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1.讃薄伽梵品

1.序

本経は、大般若経600巻中、第578所収の経典であり、その大般若経中の名を第十般若理趣分と称する。

古来、大般若経は大乗仏教の神髄を示すものとして、非常に珍重されてきたにもかかわらず、その600巻はやはり広大に過ぎ、読み通すだけでも大困難をともなうので、況んや理解するをやというわけで、研究は大品27巻、或いは小品10巻、それも多過ぎると思えば金剛般若経1巻ぐらいに限るものであって、大般若経に関しては転読を以って済ますのが、その通例である。

転読とは、恐らく大般若経に限った所であるが、6人ほどの役僧と一人の導師が一堂に会して、折り本に装丁された経典中の一巻を手にすると表紙を開き、声を張り上げて、「大般若波羅蜜多経巻第某、唐の三蔵法師玄奘、奉詔訳」と、先づその経題を読み上げ、次いで初の、「如是我聞、一時薄伽梵、住王舎城鷲峰山頂、与大苾芻衆千二百五十人俱、」ぐらいまでの一節を読むと、やおら両手で経巻を頭上高く持ちあげて、少し開きぎみにし、片手を下に降ろしながら、滝のようにパラパラと経紙を流して落し、これが端まできて尽きると、上の手を下に降ろして、経巻を閉じ、又頭上に挙げて、手の上下を先ほどと逆にして、またパラパラやり、これを数度繰り返しながら、その間中、「揭諦、揭諦、波羅揭諦、波羅僧揭諦、菩提薩婆訶」と、心経の陀羅尼を繰り返し唱え、最後に経典の最終頁を開いて押頂くと、「降伏一切大魔、最勝成就」と一段と声を張り上げたところで、1巻を読み終えたことにして、凡そ一人当り、100巻を担当すると、30~40分ほどで600巻を読み終えたことになるのであるが、導師は、この間中、役僧とは事を別にしており、もっぱら高座上に於いて、この理趣分を読み通すのである

それは、この1巻が、他の599巻を合せたものと、則ち同等であると認めることを意味するものであろうと思われるが、その実はさておき、非常に示唆に富むところであるとは言わねばなるまい。

ことほどさように、重要な経典であるがためか、仏家にては、それに霊験の極めてあらたかなることを認めるに至り、その霊験を畏れて、敢て軽々しく研究することを慎んできたようにも思われる。しかしつらつら慮るに、これは密教に非ず、顕教である。仏が凡夫にも易く理解できるよう、通常の言葉で語られた内容である。敢て秘密にする必要がどこにあろう。経とは、実に紙の上の文字にして墨の濃淡、声に出す所の音の抑揚に過ぎず、その意義は読誦する者の心中に生ずるものである。善経は、則ち心に善を生じ、悪経は心に悪を生ずる所、設い霊験あらたかなろうとも、至誠の心を以って研究すれば、何ぞ敢てやぶさかなるを要せんや。

前には慎んで、略して訳せし所を、今更に蛮勇を奮い起して審らかにせんと欲する所以は、凡そ以上のような事である。

1.1 理趣分の講義と題する理由

礼記に依れば、「玉琢(みが)かざれば、器を成さず、人学ばざれば、道を知らず、是の故に古の王は、国を建て、民に君たるに、教学を先と為す。兌(説)命に曰わく、終始、学を典(つね)とせんことを念ずと。其れ此の謂なり。嘉肴有りと雖も、食わざれば其の旨きを知らざるなり。至道有りと雖も、学ばざれば、其の善なるを知らざるなり。是の故に学びて、然る後に足らざるを知り、教えて、然る後に困(くる)しむを知る。足らざるを知りて、然る後に能く自ら反りみるなり。困しむを知りて、然る後に能く自ら強うるなり。故に曰わく、教学相長ずるなりと。兌命に曰わく、斅(おし)うるは、学ぶの半ばなりと。其れ此の謂なるか。」と曰いて、難しさというものは、教えて始めて解るし、教えるとは、半分は学ぶことであると云っている。

前回、略して訳した時には、さほど困難とも思わなかったのであるが、今回訳してみると、訳業自体には、さして不審を感じなかったにもかかわらず、全体としては、今ひとつ納得の行く所ではないと感ずるにより、人に教えるほどの自信なきが故に、敢て講義と題し、人に教えながら、その中に於いて学ぼうということである。

人の誤解を避けんが為に、敢て自高するが故に、講義と題するに非ざることを陳べた。

1.2 参考にすべき文献

本経の註釈書としては、大蔵経中には唯だ窺基の「大般若波羅蜜多経般若理趣分述讃3巻(以後述讃)」を存するのみであるが、窺基は「大般若波羅蜜多経」の訳者大唐三蔵法師玄奘に師事して、其の器たるを認められ、亦唯識の大家として「説無垢称経賛6巻」、「勝鬘経述記2巻」、「阿弥陀経通賛3巻」、「観弥勒上生経疏2巻」、「金剛経賛述2巻」、「般若心経幽賛2巻」、「大般若波羅蜜多経般若理趣分述讃3巻」、「法華経玄賛10巻」、「金剛般若経論会釈3巻」、「雑集論述記10巻」、「辯中辺論述記3巻」、「瑜伽論略纂16巻」、「百法明門解2巻」、「成唯識論料簡2巻」、「同論述記20巻」、「同論別抄10巻」、「同論枢要4巻」、「唯識二十論述記2巻」、「因明入正理論疏6巻」、「大乗法苑義林章14巻」、「阿弥陀経疏」、「法華経為為章」、「瑜伽論劫章頌」、「百法明門論註」、「同論贅言」、「異部宗輪論述記」、「西方要決釈疑通規」(以上現存)、「維摩略賛7巻」、「金剛般若経玄記10巻」、「心経略賛7巻」、「唯識開発2巻」、「摂大乗論鈔10巻」、「対法論鈔7巻」、「倶舎論鈔10巻」、「弥勒下生成仏経疏」、「維摩経疏」、「薬師経疏」、「六門陀羅尼経疏」、「法華要略」、「同科文」、「同音訓」、「百法論玄賛」、「観所縁縁論疏」、「因明入正理論過類疏」、「勝宗十句義章」、「二十七賢章」、「顕揚論疏」(以上散佚)等を著わす等、是の経の注釈者として十分な資格を有する人であり、此の「述讃」に於いては一句一字の義釈に徹するが故に、「理趣分」を理解せんとするに於いては、決して無視して通ることのできない所であり、一度は目を通さなくてはならない所でもあるが、然るに、唯識家の例として一切は識の所造と為し、識に執するが故に言多しと雖も、頗る事の軽重に違背し、故に自ら真妄の迷路に惑い、遂に人を誘いて邪見の網に入らしむ。是れは般若所説の一切の法に執する者は、それが正法、邪法を問わず、是れを、皆、戯論と為すという簡明の主旨に反するものであり、此の中に於いても、屡々参照すと雖も、敢て純ら依る所と為さざる所以である。

「大智度論100巻」は、般若経典のみならず、大乗全体の註釈書にして、一般に之を離れては一切の経典を説くべからずと為す。故に此の中には、純ら常に之に依ること、譬えば魚の水に依りて住し、鳥の空に依りて飛ぶが如しと為すと雖も、敢て不思議となすべからず。



2.般若理趣の意味。

「般若理趣prajJaa-paaramitaa-naya」中、 「理趣naya」とは軍隊の指揮、指導、統率、或いは智慧等の義を有する語であるので、即ち世間の分別を離れた智慧の彼岸に至る為の道案内の意を取り、又趣には目的地にまっしぐらに駆け付けるの義を有するが故に、かく訳したものと思われる。

又般若波羅蜜を大道に喩えて、智度の大道は仏従って来たまえりとは大智度論巻1の説く所であるが、この般若理趣も又智度の大道に他ならない、この道を行けば、道中安全無事にして、しかも目的地である大安楽の浄土に行き着き、念願の阿耨多羅三藐三菩提を得るからである。

1:此の中の梵語は多く以下の辞書に依る、――
「Digital Dictionary of Buddhism」、
「Monier-Williams Sanskrit-English Dictionary」
2:梵語のromanizeは「Harvard-Kyoto法」に依る。
3:「harvard-Kyoto法」に於いて一般的である「A」、「I」、「U」、「R」、「L」を用いず、代わりに「aa」、「ii」、「uu」、「rr」、「ll」を用いた。


2.1 般若波羅蜜の意味。

「般若波羅蜜prajJaa-paaramitaa」とは、 世間の分別を離れて智慧の彼岸たる一切智に到るの意であるが、更に詳しく見てみると、大智度論巻43には、「凡夫の人は復た欲を離るると雖も、吾我の心ありて離欲の法に著す。故に般若波羅蜜を楽(ねが)わず。声聞辟支仏は般若波羅蜜を欲楽すと雖も、深慈悲なきが故に大いに世間を厭い、一心に涅槃に向う。是の故に具足して般若波羅蜜を得ること能わず。是の般若波羅蜜は成仏の時、転じて一切種智と名づく。是を以っての故に般若は仏に属せず、声聞辟支仏に属せず、凡夫に属せず、但だ菩薩にのみ属す」と云い、優婆塞戒経巻7般若波羅蜜品には、「是れ智慧にして波羅蜜に非ずとは、所謂一切世間の智慧、声聞縁覚所行の智慧なり。是れ波羅蜜にして智慧に非ずとは是の義あることなし。是れ智慧にして是れ波羅蜜なりとは、所謂一切の六波羅蜜なり。智慧に非ず、波羅蜜に非ずとは、所謂一切の声聞縁覚の施戒精進なり」と云うを以って、その意味のあらましを知ることができる。

上に説く中、「六波羅蜜」とは、 所謂布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の六種の波羅蜜であるが、その実、一種の般若波羅蜜に於ける、六種の相に他ならず、皆大安楽の浄土建立の為の智慧に他ならない。即ち般若の智慧には、必ず布施が有り、持戒が有り、忍辱が有り、精進、禅定、智慧が有るのであって、六種中に一を欠いてはならないのである。

2.2 六波羅蜜とは何か?

大般若経巻3、及び巻402に、「仏の具寿舎利子に告げて言わく、諸の菩薩摩訶薩は応に無住を以って方便と為し、般若波羅蜜に安住すべし、所住、能住の不可得なるが故に。応に無捨を以って方便と為し、布施波羅蜜多を円満すべし、施者、受者、及び所施の物の不可得なるが故に。応に無護を以って方便と為し、浄戒波羅蜜多を円満すべし、犯と無犯の相の不可得なるが故に。応に無取を以って方便と為し、安忍波羅蜜多を円満すべし、動と不動の相の不可得なるが故に。応に無勤を以って方便と為し、精進波羅蜜多を円満すべし、身心の勤、怠の不可得なるが故に。応に無思を以って方便と為し、静慮波羅蜜多を円満すべし、有味と無味との不可得なるが故に。応に無著を以って方便と為し、般若波羅蜜多を円満すべし、諸法の性、相の不可得なるが故に」と云うに依り、六波羅蜜の相を知ることができるのであるが、即ち諸法の空なることを以ってすれば、我、人、身心を分別して知ることができないからであり、是の故に、上に説くが如き、相を現わすのである。

六波羅蜜の内訳、――
梵語 新訳 旧訳
1 檀/檀那波羅蜜
daana
布施波羅蜜多 布施波羅蜜
2 尸羅波羅蜜
ziila
浄戒波羅蜜多 持戒波羅蜜
3 羼提波羅蜜
kSaanti
安忍波羅蜜多 忍辱波羅蜜
4 毘梨耶波羅蜜
viirya
精進波羅蜜多 精進波羅蜜
5 禅/褝那波羅蜜
dhyaana
静慮波羅蜜多 禅定波羅蜜
6 般若波羅蜜
prajJaa
般若波羅蜜多 般若波羅蜜

以下に、その詳細を示す。


2.2.1 布施波羅蜜多とは何か?

「布施波羅蜜多(檀daana波羅蜜)」とは、 布施の河を渡って、彼岸の浄土に趣くことをいう。即ち空中には布施することなど無いという法を以って、布施する。故に布施波羅蜜多を具足するのである。何故ならば、空中には、施す者も、施しを受ける者も、施す所の物も分別して得る所がないからである。

2.2.2 浄戒波羅蜜多とは何か?

「浄戒波羅蜜多(尸羅ziila波羅蜜)」とは、 持戒の河を渡って、彼岸の浄土に趣くことをいう。即ち空中には持戒して自らを護るということが無いという法を以って、持戒する。故に浄戒波羅蜜多を具足するのである。何故ならば空中には犯戒も、不犯戒も分別して得る所がないからである。但し空中には持戒、犯戒の差別なしとして、若し戒を軽んずるならば、即ち是れ空に著せる邪見に堕すと為すを忘れてはならない。

2.2.3 安忍波羅蜜多とは何か?

「安忍波羅蜜多(羼提kSaanti波羅蜜)」とは、 忍辱の河を渡って、彼岸の浄土に趣くことをいう。即ち空中には辱めを受けるということが無いという法を以って、辱めを忍ぶ。故に安忍波羅蜜多を具足するのである。何故ならば空中には心が動くことも、動かないことも分別して得る所がないからである。

2.2.4 精進波羅蜜多とは何か?

「精進波羅蜜多(毘梨耶viirya波羅蜜)」とは、 精進の河を渡って、彼岸の浄土に趣くことをいう。即ち空中には励み勤めるということが無いという法を以って、精進する。故に精進波羅蜜多を具足するのである。何故ならば空中には勤めたり、怠ったりすることについて分別して得る所がないからである。

2.2.5 静慮波羅蜜多とは何か?

「静慮波羅蜜多(禅dhyaana波羅蜜)」とは、 慮りを静め、戯論の河を渡って、彼岸の浄土に趣くことをいう。即ち空中には思い患うべき法が無いという法を以って、慮りを静める。故に静慮波羅蜜多を具足するのである。何故ならば空中には静慮の功徳に味著したり、味著しなかったりすることについて分別して得る所がないからである。

2.2.6 般若波羅蜜多とは何か?

「般若波羅蜜多(般若prajJaa波羅蜜)」とは、 俗智の河を渡って、彼岸の浄土に趣くことをいう。即ち空中には取著することが無いという法を以って、他の五波羅蜜を行う。故に般若波羅蜜を具足するのである。何故ならば、諸法の空中には、性も相も分別して得る所がないからである。故に若し、般若波羅蜜とは、即ち是れ無分別の智であるとか、或いは不可得空の智である等を説いて、般若波羅蜜の名義を詮ずるようなことをすれば、是れ亦た謬見に堕すことは言うまでもない。

2.3 再び般若波羅蜜多とは何か?

以上に依って、次の事を知ることになる、――
「般若波羅蜜」とは、 謂わゆる大慈悲を体となし、平等samataaを性となすと。即ち菩薩心中の大慈悲は、一切の衆生中に於いて傾くことなく、常に平衡を保っているのであるが、是れを等心sama-cittaと称し、又空と称し、又般若波羅蜜と称するのである。菩薩心中の大慈悲は、一切の衆生に於いて、彼れと此れとを分別せず、我れと彼れとを分別せず、常に等しく認めるが故に、以って是れを般若波羅蜜と称し、菩薩の一切の行動は、此の般若波羅蜜を根本として行われるのである。亦た一切の法中に於いても是の通りである。


3.如是我聞一時の意味

「是の如く、わたしは聞いた」、―― 経の最初が、常にこの言葉を以って始まるのは、単なる慣例に過ぎないとしても、まったく無意味なこととして切って捨てるべきではない。寧ろ仏法に於ける考え方の一端に触れるチャンスを逃すことになるだろう。大智度論に、この辺を詳しく説いているので、その中の少分を引用して、その概略を説明しよう。

3.1 是の如くの意味

大智度論巻1に、「問うて曰わく、諸仏の経は、何を以っての故にか、初めに是の如くの語を称するや。答えて曰わく、仏法の大海は信を能入と為し、智を能度と為す。是の如くの義とは、即ち是れ信なり。若し人、心中に信有りて清浄なれば、是の人は、能く仏法に入るも、若し信無ければ、是の人は仏法に入ること能わず。不信の者は、是の事は是の如くならずと言う、是れ不信の相なり。信ずる者は、是の事は是の如しと言う。(中略)仏の言わく、若し人に信有らば、是の人は能く我が大法の海中に入り、能く沙門果を得て空しからざらん。剃頭し袈裟を染むとも、若し信無くんば、是の人は、我が法の海中に入ること能わず、枯樹に華実を生ぜざるが如く、沙門果を得ざらん、剃頭、染衣し、種種の経を読み、能く難じ、能く答うと雖も、仏法中に於いては、空しくして、所得無けんと。是を以っての故に、是の如しの義は、仏法の初に在り、善信の相なるが故なり」と云うに依れば、経の初に「是の如く」と在るのは、それが善信の相であるからである。

阿難尊者は、経の結集に当り、曽て親しく仏の口より聞き知る所の諸の事柄を、今に至るまで、深く信じていると図らずも告白したが故に、思わず口をついて出た言葉、――それが「是の如し」の意味である。

3.1.1 信の意味

大智度論に依れば、「信を、能入と為す」として、信を、信頼のおける水先案内人の如しと説いているが、信を以って、仏道に入る最初の要門と為すのは、仏法に於ける通例である。

仏法では、仏道を成就するに欠くべからざる五要素として、五種の根本を立てて五根と称するが、所謂信根、精進根、念根、定根、慧根の次第を有するのである。

  五   根
1 信根 信ずることから始まる
2 精進根 たゆまず研究する
3 念根 常に思う
4 定根 心が定まる
5 慧根 智慧となる


人は学門をする時、師に依って教を受けるわけであるが、若し初から、「この先生の言うことは、本当だろうか?嘘じゃなかろうか?」と疑ってかかれば、師の説く所を、受け入れることができず、その教は身につかないことになる。故に最初に信根が在る、次に聞いただけで、満足し、心が別に移ってしまえば、教を深めることはできないので、精進根を第二とし、次いで心の中で、自問自答を繰り返し、心より離さないが故に、念根を第三におき、正解が見えてくるに従って、心が定まるが故に、定根を第四とし、最後に智慧として、獲得するが故に、慧根を以って、第五とするのである。

即ち、信は入門すべき第一の門であるが、しかし第三の念根に至って、繰り返して自問自答するが故に、妄信の弊に堕せざることを知る。仏教に妄信はないのである。


3.2 我れの意味

大智度論巻1に、「問うて曰わく、若し仏法中に、一切法は空にして、一切に吾我無しと言わば、云何が仏の経の初に、是の如く我れ聞けりと言う。答えて曰わく、仏弟子の輩は、無我を知ると雖も、俗法に随って説き、我は実我に非ざるなり。(中略)世界法中には我を説くも、第一義中に説くに非ず。是を以っての故に、諸法は空、無我なるに、世界法の故に我を説くと雖も、咎無し。(中略)復た次ぎに、若し人、吾我の相に著して、「是れは実なり、余は妄語なり」と言わば、是の人こそ、応に、「汝、一切法の実相は、無我なるに、云何が、是の如く我れ聞けりと言う」と難ずべし。今、諸仏の弟子は、一切法は空にして、有する所無きに、是の中にも、心は著せず。亦た諸法の実相に著すとも言わざるに、何に況んや、無我の法中に心著するをや。是を以っての故に、応に難じて、「何を以ってか、我れと説く」と言うべからず」と云うに依り、凡そ次の三点に就いて知ることができる。

3.2.1 俗人のために

仏法中には、通例、一切法は空、無我であると解するが、俗人の為には、「我れ」と説くこともある。

3.2.2 世界法と第一義、二種の真実

仏法には、世界法と第一義との別があり、世界法の中には、我を説くが、第一義中には我を説かない。世界法と第一義とは、≪3.3 四悉檀≫で説明する。

3.2.3 仏弟子は空を知って、著さない

諸仏の弟子は、一切法は空であり、有する所が無いと知るが、その法に心が著することも無い。故に我にも、無我にも著さないのである。


3.3 四悉檀

悉檀siddhaantaは成就と訳し、即ち仏が法を説いて衆生を成就するに四種の別あることをいう。

1 世界悉檀 世間の知識に随順して説く
2 各各為人悉檀 人の性質に応じて説く
3 対治悉檀 人の病む所に応じて説く
4 第一義悉檀 戯論無き般若波羅蜜を説く

以下に、その詳細を示す。


3.3.1 世界悉檀

大智度論巻1に、「世界とは、有る法は、因縁の和合によるが故に有りて、別の性無し。譬えば車の轅、軸、輻、輞等の和合の故に有りて、別の車無きが如し。人も亦た是の如く、五衆の和合の故に有りて、別の人無し。若し世界悉檀無くんば、仏は是れ実語の人なるに、云何が、我れは、清浄の天眼を以って、諸の衆生を見るに、善悪の業に随いて、此に死して彼に生じ、果報を受く。善業の者は天、人中に生じ、悪業の者は三悪道に堕すと言う」と云うに依り、世間に随順するが為に、「因縁和合の故に、我れも、人も有る」と説くものを、世界悉檀と称するのである。

