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寿

 

 

 

<4. 無量寿経下巻> (*0)

<4.1 極楽の往生者>

  上巻では、極楽の華麗な荘厳の想像を絶するさまを見てきました。 次は、何のようにすれば、そのような素晴らしい処に生まれることができるか、この当然の疑問に答えます。

<4.1-1 正定の聚>

  佛告阿難。其有眾生生彼國者‥‥唯除五逆誹謗正法』 (*1)

  仏は阿難に教えられました。

  『其有衆生生彼国者、皆悉、住於正定之聚‥‥』:極楽に生まれた者は、皆、悉く正定の聚(じゅ、衆)である。 何故ならば、極楽には決して仏に成れない者と、成るか成らぬか決定していない者とはいないからである。 十方の恒沙の諸仏如来は、皆共に、この無量寿仏の不思議な力を讃歎している。 正定之聚とは、正しく仏に成ると定った者という意味です。

  『諸有衆生聞其名号‥‥』:他の国の諸の衆生は、その仏の名号を聞いて、信心歓喜して、少なくとも一念、至心に善業を廻向(えこう)して、極楽に生まれようと願え。 そうすれば、必ず往生して不退転に住することができる。 

  【信心歓喜】:信心(しんじん)とは信ずる心、心から喜ぶことをいいます。 先ず聞き、次いで知り、次ぎに信じ、そして喜ぶ、事はこの順で起こります。 しかし、聞くのみで信じることは、これこそ難中の難、甚だ難しいことです。 人は、自らの目で見たものは何でも信じてしまいます。 それに反して耳で聞くものは、初めから疑ってかかります。 自分の経験には自信をもち、他人の経験を疑う、極めて当然の道理が働いているのです。 この無量寿経は、そこまでは考慮していません。 後に観無量寿経が出る道理はここにあります。

  【乃至一念】:少なくとも一たび心に念じることをいいます。 また「念」は「となえる」とも読みますので、その名号を少なくとも一度、称えることとする解釈もあります。 しかし、心に念じれば口に出る道理もありますので、あえて狭く解釈して、口に称えることのみを言う必要はありません。 むしろ、前の「信心歓喜」と併せて、心に著いて離れないと理解した方がよいでしょう。

  【至心廻向】:自ら積んだ善業を心から極楽に生まれることに振り向けることをいいます。 迴向(えこう)とは、かつて為した善い行いが、ある特定の結果を生じますようにと願うことです。 至心(ししん)とは、「心から願うこと」です。 ここでは善業の多寡を問うことはありませんが、「信心歓喜」、「乃至一念」と併せて、心から願うことに重点があります。

  【住不退転】:正定之聚と同じ。

  仏の出現は、三千大千世界にただ一人、あるいは恒沙の劫にただ一人などと言われ、あるいは優曇華の花は多いが実と成るものは希有である、魚の卵は多いが魚に成るものは少ないなどと、非常に困難かつ希なことであるといいます。 しかし、この極楽に一たび生まれれば、誰でも必ず仏に成り、しかも、極楽に生まれることは、甚だ容易な事であるというのが、この段の要旨ですが、そこにも相応の困難があるのです。

 

<4.1-2 往生者の三輩> (*2)

  佛告阿難。十方世界諸天人民‥‥凡有三輩

  仏告阿難、十方世界諸天人民、其有至心願生彼国、凡有三輩』:仏は阿難に教えられます。 十方の世界の諸天人民の中で、心から彼の国に生まれたいと願う者には、およそ三輩がある。 三輩(さんぱい)とは、三種の人という意味です。

 

<4.1-2-1 上輩>

  其上輩者‥‥智慧勇猛神通自在』 (*2-1

  其上輩者、捨家棄欲、而作沙門、発菩提心、一向専念無量寿仏、修諸功徳願生彼国』:その上輩の者は、家を捨てて欲を棄て、沙門(しゃもん、出家)となって菩提心を発し、ひたすら専ら無量寿仏を念じて諸の功徳を修め、極楽に生まれたいと願え。

  【捨家棄欲而作沙門】:上輩者とは、比丘となった大乗の菩薩です。 ここで言う沙門とは、形ばかりの沙門ではありません、心から沙門であることを願い、行住坐臥に戒律を持つ生活をしている者のことです。 このような沙門は、人に尊敬されるので、菩薩としての働きも大きいのです。

  【発菩提心】:仏果を得ようと思う心、仏に成りたいと思う心を菩提心といいます。 大乗では、『仏と成って自らの浄土を得ようとする心』が菩提心なのです。 浄土とは理想の世界をいいます。 菩薩は無上の心を発して、仏と成り世界を理想のありさまにしたいと願い、無量の時間をかけて、無限の施しをします。 その初めから、仏に成るに至るまでの心を菩提心というのです。 決して、極楽に生まれて楽がしたいという心ではありませんが、その大きさは問いません。

  【一向専念無量寿仏】:ひたすら専ら無量寿仏を念う。 無量寿仏を念うとは、無量寿仏の事績を念うのであり、無量寿仏の成しとげた極楽の世界を念うことです。 これは菩薩の励みとなります。

  【修諸功徳願生彼国】:功徳(くどく)とは衆生を救う力をいいます。 修行してその力を身に着けることです。 しかし、またその大きさは問いません。 諸の功徳を修行して、次ぎに生まれた時には彼の国に生まれたいと願うことです、また次ぎに生まれた世界は彼の国のようでありたいと願うことでもあります。

  『此等衆生臨寿終時、無量寿仏与諸大衆、現其人前』:これ等の衆生は、その命の終りの時にあたって、無量寿仏が諸の大衆と共にその人の前に現れる。

  『即随彼仏往生其国、便於七宝華中自然化生住不退転、智慧勇猛神通自在』:この人は、彼の仏の後に随って、その国に往生し、すぐに七宝の華の中に、自然に化生して不退転に住し、智慧は勇猛であり、神通は自在である。

  【便於七宝華中自然化生】:「便」は「すなわち」と読んで、するりと滞ることがないことをいいます。 するりと七宝の華の中で化生します。 化生(けしょう)とは、いきなり生まれることです、要するに成人して生まれることです。 この故に、この人は、いきなり不退転でもあれば、智慧勇猛神通自在でもあるのです。 さて、この人は七宝の華の中に、すでに成人して生まれるわけですが、この事は、人のように母胎に由って生まれることは、煩悩によるものと考えるからです。 また、赤子の母に対する執着は生まれて覚える最初の煩悩であるとも考えられます。 

  【住不退転】:仏と成るまで、菩薩の位を退かないことをいいます。

  【智慧勇猛神通自在】:菩薩の菩提心は、『こうでなければならぬ』を知る智慧に裏付けられています。 『勇猛』とは勇敢なことです、菩薩の行動は勇猛の心に支えられています。 『神通』は衆生を救う上での不思議な力をいいます、これは『菩提心を本とした智慧と勇猛』であると定義しても良いと思います。

 

<4.1-2-1-1 今世に無量寿仏を見る>

  是故阿難‥‥修行功德。願生彼國』 (*2-2

  『是故阿難、其有衆生欲於今世見無量寿仏、応発無上菩提之心、修行功徳願生彼国』:この故に、阿難よ、ある人が、今世に無量寿仏を見ようと思えば、無上菩提の心を発して、功徳を修行し、極楽に生まれたいと願え。

  【欲於今世見無量寿仏】:「於今世」は特に時と場所をさして、今のこの世界で、無量寿仏にお会いしたいことをいいます。 極楽に生まれたいと願えば、今のこの世に於いて会うことができる。 この一文は意味が深いように感じられます。 本当に無量寿仏に会えるのでしょうか、それとも自らが無上の菩提心を発して功徳を修め、仏と成ることを言っているのでしょうか。 二通りに取れる疑問が残ります。

 

<4.1-2-2 中輩>

  其中輩者‥‥功德智慧次如上輩者也』 (*3)

  其中輩者、十方世界諸天人民、其有至心願生彼国、雖不能行作沙門、大修功徳、当発無上菩提之心、一向専念無量寿仏、多少修善、奉持斎戒、起立塔像、飯食沙門、懸繒然灯、散華焼香』:その中輩の者は、十方の世界の諸天人民が、もし心から彼の国に生まれたいと思うならば、たとえ沙門と作って、大いに功徳を修めることができずとも、無上菩提の心を発せ。 ひたすら専ら阿弥陀仏を念い、多少の善を修めて斎戒を奉持し、塔像を起立して沙門に飯食し、繒(きぬ)を懸けて灯を燃やし、華を散(ま)いて香を焼(た)け。 これによれば中輩とは、沙門以外の大乗を信ずる人です。

  【多少修善】:多少の善を修める。 多少とは世間的な善をいいます。 気の向いた時に貧乏人に施したりすることをいいます。 常にするわけではありませんが、しないよりはましです。

  【奉持斎戒】:斎戒(さいかい)とは、毎月八日、十四日、十五日、二十三日、二十九日、三十日の六日間、(1)不殺:生き物を殺さない。(2)不盗:与えられない物を取らない。(3)不婬:婬事をしない。(4)不妄語:嘘をつかない。他の生き物を脅す粗暴の言葉を吐かない。(5)不飲酒:酒を飲まない。(6)身不塗飾香鬘:身に香を塗ったり、飾りを着けたりしない。(7)不自歌舞、又不観聴歌舞:歌舞音曲を慎む。(8)於高広之床座不眠坐:高広の大床に坐らない。(9)不過中食:昼過ぎに食事をしない。 これらを堅く守ることをいいます。

  【起立塔像】:仏法は布教されなければ意味がありません。 布教の拠り処は非常に重要です。 別に建物にも仏像にも直接的な価値を認めるのではないのですが。

  【飯食沙門】:沙門に食事の布施をすることです。 沙門は仏法を布教する人です。 その為に種種の制約を受けています。 例えば、不殺生を説く者が、生業として鍬を振るい、地中に住む虫などを殺すことはできません。 その沙門の世話をすることは、非常に重要です。

  【懸繒然灯】:『繒(きぬ)』は絹織物のことです。 寺院の内部に懸けて装飾します。 灯明をともすというのは、寺院の内部の暗がりを無くすことです、人は暗がりでは疑いが起りやすいものなのです。

  【散華焼香】:悪臭の立ち籠める中で説教はできません。 寺院の内部に華を散(ま)き香を焼(た)いて悪臭を除きます。

  『其人臨終、無量寿仏化現其身、光明相好具如真仏、与諸大衆現其人前』:この人の命の終りにあたり、無量寿仏は化してその身を現わす。 光明も相好も真の仏と同じようにみえ、諸の大衆と共に、その人の前に現れる。

  【化現其身】:無量寿仏は化身を遣わして、行者の前に立つことをいいます。 見た目は変りませんので、行者には分別がつきません。 ただ分る人に分るというのみです。 要するに、これは何かといいますと、行者の信心に差があるということで、無量寿仏の身を見た時の心の動きが異なることを言っているのであって、無量寿仏の功徳に違いがあると言っているのではないのです。

  『即随化仏往生其国住不退転、功徳智慧次如上輩者也』:すぐに、化仏の後に随ってその国に往生し、不退転に住す。 功徳と智慧は上輩の者に次ぐ。 上輩の者に次ぐというのも、与えられる功徳の量が違うわけではありません。 ただ信心に差があるのです。

 

<4.1-2-3 下輩>

  其下輩者‥‥功德智慧次如中輩者也』 (*4)

  其下輩者、十方世界諸天人民、其有至心欲生彼国、仮使不能作諸功徳、当発無上菩提之心、一向専意乃至十念、念無量寿仏願生彼国、若聞深法歓喜信楽不生疑惑、乃至一念、念於彼仏、以至誠心願生其国』:その下輩の者は、十方の世界の諸天人民は、もし心から彼の国に生まれたいと思えば、たとえ諸の功徳を作すことができなくとも、無上菩提の心を発せ。 ひたすら意を専らにして、ただの十度彼の仏の名を呼ぶほどでも無量寿仏を念って彼の国に生まれたいと願え。 もし深い法を聞いて歓喜し信じ楽しんで疑惑を生じなければ、たとえただの一度でも、彼の仏を念って、心からその国に生まれたいと願え。 これによれば、この人は善行をする力の無い人です。 しかし、無上の菩提心を発すことは誰にもできます。

