1.序
本経は、大般若経600巻中、第578所収の経典であり、その大般若経中の名を第十般若理趣分と称する。
古来、大般若経は大乗仏教の神髄を示すものとして、非常に珍重されてきたにもかかわらず、その600巻はやはり広大に過ぎ、読み通すだけでも大困難をともなうので、況んや理解するをやというわけで、研究は大品27巻、或いは小品10巻、それも多過ぎると思えば金剛般若経1巻ぐらいに限るものであって、大般若経に関しては転読を以って済ますのが、その通例である。
転読とは、恐らく大般若経に限った所であるが、6人ほどの役僧と一人の導師が一堂に会して、折り本に装丁された経典中の一巻を手にすると表紙を開き、声を張り上げて、「大般若波羅蜜多経巻第某、唐の三蔵法師玄奘、奉詔訳」と、先づその経題を読み上げ、次いで初の、「如是我聞、一時薄伽梵、住王舎城鷲峰山頂、与大苾芻衆千二百五十人俱、」ぐらいまでの一節を読むと、やおら両手で経巻を頭上高く持ちあげて、少し開きぎみにし、片手を下に降ろしながら、滝のようにパラパラと経紙を流して落し、これが端まできて尽きると、上の手を下に降ろして、経巻を閉じ、又頭上に挙げて、手の上下を先ほどと逆にして、またパラパラやり、これを数度繰り返しながら、その間中、「揭諦、揭諦、波羅揭諦、波羅僧揭諦、菩提薩婆訶」と、心経の陀羅尼を繰り返し唱え、最後に経典の最終頁を開いて押頂くと、「降伏一切大魔、最勝成就」と一段と声を張り上げたところで、1巻を読み終えたことにして、凡そ一人当り、100巻を担当すると、30~40分ほどで600巻を読み終えたことになるのであるが、導師は、この間中、役僧とは事を別にしており、もっぱら高座上に於いて、この理趣分を読み通すのである
それは、この1巻が、他の599巻を合せたものと、則ち同等であると認めることを意味するものであろうと思われるが、その実はさておき、非常に示唆に富むところであるとは言わねばなるまい。
ことほどさように、重要な経典であるがためか、仏家にては、それに霊験の極めてあらたかなることを認めるに至り、その霊験を畏れて、敢て軽々しく研究することを慎んできたようにも思われる。しかしつらつら慮るに、これは密教に非ず、顕教である。仏が凡夫にも易く理解できるよう、通常の言葉で語られた内容である。敢て秘密にする必要がどこにあろう。経とは、実に紙の上の文字にして墨の濃淡、声に出す所の音の抑揚に過ぎず、その意義は読誦する者の心中に生ずるものである。善経は、則ち心に善を生じ、悪経は心に悪を生ずる所、設い霊験あらたかなろうとも、至誠の心を以って研究すれば、何ぞ敢てやぶさかなるを要せんや。
前には慎んで、略して訳せし所を、今更に蛮勇を奮い起して審らかにせんと欲する所以は、凡そ以上のような事である。
1.1 理趣分の講義と題する理由
礼記に依れば、「玉琢(みが)かざれば、器を成さず、人学ばざれば、道を知らず、是の故に古の王は、国を建て、民に君たるに、教学を先と為す。兌(説)命に曰わく、終始、学を典(つね)とせんことを念ずと。其れ此の謂なり。嘉肴有りと雖も、食わざれば其の旨きを知らざるなり。至道有りと雖も、学ばざれば、其の善なるを知らざるなり。是の故に学びて、然る後に足らざるを知り、教えて、然る後に困(くる)しむを知る。足らざるを知りて、然る後に能く自ら反りみるなり。困しむを知りて、然る後に能く自ら強うるなり。故に曰わく、教学相長ずるなりと。兌命に曰わく、斅(おし)うるは、学ぶの半ばなりと。其れ此の謂なるか。」と曰いて、難しさというものは、教えて始めて解るし、教えるとは、半分は学ぶことであると云っている。
前回、略して訳した時には、さほど困難とも思わなかったのであるが、今回訳してみると、訳業自体には、さして不審を感じなかったにもかかわらず、全体としては、今ひとつ納得の行く所ではないと感ずるにより、人に教えるほどの自信なきが故に、敢て講義と題し、人に教えながら、その中に於いて学ぼうということである。
人の誤解を避けんが為に、敢て自高するが故に、講義と題するに非ざることを陳べた。
1.2 参考にすべき文献
本経の註釈書としては、大蔵経中には唯だ窺基の「大般若波羅蜜多経般若理趣分述讃3巻(以後述讃)」を存するのみであるが、窺基は「大般若波羅蜜多経」の訳者大唐三蔵法師玄奘に師事して、其の器たるを認められ、亦唯識の大家として「説無垢称経賛6巻」、「勝鬘経述記2巻」、「阿弥陀経通賛3巻」、「観弥勒上生経疏2巻」、「金剛経賛述2巻」、「般若心経幽賛2巻」、「大般若波羅蜜多経般若理趣分述讃3巻」、「法華経玄賛10巻」、「金剛般若経論会釈3巻」、「雑集論述記10巻」、「辯中辺論述記3巻」、「瑜伽論略纂16巻」、「百法明門解2巻」、「成唯識論料簡2巻」、「同論述記20巻」、「同論別抄10巻」、「同論枢要4巻」、「唯識二十論述記2巻」、「因明入正理論疏6巻」、「大乗法苑義林章14巻」、「阿弥陀経疏」、「法華経為為章」、「瑜伽論劫章頌」、「百法明門論註」、「同論贅言」、「異部宗輪論述記」、「西方要決釈疑通規」(以上現存)、「維摩略賛7巻」、「金剛般若経玄記10巻」、「心経略賛7巻」、「唯識開発2巻」、「摂大乗論鈔10巻」、「対法論鈔7巻」、「倶舎論鈔10巻」、「弥勒下生成仏経疏」、「維摩経疏」、「薬師経疏」、「六門陀羅尼経疏」、「法華要略」、「同科文」、「同音訓」、「百法論玄賛」、「観所縁縁論疏」、「因明入正理論過類疏」、「勝宗十句義章」、「二十七賢章」、「顕揚論疏」(以上散佚)等を著わす等、是の経の注釈者として十分な資格を有する人であり、此の「述讃」に於いては一句一字の義釈に徹するが故に、「理趣分」を理解せんとするに於いては、決して無視して通ることのできない所であり、一度は目を通さなくてはならない所でもあるが、然るに、唯識家の例として一切は識の所造と為し、識に執するが故に言多しと雖も、頗る事の軽重に違背し、故に自ら真妄の迷路に惑い、遂に人を誘いて邪見の網に入らしむ。是れは般若所説の一切の法に執する者は、それが正法、邪法を問わず、是れを、皆、戯論と為すという簡明の主旨に反するものであり、此の中に於いても、屡々参照すと雖も、敢て純ら依る所と為さざる所以である。
「大智度論100巻」は、般若経典のみならず、大乗全体の註釈書にして、一般に之を離れては一切の経典を説くべからずと為す。故に此の中には、純ら常に之に依ること、譬えば魚の水に依りて住し、鳥の空に依りて飛ぶが如しと為すと雖も、敢て不思議となすべからず。
2.般若理趣の意味。
「般若理趣prajJaa-paaramitaa-naya」中、 「理趣naya」とは軍隊の指揮、指導、統率、或いは智慧等の義を有する語であるので、即ち世間の分別を離れた智慧の彼岸に至る為の道案内の意を取り、又趣には目的地にまっしぐらに駆け付けるの義を有するが故に、かく訳したものと思われる。
