file5:仏、菩薩

覚り:(四聖諦、十二因縁、菩提、

   阿耨多羅三藐三菩提、等々)、

仏相好:(相好>三十二相、八十種好)、

仏功徳:(称号、十力、十八不共法)、

菩薩(六波羅蜜、菩提、四無所畏、四摂法、十地)

三昧

 

 

仏教:釈迦によって始められた一つの社会運動。

   (目的):個人的には心の平安、社会的には平和を実現することを唯一の目的とする。

   (論理):無我と輪廻という相反する概念を空という概念によって統一した。要するに過去現在未来にわたって存在する霊魂を存在しないものとしながらも、輪廻を肯定することにより、倫理的な根本理念としての『他に対してなした行為は、いつの日にか必ず立場を替えて自らの身に降りかかる』、このことを論理的に説明している。

   (運動):釈迦の覚りの内容である、四聖諦十二因縁八正道を布教する。

   (運動方法):釈迦の弟子は、人々に欲を離れ苦を離れることを教えるために、自ら離欲の生活を実践し、衣服、寝具、食器等の最低限の物だけを所有して、世間的な営務を行わず、人々から食、衣服等の施しを受けながら、雨季等の外出できない時期以外は一人一人が別々の地方を布教に歩いた。

   (仏教徒である資格):輪廻を信じて他に施し、他に害を与えないために五戒(ごかい)を守る。

   (種類):釈迦の始めた仏教も時代によって変化するが、ここではそれを三種に分ける。

   1.原始仏教:釈迦の始めた仏教そのままで、上に述べた通りである。それは三蔵の中の経蔵と律蔵によってほぼその内容を知ることが出来る。

   2.小乗仏教:僧伽に属して覚りを求める声聞(しょうもん)と僧伽に属さずに独自に覚りを求める辟支仏(びゃくしぶつ、縁覚(えんがく)ともいう)を指す。ともに自ら覚りを得ることを最高の目的として修行に励み、本来の目的を忘れて思索を好んで布教を好まないことから、論議を繰り返して僧伽を分裂に導いた。三蔵の中の論蔵によって、ほぼその内容を知ることが出来る。辟支仏:無仏のときに生まれ自力で煩悩を除き尽くした者。始めて発心した時、仏に値わず、世間の法を思惟して後に道を得、身を無仏の世に出だして、性は寂静を好み、加行満ちて師友の教無く、自然に独り悟るが故に独覚といい、また観察するに内外の縁(内の十二因縁、外の飛花落葉)を待って聖果を悟るが故に縁覚という。

   3.大乗仏教:釈迦の理想に戻ることを実現するために、布施と持戒と忍辱をひたすら行うことを勧める菩薩道を理念とする。大乗(だいじょう)とは大きな乗り物を意味し、一切衆生、即ちあらゆる生き物を救いたいという仏の心をいう。

 

三乗(さんじょう):乗は運載、または乗り物の義。永遠の菩薩行を信奉する者たちは自らを大乗と称し、安楽の境地を自身のみに求める者たちを小乗、更にその小乗を二分して声聞(しょうもん)、辟支仏(びゃくしぶつ)と称した。

  (1)声聞:仏の声を聞いた者。仏に依り安楽な境地を求めて煩悩を断とうとする聖者。

  (2)辟支仏:無仏、無法の時に世に出て、仏に依らず煩悩を断った聖者。

  (3)菩薩:一切の衆生を済度してから涅槃に入る永遠の修行者。菩薩の船は大きいので大乗という。

 

 

(ほとけ):仏陀(ぶっだ)、浮屠(ふと)、覚りを得た人の意味。また仏教の開祖釈迦のこともいう。また大人(だいにん)ともいう。

   (種類):仏は真理の体現者であるとともに、真理そのものでもあるとの考えから二種あるいは三種に分ける。

   1.法仏(ほうぶつ):法身(ほっしん)の仏、真理そのものを擬人化して仏と呼ぶ。

   2.報仏(ほうぶつ):報身(ほうじん)の仏、自らの努力によって平安平和な理想的世界を既に実現した仏。極楽世界の主である阿弥陀仏は代表的な報仏である。

   3.応仏(おうぶつ):応身(おうじん)の仏、人々の苦しみを救うため、衆生の願いに応じて、世に現れる仏。釈迦は典型的な応仏。

化仏(けぶつ):仏や菩薩が神通力をもって作り出した仏という意味。元の仏と同じように説法する。

 

生身(しょうしん)、法身(ほっしん):諸仏菩薩には法身と生身の二身が有り、所証の理体を法身といい、衆生を済度する為に、父母に胎を託して生じる肉身を生身という。

 

法性身(ほっしょうしん):法身(ほっしん)、『』、即ち『平等』を体現する肉体、或はその理念そのもの。

 

仏の称号仏号(ぶつごう)、仏はその徳について多くの称号を持つ。

   (1)婆伽婆(ばがば):薄伽梵(ばくがぼん)、世尊(せそん)と訳す。

     (ア)徳が有る。

     (イ)巧分別、巧みに見かけの相(別相)と真実の相(総相)を見分ける。

     (ウ)名声が有る。

     (エ)よく煩悩を破る。

   (2)多陀阿伽陀(ただあかだ):多陀阿伽度(ただあかど)、如来(にょらい)と訳す。

     (ア)物事を正しく理解し説明する。

     (イ)苦しみの無い世界から来た。

   (3)阿羅呵(あらか):阿羅漢(あらかん)、応供(おうぐ)と訳す。

     (ア)供養に相応しい。

     (イ)煩悩の賊を殺す。

   (4)三藐三仏陀(さんみゃくさんぶっだ):正遍知(しょうへんち)と訳す。

     (ア)正確に全ての物事を知る。

注1.三藐三仏陀とはこの世に存在するものの真実のすがたは、変化しない、心で感知できない、言葉で表わせないものであると知ること。

   (5)鞞侈遮羅那三般那(びたしゃらなさんぱんな):明行足(みょうぎょうそく)と訳す。

     (ア)宿命明、天眼明、漏尽明の三明(さんみょう)を具足する。

   (6)修伽陀(しゅかだ):善逝(ぜんせい)と訳す。

     (ア)善く逝く。善く涅槃に入る。

   (7)路迦憊(ろかび):世間解(せけんげ)と訳す。

     (ア)世間をよく知る。

   (8)阿耨多羅(あのくたら):無上士(むじょうし)と訳す。

     (ア)あらゆる物事の中で涅槃が最上であるように、衆生の中では仏が最上である。

     (イ)持戒、禅定、智慧で衆生を教化することが最上である。

     (ウ)仏法は異を唱えて答えることも、破ることも不可能なことから、無答と訳す。

   (9)富楼沙曇藐婆羅提(ふるしゃどんみゃくばらだい):調御丈夫(ちょうごじょうぶ)と訳す。

     (ア)弟子を正しく導く、馭者の意味である。五種の調御師の中で最上。

注2.五種調御師(ごしゅちょうごし):(a)父母兄弟と親類。(b)国の法律。(c)師匠の教え。(d)閻魔王。(e)仏は今世後世の楽、涅槃の楽で教える。

   (10)舎多提婆魔[/]舎喃(しゃただいばまぬしゃなん):天人師(てんにんし)と訳す。

     (ア)天人を教える。

   (11)仏陀(ぶっだ):知者(ちしゃ)と訳す。

     (ア)過去、現在、未来の衆生について、一切を知る。

   (12)阿婆磨(あばま):無等(むとう)と訳す。

   (13)阿婆摩婆摩(あばまばま):無等々(むとうとう)と訳す。

   (14)路伽那他(ろかなた):世尊(せそん)と訳す。

   (15)波羅伽(はらか):度彼岸(どひがん)と訳す。

   (16)婆檀陀(ばだんだ):大徳(だいとく)と訳す。

   (17)尸梨伽那(しりかな):厚徳(こうとく)と訳す。(智2)

 

(さとり):心に迷いが無いこと、まったく心が平静で少しも波打たないことをいう。およそ次の通り。

   1.阿羅漢果(あらかんか):小乗の覚り。釈迦が弟子に教えた最初の覚り。四聖諦(ししょうたい)『この世は苦の世界である』と、十二因縁(じゅうにいんねん)『人々が自らの存在が空(無我)であることに気付かないことが苦の原因である』と、八正道(はっしょうどう)『苦を取り除くことが出来る』との三を悟ること。涅槃(ねはん)、泥洹(ないおん):滅、滅度、寂滅、不生、無為、安楽、解脱等と訳す。滅とは生死の因果を滅するの義。滅度とは生死の因果を滅して、生死の瀑流を渡る、これは滅即ち度である。寂滅とは有無を寂して空寂安穏と為すの義。滅とは生死の大患滅するの義。不生とは生死の苦果の再び生ぜざる義。無為とは惑業の因縁の造作すること無きの義。安楽とは安穏快楽。解脱とは衆果を離るるの義である。この中に単に滅と訳すのが正翻であり、他は皆義翻と為す。

   2.菩提(ぼだい):菩薩の覚り、あらゆる生き物が幸福になることを願い、布施と持戒と忍辱をひたすら行う所に、心の平安を見出すこと。またその志しを起こすことを菩提心(ぼだいしん)を発(おこ)すという。旧には道と訳し、新には覚と訳す。道とは通の義であり、覚者、覚悟の義である。然らば所通所覚の境とは何かというと、これに事理の二法あり、理とは涅槃のことであって煩悩障を断じて涅槃を証する一切智がこれであり、これは三乗の菩提に通じる。事とは一切の有為の諸法をいい、所知障を断じて諸法を知る一切種智がこれであり、これはただ仏のみの菩提である。仏の菩提はこの二者に通じるが故に、これを大菩提という。『大智度論巻4、44、53』参照。

   3.無所得(むしょとく):一切のものは平等であり、区別できないと悟ったとき、得るという概念はもうなくなる。何故かと言うと、その人は既に持っているからである。人が覚るべきものは何もないと言われる理由でもある。所得(しょとく)とは執著し分別するの義。無相の真理を体すれば心中に執著する所無く、分別する所も無し。これを無所得という。

   4.阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい):仏の覚り、あらゆる生き物が幸福になった時、または幸福になることを確信した時の心の境地。また無上正遍知(むじょうしょうへんち)ともいい、一切の真理に通じる仏の智慧をいう。

 仏とは一切衆生(すべての生き物)を既に幸福にした人、もしくはそのためのプログラムを確信して心に迷いが一切無い人。そのような仏の心の状態を阿耨多羅三藐三菩提という。

   5.(しょう):正法に従って修習し、如実に真理を逮得すること。無漏の正智は、よく所縁の真理に契合(適合)する。これを証という。

 

無生法忍(むしょうほうにん):無生法(むしょうほう)、無生忍(むしょうにん)とは生滅を離れ、真如実相の理体をいい、無生法忍はこの理に安住して動かないことをいう。生滅を再び繰り返さないと確信する覚り。菩薩が空平等を確信し、生滅を遠離すること。

 

無余涅槃(むよねはん):余すところの無い涅槃、釈迦は身体が強健で大きく象あるいは獅子に比せられる程であったが、晩年八十歳ころにはその強靭な身体も弱りが出てき、自らも口に出されるようになった。後の人がそれを見て、覚りを得て仏となってからも、肉体は老年の衰えを感じずにはいられないことを、一つの煩悩の表れと見て、肉体が残っている限りは完全な涅槃に入ることは不可能であるとして、肉体の残っている状態での涅槃を有余涅槃(うよねはん)、肉体が灰滅した状態での涅槃を無余涅槃と呼んだことに初まる。

 

苦辺(くへん):涅槃、苦とは謂わゆる五取蘊(ごしゅうん、有漏の五蘊)の苦、辺とは苦の辺際、謂わゆる涅槃をいう。

 

