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寿

 

 

 

<5. 観無量寿経> (*0)

  無量寿経上巻下巻、それと阿弥陀経によって、わたしたちは無量寿仏とその世界の存在を知ることができました。 しかしその実在を信じることができるでしょうか。 これがこの経のテーマです。 眼前に観ることができれば、或は信じられるかも知れません。

 

<5.1 序分> (*1)

<5.1-1 時と所>

  如是我聞。一時佛在‥‥而為上首

  はなしは仏在世中の事です。 王舎城の阿闍世(あじゃせ)太子は、仏の大施主であった父王の頻婆娑羅(びんばしゃら)を幽閉し自らが王となりました。

  『如是我聞』:このようにわたしは聞きました。 『わたし』とは釈尊の侍者阿難(あなん)を指します。 侍者である阿難は最も仏の身近に在り、見聞が多いために、仏の滅後には経文を集める主導的役割を果たしました。 『このように』とは、以下に述べることは、すべて仏に聞いて確かめたもので、少しも私見は雑じっていませんということです。

  『王舎城』:釈迦は悟りを開いて以来、生涯を遊行して過ごしましたが、その基盤は王舎城と舎衛城という互いに400キロほど離れた当時の二大都市を往き来されていたのです。 大都市は、乞食が得やすく、布教が容易です。 また流行は大都市から始まりますので、仏教の自然の布教が期待できるからでした。

  『耆闍崛山中』:耆闍崛山(ぎじゃくっせん)というのは、王舎城近くの山で、山頂に精舎(しょうじゃ、寺院)が在りました。 釈迦とその弟子たちは、一処に住まらず、常に遊行して乞食するというような生活でしたが、雨季の三四ヶ月のみは、網の目のようになったガンジズ河の支流が溢れて往来できません。 修行者たちはその期間を夏安居(げあんご)と呼んで、理論を極めることに使いました。 しかし食物を蓄えることは禁じられていましたので、世俗から距離をおき、かつ乞食に容易なよう、精舎は大都市近郊に作られたのです。 かつては山中の自然の洞窟などを利用していましたが、後には建造物が建てられました。

  『与大比丘衆千二百五十人倶、菩薩三万二千、文殊尸利法王子、而為上首』:大比丘衆千二百五十人が一緒におり、菩薩は三万二千、文殊尸利法王子が上首であった。 大比丘とは覚りを開いた阿羅漢をいいます。 菩薩も三万二千いて、この経が大乗に属することを主張しています。 菩薩の上首は文殊尸利(もんじゅしり)、謂わゆる智慧の文殊菩薩です。 文殊菩薩は釈尊の法を受け継ぐ者という意味で、法王子と呼ばれています。

<5.1-2 阿闍世、父王を幽閉する> (*1-2

  爾時王舍大城有一太子‥‥得聞法故。顏色和悅

  『阿闍世、随順調達悪友之教、収執父王』:阿闍世は調達(ちょうだつ)という悪友にそそのかされ、父王を七重の室内に幽閉し飢え死にさせようと計ります、群臣を制して一人も旧王に近づくことを許しません。 調達は一般には提婆達多(だいばだった)として知られています。 釈尊の父浄飯(じょうぼん)王の弟である斛飯王(こくぼんおう)の子で侍者阿難の兄です。 一旦は仏の弟子でありましたが、自らが教団を主宰するべく仏に迫り、それが果たされないと知ると、自らの五百の弟子を引連れて教団を割ってしまいました。

  『国大夫人名韋提希』:韋提希(いだいけ)は阿闍世の母です。 王を恭敬して、飢え死にさせるに忍びなく、湯浴みして身を清め、酥(そ、バター)と蜜と糗(きゅう、煎り米の粉)とを和えて身体に塗り、瓔珞(ようらく、胸飾り)には葡萄の汁を盛って、ひそかに王にささげました。

  『爾時大王食糗飲漿』:大王は煎り米を食べ葡萄汁を飲むと、水を求めて口を漱ぎ、合掌して遥かに耆闍崛山中の世尊を伏し拝んで言います、『世尊、どうか親友の大目乾連(だいもっけんれん)を遣わして、わたくしに八戒をお授けください。』と。 大目乾連は釈尊の弟子の中でも神通第一といわれています。 ここでは鷹か隼のように空を飛んで王の所に来ます。 世尊はまた富楼那(ふるな)という説法第一の弟子をも遣わして王に説法します。 八戒は一日戒ともいわれ、在家の信者が特定の日に一日だけ守る戒で、常に守る五戒よりやや重いものです。 (1)不殺:生き物を殺さない。(2)不盗:与えられない物を取らない。(3)不婬:婬事をしない。(4)不妄語:嘘をつかない。(5)不飲酒:酒を飲まない。(6)身不塗飾香鬘:身に香を塗ったり、飾りを着けたりしない。(7)不自歌舞、又不観聴歌舞:歌舞音曲を慎む。(8)於高広之床座不眠坐:高広の大床に坐らない。

  『如是時間経三七日』:このようにして二十一日が過ぎました。 王は糗と蜜を食べ、法を聞くことができたので、顔色も和やかに悦びに耀いています。

<5.1-3 阿闍世、母韋提希を幽閉する> (*1-3

  時阿闍世問守門人。父王今者猶存在耶‥‥不令復出

  この王を幽閉した時から二十一日が過ぎました。 阿闍世は王はもう死んだのであろうかと思い、牢の番人に問います、『王は、今もまだ生きているのか?』と。 番人は、かくかくしかじか、国の大夫人が食物を運び、大目乾連が八戒を授け、富楼那が法を説きますので、まだご存命でございますと答えます。 

  『時阿闍世聞此語已』:阿闍世はこれを聞き、怒ってその母に、『お前は悪人である。 いつも悪人の味方をばかりしている。 沙門(しゃもん、出家)も悪人である。 呪術で幻惑して悪王を多日にわたり死なせない。』と言い、剣を抜いてその母を殺そうとします。

  『時有一臣名曰月光、聡明多智、及与耆婆』:ここに月光と耆婆(ぎば)という二人の大臣が現れます。 王に礼をしてこのように言いました、『わたくしは、毘陀論(びだろん、印度の歴史神話)の経説を聞いたところでは、世界が始まって以来、多くの悪王が出て、国王の位欲しさに、その父を殺害した例は一万八千ありました。 しかし、いまだかつてその母を無道にも殺した例を聞いたことがありません。 王が今ここで母を殺すような悪逆の事をなされば、それは刹利(せつり、王族)種を汚すものであり、われ等は、それを忍ぶことができません。 これぞ、まさに栴陀羅(せんだら、最底の屠殺人種)、われ等の同席できない所ですぞ。』と。 これを言いおえると手を剣の柄に置きながら後じさります。

  『時阿闍世驚怖惶懼』:阿闍世は驚き怖れあわてふためいて耆婆に問い訊ねます、『お前は、わたしの為にはしないのか?』と。 耆婆が言います、『母を殺してはなりません。』と。 王はこれを聞いて懺悔し、剣を捨てて母を殺すのを止め、人を呼んで宮殿の奥深くに幽閉し、二度と出さないように命令しました。 これも飢え死にさせようと計ったのです。 耆婆は、一説には阿闍世王の異母弟であるといわれています。

<5.1-4 韋提希、仏に救いを求める> (*1-4

  時韋提希被幽閉已‥‥悲泣雨淚遙向佛禮

  この時、韋提希は幽閉されて愁憂憔悴して、遥かに耆闍崛山に向って仏に礼を作し、涙にくれながら、『世尊は昔、わたくしの盛んな時には、阿難を遣わして、わたくしを慰問なさいました。 わたくしは、今、愁い哀しんでおりますのに、世尊はお偉くて、お会いすることもできません。 どうか目連か、阿難をお遣わしになり、お慰めください。』とかき口説き、頭を下げてまた涙にくれます。 

<5.1-5 世尊、韋提希のために姿を現わす> (*1-5

  未舉頭頃。爾時世尊‥‥普雨天華持用供養

  韋提希がいまだ頭を挙げないうちに、世尊は耆闍崛山にて韋提希の心の内を知り、大目乾連と阿難とを従えて王宮の中に現れます。

  『時韋提希礼已挙頭見世尊』:韋提希が頭を挙げて世尊を見上げますと、世尊は紫金色の光を身から放ち、百宝の蓮華の中にお坐りになっています。 目連は左に侍り、阿難は右に侍って、帝釈天、梵天、四天王天の諸天は虚空の中より、天の華を雨降らして供養しています。

<5.1-6 韋提希、憂悩の無い処を求む> (*1-6

  時韋提希見佛世尊。自絕瓔珞舉身投地‥‥唯願佛日教我觀於清淨業處

  この時、韋提希は自ら瓔珞(ようらく、胸飾り)を引きちぎり、ばったりと地に身体を投げ出し、号泣しながらこう言います。

  『世尊、我宿何罪生此悪子』:世尊、わたくしは、過去世に何のような罪を犯して、今、このような悪子を生んだのでしょう。

  『世尊復有何等因縁与提婆達多共為眷属』:世尊もまた何のような因縁が有って提婆達多とご親戚なのでしょう。

  『唯願世尊、為我広説無憂悩処、我当往生』:ただ、お願いでございます。 世尊、わたくしの為に憂悩の無い処を広くお説きください。 わたくしは、そこに行き生れようと思います。

  『不楽閻浮提濁悪世也、此濁悪処、地獄餓鬼畜生盈満、多不善聚』:この閻浮提(えんぶだい、この世界)は濁りきった悪世です。 この濁りきった悪処には、地獄餓鬼畜生どもが満ち溢れ、不善の輩が多すぎます。

  『願我未来不聞悪声不見悪人』:どうかお願いです。 わたくしが、未来に悪人の声を聞くこともなく、悪人を見ることもないようになさってくださいませ。

  『今向世尊、五体投地、求哀懺悔』:今、世尊に向って五体(ごたい、全身)を地に投げ、哀れみを求めて懺悔します。

  『唯願仏日教我観於清浄業処』:ただお願いでございます。 仏の日の光で、わたくしに清浄の業の処を観ることをお教えください。

 

  ここまでがこの経の因縁です。 ここで韋提希は言っています、こんな世界は見たくもない、どうか清らかで濁りの無い世界を教えて見せてください。 わたくしはそこへ往って生まれようと思いますと。

  しかし、これは甚だ自分勝手な言い分です、このように濁った世界にしたのは、過去と現在の自分であることには、少しも気づいてはおりません。 また望めば必ずそこに生まれることができるとも思っています。

<5.1-7 世尊、金台の上に諸仏の国土を現わす> (*1-7

  爾時世尊放眉間光‥‥令韋提希見

  この韋提希の請いを受けて、世尊は諸仏の清浄の妙土を現わしてみせます。

  『爾時世尊放眉間光、其光金色遍照十方世界還住仏頂、化為金台』:その時、世尊が眉間より光を放ちますと、その金色の光は、十方の世界を遍く照らし、また仏の頭頂に還って住まり、化して須弥山のような大きな金台と為ります。 十方の諸仏の浄妙の国土は、皆、その中に現れます。 

  『或有国土七宝合成』:ある国土は七宝が合成しています。

  『復有国土純是蓮花』:ある国土は蓮の花で成っています。

  『復有国土自在天宮』:ある国土は自在天の宮のようです。

  『復有国土如頗梨鏡』:ある国土は水晶の鏡のようです。

  このような、無量の諸仏の国土を、皆、金台の中に現わして、韋提希に見せました。

<5.1-8 韋提希、極楽世界を願う> (*1-8

  時韋提希白佛言‥‥唯願世尊。教我思惟教我正受

  この時、韋提希は仏に申します、世尊、この諸の仏の国土は、皆、清浄であり、皆、光明が有りますが、わたくしは、阿弥陀仏の極楽世界に楽しんで生まれたいと思います。

  『唯願世尊、教我思惟、教我正受』:ただ願わくは世尊、われに教えて思惟せしめ、我に教えて正受せしめたまえ。 『思惟』とは、一心によく考えること、心を定めて無想無思となることの対語です。 『正受』とは、鏡に物が映るように無念無想であることをいいます。 正しく観察した対象物と一体になることで、三昧(さんまい)ともいいます。

<5.1-9 頻婆娑羅王、阿那含と成る> (*1-9

  爾時世尊即便微笑‥‥成阿那含

  この時、世尊は、にっこり微笑された。 五色の光が仏の口から出、幽閉されている頻婆娑羅王の頭頂を照らします。 大王は幽閉されていながらも、心眼が開いて世尊を見ることができ、頭を下げて礼をすると、自然に覚りが増進して諸の煩悩が尽き、阿那含(あなごん、聖者の初位)に成りました。

 

