file6:弟子、修行

  弟子:>(声聞弟子、五戒、戒律、四部衆、十大弟子、

      外道、辟支仏、等々)、

  修行(修行>二十七道品、等々

 

 

 

精舎(しょうじゃ):比丘たちが雨季の三ヶ月間を過ごすための場所、比丘は原則として一箇所に定住せず、また群れを作らずに一人一人個別に、村から村、家から家に乞食して歩くことに決められていたが、網の目のようなガンジス河の支流が雨季には増水するために、やむなく雨季の間はいくつかの精舎に一緒に住み、坐禅と読経と学問をして暮らしていた。

 

四部衆(しぶしゅう):仏弟子には四種の別があり、四部の衆と呼ぶ。

 (1)比丘(びく):出家の仏弟子、具足戒(ぐそくかい)を受けた男。

 (2)比丘尼(びくに):出家の仏弟子、具足戒を受けた女。

 (3)優婆塞(うばそく):在俗の仏弟子、五戒を受けた男で、三宝に親しく仕える。

 (4)優婆夷(うばい):在俗の仏弟子、五戒を受けた女で、三宝に親しく仕える。

 

五衆仏弟子(ごしゅぶつでし):出家して仏弟子となった者で、次をいう。

 (1)比丘(びく):具足戒(ぐそくかい)を受けた男子。

 (2)比丘尼(びくに):具足戒を受けた女子。

 (3)式叉摩那(しきしゃまな):十八歳以上の女子は二年間次の六法(ろっぽう)を学ばなければならない。

   (a)汚れた心で男子の身に触れない。

   (b)他人の金銭を四銭以上盗まない。

   (c)畜生の命を断たない。

   (d)自ら聖者と称して他人の供養を貪らない。

   (e)午後に食事をしない。

   (f)酒を飲まない。

 (4)沙彌(しゃみ):出家し十戒を受けた二十歳以下の男子。

   (a)殺生しない。

   (b)盗まない。

   (c)婬事をしない。

   (d)妄語をしない。

   (e)飲酒をしない。

   (f)装身具を身に着け、香を塗ることをしない。

   (g)歌舞、音曲を聴きに出かけない。

   (h)高く広い大床上に坐さない。

   (i)午後に食事をしない。

   (j)金銀宝物を持ち込まない。

 (5)沙彌尼(しゃみに):出家し十戒を受けた二十歳以下の女子。

七衆(しちしゅ):五衆に優婆塞、優婆夷を加える。

 

八衆(はっしゅ):内外の信者。(1)刹利(せつり)衆:王族、(2)婆羅門(ばらもん)衆:外道、(3)居士(こじ)衆:在俗の大施主、(4)沙門(しゃもん)衆:内外の出家、(5)比丘(びく)衆:僧に属する男の出家、(6)比丘尼(びくに)衆:僧に属する女の出家、(7)優婆塞(うばそく)衆:僧に奉仕する男の在家、(8)優婆夷(うばい)衆:僧に奉仕する女の在家。または(1)沙門衆、(2)婆羅門衆、(3)刹利衆、(4)天衆、(5)四天王衆、(6)三十三天衆、(7)魔衆、(8)梵衆。

参考:『十誦律巻50』:『有八眾。剎利眾。婆羅門眾。居士眾。沙門眾。比丘眾。比丘尼眾。優婆塞眾。優婆夷眾。是名八眾。参考:『長阿含経巻3』:『佛告阿難。世有八眾。何謂八。一曰剎利眾。二曰婆羅門眾。三曰居士眾。四曰沙門眾。五曰四天王眾。六曰忉利天眾。七曰魔眾。八曰梵天眾。』 参考:『大智度論巻25』:『眾中師子吼者。眾名八眾。沙門眾婆羅門眾剎利眾。天眾四天王眾。三十三天眾。魔眾梵眾。眾生於此八眾悕望智慧。是故經中但說是八眾。

 

四向四果(しこうしか):小乗における修行の階位。四段階あり、各位について修行をし終え結果の出た状態を果(か)といい、修行しつつある状態を向(こう)という。

 (1)須陀洹(しゅだおん):預流(よる)、三界の見惑(けんわく、根本的な煩悩のこと)を断ち終わって、無漏(むろ、煩悩がない)の聖者の流れに入り終わった位。この位を得ると、貪瞋癡(とんじんち)等の煩悩が断たれ、常楽我浄(じょうらくがじょう)の邪見を排することが出来る。

 (2)斯陀含(しだごん):一来(いちらい)、修惑(しゅわく、細々と残る具体的な煩悩のこと)を断ちつつある位。もう一度人間として生まれなくてはならない。

 (3)阿那含(あなごん):不還(ふげん)、修惑を完全に断ち終わった位。再び欲界に還ってこない位。

 (4)阿羅漢(あらかん):応供(おうぐ)、阿羅漢は小乗の最高位の聖者にして次の特質を有す、(1)煩悩を滅し尽くす。(2)人天の供養を受けるにふさわしい。(3)永久に涅槃界に入って、再び生死の果報を受けることがない。即ち一切の見惑と修惑を立ち尽くし涅槃(ねはん)に入って再び生まれない位。

四向(しこう)、四果(しか):小乗にての修道の階位。向は果に至る途中と為す。(1)須陀洹(しゅだおん):預流と訳し、聖者の流れに身を預けるの意なり。(@)預流向:即ち見道に入る時、初めて四聖諦の理を観て、無漏小乗の智慧眼(清浄法眼)を得る階位を指す。またその直ちに預流果に至りて三悪趣に堕ちざるが故にまた無退堕法と称す。ただしこの位の聖者はなお未だその果位に証入せざるに因り、故に果と称せずして、向と称す。蓋しその初果に趣向するの義を取るべし。(A)預流果:また初果と称し、尽く三界の見惑(八十八使)を断ちて、聖道の法流に預入するを指す。第十六心を以って無漏の聖道(聖者)の階位に入る十六見道位の中の聖者にしてその根の鈍利に由って二に分かつ、(a)随信行:鈍根の者を指し、即ち自己は経文を披閲せず、ただ他人の言を信じて悟道を得る者なり。(b)随法行:利根の者を指す。自己にて経典を閲読し法に随いて行う者なり。預流果の聖者の生死に輪廻すること、最も長くも僅かに人界と天界との中に於いて各々往返七度なり。これ即ち十四生の間に必ず阿羅漢果を証得し、絶えて第八度の再び生を受くることの無き者と言う、故に称して極七返有、極七返生と為す。(2)斯陀含(しだごん):一来と訳す。(@)一来向:即ちすでに欲界の九品の修惑を断除する中の前六品の者を指す。この位の聖者はなお未だ後の三品の修惑を断除せざるが故に一度天界に生じて再び人間に来、而して般涅槃に入る、故に称して一来と為す。然るにこの位の聖者はなお未だその果位に証入せざるに因って、僅かに第二果に趣向するが故に称して一来向と為す。(A)一来果:即ち第二果にして、すでに欲界の九品の修惑の中の前六品を断除して、並びに果位に証入せる者を指す。また一来向の聖者の中に於いて前三品或いは前四品を断除せる者を称して家家聖者と為し、簡に称して家家と為す。家家とは即ち一家より出でて別の一家に至るなり。例えば人間より天界に生じ、また天界より人間に生ずるが如し。欲界の九品の修惑に由り、遂に須く欲界の中に在りて生死すること七次、即ち人、天中に各々七生を受く。故にもし九品の修惑の中の前三品(上上、上中、上下)を断除せば、その余の六品の修惑に由り、なお須く三大生(人、天各二生)を受く、これを三生家家と称す。もし前四品(上上、上中、上下、中上)の修惑を断除せば、則ちその余の五品の修惑に由り、二大生(人、天各二生)を受け、称して二生家家と為す。三生家家の中は「天三人三」或いは「人三天三」、二生家家の中は「天二人二」或いは「人二天二」の生を受くる者は、その人、天中に受くる生の次数の相い等しきに因るが故に称して等生家家と為す。三生家家の中の「天三人二」或いは「人三天二」、二生家家の中の「天二人一」或いは「人二天一」の生を受くる者はその人、天中の受くる生の次数の同じからざるに因るが故に生して不等生家家と為す。その中に天界或いは人間に於いて預流果を悟得せる聖者を称して家家聖者と為し、天界に於いて阿羅漢果を得る聖者なれば則ち称して天家家と為し、人間に於いて阿羅漢果を得る聖者なれば則ち称して人家家と為す。(3)阿那含(あなごん):不還と訳す。(@)不還向:即ちすでに一来果を証得せる聖者にして、まさに欲界九品の修惑中の後の三品を断除すべくして、即ちまさに不還果の階位に証入せんとする者を指す。その第三果に趣向するを以っての故に不還向と称す。不還向の中に、もし欲界の九品の修惑中の七品或いは八品を断除して、なお余すこと一品或いは二品なる者にして、須く欲界に於いて天界の中に生を受くること一次なれば称して一間と為す。また一生、一品惑に作り、即ち間一生を隔てて、果を証する義なり。また一種子と称し、或いは一種と称す。(A)不還果:即ち第三果にして、すでに欲界九品の修惑の中の後の三品を断じ尽くして、再び欲界に返り至りて生を受けざる階位を指す。その再び欲界に返り至りて生を受けざるに因るが故に称して不還と為す。不還果はまた分かちて五種と為すべく、生して五種不還と為し、また五種阿那含、五不還果、五種般に作る。即ち(a)中般:不還果の聖者の欲界に死して色界に生ずる時、色界の「中有」の位に於いて般涅槃に入る者を指す。(b)生般:聖者は既に色界に生じ、未だ久しからざるに即ち能く道を未だ久しからざるに即ちよく道の聖なるを起し、無色界の惑を断除して般涅槃に入る者なり。(c)有行般:色界に生じて長時を経過する加行に勤修して般涅槃に入る者なり。(d)無行般:色界に生ずるも、ただ未だ加行に勤修せずして任運することの久しきを経て、方才(方法と才能)もて無色界の惑を断除して般涅槃に入る者なり。(e)上流般:先に色界の初禅に生じて漸次上の色界の余天の中に生じ、最後に色究竟点或いは有頂天に至って、般涅槃に入る者なり。上流般は分かちて楽慧、楽定の二種を為す、この二種の上流般は、また全超般、半超般、遍没般の三種に分かつべし。全超般とは、色界の最下層の煩衆天に生じて中間の十四天を越過して、色界或いは無色界の最上天に生ずる者を指す。半超般とは、中間の一天乃至十三天を超越する者を指す。遍没般とは、一天すら超過せず遍く諸天に聖を受くる者を指す。上述の五種の不還は再び上に加えて般を現すこと、無色般二種あれば、則ち成して七種不還と為す。この外に、中般を将って別に三種を立つ、即ち速般、非速般、経久なり、上の生般に加うるに行般と無行般と有り、及び上流般とは別に全超般、半超半、遍没般等を立てて則ち成して九種不還と為す。もし僅かに別に上流般を立てて三種と為せば則ち前の四般を合せて七善士趣と称す。また次ぎに、滅尽定に入りて、涅槃の寂静楽を証得する不還果の者を称して身証、或いは証不還と為す。而るに欲界九品の修惑を断除して、不還果を獲たる聖者の、再び欲界の煩悩を生起して、不還果より退堕すれば、則ち称して離欲退と為す。(4)阿羅漢(あらかん):意訳して応供、応、無学と作す。(@)阿羅漢向:すでに不還果を証得せる聖者にして阿羅漢道に入るも、なお未だその果位に証入せざるを指す。ただその第四果を趣向するを以っての故に阿羅漢向と称す。(A)阿羅漢果:即ち第四果にして、また極果、無学果に作り、すでに色界、無色界の一切の見惑、修惑を断じ尽くして、永く涅槃に入り、再び生死に流転せざる階位を指す。阿羅漢果に証入せる聖者は、三界を超出して、四智すでに円融無礙なるを経て、すでに法として学ぶべきものの無きが故に称して無学と為す。前に述ぶる所の四向三果は皆漏の尽くるを得て以って阿羅漢果に証入せるに、常に楽しむに戒、定、慧の三を以ってせば、修学と為すが故に称して有学と為す。

 

五阿那含(ごあなごん):五種不還(ごしゅふげん)、不還果にある聖者の五種の般涅槃。

    (1)中般涅槃:不還果の聖者が欲界に死に色界に往く中間で余の煩悩を断ち般涅槃すること。

    (2)生般涅槃:色界に生じおわって久しからざるに、余の惑を断ち般涅槃すること。

    (3)有行般涅槃:生じおわって長時に修行し、余の惑を断って般涅槃すること。

    (4)無行般涅槃:生じおわって修行せず怠けて長時を経るに、余悪自然に解けて般涅槃すること。

    (5)上流般涅槃:下天より上天に進む間に、余の惑を断って般涅槃する。

                                    (阿毘達磨大毘婆沙論174)

 

六捨法(ろくしゃほう):捨てるべき六のもの。

    (1)色捨処:色の行(作用、働き)を見る。

    (2)声捨処:声の行を聞く。

    (3)香捨処:香の行を嗅ぐ。

    (4)味捨処:味の行を味わう。

    (5)触捨処:触の行を覚える。

    (6)法捨処:法の行を知る。(大集法門経2)

 

六愛敬法(ろくあいきょうほう):敬うべき六のもの。

    (1)仏。

    (2)法。

    (3)僧。

    (4)戒。

    (5)定。

    (6)慧。

 

六随順念(ろくずいじゅんねんん):六種の随順して念ずべきもの。

    (1)仏。

    (2)法。

    (3)僧。

    (4)戒。

    (5)捨、施。

    (6)天。

 

六三昧(ろくさんまい):禅定の六種の様相。

    (1)有一相修為一相:一相とは禅定のこと、定に因りて、またよく定を生ずること。

    (2)有一相修為種種相:種種相とは法の種種の性を知見すること、定に因りて、法の種種相を知る。

    (3)有一相修為一相種種相:上の二を併せて修する。

    (4)有種種相修為一相:種種相を観じて定を生じる。

    (5)有種種相修為種種相:種種相を観じて更に別の種種相を観じる。

    (6)有種種相修為一相種種相:上の二を併せて修する。(成実論12)

 

十八有学(じゅうはちうがく):十八種の有学の聖人の意。(智22)

   (1)信行(しんぎょう):見道十五心中に於ける鈍根の人。

   (2)法行(ほうぎょう):見道十五心中に於ける利根の人。

   (3)信解(しんげ):信行の人の修道(しゅどう、思惟道)位に入れるもの。

   (4)見得(けんとく):法行の人の修道位に入れるもの。

   (5)身証(しんしょう):不還果(ふげんか、阿那含果)の人の滅尽定を得たもの。

   (6)家家(けけ):一来向(いちらいこう、斯陀含向)の人の中、欲界修惑の三乃至四品を断ぜるもの。

   (7)一種(いっしゅ):不還向(阿那含向)の人の中、既に七乃至八品の惑を断じ、ただ九品の惑の為に住果(阿羅漢果)に隔てられたもの。

   (8)〜(13)預流向乃至不還果。

   (14)中般涅槃(ちゅうはつねはん):七種不還の中、色界生の五種の聖者の一。

   (15)生般涅槃(しょうはつねはん):七種不還の中、色界生の五種の聖者の二。

   (16)行般涅槃(ぎょうはつねはん):七種不還の中、色界生の五種の聖者の三。

   (17)無行般涅槃(むぎょうはつねはん):七種不還の中、色界生の五種の聖者の四。

   (18)上流般涅槃(じょうるはつねはん):七種不還の中、色界生の五種の聖者の五。

 

六種阿羅漢(ろくしゅあらかん):阿羅漢には次の六種の別がある。

   (1)退法阿羅漢(たいほうあらかん):時に因縁により、すでに得た阿羅漢の覚りから退去しやすい者。

   (2)思法阿羅漢(しほうあらかん):退失を恐れて自殺しようと思う者。

   (3)護法阿羅漢(ごほうあらかん):覚りの境地を楽しみ退失を恐れて防護する者。

   (4)安住法阿羅漢(あんじゅうほうあらかん):現在の覚りに安住して進みも退きもしない者。

   (5)堪達法阿羅漢(たんだつほうあらかん):次に進むことの出来る者。

   (6)不動法阿羅漢(ふどうほうあらかん):退失の恐れのない者。

九種阿羅漢(くしゅあらかん):九無学(くむがく)、また次の九種を立てる。

   (1)退法阿羅漢(たいほうあらかん):時に因縁により、すでに得た阿羅漢の覚りから退去しやすい者。

   (2)思法阿羅漢(しほうあらかん):退失を恐れて自殺しようと思う者。

   (3)護法阿羅漢(ごほうあらかん):覚りの境地を楽しみ退失を恐れて防護する者。

   (4)安住法阿羅漢(あんじゅうほうあらかん):現在の覚りに安住して進みも退きもしない者。

   (5)堪達法阿羅漢(たんだつほうあらかん):次に進むことの出来る者。

   (6)不退法阿羅漢(ふたいほうあらかん):本来利根にして退失の恐れのない者。

   (7)不動法阿羅漢(ふどうほうあらかん):修行の力により退失の恐れのない者。

   (8)辟支仏。

   (9)仏。

時解脱(じげだつ):六種阿羅漢の内、前の五の得る解脱で、勝れた縁のある時を待って得る解脱。

不時解脱(ふじげだつ):時に従らないでする解脱で、不動法阿羅漢の得る解脱。

 