  【不能作諸功徳当発無上菩提之心】:功徳とは他の人に善行を施すことです。 地位が低い、財産が無い、暮らしが逼迫している。 種種の因縁で善行ができない人でも、この世界を良くしたいとは思えるはずです。

  【乃至十念念無量寿仏】:この菩提心でもって、わずかに十たび無量寿仏の名を呼ぶほどにせよ、無量寿仏のことを心に念じよ。 「念念」のように同じ字が重なるときは意味は同じはずですが、心に念じれば声に出るという心から、このように訳します。 本当は十たび心に思うことです。 「十たび心に思う」と「十たび仏の名を呼ぶ」との違いは、ほとんど無いに等しいのです。 また、「念」を「刹那(せつな)」、すなわち非常に短い時間と訳すこともありますが、これもまた意味の違いは認められません。 これはぜひ注意したい所ですが、心にかけずに仏の名を呼ぶことは、これに相当しません。

  【若聞深法歓喜信楽不生疑惑】:深法(じんぽう)とは、大乗のことをいいます。 大乗とは、「他の為を願うことが自己の為になる」という教えであり、理解しがたくとも、深い意味のある教えです。 深く幾重にも蔵されていますが大乗の利はその奥にあるのです。 この深い法を聞いて、喜び、信じ、楽しんで、疑惑を生じない。 このような人であれば、わずかに一念、彼の仏を念じるのみでも、夢の中に仏を見て、往生できる。 すべてはこの心が有りさえすれば、往生できるのですから、 力の無い善人であっても往生できるというのがこの段の要旨です。

  【乃至一念念於彼仏】:少なくともわずか一念(いちねん)、これは前の十念を受けて、更に条件をゆるめたものです。わずか一念、彼の仏に心をかける。 前の「若聞深法」を受けての当然の帰結です。 このような事が有るのか、大乗とは実にこの功徳が有ったのか、と歓喜し、信じて、このような仏ならば、ぜひ会って話を聞いてみたい。 これを「彼の仏に於いて念じる」というのです。

  【以至誠心】:この一句は「至心」とまったく同じです。 心から願うことです。

  『此人臨終、夢見彼仏亦得往生、功徳智慧次如中輩者也』:この人の終りに臨んで、夢の中で彼の仏を見て往生することができる。 功徳と智慧とは中輩の者に次ぐ。

  以上、上輩は大乗の菩薩、中輩は世間の善人で力の有る人、下輩は善人ながらも力の無い人のことでした。

 

<4.1-3 十方の諸仏称讃する>

  無量壽佛威神無極‥‥廣濟生死流』 (*5)

  この無量寿仏の威神の極まり無いことは、十方の世界の無量無辺不可思議の諸仏如来にも聞こえ、皆の称歎する所です。 また十方の世界の無量無数の諸菩薩たちも、皆悉く、無量寿仏の所に詣で、経法を聴いて自国に還り、広く法を布いて導き救っています。

  『聴受経法宣布道化‥‥』:無量寿仏は何のようにしてこの素晴らしい世界を造ったのか、その話が経法です。 これを聴いて自国に還り、人々に道を教えて、化します。 「化す」とは変化させることです、今まで自分の利益のみを計っていた人に、他を利することが自己の利になるのだと教えて、その人を変化するのです。

  世尊は、そのありさまを歌にして説かれます。

   (*1)『東方諸仏国‥‥』:東方の諸の仏国を初め、十方の無数の仏国の無数の諸菩薩が、この極楽国に往き、無量寿仏に会っている。

  (*2)『一切諸菩薩‥‥』:これ等の一切の諸菩薩は、妙華、宝香、無価衣を無量寿仏に供養し、天楽を奏して讃歎する。 

  (*3)『究達神通慧‥‥』:この菩薩たちは、『神通と智慧とに通達して深法の門に入り、功徳の蔵を具足して智慧の光で世間を照らし、生死の雲を消し去っていらっしゃいます。』と無量寿仏を歌って称え、仏の回りを三度迴って地に頭をつけて礼をする。 

  (*4)『見彼厳浄土‥‥』:この菩薩たちは、この厳かな浄土が微妙にして思議しがたいのを見て、無量に歓喜して、『願わくは我が国もこのようであるように。』と思うと、無量寿仏は悦んでお笑いになり、口より無数の光を出して十方の国を照らす。 無量心は無量に心が動かされることです。 

  (*5)『迴光囲遶身‥‥』:光は無量寿仏の身の回りを三度迴って、仏の頭頂より入る。 それを見た一切の天人衆は、皆、歓喜する。 観世音菩薩は、衣服を整えて礼をし仏に問う、『何故、お笑いになったのですか?』と。 観世音は大勢至と共に、常に無量寿仏の辺に在り、仕えています。 

  (*6)『梵音猶雷震‥‥』:仏の声は雷の如くよくとどろき、多くの功徳が有る。 その声でこう仰った、「菩薩たちよ、未来のことを教えてやろう。 よく耳をすまして聴くがよい。 十方の世界より来たる菩薩たちよ、お前たちの願いは悉く知っておる。 『我が国もかくの如く』と厳かなる浄土を求める者たちよ。 必ず願いは叶って、お前たちは仏と成るだろう。」と。 

  (*7)『覚了一切法‥‥』:「万物は、なお夢か幻の如し。 このように明らかに覚って、諸の妙なる願いを満足せよ。 必ず、このような国と成るであろう。 万物は電影の如しと覚って、菩薩の道を究め尽くせ。 必ず、力を得て仏と成るだろう。」 菩薩は自らの身心は空であり、無我であると覚って、衆生を導き、仏土を浄めます。 

  (*8)『通達諸法門‥‥』:「諸の法門に通達せよ、一切は空にして無我である。 専ら、浄き仏土を求めよ、必ず、このような国と成るだろう。」、このように諸仏は菩薩たちに教えて、無量寿仏に会いに行かせた。 「法を聞いて、何のようにすればよいか、教えを受けてこい。 速やかに、心の清浄を得よ。」 極楽に往って安楽に暮せと菩薩たちに教えたのではありません。 菩薩の願いはただ一つ、自らの国土を浄めることです。 「諸法門」とは、諸法すなわち万物の実際の門、万物の真実相のことです、万物は一切が空であり無我である、このことです。 万物は空であるから浄める必要が無いとすれば、それは間違いです。 本末転倒、手段と目的とを取り違えています。 菩薩は自らの身心が空であると覚って、智慧と神力とを得るのです。 その神力と智慧とを使って衆生を導き、国を浄める。 あくまでも目的あっての手段、どこまでもこれを忘れてはなりません。 

  (*9)『至彼厳浄土‥‥』:更に諸仏は菩薩たちに教えられる、「彼の厳かな浄土に至って、すみやかに神通を得、無量寿仏より、『お前たちは必ず仏に成るだろう』と記を受けよ。 速く往け、彼の仏の本願の力は、その仏の名を聞いて往生したいと思った者が、皆悉く、彼の国に到って、不退転と成ることを誓っているのだから。」と。 「記(き)」とは仏より受ける予言のようなものです、お前は将来必ず仏に成るというのがそれです。 「不退転」とは、菩薩が仏に必ず成る位をいいます。 極楽に往って無量寿仏の教えを受けた者は必ず不退転を得るのです。 

  (*10)『菩薩興志願‥‥』:菩薩たちは、極楽に於いて志と願をおこし「自らの国もこれと異なりがないように。」と願い、一切の世界の一切の衆生を導こうと念じる。 この菩薩の名声はたちどころに十方に達し、何億の如来に事(つか)えることになり、諸の国を遍く飛び回って恭しく事え、歓喜して極楽国に還りつく。 菩薩たちは本国に於いてすることと同じことをするのですが、極楽の衆生となった今は、肉体的能力が極度に発達していますので、瞬時に無数の国の衆生を教化することができます。

  (*11)『若人無善本‥‥』:もし人に善本が無ければ、この経を聞くことはできない。 お前たちは、皆、戒を守って清浄であればこそ、ようやく正法を聞くことができた。 これを聞いた大衆は、かつて世尊に初めて会ってから、世尊の話をよく聞いてよく信じ、つらい修行をのりこえて、ようやく聞けた嬉しさに、踊り回って大歓喜した。 「経」とはこの無量寿経のことです。 ここで世尊は現実に話をうつして、この経を聞くことは、皆が戒を守って清浄であるからだと説かれます。 「善本(ぜんぽん)」は善の本、すなわち善い行いをさします。

  (*12)『憍慢弊懈怠‥‥』:憍慢(きょうまん)、弊悪(へいあく)、懈怠(けたい)、すなわち知らぬことは無いと驕り高ぶった者、矯正不可能の何うしようもない者、怠け者は、その悪のためにこの法を信じることができない。 お前たちは、過去に於いて世世に仏に会ってきて、ここでようやくこの教えを聴くことができた。 声聞、菩薩には仏の心を究めることができない。 譬えば、生れながらの盲人が人を導くようなものである。 今聞いた経は、実にそれを説く者は仏のみである。

  (*13)『如来智慧海‥‥』:如来の智慧は海のように深さ広さに果てしがない。 声聞菩薩はこのような経を決して説くことができないだろう。 たとえ、一切の人に完全な道を得させ、浄い智慧を大空のようにして仏の智慧を思わせ、力を窮めて講説しても、如来の智慧を知ることはできないのだから。

  (*14)『仏慧無辺際‥‥』:仏の智慧は無辺際である。 しかもこのように清浄を究めている。

  (*15)『寿命甚難得‥‥』:人の寿命は甚だ得難く、仏の世にも値い難く、人に信心と智慧が有ることも難しい。 もしこの経を聞いたならば、精進して仏と成ることを求めよ。

  (*16)『聞法能不忘‥‥』:法を聞いて忘れることがなければ、やがて人に敬われ大きな慶びを得るだろう。 このような人はわたしの善き親友である。

  (*17)『是故当発意‥‥』:この故に、菩提心を発せ。 たとえ世界が火に満たされても、それが過ぎれば要は法を聞くことである。 法を聞きさえすれば、必ず仏と成って、広く衆生を救うことだろう。

 

<4.2 彼の国の菩薩> (*6)

  上巻に於いてすでに二度にわたって菩薩の功徳を説いています。 先ず釈迦に随従するこの国の菩薩の功徳を説き、次いで法蔵菩薩の獅子奮迅の修行を説きました。 今また三度目として彼の国の菩薩の功徳を説きます。

 

<4.2-1 彼の国の菩薩 その1> (*6-1

  佛告阿難。彼國菩薩。皆當究竟一生補處‥‥化生彼佛國』 

  仏は阿難に教えられました。

  『彼国菩薩皆当究竟一生補処‥‥』:彼の国の菩薩は、皆、必ずいつかは一生補処となる。 ただし、その本願によって衆生の為に、雄々しくも一切の衆生を救い導く者を除く。 「一生補処(いっしょうふしょ)」とは、次ぎの生で仏となることをいいます。 「本願(ほんがん)」とは、菩薩の立てる願をいいます。 一切の衆生を救い導く為に、菩薩は地獄、餓鬼、畜生、人間、天上に於いて無数の生を得ますが、常に変らない願を持っています。 これが本願です。

  『彼仏国中諸声聞衆身光一尋菩薩光明照百由旬』:彼の国の声聞衆の身光は一尋、菩薩の光明は百由旬を照らします。 「一尋」は約1.8メートル、「百由旬」は約千キロメートルです。

  『有二菩薩最尊第一威神光明‥‥』:彼の国には特に尊い菩薩が二人いる。 一人を観世音、一人を大勢至という。 この二人の光明は、普く三千大千世界を照らす。 この二菩薩は、この国に於いて修行していたが、命が終った時、彼の国に化生した。 観世音(かんぜおん)と大勢至(だいせいし)とは無量寿仏の両脇士として有名です。