3.3.2 各各為人悉檀

大智度論巻1に、「云何が各各為人悉檀なるとは、人の心行を観て、為に法を説き、一事中に於いても、或いは聴(ゆる)し、或は聴さず。経中に説く所の如し、「雑報の業の故に、世間に雑生し、雑触、雑受を受く」と。更に破群那経中に説く有り、「人の触を得る無く、人の受を得る無し」と。問うて曰わく、此の二経は、云何が通ずる。答えて曰く、有る人は、後世を疑いて、罪福を信ぜず、不善行を作して、断滅見に堕つるを以って、彼の疑を断じて、彼の悪行を捨てしめんと欲し、彼の断見を抜かんと欲す。是の故に、「世間に雑生して、雑触、雑受す」と説く。是の破群那は、我有り、神有りと計し、計常中に堕つ。破群那の仏に問うて言わく、「大徳、誰か受くる」と。若し仏、「某甲、某甲受く」と説きたまわば、便ち計常中に堕ち、其の人の我見は倍して復た牢固となり、移転すべからず。是を以っての故に、「受者、触者有り」と説きたまわず。是れ等の如き相は、是れを各各為人悉檀と名づく」と云うに依り、後世の罪福を信じずに、好んで悪を行ずる者には、後世に種種の生を受けて、種種の苦楽を受けると説き、後世の楽を受ける為に、好んで種種の苦行を行う者には、後世に往く、霊魂等の無いことを説くというように、人の応ずる所に随って、法を説くことを各各為人悉檀と称する。

3.3.3 対治悉檀

大智度論巻1に、「対治悉檀とは、有る法は、対治には則ち有り、実性には則ち無し。譬えば重、熱、膩、酢、鹹なる薬草、飲食等は、風病中には、名づけて薬と為し、余病に於いては薬に非ず。若し軽、冷、甘、苦、渋なる薬草、飲食等なれば、熱病に於いては、名づけて薬と為すも、余病に於いては薬に非ず。若し軽、辛、苦、渋、熱なる薬草、飲食等なれば、冷病中に於いては、名づけて薬と為すも、余病に於いては、薬に非ざるが如し。仏法中に心病を治すも、亦た是の如く、不浄観の思惟は、貪欲病中に於いては、名づけて善き対治法と為すも、瞋恚病中に於いては、名づけて善と為さず、対治法に非ず。所以は何んとなれば、身の過失を観るを、不浄観と名づけ、若し瞋恚の人、過失を観れば、則ち瞋恚の火を増益するが故なり。慈心を思惟するは、瞋恚病中に於いては、名づけて善き対治法と為すも、貪欲病中に於いては、名づけて善と為さず、対治法に非ず。所以は何んとなれば、慈心は衆生中に於いて、好事を求めて、功徳を観ればなり。若し貪欲の人、好事を求めて功徳を観れば、則ち貪欲を増益するが故なり。因縁の観法は、愚癡病中に於いては、名づけて善き対治法と為すも、貪欲、瞋恚病中に於いては、名づけて善と為さず、対治法に非ず。所以は何んとなれば、先に邪観するが故に、邪見を生ず、邪見とは、即ち是れ愚癡なればなり。」と云うに依り、人の種種の病に応じて、法を説くことを対治悉檀と称するのであるが、是れに由りて仏の法は、或いは薬と為り、或いは毒とも為ると知ることができる。

3.3.4 第一義悉檀

大智度論巻1に、「第一義悉檀とは、一切の法性、一切の論議語言、一切の是法非法は、一一分別して、破散すべし。諸の仏、辟支仏、阿羅漢の行ずる所の、真実の法は、破すべからず散ずるべからず。上の三悉檀中に於いて通ぜざる所も、此の中には皆通ず。問うて曰わく、云何が通ずる。答えて曰く、謂わゆる通ずとは、一切の過失を離れ、変易すべからず、勝つべからず。何を以っての故に、第一義悉檀を除きて、諸余の論議、諸余の悉檀は、皆破すべきが故なり。衆義経中に説く所の偈の如し、「各各自らの見に依り、戯論して諍競を起こし、若し能く彼れの非を知らば、是れを正見を知ると為す。肯て他法を受けざる、是れ愚癡の人と名づけ、是れと論議を作す者は、真に是れ愚癡の人なり。若し自ら是とする見に依りて、諸の戯論を生ずるに、若し此れは是れ浄智ならば、浄智に非ざる者無けん」と云うに依り、自らの見解を是とし、他の見解を非として、他の見解を受けない者を愚癡の人と為し、是れと論義を作す者を真の愚癡の人と為す、これを第一義悉檀と称するが、即ち是れは般若波羅蜜に他ならないのである。


3.4 聞、一、時

大智度論巻1には、"聞"、"一"、"時"を説くが、≪3.2 我れ≫に略ぼ順ずるものであるが故に、ここには解説しない。



4. 薄伽梵の意味

「梵語bhagavat」は、 世尊と訳す。衆徳を具して世に尊重恭敬される者の意。即ち仏の尊称である。大智度論巻2に、「釈して曰く、云何が、婆伽婆bhagavatと名づくる。婆伽婆とは、婆伽bhagaを「徳」と言い、婆vatを「有り」と言い、是れを「有徳」と名づく。復た次ぎに、婆伽bhagaを分別と名づけ、婆vatを巧と名づけ、巧みに諸法の総相、別相を分別するが故に、婆伽婆と名づく。復た次ぎに、婆伽bhagaを名声と名づけ、婆vatを有と名づけ、是れを名声有りと名づく。名声を得るに、仏に如く者の有ること無く、転輪聖王、釈梵護世なる者も、仏に及ぶものの有ること無し。何に況んや、諸余の凡庶なるをや。(中略)復た次ぎに、婆伽bhagnaを破と名づけ、婆vatを能と名づく。是の人は、能く婬怒癡を破るが故に、称して婆伽婆と為す。(中略)問うて曰わく、婆伽婆は正に此の一名のみ有りや、更に余の名有りや。答えて曰く、仏は、功徳無量なれば、名号も亦た無量なり。此に名づくるに、其の大なるを取るは、人の多く識るを以っての故なり。復た異名有り、多陀阿伽陀等と名づく。」と云うに依れば、薄伽梵の語は「有徳」、「巧分別」、「有名声」、「能破」等の義を有するものであり、復た仏には、その無量の功徳に応じて、多陀阿伽陀等の無量の異名ありとする。即ち、下の表がそれである。


1 薄伽梵bhagavat 世尊
2 多陀阿伽陀tathaagata 如来
3 阿羅呵arhat 応供
4 三藐三仏陀
samyak- saMbuddha
正遍知
5 鞞侈遮羅那三般那
vidyaa- caraNa- saMpanna
明行具足
6 修伽陀sugata 好去好説
7 路迦憊lokavid 知世間
8 阿耨多羅anuttara 無上
9 富楼沙曇藐婆羅提
puruSa- damya(k)- saarathi
丈夫調御師
10 舍多提婆魔菟舍喃
zaastaa deva- manuSyaaNaam
天人教師
11 仏陀buddha 知者
12 阿娑摩asama 無等
13 阿娑摩娑摩asamasama 無等等
14 路迦那他lokanaatha 世尊
15 波羅伽paaramitaa 度彼岸
16 婆檀陀bhadanta 大徳
17 尸梨伽那zriguNa 厚徳
18 悉達多siddhaartha 成利


4.1 薄伽梵とは何か?

「薄伽梵」、 即ち仏とは何か? 大智度論巻1に、「爾の時菩薩、苦行の処を捨てて、菩提樹の下に到り、金剛処に坐す。魔王は十八億万衆を将いて来たり、菩薩を壊せんとす。菩薩は、智慧の功徳力を以って、魔衆を降し已り、即ち阿耨多羅三藐三菩提を得。是の時三千大千世界の主梵天王の尸棄と名づくると及び色界の諸天等、釈提桓因と及び欲界の諸天等、并びに四天王、皆仏所に詣りて、世尊に初の転法輪を勧請す。亦た是の菩薩は、本の所願及び大慈大悲を念ずるが故に、請を受けて法を説く」と云うが如く、菩薩は阿耨多羅三藐三菩提を得た時に、仏と為ったことを自覚するのであるが、ではその「阿耨多羅三藐三菩提anuttara- samyak- saMbodhi」とは何か? というと、 anuttara は最上、最高の義、 samyakは完全にの義、 saMbodhi は完全な認識の義であり、 通常samyaksaMbodhi を正覚と訳す。 故に阿耨多羅三藐三菩提とは、無上の正覚、この上ない覚りを指す言葉と知るのであるが、然しながら、この言葉からは、その覚りの内容までは伺い知ることはできないと、明記しなくてはならない。

4.2 阿耨多羅三藐三菩提とは何か?

「阿耨多羅三藐三菩提(無上等正覚)」には、小乗の阿耨多羅三藐三菩提と、大乗の阿耨多羅三藐三菩提との二種がある、
1 小乗 自ら空の理を悟って苦を脱れ、涅槃(寂静)に入ること
2 大乗 一切の衆生(生き物)が残らず幸福になり、一切の世界が平和になったと悟ること

4.2.1 小乗に於ける阿耨多羅三藐三菩提の相

増一阿含経巻41に、「舎利弗、当に知るべし、我れ昔未だ仏道を成ぜず、樹王の下に坐して、便ち是の念を作さく、此の衆生の類は、何法を剋獲せざるが為に、生死に流転して、解脱を得ざると。時に我れ復た是の念を作さく、空三昧を有すること無き者は、便ち生死に流浪して、意解脱に至るを得ず。此の空三昧有るも、但だ衆生は、未だ剋(よくせ)ず。衆生をして想を起さしめん。著の念は、世間の想を起すを以って、便ち生死の分を受くるも、若し是の空三昧を得ば、復た願う所無し、便ち無願三昧を得ん。無願三昧を得るを以って、此に死して彼に生ずるを求めず。都べて想念無き時には、彼の行者は、復た無想三昧有り。可得の娯楽は、此の衆生の類は、皆由りて三昧を得ず、故に生死に流浪すと。諸法を観察し已りて、便ち空三昧を得、已に空三昧を得て、便ち阿耨多羅三藐三菩提を得たり」と云うに依れば、空三昧、無願三昧、無想三昧の三三昧を得ることを以って、阿耨多羅三藐三菩提を得と為しているのであるが、小乗の主旨は、純ら人を救うことを目的とするが故に、苦の世界を解脱したる涅槃の境地を、阿耨多羅三藐三菩提と為すのである。

4.2.2 大乗に於ける阿耨多羅三藐三菩提の相

さて、菩薩が覚りを開いて、仏と成ったと自覚することを阿耨多羅三藐三菩提を得ると言うのだとすれば、小乗では個人の救済を目的とするが故に、空を以って、常楽我淨の顛倒を破り、所謂世間、或いは心は常でなく、無常である。諸受は楽でなく、苦である。色受想行識等の法中に我は無い。身は浄でなく、不浄であると念じて、ひたすら身心の寂滅を求めることを空三昧といい、この三昧を得ることが涅槃であると覚ることを以って、阿耨多羅三藐三菩提と為すのであるが、一方、大乗の菩薩は、大いに異なり、一切の衆生が、所謂有らゆる生き物が、一時に救済されることを以って目的とするのであるから、その大願が成就して初めて正覚を得て、仏と成るのである。

大品般若経巻1に、「我れ阿耨多羅三藐三菩提を得ん時、行住坐臥の処をして、悉く金剛為らしめんと欲せば、当に般若波羅蜜を学すべし。復た次ぎに舎利弗、菩薩摩訶薩は出家の日に即ち阿耨多羅三藐三菩提を成じ、即ち是の日に法輪を転じ、法輪を転ずる時に無量阿僧祇の衆生をして塵を遠ざけ、垢を離れて諸法中に法眼浄を得しめ、無量阿僧祇の衆生をして一切法を受けざるが故に、諸の漏心に解脱を得しめ、無量阿僧祇の衆生をして阿耨多羅三藐三菩提に於いて不退転を得しめんと欲せば、当に般若波羅蜜を学すべし。我れ阿耨多羅三藐三菩提を得ん時、無量阿僧祇の声聞を以って僧と為し、我れ一たび法を説かん時には、便ち座上に於いて尽くをして阿羅漢を得しめんと欲せば、当に般若波羅蜜を学すべし。我れ無量阿僧祇の菩薩摩訶薩を以って僧と為すに当り、我れ一たび法を説かん時、無量阿僧祇の菩薩をして、皆阿惟越致(不退)を得しめ、寿命無量、光明具足なることを得しめんと欲せば、当に般若波羅蜜を学すべし。我れ阿耨多羅三藐三菩提を成ぜん時、世界中に婬欲、瞋恚、愚癡を無く、亦た三毒の名すら無く、一切の衆生をして、是の如き智慧、善施、善戒、善定、善梵行、善不嬈衆生を成就せしめんと欲せば、当に般若波羅蜜を学すべし。我が般涅槃の後の法をして、滅尽無く、亦た滅尽の名すら無からしめんと欲せば、当に般若波羅蜜を学すべし。我れ阿耨多羅三藐三菩提を得ん時、十方の恒河沙に等しき如き衆生、我が名を聞かば、必ず阿耨多羅三藐三菩提を得んと、是の如き等の功徳を得んと欲せば、当に般若波羅蜜を学すべし」と云うに依り、阿耨多羅三藐三菩提を得たる時には、亦た同時に一切の衆生が成就して、国土が浄まることを知るはずである。

以上の理由を以って、無量寿経等に説く所の阿弥陀仏の如き、浄土建立の願の成就する時に得る所の絶対的無上の正覚を以って、大乗の阿耨多羅三藐三菩提と為すのであるが、それは菩薩が自ら六波羅蜜を行じ、又人に教えて行ぜしめ、幾世代も幾世代も能度と所度と人を代え、立場を替えて、無量劫を経る結果、阿耨多羅三藐三菩提を得るのであるから、即ち大乗とは個人の救済に非ず、是れ人類全体の救済を目的とし、引いては生物全体の救済を目的とするものであると知らねばならない。


4.3 大乗と小乗との関係

大乗の目的が社会的救済に在り、個人的救済にはないとしても、六波羅蜜の智慧中には空慧を含むが如く、小乗は大乗のサブセットとして大乗中に存在する。譬えば大乗の大海中に浮ぶ、四大洲の如きものが小乗なのである。故に大乗からは小乗を看見可能であるが、小乗から大乗は看見できない。即ち大乗と雖も、小乗的戒律を直ちに捨て去る訳にはいかないのである。



5. 薄伽梵の功徳

以下、「妙善成就」より、「無動無壊」までは仏の成就する所の功徳を説く。即ち、下表に示す通りである、――
1 一切の
如来の
金剛のように
住時する
平等性という
智の
種種の
希有にして
殊勝な
功徳を
妙に善く
成就する
2 潅頂する 宝冠を
善獲して
三界に
超過する
3 世界に
遍き
金剛/菩提心という
智を
善得して
世界を
大観して
自在である
4 諸法を
決定する
大妙智という
印を
円満して
得た
5 畢竟じて
空寂である
平等という
印を
善く
円証した
6 諸の
能作と
所作の
事業を
善く巧みに
余す所無く
成辦/具備した
7 一切の
有情/
衆生の
種種の
希願を
其れが
無罪ならば

満足させた
8 三世の
平等に
安住して
常に
断尽すること
無く、

広大に
遍く
照らす
身、語、心の
性は、
金剛にも
等しく
動かす者も
壊す者も
無かった


5.1 平等性を知る智慧に安住する

「平等」とは、 「心が傾かない」ことである。

「平等」には、二種ある、――
1 衆生の 平等/
一切の衆生中に等しく見て、男女、貴賎の別を見ず、亦た彼我の別をも見ないこと
2 法の 色、受想行識等の法、或いは善悪の法、内外の法門中に等しく見ること

5.1.1 衆生の平等とは何か?

「衆生の平等」とは、 「衆生の空」をいう。
「衆生」は、「因縁和合の生であり、故に自性がない」、故に「衆生の空」というのである。
「仏」は、 「衆生の空」を知るが故に、「大慈大悲」中に於いて、最低劣悪の衆生も、最高善良の衆生も等しい。

「菩薩」は、 「一切の衆生に共感して、我が身に等しく思う」が故に、此れと彼れと、彼れと我れとの間に差別を設けない。

5.1.2 法の平等とは何か?

「法の平等」とは、 「法の空」をいう。
「法」とは、 「名字乃至経の所説」である。

人は法を聞いて、その義、意味を心に想像する。故に法に自性なく、空である。有る人は、甲の名を聞いて善の義を思い、有る人は、同じ名を聞いて不善の義を思う。即ち法に自性なく、空であるが故に、法と義とは一致しない。一致しない法を以って、論議に明け暮れることを戯論という。法を明らかにすることは大切であるが、戯論は無意義である。

如来は、法の空を知るが故に、善法を聞いても、悪法を聞いても心は平等である。


5.2 潅頂宝冠は、三界を超過する

「潅頂宝冠」とは、王位に就くことをいう。
三界とは、欲界色界無色界の総称である、――
1 欲界 婬欲、食欲等を有する衆生/有情界
1
2
3 阿修羅(好戦的鬼神)
4 畜生/傍生
5 餓鬼
6 地獄
2 色界 有身、有心、無欲の衆生界
1 初禅天
2 二禅天
3 三禅天
4 四禅天
3 無色界 無身、有心、無欲の衆生界
1 空無辺処
2 識無辺処
3 無所有処
4 非想非非想処/
非有想非無想処


如来の位は、法王の位であり、世間三界の王位を超過する。

5.3 大観して自在である

如来は、五眼を以って遍く自在に、三界の衆生を観る。
所謂肉眼を以って、眼前の事を観、天眼を以って遠近、内外、中夜に於いて観ること自在に、慧眼を以って、空無相の理を照見し、法眼を以って一切の智慧門を照見し、仏眼を以って一切遍く観て礙無きことをいう。
五眼を下表に示す、――
1 肉眼 肉身所有の眼
2 天眼 色界天人所有の眼
3 慧眼 二乗 空、無相の理を照見する智慧の眼
4 法眼 菩薩 衆生を度す為に、一切の法門を照見する智慧の眼
5 仏眼 肉眼、天眼、慧眼、法眼を兼ね備えた智慧の眼


又如来の大慈大悲の前に於いて、衆生はその已に成就せると、未だ成就せざるとの二種に過ぎず。故に大観して自在である。

5.4 諸法を決定する

有らゆる法を決定して知る。
一切の諸法は、皆決定して空であると知る。

5.5 諸の能作、所作の事業に於いて善巧を得る

「能作」とは、 これから作すべきこと、 「所作」とは、 已に作されたること。
「事業」とは、 衆生を成就すること。
「善巧」とは、 善く巧みなる方便、即ち方法をいう。

5.6 衆生の、種種の希願を満足する

「未だ成就せざる衆生の希願」には、 種種ありと雖も、「已に成就せる衆生の希願」は、 皆六波羅蜜中に含まれる。

5.7 広大にして遍く照す身語心性に安住する

「広大にして、遍く照す仏の身語心業に安住する」とは、 仏の大慈大悲に基づく身語心業は、三千大千世界を常に遍く照していることをいう。



6. 他化自在天王宮

「他化自在天」とは、 欲界六天中最頂に位する天の名。この天に属する衆生は、皆自ら衆具を化作(造作)せず、専ら他の天の化作する所の楽具を以って、自ら楽しむが故に、他化自在天の称を得る。時に正法を害する悪魔に擬せられ、その天主を魔王波旬maara- paapiiyasと称し、世尊成道の時、魔軍を率いて成仏を妨げんと試みたること、種種の本生経の伝える所である。