常楽我浄(じょうらくがじょう):自身と世界について、

   (1)(じょう):永遠に存在する。霊魂は来世に生まれる。

   (2)(らく):苦ではなく楽である。

   (3)(が):自由で主体的である。過去現在未来を通じて霊魂が存在する。

   (4)(じょう):肉体は清浄である。世界は清浄であり浄める必要がない。

無常苦空不浄(むじょうくくうふじょう):断苦空穢(だんくくうえ)、

   (1)無常(むじょう):断(だん)、人生はこの世限りである。

   (2)苦(く):楽しいことは何もない。

   (3)空(くう):世界は空虚である。

   (4)不浄(ふじょう):穢(え)、世界はどうしようもなく汚れている。

二見(にけん):二辺見(にへんけん)、自身と世界について常楽我浄あるいは無常苦空不浄であると信じて凝り固まること。

断滅見(だんめつけん):断見(だんけん)、この世の生と、後世の生とは関係がないとする見解をいう。

計常見(けじょうけん):常見(じょうけん)、この世の生と、後世の生とは連続しているという見解をいう。我の常なること。

我見(がけん):我が有るという見解をいう。

無我見(むがけん):我が無いという見解に凝り固まっていること。

菩薩の常楽我浄:大乗ではこの世と自身について、次のように考える。

   (1)常(じょう):『空』である、この身と世界は永久不滅である。

   (2)楽(らく):『空』である、この身と世界は楽である。

   (3)我(が):『空』である、この身は、どの世界においても変わらない。

   (4)浄(じょう):『空』である、この身と世界は浄らかで美しい。

 

断滅相(だんめつそう):どのような物事も、常に因縁が作用しているために、常(じょう)すなわち変化しないということはない。また一方、因果はどこまでも相続(そうぞく、ツナガル)しているために、断絶しているのでもない。そのために、諸法は断滅するという見方は、邪見である。

 

中道(ちゅうどう):両極端の見解に傾かないことであるが、いろいろな中道がある。例として挙げれば、

  (1)快楽と苦行のどちらにも傾かない。

  (2)常見と断見のどちらにも傾かない。

  (3)有見と無見のどちらにも傾かない。

  (4)全ての執著と分別を離れる。

  (5)生滅、断常、一異、去来の八邪を離れる。

 

煩悩とは我々を悩ます原因のことで、『無我』に対する無知から起こる。

  (1)貪欲(とんよく):貪り、(いん)ともいう。

  (2)瞋恚(しんに):怒り、(ぬ)ともいう。

  (3)愚痴(ぐち):愚か、(ち)とも顛倒(てんどう)ともいう。これはこの世が常楽我浄(じょうらくがじょう)すなわちこの世は常であり変化しない、また苦ではなく楽であり、我は空ではなく、この世間は汚れていずこれで良いとすること。

 これを三つの根本的な煩悩として、貪瞋癡(とんじんち)とも三毒とも呼び、苦しみの根本原因であるとするが、人間の本質的な部分に深く関係するもので、簡単にはなくなならない。

 

有漏(うろ)無漏(むろ):(ろ)は漏泄の義にして煩悩の異名。眼耳等の六つの傷口より煩悩が漏れ出すの意。煩悩が無い状態を無漏という。有漏と無漏とを并せて二漏(にろ)という。蓋し大乗的な意味合いとしては、有漏では未だ自他平等に入れず、無漏は入ったというところか。

 

有結(うけつ):(けつ)、煩悩の別名、有(う)とは生死を流転する衆生、煩悩は我々を生死に結び付けて放さないという意味。

 

(けつ)、使(し)、(る)、(じゅ)、(やく)、(ばく)、(がい)、(けん)、(てん):これらもすべて煩悩の異名。(=>五蓋、十纏を参照せよ。)

 

客塵煩悩(かくじんぼんのう):心が外縁に遭遇して起こる煩悩。

 

(う):果のこと。業(行為のこと)は因縁によって果を生じる。その業と因縁によって生じた果のことを『有』という。我々の『生』はこの『有』であると考える。

 

欲界繫(よっかいけ)、色界繋(しきかいけ)、無色界繋(むしきかいけ)、不繋(ふけ):諸法を三界に分け、欲界に於いて繋属(繋縛)する法を欲界繋、色界に繋属する法を色界繋、無色界に繋属する法を無色界繋といい、三界に繋縛しないものを不繋という。

結使(けっし):結びつけ思いのままに使うもの。自由を失わせるもの、煩悩のこと。

          (七使、十使、九十八使の項参照)

九結(くけつ):結とはこの世、すなわち生死界に結びつける、煩悩のこと。

   (1)愛結:渇愛、貪欲。

   (2)恚結:瞋恚、怒り。

   (3)慢結:慢心、怠けること。

   (4)癡結:無明、事理に疎いこと。

   (5)疑結:仏法僧の三宝を疑う。

   (6)見結:邪見に執著する。

   (7)取結:生死に執著する。

   (8)慳結:物惜しみをする。

   (9)嫉結:妬む。

三結(さんけつ):見惑中の最重の煩悩。 この三結を断つことを預流果という。

  (1)見結:我見のこと。

  (2)戒取結:邪戒を行うこと。

  (3)疑結:正理を疑うこと。

五下分結(ごげぶんけつ):次の五種の煩悩は有情を欲界に繋縛し脱出せしめざるをいう。

  (1)貪結:貪欲の煩悩。

  (2)瞋結:瞋恚の煩悩。

  (3)身見結:我見の煩悩。

  (4)戒取結:非理無道の邪戒に執著する煩悩。

  (5)疑結:四諦の理を疑う煩悩。

十結(じっけつ):『舎利弗阿毘曇論』には次の十結を説く。

  (1)見結:諸見を起す煩悩。

  (2)疑結:四諦の理を疑う煩悩。

  (3)戒道結:苦行のごとき戒律を行ずる煩悩。

  (4)欲染結:欲界の貪欲。

  (5)瞋恚結:怒りと嫉妬。

  (6)色染結:色界の煩悩。

  (7)無色染結:無色界の煩悩。

  (8)無明結:無明、生存に関する根本的な煩悩。

  (9)慢結:憍慢の煩悩。

  (10)掉結:心を興奮させ安静にさせない煩悩。

 

七使(しちし):煩悩を分類する方法は非常に多く、煩雑です。七使とか九十八使とか言われるものはこの分類法の一つです。  (九結、三結、五下分結の項参照)

  (1)欲染使(よくぜんし):欲愛使、欲界の貪欲のこと。

  (2)瞋恚使(しんにし):総じて怒りのこと。

  (3)有愛使(うあいし):色界無色界の貪欲のこと。

  (4)憍慢使(きょうまんし):自らを恃(たの)んで他を馬鹿にすること。

  (5)無明使(むみょうし):無明とは真実に目覚めないこと。無明は人を駆使して三界を流転させるため使と呼ばれます。

  (6)見使(けんし):五邪見(ごじゃけん)のことです。五邪見とは、

     (i)身見(しんけん):我見我所見のことです。我が身が五蘊の和合した仮のものであることを知らず、実在のものと考えること。また我が身辺の諸物が一定の所有主が無いことを知らず、我が所有と考えること。

     (ii)辺見(へんけん):我は死後も常住である(常見)、または死後は断絶する(断見)という偏った考え。

     (iii)邪見(じゃけん):因果を認めないこと。

     (iv)見取見(けんしゅけん):最初に知った誤った見解に執著して、これのみが真実と考えること。

     (v)戒禁取見(かいごんしゅけん):苦行をすることのような間違った戒律を修行して涅槃を得る道だと考えること。

  (7)疑使(ぎし):四聖諦八正道、因果の道理などを疑い、三界を流転すること。

      四聖諦とは、

     (i)苦諦:この世は苦であると知ること。

     (ii)集諦:苦の原因は飽くなき愛執にあることを知ること。

     (iii)滅諦:苦を取り除くには愛執を去らなければならないことを知ること。

     (iv)道諦:愛執をさるためには八正道によらなければならないと知ること。

      八正道とは、

     (i)正見:苦集滅道の四諦の理を認めることで八正道の基本となる。

     (ii)正思惟:既に四諦の理を認め、なお考えて智慧を増長させること。

     (iii)正語:正しい智慧で口業を修め、理ならざる言葉を吐かないこと。

     (iv)正業:正しい智慧で身業を修め、清浄ならざる行為をしないこと。

     (v)正命:身口意の三業を修め、正法に順じて生活すること。

     (vi)正精進:正しい智慧でもって、涅槃の道を精進すること。

     (vii)正念:正しい智慧でもって、常に正道を心にかけること。

     (viii)正定:正しい智慧でもって、心を統一すること。

七使(しちし):使とは煩悩の異名。世の公使(公吏)の罪人に随逐してこれを繋縛するが如く、煩悩もまた行人に随逐して三界に繋縛し、出離せしめざるが故に使という。また使とは駆役の義、煩悩はよく人を駆役するが故にこれを使という。使には九十八使等種種有るが、この中に主なる七使あり、(1)欲愛:欲界の貪欲、(2)恚:瞋恚、(3)有愛:色界無色界の貪欲、(4)七慢:(@)慢:劣に於いては己勝ると謂い、等に於いては己等しと謂う者、これ境に於いて称すといえども、心の挙するを以っての故に慢という、(A)過慢:等に於いては己勝ると謂い、勝に於いては己等しと謂う者、(B)慢過慢:他の勝る中に於いて己は更に勝ると謂う者、(C)我慢:有我と有我所に執して心をして挙せしむる者、(D)増上慢:未だ聖道を証得せざるに己証得すと謂う者、(E)卑慢:他の多分に勝る中に於いて己は少分劣ると謂う者、(F)邪慢:悪行を成就するに悪に恃みて挙する者、(5)無明:癡惑、(6)五邪見:(@)身見:我見我所見を指す、吾身は五陰和合の仮の者と知らずして実に我身有りと計度し(我見)、また我の身辺の諸物には一定の所有主の無いことを知らずして実に我の所有物であると計度する(我所見)、(A)辺見:一旦我身有りと我見を起した後、その我は或いは死後に断絶する者であると計度し、或いは死後にもまた常住して滅せざる者であると計度す、この二義有りて、身見の後辺に於ける妄見を起す(唯識)、断或いは定の一辺に偏る(倶舎)、(B)邪見:因果の道理は無しと頑なに思い、以って世に招くべき結果の原因は無く、また原因に由って生ずる結果も無し、故に悪は恐れるに足らず、善もまた好むに足らず、と為す、かくの如きの謬見は、乃ち邪の最邪なるが故に邪を以って名を付ける、(C)見取見:劣った知見を以って始める者がその他の種種の劣事を取りながら、これは最勝殊妙だと思う者、即ち自見に執して他の勝れた見を取らない者、(D)戒禁取見:上の見取見に由り、遂に非理非過の戒禁(戒律)を以って始めた者がその他の種種の行法を取り、これを以って生天の因、或いは涅槃の道と為す者、即ち牛の戒、鶏の戒等を以って生天の因と為すが如き、因に非ざるに因を計し、また塗灰断食等の苦行を修めて以って涅槃の道と為すが如き、道に非ざるを道と為す、この二種の戒禁取見有り、(7)疑:四諦の理を疑う。

 

十使(じっし):一切の諸使中には、この十使を根本と為す。

  (1)貪欲(とんよく):上の七使を見よ。

  (2)瞋恚(しんに):上の七使を見よ。

  (3)無明(むみょう):愚癡、上の七使を見よ。

  (4)慢(まん):高慢。憍慢、上の七使を見よ。

  (5)疑(ぎ):疑惑、上の七使を見よ。。

  (6)身見(しんけん):上の見使を見よ。

  (7)辺見(へんけん):上の見使を見よ。

  (8)邪見(じゃけん):上の見使を見よ。

  (9)見取見(けんしゅけん):上の見使を見よ。

  (10)戒取見(かいしゅけん):上の見使を見よ。

 

九十八使(くじゅうはっし):倶舎宗では、煩悩は三界四諦の各各に八十八の見惑が有り、十の修惑が有るという。 (七使の項を参照のこと) その内訳は、

 見惑として、

 (1)欲界の苦諦に関して、貪、瞋、癡、慢、疑、身見、辺見、邪見、見取見、戒禁取見。

 (2)欲界の集諦、滅諦に関して、貪、瞋、癡、慢、疑、邪見、見取見。

 (3)欲界の道諦に関して、貪、瞋、癡、慢、疑、邪見、見取見、戒禁取見。

 (4)色界の苦諦に関して、貪、癡、慢、疑、身見、辺見、邪見、見取見、戒禁取見。

 (5)色界の集諦、滅諦に関して、貪、癡、慢、疑、邪見、見取見。

 (6)色界の道諦に関して、貪、癡、慢、疑、邪見、見取見、戒禁取見。

 (7)無色界の苦諦に関して、貪、癡、慢、疑、身見、辺見、邪見、見取見、戒禁取見。

 (8)無色界の集諦、滅諦に関して、貪、癡、慢、疑、邪見、見取見。

 (9)無色界の道諦に関して、貪、癡、慢、疑、邪見、見取見、戒禁取見。

 修惑として、

 (10)欲界に、貪、瞋、癡、慢。

 (11)色界に、貪、癡、慢。

 (12)無色界に、貪、癡、慢。

 以上の合計九十八をいう。

 

遍使(へんし)、十一遍使(じゅういちへんし)、十一遍行惑(じゅういちへんぎょうわく)、不遍使(ふへんし):遍使とは、十一遍使、十一遍行惑とも称し、遍行因(六因の一)の惑を指す、即ち苦諦十惑(貪、瞋、癡、慢、疑及び五見)中の身見、辺見、邪見、見取見、戒禁取見、疑、無明(癡)に迷い、及び集諦七惑(貪、瞋、慢、邪見、見取見、疑、無明)中の邪見、見取見、疑、無明に迷う、この十一とは一切の煩悩の生因にして遍く一切の惑を生ず。この十一の惑以外の煩悩を不遍使という。

 

一百九十六纏(いっぴゃくくじゅうろくてん):煩惱煩惱垢者。使所攝名為煩惱纏所攝名為垢。使所攝煩惱者。貪瞋慢無明身見邊見見取戒取邪見疑。是十根本隨三界見諦思惟所斷分別故名九十八使。非使所攝者。不信無慚無愧諂曲戲侮堅執懈怠退沒睡眠佷慳嫉憍不忍食不知足。亦以三界見諦思惟所斷分別故有一百九十六纏垢。(十住毘婆沙論巻16)

 

見所断(けんしょだん)(見苦断(けんくだん)、見集断(けんじゅうだん)、見滅断(けんめつだん)、見道断(けんどうだん)):見道所断。見道に断ぜらるるものの意。修所断、非所断と倶に三断を為す。倶舍論巻二に「八十八睡眠及び彼の倶有法と、並びに随行の特とは皆見所断なり」と云い、同光記巻二にこれを釈して「見断の睡眠及び相応法は、理に迷うて起るが故に四相を得とは、これ彼の見惑の親しく発起するが故に皆見所断なり。修断の相無ければ修断に通ぜず、無漏に非ざるが故に非断に通ぜず」と云えり。これ八十八使の見惑及びその相応倶有たる大地法等の心所、並びに四相及び随行の得を総じて見所断と為すの説なり。ただし見道十五心の中、順次に四諦の理を見るに随って所断の殊あり。即ち見道の苦諦所断を見苦所断、集諦所断を見集所断、滅諦所断を見滅所断、道諦所断を見道所断と名づく。倶舍論巻十九に「十睡眠(貪、瞋、癡、慢、疑及び五見)の中、薩迦耶(さっかや、身見)見はただ一部に在り、謂わく見苦所断なり。辺執見(辺見)もまた爾り。戒禁取は通じて二部に在り、謂わく見苦、見道の所断なり。邪見は四部に通ず、謂わく見苦集滅道の所断なり。見取と疑ともまた爾り。余の貪等の四は各五部に通ず、謂わく見四諦及び修所断なり」と云える、即ちその意なり。即ち、見苦諦所断には、貪、瞋、癡、慢、身見、辺見、邪見、見取、戒禁取、疑が有り、見集諦所断には、貪、瞋、癡、慢、邪見、見取、疑が有り、見滅諦所断には貪、瞋、癡、慢、邪見、見取、疑が有り、見道諦所断には貪、瞋、癡、慢、邪見、見取、疑が有り、修所断には貪、瞋、癡、慢が有る。

 

三種漏(さんしゅろ):三界の煩悩と無明。

   (1)欲漏(よくろ):欲界における無明以外のすべての煩悩。

   (2)有漏(うろ):色界、無色界の無明以外のすべての煩悩。無漏に対する有漏ではない。

   (3)無明漏(むみょうろ):三界の無明のこと。

 

有漏縁(うろえん)、無漏縁(むろえん):有漏縁は有漏法に縁ずる煩悩にして無漏縁は無漏法に縁ずる煩悩を指す。即ち無漏縁とは、謂わゆる滅諦と道諦とを証得して断ずる所の六煩悩にして無漏法に縁ず。即ち有漏縁の対称なり。また有漏縁とは、即ち有漏法を以って縁取の対象と為すなり。「倶舎論巻十九」によるに、九十八睡眠(使)中の滅、道の二諦所断の邪見、疑、無明等の六惑は無漏縁に属して、その余の睡眠は皆有漏縁の惑に属す。また即ち苦、集の二諦下の惑及び修惑は有漏縁に属するも、滅諦下の四惑及び道諦下の見取、戒禁取、貪、瞋、慢等の五惑は、重迷なる惑に係わるに因って、無漏縁の惑の後に随起すれば、直接無漏法に縁じて取ること能わざるが故に皆有漏縁に属す。無漏縁は、謂わゆる滅諦と道諦とを証得して断ずる所の六煩悩は無漏法に縁じ、有漏縁の対称と為す。九十八睡眠中の、滅と道との二諦所断の邪見、疑に相応する無明及び不共無明には六惑有りて、この六煩悩は親しく滅、道二諦の無漏法に縁ずるが故に無漏縁と称す。その中の滅諦の三惑は僅かに自地の択滅(涅槃)に縁じて、異地の択滅には縁ぜず。択滅の苦、集に於いて異なるに因り、因果の範囲を脱離し、故に上下地の択滅は互いに相い縁ぜず。これに依って、欲界の三惑は僅かに欲界の択滅に縁じ、即ち有頂天の三惑は僅かに有頂天の択滅に縁ずるに至る。邪見等の煩悩もまたかくの如し。また道諦の三惑中、欲界の三惑は未至定、中間定、四根本静慮等の六地の法智品の無漏道に縁ず。色界と無色界との八地の三惑は縁じて九地の類智品の無漏道に縁じ、その所縁の配意は滅諦の時の僅かに自地の情形に縁ずるに異なり、各地の法類智に由り互いに同類因と為すに係わり、故に六地、九地は皆よく通縁す。「倶舍論巻十九、順正理論巻四十八、倶舍論光記巻十九」参照。蓋し無漏法を所縁と為す煩悩を無漏縁、その他の煩悩を有漏縁と為す。