又般若波羅蜜を大道に喩えて、智度の大道は仏従って来たまえりとは大智度論巻1の説く所であるが、この般若理趣も又智度の大道に他ならない、この道を行けば、道中安全無事にして、しかも目的地である大安楽の浄土に行き着き、念願の阿耨多羅三藐三菩提を得るからである。
注1:此の中の梵語は多く以下の辞書に依る、――
「Digital Dictionary of Buddhism」、
「Monier-Williams Sanskrit-English Dictionary」
注2:梵語のromanizeは「Harvard-Kyoto法」に依る。
注3:「harvard-Kyoto法」に於いて一般的である「A」、「I」、「U」、「R」、「L」を用いず、代わりに「aa」、「ii」、「uu」、「rr」、「ll」を用いた。
2.1 般若波羅蜜の意味。
「般若波羅蜜prajJaa-paaramitaa」とは、 世間の分別を離れて智慧の彼岸たる一切智に到るの意であるが、更に詳しく見てみると、大智度論巻43には、「凡夫の人は復た欲を離るると雖も、吾我の心ありて離欲の法に著す。故に般若波羅蜜を楽(ねが)わず。声聞辟支仏は般若波羅蜜を欲楽すと雖も、深慈悲なきが故に大いに世間を厭い、一心に涅槃に向う。是の故に具足して般若波羅蜜を得ること能わず。是の般若波羅蜜は成仏の時、転じて一切種智と名づく。是を以っての故に般若は仏に属せず、声聞辟支仏に属せず、凡夫に属せず、但だ菩薩にのみ属す」と云い、優婆塞戒経巻7般若波羅蜜品には、「是れ智慧にして波羅蜜に非ずとは、所謂一切世間の智慧、声聞縁覚所行の智慧なり。是れ波羅蜜にして智慧に非ずとは是の義あることなし。是れ智慧にして是れ波羅蜜なりとは、所謂一切の六波羅蜜なり。智慧に非ず、波羅蜜に非ずとは、所謂一切の声聞縁覚の施戒精進なり」と云うを以って、その意味のあらましを知ることができる。
上に説く中、「六波羅蜜」とは、 所謂布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の六種の波羅蜜であるが、その実、一種の般若波羅蜜に於ける、六種の相に他ならず、皆大安楽の浄土建立の為の智慧に他ならない。即ち般若の智慧には、必ず布施が有り、持戒が有り、忍辱が有り、精進、禅定、智慧が有るのであって、六種中に一を欠いてはならないのである。
2.2 六波羅蜜とは何か?
大般若経巻3、及び巻402に、「仏の具寿舎利子に告げて言わく、諸の菩薩摩訶薩は応に無住を以って方便と為し、般若波羅蜜に安住すべし、所住、能住の不可得なるが故に。応に無捨を以って方便と為し、布施波羅蜜多を円満すべし、施者、受者、及び所施の物の不可得なるが故に。応に無護を以って方便と為し、浄戒波羅蜜多を円満すべし、犯と無犯の相の不可得なるが故に。応に無取を以って方便と為し、安忍波羅蜜多を円満すべし、動と不動の相の不可得なるが故に。応に無勤を以って方便と為し、精進波羅蜜多を円満すべし、身心の勤、怠の不可得なるが故に。応に無思を以って方便と為し、静慮波羅蜜多を円満すべし、有味と無味との不可得なるが故に。応に無著を以って方便と為し、般若波羅蜜多を円満すべし、諸法の性、相の不可得なるが故に」と云うに依り、六波羅蜜の相を知ることができるのであるが、即ち諸法の空なることを以ってすれば、我、人、身心を分別して知ることができないからであり、是の故に、上に説くが如き、相を現わすのである。
六波羅蜜の内訳、――
|
梵語 |
新訳 |
旧訳 |
1 |
檀/檀那波羅蜜
daana |
布施波羅蜜多 |
布施波羅蜜 |
2 |
尸羅波羅蜜
ziila |
浄戒波羅蜜多 |
持戒波羅蜜 |
3 |
羼提波羅蜜
kSaanti |
安忍波羅蜜多 |
忍辱波羅蜜 |
4 |
毘梨耶波羅蜜
viirya |
精進波羅蜜多 |
精進波羅蜜 |
5 |
禅/褝那波羅蜜
dhyaana |
静慮波羅蜜多 |
禅定波羅蜜 |
6 |
般若波羅蜜
prajJaa |
般若波羅蜜多 |
般若波羅蜜 |
以下に、その詳細を示す。
2.2.1 布施波羅蜜多とは何か?
「布施波羅蜜多(檀daana波羅蜜)」とは、 布施の河を渡って、彼岸の浄土に趣くことをいう。即ち空中には布施することなど無いという法を以って、布施する。故に布施波羅蜜多を具足するのである。何故ならば、空中には、施す者も、施しを受ける者も、施す所の物も分別して得る所がないからである。
2.2.2 浄戒波羅蜜多とは何か?
「浄戒波羅蜜多(尸羅ziila波羅蜜)」とは、 持戒の河を渡って、彼岸の浄土に趣くことをいう。即ち空中には持戒して自らを護るということが無いという法を以って、持戒する。故に浄戒波羅蜜多を具足するのである。何故ならば空中には犯戒も、不犯戒も分別して得る所がないからである。但し空中には持戒、犯戒の差別なしとして、若し戒を軽んずるならば、即ち是れ空に著せる邪見に堕すと為すを忘れてはならない。
2.2.3 安忍波羅蜜多とは何か?
「安忍波羅蜜多(羼提kSaanti波羅蜜)」とは、 忍辱の河を渡って、彼岸の浄土に趣くことをいう。即ち空中には辱めを受けるということが無いという法を以って、辱めを忍ぶ。故に安忍波羅蜜多を具足するのである。何故ならば空中には心が動くことも、動かないことも分別して得る所がないからである。
2.2.4 精進波羅蜜多とは何か?
「精進波羅蜜多(毘梨耶viirya波羅蜜)」とは、 精進の河を渡って、彼岸の浄土に趣くことをいう。即ち空中には励み勤めるということが無いという法を以って、精進する。故に精進波羅蜜多を具足するのである。何故ならば空中には勤めたり、怠ったりすることについて分別して得る所がないからである。
2.2.5 静慮波羅蜜多とは何か?
「静慮波羅蜜多(禅dhyaana波羅蜜)」とは、 慮りを静め、戯論の河を渡って、彼岸の浄土に趣くことをいう。即ち空中には思い患うべき法が無いという法を以って、慮りを静める。故に静慮波羅蜜多を具足するのである。何故ならば空中には静慮の功徳に味著したり、味著しなかったりすることについて分別して得る所がないからである。
2.2.6 般若波羅蜜多とは何か?
「般若波羅蜜多(般若prajJaa波羅蜜)」とは、 俗智の河を渡って、彼岸の浄土に趣くことをいう。即ち空中には取著することが無いという法を以って、他の五波羅蜜を行う。故に般若波羅蜜を具足するのである。何故ならば、諸法の空中には、性も相も分別して得る所がないからである。故に若し、般若波羅蜜とは、即ち是れ無分別の智であるとか、或いは不可得空の智である等を説いて、般若波羅蜜の名義を詮ずるようなことをすれば、是れ亦た謬見に堕すことは言うまでもない。
2.3 再び般若波羅蜜多とは何か?