 

四聖諦(ししょうたい):四諦(したい)、正しい見解という意味。

   (1)苦聖諦(くしょうたい):苦諦(くたい)、この世に生存するということは苦るしみである。(三界六趣の苦報)。これを詳にすれば謂わゆる四苦八苦であり、即ち生苦、老苦、病苦、死苦、及び怨憎会苦、愛別離苦、所求不得苦、五陰盛苦である。この中の五陰盛苦とは見るもの聞くものすべてが苦となりうることをいう。

   (2)集聖諦(じゅうしょうたい):集諦(じったい)、原因は貪り、怒りのような煩悩と、善悪に拘わらず行う行為から生ずる。苦を集めるものは愛である、愛には六処あり、眼処、耳鼻舌身意処である。この中に愛があれば心を汚染して煩悩となる。

   (3)滅聖諦(めつしょうたい):滅諦(めったい)、原因を断てば、苦しみはなくなる。(『無我』を体得すれば苦しみはなくなる。)もし愛の六処を解脱すれば心は汚染されず煩悩を生じない。

   (4)道聖諦(どうしょうたい):道諦(どうたい)、原因を断つためには、八正道に依ればよい。八正道とは即ち、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定をいう。

四諦(したい):苦諦、集諦、滅諦、道諦を合せて四諦と称し、涅槃に入るためには、これを観察して各真諦を明了ならしむ、この各真諦に於いて断つべき煩悩を、それぞれ見苦断、見集断、見滅断、見道断という。(1)苦諦:苦とは、即ち広くは逼迫せる身心の苦悩の状態を指し、実に世間の事物は有情、非情を論ぜず悉く皆苦と為すと審らかにし、世俗の一切は本質的に皆苦であると認める、苦諦とは即ち生死に関して実にこれ苦なりと了解する真諦である、(2)集諦:集とは、即ち招聚の義、実に一切は煩悩の惑業であり、実によく三界の生死の苦果を招集すると審らかにす、集諦とは即ち世間の人生に於ける諸苦の生起及びその根原に関する真諦である、(3)滅諦:滅とは即ち寂滅の義、実に苦の根本なる愛欲を断除すれば、則ち苦の滅するを得、涅槃の境界に入ることができると審らかにす、滅諦とは即ち苦、集を滅尽することに関する真諦である、(4)道諦:道とは即ち能通の義、実に滅苦の道を審らかにす、乃ち(a)正見:即ち苦はこれ苦なり、集はこれ集なり、滅はこれ滅なり、道はこれ道なり、善悪の業有りて善悪の業報有り、此の世と彼の世と有り、父母有り、世に真人の往き至る善処あり、善を去りて善に向う、此の世と彼の世とに於いて自覚自証成就す、と見る、(b)正思惟:即ち欲覚、恚覚及び害覚の無きをいう、(c)正語:即ち妄言、両舌、悪口、綺語等を離る、(d)正業:即ち殺生、与えざるに取る等を離る、(e)正命:呪術等の邪命を捨てて、如法に衣服、飲食、床榻、湯薬等の生活の具を求める、(f)正精進:願を発して、已生の悪法をして断たしめ、未生の悪法をして起たしめず、未生の善法をして生ぜしめ、已生の善法をして増長満具せしむ、即ちよく方便を求めて精勤すと謂う、(g)正念:即ち自ら身、受、心、法等の四者を共に相い観察す、(h)正定:即ち欲、悪不善の法を離れて、初禅乃至四禅を成就す、等の八正道は、もしこれに依って修行すれば苦、集の二諦を超脱して寂静涅槃の境地に到達すると審らかにす、道諦とは即ち八正道に関する真諦である。

 

 

八正道(はっしょうどう):正しい修行と生活の方法で次のものをいう。

   (1)正見(しょうけん):苦集滅道の四諦の理を認めることをいい、八正道の基本となるものである。無漏の慧を体と為す。

   (2)正思(しょうし):正思惟(しょうしゆい)、既に四諦の理を認め、なお考えて智慧を増長させること。無漏の心所を体と為す。

   (3)正語(しょうご):正しい智慧で口業を修め、理ならざる言葉を吐かないこと。無漏の戒を体と為す。

   (4)正業(しょうごう):正しい智慧で身業を修め、清浄ならざる行為をしないこと。無漏の戒を体と為す。

   (5)正命(しょうみょう):身口意の三業を修め、正法に順じて生活すること。無漏の戒を体と為す。

   (6)正精進(しょうしょうじん):正方便(しょうほうべん)、正しい智慧でもって、涅槃の道を精進すること。無漏の勤を体と為す。

   (7)正念(しょうねん):正しい智慧でもって、常に正道を心にかけること。無漏の念を体と為す。

   (8)正定(しょうじょう):正しい智慧でもって、心を統一すること。無漏の定を体と為す。

八邪(はちじゃ):八正道に反すること。

    (1)邪見(じゃけん):邪なる見解、

    (2)邪思惟(じゃしゆい):邪なる思惟、

    (3)邪語(じゃご):邪なる言葉、

    (4)邪業(じゃごう):邪なる行為、

    (5)邪命(じゃみょう):邪なる生活、

    (6)邪方便(じゃほうべん):邪なる方便をなして涅槃に至ろうとする、

    (7)邪念(じゃねん):邪なる思い、

   (8)邪定(じゃじょう):邪なる禅定、畢竟涅槃に至らない。(維摩1)

 

三転十二行相(さんてんじゅうにぎょうそう):世尊が法を転ぜられるとき、示、勧、証の三たび転ぜられるので、それを三転法輪(さんてんほうりん)という。四聖諦の一一には、示、勧、証の三転法輪があり、その一一に眼、智、明、覚があるので、これを十二行相という。この中の示転法輪は、『これが苦諦(集諦、滅諦、道諦)である。』と示し、勧転法輪は、『この苦諦(集諦、滅諦、道諦)は、まさに知る(断ず、証す、修む)べし。』と勧め、証転法輪は、『この苦諦(集諦、滅諦、道諦)は、すでに知り(断じ、証し、修め)おわれり。』と証すものである。眼智明覚は、皆四聖諦の智慧であり、それぞれ法智忍、法智、類智忍、類智に相当する。また別の説によれば、四聖諦の一一に、示、勧、証の三転法輪あるを以って十二行相と説き、眼智明覚を説かない。

 

(く):身心に逼迫するものをいう。分類して二苦、三苦、四苦、八苦がある。

二苦(にく):内外の二をいう。

    (1)内苦(ないく):自己の身心によって起こる苦。

    (2)外苦(げく):悪賊、災難等の自己の外に原因があって起こる苦。

三苦(さんく):内外天の三つの苦悩。

    (1)苦苦(くく):身心の苦しみ。一つの苦が次の苦を引き起こす。

    (2)壊苦(えく):愛著するものが破壊喪失する苦しみ。

    (3)行苦(ぎょうく):万物は無常であり遷移することに対する苦しみ。

四苦(しく):生死に関する苦。

    (1)生苦(しょうく):生まれなくてはならない苦しみ。

    (2)老苦(ろうく):段々死ぬことに対する苦しみ。

    (3)病苦(びょうく):部分が死ぬことに対する苦しみ。

    (4)死苦(しく):死ぬことに対する苦しみ。

五苦(ごく):生老病死を一とし、八苦の中の残りを四とする。

八苦(はっく):四苦の外に更に四つの苦をあげる。

    (5)愛別離苦(あいべつりく):愛するものと別れる苦しみ。

    (6)怨憎会苦(おんぞうえく):憎むものと出会う苦しみ。

    (7)求不得苦(ぐふとくく):求めて得られない苦しみ。

    (8)五陰盛苦(ごおんじょうく):人の身心は隅々まで苦が満ちている。

 

般若波羅蜜:般若とは智慧と訳し、波羅蜜は彼岸に到ると訳し、般若波羅蜜で彼岸に到る智慧を指す。

   勿論、般若波羅蜜は単なる智慧ではない、また単に勝れた智慧という、世間の智慧と相対するものでもない。それどころか世間の智慧の正に対蹠的な位置にある智慧と言ったほうがよいのである。世間の智慧を否定する所に般若波羅蜜は存在する。世間の智慧は全て分類し、比較し、評価するものであるに対し、般若波羅蜜は分類し、比較し、評価することを拒否するところにある。ではどういうものかと言いうと、『』の認識から出た智慧を般若波羅蜜と言う。『空』とは別名を『平等』といい『我』と『彼』との差別のないことをいう。『摩訶般若波羅蜜経』ではさまざまな方法で般若波羅蜜について説明しようとするが、般若波羅蜜とは『空』である、『空』とは『平等』である、『平等』とは『我』と『彼』との区別がないことであると認識する所から出発すれば、容易にやがて般若波羅蜜の全貌が明らかになる。

 

 

(くう):二つの意味がある。

   1.無我(むが)、あらゆる物は因縁によって四大(しだい)が和合したものにすぎず、時々刻々と変化するために、時間によらない個性は存在しないことをいう。(小乗)

   2.平等(びょうどう)、物を差別あるいは区別しないことを『平等』という。特に『我』と『彼』を区別しないことをいう。自分と他人とを区別して意識することを顛倒(てんどう)した見解として、あらゆる苦しみの根本的な原因であると見なすことが仏教の特徴である。(大乗)

 

 

十二因縁(じゅうにいんねん):十二縁起(じゅうにえんぎ)、因縁とは『これが在るためにあれが在り、これが無ければあれも無い』という原因と結果の連鎖をいう。われわれの身心は、この十二因縁を理解することにより『』ないし『無我』であると知ることが出来る。

   (1)無明(むみょう):四諦、十二因縁、無我、無常を知らない。真理にたいする無知。

   (2)(ぎょう):一切の身心の活動。内心が外境に趣くこと。行とは身口意の動き。心が環境から受ける経験。又は遷流の義、三世を遷流する行為。

   (3)(しき):認識、識別する作用。行を受けて知識として蓄積すること。

   (4)名色(みょうしき):五陰。五陰のうち受想行識を名といい、五陰の色を色という。

      名とは受等の心識は可見の形態が無く、ただ名のみが知られているが故に名と名づけ、蓄積した知識を分別する心的作用である。

   (5)六処(ろくしょ):六入(ろくにゅう)、眼耳鼻舌身意の六根。感覚器官。

   (6)(そく):感覚器官が対象に接触すること。

   (7)(じゅ):触れる所の境を領納する心の働き。心で触を受けること。

   (8)(あい):物を貪ること。染著。盲目的な渇愛(かつあい)。

   (9)(しゅ):対する所の境界に取著すること。愛の異名。煩悩の総名。

   (10)(う):有るという行為。生存するという行い。『』が生じること。

   (11)(しょう):誕生すること。また生があると妄信すること。

   (12)老死(ろうし):死苦の生ずること。

 即ち、

   本来は空であるべき人が、如何にして我は実在するという誤った自覚を得るのか、との問いに対する答え。人は(1)無明(むみょう、愚昧、盲目的無智)という因を中心にして、(2)行(ぎょう、身の活動)と、(3)識(しき、心の活動)とを得て、(4)名色(みょうしき、身心)となり、(5)六処(ろくしょ、眼耳鼻舌身意)を具えて、(6)触(そく、接触)する事物を、(7)受(じゅ、感受)して、(8)愛(あい、愛憎)を生じ、(9)取(しゅ、執著)することにより、(10)有(う、生存、彼我の区別)を自覚し、(11)生(しょう、生命、生活)を自覚し、(12)老死(ろうし、生を失う苦しみ)を自覚する。

