名、他方世界名、四大洲名、等々))

本生因縁

 

 

 

釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ):略して釈迦(しゃか)という。釈迦は種族の名、牟尼は尊称で賢人のことである。すなわち釈迦族の賢人という。後に覚りを開いたが故に釈迦牟尼仏という。また尊んで釈尊(しゃくそん)、世尊(せそん)、大聖(だいしょう)とさまざまに呼ばれる。

 (1)誕生:およそ今を去ること二千六百年前に、中印度の小国迦毘羅城(かびらじょう)の淨飯王(じょうぼんおう)の太子として生まれた。母は隣国拘利城(くりじょう)の王女摩耶(まや)である。摩耶の臨月が近いために、当時の習慣に従って拘利城に里帰りする途中、藍毘尼園(らんびにおん)にて休息しようと立寄ったときに園中で生まれた。

 釈迦が兜卒天(とそつてん)より下りて摩耶の胎内に入ると、摩耶は白象が胎内に入るのを夢に見て、自ら懐妊したことを知った。

 四月八日の半月の日のことである。摩耶が藍毘尼園に入り、無憂樹(むうじゅ)の花を取ろうとして右手を差しのべ小枝に手を掛けたとき、釈迦は母の右脇より生まれた。

 このとき、帝釈天と梵天が冷温の二種の水を注いで身を汲゚ると、釈迦はすぐに自らの足で立ち、四方を観察し七歩歩いて、『天上天下、ただ我のみを尊しと為す。三界のすべての苦は、我まさに之を安んずべし。』と師子吼した。その後は普通の赤子と同様になった。

 (2)命名:釈迦は父により悉達多(しつだった、しっだるた)と名づけられた。母摩耶は太子生誕後の七日目にして亡くなり、以後は摩耶の妹波闍波提(はじゃはだい)によって養育された。

 (3)結婚:長ずるにおよび、種々の文武の諸芸を学び、みなこれに通暁した。十七歳のとき隣国拘利城の主善覚王(ぜんかくおう)の王妃耶輸陀羅(やしゅだら)を迎えて妃となした。

 (4)出家の因縁:このように幸せの絶頂にありながらも、耕作時に城外へ出ると、農夫や牛馬が労役に疲れている、鳥が虫を見つけそれをついばんでいる、このようなことに度々出会って世の無常を知り、憂いに沈む日が多くなった。四門出遊(しもんしゅつゆう)として知られる出来事もこのようなときに起こった。城の東の門から出ようとすると老人に出会い、南の門から出ようとすると病人に出会い、西の門から出ようとすると死人に出会い、北の門から出ようとすると沙門(しゃもん)すなわち出家に出会うのである。

 (5)出家:一子羅[目*侯](らごら)を得た後は城の後継者も出来たことでもあるし、出家の志もいよいよ強くなり、二十九歳のとき一夜夜半に秘かに馭者の車匿(しゃのく)に命じて白馬建陟(けんとく)に鞍を置かせ共に出城した。

 (6)苦行林に入る:衣冠を脱ぎ沙門の姿に身を変じて東南の方毘舎離国(びしゃりこく)の跋伽婆(ばがば)を訪ない道を求むるも得られず、更に南方の摩竭陀国(まがだこく)王舎城(おうしゃじょう)付近に住む阿羅羅(あらら)と迦藍(からん)および優陀羅羅摩子(うだららまし)を訪ねるも道を得ず、ついに西南の方におもむき伽耶城(がやじょう)近くの林に入り独りで思考し解決しようとした。

 (7)淨飯王五人を付す:これより先、淨飯王は太子に帰城を促すも果たせず、やむなく護衛をかねて陳如(きょうちんにょ)ら五人を出家せしめて太子に付した。

 (8)苦行を捨てる:太子はこの林の中で五人と共に苦行に励んでいたが、何も得るところなくただ身体が衰弱するのみであった。そこで太子は苦行を捨て、尼連禅河(にれんぜんが)にて沐浴し、村娘の施せる乳糜(にゅうび)、すなわち乳で炊いた粥を食べて体力を回復し菩提樹の下に吉祥草(きちぞうそう)を敷き結跏趺坐(けっかふざ)して瞑想に入った。一方かの五人は太子がもはや苦行しないことを見て、これを見捨てて西方波羅奈城(はらなじょう)の鹿野園(ろくやおん)に去っていった。

 (9)成道(じょうどう):ながい瞑想に入って、ようやく七日目の朝、日の出を迎えると共に廓然として覚りを開いた。二月八日の半月の日のことである。

 その覚りの結果、仏と呼ばれるようになったのであるが、覚りの内容については一口では言いがたく、『覚り』の項を見ていただきたい。かくて釈尊は生老病死の苦を乗り越えた、三十五歳のことである。

 (10)最初の説法:瞑想から覚醒された釈尊は、いま得たところの法は、はたして最初に誰に説くべきかと思惟して、去っていった憍陳如らの五人に説いて早く苦行の不利を知らしめるのが良かろうと鹿野園に赴き、五人に対して説法し道を得させた。これにより初めて法の車輪が転じられたのである。

初転法輪(しょてんぽうりん):梵天勧請(ぼんてんかんじょう)仏が菩提樹の下で覚りを得られたとき、その内容があまりにも困難に満ち、人々はとても理解できまいと思われたが、色界の大梵天の主、尸棄(しき)、通称梵天が仏にどうか法を説いてくださいと勧請(かんじょう)する。これは仏が世に出るとき常に起こることである。

 五人は初め釈尊を遠望して近くに来ても声を掛けることをせず、話し掛けられても返事をすることは止めようと示し合わせていたにも拘らず、近くに来た釈尊の威厳に打たれて自然と恭敬(くぎょう)の姿勢を取っていた。この五人は最初の弟子として五比丘(ごびく)の名で知られる。

 このときの説法は四聖諦(ししょうたい)と八正道(はっしょうどう)および愛欲と苦行の二つの極端を離れ中道(ちゅうどう)を行くことを教えたものである。

 (11)教化の始まり:次いで釈尊は、その地の長者耶舎(やしゃ)らを教化し、尼連禅河付近の優楼頻螺聚落(うるびらじゅらく)の事火外道(じかげどう)優楼頻螺迦葉(うるびらかしょう)、那提迦葉(なだいかしょう)、伽耶迦葉(がやかしょう)の三迦葉兄弟とその弟子一千人を度(ど)し、王舎城に於いては摩竭陀国王頻婆娑羅(びんばしゃら)に説法して帰依せしめた。

 このとき迦蘭陀長者(からんだちょうじゃ)は竹林園を仏に献じ、王はその園中に精舎(しょうじゃ)を建てて仏を請じた。これが迦蘭陀竹林精舎(からんだちくりんしょうじゃ)である。

 (12)舍利弗と目ノ連を弟子とする:次いで仏は王舎城近くに住せる珊闍耶外道(さんじゃやげどう)の舍利弗(しゃりほつ)と目ノ連(もっけんれん)、ならびにその弟子二百五十人を教化した。

 (13)父王に説法する:次いで淨飯王の請を受けて迦毘羅城に赴き、父王と妃、仏の養母波闍(はじゃ)の実子である異母弟難陀(なんだ)、またその他にも仏の実子羅[目*侯](らごら)、阿[少/兔]樓駄(あぬるだ)、阿難(あなん)、提婆達多(だいばだった)、および賎民である理髪師の憂婆離(うばり)等が出家して教団は優に一千人を超えるまでになった。

 (14)須達多長者の寄進を受ける:次いで王舎城において舍衛城(しゃえいじょう)の長者須達多(すだった)のために説法したところ長者は之に感じ、王舎城の太子祇多(ぎた)所有の園林を譲り受けて、そこに大精舎を建てた。祇多は最初難色を示して、もし園林中に黄金を敷き詰めたならば売ってやろうと言ったという話が残っているが、まさに家の庫を傾けるようなことであったらしい。いわゆる祇樹給孤独園(ぎじゅぎっこどくおん)がこれである。

 (15)比丘尼教団の成立:仏は須達多の請を受けて、舍衛城に遊行し波斯匿王(はしのくおう)を教化し、また毘舎離国(びしゃりこく)の国王の請を受けてその地を遊行教化し、後に迦毘羅城と拘利城の間に起きた水諍いを調停するために再び迦毘羅城に還り、ここで父王の崩御に遭遇してその葬儀に会した。このとき継母波闍波提と妃耶輸陀羅も多くの侍女と共に出家して仏の弟子となり、比丘尼教団をなすに至った。

 (16)教団の分裂:仏の晩年に、提婆達多は仏に代わって自ら教団を統率したいと思い申し出た。仏に拒絶されると教団の戒律を厳しくするように迫った。しかしそれも受けいれられないとなると、五百の比丘を率いて教団を分裂せしめ、自らの教団を得たものの、間もなく舍利弗および目ノ連の尽力により五百の比丘のほとんどが本に復して、ついに提婆達多の野望は灰燼に帰したのである。

 (17)最後の安居:以後中印度の諸国を成道以後の四十五年の間、遊行教化して八十歳のとき毘舎離城近くの竹林において阿難と共に最後の安居(あんご)を過ごした。この国は飢饉で乞食(こつじき)に不便であるとして他の比丘は仏の教えを受けて他国に遊行したが、仏は身体に病を受けて痛苦に耐えていたからである。

 (18)仏の遺教(ゆいきょう):仏の身体がますます衰弱するに及んで阿難は迷い恐れていた。仏の滅後どのようにして暮らせばよいか分からないからである。そのような阿難にたいし仏は自らの滅後の比丘たちへの遺言として次のように述べた。すなわち、

 『私が生きている間であろうと、死んでからであろうと、お前たちは、自らを拠り所として、他人を拠り所としてはならない。自らの法を拠り所として、他の法を拠り所としてはならない。

 では、どのようにすれば良いか、良く身体と心を一心に観察して、智慧をみがき、修行に精進をして、世間的な執著心を除かなくてはならない。これを自らを拠り所とし、法を拠り所として、他のものを拠り所としないというのだ。今日からは、私の制定した戒律を私の代わりに師とし、それに従って、行いにも、言葉にも気を付けて修行せよ。』と。これが後の比丘に対する仏の最後の教えである。(智2)

  参考:四依四不依(しえしふえ):また『大智度論巻9』、『維摩経巻下供養品』、『大般涅槃経巻6四依品』には、四依四不依を挙げる。これを『大智度論巻9』には次のように説く。

  (1)依法不依人:まさに法に依って、人に依るべからず。法に依るとは、法に十二部あり、まさにこの法に随うべく、まさに人に随うべからず。

  (2)依義不依語:まさに義に依って、語に依るべからず。義に依るとは、義の中には好悪、罪福、虚実を諍うこと無きが故なり。語は以って義を得るも、義は語に非ざるなり。人、指を以って月を指し、以って惑える者に示すが如し。惑える者は指を視て、月を視ず。人、これに語りて言わく、『我は指を以って月を指し、汝に、これを知らしむ。汝は、何(いか)んが指を看て、月を視ざるや。』と。これもまた、かくの如し、語は義の為の指にして、語は義には非ざるなり。ここを以っての故に、まさに語に依るべからず。

  (3)依智不依識:まさに智(智慧)に依って、識(知識)に依るべからず。智に依るとは、智は、よく籌量(ちゅうりょう、推量)して善悪を分別し、識は、常に楽を求めて正要(しょうよう、正義の要)に入らず。これが故に、まさに識に依るべからずと言うなり。

  (4)依了義経不依未了義経:まさに了義経に依って、未了義経に依るべからず。了義経に依るとは、一切智を有する人にては、仏が第一なり。一切の諸の経書の中には、仏法が第一なり。一切の衆生の中には、比丘僧が第一なり。布施は大富を得、持戒は天に生ずることを得。かくの如き等は、これ了義経なり。法師を説くが如きは、説法には五種の利あり。一は大富、二は人に愛せらる、三は端正、四は名声、五は後に涅槃を得。これを未了義と為す。云何が未了なる。施は大富を得、これを了了にして解すべしと為す。説法には財施無けれども富を得と言う。富を得とは、説法の人、種々に施を讃じて、人の慳心を破り、また自らも慳を除く。この因縁を以って、富を得るなり。この故に未了と言う。

 (19)沙羅双樹下に臥す:仏は最後に一目故郷の迦毘羅婆の地を見たいと思い、阿難と共に最後の旅に出たが途中冶工純陀(じゅんだ)の献ずる栴檀樹耳(せんだんじゅじ)を食してからは下血激しく目的を果たせぬままに、拘尸那竭羅城(くしながらじょう)外の末羅族(まつらぞく)所有の林の中の二本の沙羅樹(さらじゅ)の間に涅槃の床を阿難に敷かせた。

 そして右臂を枕に、右脇を下に、真っ直ぐ延ばした右脚の上に左脚を重ね、頭を北に顔面を西に向けて、横向きに臥した。

 (20)最後の弟子:時に城内の梵志(ぼんし)須跋陀羅(すばだら)が来て疑義を問い、仏は為に説法して最後の弟子となした。さらに比丘等に他に疑いを持つものはいないかと訊ねたが、比丘たちの間には言葉を出そうとするものはなかった。仏はこの比丘等はすでに覚りを開いたものとして安心して涅槃に入ったのである。

 (21)入滅:このようにして仏は八十年の生涯を閉じた。初転法輪から四十五年のことである。この時、人天を初めあらゆる生き物が慟哭して、沙羅の林も白色に変じ白鶴の舞うが如きであった。

 時は陰暦の二月十五日満月の夜のことである。丁度花が満開になる季節、昼のように明るい満月に照らされ、花が白鶴の舞うがごときという形容はまさにその通りであった。この満月は釈迦が生涯をかけた一大事業が既に円満に成し遂げられたことを表す。

 (22)分骨:かくて仏の遺骸は末羅族(まつらぞく)の手により拘尸那竭羅城の北天冠寺(てんかんじ)に運ばれて七日の間供養され、その間に摩訶迦葉(まかかしょう)等も参集し、遂に火葬にされた。その遺骨は香姓婆羅門(こうしょうばらもん)によって、拘尸那竭羅(くしながら)、波婆(はば)、遮羅(しゃら)、羅摩伽(らまが)、毘留提(びるだい)、迦毘羅婆(かびらば)、毘舎離(びしゃり)、摩竭陀(まがだ)の八国に分配され、また香姓婆羅門は空の舎利瓶(しゃりびん)を、畢鉢(ひっぱ)村民は残りの灰を得て、各皆塔を建ててこれを供養した。

