虎渓山永保寺


  永保寺(エイホ ジ):美濃国可児郡豊岡村に在り。臨済宗南禅寺派に属し、虎渓山と号す。本尊は聖観音にして、美濃巡礼第三十一番の札所なり。正和二年の頃、夢窓国師此の地に隠栖し、後法弟仏徳禅師来たり住するに及び、法徳を慕いて四衆来集し、遂に大道場となる。後醍醐天皇勅して堂宇を創建し、夢窓国師を開創とし、仏徳禅師を開山となす。虎渓の称は、支那廬山の虎渓に似たるを以て国師の名づくる所にして、境域奇景に富み、水月場(仏殿)、華厳庵(本堂)、天廚院(庫裡)、無相塔(開山堂)、海珠堂(修禅堂)等あり。開山堂は外陣方三間、単層入母屋造、桧皮葺、内陣方三間、重層入母屋造、桧皮葺なり。観音堂は方五間、重層入母屋造、桧皮葺にして、共に特別保護建造物たり。堂舎は皆溪谷清流に臨み、国中の一勝地として賽者多し。又什物中、絹本著色千手観音像一幅は国宝に指定せらる。夢窓国師年譜、夢窓国師御詠草、黙雲詩稿、延宝伝灯録第十九、新編美濃志、日本名勝地誌第四、国宝目録等に出づ。(望月仏教大辞典)


家から直線距離にして40㎞、車を1時間余り走らせますと、岐阜県多治見市の永保寺に着きます。土岐川が大きく屈曲するところに位置し、山と川とに囲まれた、清明の気溢るる天然の要害、経の文句を仮りれば、神仙の降り立ちて遊ぶところ、夢窓国師は正和2年(1313)諸国遊行の途次、この地の清朗幽玄にして無比なることを感知し、「古渓菴」と名づける一菴を搆えて隠棲しようとされたのでありますが、‥‥豈図らんや、その徳声余りにも高くして、来訪者の絶え間なく、遂にその応接に倦んでこの地を捨てられたのが文保元年(1317)ということですが、その詳細は後程のことと致しましょう。

中間に小さな四阿を載せた橋は、「無際橋」と称し、四阿の中には欄干を兼ねた腰掛けがあります。夏の暑い時期にでも、腰を掛けて池面を渡る風に吹かれて見ようということなのでしょう。

橋の向こう側の建物は、この寺の本尊を祀る観音堂、「水月場」という扁額が懸っています。パンフレットによれば、此の中では結婚式を行うことができるということです。この国では明治以後、葬式は仏教、結婚式は神道が担うというような棲み分けができていたのが、西欧では、生まれた時から死ぬ時まで、多くの儀式をキリスト教の教会で行ってるというようなことを聞いて、じゃあ仏教でもその真似をして見ようということなのでしょう。



無際橋を渡って、反対側を見たところです。観光客が池の鯉を見ています。右の小島には何匹かの亀がいて、甲羅を日に干しています。なんとも平和を画に描いたような、目出たい光景ではありませんか、‥‥。



これが国宝の「水月場」、所謂観音堂です。和様と唐風を融合させたような、非常に興味深い建物です。宇治平等院の鳳凰堂のように、この建物も空を飛びたいんじゃないでしょうか?国宝の建造物で挙げる結婚式ですが、案外宜しいのかも知れませんな、‥‥。



「水月場」を横から眺めると、屋根が大きく見えて和風の趣が強くなります。岐阜県に存する国宝の建造物は高山市の「安国寺経蔵」を除けば、後は、この永保寺の「観音堂」と「開山堂」の二棟だけですのでね、じっくり見て戴きましょう。



この寺では数年前に失火して、本堂と庫裡を全焼したのですが、どうやら再建することが出来たものと見えまして、真新しい木組みと白壁の色が鮮やかです。折しも着飾った奥様方が、呉服屋の番頭さんらしき人に引率されて、この寺で何かの会を催されたのでしょうか、若やいだ嬌声を挙げながら、楽しく記念撮影をしていらっしゃいます。これもなかなか目出たい光景でございますな、‥‥。