 

有為縁(ういえん)、無為縁(むいえん):有為縁とは尽諦(滅諦)所断の有為法の縁ずる使(煩悩)の中の無明使(癡)に相応するもの、無為縁とは同じく相応せざるもの。

参考:『大智度論巻31』:『問曰。有為法因緣和合生。無自性故空。此則可爾。無為法非因緣生法。無破無壞常若虛空。云何空。答曰。如先說若除有為則無無為。有為實相即是無為。如有為空無為亦空。以二事不異故。復次有人聞有為法過罪而著無為法。以著故生諸結使。如阿毘曇中說。八十九有為法緣六無為法緣三當分別。欲界繫盡諦所斷無明使。或有為緣或無為緣。何者有為緣。盡諦所斷有為法緣使相應無明使。何者無為緣。盡諦所斷有為法緣使不相應無明使。色無色界無明亦如是。以此結使故能起不善業。不善業故墮三惡道。是故言無為法空。無為法緣使。疑邪見無明。疑者於涅槃法中有耶無耶。邪見者若生心言定無涅槃。是邪疑相應無明。及獨無明合為無明使。

 

欲界縁(よっかいえん)、色界縁(しきかいえん)、無色界縁(むしきかいえん)、不繋縁(ふけえん):前三は心が欲界に縁じて生ずる煩悩、乃至色界、無色界に縁じて生ずる煩悩、まさに欲界攀縁、色界攀縁、無色界攀縁と言うべし。攀縁とは攀取縁慮の意にして、心がある一対称に執著する作用を指す。衆生の妄想は縁じて三界の諸法を取るも、これ乃ち一切の煩悩の根原なり。蓋し凡夫人は妄想を微動だにすれば即ち諸法に攀縁せん。妄想には既に攀縁する所有れば、善悪すでに分かれ、善悪すでに分かてば、則ち憎愛並びに熾盛なり。ここに由り、内に煩衆を結び、外に万疾を生ず。これ皆攀縁の作用の致す所の者なり。不繋縁は繋とは三界に繋縛する煩悩、不繋は涅槃の意。不繋縁は涅槃に縁じて生ずる煩悩を指す。

 

四暴流(しぼうる):四流(しる)、煩悩の異名。あらゆる善を押し流すことからいう。

  (1)欲暴流(よくぼうる):六境(色声香味触法)に対する執著ないし識想。

  (2)有暴流(うぼうる):三有(さんぬ)、すなわち三界(欲界、色界、無色界)に生存すること。

  (3)見暴流(けんぼうる):誤った見解。

  (4)無明暴流(むみょうぼうる):四諦にたいする無智。

四流(しる):四暴流(しぼうる)、四淵(しえん)、四淵流(しえんる)、有情はここに流れ漂いて息まない。

    (1)見流:三界の見惑をいう。 見惑とは諸種の妄見、我見、辺見、身見等。

    (2)欲流:欲界の一切の諸惑、ただ見および無明を除く、色等の五境にたいする欲望。

    (3)有流:上二界の一切の諸惑、ただ見および無明を除く。

       有とは生死の果報の亡びざること、三界に通じるが今は色無色界についていう。

    (4)無明流:三界の無明をいう。

 

無垢(むく):無染(むせん)、不隠没(ふおんもつ)、清浄にして染汚の無いこと。また無漏ともいう。

有垢(うく):有染(うせん)、隠没(おんもつ)、無垢でないこと。(智20下)

 

三道(さんどう):輪廻を作す三道。 

   (1)煩悩道(ぼんのうどう):惑道(わくどう)、無明貪欲瞋恚等の煩悩が妄惑する。

   (2)業道(ごうどう):煩悩により、発される善悪の所作。

   (3)苦道(くどう):善悪の業を因として獲る生死の苦果。

 

気分(きぶん):余習(よしゅう)、習気(じっけ)、(じゅう)、心が煩悩により薫じられ残り香があることで、心には執著がなくても、行動には習慣づけられた悪癖が残っていること。

 

薫習(くんじゅう):熏修。身口の現す所の善悪の行法、或いは意の現す所の善悪の思想が起る時、その気分が心中の真如に留まること。

 

解脱(げだつ):煩悩から解放された心の状態をいう。無礙解脱(むげげだつ)の項参照。

慧解脱(えげだつ):利根鈍根によらず、ただ無漏の智慧力を以って煩悩障を断じ、解脱を得たる阿羅漢をいう。智慧によって解脱すること。無明を滅すること。

共解脱(くげだつ):倶解脱(くげだつ)、慧解脱の阿羅漢で滅尽定(六識及び心心所法をすべて滅しつくした状態)を得た者。慧と定とにより煩悩障と解脱障(定障、滅盡定を障うるもの)との二障を離れるので共解脱という。また、禅定に関連して、定障を解脱して無貪と相応するのを心解脱(しんげだつ)といい、煩悩障を解脱して無礙と相応するのを心解脱より上位の共解脱ともいうこともある。

非時解脱(ひじげだつ):阿羅漢の解脱には二種あり、阿羅漢の根性が愚鈍であり、好時、好縁を待って定に入り煩悩を解脱するを時解脱(じげだつ)といい、根性が利根であり、必ずしも好時、好縁を待たずに、意の随に定に入って煩悩を解脱するを非時解脱、または不時解脱(ふじげだつ)という。

 

四道(しどう):煩悩を断つ過程を四に分けたもの。

   (1)加行道(けぎょうどう):煩悩を断とうと願う段階。

   (2)無間道(むげんどう):無礙道(むげどう)、直接煩悩を断つ段階。休む間がないので無間といいう。

   (3)解脱道(げだつどう):煩悩を一応断った段階。

   (4)勝進道(しょうじんどう):さらに一層の完成を目指す段階。

無礙道解脱道:正しく煩悩を断つ位の九無漏道を指す。また九無間道に作る。間とは即ち礙、或いは隔の義にして、謂わゆる真智の理を観て、惑に間礙(隔)せられざるなり。煩悩なお存するも後に於いて択滅(涅槃)の理を得んと念ずるが故に煩悩と択滅の間に更に間隔無きを無間と称す。三界を分かちて九地と為すに、九地の一一に修惑、見惑有り。一地の修惑をまた九品に分かちてこれを断じ、一品の惑を断ずる毎に、各々無間、解脱の二道有り。即ち正しく煩悩を断ずる位を無間道と為し、断じて後に相続して得る所の智を解脱道と為す。修惑は各地に立ちて九品有り、故によく対治する道もまた九品有り、これを九無間道、九解脱道と称す。無学の聖者も根を練って種性を転ずる時もまた九無間、九解脱有り。「倶舎論巻二十五、巻三十三」参照。

 

二種解脱(にしゅげだつ):仏の有する二種の解脱。

  (1)有為解脱(ういげだつ):無漏の智慧に相応する解脱。

  (2)無為解脱(むいげだつ):一切の煩悩習を尽くし余残の無い解脱。(智26)

 

無礙解脱(むげげだつ):三解脱(さんげだつ)有り。諸仏のみ、この三種を具するが故に、その解脱を無礙解脱という。その三種とは、

  (1)煩悩障礙解脱(ぼんのうしょうげげだつ):煩悩の障礙を離れる。慧解脱(えげだつ)を得た阿羅漢の得る解脱。

  (2)禅定障礙解脱(ぜんじょうしょうげげだつ):諸禅の障礙を離れる。共解脱(くげだつ)を得た阿羅漢及び辟支仏の得る解脱。

  (3)一切法障礙解脱(いっさいほうしょうげだつ):一切法の障礙を離れる解脱。ただ諸仏のみ、この三解脱を具す。『十住毘婆沙論第十一』

 

 

魔事(まじ):四魔(しま)、修行または説法の邪魔をするもの。

   (1)五陰魔(ごおんま):色受想行識は我々の心と肉体。

   (2)煩悩魔(ぼんのうま):欲望、怒り、正法を信じないこと。

   (3)死魔(しま):死は修行を中断させる。

   (4)他化自在天王(たけじざいてんおう):魔王、欲界の頂上、第六天の主で正法を妨げる。

業障(ごっしょう):悪業(あくごう)、即ち悪しき行いの報いにより、正道から妨げられること。

 

十魔軍(じゅうまぐん):魔軍(まぐん)、出家の心を打ち砕く、十の魔軍をいう。

  (1)欲(よく):愛欲等、楽しみのみを欲すること。

  (2)憂愁(うしゅう):憂いて、心がふさがること。

  (3)飢渇(きかつ):飢えと渇き、肉体的な苦痛。

  (4)渇愛(かつあい):渇いた人が水を愛するように、五欲に愛著すること。

  (5)睡眠(すいみん):感覚を失い、意識が昏睡すること。

  (6)怖畏(ふい):意味もなく畏れおののくこと。

  (7)疑悔(ぎけ):正法に疑いを懐き、常に後悔すること。

  (8)瞋恚(しんに):思い通りにならずに瞋り、いきどおること。

  (9)利養虚称(りようこしょう):利養と虚しい称讃を得ること。

  (10)自高蔑人(じこうべつにん):自ら偉ぶり、他人を蔑むこと。 (智15)

 

善知識(ぜんちしき):知識(ちしき)とは、その心を知り、その形を識るという意味から、知人とか友人ということで、博知博識を言っているのではない。善とは自分に利益を与えてくれる、即ち善知識とは善き仏道の導き手を意味する。

 

十善業(じゅうぜんごう):十善とは十悪業(じゅうあくごう)をしないこと。およそ十悪とは次のものをいう。

   (1)殺生(せっしょう):生き物を殺す。

   (2)偸盗(ちゅうとう):与えられないものを取る。

   (3)邪婬(じゃいん):他人の女房を取る。

   (4)妄語(もうご):嘘とか戯言を言う。

   (5)両舌(りょうぜつ):二枚舌。相手によって言うことを変える。

   (6)悪口(あっく):粗暴な言葉使い。

   (7)綺語(きご):猥雑、猥褻の語。戯れ言(ざれこと)、冗談。

   (8)貪欲(とんよく):貪ること。

   (9)瞋恚(しんに):怒り。

   (10)邪見(じゃけん):正しい因果を信ぜずに偏った福を信ずる。

  これらの十悪は理に反したところに起こるものであるが故に悪と言う。この十悪により人は苦しみの報いを受けるが故に十悪業、十不善業という。またこれらをしないこと即ち不殺生、不偸盗、不邪婬、不妄語、不両舌、不悪口、不綺語、不貪欲、不瞋恚、不邪見を十善業、十善業道と呼ぶ。

 

五戒(ごかい):殺生、偸盗、邪婬、妄語、飲酒をしないこと。 これ等は仏教に於ける基本的な誡めである。 要は、すべて他を悩ませ害さないことに尽きる。

 

殺生(せっしょう)の十罪:生き物の命を取る、謂わゆる殺生には十の罪が有る。

   (1)心に常に毒を懐き、世世に絶えず。 

   (2)衆生憎悪して眼に喜んで見ず。 

   (3)常に悪念を懐いて悪事を思惟す。 

   (4)衆生これを畏れて蛇虎を見るが如し。 

   (5)睡る時にも心怖れて、覚めてまた安からず。 

   (6)常に悪夢有り。 

   (7)命の終る時、狂い怖れて悪死(あくし、醜く死ぬこと)す。 

   (8)短命の業の因縁を種う。 

   (9)身壊し命終りて泥梨(ないり、地獄)の中に堕つ。 

   (10)もし出でて人と為るも常にまさに短命なるべし。 (智13)

 

不与取(ふよしゅ、偸盗(ちゅうとう))の十罪:人は財物により命を活きる。 故に盗みを助殺という。

   (1)物の主が常に瞋る。

   (2)疑いを重くする(注:重罪人の疑い)。

   (3)時を決めずに行うので、計画しない。

   (4)悪人と朋党を組み、賢善を遠離する。

   (5)善の相を破る(善い行いができなくなる)。

   (6)官に罪を得る。

   (7)財物が無くなる。

   (8)世世に貧窮する業の因縁を植える。

   (9)死ねば地獄に堕ちる。

   (10)地獄を出て人と為れば、勤労して、財を求めても、王、賊、火、水、不愛の子の五家に用いられ、埋めて蔵(かく)せば失ってしまう。 (智13)

 

邪婬(じゃいん)の十罪:妻以外との婬事を邪婬といい、種種の禍の因縁となる。

   (1)常に婬せられた夫主によって、危害を加えられる。

   (2)夫婦が和やかでなく、常に諍い事が絶えない。

   (3)諸の不善の法(悪事)は、日日に増長する。

   (4)身を護らなければ、妻子は孤児とやもめに為る。

   (5)財産は日に日に消耗する。

   (6)諸の悪事が起こり、常に人に疑われる。

   (7)親属、知人に愛されず喜ばれない。

   (8)怨家(おんけ、敵の家)を生ずる業の因縁を植える。

   (9)死ねば地獄に堕ちる。

   (10)地獄を出て、

       女人に為れば、多くの人と、夫を共にしなければならない、

       男子と為れば、妻は貞潔でない。 (智13)

 

妄語(もうご)の十罪:嘘をつく罪も、種種の禍の因縁となる。

   (1)口気臭し。 

   (2)善神これを遠ざけ非人便りを得る。 

   (3)実語有りといえども人信受せず。 

   (4)智人の語議に常に参与せず。 

   (5)常に誹謗を被り、醜悪の声、周(あまね)く天下に聞こゆ。 

   (6)人に敬われず、教勅すること有りといえども人承け用いず。 

   (7)常に憂愁多し。 

   (8)誹謗の業の因縁を種える。 

   (9)身壊して命終うれば、まさに地獄に堕つべし。 

   (10)もし出でて人と為れば常に誹謗を被る。  (智13)

 

飲酒(おんじゅ)の三十五失:酒を飲めば心身を傷つけ、種種の禍の因縁となる。

   (1)現世の財物虚しく尽きる。 酒を飲んで酔えば、心に節限なく費やすに節度無し。

   (2)衆病の門なり。 

   (3)闘諍の本なり。 

   (4)裸露して恥じること無し。 

   (5)醜名悪声ありて人に敬われず。 

   (6)智慧を覆没す。 

   (7)まさに得らるべき物を得ず、すでに得し物を散失す。 

   (8)伏匿の事も尽く人に向って説く。 

   (9)種種の事業を廃し、成辦せず。

   (10)酔うを愁いの本と為す。 酔えば多くの過失があり、醒め終れば慚愧し憂愁す。 

   (11)身の力、だんだん少なくなる。 

   (12)身色を壊す。 

   (13)父を敬うことを知らず。 

   (14)母を敬うことを知らず。 

   (15)沙門を敬わず。 

   (16)婆羅門を敬わず。

   (17)伯叔および尊長を敬わず。 酔いに悶え恍惚として別くる所無きが故なり。

   (18)仏を尊び敬わず。 

   (19)法を敬わず。 

   (20)僧を敬わず。 

   (21)悪人に朋党す。 

   (22)賢善に疎遠となる。 

   (23)破戒の人と作る。 

   (24)慚無く愧無し。 

   (25)六情(ろくじょう、眼耳鼻舌身意の五根)を守らず。 

   (26)色を縦(ほしいまま)にして放逸す。 

   (27)人の憎悪する所にして喜んでこれを見ず。 

   (28)貴重の親属、および諸の知識の共に擯(しりぞ)け棄つる所なり。 

   (29)不善法を行う。 

   (30)善法を棄捨す。 

   (31)明人智士の信用せざる所なり。 

   (32)涅槃を遠離す。 

   (33)狂癡の因縁を種う。 

   (34)身壊し命終れば悪道泥梨(ないり、地獄)の中に堕つ。 

   (35)もし人と為ることを得んも所生の処は常にまさに狂騃(ごうがい、狂癡)なるべし。

                                    (智13)

 

 

善心(ぜんしん):罪を恥じ罪を畏れ、貪瞋癡を起こさないことを(ぜん)という。その善と相応する心と心所(心と心の働き)。

 

(ぜん):心を静め、悪を棄てて楽を得ること。これに三種あり次の通り。

   (1)初禅:五感に楽を感じ、心に喜びを感じることで、下の楽という。

   (2)第二禅:心だけが喜びを感じることで、中の楽という。

   (3)第三禅:心で楽を感じることで、上の楽という。

 また四種の禅をいうこともある。

四禅(しぜん):初禅、二禅、三禅、四禅の四種の禅定をいう。

   (1)初禅は尋(じん、覚)、伺(し、観)、喜(き)、楽(らく)の四を兼ね備える。

   (2)第二禅は喜と楽のみを備える。

   (3)三禅は喜のみ備える。

   (4)四禅は一切を離れることをいう。

 禅定は物事を考えるところから、ただ楽しみのみの状態に進み、ついには一切の心の働きを超える。

 ここで、尋とは心の働きのうち、ものごとを尋ね求めて推し量ることで言葉などを考えることをいい、伺とはものごとを思惟する心の働きで尋の働きを詳細にしたものをいう。

 

三智(さんち):智慧(ちえ)には三種の別がある。

   (1)一切智(いっさいち):薩婆若(さはにゃ)、声聞縁覚すなわち小乗の智慧、あらゆるものに共通した相(すがた)を知ること。あらゆるものに共通した相(総相と言います)とは、あらゆるものは空である(空相と言います)ことをいう。

   (2)道種智(どうしゅち):菩薩の智慧、種々の衆生の差別に応じた方法で導くための智慧。

   (3)一切種智(いっさいしゅち):仏の智慧、一切智と道種智を兼ね合わせ更に精緻にした智慧。能く一種の智を以って一切諸仏の道法を知ること。また能く一切衆生の因種を知ること。

 