以上に依って、次の事を知ることになる、――
「般若波羅蜜」とは、 謂わゆる大慈悲を体となし、平等samataaを性となすと。即ち菩薩心中の大慈悲は、一切の衆生中に於いて傾くことなく、常に平衡を保っているのであるが、是れを等心sama-cittaと称し、又空と称し、又般若波羅蜜と称するのである。菩薩心中の大慈悲は、一切の衆生に於いて、彼れと此れとを分別せず、我れと彼れとを分別せず、常に等しく認めるが故に、以って是れを般若波羅蜜と称し、菩薩の一切の行動は、此の般若波羅蜜を根本として行われるのである。亦た一切の法中に於いても是の通りである。
3.如是我聞一時の意味
「是の如く、わたしは聞いた」、―― 経の最初が、常にこの言葉を以って始まるのは、単なる慣例に過ぎないとしても、まったく無意味なこととして切って捨てるべきではない。寧ろ仏法に於ける考え方の一端に触れるチャンスを逃すことになるだろう。大智度論に、この辺を詳しく説いているので、その中の少分を引用して、その概略を説明しよう。
3.1 是の如くの意味
大智度論巻1に、「問うて曰わく、諸仏の経は、何を以っての故にか、初めに是の如くの語を称するや。答えて曰わく、仏法の大海は信を能入と為し、智を能度と為す。是の如くの義とは、即ち是れ信なり。若し人、心中に信有りて清浄なれば、是の人は、能く仏法に入るも、若し信無ければ、是の人は仏法に入ること能わず。不信の者は、是の事は是の如くならずと言う、是れ不信の相なり。信ずる者は、是の事は是の如しと言う。(中略)仏の言わく、若し人に信有らば、是の人は能く我が大法の海中に入り、能く沙門果を得て空しからざらん。剃頭し袈裟を染むとも、若し信無くんば、是の人は、我が法の海中に入ること能わず、枯樹に華実を生ぜざるが如く、沙門果を得ざらん、剃頭、染衣し、種種の経を読み、能く難じ、能く答うと雖も、仏法中に於いては、空しくして、所得無けんと。是を以っての故に、是の如しの義は、仏法の初に在り、善信の相なるが故なり」と云うに依れば、経の初に「是の如く」と在るのは、それが善信の相であるからである。
阿難尊者は、経の結集に当り、曽て親しく仏の口より聞き知る所の諸の事柄を、今に至るまで、深く信じていると図らずも告白したが故に、思わず口をついて出た言葉、――それが「是の如し」の意味である。
3.1.1 信の意味
大智度論に依れば、「信を、能入と為す」として、信を、信頼のおける水先案内人の如しと説いているが、信を以って、仏道に入る最初の要門と為すのは、仏法に於ける通例である。
仏法では、仏道を成就するに欠くべからざる五要素として、五種の根本を立てて五根と称するが、所謂信根、精進根、念根、定根、慧根の次第を有するのである。
五 根 |
1 |
信根 |
信ずることから始まる |
2 |
精進根 |
たゆまず研究する |
3 |
念根 |
常に思う |
4 |
定根 |
心が定まる |
5 |
慧根 |
智慧となる |
人は学門をする時、師に依って教を受けるわけであるが、若し初から、「この先生の言うことは、本当だろうか?嘘じゃなかろうか?」と疑ってかかれば、師の説く所を、受け入れることができず、その教は身につかないことになる。故に最初に信根が在る、次に聞いただけで、満足し、心が別に移ってしまえば、教を深めることはできないので、精進根を第二とし、次いで心の中で、自問自答を繰り返し、心より離さないが故に、念根を第三におき、正解が見えてくるに従って、心が定まるが故に、定根を第四とし、最後に智慧として、獲得するが故に、慧根を以って、第五とするのである。
即ち、信は入門すべき第一の門であるが、しかし第三の念根に至って、繰り返して自問自答するが故に、妄信の弊に堕せざることを知る。仏教に妄信はないのである。
3.2 我れの意味
大智度論巻1に、「問うて曰わく、若し仏法中に、一切法は空にして、一切に吾我無しと言わば、云何が仏の経の初に、是の如く我れ聞けりと言う。答えて曰わく、仏弟子の輩は、無我を知ると雖も、俗法に随って説き、我は実我に非ざるなり。(中略)世界法中には我を説くも、第一義中に説くに非ず。是を以っての故に、諸法は空、無我なるに、世界法の故に我を説くと雖も、咎無し。(中略)復た次ぎに、若し人、吾我の相に著して、「是れは実なり、余は妄語なり」と言わば、是の人こそ、応に、「汝、一切法の実相は、無我なるに、云何が、是の如く我れ聞けりと言う」と難ずべし。今、諸仏の弟子は、一切法は空にして、有する所無きに、是の中にも、心は著せず。亦た諸法の実相に著すとも言わざるに、何に況んや、無我の法中に心著するをや。是を以っての故に、応に難じて、「何を以ってか、我れと説く」と言うべからず」と云うに依り、凡そ次の三点に就いて知ることができる。
3.2.1 俗人のために
仏法中には、通例、一切法は空、無我であると解するが、俗人の為には、「我れ」と説くこともある。
3.2.2 世界法と第一義、二種の真実
仏法には、世界法と第一義との別があり、世界法の中には、我を説くが、第一義中には我を説かない。世界法と第一義とは、≪3.3 四悉檀≫で説明する。
3.2.3 仏弟子は空を知って、著さない
諸仏の弟子は、一切法は空であり、有する所が無いと知るが、その法に心が著することも無い。故に我にも、無我にも著さないのである。
3.3 四悉檀
悉檀siddhaantaは成就と訳し、即ち仏が法を説いて衆生を成就するに四種の別あることをいう。
1 |
世界悉檀 |
世間の知識に随順して説く |
2 |
各各為人悉檀 |
人の性質に応じて説く |
3 |
対治悉檀 |
人の病む所に応じて説く |
4 |
第一義悉檀 |
戯論無き般若波羅蜜を説く |
以下に、その詳細を示す。
3.3.1 世界悉檀
大智度論巻1に、「世界とは、有る法は、因縁の和合によるが故に有りて、別の性無し。譬えば車の轅、軸、輻、輞等の和合の故に有りて、別の車無きが如し。人も亦た是の如く、五衆の和合の故に有りて、別の人無し。若し世界悉檀無くんば、仏は是れ実語の人なるに、云何が、我れは、清浄の天眼を以って、諸の衆生を見るに、善悪の業に随いて、此に死して彼に生じ、果報を受く。善業の者は天、人中に生じ、悪業の者は三悪道に堕すと言う」と云うに依り、世間に随順するが為に、「因縁和合の故に、我れも、人も有る」と説くものを、世界悉檀と称するのである。
3.3.2 各各為人悉檀
大智度論巻1に、「云何が各各為人悉檀なるとは、人の心行を観て、為に法を説き、一事中に於いても、或いは聴(ゆる)し、或は聴さず。経中に説く所の如し、「雑報の業の故に、世間に雑生し、雑触、雑受を受く」と。更に破群那経中に説く有り、「人の触を得る無く、人の受を得る無し」と。問うて曰わく、此の二経は、云何が通ずる。答えて曰く、有る人は、後世を疑いて、罪福を信ぜず、不善行を作して、断滅見に堕つるを以って、彼の疑を断じて、彼の悪行を捨てしめんと欲し、彼の断見を抜かんと欲す。是の故に、「世間に雑生して、雑触、雑受す」と説く。是の破群那は、我有り、神有りと計し、計常中に堕つ。破群那の仏に問うて言わく、「大徳、誰か受くる」と。若し仏、「某甲、某甲受く」と説きたまわば、便ち計常中に堕ち、其の人の我見は倍して復た牢固となり、移転すべからず。是を以っての故に、「受者、触者有り」と説きたまわず。是れ等の如き相は、是れを各各為人悉檀と名づく」と云うに依り、後世の罪福を信じずに、好んで悪を行ずる者には、後世に種種の生を受けて、種種の苦楽を受けると説き、後世の楽を受ける為に、好んで種種の苦行を行う者には、後世に往く、霊魂等の無いことを説くというように、人の応ずる所に随って、法を説くことを各各為人悉檀と称する。