 

<4.2-2 彼の国の菩薩 その2> (*6-2

  其有眾生生彼國者。皆悉具足三十二相‥‥示現同彼如我國也』 

  彼の国に生まれれば誰であろうと、ほぼ仏に近い能力を持つ。

  【具足三十二相:仏と同じ様相を持つ。

  【智慧成満:智慧は仏のように円満である。

  【深入諸法究暢要妙:諸法に深く入り要妙を究めて暢(の)びやかである。 「諸法」は万物という意味ではなく、種種の衆生に即した道法、「要妙」は微妙な要旨をいいます。

  【神通無礙:仏と同じ不思議な力を持つ。 「神通(じんつう)」は不思議な力、「無礙(むげ)」は障りが無く自由自在をいいます。

  『諸根明利‥‥』:仏と同じように、眼耳鼻舌身意の修行に必要な根本的能力は明利である。 その鈍根の者でも、自然の音を聞いて覚る音響忍(おんごうにん)と、心が真理に対し柔軟な柔順忍(にゅうじゅんにん)を成就しており、その利根の者ならば、万物は一切が平等であると覚る無数の種類の無生法忍(むしょうほうにん)を得ている。 阿僧祇(あそうぎ)は無数と訳します、ここでは万物は平等であることの証拠を無数に覚っていることです。

  『又彼菩薩‥‥』:また、彼の国の菩薩は、仏と成るまで、地獄、餓鬼、畜生の悪趣(あくしゅ)に生まれることはないが、自ら進んで他方の濁り汚れた悪世に生れ、その国の衆生と同じ様相を示現する、この国のわたし(釈迦)のような者を除く。 極楽国は、無量寿仏というただ一人の偉大な人によって造られたのではなく、無数の菩薩の非常なる努力のたまものであることは言うまでもないでしょう。 その菩薩たちは、皆悉く、自らの国を浄めおわった仏であるのですが、その多くは更に汚れた国を求めて他国に去って行きます。

 

<4.2-3 彼の国の菩薩 その3> (*6-3

  彼國菩薩承佛威神。一食之頃‥‥忽然輕舉還其本國』 

  彼の国の菩薩は、ただ一回の食事の間に、十方の無量の世界に詣でて、諸仏を心のままに供養する。 華香、伎楽(ぎがく、音楽)、繒蓋(そうがい、絹傘)、幢幡(どうばん、のぼり、吹き流し)、このような供養の具は自然に化生して思いのままに現れ、珍妙であり世にも希なこれらの供養の具を諸仏、菩薩、声聞の大衆の上に散く。 散かれた物は、皆、虚空中に大きな周囲が四百里もある華の蓋と化して成り、種種の色に光り輝き、香気は普く薫る。 その蓋はどんどん大きくなって三千大千世界を覆い、現れた順に消えてゆく。 菩薩たちは、皆、喜び楽しんで虚空中にて天の音楽を奏する。 その音楽は微妙に仏の徳を歎じている。 そして、その国の仏より経法を聴受して、食事の前に軽やかに飛び上がって本国に還りつく。

 

<4.2-4 彼の国の菩薩 その4> (*6-4

  無量壽佛。為諸聲聞菩薩大眾頒宣法時‥‥熙然快樂不可勝言』 

  無量寿仏‥‥』:無量寿仏は、七宝の講堂にて、諸の声聞、菩薩の大衆の為に、その行くべき道について教えられる。 それを聞いて、歓喜し、道を理解しない者はいない。 

  『即時四方自然風起‥‥』:四方からは自然に風が起り、宝の樹を吹いて、自然の音楽を奏で、無量の花びらが風に乗って舞い散る。 このような自然の供養も絶えることがない。 

  『一切諸天‥‥』:彼の国の一切の諸天は、皆、天上の百千の華香、万種の音楽をもたらして、無量寿仏、および諸の菩薩、声聞の大衆を供養し、普く華を散らして、諸の音楽を奏で、行ったり来たりしながら、互いに道を譲り合っている。

  『当斯之時‥‥』:このような時は、本当に和らぎ楽しんで、そのありさまを言葉にできないほどである。

 

<4.2-5 彼の国の菩薩 その5> (*6-5

  生彼佛國諸菩薩等。所可講說常宣正法‥‥於佛教法該羅無外』 

  生彼仏国諸菩薩等所可講説‥‥』:彼の国に生まれたならば、諸の菩薩たちに、無量寿仏より講説される法は、常に正法であり智慧に随順して違い失う所が無い。

  『於其国土所有万物‥‥』:彼の国の諸の菩薩たちは、その国土のあらゆる万物に執著する心は無く、意のままに自在であり好き嫌いは無い。 彼も無く我も無く、競うことも無く諍うことも無い。

  『於諸衆生‥‥』:彼の国の諸の菩薩たちは、諸の衆生に対しては、大慈悲でもってただ饒益(にょうやく、利益)したいのみであり、柔軟に調伏(ちょうぶく、教え導く)して、怒りの心も無く、恨みの心も無い。 一切の煩悩も無く、清浄であり、厭い怠ける心も無く、等しい心、勝れた心、深い心、定った心、法を愛し、法を楽しみ、法を喜ぶ心で接する。 

  『滅諸煩悩‥‥』:彼の国の諸の菩薩たちは、諸の煩悩を滅して、悪趣の心を離れ、一切の菩薩の行うべきことは究め尽くし、無量の功徳を具足して成就し、深い禅定、諸の神通、明らかな智慧を得て、覚りの完全な力に遊び、心に仏法を修める。

  『肉眼清徹‥‥』:彼の国の諸の菩薩たちの肉眼は清く透き徹して明らかならざるはなく、天眼は無量無限の空間に通達し、法眼は一切を観察して諸の道法を究め、慧眼は真実を見すえて彼岸に渡すことができ、仏眼は法性を具足して明らかに覚る。 法性(ほっしょう)とは万物の実の性、空のことです。

  『以無礙智為人演説』:彼の国の諸の菩薩たちは、礙(とどこお)ることのない智慧で人の為に演説する。

  『等観三界‥‥』:彼の国の諸の菩薩たちは、三界は等しく空であり何もないと観察して仏法を求め、諸の弁舌の才能を具えて衆生の煩悩の苦しみを除く。

  『従如来生‥‥』:彼の国の諸の菩薩たちは、仏のように真実より来て生れ、法の如如を理解する。 法の如如(にょにょ)とは万物に共通する本性をいいます。

  『善知習滅‥‥』:彼の国の諸の菩薩たちは、習うべき善と滅するべき悪とを善く知って声を出して方便するが、世間の談話を喜ばず、正論のみを楽しむ。 方便(ほうべん)とは衆生を救い導く行いをいいます。

  『修諸善本‥‥』:彼の国の諸の菩薩たちは、諸の善本を修めて仏道を崇める。 善本(ぜんぽん)とは善い行い、仏となる善い行いをいいます。

  『知一切法‥‥』:彼の国の諸の菩薩たちは、万物は皆悉く寂滅であると知って、生身と煩悩との二つの残り香を尽くす。 「寂滅(じゃくめつ)」とは存在しないこと、一切は存在せず空であると知って、身体と煩悩との二つを尽くすよう努力する。

  『聞甚深法‥‥』:彼の国の諸の菩薩たちは、甚だ深い法を聞いても、疑うことをせず、畏れもせずに、常によく修行する。 前の句と関係があります、一切法が空である、存在しないと聞いても、それで摧けてしまわずに修行することをいいます。

  『其大悲者‥‥』:彼の国の菩薩の大悲は、深遠にして微妙であり、一切の衆生を覆い、一切の衆生を載せる。

  『究竟一乗‥‥』:彼の国の諸の菩薩たちは、ただ一つの乗り物を究めて、彼岸に至り、疑いの網を決断して智慧が心より出る。 仏の教法に一切の衆生を覆って、余す所が無い。 ここで言う一乗(いちじょう)とは大乗のことです。

 

<4.2-6 彼の国の菩薩 その6> (*6-6

  智慧如大海‥‥摧滅嫉心不望勝故』 

  智慧如大海‥‥』:彼の国の菩薩の智慧は大海のようにはてしなく、菩薩の三昧(さんまい、一心に行うこと)は須弥山のように揺るぎなく、菩薩の智慧の光明は日月を超え、菩薩の清い法は具足して円満である。

  以下、彼の国の菩薩の行い、または菩薩の智慧の譬喩が続きます。

  『猶如雪山照‥‥』:雪山よりもなお世間を照らす。諸の功徳は一切を等しく一に見て浄きが故に。

  『猶如大地‥‥』:大地よりもなお一切を載せる。浄穢好悪を心に差別しないが故に。

  『猶如浄水‥‥』:浄水よりもなおよく洗う。塵労(じんろう、煩悩)を除き、諸の垢の染みを除くが故に。

  『猶如火王‥‥』:火よりもなお焼き尽くす。一切の煩悩の薪を燃やし尽くすが故に。

  『猶如大風‥‥』:大風よりもなお行く。諸の世界に障碍が無いが故に。

  『猶如虚空‥‥』:虚空よりもなお何も無い。一切のあらゆる物に執著しないが故に。

  『猶如蓮花‥‥』:蓮花よりもなお汚れが無い。諸の世間に汚染されないが故に。

  『猶如大乗‥‥』:大きな乗り物よりもなお載せる。衆生を載せて生死の苦しみより出すが故に。

  『猶如重雲‥‥』:雷雲よりもなお震わす。大法の雷は未だ覚めない者を覚ますが故に。

  『猶如大雨‥‥』:大雨よりもなお潤(うるお)す。甘露の法を雨ふらして衆生を潤すが故に。

  『如金剛山‥‥』:金剛山よりもなお動かない。衆魔、外道も動かすことのないが故に。

  『如梵天王‥‥』:梵天王よりもなお上である。諸の善法(ぜんぽう、善行)を行って、最上首であるが故に。

  『如尼拘類樹‥‥』:尼拘類樹(にくるいじゅ、巨木)よりもなお大きい。普く一切の衆生を覆うが故に。

  『如優曇鉢華‥‥』:優曇鉢樹(うどんばじゅ、華樹)の華よりもなお希有である。遇い難いが故に。

  『如金翅鳥‥‥』:金翅鳥(こんじちょう、龍を常食する天上の巨鳥)よりもなお恐ろしい。外道を威伏するが故に。

  『如衆遊禽‥‥』:小鳥よりもなお無邪気である。蔵(かく)して積む物が無いが故に。

  『猶如牛王‥‥』:牛の王よりもなお強い。誰も勝つことができないが故に。

  『猶如象王‥‥』:象の王よりもなお大人しい。善く調伏されているが故に。

  『如師子王‥‥』:獅子の王よりもなお畏れが無い。畏れる物が何も無いが故に。

  『曠若虚空‥‥』:虚空のように広い。 大慈が等しく行き渡るが故に、嫉妬心を滅して、勝ちを望まないが故に。

 

<4.2-7 彼の国の菩薩 その7> (*6-7

  專樂求法心無厭足。常欲廣說志無疲倦‥‥具足莊嚴無與等者』 

  専楽求法‥‥』:彼の国の菩薩は、専ら楽しんで法を求め、心に倦み厭きることがなく、常に広く説くことを欲して疲れ倦むことがない。 法の太鼓を打ちならし、法の旗印を建て、智慧の日を耀かし、疑いの闇を除く。

  『修六和敬‥‥』:彼の国の菩薩は、六和敬(ろくわぎょう、和み敬う六項目)を修め、常に法を施し、志は勇ましく精進して弱く退くことをせず、世の灯明、最も勝れた福田(ふくでん)と為り、常に道の師と為って衆生を等しく見て憎愛することがない。 六和敬とは、身で敬う、口で敬う、意で敬う、同じ戒を持って和み、同じ見解で和み、同じ修行をして和むことです。 精進とは休んだり怠けたりしないこと。 福田とは善の種籾を植えて福の穂を刈り取る田、仏法僧の三宝をいいます。