  また、大智度論では次のように言う。

   (1)無明(むみょう):過去世一切の煩悩。即ち欲望、怒り、正法を信じない等の煩悩は人は皆生まれつき持っている。

   (2)(ぎょう):無明より業を生じ、世界に果を残す。無明は心の働きの原因であり、この心の働きは世界に結果をもたらす。

   (3)(しき):行より煩悩にまみれた心を生ずる。生まれたばかりの子牛が母親を認識できることがそれである。

   (4)名色(みょうしき):この識は受想行識を共に生じ、やがて色に及ぶ。心の働きが成長し、やがて眼等の認識器官が成長すると、ものごとを識別する本となる。

   (5)六処(ろくしょ):六入(ろくにゅう)、この名色の中に眼等の六根を生ずる。眼等の感覚器官から感覚を受け取る。

   (6)(そく):眼等の六根と色等の六境と眼識等の六識と合する。

   (7)(じゅ):触より受を生ず。触はある感情を呼び覚ます。

   (8)(あい):渇愛(かつあい)、受の中に心著す。感情は渇愛へと変化することができる。

   (9)(しゅ):渇愛は因縁により欲求を起こす。

   (10)(う):取は後世に因縁して業となる。即ち行為とその結果の蓄積を残す。

   (11)(しょう):有より、再び後世の五陰(ごおん)を受ける。即ち人の肉体と心を受ける。また『我』と『我所(我が物)』という執著を生む原因でもある。

   (12)老死(ろうし):生より死苦生ずる。五陰は成熟して、やがて老死に変化する。(智5)

因縁の法:例えば米は種子を因、雨露日光土農夫等を縁として生じる。最も強力なものを因、それ以外を縁という。世間のあらゆる物事は因縁により生じるということは仏法の根幹を為す原理で、善因善果、悪因悪果という因果の理法を信じることは仏法で最も基本的なことである。輪廻の項を参照のこと。

 

我我所(ががしょ):自身を我といい、自身以外を我所という。参考『大智度論巻31』:『一切諸物誰之所有。即分別知無有別主。但於五眾取相故計有人相而生我心。以我心故生我所。我所心生故有利益我者生貪欲。違逆我者而生瞋恚。此結使不從智生從狂惑生故。是名為癡。』、また『我是一切諸煩惱根本。先著五眾為我。然後著外物為我所。我所縛故而生貪恚。貪恚因緣故起諸業。

(が):衆生を自由に主宰するもの。自らを他に対する特別な存在として妄信すること。は阿特曼(あとくまん、アートマン)の訳語。原意は呼吸、引いては生命、自己、身体、自我、本質、自性等を指す。また、独立永遠の主体を指す。この主体は、一切の物の根源の内に潜在して、一個体を支配し統一する。乃ち印度思想界の重要な主題の一であるが、仏教は無我説を主張して、存在と縁起との性の関係を明示して、永遠の存続(常)、自主独立の存在(一)、中心の所有主(主)、一切を支配する(宰)等の性質を否定して、『我』の不存在、不真実を強調する。

我所(がしょ):衆生の手脚を操るもの、色受想行識の五陰、衆生の身心。自らの所有あるいは所属、たとえば身体ないし心が他に対して特別な存在であると妄信すること。また別の説では、我の所有の略。自身を我といい、自身以外の万物を我所有という。我に対する事物。

作法(さほう):身口意の業を造る事物。我所、色受想行識。(智22)

不作法(ふさほう):身口意の業を造らない事物。(智22)

(しゅ):衆生を自由に主宰するもの。我。(智22)

作者(さしゃ):衆生の手脚を操り動かすもの。我所(色受想行識)。(智22)

 

薩多婆(さたば):薩埵(さった)、衆生(しゅじょう)あるいは有情(うじょう)と訳してあらゆる生き物を示す。

 

菩薩(ぼさつ):菩提薩埵(ぼだいさった)、全ての衆生(生き物)を幸福にするまでは自らに幸福は無いと確信して、全ての衆生を幸福にすることを悲願とした者のこと。

大誓願(だいせいがん):菩薩が全ての生き物を幸福にしようという誓をいう。

菩薩摩訶薩(ぼさつまかさつ):菩提薩埵摩訶薩埵(ぼだいさったまかさった)、菩薩摩訶薩は大菩薩ともいい、菩薩たちのなかの仏と等しい能力を持った人たちをいう。

十門(じゅうもん):摩訶薩埵、即ち大衆生と呼ばれる理由。

 (1)得大勇心。(2)大衆生。(3)行大道または得最大処。(4)得大人相。(5)破大邪見。(6)得大心分別知一切諸仏土。(7)得大心尽知一切諸仏弟子衆。(8)得大心分別知一切衆生諸心。(9)得大心知断一切衆生煩悩。(10)得大心尽知一切衆生諸根。(智5)

 

六波羅蜜(ろくはらみつ):六度(ろくど)、菩薩の心身は次の六の行為のみを行う。もし世界が平和でありたければ、もし心に平安が欲しければ、この六波羅蜜による以外はない。『空』から出る自然な結論である。『空』とは別名を『平等』といって『我』と『彼』とを区別しないことを言う。

   (1)檀那波羅蜜(だんなはらみつ):布施波羅蜜(ふせはらみつ)、施すと意識せずに相手の欲しがる物を無制限に与えること。

   (2)尸羅波羅蜜(しらはらみつ):持戒波羅蜜(じかいはらみつ)、戒を守るという意識なしに無制限に五戒を守ること。

   (3)羼提波羅蜜(せんだいはらみつ):忍辱波羅蜜(にんにくはらみつ)、耐え忍ぶという意識なしに無制限に耐え忍ぶこと。

   (4)毘利耶波羅蜜(びりやはらみつ):精進波羅蜜(しょうじんはらみつ)、精進するという意識なしに無制限に精進すること。

   (5)褝那波羅蜜(ぜんなはらみつ):静慮波羅蜜(じょうりょはらみつ)、心を統一するという意識なしに無制限に心を統一すること。

   (6)般若波羅蜜(はんにゃはらみつ):智慧波羅蜜(ちえはらみつ)、一切の論議を離れた智慧で無制限に衆生(すべての生き物)を幸福にすること。

  即ち、『摩訶般若波羅蜜経巻1』に、次のように云うが如し、『仏、舎利弗に告げたまわく、菩薩摩訶薩は不住法を以って般若波羅蜜中に住して、捨つる所の法の無きを以って、まさに檀那波羅蜜を具足すべし、施者、受者、及び財物の不可得なるが故に。罪と罪せずと不可得なるが故に、まさに尸羅波羅蜜を具足すべし。心の動かざるが故に、まさに羼提波羅蜜を具足すべし。身心は精進して懈怠せざるが故に、まさに毘利耶波羅蜜を具足すべし。乱れず味わわざるが故に、まさに褝那波羅蜜を具足すべし。一切の法に於いて著せざるが故に、まさに般若波羅蜜を具足すべし。』

不住法(ふじゅうほう):意識を住(とど)めないの意味で、菩薩が六波羅蜜を行うとき、それを現に行っていると意識しないことをいう。

 

不退(ふたい):阿鞞跋致(あびばっち)、菩薩の功徳と善根が益々増進して何度生まれ変わっても菩薩の地位が後退しないことをいう。

 

陀羅尼(だらに):総持(そうじ)と訳し憶持して不忘の義。菩薩の大願を世世に忘失せず憶持すること。また衆生教化の技術をもいう。(智5、28)

無礙陀羅尼(むげだらに):最高最大の陀羅尼、陀羅尼とは菩薩はあらゆる生き物に対し等心に救おうという決心が揺るぎ無いことをいう。菩薩はその決心を何度生まれ変わっても決して忘れることがないために無礙の陀羅尼という。

三陀羅尼(さんだらに):陀羅尼とは、菩薩が世世に己の大願を忘れないための能力であるが、次の三を基本とする。(智28)

    (1)聞持陀羅尼(もんじだらに):聞いたことを忘れない。

    (2)分別知陀羅尼(ふんべつちだらに):あらゆる物事を分別して知る。

    (3)入音声陀羅尼(にゅうおんじょうだらに):あらゆる言語を聞き分け、喜怒哀楽を起こさない。

 

三昧(さんまい):心が統一し、散乱しないことをいう。菩薩の悲願を達成するために、心が迷わないこと。また衆生教化の方法をもいう。「善心にて一処に住(とど)まりて動かず」を三昧という(智5)。

  また、菩薩は百千の種々の三昧を生み出して、衆生を煩悩から解放する、譬えば貧に苦しむ人は富ましめる為に、種々の財物を蓄えて貧者に与える、諸の病人の為には種々の薬を与えて治す等(智7)。また三昧とは一心に衆生の為に働くことである。また、第一義(真実、諸法一相の義、一切は空であり一相である、自他此我の別なく平等である)を体感すること。所観の法を正受すること。自己と対境との一致。

正受(しょうじゅ):三昧、三を正といい、昧を受という。禅定の異名。心を定めて邪乱を離れるを正、無念無想にて法を納めて心に在るを受という。明鏡が無心に物を現すようなことである。

 

三三昧(さんさんまい):三解脱門(さんげだつもん)空、無相、無作の三つの三昧門をいうが、その意図する所は、菩薩の衆生済度は身を空しうして、相手を択ばず、苦労を厭わない、このような三昧中に行われる、という所にある。

   (1)空三昧(くうさんまい):世間は因縁によって造られ、『我(われ)』も『我所(わが所有、または所属)』もないと観ずること。要は我は空なりと観ずること。

   (2)無相三昧(むそうさんまい):涅槃とは色声香味触の五法と男女の二相と有為の三相(もの、心、ものでも心でもない)を離れることであると観ずること。有為とは本性がなく因縁によって作られたもので、物という意味。要をいえば、自他彼我を差別しないこと。

 菩薩はこの三昧中に衆生を救う、即ち救いの対象について差別の意識を持たない。

   (3)無作三昧(むささんまい):無願三昧(むがんさんまい)、この世に於いて何も願わず何も作らないと観ずることをいう。我が行いに善悪の因縁(結果)なしと確信すること。 要するに、一切の善行は意識して作さず、一切の善果は願って求めず、ただ本性本能により善行すること。無作(むさ)とは無為ともいい、無因縁の造作、行為である。

  菩薩はこの三昧中に衆生を救うとき、自らの大願を意識しない、即ち衆生を救うという意識も大願を立てたという意識も持たない。

  『この三解脱門は、摩訶衍(まかえん、大乗)中には、これ一法なり。行の因縁を以っての故に、三種有りと説く。諸法の空を観ずる、これを空と名づけ、空中に於いては相を取るべからず、この時、空転じて無相と名づけ、無相中には、まさに作す所有りて三界に生ずと為すべからず、この時、無相転じて無作と名づくるなり。譬えば、城に三門有るが如く、一人の身にて、一時に三門従り入るを得ず、もし入らんには、則ち一門従りなり。また次ぎに、まさに度すべき者に三種有り。愛多き者、見多き者、愛と見と等しき者なり。見多き者には、為に空解脱門を説く。『一切の諸法は因縁従り生じて自性有ること無し。』と見、自性有ること無きが故に空なり、空なるが故に諸見滅す。愛多き者には、為に無作解脱門を説く。『一切法は無常、苦にして因縁従り生ず。』と見、見おわりて心に愛を厭離し、即ち道に入るを得。愛と見と等しき者には、為に無相解脱門を説く。『この男女等の相は無し。』と聞くが故に愛を断じ、『一異等の相は無し。』との故に見を断ず。(智20)

無諍三昧(むじょうさんまい):彼我の差別を離れること。空理に徹して他と諍わない。

三三昧:二つの三三昧があり、一は既に説明した空、無相、無作三昧のことで、二は有覚有観、無覚有観、無覚無観の三昧。両者は関係があり、後者は前者の三昧に入ったときの心の状態に三の別があることをいう。