庫裡の玄関は、中に入ることはできませんが、中の衝立に画かれた虎の写真を撮ることができました。優しい顔に、上目遣いの目つきからすると、顎の下辺でも掻いて貰いたいような気分でいるようにも見えますが、それは画家が飼い猫を写生したからこうなったというんじゃなくて、母虎が児虎に乳を与えて、優しい気分で巣穴から出てきた所だからではないでしょうか?これも又目出たい図柄ですな、‥‥



「無際橋」を中心にして、池を右回りに廻ります。紅葉の見頃にはまだ半月ほど早いようですが、黄色くなった葉を透かして、チラチラ光が漏れています。大金持ちになって大判小判に取り囲まれたような、贅沢な気分が味わえますな、‥‥。



見越しの松を近景にして、「無際橋」と「水月場」を臨みます。水に映った影が中景ですな、‥‥。やはりこの寺の主役は「無際橋」ですかな、これを国宝にしてはどうでしょうかね、‥‥。



これで池を半周した訳ですが、反対側にもう半周して、もう一つの国宝の「開山堂」の方へ行ってみましょう。

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「開山堂」は、鬱蒼とした叢林/藪を四角く切り開いて、その中央にポツンと建っています。光線の具合で「水月場」でははっきり見えなかった軒の木組みが、この「開山堂」では堂の周囲に敷かれた白砂に光りが反射して明るく見えます。