  『唯楽正道‥‥』:ただ正しい道のみを楽しんでその他の喜びや憂いは無く、諸の欲の刺を抜くことを教えて衆生を安んずる。

  『功徳殊勝‥‥』:功徳は殊に勝れて尊び敬わない者は無い。

 

  以下に、その殊勝なる功徳を説きます。

  『滅三垢障遊諸神通』:貪瞋癡を滅して諸の神通に遊ぶ。

  『因力縁力』:因(いん、今菩薩たることの因)の力と縁(えん、今菩薩たることの縁)の力。

  『意力願力』:意(い、衆生済度の意志)の力と願(がん、衆生済度の願)の力。

  『方便之力』:方便(ほうべん、衆生済度の種種の方策)の力。

  『常力善力』:常(じょう、常に変わらぬ志)の力と善(ぜん、一切の悪行を断つ)の力。

  『定力慧力』:定(じょう、一切の乱心を除く)の力と慧(え、一切の惑心を除く)の力。

  『多聞之力』:多聞(たもん、善事を多く聞く)の力。

  『施戒忍辱精進禅定智慧之力』:施(せ、布施)、戒(かい、持戒)、忍辱、精進、禅定、智慧の力。

  『正念止観諸通明力』:正念(しょうねん、常に衆生済度を心に思う)と止観(しかん、妄念を止め正観する)と諸の通(つう、神足、天眼、天耳、他心智、宿命、漏尽)と明(みょう、宿命、天眼、漏尽)の力。

  『如法調伏諸衆生力』:如法(にょほう、正しく)に諸の衆生を調伏する力。

  このような力の一切を具足して、身色、相好、功徳、辯才で自らを荘厳して並ぶ者が無い。 身色(しんしき)は肉体、相好(そうごう)は好ましい容貌、功徳は衆生を導く力、辯才(べんざい)は弁舌の才能をいいます。

 

<4.2-8 彼の国の菩薩 その8> (*6-8

  恭敬供養無量諸佛‥‥百千萬劫不能窮盡』 

  恭敬供養無量諸仏‥‥』:無量の諸仏を恭敬し供養して、諸仏には称歎される。 恭敬(くぎょう)は敬って仕えること、供養(くよう)は衣服、飲食、臥具、湯薬を供給して生活を支えることです。

  『究竟菩薩諸波羅蜜』:菩薩の諸波羅蜜を究める。 六波羅蜜(ろくはらみつ)を究めることです。

  【六波羅蜜(はらみつ)】:波羅蜜は彼岸に至ると訳し、仏の浄土を建設することです。 その方法は限りない布施をすることによって実現します。 それは苦行にも似ていますが、それを苦行に感じないことが波羅蜜なのです。 菩薩は六波羅蜜により心を調へ智慧を得て布施をするのです。 (1)布施波羅蜜:乞われるままに一切を布施します、もともと菩薩に一切の所有は無いのですから当然のことをするのみです。 (2)持戒波羅蜜:殺生を一切しないことにより、一切の衆生に無数の命を施します。 (3)忍辱(にんにく)波羅蜜:命の危険を感じても決して怒らないことです。 (4)精進波羅蜜:上の三波羅蜜をして一時も休まないことです。 (5)禅定波羅蜜:上の四波羅蜜をして心は少しも乱れません。 (6)智慧波羅蜜:上の五波羅蜜は何故しなくてはならないか、何のようにすればよいかを知る智慧です。

  『修空無相無願三昧不生不滅諸三昧門』:空、無相、無願三昧、不生不滅の諸の三昧門を修める。 空無相無願の諸三昧を総称して三三昧といいます。

  【空三昧(くうさんまい)】:無我の境地をいいます。

  【無相三昧(むそうさんまい)】:わが心と肉体とは存在しないとする境地のことです。

  【無願三昧(むがんさんまい)】:われは何もしていないとする境地をいいます。

  【三昧(さんまい)】:一心不乱であることをいいます。

  【不生不滅(ふしょうふめつ)】:生きるも無く死ぬも無いことです。 一切は平等、我も無く彼も無い、此も無く彼も無いと確信することで、この確信の本に衆生を救い導いて一心不乱であることを不生不滅の諸三昧門といいます。

  『遠離声聞縁覚之地』:このような、六波羅蜜と三三昧、不生不滅の諸三昧は声聞、縁覚の境地を遠く離れたものである。

  【声聞(しょうもん)】:仏の声を直接聞いて覚った聖者です。

  【縁覚(えんがく)】:仏に従らず自ら覚った聖者をいいます。

  【小乗(しょうじょう)】:声聞と縁覚とは共に菩薩とは異なり、自ら安楽の境地に住することを目的としていますので一人乗りの小さな乗り物、小乗と呼ばれます。 これに反し、菩薩は自ら安楽の境地を衆生済度の中に求めますので、一切の衆生を乗せる大きな乗り物、大乗と呼ばれます。

 

<4.3 弥勒に教え託す> (*7)

  弥勒菩薩(みろくぼさつ)は釈迦の後を継いで未来に仏と成る菩薩です。 この弥勒に釈迦は何故無量寿仏と極楽を説いたのかを説明し、後のことを託します。

<4.3-1 何故往かないのか> (*7-1

  佛告彌勒菩薩諸天人等‥‥壽樂無有極』 

  仏は、弥勒菩薩と諸の天と人等に教えられた。 無量寿国の声聞と菩薩との功徳と智慧とを一一挙げて説くことはとてもできない。 またその国土は微妙にして安楽、清浄なることも今言ったとおりである。

 それなのに、お前たちは、

  『何不力為善』:何故、力を尽くして善を為さないのか。 

  『念道之自然』:善の道は自然に極楽に通じることを念え。 

  『著於無上下』:極楽には上下の差別が無いことに執著せよ。

  『洞達無辺際』:無辺際の力に洞達せよ。

  『宜各勤精進』:できるかぎり勤めて精進せよ。

  『努力自求之』:努力して極楽国の安楽を求めよ。

  『必得超絶去往生安養国』:必ずこの世界を超絶して去り、安養の国に往生を得よ。

  『横截五悪趣悪趣自然閉昇道無窮極』:地獄、餓鬼、畜生、人間、天上の五悪趣を横ざまに断ち切れ。 悪趣は自然に閉ざされて極楽に昇る道が開かれよう。 生滅に随順しなければ極楽に往く道が開かれるということです。 自らの身心、家族、財産を惜しむことは生滅を繰り返す道です。 これらを横ざまに断ち切ることが五悪趣を切ることになるのです。

  『易往而無人其国不逆違自然之所牽』:このように往きやすいのに、往く人がいないのは何故か。 その国は自然に逆らっているのではない。 自然はその国へ往くように牽いているのだ。

  『何不棄世事勤行求道徳‥‥』:何故、世事を棄て、勤めて善を行い、道の徳を求めないのか。 極めて長い生を獲得し、寿の極まりの無いことを楽しめ。 道徳とは善行の果報をいいます。

 

<4.3-2 この国のありさま 三毒> 

  人の苦しみには原因があります。 この国の世間ではそれを脱れることが甚だ困難です。 我々が普段から何気なくしていることの中にこの苦しみの原因が隠されているのです。 貪欲(とんよく)は貪って飽きないことです、瞋恚(しんに)は思うにまかせずいらいらすることです、愚癡(ぐち)は道に迷って正道につかないことです。 この貪欲、瞋恚、愚癡は、最も劇しい苦しみをもたらすものとして三毒と呼びます。

 

<4.3-2-1 三毒、貪欲> (*7-2

  然世人薄俗‥‥有所趣向善惡之道莫能知者』 

  ここでは人の欲望について説きます。

  (*1)『然世人薄俗‥‥』:しかし、世間の人の薄俗は何うだろうか。 皆、一緒になって不急の事を諍い、この劇しい苦痛の中で身を粉にして働き自らに給済している。 尊も無く卑も無く、貧も無く富も無く、少長男女共に銭財を憂い、有ろうが無かろうが同じように、等しく思いわずらって、不安げに、うろつき、愁い苦しんで、過去を思い、未来を考えるのである。 このように、心を走り使って、片時も安まる時が無い。

  (*2)『有田憂田‥‥』:田が有れば田を憂い、宅が有れば宅を憂い、牛馬、奴婢、銭財、衣食、什物(じゅうもつ、日用品)に至るまで、皆悉く憂うのである。 水火の災難は何うか、盗賊に取られはせぬか、怨家の襲撃はないだろうか、債主は催促せぬか、焼け焦げて水に流され、奪われ、消散磨滅することはないだろうか。 憂いは毒となり身中に回って解ける時が無い。 憤りは心の中に結ばれて憂いの悩みを離れず、心にかたくなにこびりついて捨てることもできない。 或は為すこともなく命が終る、これ等を捨てて去らなくてはならないのに、誰も随っては来ない。 尊貴、豪富とて同じこと、憂いの怖れは万端とどこおりなく、苦労することはこれと同じである。 衆の寒熱の病を結び、痛みと共に在る。

  ()『貧窮下劣困乏常無‥‥』:貧に窮する者、身分が下劣の者たちは、貧困欠乏して常に無い。 田が無ければ憂いて田が有ればよいがと欲し、宅が無ければ憂いて宅が有ればよいがと欲し、牛馬、奴婢、銭財、衣食、什物に至るまで無ければ憂いて有ればよいがと欲するのである。 たまたま一つ有れば一つを欠き、これが有ればこれを欠く。 すべてが有ればよいがと思っているのだが、欲が適(かな)いすべてが有るとおもえば、たちどころに霧散してしまう。 このように憂い苦しみながらも、またまた求めてしまう。 時には得ることもできず、無益に思い悩む。 心身は共に疲労し、起きても寝ても安らぐことがない。 憂いと念いとは心の中に居座って、このように苦労させる。 また衆の寒熱の病が痛みを伴って現れる。 或いは、時に何も為すことなく若死にして、善行を為すことも、正道を行くことも、功徳を積むこともできず、命が終れば独り遠くに去らなければならない。 善悪の行いによって趣く所が異なるのを誰も知ろうとしないのである。

 

<4.3-2-2 三毒、瞋恚> (*7-3

  世間人民父子兄弟夫婦家室中外親屬‥‥可得極長生

  ここでは人の怒りについて説きます。

  (*1)『世間人民‥‥』:世間の人民、父子、兄弟、夫婦、家族、親属は、互いに敬い愛しあい、憎み嫉むことなく、富を分け合って貪ることも惜しむこともなく、言葉と態度を常に和らげて、互いに背き合わないようにすべきである。

  (*2)『或時心諍‥‥』:もし、時に心に諍いを懐き怒りを懐けば、今世の恨み憎み嫉みは極めて微かであっても、後世にはどんどん増してやがてはひどい怨みと成る。 何故ならば、世間の事で互いに傷つけあえば、その場その時に争いあわなくても、毒を含み、怒を蓄え、憤りを心に結んで、自然に、意識の中に刻み込まれて、敵どうしは離れなくなり、皆同時、同所に生まれて、再び報復しあうのである。

  (*3)『人在世間愛欲之中独生独死独去独来‥‥』:人は世間の愛欲の中にあって、独り生れ独り死に、独り去って独り来たる、やがて善悪の行いによって苦楽の地に趣くが、自ら往かなくてはならない、誰も代ってはくれない。 善悪は変化して罪福の処となる。 宿はあらかじめ厳正に用意され、独りで趣くのである。 遠く誰も知らない他所に到り、善悪は自然に後を追って生まれる所に行く。 暗くぼんやりした道を親しい者と別れて行くが、それぞれの道は同じではないので、ふたたび相いまみえることはないであろう。 実に難しいことである。 何故、皆は雑事を棄てて、各各強健の時に当って、努力して善を修めようとしないのか。 精進して世を渡ろうと願えば極めて長い命を得ることができるというのに。

 