三慧(さんえ):智慧にはまた三種の別がある。。

   (1)見慧(けんえ):見聞や経の教えから生じる智慧。

   (2)思慧(しえ):道理を思惟して生じる智慧。

   (3)修慧(しゅえ):前二慧に縁ぜられ禅定等を修めて生じる智慧と、その智慧による断惑証理の働き。

 

 

善根(ぜんこん):身口意の三業の善。善法の花を生じる樹はこの根によって堅固であるの意。薬樹、草木は根有るが故に生を得て増長する。布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧等は人の貪瞋癡等の煩悩を破り、華香等の供養の具は人に善心を生じて善法を生じるが故に善根という。

二善(にぜん):善は二つに分けることができる。

   (1)有漏善(うろぜん):煩悩を断ち尽していない世間的な善で自己中心の差別的な相をもつ善。

   (2)無漏善(むろぜん):煩悩を断ち尽くした出世間的な善で平等の相のもとに行われる善。

三善根(さんぜんこん):一切の諸の善法を生じる根。(智30)

   (1)無貪(むとん):無貪欲、布施等にて人の貪欲を破る。

   (2)無瞋(むしん):無瞋恚、持戒、忍辱、精進等にて人の瞋恚を破る。。

   (3)無癡(むち):無愚癡、禅定、智慧にて人の愚癡を破る。

 

四善根位(しぜんこんい):初めて無漏(煩悩がまったく残っていない)の慧(心の働き)が生じて四聖諦の理を明了に見る位を見道(けんどう)というが、それに至るまでの四つの位。

   (1)煖法(なんぽう):温かみが火の前ぶれであるように、煩悩を焼き尽くす見道の無漏の慧の火に近づき、有漏(煩悩が残っている状態)の善根を生ずる位。

   (2)頂法(ちょうぼう):山の頂上にいるように、進むか退くかの境目にいる位。

   (3)忍法(にんぽう):四諦の理を明了に認め善根が定まって動かない位。

   (4)世間第一法(せけんだいいっぽう):世間、すなわち有漏法の中の最上の善根を生じる位。

 

習行(じゅうぎょう):何度もくり返し練習し終わりがないこと。

 

三示現(さんじげん):仏は身口意の三事を以って衆生を教化する。(1)如意足示現:神足示現、種種の神変を現す。(2)占念示現:観察示現、他の相を以って他の意を占う。(3)教訓示現:教授示現、自らの行跡を他に教える。『中阿含経巻35』参照。

 

三十七道品(さんじゅうしちどうほん):覚りに至る三十七の過程を三十七あげたもので、以下に示す四念処、四正勤、四如意足、五根、五力、七覚分、八聖道分を総合したもの。

十法(じっぽう):三十七道品はこの信、戒、思惟、精進、念、定、慧、除(じょ、心軽安)、喜、捨の十法を根本とする。(智19)

 

 

四念処(しねんじょ):次のように自ら身、受(粗の感覚)、心、法について観じ、常楽我淨(じょうらくがじょう)の四顛倒を破ることをいう。

  (1)身念処(しんねんじょ):この身は不淨であると観察して、世間は淨であるとの見解を正す。なお淨不淨とは近くはこの身が死ねば汚いものに変わることからも分かるように、もともと汚いことを表すが、遠くは因縁によって作られた本性を持たざるものという意味をさしている。

  (2)受念処(じゅねんじょ):我々の五感に感ずるところのものは、全て苦であることを観察して、この世が楽であるとの見解を正す。楽と観ずるところのものは全て苦の因縁となることを知ること。

  (3)心念処(しんねんじょ):心は常ならざることを観察して、この世は常なりという見解をただす。心は五感にさらされて常に変化することを知ること。

  (4)法念処(ほうねんじょ):法は無我なることを観察して、この世に我ありという見解を正す。

 法とは上の三を除いた全てのもののことをいい、無我とは自性がなく自在ならざることをいう。

  三念処(さんねんじょ):この四念処に関してまた三種の念処が有る。

   (1)性念処(しょうねんじょ):身受心法を観察する智慧。

   (2)共念処(くねんじょ):身受心法の観察により有漏無漏の道を生じる。

   (3)縁念処(えんねんじょ):観察される身受心法。(智19)

  また、次の三種念処も有る。

   (1)性念処:無所有の空理に縁じて煩悩を断つ者、慧解脱の如きもの。

   (2)共念処:性念処に由り、具に三明六通を得る者、即ち具解脱をいう。

   (3)縁念処:三蔵経および十二部経に由り悟達する者、即ち大阿羅漢をいう。

 

四正勤(ししょうごん):常に、次の事に精進する。

  (1)悪を生じない。

  (2)悪を断つ。

  (3)善を生じる。

  (4)善を増大せしめ。

 

四如意足(しにょいそく):四神足(しじんそく)、四正勤に次いで修める四種の禅定。(1)欲望、(2)努力、(3)思念、(4)観察についての超越的な能力をいう。前の四念処中には実の智慧を修め、四正勤中には正しい精進を修めて智慧と精進力を増多せしめたのであるが、定力が小し弱いため、今四種の禅定を修めて心を摂め、禅定と智慧とを均等ならしめ、所願を皆得ようとする。意のままに得る、これを以って如意、或いは神足という。(智19)

   (1)欲:欲願を主として定を得る。

   (2)精進:努力を主として定を得る。

   (3)心:心念を主として定を得る。

   (4)思惟:観察を主として定を得る。

 

五根(ごこん):無漏五根(むろごこん)、一切の善法を生じる根本的力。

   (1)信根(しんこん):心を澄浄にする力。仏法僧の三宝と四諦を信ずる力。

   (2)精進根(しょうじんこん):十善などの善いことを怠らない力

   (3)念根(ねんこん):正法を憶念して忘れない力。

   (4)定根(じょうこん):心を散乱せしめない力。

   (5)慧根(えこん):真理を思惟する力。

 

五力(ごりき):前の五根を増長せしめる力。

  (1)信力(しんりき):信根を増長して、諸の邪信の者を破る。

  (2)精進力(しょうじんりき):精進根を増長して、身の懈怠するを破る。

  (3)念力(ねんりき):念根を増長して、諸の邪念を破る。

  (4)定力(じょうりき):定根を増長して、諸の乱想を破る。

  (5)慧力(えりき):慧根を増長して、諸の惑いを破る。

 

七覚分(しちかくぶん):七覚支(しちかくし)、七菩提分(しちぼだいぶん)、覚りを助ける七つのもの。

   (1)念覚支(ねんかくし):憶念して忘れないこと。

   (2)択法覚支(たくほうかくし):物事の真偽を選択する智慧のこと。

   (3)精進覚支(しょうじんかくし):正法に精進すること。

   (4)喜覚支(きかくし):正法を喜ぶこと。

   (5)軽安覚支(きょうあんかくし):身心が軽快であること。

   (6)定覚支(じょうかくし):心を散乱せしめないこと。

   (7)捨覚支(しゃかくし):心が偏らず平等であること。捨とは平等(びょうどう)を意味する。

 

八聖道分(はっしょうどうぶん):正しい生活の基本となる次のもの、八正道(はっしょうどう)。

   (1)正見(しょうけん):苦集滅道の四諦の理を認めること、八正道の基本。

   (2)正思惟(しょうしゆい):既に四諦の理を認め、なお考えて智慧を増長させる。

   (3)正語(しょうご):正しい智慧で口業を修め、理ならざる言葉を吐かない。

   (4)正業(しょうごう):正しい智慧で身業を修め、清浄ならざる行為をしない。

   (5)正命(しょうみょう):身口意の三業を修め、正法に順じて生活する。

   (6)正精進(しょうしょうじん):正しい智慧でもって、涅槃の道を精進する。

   (7)正念(しょうねん):正しい智慧でもって、常に正道を心にかける。

   (8)正定(しょうじょう):正しい智慧でもって、心を統一する。

 

助道法(じょどうほう)、聖道法(しょうどうほう):大乗では四念処、四正勤、四如意足、五根五力、七覚支、八正道の三十七品を自利行を助ける助道法とし、三解脱門、十力、四無所畏、四無礙智、十八不共法、大慈大悲については仏菩薩の慈悲行を行う聖道とする。

 

七浄華(しちじょうけ):七覚支(しちかくし)、または次の七をいう。

    (1)戒浄(かいじょう):心と口の作す所が清浄。

    (2)心浄(しんじょう):煩悩を断ち、心が清浄。

    (3)見浄(けんじょう):物事の真性を見て、妄想を起こさない。

    (4)度疑浄(どぎじょう):六度を行じて、疑いを起こさない。

    (5)分別道浄(ふんべつどうじょう):正しく正道と非道を分別する。

    (6)行断知見浄(ぎょうだんちけんじょう):行ずる所の善法と、断ずる所の悪法を正しく知見する。

    (7)涅槃浄(ねはんじょう):涅槃を証得し、諸垢を遠離する。(維摩1)

 

四無色定(しむしきじょう):四空定(しくうじょう)、無色界定(むしきかいじょう)、無色界の禅定。

   (1)空無辺処定(くうむへんじょじょう):空間は無限大なりと思惟すること。行人は色籠を厭患すること牢獄の如くして、心にこれを出離せんと欲し、色想を捨てて無辺の虚空に縁じ、心と無辺の虚空と相応する。

   (2)識無辺処定(しきむへんじょじょう):識は無限大なりと思惟すること。行人は更に前の外の空を厭患し、その虚空を捨てて内の識に縁じ、心識を無辺の解と為し、心と無辺の識と相応する。

   (3)無所有処定(むしょうじょじょう):何者も無しと思惟すること。行人は更にその識を厭患し、心識は無所有なりと観じ、心と無所有と相応する。

   (4)非想非非想処定(ひそうひひそうじょじょう):ほとんど無想にちかい定。前の識処は有想、無所有処は無想なり、この前の有想を捨てるが故に非想といい、無想を捨てるが故に非非想という。

 

 

八背捨(はっぱいしゃ):背捨(はいしゃ)、八解脱(はちげだつ)、八種の定力により貪著の心を捨てるための八段階の修行法。八勝処、十一切処と合わせて三法(さんぽう)といい、三界の貪愛を遠離する一具の出世間の禅である。『背捨を初門と為し、勝処を中行と為し、一切処を成就と為す。三種の観足りて、即ちこれ観禅の体成就す。』(智21)

   (1)内有色想観外色解脱:色や形に対する想い(色想)が内心にあることを除くために、不淨観を修める。(内身に色想の貪有り、この貪を除く為に、外の不浄青瘀等の色を観じて、貪を起させない。この故に解脱といい、この初の解脱は初禅の浄に従って起り、欲界の色に縁ずる。)

   (2)内無色想観外色解脱:内心の色想が無くなっても、なお不浄観を修める。(内心に色想の貪が無いとはいえ、更に堅固ならしめんと欲して、外の不浄青瘀等の色を観じ、貪を起させない。この故に解脱といい、これは二禅に依って起り、初禅の色に縁ずる。)

   (3)浄解脱身作証具足住:前の不淨観を捨て、外境の清らかな面を観じ、貪著の心を起こさないようにする。(浄色を観ずるが故に浄解脱という。定中に於いて不浄相を除き、ただ八色等の光明清浄、光潔なる妙宝の色を観ずる。浄色を観じて貪を生ぜず、これを観じて勝れたるを顕すに足り、この性を証得して身中に解脱する。故に身作証といい、具足円満して、この定に住するを得るが故に、具足住という。この第三解脱の位は、第四禅に依って起り、また欲界の色に縁ずる。)

   (4)空無辺処解脱:物質的な想いをすべて滅して、空無辺処定に入る。

   (5)識無辺処解脱:空無辺の心を捨てて、識無辺処定に入る。

   (6)無所有処解脱:識無辺の心を捨てて、無所有処定に入る。

   (7)非想非非想処解脱:無所有の心を捨てて、非想非非想処定に入る。(これは四無色定に依って起り、各各所得の定に於いて、空、無常、無我を観じ、厭心を生じてこれを棄捨する。故に解脱という。)

   (8)滅受想定身作証具住:受想などを捨てて、滅尽定(めつじんじょう)に入る。(滅受想定とは、滅尽定である。これもまた第四禅に依って、前の非非想、即ち一切の所縁を棄捨する。故に解脱という。)

 

滅尽定(めつじんじょう):滅受想(めつじゅそう)、心と心所(しんじょ、心の働き)をすべて滅する。

 

八勝処(はっしょうじょ):欲界の物を観察して貪著の心を除くための八種の勝れた禅定。

   (1)内有色想観外色少勝処:色や形に対する想(色想)が内心にあることを除くために少しの物を観察して貪著を除く。(内心に色想有るが故に内有色想といい、また道の未だ増長せざるを以って、もし多くの色を観じるならば則ち恐れて摂持し難きが故に少しの色を観ず。故に観外色少という。ただ内身の不浄を観じ、或は少しばかりの外色の清浄なるを観ず。)

   (2)内有色想観外色多勝処:いろいろな物を観察して貪著を除く。(内心に色想が有る義は上と同じ。ただ行人の道を観ずることの漸く熟するを以って多く外色を観じて妨げ無く、一死屍も百千万の死屍も諦観し、一膨脹相を観ずるが若く、時に悉く一切の膨脹相を観じ、広大の外色の清浄なるを観ず。この故に観外色多という。)

   (3)内無色想観外色少勝処:内心に色想が無くなってもなお少しの物を観察して貪著を除く。(道を観ずること漸く勝妙となり、外色を観じても、内心に色想を存ぜず、故に内無色想という。外色を観ずること少の義は、第一勝処の如し。また浄不浄を観ずることも第一と同じ。)

   (4)内無色想観外色多勝処:更にいろいろな物を観察して貪著を除く。(内心に色想を留めず、故に内無色想という。外色を観ずること多の義は、第二勝処と同じ。浄不浄を観ずることも前と同じ。以上の四者は浄不浄の雑観である。)

   (5)青勝処:内心に色想が無くなってもなお、青色について観察して貪著を除く。(外の青色を観じて転変自在に、少を多と為し、多を少と為し、所見の青相に於いて、法愛を起さない。)

   (6)黄勝処、(7)赤勝処、(8)白勝処は青勝処と同じように、黄色、赤色、白色を観ずる。

 

勝処(しょうじょ):背捨(はいしゃ)、八勝処(はっしょうじょ)、八背捨(はっぱいしゃ)、勝知勝見を発すは貪愛を捨てる八種の禅定を以ってする。 これは勝知勝見を起こす依処たるが故に勝処という。 という。

  (1)内有色想観外色少勝処:内心に色想有り、故に内有色想という、また道の未だ増長せざるを観る、もしくは多色を観れば、則ち恐れて摂持し難し、故に少色という。 外色少なりと観るとは、ただ内身の不浄を観る、或は少しばかりの外色の清浄なるを観ることをいう。

  (2)内有色想観外色多勝処:内心に有る色想の義は上と同じ、ただ行人の観道ようやく熟し、多く外色を観ても妨げ無く、諦らかに一死屍を観れば百千万の死屍を観るに至り、もし一膨張せる死屍を観た時には、悉く一切が膨張すると観る。 広大の外色の清浄なるを観るので、外色多という。

  (3)内無色想観外色少勝処:観道ようやく勝妙と為り、外色を観るといえども内心に色想を存せず、故に内無色想という。 外色を観ることの少しの義は第一勝処の如く、また浄不浄を観ることも初の如し。

  (4)内無色想外色多勝処:内心に色想を留めず、故に内無色想という。 外色を観ること多しの義は、第二勝処の如く、浄不浄を観るも前の如し。 以上の四は、浄不浄の雑観なり。

  (5)青勝処:外の青色を観て、転変自在、少をして多と為し、多をして少と為す。 所見の青想に於いて法愛を起こさない。

  (6)黄勝処:黄色を観て法執を起こさざること青勝処の如し。

  (7)赤勝処:赤色を観ること青勝処の如し。

  (8)白勝処:白色を観ること青勝処の如し。(今の四色を以って勝処と為すは、智度論倶舎論に依る)

 

九次第定(くしだいじょう):四禅四無色定滅尽定を合わせたもので、これらは順次習うものであるから九次第定という。

 

十一切処(じゅういっさじょ):十一切入(じゅういっさいにゅう)、十遍処(じっぺんしょ)、一切入(いっさいにゅう)、青黄赤白地水火風空識の十の法(もの)は、その一一が一切の処に周辺すると観察し、一切はその十の法に過ぎないと観じて、物に貪著する心を除くこと。

 

九相(くそう):九想観(くそうかん)、不浄観(ふじょうかん)、いかなる美人といえども、もし死ねばその本然の相に帰ることを、死体を克明に観察して『空』と『無常』とに於いて知るという修行。

   (1)脹相(ちょうそう):死体は膨張する。

   (2)壊相(えそう):死体は生きた姿を留めない。筋肉も張りを失い筋肉らしさをなくす。

   (3)血塗相(けつづそう):何処からか血液などが滲み出し血まみれの様相を表わす。

   (4)膿爛相(のうらんそう):何もかもがグチャグチャとして膿み爛れたようになる。

   (5)青相(しょうそう):それも日に曝されて青く変色する。

   (6)噉相(かんそう):鳥獣が来て死体を啄ばんだり齧ったりする。

   (7)散相(さんそう):鳥獣が噉った後は筋によって繋がれていた、手、足、頭などが散乱する。

   (8)骨相(こつそう):血肉を既に失えば骸骨が残るばかり。

   (9)焼相(しょうそう):その骨を拾って火に焼けば灰となって地に帰る。

 