六欲天を、下表に示す、――
1 四天王天 須弥山中腹に位する持国天、広目天、増長天、多聞天の総称
2 忉利天/
三十三天
須弥山頂に位し、四方に各八天、及び中央に帝釈天を有する諸天の総称
3 夜摩天 須弥山上空に位し、時時快哉を唱える天
4 兜率天/
兜率陀天
夜摩天の上空に位し、五欲の楽に於いて、喜足の心を生じる天
5 楽変化天/
変化天/
化楽天
兜率天の上空に位し、五欲の境(色声香味触)を自ら変化化作して楽しむ天
6 他化自在天 楽変化天の上空に位し、五欲の境を他に自在に変化化作せしめて楽しむ天


6.1 魔王の宮殿で、般若理趣を説く理由

凡そ二種の理由を見れば十分であろう。

6.1.1 世尊には、魔王を畏れる理由がない

仏には、十力、四無所畏、四無礙智、十八不共法、大慈、大悲等の功徳があり、故に一切に於いて怖畏する所がない。

就中――
「十力」とは、仏のみ有する智力に十種の別あることをいう、
1 処非処智力 物ごとの道理と非道理を知る智力。処は道理の意
2 業異熟智力 一切の衆生の三世の因果と業報を知る智力。異熟とは果報の意、まだその果報の善悪が決定していないことをいう
3 静慮解脱等持等至智力 諸の禅定と八解脱と三三昧を知る智力
4 根上下智力 衆生の根力の優劣と得るところの果報の大小を知る智力。根とは能く生ずるの意、何かを生み出す能力をいう
5 種々勝解智力 一切衆生の理解の程度を知る智力
6 種々界智力 世間の衆生の境界の不同を如実に知る智力
7 遍趣行智力 五戒などの行により諸々の世界に趣く因果を知る智力
8 宿住隨念智力 過去世の事を如実に知る智力
9 死生智力 天眼を以って衆生の生死と善悪の業縁を見通す智力
10 漏尽智力 煩悩をすべて断ち永く生まれないことを知る智力

「四無所畏」とは、 仏が説法するに際し畏るる所の無きに四種の別あるをいう、
1 一切智無所畏 全てを知ることに対する自信
2 漏尽無所畏 煩悩が無いことに対する自信
3 説障道無所畏 修行の障礙を全て説いたことに対する自信
4 説苦道無所畏 世間は全て苦であると説いたことに対する自信

「四無礙智」とは、 仏の説法に於いて自在なる辯才の智慧に四種の別あるをいう、
1 法無礙 文章、乃至経論の理解に対する無礙
2 義無礙 法の意趣を理解することに対する無礙
3 辞無礙/
詞無礙
単語、乃至術語の理解に対する無礙
4 楽説無礙/
辯無礙
雄弁に説得することに於いての無礙

「十八不共法」とは、 仏と菩薩のみがもつ功徳をいう、
1 身無失 仏は戒定慧と智慧と慈悲を用いて常にその身を修めるが故に一切の煩悩がなく、無煩悩の故に身の過失がない
2 口無失 口にも過失がない
3 念無失 心に思うことにも過失がない
4 無異想 一切の衆生を平等に済度して、心に選ぶ所がない
5 無不定心 行住坐臥に於いて、常に勝れた禅定に在り、心の散乱することがない
6 無不知己捨 一切の事物に通じ、而もそれに執著しない
7 欲無減 衆生を済度することを欲して、厭きることがない
8 精進無減 衆生を済度して休息することがない
9 念無減 三世の諸仏の法と、一切の智慧に相応して満足し、その状態から退くことがない
10 慧無減 一切の智慧を具えて尽きることがない
11 解脱無減 一切の執著を永久に遠離する
12 解脱知見無減 一切に解脱するが故に、あらゆることを実相のままに理解する
13 一切身業隨智慧行 一切の身業は智慧に随う
14 一切口業隨智慧行 一切の口業は智慧に随う
15 一切意業隨智慧行 一切の意業は智慧に随う
16 智慧知過去世無礙 智慧は全ての衆生の過去世を礙(さまたげ)なく照らし知る
17 智慧知未来世無礙 智慧は全ての衆生の未来世を礙なく照らし知る
18 智慧知現在世無礙 智慧は全ての衆生の現在世を礙なく照らし知る

6.1.2 魔王こそ、最も般若理趣を説くべき対象

「大智度論巻5」に、摩訶薩埵mahaa-sattva を説いて、「問うて曰く、云何が、摩訶薩埵と名づくる。答えて曰く、摩訶とは大なり、薩埵を衆生と名づけ、或いは勇心と名づく。此の人の心は、能く大事を為すに、退かず、還らざる大勇心なるが故に、名づけて摩訶薩埵と為す。(中略)是の衆生等の無辺、無量、不可数、不可思議なるを以って、尽く能く救済し、苦悩を離れしめて、無為安隠の楽中に著(お)く。此の大心有りて、多くの衆生を度せんと欲するが故に、摩訶薩埵と名づく。」と言うが如く、是の摩訶薩埵とは、大菩薩の異名であり、亦た是れを名づけて「大欲」と為す者である。

一方、欲界の頂天を極むる魔王も亦た応に名づけて、「大欲」と為すべき者であろう。

世尊は「大慈」を起こして、此の魔王の「大欲」を化して、菩薩の「大欲」に変成せんと欲し、故に般若の理趣を説かれた。何を以っての故に、般若の理趣とは、即ち煩悩の小欲を変じて、衆生救済の大欲に化する為の大道に他ならず、是の般若の理趣を聞くに由って、魔王変じて菩薩と成るからである。是の故に世尊は、是の般若の理趣を魔王の宮殿に於いて説かれたのである。



7. 菩薩とは何か?

「菩薩」とは、 菩提薩埵bodhi-sattvaの略であるが、「大智度論巻4」に、之を釈して、「問うて曰く、何等をか、菩提と名づくる。何等をか、薩埵と名づくる。答えて曰く、菩提を、諸の仏道と名づけ、薩埵を、或いは衆生、或いは大心と名づく。是の人は、諸の仏道の功徳を、尽く得んと欲し、其の心の断ずべからず、破すべからざること、金剛山の如し。是れを大心と名づく。(中略)復た次ぎに、好法を称讃するを、名づけて薩と為し、好法の体相を、名づけて埵と為す。菩薩の心は、自ら利し、他を利するが故に、一切の衆生を度するが故に、一切の法の実性を知るが故に、阿耨多羅三藐三菩提の道を行ずるが故に、一切の賢聖の称讃する所と為すが故に、是れを菩提薩埵と名づく。所以は何んとなれば、一切の諸法中、仏法は第一なり。是の人は、是の法を取らんと欲するが故に、賢聖の讃歎する所と為ればなり。」と言うが如く、之を要するに菩薩とは阿耨多羅三藐三菩提を目指して、ひたすら道を行く人の意であり、常に六波羅蜜を行じて退かざる人をいうのである。


7.1 菩薩の功徳

「功徳guNa」とは、 特性、能力等の義、即ち美徳、或いは善を施す力の意である。
此の中には、菩薩の功徳として、まず三種を挙げる、謂わゆる一に陀羅尼門、二に三摩地門、三に無礙妙辯である。
先づ此等から見てゆくことにしよう、――

7.1.1 陀羅尼門とは何か?

「陀羅尼dhaaraNii」とは、 一般には、神秘的韻文、或いは呪文を指し、苦痛、怒り、不安等をやわらげる為に用いられるのであるが、本来、此の語は「持す」、又は「保つ」の義なる語根dhRより来たれる名詞にして、能く総摂して憶持するの義であるが故に、一種の記憶術の意を有する語として用いられ、口に阿aと言って、阿から始まる種種の語、譬えば阿提阿耨波陀aady- anutpannataa(本来無生の意)を連想するが如く、呪文の如きを唱えることを以って、種種の連想を生じ、それに由って聞法を記憶することを云うのである。

されば、菩薩の功徳中、何を以っての故に、此の陀羅尼門を第一に挙げるのであろうか?

「大智度論巻4」に、「復た次ぎに、有る人の言わく、初めて発心するに、願を作さく、我れ当に仏と作りて、一切の衆生を度すべし、と。是れより已来を、菩提薩埵と名づくと」と云うが如く、菩薩は最初に、我れ仏と作って、一切の衆生を度せんと大誓願を立て、是れ以後を菩薩と称するのであるが、世世生を受ける毎に忘失していたのでは、せっかくの大誓願が無駄になる、是を以っての故に、此の陀羅尼門を第一最初に説くのである。

7.1.2 三摩地門とは何か?

「三摩地samaadhi」とは、 又三昧にも作り、「定」と訳す。即ち心を一境に定めて動じさせないことをいう。

では、是の三摩地を第二に説くのはなぜだろうか?
凡そ二種の三摩地を考えれば、十分であろう。謂わゆる不退と、及び空無相無作の三三昧である。

二種の三摩地/三昧を、下表に示す、――
1 不退/
阿鞞跋致
阿耨多羅三藐三菩提を得る為に、一心に精進して、諸の善法を集めること
2 三三昧 1 空三昧 我が身心は空であると観ること
2 無相三昧/
無想三昧
我が身心は空なるが故に、見聞する所の一切の男女、生住滅等の相も亦た無いと観ること
3 無作三昧/
無願三昧
我が身心は空なるが故に作業(所願)無しと観ること


「大智度論巻4」に、「復た次ぎに、若し菩薩、一法を好修好念すれば、是れを阿鞞跋致の菩薩と名づく。何等か一法なる、常に一心に諸の善法を集むること、諸仏は一心に諸の善法を集むるが故に、阿耨多羅三藐三菩提を得と説くが如し。復た次ぎに、有る菩薩は、一法を得るに、是れ阿鞞跋致の相なり。何等か一法なる、正直に精進すること、仏の阿難に説くが如し、阿難、汝は精進を説きたるやと。是の如し世尊。阿難、汝は、精進を説きたるやと。是の如し善逝。阿難、常に行じ、常に修め、常に念ずること、精進すれば、乃至人をして、阿耨多羅三藐三菩提を得しめんと」と云うが如く、菩薩は一心に阿耨多羅三藐三菩提を求めるが故に、菩薩の名を得るのであり、故に菩薩の最も恐るる所とは、心が阿耨多羅三藐三菩提より退することなのである。そこで世世生生に心が阿耨多羅三藐三菩提より退かない菩薩を阿鞞跋致avinivartaniiya(即ち退却しない、逃亡しないの義)と呼ぶのであるが、是れも亦た一種の三摩地なのであり、是の故に三摩地を第二に説くのである。

又「大智度論巻5」に、「諸の三昧とは、三三昧の空、無作、無相なり。有る人の言わく、五陰の無我、無我所なるを観る、是れを名づけて空と為す。是の空三昧に住して、後世の為の故の、三毒を起さざる、是れを無作と名づく。縁の、十相を離るるが故に、五塵、男女、生住滅の故に、是れを無相と名づくと。(中略)問うて曰く、種種の禅定の法有り。何を以っての故にか、独り、此の三三昧のみを称する。答えて曰く、是の三三昧中に思惟すれば、涅槃に近づくが故に、人心をして、高からず、下からず、平等にして、動ぜざらしむ。余の処は爾らず。是を以っての故に、独り是の三三昧のみを称す」と云うが如く、菩薩は常に自らの身心を空と為して、六波羅蜜を行ずるが故に、是の故に是の三三昧を第二に説くのである。

7.1.3 無礙妙辯とは何か?

法を説くに当って、辯説巧妙にして、無礙なることをいう。
是れは即ち前に説いた四無礙智と同じものである。

菩薩の求める阿耨多羅三藐三菩提とは、謂わゆる衆生を浄めて、浄土を得ることであり、故に一個人に於いて可能の範囲であるはずがない。法を説いて10人を道に入れるとすれば、その10人が復た各10人を道に入れ、復たその各が10人を道に入れ、是の如く一切の衆生を道に入れるのであるから、当然法を説くに当って、無礙の辯才こそ得まほしきものとしなくてはならない。即ち第三に説く理由である。

7.1.4 宣説正法とは何か?

菩薩とは、身を三三昧中に安住して、六波羅蜜を行うことを以って、菩薩の義と為すのであり、これが正法である、他に何があろうか?

経には、「如是上首有八百万大菩薩衆前後囲遶宣説正法初中後善文義巧妙純一円満清白梵行」と云い、宣説正法の主語を、卒(にわ)かには誰とも言いがたいが、上首のみを宣説の主語と為すの道理がなく、語順から言っても、大菩薩衆を主語と為すべきであろう。

7.1.5 初中後善とは何か?

説法に当りて、初には、強く人心を引いて、法に向わしむるに妙功あるを、「初善」と称し、 中頃には、随意に人を憂喜せしめて、妙法中に深入せしむるを、「中善」と称し、 説法を竟るに当りて、印象深く、法旨をして善く清浄心中に定着せしむるを、「後善」と称するのである。

それを下表に示す、――
1 説法 初善 初めに人心を強く引きつけて、妙法に心を向わせる
2 中善 随意に人を憂喜せしめて、妙法中に入らせる
3 後善 印象深く終り、法旨を清浄心中に定着させる


又「大智度論巻49」には、「菩薩在家なれば、多く財を以って施し、出家なれば仏を愛する情重くして、常に法を以って施し、若しは仏の在世、若しは在世にあらざるに、善く戒に住持して、名利を求めず、等心もて一切の衆生の為に法を説き、檀の義を讃歎す、故に名づけて初善と為し、持戒を分別して讃歎するを、名づけて中善と為し、是の二法の果報は、若しは諸の仏国に生じ、若しは大天と作るを名づけて、後善と為す。」と云い、又その連文に「三界五受衆の身には苦悩多ければ、則ち厭離心を生ずるを、名づけて初善と為し、居家を棄捨して身離れんが為の故に、名づけて中善と為し、心の煩悩を離れんが為の故に、名づけて後善と為す。声聞乗を解説するを、名づけて初善と為し、辟支仏乗を説くを、名づけて中善と為し、大乗を宣暢するを、名づけて後善と為す」と云うも今は取らない。

7.1.6 文義巧妙とは何か?

説法に当って、その文句も、意味も工夫が凝らされて、絶妙であることをいう。

「大智度論巻49」に、「妙義、好語とは、三種の語あり、復た辞は妙なりと雖も、義味浅薄なる。義理深妙なりと雖も、辞具足せず。是を以っての故に妙義、好語と説く。」と説くが如く、文句と意味とが共に充実していることを云う。

7.1.7 純一円満とは何か?

説法に当って、純ら大小の仏教を説き、外道の教を雑えず、正法を説いて欠けたる所のないことをいう。

「大智度論巻49」に、「八聖道分、六波羅蜜備わるが故に、名づけて具足と為す」と云うが如し。

7.1.8 清白梵行とは何か?

「清白梵行paryavadaata」とは、即ち、「大智度論巻49」に、「三毒の垢を離るるが故に、但だ正法を説いて、非法を雑えず。是れを清浄と名づく」と云うが如く、ここでは説法に当って、純ら貪欲、瞋恚、愚癡の三毒の垢を離れることを説き、正法のみを説いて、非法を雑えないことをいう。


7.2 菩薩の名前とは何か?

菩薩の上首として、此の中には次の八人の名を挙げる、
1 金剛手
vajira- paaNi
金剛vajira(即ち電戟、いかづち)を手に執るの意。因陀羅indra(即ち帝釈天zakya- devendra)の異名と為すが如く、純ら仏法守護を、その功徳とする
2 観自在
avalokitezvara
世間を自在に観るの意。世界を遍く観て、衆生を自在に救済するを、その功徳となす
3 虚空蔵
aakaaza- garbha
虚空を蔵と為すの意。其の世間の財宝、及び出世間の法宝を蔵すること、虚空の如く無尽なるを、その功徳となす
4 金剛拳
vajira- muSTi
金剛vajiraを拳中に執るの意。金剛手と同じく因陀羅indraの異名となす
5 妙吉祥/
文殊師利
maJju-zrii
美妙なる吉祥の意。般若の智慧を以って、その功徳となす
6 大空蔵
mahaa- zuunyataa- garbha
前の虚空蔵と同様の功徳を有するものとなせばよいだろう
7 発心即転法輪
saha- cittotpaada- dharmacakra- pravartin
発心して直ちに法輪を転ずるの意。
8 摧伏一切魔怨
sarva- maara- pramardin
一切の魔を屈伏するの意。

但し、此等の菩薩は皆、歴史上実在せる者となすべきではない。即ち経中に現われたる菩薩は、一種のシンボルであり、それに菩薩的な功徳を以って名づけたるものであるが故に、謂わゆる特定の人格を有すとなすべきではない。

7.3 再び、菩薩とは何か?

上記を以って、菩薩とは何か?と再び問うてみると、凡そ経中に説く所の「菩薩」とは、 一個の個人に付する為の称号ではなく、三三昧の空中に身を置いて、六波羅蜜を行じ、一切の衆生を救わんと欲する者の、その時の状態を名づけて、 「菩薩」と為すと知るのである。







2.菩薩句義清浄法門

1. 清浄の句義と、菩薩の句義

爾の時、
世尊は、
諸の菩薩の為に、
こう説かれた、――
「一切の法」は、
「甚深微妙」であり、
「般若の理趣」であり、
「清浄の法門」である。
此の門とは、
即ち、
「菩薩の句義」である。
何を、
「菩薩の句義」というのか?
謂わゆる、――

1.1 一切の法とは何か?

一切の有為法と、無為法とをいう、
1 有為法
saMskRta- dharma
造り上げられたものの意
2 無為法
asaMskRta- dharma
造られないものの意

1.1.1 有為法とは何か?

「有為」とは、 「造り上げられた(もの)」の義、多くの材料を以って、造り上げられたものを有為法というが、一般には因縁所生の法を以って有為法と為し、これには自性を有しないものとする。

「倶舎論」等に依れば、有為法は色法11種、心法1種、心所有法46種、心不相応行法14種の計72法をいう、
1 色法 3種11法をいう、
1 五根/
五情/
眼、耳、鼻、舌、身
2 五境/
五塵
色、声、香、味、触
3 無表色 戒等の善の身口意三業(即ち色法)は、内心中に住して、直ちに外に表出すること無きが故に、無表の色と称する、犯戒等の不善の業も亦た同じ
2 心法 唯だ1種の法であり、又心王とも称するように、心を主宰し、次に示す所の心所有法、即ち種種の精神作用を起こす主体であると考えられる
3 心所有法 心法に属する種種の精神作用
1 大地法 一切の心と倶に起る法
1 受vedanaa
2 想saMjJaa
3 思cetanaa
4 触sparza
5 欲chanda
6 慧prajJaa
7 念smRti
8 作意manasi-kaara
9 勝解adhimokSa
10 三摩地samaadhi
2 大善地法 一切の善心と倶に起る法
1 信zraddhaa
2 不放逸apramaada
3 軽安prazrabdhi
4 捨upekSaa
5 慚hrii
6 愧apatraapya
7 無貪alobha
8 無瞋adveSa
9 不害ahiMsaa
10 勤viirya
3 大煩悩地法 染汚心と常に相応する煩悩法
1 無明avidyaa
2 放逸pramaada
3 懈怠kausiidya
4 不信aazraddhya
5 惛沈styaana
6 掉挙auddhatya
4 大不善地法 一切の不善心に相応する法
1 無慚aahriikya
2 無愧anapatraapya
5 小煩悩地法 小分の染汚心と相応して各別に起る煩悩法
1 忿krodha
2 覆mrakSa
3 慳maatsarya
4 嫉iirSyaa
5 悩pradaasa
6 害vihiMsaa
7 恨upanaaha
8 諂maayaa
9 誑zaathya
10 憍mada
6 不定地法 その起こること不定なる法
1 悪作kaukRtya
2 睡眠middha
3 尋vitarka
4 伺vicaara
5 貪raaga
6 瞋pratigha
7 慢maana
8 疑vicikitsaa
4 心不相応行法 心法と不相応に起る法
1 得praapti
2 非得apraapti
3 衆同分nikaaya-sa-bhaaga
4 無想aasaMjJika
5 無想定aasaMjJi-samaapatti
6 滅尽定nirodha-samaapatti
7 命根jiivitentriya
8 生jaati
9 住sthiti
10 異anyathaatva
11 滅vyaya
12 名身naama-kaaya
13 句身pada-kaaya
14 文身vyaJjana-kaaya


1.1.2 無為法とは何か?