   (1)有覚有観三昧(うかくうかんさんまい):覚知が有り、禅定に入った快さ安楽さも感じる三昧。 初心が禅に在ることを覚という。 空無相無作相応の心が初禅に入ると、一切の覚観は、皆悉く正直になることをいう。

   (2)無覚有観三昧(むかくうかんさんまい):覚知は既に無く、禅定に入った快さ安楽さのみを感じる三昧。 空無相無作相応の心を以ってまさに二禅に入ろうとする時、覚知の心はすでに無く、禅味を分別する念のみなお有り、一切の定観は皆悉く正直となる。

   (3)無覚無観三昧(むかくむかんさんまい):覚知も禅定の味わいも無い三昧。 空無相無作相応の心を以って二禅、乃至滅受想定に入ろうとする時、覚知の心も、禅味を分別する念も倶に無い。

 

重三三昧(じゅうさんさんまい):無学の阿羅漢が三三昧を行う中に、更にそれさえも捨て去ってしまうこと。

  (1)空空三昧(くうくうさんまい):羅漢は先に無漏の智を以って諸法の空無我を観察する、これを空三昧といい、更に有漏智を以って前の空智も空相為ることを観察してこれを厭捨する、これを空空三昧という。

  (2)無相無相三昧(むそうむそうさんまい):先に無漏の智を以って涅槃の滅静妙離を観察することを無相三昧といい、更に有漏の智を以って尽滅せるこの智も択滅(智慧の力で得た涅槃)無為の静相に非ざることを観察して、前の無相を厭捨する、これを無相無相三昧という。

  (3)無作無作三昧(むさむささんまい):上の如く苦集道三諦の苦無常等の相を観察するも更にこれすら厭捨してしまう。故に総じてこれは有漏である。

 

三昧王三昧(さんまいおうさんまい):三昧とは心を統一して散乱せしめず、仏道を行ずることをいう。仏道とは衆生を済うこと以外の目的はないのであるから、この間にも釈迦の分身である化身(けしん)があらゆる処で衆生済度、即ち全ての生き物が幸福であることを計っていること、及び師子座に於いて説法の内容を考えていることなど無数の意味を含む。

獅子遊戯三昧(ししゆげさんまい):三昧は心を統一して散乱せしめないこと。獅子が遊ぶように衆生を済度することをいう。

首楞厳三昧(しゅりょうごんさんまい):健相定と訳し、諸の三昧の行相を分別して、それぞれの多少深浅を知ることで、大将が己の兵力を知るが如く、自在に諸三昧を使いこなすこと。 一切の事の竟りたる仏所得の三昧であり、仏徳の堅固なることを以って、諸魔も壊す能わざることをいう。

般舟三昧(はんじゅうさんまい):般舟般三昧(はんじゅうはんさんまい)、般舟とは仏立(ぶつりゅう)と訳し、この三昧を行ずれば現前に諸仏を見る。諸仏を現前に見る三昧とは、ただ諸仏の形を見るのみに非ず、また諸仏の浄土の荘厳を見ることであり、現在の菩薩行も未来にはかくの如き浄土を現ずと見て、心が動揺しないことをいう。即ち不動の菩提心である。

火定三昧(かじょうさんまい):身より火焔を出して定に入ることをいいます。不動明王は常にこの三昧中に在る。

念佛三昧(ねんぶつさんまい):念佛は常に仏を心に掛けて、片時も忘れないこと。三昧は心をただ一点に向けて、散乱しないこと。故に念佛三昧とは常に仏のことのみを心に思う修行をいう。

金剛三昧(こんごうさんまい):金剛の如く、一切の煩悩を打ち砕く定。菩提心が金剛の如く堅固なること。 声聞、菩薩が修行の最後に起す定であり、この定を起せば、即ち阿羅漢、或は仏果を得る。

超越三昧(ちょうえつさんまい):禅には、四禅、四無色定、滅尽定の浅深の次第があり、この順に出入を繰り返して順次深い禅、或は浅い禅に移行するものであるが、これは声聞人の法であり、菩薩法では散心より直ちに滅尽定に入り、滅尽定より出て直ちに散心に入る。

 

婆羅門三諦(ばらもんさんたい):仏が婆羅門の為に説いた三つの真実。(1)外道は、婆羅門は梵行を修め、而も生を殺して天を祀る、と言うが、仏は、一切の生命を害さないのが真の婆羅門である、と言う。(空解脱門)(2)外道は、天女の色身を得る為に梵行を修める、と言うが、仏は、天女の色身の為に梵行を修めてはならない、我は彼の所有でなく、彼は我が所有でないからである、と言う。(無作解脱門)(3)外道は諸の邪見に貪著して、諸因の集まりは皆有法(存在する事物)である、と言うが、仏は、一切の法(事物)は即ちこれ生滅の相である、と言う。(無相解脱門)。『百論疏巻1』:『又經云。為治婆羅門三諦故說三門。外道自稱言。是婆羅門修行梵行而殺生祀天。謂是實義。佛言。不害一切生命名真婆羅門。即是空解脫門。二者外道為天女色修行梵行令有所得。佛言。不應為天女色而修梵行。我非彼所有彼非我所有。即是說無作解脫門。三者外道貪著諸見謂。言諸因集皆是有法。佛言。一切法集即是滅相。名無相解脫門』、また他に『雑阿含経巻35』:『佛告婆羅門出家。有三種婆羅門真實。我自覺悟成等正覺而復為人演說。汝婆羅門出家作如是說。不害一切眾生。是婆羅門真諦。非為虛妄。彼於彼言我勝.言相似.言我卑。若於彼真諦不繫著。於一切世間作慈心色像。是名第一婆羅門真諦。我自覺悟成等正覺。為人演說。復次。婆羅門作如是說。所有集法皆是滅法。此是真諦。非為虛妄。乃至於彼真諦不計著。於一切世間觀察生滅。是名第二婆羅門真諦。復次。婆羅門作如是說。無我處所及事都無所有。無我處所及事都無所有。此則真諦。非為虛妄。如前說。乃至於彼無所繫著。一切世間無我像類。是名第三婆羅門真諦。我自覺悟成等正覺而為人說。爾時。眾多婆羅門出家默然住』(智26)

 

禅定(ぜんじょう):(じょう)、褝那(ぜんな)とその訳語の定(じょう)とを合わせたもの。慮りをやめて心を平静にたもつこと。三昧は心を統一して目的に向かうことであるから、一見異なるようでもあるが心が散乱しないあるいは波打たないことから考えると、三昧は禅定に含まれることが分かる。独楽が澄む状態。禅定(ぜんじょう):定(じょう)とは三昧(さんまい)ともいい、心を定めて揺れ動かさないことで、禅定はこの一分である。褝那(ぜんな)とは、静慮ともいい、一つの対象を深く思惟審慮すること。さらにそれが進むと思惟審慮は停止し、完全な三昧に入る。

  (1)生得定(しょうとくじょう):色界無色界に生れただけで備わる定。

  (2)修得定(しゅとくじょう):欲界に於いて修行して得られる定。

  (3)有心定(うしんじょう):色界の四禅四無色定をいう。

  (4)無心定(むしんじょう):無想定、滅尽定をいう。 共に心、心所を滅尽するものであるが、凡夫の定を無想定(むそうじょう)といい、聖者の無余涅槃の境地を滅尽定(めつじんじょう)という。

  (5)味定(みじょう):貪愛と相応して起り、愛楽味著する定。

  (6)浄定(じょうじょう):有漏の善心と相応して起る定。

  (7)無漏定(むろじょう):聖者の定。

 

五種禅(ごしゅぜん):五種の禅。華厳宗五祖圭峰宗密の説。

  (1)外道禅:異計を帯び、上を欣び下を厭うて修める。

  (2)凡夫禅:正信の因果であるが、また上を欣び下を厭うて修める。

  (3)小乗禅:『我空』を悟り真理に偏して修める。

  (4)大乗禅:『我法二空』の顕す所の真理を悟りて修める。

  (5)如来清浄禅:自心の本来清浄にして、本より煩悩無く、本より自ら無慮の智性を具足するにより、この心は即ち仏と、畢竟じて異なり無しと、ここに依って修める。(禅源諸詮集都序巻上之一)

 

五種不可思議法:(1)衆生の多少、(2)業の果報、(3)坐禅人の力、(4)諸龍の力、(5)諸仏の力。『大智度論巻30』参照。

 

五智三昧(ごちさんまい):定中に有すべき五種の智慧。

    (1)初智:わがこの三昧は聖にして清浄である。

    (2)二智:この三昧は凡夫の近づく所ではなく、智者の讃ずる所である。

    (3)三智:この三昧は寂静妙離の故に得た。

    (4)四智:この三昧は現在楽にして後にも楽報を得る。

    (5)五智:この三昧にわれは一心に入り一心に出る。(成実論12)

 

五聖分支三昧(ごしょうぶんしさんまい):涅槃に至る禅定を五支に分類する。

    (1)第一支:初禅、二禅の喜相。

    (2)第二支:三禅にて喜楽を離れる。

    (3)第三支:四禅中の清浄心。

    (4)第四支:明相、この三支はよく相を明らかにする心を生じる。

    (5)第五支:観相、明相と観相とは因となって五陰を照破し、五陰の空なるを観ずるが故によく涅槃に至る。(成実論12)

 

五如法語道(ごにょほうごどう):説法道(せっぽうどう)、法を如法に説く五種の道。

    (1)実にして不実に非ず。

    (2)時にして不時に非ず。

    (3)善にして不善に非ず。

    (4)慈にして不慈に非ず。

    (5)益にして不益に非ず。(十誦律49)

 

有漏道(うろどう)、無漏道(むろどう):人天三界の果報を招く行法を有漏道といい、涅槃の果を成就すべき道を無漏道という。 三界を尽く有漏といい、涅槃を無漏ということからこういう。

 

願智(がんち):願の如くに生じ来たる妙智。願って三世の事を知らんと欲し、所願に随うて則ち知る。欲界及び第四禅の二処に摂す。(智17)

 

頂禅(ちょうぜん):頂とは阿羅漢をいい、これに壊法と不壊法の二種がある。 (智17)

 

自在定(じざいじょう):不壊法の阿羅漢は、一切の禅定に於いて自在を得。 (智17)

 

練禅(れんぜん):九次第定(くしだいじょう)、四禅と四無色定および滅尽定(めつじんじょう、六識、心心所を滅尽する定)の九種の禅定を、他心を雑えず、一つづつ順に入ることをいう。

 

 

等忍(とうにん):全ての衆生に対し等しい心で接すること。

 

四摂法(ししょうほう):菩薩は次の四つの事を心がけて人々を導く。

   (1)布施(ふせ):衆生の根性に随い財を好む者には財を施し、法を好む者には法を施して衆生に親愛の心を生じ、それに依って道を受け入れさせる。即ち布施を以って衆生を摂受する。

   (2)愛語(あいご):衆生の根性に随い善言慰喩を以って衆生を摂受する。

   (3)利行(りぎょう):身口意の善行の利益を以って衆生を摂受する。

   (4)同事(どうじ):衆生と行い事業を同じうするを以って衆生を摂受する。

 

四無量心(しむりょうしん):四等(しとう)、四等心(しとうしん)、四梵行心(しぼんぎょうしん)、菩薩は慈悲喜捨の四が無量でなくてはならない。またこれは平等の心により起こるため四等ともいう。 所縁の境に従って無量といい、能起の心に従って等という。

