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<1. はじめに>

  浄土三部経の各々は、互いに補完する関係にあります。 そこで各経の受け持つ部分を明らかにし、往生浄土門とは何であるかを更に問うことにします。

 

<2. 阿弥陀経>  (*0)

  本来、無量寿経から始めるのが順序ですが、阿弥陀経から始めて極楽に関しての知識を、手っ取り早く仕入れておきます。

< 2.1 序 分 >

 如是我聞‥‥ 無量諸天大眾俱』 (*1)

  如是我聞』:『このように、わたくしは聞いております。』と、 釈尊の侍従阿難尊者は、常にこの言葉によって経を紡ぎ出されます。 ここで『このようなことが有りました。』と言わずに、『このように聞いております。』と言うには意味があります。 それは自らの勝手な見聞に由るのではなく、『世尊より、このように聞いた、以下に話す事柄はすべて世尊による。』と言っているのです。

  『一時仏在』:ある時、仏は某所に居られた。 『一時』とは、ある特定の時を指していて、不特定な『いつか』ではありません。 特に『いつ』とは言いませんが、特定の時を指しています。 次の『仏は某所に居られた』と併せて、これから話すことが真実に起ったことであることを証明しています。

  『舎衛国祇樹給孤獨園』:舎衛国(しゃえいこく)は国の名前、祇樹給孤獨園(ぎじゅぎっこどくおん)は精舎の名前です。 舎衛国は王舎城(おうしゃじょう)と共に、当時の二大大国です。 釈尊はそのほとんどの時間をこの二国の間を往ききして過ごされました。 祇(ぎ)は舎衛国の太子祇陀(ぎだ)、祇陀が園林の樹木を寄進したために祇樹といいます。 また、祇陀は精舎の土地の所有者でした。 給孤獨(ぎっこどく)は祇陀よりその土地を購入して仏に供養しましたので祇樹給孤獨園といいます。 また、給孤獨の本名は須達多(すだった)といいますが、常に身寄りの無い者に食を給していたので給孤獨と呼ばれます。 精舎(しょうじゃ)は比丘が住む寺院です。 比丘は、常に乞食行脚しながら、精舎から精舎を渡り歩きます。 仏も同じようにされました。

  『与大比丘僧千二百五十人倶皆是大阿羅漢衆所知識』:大比丘僧、千二百五十人が一緒にいた。 皆、阿羅漢であり、人々に知られていた。  この経が説かれた時、誰々が一緒にいたと証人を挙げます。 阿羅漢は、釈尊と同じように覚りを開いた聖者です。

  この後、大比丘の名前を挙げ、若干の大菩薩と諸天の名前を挙げます。 大比丘は実在の人ですが、大菩薩と諸天は架空の人です。

 

<2.2 正宗分>

<2.2-1 極楽の荘厳 その1>

 爾時佛告‥‥ 功德莊嚴』 (*2)

  *2-1)『爾時仏告長老舎利弗』:その時、仏は長老の舎利弗に教えられた。 『その時』は、今、上のことがあった、ちょうどその時です。  舎利弗(しゃりほつ)は般若心経に出る舎利子と同じです。 大般若経、大品、小品等の主だった般若経で、常に聞き役として出ます。 舎利(しゃり)という名の母から生まれたので、舎利の子という意味で、舎利弗(ほつ、子)、舎利子と呼ばれます。 母は舎利という名の鳥に、眼が似ていたために、そう名づけられました。 長老は先輩の比丘にたいする敬語です。 舎利弗はまた智慧が勝れ、仏の弟子の中でも智慧第一として、十大弟子の中でも筆頭格に挙げられています。

  (*2-2)『従是西方過十万億仏土有世界名曰極楽』:これより西方に十万億の仏土を過ぎて一つの世界があり極楽という。 我々のこの世界を千集めて一千小千世界、それを千集めて二千中千世界、それを千集めて三千大千世界、または大千世界といい、この大千世界を一仏土とします。 ここでいう十万億の仏土とは、考えられないほどの遠さを表しています。 

  (*2-3)『其土有仏号阿弥陀今現在説法』:その土に仏有り、阿弥陀と号して、今現在法を説く。 この『極楽』には『仏』が有って、その仏は『阿弥陀』と呼ばれています。 『阿弥陀』とは『無量』という意味です。 この仏は今現在も法を説いています。

  (*2-4)『彼土何故名為極楽、其国衆生無有衆苦但受諸楽故名極楽』:彼の土は何故に極楽というのだろうか。 その国の衆生には種種の苦がなく、ただ多くの楽しみを受けるから極楽というのである。

  (*2-5)『極楽国土、七重欄楯、七重羅網、七重行樹、皆是四宝周匝囲遶、是故彼国名曰極楽』:極楽の国土の七重の欄干、天を覆う七重の真珠の網、七重の並木、これ等は、皆、四つの宝で取り巻かれ囲み巡らされている。 四宝とは、金、銀、琉璃(るり、青色の宝石)、頗梨(はり、水晶)です。 欄楯(らんじゅん)とは、欄干のことです。 羅網(らもう)とは、金銀の鈴や種種の宝がレースのように付けられた網です。 行樹(ぎょうじゅ)とは、並木のことです。 周匝(しゅうそう)は取り巻くこと、囲遶は回りを取り囲むことです。