「無為法」とは、 有為法でない法をいい、即ち生滅為作を離れた無因無果の法をいうのであるが、小乗に於いては涅槃を指すものとする。即ち「倶舎論」等には三種の無為を立てる、
1 虚空
aakaaza
虚空の如く無礙を以って性となすをいう
2 択滅
pratisaMkhyaa- nirodha
智慧の簡択力を以って数数の繋縛を離れるを以って性となす涅槃をいう
3 非択滅
apratisaMkhyaaa- nirodha
智慧を以って繋縛を離れるに非ず、但だ自ら生法の因縁を欠く聖者の涅槃をいう

又小乗各部派、及び大乗唯識等も種種の無為を立てているが、孰れにしても無因無果の法の故に、さして重要なものとは思われない。


1.2 甚深微妙とは何か?

「甚深」も、 「微妙」も、 奥深く知り難いの意。
「般若波羅蜜」とは、 事物を分別する上の智慧でなく、寧ろ分別を差し措いて、六波羅蜜を行ずる為の智慧であるが故に、「甚深微妙」と称するのである。
謂わゆる「善悪の業報の因果」、「阿耨多羅三藐三菩提の相」、「慈悲の相と空相との対立」等、此等は分別を以って知り難いが故に、この智慧を、「甚深微妙」と称する。

1.3 般若の理趣とは何か?

「智慧の道」である。
此の道を行けば、一切の衆生が阿耨多羅三藐三菩提を得るに至るが故に、「智慧の道」と称する。

1.4 清浄の法門とは何か?

「般若の理趣」、 即ち智慧の道を行く時、一切の善悪、是非を分別しないが故に、一切の戯論を離れる。故に清浄の法門と称するのである。
何故ならば、「戯論」とは、 一切の善悪、是非を論ずることをいうが、六波羅蜜を行ずるに当り、一切の戯論は無用だからである。

「小乗」の如きは、有らゆる法相を分別することに於いて、涅槃の相、修行の相等を得ようとするが、しかし分別は、即ち戯論を生じ、戯論は、即ち諍論を生じ、諍論は、即ち部派を分つのである。故に分別を以って、是れ即ち清浄の法門に非ず、というのである。

1.5 菩薩の句義とは何か?

「句義padaartha」とは、 「句pada」と、 「義artha」との合成語であり、ある言葉に相応する意味、実体、事物等と解して、菩薩の句義とは、要するに「菩薩」という言葉には、何のような意味を含むかということであるとして差し支えないであろう。

但し、釈尊と同時代の「勝論派vaizeSika」に於いては、 句義に「カテゴリーa category」、 或いは「プリンシプルa principle」の意味を取り、 「六句義」を立てて、 其の客観的存在を認め、 此等諸句義の集合離散に依りて、万有は生成壊滅すとしていた。

「六句義」とは、
  1. 「実句義dravya-padaartha」: 諸法の実体にして、此れに地、水、火、風、空、時、方、我、意の九種の別を立てる。
  2. 「徳句義guNa-padaartha」: 実句義の属性、功能にして、此れに色、香、味、触、数、量、別体、合、離、彼体、此体、覚、楽苦、欲、瞋、勤、勇の十七種の別を立てる。
  3. 「業句義karma-padaartha」: 実体の運動にして、此れに取、捨、屈、伸、行の五種の別を立てる。
  4. 「同句義saamaanya-padaartha」: 有性を指す。
  5. 「異句義vizeSa-padaartha」: 九種の実体をして相互に別異あらしむる因を指す。
  6. 「和合句義samavaaya-padaartha」: 以上の実、徳、業、同、異をして不離相属せしむる因を指す。

2. 謂わゆる、――

即ち、
「謂極妙楽清浄句義是菩薩句義」より、
「一切有記無記法有漏無漏法有為無為法世間出世間法空寂清浄句義是菩薩句義」まで、
此れ等の中に、
「菩薩」は、
「衆生の空」と、
「法の空」とを見る。

2.1 衆生の空に属するものとは、何か?

衆生の空に属するものは:初の十一種である、
1 極妙楽 身心に楽を受ける
2 諸見永寂 諸見は常に寂静である
3 微妙適悦 身心に喜悦を受ける
4 渇愛永息 渇愛は常に止む
5 胎蔵超越 胎蔵は清浄である
6 衆徳荘厳 衆徳が身を飾る
7 意極猗適 意は信頼している
8 得大光明 身に大光明を得た
9 身善安楽 身業は善であるが故に安楽を受ける
10 語善安楽 語業は善であるが故に安楽を受ける
11 意善安楽 意業は善であるが故に安楽を受ける

2.1.1 衆生の空に属する十一種から、何が見えるか?

菩薩は、空、無相、無作の三三昧中に於いて、上のような状態にあると説くものがこれである、
1 空三昧に属するもの
1 極妙楽 小乗に於いては、人は空であるが故に、自在でなく、自在でないが故に、苦であると説くが、菩薩に於いては、自ら六波羅蜜を行うが故に、彼れが楽を受け、彼れが楽を受けるが故に、自ら楽を受けるという、謂わゆる彼我平等を以って空と為すが故に、是れを以って菩薩の空三昧と為すのである
2 諸見永寂 諸見とは真理に暗いこと、即ち三毒中の無明、愚癡である。今菩薩は、空平等の世界に身を置き、般若波羅蜜の智慧を以って、六波羅蜜を行うが故に、諸見永寂と言う
3 微妙適悦 適悦とは喜悦であり、即ち三毒中の瞋恚の逆である。若し彼れが手を以って我れを打つ時、彼れの瞋恚が解消するならば、是れは我が喜悦であるという、彼我平等の世界に身を置き、忍辱波羅蜜を行うが故に、微妙適悦と言う
4 渇愛永息 渇愛とは、即ち三毒中の貪欲の異名である。我れは布施を以って、彼れの貪欲を解消するが故に、空平等中に於いて、渇愛永息と言う。三毒とは、諸の煩悩中、最も根本となる貪欲、瞋恚、愚癡を謂うのであるが、菩薩は空平等中に身を置いて、般若波羅蜜の智慧を以って、六波羅蜜を行うが故に、この三毒を解脱することを以って、以上三種の句義と為す
2 無相三昧に属するもの
1 胎蔵超越 胎蔵は子宮の義であり、人の臓腑であるが故に、人の初めて宿る処でありながら、不浄の物と見なされるが、菩薩は無相三昧に住するが故に、浄不浄の別なく、故に胎蔵超越と言うのである
2 衆徳荘厳 自ら諸功徳を以って荘厳し、亦他に教えて荘厳せしむ。故に衆徳荘厳と言う
3 意極猗適 身を空平等中に置き、心に般若波羅蜜の智慧を得て、六波羅蜜の船に乗り、大苦不平等の海を渡れば、遂に阿耨多羅三藐三菩提を成ずること疑い無し。故に意極猗適(意は信頼している)と言う
4 得大光明 般若波羅蜜は六波羅蜜の大道を明るく照らすが故に、得大光明と言う
3 無作三昧に属するもの
1 身善安楽 彼我平等の無作三昧中に於いて、今、身を以って善の六波羅蜜を行う。故に他世に於いて、安楽世界に生るること疑い無し。故に身善安楽と言う
2 語善安楽 彼我平等の無作三昧中に於いて、今、語を以って、善導する。故に他世に於いて、安楽世界に生まれること疑い無し。故に語善安楽と言う
3 意善安楽 彼我平等の無作三昧中に於いて、今、心に阿耨多羅三藐三菩提の意を起こす。故に他世に於いて阿耨多羅三藐三菩提を得て、大安楽を得ること疑い無し。故に意善安楽と言う


2.2 法の空に属するものとは、何か?

一切の法には実義無し。 故に戯論無く、故に空寂と言う。
謂わゆる、下表の通りである、
1 人の身心を形づくる要素
1 人の身心の分類法
1 五蘊/
五陰
色、受、想、行、識蘊
2 十二処/
十二入
六境:色、乃至法境
六根:眼、乃至意根
3 十八界 六根:眼、乃至意根
六境:色、乃至法境
六識:眼識、乃至意識
4 六触 眼触、乃至意触
5 縁生の受 眼触を縁と為す所生の諸受、
   乃至、
意触を縁と為す所生の諸受
2 六大 人の物質的要素
1 地大/地界
2 水大/水界
3 火大/火界
4 風大/風界
5 空大/空界
6 識大/識界
2 聖法を説く為の術語
1 四聖諦/四諦
1 苦聖諦/苦諦
2 苦集聖諦/集諦
3 苦滅聖諦/滅諦
4 苦滅道諦/道諦
2 四縁
1 因縁
2 無間縁/等無間縁
3 縁縁/所縁縁
4 増上縁
3 十二因縁/十二縁起
1 無明/癡
2
3
4 名色
5 六処/六入
6
7
8
9
10
11
12 老死
4 六波羅蜜/六波羅蜜多
1 檀(布施)波羅蜜/布施波羅蜜多
2 尸羅(持戒)波羅蜜/浄戒波羅蜜多
3 羼提(忍辱)波羅蜜/安忍波羅蜜多
4 毘梨耶(精進)波羅蜜/精進波羅蜜多
5 禅(禅定)波羅蜜/静慮波羅蜜多
6 般若波羅蜜/般若波羅蜜多
5 真如の異名
1 真如
2 法界
3 法性
4 不虚妄性
5 不変異性
6 平等性
7 離生性
8 法定
9 法住
10 実際
11 虚空界
12 不思議界
6 定目
1 四静慮/四禅
2 四無量/四無量心
3 四無色定
7 三十七道品/三十七菩提分法
1 四念住/四念処
2 四正断/四正勤
3 四神足/四如意足
4 五根
5 五力
6 七等覚支/七覚分
7 八聖道支/八聖道分/八聖道
8 解脱門
1 空解脱門
2 無相解脱門
3 無願解脱門
4 八解脱/八背捨
5 八勝処
6 九次第定
7 十遍処/十一切処/十一切入
9 菩薩十地
1 極喜地
2 離垢地
3 発光地
4 焔慧地
5 極難勝地
6 現前地
7 遠行地
8 不動地
9 善慧地
10 法雲
10 三乗共十地
1 浄観地/乾慧地
2 種性地/性地
3 第八地/八人地
4 具見地/見地
5 薄地/薄地
6 離欲地/離欲地
7 已辦地/已作地
8 独覚地/辟支佛地
9 菩薩地/菩薩地
10 如来地/佛地
11 陀羅尼門 一切陀羅尼門
12 三摩地門/
三昧門
一切三摩地門/一切三昧門
13 神通
1 五眼
2 六通
14 如来・菩薩功徳
1 十力
2 四無所畏/四無畏
3 四無礙解/四無礙智/四無礙
4 大慈
5 大悲
6 大喜
7 大捨
8 十八佛不共法
9 三十二相/三十二大人相
10 八十随好/八十随形好
11 無忘失法
12 恒住捨性
13 一切智/薩婆若
14 道相智/道種智
15 一切相智/一切種智
16 一切菩薩摩訶薩行
17 諸仏無上正等菩提
15 衆生位階
1 一切異生法/凡夫
2 預流/須陀洹
3 一来/斯陀含
4 不還/阿那含
5 阿羅漢
6 独覚/辟支仏
7 菩薩
8 如来
16 相対法
1 善・非善法、
2 有記・無記法、
3 有漏・無漏法、
4 有為・無為法、
5 世間・出世間法

2.3 清浄の句義とは、何か?

二義あり、下表に示す、――
1 清浄 一切の
語言、乃至法は
本来
清浄である
2 句義 1 有為法
一切の
有為法は
因縁所生の故に
本性なく、
無なること
虚空の如し、
故に清浄である
2 無為法
一切の
無為法は
寂静にして、
無に等しきこと
虚空の如し、
故に清浄である


3. 何故ならば、‥‥

一切の法は、
自性が、
空であるが故に、
自性を、
遠離しており、
遠離するが故に、
自性が、
寂静であり、
寂静であるが故に、
自性が、
清浄であり、
清浄であるが故に、
是のような、
智慧である、
甚深の般若波羅蜜多は、
最勝に清浄である。
是のような、
智慧である、
般若波羅蜜多は、
是れが、
菩薩の句義である。

4. 結論

故に、こう説く、――
若し、
此の、
「一切の法」は、
「甚深微妙」の、
「般若の理趣」であり、
「清浄の法門」である、と、
聞くことができ、
深く信受したならば、
乃至、
「妙菩提」の、
座に、
坐する時まで、
一切の、
「煩悩障、業障、報障」が、
多く、
「積集」していたとしても、
「汚染せられず」、
種種の、
「極重の悪業」を、
「造っていた」としても、
「たやすく生滅」して、
「悪趣」には、
「堕ちない」だろう。
若し、
此の、
法門を、
受持して、
日日読誦し、
理に従って、
思惟したならば、
彼れは、
此の生に於いて、
「一切の法」の、
「平等性」を得て、
「堅固」に保持し、
「一切の法」の中に於いて、
「自在」を得て、
常に、
一切の、
勝妙の、
喜楽を受け、
十六たび、
大菩薩の、
生を、
経た後には、
如来の、
執金剛の、
性を得て、
疾かに、
阿耨多羅三藐三菩提を、
確証するだろう。

4.1 三障とは何か?

衆生が阿耨多羅三藐三菩提を得られない、主な理由として、三種の障害を示す。

1 煩悩障 貪欲、瞋恚、愚癡等の煩悩は、能く菩提の為の障害となる。
2 業障 父母や阿羅漢を殺す等の無間地獄に堕ちる業は、能く菩提の為の障害となる。
3 報障 地獄、餓鬼、畜生等の生は、能く菩提の為の障害となる。

4.2 悪趣とは何か?

苦多くして、菩提を得がたい三種の道をいう。
1 地獄 劇苦の為に菩提を得がたい。
2 餓鬼 飢餓に苦しめられ菩提を得がたい。
3 畜生 魯鈍の為に菩提を得がたい。

4.3 執金剛性とは何か?

「金剛」は、衆生の煩悩を摧く道具の譬喩。
「如来」が、方便して衆生の煩悩を摧くことを云う。






3.性平等現等覚門

1. 平等性は、等覚を現わす門

爾の時、
世尊は、
復た、
「遍く照す」という、
「如来の相」に依り、
こう説かれた、――
「般若波羅蜜多」は、
一切の、
「如来」は、
「寂静の法性」である、という、
「甚深の理趣」であり、
「現等覚の門」である、
謂わゆる、――

1.1 如来の相とは、何か?

上の第一菩薩句義門には、菩薩の心地に於いて、衆生空、法空のという二境界が、何のように映じているのかを見てきた。第二現等覚門より以下には、そのように映ずる所以の菩薩心中の智慧の境界を見てゆくことになろう。

さて、「相」とは何か?「性」と「相」との違いは何か? 
即ち、「性」とは、法の自体であり、内に在りて改易すべからざるを謂い、「相」は相貌にして、外に現われ分別すべきを云う。

即ち、下表に示す通り、――
1 法の 自体 内に在って改変しないもの
2 相貌 外に現われて分別すべきもの


要するに、「如来の性」は、如来の内に隠れて甚だ知り難いが故に、「如来の相」を説いて、外に顕わすのであり、亦た「如来の性」と称すべき功徳は甚だ多いが故に、以下に説く所の者は、如来の是の如きの性により、発する所であると明示したのである。

今、世尊は、「遍く照す」という智慧の相に依って、是の門を説かれた。

1.2 寂静の法性とは、何か?

「寂静(梵語zaanta)」には、「平穏」、「満足」等の義を有するので、文に依り、「般若波羅蜜多には、一切の如来の性である平穏、満足という性を有する」と知ることができる。

1.3 現等覚の門とは、何か?

「現等覚(梵語abhisaMbodhi-nirhaaraH)」は、「等覚、即ち仏に等しき覚りを世間に現す」の意を有するので、文に依り、「般若波羅蜜多とは、等覚を世間に現わす為の門である」、乃至「般若波羅蜜多は、阿耨多羅三藐三菩提を成就する為の門である」と知ることができる。

2. 謂わゆる、――

「金剛」の、
「平等性」は、
「等覚」を、
「現わす」、
「門」である、
「大菩提」は、
「金剛」のように、
「堅実」であり、
「難壊」であるが故に、
「義」の、
「平等性」は、
「等覚」を、
「現わす」、
「門」である、
「大菩提」は、
其の、
「義」が、
「一」であるが故に、
「法」の、
「平等性」は、
「等覚」を、
「現わす」、
「門」である、
「大菩提」は、
自らの、
「性」が、
「浄い」が故に、
「一切法」の、
「平等性」は、
「等覚」を、
「現わす」、
「門」である、
「大菩提」は、
「一切法」に於いて、
「分別」しても、
「無い」が故に。

下表に示す通りである、――
1 金剛の
平等性

覚/






大菩提/
阿耨多羅三藐三菩提を求める
心は
金剛のように
堅実難壊であるが故に
2 義の
平等性
大菩提の
義は
一であるが故に
3 法の
平等性
大菩提の
自性は
清浄であるが故に
4 一切法の
平等性
一切法中に於いて
分別しても
大菩提という
法の
義は
無いが故に


2.1 平等性とは、何か?


辞書に依れば、以下の通りである、
  1. 平等(梵語sama)=
    1. even 平坦、一様に平らか
    2. equal 平等、対等、同等
    3. level 平坦、水平
    4. similar 類似、相似
    5. calmness 静けさ、冷静
    6. tranquility 静穏、平静、落ち着き
  2. 平等性(梵語samataa)=
    1. benevolence 博愛、慈悲心
    2. equableness 心の平静な状態
    3. equality 等しいこと、同等、平等、対等
    4. sameness 同一性、酷似、単調、無変化
    5. equanimity 心の平静、沈着、落ち着き
    6. fairness 公正、公平
    7. impartiality 不遍、公平無私、公明正大
    8. mediocrity 平凡、凡庸
    9. sameness of level 一様平坦

2.2 小乗の平等

小乗に於いても、平等は非常に重要な徳目であり、次のような例を見ることができる、

1 平等の慧 「雑阿含経巻1」に、「仏、羅睺羅に告ぐ、当に観るべし、諸の有らゆる色の若しは過去、若しは未来、若しは現在、若しは内、若しは外、若しは麁、若しは細、若しは好、若しは醜、若しは遠、若しは近なる、彼の一切の非我なること、我れに異ならずして、相在らずと。是の如き平等の慧は如実に観るなり。当に観るべし、是の如き受想行識の若しは過去、若しは未来、若しは現在、若しは内、若しは外、若しは麁、若しは細、若しは遠、若しは近なる、彼の一切の非我なること、我れに異ならずして、相在らざずと。是の如き平等の慧は、如実に観るなり」と云うように、一切法の空を以って平等と為す。
2 四姓平等 「長阿含経巻5」に依れば、ある婆羅門種の婆悉吒と、婆羅墮と名づくる者が、釈尊の所に於いて出家し道を修めていたところ、諸の婆羅門は之を謗ってこう言った、「我が婆羅門種を最も第一と為す、余は卑劣なり。我が種は清白なるも、余は黒冥なり。我が婆羅門種は、梵天より出で、梵天の口より生ずれば、現法中に於いて清浄を得て解脱し、後にも亦た清浄なり。汝等何の故にか、清浄の種を捨てて、彼の瞿曇(釈種)の異法中に入るや」と。爾の時、釈尊は、婆悉吒に向って、こう教えられた、「四の姓種有りて、善悪ここに居す。智者の挙ぐる所(善)、智者の責むる所(悪)なり。何をか謂って四と為す、一には刹利種(武家、王族)、二には婆羅門種(呪術、学門)、三には居士種(商人)、四には首陀羅種(職人、農家)なり。婆悉吒、汝は聴けり、刹利種中に殺生する者あり、盗竊する者あり、淫乱なる者あり、欺妄する者あり、両舌する者あり、悪口する者あり、綺語する者あり、慳貪なる者あり、嫉妬する者あり、邪見する者ありと。婆羅門種、居士種、首陀羅種も、亦た皆是の如く、十悪の行を雑う。婆悉吒、それ不善の行には、不善の報あり。黒冥の行を為せば、則ち黒冥の報あり。若し此の報をして、独り刹利、居士、首陀羅種に在らしめ、婆羅門種に在らざらしむれば、則ち婆羅門種は、応に自ら言うを得べし、我が婆羅門種は、最も第一にして、余は卑劣なり。我が種は清白にして、余は黒冥なり。我が婆羅門種は梵天より出て、梵天の口より生ずれば、現に清浄を得て、後にも亦た清浄を得と。若し不善行を行えば、不善の報あり、黒冥の行を為せば、黒冥の報あるをして、必ず婆羅門種、刹利、居士、首陀羅種に在らしむれば、則ち婆羅門は、独り我が種のみ清浄にして、最も第一と為すと称するを得ず。婆悉吒、若し刹利種中に不殺の者あり、不盗、不婬、不妄語、不両舌、不悪口、不綺語、不慳貪、不嫉妬、不邪見の者あり、婆羅門種、居士、首陀羅種も亦た皆、是の如く同じく十善を修めて、その善法を行ずれば、必ず善報あり、清白の行を行ずれば、必ず白報あらんに、若し此の報をして、独り婆羅門のみに在らしめ、刹利、居士、首陀羅種に在らざらしむれば、則ち婆羅門種は、応に自ら言うべし、我が種の清浄なること、最も第一と為すと。若し、四姓をして、同じく此の報有らしむれば、則ち婆羅門は、独り、我が種の清浄なること、最も第一と為すと称するを得ず」と
3 乞食平等 比丘の乞食は、施主の家を択ばず、家々の門口から門口へ順に乞食する
4 受請平等 施主が比丘を招いて、食事を供する時、比丘に個別に請うのではなく、僧団の差配者に請うのが常法である。差配の者は、平等を心がけて、同じ者が、同じ家にたびたび行くことがないようにしていた