   (1)慈無量心(じむりょうしん):無量の衆生に無量の楽を与えて一切の衆生を度す。

   (2)悲無量心(ひむりょうしん):無量の衆生の無量の苦を抜いて一切の衆生を度す。

   (3)喜無量心(きむりょうしん):無量の衆生の喜びを自らの無量の喜びとして一切の衆生を度す。

   (4)捨無量心(しゃむりょうしん):無量の衆生を総て平等に見て愛憎怨親の心を起さず一切の衆生を度す。

  また、

   (1)(じ):菩薩は『衆生は常に安穏楽事を求めている。』ことを知り、常にこれを以って饒益(にょうやく)する。この慈心により、衆生の中の瞋りの感情を除く。

   (2)(ひ):菩薩は『衆生が五道(地獄、餓鬼、畜生、人間、天上)の中で、種々に身の苦しみ心の苦しみを受ける。』ことを知り、常に哀れんで苦しみを抜く。この悲心により、衆生の中の悩みの感情を除く。

   (3)(き):菩薩は衆生に楽を与えて歓喜を得なければならない。この喜心により、菩薩は常に楽しむ。

   (4)(しゃ):菩薩は上に挙げた三種の心を捨て、ただ衆生を心に掛けながら憎まず、愛することもない。この捨心により、衆生の中の愛憎の感情を除く。

  『慈とは、『衆生を愛念す』と名づけ、常に安穏の楽事を求めて、以ってこれを饒益す。悲とは、『衆生を愍念す』と名づけ、五道中に種種の身苦、心苦を受く。喜とは、『衆生をして、楽に従わしめ、歓喜を得しむ』と名づく。捨とは、『三種の心を捨つ』と名づけ、ただ衆生を念うて憎まず愛せず。(智20)

 

四無所畏(しむしょい):説法にあたって四つの畏れがなく、自信があることで菩薩と仏で違いがある。

菩薩の四無所畏:以下のことに対する揺るぎない自信。

   (1)能持無所畏:正法を全て正しく理解し記憶している。

   (2)知根無所畏:相手に応じた説法をする。

   (3)決疑無所畏:自在に異見を破り、正法を成立することができる。

   (4)答報無所畏:衆生の疑いをことごとく解決できる。

仏の四無所畏:以下のことに対する揺るぎない自信。

   (1)一切正智無所畏:一切を正智して説法するに畏るる所無し。

   (2)一切漏尽無所畏:一切の漏尽きて説法するに畏るる所無し。

   (3)説障法無所畏:一切の障法(涅槃道を遮る法)を説くに畏るる所無し。

   (4)説尽苦聖道無所畏:一切の苦を尽くして涅槃に至る道を説くに畏るる所無し。

   (1)あらゆる物事についてすべて知っているということ。

   (2)すべての煩悩は断ち尽くされて少しの残りもないということ。

   (3)修行の妨げになる物事はすべて説き尽くしたということ。

   (4)苦しみの世界からの解脱する方法についてすべて説き尽くしたということ。

 

四無礙智(しむげち):四無礙解(しむげげ)、四辯(しべん)、仏菩薩が説法するときの自在な智慧による辯才をいう。各各以下について滞ることのない智慧。

   (1)義無礙智(ぎむげち):諸の法相。名字、語言を用いて説く所の事。事物の持つ意味。

   (2)法無礙智(ほうむげち):一切各各の義につけられた名字。

   (3)辞無礙智(じむげち):一切の語言(ことば)、及び義と名字を理解させる為の修辞句。

   (4)楽説無礙智(ぎょうせつむげち):上の三種の法、義、辞無礙の智慧をもって衆生のために楽(ねが)って自在に説法すること。楽説(ぎょうせつ)は目的をもって、その為に好んで法を説くこと。(智25)

 

 

五通(ごつう):次の六神通の中の漏尽通を除いた他の五をいう。

六神通(ろくじんつう):仏と大力の菩薩と転輪聖王の持つ六種の超能力をいう。神通力

   (1)神足通(じんそくつう):如意(にょい)ともいい、これに三種有り、(@)能到(のうとう):即時に何処にでも行くことが出来る能力。(A)転変(てんぺん):即座に何にでも姿を変える能力。(B)聖如意:外の六塵中の愛すべからざる不浄物も、よく観察して浄ならしめ、愛すべき浄物も、よく観察して不浄ならしむ、事物の本質を見る能力。(智5)

   (2)天眼通(てんげんつう):世間の全てを見通す能力。

   (3)天耳通(てんにつう):世間の全てを聞く能力。

   (4)他心通(たしんつう):他の心を全て知る能力。

   (5)宿命通(しゅくみょうつう):自他の過去世を全て知る能力。

   (6)漏尽通(ろじんつう):煩悩(ぼんのう)が全くないこと。

 

三達(さんたつ):三明(さんみょう)、羅漢の場合には三明といい、仏菩薩の場合には三達といいます。智慧の力で闇を照らす三種の神通力のことです。

    (1)宿命明、自他の過去世の生死の相を知る。

    (2)天眼明、自他の未来世に於ける生死の相を知る。

    (3)漏尽明、現在の苦の相を知り、一切の煩悩を尽くす智慧。(智2、智4)

 

問訊(もんじん):お元気ですかと挨拶すること。(りつ)によれば諸仏の常法として、釈尊は精舎に住(とど)まっていられるとき、客来の比丘には常に優しい言葉で慰労されたということである、すなわち「何か足らないものはありませんでしたか。住み心地はどうでしたか。乞食(こつじき)は楽にできましたか。道中は疲れませんでしたか。」など。『常に先に問訊する』とも言うから、先にすることも大切な作法でした。

 

荘厳(しょうごん):(じょう、きよめる)、仏国土を荘厳する。仏国土を浄める。

 菩薩が人々に布施、持戒、忍辱を勧めて、理想的な仏国土を建設すること。この場合の仏国土とは将来の理想的な国土という意味である。

 

輪廻(りんね):衆生が無自覚に生まれ変わり死に変わりして六道を経巡ることをいう。仏教の精神はすべて輪廻を信じることに由来する。すなわち現在の自らの他に対する行為は善悪にかかわらず、いずれ真逆の立場で自らに降りかかる。

 これを恐れて次に示す五戒と布施を人々が皆行わなければならない行為であると規定する。

五戒(ごかい):仏教徒は大乗小乗にかかわらず、この五戒を守らなければならない。五戒とは他の生き物に恐怖を与えないという極めて大切なことである。

   (1)不殺生(ふせっしょう):生き物を殺さない。

   (2)不偸盗(ふちゅうとう):与えられない物を取らない。

   (3)不妄語(ふもうご):嘘をつかない。他の生き物を脅すような粗暴の言葉を吐かない。

   (4)不邪淫(ふじゃいん):他人の女房を取らない。

   (5)不飲酒(ふおんじゅ):酒を飲んで正気をなくさない。酒以外でも正気をなくすようなことをしない。

布施(ふせ):福利を人に施与すること。施されるものには種々あるが、財物を施すということが本来の意味。

無我と輪廻無我と輪廻という一見対立する概念を、仏教はあるいは平等という無我を含んで更にその上をいく概念によって矛盾をなくした。いわゆる輪廻する主体のない輪廻がそれである。

 大乗とは輪廻を矛盾なく説明するために空あるいは平等という概念を導入し、他に対して最大限の『やさしさ』を発揮することにより苦を楽に変換することで、無限に繰り返される輪廻を乗り切ろうということに他ならない。

 

精進(しょうじん):怠らず休まず善事を行うこと。 次の五相がある。

   (1)於事必能:確実に行うこと、

   (2)起発無難:直ちに始めること、

   (3)志意堅強:意志が堅固であること、

   (4)心無疲倦:怠けないこと、

   (5)所作究竟:最後までやりぬくこと。   (智16)

 

衆生(しゅじょう):有情(うじょう)、生き物、自らが『』であることに無自覚なまま生まれ変わり死に変わりして六道を経巡る。

六道(ろくどう):六趣(ろくしゅ)、五道(ごどう)、衆生はさまざまな因縁を受けて生まれるが、そこには大きく分けて苦楽に六種の区別がある。 また下の三、地獄、餓鬼、畜生を三悪道(さんあくどう)、三悪趣(さんあくしゅ)、三塗(さんづ)という。

   (1)天人(てんにん):天人の種類は多いが、総じて寿命が長く、また楽しみの多い暮らしをしている。しかし苦しみがないわけではなく、寿命の尽きる死もあれば、天人の五衰(ごすい)といって、体が臭くなる、わきの下から汗が流れるというような老化現象もあるといわれている。

   (2)人間(にんげん):もっとも欲望が強く、欲望に支配されて生活しなければならない。この欲望は更にさまざまな苦るしみを生み出す。

   (3)阿修羅(あしゅら):天人でありながら争いごとが好きで、苦しみが絶えないといわれている。ここを天人に分類すれば、六道ではなく五道となる。

   (4)畜生(ちくしょう):傍生(ぼうしょう)、食用に、使役用に、実験用に使われることは、よく知られている。野生のものは、いつもお腹をすかせて食物をさがしている。

   (5)餓鬼(がき):人間が変化した生きもので、喉が細く、香りを吸うことで栄養をとっているために、いつも猛烈にお腹がすいている。

   (6)地獄(じごく):ここに生まれたものは大変な苦しみをあじわう。そして楽しいことは、ほんの少しも無い。毎日毎日が苦しいことの連続である。地獄の種類は多いが、総じてものすごい大音に満たされているために頭が割れそうに痛み、至るところ火が渦巻き、至るところ真っ赤に燃えた石炭のある落し穴と煮えたぎった糞尿の河があり、牙のある動物や毒のある蛇に咬まれて、木の上に逃げれば、剃刀のような刃を持った木の葉が、下向きになって体を切りつけてくるので、身体は素麺のようにズタズタになってしまう。そして死ねばすぐに生き返るため休む暇もない。やかましく、熱く、臭く、痛いところである。

 

地獄(じごく):地獄は八大地獄とその周囲に在る十六小地獄とからなる。

  八大地獄とは、

    (1)活(かつ)大地獄:等活(とうかつ)、各、共に闘い殺し合い、死ぬと獄卒の呼びかけに応えて生き返る。 殺業の報で、ここに生まれる。

    (2)黒縄(こくじょう)地獄:獄卒は熱鉄の黒縄にて罪人に線を引き、その上を斧鋸にて截断し、刺身状にする。 妄語、悪口、両舌、綺語をして人を陥れる、或は奸吏と作って民に暴虐をふるった者が、ここに生まれる。

    (3)合会(ごうえ)地獄:二つの山が合わさって罪人を圧し潰し、或は獄卒は鳥獣の形になって罪人を噉い、或は熱鉄の臼で罪人を轢く。 鳥獣を残酷に殺した者、或は正道を破った者が、ここに生まれる。

    (4)叫喚(きょうかん)地獄、(5)大叫喚地獄:獄卒は槍鉾を持って、罪人を追い回し、熱鉄の地面に追い込む。 罪人は足から熔けて、脂が焼け焦げ、獄卒に頭を打ち砕かれる、或は鉄閣の中に追い込み、ぎゅう詰めにして煙で薫せば、罪人は大声を上げて叫喚する。 人を欺し、貧乏人を悩まして泣かせ、或は他の城郭を破って人を叫喚させた者が、ここに生まれる。

    (6)熱(ねつ)大地獄、(7)大熱地獄:二つの銅鍋があり、豆を煎るように罪人を煮る。或は燃えさかる炭坑の中に入れ、或は沸いた糞尿の中に入れる。 父母、師長等を悩ませ熱くさせた者、或は生繭を煮た者、或は生きたまま猪羊等を炙った者、或は山野、聚落、精舎を焼いた者、人を火坑の中に陥れた者が、ここに生まれる。