<4.3-2-3 三毒、愚癡> (*7-4

  ここではすすんで道を求めようとしない愚かさを説きます。

  如何不求道。安所須待欲何樂乎‥‥痛不可言甚可哀愍

  *1)『如何不求道‥‥』:何故、道を求めようとしないのか、何を待ち、何を楽しもうと思っているのか。 このような世間の人は、善を作して善を得ることも、道を為して道を得ることも信じず、人が死ねばまた生まれ、恵み施せばまた福を得ることを信じようとしない。 善悪の道理をすべて信じようとせずに、そうではない、決してそのようなことは無いのだと言う。

  (*2)『但坐此故且自見之‥‥』:ただ何もせず、なんとなく確信して、互いに見習い、先の者を後の者が見習い、父から子へと受け継がれて行く。 先人も、祖父も、もとより善を為さず、道の徳を識らないので、愚かで暗く、闇に閉ざされている。 生死の趣きも、善悪の道も、自ら理解することができず、これを語る者も無い。 吉凶禍福が競い来たっても、一つとして怪しまないのである。 

  (*3)『生死常道‥‥』:生死は常の道となり、次から次ぎに立て続く。 ある時は父が子を泣き、ある時は子が父を泣く、兄弟も夫婦も互いに泣きかわすのである。 上下老若が顛倒することは無常の根本である。 皆、過ぎ去って常を保つことはできない。 教えを語り、道を開いて導こうとしても、これを信ずる者は少ない。 この故に生死に流転して、しばしも休むことが無いのである。

  (*4)『如此之人‥‥』:このような人は、暗闇の中でぶつかり合いながらも、経法を信じようとせず、心には遠くを思いはかる力が無いので、皆、快楽のみを願うのである。 愚かにも愛欲に惑って道の徳に達しようとしない。 色と欲とを貪って道を得ようとしない。 地獄に堕ちるわけであり、生死が窮まるわけがないのである。 哀れであり痛ましいことである。

  (*5)『或時室家父子兄弟夫婦‥‥』:ある時は、家族の父子、兄弟、夫婦が、一人が死に、一人が生まれる。 互いに、歎き、哀しみ、慈しみ、慕い、憂い、この念いで結びつき、苦に縛りつける。 心は死者に痛切に執著し、恋い慕い、年月を経ても苦が解けることがない。

  (*6)『教語道徳心不開明‥‥』:道の徳を教え語っても、心は開かれず明るくならない。 慈しんだ過去に思いを巡らして情欲を離れない。暗く、塞がったままの心は、愚かさと、惑いとに、覆われて、深く、思うことも、隅々まで、考えることも、心が、自ら正しくなることも、専ら、道を行うことも、世事を、捨て去ることもできないのである。 あてどなくさまよって、命が尽きる時になってもまだ道を得ることがない。 どうしようもないのだ。 みだりに心を乱すことを集めて、皆、愛欲を貪り、道に惑う者は多く、道を悟る者は少ない。 

  (*7)『世間匆匆無可聊賴‥‥』:世間は慌ただしく頼みになる者も無い。 尊卑、上下、貧富、貴賎、皆、苦労して慌ただしく務めながら、各各殺毒を懐き、悪しき気分が心中にわだかまって、みだりに事を興し、天地の道理に逆らって、人の心に従わない。 自然に悪人でない者までが、率先してこの悪人に随い仲間になり、心の欲するままに何でも行い、そしてその罪が極まるのを待つのである。 その寿命が、未だ尽きていなくても、突然、命を奪われて悪道に落ち入り、世世に苦を怨むことになり、数千億劫の間その中を展転として、出ることはまったく期待できない。 痛ましいかな言うべき言葉も無い、甚だ哀れむべきことである。

 

<4.3-3 精進して安楽国を願え> (*8)

  佛告彌勒菩薩諸天人等‥‥心得開明

  仏は、更に言葉をついで弥勒菩薩、諸の天人等に教えられます。

  『人用是故坐不得道‥‥』:人は、このようにしているが故に道を得られないのである。 よく考えなくてはならない。 悪なるものを離れ遠ざけ、善を択んで勤めて行わなければならない。 愛欲も栄華も常に保つことはできないのであるから、皆、別離すべきものであり、楽しむべきものは無い。

  『曼仏在世当勤精進‥‥』:ようやく仏が世に在るのである、勤めて精進せよ。 もし、心から安楽国に生まれようと願うに至ったならば、智慧が明らかに達し、殊に勝れた功徳(くどく、衆生を救う力)を、必ず、得るだろう。 心の欲するままに経と戒とに背き、人に遅れを取ってはならない。 

  『儻有疑意不解経者可具問仏当為説之‥‥』:『もし疑いが有り、心に解けないことがあれば、具に仏に問え、仏は必ずこれに答えて説くであろう。』と、このように仏が言いますと、弥勒菩薩は、まったく仏の仰るとおりでございます。と答えます。 以下ここの詳細は割愛します。

 

<4.3-4 善本を積み重ねよ> (*9)

  佛告彌勒。汝言是也‥‥如教奉行不敢有疑

  更に、仏は弥勒菩薩に教えられます。

  (*1)『若有慈敬於仏者実為大善‥‥』:もし仏を慈しみ敬うならば、実に大善を為す者である、何となれば、天下にはようやく仏が現れたのである。 教法を演説して道の教えを布き延べ、疑いの網を断じて愛欲の本を抜き、悪の源を閉ざした。 三界を自在に遊び歩いて、智慧を顕し道の要を示した。 諸の法を説いて道理を明らかにし、地獄、餓鬼、畜生、人間、天上の別を開き示して未だ導かれない者たちを導いた。 生死と涅槃とを決断して正したのである。

  (*2)『弥勒当知‥‥』:弥勒よ、知るがよい。 お前は無数劫の昔よりこのかた、菩薩の行を修めて、衆生を度すことを欲した。 すでに久遠の時間が過ぎ、お前によって道を得て涅槃に至った者は、無数である。 お前、および十方の諸天、人民、一切の四衆(ししゅ、比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷)は、永劫よりこのかた、五道(ごどう、地獄、餓鬼、畜生、人間、天人)を展転とし、憂い畏れ、勤苦(ごんく、勤労)して、ようやく今世に至り、それでも、なお生死を、絶つことができなかった。 しかし今ようやく仏に値うことができて、経法を聴受し、その上、無量寿仏を聞くことができたのである。 快いかな、甚だ立派である。 私は、今お前を助けて喜ばせよう。

  (*3)『汝今亦可自厭生死‥‥』:お前は、今また生死と老病の痛苦、悪が露出して不浄であり、楽しむべきでないものを厭え。 よろしく自ら不浄を決断して身を正し、行いを正してますます善を作し、己の身体を潔く修めて心の垢を洗い除き、言葉と行いとに偽りを無くして表裏を相応させよ。 

  (*4)『人能自度転相拯済精明求願積累善本‥‥』:人は、自らを度(ど、救う)すことができれば、やがて互いに救いあうことができる。 ひたすら道理を明らめ、安楽国を求め願うて、善本(ぜんぽん、善の根本)を積み累ねよ。 一世の間、懸命に勤めても、僅かの間のことである、後世は、無量寿国に生まれてその快楽は極まり無い。 

  (*5)『長与道徳合明‥‥』:その積みかさねた善本は、とこしえに道の徳(修行で得た力)と合して、智慧は明らかになり、永く、生死の根本を抜いて、貪欲、瞋恚、愚癡の苦悩の患いに還ることは無く、長い寿命を欲すれば、一劫でも、百劫でも、千億万劫でも、自在に、意のままに、皆、得ることができる。 

  (*6)『無為自然次於泥洹之道‥‥』:無為(むい、人の妄想によらない事物)は自然であり、泥洹の道に次ぐのである。 お前たちは、よろしく各精進して心の願う所を求めよ。 疑惑して途中で悔い止まり、自らの過失により、彼(か、安楽国)の辺地の、七宝の宮殿に生まれ、五百歳の間、諸の厄難を受けないように。 「彼辺地七宝宮殿」とは後に、この経に於いて具に明かされるのであるが、疑惑して安楽国に往生する者は、辺地の七宝の宮殿に生まれて、五百歳の間、仏、および諸菩薩に会わず、法を聞くこともないことをいう。 

 

<4.3-5 五悪> (*10)

  佛告彌勒。汝等能於此世‥‥度世長壽泥洹之道

  ここでは仏は弥勒に、五戒に相当する五つの悪を説きます。

  『汝等能於此世』:お前たちが、この世に於いて心を正し、悪を作さないのは甚だ立派なことである。 何故ならば諸仏の国土の天人の類は、自然に善を作して悪を為さないからである。 今、私は、この世間に於いて、仏と作り、五悪(ごあく、殺生、偸盗、邪淫、妄語、飲酒)、五痛(ごつう、五悪を犯して受ける刑罰)、五焼(ごしょう、五悪を犯して受ける地獄の罰)の中に居ることは、最も劇(はげ)しい苦しみであるとした。 そして今、群生(ぐんしょう、衆生)に教えて、五悪を捨てさせ、五痛を避けさせ、五焼を離れさせ、悪から善に化して、五善を行わせ、福徳(ふくとく、来世に受ける善い果報)、度世(どせ、巧くこの世を渡ること)、長寿、泥洹(ないおん、苦しみの無い世界、涅槃)への道を獲得させよう。

 

<4.3-5-1 五悪 殺生> (*10-1

  其一惡者‥‥是為一大善也

  その一の悪とは、殺生に関する悪です。

  (*1)『其一悪者、諸天人民蠕動之類‥‥』:その一の悪とは、この世間の諸天、人民からみみずの類に至るまで、皆、衆悪を為している。 

  (*2)『強者伏弱‥‥』:強い者は弱い者をねじ伏せて、次々と殺し合い傷つけ合っている。

  (*3)『不知修善‥‥』:善を修めることを知らず、道が無いかのようにほしいままに悪を為せば、後に天罰を受けるのは自然の趣きである。 天は罪を犯す者を名簿に記して、決して赦すことはない。

  (*4)『故有貧窮下賎‥‥』:故に、貧窮下賎、乞食孤独、聾盲瘖唖、愚癡弊悪から、あるいは狂などに至るまで、人に及ばない属が有る。 

  (*5)『又有尊貴‥‥』:一方では尊貴豪富、高才明達が有るが、皆、過去世に慈悲が有ったり、孝行であったりして、善を修めて徳を積んだが為に、こうなったのだ。

  (*6)『世有常道‥‥』:世間にも常道として、王法もあれば牢獄もあるが、 あえて悪を為して罪を受ければ、捕らえられて脱れることも免れることも難しい。 世間には目前にこの事が有り、命が終って後の世では、もっと深くもっと劇しい。 その人が薄暗い世界に入って生れ、身を受ければ、譬えば王法のように痛苦と極刑が待っている。

  (*7)『故有自然三塗‥‥』:故に、自然に三塗(さんづ、三悪道)の無量の苦悩が有る。 次々と肉体を取り替えながら、ある時は地獄に入り、ある時は餓鬼道に入り、ある時は畜生道に入って、或は長く、或は短く寿命を受ける。

  (*8)『魂神精識自然趣之‥‥』:肉体に伴って、心も三塗に入り、独り苦悩に立ち向かわなければならない。

  (*9)『相従共生更相報復‥‥』:人に生まれても、敵同士は常に一緒に生まれて、互いに報復を繰り返す。 罪が尽きていなければ互いに離れることもできない。

  (*10)『天地之間自然有是‥‥』:天地の間には、自然にこれが有る。 善悪の道が別れるのは、即時に、にわかにではないが、必ずここに帰るのである。 これを一の大悪、一の痛、一の焼という。 このように、譬えば、大火に身を焼くように苦しまなくてはならない。 

  (*11)『人能於中一心制意‥‥』:人がよくその中で、一心に心を調えて身の行いを正し、独り善を作して悪を為さなければ、身は独り脱れ出て福徳を得、天に上って涅槃の道に至るであろう。 これを一の大善という。

 