<5.2 正宗分 往生者の三福>

<5.2-1 正宗分 三福序> (*2―1

  爾時世尊告韋提希‥‥得生西方極樂國土

  その時、世尊は韋提希に教えられました。

  『汝今知不、阿弥陀仏去此不遠』:『お前は知っているかどうか?阿弥陀仏はここを去ることの遠からざるを。』 これは甚だ意味の深い言葉です。 『阿弥陀仏は、お前のすぐそこにおられるのだよ。 それが分らないのか。』

  『汝当繋念諦観彼国浄業成者』:お前は、一心に彼の国の浄業の成れるを観察しなければならない。 浄業とは、浄い行いとその結果のことです。 人が自らを顧みず、ただ他の為に尽くすことを、浄い行いといいます。 ただ自己の繁栄のみを願ってするのは不浄です。

  『我今為汝広説衆譬、亦令未来世一切凡夫欲修浄業者、得生西方極楽国土』:わたしは、今お前のために、広く多くの譬えを説こう。 また未来世の一切の凡夫で浄業を修めようと思う者には、西方の極楽国土に生まれさせてやろう。

<5.2-2 正宗分 三福> (*2-2

  欲生彼國者。當修三福‥‥三世諸佛淨業正因

  欲生彼国当修三福』:彼の国に生まれようと思えば、必ず、次の三つの福を修めなくてはならない。 以下三種の人のために、往生の因となるべき福を修めることを説きます。 福とは福業、来世に福報を得る行いのことです。

  『一者孝養父母、奉事師長、慈心不殺、修十善業』:一は、父母に孝養し、師長に仕え、慈悲心を起して生き物を殺さない、そして十善業(じゅうぜんごう)を修めること。 『十善業』とは、十悪業を為さないこと。 『十悪業(じゅうあくごう)』とは、(1)殺生(せっしょう):生き物を殺すこと、(2)偸盗(ちゅうとう):与えられないものを取ること、(3)邪婬(じゃいん):他人の女房を取ること、(4)妄語(もうご):嘘をつくこと、(5)両舌(りょうぜつ):二枚舌。相手によって言うことを変えること、(6)悪口(あっく):粗暴な言葉使いをすること、(7)綺語(きご):猥雑、猥褻の語。戯れ言(ざれこと)、冗談を言うこと、(8)貪欲(とんよく):貪ること、(9)瞋恚(しんに):怒ること、(10)邪見(じゃけん):正しい因果を信ぜずに偏った福を信ずることです。

  これは、世間の俗人の為に説かれました。

  『二者受持三帰、具足衆戒、不犯威儀』:二は、三帰を受持し、衆戒を具足し、威儀を犯さないこと。 『三帰(さんき)』とは仏法僧の三宝に帰依すること。 『衆戒(しゅかい)』とは比丘の二百五十戒、比丘尼の五百戒のことです。 『威儀(いぎ)』とは比丘比丘尼の行儀作法をいいます。

  これは比丘と比丘尼の為に説かれました。

  『三者発菩提心、深信因果、読誦大乗、勧進行者』:三は、菩提心を発し、深く因果を信じ、大乗の経を読誦し、行者を勧進すること。 『発菩提心』とは、この世を極楽のような理想の世界にしようとする志を起すこと。 『深信因果』とは、善い行いは善い結果を招くと深く信ずること。 『読誦大乗』とは、大乗経典を読んで菩提心を堅固ならしむること。 『勧進行者』とは、他の為に尽くす大乗の行者を勧め励ますこと。

  これは大乗の行者の為に説かれました。

  『如此三事名為浄業』:この三事を浄い行いというのである。 以上、俗人、比丘比丘尼、大乗の行者の修めるべき福業を説きました。

  『仏告韋提希、汝今知不、此三種業乃是過去未来現在三世諸仏、浄業正因』:お前は知っているかどうか? この三種の行いは、要するにこれは過去現在未来、三世一切の諸仏の浄い行いとその結果の正しい因(もと)であることを。

 

<5.3 正宗分 観想序> (*3)

  佛告阿難及韋提希‥‥云何當見阿彌陀佛極樂世界

  諦聴諦聴善思念之』:『聞き漏らすことがないようによく聴け、これを善く思い考えよ。』、これは仏が自説を演べられる時の決まり言葉です。 これから仏が重大な事を演べられることを意味します。

  『如来今者為未来世一切衆生為煩悩賊之所害者説清浄業』:如来は今、未来世の煩悩に害されている一切の衆生の為に清浄の業(ごう、行い)を説こう。 業とは身口意の三業、人の行いをいいます。 ただし、ここでいう清浄の業は、一般の清浄業ではなく、極楽に往生するための特別の業をいいます。

  『善哉韋提希快問此事』:善いかな韋提希、快くもこの事を問えり。 韋提希よ、この問いを如来は快く思うぞ。 上でいう特別の業を説く、これが快いのです。

  『阿難、汝当受持広為多衆宣説仏語』:仏は阿難に託されます。 お前は、この仏の言葉を受持して多くの衆に宣べ説けと。

  『如来今者教韋提希及未来世一切衆生観於西方極楽世界』:如来は今、韋提希および未来世の一切の衆生に西方の極楽世界を観ることを教えよう。 観ることができれば、次第に因縁して無生法忍を得るに至ります。

  『以仏力故当得見彼清浄国土如執明鏡自見面像』:仏の力の故に、彼の清浄の国土は、明鏡に自らの顔を映すが如くに見えてくる。

  『見彼国土極妙楽事、心歓喜故、応時即得無生法忍』:彼の国土の極妙の楽しい事を見れば、心が歓喜する。 心が歓喜する時に応じて、たちどころに無生法忍を得る。 これが観る因縁です。 無生法忍を得るために極楽の楽事を観察します。 『無生法忍(むしょうほうにん)』とは、生滅を遠離したと確信することをいいます。 言い換えると生滅を畏れないということです。

  『若仏滅後諸衆生等、濁悪不善五苦所逼、云何当見阿弥陀仏極楽世界』:仏が韋提希に、『お前たちは凡夫であり、心に想う力が弱劣である。 未だ天眼を得ていないので遠くを観察する力はない。 今、お前が観ることができたのも、諸仏如来の持つ異方便(いほうべん、特別の力)によるのだ。』と水を向けますと、韋提希は、『世尊、わたくしが、今、彼の国土を観たのも、仏の力によります。 もし、仏がお亡くなりになったその後には、諸の衆生たちは、濁りきった悪の世界に住まったままで、何のようにして阿弥陀仏の極楽世界を見ればよいのでしょうか?』と答えます。

  この韋提希の答えには、極楽の国土を観察した因縁を見て取ることができます。 韋提希は無生法忍を得たおかげで、それまではまるで目に入らなかった諸の衆生たちの苦しみが見えるようになったのです。

 

<5.3-1 第一観 日想> (*3-1

  佛告韋提希‥‥名為邪觀

  応当専心繋念一処想於西方』:極楽を観想するには、まづ最初に西方に想いを繋けることから始めよ。 正しく西に向って坐り、日没を見て想念を起こせ。 今にも没まんとして地平のかなたに太鼓を懸けたような赤い日を見、閉目しても開目しても想念すれば常に見えるようにせよ。 これが第一観 日想です。 極楽は西方十万億の国土を過ぎた所に在るのですから、正しい方角は地平に没む日によって知らなくてはなりません。 正しくこの方向に極楽は在るのだと確信することから始めるのです。

<5.3-2 第二観 水想> (*3-2

  佛告阿難及韋提希‥‥名為邪觀

  初めの観が成りおわったならば、次は水の想を作せ。

  『想見西方一切皆是大水』:西方の一切は大水であると想え。 大水とは、雨季になると印度では川の水位が上がり、徐々に平地は水で覆われ、一面の水原と化してしまいます。 東西南北ただ水の他は何も見ることができません。 水は清く澄みきっています。

  『既見水已当起氷想、見氷映徹作琉璃想』:西方は一面が大水であると見おえたならば、氷だと想え、氷は光を反射して透き通り琉璃(るり、青い宝石)のようである。 

  『見琉璃地内外映徹、下有金剛七宝金幢擎琉璃地』:大水だと思って見れば、実は氷、氷だと思って見れば実は琉璃の地なのです。 サファイアのように光をキラキラと反射して透き通った地面の下には、ダイヤモンドと七宝の金幢が地を支えています。 金幢とは金の柱だと思えばよいでしょう。 その八角の柱は一一の面が百宝によって成り、一一の宝の珠は千の光明があります。 一一の光明には八万四千の色があって琉璃の地に反射しています。 まるで一億の日の光が輝くようで目を開いてまともに見ることはできません。

  『琉璃地上、以黄金縄雑廁間錯、以七宝界分斉分明』:琉璃の地の上には、黄金の縄が縦横に張られ、七宝を敷き詰めて整然と区分されている。

  『一一宝中有五百色光、其光如花又似星月、懸処虚空成光明台』:敷き詰めた七宝からは、五百の色の光が放ち出されている。 その光は花のようでもあり、また星月のようでもあり、空中に集まって光の台を成している。

  『楼閣千万百宝合成、於台両辺各有百億花幢無量楽器、以為荘厳』:この台の上には、楼閣があり、千万の百宝が合成している。 台の両辺には、各百億の花の幢(どう、柱)と無量の楽器が有り、楼閣を荘厳(しょうごん、飾ること)している。 楼閣は琉璃の地より離れて、光の台の中に虚空に浮かんでいるのです。

  『八種清風従光明出、鼓此楽器演説苦空無常無我之音』:八種の清風が台を成している光明より出ると、この楽器を打ち鳴らして、苦空無常無我を演説します。 世間に生死することは苦であり、万物は空であり、一切は無常であり、我は無我であるという仏教の真理を演説しているのです。

  これが水想であり、第二観です。 この想を成す時は、一一を極めて明了に観察するようにして、目を閉じようと目を開こうと、想が散失しないようにしなければなりません。 ただ食事の時を除けば、常にこれを憶えていなければならないのです。

<5.3-3 第三観 地想> (*3-3

  佛告阿難及韋提希‥‥名為邪觀

  水想ができるようになったならば、もっともっと多くの物を極楽の地上に観察しなければなりません。

  『若得三昧、見彼国地了了分明不可具説、是為地想』:彼の国土を観想して、実に観察しているように観想できたならば、それが地想であり、第三観なのです。

  『仏告阿難、汝持仏語、為未来世一切大衆欲脱苦者説是観地法』:ここで仏は阿難に向って教えられます。 お前はこれを忘れてはならない。 未来の世の一切の大衆で苦を脱れようと欲する者のために、この観地の法を説けと。 

  『若観是地者、除八十億劫生死之罪、捨身他世必生浄国』:この地を観る者は、八十億劫の生死の罪が除かれて、他世に身を捨てれば、必ず浄国に生れよう。 ここで捨身他世とは、単に死ぬことではなく、他の衆生のために身を施すことをいいます。 八十億劫は、他にも無量億劫、五百億劫、無数劫の生死の罪を除くなどと後になって出てきますが、この量の意味を云々しても無意味でしょう。 即ち、極楽の国土を正しく観察できれば、常に生まれることができるのですから。

<5.3-4 第四観 樹想> (*3-4

  『佛告阿難及韋提希‥‥名為邪觀

  地想の次には宝樹の観想をします。 宝樹とは七宝で成る樹の意味です

  『観宝樹者、一一観之、作七重行樹想』:宝樹を観る者は、一一の宝樹を観たならば、次は七重の並木の想を作せ。

  『一一樹高八千由旬』:一一の樹は、高さが八千由旬である。 由旬(ゆじゅん)は、王の軍隊の一日の行程、凡そ十キロメートルです。 一本の樹の高さが八万キロメートルあるといっています。 前の水想では、楼閣は光の台の上で空中に浮かんでいましたし、今また高さ八万キロメートルの樹を観想しなくてはなりません。

  『其諸宝樹』:その諸の宝樹は、皆七宝の花びらを持ち、一一の花びらは、瑠璃色(青)であれば金色の光を放ち、頗梨色(白)であれば紅色の光を放ち、瑪瑙色であれば真珠色の光を放ち、真珠色であれば、緑真珠色の光を放ち、珊瑚、琥珀など一切の衆宝も光を反映して飾り立てている。 赤いつばきの花を想像してください。 つばきには先端に黄色い花粉がついた白い花芯があります。 そのように、極楽の青い花からは、すすきの穂の形をした花火のように、金色の光が飛び出しています。 白い花からは紅色の光が飛び出し、瑪瑙色からは真珠色の光が出ています。

  『妙真珠網弥覆樹上』:素晴らしい真珠の網が樹上を覆っている。 一一の樹上には七重の網が懸かり、一一の網の間には五百億の素晴らしい華の宮殿が有り、梵天王の宮のようである。 

  『諸天童子自然在中』:諸の天の童子は、自然に中にいる。 この自然にという言葉は若干注意すべきでしょう。 自然とは因縁に因らない、無為ということを言い表わしています。 諸天が生んだのではない、自然にそこにいるというのが、その意味です。 仏教は父母の因縁を嫌います。 無量寿経下巻にも胎生という言葉は有りますが、実は父母から生まれたのではなく、ある宮殿の中に於いて精神が生長するということを表わしていました。 この一一の童子は五百億の摩尼宝珠の瓔珞で身を飾っています。 その宝珠は百由旬を照らし、百億の日と月とを和合したようであり、言いようもありません。 