    (8)阿鼻(あび)地獄:獄卒は罪人の皮を剥ぎ釘で打ち付けて広げる。或は手足を両方に引いて破裂させる。熱鉄の火車に乗せ、火坑に駆け入る。或は鉄嘴の虫が身体の中を走り回る、或は利刀の生えた道を走らせる。或は刺の山に登らせる。或は鉄狗、毒蛇等が囓り、鉄の鳥が襲う。或は口を開かせて洋銅の熱湯を潅ぎ、熱した鉄丸を呑ませる。 大悪五逆の重罪を犯した者、諸の善根を断じて法を非法といい、非法を法と言う者、因果を破る者が、ここに生まれる。

 

  十六小地獄は、八寒氷地獄と八炎火地獄とからなる。

    八炎火地獄とは、

    (1)炭坑(たんこう)地獄:燃えさかる炭の坑。 清浄戒、出家法を破り俗人に仏道を軽蔑させた者、或は衆生を火坑に落した者、衆生が生きている中に火で炙った者が、ここに堕ちる。

    (2)沸屎(ふっし)地獄:沸いた糞尿の海、中に鉄虫がいて罪人の身体の中に入り脳、髄を食う。 沙門婆羅門福田の食に不浄の手を触れ、或は先に噉い、或は不浄物を中に著けた者、或は熱い糞尿を他の身に潅いだ者、或は沙門婆羅門等が、浄い生活をせず、不浄の生活をする時、ここに堕ちる。

    (3)焼林(しょうりん)地獄:草木の火が燃えて罪人を焼く。 草木を焚焼して諸虫を傷害した者、或は猟をして広く殺害した者がここに堕ちる。

    (4)剣林(けんりん)地獄:風が吹くと剣の葉が飛び交い罪人を傷つける、或は林の中の鳥獣に身体を食われる。 刀剣で闘諍した者、或は樹を切り倒して人を圧し潰した者、或は忠信の人の忠告を受けつけず、秘密の相談人に諮る者が、ここに堕ちる。

    (5)刀道(とうどう)地獄:絶壁の嶮道に利刀を立て、罪人を行かせる。 利刀、槍等で人を刺した者、或は道路を断ち、橋梁を破壊した者、或は正法の道を破って非法の道を人に示した者が、ここに堕ちる。

    (6)鉄刺林(てつしりん)地獄:高さ一由旬の刺樹、上より大毒蛇が美女に化して罪人を呼ぶ。 獄卒に逐われて、罪人が刺樹を上ると身体がずたずたに切り裂かれ、樹上に至ると美女は大毒蛇に変身して頭から囓る。 邪婬を犯した者、或は他の婦女を侵して楽触を貪った者が、ここに堕ちる。

    (7)鹹河(かんが)地獄:熱鉄の刺林から罪人が抜け出すと、清涼な河が流れている、罪人が中に入ると熱沸した鹹水に変じ、罪人の肉を骨から離散する。 水性の漁鼈等を殺傷した者、或は人を水に沈めた者、或は沸いた湯、氷の水に投じた者が、ここに堕ちる。

    (8)銅橛(どうけつ)地獄:獄卒が『お前は、どこから来た?』と問い、罪人が『苦しくて分かりません、ただ飢えて渇いています。』と答える。 この渇くと答える時、獄卒は罪人を熱した鉄棒の上に坐らせ、口をこじ開けて熔けた銅を潅ぐ。 飢えると答えれば、熱した鉄丸を罪人に呑ませる。 溶けた銅、熱した鉄丸は瞬時に罪人の身体を焦がし溶かして、下に落ちる。 他の財を盗んだ者、或は出家が病と詐って酥油(そゆ、バター)石蜜(しゃくみつ、氷砂糖)を求める、或は持戒も禅定も無く、智慧も無いのに、多くの布施を受ける、或は悪口して人を傷つける、このような者が堕ちる。

    八寒氷地獄とは、

    (1)頞浮陀(あぶだ)地獄:風が吹くと氷の刃が飛び来たり罪人を傷つける。 寒月に人を剥いだ者、或は凍人の薪炭を盗んだ者、或は仏および仏弟子、持戒の人を軽蔑し謗った者が、ここに堕ちる。

    (2)尼羅浮陀(にらぶだ)地獄:頞浮陀にはわずかに存在する外に出る孔が、ここには無い。 それ以外は頞浮陀と同じ。

    (3)呵羅羅(からら)地獄:寒風にて呵羅羅という声が自然にでる。

    (4)阿婆婆(あばば)地獄:寒風にて阿婆婆という声が自然にでる。

    (5)[*][*](ごご)地獄:寒風にて[*][*]という声が自然にでる。

    (6)漚波羅(うはら)地獄:青蓮花地獄、氷に塞がれ青蓮花状に見える。

    (7)波頭摩(はづま)地獄:紅蓮花地獄、罪人の血で氷が紅蓮花状に見える。

    (8)摩呵波頭摩(まかはづま)地獄:大蓮花地獄、氷が大蓮花状に見える。

                                              (智16)

 

 

閑不閑(げんふげん):仏道修行に暇有る者と暇無い者。

 

相好(そうごう):大人相(だいにんそう)、仏のみがもつ身体的に際立った特徴で、見てすぐに分かる三十二相(さんじゅうにそう)と、微細な特徴である八十種好(はちじっしゅこう)がある。

三十二相(さんじゅうにそう):仏だけがもつ他の人と違う身体的な特徴。また転輪聖王も同様の相を持つが仏に比べると際立ってはいない。

    (1)足下安平立相(そくかあんぴょうりゅうそう):足裏が地に密着し安定した立ち方ができる。

    (2)千輻輪相(せんぷくりん):足の裏に千の輻(や)をもつ輪の文様がある。

    (3)手指繊長相(しゅしせんちょう):手の指が細長い。

    (4)手足柔軟相(しゅそくにゅうなん):手足が柔らかい。

    (5)手足縵網相(しゅそくまんもう):手足の指の間に網が張り、家鴨の水かきのようになっている。

    (6)足跟満足相(そくこんまんぞく):足のかかとが丸く膨れている。

    (7)足趺高好相(そくふこうこう):足の背が高く隆起している。

    (8)腨如鹿王相(せんにょろくおう):股の肉が鹿のように繊細で円く張っている。

    (9)手過膝相(しゅかしつ):手が長く膝にとどく。

    (10)馬陰蔵相(めおんぞう):男根が馬のように体内に密蔵されている。

    (11)身縦広相(しんじゅうこう):身長と両手を広げた長さが等しい。

    (12)毛孔生青色相(もうくしょうしょうしき):一一の毛孔から青色の一毛が生じて乱れない。

    (13)身毛上靡相(しんもうじょうび):身毛が右巻きに上に向かって靡く。

    (14)身金色相(しんこんじき):身体の色が黄金のよう。

    (15)常光一丈相(じょうこういちじょう):身から光明を放って四方各一丈を照らす。

    (16)皮膚細滑相(ひふさいかつ):皮膚が柔らかく滑らか。

    (17)七処平満相(しちしょひょうまん):両足の裏、両の掌、両肩と頭頂が平らに肉が隆起している。

    (18)両腋満相(りょうえきまん):腋(わき)の下が充満している。

    (19)身如獅子相(しんにょしし):身体が獅子のように平らかででこぼこがなくて厳粛である。

    (20)身端直相(しんたんじき):身体が端正で曲がっていない。

    (21)肩円満相(けんえんまん):両肩が円満に盛り上がっている。

    (22)四十歯相(しじゅうし):四十の歯がある。

    (23)歯白斉密相(しびゃくさいみつ):四十の歯が白く浄らかで緊密である。

    (24)四牙白淨相(しげびゃくじょう):四の牙が白く大きい。

    (25)頬車如獅子相(きょうしゃにょしし):両頬が獅子のように隆満している。

    (26)咽中津液得上味相(いんちゅうしんえきとくじょうみ):咽喉の中の唾によって何を食べても上味がある。

    (27)広長舌相(こうちょうぜつ):舌が広く長く、柔軟で薄く、広げれば顔面を覆って髪の生え際に至る。

    (28)梵音深遠相(ぼんのんじんおん):音声は清浄で遠くまで聞こえる。

    (29)眼色如紺青相(げんしきにょこんじょう):瞳の色が紺青。

    (30)眼睫如牛王相(げんしょうにょごおう):睫が牛のように長く眼がパッチリしている。

    (31)眉間白毫相(みけんびゃくごう):両眉の間に白い毛があって右に渦巻いて常に光を放つ。

    (32)頂成肉髻相(ちょうじょうにっけい):烏瑟膩(うしつに)、頂上の肉が髻(もとどり)のように隆起している。

 