 

釈迦の五種姓釈迦族は姓を瞿曇(くどん)と言い、昔、二茎の甘蔗を日に炙ると男女の二人が生まれたということから日種、甘蔗種と言われていた。古来仏には瞿曇(くどん)、甘蔗(かんしょ)、日種(にちしゅ)、釈迦(しゃか)、舎夷(しゃい)の五種の姓があると言われてる。瞿曇はまた喬答摩(ごうたま)ともいう。 『仏本行集経5』によれば、甘蔗王(かんしょおう)のすぐ前の王を大茅草王(だいぼうそうおう)という。 その王は、王位を捨てて出家し、五通を得て、王仙と呼ばれた。 王仙は衰老して歩くことができなくなったので、弟子たちはこれを草籠に入れて木に懸け、乞食に出てしまった。 ある猟師がこれを白鳥と思い、これを射て殺した。 その血の滴った処に二本の甘蔗が生じ、日に炙られて割れ裂け、一本からは童子が生まれ、もう一本からは童女が生まれた。 大臣はこれを聞いて迎え取り、宮中で養育した。 日光に甘蔗が炙られて生じたが故に善生(ぜんしょう)といい、甘蔗より生じたので甘蔗生(かんしょしょう)といい、また日に炙られたので日種といった。 女を善賢(ぜんけん)という。 ついに善生を立てて王と為し、善賢をその妃とした。 善賢は四子を生んだ。 王は後に第二妃を入れ、一子を生んだ。 第二妃は王に勧めて四子を国外に放逐した。 四子は雪山の南に国を建て、姓を釈迦とし、また舎夷と号した。 即ちこれが迦毘羅城(かびらじょう)である。 三子の没後、一子が王と為り、尼拘羅(にくら)といった。 次ぎを拘廬(くろ)といい、次を瞿拘廬(くくろ)といい、次を師子頬(ししきょう)といい、次を閲頭檀(えつづだん)という。 即ち悉達太子(しったたいし)の父王である。

 

釈迦の近親者次のように系図を示す。

日種王師子頬(ししきょう)

   第一子:淨飯(じょうぼん)

        第一子:悉達多(しつだった)後の仏。

        第二子:難陀(なんだ)仏弟子=孫陀羅難陀(そんだらなんだ)。

   第二子:白飯(びゃくぼん)

        第一子:跋提(ばっだい)仏弟子。

        第二子:提沙(だいしゃ)

   第三子:斛飯(こくぼん)

        第一子:提婆達多(だいばだった)仏弟子>破僧。

        第二子:阿難(あなん)仏弟子>多聞第一。

   第四子:甘露飯(かんろぼん)

        第一子:摩訶男(まかなん)仏弟子。

        第二子:阿泥盧豆(あにるだ)仏弟子。

   女:甘露味(かんろみ)

        第一子:施婆羅(せばら)(智3)

 

八相成道(はっそうじょうどう):釈迦が兜卒天より降り入胎して以来、涅槃に至るまでを八の場面に分けて説明する。

  (1)降兜卒(ごうとそつ):先に兜卒天に住して説法していたが、彼の天の四千歳の時、時機の熟せるを見て、遂に白象に乗り地上に降る。

  (2)入胎(にゅうたい):白象に乗りて摩耶夫人の左脇より入胎する。

  (3)住胎(じゅうたい):母胎に在りて行住坐臥し、一日六時に天人の為に説法する。

  (4)出胎(しゅったい):四月八日に藍毘尼園(らんびにおん)に於いて、摩耶の右脇より出生する。

  (5)出家(しゅっけ):十九歳(或いは二十五歳)にして世の無常を観じ、王宮を出でて山に入り道を学ぶ。

  (6)成道(じょうどう):六年の苦行を経て、菩提樹の下で仏と成り、道を得る。

  (7)転法輪(てんぽうりん):成道以後の五十年間、法を説いて普く人天を度す。

  (8)入滅(にゅうめつ):八十歳にして、沙羅双樹の下に涅槃に入る。(大乗起信論)

注:第三の住胎を除いて、第五降魔(ごうま)を入れることもある。この場合は降兜卒天、入胎(託胎)、出胎(出生)、出家、降魔、成道、転法輪、入滅(入涅槃)となる。

 

 

摩訶波闍波提(まかはじゃはだい):訳して大愛道(だいあいどう)、瞿曇(くどん)姓の女の意から瞿曇弥(くどんみ)、喬答弥(ごうたみ)、摩訶憍曇弥(まかきょうどんみ)、憍曇弥(きょうどんみ)、とも呼ばれる。釈尊の姨母(いぼ、母の妹)であり、養母でもある。後には釈尊に帰依して妃耶輸陀羅(やしゅだら)と共に比丘尼教団を開くに至った。

 

耶輸陀羅(やしゅだら):瞿夷(くい)、舎夷(しゃい)長者の娘、釈迦の悉達多太子時代の夫人。羅[目*侯](らごら)の母。後に摩訶波闍波提(まかはじゃはだい)に随って出家し仏弟子となり、比丘尼僧伽(びくにそうが)の本をなす。

 

提婆達多(だいばだった):調達(ちょうだつ)、斛飯王(こくぼんおう)の子。仏老齢のとき同じ瞿曇(くどん)姓の自分が教団の統率を受け継ぐべきだとして自ら仏に進言したが拒絶された。

 ついに摩竭陀国(まがだこく)の太子阿闍世(あじゃせ)に取り入り仏を殺そうとするに至った。すなわち阿闍世をそそのかして父王を殺させたのち、その軍隊にて仏を殺さしめようとしたのであるが、軍兵はみな仏を怖れて逃亡してしまった。また次には大石を崖の上から投じて仏を圧し潰そうとしたが大石は仏に至るまでに細かく割れて、ただ小石が足のつま先を傷つけたに過ぎなかった。また狂象をけしかけて仏を踏み潰そうとしたが、それも象が鼻を垂れて恭順の姿勢を取ることによって失敗したのである。

 次いで下に示す五法をもって甘言を弄し年少の比丘五百人の賛同者を得て教団を割った。

 ここにその五法とは次のものである。

  (1)比丘は生涯糞掃衣(ふんぞうえ)を着ける。

  (2)比丘は生涯乞食(こつじき)をする。

  (3)比丘は生涯一日一食を守る。

  (4)比丘は生涯露地に坐す。

  (5)比丘は生涯肉を食わない。

 この企ても舍利弗(しゃりほつ)と目ノ連(もっけんれん)によって五百の弟子を取り返されることにより烏有に帰した。

 この提婆達多は釈迦の教団における大悪人として各経典の中に記されるところであるが、その悪の第一は教団を分かつ破僧(はそう)である。(智14)

 また、提婆達多の罪の如きを三逆(さんぎゃく)という、

  (1)和合僧を破って五百の弟子を得る。これは五逆罪の破和合僧である。

  (2)僧が再び和合すれば、則ち悪心を起して大石を仏に投擲し、仏足より血を出だす。これは五逆罪の出仏身血である。

  (3)華色比丘尼がこれを見て彼を呵せば、則ち拳を以ってこれを殺す。これは五逆罪の殺阿羅漢である。(智14)

 

十大弟子(じゅうだいでし):大少乗の諸経中に仏はたびたび弟子のうちの誰が何について第一と説かれていて、それにも諸説あるが多くは『維摩詰所説経(ゆいまきつしょせつきょう)』により次の十人を挙げる。

  (1)舍利弗(しゃりほつ):智慧第一。

  (2)大目ノ連(だいもっけんれん):神通第一。

  (3)大迦葉(だいかしょう):頭陀第一。

  (4)須菩提(すぼだい):解空第一。

  (5)富楼那弥多羅尼子(ふるなみたらにし):説法第一。

  (6)摩訶迦旃延(まかかせんねん):論議第一。

  (7)阿那律(あなりつ):天眼第一。

  (8)優婆離(うばり):持律第一。

  (9)羅[目*侯](らごら):蜜行第一。

  (10)阿難(あなん):多聞第一。

 

摩訶迦葉(まかかしょう):十大弟子の内の頭陀行(ずだぎょう)第一。即ち少欲知足第一。迦葉(かしょう)は婆羅門種の一姓、名を畢波羅(ひっぱら)という、父母が畢波羅樹神に祈って生んだためにこの名がある。摩訶とは大の意、大富の長者の子であり、大財と大姓を捨てて頭陀の大行をよく修めたという意味である。仏の滅後にはよく教団をまとめ、経典の結集(けつじゅう)を主宰した。『雑阿含経巻第41』には仏に価直百千万金の法衣を施し、その代りに仏の身に着けていた糞掃衣を授けられたとある。

 

舍利弗(しゃりほつ):鄔波底沙(うばだいしゃ)、優婆提舎(うばだいしゃ)、十大弟子の内の智慧第一。婆羅門の論議師提舎(だいしゃ)と母舍利(しゃり)の子。初め目ノ連(もっけんれん)と共に刪闍夜外道(さんじゃやげどう)に着いて修行し、既に各一百人の弟子を持っていたが、満足できなかった。二人は語らって先に解脱を得た方が、その方法をもう一人に教え、共に修行に精進しようと約束した。ある日、舍利弗は王舎城に於いて、五比丘の一人馬勝(めしょう)に出会った。その立ち居振る舞いが余りにも端正であったので、ついにその理由を問わずにいられなくなった。そこで誰が師で、何の法を学んでいるかを問うと、わが師は釈氏の沙門喬答摩(がうたま)で、既に覚りを開き仏となられました。私は師に従って頭を剃り、修行に励みながら、経を読んでいます。仏の教えは大変深く、出家したばかりの私には説明することが出来ません。ただこの一句を覚えているばかりです。

 『諸法(あらゆる物事)は縁に従って起こる。

  如来はこの因を説きて、

  かの法(物事)の因縁を尽くす。

  是れ大沙門の説なり。』と。

 舍利弗は一瞬にして、その教えの卓越することを知り、これこそ我が師、我が教えと叫んで、馬勝に合掌恭敬して三匝(さんそう、師の回りを三回まわること)すると、目ノ連と連れ立って、竹園精舎(ちくおんしょうじゃ)の釈迦の本に急ぎ弟子となった。以後舍利弗と目ノ連とは両輪の如く精力的に弟子を教育して、頻繁に老齢の仏に変わって説教した。(根本説一切有部毘奈耶出家事巻2)

 

目ノ連(もっけんれん):摩訶目ノ連(まかもっけんれん)、目乾連(もっけんれん)、倶哩多(くりた)、十大弟子の内の神通第一。形影大臣(ぎょうようだいじん)の子。幼少より学問に励み、五百人の弟子を持つが、舍利弗に会い、至らざることを知って出家して刪闍夜外道(さんじゃやげどう)の門に入るが、後に舍利弗と共に釈迦の弟子となる。後年に執杖外道(しゅうじょうげどう)のために打ち殺される。目ノ連(もっけんれん):大目乾連、目連、また拘律陀(くりつだ)、拘律ともいい、仏の十大弟子中の神通第一と誉えられる。古代印度摩竭陀(まがだ)国王舎城外の拘律陀村の人にして婆羅門種。生じて容貌端正、幼きより舍利弗との交情甚だ篤く、同じく刪闍耶(さんじゃや)外道の弟子と為り、各々徒衆二百五十人を領す。かつて舍利弗と互いに、先に得悟解脱した者は必ず以って相い告ぐることを約し、遂に共に競いて精進して修行せしに、後に舍利弗、仏の弟子の阿説示に逢うに因り、諸法無我の理を悟り、並べて目犍連に告ぐれば、目ノ連も遂に弟子を率いて一同仏を拝謁し、その教化を蒙れり。時に一月を経るに、阿羅漢果を証得す。目ノ連と舍利弗とは仏に帰依せし後、共に同じく精進して道を修むるに、遂に諸の弟子の中の上首と成り、仏の教化を補翼せり。晩年、王舎城内にて行乞の時、惨くも仏の教団を嫉恨せる婆羅門徒の執杖梵志に遭い瓦石を以って撃たれて死す。これ仏の涅槃前に係わる事にして、仏は竹林精舎の門辺に塔を建ててこれを弔えり。

盂蘭盆経(うらぼんきょう):餓鬼道に堕ちた者たちを救う法、即ち施餓鬼法(せがきほう)を広めるための経で、中国で造られた偽経である。その内容はおよそ次の通り。

 大目乾連(だいもっけんれん)が母の乳哺の恩に報いたいと思い、神通力を以って六道を探して見ると、はたして母は餓鬼の中に、近くには飲食が見られず、痩せ衰えて骨と皮があるのみであった。目連は飯の入った椀を持って、餓鬼道まで降りて往き母に渡すと、母は左手で鉢を障(さ)え右手で飯を丸めて口の中に入れようとするが、口中に至る間に飯は火を噴き炭と成ってしまい、遂に食うことが出来ない。目連は大声に泣き叫びながら、仏に会い事の次第を告げて、何の法を以ってすれば母を救うことが出来るでしょうか。と問う。これに答えて仏は、汝の母は罪根が深く結びつき、汝一人の力の及ぶ所ではない。また汝の上げる孝順の声が天地の神々を動かしたとしても、それ等の力でさえ及ぶまい。まさに十方の衆僧を集めてその力のみが母を餓鬼道から解き放つことが出来る。その方法は次ぎのようである、即ち

 安居(あんご)の終る自恣(じし)の日に、即ち七月の十五日に十方の僧衆を皆請じ、百味の飯食と五果、水、香油、灯明、床机、臥具を揃えて甘美を尽くして盆中に入れよ。衆僧はこの日に当たり、皆山間にて禅定し、樹下に誦経し、弟子を教育している者も、或は十地の菩薩が形を仮りて比丘となっているものも、一心に心を合わせて鉢和羅飯(はつわらぼん)を受ければ、その集まった功徳は清浄戒を持するが故に海のように広大で、地獄餓鬼畜生の三途の苦しみから解き放ち天に生まれさせ、あるいは覚りを開くことが出来る。