3.3.3 対治悉檀
大智度論巻1に、「対治悉檀とは、有る法は、対治には則ち有り、実性には則ち無し。譬えば重、熱、膩、酢、鹹なる薬草、飲食等は、風病中には、名づけて薬と為し、余病に於いては薬に非ず。若し軽、冷、甘、苦、渋なる薬草、飲食等なれば、熱病に於いては、名づけて薬と為すも、余病に於いては薬に非ず。若し軽、辛、苦、渋、熱なる薬草、飲食等なれば、冷病中に於いては、名づけて薬と為すも、余病に於いては、薬に非ざるが如し。仏法中に心病を治すも、亦た是の如く、不浄観の思惟は、貪欲病中に於いては、名づけて善き対治法と為すも、瞋恚病中に於いては、名づけて善と為さず、対治法に非ず。所以は何んとなれば、身の過失を観るを、不浄観と名づけ、若し瞋恚の人、過失を観れば、則ち瞋恚の火を増益するが故なり。慈心を思惟するは、瞋恚病中に於いては、名づけて善き対治法と為すも、貪欲病中に於いては、名づけて善と為さず、対治法に非ず。所以は何んとなれば、慈心は衆生中に於いて、好事を求めて、功徳を観ればなり。若し貪欲の人、好事を求めて功徳を観れば、則ち貪欲を増益するが故なり。因縁の観法は、愚癡病中に於いては、名づけて善き対治法と為すも、貪欲、瞋恚病中に於いては、名づけて善と為さず、対治法に非ず。所以は何んとなれば、先に邪観するが故に、邪見を生ず、邪見とは、即ち是れ愚癡なればなり。」と云うに依り、人の種種の病に応じて、法を説くことを対治悉檀と称するのであるが、是れに由りて仏の法は、或いは薬と為り、或いは毒とも為ると知ることができる。
3.3.4 第一義悉檀
大智度論巻1に、「第一義悉檀とは、一切の法性、一切の論議語言、一切の是法非法は、一一分別して、破散すべし。諸の仏、辟支仏、阿羅漢の行ずる所の、真実の法は、破すべからず散ずるべからず。上の三悉檀中に於いて通ぜざる所も、此の中には皆通ず。問うて曰わく、云何が通ずる。答えて曰く、謂わゆる通ずとは、一切の過失を離れ、変易すべからず、勝つべからず。何を以っての故に、第一義悉檀を除きて、諸余の論議、諸余の悉檀は、皆破すべきが故なり。衆義経中に説く所の偈の如し、「各各自らの見に依り、戯論して諍競を起こし、若し能く彼れの非を知らば、是れを正見を知ると為す。肯て他法を受けざる、是れ愚癡の人と名づけ、是れと論議を作す者は、真に是れ愚癡の人なり。若し自ら是とする見に依りて、諸の戯論を生ずるに、若し此れは是れ浄智ならば、浄智に非ざる者無けん」と云うに依り、自らの見解を是とし、他の見解を非として、他の見解を受けない者を愚癡の人と為し、是れと論義を作す者を真の愚癡の人と為す、これを第一義悉檀と称するが、即ち是れは般若波羅蜜に他ならないのである。
3.4 聞、一、時
大智度論巻1には、"聞"、"一"、"時"を説くが、≪3.2 我れ≫に略ぼ順ずるものであるが故に、ここには解説しない。
4. 薄伽梵の意味
「梵語bhagavat」は、 世尊と訳す。衆徳を具して世に尊重恭敬される者の意。即ち仏の尊称である。大智度論巻2に、「釈して曰く、云何が、婆伽婆bhagavatと名づくる。婆伽婆とは、婆伽bhagaを「徳」と言い、婆vatを「有り」と言い、是れを「有徳」と名づく。復た次ぎに、婆伽bhagaを分別と名づけ、婆vatを巧と名づけ、巧みに諸法の総相、別相を分別するが故に、婆伽婆と名づく。復た次ぎに、婆伽bhagaを名声と名づけ、婆vatを有と名づけ、是れを名声有りと名づく。名声を得るに、仏に如く者の有ること無く、転輪聖王、釈梵護世なる者も、仏に及ぶものの有ること無し。何に況んや、諸余の凡庶なるをや。(中略)復た次ぎに、婆伽bhagnaを破と名づけ、婆vatを能と名づく。是の人は、能く婬怒癡を破るが故に、称して婆伽婆と為す。(中略)問うて曰わく、婆伽婆は正に此の一名のみ有りや、更に余の名有りや。答えて曰く、仏は、功徳無量なれば、名号も亦た無量なり。此に名づくるに、其の大なるを取るは、人の多く識るを以っての故なり。復た異名有り、多陀阿伽陀等と名づく。」と云うに依れば、薄伽梵の語は「有徳」、「巧分別」、「有名声」、「能破」等の義を有するものであり、復た仏には、その無量の功徳に応じて、多陀阿伽陀等の無量の異名ありとする。即ち、下の表がそれである。
1 |
薄伽梵bhagavat |
世尊 |
2 |
多陀阿伽陀tathaagata |
如来 |
3 |
阿羅呵arhat |
応供 |
4 |
三藐三仏陀
samyak- saMbuddha |
正遍知 |
5 |
鞞侈遮羅那三般那
vidyaa- caraNa- saMpanna |
明行具足 |
6 |
修伽陀sugata |
好去好説 |
7 |
路迦憊lokavid |
知世間 |
8 |
阿耨多羅anuttara |
無上 |
9 |
富楼沙曇藐婆羅提
puruSa- damya(k)- saarathi |
丈夫調御師 |
10 |
舍多提婆魔菟舍喃
zaastaa deva- manuSyaaNaam |
天人教師 |
11 |
仏陀buddha |
知者 |
12 |
阿娑摩asama |
無等 |
13 |
阿娑摩娑摩asamasama |
無等等 |
14 |
路迦那他lokanaatha |
世尊 |
15 |
波羅伽paaramitaa |
度彼岸 |
16 |
婆檀陀bhadanta |
大徳 |
17 |
尸梨伽那zriguNa |
厚徳 |
18 |
悉達多siddhaartha |
成利 |
4.1 薄伽梵とは何か?
「薄伽梵」、 即ち仏とは何か? 大智度論巻1に、「爾の時菩薩、苦行の処を捨てて、菩提樹の下に到り、金剛処に坐す。魔王は十八億万衆を将いて来たり、菩薩を壊せんとす。菩薩は、智慧の功徳力を以って、魔衆を降し已り、即ち阿耨多羅三藐三菩提を得。是の時三千大千世界の主梵天王の尸棄と名づくると及び色界の諸天等、釈提桓因と及び欲界の諸天等、并びに四天王、皆仏所に詣りて、世尊に初の転法輪を勧請す。亦た是の菩薩は、本の所願及び大慈大悲を念ずるが故に、請を受けて法を説く」と云うが如く、菩薩は阿耨多羅三藐三菩提を得た時に、仏と為ったことを自覚するのであるが、ではその「阿耨多羅三藐三菩提anuttara-
samyak- saMbodhi」とは何か? というと、 anuttara は最上、最高の義、 samyakは完全にの義、 saMbodhi
は完全な認識の義であり、 通常samyaksaMbodhi を正覚と訳す。 故に阿耨多羅三藐三菩提とは、無上の正覚、この上ない覚りを指す言葉と知るのであるが、然しながら、この言葉からは、その覚りの内容までは伺い知ることはできないと、明記しなくてはならない。
4.2 阿耨多羅三藐三菩提とは何か?