八十隨形好(はちじゅうずいぎょうこう):八十種好(はちじっしゅこう)、仏の三十二相に次ぐ八十の付随的特徴をいう。

   (1)無見頂相:仏の頂上の肉髻(にくけい)が高く、見上げようとしても愈々高くなって見ることができない。

   (2)鼻高不現孔:鼻が高く、孔が正面からは見えない。

   (3)眉如初月:眉が細く三日月のよう。

   (4)耳輪垂埵:耳の外輪の部分が長く垂れている。

   (5)身堅実如那羅延:身体が筋肉質で、天上の力士のように隆々としている。

   (6)骨際如鉤鎖:骨が鎖のように際立っている。

   (7)身一時廻旋如象王:身体を廻らすとき象が旋回するように一体となってする。

   (8)行時足去地四寸而現印文:歩くとき足が地面を離れてから足跡が現れる。

   (9)爪如赤銅色:爪が赤銅色。

   (10)膝骨堅而円好:膝の骨が堅く円い。

   (11)身清潔:身体が清潔で汚れない。

   (12)身柔軟:身体が柔軟。

   (13)身不曲:背筋が伸びて、猫背にならない。

   (14)指円而繊細:指が骨ばっていず、細い。

   (15)指文蔵覆:指紋が隠れていて見えない。

   (16)脈深不現:脈が深いところで打つので、外から見えない。

   (17)踝不現:踝が骨ばっていない。

   (18)身潤沢:身体が乾いていず光沢がある。

   (19)身自持不逶迤:身体がしゃんとして曲がっていない。

   (20)身満足:身体に欠けた所がない。

   (21)容儀備足:容貌と立ち居振る舞いが美しい。

   (22)容儀満足:容貌と立ち居振る舞いに欠点がない。

   (23)住処安無能動者:立ち姿が安定していて、動かすことが出来ない。

   (24)威振一切:威厳があり身振り一つであらゆる者を動かす。

   (25)一切衆生見之而楽:誰でも見れば楽しくなる。

   (26)面不長大:顔は長くも幅が広くもない。

   (27)正容貌而色不撓:容貌が左右対称で歪みがない。

   (28)面具満足:顔のすべての部分が満足である。

   (29)唇如頻婆果之色:唇が頻婆樹の果実のように赤い。

   (30)言音深遠:話すときの声が深くて遠くまで届く。

   (31)臍深而円好:臍の穴が深く、円くて好ましい。

   (32)毛右旋:身体中の毛が右に旋回している。

   (33)手足満足:手足に欠けた部分がない。

   (34)手足如意:手足が意のままに動く。

   (35)手文明直:手のひらの印文が明快で真っ直ぐ。

   (36)手文長:手のひらの印文が長い。

   (37)手文不断:手のひらの印文が途切れていない。

   (38)一切悪心之衆生見者和悦:どんな悪者も見れば和やかになる。

   (39)面広而殊好:顔は広々として好ましい。

   (40)面淨満如月:顔は満月のように浄らか。

   (41)隨衆生之意和悦与語:衆生の意のままに和やかに共に語る。

   (42)自毛孔出香気:毛孔より香気が出る。

   (43)自口出無上香:口より無上の香気が出る。

   (44)儀容如師子:立ち居振る舞いの威厳あること師子のよう。

   (45)進止如象王:歩くことも立ち止まることも象王のよう。

   (46)行相如鵞王:歩くときとは片足づつ交互に運び、鵞鳥のよう。

   (47)頭如摩陀那果:頭は摩陀那果のよう。

   (48)一切之声分具足:声にはあらゆる音が備わっている。

   (49)四牙白利:四本の牙が白く鋭い。

   (50)舌色赤:舌の色は赤い。

   (51)舌薄:舌は薄い。

   (52)毛紅色:毛髪の色は紅色。

   (53)毛軟淨:毛髪は軟らかく浄らか。

   (54)眼広長:眼は広くて長い。

   (55)死門之相具:死門の相が具わる。死はこの世からあの世へ行く門、不死の相ではないということ。

   (56)手足赤白如蓮華之色:手足の色があるときは赤く、あるときは白い蓮華のようで濁っていない。

   (57)臍不出:出臍ではない。

   (58)腹不現:腹は常に隠されている。

   (59)細腹:腹は脹れていない。

   (60)身不傾動:身体は傾いていなくて、揺ぎない。

   (61)身持重:身体に重量感がある。

   (62)其身大:身体が大きい。

   (63)身長:背が高い。

   (64)四手足軟淨滑沢:手足は柔軟で浄らか、滑らかで光沢がある。

   (65)四辺光長一丈:身体から放たれる光は長さが一丈ある。

   (66)光照身而行:光は身を照らして遠くに届く。

   (67)等視衆生:衆生を等しく視る。

   (68)不軽衆生:衆生を軽くみない。

   (69)隨衆生之音声不増不減:衆生の音声に随うも、声の大きさが増したり減ったりしない。

   (70)説法不著:法を説いても、執著することがない。

   (71)隨衆生之語言而説法:衆生の話す言葉の種類に随って、法を説く。

   (72)発音応衆声:声を発すれば、衆生を同じ声を出す。

   (73)次第以因縁説法:順に因縁を明らかにして説法する。

   (74)一切衆生観相不能尽:誰も相を観て、明らかにし尽くすことがない。

   (75)観不厭足:観相しても厭きることがない。

   (76)髪長好:毛髪が長く好ましい。

   (77)髪不乱:毛髪はまとまって乱れない。

   (78)髪旋好:毛髪は好ましく渦巻いている。

   (79)髪色如青珠:毛髪の色はサファイアのような青色。

   (80)手足為有徳之相:手足は力に満ちている。

 

八音(はっとん):八の功徳ある如来の声。

    (1)極好音:仏徳は広大なるが故に、皆をして好道に入らしむ。

    (2)柔軟音:仏徳は慈善なるが故に、喜悦せしめ、皆、剛強の心を捨てて、自然に律行に入る。

    (3)和適音:仏は道理の中に居るが故に、音声はよく調和し、皆をして和融し、自ら理を会得せしむ。

    (4)尊慧音:仏徳は尊高なるが故に、聞く者は尊重し、智解(ちげ、智慧と理解)開明す。

    (5)不女音:仏は首楞厳(しゅりょうごん)定に住して世俗の徳あり。その音声は一切をして敬異せしめ、天魔、外道も帰服せざるなし。

    (6)不誤音:仏智は円明なり、照了して無謬、聞く者をして各々正見を得しめて、九十五種の邪非を離れしむ。

    (7)深遠音:仏智は如実の究際なり。行位極高にして、その音声は臍より起りて十方に徹して至る。近くに聞けども大音ならず、遠くとも小音ならず。皆をして甚深の理を証せしむ。

    (8)不竭音:如来の極果は願行を尽くすことなし。無尽の法蔵に住するを以っての故に、その音声は滔々として、尽くることなく、その響も竭きず。よく皆をしてその語義を尋ねしめ、無尽常住の果を得しむ。

  (『法界次第、下の下』)

 

十力(じゅうりき):仏の持つ十の智慧。いろいろな呼びかたがあるが、その一つをあげると、

   (1)処非処智力(しょひしょちりき):物ごとの道理と非道理を知る智力。処は道理のこと。

   (2)業異熟智力(ごういじゅくちりき):一切の衆生の三世の因果と業報を知る智力。異熟(いじゅく)とは果報のことであるが、まだその果報の善悪が決定していないことをいう。

   (3)静慮解脱等持等至智力(じょうりょげだつとうじとうちちりき):諸の禅定と八解脱と三三昧を知る智力。

   (4)根上下智力(こんじょうげちりき):衆生の根力の優劣と得るところの果報の大小を知る智力。根とは能く生ずることをいい、何かを生み出す能力のこと。

   (5)種々勝解智力(しゅじゅちょうげちりき):一切衆生の理解の程度を知る智力。

   (6)種々界智力(しゅじゅかいちりき):世間の衆生の境界の不同を如実に知る智力。

   (7)遍趣行智力(へんしゅぎょうちりき):五戒などの行によりゥ々の世界に趣く因果を知る智力。

   (8)宿住隨念智力(しゅくじゅうずいねんちりき):過去世の事を如実に知る智力。

   (9)死生智力(ししょうちりき):天眼を以って衆生の生死と善悪の業縁を見通す智力。

   (10)漏尽智力(ろじんちりき):煩悩をすべて断ち永く生まれないことを知る智力。をいう。

また、『大智度論巻25』には菩薩の十力を説く、

   (1)一切智の心を発して堅深牢固なる力。

   (2)大慈を具足するが故に一切の衆生を捨てざる力。

   (3)一切の供養、恭敬の利を須(もと)めざるが故に大悲を具足する力。

   (4)一切の仏法を信じ、具足して一切の仏法を生じて心厭わざるに及ぶが故の大精進の力。

   (5)一心に恵行して威儀を壊らざるが故の禅定の力。

   (6)二辺を除くが故に、十二因縁に随って行ずるが故に、一切の邪見を断ずるが故に、一切の憶想、分別、戯論を滅するが故に、智慧を具足する力。

   (7)一切の衆生を成就するが故に、無量の生死を受くるが故に、諸の善根を集めて厭足すること無きが故に、一切の世間は夢の如しと知るが故に、生死を厭わざる力。

   (8)諸法の実相を観ずるが故に、吾我無く、衆生無きを知るが故に、諸法の不出不生なるを信解するが故の、無生法忍の力。

   (9)空、無相、無作の解脱門に入りて観ずるが故に、声聞、辟支仏の解脱を知見するが故に、解脱を得る力。

   (10)深法に自在なるが故に、一切の衆生の心行と趣く所を知るが故に、無礙智を具足する力。これを菩薩の十力と為す。(智25)

 

十八不共法(じゅうはちふぐうほう):不共とは他と功徳を共にしないことを指し、仏のみがもつ功徳をいう。これに小乗に二種、大乗に一種がある。

≪T.迦旃延尼子のとなえる小乗の十八不共法≫

   (1〜10)仏の十力のこと。

   (11〜14)仏の四無所畏のこと。

   (15〜17)三念処または三念住といい、仏が衆生を導くとき心がける三種の思いをいう。

     (i)衆生が仏を信じても、仏は喜心を懐かず平常心である。

     (ii)衆生が仏を信じなくても、仏は憂愁に沈まない。

     (iii)衆生に信じる信じないの両様があっても、仏は歓喜も憂悩もしない。

   (18)仏の大悲心をいう。

≪U.その他の小乗の十八不共法≫

  (1)諸法の実相を知るが故に一切智と名づく。

  (2)仏の諸の功徳の相は難解なるが故に功徳無量なり。

  (3)深心に衆生を愛念するが故に大悲と名づく。

  (4)無比の智を得たるが故に智慧の中に自在なり。

  (5)善く心相を解するが故に定中に自在なり。

  (6)衆生を度する方便を得たるが故に変化自在なり。

  (7)善く諸法の因縁を知るが故に記別無量なり。

  (8)諸法の実相を説くが故に記別して虚しからず。

  (9)分別籌量して説くが故に言は無失なり。

  (10)十力の成就するを得て智慧は無減なり。

  (11)一切の有為法中にはただ法聚の無我なるを見るが故に常に施捨を行う。

  (12)善く時と不時とを知りて、三乗に安立す、常に衆生を観るが故に。

  (13)常に一心なるが故に失念せず。

  (14)無量阿僧祇劫に善心を深むるが故に煩悩の習無し。

  (15)真の浄智を得るが故に如法を能くしてその失を出だすことの有ること無し。

  (16)世世に敬われ重く尊ばるるが故によく頂を見るもの無し。

  (17)大慈悲心を修むるが故に安庠(あんじょう、安心)して足を下ろし、足下は柔軟にして、衆生遇わば、即ち時に楽を得。

  (18)神通、波羅蜜を得たるが故に、衆生の心を転じて歓喜して度を得しめ、故に城に入る時の如きには神変力を現す。(智26)

≪V.大智度論にとなえる大乗の十八不共法≫

   (1)身無失:仏は戒定慧と智慧と慈悲を用いて常にその身を修めるが故に一切の煩悩がない。

   (2)口無失:その為に身の過失がなく、口の過失がなく、

   (3)念無失:心に思うことにも過失がない。

   (4)無異想:仏は一切の衆生を平等に済度して、心に選ぶことがない。

   (5)無不定心:仏は行住坐臥において勝れた禅定にあって、心が散乱することがない。

   (6)無不知己捨:仏は一切の物事に通じてそれに執著しない。

   (7)欲無減:仏は衆生を済度することを欲して、厭きることがない。

   (8)精進無減:仏は衆生を済度して休息することがない。

   (9)念無減:仏は三世の諸仏の法と一切の智慧に相応して満足し、その状態から退くことがない。

   (10)慧無減:仏は一切の智慧を具えて尽きることがない。

   (11)解脱無減:仏は一切の執著を永久に遠離していること。

   (12)解脱知見無減:仏は一切に解脱しているため、あらゆることを実相のままに理解することができる。

   (13)一切身業隨智慧行:仏の智慧はすべて衆生を導くために使われる。

   (14)一切口業隨智慧行:それは仏のすべての身体の行為と、説法と、

   (15)一切意業隨智慧行:心の働きのすべてに及ぶ。

   (16)智慧知過去世無礙:仏の智慧は全ての衆生の過去世を礙(さまたげ)なく照らし知ることができる。

   (17)智慧知未来世無礙:未来世も同じ。

   (18)智慧知現在世無礙:現在世も同じ。(智26)

 

大慈大悲(だいじだいひ):衆生に楽を与えることを(じ)といい、衆生の苦を抜くことを(ひ)という。

 

智慧(ちえ):事理を分別し疑念を決断する作用、又事理に通達する作用。

智と慧の違い:無為の空理に達するをといい、有為の事相に達することをという。

菩薩の智慧:一説によれば、決断することを(ち)といい、判断、選択することを(え)という。

   (1)道慧(どうえ):道に関する一般的な知識、菩薩は衆生を済うためには仏道によらなければならない。

   (2)道種慧(どうしゅえ):種々の道に関する知識、菩薩は仏道の中の種々の道を理解して衆生済度をする。

   (3)一切智(いっさいち):衆生に関する一般的な知識、菩薩は衆生とは『空』であることを知って、その知識のもつ力によって衆生済度する。

   (4)一切種智(いっさいしゅち):衆生に関する個別的な知識、菩薩は衆生それぞれに応じた方法で済度する。

 