と。

 これ以後七月十五日の自恣の日に衆僧を供養して、餓鬼に堕ちた先祖を救うのである。

 

阿難(あなん):阿難陀(あなんだ)、釈迦の従弟。十大弟子の内の多聞第一。出家してからは仏の侍従となり、常に近侍していたために、覚りを得ることが遅れた。仏により、『自らを拠り所として、他人を拠り所とすることなかれ。自らの法を拠り所として、他の法を拠り所とすることなかれ。』という遺教(ゆいきょう)を受けて立ち直り、仏滅後には経典の編纂に力を尽くした。

 

難陀(なんだ):孫陀羅難陀(そんだらなんだ)、仏の姨母摩訶波闍波提(まかはじゃはだい)の生んだ仏の異母弟、難陀。容姿端麗にして三十相を具え、仏に劣ること僅かに眉間白毫相を欠き、耳朶の垂るることの少きのみという。その婦孫陀利(そんだり)に因んで、孫陀羅難陀の名あり。仏により、出家せしめられ強いて剃髪さるるも、その婦を念うこと切にして、婬欲断ちがたきところ、仏の化導を得て阿羅漢果を得、仏より、端正なる者の婬欲は断ちがたきに、よく断てるを称えられて、端正なるに諸根寂静たるもの、難陀に勝るるもの無しと説かれた。

  難陀は釈迦の継母、摩訶波闍波提(まかはじゃはだい)の実子で一時迦毘羅城(かびらじょう)の皇太子となるが、結婚式の日にちょうど帰国していた釈迦によって強いて出家せしめられた。生来愛欲の心が強くそれを抑えることに苦労したので、諸根調伏第一と仏に褒められた。容姿端麗で、美しい難陀、すなわち孫陀羅難陀(そんだらなんだ)と呼ばれる。

 

[*](らごら):釈迦を父、耶輸陀羅(やしゅだら)を母として仏の実子として生まれた。のち仏の弟子となって舍利弗に付されたが、仏の実子であることに慢心せず常に持戒に勤めたことにより密行第一といわれる。密行とは憍慢を捨てて隠れて持戒等の善業を行うこと。

 

[/]樓駄(あぬるだ):阿那律(あなりつ)、仏弟子の内の天眼第一。迦毘羅城(かびらじょう)の釈氏一族の出で甘露飯王(かんろぼんおう)の子、仏の従弟。聴講のときに居眠りしたことを仏に叱責されるとそれを恥じて以後目を瞑らない決意をし目が爛れて見えなくなってしまってもなお目を瞑ることをしなかった。目は見えなくなったがそれにより心の眼が開き天眼通を得たという。難提(なんだい)の項参照。

 

優婆離(うばり):十大弟子の内の持律第一。釈迦が迦毘羅婆城近くの阿奴夷(あぬい)という村に止住していたとき、釈迦族の阿那律ほか総計九人が出家した。その中に理髪師の優婆離がいた。理髪師は非常に賎しい職業とされていたのであるが仏より戒を受けるとき、他の六人がこぞって優婆離を第一に押したために優婆離は他の八人よりも上臈(じょうろう)となった、すなわち先に戒を受けて先輩の立場を得た。他の八人はそれまでの憍慢の生活を反省したのである。比丘の教団では法臈(ほうろう)といって受戒いごの年数によりすべての坐る順位の上下が決定する。上臈あるいは上座(じょうざ)とはこの法臈が上だということで、それを譲るということは大変なことなので、これ等の決意の程を知ることができる。

 いまその七人を四分律巻第四によって法臈の順に挙げる。

  (1)優波離(うはり)剃髪師すなわち持律第一。

  (2)阿那律(あなりつ)釈子すなわち天眼第一。

  (3)跋提(ばだい)釈子。

  (4)難提(なんだい)釈子。

  (5)金毘羅(こんびら)釈子。

  (6)難陀(なんだ)釈子すなわち孫陀羅難陀(そんだらなんだ)。

 以上は釈迦によって戒を受ける。

 これとは別に大上座の毘羅荼(びらだ)によって先ず、

  (7)阿難陀(あなんだ)釈子すなわち多聞第一。が戒を受け、

 次いで別の上座によって、

  (8)跋難陀(ばなんだ)釈子。

  (9)提婆達(だいばだつ)釈子。

が戒を受けた。憂婆離(うばり)優波離(うはり):仏の十大弟子中の持律第一。印度迦毘羅衛国の人。出身は首陀羅種にして宮廷の理髪師と為る。仏成道の第六年、王子跋提、阿那律、阿難等の七人出家せる時、優波離もまた随って同じく出家せり。実に仏が広く門戸を開いて四姓平等にこれを摂化するの第一歩である。優波離は戒律に精しく、修持すること厳謹なれば、持律第一と誉めらる。後に第一次経典結集の時、律部を誦出す。その善生の功コ、出家の因縁に関しては『仏本行実経巻53〜54』、また『中阿含巻52憂婆離経』には憂婆離の律に就いて仏に請うて問うを記述す。而るに『中阿含巻32』の憂婆離居士は師とは乃ち同名異人である。

 

須菩提(すぼだい):仏弟子の内の解空第一。摩訶般若波羅蜜経を初め各般若経において仏に代わって般若波羅蜜を説く。

 

憍梵波提(きょうぼんはだい):牛王、牛呞と訳す。阿羅漢。昔、罪を得て五百世に牛と作り、今生まれて人と作るも、その余習残りて食後も常に咀嚼し、牛の反芻の如くなれば、牛呞(ごし、反芻)と名づけらる。『十誦律巻38』、『大智度論巻2(上)』参照。かつて舍利弗の指導を受く。その過去の世に、一茎の粟を摘み、数顆の穀粒を地に堕とすに因って、遂に五百世の中に牛身を受く。故に遺りて牛の習性有り。食後に常に牛の反芻の如く咀嚼せるが故に、『牛相の比丘』と呼ばれる。その態度鈍重なれど恬淡として人と争うこと無く、寛宏の気あれば、釈尊、その常に人の毀謗に遭うて衆苦に堕するを憐れみ、乃ち命じて忉利天宮尸利娑園に住め、禅定を修習せしむ。仏の入滅の後に、迦葉等の諸の尊者、法蔵を結集する時、人を天宮に遣わしてそれを迎えんとするも、師は始めて世尊及び舍利弗等のすでに入滅せるを知り、未だ久しからぬに、また帰寂せり。参考:『十誦律巻38』:『佛在舍衛國。有比丘名牛齝。食已更齝。諸比丘見非時嚼食。各相謂言。是比丘過中食。聞已心愁不樂。是事白佛。佛以是因緣集比丘僧。語諸比丘。莫謂是比丘過中食。何以故。是比丘先五百世時。常生牛中。是比丘雖得人身。餘習故在。佛言。若更有如是齝食者。應在屏覆處。不應眾人前齝。』参考:『阿弥陀経通賛疏巻1』:『梵云笈房缽底此云牛相。憍梵波提訛也。過去因摘一莖禾數顆墮地。五百生中作牛償他。今雖人身尚作牛齝之相。因號為牛相比丘。恐人謗毀反墮眾苦。佛敕令往忉利天宮。尸利沙園修習禪定。佛入滅時結集法藏。令人往喚。問曰世尊安樂否。語曰已滅度。又問我師在無。報曰舍利弗不忍見世尊滅度。三界無依先已入滅。尊者聞語嗟嘆再三。乃化水流至下界。水中說偈。偈云憍梵波提頭面禮。妙眾端嚴第一像。象王既去象子隨。大師入滅我亦滅。因茲化火焚身入於寂滅。‥‥』

 

摩訶迦旃延(まかかせんねん)迦旃延(かせんねん):、迦多衍(かたえん)、仏十大弟子中の論義第一。西印度阿槃提(あばんだい)国の人、その族姓及出家器物の因縁に数説有り、『仏本行集経巻37那羅陀出家品』の載する所に依れば、師は乃ち彌猴食聚落の大迦旃延婆羅門の第二子にして名を那羅陀(ならだ)といえり。初め国都の優禅那尼(うぜんなに)城付近の頻陀(ひんだ)山の中に入りて外舅阿私陀仙人より吠陀(べいだ)の教を学べり。後に阿私陀仙は釈尊出生の時に相好の荘厳せるを見て、将来必ずよく成仏せんと予言し、遂に命終に於いて遺言してそれをして釈尊に礼して師と為さしむ。彼は出家帰仏の後、その本姓によって大迦旃延と称し、勤行懈らず、阿羅漢果を証得せり。仏の滅度の後も、師はなお存して、教化に従事し、しばしば外道と論戦し、仏の弟子中に於いて論義第一と称さる。『六足論大迦多衍之施設足論』を作る。

 

三迦葉(さんかしょう):優楼頻螺迦葉(うるびらかしょう)、那提迦葉(なだいかしょう)、伽耶迦葉(がやかしょう)、最初期の仏弟子。もと事火外道(じかげどう)であったが仏の教化を受けた。

 

馬勝(めしょう):阿説示(あせつじ)、釈迦の最初の説法を受けた五比丘の一人。舍利弗は馬勝の立ち居振る舞いを見て仏弟子となり、ある長者は馬勝が多くの比丘たちと共に耆闍崛山から王舎城に乞食に来るのを見て、心に歓喜を生じて僧伽に六十の房舎を寄進した。

 

五比丘(ごびく):仏成道の後、初めて法輪を転じて化度する五人の比丘。悉達多太子、城を踰えて出家せるに、その父浄飯王は大いに驚き、使いを遣わして追わしむるも、太子の発心堅固なれば、王乃ち王師中より憍陳如等の五人を出だして伴なわせ、太子の学道に奉持せしむるに、この五人は太子と共に苦行を修む。しかし太子が六年の苦行を以ってしても、未だ解脱に到達せざるを以っての故に苦行を放棄し、尼連禅河に於いて沐浴して牧羊女より乳糜の供養を受くるに及んで、憍陳如等の五人は以って太子はすでに道心を退失せりと為し、遂に太子を離れて鹿野苑の苦行林に赴き、苦行を継続せるを、釈尊は成道の後、この五人を先に度脱すべしと念じ、因るが故に、鹿野苑に至りて五人の為に四聖諦、八正道、布施、持戒、生天等の法を説き、法眼浄を得しむ。五人の中の憍陳如と阿湿卑とは釈尊の母系の親属、夜の三人は父系の親属と為す。この五人の名は経典の挙ぐる所に出入有り、『四分律巻32』によれば得道の順に(1)阿若憍陳如(あにゃきょうちんにょ)、憍陳如(きょうちんにょ)(2)阿湿卑(あしつひ)、阿説示(あせつじ)、(3)摩訶摩男(まかまなん)、摩訶男(まかなん)、(4)婆提(ばだい)、(5)婆数(ばすう)となる。また他にも多くの説乱立し、整理する能わず、例を挙ぐれば次の如し。

  (1):阿若憍陳如(あにゃきょうちんにょ)。

  (2)額鞞(がくひ):馬勝(めしょう)、阿説示(あせつじ)。

      威儀端正にして、舎利弗帰依の因縁を為す。(智11)

  (3)抜提(ばっだい):摩訶男(まかなん)。

  (4)十力迦葉(じゅうりきかしょう)。

  (5)摩男倶利(まなくり):拘利太子(くりたいし)、釈摩男(しゃくまなん)。

 

周梨槃陀迦(しゅりはんだか):朱荼半託迦(しゅだはんたか)ともいう。小路と訳す。兄を摩訶槃陀迦(まかはんだか)といい、大路と訳す。共に父母の旅行の時、路上にて生まれたるによってこの名有り。兄は聡明なれども弟は愚鈍なれば愚路と呼ばれる。父母亡き後、兄に従いて共に出家するも兄より授けられたる『身語意業不造惡  不惱世間諸有情  正念觀知欲境空  無益之苦當遠離』の一偈を三月を経てなお誦すること能わず。仏の教に従い、愚路は黙然として諸の比丘の鞋履(あいり、革草履)の塵を払い、その都度諸の比丘は二度この偈を教う。やがてある日忽然として、この偈の意味は心の塵を払うに在りと覚り、ついに阿羅漢果を得た。(智28)

  参考:『根本説一切有部毘奈耶巻31』:『世尊見已知其障重教令除滅。告愚路曰。汝能與諸苾芻拂拭鞋履不。白佛言能。汝今宜去為諸苾芻拂拭鞋履。即既奉教而作。諸苾芻不許。佛言汝等勿遮。欲令此人除去業障。其兩句法汝等應教。時諸苾芻令拂鞋履教兩句法。愚路精勤常誦此法。積功不已遂得通利。時愚路苾芻便於後夜時作如是念。世尊令我誦兩句法。我拂塵我除垢者。此之字句。其義云何。塵垢有二。一內二外。此之法言。為表於內為表外耶。為是直詮為是密說。作是思惟忽然啟悟。善根發起業障消除。曾所不學三妙伽他。即於此時從心顯現 此塵是欲非土塵  密說此欲為土塵  智者能除此欲染  非是無慚放逸人  此塵是瞋非土塵  密說此瞋為土塵  智者能除此瞋恚  非是無慚放逸人  此塵是癡非土塵  密說此癡為土塵  智者能除此癡毒  非是無慚放逸人

 

須提那(すだいな)、須提那迦蘭陀長者子(すだいなからんだちょうじゃし):須提那は比丘の名。迦蘭陀村の迦蘭陀長者の子。比丘となりて後、婬欲を行ぜしにより、仏は初めて戒を結んで大罪を制した。参考:『四分律巻1』:『爾時世尊在毘舍離。時迦蘭陀村須提那子。於彼村中饒財多寶持信牢固出家為道。時世穀貴乞求難得。時須提那子作是思惟。今時世穀貴諸比丘乞求難得。我今寧可將諸比丘詣迦蘭陀村乞食。諸比丘因我故大得利養。得修梵行。亦使我宗族快行布施作諸福コ。作是念已。即將諸比丘詣迦蘭陀村。須提那母聞其子將諸比丘還歸本村。即往迎。到彼子所語其子言。可時捨道還作白衣。何以故汝父已死。我今單獨。恐家財物沒入於官。但汝父財既多。況祖父已來財物無量甚可愛惜。是以汝今應捨道就俗。即答母言。我不能捨道習此非法。今甚樂梵行修無上道。如是至三。其子亦答言。不能捨道還俗。其母便捨之而去。詣其婦所語言。汝月期時至便來語我。婦自知時到往語其姑。大家欲知我月期時至。母語其婦汝取初嫁時嚴身衣服盡著而來。即如其教便自莊嚴。與母共俱至其兒所。今正是時便可捨道就俗。何以故。汝若不捨道者我財物當沒入於官。兒答母言。我不能捨道。母如是再三語子言。汝婦今日華水已出。便可安子使汝種不斷。子白母言。此事甚易我能為之。時迦蘭陀子。佛未制戒。前不見欲穢。便捉婦臂將至園中屏處三行不淨。‥‥』