<4.3-5-2 五悪 偸盗> (*10-2

  其二惡者‥‥是為二大善也

  その二の悪とは、偸盗に関する悪です。

  (*1)『其二悪者、世間人民‥‥』:その二の悪とは、世間の人民、父子、兄弟、家族、夫婦は、すべて正義も道理も無く、法律を無視し、驕り高ぶって縦横に快楽を貪っている。 心にまかせて互いに欺し惑わせ、心と口とは異なって言うことに信用がおけず、媚び諂って心に誠がない。

  (*2)『嫉賢謗善‥‥』:賢者を嫉んで善人を落とし入れる。 主上は愚かにも重く用いて臣下にする。

  (*3)『臣下自在‥‥』:臣下は自在に偽りの計りごとをし、慎重に行動して形勢を読み、位に在れば不正をして欺き、主上は善良の忠臣を損なって天の心に背く。

  (*4)『臣欺其君‥‥』:臣下は主上を欺き、子は父を欺き、兄弟夫婦、中と外の親戚知人、皆、互いに欺く。

  (*5)『各懐貪欲‥‥』:各各、心に貪欲、瞋恚、愚癡を懐いて、自ら己に厚く多くを貪ろうと欲し、尊卑上下、皆、同じ心である。

  (*6)『破家亡身‥‥』:家を破って身を亡ぼし、これを為せば何うなるかと前後を顧みることもなく、親戚一同坐して滅ぶのを待つ。

  (*7)『或時室家‥‥』:或は時に、家族知人、郷党市里の愚人野人も手伝って互いに剥ぎ取り殺害し、忿りを成して怨を結ぶ。

  (*8)『富有慳惜‥‥』:富が有っても惜しんで施そうとせず、愛し保ち、貪り重ねて、心は疲れ身は苦しむ。

  (*9)『如是至竟‥‥』:このようにして命の終りに至れば、頼みとする所は無く、独り来たのであるから独り去らなければならず、一人として随う者は無い。 善悪の行いに応じた禍福は命を追い、生まれる所も、或は楽処に在り、或は苦毒に入る。 そうなった後に悔んでも及ばないのである。

  (*10)『世間人民‥‥』:世間の人民は、心が愚かで智慧が少なく、善人を見ても憎んで落とし入れ、思慕し及ぼうとしない。 ただ悪を為して法を犯すことのみを欲している。 

  (*11)『常懐盗心‥‥』:常に盗心を懐いて、他の利を望み、盗んだ財が消散磨滅すれば、また求める。 

  (*12)『邪心不正‥‥』:心が邪で正しくなければ、人の顔色を怖れる。 あらかじめ思い計ることをしないので、事が至ってようやく悔む。 今世には王法と牢獄とが有り、罪に随って受ける刑罰が決まり、前世に道の徳を信じず、善本を修めず、今また悪を為せば、天はその名を記して、命が終れば悪道に入るのである。

  (*13)『故有自然三塗無量苦悩‥‥』:故に、自然に三塗の無量の苦悩が有る。 次々と肉体を取り替えながら、世世にある時は地獄に入り、ある時は餓鬼道に入り、ある時は畜生道に入り、いつ出られるとも知れず、その痛みは言いようもない。 これを二の大悪、二の痛、二の焼という。 このように、譬えば、大火に身を焼くように苦しまなくてはならない。 

  (*14)『人能於中一心制意‥‥』:人がよくその中で、一心に心を調えて身の行いを正し、独り善を作して悪を為さなければ、身は独り脱れ出て福徳を得、天に上って涅槃の道に至るであろう。 これを二の大善という。

 

<4.3-5-3 五悪 邪婬> (*10-3

  其三惡者‥‥是為三大善也

  その三の悪とは、邪婬に関する悪です。

  (*1)『其三悪者、世間人民相因寄生‥‥』:その三の悪とは、世間の人民は相い因り寄って生まれ、共に天地の間に居り、寿命はいくばくでもない。 上には賢明、長者、尊貴、豪富の者が有り、下には貧窮、廝賎(しせん、身分が賎しい)、劣(おうれつ、弱く劣る)、愚夫が有る。

  (*2)『中有不善之人‥‥』:その中に不善の人が有り、常に邪悪を心に懐いて、ただ酒色におぼれている。 わずらわしさは胸中に満ち、愛欲に乱れて寝ても覚めても安らげない。

  (*3)『貪意守惜但欲唐得‥‥』:貪りの心はただ財を守り惜しんでむやみに得ることのみを欲する。 女の肌がきめ細やかであるのを横目に見て、自らの妻を厭い憎み、秘かに娼家に出入して家財を損じ、職場で非法を為す。 悪い仲間と交わって徒党を組み、戦いを興して相い伐(う)って強いて奪い、正しい道を行わない。

  (*4)『悪心在外不自修業‥‥』:悪心は外に向けられ自ら正業を修めず、盗んで得ることを好み、他人を襲って事を成そうとする。 びくびくしながら得た物を妻子にあてがい、好き放題にして快く思い、身の快楽を尽くす。

  (*5)『或於親属不避尊卑‥‥』:或は親属に対する礼儀を忘れ、皆の患いとなり、王法も牢獄も怖れない。 これを日月が見ないはずがなく、その名は名簿に記される。

  (*6故有自然三塗無量苦悩‥‥』:故に、自然に三塗の無量の苦悩が有る。 次々と肉体を取り替えながら、世世にある時は地獄に入り、ある時は餓鬼道に入り、ある時は畜生道に入り、いつ出られるとも知れず、その痛みは言いようもない。 これを三の大悪、三の痛、三の焼という。 このように、譬えば、大火に身を焼くように苦しまなくてはならない。 

  (*7)『人能於中一心制意‥‥』:人がよくその中で、一心に心を調えて身の行いを正し、独り善を作して悪を為さなければ、身は独り脱れ出て福徳を得、天に上って涅槃の道に至るであろう。 これを三の大善という。

 

<4.3-5-4 五悪 妄語> (*10-4

  その四の悪とは、妄語に関する悪です。

  其四惡者‥‥是為四大善也

  *1)『其四悪者、世間人民不念修善‥‥』:その四の悪とは、世間の人民は善を修めることを思わず、互いに教え合って衆悪を為す。 二枚舌を使って仲違いをさせて悪口を言い、嘘を言って卑猥な言葉を並べ立て、人を陥れて乱闘する。

  (*2)『憎嫉善人敗壊賢明‥‥』:善人を憎み嫉み賢明をだめにして、傍らでそれを喜ぶ。 二親には不孝、師長には憍って軽んじ、朋友には信じられず、誠実な友を得ることができない。

  (*3)『尊貴自大謂己有道‥‥』:尊貴の者ならば自ら大物ぶって道を得ていると言い、威勢を振るって横行し、人を侵してあなどっているが、自らは知らないのである。

  (*4)『為悪無恥‥‥』:悪を為して恥じること無く、自らが強健であるからといって人に敬わせ憚らせて天地を畏れず、善を作そうともせず、教え導こうとしても受け付けない。 自らこれでよいと思って何もせず、憂いも畏れも無く、常に驕り高ぶっている。

  (*5)『如是衆悪天神記識‥‥』:このような衆悪を天が放っておくだろうか。 たとえ前世に僅かばかりの善を作していたとしても、今世にこれだけの悪を為していては福は滅尽してしまうだろう。 これを助けていた善い鬼神も離れ去ってしまい、独り空しく立って、誰も助けてはくれない。 

  (*6)『寿命終尽諸悪所帰‥‥』:寿命が尽きれば、諸悪の帰する所は、自然にこの人をせき立てて地獄へ連れていってしまうのである。 またその名はすでに記されているので、罪のままに何処へでも趣かなくてはならない。 罪報は自然であり捨て去ったりはしない。 ただまっすぐ進んで熱く焼けた火の鍋に入るのみである。 身心は砕け散り精神は痛み苦しむ。 この時に当って悔んだとて何になろう。 天の道は自然であり蹈み違えることはありえない。

  (*7故有自然三塗無量苦悩‥‥』:故に、自然に三塗の無量の苦悩が有る。 次々と肉体を取り替えながら、世世にある時は地獄に入り、ある時は餓鬼道に入り、ある時は畜生道に入り、いつ出られるとも知れず、その痛みは言いようもない。 これを四の大悪、四の痛、四の焼という。 このように、譬えば、大火に身を焼くように苦しまなくてはならない。 

  *8人能於中一心制意‥‥』:人がよくその中で、一心に心を調えて身の行いを正し、独り善を作して悪を為さなければ、身は独り脱れ出て福徳を得、天に上って涅槃の道に至るであろう。 これを四の大善という。

 

<4.3-5-5 五悪 飲酒> (*10-5

  その五の悪とは、飲酒に関する悪です。

  其五惡者‥‥是為五大善也

  *1)『其五悪者、世間人民徒倚懈惰‥‥』:その五の悪とは、世間の人民は、他に寄りかかって怠け、善を作そうとも、身を治めようとも、正業を修めようともしない。 家族、眷属が飢えと寒さに苦しんでも、父母が教え諭しても、目を瞋らせて口答えし、言いつけは守らず敵のように逆らって、子などは無いほうが善いぐらいである。

  (*2)『取与無節衆共患厭‥‥』:取ることも与えることも節度が無く、人に嫌われて恩義に背き、貰っても返す心が無いので、一たび貧乏し困窮すれば二度と得ることは望みえない。 権力で奪えば、ほしいままに遊び散じ、大きく得れば自らの酒色に給してしまう。 美酒美食にきりがなく、心が大きくなって、意味もなく人に従い、むやみに人とぶつかり合う。 

  (*3)『不識人情強欲抑制‥‥』:人の心を読むことができず、強いてこれを抑えつけようとし、善人を見れば、これを憎んで嫉む。 礼儀知らずであるから、人に軽んぜられて顧みられず、自ら職についても人を諫めることができない。 家族を養うことができないのに、憂うこともできない。

  (*4)『不惟父母之恩‥‥』:父母の恩を思わず、師友の義理も知らず、心には常に悪を思い、口には常に悪を言い、身には常に悪を行い、かつて一つの善も為したことが無い。

  (*5)『不信先聖諸仏経法‥‥』:諸仏の経法を信じず、道を行って世を渡ることを信じず、死後に再び生まれることを信じず、善を作せば善を得、悪を為せば悪を得ることを信じず、聖者を殺して衆僧と乱闘しようとし、父母兄弟を殺そうとして、親属に憎悪されて死を願われる。

  (*6)『如是世人心意倶然‥‥』:このように世人の心は皆同じである。 愚癡蒙昧であり、自らの智慧では何処から来て生まれたのかも、死んで何処へ往くのかも知らない。 下を慈しまず上に従わずに天地に逆らい、その中で、あてどなく幸を求め、長く生きたいと思うが、いつかは死ななくてはならない。

  (*7)『慈心教誨令其念善‥‥』:親切な人が、教えさとして善を思わせようとし、生死の意味を開き示して、善悪の道は自然に有ることを知らしめようとするが信じようともせず、苦心の言葉もこの人には無益である。

  (*8)『心中閉塞意不開解‥‥』:心は塞がれて開かず、盛んであった命が終る時になって初めて悔やみと怖れとが交も至るのである。 あらかじめ善を修めていなければ、その場になって悔んでももう遅い、何の役に立つというのだろう。

  (*9)『天地之間五道分明‥‥』:天地の間には、地獄、餓鬼、畜生、人間、天上の五つの道がはっきりと通っている。 薄暗く果てしないその道を善悪の行いに応じて行かなければならない。 誰が代ってくれるというのか。 理の当然のことである、その行いに応じて刑罰は後を追い、決して放してはくれない。

  (*10)『善人行善従楽入楽‥‥』:善人が善を行えば楽より楽に入り、明より明に入る。 悪人が悪を行えば苦より苦に入り、冥より冥に入る。 この理を誰がよく知ろう、ただ仏のみが知っているのである。 教えを言葉にして開き示しても信ずる者は少ない。

  (*11)『生死不休悪道不絶‥‥』:生死に休みはなく、悪道も絶えることがない。 このような世人は具に説き尽くせない。

  *12故有自然三塗無量苦悩‥‥』:故に、自然に三塗の無量の苦悩が有る。 次々と肉体を取り替えながら、世世にある時は地獄に入り、ある時は餓鬼道に入り、ある時は畜生道に入り、いつ出られるとも知れず、その痛みは言いようもない。 これを五の大悪、五の痛、五の焼という。 このように、譬えば、大火に身を焼くように苦しまなくてはならない。 