2.3 大乗の平等

「平等の概念」は、仏教の一大特徴というより、寧ろ仏教そのものと言っても、過言でないというほど、非常に重要な徳目であるが、小乗と大乗とでは、ややその趣を異にする。

即ち、小乗に於いては、「四姓の平等」に見るがごとく、事物それ自体が平等均斉であると観察することを以って、「平等」というのであるが、「大乗の平等」では、「空」と呼ばれる概念中に、その「平等」を包含することにより、観察者自身の心の問題へと、その重心が移り、故に、「平等性」という言葉の意味も、事物それ自体の平等性をいうのではなく、如来の大慈大悲の平等性をいうに至るのである。

2.4 金剛の平等性は、等覚を現わす門である

「金剛」とは、堅い金属を指し、意志の堅固にして、決して退くことのない「菩提心(阿耨多羅三藐三菩提を志す心)」の譬喩である。

「菩薩」は世世、生を替え、人を易うと雖も、その菩提心は平等の一性にして、金剛の如く堅実不壊である。

故に、こう言うのである、――
菩薩の、
「菩提心」が、
「金剛」のように、
「堅固」な、
「平等性」であるとは、
「大菩提(阿耨多羅三藐三菩提)」を、
「世間」に、
「現わす」為の、
「門」である。
何故ならば、
「大菩提(阿耨多羅三藐三菩提)」は、
「堅固」であり、
「壊し難い」からである、と。

:「菩薩」とは特定の人格を指すことは無く、「菩提心を有する人」を指す。故に「文殊菩薩」、「観音菩薩」等の、あたかも特定の人格を指すが如きも、皆、菩薩としての功徳を以って名と為すのであり、人格としては架空の存在である。


2.5 義の平等性は、等覚を現わす門である

「義」とは、「法(言葉)」に対する、その「義(意味)」であり、言葉で指し示された、事物そのものをいう。即ち、「義」とは前に説いた「有為法」、即ち造作されたものと、「無為法」、即ち造作されなかった法とであるが、此の中の、「有為法」は、因縁和合の生であって、自性を有さず、故に「空」であるし、又「無為法」は、「有為法」に対する法であるに過ぎず、故に、「有為法」が「空」ならば、則ち、「無為法」も「空」であり、二法共に「空」であるが故に、心を傾けるべき所は、何所にもない。

故に、こう説くのである、――
菩薩の、
「心」が、
「義」に対して、
「平等」であるとは、
「阿耨多羅三藐三菩提」を、
「世間」に、
「現わす」為の、
「門」である。
何故ならば、
「菩薩」の、
「得よう」と、
「志す」、
「阿耨多羅三藐三菩提」の、
「義」は、
「一」だからである。

2.6 法の平等性は、等覚を現わす門である

「法」とは、「義」に対する「法」である。即ち「義」を説くために、「法」はある。故に、「義」を有しない「法」は無意味である。

故に、こう説くのである、――
菩薩の、
「心」が、
「法」に対しても、
「平等」であるとは、
「阿耨多羅三藐三菩提」を、
「世間」に、
「現わす」為の、
「門」である。
何故ならば、
「菩薩」の、
「得よう」と、
「志す」、
「阿耨多羅三藐三菩提」は、
「自性」が、
「清浄」だからである。

2.6.1 自性が清浄であるとは、何か?

「大菩提」とは、言うまでもなく「阿耨多羅三藐三菩提」であり、「如来心の境界」を指す。故に、自性清浄には二義あり、一には、「仏」とは、「大慈大悲を以って、その自性と為す」が故に清浄であるというのであり、二には、「阿耨多羅三藐三菩提」という「法」も、既に「空」に過ぎざるが故に、それ自体、「虚空」の如く、「染汚されない!」という意味に於いて、「汚染されないが故に清浄である」というのである。

2.7 一切法の平等性は、等覚を現わす門である

既に、「法の平等」を説いた、今復た、「一切の法の平等性」を説く理由とは、何か?

即ち、先の「法」は、文章、乃至経論であり、今の一切法は、単語、乃至術語、言葉を指すものである。

故に、こう説くのである、――
「菩薩」の、
「心」が、
「一切の法」に対して、
「平等」であるとは、
「阿耨多羅三藐三菩提」を、
「世間」に、
「現わす」為の、
「門」である。
何故ならば、
「一切の法」を、
「分別」しても、
「阿耨多羅三藐三菩提」の、
「義」に対する、
「法(ことば)」は、
「無い!」からである。

2.7 四種の平等に、何を見るべきか?

さてここで、当然の疑問が出る、――
仏教の要諦である「平等性」を説くに当り、何故このような「金剛」、「義」、「法」、「一切法」という、但だ「四種の平等性」を出すのか?

ただ偶然、此の四種を択んだのであろうか? 恐らくそうではあるまい、此の中の二字、「義」と、「法」とは強く、「四無礙智」を連想させる。謂わゆる、「義無礙智」、「法無礙智」、「辞無礙智」、「楽説無礙智」である。

「大智度論巻25」に、「四無礙智とは、義無礙智、法無礙智、辞無礙智、楽説無礙智なり。義無礙智とは、名字、語言を用いて説く所の事にして、各各は諸法の相なり。謂わゆる堅相なれば、此の中に地の堅相なるは、是れ義なり。地の名字は、是れ法なり。言語を以って地を説く、是れ辞なり。三種の智中に於いて、説くを楽しんで自在なる、是れ楽説なり。此の四事中に於いて、通達して無滞なる、是れを無礙智と名づく」と言うに依れば、菩薩が法を説くに当り、以下の四種に於いて自在であり、礙(さわり)がないことである。

1
(artha)
今説こうとする法の要旨についての深い理解。
2
(dharma)
今説こうとする法の要旨を言葉として組み立てる文章の能力。
3
(nirukti)
法を説くに当り、単語乃至術語に対する深い理解。。
4 楽説
(pratibhaana)
法を説く相手が誰であろうと、気後れしない勇気と雄辯術。


「金剛」、「義」、「法」、「一切法」の平等性は、「四無礙智」の「楽説」、「義」、「法」、「辞」に相似である。即ち仏の説法に於いては、「楽説無礙」、「義無礙」、「法無礙」、「辞無礙」の四分を以って、全分と為すに対して、菩薩心の平等に関しては、「菩提心の平等」、「義の平等」、「法の平等」、「一切法(辞)の平等」と為すのである。

故に、次のようになる、――
1 金剛の平等性 無数の菩薩ありと雖も、菩提心は平等の一性であり、菩薩の肉身は不壊に非ずと雖も、菩提心は金剛の如く堅実不壊であることをいう。
2 義の平等性 法を説くに当り、所説の法の要旨に於いて、心を傾けない。
3 法の平等性 法を説くに当り、所説の法(即ち三蔵中の経論を含む)に於いて、心を傾けない。
4 一切法の平等性 法を説くに当り、阿耨多羅三藐三菩提も単なる言葉に過ぎない。即ち単なる単語乃至術語には心を傾けない。


3. 結論

以上を以って、
仏は、
是のように説かれたのである、――
寂静の法性である、
般若の理趣は、
「阿耨多羅三藐三菩提」を、
「世間」に、
「現わす」、と。

3.1 寂静の法性とは、何か?

即ち、次ぎの事を知るはずである、――
「寂静の法性」とは、
菩薩が、
法を説くに当り、
「義」にも、
「法」にも、
「辞」にも、
心を、
「平等」にして、
「傾けない」ことをいう、と。

3.2 注釈

前の、第一「菩薩句義門」に於いて、一切の衆生、一切の法は、「空」、或いは「平等」であるとする、菩薩の心地を説いたので、此の第二「現等覚門」に於いては、法を説くに当っての菩薩の心地は、「平等であって、一切のいかなる法に於いても傾かない」と説いたのである。






4.無戯論普勝法門

1. 無戯論は普く勝つ

爾の時、
世尊は、
一切の、
「悪法を調伏する!」という、
「釈迦牟尼如来の相」に依り、
諸の菩薩の為に、
こう説かれた、――
般若波羅蜜多とは、
「一切の法」を、
「摂受する」、
「平等性」という、
「甚深の理趣」であり、
「普勝の法門」である、
謂わゆる、――

1.1 釈迦牟尼如来の相

「法を説く」とは、「悪法を調伏する」ことに他ならないし、
「法を説く」のは、「釈迦牟尼如来」に他ならない。

故に、今、世尊はこう説かれたのである、――
般若波羅蜜とは、
「平等性」という、
「甚深の理趣」であり、
「普勝の法門」であるが、
この、
「平等性」中には、
「一切の法」を、
「摂受する(包含する)」のである、
謂わゆる、――

2. 謂わゆる、――

「貪欲」の、
「性」は、
「平等性」であり、
「無戯論」であるが故に、
「瞋恚」の、
「性」も、
「無戯論」である、
「瞋恚」の、
「性」は、
「平等性」であり、
「無戯論」であるが故に、
「愚癡」の、
「性」も、
「無戯論」である、
‥‥
「清浄法」の、
「性」は、
「平等性」であり、
「無戯論」であるが故に、
「一切法」の、
「性」も、
「無戯論」である、
「一切法」の、
「性」は、
「平等性」であり、
「無戯論」であるが故に、
こう知らなくてはならない、――
「般若波羅蜜多」も、
亦た、
「無戯論」である、と。

2.1 無戯論とは、何か?


「戯論がない」とは、何か?
「戯論(prapaJca)」とは辞書には、こうある、――
  1. (in dramatic language) ludicrous dialogue:(演劇)滑稽は台詞
  2. amplification:文体の敷衍性
  3. prolixity:文体の冗長性
  4. diffuseness:文体の散漫性
  5. copiousness:文体の饒舌性
  6. deceit:虚偽
  7. trick:ぺてん
  8. fraud:欺瞞
  9. error:間違い

「戯論」とは、要するに無駄口である、
故に、こう言うのである、――
一切の法は、
平等(空)という、
性である。
故に、
「貪欲」という、
性は、
「戯論するまでもない」。
‥‥
「一切の法」の、
性は、
「戯論するまでもない」、
故に、
「般若波羅蜜」の、
性も、
「戯論するまでもない」、と。

2.2 何が、挙げられているのか?

煩悩を中心とする一切の法、分類すれば次の通りである、――
1 三毒 根本煩悩
1 貪欲 貪り
2 瞋恚 怒り
3 愚癡 愚か
2 諸の煩悩
1 猶豫 疑惑
2 諸見 誤った見解
3 憍慢 おごり
4 諸纏 生死に繋縛するもの
3 悪業 悪因悪果
1 煩悩垢 諸の煩悩
2 諸悪業 十不善業
1 殺生
2 偸盗
3 邪淫
4 妄語
5 両舌
6 悪口
7 綺語
8
9
10
3 諸果報 悪業の果報
1 悪道
2 卑賎
3 貧窮
4 雑染の法 煩悩垢に染せられた法
5 清浄の法 生死を離れる善法
6 一切の法 一切の有らゆる法
7 般若波羅蜜 阿耨多羅三藐三菩提に至る道を照らす智慧

2.3 何故ならば、

此までを振り返ってみよう、
  1. 菩薩句義:菩薩は衆生と法との二空を以っての故に清浄である。
  2. 現等覚門:菩薩の本分は平等にあり、菩提心、義、法、一切法(辞)の平等を以って全分と為す。
  3. 普勝法門:菩薩が法を説くということは、戯論する為ではない。
何故ならば、
「大智度論巻36」に、「復た次ぎに一切の諸観の語言は戯論にして、皆実なる者無し。若し世間は常なりとせば、亦た然らず。若し世間は無常なりとせば、亦た然らず。衆生あり、衆生なし。辺あり、辺なし。我あり、我なし。諸法は実なり、諸法は空なり。皆、然らず。先に種種の論義門中に説くが如く、若し是の諸観は戯論にして、皆無ければ、云何が空ならざらん」と言い、
「仏遺教経」には、「汝等比丘、若し種種戯論せば、其の心則ち乱る。復た出家すと雖も猶お未だ得脱せじ。是の故に比丘当に急に乱心戯論を捨離すべし。若し汝寂滅の楽を得んと欲せば、唯当に速かに戯論の患を滅すべし。是を不戯論と名づく」と云うように、
一切の、
諸観の語言は、
皆、
「戯論」であるが故に、
正しく、
菩薩が、
法を、
説こうとする時に当って、
こう説いたのである、――
一切の法は、
「正法」であろうが、
「邪法」であろうが、
皆、
「空」である。
菩薩は、
一切の法に関して、
「他人」と、
「論義」してはならない。
若し、
「論義」したとしても、
それは、
「戯論」であり、
「実はない」、と。

3. 結論

菩薩は説法するに当り、戯論すべきでない。
何故ならば、一切の法は証明できないからである。

もう一度、先ほどの法の分類を見てみよう、――
  1. 諸の煩悩
  2. 煩悩により起こされる不善業
  3. 悪業の報
  4. 出離の法
  5. 一切の法
  6. 般若波羅蜜
要するに、是れに尽きるのであるが、はたして仏教の標榜する「善因善果、悪因悪果」、「諸悪莫作、修善奉行、自浄其意、是諸仏教」を外道と論じて、勝てる者がいるだろうか? 証拠を見せよと言われて、見せられる者がいるだろうか?


故に、こう言うのである、――
「仏」は、
こう説かれた、――
是のような、
「諸の悪業を調伏する」という、
「般若の理趣(智慧の道」)は、
相手が、
「誰であろう」と、
「普く勝つ法」である、と。





5.性清浄照明法門

1. 一切の法の、本性は清浄である

爾の時、
世尊は、
復た、
一切の法の、
「本性は清浄である」という、
如来の相に依り、
諸の菩薩の為に、
こう説かれた、――
般若波羅蜜多という、
一切の法は、
「平等の性」であるが故に、
「本性が清浄」であると、
「観る智慧」は、
一切の法に於いて、
「自在に観る」為の、
「妙智の印(通行証)」であり、
甚深の理趣という、
清浄の法門である、
謂わゆる、――

1.1 妙智の印とは、何か?

「妙智の印」とは、何か?
「印(梵語mudraa)」とは辞書に、こうある、――
  1. a stamp:印
  2. authorization:権限を与える
  3. a pass:通行許可証
  4. passport (as given by a seal) :旅券(印鑑をもって保証された)
要するに、
「妙智の印」とは、
智慧という、
「通行証」である。

何のような智慧か?
一切の法は、
「性として清浄である」と、
「観る智慧」をいう。
何のような通行証か?
一切の法に、
入る為の、
「通行証」である。
何故、通行証が必要なのか?
一切の法の、
「有無、空不空、善不善、染不染」等に、
惑わされない為に。

2. 謂わゆる、――

一切の、
「貪欲」の、
本性は、
「清浄」であり、
「極めて明るく照らす」、
故に、
世間の、
「瞋恚」をして、
「清浄」ならしめる。
一切の、
「瞋恚」の、
本性は、
「清浄」であり、
「極めて明るく照らす」、
故に、
世間の、
「愚癡」をして、
「清浄」ならしめる。
‥‥
一切の、
「有情」の、
本性は、
「清浄」であり、
「極めて明るく照らす」、
故に、
世間の、
「一切の智」をして、
「清浄」ならしめる。
一切の、
「智」の、
本性は、
「清浄」であり、
「極めて明るく照らす」、
故に、
世間の、
「般若波羅蜜多」をして、
「最勝の清浄」ならしめる。

2.1 十二縁起

「縁起」とは、「此れ有るが故に彼れ有り、此れ起るが故に彼れ起る」、又「此れ無きが故に彼れ無し、此れ滅するが故に彼れ滅す」を謂う。

2.1.1 無明~老死の十二因縁

謂わゆる「無明」→「行」→「識」→「名色」→「六処」→「触」→「受」→「愛」→「取」→「有」→「生」→「老死」→「純大苦聚積集」である。
即ち、「無明は行を縁じ、行は識を縁じ、乃至生は老死を縁じて乃ち純大苦聚集まるに至る」と観察し、次に逆に「無明滅するが故に行滅す、乃至生滅するが故に老死滅して、純大苦聚滅す」と観察する。
即ち、下表の通りである、
1 無明avidyaa 未学、無知
2 行saMskaara 経験、教育
3 識vijJaana 識別、知識
4 名色
naama- ruupa
名前と形色/
名称と事物との不同
5 六処
SaD- aayatana/
六入
SaD- gaama
眼等六根
6 触sparza 六根六境の接触/
内外の接触
7 受vedanaa 苦楽の感受
8 愛tRSNaa 渇愛、欲望
9 取upaadaana 執著
10 有bhaava 存在、輪廻
11 生jaata 自己の確立
12 老死
jaraa- maraNa
老と死
13  純大苦聚
kevalo duHkha- skandhaHが
積集する


2.1.2 貪欲~有情の十二因縁

本経の謂わゆる「貪欲」→「瞋恚」→「愚癡」→「疑惑」→「見趣」→「憍慢」→「纏結」→「垢穢」→「悪法」→「生死」→「諸法(一切法)」→「有情」→「一切智」→「般若波羅蜜多」である。
1 貪欲raaga 欲望、愛欲
2 瞋恚dveSa 憎悪、嫌悪
3 愚癡moha 愚昧、妄想
4 疑惑saMzaya 疑惑、猶豫
5 見趣
dRSTi- gata
邪見、邪教義
6 憍慢
adhi- maana
高慢、慢心
7 纏結
paryavasthaana- bandhana
三界の生死の因
8 垢穢mala 不浄、不浄物
9 悪法
paapa- dharma
不吉事
10 生死saMsaara 輪廻
11 諸法
sarva- dharma
一切法
12 有情sattva 衆生、生き物
13 一切智
sarva- jJaana
一切の智慧


即ち、下の如く因縁は連鎖する、
由縁 所果 理由
1 貪欲 瞋恚 貪欲に際限なく、常に満たされないが故に瞋恚を起こす
2 瞋恚 愚癡 瞋恚は心を乱して、正見を覆うが故に愚癡を起こす
3 愚癡 疑惑 真理を認めないが故に疑惑を起こす
4 疑惑 見趣 無我を疑うが故に有身見を生じて見趣を起こす
5 見趣 憍慢 自我の存在を認めるが故に、自我を恃んで憍慢を起こす
6 憍慢 纏結 自我に憍りて、省みざるが故に三界に纏結する因縁を起こす
7 纏結 垢穢 三界の垢穢とは、彼我、此彼、有無の分別をいう
8 垢穢 悪法 自他を分別するが故に他の衆生を軽んじて、殺盗等の悪法を起こす
9 悪法 生死 悪法は他生の因縁となる
10 生死 諸法 生死とは人の身心をいい、一切法は人心中に起る
11 諸法 有情 諸法とは色受想行識の五蘊をいい、五蘊中に人の身心が起る。即ち有情、衆生である
12 有情 一切智 有情の心中に一切智は起り、自己の身心の空を覚る


2.1.3 二種の十二因縁間に、関係はあるのか?

恐らく有るものと思われる、試みれば凡略次の通り――

1 無明 貪欲 無明の本性
2 瞋恚 貪欲に基づく経験は瞋恚を集める
3 愚癡 瞋恚を含む知識の本性
4 名色 疑惑 言葉と意味の間に疑惑を生じる
5 六処 見趣 見聞の所に自他の差別を生じる
6 憍慢 外境と接触して自我を確立する
7 纏結 苦楽の受は三界の纏結
8 垢穢 渇愛は煩悩の垢穢
9 悪法 執著は即ち悪法の根本
10 生死 有は即ち三界の生死
11 諸法 五蘊は即ち生
12 老死 有情 老死は有情を離れず


2.2 何を清浄にするのか?