 

須那刹多羅(しゅなせつたら):悪弟子、善星(ぜんしょう)、好星。『仏有悪弟子須那刹多羅等、有少因縁故作弟子、欲於仏所取射法』(智100)

 

耶舎(やしゃ):中印度波羅奈国の大富長者善覚の子。俗世を厭離して出家を遂げ、仏の所で五比丘に次いで六番目の弟子となった。(彌沙塞部和醯五分律巻15

 

跋迦利(ばつかり):仏弟子。病んで苦痛に堪えかね、世尊に教を受けて自殺した。『雑阿含経47巻第1265経』参照。

 

施跋羅(せばつら):仏の姑(おば、父の姉妹)甘露女の生んだ子。(智24丹注)

 

六群比丘(ろくぐんびく):六人の悪比丘、皆釈氏王種にて贅沢と驕慢になれていて数々の奇行を働いた。比丘の二百五十戒の大半はこれ等がために制定された。

   (1)闡陀(せんだ):闡那(せんな)、闡怒(せんぬ)、車匿(しゃのく)、乱暴者。仏滅後に阿難により道を得た。

   (2)迦留陀夷(かるだい):鄔陀夷(うだい)、優陀夷(うだい)、釈迦の学友。多婬。後に仏により道を得たが、債務に追われて、賊のために殺され糞の中に埋められた。

   (3)三文達多(さんもんだった):難陀(なんだ)、難途(なんづ)、後に天に生まれる。

   (4)跋難陀(ばつなんだ):摩醯沙難陀(まけいしゃなんだ)、後に天に生まれる。

   (5)馬師(めし):馬宿(めしゅく)、阿説迦(あせつか)、師の目連が外道の為に杖で打ち殺されたことに憤り、満宿と共に、これを殺したために、龍中に生まれた。

   (6)満宿(まんしゅく):井宿(せいしゅく)、補那婆素迦(ふなばすか)、弗那跋(ふなばつ)、馬師と共に外道を殺して龍中に生まれる。

 

車匿(しゃのく):釈迦出家時の馭者。最初に教化を受けた五比丘の一。難化の比丘として有名で悪口(あっく)の車匿とあだ名された。また六人の悪比丘として名をなした六群比丘のうちの一としても名を挙げられている。

 

長爪梵志(ちょうそうぼんし):摩訶倶郗羅(まかくちら)、大膝(だいしつ)、舎利弗の母舍利(しゃり)の弟。舍利弗が舍利の胎内にあるとき、そのために舍利は智慧が増し、論議して勝つことができない。ついにそれを恥じ家を出て外道の論議師となり、十八種の大経をすべて学び終えるまでは決して爪を剪らないと誓い、遂に学び終えたのであるが、後に仏に帰依した。(智11)

 

羅頻珠比丘(らひんじゅびく):羅頻周(らひんしゅ)、『大智度論巻30』によれば、羅頻周は舎利弗の弟子であった。 持戒精進して乞食し、六日間得ることができず、七日目に至り、ついに命を終ろうとした。 舎利弗は、これを見て目ノ連に、お前の大神力でこれを守護せよと語り、目ノ連が食を持して与えると、口を向けたとたん、食は泥に変じた。 舎利弗が、食を持して与えると、自ら口を閉ざす。 最後に仏が食を持して与えると、仏の福徳と無量の因縁を以っての故に、彼は食うことができた。 仏は、この比丘に「有為の法には、皆、この苦相有り」と教え、為に四諦を説いた。 この時、この比丘は漏が尽きて意が解け、阿羅漢道を得たとある。 (智15、30)

 

必陵伽婆磋(ひつりょうがばしゃ):畢陵伽婆蹉(ひつりょうがばしゃ)、比丘、阿羅漢。五百世の間婆羅門の家に生まれたが故に、阿羅漢に至っても、口が悪かった。(智2、23)

 

羅婆那跋提(らばなばつだい):賢塩と訳す。拘留孫(くるそん)仏の時、この人は人足として、この仏の塔を作ることに従事した。そして塔を作りながら、「こんな大塔を作ってどうしようと言うのだ?いったいいつまでかかるのだ?もっと小さければ、安くでき、手間もかからず楽もでき、すぐにも完成するものを!」と悪口を吐いたので、命が終ると地獄に堕ちた。迦葉(かしょう)仏の時、雄の拘耆羅(くきら、声のよい鳥)鳥となり、波羅奈斯(はらなし)の林の中で法を説く仏や、それを聞く比丘たちのそばで常に和雅の音を出して飛び回っていた。その善根により、人間に生まれた時、釈迦牟尼仏の本で出家して阿羅漢と成り、比丘たちの為に美しい声で法を説いた。『根本説一切有部毘奈耶薬事巻17』。(智23)

 

毘舎佉弥伽羅母(びしゃきゃみからも):毘舎佉優婆夷(うばい、女の仏教信者)、毘舎佉鹿母(ろくも)、鹿母、鹿子母(ろくしも)、鹿という名の子の母であることからこの名がある。三十二の卵を生み、一卵から一児が生じたという。

 

犍抵(こんたい):祇洹精舎(ぎおんしょうじゃ)の奴僕、波斯匿王(はしのくおう)の兄の子。

 端正、勇健にして心性和善、王の夫人に言い寄られて従わなかった為に王に讒言された。

 従って王のために節々を解かれて塚間(ちょうけん、墓場)に捨てられたが、まさに命の絶えんとするとき、仏の光に遇い治癒し、それに報いるために比丘僧(教団)に身を布施した。

 後に無実の罪に堕としたことを悔いた王によって国の半分を提供しようと言われたが、全ては宿世の罪、今は身を以って僧に施すのみと言い、再び還ろうとしなかった。

 

薄拘羅(はくくら)比丘:鞞婆尸(びばし、過去七仏の第一)仏の時、一呵梨勒(かりろく、薬になる果実)を衆僧に供養したために、九十一劫の間、天上、人中に福楽の果報を受けて、常に病むことも無く、今は、釈迦牟尼仏に出会うことができて出家し、漏が尽きて阿羅漢を得た。注:薄拘羅:『諸賢。我於此正法律中學道已來八十年。未曾有病。乃至彈指頃頭痛者。未曾憶服藥。乃至一片訶梨勒』(中阿含経巻第8薄拘羅経第三)参照。(智22)

 

二十億(にじゅうおく):二十億耳(にじゅうおくに)、鞞婆尸仏の時、一房舎を作し、物を以って地を覆いて衆僧に供養せしに、九十一劫、天上、人中に福の楽果を受けて、足は地を蹈まざりき。生まるる時、足下に毛ありて長さ二寸、柔軟にして浄好たり。父見て歓喜し二十億両の金を与う。仏に見えて法を聞き阿羅漢を得た。『中阿含経巻第29沙門二十億経第七』によれば、この沙門は昼夜をつくして刻苦勉励するも漏を尽くすこと能わず、よりて道行をやめ家に帰り、財宝を施して福業を積まんと思う。仏はその心を知り、呼び寄せて、琴の弦は強く張りすぎても、弱く張り足らなくても、その和音愛楽すべからざるが如く、道行も極大精進すれば心の調和を乱し、不極精進すれば心を懈怠ならしむ、故にまさに時と相とを分別観察して心を放逸せざらしめよと教えた。二十億はその志を翻して修行に精進し、遂に阿羅漢果を得た。(智22)

 

難提(なんだい):比丘。阿尼廬陀(あにるだ、阿那律(あなりつ))、迦翅弥羅(かしみら、金毘羅(こんびら))と共に族姓子(ぞくしょうし、善男子)として仏に讃えられた。(智22)『中阿含経巻第48第185経牛角沙羅林経第四』によれば、跋耆(ばつぎ)国の牛角娑羅林に族姓子(善男子)の阿那律、難提、金毘羅が住んでいた。三人は皆、乞食をして帰ると床を敷き水を汲んで手脚を洗い、足を洗う桶や水瓶などを納めると、食器を棚から取り出して得た物を食い、食いおわると食器を洗って棚に納め、室を清掃し水で浄めて坐禅をし、無駄口を言わず水と牛乳のように一に和合して暮らしていた。世尊はそれを見て、今安穏に住して乏しき所は無いかと訊ねると、阿那律は安穏に住して乏しき所は無いと答える。世尊が何のように安穏なのかと訊ねると、阿那律は慈による身口意の業を人が見ようと見ていまいと常に行じ、己の心を捨てて諸の賢聖の心に随っているために、未だかつて一として善からぬ心を懐いたことが無いので、安穏であり乏しき所が無いと答える。世尊は善きかな、ではもっと上の人に過ぎたる法を得たならば、そこにても安穏で乏しき所が無いかと訊ねると、世尊、われ等は欲を離れて四禅に住すという人に過ぎたる法を得ておりますので、そこにて安穏であり乏しき所もありません。ではもっと上ならば何うか?四無量心に住しております。ではもっと上では?四無色定、六通、乃至解脱に住しております。それを聞いた長鬼天がこの跋耆国の人々は大善利を得ている、何故ならば仏とこの三人がいるからであると讃え、諸の諸天もそれに賛同する。阿那律(あなりつ)参照。

 

草繋比丘(そうけびく):戒を護持するために、草の命を絶つよりも、むしろ自らの命を捨てることを択んだ諸比丘。『賢愚経第5沙彌守戒自殺品』に云わく、『諸の比丘、賊に劫奪せられ、草を以って繋縛せられしに、風吹き日曝らし、諸虫唼食するも、戒を護るを以っての故に、草を絶ちて去らず。』と。

 

婆羅埵逝(ばらたせい):仏が数数その家に来て乞食するのを疑い、仏に諭された。また『雑阿含経巻第42第1157経』参照。(智22)

 

十八大経:四韋陀、六論、八論。 婆羅門の修める十八種の学問をいう。

  (1)利倶吠陀(りぐべいだ、リグヴェーダ):太古よりの賛美歌の集成。

  (2)撒買吠陀(さんまいべいだ、サーマヴェーダ):

        賛歌に音楽を付して祭式に実用したもの。

  (3)亜求羅吠陀(あぐらべいだ、ヤジュールヴェーダ):

        季節ごとの祭祀の時の散文による呪文を集めたもの。

  (4)加阿他羅滑吠陀(かあたらかべいだ、アタルヴァヴェーダ):

     さまざまな災難から遁れる呪文等の日常の祈念に用いる祭歌などを集めたもの。

  (5)式叉(しきしゃ)論:六十四種の能法(のうほう、技芸学問)を釈す。

  (6)毘伽羅(びから)論:諸音声の法を釈す。

  (7)柯刺波(からは)論:諸天、仙人の上古以来の因縁と名字を釈す。

  (8)竪底沙(じゅていしゃ)論:天文地理算数等の法を釈す。

  (9)闡陀(せんだ)論:仏弟子、五通の仙人等を偈によって説く。

  (10)尼鹿多(にろくた)論:一切の物名を立て因縁を釈す。

  (11)肩亡婆(けんもうば)論:諸法の是非を簡単に釈す。

  (12)那邪毘薩多(なじゃびさった)論:諸法の道理を明かす。

  (13)伊底呵婆(いていかば)論:伝記、宿世の事を明かす。

  (14)僧佉(そうきゃ)論:二十五諦なる者を明かす。

  (15)課伽(かが)論:心を摂する法を明かす。

  (16)陀菟(だつ)論:用兵の法を釈す。

  (17)ノ闥婆(けんだつば)論:音楽の法を明かす。

  (18)阿輸(あゆ)論:医方なる者を明かす。

 

婆蹉(ばしゃ):小乗の犢子部(とくしぶ)の比丘であるが、苦行第一を唱えた外道。このように仏教から派生した外道を内外道という。

 

尸利崛多(しりくった):徳護長者。外道の教えを受けて初め仏をさまざまに害せんとしたが、後に懺悔して仏に帰依した。

 

阿夷陀(あいだ):阿私陀(あしだ)、仙人の名、釈尊の誕生にあたり、三十二相を見極めて将来、転輪聖王または仏陀となるだろうと占なった。

 

六師外道(ろくしげどう):次の六人の論議師で皆悉く自ら神通を得て自在無礙なりと言い、それぞれ五百の弟子が有ったという。『長阿含経巻第十七の沙門果経』に名前は若干異なって詳説する。

  (1)富蘭那迦葉(ふらんなかしょう):殺人、盗みなどを働いても悪を為したことにならず、布施や修養を働いても善を為したことにならないとした。

  (2)末伽黎拘賖黎(まかりくしゃり):衆生は霊魂と地、水、火、風、虚空、得、失、苦、楽、生、死の十二の要素からなる実体で自己の意志によらず、互いにも影響されず、初めに決定された通りに840万大劫の間、輪廻し続けるとした。

  (3)刪闍夜毘羅胝(さんじゃやびらち):刪闍耶(さんじゃや)、真理を有るがままに認識して説明することは不可能であり、来世の存在と善悪の報いに関して判断せずに確答を避けた。

  また、道を求めなくとも、生死を繰り返して、久しく劫数を彌歴すれば、苦際も自ずから尽きるとした。(注維摩3)

  (4)阿耆多翅舎欽婆羅(あぎたきしゃきんばら):衆生は地、水、火、風の四の元素からなり、霊魂は存在せず、善悪の果報を死後受けることもないとした。

  (5)迦羅鳩駄迦旃延(からくだかせんねん):不生不滅不変の七要素、すなわち地、水、火、風、苦、楽、生命のみが実在で、個別の霊魂はなく、例え頭を切り落としても生命を奪うことにはならない、剣による裂け目はただ七つの要素の間隙に生じたにすぎないとした。