  *13人能於中一心制意‥‥』:人がよくその中で、一心に心を調えて身の行いを正し、独り善を作して悪を為さなければ、身は独り脱れ出て福徳を得、天に上って涅槃の道に至るであろう。 これを五の大善という。

 

<4.3-6 五悪総説> (*11)

  佛告彌勒。吾語汝等是世五惡勤苦若此‥‥古今有是痛哉可傷

  仏告弥勒吾語汝等是‥‥』:仏は弥勒に語られた、わたしは、お前たちにすでに語った。 この世での五つの悪とはこれである。 このように五つの悪を為しておれば、五つの苦しみと五つの罰が次々と生じる。 ただ悪を作すのみで善を修めなければ、皆、悉く自然に悪趣に入るのである。 或るものは、今世に先に業病を被り、死を求めても得られず生を求めても得られない。 わたしは、罪悪の招く所とはこのようであると言って衆に示した。 死ねば悪道に入って大変な苦しみを受け、無限の時間が過ぎて人として生まれても、或は敵同士と為るのである。

  『従小微起遂成大悪』:非常に小さなことから始まって、ついに大悪と成るのである。 

  『皆由貪著財色不能施恵‥‥』:皆、財物を貪って、それに執著し、施し恵むことのできないことから起るのだ。 愚かさと欲とに迫られて、心のままに煩悩に結びつけられ縛られていれば、いつ解ける時が来るというのだろう。

  『厚己諍利無所省録‥‥』:おのれにのみ厚くして利を諍い、反省することが無く、富貴栄華の時には快く思い、善を修めることに耐え忍ぶことができない。 このような者の威勢がいつまで続くと思っているのだろう、いずれ磨滅して身に苦労を生じるようになるのだ。 それもどんどん劇しくなるだろう。 天は罪人を捕らえる網を張り、自然はこれを糾弾する。 ひとりぼっちでびくびくしながら、その中に入らなくてはならない。 古今に変らないとは言え痛々しくも哀れなことである。

 

<4.3-7 弥勒、勅を受ける> (*12)

  佛語彌勒。世間如是佛皆哀之‥‥不敢違失

  仏は弥勒に語られた。

  (*1)『世間如是仏皆哀之‥‥』:世間はこのようであり、仏は皆これを哀れみ、威神の力で悪を滅ぼし、人々にその思いを捨てさせて善に就かせようとしている。 仏の経と戒とを持ち、道を行く法を受けて過ち失う無かれ。 ついには世間を渡って涅槃の道を得るであろう。

  (*2)『汝今諸天人民‥‥』:お前たち、今時の諸天、人民、および後世の人よ。 仏の経を得たならばよくよくこれを思え。 そしてそれぞれの生活の中で、心を正して行いを正しくせよ。 主上は率先して善を為して下の者に範を示し、互いに過ちを指摘しあって自らを正しく守るのだ。

  (*3)『尊聖敬善仁慈博愛‥‥』:聖人を尊び善人を敬い、恵み深く慈しみ、広く愛して仏の教えにあえて背くこと無かれ。 世間を渡ることのみを求めて、生死衆悪の根本を断つのだ。 そうすれば、三塗の無量の苦悩、苦痛の道を永く離れることができよう。

  (*4)『汝等於是広殖徳本‥‥』:お前たちは、この世間に於いて広く徳の本を植えよ。 布施をし、持戒をし、忍辱をし、精進をし、禅定をし、智慧を増やし、互いに教えあい導きあえ。

  (*5)『為徳立善正心正意‥‥』:徳の為に善を立て、心を正して斎戒(さいかい、不殺、不盗、不婬、不妄語、不飲酒、身不塗香、不観聴歌舞、於高広床座不眠坐、不過中食)して清浄なること一日一夜であれば、無量寿国で百年の間、善を為すことにも勝る。 

  (*6)『彼仏国土無為自然‥‥』:何故ならば、彼の国土は無為(むい、自らの為にせず)であり自然だからであり、皆、善を積んで、髪の毛ばかりの悪さえ犯すことはない。 この世で修める十日十夜の善は、他方の諸仏の国で為す千年間の善にも勝るのである。

  無為とは因縁に因って生じないことをいいます。 自然は人為に由らないということです。 人というものは生きたいという本能、言い換えれば無明に起因する諸煩悩に迫られて行動するものです、他の為を思うことは少なく、自らの為を思うことは多い、この意味で自然ならざる物は不浄であります。 この故に人為物は清浄な極楽には存在しません。

  (*7)『他方仏国為善者多造悪者少‥‥』:何故ならば、他方の国には善を為す者は多く、悪を造る者は少ないからである。 福徳は自然に有り、悪を造るような地は無い、ただ、この世間にのみ多くの悪が有って自然が無いのである。

  (*8)『勤苦求欲転相欺殆‥‥』:この世間は苦労して欲するものを求め、心は疲れて身は苦しみ、日日の務めに忙しくて休む暇もない。

  (*9)『吾哀汝等天人之類‥‥』:わたしは、お前たち天人の類を哀れむが故に、ねんごろに教え諭して善を修めさせ、器に随って道を開き、導いて経法を授けるのである。

  (*10)『莫不承用‥‥』:その経法を用いざること無かれ。 願う所は、皆、道を得さえよう。

  (*11)『仏所遊履‥‥』:仏の踏み歩く国や村は、教えを蒙らない者は無い。 天下は和順し、日月は清明、風はよい時に吹き、雨はふさわしい時に降り、災害は起らず、国は豊かに民は安んじ、兵戈(ひょうが、兵と武器)に用なく、徳を崇めて仁(にん、慈しむ心)を興し、務めを修めて礼儀正しい。

  (*12)『我哀愍汝等諸天人民‥‥』:わたしは、お前たち諸天人民を哀れんで父母が子を思うようであるが故に、今この世に於いて仏と作り、五つの悪を降して、苦しみと罪を絶滅しようとしている。

  (*13)『以善攻悪‥‥』:善で悪を攻めて生死の苦しみ抜き、五つの善を教えて五つの徳を獲得させ、無為の安きに昇らせた。

  (*14)『吾去世後経道漸滅‥‥』:わたしが世を去れば、経道もだんだんと滅びるだろう。 人民は諂い偽って、また悪を為すことだろう。 苦しみも罪を以前のようになることだろう。 後にはどんどん劇しくなるが、その悉くを説くことはできない。 ただお前の為には、略して説くのみである。

  (*15)『汝等各善思念之‥‥』:お前たちは、善く思って考え、互いに教え誡めあいながら、仏の経法を犯してはならない。

 

  この時、弥勒菩薩は合掌して仏に申した、仏の仰るとおりです。 如来は、普く慈しみ哀れんで、世間の衆生を極楽に導き苦しみと罪から脱れさせられました。 仏の重ねての誨(おしえ)にあえて逆らうようなことは致しませんと。

 

<4.4 阿難、無量寿仏を拝す> (*13)

  佛告阿難。汝起更整衣服‥‥彼見此土亦復如是

  この経の、クライマックスがいよいよ始まります。

  仏は教えられた、阿難よ、起って衣服を整え、合掌して無量寿仏を礼せよ。 十方の諸仏も常に口をそろえて無量寿仏の執著が無く、自在であることを称揚し讃歎している。 こう教えられて阿難は、起って衣服を整え、正しく西に向って合掌し、両手両膝と頭を地に着けて無量寿仏を礼し、世尊に申した。

  『願見彼仏安楽国土及諸菩薩声聞大衆』:どうか彼の仏の安楽の国土、および諸の菩薩と声聞の大衆をお見せください。

  『説是語已即時無量寿仏放大光明』:この阿難の願いに応えるかのように、即時に無量寿仏は大光明を放たれた。 ここは非常に大切な部分です、阿難が世尊に彼の仏の国土と大衆とを見せて欲しいと願うと、あたかもそれが聞こえたかのように無量寿仏は大光明を放たれたのです。 阿難は小乗の人です、大乗の教えによってそのような国土を造ることができるなどとは、聞いただけではだめで、どうしても見る必要がありました。 これはやがて観無量寿経にと発展してゆきます。 誰でも仏の力を借りずに安楽の国土を見ることができるようになるのです。

  『普照一切諸仏世界』:その光明は普く一切の諸仏の世界を照らした。 須弥山も、その周囲を取り囲む七重の連山も、大小の諸山も、一切が皆一色になってしまいました。 譬えば、劫水が世界に満ちて、その中に一切万物が沈没してしまい、広々とした水の他には、何も見えなくなってしまったように、彼の仏の光明は世界を満たしたのです。 「劫水(こうすい)」とは、世界が終る時、大雨が降って世界を水浸しにしてしまうことをいいます。 声聞、菩薩の一切の光明は仏の光明の前では耀くことができません。

  『爾時阿難即見無量寿仏』:ここに至って阿難は初めて無量寿仏を見ることができました。 威徳は巍巍として須弥山のようです、高く一切の世界の上にそびえ立っていました。 相好の光明も明らかに照らし耀かせないものは世界の何一つありません。 彼の国の四部の衆、いわゆる比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷も一時に悉く見ることができました。 彼の国土の荘厳も見ることができました。

 

<4.4-1 彼の国の胎生者> (*14)

  爾時佛告阿難及慈氏菩薩‥‥宿世之時。無有智慧疑惑所致

  仏は、阿難および弥勒菩薩に教えられます。 慈氏菩薩は弥勒菩薩と同じです。

  (*1)『汝見彼国‥‥』:お前は、彼の国の地上から天に至るまで、悉くを見てしまったと思うかどうか。 はい、よく見ました。

  (*2)『汝寧復聞‥‥』:では無量寿仏の大音声は一切の世界に届いて衆生を導くのを聞いたかどうか。 はい、そのように聞こえました。

  (*3)『彼国人民‥‥』:彼の国の人民が、百千由旬(ゆじゅん、10キロメートル)の七宝の宮殿に乗って、一切の障害物も無しで十方に至り、諸仏に遍く供養しておるのを見たかどうか。 はい、見ました。

  (*4)『其胎生者‥‥』:その胎生の者の住まいとする宮殿は、或は百由旬、或は五百由旬あり、その中で皆は、忉利天のように諸の快楽を受けておる。 皆また自然であり人為ではない。

  (*5)『爾時慈氏菩薩白仏言‥‥』:その時、弥勒菩薩が仏に申した、世尊、何の因縁が有って、彼の国の人民は、或は胎生し、或は化生するのですか?