八念(はちねん):次のことを常に心に思って忘れないこと。また最初の六を別に六念(ろくねん)という。

   (1)念佛(ねんぶつ):仏の大慈大悲と神通無量と衆生の苦を抜くことを思って、私もかく有りたいと願うこと。

   (2)念法(ねんぽう):仏法は衆生にとって妙薬であり、私は必ずよく理解して、衆生に施そうと願うこと。

   (3)念僧(ねんそう):僧とは仏の弟子、すべての煩悩を滅して、戒定慧をよく身に着けて、良き世間の福田である。私もよく修行しようと願うこと。

   (4)念戒(ねんかい):戒は良く衆生の悪を除くことが出来る。私も懸命にこれを守ろうと願うこと。

   (5)念捨(ねんしゃ):布施とは物惜しみ、貪欲をなおす良薬である、私も布施をして衆生に信用されて、衆生を導くことが出来るようにと願うこと。

   (6)念天(ねんてん):天がよく私の修行を守護してくれるようにと願うこと。

   (7)念入出息(ねんにゅうしゅつそく):出入する息を数えることは心が散乱するときの良薬であると常に思うこと。

   (8)念死(ねんし):死は生じて以来つねに身とともにあり、避けようがないことを常に思うこと。(智21)

 

十念(じゅうねん):四義ある。

    (1)十種の観想。

      (a)念佛:仏の神徳は無量にして苦を抜いて楽を与える。

      (b)念法:法の力は広大にしてよく煩悩を滅する。

      (c)念僧:仏の弟子となりて五分法身(戒定慧、解脱、解脱知見)を具足し世間の為に福田となる。

      (d)念戒:戒は諸悪を遮して、無上の菩提の本をなす。

      (e)念捨:布施はよく大功徳を生じ、また捨(空平等)は煩悩を断じ大智慧を得る。

      (f)念天:四天王ないし多化自在天は、果報清浄にして一切の衆生を利益し安楽にする。

                                      (以上六念

      (g)念出入息:安那般那(あんなはんな、数息観(すそくかん))、出入する息を数えることは、散乱心の良薬である。

      (h)念死:死には二種あり、一は自死:命報尽きて死す。二は他死:悪縁に遭うて死す。この二の死は生じて以来、常に身と倶にありて避けんとするも避ける所なし。

                                      (以上八念、智21)

      (i)念休息:一切衆生を救い終るまで休息せず。

      (j)念身:身は非常なりとなすことは大願を成就する本である。

    (2)十度の念仏:仏を十度思い出す。

    (3)十声の念仏:仏の名を十遍称える。

    (4)十刹那(せつな):十の極めて短い時間、十の瞬間。

 

 

戒定慧(かいじょうえ):戒によって悪から身を守り、定によって心の散乱を防ぎ、慧によって理をわきまえてゆるぎない確信を得ることで、三学(さんがく)という。僧の学ぶべきことはこの三学に尽きるということが出来る。

 菩薩の立場からすれば、戒を守って他を苦しめず、心を定めて疑わず、智慧で邪見を近づけないことである。

 

十想(じっそう):次のものを心の中に観察して思うこと。

   (1)無常想(むじょうそう):一切の物は因縁によって造られ、無常である。

   (2)苦想(くそう):一切の物は無常であるが故に苦である。

   (3)無我想(むがそう):一切の物には不変の我はなく、無我である。

   (4)食不淨想(じきふじょうそう):食は不淨の因縁から生じる。殺生、偸盗によらない食はない。

   (5)一切世間不可楽想(いっさいせけんふかぎょうそう):一切の世間に楽しむべきものは何物もない。

   (6)死想(しそう):死とは何であるか。

   (7)不淨想(ふじょうそう):肉体とは不淨である。

   (8)断想(だんそう):煩悩を断つとは何事であるか。

   (9)離欲想(りよくそう):この世に思いを残さず。

   (10)尽想(じんそう):生死を尽くして涅槃に入る。

 

十一智(じゅういっち):智慧を次の十一に分類する。十智(じっち)はこのうちの(11)如実智の無いもの。

   (1)法智(ほうち):欲界の四聖諦を現観証悟する無漏の智慧。

   (2)比智(ひち):類智(るいち)、色界と無色界の四聖諦を現観証悟する無漏の智慧。

   (3)他心智(たしんち):他人の現在の心と心所(心の働き)を知る智慧。

   (4)世智(せち):世俗、有漏の智慧。

   (5)苦智(くち):四聖諦のうち苦諦を知る無漏の智慧。

   (6)集智(じゅうち):四聖諦のうち集諦を知る無漏の智慧。

   (7)滅智(めっち):四聖諦のうち滅諦を知る無漏の智慧。

   (8)道智(どうち):四聖諦のうち道諦を知る無漏の智慧。

   (9)尽智(じんち):四聖諦を体現し尽したことを知る無漏の智慧。

   (10)無生智(むしょうち):四聖諦を体現し尽して不生なることを知る無漏の智慧。

   (11)如実智(にょじつち):如実の相を知る智慧。一切の法の総相と別相を如実に正知して罣礙するものの無いこと。(智23)

五智(ごち):法智、比智、道智、尽智、無生智をいう。

 

三道(さんどう):聖者の通る道には次の三段階がある。

   (1)見道(けんどう):見諦道(けんたいどう)、初めて無漏の智を生じて四諦の理を照見する位。道とは学人の通る道、この道を通りながら、貪瞋癡など煩悩を断ち、淨楽我常などの邪見を排して、不淨苦無我無常の真諦に至ることである。無漏の智とは四聖諦をとおして煩悩が断たれた智慧をいう。この見道で断たれるべき煩悩を見惑(けんわく)、見諦断(けんたいだん)という。

   (2)修道(しゅどう):思惟道(しゆいどう)、根本的な煩悩を断ち終わり、更に残る具体的な事物にたいする煩悩を断つために何度も繰り返して修学することをいう。この修道で断たれるべき煩悩を修惑(しゅわく)、思惑(しわく)、思惟断(しゆいだん)という。

   (3)無学道(むがくどう):真諦を体得し終わったことをいう。断つべき煩悩が無いことを無断(むだん)という。

見諦断思惟断:見道(見諦)とは、修道(思惟)、無学道を合せて三道と称し、即ち無漏智を以って四諦を現観し、その理を見照する修行の階位を指す。見道以前の者を凡夫と為し、見道に入る以後を則ち聖者と為し、それに次いで、見道の後に更に具体の事相に対して相い反覆を加え以って修習する位を修道という。見道と修道を合せて有学道と称し、これに相い対して、無学道は、また無学位、無学果、無学地とも作り、意は既に窮極、最高の悟境に入る者を指すこの有学道の各位に於いてそれぞれ断つべき煩悩を見道断(見諦断、見惑)、修道断(思惟断、思惑)という。

 

(けん):思慮、推求、審詳して、事理を決択すること。正邪に通じる。

 

十六聖行(じゅうろくしょうぎょう):十六行相(じゅうろくぎょうそう)初めて聖者の流れに乗る預流向(よるこう)位以前の四善根位に於いて、四諦を観ずる十六の行。 (智11)

    (1)苦諦、この世は苦であるを四種に観察する。

       (1−1)無常:この世は変化する。

       (1−2)苦:無常なるが故に、この世は苦である。

       (1−3)空:無常なるが故に、一切は実体が無い。

       (1−4)無我:我もまた実体が無い。

    (2)集諦、この世は苦である原因を四種に観察する。

       (2−1)集:愛執は苦を集める。

       (2−2)因:愛執は苦の原因である。

       (2−3)縁:苦は更なる苦の原因である。

       (2−4)生:苦は更なる苦を生む。

    (3)滅諦、苦の滅した境地を四種に観察する。

       (3−1)尽:愛執を尽くせば苦は滅する。

       (3−2)滅:苦が滅すれば生死も尽きる。

       (3−3)妙:生死の尽きた境地は殊妙である。

       (3−4)出:苦界を出て理想の境地に入る。

    (4)道諦、苦を滅する道を四種に観察する。

       (4−1)道:八正道は苦を滅する道である。

       (4−2)正:八正道は正しい。

       (4−3)行:八正道は理想の境地に行く。

       (4−4)跡:仏の遺跡を行けばよい。

 

十六特勝(じゅうろくとくしょう):十六安那般那(あんなはんな)、特に勝れた観察。

        息を数えて心を観察する数息観(すそくかん)の一種。

    (1)観入息:息の入るを観察する。

    (2)観出息:息の出るを観察する。

    (3)観息長息短:息の長いと短いとを観察する。

    (4)観息遍身:息が身に遍満するのを観察して、身が空であることを知る。

    (5)除諸身行:身の行いを除いて、息を楽にする。

    (6)受喜:喜びを感じる。

    (7)受楽:楽を感じる。

    (8)受諸心行:心の働きを感じる。

    (9)無作喜:心の働きを抑えて喜びを無くす。

    (10)心作摂:心の働きを完全に制する。

    (11)心作解脱:心を雑事から解放する。

    (12)観無常:一切は無常であることを観察する。

    (13)観散壊:一切は散じ壊することを観察する。

    (14)観離欲:欲を離れることを観察する。

    (15)観滅:煩悩が滅することを観察する。

    (16)観棄捨:一切は平等であり自他の差異が無いことを観察する。

 

数縁滅(しゅえんめつ):数縁尽(しゅえんじん)、智縁尽(ちえんじん)、択滅無為(ぢゃくめつむい)、涅槃のこと。 数とは善悪の心数法(しんじゅほう、心の働き)、数が多いために数法という。 智慧の数法(要するに智慧の働き)に縁じて煩悩の所得を断ち、これを尽滅すること。 智慧に依り、煩悩の所得を滅すること、涅槃。

非数縁滅(ひしゅえんめつ):非智縁滅(ひちえんめつ)、非智縁尽(ひちえんじん)、非数縁尽(ひしゅえんじん)、非択滅無為(ひぢゃくめつむい)、智慧に依らず、僅かに能生の縁を見て、諸法は尽滅に帰することを知り、不生を得ること。

 

 

三十四心(さんじゅうししん):煩悩を断って悟りに至る、段階の八忍八智、九無間九解脱を併せて三十四心という。

八忍八智(はちにんはっち):十六心(じゅうろくしん)、見道(けんどう、聖者の流れに乗った預流向、預流果)の無漏の智慧でもって四諦を現観するとき、欲界の四諦を現観する智慧を法智(ほうち)といい、その智慧を獲得するに至る見惑を断ずる過程を法忍(ほうにん)という、色無色界の四諦を現観するする智慧を比智(ひち)、類智(るいち)といい、そこに至る過程を比忍(ひにん)、類忍(るいにん)という。 欲界の苦諦を現観するに、苦法智忍と苦法智が有り、色無色界に、苦類智忍と苦類智とが有り、合計十六心有る。 即ち、苦法忍、苦法智、苦類忍、苦類智、集法忍、集法智、集類忍、集類智、滅法忍、滅法智、滅類忍、滅類智、道法忍、道法智、道類忍、道類智である。この中の(にん)とは認めて忍ぶ位で、智の因となる位である。八忍は三界の見惑を断ずる位であって無間道に相当し、八智は見惑を断じおわりて観照明了なる位であって解脱道に相当する。忍は智の因であり、智は忍の果である。

苦法智(くほうち):欲界は苦であると知る智慧。 (智15)

苦比智(くひち):苦類智(くるいち)、色無色界は苦であると知る智慧。

集法智(じゅうほうち):欲界の苦の原因は渇愛にあると知る智慧。集諦を知る。

集比智(じゅうひち):集類智(じゅうるいち)、色界無色界の苦の原因は渇愛にあると知る智慧。

滅法智(めつほうち):欲界の渇愛を無くせば苦も無くなると知る智慧。

滅比智(めつひち):滅類智(めつるいち)、色界無色界の渇愛を無くせば苦も無くなると知る智慧。

道法智(どうほうち):欲界の渇愛を無くすには正しい道によると知る智慧。

道比智(どうひち):道類智(どうるいち)、色界無色界の渇愛を無くすには正しい道によると知る智慧。

 

九無間九解脱(くむげんくげだつ):九無礙道(くむげどう)、三界を分って九地と為し、また一地の修惑(しゅわく、修道で断つべき煩悩)を九品に分って、これを断つに、各、無間と解脱の二道が有る。 正しく惑を断つ智を無間道といい、解脱してすでに断ち終った智を解脱道という。 一地の惑に九品あるので、九無間九解脱という。

 

三無漏根(さんむろこん):煩悩を断った聖者は九つの根本的なものを修めなくてはならない。

 九つの根本的なものとは九根(くこん)といい二十二根、すなわち修行に必要な二十二の根本的なもののうちの苦根(くこん)、楽根(らくこん)、喜根(きこん)、捨根(しゃこん)、信根(しんこん)、精進根(しょうじんこん)、念根(ねんこん)、定根(じょうこん)、慧根(えこん)の九つの根本的なものをいう。またこの九根を無漏根力(むろこんりき)ともいう。

   (1)未知欲知根(みちよくちこん):初めて煩悩を断てた見道にある者が持つ九つの根本的なもの。

   (2)知根(ちこん):何度も繰り返して煩悩の余習を除こうとしている者が持つ九つの根本的なもの。

   (3)知己根(ちきこん):既に煩悩を滅尽した者が持つ九つの根本的なもの。

 

二十二根(にじゅうにこん):修行に必要な二十二の根本的なもの又は力のことであり、それは次の通り。このうち眼根から意根までを六根(ろっこん)という。(こん)とは人がもって生まれた素質をいい、能生の義、増上の義をいう。草木の根は、増上の力が有り、幹枝を生ずることができる。因みに眼の眼根には強い力が有って、眼識を生じることができるので眼根といい、信には他の善法を生じる力が有るので信根という。また人の性は、善悪の作業を生じる力が有るので、これを根性という。

   (1)眼根(げんこん):見ることにかんする根本的なもの、すなわち眼。

   (2)耳根(にこん):聞くことにかんする根本的なもの、すなわち耳。

   (3)鼻根(びこん):嗅ぐことにかんする根本的なもの、すなわち鼻。

   (4)舌根(ぜつこん):味わうことにかんする根本的なもの、すなわち舌。

   (5)身根(しんこん):触れることにかんする根本的なもの、すなわち身。

   (6)意根(いこん):考えることにかんする根本的なもの、すなわち心の一部であり、これにより概念を思いだす。

   (7)男根(なんこん):男としての根本的な力。

   (8)女根(にょこん):女としての根本的な力。

   (9)命根(みょうこん):衆生の寿命。

   (10)苦根(くこん):苦しいと感じることの出来る力。

   (11)楽根(らくこん):楽しいと感じることの出来る力。

   (12)憂根(うこん):憂わしく感じることの出来る力。

   (13)喜根(きこん):喜ばしく感じることの出来る力。

   (14)捨根(しゃこん):心が偏らないことの出来る力。苦楽憂喜を感じず平静なこと。

   (15)信根(しんこん):心をして澄浄ならしむ力。信じることの出来る力。

   (16)精進根(しょうじんこん):怠けずに一生懸命に行うことの出来る力。

   (17)念根(ねんこん):忘れずに常に心に思うことが出来る力。

   (18)定根(じょうこん):心を散乱させない力。

   (19)慧根(えこん):ものごとを理解し考えることの出来る力。

   (20)未知欲知根(みちよくちこん):見道(けんどう)の者が持つ苦楽喜捨信精進念定慧の九根(くこん)。

   (21)知根(ちこん):修道(しゅどう)の者が持つ苦楽喜捨信精進念定慧の九根。

   (22)知己根(ちきこん):無学道(むがくどう)の者が持つ苦楽喜捨信精進念定慧の九根。

 

慚愧(ざんき):慚(ざん)は自ら作した悪を厭う。愧は過ちを他人にたいして羞じること。比丘は常に慚愧することを心がけねばならない。

 

十二頭陀(じゅうにづだ):頭陀(づだ)とは少欲知足の生活をすること。これに十二項目ある。

    (1)衲衣(のうえ):糞掃衣(ふんぞうえ、人の捨てた衣)を着る。

    (2)但三衣(たんさんね):三衣(さんね、上衣、中衣、内衣)以外に所有しない。

    (3)乞食(こつじき):分衛(ぶんえ)、団堕(だんだ)、乞食にて命を保つ。

    (4)不作余食(ふさよじき):午前中に、食事をする。

    (5)一坐食(いちざじき):ただ一回のみ、食事をする。

    (6)一揣食(いちたんじき):過量に摂取しない。

    (7)阿蘭若処(あらんにゃじょ):人里から離れて住む。

    (8)塚間坐(ちょうけんざ):墓所に住む。

    (9)樹下坐(じゅげざ):樹下に住む。

    (10)露地坐(ろじざ):屋根のない処に住む。

    (11)隨坐(ずいざ):樹下がない時には、草地に住む。

    (12)常坐不臥(じょうざふが):横にならない。

 

不淨活命(ふじょうかつみょう):邪命法(じゃみょうほう)、四種の邪命法(じゃみょうほう)、不浄食(ふじょうじき)、四不浄食(しふじょうじき)、比丘が仏によって制定された乞食をして衣食を得るということに依らず、その他の方法にて衣食を得ること。

  (1)下口食(げくじき):薬の調合、畑を耕す、樹木を植える等、口を下に向けて食を得る。

  (2)仰口食(ぎょうくじき):星座、日月、風雨の観察等、口を仰向けて食を得る。

  (3)方口食(ほうくじき):権力家に媚びて、四方に使いし言葉巧みに多くの布施を求める。

  (4)四維口食(しゆいくじき):四維とは天地の四隅でつなぐ大綱をいう。天地の吉凶を占って生活する。(智3)

五種邪命(ごしゅじゃみょう):行者が邪なる因縁によって活命する法。

  (1)利養の為の故に詐りて異相奇特を現ず。

  (2)利養の為の故に自らの功徳を説く。

  (3)利養の為の故に相の吉凶を占いて人の為に説く。

  (4)利養の為の故に高声に威を現じて人をして畏敬せしむ。

  (5)利養の為の故に得し所の供養を称説して以って人の心を動かす。(智19)

 

施食(せじき):施食は五事に与(あず)かる。比丘に食を施すことは五事を助けることになる。

  (1)命(みょう):生命。

  (2)色(しき):肉体。

  (3)力(りき):活力。

  (4)楽(らく):楽しみ。

  (5)膳(ぜん):たっぷりのご馳走。あるいは弁舌。(智3、増一阿含24)

 