解りやすくする為に、連鎖を書き直そう、――

一切の、
「貪欲(愛欲)」は、
本性が、
「清浄」であり、
極めて、
「世間」を、
「明るく照らす」、
故に、
「世間」の、
「瞋恚」を使って、
「一切の法(衆生、道)」を、
「浄めさせる」、
「能力がある」。
一切の、
「瞋恚(嫉妬)」は、
本性が、
「清浄」であり、
極めて、
「世間」を、
「明るく照らす」、
故に、
「世間」の、
「愚癡」を使って、
「一切の法」を、
「浄めさせる」、
「能力がある」。
‥‥
一切の、
「智慧」は、
本性が、
「清浄」であり、
極めて、
「世間」を、
「明るく照らす」、
故に、
「世間」の、
甚深の、
「般若波羅蜜多」を使って、
「一切の法」を、
「最勝清浄にさせる」、
「能力がある」。

2.3 貪欲が瞋恚を使って、一切法を清浄にする

「貪欲が、世間の瞋恚を使って、一切の法を清浄にする」とは何をいうのか?

2.3.1 「摩登伽経」の例

「摩登伽経」を例に引いて見てみよう。
「摩登伽(まとうが、梵語maataGga)」とは、印度カースト上に於ける最下等の種族である。

尊者阿難が、ある日、舎衛城に入って乞食し、精舎に還る途中のことである。ある大きな池の辺で、聚落の人たちが集まって遊んでいた。
阿難は喉が渇いたので、瓶器を手に持って水を汲みに来ていた旃陀羅(せんだら、今の不可触賎民)種の女に水を乞うた。旃陀羅の女は言った、
――「大徳、物惜しみする訳ではございませんが、但だわたくしの身は、旃陀羅の女です。もし施せば、恐らくは宜しくないのではございませんでしょうか?」と。
阿難は言った、
――「姉妹、わたくしは出家ですので、心は平等で、豪貴も下劣も差別がありません。但だちょっと施してくださる訳にはまいりませんでしょうか?」と。
――「よろしうございます」、しばらく考えて、その女人は、浄水を阿難に与えた。阿難は飲みおえて、精舎へ還った。此の女は、阿難が立ち去ると、その容貌、音声、語言、威儀等の相を取り、染著を生じた。
女人の欲心は猛り盛って、こう心に念じた、
――「あの去ってゆく比丘を、わたしの夫にするっていうのは、そんなに善くないことかしら?」と。そして復たこう念じた、
――「お母様は、咒(まじない)が、お上手だから、彼れを来させて、わたしの夫にさせて下さるかも知れない。 還ったら、お母様にこの事を、上手に話さなくては‥‥」と。
女人は、水を手にして家に還ると、その母にこう言った、
――「阿難比丘は、仏の弟子ですが、その方を愛してしまい、恋しくてなりません。夫になって頂きたいのですが、お母様の力ならば、何とかして頂けるのではないでしょうか?どうかお願い、哀れとお思いになって、わたしの願いを満たしてください!」と。
母は女(むすめ)に、こう語って言った、
――「二種の人がいてね、この人たちには、咒を加えたからって、何うできるものでもないのだよ。謂わゆる欲を断った人と、死人だね、その他の者は、わたしでも何とかなるんだがねえ、沙門(しゃもん、出家)瞿曇(くどん、釈迦族の姓)は威徳が高くって、波斯匿(はしのく)王でさえ信じきって敬っていられるのだからねえ、もし話が漏れて、わたしが阿難を引っぱって来させたなんてことが世間に知られた日にあ、旃陀羅の一族は皆殺しにされたってしかたないんだよ。それに瞿曇の煩悩は已に尽きていて、その眷属も皆、欲を離れているっていうじゃないか。わたしが、昔、聞いたことだがね、生死を断った者は、恭しく敬うのが当たり前、まして、そんな人に悪業を起こそうなんて者が、いようものかね」と。女は、これを聞いて泣きながら、こう言った、
――「もしお母様が、阿難を来させてくれなければ、わたしはきっと死んでしまいますわ、瞿曇が、わたしの願いを邪魔するんなら、ながく生きていかれるはずがありませんもの。もし阿難が来てくれれば、他には何にもいらないわ」と。母はその言葉を聞いて、痛ましくおもい、とても賛成できなかったが、女にはこう言ってやった、
――「簡単に命を捨てるんじゃないよ、わたしがきっと阿難を此に来させてやるからね」と。そして屋内に牛糞を以って祭壇を築くと、大猛火を燃やして、その中に百八枚の花弁をもつ白い花を投じながら呪文を唱え、そしてこう言った、
――「天よ、魔よ、火神よ、乾闥婆(けんだつば、楽神)よ、地神よ、わたしの呪文を聞いた者は、急ぎ阿難を此に来させよ!」と。
この言葉が出されるやいなや、尊者阿難の心は迷い乱れて、知らないうちに歩いて外に出、旃陀羅の家に向っていた。その時、母は、遙か遠くより、阿難がゆっくり近づいて来るのを見て、その女にこう言った、
――「阿難比丘が、もう近くまで来ているよ、お前は早く茵蓐(しとね)を敷いて、香を薫きしめ、花を散らして、室を丁寧に飾りつけるのだよ!」と。女は、母の言葉を聞いて歓喜し、小躍りしながら、室を飾りつけ、水を打って掃き浄めると、座を安置して、珍しい花をまき散らした。
その時、阿難は、その家に着くと、涙を流して泣きながら、こう言った、
――「このような苦難に遇っているのに、わたしを助けようとする天はいないのか?大悲世尊、哀れみを垂れ、悩ませ害する者からわたくしをお護りください!」と。その時、世尊は、天眼を以って阿難が、彼の女人の為に、惑わされ乱されているのを見て、阿難を擁護する為に、呪文を説いて、そしてこう言われた、
――「わたしは、この呪文を以って、一切の怖畏の衆生を安隠にし、また諸の苦悩の者を利益し安んじよう。若し有る衆生が、帰依する処が無ければ、わたしが真実の帰依と作るだろう」と。阿難は、仏の神力によって、咒の効力が無くなると、その家を出て、精舎に還っていった。
阿難が帰るのを見ながら、女は、その母にこう言った、
――「比丘は帰ってしまいました!」と。母は、女にこう教えてやった、――「沙門瞿曇が神力を以って、守護したのに決っているよ、何しろ、わたしの呪文を破ってしまったのだからね」と。女は、母にこう言った、
――「沙門瞿曇の神力の方が、お母様より上なんですって?」と。母は、女に語って、こう言った、
――「沙門瞿曇の徳の力は深くて広く、わたしなんぞの、とても及ぶ所ではないんだよ。たとい世間の一切の呪術を兼ね合せたって、皆、破られて、何も残らないっていうぐらいでね、逆に破った者なんて、何処にもいないんだから、だから分るだろう?瞿曇より上の者なんて、いるはずがなかったんだよ」と。
旃陀羅の女は、その夜が過ぎると、沐浴して身に浄衣を着け、頭上に華鬘を戴いて、身体に香を塗り、金銀の環を飾って、瓔珞を佩びると、ゆっくりと城門に向って行き、そこで阿難を待った。
阿難は、早朝、城に入って乞食した。女は、それが来るのを見て、深く喜び、阿難の後に従って、進止、出入を共にして、片時も離れず、常に後を逐うて歩いた。阿難はその事を極めて恥ずかしく思い、憂いて惨めな気持を懐いたまま城を出て、精舎に帰ると、仏の足に礼して、一面に坐し、仏に向って、こう言った、
――「世尊、旃陀羅の女がわたしを悩まして、行住進止を共にし、片時も離れません。願わくは、世尊、慈しんでお護りください」と。仏は、阿難にこう告げられた、
――「愁いて悩むことはない、お前の難を免れさせてやろう。」と。
その時、仏は女人に告げて、こう言われた、
――「あなたは、阿難を夫にしたいのですか?」と。女は言った、
――「瞿曇様の、仰やるとおりでございます」。仏は言われた、
――「善良な女の婚姻の法は、父母の許しを得る必要があるが、あなたはもう既にご両親の了解を得ているのですか?」と。答えて言った、
――「瞿曇様、父母に許されて、此に来ております」。仏は言われた、
――「もしあなたのご両親が、既に許されているのなら、自ら来られて、手渡すべきであると、お伝えください」と。
女は、この言葉を聞くと、仏に礼して退き、父母の家で拝礼した後、威儀を正して、こう言った、
――「わたしは、阿難を夫にしたいと思います。ただ願わくは、哀れみを垂れ、わたくしと共に往き、お手づからわたくしを、お与えくださいませ」と。父母が仏の所に往き、仏の足を頂礼して座に就くと、女は言った、
――「瞿曇様、わたくしの両親でございます」。
世尊は、こう問われた、
――「あなたが、女を阿難に与えるというのは、本当の事ですか?」。答えて言った、
――「世尊、誠に仰やるとおりでございます。」。仏は、こう言った、
――「ではもう、家にお帰りください」。女の父母が、仏に礼して退くと、如来は女人に、こう告げられた、
――「お前は、阿難を夫にしたいと思うなら、出家して、沙門の姿に変わらなくてはならない」と。答えて言った、
――「はい、仰やるとおりに致します」。仏は言われた、
――「善く来た!」と。
女が髪を落し、法衣を身に着けると、仏は女の為に法を説いて利益し、喜ばせられた、――
謂わゆる「布施の論」、「持戒の論」、「生天の論」、「欲は不浄であり、欲を離れることが最善である」、「欲には、多くの苦が積集する」、「欲を味わえば、どんなに少しでも、過失、災患は甚だ多い」、「譬えば蛾が飛べば、愚癡の故に焔に身を投じて、自らを焼くように、凡夫は、不浄と浄とを顛倒して染著を生じ、渇愛に逼られる。故に智者は、欲を捨てて遠ざけ、暫くも愛楽の想を起こさない」と。比丘尼は、これを聞いて喜びを生じ、意が転じて調い伏した。
世尊は比丘尼の心が柔軟になって煩悩を離れたことを知り、更に広く四真諦の法を説かれた、――
謂わゆる「是れが苦である」、「是れが苦を集める」、「是れは苦が滅したのである」、「是れは苦を滅する道である」と。比丘尼はパッと意が解けて四聖諦を悟った。
譬えば新しい浄白の布地が、色を受けて染められたように、座上に坐ったままで、不退転の阿羅漢道を得て、他の教に随わず、仏の足を頂礼して、仏にこう言った、
――「わたくしは、先に愚癡と欲との酒に酔わされて、賢聖の心をかき乱し、不善業を造りました。ただ願わくは世尊、わたしの懺悔をお聴きください」と。仏はこう言われた、
――「わたしは、已にお前の懺悔を受けた。お前は今知るがよい、仏の世には遇いがたく、人の身は得がたく、生死の解脱は得がたく、阿羅漢も亦た甚だ得がたい事を。お前は已にこれを得た。仏法中に真実の果を得た。
謂わゆる生死は已に尽き、清浄行は已に立ち、作すべきは作しおわった。お前は、今より宜しく、精進して放逸を慎むがよい」と。
その時、城中の諸の婆羅門の長者や、居士は、仏が旃陀羅の女を度して、出家させ、道を為させたと聞いて、嫌悪を生じ、忿怒して、こう言った、
――「この下賎の種族が、何うして比丘や、比丘尼にまじって、道を為しているのだ!」、
――「何うして諸の貴家に入って、供養を受けられるのか!」、是のような議論が、あちこちで起り、やがて波斯匿王の聞く所となった。
王は是れを聞いて極めて驚き、乗り物を用意させると、前後を家臣に囲遶させ、精舎に到ると、車を下りて歩いて進み、仏の足に礼して、座に坐った。その時、仏は、諸の比丘にこう告げられた、
――「お前たちは、本性(プラクリチ、比丘尼の名)比丘尼の過去世の因縁を聞きたいか?」と、諸の比丘は言った、
――「はい、聞きたいと思います」。
この時、仏は、諸の比丘の為に、過去世の旃陀羅摩登伽種の帝勝伽王が、その子の師子耳の為に、婆羅門種の蓮華実の女を娶りし因縁を広く説かれたのであった。略して要を述べると、こうである、
――「過去世、帝勝伽王が蓮華実の女の来稼を求めると、彼の婆羅門が大いに怒りたるにより、帝勝伽王は四姓平等にして貴賎の別なきことを説き、更に四姓平等の由来を説いた。次いで蓮華実婆羅門の問いに応じて、王はまた二十八宿の占星術の法、星紀運行善悪の法、昼夜長短の時期、漏刻の法、里数由旬の法、月会宿の法、出閏の法等の暦数法等を説くに及んで、蓮華実婆羅門は帝勝伽王を讃じて、遂にその女を師子耳に与えるに至った」。
更に、仏は諸の比丘の為に、こう説かれた、
――「この時の摩登伽王とは、わたしの身が是れである。蓮華実とは舎利弗が是れである。師子耳とは阿難が是れである。その時の女とは、今の本性比丘尼が是れである。此の二人は、過去世に夫婦であったが、未だに愛心が抜けず、今、この故に後を逐っているのである」と。
仏が、此の経を説かれると、六十の比丘は煩悩の塵垢を離れて阿羅漢を得、諸の婆羅門は法眼浄を得て、諸の法を有りのままに見ることができるようになった。


「貪欲が、世間の瞋恚を使って、一切の法を清浄にする」とは、これを言うのである、
即ち、
  1. 女は貪欲(愛欲)の故に出家して道を得た。
  2. 女の貪欲は、婆羅門を瞋恚させ、法を聞いたが故に、婆羅門の一切の法を見る眼が清浄になった。

3. 結論

菩薩は、理想の世界を建立して、阿耨多羅三藐三菩提を成就すれば、もう仏と呼ばれて、菩薩と称されることはない。謂わゆる煩悩に汚染された不浄の世界、これが菩薩の働く場所である。菩薩としては汚いだの、綺麗だのと言っていられないというのが、道理である。

譬えば菩薩を、戦場で働く軍医だとしてみよう。公民館とか、大きめの家を徴収して野戦病院としたが、そんな所へも手足のちぎれた人、腸のはみ出た人、頭の割れた人、目玉のこぼれ落ちた人等が、続々と運びこまれてくる。次から次と、寸暇を惜しんで手術しなければならないのに、傷病者は泥にまみれ、水で洗おうにも水を汲むべきバケツすら十分ではない。軍医の手は血と泥でよごれ、メスは血まみれ、煮沸消毒どころか、アルコールで消毒することすらままならない。菩薩も、まったく是れと同じなのである。

故に、こう言う、――
是のように、
般若波羅蜜多という、
「清浄の理趣」を、
「信解、受持、読誦、修習」すれば、
一切の、
「貪欲、瞋恚、愚癡」等の、
「客塵煩悩の垢穢」中に在っても、
「煩悩」に、
「汚染されない」、
譬えば、
「蓮華の華」が、
一切の、
「客塵垢穢」の為に、
「汚染されない」ように、と。

:「客塵煩悩(梵語aagantu-kleza)」:来客か、塵埃のように外から来た煩悩をいう。






6.一切施智蔵法門

1. 君主の布施

爾の時、
世尊は、
復た、
一切の、
「三界の勝主」という、
「如来の相」に依り、
諸の、
「菩薩」の為に、
こう説かれた、――
「般若波羅蜜多」は、
「一切の如来」が、
「和合して」、
「潅頂する」、
「甚深の理趣」であり、
「智蔵の法門」である。
謂わゆる、――

1.1 一切の三界の勝主とは、何か?

「勝主adhipati」は、主宰、又は君主の義。即ち一切の三界を主宰する最勝の君主をいう。又「大施主mahaa- daanapati(気前のよい君主)」でもある。

「潅頂(梵abhiSeka)」は、印度の帝王の即位、又は立太子の儀式中、頭頂に水を潅ぐ儀礼をいう。

1.2 一切の如来が和合して潅頂するとは、何か?

即ち、この「大施主」は、一切の如来によって、潅頂されている。

1.3 智蔵の法門とは、何か?

「智蔵(梵jJaana-garbha)」とは、智慧を秘蔵するの意。

菩薩は六波羅蜜を行ずるに当り、「我れは六波羅蜜を行う」とも謂わず、「我れは六波羅蜜を行う」とも知らずに、世間の布施等を行うのであるが、これは、皆、如来の意に称(かな)うものであり、「六波羅蜜を行う」と認められるのである。

2. 謂わゆる、――

若し、
「世間」の、
「潅頂位(王位)」を以って、
「施す」ならば、
「三界」の、
「法王位」という、
「果」を、
「得る」だろう、
若し、
「出世間」の、
「無上」の、
「義」を、
「施す」ならば、
「一切」の、
「希願」の、
「満足」を、
「得る」だろう、
若し、
「出世間」の、
「無上」の、
「法」を、
「施す」ならば、
「一切」の、
「法」に於いて、
「自在」を、
「得る」だろう、
若し、
「世間」の、
「財、食」等を、
「施す」ならば、
「一切」の、
「身、語、心」の、
「楽」を、
「得る」だろう、
若し、
種種の、
「財、法」等を、
「施す」ならば、
「布施波羅蜜多」をして、
「速かに」、
「円満ならしめられる」だろう、
若し、
種種の、
「清浄」の、
「禁戒」を、
「受ける」ならば、
「浄戒波羅蜜多」をして、
「速かに」、
「円満ならしめられる」だろう、
若し、
一切の、
「事」に於いて、
「安忍」を、
「修学する」ならば、
「安忍波羅蜜多」をして、
「速かに」、
「円満ならしめられる」だろう、
若し、
一切の、
「時」に於いて、
「精進」を、
「修習する」ならば、
「精進波羅蜜多」をして、
「速かに」、
「円満ならしめられる」だろう、
若し、
一切の、
「境」に於いて、
「静慮」を、
「修行する」ならば、
「静慮波羅蜜多」をして、
「速かに」、
「円満ならしめられる」だろう、
若し、
一切の、
「法」に於いて、
「妙慧」を、
「常修する」ならば、
「般若波羅蜜多」をして、
「速かに」、
「円満ならしめられる」だろう。

2.1 世間・出世間中の布施と六波羅蜜

施す所と、その果とを表にすれば、次のとおり、――
1 世間 潅頂位/
王位
無形 三界の法王位の果
2 出世間 無上義/
涅槃
無形 一切の希願満足
3 出世間 無上法/
三蔵
有形 一切法に於いて自在
4 世間 財、食/
財物
有形 一切の身語心の楽
5 種種 財、法 布施波羅蜜多の円満
6 種種 持浄戒 浄戒波羅蜜多の円満
7 種種 安忍 安忍波羅蜜多の円満
8 種種 精進 精進波羅蜜多の円満
9 一切境 静慮 静慮波羅蜜多の円満
10 一切法 妙慧 般若波羅蜜多の円満

2.2 「世間の潅頂位」と「出世間の無上義」

「潅頂位 abhiSeka- avasthaa」は王位、「無上義 anuttaraartha」は涅槃の意、共に無形のもの。即ち、「世間/出世間」の「最上」中、「無形」の者をいう。

:「潅頂位を以って施す」とは、王位を施すの意。


2.3 「出世間の無上法」と「世間の財食」

「無上法 anuttara- dharma」は法宝、三蔵を指し、「財食等施 dravya- dharma」は財産、富を指し、共に有形、即ち、「世間/出世間」中の、「有形」の者である。

:「財食等の施」と言うも、「無上の」と言わない。


2.4 六波羅蜜中の布施

「六波羅蜜」中には各、布施を含んでいる、――
1 布施波羅蜜多 惜しみなく与える
2 浄戒波羅蜜多 命を取らない=命を与える
3 安忍波羅蜜多 取られても怒らない
4 精進波羅蜜多 常に息まず与える
5 静慮波羅蜜多 慮を息めて与える
6 般若波羅蜜多 施者、受者、財物中に分別しない

「六波羅蜜」は、復た行者と他人との関係を示す、――
1 布施波羅蜜多 財、法を与える
2 浄戒波羅蜜多 持戒を与える
3 安忍波羅蜜多 忍辱を与える
4 精進波羅蜜多 精進を与える
5 静慮波羅蜜多 静慮を与える
6 般若波羅蜜多 般若を与える

即ち「菩薩」の義とは、常に「与える人」でなくてはならない。

3. 結論

以上を以って知る、この段のテーマは、「施し(daana)」である。
即ち、行者は「三界の勝主(王)」となって、衆生の為に、世間/出世間、有形/無形の財、法を常に施さなくてはならない。

故に、こう言う、――
若し、
是のような、
「潅頂(即位)」という、
「甚深の理趣」である、
「智蔵の法門」を聞き、
「信解、受持、読誦、修習」するならば、
諸の、
「菩薩行」を満足して、
疾かに、
「無上正等菩提」を、
「証する」だろうと。






7.菩提心金剛法門

1. 仏の身、語、心業

爾の時、
世尊は、
復た、
一切の如来の、
「智印」は、
一切の仏の、
「秘密の法門」を、
「持する」という、
「如来の相」に依り、
諸の、
「菩薩」の為に、こう説かれた、――
「般若波羅蜜」は、
一切の如来の、
「住持する!」、
「智印である!」という、
「甚深の理趣」であり、
「金剛の法門」である、
謂わゆる、――

此の中には、次の事を説く、――
  1. 如来の智慧は、
    1. 印であり、
    2. 秘密の法門を保証する。
  2. 般若波羅蜜は、
    1. 如来の智印であり、
    2. 金剛の法門である。

1.1 秘密の法門とは、何か?