  (*6)『仏告慈氏若有衆生以疑惑心‥‥』:仏は弥勒菩薩に教えられた、もしある衆生が疑惑の心で諸の功徳を修め、彼の国に生まれたいと願いながらも仏の智慧を理解しない。 不思議な智慧、称えることさえできない智慧、大乗の広い智慧、並ぶ者の無い最上の智慧、このような智慧を疑惑して信じず、しかしそれでもなお罪福を信じ、善本を修めて彼の国に生まれたいと願うならば、この諸の衆生は彼の宮殿に生れ、五百歳に成るまで常に仏を見ず、経法を聞かず、菩薩声聞の聖衆に会うこともできない。 この故に彼の国土に於いては、これを胎生と謂うのである。

  (重要)胎生の者は母胎ともいうべき宮殿の中で神力と智慧との生長を待たなくてはなりません。 これに反して化生の者はいきなり成人して生れます。 しかしながら胎生とはいうものの実際に母胎から生まれるわけではありません、この二つは共に化生というべきものであり、忽然として彼の世界に現れるのです。

  (*7)『若有衆生明信仏智‥‥』:もしある衆生が仏智を理解して信じ、諸の功徳を作して信心を彼の国に生まれることに廻向するならば、この諸の衆生は七宝の華の中にて自然に足を組み坐って化生する。 そしてしばらく後には、もう身相も光明も智慧も功徳も、諸菩薩のように具足して成就している。

  (*8)『復次慈氏他方諸大菩薩‥‥』:またその他にも、弥勒よ、他方の国土の諸大菩薩が心を発して、無量寿仏を見、諸の菩薩と声聞の衆に供養したいと欲するならば、彼の菩薩たちの命が終ると無量寿国に生まれることができ、自然に七宝の華の中にて化生する。

  (*9)『弥勒当知‥‥』:弥勒よ、こういうことを知っているか。 彼の化生の者は智慧が勝れたるが故に化生するのであり、彼の胎生の者は、皆、智慧が無いが故に、五百歳に成るまで常に仏を見ることも、経法を聞くことも、菩薩と声聞の衆に会うこともできない。 仏に供養する手だても無く、菩薩の行いも知らず、功徳を修めることもできない。 

  (*10)『当知此人‥‥』:お前はこのことを知っているか、この人は前世の時に智慧も無く疑惑したがために、こうなったのである。

 

<4.4-2 胎生者の罪> (*15)

  佛告彌勒。譬如轉輪聖王‥‥應當明信諸佛無上智慧

  転輪聖王には特別の室があり、罪を犯した王子はそこに閉じこめられる。 その室は七宝で荘厳されており、軟らかい床も帳もあり、飲食も衣服も華香も伎楽も供給されて何の不自由も無い。 しかしこの王子たちは何とかしてここから出してもらいたいと願っている。 

  『此諸衆生亦復如是』:同じように胎生の者も、仏の智慧を疑ったばかりに彼の宮殿に閉じこめられて、何の不自由が有るのではないが、ただ五百歳に成るまで、三宝に会うことができず、仏を供養して諸の善本を修めることができない。 しかしこれを苦しみと思い、その他にも多くの楽しみが有るというのに、それは楽しみとは思えないのである。 

  『若此衆生識其本罪』:もしこの衆生がその本の罪を識り、深く自ら悔んで彼の宮殿を離れたいと思うならば、即座に思うがままに無量寿仏の所に往き供養することができる。 また遍く無量無数の諸如来の所に至って諸の功徳を修めることもできる。 

  『弥勒当知』:弥勒よ、お前はこれを知っているか、ある菩薩に疑惑が生じれば、このように大利を失ってしまうのである。 まさに諸仏の無上の智慧を理解して信じなくてはならないのだ。

 

<4.5 他方より来て生まれた菩薩> (*16)

  すでに見てきたように、極楽は無為の国土です。 一切の事物は因縁によって生ずるものではない。 しからばその国の住民はどのようにして生まれたのだろうか。 この疑問に対する的確な答えはないのですが、ここにその幾分の回答があります。

  彌勒菩薩白佛言。世尊。於此世界有幾所不退菩薩‥‥我今為汝略說之耳

  弥勒が仏にもうします。

  『世尊於此世界有幾所不退菩薩生彼仏国』:世尊、この世界から彼の国に生まれた不退の菩薩は何人おりましょうか? この弥勒の問いに答えて世尊は言います、この世界からは六十七億の不退の菩薩が彼の国に往生した。 一一の菩薩はすでにかつて無数の菩薩を供養しており、弥勒のような者に次ぐ者である。 諸の小行の菩薩、および少しばかりの功徳を修めた者ならば、数え切れないほどの者が皆往生している。

  『仏告弥勒不但我刹』:仏は弥勒に教えられた、ただ我が国のみではない、他方の仏土からも彼の国に往生しているのである。 その第一は仏の名を遠照といい、彼には百八十億の菩薩が有る、皆往生している。 その第二は仏の名を宝蔵といい、彼には九十億の菩薩が有るが、皆往生している。‥‥‥‥、このように仏は十三の仏の名と往生した菩薩の数を説き、ただこの十四の仏国中の菩薩たちのみが往生したというのではない。 十方の世界の無量の仏国の往生した者はその数は甚だ多く無数である。 わたしがただ十方の諸仏の名と菩薩比丘の彼の国に往生した者の数を説くだけで、昼夜一劫を尽くしてもなお終らせることはできない。 今お前には略して説いているのみであると語られたのです。

  (重要)(1)これらの菩薩は皆彼の国に『化生』する。 (2)化生には『心に生じたものであり実体が無い』という意味もある。 これ等のことを想起する必要があります。

 

<4.6 弥勒に経を付属する> (*17)

  仏は、この経を弥勒菩薩に付属します。 弥勒菩薩は必ずこの経を世間に弘めなくてはなりません。

  佛語彌勒。其有得聞彼佛名號‥‥應當信順如法修行

  其有得聞彼仏名号歓喜踊躍乃至一念当知此人為得大利則是具足無上功徳』:仏は弥勒に語られました、もし彼の仏の名号を聞くことができて歓喜踊躍するならば、それがたとえただの一念であったとしても、この人は大利を得たというべきである。 大利とは、すなわちこれは無上の功徳を具足するということである。

  『是故弥勒設有大火充満三千大千世界要当過此聞是経法歓喜信楽受持読誦如説修行』:この故に、弥勒よ、お前は、もし三千大千世界に大火が充満したとしても、必ずこれが過ぎたならば、この経法を聞くようにし、歓喜して信じ、楽しんで受持し、読誦して説かれた如くに修行しなければならない。 何故ならば、多くの菩薩がこの経を聞こうとしてもできないでいるからなのだ。 仏は弥勒に経を付属されました。 弥勒は、例え世界の終りに大火を迎えても、それを過ごしたならば、この経を拾い集めて人々に弘めなくてはなりません。

  『若有衆生聞此経者於無上道終不退転』:もしある衆生がこの経を聞けば、無上道に於いてついに不退転となるであろう。 この故に、まさに心を専らにして信じ受持し読誦し、この経に説くように修行しなくてはならない。

  『吾今為諸衆生説此経法令見無量寿仏及其国土一切所有』:わたしは今、諸の衆生のためにこの経法を説いて、無量寿仏およびその国土の一切の物を見せた。 問うべきことが有れば皆すぐに問え。 わたしが滅度したのちに疑惑を生じてはならない。

  『当来之世経道滅尽我以慈悲哀愍特留此経止住百歳』:来るべき世に仏経と仏道とが滅尽しても、わたしは慈悲と哀愍とを以って、ただこの経のみを百歳留めよう。

  『其有衆生値斯経者随意所願皆可得度』:その時のある衆生が、この経に値うことができたならば、心の願いのままに皆導きを得ることができるだろう。

  『如来興世難値難見』:如来が世に出るということは値い難く見難い。 諸の仏の経道も得難く聞難い。 菩薩の勝れた法である諸の波羅蜜を聞き得ることもまた難しい。 善知識に遇って法を聞き修行することもまた難しいことなのである。

  『若聞斯経信楽受持難中之難無過此難』:この経を聞いて信じ楽しんで受持するようなことは、実に難中の難であり、これに過ぎる難は無いのである。

  『是故我法如是作如是説如是教』:この故に、わたしはこの法を、このように作り、このように説き、このように教えたのである。 必ず、信じ順じて法に説くように修行しなければならない。

 

<4.7 得益分> (*18)

  爾時世尊說此經法無量眾生皆發無上正覺之心‥‥一切大眾聞佛所說靡不歡喜

  無量衆生皆発無上正覚之心』:世尊が、この経を説いた時、無量の衆生が皆無上正覚の心を発した。 皆菩提心を発して自ら仏と成り仏の世界を造ろうと思ったのです。 また一万二千那由他(なゆた、億)の人が清浄の法眼を得た。 法眼とは衆生を救うために一切の法門を照らし見る智慧をいいます。 また二十二億の諸天人民は阿那含(あなごん、欲界の煩悩を断ち尽くした聖者の位)を得た。 また八十万の比丘は煩悩が尽きて意が解けた。 また四十億の菩薩は不退転を得て、一切の衆生を救うという誓願の功徳で自らを荘厳した、この菩薩たちは来たるべき世には必ず仏となることであろう。

  『爾時三千大千世界六種震動』:その時、三千大千世界は六種に震動し、大光は普く十方の国土を照らした。 百千の音楽は自然に起こり、無量の妙華はふんぷんと香りながら降りかかった。

  『仏説経已』:仏は経を説きおえられた。 弥勒菩薩および十方より来た菩薩たち、長老の阿難、諸の大衆の声聞、一切の大衆は、仏の所説を聞いて、一人として歓喜しない者は無かった。

                                 以上

 

<4.8 まとめ>

  無量寿経は、ここで終ります。 上巻下巻を通して、ごく概略を見てみますと、主に上巻では極楽浄土の成り立ちとその荘厳を説き、下巻では釈迦は何故この極楽を説かなくてはならなかったかを説いています。

  先ず序分として菩薩についての長い記述があり、次いで正宗分に入ります。 何劫という遠い過去に一人の王が有り、法蔵と名のって世自在王仏の所で修行しました。 そして世自在王仏に自分はこれまでに無いほどの清浄の世界を造ろうと思う、しかし何のような世界にすれば良いのか分らないので、世尊の力でもってわたくしに諸仏の世界を見せて欲しいと願った。 世自在王仏はその願いを聞き入れて法蔵のために無数の仏の世界をまた何劫という時間をかけて見せてやります。 

  法蔵は命がけで諸仏の世界を取り込みつづけ、また何劫という時間をかけて考えつづけて、ついに理想の世界はこれだと確信しました。 そしてそれを世自在王仏の前で披露したのが謂わゆる四十八願です。 ここには法蔵ばかりではなく、人間すべての願いが表現されています。

  世自在王仏の前で四十八願を披露した法蔵は、その後は猛烈に菩薩の修行、謂わゆる六波羅蜜を行ってついに無量寿という名の仏と成り、極楽という名の世界を獲得しました。

  上巻の最後のほうでは、この極楽世界の荘厳の様子が語られます。 七宝の地、七宝の並木、七宝の池、七宝の宮殿、皆、ここに有ればいいなと思えば、その心を知ってすでにそこに有る。 心のままに在るのです。 またその世界のあらゆるものはすべて無量寿仏の化身であって、常に法音を宣流します。 中の衆生も同じです、皆菩薩として通力を使い自在に十方の世界に遊んでその世界の衆生を導いています。

  下巻は、この素晴らしい極楽に往き生まれる三種の人を説くことから始まります。 次いで十方の諸仏がこの極楽を称讃して、弟子の菩薩たちに是非行って見てくるようにと勧めます。 次いで極楽の菩薩たちの縦横無尽の活躍を説き、更に釈迦は弥勒を相手に、何故この経を説かなくてはならないかを説きます。 彼の世界が在るという反面、此の世界も在るのです。 この世界では、貪欲、瞋恚、愚癡という三毒がすでに全身に回り、殺生、偸盗、邪淫、妄語、飲酒などの悪徳がはびこっています。 その結果は何うであるか、人々は地獄、餓鬼、畜生、人間、天上をぐるぐるぐるぐると永遠に経巡っていなくてはなりません。 そこから出る方法すら無いのです。

  しかし出る方法は本当に無いのだろうか、極楽が有るではないか、極楽の成り立ちを考えてみれば、その方法も自ずから明らかになるであろう。 殺生せず、偸盗せず、邪淫せず、妄語せず、飲酒せず、これを守って、常に私せず、人の為に尽くせば極楽は現実のものとなるのだということです。

  しかし極楽などというものが本当に在るのだろうか。 いや疑ってはならない、極楽は遠くともそこに在る。 往くことさえできるのです。 善い行いをして、その果報として極楽に生まれたいと思えばよいのです。 その証拠にこの世界からもまた十方の無数の世界からも多くの菩薩が彼の国に往生している。

 

 以上が、無量寿経のあらましです。 この経は前後完結の自立した経ですが、それだけでは済みません。 極楽が素晴らしければ素晴らしいだけ、よけいに往きたくなるのが人情というものです。 しかし往生の様相というものは若干遅れて成立した『観無量寿経』まで待つ必要があります。

 

  無量寿経解説 終り

 

 

 

仏説観無量寿仏経

 

  

 

 

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