  (6)尼犍陀若提子(にけんだにゃくだいし):尼犍子(にけんじ)、存在とは霊魂、運動の条件、静止の条件、虚空、物質という要素からなり、霊魂は業の重みにより上昇できずに輪廻している。しかしこの業を厳格な禁欲の生活あるいは苦行をすることによって払い落とせば霊魂は解脱することができるとした。

  また次のようにもいう、

  (1)富蘭那迦葉(ふらんなかしょう):

       一切の法(ほう、事物)は、断滅の性、空である。

       君臣、父子、忠孝の道は無い。

  (2)末伽梨拘梨子(まかりくしゃりし):

       衆生の苦楽は、因縁に由るのではない。

       これは、自然によるのである。

  (3)刪闍夜毘羅胝子(さんじゃやびらちし):

       道を求めるべきではない。

       ただ、生死の劫数を経て、自ずから苦際を尽くすのみ。

       譬えば、糸玉を高山の上から転がせば、

             糸が尽きれば、自ずから止まるようなものである。

  (4)阿耆多翅舎欽婆羅(あぎたきしゃきんばら):

       現世に苦を受ければ、来世に楽を受ける。

       身に弊衣を著け、五熱(五体を火に炙る)に炙る。

  (5)迦羅鳩駄迦旃延(からくだかせんねん):

       諸法は、有相であり無相である。

       人が、物を見て、

         有るかと問えば、無いと答え、

         無いかと問えば、有ると答える。

  (6)尼ノ陀若提子(にけんだにゃくだいし):

       苦楽の罪福は、尽く前世に由るので、

         必ず、これを償わなくてはならない。

         今、道を行っても、断ずることはできない。

 

方広道人(ほうこうどうにん):小乗中の仏法に附す外道を犢子道人(とくしどうにん)といい、大乗中の仏法に附す外道を方広道人という。大乗方広の空理に悪執して、空見に堕ちた者をいう。犢子部(とくしぶ):小乗犢子部。その名の由来に種種有るも、その一例を挙ぐれば凡そ次の如し、上古に仙あり、山の静処に居り。貪欲すでに起りて止まる所を知らず、近に母牛あり、因て染して子を生む。自後の仙種を皆犢子という。仏の在日に犢子外道あり、仏に帰して出家す、この後の門徒相い伝えて絶えず、ここに至りて部を分かち、遠く襲うて従って名とし、犢子部という、と。またその法脈は仏より、舎利弗に伝え、舎利弗は羅睺羅(らごら、仏の実子にして弟子)に伝え、羅睺羅は犢子に伝えしものと聞こゆ。

 

六法蔵(ろくほうぞう):六句義(ろくくぎ)、ヴァイシェーシカ学派勝論派(かつろんは)は六法によって事物を説く。 外道の一。

 (1)実(じつ、実体):陀羅驃(だらひょう)、集合することにより物質を形成する。

   地、水、火、風、虚空、方角(空間)、時間、自我(アートマン)、意に分ける。

 (2)徳(とく、性質):求那(ぐな)、色、味、香、触、数、量、別異性、結合、分離、

   彼方性、此方性、重さ、流動性、粘着性、音声、知識、

   楽、苦、欲望、嫌悪、努力、功徳、罪障、潜在的形成力に分ける。

 (3)業(ごう、運動):取、捨、屈、伸、行に分ける。

 (4)同(どう、共通性):事物を相互に類同する因。

 (5)異(い、特殊性):異、有能(実、徳、業に果を生じさせる因)、

   無能(実、徳、業に果を生じさせない因)、

   倶分(くぶん、一事物に同と異とが有る)。

 (6)和合(わごう、内属関係):上の五つを結びつける、物物間の固有の性質。

 

数論学派(すうろんがくは):僧佉学派(そうきゃがくは)、サーンキヤ学派、神我とよばれる精神原理(プルシャ)と自性とよばれる物質原理(プラクリティ)とからなる二元論である。 劫比羅(かぴら)により始められた。 外道の一。

 (1)神我(じんが)は、純粋な精神であり、無数に存在する個我である。 これは永遠の実体であり、知を本質とするが、活動することはなく、ただ自性を観察するのみである。

 (2)自性(じしょう)は、個我の唯一の実体であり、永遠の活動性をもち、非精神的な物質的原因である。 これは相互にかかわる三要素、純質(サットヴァ)、激質(ラジャス)、翳質(タマス)があり、これらが平衡状態にあるときは、自性は変化しない。

 (3)しかし神我が観察を開始するとともに、その平衡状態はくずれて覚(理性、確認作用)が生じ、我慢(がまん、自我意識)と我所(がしょ、わがもの)が現れ、この思惟する機能を永遠の神我であると誤認する。この誤認が輪廻と苦の原因である。

 (4)純質(サットヴァ)によって、我慢からは思考器官である意、および眼耳鼻舌身の五つの感覚器官と発声器官、手、足、排泄器官、生殖器官の五つの行動器官が生じる。

 (5)激質(タマス)によって、我慢からは色声香味触の五つの微細要素が生じ、色からは火、声からは空間、香からは地、味からは水、触からは風という五つの元素が生じる。

 (6)神我(プルシャ)に始まり、風におわる諸要素を二十五諦(にじゅうごたい)という。

(じん):梵語プルシャの訳語。また神我という。外道所執の実我。我の体は常実にして霊妙不可思議なれば、これを称して神我という。数論外道は身心乃至霊魂等の諸法に於いて二十五諦を立て、その中の最初の自性諦を本性、中間の二十三諦を変異とし、これに対して第二十五神我諦は本性に非ず、変異に非ず、その体は実有にして常住なりとする。神我の実有を証するに五因あり、一に聚集は他の為なるが故にとは、凡そ世間の一切の聚集を見るに皆他の為にす。譬えば、床席等の造作聚集せらるるは床席それ自らの所用たるに非ず、必ず人の為に設くるが如く、五大聚りて身を成ずるも、これ身自らの為に非ず、必ず他にこれを受用すべきもの、即ち我あるが故なりとなすを云い、二に三徳に異なるが故にとは、自性及び中間の二十三諦は喜憂闇の三コと相い離れず、盲目的なれば、これに対して三コの相を有せず、よく彼の自性等を知見すべき常住の我無かるべからずとなすを云い、三に依の故にとは、もし人、この身に依らば身に作用あり、もし人依ること無ければ、身は作用する能わず。かくの如く、自性は我の所依なるが故によく変異を生ず。故に我有ることを知るとなすを云い、四に食者の故にとは、世間の飲食の如き別の食者あり、かくの如く五大等は所食の法なれば、別の能食者たる我無かるべからずとなすを云い、五に独離の故にとは、ただ身のみありて他に独離の我無くば、解脱の方便を説くも無用に帰し、また父母の遺骨を供養するも福徳無かるべく、これ等の義あるが故に別我あるを知るとなす。

 

事火外道(じかげどう):火神阿耆尼(あぎに、アグニ)に仕える外道。

 

ノ陟(けんとく):乾陟(けんとく)、蹇特(けんとく)、建他歌(けんたか)、釈迦が夜半に出家を志して城を出た時に車匿(しゃのく)に牽かせた純白の馬王。

 

 

 

 

摩訶般若波羅蜜経:通称は大品(だいぼん)経、大品般若経。摩訶とは大と訳して般若波羅蜜が最も勝れ且つ偉大であることを言う。

 

鳩摩羅什:父は天竺の出家人、西域亀茲国に至り、国王の妹と婚し鳩摩羅什を生む。その頃母出家し道果を得る。羅什七歳にして母に随いて出家し遍く西域に遊び、その間群籍に通じる。その中に大乗の勝れたることを知る。その後亀茲国は秦の苻堅(ふけん)に攻められ、羅什も獲られ還俗せしめられて涼州に至る。後秦の姚興(ようこう)、涼州を伐つ。羅什始めて長安に入り姚興は国師の礼を以って之を礼す。これより已後長安の西明閣および逍遥園に入り、おもに大乗の経典を訳すこと三百六十余巻して長安において寂す。臨終に言わく「吾が伝える所に謬無し。則ち涅槃の後に、舌焦げ爛れざるべし。」と。これにより逍遥園に於いて火葬にしたところ唯舌のみが焼け残ったという。

 

王舎城(おうしゃじょう):摩伽陀国(まかだこく)の王都、五つの山に囲まれた要塞堅固の地で繁栄していた。この地に釈迦に寄進された多くの精舎(しょうじゃ)があった。また印度では珍しい温泉があり、釈迦もこの温泉で沐浴することを習慣としていた。またかつてはここに精舎が在ったが現在は温泉寺というヒンズー寺院に改められ、庶民に娯楽を提供している。

頻婆娑羅(びんばしゃら):摩伽陀国の王、釈迦に帰依した、後に太子の阿闍世(あじゃせ)によって王位を簒奪され牢に幽閉されて餓死した。

阿闍世(あじゃせ):婆羅留支(ばらるし)、摩伽陀国の王、頻婆娑羅王と王妃韋提希(いだいけ)の子、初め提婆達多(だいばだった)に帰依し、それにそそのかされて父王まで殺すに至ったが、後に釈迦に帰依し釈尊亡き後は第一回結集(けつじゅう)をするにあたり財政面で大いに力あった。婆羅留支は折指(せっし)、阿闍世は未生怨(みしょうおん)と訳される。

王舎城の悲劇:摩伽陀国の王頻婆娑羅には子息がなかった。諸所の神に祈っても生まれるようすがない。一人の観相師に占わせてみると、「山中に一人の仙人がいます。この仙人がやがて寿命が尽きると、次には王の子息となるでしょう。」と卦を出した。王は喜んで、「その人はいつ死ぬのだ。」と言うと、観相師は「三年の後のことでございます。」と答えた。

 王は、「わたしはすでに老年であり、この国には祀(まつり)ごとを継ぐものがいない。更に三年待てとは、とても出来ないことだ。」と考えて、使いを遣わして山中の仙人に、「王には跡継ぎがありません。諸所の神々に祈りましたが生まれるようすがない。そこで観相師に占わせてみると、あなた様が近く亡くなられますと、王の子としてお生まれになるということです。請い願わくば恩を垂れ、一刻も早く亡くなられまして王の子としてお生まれください。」と言わせた。

 仙人は使いに、「私の寿命はまだ三年残っている。王の命令といえどもとても出来ない相談だ。」と言って返した。

 王は使いに、「わたしは一国の主であるぞ。あらゆる人と物は皆わたしの物なのだ。それでもなお敢えて礼を尽くして頼んでいる。それを承けないかとこのように再度命ぜよ。それでも承けなければ殺してしまえ。死んでしまえば、わが子となるより他なかろう。」と命じ、使いはその通りに申して、仙人がまたも命令を受けないためにこれを殺そうとしたとき、仙人は、「王に伝えよ。わたしの寿命はまだ尽きていない。王は心と口でもって敢えてわたしを殺させようとしている。もし王の子になって生まれたならば、必ず心と口でもって王を殺してやろう。」と言い残した。

 その夜、夫人は懐妊した。王は観相師に夫人を見せると、観相師は、「これは男の子ですが、先になって王を損なうと思われます。」と占う。王は、「わが国土はすべてこの子のものだ。わたしを損なうといっても何の恐れることやある。」と思ってはみたものの憂いと喜びが交々して、ついに夫人に、「そっと打ち明けたいことがある。観相師がこの子はやがてわたしを損なうと占いを出した。この子を産む日になったならば、高楼に登りその天井から地上に産み落として、下にて受け取るものがいないようにしてくれ。こうすれば産声を上げるまえに死んでしまうだろう。」と得心されるように言い、夫人もそれを受け入れた。

 夫人はその言うとおりにして子を産んだのであるが、その子は地に堕ちても命の絶えることもなく、ただ小指の骨を折っただけであった。人々はこれにより折指太子と呼んだ。この子が阿闍世太子であるが、それは未生怨(みしょうおん)と訳される、父が仙人を殺したことにより生まれる以前からの怨(かたき)という意味である。

 釈迦の従兄弟で弟子の提婆達多(だいばだった)は世間の人が多くの施物を釈尊に施すことを常に嫉妬して見ていた。嫉妬心は強いが才覚のある人であったので、まだ若い阿闍世太子に取り入り、自らは釈迦から教団を奪い取り、太子には王位を父王から奪い取って、共に繁栄しようとそそのかした。そのために阿闍世は父を牢に幽閉して逃げられないように足の裏を削ぎ、餓死せしめんと図ったのであるが、母の韋提希(いだいけ)は洗い潔めた身体に麦焦がしを蜜でねったものを塗り、首飾りのなかに砂糖水を入れて秘かに王のもとに通って王の命を救っていた。これは王となった阿闍世の知るところとなり、怒った王は母を殺そうとして剣に手をかけたが、そのとき大臣の耆婆(ぎば)は見かねて、「大王、天地始まってよりこのかた王位のために父を殺したものは一万八千人います。しかし母を殺したものは一人もいません。そのようなことをするものは刹利種(せつりしゅ、王族)の者のすることではありません、栴陀羅(せんだら、奴隷)にこそふさわしい仕業です。」と諌められ、自ら手を下すことはせずに、王と同じく幽閉した。以上、これを世に王舎城の悲劇という。

 

結集(けつじゅう):仏の滅した後、教説の散逸を防ぎ、正しい教法を保持するために仏の弟子たちのうち覚りをすでに開いている一千人を集めておのおの記憶していることを出し合った。阿闍世王の後援のもと、王舎城外の畢鉢羅窟(ひっぱらくつ)において摩訶迦葉(まかかしょう)の主導により、法については阿難(あなん)が、律(りつ)については憂婆離(うばり)が誦出(じゅしゅつ)した。

 

耆闍崛山(ぎじゃくっせん):霊鷲山(りょうじゅせん)、王舎城を囲む五つの山のうちの一、山頂に精舎があり、釈迦は多くここで過ごした。

 