法身仏の三業を以って説かれたる法門をいう、――
  1. 如来の身業、
  2. 如来の語業、
  3. 如来の心業。
「如来の教法」は、常に法身の仏の三業を以って説かれているが、凡人には、知り難いが故に秘密の法門と称するも、その法門は常に開かれており、隠されている訳ではない。

1.2 金剛の法門とは、何か?

「金剛(vajra)」は、堅固なる菩提心の譬喩、即ち菩提心に基づく法門を指す。故に「金剛法門」とは、「菩薩の法門」の意である。

2. 謂わゆる、――

若し、
具(つぶさ)に、
一切の、
「如来」より、
「金剛(菩提心)」の、
「身である!」という、
「印(保証)」を、
「摂受する」ならば、
一切の、
「如来」の、
「法身」を、
「証する」だろう、
若し、
具に、
一切の、
「如来」より、
「金剛」の、
「語である」という、
「印」を、
「摂受する」ならば、
一切の、
「法」に於いて、
「自在」を、
「得る」だろう、
若し、
具に、
一切の、
「如来」より、
「金剛」の、
「心である」という、
「印」を、
「摂受する」ならば、
一切の、
「定(三昧)」に於いて、
「自在」を、
「得る」だろう、
若し、
具に、
一切の、
「如来」より、
「金剛」の、
「智である」という、
「印」を、
「摂受する」ならば、
最も、
「上妙」の、
「身、語、心」を、
「得る」ことができ、
「金剛」よりも、
猶お、
「無動、無壊」となるだろう。

2.1 如来の金剛身、語、心、智を摂受するとは?

「身印(kaaya- mudraa)」は、
「如来に等しき身の活動能力(Our activity becomes the same as all Buddha's bodies (activity))」の意であり、
「一切如来金剛身印(sarva- tathaagata- vajra-kaaya- mudraa)」は、
「一切の如来に等しく金剛の如き身の活動能力」の意であるが、

「金剛(vajra)」は、
「菩薩」の、
「菩提心の堅固なることの譬喩」でもあるが故に、
「一切如来金剛身印」は、
「一切の如来」に、
「保証された」、
「菩提心に基づく身業」の意となり、
即ち、
「菩薩の菩提心」は、
「一切の如来」より、
「印を授与されている」が故に、
「菩薩の身業」は、
「一切の仏」に、
「印を以って保証されている」の意となる。
亦た、
「金剛語」、「金剛心」、「金剛智」も同じである。

金剛菩提心の業/果を表にすれば、次の通り、――
1 身業 如来の法身を証する
2 語業 説法に於いて自在を得る
3 心業 定(三昧)に於いて自在を得る
4 智業 最上妙の身語心を得る


即ち、菩薩の菩提心に基づく身、語、心、智の業は、今は拙くとも、やがて必ずその最上を得るものであると説く。

「摂受(saMgraha)」は、受納、獲得、修得の義。菩薩の三業等は如来の保証する所なることを印に喩えたが故に、印を集めるの義を以って、「具に摂受する」と言う。

「智業」は、菩薩所有の智慧は、唯「般若波羅蜜」に集約するが故に、他の智業はない。

3. 結論

「金剛法門(菩薩法門)」、
即ち、
「菩薩」の、
「菩提心」に基づく、
「身、語、心、智業」は、
皆、
「如来」より、
「智印」を、
「摂受する」が故に、
「秘密法門」、
即ち、
「如来」の、
「身、語、心、智業」に、
「住持する」に等しい。

故に、こう説く、――
若し、
是のような、
「智印」という、
「甚深の理趣」である、
「金剛の法門」を聞いて、
「信解、受持、読誦、修習」できれば、
一切の、
「事業」は、皆、
「成就」して、
常に、
一切の、
「勝事(如来の仕事)」と、
「和合」し、
欲するがままに、
一切の、
「勝智(如来の智慧)」を、
「修行」して、
諸の、
「勝れた福業」が、
皆、
速かに、
「円満する」ので、
当然、
「最勝」に、
「清浄」な、
「身、語、心」を、
「獲得する」ことになり、
猶お、
「金剛」よりも、
「破壊されない!」ので、
疾かに、
「無上正等菩提」を、
「証する」だろう、と。






8.無戯論性空法門

1. 無戯論

爾の時、
世尊は、
復た、
「一切の法」には、
「戯論」が、
「無い」という、
「如来の相」に依り、
諸の、
「菩薩」の為に、こう説かれた、――
「般若波羅蜜多」は、
「甚深の理趣」であり、
「輪字の法門」である、
謂わゆる、――

1.1 一切法無戯論

「一切法無戯論(sarva- dharmaaprapaJca)」とは、仏法と仏法以外とを問わず、「一切の有らゆる法には戯論する所が無い」ことをいう。

「戯論(prapaJca)」には、次の義がある、――
  1. discourse: 談話
  2. ideational proliferation:観念の増殖
  3. metaphysical speculation:形而上学的推測
  4. intellectual frivolity:知的な軽薄
  5. intellectual play:知的な遊び
  6. [龍樹]words that conceal and cover reality, which are nothing but subjective counterfeits, and lead sentient beings further into ignorance and affliction:真実を覆い隠して、偽り以外の何者もなく、遙か遠くの無智と苦悩に導く言葉
  7. [大智度論]各各自依見/戲論起諍競/若能知彼非/是為知正見/不肯受他法/是名愚癡人/作是論議者/真是愚癡人/若依自是見/而生諸戲論/若此是淨智/無非淨智者:各各は自らの見に依りて/戯論して諍競を起こす/若し能く彼れの非を知らば/是れを正見を知ると為し/肯て他法を受けざらん/是れを愚癡の人と名づけ/是れと論義を作す者は/真に是れ愚癡の人なり/若しは自ら是とする見に依りて/而も諸の戯論を生ず/若し此れにして是れ浄智ならば/浄智に非ざる者無けん

1.2 輪字法門

「輪字(cakra-akSara)」には、二義ある、――
  1. 輪(cakra)とは、法輪(dharma- cakra)、字(akSara)は、語或いは字の義、またa-kSaraと釈して、即ち不壊、不死の義と解して、即ち如来の法輪中の語の不死不壊なることの意と為す。
  2. 輪は、衆多の輻(ヤ)が轂(コシキ)より出で、輞(オオワ)を支えるを以って、一切の法には多くの側面あることの譬喩と為す。

即ち、「空(zuunya)」は、又「第一義」とも称し、不可破、不可壊であるが、これには多くの異名があり、これが本門のテーマである。

「第一義(paramaartha)」:[大智度論巻31]に依れば、「第一義空とは第一義は諸法実相に名づく、破せず壊せざるが故なり。是の諸法実相も亦た空なり。何を以っての故に受なく著なきが故なり。若し諸法実相にして有ならば応に受くべく応に著すべし。実なきを以っての故に受けず著せず。若し受著あらば即ち是れ虚誑なり。」とある。

2. 空の異名

空の異名として、次ぎの14種を挙げる、――
一切法      理  由
1 自性が無い
2 無相 衆相を離れる
3 無願 願う所が無い
4 遠離 著する所が無い
5 寂静 永く寂滅する
6 無常 性が常に無い
7 無楽 楽しむべき所が無い
8 無我 自在でない
9 無浄 浄相を離れる
10 不可得 性を推尋しても得られない
11 不思議 性を思議しても有する所が無い
12 無所有 衆縁和合の仮の施設である
13 無戯論 本性は空寂であり
言説を離れる
14 本性浄 甚深般若波羅蜜多の、
本性は浄である

此の中、一切法の空、乃至無戯論は、皆、法の自性の無、乃至空寂なることを説くものであるが、第14項に至って、本性の浄を説くところに注目すべきである。

2.1 般若波羅蜜多の故に、法の本性が浄いとは?

「般若波羅蜜多」は、智慧の一種であるが故に、菩薩心中に生ずるものであり、その菩薩心を通して見るが故に、一切法の本性は清浄なのである。

即ち、第1「空」、乃至第13「無戯論」に於いて、一切法の自性は自然に「無」、乃至「空寂」であるとしたものの、此の第14「本性浄」に至って、初めてその由来を明かして、皆、菩薩心中の「般若波羅蜜多(即ち慈悲にもとづく空観)の働き」に由るものであるが故に、「一切の法は、本性として浄い(e.g.四姓平等)」と説いて、即ち上の「空」、乃至「無戯論」と同値であると説くのである。

3. 総説

3.1 諸の戯論を離れるとは、何か?

即ち、「空」、乃至「無戯論」は、菩薩心中の「般若波羅蜜多の働き」に由るが故に、その概念は他人と共有する所ではない。即ち戯論の余地は無いのである。
故に、こう説く、――
仏は、
是のように、
諸の、
「戯論」を、
「離れた」、
「般若の理趣(智慧の道)」である、
「輪字の法門(菩薩心という法門)」を、
「説きおえられた」と。

3.2 結論

故に、こう説く、――
若し、
此の、
「無戯論」の、
「般若の理趣」である、
「輪字の法門」を、
「聞いて」、
「信解、受持、読誦、修習」したならば、
「一切の法」に於いて、
「無礙の智」を、
「得る」ことになり、
速かに
「無上正等菩提」を、
「証する」だろう、と。





9.入広大輪平等性門

1. 広大輪に摂する

爾の時、
世尊は、
復た、
一切は、
「如来の輪」に、
「含まれる」という、
「如来の相」に依り、
諸の、
菩薩の為に、
こう説かれた、――
「般若波羅蜜多」は、
「広大な輪(観想の処)」に、
「悟入する」為の、
「甚深の理趣」であり、
「平等性の門」である、
謂わゆる、――

1.1 広大の輪とは、何か?

「輪(cakra)」とは、観想の場所である。
「瑜伽行者(yogaacaara)」は身体に6処の全宇宙に通ずる神秘的中枢を認め、そこを観想することにより、全宇宙に接することができるとする、――
  1. 陰部(muuladhaara- cakra)
  2. 臍部(svaadhiSThaana- cakra)
  3. みぞおち(maNi- puura- cakra)
  4. 喉部(anaahata- cakra)
  5. 眉間(vizuddha- cakra)
  6. 泉門、頭頂部(aajJaakhya- cakra)

此の門では、此の瑜伽行者の例に倣い、菩薩行の行者は自己の菩提心中に、種種の想処(cakra)を仮設し、その平等の性を観察して、他の一切と同じであると悟入することを説く。即ち一自己を以って、一切に対することをいう。

1.2 平等性の門とは、何か?

即ち、一切の法に於いて、その相は種種の差異を有するも、その本性は同一であると知ることにより、阿耨多羅三藐三菩提に至ることをいう。

2. 平等性に入る者は、一切に入る

行者に、「何々の平等性に入れ」と教示し、併せて、「一切に入れるのだから」と、その理由を述べる。

所入の法、所得の法、及び所得の義を次に示す、――
グループ 平等の性 一切の性 性の義
1 菩薩所有 金剛/
菩提心
如来の性 慈悲/
楽説/
不可得
2 義/
実践、方便
菩薩の性 方便/
不可得
3 法/
教、経
法の性 般若経/
三蔵/
不可得
4 衆生所有 蘊/
五蘊
蘊の性 空/
無所有
5 処/
十二処
処の性
6 界/
十八界
界の性
7 法施分別 諦/
四聖諦
諦の性 空/
無所有
8 縁起/
十二縁起
縁起の性
9 財施分別 財宝 宝の性 空/
無所有
10 食の性
11 善悪分別 善法 善法の性 空/
無所有
12 不善法/
非善法
非善法の性
13 有無分別 有記法 有記法の性 空/
無所有
14 無記法 無記法の性
15 有漏法 有漏法の性 空/
無所有
16 無漏法 無漏法の性
17 有為法 有為法の性 空/
無所有
18 無為法 無為法の性
19 俗離分別 世間法 世間法の性 空/
無所有
20 出世間法 出世間法の性
21 衆生分別 異生法/
凡夫法
異生法の性 空/
無所有
22 声聞法 声聞法の性
23 独覚法 独覚法の性
24 菩薩法 菩薩法の性
25 如来法 如来法の性
26 有無分別 有情/
衆生
有情の性 空/
無所有
27 一切/
非衆生法
一切の性


2.1 四無礙智との関連

四無礙智とは、先に示した所の、「義無礙智」、「法無礙智」、「辞無礙智」、「楽説無礙智」であるが、下に表を再掲する、――
1 義無礙智/
(artha)
今説こうとする法の要旨についての深い理解。
2 法無礙智/
(dharma)
今説こうとする法の要旨を言葉として組み立てる文章の能力。
3 辞無礙智/
(nirukti)
法を説くに当り、単語乃至術語に対する深い理解。。
4 楽説無礙智/
(pratibhaana)
法を説く相手が誰であろうと、気後れしない勇気と雄辯術。


仏菩薩の説法は、「義」、「法」、「辞」、「楽説」の四分を以って全分と為すものであるが、菩薩の観察に於いても、相似の事を以って一切を分類することができる。
即ち次の表の通りである、――
1 金剛平等性 楽説 菩提心の平等性
菩薩は一切の衆生を平等に見て、心を傾けない
2 義の平等性 義の平等性
菩薩は一切の法義を平等に見て、心を傾けない
3 法の平等性 法の平等性
菩薩は一切の経論を平等に見て、心を傾けない
4 その他の平等性 辞の平等性
菩薩は一切の単語、乃至術語を平等に見て、心を傾けない


3. 結論

故に、こう言うのである、――
若し、
是のような、
「輪性(観察性)」の、
「甚深の理趣」である、
「平等性」という
「門」を聞いて、
「信解、受持、読誦、修習」して、
諸の、
「平等性」に、
「悟入する」ことができれば、
疾かに、
「無上正等菩提」を、
「証する」だろう、と。






10.一切供養無上法門

1.一切は供養である

爾の時、
世尊は、
復た、
一切の、
「供養」を、
「広く受ける」、
真に、
「浄い」、
「器田」である、という、
「如来の相」に依り、
諸の、
「菩薩」の為に、
こう宣説された、――
「般若波羅蜜多」は、
「一切」が、
「供養である」という、
「甚深の理趣」であり、
「無上の法門」である、
謂わゆる、――

1.1 供養とは、何か?

「供養puujaa、puujanaa」とは、尊崇、崇敬して接待、供給することをいう。即ち、仏、比丘等を尊敬して、飲食、衣服等を供給することである。特に生活に必須の四種の供養を下表に示す、
   小乗の四事供養
1 衣服 大、中、小の三衣
2 飲食 飲料、食料
3 臥具/
房舎
縄床、乃至房舎、及び備品
4 湯薬 薬料

又供養ではないが、以下の四種を挙げて、四聖種、即ち聖者を生ずる四種の種子と称することもある、
   四 聖 種
1 衣服喜足聖種 衣服の足るを喜ぶ
2 飲食喜足聖種 飲食の足るを喜ぶ
3 臥具喜足聖種 臥具の足るを喜ぶ
4 楽断楽修聖種 断悪修善を楽しむ


この中には、「小乗の四事供養」に倣いて、「般若波羅蜜の四事供養」を挙げて、大乗に於ける供養の定義となす、
   般若波羅蜜の四事供養
1 発菩提心 阿耨多羅三藐三菩提の心をおこす
2 摂護正法 正法を摂受・守護して断絶せしめない
3 修行/ 一切の功徳を修行する
観察 一切の法の不可得/空を観察する
4 宣説流布 般若波羅蜜多を聴聞、受持、読誦、思惟、修習、宣説、流布する


1.2 器田とは、何か?

下表に示す通りである、――
1 器 paatra 供養を受けるための鉢
2 田 kSetra 供養という種を蒔き、利益の穀を刈り取る田



2. 一切とは、何か?

この中には、下表のものを挙げる、
1 発心 無上正等覚/
阿耨多羅三藐三菩提
2 摂護/
摂受・守護
正法
3 一切修行/ 一切の波羅蜜多/
一切の波羅蜜
4 一切の菩提分法/
三十七道品
5 一切の総持・等持/
一切の陀羅尼門、三昧門
6 一切の五眼・六通
7 一切の静慮・解脱/
四禅・四無色定・八背捨・
八勝処・九次第定・十遍処
8 一切の慈・悲・喜・捨/
四無量心
9 一切の仏不共法/
十力・四無礙智・四無所畏・
十八不共法
10 一切観察 一切の法の常・無常の不可得
11 一切の法の楽・苦の不可得
12 一切の法の我・無我の不可得
13 一切の法の浄・不浄の不可得/
一切の法の垢・不垢の不可得
14 一切の法の空・不空の不可得/
一切の法の有・無の不可得
15 一切の法の有相・無相の不可得
16 一切の法の有願・無願の不可得/
一切の法の有作・無作の不可得
17 一切の法の遠離・不遠離の不可得
18 一切の法の寂静・不寂静の不可得
19 宣説流布 般若波羅蜜多の宣説流布


3. 結論

故に、こう言う、――
若し、
是のような、
「供養」は、
「般若の理趣」であり、
「無上の法門」である、と聞き、
「信解、受持、読誦、修習」するならば、
速かに、
諸の、
「菩薩行」を、
「円満して」、
疾かに、
「無上正等菩提」を、
「証する」だろう、と。






11.智密忿性調伏法門

1. 一切を調伏する

爾の時、
世尊は、
復た、
一切を、
能く善く、
「調伏する」という、
「如来の相」に依り、
諸の、
「菩薩」の為に、こう宣説された、――
「般若波羅蜜多」は、
「智密」を摂受して、
「有情」を、
「調伏する!」という、
「甚深の理趣」であり、
「智蔵の法門」である、
謂わゆる、――

1.1 智密を摂受するとは、何か?

「智密 jJaana-guhya」とは、仏心中に密蔵され、凡夫の伺う能わざる所の智慧をいい、その智慧を菩薩心中に含み納めるの意である。

1.2 有情を調伏するとは、何か?

「調伏 vinaya」とは、指導、訓練の意であり、「調伏有情 sattva-vinaya」とは、衆生に規律を守らせることをいう。即ち衆生が六波羅蜜を行うよう訓練、指導することである。

2. 忿と、一切有情

この章は「一切の有情 sarva- sattva」とは、とりもなおさず「忿 krodha」であると説く。即ち「一切の有情の性」は、「忿の性」に拘(かかずら)う。

即ち、下表に説く通りである、
1 一切の有情 浄土の有情 一切の有情の心を成熟せしめて、浄土の有情の性たらしむるは、偏に忿に拘(かかづら)う
2 忿 菩薩心/
菩提心
菩薩は忿を起こして、菩提心を発し、一切の有情を導いて、国土を浄める


2.1 浄土の有情の性


浄土の有情の性を下表に示す、――
1 平等性 平等を性とする/
怨親、愛憎無きを性とする
2 調伏性 調伏を性とする/
謙恭・温順を性とする
3 真法性 真の法を性とする/
真実不改を性とする
4 真如性 真如を性とする/
真実如常を性とする
5 法界性 法界を性とする/
真如界を性とする
6 離生性 生死を離れるを性とする/
生死を慮らないことを性とする
7 実際性 実際を性とする/
真実の場所を性とする
8 本空性 本来の空を性とする/
己の身心無きを性とする
9 無相性 男女、老若等の相無きを性とする/
男女、老若を慮らないことを性とする
10 無願性 作す所、願う所無きを性とする/
所作、所願を慮らないことを性とする
11 遠離性 煩悩の遠離を性とする/
煩悩を慮らないことを性とする
12 寂静性 寂静を性とする/
他人と交際しないことを性とする
13 不可得性 不可得を性とする/
真実を求めないことを性とする
14 無所有性 無所有を性とする/
自己の所有を計らないことを性とする
15 難思議性 難思議を性とする/
菩提を思議しないことを性とする
16 無戯論性 無戯論を性とする/
論義しないことを性とする
17 如金剛性 金剛の如き菩提心を性とする/
菩提心の不壊を慮らないことを性とする


2.2 忿とは、何か?