「阿耨多羅三藐三菩提(無上等正覚)」には、小乗の阿耨多羅三藐三菩提と、大乗の阿耨多羅三藐三菩提との二種がある、
1 |
小乗 |
自ら空の理を悟って苦を脱れ、涅槃(寂静)に入ること |
2 |
大乗 |
一切の衆生(生き物)が残らず幸福になり、一切の世界が平和になったと悟ること |
4.2.1 小乗に於ける阿耨多羅三藐三菩提の相
増一阿含経巻41に、「舎利弗、当に知るべし、我れ昔未だ仏道を成ぜず、樹王の下に坐して、便ち是の念を作さく、此の衆生の類は、何法を剋獲せざるが為に、生死に流転して、解脱を得ざると。時に我れ復た是の念を作さく、空三昧を有すること無き者は、便ち生死に流浪して、意解脱に至るを得ず。此の空三昧有るも、但だ衆生は、未だ剋(よくせ)ず。衆生をして想を起さしめん。著の念は、世間の想を起すを以って、便ち生死の分を受くるも、若し是の空三昧を得ば、復た願う所無し、便ち無願三昧を得ん。無願三昧を得るを以って、此に死して彼に生ずるを求めず。都べて想念無き時には、彼の行者は、復た無想三昧有り。可得の娯楽は、此の衆生の類は、皆由りて三昧を得ず、故に生死に流浪すと。諸法を観察し已りて、便ち空三昧を得、已に空三昧を得て、便ち阿耨多羅三藐三菩提を得たり」と云うに依れば、空三昧、無願三昧、無想三昧の三三昧を得ることを以って、阿耨多羅三藐三菩提を得と為しているのであるが、小乗の主旨は、純ら人を救うことを目的とするが故に、苦の世界を解脱したる涅槃の境地を、阿耨多羅三藐三菩提と為すのである。
4.2.2 大乗に於ける阿耨多羅三藐三菩提の相
さて、菩薩が覚りを開いて、仏と成ったと自覚することを阿耨多羅三藐三菩提を得ると言うのだとすれば、小乗では個人の救済を目的とするが故に、空を以って、常楽我淨の顛倒を破り、所謂世間、或いは心は常でなく、無常である。諸受は楽でなく、苦である。色受想行識等の法中に我は無い。身は浄でなく、不浄であると念じて、ひたすら身心の寂滅を求めることを空三昧といい、この三昧を得ることが涅槃であると覚ることを以って、阿耨多羅三藐三菩提と為すのであるが、一方、大乗の菩薩は、大いに異なり、一切の衆生が、所謂有らゆる生き物が、一時に救済されることを以って目的とするのであるから、その大願が成就して初めて正覚を得て、仏と成るのである。
大品般若経巻1に、「我れ阿耨多羅三藐三菩提を得ん時、行住坐臥の処をして、悉く金剛為らしめんと欲せば、当に般若波羅蜜を学すべし。復た次ぎに舎利弗、菩薩摩訶薩は出家の日に即ち阿耨多羅三藐三菩提を成じ、即ち是の日に法輪を転じ、法輪を転ずる時に無量阿僧祇の衆生をして塵を遠ざけ、垢を離れて諸法中に法眼浄を得しめ、無量阿僧祇の衆生をして一切法を受けざるが故に、諸の漏心に解脱を得しめ、無量阿僧祇の衆生をして阿耨多羅三藐三菩提に於いて不退転を得しめんと欲せば、当に般若波羅蜜を学すべし。我れ阿耨多羅三藐三菩提を得ん時、無量阿僧祇の声聞を以って僧と為し、我れ一たび法を説かん時には、便ち座上に於いて尽くをして阿羅漢を得しめんと欲せば、当に般若波羅蜜を学すべし。我れ無量阿僧祇の菩薩摩訶薩を以って僧と為すに当り、我れ一たび法を説かん時、無量阿僧祇の菩薩をして、皆阿惟越致(不退)を得しめ、寿命無量、光明具足なることを得しめんと欲せば、当に般若波羅蜜を学すべし。我れ阿耨多羅三藐三菩提を成ぜん時、世界中に婬欲、瞋恚、愚癡を無く、亦た三毒の名すら無く、一切の衆生をして、是の如き智慧、善施、善戒、善定、善梵行、善不嬈衆生を成就せしめんと欲せば、当に般若波羅蜜を学すべし。我が般涅槃の後の法をして、滅尽無く、亦た滅尽の名すら無からしめんと欲せば、当に般若波羅蜜を学すべし。我れ阿耨多羅三藐三菩提を得ん時、十方の恒河沙に等しき如き衆生、我が名を聞かば、必ず阿耨多羅三藐三菩提を得んと、是の如き等の功徳を得んと欲せば、当に般若波羅蜜を学すべし」と云うに依り、阿耨多羅三藐三菩提を得たる時には、亦た同時に一切の衆生が成就して、国土が浄まることを知るはずである。
以上の理由を以って、無量寿経等に説く所の阿弥陀仏の如き、浄土建立の願の成就する時に得る所の絶対的無上の正覚を以って、大乗の阿耨多羅三藐三菩提と為すのであるが、それは菩薩が自ら六波羅蜜を行じ、又人に教えて行ぜしめ、幾世代も幾世代も能度と所度と人を代え、立場を替えて、無量劫を経る結果、阿耨多羅三藐三菩提を得るのであるから、即ち大乗とは個人の救済に非ず、是れ人類全体の救済を目的とし、引いては生物全体の救済を目的とするものであると知らねばならない。
4.3 大乗と小乗との関係
大乗の目的が社会的救済に在り、個人的救済にはないとしても、六波羅蜜の智慧中には空慧を含むが如く、小乗は大乗のサブセットとして大乗中に存在する。譬えば大乗の大海中に浮ぶ、四大洲の如きものが小乗なのである。故に大乗からは小乗を看見可能であるが、小乗から大乗は看見できない。即ち大乗と雖も、小乗的戒律を直ちに捨て去る訳にはいかないのである。
5. 薄伽梵の功徳
以下、「妙善成就」より、「無動無壊」までは仏の成就する所の功徳を説く。即ち、下表に示す通りである、――
1 |
一切の
如来の |
金剛のように
住時する |
平等性という
智の |
種種の
希有にして
殊勝な
功徳を
妙に善く
成就する |
2 |
潅頂する |
宝冠を
善獲して |
三界に
超過する |
3 |
世界に
遍き |
金剛/菩提心という
智を
善得して |
世界を
大観して
自在である |
4 |
諸法を
決定する |
大妙智という
印を
円満して
得た |
5 |
畢竟じて
空寂である |
平等という
印を
善く
円証した |
6 |
諸の
能作と
所作の |
事業を
皆 |
善く巧みに
余す所無く
成辦/具備した |
7 |
一切の
有情/
衆生の |
種種の
希願を |
其れが
無罪ならば |
皆
満足させた |
8 |
三世の
平等に
安住して |
常に
断尽すること
無く、
広大に
遍く
照らす |
身、語、心の
性は、 |
金剛にも
等しく
動かす者も
壊す者も
無かった |
5.1 平等性を知る智慧に安住する
「平等」とは、 「心が傾かない」ことである。
「平等」には、二種ある、――
1 |
衆生の |
平等/
空 |
一切の衆生中に等しく見て、男女、貴賎の別を見ず、亦た彼我の別をも見ないこと |
2 |
法の |
色、受想行識等の法、或いは善悪の法、内外の法門中に等しく見ること |
5.1.1 衆生の平等とは何か?