  『衆宝間錯、色中上者、此諸宝樹行行相当、葉葉相次、於衆葉間生諸妙花』:それら多くの宝は入り雑じり、色の中でも上の者は、この諸の宝樹の並木と並木とを交互に当たりながら、葉から葉に交互に飛び交い、多くの葉の間からは、諸の妙花が生まれます。 光に触発されて花が生じるのです。 花の上には自然に七宝の果があります。

  『一一樹葉』:一一の樹葉は、縦横が等しく二十五由旬あります。 樹高が八千由旬でしたから、こんなもんでしょうか。 その葉は千の色が有り、百種の文様が有って、天の瓔珞のようです。

  『有衆妙華作閻浮檀金色、如旋火輪、宛転葉間踊生諸果』:ある種の素晴らしい華は、紫色に耀く金色であり、旋火輪のように、葉の間をくるくると踊りまわって諸の果を生じます。 旋火輪とは、暗闇で火を廻すと輪になって見えるあれです。

  『有大光明化成幢幡無量宝蓋、是宝蓋中映現三千大千世界一切仏事』:或は摩尼珠から出る大光明は、幢幡(どうばん、柱と飾り)や宝の天蓋と成って、その中に三千大千世界の一切の仏事を映し現わします。 仏事とは仏の現わす、慈悲行を言う言葉です。 飢えた虎に身を施したり、半偈の文を聞くために、鬼神に身を施したりすることです。 現在寺院等で行われている単なる儀式でしかない行事を言うのではありません。 

  『十方仏国亦於中現』:十方の仏国の仏事もまた一切がこの中に現れます。 これを観なければなりません。 この樹について見おわったならば、次々と一一の樹について観察します。 中で何のような仏事が現れるでしょうか。 樹を見、幹を見、枝葉華果、皆を明了に観ることができたならば、これを樹想といい、第四観といいます。

<5.3-5 第五観 八功徳水想> (*3-5

  佛告阿難及韋提希‥‥名為邪觀

  樹想ができれば、次は水を想わなくてはなりません。

  『欲想水者、極楽国土有八池水、一一池水七宝所成、其宝柔軟』:水を想わんとすれば、極楽の国土には八の池水が有る。 その一一の池水は七宝によって成る。 しかしその七宝は堅くはなく、柔軟である。 水のように柔らかい宝石! 宝石のような水!

  『従如意珠王生、分為十四支』:一一の池水は巨大な如意珠より生みだされ、十四の支流に別れる。

  『一一支作七宝色、黄金為渠、渠下皆雑色金剛以為底沙』:その一一は七宝の色を作して流れ、黄金の堤があり、堤の底は色を雑えた金剛(こんごう、ダイヤモンド)の沙である。

  『一一水中有六十億七宝蓮花、一一蓮華団円正等十二由旬』:一一の水中には六十億の七宝の蓮花が有り、一一の蓮華はまん丸く、大きさは十二由旬である。

  『其摩尼水流注華間尋樹上下』:その摩尼珠より生まれた水は華の間を流れ注いで、樹を尋ねて上下する。 水が樹を上るさまを想像してください。

  『其声微妙演説、苦空無常無我、諸波羅蜜、復有讃歎諸仏相好者』:その流れはさらさらと音を立てていますが、それはまた苦空無常無我を演説し、布施、持戒、忍辱、精進、禅定および般若波羅蜜を演説しているのです。 またある流れは諸仏の好ましい容貌を讃歎しています。

  『従如意珠王踊出金色微妙光明、其光化為百宝色鳥、和鳴哀雅、常讃念仏念法念比丘僧』:如意珠からは水ばかりではなく、光も踊りながら出ています。 その光は百宝の鳥と化して為り、哀れにも雅な鳴き声をそろえて、常に仏の功徳を念い、法の利益を念い、戒を持つ比丘僧の清らかさを念うことを讃えています。

  『是為八功徳水想、名第五観』:これが八の功徳水の想であり、第五観という。 八功徳水(はっくどくすい)という水の八つの功徳、渇きを鎮める等をいうのではありません。 功徳とは、衆生を救う力、ここでは苦空等を演説することをいいます。

<5.3-6 第六観 総観想> (*3-6

  佛告阿難及韋提希‥‥名為邪觀

  衆宝国土、一一界上有五百億宝楼』:先に水想で説明しました、黄金の縄で区分された、青い宝石の地はそれぞれの区画に応じて、別々の宝が敷き詰められています。 その宝石から出る光は空中にて台を作し、その上に宝の楼閣が五百億あります。

  『其楼閣中有無量諸天作天伎楽』:この楼閣の中では、無量の諸天が音楽をしています。

  『又有楽器懸処虚空、如天宝幢不鼓自鳴、此衆音中皆説念仏念法念比丘僧』:そればかりではありません、虚空に懸かった楽器は、天の宝幢のように打たなくても自ら鳴っています。 この衆の音の中にも、皆、仏を念い、法を念い、比丘僧を念えと説いているのです。

  『此想成已、名為粗見極楽世界宝樹宝地宝池、是為総観想名第六観』:ここまでの観想ができたならば、それを粗く極楽世界の宝樹、宝地、宝池を見るという。 これが総観想であり、第六観という。

<5.3-7 第七観 花座想> (*3-7

  佛告阿難及韋提希‥‥名為邪觀

  諦聴諦聴善思念之、吾当為汝分別解説除苦悩法』:『気を散らさずに聴き、よく心に留めて考えよ。 お前のために苦悩を除く法をかみ砕いて解説しよう。 お前たちは、よく記憶して広く大衆の為にかみ砕いて解説せよ。』と、仏が阿難および韋提希に教えられたちょうどその時、無量寿仏が目にもまばゆい金色の光を放って空中に立たれました。 左右には観世音と大勢至の二菩薩も侍っています。 これを見て韋提希は仏の足に手を接し、礼を作して申します、『世尊、わたくしは、今、仏の力により無量寿仏および二菩薩を見ることができました。 未来の衆生は、何うすれば無量寿仏および二菩薩を観ることができましょうか?』

  『仏告韋提希欲観彼仏者当起想念於七宝地上作蓮花想』:仏は韋提希に教えられます。 彼の仏を観ようとする者は、まず七宝の地の上に想念を起して、蓮花の想を作さなくてはならない。 これは極楽に咲く蓮花を想いえがくことをいいます。 その蓮花の花びらは、一一に百宝の色があり、一一に八万四千のすじがあり、天の文様のようである。 一一の筋からは八万四千の光が放たれている。 このように、皆、明了に見なければならない。 この華は、小さな者でさえ、縦横に二百五十由旬あり、各蓮華には、大きな葉が八万四千ある。

  『一一葉間有百億摩尼珠王、以為映飾』:一一の葉の上には、水玉のように百億の巨大な摩尼珠あり、光を反射して耀いている。

  『一一摩尼珠放千光明、其光如蓋七宝合成遍覆地上、釈迦毘楞伽摩尼宝以為其台』:一一の摩尼珠は千の光明を放ち、その光は七宝が合成して天蓋のようになり、地上を一面に覆い、釈迦毘楞伽摩尼(しゃかびりょうがまに、摩尼)がその天蓋の下の台となっている。

  『此蓮花台、八万金剛、甄叔迦宝、梵摩尼宝、妙真珠網以為交飾』:この蓮花の台は八万の金剛(こんごう、ダイヤモンド)と甄叔迦(けんしゅくが、ルビー)と浄らかな摩尼と妙なる真珠などの網が、こもごも垂れて飾っている。 真珠の首飾りを、いくつも机から垂したように、たがいに交差しながら垂れています。

  『於其台上、自然而有四柱宝幢』:その台上には自然に四柱の宝幢が立って天蓋を支えている。 一一の宝幢は、百千万億の須弥山を積んだようであり、幢の上には宝の幔幕が懸かって夜摩天(やまてん、欲界の第三天)のようである。 また五百億の微妙なる宝珠で飾られている。 一一の宝珠は八万四千の異なる金色をなす。 幢とは、八角形をした柱のようなもので、周囲の八面にはさまざまな飾りがあります。 寺院の内陣中の左右に天上より垂れ下がっている金色、或は五色の飾りがそれです。

  『一一金色遍其宝土、処処変化各作異相、或為金剛台、或作真珠網、或作雑花雲、於十方面随意変現施作仏事』:一一の金色は、その宝土を覆い処処に変化して、異なった物に見える。 或は金剛の台となり、或は真珠の網となり、或はさまざまな花の雲となり、十の方面にて意のままに変じて現れ、いたるところに仏事を作している。 

  『是為花座想名第七観』:これが花座想であり、第七観という。

  『仏告阿難、如此妙花是本法蔵比丘願力所成』:仏は阿難に教えられた、この妙花は本より法蔵(ほうぞう、無量寿仏の修行中の名)比丘の願う力によって成されたのである。 もちろん花ばかりではありません、極楽の荘厳の一切は悉く法蔵比丘の願力の所成なのです。

<5.3-8 第八観 想像> (*3-8

  佛告阿難及韋提希‥‥名為邪觀

  前の花座想で、地上に咲く巨大な蓮花の花の上に、摩尼珠の造りだした巨大な天蓋と台とを観てきました。 今は、この上に坐す仏を観なければなりませんが、もう観ることができるはずです。

  『所以者何、諸仏如来是法界身遍入一切衆生心想中』:何故できるかといえば、諸仏如来とは、法界身が、遍く一切の衆生の心想中に入ったものをいうからである。 法界身(ほっかいしん)とは、法身(ほっしん)ともいい、一切の世界に遍満した、慈悲に代表される仏教的真理をいいます。 人は元来教えられなくても、慈悲を感じることができるはずというのが、この考えの本です。

  『是故汝等心想仏時、是心即是三十二相八十随形好、是心作仏、是心是仏』:この故に、お前たちの心に仏を想う時、この心が三十二相、八十随形好に他ならず、この心が仏と作るのであり、この心が仏なのである。 三十二相、八十随形好(ずいぎょうこう)は、仏の好ましい姿形を三十二と八十挙げたものです。 要するに自ら好もしいと思うその姿が三十二相であり、八十随形好であるのです。 人でも、赤もあれば、黒もあり、黄もあれば、白もあります。 その全てに自ら好もしいと思う姿があり、それが仏の姿であるといっているのです。 この心が仏に作るのであり、この心がとりもなおさず仏であるのです。

  『諸仏正遍知海従心想生、是故応当一心繋念諦観彼仏』:海のように深い諸仏の智慧も、心想より生ずるのである。 この故に一心に心に念いを懸けて諦らかに彼の仏を観なければならない。 彼の仏を観れば、諸仏の智慧を得ることをいっています。

  『想彼仏者、先当想像』:彼の仏を想うには、先に像を想わなければならない。 像とは形像、かたちのことです。 目を閉じても目を開いても、常に一つの宝の像が金色に耀いて彼の華の上に坐っているのを見よ。 像が坐っていると見ることができたならば、心眼が開いた証拠である。 極楽国の七宝の荘厳も、宝の地も宝の池も宝の樹の並木も、諸の宝の幔幕がその樹上を覆って張られているのも、宝の網が虚空を満たすのも明了に見えるはずである。

  『復当更作一大蓮華在仏左辺』:この事が、掌の中を見るように明了に見えたならば、またさらに一つの大蓮華が仏の左辺に在ると想え。 前の仏の蓮華とほとんど同じである。 また仏の右辺にも一つの大蓮華が在ると想え。 左の蓮華には一つの観世音菩薩の像が坐ると想い、右の華には一つの大勢至の像が坐ると想え。 菩薩の放つ光などは仏と同じである。

  『此想成時、仏菩薩像皆放妙光』:この想いが成ったならば、仏と菩薩の像は、皆、妙光を放つだろう。 その光は、金色で諸の宝樹を照らし、一一の樹下にはまた三の蓮華があり、諸の蓮華の上には、各一仏と二菩薩とが坐っている。 このようにして次々と彼の国には遍く仏と菩薩とが充満していると見るのである。

  『此想成時、行者当聞水流光明及諸宝樹鳧鴈鴛鴦皆説妙法』:この想が成った時には、行者は水流と、光明および諸の宝樹、鳧鴈(ふがん、水鳥の類)鴛鴦(えんおう、おしどり)たちが、皆、妙法を説くのが聞こえるだろう。