(りつ):毘奈耶(びなや)、毘尼(びに)、律蔵(りつぞう)、戒律(かいりつ)、(この項は多くを『律蔵』大蔵出版による。)

 五戒(ごかい)ないし十善(じゅうぜん)が修行としてあるいは人間としてなすべき規範であるに対し、これから述べる律は比丘が教団において集団生活をする上での必要な規則である。よって前者が罰則を持たないに反して後者には罰則がある。前者は良い生活の本質的な部分であるが、後者は比丘が問題を起こすたびに一つ一つ成立させたものでより現実的である。毘尼(びに):律と訳す、即ち僧団の規律の義。毘尼には調伏、滅、離行、善治等の義を含み、乃ち諸多の過悪を制伏滅除するの意がある。これ乃ち仏の制定する所にして、比丘、比丘尼の為の遵守すべき生活に関する軌範の禁戒であり、即ち修道生活中に於ける実際に対し、具体上の需要によってこれを定める軌範であり、これを随犯随制という。仏弟子の出家衆の犯せる悪行の如きに、仏は則ち必ず教誡して、今後同様の行為を再び犯すべからず、再び犯すが如きは、則ち処罰せん、ということである。後に乃ち僧伽の為の規定と成るが故に、律には必ず処罰の規定を附すものである。律は乃ち出家衆に応じて制定する者であり、これは動かされる者であるが故に、戒とは区別されるべきであるが、然るに後世には常に混同して使用される。

 律蔵は小乗の各部あるいは大乗によって若干の異なりがあり、各々は自ら独自の律蔵をもつことになる。それを呼んで十誦律(じゅうじゅりつ)、四分律(しぶんりつ)などという。それぞれは各々およそ二百五十ほどの戒と二十(にじっけんど)という二十ほどの規則とからなり、更に戒は戒の本体とその因縁とからなる。戒の本体を波羅提木叉(はらだいもくしゃ)或いは戒本(かいほん)といい、次のものから成り立っている。

  (1)四波羅夷法(しはらいほう)

  (2)十三僧伽婆尸沙法(じゅうさんそうがばししゃほう)

  (3)二不定法(にふじょうほう)

  (4)三十尼薩耆波逸提法(さんじゅうにさつぎはいつだいほう)

  (5)九十波逸提法(くじゅうはいつだいほう)

  (6)四波羅提提舎尼法(しはらだいだいしゃにほう)

  (7)百衆学法(ひゃくしゅがくほう)

  (8)七滅諍法(しちめつじょうほう)

  (9)式叉摩那の六法戒(しきしゃまなのろっぽうかい) 注:波羅提木叉には含まれない。

 いまここではその戒の本体である波羅提木叉(はらだいもくしゃ)と規則のあらまし、および戒の基本である十戒を、おもに四分律によって挙げるに止める。なおここに挙げるのは所謂比丘戒本といわれるもので、当然比丘尼戒本も存在するが、共通するところが多いので省略する。

  また比丘の二百五十戒を五科に分けて五衆戒(ごしゅかい)、五篇(ごへん)等ともいう。即ち、

   (1)波羅夷罪(はらいざい):婬、盗、殺人、妄語。四重禁。

   (2)僧残罪(そうざんざい):僧伽婆尸沙、波羅夷罪の次に重い十三事。

   (3)波逸提罪(はいつだいざい):僧残の次に重い三十捨堕(しゃだ)及び九十単提。

   (4)波羅提提舎尼罪(はらだいだいしゃにざい):波逸提の次に重い四事。

   (5)突吉羅罪(とっきらざ):軽罪。百衆学法及び七滅諍法。

 

<1.十戒(じっかい)>:沙弥(しゃみ)の十戒ともいう。比丘になれない二十歳未満の見習いを沙弥というが、その守らなければならない戒で波羅提木叉の外である。仏教は五戒と少欲知足を掲げているので、それに反しないというのがこれを制定された理由である。これには罰則はない。

 謂ゆる、1.殺生しない、2.盗まない、3.婬事をしない、4.妄語しない、5.酒を飲まない、6.首飾りを著けたり香を塗ったりしない、7.歌舞音曲をしたり聞きに行くことをしない、8.高広の大床に坐すことをしない、9.非時(ひじ)すなわち正午から翌日の日の出までは食事をしない、10.金銀宝石などに執著せず持ち込まない。

 以上である。このうち1.から5.までは五戒と同じであるが、3.は五戒が夫婦以外の婬事を禁じているに対し、これはすべての婬事を禁じている。また6.から10.は少欲知足に反する行為である。また当然これは比丘であっても守らなくてはならない。比丘の場合は波羅提木叉の中で罰則がそれぞれ別に決められる。

 

<2.四波羅夷法(しはらいほう)>:波羅夷罪(はらいざい)を犯したものは永遠に僧伽(そうが)から追放を受ける。次のことは罪になる。

   1.比丘が戒を捨てずに婬事を行う(異性、同性、畜生すべて同じ)。

   2.与えられないものを盗心を抱いて取る。

   3.自らの手で人命を断つ、もしくは刀を人に授与して死の快さを教えて死を勧める。

   4.自ら「わたしは、既に覚りを開きあらゆることを知っている。」と称し、また別のときには嘘をつきたくないからと、「わたしは、何も知らない。何も知らないのに知っていると言ってしまった。」という。この比丘が増上慢(ぞうじょうまん、即ち覚りを得ていないのに心底から覚りを得たと思う)を抱いているのならば、それはただ勘違いをしたことに過ぎないのであるから良いのであるが、そうでなければ波羅夷罪。

  注1.:捨戒(しゃかい):戒を捨てずとは比丘のままでの意味。戒を捨てることは簡単で「戒を捨てる」あるいは「在家となる」というようなことを他人に分かるように言えばよい。

  注2.:増上慢(ぞうじょうまん):自らの実力を過信すること。この罪は比較的軽い。

 

<3.十三僧伽婆尸沙法(じゅうさんそうがばししゃほう)>:僧残罪(そうざんざい)、これは重罪ではあるが僧伽に留まることが出来、罪を隠していた日数と更に六日の間を僧伽の中で独り別住し謹慎しなければならない。その後に二十人以上の僧伽において出罪しなければならない。

  注1.:出罪(しゅつざい):懺悔して清浄の身となること。

  注2.:摩那埵(まなた):覆罪の日数の他に別住しなければならない六日間。

  注2a.:僧伽(そうが):僧伽とは比丘の集団のことで、全比丘からなる比丘僧伽(びくそうが)と全比丘尼からなる比丘尼僧伽(びくにそうが)の二部からなり、それらは四方僧伽(しほうそうが)という、ただ一つの僧伽に属する。両僧伽は半月ごとの布薩(ふさつ、持戒を確認するための集会)に集まることが可能な範囲を一つの単位として、これを現前僧伽(げんぜんそうが)という。比丘は定住するものではないがいずれかの現前僧伽に属さなくてはならず、また現前僧伽の最小構成人員は四人以上とされる。この現前僧伽を、また(かい)、或いは布薩界(ふさつかい)ともいう。

   1.陰部を弄して精を出す、但し夢中を除く。

   2.婬欲を持って女人の身と相い触れ、あるいは手を捉り髪を捉り、あるいは身体の一部に触れる。

   3.婬欲を持って女人と粗悪語をする。

  注3.:粗悪語とは秘所あるいは秘事に関して話すこと。

   4.婬欲を持って女人の前で自らを称え、自分のような高徳のものに婬欲法をもって供養すればそれは第一の供養の法であると言う。

  注4.:婬欲法:婬欲に関するさまざまな行為。

   5.正式の夫婦であろうと私通であろうと、その仲立ちをする。

   6.自らの住房を作ろうして施主が無いとき、自ら工人、工具、材料などを頻繁に乞うて、出来上がった房は長さが仏の十二磔手(たくしゅ)広さが仏の七磔手をこえた。また、他の比丘に悪獣、悪虫の害がないか、車の回転する余地があるかを確認させなかった。

  注5.:磔手(たくしゅ):長さの単位で十二指(およそ三十センチ)、但し仏の場合は倍の六十センチをいう。

   7.自らの房のための施主が有るとき、他の比丘に悪獣、悪虫の害がないか、車の回転する余地があるかを再確認させなかった。(施主が有るときは広さの制限がない。)

   8.他の比丘を波羅夷罪として無根であるのに謗り、後になって「この事が無根であることは知っていた。怒りに駆られて謗ったのだ。」と言う。

   9.関係の無い事の中の一部分を取り出して、無根の比丘を波羅夷罪として謗り、後になって、「関係の無いことは知っていた。怒りに駆られて謗ったのだ。」と言う。

 (因縁:ある比丘が羊の雌雄が結合しているのを見て、それを他の比丘がしていたように言いふらした。)

   10.和合僧(わごうそう)を破壊せんとして、ことさらに師と別の意見を堅持し、諸比丘から、「和合僧を破壊するな。和合僧を破壊するような工夫をするな。ことさらに師と別の意見を堅持するな。喜んで僧と和合せよ。師と意見を同じくすること、水と乳の如くならば仏法を増益し安楽である。」と、このように三度にわたって諌められ、なお堅持する。

 (因縁:提婆達多(だいばだった)が仏と異なる意見を堅持して僧を破壊しようとした。提婆達多の五法の項参照)

  注6.和合僧(わごうそう):現前僧伽(げんぜんそうが)すなわち地域僧伽のこと。和合とは意見の対立がないことをいう。僧伽は全体として和合することを目指す。

  注6a和合(わごう):一つに溶け合って一一が別の考え、別の行動をしないこと。一処、一時、一心、一戒、一見、一道、一解脱をいう。『僧』では何事も全員一致が原則である。

   11.和合僧を破壊しようとする比丘の党があり、この党の比丘が破壊を目指す比丘を擁護して、「この比丘を諌めるな。この比丘の所説は法に適っている。律に適っている。この比丘の所説を我等は喜んで、心の中で認可しているのだ。」と反論したとき、諸比丘から「その言葉を言ってはならない。この比丘は法に適っていず、律に適っていない。和合僧を破壊しようとするな。僧伽を和合するように心から願え。僧と和合することを喜び、諍いを起こすな。師と意見を同じくすること、水と乳の如くせば仏法は安泰で安楽に暮らせる。」とこのように三度諌められて、改めない。

   12.聚落もしくは城中において、悪行をなし、他家を汚す、そしてこのことを見られ聞かれる。諸比丘から「あなたは悪行をなし、他家を汚して、それを見られ聞かれた。今すぐにこの村落を離れなさい。ここに住してはなりません。」と言われたときに、この比丘は「他の比丘にも、したい事はあり、怒りはあり、恐れはあり、愚かさもある。このように同罪であっても、あるものはこの地を離れよと叱責され、あるものはされない。」と反省しない。このとき、「そのように言ってはならない。他の比丘には、したい事も、怒りも怖れも愚かさもない。あなたは悪行をし、他家を汚し、そしてそれを見られ聞かれた。」と三度諌められて、改めない。

  注7.悪行(あくぎょう):花、樹を植え、人に植えさせ、花を摘む、婦女子と談笑するなどの比丘に禁じられた行為。

  注8.他家を汚す:在家の信用を失う行為をなすこと。

     (1)甲家で得たものを乙家に与える。

     (2)乞食で得たものを、甲に与え乙には与えない。

     (3)王や大臣の権威をかりて甲の便宜を謀って乙にはしない。

     (4)僧伽の花や果実を甲に与え乙には与えない。

   13.諸比丘によって諌められても、「わたしに向かってこれは好い、これは悪いと説くな。わたしもあなた方に向かってこれは好い、これは悪いとは言わない。わたしを諌めることは止めよ。」と言って受け付けない。この時、諸比丘は「この諌めを受け付けよ。如法に諸比丘を諌めよ。われわれもまた如法にあなたを諌めている。このようにして僧伽は繁栄し増益することが出来る。互いに諌めあい、互いに教えあい、互いに懺悔しあうのだ。」とこのようにして三度諌められて改めない。

  注9.如法(にょほう):法に準じての意味。

 

<4.二不定法(にふじょうほう)>:比丘の自白を待って罪が決定する。

   1.外部からは見えない塀所(びょうしょ)において、比丘が女人と二人だけでいたことを、信者が見て僧伽に訴え出たとき、比丘が自白すればその罪が決定し、自白しなければ信者の言にしたがって決定する。すなわち婬事を行っていれば波羅夷罪、女人に触れている等であれば僧残罪、あるいはもっと軽い波逸提罪(はいつだいざい、後述)かになる。

   2.外部から見える場所において比丘が女人とただ二人であるとき信者に告発されたもので、前に準じるが婬事はここに入らないから波羅夷罪はない。

  注9a塀所(びょうしょ):覆われて外部から見えない場所。

 

<5.三十尼薩耆波逸提(さんじゅうにさつぎはいつだい)>:捨堕罪(しゃだざい)、財物の不正取得を禁じ、それを犯したものは告白懺悔してその得たものを僧に棄捨する。次のことは罪になる。

   1.衣時(えじ)が終り、迦絺那衣時(かちなえじ)が終り、なお長衣(ちょうえ)を蓄えて十日を経(へ)、それを過ぎるまで浄施(じょうせ)しない。

  注10.衣時(えじ):雨季には遊行が不可能であるために、比丘は精舎(しょうじゃ)において学問あるいは禅定等の修行に励む。これを安居(あんご)といって地方によって異なるが四月十六日から七月十五日までの三ヶ月間が許される。更にその後の三十日間は遊行のための衣などを調える準備期間とされる。この三十日間を衣時という。

  注11.迦絺那衣時(かちなえじ):迦絺那衣とは安居が終ってから四ないし五ヶ月間のみ着ることが特別に許される臨時の衣である。そしてこの衣を着ている間はいくつかの戒を免除される。またそのために実際上は衣時の延長とみなされる。

  注12.長衣(ちょうえ):余分の衣。比丘は原則として一組の三衣(さんね)のみを持つことが許される。

  注13.浄施(じょうせ):長衣を他の比丘に「これを汝に浄施する。」と言って、形式的に他人に譲ることをいい、浄施することによって比丘は一組の三衣以外の衣を合法的に持つことが出来る仕組みである。

   2.衣時が終り、迦絺那衣時が終り、三衣の中の一衣と離れて異処に宿して一夜を経る。

  注14.この戒は三衣を離れてはならないという戒であるが、衣時と迦絺那衣時の間はそれが免除される。

   3.衣時が終り、迦絺那衣時が終り、衣の材料を施されたとき、一ヶ月以内に衣に仕立てれば良い。(一ヶ月は仕立てるために材料の不足分を補うに要する期間である。)

   4.血縁関係のない比丘尼に衣を要求して得る。ただし物々交換は良い。

   5.血縁関係のない比丘尼に衣を洗わせ、染めさせ、打たせる。

   6.血縁関係のない居士(こじ)または居士婦より衣を乞う。ただし衣を奪われ、失い、焼かれ、漂(なが)された場合は良い。

  注15.居士(こじ):迦羅越(からおつ)、長者、家主、在家と訳す。出家せず家に在って仏教に帰依する男子の呼称。

   7.衣を奪われ、失い、焼かれ、漂(なが)された場合に、血縁関係のない居士または居士婦が多くの衣を自由に取らせたとき、多く受けすぎる。

   8.居士または居士婦が衣を施そうとして、そのための衣価を用意しているとき、いまだその申し出がないのに、居士の家に行き「結構なことです。これこれの衣を買ってください。それが欲しいのです。」と言ってそれを得る。

   9.二人の居士または居士婦がそれぞれ衣を施そうとして、そのための衣価を用意しているとき、いまだその申し出がないのに、二人の居士の家に行き「結構なことです。別々に買ってくださるよりも、共同で高価な衣を買ってください。」と言ってそれを得る。(二衣の代わりに高価な一衣を欲しがる。)

   10.施主が衣を施したいと思い、その金銭を当該比丘に直接与えることは戒に反するので執事人に与えて衣を作らせようとした。

 その比丘は衣が出来上がった頃に執事人の所へ赴き、衣を出すように「我は衣を須(もち)う。」と言って出ないときには、これを三度まで繰り返すことができ、それでもなお出ないときは三度まで執事人の前に立って黙っていることができる。ともに三度を超えれば罪になる。

 ついに衣を執事人が出すことがなければ、比丘は施主にこのことを告げて金銭を取り返すように勧めなければならない。

  注16.執事人(しつじにん):伽藍執事人(がらんしつじにん)、伽藍内の用を務める在家人、あるいは在家の男信者である優婆塞(うばそく)。

  注16a伽藍(がらん):僧伽藍(そうがらん)、寺院のこと。僧伽の比丘が住する園林あるいは建造物。

   11.野蚕綿(やさんめん)で臥具(がぐ)を作る。

  注17.野蚕綿(やさんめん):憍施耶(きょうしや)、絹のこと。

   12.純黒の羊毛で臥具を作る。(純黒の羊毛は高価である。)

  注18.臥具(がぐ):絨毯の生地で作った敷物。

   13.純黒を四分の二、白を四分の一、褐色を四分の一ならば良し。それ以外は罪になる。

   14.六年を経ずして新しい臥具を作る。

   15.新しい坐具には壊色(えじき)のための故に、縦横一磔手(たくしゅ、三十センチ)の古い坐具より切り取った生地を貼り付けなければならない。壊色しなければ罪になる。

  注19.壊色(えじき):袈裟(けさ)、古びた色を付けたり、細かく切り裂いたりした布切れを綴り合わせたりして、知足の心を養い人に盗心を起こさせないようにすること。染めることの出来る色は(1)青、(2)黒、(3)木蘭(もくらん、茶色)の三色である。

   16.道中を歩いているとき羊毛を得たならば必要であれば取っても良い。ただし自ら持ち運ぶことが許されるのは三由旬(ゆじゅん、一由旬は約十二キロ)である。これを過ぎて持ち運べば戒を犯す。

   17.血縁関係のない比丘尼に羊毛を洗い、染め、解きほぐさせる。

   18.金銀あるいは貨幣を自ら受け取る。あるいは自分のために人に取らせる。あるいは地上に置かせて受け取る。

   19.種々の方法で金銀宝物を売買する。

   20.種々の方法で売買する。(物々交換を含む)