方三間の小堂が礼堂であり、中の間で奥の祠堂に繋がっています。土台石に直接柱を立てて床を張らない構造は、「水月場」よりも唐風の色合いがより濃くでています。



夢窓国師は、我が国有数の傑出した僧侶ですので、その事績を、もう少し詳しく記して置くのが宜しいでしょう。そして最後に具眼の士の為に、夢窓国師の墨跡を見て戴くことに致します。
疎石(ソセキ):伊勢国の人。初め智嚯、夢牕と号す。姓は源氏、宇多天皇十五世の孫なり。建治元年を以て生る。弘安元年一家故ありて甲斐に逃れ、八月母の喪に遭う。六年九歳にして父に携えられて平塩山寺空阿の室に入り、内外の典籍を受く。十歳に至り七日にして法華経を誦し、母の冥福を祈り、人皆其の非凡を嘆ず。正応五年南都に往き、戒壇院凝然に従って登壇受戒し、尋いで帰りて専ら顕密二教を学ぶ。後仏法は義学に非ざるを悟り、教外別伝を求哀す。一夕夢に支那疎山、石頭の二寺に遊ぶ僧あり、師に達磨半身の像を授くるを見、自ら禅門に縁ありとなし、永仁二年京都に上り、建仁寺無隠円範の門を叩きて易服参堂し、往夢に依り名を疎石と改む。時に年二十歳なり。翌年十月辞して鎌倉に下り、東勝寺無及徳詮、建長寺葦航道然、癡鈍空性、円覚寺桃谿徳悟等の名匠に歷参し、共に其の法器を称せらる。五年再び京都に上りて無隠に侍し、同八月一山一寧江州より上洛するや、直に之を其の寓館に訪い参叩す。正安元年一山の後を追うて鎌倉建長寺に赴き、択木寮に寓して諸家の語要を諮詢し、深く自ら密練精修す。二年秋羽州に旧識を訪わんとし、途中其の訃を聞き、奥州松島寺に止まる。時に此の地に草河真観の門弟あり。天台止観を講ず。師就いて之を聴き感悟する所あり。十二月高峰顕日に参ぜんと欲し那須に至るに、日既に鎌倉浄妙寺に転じて在らず。師時に脚を患い、為に雲巌寺に留まりて院事を監し、翌年二月鎌倉に入り一山一寧に侍す。乾元元年一山円覚寺を兼領するに及び、師亦之に随侍し問法するも尚お得る所あらず。嘉元元年翻然として書冊を厨竈に投じ、万寿寺に走りて顕日に参ず、而も其の心未だ穏ならず。仍りて日に辞別し、我れ若し大休歇地に到らずんば復び来たりて和尚を覲ずと。乃ち去りて奥州白鳥の郷に至り、明年二月又去りて内草山に入り、一夕炉辺に坐し、火焔の薪を離るるを見て廓然大悟し、更に疑滞あることなし。三年正月十七日観音妙懺を修して旧業の消遣を祈り、仍りて顕日に参じて所疑を質さんと欲し、常州臼庭に至るに比佐居士あり、師を其の庵に留めて坐夏せしむ。十月鎌倉浄智寺に至り顕日に謁するや、日師を見て即ち曰わく、西来の密意汝今已に得たり、善く自ら護持せよと。師即日辞して甲斐に帰り親を省し、浄居寺に居るに、禅侶風を聞いて至る者多し。徳治二年顕日再び万寿寺を領するに当り、師其の頂相を画き、往きて題を求むるに、日乃ち仏光先師説法の衣を付し、以て信を表す。延慶元年正月挙げられて紀綱となり、夏終りて又甲斐に帰り、翌年顕日雲巌寺に帰隠するに及び、亦往きて其の安康を問い、乞われて記室となる。時に年三十五なり。夏又甲斐に帰り、応長元年春龍山菴を創して之に居る。正和元年火あり菴将に延焼せんとす、師乃ち顕日所伝の法衣を持し、逃れて巌上に坐し至心に念ずるに、俄に逆風起こり菴全きを得たり。見る者其の神奇を嘆ず。二年顕日師をして上野長楽寺に出世せしめんとするにより、師之を避けて遠州に到り、尋いで遠州長瀬山に遊び、其の地の幽致を愛し、古渓菴を創して居る。道を訪うもの日に多く、師其の応接を倦み、同五年春西郡に遷るも、諸隣亦其の風を聞き来たる者多く、仍りて再び古渓に帰り、別に大包菴を搆えて隠棲す。冬顕日の訃至り、挙哀上祭法の如くす。文保元年九月京都に遊びて北山に寓し、二年北条高時の母覚海尼、顕日の遺囑に依り、師を関東に請ぜんとするを聞き、避けて土佐五台山に到り、吸江菴を搆えて居る。時に尼又使を遣し師の出盧を逼りて止まず。師業債の逃れ難きを知り、遂に其の請に赴く。尼厚く師を礼し、勝榮寺を以て仮館に充つ。時に雲巌其の席を虚しくし、師を請するも固辞して赴かず。尋いで相州横須賀に泊船菴を創して隠棲し、元亨三年上総千町荘に退耕菴を搆えて之に移る。正中二年春後醍醐天皇師の徳風を聞き、京都南禅寺を以て請し給うも、病と称して拜辞す。仍りて旨を将軍に降し、更に勧請せしめ給うに、師遂に意を決し、八月古渓菴を過ぎ元翁を伴い京洛に入る。帝召して特に錦座を賜い禅要を説かしめ、尋いで南禅に出世す。嘉暦元年北条高時寿福寺を以て請するも赴かず。八月伊勢に遊びて善応寺を創め、九月鎌倉に入り、永福寺の傍に南芳菴を結びて住す。二年高時の請を受けて浄智寺に住し、一夏の後再び南芳菴に移り、八月瑞泉寺を開き、翌年観音堂、遍界一覧亭を造営す。冬高時円覚寺を以て請ずるも就かず。翌元徳元年秋再び請うも応ぜず、時に師の法眷等亦固請し、遂に晋山して住すること二年、百廃具に興る。九月逃れて瑞泉寺に帰り、門を閉じて出でず。時に羽州の太守二階堂道蘊甲斐に慧林寺を創し、師を請して開山第一世となす。元弘元年二月再び瑞泉寺に帰り、将軍尊氏建長寺を以て請ずるも応ぜず、二年春慧林寺に往き瑞光寺を開き、翌年又建長の請あるも病を以て辞す。此の年七月後醍醐天皇の勅召を蒙りて京都に上り、命を拜して臨川寺に住す。建武元年九月帝師を内禁に召して弟子の礼を執り、尋いで勅を奉じて再び南禅寺に住し、留まること三年、大いに禅風を揚げ、三年正月乱を避けて臨川寺に移る。時に尊氏師を請して弟子の礼を執り、十一月建仁寺の席を補せんことを請うも就かず。暦応二年三月臨川家訓を作り、四月西方教院を改めて禅院となし西芳寺と名づく。八月後醍醐天皇崩ずるや、尊氏勅を奉じて追修道場を亀山行宮に建て、師を請して開山第一世となす。即ち天龍寺是れなり。三年阿州の太守細川頼春補陀寺を創し、師を以て開山となし、翌年師自ら武州の太守高師直に勧めて真如寺を建てしめ之を兼ぬ。蓋し同寺は仏光禅師の塔所なり。貞和元年八月先帝の七回忌に当り、天龍寺に開堂説法するや、光明天皇百官を帥いて行幸あり、金襴衣紫袍、錦帛三十装、水晶念珠、白銀華茎等を下賜せらる。二年席を無極志玄に譲りて雲居菴に退き、十一月召されて正覚国師の号を賜う。四年十月高峰顕日の三十三回忌に当り、畿内禅律寺院八十余所の僧尼を天龍寺に請し、大会斉を設く。時に天龍の僧堂未だ完からず、師乃ち観応二年春之れが構営に当り、七月遂に開堂す。延袤寛広にして千衆を容るべし。帝其の労を嘉し、更に夢牕を正覚心宗国師の号を賜う。八月先帝十三回忌に当り、聖廟多宝院に陞座説法し、翌日微疾を示し、三会院に退棲す。衣盂法名を受け、菩提の縁を結ばんとする者、七日に満たざるに既に二千五百余人に及ぶ。九月天皇国医を遣し診治せしめんとするも拜辞して受けず。後天皇親しく病床に臨み給うや、師恩を謝して説法し、二十七日東陵永璵に寺務を嘱し、遺誡十数條を制して門人に示し、二十九日遺偈を書す。偈に曰わく、転身一路、横該竪抹、畢竟如何、彭八刺札と。三十日衆に告別し、怡然として寂す、年七十七(一説に七十六)。全身を三会院に塔す。僧尼を度する四千余人、経律論師の弟子の礼を取る者一千有余、嗣法の弟子五十余人あり。就中、無極志玄、龍湫周澤、春屋妙葩、義堂周信、絶海中津、徳叟周佐、青山慈永、大法大闡、不遷法序、観中中諦、碧潭周皎等尤も著る。春屋妙葩其の年譜を録し、東陵永璵塔銘并序を撰し、明翰林学士宋濂碑銘を製す。又歷朝其の徳を尚び、延文三年後光厳天皇は玄猷国師、宝徳二年後花園天皇は仏統国師、文明三年後土御門天皇は大円国師と加諡せられ、生前三帝勅賜の国師号と合せ、夢牕正覚心宗普済玄猷仏統大円国師と称せらる。これ他に多く其の例を見ざる所なり。語録五巻、夢中問答三巻、臨川家訓等の著あり。天龍開山夢牕正覚心普済国師年譜、夢窓正覚心宗国師塔銘并序、夢窓国師俗譜、日本国天龍禅寺開山夢窓正覚心宗普済国師碑銘、後鑑第七、第二十一、第二十三、第二十四、第三十四、皇年代略記、如是院年代記、五山伝、五山歴代、鎌倉五山記、五山記考異、扶桑五山記第三、延宝伝灯録第十九、本朝高僧伝第二十七、日本仏教史之研究等に出づ。(望月仏教大辞典)