  『出定入定恒聞妙法、行者所聞出定之時憶持不捨、令与修多羅合、若不合者名為妄想、若与合者名為粗想見極楽世界、是為想像名第八観』:定を出ても定に入っても恒に妙法を聞き、行者が定を出る時、憶えていて忘れ去らずに、修多羅(しゅたら、経文)と合わせよ。 もし合わなければ、それは妄想であり、もし合っていれば、粗く極楽世界を想い見るという。 これが想像であり、第八観という。 定とは心が世事に散乱せず、深く想念に入ることをいいます。 定に入って妙法を聞いたならば、大乗の経典と照らし合わせなくてはなりません。 もし経と合っていなければ、それは妄想だからです。 もし合っていれば、そこで初めて極楽の世界をざっと見たことになります。

<5.3-9 第九観 一切色身想> (*3-9

  佛告阿難及韋提希‥‥名為邪觀

  すでに花座想では仏の坐る巨大な花の台を観、想像ではその上に坐す仏と二菩薩を観ましたが、いまだおぼろであり、明了ではありません。 次は仏の姿を明了に見ることが求められます。

  (*1)無量寿仏身、如百千万億夜摩天閻浮檀金色』:無量寿仏の身は金色に耀いています。 それはこの世の金色ではありません。 百千万億の夜摩天(やまてん、欲界の第三天)の閻浮檀金(えんぶだんこん、紫色をなす純金)の色をなしているのです。

  (*2)仏身高六十万億那由他恒河沙由旬』:仏の身のたけは、六十万を億倍し那由他(なゆた、10憶)倍し、更に恒河沙(ごうがしゃ、ガンジズ河の川底の砂の数)倍した由旬(ゆじゅん、およそ10キロメートル)あります。 想像を絶する大きさです、何しろ恒河沙というのが、ほぼ無数というに近い有限の数だからです。 限りは有るが量ることはできないということです。 ひょっとしたら、われわれの宇宙さえ超えているのではないでしょうか。

  (*3)眉間白毫右旋宛転如五須弥山』:眉間の白毫は右回りに旋回して、須弥山を五つ積み重ねたようである。 白毫(びゃくごう)とは、仏の眉間に生える一本の白く長い毛で、渦をまいて山のようになっています。 須弥山は世界の中心にそびえる山で四天王天、忉利天(とうりてん)の住処であり、一説によると高さと直径は共に五十六万キロメートルということです。

  (*4)仏眼如四大海水清白分明』:仏の眼は四大海の水のようであり、青と白とがはっきり分れている。 四大海は須弥山の回りの四つの大海です。

  (*5)身諸毛孔演出光明如須弥山』:身の諸の毛孔からは光明がほとばしり出て須弥山のようである。 須弥山のようであるとは、ヒマラヤの峰峰が朝日に耀くようすから想像されました。 ここだけ見れば仏の身体はでこぼこのようですが、全体から見ると鏡のようになめらかです。

  (*6)彼仏円光如百億三千大千世界』:彼の仏の円光は百億の三千大千世界のようである。 ここもまた大きさの譬喩です。 円光は頭の回りにある光。 三千大千世界とは千の三乗、10憶の世界をいいます。 即ち10憶の須弥山、10憶の日月星宿、10億の七金山、10憶の四大洲、10億の四大海‥‥です。

  (*7)於円光中有百万億那由他恒河沙化仏』:円光の中には百万億那由他恒河沙の化仏がおられます。 化仏とは仏菩薩の神通力で化作された仏であり、さまざまな形態を取り、さまざまな仏事を作します。

  (*8)一一化仏亦有衆多無数化菩薩以為侍者』:一一の化仏にもまたいろいろな無数の化菩薩が侍者と為っている。 衆多は観世音、大勢至のような菩薩を表わし、無数は化菩薩全体の数をいいます。

  (*9)無量寿仏有八万四千相、一一相中各有八万四千随形好、一一好復有八万四千光明』:無量寿仏は八万四千の相があり、一一の相中には各八万四千の好があり、一一の好にはまた八万四千の光明がある。 仏の好ましい容貌行相のうち、顕著なものを相といい、相に随う微細なものを好(こう)、随形好(ずいぎょうこう)といいます。

  (*10)一一光明遍照十方世界、念仏衆生摂取不捨』:一一の光明は十方の世界を遍く照らし、仏を念う衆生を捕らえて見すてない。 摂取(せっしゅ)とは捕らえ取り込むことです。

  (*11)其光相好及与化仏不可具説、但当憶想令心明見、見此事者即見十方一切諸仏』:その光、相好および化仏は、その詳細を説くことはできない。 ただ憶想して心に明らかに見るようにせよ。 この事を見れば、それはとりもなおさず十方の一切の諸仏を見ることになる。 仏というものは、本来、おのおの自らの心の中にあるものであるから、言葉で説明できなくても憶想することはできる。 それ故に、憶想して心に明らかに見るようにせよと言います。 また、十方の一切の仏も、皆、心の中にあるのです。

  (*12)以見諸仏故名念仏三昧』:諸仏を見ることができれば、それを念仏三昧という。 念仏三昧とは心が散乱せず、仏の境地、仏の世界に一体化することです。 仏と同じ心地になることをいいます。

  (*13)作是観者名観一切仏身、以観仏身故亦見仏心、諸仏心者大慈悲是、以無縁慈摂諸衆生』:この観を作すを、一切の仏身を観るという。 仏の身を観ることができれば、また仏の心を見ることができる。 諸仏の心とは、大慈悲のことである。 無縁の慈悲で諸の衆生を捕らえて捨てないことなのだ。 無縁の慈悲とは、まったく関係ない他人にたいする慈悲をいいます。

  (*14)作此観者、捨身他世生諸仏前得無生忍』:この観を作せば、他世に捨身したとき、諸仏の前に生まれて無生忍を得るであろう。 捨身は第三観地想で説明したとおり、他の衆生に身を施して他世に生まれることです。 無生忍は生滅を離れたという確信をいいます。 言い換えれば生死を受容して畏れないということです。

  (*15)是故智者応当繋心諦観無量寿仏』:このような利があるから、智者は心を繋けて明らかに無量寿仏を観るのである。 賢い人であるならば、当然常より心がけて無量寿仏を観るのである。

  (*16)観無量寿仏者従一相好入、但観眉間白毫極令明了、見眉間白毫相者八万四千相好自然当見』:無量寿仏を観るには一つの相好より入れ、ただ眉間の白毫を極めて明了に観るのだ。 眉間の白毫相を見ることができれば、八万四千の相好は自然に見えてこよう。 眉間の巨大な白毫を見、左右の眉を見、左右の眼を見、随時見る範囲を広げてゆきます。

  (*17)見無量寿仏者即見十方無量諸仏、得見無量諸仏故諸仏現前受記』:無量寿仏を見ることは、とりもなおさず十方の無量の諸仏を見ることである。 無量の諸仏を見ることができるが故に、諸仏の現前にて記を受けるのである。 記を受ける、或は記を授けるとは、記とは記帳することです。 未来に予定された仏の名が名簿に記されることを表わします。 仏から、『お前は、将来必ず仏に成るであろう。』と予告されることが受記、或は授記なのです。 無量寿仏を見ることができたならば、必ず将来仏になる、仏の世界が建設されるということです。

  (*18)是為遍観一切色身想、名第九観』:これが一切の色身を遍く観ることであり、第九観という。 色身(しきしん)とは、五感に感じられる身、肉身のことです。

<5.3-10 第十観 観世音菩薩色身想> (*3-10

  『佛告阿難及韋提希‥‥名為邪觀

  無量寿仏を明了に観たならば、次は観世音菩薩です。

  (*1)此菩薩身長八十億那由他恒河沙由旬、身紫金色、頂有肉髻、頂有円光面各百千由旬』:この菩薩は、身長が八十億那由他恒河沙由旬、身は紫金色であり、頂上には肉髻があり、また円光はどの方面から見ても百千由旬ある。 仏の身長は六十万億、菩薩は八十億、万が抜けています。 仏の身色は百千億の夜摩天の閻浮檀金色、菩薩はただの紫金色です。 仏の円光は百億の三千大千世界ほど、菩薩は百千由旬です。 このように仏と菩薩とは比べようもありませんが、それにしても想像を絶する大きさであることには変りはありません。

  (*2)其円光中有五百化仏』:その円光の中には五百の化仏がある。 菩薩の円光の中になぜ化仏があるのかとは、一人の仏によって無数の菩薩が生まれ、また多くの菩薩から一人の仏が生みだされるからです。 菩薩の働きの中の最も重要なものが仏を生みだすことです。

  (*3)如釈迦牟尼一一化仏有五百菩薩無量諸天以為侍者』:釈迦牟尼のような一一の化仏には、五百の菩薩と無量の諸天が侍者となって仕えている。

  (*4)挙身光中五道衆生一切色相皆於中現』:身光の中には、五道の衆生の一切の色相が、皆、中に現れている。 五道は人のたどる五つの道、地獄、餓鬼、畜生、人間、天上をいいます。 一切の色相とは、一切の衆生の一切の様相をいいます。 楽しむ者、苦しむ者などのことをいいます。

  (*5)頂上毘楞伽摩尼妙宝以為天冠、其天冠中有一立化仏高二十五由旬』:頂上には摩尼宝珠の冠があり、その冠の中に、一人の化仏が立っている。 これはこの菩薩の威光は仏による、言い換えれば仏教的真理によっていることを表わしています。

  (*6)観世音菩薩面如閻浮檀金色、眉間毫相備七宝色、流出八万四千種光明』:観世音菩薩の顔は紫色の金色に輝き、眉間の毫相は七宝の色である。 この毫相からは八万四千種の光明が流れ出ている。 ここで仏の毫相は白色でした。 白は一切の色のスペクトルを含む、これは古代印度でもすでに証知のことだったようです。

  (*7)一一光明有無量無数百千化仏、一一化仏無数化菩薩以為侍者、変現自在満十方界、譬如紅蓮華色』:眉間の毫相から流れ出る一一の光明の中にも無量無数百千の化仏がいる。 一一の化仏には無数の化菩薩が侍者となり、自在に変現して、十方の世界を、池を睡蓮が満たすように満たしている。 変現自在とは、あらゆる世界の一切の衆生となってということです。 あらゆるものに姿を変えて苦しむ衆生を救うのが菩薩の役目です。

  (*8)有八十憶微妙光明以為瓔珞、其瓔珞中普現一切諸荘厳事』:八十億の微妙な光明が瓔珞となって菩薩を飾り、その瓔珞の中でも、一切の荘厳事が現わされている。 荘厳事とは、仏事というのと同じです。 仏世界を荘厳するから荘厳事といいます。

  (*9)手掌作五百憶雑蓮華色、手十指端、一一指端有八万四千画猶如印文、一一画有八万四千光、其光柔軟普照一切、以此宝手接引衆生』:掌には五百億のさまざまな蓮華の色がある。 十本の指の先には八万四千の印文のような文様があり、一一の文様からは八万四千の光が放たれ、その光は柔軟に一切を照らしている。 この宝の手が衆生に接して引くのである。 光が柔軟であり、人を驚かせる類のものではないことに注目しましょう。

  (*10)挙足時、足下有千輻輪相自然化成五百億光明台』:足を挙げれば、足裏の千輻輪相は、自然に五百億の光明の台を化成する。 千輻輪相(せんぷくりんそう)とは、仏の足裏にある千本のやを持った車輪の文様です。 そこからは光が出て輝く台と成ります。

  (*11)下足時、有金剛摩尼花布散一切莫不弥満』:足を下ろせば、金剛(こんごう、ダイヤモンド)と摩尼珠の花が地面中に布き散らされて、びっしりと覆われない所はない。

  (*12)其余身相衆好具足如仏無異、唯頂上肉髻及無見頂相不及世尊』:その他の身相と、衆好とは仏に異ならない。 ただ頂上の肉髻と無見頂相とは仏に及ばない。 肉髻(にっけい)は頭頂部の肉の隆起、無見頂相(むけんちょうそう)は肉髻と同じものです。 肉髻の働きは分りません、或はただ人と異なるだけかも知れません。

  (*13)是為観観世音菩薩真実色身想名第十観』:これが観世音菩薩の真実の色身を観る想であり、第十観という。

  (*14)若有欲観観世音菩薩者、当先観頂上肉髻、次観天冠、其余衆相亦次第観之』:もし観世音菩薩を観ようと思えば、先に頂上の肉髻を観よ、次ぎに天冠を観よ、その他の衆相もまた次々とこれを観よ。

<5.3-11 第十一観 大勢至菩薩色身想> (*3-11

  『佛告阿難及韋提希‥‥名為邪觀

  次は大勢至菩薩です。

  (*1)此菩薩身量大小亦如観世音』:大勢至菩薩の身量の大小は観世音と同じである。 

  (*2)円光面各二百二十五由旬、照二百五十由旬、挙身光明照十方国作紫金色、有縁衆生皆悉得見、但見此菩薩一毛孔光即見十方無量諸仏浄妙光明、是故号此菩薩名無辺光』:円光はどの方面から見ても二百二十五由旬あり、二百五十由旬を照らす。 身を挙げての光明は十方の国を紫金色に照らしている。 衆生に縁があれば皆悉く見ることができる。 ただこの菩薩の一毛孔の光を見ただけで、それはとりもなおさず十方の無量の諸仏の浄妙の光明を見たことになる。 この故に、この菩薩を無辺光という。 観世音は仏の慈悲、言い換えれば仏教的真理の慈悲行を表わし、大勢至は同じく慈悲行を起すための智慧を表わします。