   21.長鉢(ちょうはち)を蓄え浄施(じょうせ、前出)をしないまま十日を過ぎる。

  注20.長鉢(ちょうはち):余分の鉢、比丘は鉄または瓦で作った鉢を乞食をして食物を受けるためにただ一つのみ持つことを許される。

   22.鉢に五綴(てつ)以内の裂け目があり、それから水が漏らないのに新しい鉢を求める。この比丘は僧中に鉢を捨て告白懺悔したのち、この新しい鉢は上位の比丘から必要があれば順次取り換えて、最後に余った鉢を破れて使えなくなるまで使わなくてはならない。

  注21.綴(てつ):一綴は約五センチの破れ目でこの長さごとに綴る。

   23.自ら在家人に糸を乞い求め、それを血縁関係にない織師に織らせて衣を作る。

   24.居士または居士婦の織師に織らせて衣を作らせるとき、衣について希望を聞かれる前に、出向いて「これはわたしが着るのだから、丁寧に作ってくれよ。いくらかの代価を払うから。」と言い代価を払って衣を得る。

   25.衣を別の比丘に与えて、後になって怒りから取り返す。怒りからではなく悔いてならば良い。

   26.病が癒えてその後に、酥(そ)、油、生酥(しょうそ)、蜜、石蜜(しゃくみつ)を蓄えて七日を過ぎる。

  注22.七日薬(なぬかやく):(そ、チーズ)、油、生酥(しょうそ、クリーム)、蜜、石蜜(しゃくみつ、氷砂糖)は病後に七日を限り蓄えても良い。

   27.春期の残り一ヶ月(印度暦の三月十六日から四月十五日で現在の五〜六月)に雨浴衣(うよくい)を求め、残り半月(四月一日から四月十五日に用いるは良し。それ以前に求め、それ以前に用いるは罪になる。

  注23.雨浴衣(うよくえ):雨期(四月十六日から七月十五日)に用いる雨水浴用の衣。

  注24.印度暦:陰暦でおよそ太陽暦の三月が印度暦の一月。

   28.安居が終る十日前に衣を施主より受けたら衣時(えじ、前出)に入ったらすぐに衣に調整しなければならない。

   29.安居が終って八月十五日までの間、阿蘭若(あらんにゃ、座禅に適する清閑処)に賊の危険がある場合は村落中の民家に預けても良い。但し六日を超えると罪になる。

   30.施主の意志は僧伽に寄進することにあることを知りながら、自らの所有とする。

以上、三十尼薩耆波逸提終り。

 

<6.九十波逸提法(くじゅうはいつだいほう)>:単堕罪(たんだざい)、懺悔を受ける比丘を探してその人の前で懺悔する。次のことは罪になる。

   (1)ことさらに妄語(もうご、偽りの語)する。(2)種姓、職業などをたねに他の比丘を誹謗する。(3)両舌して両者を諍わせる。(4)女人と同室に宿す。(5)戒を受けて比丘となっていないものと同宿して二夜を過ぎ三夜の暁に至る。(6)戒を受けていない在家人や沙弥(しゃみ、前出)と共に声に出して経を読む。(7)他の比丘が僧残罪を受け謹慎しているなどと在家人などに吹聴する。(8)覚りなど修行の成果を得たものが在家人に吹聴する。(9)比丘が有智の男子がいない場所で、女人に説法する。ただし「色は無常なり。受想行識は無常なり。」あるいは「眼は無常なり。耳鼻舌身意は無常なり。」と説くことは良い。(10)自ら地を掘り、人に教えて掘らせる。(11)生き物の村(草木のこと)を壊す。(12)質問や忠告に対して関係ないことを言ったり、言われたことと逆のことをするなどして他を悩ます。(13)嫌い罵る。(14)僧伽の備品である寝台や椅子や敷物を露地で使用したまま放置する。(15)精舎内の房に臥具、坐具などを敷いて休み、自ら片付けもせず人に教えもせず、そのままにして去る。(16)既に先住の比丘がいる房に強いて臥具を敷き、「狭くて嫌ならば去れ。」と言う。(17)先住の比丘がいる房に後から来て、喜ばず怒って先住比丘を追い出す。(18)房舎の二階に脚の外れる寝台を持ち込む。外れなければ良い。(19)虫がいる水を用いたり、泥に注いだり、草に注いだりする。(20)戸や窓のある大房を作るとき草葺の屋根を二三重を超えて葺く。(21)僧伽に指名されないのに比丘尼に教授する。(22)僧の指名を受けて比丘尼に教授して日没に至る。(23)「諸比丘は飲食のために比丘尼に教授している。」と言う。(24)血縁関係のない比丘尼に衣を与える。物々交換の場合は良い。(25)血縁関係のない比丘尼のために衣を作る。(26)比丘尼と共に塀所(びょうしょ、覆われた場所)において坐す。(27)比丘尼と同道する。たとい村から村に至る短い間でも罪となる。ただし危険な場所を通るときは良い。(28)比丘尼と共に乗船して川を上り下りする。ただし横切るのは良い。(29)比丘尼が施主に自分のことを褒め称えたことにより自分は食料を得ることが出来たと知っていてなお食う。ただし施主の気持ちが比丘尼の褒め称えることよりも先であれば良い。(30)女人と同道する。たとい村から村に至る短い間でも罪となる。ただし危険な場所を通るときは良い。(31)施一食処(せいちじきじょ)にて病でないのに一食以上する。

  注25.施一食処(せいちじきじょ):拘薩羅国(こうさらこく)の精舎も停留する舎もない無住処村(むじゅうしょそん)に、ある居士が一食一宿の施設を設けたもの。

 (32)病時でもなく、衣時(えじ、前出)または迦絺那衣時(かちなえじ、前出)でもないとき、二家から同時に請(しょう)を受ける。

  注26.(しょう):受請(じゅしょう)、施食の招待を請といい、それを受けることを受請という。

 (33)四人以上が僧と別っして食事をする。ただし病時、衣時、迦絺那衣時、道行時、船行時、大会時(だいえじ、多くの比丘の集会)、外道の沙門の施食時、これらの場合は良い。(注:分派独立の疑いをさける。)(34)信者の家に請じられて、餅を与えられ欲しいままに取れと言われたとき、二三鉢以上取る。また二三鉢でも寺内に持ち帰って他の比丘に分け与えるべきで、一人で食えば罪になる。(35)足食(そくじき)し終えた後に請を受け、余食法(よじきほう)をせずに更に食す。

  注27.足食(そくじき):五つの条件を具えた十分な食事。条件とは(1)食座につく、(2)飯と采が運ばれ、(3)給仕され、(4)十分に食し、(5)給仕人に十分に食したと断るの五をいう。

  注28.余食法(よじきほう):残食法(ざんじきほう)、比丘は午前中に一日一回のみ食事が許されるが余食法で余食とされたものは、午前中であれば食しても良い。余食法は余分の食を持つ比丘が「我足食す、ここに余食法をなす。」と言って形式的に少量を食して「我止む、汝取りて食せよ。」と言って渡すことでこれは食べても良い。

 (36)既に足食した比丘に余食法をせずに食を与える。もし戒を犯させようとすることが目的ならば罪となる。(37)非時(ひじ)に食する。(38)残宿食(ざんしゅくじき)を食す。

  注29.非時(ひじ):比丘が食事をしてもよい日の出から正午までを(じ)といい、それ以外を非時という。

  注30.残宿食(ざんしゅくじき):今日得た食べものが日を越して明日になること。

 (39)食物を受けずして食す。薬も自ら手でとる。たとえ無主物でも与えられないものを取るのは罪になる。ただし水と楊枝は良い。(40)好美の食であるところの乳、酪(らく、乳を煮詰めたもの)、魚、肉を自分のために施主に求める。ただし病時は良い。(41)外道に自ら食を与える。(42)他の比丘と一緒に請を受けているのに他比丘に断りなく他家に行き食事に遅れる。ただし病時、衣時、迦絺那衣時は良い。(43)夫婦の家に行き長居して夫婦生活の邪魔をする。(44)夫婦の家に行き妻と塀所(びょうしょ、前出)に坐す。(45)独り女人と共に露地に坐す。(46)他比丘に「共に聚落に行こう。汝に食を与えよう。」と言いながら、聚落に着くと「汝は去れ。我は独坐独語をねがう。」と言って食を与えない。この他に理由がなければ罪になる。(47)夏季の四ヶ月に限り施主より薬を与える請があれば受けて良い。それを過ぎれば罪になる。ただし施主の意向により期限を設けない。期限を延長する。施主が僧伽に持ち来たって分配する。施主が生涯の施与を誓っている場合は除く。(48)行きて軍陣を観察する。特別の理由があれば良い。(49)理由があって軍中に宿すとも、三宿目の夜明けを過ぎれば罪になる。(50)軍中に宿して二三宿しても、軍陣の戦闘、遊軍の象馬の勢力を観察すれば罪になる。(51)酒を飲む。(52)水中に戯れる。(53)指で他比丘をくすぐる。(54)諌めを受けない。(55)他比丘を恐れさせる。(56)半月(はんがつ)ごとに洗浴することは良い。それ以上は罪になる、ただし病時、作業時、風時、雨時、遠来時は良い。(57)身を炙るために露地に火を燃やす、あるいは人に教えて燃やさせる。ただし病時に看病人が粥を炊き、鉢を薫じ、染衣汁を煮るときなどは良い。(58)他比丘の鉢、坐具、鍼筒を隠して狼狽させる。人に教えてそれをさせる。たとえ冗談であっても罪になる。(59)比丘、比丘尼、式叉摩那(しきしゃまな)、沙弥、沙弥尼に浄施した衣を「我かの衣を用う。」と言って断らずに着る。(60)壊色(えじき)をなさずして新しい衣を作る。(61)意識的に畜生の命を絶つ。(62)水に虫があることを知りながらその水を飲む。(63)意識的に他比丘を悩ます。(64)他比丘に粗悪罪(波羅夷罪および僧残罪)あることを知りながら隠す。(65)二十歳未満と知りながら具足戒(ぐそくかい)を受けさせる。

  注31.具足戒(ぐそくかい):三宝に帰依し戒を守ることを誓って比丘となること。

  注31a羯磨(かつま):僧伽の比丘は全員が同格同権で僧伽の行事執行、決定決議に参加し、全員の一致で成立する。

 (66)僧伽中に諍事(じょうじ)があり、既に解決しているにも拘らず再び持ち出す。(67)賊と知りながら約束して同道する。たとえ村から村の短い間でも罪となる。(68)「我は仏の所説の法を知る。婬欲を行じても修行の妨げとはならない。」と言い、他の比丘が「それを言ってはならない。世尊は種々の方法で婬欲を行ずることは修行の妨げとなると言われている。」と三度諌められて改めなければ罪となる。(69)前戒の如き罪を犯してそれを認めず、その悪見を捨てないのを知りながら別住させずに僧伽の羯磨に参加させれば罪になる。(70)沙弥が前戒を犯して三度諌めて改めない場合、この比丘は「汝は今より以後仏弟子に非ず。余比丘に従って行ずることは出来ない。ここから出てゆけ。」と言わなければならない。このような追い出された沙弥であると知りながら同宿すれば罪になる。(71)他の比丘に諌められて「自分はその戒を学んでいない。もっと智慧があり戒律を持(たも)っている人に訊ねたい。」と言えば罪になる。誰でも訊ねられた比丘はそれに答えなくてはならない。(72)説戒(せっかい)の時に波羅夷罪、僧残罪以外の軽戒が読み上げられるのを聞いて、「このつまらない戒を説いてどうしようと言うのだ。これは人を悩ませるだけではないか。」と言えば罪になる。

  注32.説戒(せっかい):布薩(ふさつ)、僧伽の月例行事で満月と新月の日に僧伽の全員が集合して波羅提木叉(はらだいもくしゃ、前出)を一人が誦し、残りのものはそれを聞いて半月間の行動を反省し、罪があれば告白懺悔しなければならない。これに対する出席の義務は非常に重く、欠席の手続きは厳重に決められている。

 (73)説戒の時に、「このような戒があることを初めて知った。」と言い、他の比丘がその比丘が既に二度も三度も説戒中に坐していることを知っていれば、「汝は利なく、不善を得るだろう。説戒の時には一心に法を聞かなければならない。」と教えなければならない。この比丘は無知の故の罪となる。(74)僧伽に施与された物を必要とする比丘に与えるための羯磨(かつま、決議)が終った後に、「諸君は彼れと親厚があるから僧の物を与えた。」と言う。(75)僧伽が断事(だんじ、決議)しようとしているとき、与欲(よよく)せずして立ち去る。

  注33.与欲(よよく):会議に欠席するとき、欠席中の決議に異議のないことを表明すること。決議には全員の賛成が必要であるためにこれがないと決議出来ない。

 (76)与欲しておきながら不平を言う。(77)言争いをしていた一方の比丘の話を隠れて聞き、それを別の一方の比丘に告げ口して言争いを煽り立てる。(78)怒りの故に他比丘を打つ。(79)怒りの故に他比丘を打つまねをする。(80)怒りの故に他比丘を無根の僧残罪をもって謗る。(81)王が寝室を出ず、王夫人が衣服を調えていないのに、後宮の門の敷居を越える。(82)僧伽藍の中以外において金銀宝石の装身具を手に捉る。または人に捉らせる。ただし伽藍中において在家人の忘れ物などを捉ることは良い。(83)非時(ひじ、午後)に聚落に入る。ただし用があって他の比丘に告げてから行くのは良い。(84)寝台および椅子は脚の高さが仏の八指(約四十センチ)を超えてはならない。超えれば罪になる。(85)兜羅綿(とらめん)を入れた寝台、椅子、臥具、坐具を作る。

  注34.兜羅綿(とらめん):柳の花から作る極細の上等の綿。

 (86)骨、牙、角を用いて鍼筒を作る。(87)坐具を作るときは長さ仏の二磔手(たくしゅ、二磔手は約百二十センチ)、広さ仏の一磔手を超えてはならない。超えれば罪になる。

  注35.坐具(ざぐ):尼師檀(にしだん)、比丘が坐しまたは礼拝するときに敷くもの。

 (88)覆瘡衣(ふくそうえ)を作るときは長さ仏の四磔手(約二百四十センチ)、広さ二磔手(約百二十センチ)を超えてはならない。超えれば罪になる。

  注36.覆瘡衣(ふくそうえ):疥(はたけ)や瘡(きず)のために出る血膿を覆うための衣。

 (89)雨浴衣(うよくえ、前出)を作るときは長さ仏の六磔手、広さ二磔手を超えてはならない。超えれば罪になる。(90)仏と等量あるいはそれを超えて衣を作ってはならない。すなわち長さ仏の十磔手、広さ六磔手を超えれば罪になる。(増補1)僧の指名なくして比丘尼の住処に入ってはならない。ただし比丘尼が病んで臨終の説法を求められたような場合は良い。(増補2)僧に施与されたものを自分の考えで特定の比丘に与える。

 

<7.四波羅提提舎尼法(しはらだいだいしゃにほう)>:可呵法(かかほう)、これを犯したものは他の一比丘に向かって「我は可呵法を犯した。」と懺悔すれば良い。

 (1)村中に入り血縁関係のない比丘尼から食の施与を受ける。病のときは良い。(2)白衣家(びゃくえけ)にて食の施しを受けて食しているとき、比丘尼がいて施主に指示して「だれそれには采を与えよ。だれそれには飯を与えよ。」と言っていれば、それに向かって「しばらく黙って比丘の食事が終るのを待て。」と言わなければならない。言わなければ罪になる。

  注1.白衣(びゃくえ):在家のこと。比丘は染衣(せんね)を着け、在家は染めない衣を着ける。

 (3)学家(がくけ)であると知りつつ、請(しょう、招待)を受けないのに食を求める。

  注2.学家(がくけ):資財を惜しまず僧伽に寄進し尽した篤信の家。

 (4)賊などの危険がある伽藍(がらん、前出)内の阿蘭若処(あらんにゃじょ、静閑処)に住し座禅などをしているとき、施主に危険があることを知らせずに食事を運ばせる。ただし病のときは良い。

 

<8.百衆学法(ひゃくしゅがくほう)>:衆多学法(しゅうたがくほう):故意に犯せば一比丘の前で懺悔し、故意でなければ自責する。

 (1)涅槃僧(ねはんそう)をあるいは高く、あるいは低く着け、あるいは各種の形に結んではならない。

  注1.涅槃僧(ねはんそう):三衣(さんね)の内側に着ける下着。

 (2)三衣(さんね)を正しく着けなければならない。(3)衣の一端を裏返して肩にかけ白衣舎(びゃくえしゃ、俗人の家)に入ってはならない。(4)衣の一端を裏返して肩にかけ白衣舎に入り坐ってはならない。(5)衣を首に纏って白衣舎に入ってはならない。(6)衣を首に纏って白衣舎に入り坐してはならない。(7)頭を覆って白衣舎に入ってはならない。(8)頭を覆って白衣舎に入り坐してはならない。(9)片足で跳びながら白衣舎に入ってはならない。(10)片足で跳びながら白衣舎に入り坐してはならない。(11)坐すとき地あるいは床上に尻を着けずに蹲ってはならない。(外道に似る。)(12)両手を腰にあて、両肘を左右に張って白衣舎に入ってはならない。(13)両手を腰にあて、両肘を左右に張って白衣舎に入り坐してはならない。(14)身を揺らしながら小走りに白衣舎に入ってはならない。(15)身を揺らしながら小走りに白衣舎に入り坐してはならない。(16)臂を前後に振りながら白衣舎に入ってはならない。(17)臂を前後に振りながら白衣舎に入り坐してはならない。(18)完全に肉体を覆って白衣舎に入ってはならない。(19)完全に肉体を覆って白衣舎に入り坐してはならない。(20)左右を顧みながら白衣舎に入ってはならない。(21)左右に顧みながら白衣舎に入り坐してはならない。(22)静かに黙って白衣舎に入らなくてはならない。(23)静かに黙って白衣舎に入り坐さなければならない。(24)戯れ笑いながら白衣舎に入ってはならない。(25)戯れ笑いながら白衣舎に入り坐してはならない。(26)心を正して食を受けなければならない。(施食を尊重し捨てるようなことがあってはならない。)(27)鉢を平らにして飯を受けなければならない。(28)鉢を平らにして羹(あつもの、采)を受けなければならない。(29)飯を羹とは倶(とも)に食わなければならない。(先に飯が来て羹が来ないうちに飯を食ってしまう。)(30)鉢の中のものは順に食べ、あれこれ食い散らしてはならない。(31)鉢の中央をえぐるように食ってはならない。(32)自分のために飯と羹とを引き寄せてはならない。病のときは良い。(33)飯で鉢の中の羹を覆い更に求めてはならない。(34)他の比丘の鉢をのぞき見て不満を起こしてはならない。(35)鉢から注意をそらさずに食べなければならない。(36)飯を大きく丸めて食ってはならない。(37)大きく口を開いたままで飯を丸めてはならない。