「衆生の平等」とは、 「衆生の空」をいう。
「衆生」は、「因縁和合の生であり、故に自性がない」、故に「衆生の空」というのである。
「仏」は、 「衆生の空」を知るが故に、「大慈大悲」中に於いて、最低劣悪の衆生も、最高善良の衆生も等しい。
「菩薩」は、 「一切の衆生に共感して、我が身に等しく思う」が故に、此れと彼れと、彼れと我れとの間に差別を設けない。
5.1.2 法の平等とは何か?
「法の平等」とは、 「法の空」をいう。
「法」とは、 「名字乃至経の所説」である。
人は法を聞いて、その義、意味を心に想像する。故に法に自性なく、空である。有る人は、甲の名を聞いて善の義を思い、有る人は、同じ名を聞いて不善の義を思う。即ち法に自性なく、空であるが故に、法と義とは一致しない。一致しない法を以って、論議に明け暮れることを戯論という。法を明らかにすることは大切であるが、戯論は無意義である。
如来は、法の空を知るが故に、善法を聞いても、悪法を聞いても心は平等である。
5.2 潅頂宝冠は、三界を超過する
「潅頂宝冠」とは、王位に就くことをいう。
三界とは、欲界色界無色界の総称である、――
1 |
欲界 |
婬欲、食欲等を有する衆生/有情界 |
1 |
天 |
2 |
人 |
3 |
阿修羅(好戦的鬼神) |
4 |
畜生/傍生 |
5 |
餓鬼 |
6 |
地獄 |
2 |
色界 |
有身、有心、無欲の衆生界 |
1 |
初禅天 |
2 |
二禅天 |
3 |
三禅天 |
4 |
四禅天 |
3 |
無色界 |
無身、有心、無欲の衆生界 |
1 |
空無辺処 |
2 |
識無辺処 |
3 |
無所有処 |
4 |
非想非非想処/
非有想非無想処 |
如来の位は、法王の位であり、世間三界の王位を超過する。
5.3 大観して自在である
如来は、五眼を以って遍く自在に、三界の衆生を観る。
所謂肉眼を以って、眼前の事を観、天眼を以って遠近、内外、中夜に於いて観ること自在に、慧眼を以って、空無相の理を照見し、法眼を以って一切の智慧門を照見し、仏眼を以って一切遍く観て礙無きことをいう。
五眼を下表に示す、――
1 |
肉眼 |
人 |
肉身所有の眼 |
2 |
天眼 |
天 |
色界天人所有の眼 |
3 |
慧眼 |
二乗 |
空、無相の理を照見する智慧の眼 |
4 |
法眼 |
菩薩 |
衆生を度す為に、一切の法門を照見する智慧の眼 |
5 |
仏眼 |
仏 |
肉眼、天眼、慧眼、法眼を兼ね備えた智慧の眼 |
又如来の大慈大悲の前に於いて、衆生はその已に成就せると、未だ成就せざるとの二種に過ぎず。故に大観して自在である。
5.4 諸法を決定する
有らゆる法を決定して知る。
一切の諸法は、皆決定して空であると知る。
5.5 諸の能作、所作の事業に於いて善巧を得る
「能作」とは、 これから作すべきこと、 「所作」とは、 已に作されたること。
「事業」とは、 衆生を成就すること。
「善巧」とは、 善く巧みなる方便、即ち方法をいう。
5.6 衆生の、種種の希願を満足する
「未だ成就せざる衆生の希願」には、 種種ありと雖も、「已に成就せる衆生の希願」は、 皆六波羅蜜中に含まれる。
5.7 広大にして遍く照す身語心性に安住する
「広大にして、遍く照す仏の身語心業に安住する」とは、 仏の大慈大悲に基づく身語心業は、三千大千世界を常に遍く照していることをいう。
6. 他化自在天王宮
「他化自在天」とは、 欲界六天中最頂に位する天の名。この天に属する衆生は、皆自ら衆具を化作(造作)せず、専ら他の天の化作する所の楽具を以って、自ら楽しむが故に、他化自在天の称を得る。時に正法を害する悪魔に擬せられ、その天主を魔王波旬maara-
paapiiyasと称し、世尊成道の時、魔軍を率いて成仏を妨げんと試みたること、種種の本生経の伝える所である。
六欲天を、下表に示す、――
1 |
四天王天 |
須弥山中腹に位する持国天、広目天、増長天、多聞天の総称 |
2 |
忉利天/
三十三天 |
須弥山頂に位し、四方に各八天、及び中央に帝釈天を有する諸天の総称 |
3 |
夜摩天 |
須弥山上空に位し、時時快哉を唱える天 |
4 |
兜率天/
兜率陀天 |
夜摩天の上空に位し、五欲の楽に於いて、喜足の心を生じる天 |
5 |
楽変化天/
変化天/
化楽天 |
兜率天の上空に位し、五欲の境(色声香味触)を自ら変化化作して楽しむ天 |
6 |
他化自在天 |
楽変化天の上空に位し、五欲の境を他に自在に変化化作せしめて楽しむ天 |
6.1 魔王の宮殿で、般若理趣を説く理由
凡そ二種の理由を見れば十分であろう。
6.1.1 世尊には、魔王を畏れる理由がない
仏には、十力、四無所畏、四無礙智、十八不共法、大慈、大悲等の功徳があり、故に一切に於いて怖畏する所がない。
就中――
「十力」とは、仏のみ有する智力に十種の別あることをいう、
1 |
処非処智力 |
物ごとの道理と非道理を知る智力。処は道理の意 |
2 |
業異熟智力 |
一切の衆生の三世の因果と業報を知る智力。異熟とは果報の意、まだその果報の善悪が決定していないことをいう |
3 |
静慮解脱等持等至智力 |
諸の禅定と八解脱と三三昧を知る智力 |
4 |
根上下智力 |
衆生の根力の優劣と得るところの果報の大小を知る智力。根とは能く生ずるの意、何かを生み出す能力をいう |
5 |
種々勝解智力 |
一切衆生の理解の程度を知る智力 |
6 |
種々界智力 |
世間の衆生の境界の不同を如実に知る智力 |
7 |
遍趣行智力 |
五戒などの行により諸々の世界に趣く因果を知る智力 |
8 |
宿住隨念智力 |
過去世の事を如実に知る智力 |
9 |
死生智力 |
天眼を以って衆生の生死と善悪の業縁を見通す智力 |
10 |
漏尽智力 |
煩悩をすべて断ち永く生まれないことを知る智力 |
「四無所畏」とは、 仏が説法するに際し畏るる所の無きに四種の別あるをいう、
1 |
一切智無所畏 |
全てを知ることに対する自信 |
2 |
漏尽無所畏 |
煩悩が無いことに対する自信 |
3 |
説障道無所畏 |
修行の障礙を全て説いたことに対する自信 |