  (*3)以智慧光普照一切令離三塗得無上力、是故号此菩薩名大勢至』:大勢至の智慧の光は、一切の衆生をして三塗(さんづ、地獄餓鬼畜生)を離れさせ無上の力を得させる。 この故にこの菩薩を呼んで大勢至という。 智慧は力のみなもとです。

  (*4)此菩薩天冠有五百宝蓮華、一一宝華有五百宝台、一一台中十方諸仏浄妙国土広長之相皆於中現』:この菩薩の天冠には、五百の宝蓮華が有る。 一一の宝華には五百の宝台が有る。 一一の台の上には十方の諸仏の浄妙の国土が、その広長の相を皆、その中に現わしている。 大勢至菩薩の頭中には、常に十方の諸仏の浄妙の相が展開しています。 数多くの見本の中から一つを選り分けるように、一人の衆生の為には、何をどのようにすればよいのか、ぴったり適応する方便を見出だします。

  (*5)頂上肉髻如鉢頭摩花、於肉髻上有一宝瓶盛諸光明普現仏事』:頂上の肉髻は鉢頭摩花(はづまけ、蓮の花)のようである。 肉髻の上には一つの宝瓶があり、諸の光明を盛って、普く仏事を現わしている。 仏事は仏の事績、仏の行うかずかずの慈悲行をいいます。

  (*6)諸余身相如観世音等無有異』:その他の身相は観世音と等しくまったく異なりが無い。 慈悲行と智慧とは車の両輪です。 大きさ等が異なっては車の用をなしません。

  (*7)此菩薩行時、十方世界一切震動、当地動処各有五百憶花、一一宝花荘厳高顕如極楽世界』:この菩薩が行けば、十方の世界の一切が震動し、地の動いた処には、各五百億の花が咲く、一一の宝花はその国を高く輝かしく荘厳して極楽世界のようにする。 智慧の力はそれが真実であるだけに、感動しないものはありません。 その智慧が働いた跡はまるで極楽世界のようになるのです。

  (*8)此菩薩坐時、七宝国土一時動揺、従下方金光仏刹乃至上方光明王仏刹、於其中間、無量無塵数分身無量寿仏、分身観世音大勢至、皆悉雲集極楽国土、側塞空中坐蓮華座演説妙法度苦衆生』:この菩薩が坐る時には、極楽の七宝の国土は一時に動揺する。 そうすると、下方の金光仏の国から上方の光明王仏の国に至るまでの、その中間に、無量無数の分身の無量寿仏、分身の観世音大勢至が、皆悉く極楽国土に雲のように集まり、空中の片側を塞いで蓮華座に坐り、妙法を演説して苦の衆生を救う。 下方の国から上方の国までが普く極楽国土になります。 無塵数は世界を臼で挽いて粉みじんにして、その粉の粒と同じぐらいの数をいいます。 分身(ふんじん)とは、諸仏が神通力で化して身を分けることをいいます。 大勢至が極楽世界に於いて坐せば、それは十方の無数の国で説法している、無塵数の仏菩薩の説法に相当します。

  (*9)作此観者名為観大勢至菩薩、是為観大勢至色身想、観此菩薩者名第十一観』:この観を作すを大勢至菩薩を観るという。 これが大勢至の色身を観る想であり、この菩薩を観ることを第十一観という。

  (*10)作是観者不処胞胎常遊諸仏浄妙国土』:この観を作せば、胎内に処することはなく、常に諸仏の浄妙の国土に遊ぶであろう。 母胎から生まれることが、苦の始まりです。

<5.3-12 第十二観 普観想> (*3-12

  佛告阿難及韋提希‥‥名為邪觀

  見此事時当起想作心自見生於西方極楽世界』:極楽の様相を見おわったならば、次は自ら極楽に生まれるさまを心に想え。

  『於蓮華中結跏趺坐、作蓮華合想、作蓮華開想』:蓮華の中に結跏趺坐(けっかふざ、足を組んで坐ること)していると想え。 そして、まづ蓮華が閉じていると想え、次ぎに蓮華が開くさまを想え。

  『蓮華開時、有五百色光来照心想、眼目開想、見仏菩薩満虚空中』:蓮華が開く時には、五百の色の光が来て照らすと心で想え。 眼が開いたと想え。 仏と菩薩が虚空中を満たしているのが見えるだろう。

  『水鳥樹林及与諸仏所出音声皆演妙法与十二部経合』:水鳥と樹林、および諸仏の出す音声は、皆妙法を説き十二部の経と合っている。 十二部の経とは、仏教の経典を十二に分類したもので、(1)修多羅(しゅたら):契経(けいきょう)、仏の直接の説法で長文のもの。(2)祇夜(ぎや):応頌(おうじゅ)、長行(ちょうごう)という散文の説法に同じ意の韻文を重ねたもの。(3)伽陀(かだ):諷頌(ふじゅ)、長行がなく韻文だけのもの。(4)尼陀那(にだな):因縁、説法の因縁、諸経の序品。(5)伊帝曰多伽(いていわつたか):本事、如是語ともいい、弟子の前世の因縁。(6)闍多伽(じゃたか):本生、仏の過去世の因縁。(7)阿浮達摩(あぶだつま):未曽有、仏の種々の神力等、不思議の事。(8)阿波陀那(あばだな):譬喩、経中に譬喩を説く部分。(9)優婆提舎(うばだいしゃ):論議、法理について論議問答。(10)優陀那(うだな):自説、問われずに仏が自ら説きだされたもの。例えば阿弥陀経。(11)毘仏略(びぶつりゃく):方広、方正広大なる真理。(12)和伽羅(わから):授記、仏が弟子に将来の成仏を告げることです。

  『若出定時、憶持不失見此事已、名見無量寿仏極楽世界、是為普観想、名第十二観』:もし定から出てもなお憶えていて失わずに、この事を見ることができれば、無量寿仏の極楽世界を見るという。 これが普く観る想であり、第十二観という。

  『無量寿仏化身無数与観世音及大勢至、常来此行人之所、作是観者名為正観、若他観者名為邪観』:無量寿仏の無数の化身と観世音および大勢至が、常にこの行者の所に来るであろう。 これを観ることができれば、それを正観といい、そうでなければ邪観である。

<5.3-13 第十三観 雑想> (*3-13

  佛告阿難及韋提希‥‥名為邪觀

  若欲至心生西方者、先当観於一丈六尺像在池水上』:もし心から西方に生まれたいと思えば、先に一丈六尺(凡そ5メートル)の像を池水の上に在ると観よ。 何故ならば、先に説いたように、無量寿仏の身量は無辺であり、凡夫の心の及ぶ所ではないからである。

  『然彼如来宿願力故、有憶想者必得成就、但想仏像得無量福、況復観仏具足身相、阿弥陀仏神通如意於十方国変現自在、或現大身満虚空中、或現小身丈六八尺、所現之形皆真金色、円光化仏及宝蓮花如上所説』:しかし、彼の如来は前世の願力の故に、憶想しようとすれば、必ず成就するのである。 ただ仏の像(木像、金像)を想うだけでも無量の福を得る。 また仏の完全な身相を観るのであればなおさらであろう。 阿弥陀仏は意のままに神通が使え、十方の国に自在に変現している。 或は虚空中を満たすほどの大身を現わし、或は一丈六尺、八尺の小身を現わすのであるが、現わす所の形は、皆真金色であり、円光も化仏も宝の蓮花も上に説いたようである。

  『観世音菩薩及大勢至於一切処身同、衆生但観首相知是観世音知是大勢至、此二菩薩助阿弥陀仏普化一切』:観世音菩薩と大勢至とは、身体の一切の部分が同じである。 衆生は、ただ首の相を観てこれが観世音と知り、これが大勢至と知るのである。 この二菩薩は、阿弥陀仏を助けて普く一切を導く。

 

<5.3-14 第十四観 上輩生想> (*3-14

  『佛告阿難及韋提希‥‥名為邪觀

  ここまでの十三観は、主に極楽の荘厳、極楽の衆生、無量寿仏と二菩薩について観想しましたが、これ以後の三観は極楽に往生する者を観想します。 唐の善導は前十三観を定善、後三観を散善と呼んでいます。 定善とは定心にて修める善業、散善とは散心にて修める善業という意味です。 ただこの善導の説によりますと、後の三観は観想ではないことになり、経の主旨からは外れますので、今は取りません。

  『凡生西方有九品人』:およそ西方に生まれるには、九品の人がある。 品とは品位による分類を指します。

  

  以下、最初の上輩の者とは、皆大乗の行者です。

  (*1)上品上生者、若有衆生願生彼国者、発三種心即便往生、何等為三、一者至誠心、二者深心、三者廻向発願心、具三心者必生彼国』:上品上生(じょうぼんじょうしょう)とは、もしある衆生が彼の国に生まれようと願い、三種の心を発せば、すぐに往生することができる。 三種の心とは、 一は至誠心、 二は深心、 三は迴向発願心である。 この三心を具えた者は必ず彼の国に生まれる。 至誠心(しじょうしん)とは、嘘偽りのない誠の心をいいます。 深心(じんしん)とは、深く思う心です。 他事を思って天秤にかけるなどをしないことです。 迴向発願心(えこうほつがんしん)とは、過去現在未来に作す善行の果報は、すべてこの往生に振り向けたいと願う心です。 善いことを行って天に生まれたい、金持ちになりたいと思うかわりに極楽に往生したいと願うことです。

  (*2)復有三種衆生、何等為三、一者慈心不殺具諸戒行、二者読誦大乗方等経典、三者修行六念廻向発願生彼仏国、具此功徳一日乃至七日即得往生』:また極楽に往生する三種の衆生がいる。 一は慈悲心にて殺生をしないなど、諸の戒行を具える者、 二は大乗の経典を読誦する者、 三は六念を修行し、それを廻向して願を発し彼の国に生まれたいと思う者である。 この功徳を具えること一日より七日に過ぎない者まで、すべて往生できるであろう。 方等(ほうとう)は大乗の異名です。 六念(ろくねん)とは、(1)念仏:仏の大慈悲を念うこと、(2)念法:法の大利益を念うこと、(3)念僧:僧の大功徳を念うこと、(4)念戒:戒は遮悪の根本であると念うこと、(5)念捨:施しは善行の根本であると念うこと、(6)念天:天は常に護念すると念うことです。 

  (*3)生彼国時、此人精進勇猛故、阿弥陀如来与観世音及大勢至無数化仏百千比丘声聞大衆無量諸天、七宝宮殿』:彼の国に生まれる時は、この人は精進であり勇猛であるが故に、阿弥陀如来は観世音および大勢至、無数の化仏、百千の比丘声聞の大衆、無量の諸天、七宝の宮殿をともなうであろう。

  (*4)観世音菩薩執金剛台、与大勢至菩薩至行者前、阿弥陀仏放大光明照行者身、与諸菩薩授手迎接、観世音大勢至与無数菩薩讃歎行者勧進其心』:観世音菩薩は金剛(こんごう、ダイヤモンド)の台を手に持ち、大勢至菩薩と共に行者の前に進みでる。 阿弥陀仏は大光明で行者の身を照らし、諸の菩薩と共に手を授けて行者を迎え入れる。 観世音、大勢至および無数の菩薩は行者を讃歎してその心を勇気づける。

  (*5)行者見已、歓喜踊躍自見其身乗金剛台随従仏後、如弾指頃往生彼国』:行者はそれを見て歓喜踊躍し、自らの身を見れば、すでに金剛の台に乗り仏の後ろに随従している。 指を弾くほどの時間で彼の国に往生する。

  (*6)生彼国已、見仏色身衆相具足、見諸菩薩色相具足、光明宝林演説妙法、聞已即悟無生法忍』:彼の国に生まれてみれば、仏の色身の衆相が具足しているのが見え、諸の菩薩の色相が具足しているのが見え、光明と宝林は妙法を演説している。 それを聞きおわれば、ただちに無生法忍を悟る。 無生法忍(むしょうほうにん)とは無生無滅の真理をいいます。

  (*7)経須臾間歴事諸仏、遍十方界於諸仏前次第受記、還至本国得無量百千陀羅尼門、是名上品上生者』:須臾(しゅゆ、しばらく)の間を経て、諸仏を巡って事(つか、仕)え、遍く十方の世界の諸仏の前において、次々と記を受け、本国に還りつけば、無量百千の陀羅尼門を得ている。 これを上品上生の者という。 この人は生まれてすぐに、十方の世界の諸仏に事えて、種種無量の慈悲行を行います。 陀羅尼門(だらにもん)とは、種種の教え、種種の慈悲行の法をいいます。