( 別無工夫 )
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≪≪しめじ御飯の作り方≫≫
≪材料:4人前≫
  1. 米:2合
  2. シメジ:2カップ
  3. 人参:長さ1.5cmの輪切り2個
  4. 油揚:4cm四方2枚
  5. 三つ葉:適宜
  6. 昆布:5cm四方2枚
  7. 塩:小さじ1
  8. 醤油:小さじ1
  9. 酒:小さじ1
≪作り方≫
  1. 米を洗ってザルに取り30分間置く
  2. シメジの石突きを切り取り、傘裏の汚れを爪楊枝で取り除く
  3. 人参の皮を剥き、2mm角の棒状に刻む
  4. 油揚を幅1cmの帯状に切り分け、それを3mm幅に刻む
  5. 三つ葉の軸を1.5cmの長さに刻む
  6. 炊飯器に洗米を入れ、通常の水加減の分量の水と塩、醤油、酒を加え、昆布、シメジ、人参、油揚を入れて炊飯器のスイッチを入れ、炊飯器が沸騰したら昆布を取り除く。
  7. 炊飯器のスイッチが切れたら、直ぐに三つ葉を入れて10分間置く
  8. 炊きあがったシメジ御飯を混ぜながらお櫃に移す
では今月はここまで、また来月お会いしましょう、それまでご機嫌よう
  (虎渓山永保寺  おわり)

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