4 |
説苦道無所畏 |
世間は全て苦であると説いたことに対する自信 |
「四無礙智」とは、 仏の説法に於いて自在なる辯才の智慧に四種の別あるをいう、
1 |
法無礙 |
文章、乃至経論の理解に対する無礙 |
2 |
義無礙 |
法の意趣を理解することに対する無礙 |
3 |
辞無礙/
詞無礙 |
単語、乃至術語の理解に対する無礙 |
4 |
楽説無礙/
辯無礙 |
雄弁に説得することに於いての無礙 |
「十八不共法」とは、 仏と菩薩のみがもつ功徳をいう、
1 |
身無失 |
仏は戒定慧と智慧と慈悲を用いて常にその身を修めるが故に一切の煩悩がなく、無煩悩の故に身の過失がない |
2 |
口無失 |
口にも過失がない |
3 |
念無失 |
心に思うことにも過失がない |
4 |
無異想 |
一切の衆生を平等に済度して、心に選ぶ所がない |
5 |
無不定心 |
行住坐臥に於いて、常に勝れた禅定に在り、心の散乱することがない |
6 |
無不知己捨 |
一切の事物に通じ、而もそれに執著しない |
7 |
欲無減 |
衆生を済度することを欲して、厭きることがない |
8 |
精進無減 |
衆生を済度して休息することがない |
9 |
念無減 |
三世の諸仏の法と、一切の智慧に相応して満足し、その状態から退くことがない |
10 |
慧無減 |
一切の智慧を具えて尽きることがない |
11 |
解脱無減 |
一切の執著を永久に遠離する |
12 |
解脱知見無減 |
一切に解脱するが故に、あらゆることを実相のままに理解する |
13 |
一切身業隨智慧行 |
一切の身業は智慧に随う |
14 |
一切口業隨智慧行 |
一切の口業は智慧に随う |
15 |
一切意業隨智慧行 |
一切の意業は智慧に随う |
16 |
智慧知過去世無礙 |
智慧は全ての衆生の過去世を礙(さまたげ)なく照らし知る |
17 |
智慧知未来世無礙 |
智慧は全ての衆生の未来世を礙なく照らし知る |
18 |
智慧知現在世無礙 |
智慧は全ての衆生の現在世を礙なく照らし知る |
6.1.2 魔王こそ、最も般若理趣を説くべき対象
「大智度論巻5」に、摩訶薩埵mahaa-sattva を説いて、「問うて曰く、云何が、摩訶薩埵と名づくる。答えて曰く、摩訶とは大なり、薩埵を衆生と名づけ、或いは勇心と名づく。此の人の心は、能く大事を為すに、退かず、還らざる大勇心なるが故に、名づけて摩訶薩埵と為す。(中略)是の衆生等の無辺、無量、不可数、不可思議なるを以って、尽く能く救済し、苦悩を離れしめて、無為安隠の楽中に著(お)く。此の大心有りて、多くの衆生を度せんと欲するが故に、摩訶薩埵と名づく。」と言うが如く、是の摩訶薩埵とは、大菩薩の異名であり、亦た是れを名づけて「大欲」と為す者である。
一方、欲界の頂天を極むる魔王も亦た応に名づけて、「大欲」と為すべき者であろう。
世尊は「大慈」を起こして、此の魔王の「大欲」を化して、菩薩の「大欲」に変成せんと欲し、故に般若の理趣を説かれた。何を以っての故に、般若の理趣とは、即ち煩悩の小欲を変じて、衆生救済の大欲に化する為の大道に他ならず、是の般若の理趣を聞くに由って、魔王変じて菩薩と成るからである。是の故に世尊は、是の般若の理趣を魔王の宮殿に於いて説かれたのである。
7. 菩薩とは何か?
「菩薩」とは、 菩提薩埵bodhi-sattvaの略であるが、「大智度論巻4」に、之を釈して、「問うて曰く、何等をか、菩提と名づくる。何等をか、薩埵と名づくる。答えて曰く、菩提を、諸の仏道と名づけ、薩埵を、或いは衆生、或いは大心と名づく。是の人は、諸の仏道の功徳を、尽く得んと欲し、其の心の断ずべからず、破すべからざること、金剛山の如し。是れを大心と名づく。(中略)復た次ぎに、好法を称讃するを、名づけて薩と為し、好法の体相を、名づけて埵と為す。菩薩の心は、自ら利し、他を利するが故に、一切の衆生を度するが故に、一切の法の実性を知るが故に、阿耨多羅三藐三菩提の道を行ずるが故に、一切の賢聖の称讃する所と為すが故に、是れを菩提薩埵と名づく。所以は何んとなれば、一切の諸法中、仏法は第一なり。是の人は、是の法を取らんと欲するが故に、賢聖の讃歎する所と為ればなり。」と言うが如く、之を要するに菩薩とは阿耨多羅三藐三菩提を目指して、ひたすら道を行く人の意であり、常に六波羅蜜を行じて退かざる人をいうのである。
7.1 菩薩の功徳
「功徳guNa」とは、 特性、能力等の義、即ち美徳、或いは善を施す力の意である。
此の中には、菩薩の功徳として、まず三種を挙げる、謂わゆる一に陀羅尼門、二に三摩地門、三に無礙妙辯である。
先づ此等から見てゆくことにしよう、――
7.1.1 陀羅尼門とは何か?
「陀羅尼dhaaraNii」とは、 一般には、神秘的韻文、或いは呪文を指し、苦痛、怒り、不安等をやわらげる為に用いられるのであるが、本来、此の語は「持す」、又は「保つ」の義なる語根dhRより来たれる名詞にして、能く総摂して憶持するの義であるが故に、一種の記憶術の意を有する語として用いられ、口に阿aと言って、阿から始まる種種の語、譬えば阿提阿耨波陀aady-
anutpannataa(本来無生の意)を連想するが如く、呪文の如きを唱えることを以って、種種の連想を生じ、それに由って聞法を記憶することを云うのである。
されば、菩薩の功徳中、何を以っての故に、此の陀羅尼門を第一に挙げるのであろうか?
「大智度論巻4」に、「復た次ぎに、有る人の言わく、初めて発心するに、願を作さく、我れ当に仏と作りて、一切の衆生を度すべし、と。是れより已来を、菩提薩埵と名づくと」と云うが如く、菩薩は最初に、我れ仏と作って、一切の衆生を度せんと大誓願を立て、是れ以後を菩薩と称するのであるが、世世生を受ける毎に忘失していたのでは、せっかくの大誓願が無駄になる、是を以っての故に、此の陀羅尼門を第一最初に説くのである。
7.1.2 三摩地門とは何か?
「三摩地samaadhi」とは、 又三昧にも作り、「定」と訳す。即ち心を一境に定めて動じさせないことをいう。
では、是の三摩地を第二に説くのはなぜだろうか?