  注2.飯を丸める:印度では飯は右手の指先にて丸め口に入れる。

 (38)食物を口中にしたままで話してはならない。(39)丸めた飯を口中に投げ込んではならない。(40)飯を落してはならない。(食物を粗末にしない。)(41)飯を両頬に入れ膨らませて食ってはならない。(42)飯を噛むとき意識的に音をさせてはならない。(43)飯を吸い取ってはならない。(44)食物を舌でなめてはならない。(45)手を振るって食ってはならない。(46)手にて飯をつかみ散らしてはならない。(47)汚れた手で食器を捉ってはならない。(48)鉢を洗った水を白衣舎の内に捨ててはならない。(49)生草の上に大小便、涕唾(たいだ、なみだとつばき)をかけてはならない。(50)浄水中に大小便、涕唾をかけてはならない。(51)立って大小便をしてはならない。ただし病のときは良い。(52)衣の一端を裏返し肩にかけた人のために説法してはならない。ただし病のときは良い。(不遜な態度の者に説法してはならない。)(53)衣を首に纏った人のために説法してはならない。ただし病のときは良い。(54)頭を覆った人のために説法してはならない。ただし病のときは良い。(55)頭を包んだ人のために説法してはならない。ただし病のときは良い。(56)腰に両手をあて両肘を張った人のために説法してはならない。ただし病のときは良い。(57)革の履物をはいた人のために説法してはならない。ただし病のときは良い。(58)木の履物をはいた人のために説法してはならない。ただし病のときは良い。(59)騎乗の人のために説法してはならない。ただし病のときは良い。(60)仏塔の内に宿してはならない。ただし仏塔を守護する場合は良い。(61)仏塔の中に財物を蔵してはならない。ただし盗られる恐れがあるときは良い。(62)革の履物を履いて仏塔中に入ってはならない。(63)革の履物を手に捉りて仏塔中に入ってはならない。(64)革の履物をはいて仏塔の周りを回ってはならない。(65)装飾した履物をはいて仏塔中に入ってはならない。(66)装飾した履物を手に捉りて仏塔中に入ってはならない。(67)仏塔の下で食事をして抜いた草あるいは残した食物を捨て去ってはならない。(68)死体を担って仏塔のすぐ下を通ってはならない。(69)仏塔の下に死体を埋めてはならない。(70)仏塔の下で死体を焼いてはならない。(71)仏塔の方に向かって死体を焼いてはならない。(72)仏塔の周りで死体を焼き臭気を来させてはならない。(73)死人の衣を持って仏塔のすぐ下を通ってはならない。ただし洗い染め香を薫ずるためならば良い。(74)仏塔の下で大小便してはならない。(75)仏塔に向かって大小便してはならない。(76)仏塔の周りで大小便をして臭気を来させてはならない。(77)仏像を持って大小便所に行ってはならない。(78)仏塔の下で楊枝を噛んではならない。(79)仏塔に向かって楊枝を噛んではならない。(80)仏塔の近くで楊枝をかんではならない。(81)仏塔の下で涕唾してはならない。(82)仏塔に向かって涕唾してはならない。(83)仏塔のすぐ近くで涕唾してはならない。(84)仏塔に向かって脚を伸ばして坐してはならない。(85)仏像を下の房に安置し自らは上の房に住してはならない。(86)立った人に向かって坐して説法してはならない。ただし病のときは良い。(87)横になった人に向かって坐して説法してはならない。ただし病のときは良い。(88)椅子に坐った人に立ったまま説法してはならない。ただし病のときは良い。(89)高座にある人に下座から説法してはならない。ただし病のときは良い。(90)前にいる人に後ろから説法してはならない。ただし病のときは良い。(91)高いところにある経行処(きょうぎょうしょ)の人に向かって低い経行処から説法してはならない。ただし病のときは良い。

  注3.経行(きょうぎょう):座禅に疲れたときその周りを往ったり来たりして誦経しあるいは考えること。

 (92)道路上にある人に向かって道路外の溝の中などから説法してはならない。ただし病のときは良い。(93)手を携えて道を行ってはならない。(94)樹に登って人の頭上より高くなってはならない。ただし悪獣などを防ぐときは良い。(樹上から大小便をするものがいた。)(95)絡嚢(らくのう、網の袋)中に鉢を入れて杖の先に貫いて肩にかけてはならない。(官人に似る。)(96)杖を持った人のために説法してはならない。ただし病のときは良い。(97)剣を持った人のために説法してはならない。ただし病のときは良い。(98)鉾を持った人のために説法してはならない。ただし病のときは良い。(99)刀を持った人のために説法してはならない。ただし病のときは良い。(100)蓋を持った人のために説法してはならない。ただし病のときは良い。

 

<9.七滅諍法(しちめつじょうほう)>:諍事(じょうじ、諍いごと)が起こったときは、それを収めなくてはならない。

 (1)現前毘尼(げんぜんびに)を与うべきにはまさに現前毘尼を与うべし。

  注1.現前毘尼(げんぜんびに):現前僧伽(げんぜんそうが)の全員の出席によって判断する。

 (2)憶念毘尼(おくねんびに)を与うべきにはまさに憶念毘尼を与うべし。

  注2.憶念毘尼(おくねんびに):無実の非難を受けた比丘が、現前毘尼を要求し、記憶を開陳することにより、無実を承認させる。

 (3)不癡毘尼(ふちびに)を与うべきにはまさに不癡毘尼を与うべし。

  注3.不癡毘尼(ふちびに):犯戒の比丘が、その時は精神に異常を来たしていたとして、現前毘尼を要求して、無罪を承認させる。

 (4)自言治(じごんち)を与うべきにはまさに自言治を与うべし。

  注4.自言治(じごんち):犯戒の比丘が、無罪を訴えて、現前毘尼を要求したが、考えを翻して、自ら罪を認める。

 (5)覓罪相(みゃくざいそう)を与うべきにはまさに覓罪相を与うべし。

  注5.覓罪相(みゃくざいそう):現前毘尼の場で、自ら犯したか犯さないか、はっきり告白できない者は、別住して自ら罪を覓(さがしもと)める。

 (6)多覓罪相(たみゃくざいそう)を与うべきにはまさに多覓罪相を与うべし。

  注6.多覓罪相(たみゃくざいそう):上記の方法でも罪が決定できないときには、現前毘尼の中で多数決をする。

 (7)如草布地(にょそうふち)を与うべきにはまさに如草布地を与うべし。

  注7.如草布地(にょそうふち):現前毘尼の場で、両党に別れ言争い収拾がつかなくなった時、草で地を覆うように互いに罪を懺悔しあって、水に流して和解する。

<以上、波羅提木叉竟り>

  比丘尼戒本は省略。

 

式叉摩那(しきしゃまな)の六法戒(ろっぽうかい):女性は比丘尼となるために二年間の見習い期間があり、それを式叉摩那という。 次の六法を守りおえると比丘尼に成ることができる。

  (1)染心相触:染汚の心を以って男子の身に触れること。

  (2)盗人四銭:他人の金銭を四銭以上盗むこと。

  (3)断畜生命:畜生の命を殺すこと。

  (4)小妄語:自らわれは聖者であると為して供養を貪ること。

  (5)非時食:正午を過ぎて食すること。

  (6)飲酒:酒を飲むこと。

 

僧伽の規則>:二十犍度(にじっけんど)、犍度(けんど)とは章というほどの意味であるが、四分律では二十の犍度を建てて、僧伽中で実践しなくてはならない規則を規定する。戒の意味が「何々をしてはならない。」であるに反し、犍度は「何々をしなければならない。」と意味の向きが異なる。ここでは名前を挙げるに留める。

 (1)受戒犍度(じゅかいけんど):俗人を比丘として仲間に加える方法である。現前僧伽の全員が集まり、羯磨(かつま、全員一致による決定)を与える。この時の受け答えの仕方から、資格まで事細かに規定される。

  注1.受戒は最低十名以上(後には僻地では五名以上でも可)の現前僧伽に於いて全員の出席のもとに具足戒が与えられる。受戒とは具足戒を受けることである。

  注2.具足戒(ぐそくかい)とは比丘として向かえることを意味し、最初期の頃は『来たれ比丘』の言葉により比丘となったのであるが、後に整備されて仏法僧の三宝に帰依することを表明することを具足戒とする。

  注3.受戒は以下に上げる三師と七人以上の証明師を中心に行われる。 これを三師十僧(さんしじっそう)、あるいは三師七証(さんししちしょう)という。

   (1)和尚(わしょう、おしょう):新入比丘を弟子として十年間、倶住(くじゅう)しながら教育する法臈(ほうろう、比丘となってからの年数)が十歳以上の比丘である。新入比丘の衣鉢を整え、親代わりとならなければならない。

   (2)教授師(きょうじゅし):衣の着け方、具足戒を受ける際の受け答えの仕方を教授する。また比丘としての適性(身体および病気の有無)を検査する。

   (3)羯磨師(かつまし):儀式の進行を司る司会者である。議題を提出し採決を取る。

  注4.和尚の指定によって、阿闍梨(あじゃり)という一時的な師から経や儀礼について教授を受けることもある。

  注5.<比丘の資格>受戒の際には次の十問の審問が行われる。

   (1)新入比丘の名前。

   (2)和尚の名前。

   (3)二十歳を満しているか。

   (4)衣鉢は整えられたか。

   (5)父母の許しは得たか。

   (6)負債はないか。

   (7)奴隷の場合には雇い主の許しを得たか。

   (8)官人ではないか。

   (9)男子か。

   (10)癩(らい)、癰(よう)、疸、白癩(はくらい)、乾屑(けんしょう)、癲狂(てんごう)ではないか。

  注6.次の者は比丘となれない。これについては受戒の際に審査される。

   (1)かつて波羅夷罪を犯した者。

   (2)かつて比丘尼を犯した者。

   (3)かつて受戒せずに無資格のまま比丘の生活をした者。

   (4)かつて比丘であり、そのとき外道の事にも従事していた者。

   (5)男子として性的不能の者。

   (6)父を殺した者。

   (7)母を殺した者。

   (8)阿羅漢を殺した者。

   (9)かつて比丘であり、そのとき僧伽を分裂せしめた者。

   (10)悪心にて仏身を傷つけた者。

   (11)非人(ひにん、鬼神のたぐい)。

   (12)畜生。

   (13)男女二根の者。

  注7.戒の内、次のものは絶対に犯してはならないと羯磨師より告げられる。(二百五十戒の内の、その他については和尚と倶住する中で学ぶことになる。)

   (1)婬事。

   (2)偸盗。

   (3)殺人。

   (4)大妄語(覚りを得ないのに得たということ)。

  注8.四依法(しえほう):比丘は次の四によって生活することを羯磨師より告げられる。

   (1)衣は糞掃衣による。

   (2)食は乞食による。

   (3)住は樹下に坐す。

   (4)薬は腐爛薬(ふらんやく、牛の尿を醗酵させたもの)による。

 (2)説戒犍度(せっかいけんど):新月の日と満月の日に現前僧伽の全員が集まって布薩(ふさつ)を行う。布薩とは一人が波羅提木叉(はらだいもくしゃ)を読み上げて全員に戒を犯したものがいるかどうか告白せよ、戒を犯さなければ黙然せよと訊ね、戒を犯した者は懺悔して罰を受け、清浄身になることである。

 (3)安居犍度(あんごけんど):安居(あんご)とは夏は雨季で遊行が出来ないため、四月十六日から七月十五日または五月十六日から八月十五日の間、地方へ遊行しないことをいう。この方法について詳細を規定する。

 (4)自恣犍度(じしけんど):自恣(じし)または鉢和羅(はつわら)とは安居の終る日(七月十五日)に、安居中の罪を懺悔する。このとき受自恣人(じゅじしにん)という者を選び出し、その者の前で一座の者全員が一人づつ、自分が罪を犯すのを見聞きしたり、疑わしいと思ったことなないかと問い訊ねる。受自恣人に指摘された罪が思い当たれば、その場で懺悔する。

 (5)皮革犍度(ひかくけんど):皮革で靴を作って履く場合の材料などを規定する。

  注9.一重の革靴。また瓦礫の多いなど条件の悪い地方では二重の革靴。あるいは羊、鹿、山羊のなめし皮による臥具などが許される。

 (6)衣犍度(えけんど):三衣(さんね)と言われる比丘の衣について、材料と数量と作り方などを規定する。

 (7)薬犍度(やくけんど):使用してもよい薬と用量用法を規定する。

  注10.腐爛薬を常用する。その他にも布施されれば、次のものを七日に限って用いることができる。

   (1)酥(チーズ)。

   (2)油。

   (3)生酥(クリーム)。

   (4)蜜。

   (5)石蜜(しゃくみつ、氷砂糖)。

  注11.病状によっては魚、肉、乳、酪漿(らくしょう、カルピス)などを食する。

 (8)迦絺那衣犍度(かちなえけんど):安居が終ってからも安居の延長が出来る方法と資格について規定する。

 (9)拘睒彌犍度(くせんみけんど):彌国に於いて僧伽中に諍い事があったこのによる。比丘は相和し僧伽を分裂せしめないように、諍い事を収拾する方法を規定する。

 (10)瞻婆犍度(せんばけんど):瞻婆国に於いて僧伽中に諍い事があったことによる。羯磨(かつま、決定の手続き)を厳格にするように規定する。

 (11)呵責犍度(かしゃくけんど):闘争を好むなどの悪比丘を罰する規定。

 (12)人犍度(にんけんど):罪を犯してそれを隠そうとししない比丘を懺悔させる方法を規定する。

 (13)覆蔵犍度(ふくぞうけんど):罪を犯してそれを隠そうとする比丘を治する方法を規定する。

 (14)遮犍度(しゃけんど):布薩の時に、罪を犯した比丘を出席させない方法を規定する。

 (15)破僧ノ度(はそうけんど):提婆達多(だいばだった)の反逆を説いて、僧伽の分裂を防ぐ。

 (16)滅諍犍度(めつじょうけんど):七滅諍法を説く。

 (17)比丘尼犍度(びくにけんど):比丘尼特有の受戒などを説く。

 (18)法犍度(ほうけんど):種々の礼儀作法を説く。

 (19)房舎犍度(ぼうしゃけんど):比丘の住む房舎と臥具について、場所、大きさ、材料、布施のされ方などを規定する。

  注12.最初期には比丘は樹下、岩陰などに草を敷き、石や木や臂や衣を枕にして身体を休めていたが、各地方に園林を寄進され、更に房舎まで寄進されるようになった。

 (20)雑犍度(ざつけんど):道具および諸の雑事を規定する。

<以上、二十犍度竟り>

 

不淨食(ふじょうじき):比丘は、次の五種淨食(ごしゅじょうじき)、即ち肉、根菜、木の実、果物、菜葉等を、次の五つの方法で調理して生気を去った物しか食ってはならない。この何を食えば善いかを知ることを等食法(とうじきほう)を知るという。

   (1)火淨:焼くまたは煮る。

   (2)刀淨:果物の皮と核(たね)を刀で取り去る。

   (3)爪淨(そうじょう):爪を刀の代わりにつかう。

   (4)蔫乾淨(せんかんじょう):果物を乾して生気を取り去る。

   (5)鳥啄淨(ちょうたくじょう):鳥が啄ばんだ残りを食べる。

浄肉(じょうにく):三種浄肉(さんしゅじょうにく)、五種浄肉(ごしゅじょうにく)、小乗の比丘は自ら求めなければ、次の肉に限り食うことが出来る。ただし、大乗の比丘は一切の肉を食うことは許されない。

   (1)不見(ふけん):我が眼で、その殺すことを見ていない。

   (2)不聞(ふもん):我が為に、それを殺したと聞いていない。

   (3)不疑(ふぎ):我が為に、それを殺したとは疑わない。(以上、三種浄肉)

   (4)自死(じし):鳥獣の命が自然に尽きた。

   (5)鳥残(ちょうざん):鳥獣の食い残したもの。(以上、五種浄肉)

 

四種僧(ししゅそう):比丘には良い者から悪い者まで、四種ある。

   (1)有羞僧(うしゅうそう):羞じを知る比丘。戒を持して破らず、身口が清浄で、しても良いことと悪いこととの区別が出来ますが未だ道を得ていない人。

   (2)無羞僧(むしゅうそう):羞じを知らない比丘。戒を破って身口が清浄でなく、悪いことなら何でもする人。

   (3)唖羊僧(あようそう):何も意見を言わない比丘。戒を破るようなことはしませんが、その智慧もない。して良いことと悪いことの区別もつかない。大切なこととそうでないことの区別を知らない。何をして罪になるかも知らない。『僧』中に取り決めなくてはならないことが有っても、言い争っていて一つに纏めることが出来ない。黙っていて何も言わずに、羊のように人に殺されるまでおとなしくしていて声を出すことも出来ない。このような人。

   (4):実僧(じっそう):真実の比丘。阿羅漢であろうとなかろうと、その現在の位に安住することなく、ひたすら修行する人。

 

 

 

 

 

 

 

 

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