  (*8)上品中生者、不必受持読誦方等経典、善解義趣於第一義心不驚動、深信因果不謗大乗、以此功徳廻向願求生極楽国』:上品中生(じょうぼんちゅうしょう)とは、必ずしも大乗の経典を受持し読誦するものではないが、善くその意味を理解して、第一義である空を聞いても心が驚動しない。 深く因果を信じて大乗を謗らない。 この功徳を廻向して極楽国に生まれたいと願い求める者である。 人の身心は空であり存在しないと聞いても善く理解して驚かず、深く因果を信じる者が、この上品中生の者に当たります。 深信因果とは、世を超えた善因善果悪因悪果の理法をいいます。

  (*9)行此行者、命欲終時、阿弥陀仏与観世音及大勢至無量大衆眷属囲遶、持紫金台至行者前讃言、法子汝行大乗解第一義、是故我今来迎接汝、与千化仏一時授手』:この行を行う者は、命の終りの時、阿弥陀仏は、観世音および大勢至、無量の大衆眷属に取囲まれて、紫金の台を持ちながら、行者の前に進んで讃えて、法子(ほうし、弟子)よ、お前は大乗を行い第一義を理解している。 この故に、わたしは、今来てお前を迎え入れようと言い千の化仏と共に一時に手を授ける。

  (*10)行者自見坐紫金台、合掌叉手讃歎諸仏、如一念頃即生彼国七宝池中』:行者は自らの身を見てみれば、すでに紫金の台に坐している。 合掌叉手して諸仏を讃歎すれば、一瞬の後には彼の国の七宝の池の中に生まれる。 合掌叉手(がっしょうさしゅ)とは、左右十指を交差させて掌を合わせる合掌のしかたです。 この合掌は左手を衆生界、右手を仏界に擬し、衆生が仏に帰依するすがたとも、衆生と仏とは不二であることを表すとも言われていますが、たんに掌を強く押しつけた形で通常よりもさらに心のこもった合掌と取るのがよいでしょう。

  (*11)此紫金台如大宝花経宿即開、行者身作紫磨金色、足下亦有七宝蓮華、仏及菩薩倶放光明照行者身目即開明、因前宿習普聞衆声純説甚深第一義諦』:この紫金の台は大宝花のように一夜を過ぎれば開き、行者の身は紫磨金(しまこん、紫金)色となり、足下には七宝の蓮華がある。 仏および菩薩はともに光明を放って行者の身を照らすと、行者は目が開いて見ることができるようになり、前世の習いにより、あたりに飛び交う声を聞いてみれば、ただ甚だ深い第一義諦を説いている。 第一義諦(だいいちぎたい)とは、万物は平等にして空であるという真理をいいます。

  (*12)即下金台礼仏合掌讃歎世尊経於七日、応時即於阿耨多羅三藐三菩提得不退転、応時即能飛至十方歴事諸仏、於諸仏所修諸三昧経一小劫得無生法忍現前受記、是名上品中生者』:金台より下りて仏を拝礼し、合掌讃歎すること七日、阿耨多羅三藐三菩提に於いて不退転となる。 十方の世界に遊飛して諸仏に事(つか)え、諸仏の修めている諸の三昧を修めること一小劫、無生法忍を得て諸仏の現前にて記を受ける。 これを上品中生の者という。 阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)は菩薩の行を行って仏国土を建設する意志、不退転(ふたいてん)は仏国土を建設するまで退転しないこと。 諸仏所修諸三昧とは、仏のように一心に種種の慈悲行を行うこと。 一小劫(いちしょうこう)とは、人寿八万歳より百年ごとに一歳を減じて十歳になり、また百年ごとに一歳を増して八万歳になるまでの期間をいい、およそ千六百万年をいいます。 無生法忍は、生滅を遠離すること、言い換えると生滅を畏れないことです。

  (*13)上品下生者、亦信因果不謗大乗但発無上道心、以此功徳廻向願求生極楽国』:上品下生(じょうぼんげしょう)とは、また因果を信じて大乗を謗らず、ただ無上道の心を発し、この功徳を廻向して極楽国に生まれたいと願うことである。 無上道心(むじょうどうしん)とは、阿耨多羅三藐三菩提心、あるいは単に菩提心といい、この世を浄めて仏の国にしようと願う心です。 この無上道心は、亦信因果不謗大乗とほぼ同じ意味です。

  (*14)彼行者命欲終時、阿弥陀仏及観世音併大勢至与諸眷属持金蓮華化作五百化仏来迎此人、五百化仏一時授手讃言、法子汝今清浄発無上道心、我来迎汝』:この行者の命が終ろうとする時、阿弥陀仏および観世音と大勢至は諸の眷属を引連れて金蓮華を持ち、五百の化仏を化して作り、一緒に来てこの人を迎える。 五百の化仏は、皆、一時に手を授け讃えて、法子、お前は今清浄であり無上道の心を発したにより、わたしはお前を迎えに来たと言う。

  (*15)見此事時、即自見身坐金蓮花、坐已華合随世尊後即得往生、七宝池中一日一夜蓮花乃開、七日之中乃得見仏』:これを見た時、自らの身を見てみると金蓮花の上に坐っている。 華は自然に閉じて世尊の後にしたがい、すぐ往生することができる。 七宝の池の中で一日一夜、蓮花がようやく開き、七日の後、ようやく仏を見ることができる。

  (*16)雖見仏身於衆相好心不明了、於三七日後乃了了見、聞衆音声皆演妙法、遊歴十方供養諸仏、於諸仏前聞甚深法経三小劫得百法明門住歓喜地、是名上品下生者』:仏の身を見たとはいえ、衆の相好は心にいまだ明了ではない。 三七日の後、ようやく明了に見えてくる。 衆の音声を聞けば、皆妙法を演べている。 十方に遊歴し諸仏を供養し、諸仏の前にては甚だ深い法を聞き、三小劫が過ぎたころには百法が明るくなって、歓喜地に住す。 これを上品下生の者という。 百法明門(ひゃっぽうみょうもん)とは、衆生済度の法は種種無数にあるが、やっと百ほどの初門に入ることをいいます。 歓喜地(かんぎち)とは、菩薩の位階十地の中の初地、ようやく惑いを断ち切って歓喜する位をいいます。

  『是名上輩生想、名第十四観』:これが上輩の生まれる想であり、第十四観という。 これがいわゆる上輩といわれる人たちです。 この三人は、皆、大乗の行者でありますが、その心の定り方によって上中下と分れています。

<5.3-15 第十五観 中輩生想> (*3-15

  『佛告阿難及韋提希‥‥名為邪觀

  次は中輩の者です。 この者たちは皆善人です。

  (*1)中品上生者、若有衆生受持五戒、持八戒斎、修行諸戒、不造五逆、無衆過悪、以此善根廻向願求生於西方極楽世界』:中品上生(ちゅうぼんじょうしょう)とは、もしある衆生が、五戒を受持し、八戒斎を持ち、諸戒を修行して、五逆を造らず、衆の過悪が無ければ、この善根を廻向して、西方の極楽世界に生まれることを願うことである。 八戒斎(はっかいさい)とは、(1)不殺:生き物を殺さない、(2)不盗:与えられない物を取らない、(3)不婬:婬事をしない、(4)不妄語:嘘をつかない、(5)不飲酒:酒を飲まない、(6)身不塗飾香鬘:身に香を塗ったり、飾りを着けたりしない、(7)不自歌舞、又不観聴歌舞:歌舞音曲を慎む、(8)於高広之床座不眠坐:高広の大床に坐らない、(9)正午過ぎて食事をしない。 この八戒と一齊をいいます。 五戒はこの(1)から(5)をいいますが、(3)は邪婬をしないことに代ります。 諸戒とは、比丘の守る二百五十戒、比丘尼の守る五百戒をいいます。 五逆(ごぎゃく)とは、(1)父を殺す、(2)母を殺す、(3)阿羅漢を殺す、(4)仏身より血を出す、(5)和合僧を破るの重罪をいいます。

  (*2)行者臨命終時、阿弥陀仏与諸比丘眷属囲遶、放金色光至其人所、演説苦空無常無我、讃歎出家得離衆苦』:行者の命が終ろうとする時、阿弥陀仏は大勢の比丘と眷属とに取囲まれ、金色の光を放ちながらその人の所に来て、苦、空、無常、無我を演説し、出家して衆苦を離れることを讃歎する。 苦空無常無我とは、この世に生死することは苦であり、万物は空であり、一切は移り変わって常なるものは無く、身心は存在せず霊魂もまた無いということ、これ等は仏教的真理です。

  (*3)行者見已心大歓喜自見己身坐蓮花台、長跪合掌為仏作礼、未挙頭頃即得往生極楽世界』:行者はこれを見て大いに歓喜し自らの身を見てみればすでに蓮花の台に坐っている。 両肘両膝を地につけて合掌し仏に礼をなせば、頭を挙げないうちに極楽世界に往生する。

  (*4)蓮花尋開、当華敷時聞衆音声讃歎四諦、応時即得阿羅漢道三明六通具八解脱、是名中品上生者』:蓮花はやがて開く。 華の開く時にあたって、あまたの音声が四諦を讃歎するのが聞こえる。 その時、阿羅漢道と三明と六通を得て、八解脱が具わる。 これを中品上生の者という。  四諦(したい)とは、先の苦空無常無我に対する回答であり四項目よりなっています、(1)苦諦:この世は苦であると確信すること、(2)集諦:苦の原因は愛著することにあると確信すること、(3)滅諦:愛著する心を滅すれば苦もまた滅すると確信すること、(4)道諦:愛著する心を滅するには正しい道によらなくてはならない。 その正しい道とは八正道である。 八正道(はっしょうどう)とは、正しい修行と生活の方法である、(1)正見:苦集滅道の四諦の理を認めることをいい、八正道の基本となるものである。(2)正思:既に四諦の理を認め、なお考えて智慧を増長させること。(3)正語:正しい智慧で口業を修め、理ならざる言葉を吐かないこと。(4)正業:正しい智慧で身業を修め、清浄ならざる行為をしないこと。(5)正命:身口意の三業を修め、正法に順じて生活すること。(6)正精進:正しい智慧でもって、涅槃の道を精進すること。(7)正念:正しい智慧でもって、常に正道を心にかけること。(8)正定:正しい智慧でもって、心を統一すること。  三明(さんみょう)とは、智慧の力で過去現在未来三世の闇を照らす三種の神通力です、羅漢の場合には三明といい、仏菩薩の場合には三達といいます、(1)宿命明:自他の過去世の生死の相を知る。(2)天眼明:自他の未来世に於ける生死の相を知る。(3)漏尽明:現在の苦の相を知り、一切の煩悩を尽くす智慧。 六通(ろくつう)とは、阿羅漢の持つ六種の神通力です、(1)天眼通:障害物を通して見ることができる。(2)天耳通:障害物を通して聞くことができる。(3)他心知通:他人の心を知ることができる。(4)宿命通:自他の過去世を知ることができる。(5)身如意通:即時に何処にでも行ける等の極限的な身体の能力。(6)漏尽通:諸漏(ろ、煩悩)を断ち、無礙自在であること。  八解脱(はちげだつ)とは、八種の定力により貪著の心を捨てるための八段階です、(1)色や形に対する想い(色想)が内心にあることを除くために、不淨観を修める。(2)内心の色想が無くなっても、なお不浄観を修める。(3)前の不淨観を捨て、外境の清らかな面を観じ、貪著の心を起こさないようにする。(4)物質的な想いをすべて滅して、空無辺処定に入る。(5)空無辺の心を捨てて、識無辺処定に入る。(6)識無辺の心を捨てて、無所有処定に入る。(7)無所有の心を捨てて、非想非非想処定に入る。(8)受想等を捨て、心と心所(しんじょ、心の働き)を滅する滅尽定(めつじんじょう)に入る。

  (*5)中品中生者、若有衆生若一日一夜持八戒斎、若一日一夜持沙彌戒、若一日一夜持具足戒威儀無欠、以此功徳廻向願求生極楽国』:中品中生とは、もしある衆生が、もしくは一日一夜八戒斎を持ち、もしくは一日一夜沙彌戒を持ち、もしくは一日一夜具足戒を持って行儀作法に欠けるところが無ければ、この功徳を廻向して極楽国に生まれることを願い求めることである。 八戒斎は前に説明しました。 沙彌戒(しゃみかい)とは、二十歳未満の少年僧の受ける十戒をいいます。(1)生き物を殺さない。(2)他の物を取らない。(3)婬事をしない。(4)嘘を言わない。(5)酒を飲まない。(6)身に装身具を着けたり、香を塗ったりしない。(7)歌舞をせず、それを観聴することもしない。(8)高広な大床に坐臥しない。(9)午前中に一回のみ食する。(10)金銭、宝物を持ち込まない。 具足戒(ぐそくかい)とは、比丘の二百五十戒、比丘尼の五百戒をいいます。