凡そ二種の三摩地を考えれば、十分であろう。謂わゆる不退と、及び空無相無作の三三昧である。
二種の三摩地/三昧を、下表に示す、――
1 |
不退/
阿鞞跋致 |
阿耨多羅三藐三菩提を得る為に、一心に精進して、諸の善法を集めること |
2 |
三三昧 |
1 |
空三昧 |
我が身心は空であると観ること |
2 |
無相三昧/
無想三昧 |
我が身心は空なるが故に、見聞する所の一切の男女、生住滅等の相も亦た無いと観ること |
3 |
無作三昧/
無願三昧 |
我が身心は空なるが故に作業(所願)無しと観ること |
「大智度論巻4」に、「復た次ぎに、若し菩薩、一法を好修好念すれば、是れを阿鞞跋致の菩薩と名づく。何等か一法なる、常に一心に諸の善法を集むること、諸仏は一心に諸の善法を集むるが故に、阿耨多羅三藐三菩提を得と説くが如し。復た次ぎに、有る菩薩は、一法を得るに、是れ阿鞞跋致の相なり。何等か一法なる、正直に精進すること、仏の阿難に説くが如し、阿難、汝は精進を説きたるやと。是の如し世尊。阿難、汝は、精進を説きたるやと。是の如し善逝。阿難、常に行じ、常に修め、常に念ずること、精進すれば、乃至人をして、阿耨多羅三藐三菩提を得しめんと」と云うが如く、菩薩は一心に阿耨多羅三藐三菩提を求めるが故に、菩薩の名を得るのであり、故に菩薩の最も恐るる所とは、心が阿耨多羅三藐三菩提より退することなのである。そこで世世生生に心が阿耨多羅三藐三菩提より退かない菩薩を阿鞞跋致avinivartaniiya(即ち退却しない、逃亡しないの義)と呼ぶのであるが、是れも亦た一種の三摩地なのであり、是の故に三摩地を第二に説くのである。
又「大智度論巻5」に、「諸の三昧とは、三三昧の空、無作、無相なり。有る人の言わく、五陰の無我、無我所なるを観る、是れを名づけて空と為す。是の空三昧に住して、後世の為の故の、三毒を起さざる、是れを無作と名づく。縁の、十相を離るるが故に、五塵、男女、生住滅の故に、是れを無相と名づくと。(中略)問うて曰く、種種の禅定の法有り。何を以っての故にか、独り、此の三三昧のみを称する。答えて曰く、是の三三昧中に思惟すれば、涅槃に近づくが故に、人心をして、高からず、下からず、平等にして、動ぜざらしむ。余の処は爾らず。是を以っての故に、独り是の三三昧のみを称す」と云うが如く、菩薩は常に自らの身心を空と為して、六波羅蜜を行ずるが故に、是の故に是の三三昧を第二に説くのである。
7.1.3 無礙妙辯とは何か?
法を説くに当って、辯説巧妙にして、無礙なることをいう。
是れは即ち前に説いた四無礙智と同じものである。
菩薩の求める阿耨多羅三藐三菩提とは、謂わゆる衆生を浄めて、浄土を得ることであり、故に一個人に於いて可能の範囲であるはずがない。法を説いて10人を道に入れるとすれば、その10人が復た各10人を道に入れ、復たその各が10人を道に入れ、是の如く一切の衆生を道に入れるのであるから、当然法を説くに当って、無礙の辯才こそ得まほしきものとしなくてはならない。即ち第三に説く理由である。
7.1.4 宣説正法とは何か?
菩薩とは、身を三三昧中に安住して、六波羅蜜を行うことを以って、菩薩の義と為すのであり、これが正法である、他に何があろうか?
経には、「如是上首有八百万大菩薩衆前後囲遶宣説正法初中後善文義巧妙純一円満清白梵行」と云い、宣説正法の主語を、卒(にわ)かには誰とも言いがたいが、上首のみを宣説の主語と為すの道理がなく、語順から言っても、大菩薩衆を主語と為すべきであろう。
7.1.5 初中後善とは何か?
説法に当りて、初には、強く人心を引いて、法に向わしむるに妙功あるを、「初善」と称し、 中頃には、随意に人を憂喜せしめて、妙法中に深入せしむるを、「中善」と称し、 説法を竟るに当りて、印象深く、法旨をして善く清浄心中に定着せしむるを、「後善」と称するのである。
それを下表に示す、――
1 |
説法 |
初善 |
初めに人心を強く引きつけて、妙法に心を向わせる |
2 |
中善 |
随意に人を憂喜せしめて、妙法中に入らせる |
3 |
後善 |
印象深く終り、法旨を清浄心中に定着させる |
又「大智度論巻49」には、「菩薩在家なれば、多く財を以って施し、出家なれば仏を愛する情重くして、常に法を以って施し、若しは仏の在世、若しは在世にあらざるに、善く戒に住持して、名利を求めず、等心もて一切の衆生の為に法を説き、檀の義を讃歎す、故に名づけて初善と為し、持戒を分別して讃歎するを、名づけて中善と為し、是の二法の果報は、若しは諸の仏国に生じ、若しは大天と作るを名づけて、後善と為す。」と云い、又その連文に「三界五受衆の身には苦悩多ければ、則ち厭離心を生ずるを、名づけて初善と為し、居家を棄捨して身離れんが為の故に、名づけて中善と為し、心の煩悩を離れんが為の故に、名づけて後善と為す。声聞乗を解説するを、名づけて初善と為し、辟支仏乗を説くを、名づけて中善と為し、大乗を宣暢するを、名づけて後善と為す」と云うも今は取らない。
7.1.6 文義巧妙とは何か?
説法に当って、その文句も、意味も工夫が凝らされて、絶妙であることをいう。
「大智度論巻49」に、「妙義、好語とは、三種の語あり、復た辞は妙なりと雖も、義味浅薄なる。義理深妙なりと雖も、辞具足せず。是を以っての故に妙義、好語と説く。」と説くが如く、文句と意味とが共に充実していることを云う。
7.1.7 純一円満とは何か?
説法に当って、純ら大小の仏教を説き、外道の教を雑えず、正法を説いて欠けたる所のないことをいう。
「大智度論巻49」に、「八聖道分、六波羅蜜備わるが故に、名づけて具足と為す」と云うが如し。
7.1.8 清白梵行とは何か?
「清白梵行paryavadaata」とは、即ち、「大智度論巻49」に、「三毒の垢を離るるが故に、但だ正法を説いて、非法を雑えず。是れを清浄と名づく」と云うが如く、ここでは説法に当って、純ら貪欲、瞋恚、愚癡の三毒の垢を離れることを説き、正法のみを説いて、非法を雑えないことをいう。
7.2 菩薩の名前とは何か?
菩薩の上首として、此の中には次の八人の名を挙げる、
1 |
金剛手
vajira- paaNi |
金剛vajira(即ち電戟、いかづち)を手に執るの意。因陀羅indra(即ち帝釈天zakya- devendra)の異名と為すが如く、純ら仏法守護を、その功徳とする |
2 |
観自在
avalokitezvara |
世間を自在に観るの意。世界を遍く観て、衆生を自在に救済するを、その功徳となす |
3 |
虚空蔵
aakaaza- garbha |
虚空を蔵と為すの意。其の世間の財宝、及び出世間の法宝を蔵すること、虚空の如く無尽なるを、その功徳となす |
4 |
金剛拳
vajira- muSTi |
金剛vajiraを拳中に執るの意。金剛手と同じく因陀羅indraの異名となす |
5 |
妙吉祥/
文殊師利
maJju-zrii |
美妙なる吉祥の意。般若の智慧を以って、その功徳となす |
6 |
大空蔵
mahaa- zuunyataa- garbha |
前の虚空蔵と同様の功徳を有するものとなせばよいだろう |
7 |
発心即転法輪
saha- cittotpaada- dharmacakra- pravartin |
発心して直ちに法輪を転ずるの意。 |
8 |
摧伏一切魔怨
sarva- maara- pramardin |
一切の魔を屈伏するの意。 |
但し、此等の菩薩は皆、歴史上実在せる者となすべきではない。即ち経中に現われたる菩薩は、一種のシンボルであり、それに菩薩的な功徳を以って名づけたるものであるが故に、謂わゆる特定の人格を有すとなすべきではない。
7.3 再び、菩薩とは何か?
上記を以って、菩薩とは何か?と再び問うてみると、凡そ経中に説く所の「菩薩」とは、 一個の個人に付する為の称号ではなく、三三昧の空中に身を置いて、六波羅蜜を行じ、一切の衆生を救わんと欲する者の、その時の状態を名づけて、 「菩薩」と為すと知るのである。
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