王舎城を囲む五山:耆闍崛山(ぎじゃくっせん)、鞞婆羅跋恕薩(びばらばつばさ)、多般那求呵(たはんなぐか)、因陀世羅求阿(いんだせらぐあ)、薩簸恕魂直迦鉢婆羅(さるばこんちかはつばら)。

 

毘耶離(びやり):毘舎離国(びしゃりこく)、中印度の国名。後に摩竭陀国の阿闍世王に併合された。釈迦が最後にした安居の地。

阿梵婆羅(あぼんばら):菴婆羅女(あんばらにょ)、菴婆婆梨(あんばばり)、毘舎離(びしゃり)の婬女。 離車毘(りしゃび、毘舎離の刹帝利種の子弟)五百と先に仏を請ずることを諍い、国の財産を半分を分け与えると言っても肯わなかった。 仏に菴婆羅樹林を施し、それを菴羅樹園(あんらじゅおん)という。 菴婆羅樹(あんばらじゅ)とはマンゴーのこと。 (長阿含2)

 

鳩睒彌(くせんみ):拘睒彌国(くせんみこく)、中印度の国名。優顛王(うでんおう)は仏教に篤く帰依し、宮中に大精舎を設けるが、仏がなかなか来られないために、仏の像を作って供養した。 『大毘婆沙論巻第61』に曰く、塢陀衍那(うだえんな)王が諸宮室を将いて水跡山に詣でしとき、男子を除いた女人のみで五妓楽を奏し、意のままに楽音に喜び戯れていた。 清妙なる香気は馥郁とするなかに、諸の女人に命じて肌を露して舞えと命じた。 その時、五百の離欲の仙人が神通に乗ってこの上を過ぎ、妙色を見、妙声を聞き、妙香を嗅いで、皆神通を失い、この山上に翼の折れた鳥のように墜ち、飛ぶことができなくなった。 王が問う、『お前たちは誰か?』、仙人が答える、『仙人でございます。』、問う、『仙人ならばお前たちは初禅を得ているだろう?』、答え、『わたしたちは得ていましたが、今はもう失ってしまいました。』と。 その時、王は瞋忿してこう言った、『不離欲の人が何故おれの宮人と婇女とを観たのか? 極めてけしからんことである。』と。 そこで剣を抜いて五百の仙人の手足を切断したと。

 

伽耶(がや):仏陀伽耶(ぶっだがや)、象頭山(ぞうずせん)とも言い、釈迦が菩提樹下に成道した場所に近い。

 

舍衛城(しゃえいじょう):舎婆提(しゃばだい)、憍薩羅国(ごうさらこく)の首都。

波斯匿王(はしのくおう):憍薩羅国の王。父は梵授王(ぼんじゅおう)。王の第二夫人末利(まり)は本、迦毘羅城の婢女であったが、王が仏に帰依した因縁により、王に招聘されて夫人となり、一子一女を生んだ。この一女は母と同じ末利という名であり、勝鬘経(しょうまんぎょう)で有名な勝鬘夫人である。一子は悪生(あくしょう)と名づけられ、やがて大臣長行(ちょうぎょう)と謀って王位を簒奪した。

毘楼璃王(びるりおう):毘瑠璃王、舎衛国(しゃえいこく)の王。父波斯匿王(はしのくおう)を弑(しい)して王位を簒奪し、怨みにより迦毘羅城(かびらじょう)を攻め釈迦族を亡ぼした。

 

給孤独長者(ぎっこどくちょうじゃ):本名は須達多(すだった)。莫大な財産を貧民と身寄りの無い老人に施し救済に努めたために、給孤独あるいは善施の名がある。祇樹給孤独園(ぎじゅぎっこどくおん)という精舎を仏に寄進した。

 

祇樹給孤独園(ぎじゅぎっこどくおん):舍衛城に精舎を建てるに適した方五里の土地があった。爽やかな高台にあり、泉とよく繁った林があった。給孤独長者はその土地を仏に寄進すべく、持ち主の祇陀太子(ぎだたいし)に譲るよう願ったが太子は諾(うべ)なわず、冗談に、もし厚さ五寸に純金の地金を敷き詰めたならば譲ってやろうと言った。給孤独は許諾して金を敷き詰め始めた。半ばになったとき太子は後悔して自らも仏に寄進したくなり、長者にもう金は充分だ土地を取れと言うが長者は取り合わない。太子はそこで一計して土地は長者に許したが樹林はまだ自分のものであると言い、仏に樹林を寄進することにした。このような訳で今、この精舎を祇樹給孤独園というのである。

 

孫陀利(そんだり):須陀利(すだり)、仏を誹謗せんが為に外道に謀殺されし婬女の名。仏かつて舎衛国祇園精舎に在りし時、その徳望既に高く、国王人民挙りて仏を供養し、復た外道を尊重する者なし。時に国中の外道これを嫉み、謀りて仏を毀けんと欲し、婬女孫陀利をして強いて朝暮に仏所に至り、またしばしば精舎に往来せしめ、諸人為に仏及び諸弟子の持戒徳行を疑うに至れり。後諸外道は更に孫陀利を殺害してその屍を祇園樹林に埋め、王宮に至りて彼の女の所在を知らずと揚言す。王その女は常に何処に在りしやを問うに、常に沙門瞿曇の所を往来せりと答えたるを以って、王は即ち吏兵を遣わして祇樹の間を捜索し、果たして孫陀利の死屍を得たり。ここに於いて悪声里巷に満ち、比丘等城に入りて乞食するも、人遙かにこれを見て罵辱し、復た供養する者なし。時に仏諸比丘に告げて曰はく、われこの妄謗を被るも七日を過ぎざるのみと。乃ち阿難をして城に入りて法を説かしめ、為に諸里ようやく実なきを覚り、後にその外道の所為なること露見するに及び、王大いに怒りて諸外道を国外に放逐せり。『孫陀利宿縁経(仏説興起行経巻上)』によれば、釈尊は過去に浄眼(じょうげん)という博戯人(ばくち打ち)であった。ある日、鹿相(ろくそう)という婬女を誘い波羅奈(はらな)城外の樹園に遊んだ時、鹿相の着衣等に目がくらみ殺して奪った。その為に地獄の罪を受けたのであるが、人として生まれた今、孫陀利となって生まれ変わった鹿相に謗られるのである。また『仏五百弟子自説本起経』によれば、仏は、かつて須陀利という仙人を誹謗したために、その娘に五百の弟子と共に誹謗されたとある。『智25』

 

迦毘羅婆(かびらば):迦毘羅衛(かびらえ)、城名にして国名。釈迦生誕の地。近くの強大国憍薩羅国に従属していた。

 

波羅奈(はらな):国名。鹿野園(ろくやおん)という精舎があった。

鹿野園(ろくやおん):釈迦の初転法輪の地。阿若憍陳如(あにゃきょうちんにょ)等五比丘を導いた。

 

勝渠仙人子(しょうこせんにんし):一角仙人(いっかくせんにん)。波羅奈国の鹿の腹から生まれた角のある仙人で、山中に住み、雨が降ると足が不便であるからと十二年間、神通力により雨を降らせなかった。 国王は誰か仙人に雨を降らせる者はいないかと募ると、婬女扇陀(せんだ)が立ち、雨を降らせてしかも仙人の頂に乗って帰ると約束した。 扇陀は種種の歓喜丸等の薬、種種の酒、種種の果物などを大量にたずさえ、酒を浄水といつわって一角仙人に飲ませるにおよび、仙人はついに婬事を成して神通を失い、大量の雨が降るに至った。 すでに尽きた酒、薬、果物等を求めて、仙人に山を下らせ、城に近づくと扇陀は疲れたから歩けないと言い、仙人の頂に乗って還った。

 

瞻婆(せんば):瞻波(せんば)、国名。中印度の都城の始めという。

 

漚楼頻螺国(うるびらこく):この国を流れる尼連禅河(にれんぜんが)の辺に、釈迦が六年間苦行した林がある。

尼連禅河(にれんぜんが):釈迦は覚りを得るために、先ずこの河で澡浴し、然る後にこの河の辺の菩提樹の下に草を敷いて結跏趺坐(けっかふざ)し、七日目の日の出の刻に覚りを開いた。

 

倶夷那竭国(くいながこく):拘尸那竭羅(くしながら)、印度の地名、釈尊入滅の地として有名。

末羅族(まつらぞく):拘尸那竭羅城に住む力士一族。仏を火葬にするとき、この一族が棺を担いだ。

薩羅双樹(さらそうじゅ):拘尸那竭羅国の阿利跋提河(ありばっだいが)のほとりに在り、四方に二本が対になった娑羅の木の生えている場所が在り、その間で釈尊は入滅された。

 

阿羅毘国(あらびこく):印度古国名。曠野にして禽獣の住処。

 

毘蘭若(びらんにゃ):婆羅門の名、またその婆羅門の所有する国の名。

 

民大居士(みんだいこじ):『十誦律巻26』によれば、修摩(しゅま)国の婆提(ばだい)城に居住せる大富豪にして大施者。 それによれば、「婆提城の中に、大福徳人が六人いる。 その六とは、一は居士で民大という、二は民大の婦、三は民大の児、四は民大の児の婦、五は民大の奴、六は民大の婢」とある。 『四分律巻42』にも跋提(ばつだい)城の旻荼(みんだ)の名で詳しい記述がある。 (智15)

 

首羅(しゅら):毘耶離国の居士。富貴の象師であり、種種に財宝田宅を有していたが、深く仏法僧に帰依して布施を好み、比丘等の乞うがままに、所有物の一切を布施して、婦児に供足できず飢乏させるに及び、諸居士は、沙門釈子は時を知らず、量を知らず、もし施者量を知らずとも、受者はまさに量を知るべし。この首羅象師は本、財物に富んでいたが、布施するに量を知らずして与え、婦児に供足できず飢乏させたのは甚だ憐愍すべしと難じた。この事、仏の知る所となり、『この舎に入りては、自らの手もて食を受けず』との戒を結ぶに至った。『十誦律第19』(智24)

 

尼陀(にだ):尼提(にだい)、舎衛城は狭小なるが故に便所がなく、大小の便利は皆城外に出て済ませていたが、豪尊の者は便器を用い、人を雇って捨てさせていた。仏がただ阿難一人を将いて城内で乞食していると、除糞人の尼陀にであった。尼陀は不浄の浄満する器を抱えながら自らを恥じて脇道に去るが、大通りに出るとまた仏にであい、驚いて脇道にそれようとしたはずみに器を堕として割り、不浄がかかって身を濡らした。仏はそれを見て近くに寄り、尼陀に出家を促す。尼陀は自ら卑賤と汚れていることを説き、出家を辞退するが、仏の、わが法は浄水の如く、一切の汚れを洗い流すと言うを聞き、遂に出家を得るに及び、阿難に将いられて恒河の水で身を潔め、祇園精舎にて法を聞いて初果を得た。『大荘厳論経巻7』、『賢愚経巻6尼提度縁品第三十』、『出曜経巻1』等参照。(智26)

 

徳護居士(とくごこじ):長者徳護は、外道の教を信奉して仏を怨むが故に、邸の七重の門の下に七つの火坑を作り、無煙の火を焚いて上を銅の梁と草土で覆い、飲食に毒を仕込んで、仏を請じて供養せんとしたが、仏の神力と長者子月光等の諌めにより、火は消え毒も滅して長者は懺悔した。『仏説徳護長者経』参照。(智26)

 

鬱陀羅伽仙人(うつだらかせんにん):五通の仙人であるが、ある日王宮で大夫人に足を触れられ、神通を失い、また得ようとして禅定につとめたが、樹下に坐れば鳥が鳴き、水辺においては魚が騒ぎ、禅定が破れてなかなか目的が果たされないため、ついに瞋恚を懐いて『魚も鳥も殺し尽したい。』と考えたために、やがて非有想非無想処に生れたが、そこでの寿命が尽きると飛狸(むささび)に生れ、鳥と魚を多く殺した罪で三悪道に堕ちた。 (智17)

 

螺髻仙人(らけいせんにん):本生、釈迦は過去世において螺髻仙人の尚闍利(しょうじゃり)といった。 非常に永い禅定に入っている間に、鳥が髻(まげ)の中に卵を生んだ。 禅定から起った仙人はそれを覚り、動けば鳥の母が近寄らなくなるのを恐れて、ふたたび禅定に入り、鳥の子が飛び立ちおわってから、ようやく起ち上がった。 (智4、17)

 

五大精舎(ごだいしょうじゃ):釈尊の教団には大きな精舎が五つあった。

 (1)祇樹給孤独園(ぎじゅぎっこどくおん):舍衛国(しゃえいこく)。給孤独長者(ぎっこどくちょうじゃ)によって寄進された。

 (2)霊鷲精舎(りょうじゅしょうじゃ):摩竭陀国(まがだこく)。王舎城近くの霊鷲山(りょうじゅせん)の頂にある。

 (3)彌猴池精舎(みこうちしょうじゃ):毘耶離国(びやりこく)にあり、猿が多くいた。

 (4)菴羅樹園(あんらじゅおん):毘耶離国のマンゴー園にありました。菴羅樹女(あんらじゅにょ)の寄進したもの。

 (5)竹林精舎(ちくりんしょうじゃ):又は迦蘭陀竹園(からんだちくおん)。摩伽陀国。王舎城近くにありました。迦蘭陀長者(からんだちょうじゃ)の寄進したもの。

 

阿輸伽王(あゆかおう):阿育王(あいくおう)、訳して無憂(むう)王。 西紀前三百二十一年頃、印度に於いて孔雀王朝を創立した旃陀掘多(せんだくった)大王の孫。 紀元前二百七十年頃、全印度を統一、大いに仏教を保護して、各地にこれを宣布せしめた。 阿育王経によれば、その母は贍婆羅(せんばら)国の婆羅門の女で、名を須跋羅祇(すばつらぎ)という。 王は、幼時、甚だ狂暴であったので、父王はこれを愛さず、兄の修私摩(しゅしま)を継嗣にしようとした。 たまたま領内の叉尸羅(しゃしら)国に反乱が生じたとき、父は彼にこれを討つよう命じたが、象兵、馬兵、車兵、歩兵を与えるのみで、一切の武器を与えなかった。 父王は彼に戦没して欲しかったのである。 しかし彼は豪邁し善戦して、この反乱を平定したので、威権は大いに張り、遂に父王の崩御の後には、修私摩を殺して王位に登った。