  (*6)戒香薫修如此行者命欲終時、見阿弥陀仏与諸眷属放金色光、持七宝蓮花至行者前』:戒を守るこのようは行者は香のように素晴らしい香があたりにただよう。 この行者は、命が終ろうとする時、阿弥陀仏が大勢の眷属に取囲まれ金色の光を放ち、七宝の蓮花を持って行者の前に来るのを見る。

  (*7)行者自聞、空中有声讃言善男子如汝善人随順三世諸仏教故、我来迎汝』:行者は、空中の声を聞く、『善男子、お前のようにする者は善人である。 三世の諸仏の教えに随順しているので、わたしはお前を迎えに来た。』と。 善男子(ぜんなんし)とは、在家出家の信者にたいする呼びかけの言葉です。

  (*8)行者自見坐蓮花上、蓮花即合生於西方極楽世界』:行者は、自らの身を見てみればすでに蓮花の上に坐っている。 蓮花はすぐに閉じ、西方の極楽世界に生まれる。

  (*9)在宝池中経於七日蓮花乃敷、花既敷已開目合掌讃歎世尊、聞法歓喜得須陀洹、経半劫已成阿羅漢、是名中品中生者』:宝池の中にて七日がたてば、蓮花はようやく開く。 花が開けば、目を開けて合掌し世尊を讃歎して法を聞き、歓喜して須陀洹を得、半劫たてば阿羅漢と成る。 これを中品中生の者という。 須陀洹(しゅだおん)とは、煩悩をようやく断ちおわって聖者の流れに入った位をいいます。

  (*10)中品下生者、若有善男子善女人孝養父母行世仁義、此人命欲終時遇善知識、為其広説阿弥陀仏国土楽事、亦説法蔵比丘四十八大願』:中品下生とは、もしある善男子善女人が父母に孝養し、世の仁義(にんぎ、慈悲と正義)とを行えば、この人の命が終ろうとする時、たまたま善知識に会い、善知識はこの人のために、阿弥陀仏国の楽しい事と、また法蔵比丘の四十八の大願とを説くというようなことである。 善知識とは、善い知識をもった人の意です。

  (*11)聞此事已尋即命終、譬如壮士屈伸臂頃、即生西方極楽世界、生経七日遇観世音及大勢至、聞法歓喜得須陀洹、過一小劫成阿羅漢、是名中品下生者』:この事を聞きおわってやがて命が終れば、壮年の人が臂を屈伸するほどの間に、西方の極楽世界に生まれる。 生まれて七日たつと観世音および大勢至に会い、法を聞いて歓喜し須陀洹を得、一小劫を過ぎて阿羅漢に成る。 これを中品下生の者という。

  (*12)是名中輩生想、名第十五観』:これが中輩の生まれる想であり、第十五観という。 これが謂わゆる中輩といわれる人たちです。 皆、戒を守ろうとする気持ちのある善人です。 上は常に戒を守り、中は一日一夜戒を守りますが、戒の大小は問題になっていません。 下の者は、父母に孝養するなど世間の善を行うひとです。 ただこの人は阿弥陀仏の事を聞いたことが無いので願求できません。 たまたま善知識が阿弥陀仏のことを説くのを待たなければならない故です。

 

<5.3-16 第十六観 下輩生想> (*3-16

  『佛告阿難及韋提希‥‥名第十六觀

  次は下輩の者です。 この者たちは、皆、謂わゆる悪人です。

  (*1)下品上生者、或有衆生作衆悪業、雖不誹謗方等経典、如此愚人多造悪法無有慚愧、』:下品上生とは、或はある衆生は多くの悪業をなしている。 たとえ大乗の経典を誹謗するようなことが無いとはいえ、このような愚人は多くの悪事をなしながら、それを恥じることがない。 悪法とは悪事をいいます。

  この下輩の三人は、皆、それを強く意識するモデルがあります。 この下品上生の者とは大乗の守護者です。 皆、自分は善をなしていると思い、善人であると思っていますが、その実、多くの悪を知らず知らずの中に作っているのです。 ここでそのモデルになったのは、この経の因縁を作った仏教の大庇護者である頻婆娑羅王と韋提希夫人です。 以下、その理由を説明しますが、その所を善導の『観経疏序分義(かんぎょうそじょぶんぎ)』には、次のようにまとめられています。

  【頻婆娑羅と韋提希の悪業】: もとこの王には子息がなかった。 処処の神に祈ったが、ついに得ることができなかったのである。 そこで王は相師に占わすと、その相師はこう言った、『山の中にひとりの仙人がいます。 近く寿命がおわり、その後に王の子息となるでしょう。』と。 王は喜んで、『いつその仙人の寿命はおわるのだ?』と訊ねますと、『もう三年ほどたちますと寿命がおわりましょう。』と答えた。 王は、『おれは、すでに年老いたが、国を継ぐものがない。 さらに三年を待てとは、何を信じて待てばよいのか。』と言い、山の仙人に使いを出し、『王は、国を継ぐ者がなく、困って処処の神に祈りましたが子を得ることができません。 相師に占わせたところ、あなたが近く寿命がおわり、王の子息となるということでした。 どうか恩をたれて早くお亡くなりください。』と請わせた。 仙人は使者にこう言った、『わたしは、まだ三年の寿命が残っている。 王は、このわたしに早く死ねとおおせられるが、それはできないことです。』と。 使いが王にこれを伝えると、王は、『おれは、一国の主である。 あらゆる人と物は、皆、おれの物だ。 今、礼をつくして頼んでいるのに、なぜおれの心が分らないのか?』と言い、もういちど使者に命じた、『もういちど重ねて請え。 もし承知しないようなら殺してしまえ。 そうなればいやでもおれの子にならずばなるまい。』と。 使者は王の言葉を仙人につたえ、仙人が承知しないので、これを殺そうとした。 仙人は、『お前は、王にこう語れ。 おれの寿命がまだ尽きていないのに、王は心と口でもって、人におれを殺させた。 おれがもし王の子になって生まれたならば、また心と口でもって、人に王を殺させてやるぞ。』と言ってついに殺された。 この仙人は、死ぬとすぐに王宮の夫人の胎内に生を受けた。 その日の夜、夫人は胎内に子ができたことを知った。 王は、それを聞いて歓喜し、相師を呼んで夫人を観せた。 『これは男か、それとも女か?』、相師はしばらく観て王に報えた、『これは男の子です、女ではありません。 しかしこの子は、王を害するでしょう。』と。 王は、『おれの国土は、皆、この子のものだ。 たとえ害せられても、おれは少しもかまわない。』と言ったが、悲喜こもごも懐いた。 とうとう夫人に打ち明けた、『おれとお前とで、内密になんとかしよう。 相師は、この子がおれを害するという。 お前は、生まれそうになったら高楼に上り、天井から下に産み落とせ。 下で人に受け取らせるではないぞ。 地に堕ちてしまえば死なないということもなかろう。 こうすれば、心配することもなく、また露見することもない。』と。 夫人は、王のはかりごともやむを得ないと思い、言われたとおりにしたが、この子は生まれて地に堕ちたというのに、死ぬこともなく、ただ小指を折ったために、人々がこの子を『折指太子』と呼んだだけであった。

  (*2)命欲終時遇善知識、為讃大乗十二部経首題名字、以聞如是諸経名故、除却千劫極重悪業』:この人は、命が終ろうとする時、たまたま善知識に会い、この善知識はこの人のために大乗の十二部の経の首題の名を讃える。 このような諸経の名を聞くが故に、この人は千劫の極重の悪業も除かれる。 今にも死のうとする時、経の深い意味を聞いている暇はありません。 とりあえず、経の名だけでも聞くということで、十二部経を全部という意味はないのです。 十二部経(じゅうにぶきょう)とは、仏教の経典を十二に分類したものです、(1)修多羅(しゅたら):契経(けいきょう)、仏の直接の説法で長文のもの、(2)祇夜(ぎや):応頌(おうじゅ)、長行(ちょうごう)という散文の説法に同じ意味の韻文を重ねたもの、(3)伽陀(かだ):諷頌(ふじゅ)、長行がなく韻文だけのもの、(4)尼陀那(にだな):因縁、説法の因縁、諸経の序品、(5)伊帝曰多伽(いていわつたか):本事、如是語ともいい、弟子の前世の因縁、(6)闍多伽(じゃたか):本生、仏の過去世の因縁、(7)阿浮達摩(あぶだつま):未曽有、仏の種々の神力等、不思議の事、(8)阿波陀那(あばだな):譬喩、経中に譬喩を説く部分、(9)優婆提舎(うばだいしゃ):論議、法理について論議問答、(10)優陀那(うだな):自説、問われずに仏が自ら説きだされたもの。例えば阿弥陀経、(11)毘仏略(びぶつりゃく):方広、方正広大なる真理、(12)和伽羅(わから):授記、仏が弟子に将来の成仏を告げること。

  (*3)智者復教合掌叉手称南無阿弥陀仏、称仏名故除五十億劫生死之罪』:智者はまた合掌叉手させて南無阿弥陀仏と称えることを教え、仏の名を称えるが故に五十億劫の生死の罪を脱れさせる。 これも前と同じです、極楽の楽事も、阿弥陀仏の四十八願も説いている暇はとてもないので、せめて仏の名を称えさせるということです。

  (*4)爾時彼仏、即遣化仏化観世音化大勢至、至行者前讃言、善哉善男子、汝称仏名故諸罪消滅、我来迎汝』:その時、彼の仏は、化仏、化観世音、化大勢至を遣わし、行者の前で讃えて言わせる、『善いぞ善男子、お前は仏の名を称えるが故に、諸罪は生滅し、わたしはお前を迎えに来た。』と。

  (*5)作是語已、行者即見化仏光明遍満其室、見已歓喜即便命終乗宝蓮花随化仏後生宝池中』:これを聞いて、行者はすぐに化仏の光明がその室をすみずみまで満たすのを見る。 これを見て、歓喜したところで命が終り、宝の蓮花に乗って化仏の後にしたがい、宝の池の中に生まれる。

  (*6)経七七日、蓮花乃敷、当花敷時、大悲観世音菩薩及大勢至菩薩放大光明住其人前、為説甚深十二部経』:七七日が過ぎ、蓮花はようやく開く、花の開く時にあたり、大悲観世音菩薩および大勢至菩薩が大光明を放って、その人の前に立ち、その人のために甚だ深い十二部の経を説く。

  (*7)聞已信解発無上道心、経十小劫具百法明門得入初地、是名下品上生者』:行者はそれを聞いて、無上道の心を発し、十小劫を過ぎれば百法明門を具えて初地に入る。 これを下品上生という。 百法明門(ひゃっぽうみょうもん)の説明は上品下生の項にあります。 初地(しょじ)とは、歓喜地(かんぎち)ともいい菩薩が初めて平等の真理を悟り歓喜する位をいい、この位にある菩薩は布施波羅蜜を満たすといいます。

  (*8)得聞仏名法名及聞僧名、聞三宝名即得往生』:仏名、法名および僧名を聞くことができ、三宝の名を聞いたが故にたちどころに往生できたのである。

 

  (*9)下品中生者、或有衆生毀犯五戒八戒及具足戒、如此愚人偸僧祇物盗現前僧物、不浄説法無有慚愧、以諸悪法而自荘厳、如此罪人以悪業故応堕地獄』:下品中生とは、或はある衆生は、五戒、八戒および具足戒を犯すことがある。 このような愚人は、僧祇の物を盗み、現前僧の物を盗み、不浄な説法をして恥じることなく、数々の悪事で身を飾っている。 このような罪人はその悪業の故に地獄に堕ちずにはいられない。 僧祇物(そうぎもつ)とは、すべての比丘と比丘尼の共有物をいい、現前僧物(げんぜんそうもつ)とは、一寺院内の比丘と比丘尼の共有物をいいます。 不浄説法(ふじょうせっぽう)とは、提婆達多(だいばだった)が世尊に採用するようせまり、それを説いて五百の弟子を連れ、教団を割った五法を指します。 

  この中の者とは破戒の比丘と比丘尼のことですが、このモデルは、阿闍世太子をそそのかし父を殺させた提婆達多です。

  【提婆達多の悪業】:提婆達多は釈尊の父浄飯王の弟斛飯王の子で釈尊からは従兄弟にあたります。 後に釈尊の弟子となりましたが、やがて慢心増長して老齢を理由に釈尊に引退をせまり、自らが主宰しようと要求しましたが聞き届けられず、更に上の五法の採用を強くせまり、またそれが容れられないとなると五百の弟子を連れて教団を割ってしまいました。 後に頻婆娑羅王が釈尊の大施主であることに対抗し、阿闍世太子に取り入って父王を殺させ自らの大施主とならしめました。 その他、種種の経典にさまざまな悪業が書かれています。