方便(ほうべん):真如の智慧に通達することを般若(はんにゃ)といい、実践に関する智慧に通達することを方便という、即ち他を利益する手段。巧みに処理すること、また論理を深く追求せず、善法を行うこと。仏の無量の知識と無限の智慧を以ってする行為が方便であるが、仏に非ずとも善因善果の理法と諸法の空理を信じて行うことも方便である。方便(ほうべん):般若に対する言葉であり、則ち真如の智に達するを般若と為し、権道の智に達するを方便と為すを謂う。権道とは乃ち他を利益する手段方法である。この釈に依れば則ち大小乗一切の仏教は、概ねこれを称して方便と為す。方とは方法、便とは使用、使用とは一切の衆生の機に適合する方法をいう。また方を方正の理と為し、便とは巧妙なる言辞と為す。種種の機に対して、方正の理と巧妙なる言を用いることである。また方とは衆生の方域、便とは教化の便法として、諸の機の方域に応じて、適化の便法を用いる。

 

仏の一切智:仏の一切智は次の理由による。

   (1)十力を得ている。

   (2)正しいか正しくないかを知っている。

   (3)因縁の業と報とがあることを知っている。

   (4)あらゆる心を統一することと煩悩をなくす方法を知っている。

   (5)衆生が何をすれば善で何をすれば悪かを知っている。

   (6)種々の欲から解放する方法を知っている。

   (7)種々の世間の人の無量にある性質を知っている。

   (8)六道等へ至る道について知っている。

   (9)過去世の行為を忘れずに憶えている。

   (10)天眼によって、すべての物事を知り、衆生の来世の様子を克明に知っている。

   (11)自分に一切の煩悩がないことを知っている。

   (12)因縁により変化するものと変化しないものについて知っている。

   (13)全ての世界で一番勝れた法を説く。

   (14)甘露味を食べて、不死である。

   (15)中道を知っている。

   (16)全てのものの因縁によって造られた仮の相(すがた)と因縁によらない真実の相を知っている。

   (17)永久にこの世の欲望がない。

 

 

十地(じゅうじ)十住(じゅうじゅう)、菩薩の位には非常に多くの説があり、またある経では四十一あるいは五十二の位階を説明している。

 ここでは大品巻第六および大智度巻第四十九から第五十によって、菩薩、声聞、辟支佛が共にたどる道を十の段階、すなわち乾慧地等の三乗共十地(さんじょうくじゅうじ)および金光明経に述べる歓喜地等の十地を説明する。

<1.乾慧地等の十地>

   (1)乾慧地(けんねち):淨観地(じょうかんち)、真理を観じようとする智慧はあっても、未だ禅定の水に潤されていない。菩薩がこの位にあるときには次の十事を行う。

 謂ゆる、1.深心堅固、2.一切衆生の中において等心(心に分け隔てないこと)、3.布施、4.善知識に親近(しんごん)、5.法を求む、6.常に出家、7.仏身を愛楽(あいぎょう)、8.法教を演説、9.憍慢を破す、10.実語す。

   (2)性地(しょうち):種性地(しゅしょうち)、諸法実相に愛著するが、邪見を起こさず、智慧と禅定を伴なう。菩薩がこの位にあるときには八法を念ず、すなわち常に心に掛けて忘れない。

 謂ゆる、1.浄く持戒、2.恩を知り恩に報ず、3.忍辱、4.歓喜、5.一切衆生を捨てず、6.大悲心、7.師を信じて恭敬諮受、8.諸波羅蜜を勤め求む。

   (3)八人地(はちにんち):八地(はっち)、人とは忍で認可のこと。欲界の四聖諦、色界無色界の四聖諦に通達したという意味で、二度と生まれないという確信を得る。菩薩がこの位にあるときには五法を行う。

 謂ゆる、1.多く学問す、2.浄法を施す、3.仏国土を荘厳、4.世間の無量の勤苦を受く、5.常に慚愧す。

   (4)見地(けんち):具見地(ぐけんち)、八人地の完全なもの。この地を得れば菩薩は修行が後戻りしない不退の位すなわち阿惟越致(あゆいおっち)または阿鞞跋致(あびばっち)となる。菩薩がこの位にあるときには十法を捨てず。

 謂ゆる、1.阿蘭若(あらんにゃ、静閑処のこと)に住すること、2.少欲、3.知足、4.頭陀、5.戒、6.諸欲を厭い悪(にく)む、7.世間を厭い涅槃に順ずる心などを捨てず、8.一切の所有を捨て、9.心没せず(心がとらわれない)、10.一切の物を惜しまず。

   (5)薄地(はくち):柔軟地(にゅうなんち)、微欲地(びよくち)、煩悩がかすかに残っている状態。菩薩がこの位にあるときには十二法を遠離す。

 謂ゆる、1.親しき白衣(びゃくえ、俗人)、2.比丘尼、3.他に物惜しみする家、4.無益の談処、5.瞋恚(しんに、怒り)、6.自大(自ら偉ぶること)、7.人を蔑む、8.十不善道、9.大慢、10.自用(じゆう、自らのためにする行為)、11.顛倒、12.婬怒癡(いんぬち、欲望と怒りと愚か)。

   (6)離欲地(りよくち):欲を離れて五神通を得た状態。菩薩はこの位にあるときには六波羅蜜を具足して六種の為すべからざることあり。

 謂ゆる、1.声聞(しょうもん)辟支仏(びゃくしぶつ)の心を起こさず、2.布施して憂心を生せず、3.求める者があってもそれに心を埋没させない、4.あらゆるものを布施する、5.布施の後に心悔いず、6.深法を疑わず。

   (7)已作地(いさっち):已辨地(いべんち)、菩薩が仏と同じ心を得たということ。阿羅漢(あらかん)の位。菩薩はこの位にあるときは、まさにこの二十法に著すべからず。

 謂ゆる、1.我に著せず、2.衆生に著せず、3.寿命に著せず、4.教団の衆、ないし知者、見者に著せず、5.断見(だんけん、来世は存在しないという見解)に著せず、6.常見(じょうけん、来世は存在するという見解)に著せず、7.菩薩は相(ものごとの見かけ上の姿)に捉われない、8.菩薩は因果に捉われない、9.名色(みょうしき、色受想行識の五陰の別名)すなわち心と身体に著せず、10.五衆(ごしゅ、五陰の別名)に著せず、11.十八界(じゅうはっかい、心と心の働きの総て)に著せず、12.十二入(心と心の働きの拠りどころ)に著せず、13.三界(さんがい、衆生世界)に著せず、14.著心を作さず、15.願を作さず、16.他に頼るという考えに著せず、17.仏に頼るという考えに著せず、18.法に頼るという考えに著せず、19.教団に頼るという考えに著せず、20.戒に頼るという考えに著せず。

  またまさにこの二十法を具足すべし。謂ゆる、1.空を具足す、2.無相を証す、3.無作を知る、4.身口意の三分を清浄に、5.一切衆生に対して慈悲の智慧を具足す、6.一切衆生を念ぜす、すなわち常に心に掛けることはせず、7.あらゆるものは等しいと観じ、8.物事の真の姿を知ってはいても、このことを心に置くことはせず、9.生まれないということを認め、10.生まれないという智慧を持ち、11.あらゆるものはただ一つの相(すがた)を持つと説き、12.ものごとを分別し差別するということに捉われず、13.憶想(おくそう、記憶と考え)を転(てん、変化させること)じ、14.見解を転じ、15.煩悩を転じ、16.一切種智(いっさいしゅち、衆生に関する個別的な智慧)を得て、17.物事を思量するときには感情に流されず、18.心は波打たず、19.智慧の働きには差し障りなく、20.あらゆるものごとに染愛(せんあい、執著すること)せず。

   (8)辟支佛地(びゃくしぶつち):縁覚地(えんがくち)、辟支仏とは因縁の法を観じて釈迦仏等の他の仏に依らず独自に成仏したもの。菩薩はこの位にあるときは五法を具足すべし。

 謂ゆる、1.衆生の心に順入し、2.諸の神通を楽々と行い、3.諸の仏国を観じ、4.見たところの仏国のように自らの国を荘厳し、5.如実(にょじつ、正しく在るがままに)に仏身を観じて自ら仏身を荘厳する。(注:自ら仏身を荘厳するとは、自ら正しい仏身観をなすという意味である。)、また五法あり。

 謂ゆる、1.上下の諸根を知り、すなわち度し易き者と度し難き者とを知り、2.仏世界を浄め、すなわちあらゆる衆生を化度し、3.如幻三昧に入り、すなわち幻の如くに自在に数々の方便をして衆生を度し、4.常に三昧に入り、すなわち一心に、5.衆生の所応の善根に従って身を受く、すなわち衆生かつて作した善根に応じて身を受く、菩薩は同じ身を受けて度に赴く。

   (9)菩薩地(ぼさつち):ここからな菩薩のみの位で、前述の乾慧地から離欲地までのすべてを併せた位、又は菩薩が仏になる直前の位。菩薩はこの位にあるときは十二法を具足すべし。

 謂ゆる、1.無辺世界の所度の分を受け、すなわち如何なる世界であろうと度すべき者はすべて度し、2.願うものはすべて得て、3.天龍夜叉等のの言葉を解して説法し、4.相応の母体を選び、5.家を選び、6.生まれる方法、すなわち胎生か卵生か湿生か化生かを選び、7.種姓を選び、8.眷属を選び、9.生まれるときには光を放ち、10.出家し、11.菩提樹下で覚りを開き、12.あらゆる力を具足する。

   (10)仏地(ぶっち):如来地(にょらいち)仏の心そのままをいう。以上乾慧地等の十地。

 

  <2.歓喜地等の十地>

 また多くの経では歓喜地等の別の十地を説く。

   (1)歓喜地(かんぎち):初めて出世の心、すなわち平等を覚り迷いがないことに気づき大いに歓喜する。

   (2)無垢地(むくじ):離垢地(りくじ)、微かに残っていた煩悩の垢と戒を犯すことが無くなり、清浄となる。

   (3)明地(みょうじ):発光地(はっこうじ)、無量の智慧と三昧の光明は傾け揺らすことも消すことも出来ず、何度生まれ変わってもかつて聞いた正法を忘れることがない。

   (4)焔地(えんち):焔慧地(えんねち)、智慧の火でもって諸の煩悩を焼き尽くし、光明を増長して更に修行する。

   (5)難勝地(なんしょうち):極難勝地(ごくなんしょうち)、勝れた智慧が自在であることは極めて得難い、見道(けんどう)と修道(しゅうどう)すなわち意識できる煩悩はすべて断った段階における残りの微細な煩悩は断ち難い、これらの困難を克服した。

   (6)現前地(げんぜんち):常に行法を相続し、明了に菩薩のすがたを現す。本質は無相であるが、種々の方便を思惟して皆悉く目の前に現す。

   (7)遠行地(おんぎょうち):煩悩の有る無しに拘わらず、永遠に修行し続ける。

   (8)不動地(ふどうち):あらゆる物の見かけに惑わされることなく、真実の相(すがた)を見るために煩悩によって動かされることがない。

   (9)善慧地(ぜんねち):智慧が増長してあらゆる物の微細な区別を自在に説くことが出来、一切の患いが無い。

   (10)法雲地(ほううんち):法身は虚空の如く、智慧は大雲の如く、皆よく遍満して一切を覆う。以上歓喜等の十地。

 

 

童真地(どうしんち):常に諸仏の家に生まれる地位。

 

五分法身(ごぶんほっしん):仏は真如の具現したもの。詳しくは次の五つの性質を兼ね備えたものと言える。

   (1)戒法身(かいほっしん):如来の身口意の三業は一切の過を離れている。

   (2)定法身(じょうほっしん):如来の真心は寂静で一切の妄念を離れている。

   (3)慧法身(えほっしん):如来の真智は円満明了で一切の物事に観達している。

   (4)解脱法身(げだつほっしん):如来の身心は一切の繫縛から解脱している。

   (5)解脱知見法身(げだつちけんほっしん):如来は已に自ら解脱せることを知り、また解脱に関する一切を知る。

 

 

 

 

 

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