 

違陀輸(いだゆ):韋陀輸(いだゆ)、帝須(たいす)、阿育王の弟。初め仏教を信じなかったが、一日森林に入り、群鹿が交尾するのを見て、比丘は、はたして本当に、欲を制することができるのだろうかと疑い、還ってからこれを王に語った。王は、これが疑いを解くためと、これを仏教に帰せしめんが為に、一計を案じて、これに七日の間王位に就け、七日を過ぎれば命を取ろうと告げた。違陀輸は、七日の間、王位に上って快楽を恣にしたが、死を畏れて安んずる日が無く、欲も起こらず、憂悩し憔悴した。七日を過ぎて王は、違陀輸を諭してこう告げた、『出家の比丘は、常に死を思っている。その故に染著心を起こす暇が無いのだ。』と。(『南伝善見律』による)

 

娑婆(しゃば):我々が住むこの三千大千の国土をいう。娑婆とは忍土(にんど)と訳すが、この土には地獄餓鬼畜生修羅人間天上の六趣があり、この土の衆生は耐え忍んでその六趣を流転しなければならないためにこう呼ばれる。

三千大千国土(さんぜんだいせんこくど):三千大千世界(さんぜんだいせんせかい)、須弥山(しゅみせん)を中心として七つの山と八つの海があり、その周囲に鉄囲山(てっちせん)という山脈が取り巻いている。これを小世界といい、小世界が千合わさって小千世界を為し、小千世界が千合わさって、中千世界を為し、中千世界が千合わさって大千世界を為す。この大千世界を別名三千大千世界という。小千中千大千と三つの千から為るという意味である。この三千大千世界には一時に一人だけの仏が現れると言う。

四洲(ししゅう):須弥山を囲む海中の四大洲(しだいしゅう)。

   (1)南瞻部州(なんせんぶしゅう)、閻浮堤(えんぶだい)ともいい我々の住んでいるこの世界。

   (2)東勝神洲(とうしょうしんしゅう)、勝身洲、毘提訶(びだいか)、弗婆提(ふばだい)、この洲の人は身形が勝れる。

   (3)西牛貨洲(さいごけしゅう)、瞿陀尼(くだに)、瞿耶尼(くやに)、牛をもって貨幣とすることからこういう。

   (4)北瞿盧洲(ほくくるしゅう)、鬱単越(うったんおつ)、勝処と訳し、四洲の中で最勝の国土という。

 

閻浮堤の四大河(したいが):閻浮堤の中央にある阿耨達池(あのくたっち)から四方に流れ出す大河。恒河、辛頭河(しんづが)、縛叉河(ばくしゃが)、私陀河(しだが)をいう。

 

須弥山王(しゅみせんおう):須弥山は山々の王であることから、須弥山を敬って言う。

 

毘首羯磨(びしゅかつま):建築、工芸に巧みな天の名。

 

[*侯]阿修羅王(らごあしゅらおう):六道の下から四番目阿修羅(あしゅら)の王の名。この王は常に帝釈と戦っていて、日月を取って光を消してしまうと言われ、日蝕月蝕はそのために起こると怖れられる。

 

阿那婆達多(あなばだった):龍王名、阿耨達龍王(あのくたつりゅうおう)ともいう。(長阿含18)

 

梵天(ぼんてん):梵天王、(大梵天<)の主、尸棄(しき)という。仏教の守護神であり初転法輪を勧請する。

那羅延(ならえん):那羅延天、天上の力士、梵天王、あるいは毘紐天(びちゅうてん)の別名ともいう。

 

大自在天(だいじざいてん):摩醯首羅天(まけいしゅらてん)、毘紐天(びちゅうてん)、色界の頂に在りて、三千大千世界の主、二目八臂で白牛に乗る。自在天外道の主神という。

 

帝釈(たいしゃく):天帝釈釈提桓因(しゃくだいかんいん)、釈提婆那民(しゃくだいばなみん)、忉利天(とうりてん、別名三十三天<)の主、須弥山頂の喜見城に住み、舎脂(しゃち)を夫人とする。

剣婆石(けんばしゃく):帝釈の宝座。

帝釈四苑(たいしゃくしおん):喜見城に属する四つの園苑。

  (1)衆車苑:帝釈遊戯せんとしてこの苑に入るに種種の宝車自然に湧出す。

  (2)麁悪苑:帝釈戦闘せんとしてこの苑に入るに所須の器仗自然に湧出す。

  (3)雑林苑:諸天中に入りて翫ぶ所に、皆同じく倶に勝喜を生ず。

  (4)喜林苑:歓喜園(かんぎおん)、極妙の境界皆ここに集まり、これを観て厭きず。

                             (阿毘達磨大毘婆沙論巻133)

 

鳩摩羅天(くまらてん):初禅天の王、童顔をしているといわれる。

 

転輪聖王(てんりんじょうおう)の七宝:転輪聖王とは天下を統一し、正法を以って世を化す仁王である。説に拠れば、転輪王に随い出づる所の世間に就き、七宝の出現すること有り。七宝とは、軍事を領袖する主兵臣、理財を専門とする主蔵臣、宮内を潤して和らげる女宝(王后)、象宝、馬宝、夜に光って軍営を明るく照らす珠宝、千里万里を飛来し、人を驚かせて降伏させる輪宝をいう。

 

伊泥延(いないえん):伊尼延(いにえん)、鹿王の名。

 

阿遮羅菩薩(あしゃらぼさつ):不動尊と訳す。

 

尸毘王(しびおう):本生譚、釈迦が過去世に王であったときの名。鷹に襲われた鴿(はと)を救うために鷹に鴿の目方と同じ重さだけ、自らの肉を切り取って与える約束をしたが、その鷹と鴿は帝釈(たいしゃく)と毘首羯磨(びしゅかつま)が尸毘王の菩提心を試そうとしてなった化身であるために、鴿の目方を自在に増やして、遂に息絶えるまで自らの肉を切り取りとってもなお、菩提心を失うことはなかった。(智4)

 

須陀須摩王(しゅだしゅまおう、すだすまおう):本生譚、この王は、ある朝、大勢のお供を引き連れて園遊をしに城から出ようとすると、一人の婆羅門に施しを求められた。王は『帰りに与えよう。』と約束をして園遊していると、鹿足(ろくそく)という大鷹に攫(さら)われてしまい、高山の頂に置かれた。

 王は大声を上げて嘆き悲しんだ。それを聞きとがめて鹿足は、『何を悲しんで泣いているのだ。人に生死があることは当然のことであるのに、その嘆きようはどうしたことだ。』と訊ねると、王は『死ぬことを怖れて泣いているのではない。今朝の約束を果たすことが出来ないから、このように嘆いているのだ。』と言う。鹿足は『それは感心なことだ、では七日間の猶予をやろう。その間に約束を果たし、その後にここへ帰って来い。』と許し、本の園林まで連れ帰った。

 王は城に帰り着くと、大施会(だいせえ)を開き、大勢の沙門、婆羅門を請じて、大いに供養した。七日目に鹿足の待つ高山へ帰ろうとすると、家臣は王を心配して、『鉄の部屋を作りその中に隠れていてはどうか、鹿足は私どもが何とかしましょう。』と勧めるが、王は『鹿足とは約束を交わした、それを破って来世の苦しみを招くようなことは出来ない。』と言い残して、鹿足の待つ高山へ帰った。

 鹿足はこの行為に大いに感じ入り、既に捕らえてあった他の九十九人の王と一緒に皆解放した。(智4)

劫磨沙波陀大王(ごうましゃはだだいおう):迦摩沙波陀王(がましゃはだおう)、鹿足王(ろくそくおう)、駁足王。

 

蘇陀蘇摩王(そだそまおう):本生譚、蘇陀蘇摩王は、ある時、目にて視れば弱い者を殺し、息を吹きかければ強い者を殺す大力の毒龍となった。 たまたま、一日戒を受け、林間にて坐禅していたが眠り込んでしまい、猟師がこれを見て大蛇だと思って、その美しい皮を取って王に奉らんがために、杖で頭を押えて皮を剥いだ。 龍は自ら戒を守るために、この人を殺すことを怖れて目を開いて視ず、息を止めて吹きかけず、じっとされるがままにしていた。 皮を失った赤い肉が日に焼かれ、大水を求めて地中に入れば、諸の小虫が身を食いだした。 龍はこの小虫を殺すことを怖れて動かなかったが、ついに身が乾いて死に、忉利天に生まれた。 この龍とは釈迦文仏であり、猟師とは提婆達多であいり、諸の小虫とは釈迦文仏が初めて法輪を転じたとき道を得た、八万の諸天がこれである。 (智14)

 

薩陀波崙菩薩(さだはりんぼさつ):常啼菩薩(じょうたいぼさつ)、大般若波羅蜜多経巻第398〜399常啼菩薩品第七十七、大品摩訶般若波羅蜜経巻第27常啼品第八十八、小品摩訶般若波羅蜜経巻第10薩陀波崙品第二十七の主人公の菩薩。身命を惜まず法を求めて、それを得られずに常に大声で泣き叫んでいたために常啼菩薩と呼ばれる。この常啼品の概略を述べると、――「菩薩が般若波羅蜜を求むるには常啼菩薩のように修道に励むがよい。この菩薩が般若波羅蜜を求めた態度は全く不惜身命、不顧珍宝、何物をも捨て、ある静かなる山に隠れて唯一心に道を求めるのであった。ある時、忽然として空中に声有り、『汝、これより東の方に往くがよい。然らば甚深の般若波羅蜜を聞くことを得るであろう。しかし、それは一生懸命でなくてはならぬ。汝、行くに当って、疲倦を辞する莫れ、睡眠を念ずるなかれ、飲食を想うなかれ、寒熱を怖るるなかれ、内外の法に於いて心を乱すことなかれ、また道すがら左右を還り視ることなかれなど、何々するなかれ、何々することなかれ等の言葉が沢山に連ねられて、一心不乱に法を求むることを示された。

  常啼菩薩は、この力強き教に躍り上がって、きつと私はあなたの教に信順して、修行を怠りますまい、私は悩の大闇の中に悶える衆生の為に、救済の光となりたい、総ての仏の法を知りたい、無上の正覚を得たいと、そればかりを念じている。必ずこの大願を成じ遂げるであろうと答えて、これからいよいよ東方に向かって求道への巡礼に赴くのであった。

  常啼は既に巡礼の旅に上った。しかし中途に至って彼の胸には、にわかに不安の念が生じて来た。それは空中の声に聞き漏らした一大事に思い至ったからである。私は何処に行くのか、そしてそこは遠いのか近いのか、また法の師は誰人なるかなどの不安が胸一ぱいに生じ来たった。彼は決心した。たとえ一日でも二日でも乃至七日七夜でも、この不安の絶ゆるまでは決してここを立たじと。すると、『善男子、決して案じ煩うでない、かくの如きは過去のすべての道を求むる人々が、皆嘗めた経験である。これより五百由旬を往けば、大きな城につく、それは衆香城とて七宝によりて荘厳せられている。その城内に住むもの多く、財豊かに楽しみに充ち、しかも誰の所有でもない、この城中に住む人簿との熱心に般若を求め、また修行した報の城である。城の真中の高台に法涌菩薩が在して、朝な夕な日に三時の説法がある。城中の衆生は、ここに詣でて法を聞き、浄行をを修するのである。汝も速かに、その処に往詣して、般若波羅蜜を獲得せよと教えられ、常啼の心の喜びは潮の涌きたつように胸の高鳴りを感ずるのであった。

  それからの常啼の求道の態度は実に涙ぐましい苦修であり練行であった。ある時の如きは婆羅門の為に、わが肉と血を売ってまでも法涌菩薩への供養の資を求めんとしたことさえあった。遂に長者の娘が彼の求道心の熱烈さに化せられて、発心せるに遇い、長者の恵める諸の供養物を五百台の宝車に積んで、衆香城に至り、法涌菩薩の道場に詣で般若の法を求めたのであった。

  常啼菩薩はかくして般若波羅蜜を逮得し、菩提の妙果を証したのである。」と。

 

頂生王(ちょうしょうおう):昔、布殺陀(ふせつだ)という王がいた。 王の頂上に、忽ち疱を生じ、疱より一子を生じた。 後に長じて金輪王(こんりんおう、四天下の王)となり、頂生王と称した。 頂生金輪王は、すでに四天下を征服し、ついに忉利天に上って帝釈を害し、これに代ろうとしたが、成らずして、また地に下り、病に困じて死んだ。 今の釈迦仏とはこれである。『賢愚経頂生王品』等。 (智15)

 

韋羅摩(いらま):昔の閻浮提の婆羅門。 婆薩婆(ばさつば)王に転輪聖王の法を教えていたが、無量の財を得たので、十二年の間、大いに施した。 (智11)

 

弗沙仏(ふしゃぶつ):釈迦の過去世に於ける修行の師。この師から釈迦と弥勒(みろく)という二人の弟子を観察すると、釈迦の場合は自らは心に雑念を持ち、釈迦の弟子達は持っていない。それに反して、弥勒の場合は自らは雑念を持たず、その弟子達は持っていた。弗沙仏は釈迦の雑念を早く取り去ろうとして、雪山(せっせん)中の洞窟において火定三昧(かじょうさんまい)に入り身体から光を放った、それを遠くから見た釈迦は心が歓喜信敬(かんぎしんぎょう)して、七日七夜の間、叉手合掌(さしゅがっしょう)して片足で爪先立ち一心に観察して、心の雑念を取り払った。(智4)

弥勒(みろく):阿逸多(あいった)、慈氏(じし)、釈迦の次にこの世界に出生する仏。『無量寿経』、『法華経』など多くの経典に於いて、説法の相手を務める。

 