  【提婆五法(だいばごほう)】:(1)比丘は終生糞掃衣(ふんぞうえ、糞を掃除するような粗末な衣)を着けるべし。(1)比丘は終生乞食すべし。(3)比丘は終生一日一食を守るべし。(4)比丘は終生露地に坐すべし。(5)比丘は終生肉を食わざるべし。

  (*10)命欲終時、地獄衆火一時倶至、遇善知識以大慈悲、即説讃説阿弥陀仏十力威徳、広讃彼仏光明神力、亦讃戒定慧解脱解脱知見』:この人の命が終ろうとする時、地獄の衆火は一時に襲いかかる。 たまたま善知識に会い、善知識は大慈悲で、阿弥陀仏の智慧の力を讃じて説き、仏の光明の不思議な力を讃え、また戒定慧解脱解脱知見を讃える。 十力(じゅうりき)は仏の智慧です、(1)処非処智力(しょひしょちりき):物ごとの道理と非道理を知る智力。処は道理のこと。(2)業異熟智力(ごういじゅくちりき):一切の衆生の三世の因果と業報を知る智力。異熟(いじゅく)とは果報のことであるが、まだその果報の善悪が決定していないことをいう。(3)静慮解脱等持等至智力(じょうりょげだつとうじとうちちりき):諸の禅定と八解脱と三三昧を知る智力。(4)根上下智力(こんじょうげちりき):衆生の根力の優劣と得るところの果報の大小を知る智力。根とは能く生ずることをいい、何かを生み出す能力のこと。(5)種々勝解智力(しゅじゅちょうげちりき):一切衆生の理解の程度を知る智力。(6)種々界智力(しゅじゅかいちりき):世間の衆生の境界の不同を如実に知る智力。(7)遍趣行智力(へんしゅぎょうちりき):五戒などの行により諸々の世界に趣く因果を知る智力。(8)宿住隨念智力(しゅくじゅうずいねんちりき):過去世の事を如実に知る智力。(9)死生智力(ししょうちりき):天眼を以って衆生の生死と善悪の業縁を見通す智力。(10)漏尽智力(ろじんちりき):煩悩をすべて断ち永く生まれないことを知る智力。 戒定慧解脱解脱知見は、仏の法身は、常に五種の功徳が集まることをいいます、(1)戒:如来の身口意の三業は、一切の過を離れる。(2)定:如来の心は寂静にして、一切の妄念を離れる。(3)慧:如来の真智は、一切の本性を観達する。(4)解脱:如来の身心は、一切の繫縛を解脱する。(5)解脱知見:如来は、すでに一切の繫縛を解脱したことを知る。

  (*11)此人聞已、除八十億劫生死之罪、地獄猛火化為涼風吹諸天華』:これを聞いてこの人は八十億劫の罪が除かれ、地獄の猛火も化して涼風となり、諸の天華を吹きよせる。

  (*12)華上皆有化仏菩薩迎接此人、如一念頃即得往生七宝池中蓮花之内』:華の上には、皆、化仏菩薩がいて、この人を迎え入れると、一瞬の間に七宝の池の中の蓮花の内に往生することができる。

  (*13)経於六劫蓮花乃敷、当敷華時、観世音大勢至以梵音声安慰彼人、為説大乗甚深経典』:蓮花の内での六劫の後に花は開き、観世音と大勢至が清らかな声で、この人を慰め、この人のために大乗の甚だ深い経典を説く。

  (*14)聞此法已、応時即発無上道心、是名下品中生者』:この法をきくと、ただちに無上道の心を発す。 これを下品中生という。

 

  (*15)下品下生者、或有衆生作不善業五逆十悪具諸不善、如此愚人以悪業故応堕悪道経歴多劫受苦無窮』:下品下生とは、或はある衆生は不善業、五逆、十悪をなして諸の不善を具える。 このような愚人は悪業の故に、悪道に堕ちて、多劫に極まりない苦しみを受けなくてはならない。 不善業(ふぜんごう)、十悪(じゅうあく)とは、(1)殺生、(2)偸盗、(3)邪婬、(4)妄語、(5)両舌、(6)悪口、(7)綺語、(8)貪欲、(9)瞋恚、(10)邪見です、三福の項で説明しました。 五逆とは、(1)父を殺す、(2)母を殺す、(3)阿羅漢を殺す、(4)仏身より血を出す、(5)和合僧を破るで、非常なる重罪です。

  この下の者とは、大乗の信者でも、小乗の信者でもない俗人の悪人です。 ここでは阿闍世がモデルです。

  【阿闍世の罪】:阿闍世は頻婆娑羅王の太子でありながら、父を殺して王位を奪います。 まさに五逆の罪人で、初め提婆達多の教団に帰依していましたが、後に父王の後を継いで釈尊の教団の大施主となりました。

  (*16)如此愚人臨命終時、遇善知識種種安慰、為説妙法令念仏、彼人苦逼不遑念仏』:このような愚人は命の終る時に臨んで、たまたま善知識に会い、善知識は種種に慰めて、この人のために妙法を説き、仏を念えと説くが、この人は苦に逼迫せられて仏を念ういとまがない。 

  (*17)善友告言、汝若不能念彼仏者、応称帰命無量寿仏』:この善き友はこう教える、『もし彼の仏を念うことができなければ、無量寿仏に帰命しますと称えなさい。』と。 帰命(きみょう)とは、仏の教えに帰順することです。

  (*18)如是至心令声不絶具足十念称南無阿弥陀仏、称仏名故、於念念中除八十億劫生死之罪、命終之時、見金蓮花猶如日輪住其人前、如一念頃即得往生極楽世界』:この人は、善知識の教えのままに、心から十度声に出して『南無阿弥陀仏』と称える。 仏の名を称えるが故に、一声一声の中に八十億劫の生死の罪が除かれ、命が終る時には、日輪のような金の蓮花がその人の前に現れ、一瞬の間に極楽世界に往生することができる。

  (*19)於蓮花中満十二大劫、蓮花方開、当花敷時、観世音大勢至以大悲音声、即為其人、広説実相除滅罪法』:蓮花の中にて十二大劫を満たすと、蓮花は開くであろう。 花の開く時にあたり、観世音と大勢至は大悲の声を出して、その人のために万物の実相と、罪を除滅する法とを説く。 大劫とは成劫、住劫、壊劫、空劫の四劫をいいます。

  (*20)聞已歓喜、応時即発菩提之心、是名下品下生者』:この人は、これを聞いて歓喜し、すぐさま菩提の心を発す。 これを下品下生という。

  (*21)是名下輩生想』:これが下輩の生まれる想である。 この下輩の三人は、一人は大乗を守護しながら悪事をなし、一人は比丘でありながら悪事をなし、一人は仏教を信じずに悪事をなしていますが、総じて、皆、因果を信じずに他人にたいして悪をなすというような人たちです。 この人たちは、極楽に往生するためには臨終に奇跡が起こらなくてはなりません。 ただ善知識に会えばよいのですが、それがいかに難しいことであるか、経の中で説く八十億劫の罪というのは、まさにその困難を言っているのです。

<5.4 得益分> (*4)

  爾時世尊說是語時‥‥無量諸天發無上道心

  ここまでで、仏の説法は終ります。 以下、韋提希は五百の侍女とともに仏の所説を聞き、極楽の世界の広長の相を見、仏身と二菩薩の身を見ることができて、心に歓喜を生じるが故に、目からうろこが落ちるように大いに悟る所があって無生忍を得ます。 五百の侍女も阿耨多羅三藐三菩提心を発して彼の国に生まれたいと願います。 世尊は、皆に悉く、『必ず往生して、彼の国に生まれたならば、諸仏現前三昧を獲得するだろう。』と記を授けます。 無量の諸天も無上道の心を発しました。 諸仏現前三昧とは、諸仏を目の当たりにする三昧をさしますが、その意味する所は、何の世界に生まれても、必ず諸仏に会うことができるということです。

 

<5.5 流通分> (*5)

  爾時阿難。即從座起前白佛言。世尊。當何名此經‥‥禮佛而退

  爾時阿難、即従座起前白仏言、世尊、当何名此経、此法之要当云何受持』:阿難は、座より立ちあがって、仏に申します、『世尊、この経は、何と名づければよいのでしょうか? この法の要は、どのようにして受持すればよいのでしょうか?』と。

  『仏告阿難、此経名観極楽国土無量寿仏観世音菩薩大勢至菩薩、亦名浄除業障生諸仏前、汝等受持無令忘失、行此三昧者、現身得見無量寿仏及二大士、若善男子及善女人、但聞仏名二菩薩名除無量劫生死之罪、何況憶念、若念仏者、当知此人即是人中芬陀利花、観世音菩薩大勢至菩薩、為其勝友、当坐道場生諸仏家』:仏は次のように阿難に教えられます、『この経は、極楽の国土と無量寿仏と観世音菩薩と大勢至菩薩とを観ると名づけよ。 また業障を浄めて除き諸仏の前に生まれると名づけよ。 お前たちは、この経を受け持って忘失してはならない。 この三昧を行えば、その現在の身にて、無量寿仏および二菩薩を見ることができる。 もし善男子および善女人が、ただ仏名と二菩薩の名を聞くことでさえ無量劫の生死の罪を除く、憶えていて常に念うならばなおさらであろう。 もし仏を念えば、この人は人中の芬陀利花(ふんだりけ、白蓮華)であると知れ。 観世音菩薩と大勢至菩薩とが、その人の勝れた友となり、必ずこの二菩薩の道場に坐ることができ、諸仏の家に生まれることができるであろう。』と。 業障(ごっしょう)とは、悪業の障りをいいます。

  『仏告阿難、汝好持是語、持是語者即是持無量寿仏名』:仏は阿難に教えられます、『お前は、よくこの語を持て、この語を持つとは、無量寿仏の名を持つことである。』と。

  仏がこう言われると、尊者目連、尊者阿難および韋提希たちは、皆、仏の所説を聞いて大いに歓喜した。

  そして、世尊は虚空を足で蹈みながら耆闍崛山に帰った。 阿難は、耆闍崛山の大衆の為に上のような事を説き、無量の人天、龍神、夜叉たちも、仏の所説を聞いて、皆、大いに歓喜し、仏に礼をして退いた。

<5.6 まとめ>

  阿闍世太子の父殺しに始まる、長い経もここで終ります。

  わたくしは、この経に二つのテーマを読み取ります。 (1)悪人は救われるか、(2)極楽を観想することにいかなる意味があるのか。 この二つのテーマです。

  まず悪人は救われるか、これは仏教では悪人はおろか、善人もありません、たんに空の人がいるだけなのです。 ただその人の罪業、善業だけが存在し因縁するのです。 この故に、悪人だとて改心すれば善人に生れかわります。

  また次ぎに、極楽を観想して何が得られるか、これは甚だ理解しがたい所ですが、空である人は、常に因縁にさらされて生きていることを忘れてはなりません。 善い因縁に触れれば善人になり、悪い因縁に触れれば悪人になる、恐らくこういうことではないでしょうか。 人の行いは身口意の三業といわれています。 極楽を観想する善い意業が、善い口業と善い身業とを呼び起こし、やがて理想の世界が実現する。 この因縁のあるが故に、この経はつくられました。

 

<6. おわりに>

  これで浄土三部経の講義はすべて終ります。 ご覧のとおり、これ等の経は一見するところ大変華やかなよそおいをして、まさに大乗の花に譬えるにふさわしいものだと思われます。

  しかし、竹のような植物は、花を咲かせると皆死んでしまいます。 或はここに於いて大乗も何かに突き当たってしまったのでしょうか。

  実際、大乗はこの後になって、婆羅門の教えと相互に影響しあい、印度土着の身心の鍛錬法であるヨーガをも取り入れ、瑜伽行唯識派(ゆがぎょうゆいしきは)として生まれ変わって、現在日本に伝わるような仏教に変身してゆきます。  これは、或はより実践的になったのかも知れませんが、非常に多くの善いものを失ってしまったことも、また疑いようのない事実であります。

  無限に生死を繰り返しながらも、『布施』と『持戒』と『忍耐』とでもって、理想の世界を造ろうという大乗の解りやすく力強い教えは、その実現には気の遠くなるほどの時間が必要であることを理由に、或は『即身即仏』、或は『即身成仏』、或は『即心是仏』、或は『即得往生』などの、『何もしないでもよい』、『そのままで仏であり、仏の境地である』というような、安易ながらも複雑で理解しがたい教えに置き換えられてしまいました。

  論理的で明快な思想が、迷信的で不可解に神がかった宗教に変質してしまったのです。 しかし、『これで本当に良いのだろうか』と、こう思っているのは、何もわたくし一人ではないでしょう。

  この浄土三部経もそろそろ見直されて然るべきです。 字義を正し、文句に則して解釈し、経のありのままの姿に、ふたたび目を向けるとき、日本の仏教はその真の面目を取り戻すものと信じます。

           平成二十年一月  つばめ堂主人 著す

  

  

  

 

 

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