「忿 krodha」とは、いかり、瞋恚である。
菩薩は世間を見るに、一切の有情は己が為に汲汲としており、他人の事に拘う余裕がない、故に忿を起こして、阿耨多羅三藐三菩提の心を発すのである。

「忿」とは、菩薩心、即ち菩提心に他ならない。
故に、こう言うのである、――
一切の、
「有情」の、
「心」の、
「平等性」は、
但だ偏に、
「忿」の、
「平等性」に、
「拘っている!」と。

2.3 何故ならば、

一切の、
「有情」が、
「調伏性/温順・謙恭」である、とは、
即ち、
是れが、
「無上正等菩提/阿耨多羅三藐三菩提」であり、
亦た、
是れが、
「般若波羅蜜多」であり、
亦た、
「諸仏の一切智智」だからである。

3. 結論

故に、こう言う、――
若し、
是のように、
「調伏する」という、
「般若の理趣」である、
「智蔵の法門」を聞いて、
「信解、受持、読誦、修習」して、
自ら、
「忿恚」等を、
「調伏する」ことができ、
亦た、
一切の、
「有情」を、
「調伏して」、
常に、
「善趣(人、天)」に生じさせて、
諸の、
「妙楽」を、
「受けさせられる」ならば、
「現世」の、
「怨敵」は、
皆、
「慈心」を、
「起こして」、
能く善く、
諸の、
「菩薩行」を、
「修行」して、
疾かに、
「無上正等菩提」を、
「証する」だろう、と。



:菩薩心中には自、他の区別が無い。






12.一切法性平等法門

1. 一切の法性としての平等を建立する

爾の時、
世尊は、
復た、
「一切」に於いて、
能く善く、
「性」は、
「平等である」とい、
「法」を、
「建立する」という、
「如来の相」に依って、
諸の、
「菩薩」の為に、
こう宣説された、――
「般若波羅蜜多」は、
一切の、
「法」の、
「性である!」という、
「甚深の理趣」であり、
「最勝の法門」である、
謂わゆる、――

1.1 一切とは、何か?

一切とは、下表に示す、――
1 一切の有情/
一切の衆生
一切の生き物
2 一切の法 生き物以外の一切の事物

この、
「一切」に於いて、
「性」は、
「平等である」という、
「法」を、
「建立する」のである。

2. 平等とは、何に就いてか?

一切の、
「有情/法」は、
「性」が、
「平等である」が故に、
「般若波羅蜜多」も、
亦た、
「性」が、
「平等である」、
一切の、
「有情/法」は、
「性」が、
「調伏(温順謙恭)である」が故に、
「般若波羅蜜多」も、
亦た、
「性」が、
「調伏である」等、

即ち、下表に所載の法に於いて、「般若波羅蜜多」は一切の有情、一切の法と平等であり、何等の異なりもない、と説き、併せて当に知るべしとして、行業の果報の失われざるを強く主張する、――
1 性が 平等 空の異名
(大乗)
怨親、憎愛、此彼、彼我
2 調伏 調伏 温順、恭謙、化導可能
3 有り 実義 実義 実義(実の事物)が有る
4 即ち 真如 空の異名
(小乗)
真実如常
5 法界 意識の対象
6 法性 法の真実不変分
7 実際 真実の際
8 本空 空の異名
(大・小)
無我の異名
9 無相
10 無願/
無作
11 遠離 涅槃の異名
(小乗)
煩悩の塵垢を離れる
12 寂静 煩悩を離れて心静まる
13 不可得 空の異名
(大乗)
法は分別して得られない
14 無所有 法に有する所なし
15 不思議 法は思議しても得られない
16 無戯論 法は戯論しても得られない
17 無辺際 法の辺際は得られない
18 有り 業用 因果の異名 行業の果報が有る/
当に知るべし


3.1 結論

故に、こう言う、――
若し、
是のような、
「平等」という、
「般若の理趣」である、
「最勝の法門」を聞くことができ、
「信解、受持、読誦、修習」したならば、
則ち、
「平等」という、
「法」の、
「性」である、
「甚深」の、
「般若波羅蜜多」に、
「通達する」ことができ、
諸の、
「有情」の、
「心」に於いて、
「礙(さわり)がなくなる」ので、
疾かに、
「無上正等菩提」を、
「証する」だろう、と。






13.一切有情勝蔵法門

1. 有情は蔵である

爾の時、
世尊は、
復た、
一切は、
「住持」であり、
「法」を、
「蔵する」という、
「如来の相」に依り、
諸の、
「菩薩」の為に、
こう宣説された、――
「般若波羅蜜多」は、
一切の、
「有情」に、
「住持」して、
「遍満する!」、
「甚深の理趣」であり、
「勝蔵の法門」である、
謂わゆる、――

1.1 住持とは、何か?

「住持adhiSThaana」は、辞書に依れば、
n. standing by, being at hand, approach:[中性名詞]寄って立つ、手中に有る、近づく
  1. standing or resting upon:依止/安止する
  2. a basis, base:基礎、原則
  3. the standing-place of the warrior upon the car SāmavBr.:戦車上に立つ戦士の位置
  4. a position, site, residence, abode, seat:位置、場所、住居、住所、座席
  5. a settlement, town, standing over:村落、市街、守護
  6. government, authority, power:統治、権威、権力
  7. a precedent, rule:判例、規則
  8. a benediction Buddh.:祝福
即ち、
依止/拠り所、又は住居、宿舎を指す。

2. 謂わゆる、――

一切の、
「有情」は、
皆、
「如来」の、
「蔵」である、
「普賢菩薩」、
自らの、
「体」が、
「遍満する」が故に、
一切の、
「有情」は、
皆、
「金剛」の、
「蔵」である、
「金剛」の、
「蔵」が、
一切の、
「有情」を、
「潅灑している」が故に、
一切の、
「有情」は、
皆、
「正法」の、
「蔵である」、
一切の、
「有情」は、
皆、
「正語」に随って、
「善」に、
「転じる」が故に、
一切の、
「有情」は、
皆、
「妙業」の、
「蔵である」、
一切の、
「有情』は、
一切の、
「事業」の、
「加行」の、
「拠り所である」が故に、

2.1 まとめ


即ち、下表の通りである、――
蔵の名 所蔵 有情は/理由
1 如来の蔵 大慈悲/
正覚
普賢菩薩/
(慈悲)が
遍満するが故に
2 金剛の蔵 菩提心 金剛の蔵/
(菩提心)が、
即位せしめたが故に
3 正法の蔵 正法 正語/
(説法)が、
善に転じさせたが故に
4 妙業の蔵 加行/
修行
一切の事業/
(衆生成就、浄仏国土)の、
修行の拠り所であるが故に

「加行abhisaMskaara」とは、辞書に依れば、
m. ` the being formed ', development (as of seeds) Car. :[男性名詞]形づくられたもの、[種などの]育成
  1. preparation ib. :準備
  2. conception, idea Buddh.:構想、見解
即ち、
準備、修行の意を取る。

3. 結論

故に、こう言う、――
若し、
是のような、
「有情」に、
「遍満する」という、
「甚深の理趣」である、
「勝蔵の法門」を聞くことができ、
「信解、受持、読誦、修習」したならば、
則ち、
「勝蔵(有情の心)」の、
「法性」に、
「通達する」ことができ、
疾かに、
「無上正等菩提」を、
「証する!」だろう、と。






14.一味無辺際究竟法門

1. 無辺無際一味究竟

爾の時、
世尊は、
復た、
「究竟」じて、
「無辺際」の、
「法」という、
「如来の相」に依り、
諸の、
「菩薩」の為に、
こう宣説された、――
「般若波羅蜜多」は、
「究竟」じて、
「法、義」の、
「平等」に、
「住持する!」という、
「金剛の法門」である、
謂わゆる、――

1.1 究竟の無辺際とは、何か?

「法、義の平等」という法は、何時、如何なる世界、如何なる場所に於いても、成立することをいう。

1.2 金剛の法門とは、何か?

「金剛」は、「菩提心」、即ち「菩薩心」の譬喩である。故に菩薩は、この「法、義の平等」という法を、「金剛」の如き不壊の心で堅持しなくてはならない。

2. 謂わゆる、――

甚深の、
「般若波羅蜜多」は、
「無辺である」が故に、
一切の、
「如来」も、
「無辺である」、
甚深の、
「般若波羅蜜多」は、
「無際である」が故に、
一切の、
「如来」も、
「無際である」、
甚深の
「般若波羅蜜多」は、
「一味である」が故に、
一切の、
「法」も、
「一味である」、
甚深の、
「般若波羅蜜多」は、
「究竟である」が故に、
一切の、
「法」も、
「究竟である」。

2.1 まとめると、――

即ち、下表の通りである、
1




無辺
ananta
如来 義=
大慈悲
無限、無際限/
空間的無窮
2 無際
aparyanta
無制限、無拘束/
時間的無限
3 一味
eka-rasa
法=
空・平等
一性、平等/
海水一味の譬喩
4 究竟
atyanta
世間を超越した/
永久、不壊、完全


2.2 表の意味は、何か?

即ち、下記の事を知る、
1 般若波羅蜜という空・平等・一性の法は、永久、不壊、完全である。
2 般若波羅蜜の教うる所の義(意味)は、大慈悲であり、制限も際限も無い。
3 理由 般若波羅蜜は無辺、無際、一味、究竟の法であるが故に。
3 住持 般若波羅蜜は究竟じて(世間を超越して)空・平等の法義に住持する


3. 結論

故に、こう言う、――
若し、
是のような、
「究竟」という、
「般若の理趣」である、
「金剛の法門」を聞くことができ、
「信解、受持、読誦、修習」するならば、
一切の、
「障法(修行の邪魔)」が、
「消除」して、
定んで、
「如来」の、
「金剛を執る(煩悩を破る)」という、
「性」を、
「得る」ことができ、
疾かに、
「無上正等菩提」を、
「証する」だろう、と。






15.畢竟大楽最勝成就

1. 大楽の金剛、不空の神咒

爾の時、
世尊は、
復た、
「遍く照す」という、
「如来の相」に依り、
諸の、
菩薩の為に、
こう宣説された、――
「般若波羅蜜多」は、
諸の、
「如来」の、
「秘密の法性」と、
及び、
一切の、
「法」の、
「無戯論の性」とを得た、
「大楽の金剛」にして、
「不空の神呪」である、
「金剛の法性」であり、
「初、中、後位(徹頭徹尾)」、
「最勝」であり、
「第一」である、
「甚深の理趣(般若の道)」であり、
「無上の法門」である。
謂わゆる、――

1.1 図示すれば、以下の通り、――


1




如来/
秘密の法性
大楽の金剛/
大楽の菩提心/
大楽の菩薩心
金剛の法性/
菩提心の性/
菩薩心の性
法/
無戯論性
不空の神呪/
無戯論の法
2




初位、中位、後位/
徹頭徹尾
最勝・第一
甚深の理趣
無上の法門


1.2 大楽の金剛とは、何か?

「金剛」は、菩提心の譬喩であり、即ち菩薩心を指す。
「菩薩」は、布施を行う時、施者、受者を分別しないが故に、物を失うが為の苦ではなく、物を得たが為の楽を受ける。

「大楽」とは、是の故に謂わゆる、自ら苦界を脱れんとして得る所の小乗の小楽に対し、他に楽を与えて受ける所を大乗の大楽と称するのである。

1 小楽/
小乗
自ら苦界を脱れんとして得る所の涅槃の楽
自ら一人受ける楽であるが故に小楽と称す
2 大楽/
大乗
施者、受者を分別しないが故に、他に与えて感ずる所の楽
多数の人の受ける楽であるが故に大楽と称す



1.3 不空の神呪とは、何か?

「神呪dhaaraNii」とは、辞書に、「a mystical verse or charm used as a kind of prayer to assuage pain(ある神秘的(象徴的)な韻文、又は呪文にして、苦痛を緩和する祈祷の如きもの)」とあるものであるが、ある種の鬼神を感ぜしめて、その神助を得るものと考えればよい。

故に、およそ以下の如き特徴を有するので、他と無駄な論義を諍わない無戯論の力に喩えるのである、――

1 神咒/
無戯論
即効性がある
2 大威力がある
3 携帯性がよい


2. 謂わゆる、――

「最勝成就」した、
「大貪」は、
「大菩薩」に命じて、
「大楽」を、
「最勝成就」せしめる、
「最勝成就」した、
「大楽」は、
「大菩薩」に命じて、
「一切の如来」の、
「大覚」を、
「最勝成就」せしめる、
「最勝成就」した、
「一切の如来」の、
「大覚」は、
「大菩薩」に命じて、
「一切の大魔」の、
「降伏」を、
「最勝成就」せしめる、
「最勝成就」した、
「一切の大魔」の、
「降伏」は、
「大菩薩」に命じて、
「普大三界」の、
「自在」を、
「最勝成就」せしめる、
「最勝成就」した、
「普大三界」の、
「自在」は、
「大菩薩」に命じて、
「一切の有情」を、
「遺余なく」、
「有情界」より抜いて、
「利益」し、
「安楽」ならしめ、
「畢竟の大楽」を、
「最勝成就」せしめる。

2.1 図示すれば、――


1 大菩薩の
大貪の
最勝成就は
大菩薩に命じて
自ら
大楽を
最勝成就せしめる
2 大菩薩の
大楽の
最勝成就は
大菩薩に命じて
一切の如来の
大覚を
最勝成就せしめる
3 一切の如来の
大覚の
最勝成就は
大菩薩に命じて
一切の大魔の
降伏を
最勝成就せしめる
4 一切の大魔の
降伏の
最勝成就は
大菩薩に命じて
自ら
普大三界に於いて
自在を
最勝成就せしめる
5 大菩薩の
普大三界に於ける
自在の
最勝成就は
大菩薩に命じて
一切の
有情を
有情界より抜いて、
利益し、
安楽にさせ、
一切の
有情の
畢竟の大楽を
最勝成就せしめる


2.2 大貪・大楽とは、何か?

下表に示す通り、――
1 自ら楽を得んとして貪る
2 一切の衆生に楽を与えんとして貪る
3 自ら一人のみの楽
4 一切の衆生の楽


2.3 畢竟の大楽とは、何か?

下表に示す通り、――
1



一切の衆生の 苦を抜いて
2 楽を与える
3 菩提心の 最終目的
4 最勝成就/
阿耨多羅三藐三菩提


3. 何故ならば、――

畢竟大楽の理由を、下表に示す、――
1 勝智を
有する者が
生死という
住処に
流転してまでも、
無等の法を以って
有情を
饒益(利益)し、
涅槃に
入らない
2 般若波羅蜜多の
方便の
善巧を以って
勝智を
成立する
一切の清浄の
事業を
善く成す
諸の衆生に
清浄を
得させる
3 貪等を以って
世間を
調伏し
普遍(どこでも)、
恒時(いつでも)、
乃至諸有まで(何であろうと)
清浄にならせて、
自然に
自ら
調伏させる
4 譬えば
蓮華の形色が
光浄であって、
一切の穢物に
汚されないように
貪等を以って
世間を
饒益するのに、
世間の
過を住処とし、
過を有しながら、
世間の
過は
汚染することができない
5 大貪等は 清浄と
大楽と
大財と
三界の自在とを
得させることができ、
常に、
堅固に
有情を
饒益することができる






16.不空神呪疾証菩提

1. 神咒について、――

玄奘三蔵が、漢訳しなかったのは、漢訳できなかったのではない。漢訳しても意味をなさないからである。即ち彼の三蔵の意に於いて、但だ陀羅尼の音を伝えればよく、意味を伝える必要を感じなかったということである。

故に、仏家に於いては敢て解釈しないことを以って慣例となす、故に此の中に於いても解釈しない。
但だ、敢て知りたい読者の為に参考書の名を挙げる、――
「真言陀羅尼 坂内龍雄著(平河出版社)」





17.讃般若理趣品

1. 般若波羅蜜の功徳

般若波羅蜜の功徳を、下図に示す、
1 般若波羅蜜の
毎日旦に於ける
至心聴誦
諸悪業障の消滅
2 諸勝喜楽の現前
3 大楽金剛
(大楽の菩提心)という
不空神呪
(不空不可思議の功徳)の
成満
4 一切の如来の
金剛秘密の
最勝成就
5 久しからずして
大執金剛と
如来性とを得る
6







未聴聞者 多くの仏所に
衆善根を
植えず、
久しく
大願を
起さなかった者
般若波羅蜜を
聴聞書写読誦
供養恭敬
思惟修習することができない
7 已聴聞者 多くの仏所に
衆善根
植えて、
久しく
大願を
起した者
般若波羅蜜の
乃至一句一字を
乃至聴聞することができる
8 具足聴聞 八十殑伽沙等の
俱胝那由他の仏を
供養恭敬尊重讃歎した者
般若波羅蜜を
具足して
聞くことができる
9


地方に
流行する所の
此の経を
一切の天人・阿修羅等は

仏塔のように
供養すべきである
10 此の経を
身に着ける者
諸天人等は

礼敬すべきである
11 此の経を
多俱胝劫
受持する者
宿住智を得る
12 常に精進して
諸の善法を修める
13 悪魔・外道は
稽留することができない
14 四天王、及び余の天衆が
常に擁衛して
暫くも見捨てない
15 横死・枉遭・衰患しない
16 諸仏菩薩が共に護持して
一切の時に
善を増益して
悪を消滅させる
17 諸の仏土に
願のままに往生して
菩提に至るまで
悪趣に堕ちない
18 此の経を
受持する者
定んで
無辺勝利の
功徳を得る


2. 総看

菩薩句義清浄法門より畢竟大楽最勝成就までを総看して、下図に示す、――
1 菩薩句義清浄法門 菩薩は
衆生・法の
空(平等)を
体とする
2 性平等現等覚門 衆生空・法空の性は
平等であり、
等覚(仏)を
現す門である
3 無戯論普勝法門 空・平等中に於いて
一切法は
無戯論であり、
無戯論は
不敗の法門
普勝の法門である
4 性清浄照明法門 菩薩の
平等の性は
清浄であり
世間を
照明して
清浄にすることができる
5 一切施智蔵法門 世間・出世間の
一切の施は
六波羅蜜の
円満に通ずる
6 菩提心金剛法門 菩提心に基づく
身・語・心・智業は
如来の
身・語・心・智業に等しい
7 無戯論性空法門 一切の法の
性は
空、或いは空の異名であり、
無戯論である
8 入広大輪平等性門 自ら
一切法の
平等性に入れば、
他の
一切の
法性に入ることができる
9 一切供養無上法門 一切の
善法は
如来の
供養である
10 智密忿性調伏法門 一切の
有情の成就は、
菩薩の
忿に係っている
11 一切法性平等法門 一切の法の
性は
平等である
12 一切有情勝蔵法門 一切の有情は
大慈悲・菩提心・正法・
妙業の
勝れた蔵である
13 一味無辺際究竟法門 般若波羅蜜は
一味
無辺際
究竟の法門である
14 畢竟大楽最勝成就 般若波羅蜜の
菩提心は
大楽であり、
正法は
無戯論性である


3. 総評


以上、章ごとの原プランを推理して、所載の法(名称)の一一を分類整理してきたが、思い込みの激しさから来る誤謬を含むのは致し方がない。

又最後に総看として、一図を示したが、この部分のプランに就いても、推理しきれたものとは思えない。

以上の如き等の難ありと雖も、此の一文をいつまでも留め置くことは、亦た是れ必ずしも益ありとすべきにもあらず。

又総評と題するも、総評は是れ亦た無益である。所以は何んとなれば、「般若波羅蜜」も、「般若の理趣」も共に単なる知識ではない、施、戒、忍、進、禅、般若の実践を伴わない知識は、般若と名づくべきでない。仮りに般若なり、理趣なりを一言に要約できたとしても、反って真の理解を妨げるものとなろう。真の智慧とは、知識を昇華して、以って自らの体となすべきものであり、これは自ら養育すべきものだからである。以上を以って、この講義を終る。





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