然灯仏(ねんとうぶつ):本生譚、釈迦が過去世に菩薩であったとき、燃灯仏が入城されることを聞き、青蓮花を供養しようとしたが、時の王が自分一人で供養したいと思い、全ての供養物の売買を禁じ、誰も売ってくれない。その時一人の水汲みの婢女が七茎の青蓮花を持って通りかかった。その訳を聞いてみると、自分も供養したいと思って手に入れたが、それは禁を犯すことになり出来ないでいると言う。その七茎の青蓮花を手に入れて、燃灯仏に向かって撒いたところ、燃灯仏の頭上に蓋と成って止まっていた。また仏の行く道が泥でぬかるんでいたとき、仏の足が汚れるのを恐れて、鹿皮の衣を敷き、髪を布(し)いて泥を掩(おお)い、我が身を泥中に横たえ橋梁となして、仏を渡らせた。その時、仏から授記を受けた。(智4、仏本行集経3)

 

文殊師利(もんじゅしり):文殊菩薩(もんじゅぼさつ)、妙徳菩薩(みょうとくぼさつ)、妙吉祥菩薩(みょうきちじょうぼさつ)、法王子(ほうおうじ)とも言う。仏の智慧を現す菩薩として、慈悲を現す普賢菩薩(ふげんぼさつ)と共に、釈迦の両脇侍を勤める。仏説首楞厳三昧経巻下(しゅりょうごんさんまいきょう)によれば、南方千仏国を過ぎた所に平等(びょうどう)という仏国があり、文殊師利は、かつて既にこの国土で仏であり、龍種上如来(りゅうしゅじょうにょらい)と号したとある。法王子というのは、仏身を継いで断絶させない者という意味であり、文殊師利の像の多くが童顔を現しているのはその故である。また多くの像が三つ或いは五つの髻(もとどり)を頭上に結っているのは当時の王族(刹帝利(せっていり))の風習であるとも、童子の姿であるともいう。

  注:仏を、しばしば法王という。

 

羼提比丘(せんだいびく):本生譚、迦梨王(かりおう)に手、足、耳、鼻を切り取られても、心が動かなかった(智4、賢愚経2)

 

劬嬪陀(くびんだ):過去世に於いて修行中の釈尊の名前、婆羅門の大臣となり閻浮堤を七分して諍い事を無くした。

 

七仏(しちぶつ):過去七仏(かこしちぶつ)、釈迦の前にこの世に現れた仏。四分律比丘戒本(しぶんりつびくかいほん)によれば、次の通り。各仏の偈も併せて示す。

   (1)毘婆尸如来(びばしにょらい):

       忍辱第一道 仏説無為最

       出家悩他人 不名為沙門

   (2)尸棄如来(しきにょらい):

       譬如明眼人 能避険悪道

       世有聡明人 能遠離諸悪

   (3)毘葉羅如来(びしゃらにょらい):

       不謗亦不嫉 当奉於戒行

       飲食知止足 常楽在空閑

       心定楽精進 是名諸仏教

   (4)拘留孫如来(くるそんにょらい):

       譬如蜂採華 不壊色与香

       但取其味去 比丘入聚落

       不違戻他事 不観作不作

       但自観身行 若正若不正

   (5)拘那含牟尼如来(くなごんむににょらい):

       心莫作放逸 聖法当勤学

       如是無憂愁 必定入涅槃

   (6)迦葉如来(かしょうにょらい):

       一切悪莫作 当奉行諸善

       自浄其志意 是則諸仏教

   (7)釈迦牟尼如来(しゃかむににょらい):

       善護於口言 自浄其志意

       身莫作諸悪 此三業道浄

       能得如是行 是大仙人道

 

阿弥陀仏(あみだぶつ):無量寿(むりょうじゅ)、法蔵(ほうぞう)、曇摩迦(どんまか)

   西方極楽国(ごくらくこく)の教主。無量無数不可思議劫の昔、世自在王仏(せじざいおうぶつ)世に出でし時、時の国王がその説法を聞いて出家し法蔵と号した。仏に願って二百一十億の国土の善悪の様子を具に観察し、五劫の間思惟した結果、仏の前で四十八の願を立てて仏国の建設を誓い、不可思議兆載永劫の間四摂法ないし六波羅蜜を修行して、願が適い十劫の昔に仏となった。その国土を極楽国という。

十二光仏(じゅうにこうぶつ):阿弥陀仏の無量の身光に因んで持つ十二の号。

  無量光仏、無辺光仏、無礙光仏、無対光仏、炎王光仏、清浄光仏、歓喜光仏、智慧光仏、不断光仏、難思光仏、無称光仏、超日月光仏

四十八願(しじゅうはちがん):阿弥陀仏がかつて法蔵と号せし時、世自在王仏の前で立てし願。(願名は了慧の無量寿経鈔による)

  (1)無三悪趣願:国土に地獄、餓鬼、畜生がない。

  (2)不更悪趣願:再び地獄、餓鬼、畜生に還ることがない。

  (3)悉皆金色願:国中の人天の肌色は金色である。

  (4)無有好醜願:国中の人天の形色は同じで好醜がない。

  (5)宿命智通願:国中の人天は宿命通を得る。

  (6)天眼智通願:国中の人天は天眼通を得る。

  (7)天耳智通願:国中の人天は天耳通を得る。

  (8)他心智通願:国中の人天は他心智通を得る。

  (9)神境智通願:国中の人天は神足(如意)通を得る。

  (10)速得漏尽願:国中の人天は身を貪計しない。

  (11)住正定聚願:国中の人天は正定聚(必定証悟者)に住す。

  (12)光明無量願:我が光明は無量である。

  (13)寿命無量願:我が寿命は無量は。

  (14)声聞無数願:国中の声聞は無数である。

  (15)眷属長寿願:国中の人天の寿命は無量である。

  (16)無諸不善願:国中の人天に不善なし。

  (17)諸仏称揚願:我が国を諸仏は称揚する。

  (18)念佛往生願:十方の衆生、至心に信楽(しんぎょう)して我が国に生まれんと欲する時、ないし十念すれば必ず生まれる。

  (19)来迎往生願:十方の衆生、菩提心を発し、諸功徳を修め、至心に願を発して我が国に生まれんと欲する時、命の終らんとする時に臨んで必ず我は大衆に囲繞されて現前する。

  (20)係念定生願:十方の衆生、我が名号を聞き、念を我が国に係けて、諸の徳本を植え、至心に廻向して我が国に生まれんと欲すれば必ず生まれる。

  (21)三十二相願:国中の人天は三十二大人相を成満する。

  (22)必至補処願:他方仏土の諸菩薩、我が国に来生すれば究竟じて必ず一処補処に至る。ただし本願により諸仏の国に遊んで菩薩の行を修する場合を除く。

  (23)供養諸仏願:国中の菩薩、仏の神力を承けて一食の頃に無数の諸仏を供養する。

  (24)供具如意願:国中の菩薩、諸仏の前に在りて欲求する所の供養の具、意の如し。

  (25)説一切智願:国中の菩薩、一切智を演説する。

  (26)那羅延身願:国中の菩薩、金剛那羅延(ならえん、力士神)の身を得る。

  (27)所須厳浄願:国中の人天の一切の万物、厳浄光麗にして窮微極妙である。

  (28)見道場樹願:国中の菩薩、無量の光色の高さ四百万里の道場樹を知見する。

  (29)得辯才智願:国中の菩薩、我が経法を受読、諷誦、持説する智慧と辯才を得る。

  (30)智辯無窮願:国中の菩薩の智慧と辯才は無量である。

  (31)国土清浄願:国土は清浄にして十方一切の無量の諸仏世界を明了に見る。

  (32)国土厳飾願:地より虚空に至るまでの一切の万物は無量の雑宝と香で合成される。

  (33)触光柔軟願:十方の無量諸仏世界の衆生、我が光明を蒙りて身心柔軟になる。

  (34)聞名得忍願:十方の無量諸仏世界の衆生、我が名字を聞いて菩薩の無生法忍、諸の深き総持を得る。

  (35)女人往生願:十方の無量諸仏世界の女人、我が名字を聞いて歓喜信楽し菩提心を発して女身を厭悪せんに命終りての後には再び女身を得ることはない。

  (36)常修梵行願:十方の無量諸仏世界の菩薩衆、我が名字を聞いて命終れば常に梵行を修して仏道を成ずるに至る。

  (37)人天致敬願:十方の無量諸仏世界の人天、我が名字を聞いて五体投地、稽首作礼し、歓喜信楽して菩薩の行を修めれば、必ず諸天、世人は尊敬を尽くす。

  (38)衣服隨念願:国中の人天の衣服、念に随って至り自然に身に在る。裁縫、擣染、浣濯なし。

  (39)受楽無染願:国中の人天、楽を受けても漏尽きてなし。

  (40)見諸仏土願:国中の菩薩、意の隨に十方の無量の諸仏の厳浄の国土を見る。

  (41)諸根具足願:他方国土の諸菩薩、我が名字を聞き成仏に至るまで諸根具足す。

  (42)住定供仏願:他方国土の諸菩薩、我が名字を聞き清浄解脱三昧を得て、一発意の頃に無量の諸仏を供養して、禅定の意を失わない。

  (43)生尊貴家願:他方国土の諸菩薩、我が名字を聞き命終りての後に尊貴の家に生る。

  (44)具足徳本願:他方国土の諸菩薩、我が名字を聞き歓喜踊躍し、菩薩の行を修め徳本を具足する。

  (45)住定見仏願:他方国土の諸菩薩、我が名字を聞き普等三昧を得て、この三昧に住し、成仏まで常に無量一切の仏を見る。

  (46)随意聞法願:国中の菩薩、その志願に随って聞かんと欲する法を自然に聞く。

  (47)得不退転願:他方国土の諸菩薩、我が名字を聞き不退転に至る。

  (48)得三法忍願:他方国土の諸菩薩、我が名字を聞き第一第二第三法忍を得て不退転に至る。

 

極楽国(ごくらくこく):安楽国(あんらくこく)、安養国、極楽浄土。阿弥陀仏の国土。

八功徳水(はっくどくすい):極楽の宝池の水の功徳。『称讃浄土経』には次を上げる。

    (1)澄みて浄し。

    (2)清くして冷たし。

    (3)甘美なり。

    (4)軽軟なり。

    (5)潤沢なり。

    (6)安心和楽なり。

    (7)飲む時、飢渇等の無量の過患を除く。

    (8)飲みおわれば定めて能く諸根を長養し四大増益す。

三法忍(さんほうにん):三忍、極楽の衆生が覚りに至る法。

  音響忍(おんごうにん):極楽の道場樹から出づる音響を聞いて真理を覚る智慧を得る。

  柔順忍(にゅうじゅんにん):智慧によって心が柔順になり真理に逆らわない。

  無生法忍(むしょうほうにん):万物は平等無差別にして、不生不滅なりの真理を覚る。

 

世自在王仏(せじざいおうぶつ):世饒王(せにょうおう)、楼夷亘羅(るいこうら)ともいう。阿弥陀仏が法蔵比丘という名の下にこの仏について修行した。

 

須達那菩薩(すだつなぼさつ):善財童子(ぜんざいどうじ)、『華厳経』の入法界品(にゅうほっかいぼん)の主人公で五十三の善知識を次々と訪ね教えを受ける。(智5、六十華厳47、八十華厳64)

漚舎那優婆夷(うしゃなうばい):休捨優婆夷(くしゃうばい)、『六十華厳経』巻第四十七、『八十華厳経』巻第六十四に次の善財童子(ぜんざいどうじ)の師。(智5、六十華厳47、八十華厳64)

 

不可思議経(ふかしぎきょう):不可思議解脱経(ふかしぎげだつきょう)、『華厳経』の別名。

 

筏喩(ばつゆ、いかだのたとえ):『汝曹(なんじら)、若し我が筏喩の法を解せば、是の時、善法といえども応に棄捨すべし。何をか況や、不善の法をや。』(中阿含54筏喩経(ばつゆきょう))

 仏の意は是の如し。「我が弟子、愛法無かれ、染法無かれ、朋党無かれ。但(ただ)、離苦解脱のみを求めよ。諸の法相に戯論せざれ。」と。(智1)

 河を渡り終われば筏は捨てるべし。一つの法に凝り固まってはならない。わが法を愛するあまり、他と諍ってはならない。

朋党無かれ:同じ考えの者たちが集まって、他の集団に対立してはならない。自ら悟るその中に仏法は存在する。自ら自分に適した方法を工夫して、衆生、他の人、他の生き物の為に尽くすことが仏法である。本来、仏法の中には対立的な要素はない。

 

放牛十一法(ほうごじゅういっぽう):牛飼いの法に譬えた比丘の為の十一の法。

 (1)牛飼いは、牛の色を知る。

   比丘は、一切の色身は四大と四大の所造であると知る。

 (2)牛飼いは、牛の健康と病気の相を知る。

   比丘は、人の善悪の行為は智慧と愚痴によると知る。

 (3)牛飼いは、牛の汚れを削り落とすことを知る。

   比丘は、悪邪の覚観が善根を絶やすことを知る。

 (4)牛飼いは、牛の瘡を覆って毒虫から防ぐことを知る。

   比丘は、事物を正しく観て、眼耳鼻舌身意の誤りを覆い、貪瞋癡の害を防ぐ。

 (5)牛飼いは、牛のために目印の煙を作ることを知る。

   比丘は、説法で人を引きつけ、無我と空の正道に導く。

 (6)牛飼いは、牛のために好い道を知る。

   比丘は、八正道が涅槃に到り、断見と常見とは地獄餓鬼畜生の悪道に到ると知る。

 (7)牛飼いは、牛に適した場所を知る。

   比丘は、仏法を説く時、清浄な喜びを得、善根が増益することを知る。

 (8)牛飼いは、牛のために、毒蛇のいない好い渡し場を知る。

   比丘は、法を聞く人の賢愚と、煩悩の軽重を知って、安穏の道を歩かせる。

 (9)牛飼いは、害獣、毒蛇がいず、牛が安らかに憩う場所を知る。

   比丘は、身は不浄、受は苦、心は無常、法は無我という四念処を知る。

 (10)牛飼いは、仔牛のために母牛の乳を溜めることを知る。

   比丘は、施し物を多く取って、施主を貧乏にしてはならないと知る。

 (11)牛飼いは、牛主(ごしゅ、牛の中の首領)を養うことを知る。

   比丘は、衆僧の中の威徳ある比丘を供養することを知る。

                            (智2、増一阿含放牛品)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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