  (*2-6)『極楽国土有七宝池、八功徳水充満其中、池底純以金沙布地、四辺階道、金銀琉璃頗梨合成、上有楼閣亦以金銀琉璃頗梨車磲赤珠瑪瑙而厳飾之』:極楽国土には七宝の池が有り、八の功徳ある水が中に充満している。 池底は金の砂子が地を覆い、四辺の回廊を、金、銀、琉璃、頗梨が合わせ成している。 上にある楼閣もまた金、銀、琉璃、頗梨、車磲(しゃこ、シャコ貝)、赤珠(せきしゅ、桃色真珠)、瑪瑙が厳かに飾っている。 金銀琉璃頗梨車磲赤珠瑪瑙の七種の宝を、七宝といいます。 八功徳水(はっくどくすい)は、「称讃浄土経」によれば、浄澄、清冷、甘美、軽軟、潤沢、安和、渇きを止めて病を除く、飲めば元気がでる、この八の功徳をもつ水のことであるとします。 

  (*2-7)『池中蓮花大如車輪、青色青光、黄色黄光、赤色赤光、白色白光、微妙香潔』:池の中の蓮花(れんげ、睡蓮)は、車輪のように大きく、青色の花からは青い光が、黄色の花からは黄の光が、赤色の花からは赤い光が、白色の花からは白い光が出ており、微妙な香がすがすがしい。

  (*2-8)『舎利弗、極楽国土成就如是功徳荘厳』:舎利弗よ、極楽の国土とは、このような功徳が荘厳するのを成就しているのである。 功徳(くどく)とは、衆生を利する力をいいます。 荘厳(しょうごん)とは、きちんと飾り立てることです。

 

<2.2-2 極楽の荘厳 その2>

 彼佛國土常作天樂‥‥ 飯食經行』 (*3)

  彼仏国土常作天楽、黄金為地、昼夜六時天雨曼陀羅華』:彼の国土には常に天の音楽があり、黄金の池には昼夜六時に天人が曼陀羅華の花を雨のようにふらす。 昼夜六時とは、昼に三回、夜に三回、時を決めての意です。 曼陀羅華(まんだらけ)は、天にある花の名です。

  『其国衆生常以清旦、各以衣[袖-由+戒]盛衆妙華、供養他方十万億仏、即以食時還到本国飯食経行』:その国の衆生は、毎日、朝のすがすがしい中に、その天の妙華を肩掛けに盛って、他方の十万億の仏に供養する。 そして食時になると本国に還って、食事をして経行する。 食時(じきじ)は、凡そ正午です。 経行(きょうぎょう)とは歩く禅のことです。 坐禅で心を統一し、次は歩く禅で心をゆったりさせます。 清旦(しょうたん)とは、すがすがしい朝の内の意味です。 衣[袖-由+戒](えこく)とは、花を盛る風呂敷のようなものです。 

 

<2.2-3 極楽の荘厳 その3>

 彼國常有種種奇妙雜色之鳥‥‥ 念佛念法念僧』 (*4)

  彼国常有種種奇妙雑色之鳥白鵠孔雀鸚鵡舎利迦陵頻伽共命之鳥』:彼の国には、常に種種の奇妙にして色とりどりの鳥がいる。 白鵠、孔雀、鸚鵡、舎利、迦陵頻伽、共命の鳥などである。 白鵠(びゃっこう)は白鶴のことです。 孔雀、鸚鵡は見ることができます。 舎利は印度にいる鳥です。 迦陵頻伽(かりょうびんが)、共命(ぐみょう)の鳥、は共に想像上のみの鳥です。

  『是諸衆鳥昼夜六時出和雅音、其音演暢五根五力七菩提分八聖道分』: これ等の鳥たちは、昼夜六時に鳴き交わし、自然の音楽を演じる。 そしてただ音楽が美しいだけではなく、五根、五力、七菩提分、八聖道分などの人々が為さねばならない徳目を教えている。  五根(ごこん)とは、修行に必要な根本的な能力です、(1)信根:三宝と四諦を信じる、(2)精進根:勇猛に善法(ぜんぽう、善い行い)を修める、(3)念根:正法を憶念する、(4)定根:心を一境に止めて散失させない、(5)慧根:真理を思惟する。 五力(ごりき)とは五根を増長せしめて力を得ることです、(1)信力:信根を増長して、諸の邪信の者を破る、(2)精進力:精進根を増長して、身の懈怠するを破る、(3)念力:念根を増長して、諸の邪念を破る、(4)定力:定根を増長して、諸の乱想を破る、(5)慧力:慧根を増長して、諸の惑いを破る。 七菩提分(しちぼだいぶん)とは、覚りに至る智慧です、(1)択法覚分:智慧で法の真偽を択ぶ、(2)精進覚分:勇猛心で邪行を離れ真法を行う、(3)喜覚分:心に善法を得れば、即ち歓喜する、(4)軽安覚分:身心の粗重なるを除く、(5)念覚分:常に定と慧とを均等ならしめ、明記して忘れない、(6)定覚分:心を一境に止めて、散乱せしめない、(7)行捨覚分:諸々の妄謬を捨て、一切法を捨てて、心を平等に保つ。 八聖道分(はっしょうどうぶん)とは八の善い行い、無漏の戒を以って体と為すことです、(1)正見:苦集滅道の四諦の理を見て、明らかにする、(2)正思惟:四諦の理を明らめたならば、更に思惟して真智を増長する、(3)正語:真智を以って口業を修め、一切の非理の語を作さない、(4)正業:真智を以って身の一切の邪業を除き、清浄の身業に住まる、(5)正命:身口意の三業を清浄にして、正法に順じて活命す、(6)正精進:真智を発用して、強いて涅槃の道を修める、(7)正念:真智を以って、正道を憶念し邪念を無くす、(8)正定:真智を以って、無漏清浄の禅定に入る。

  『其土衆生聞是音已、皆悉念仏念法念僧』:その土の衆生はこの音を聞くと、皆悉く、仏を念い、法を念い、僧を念う。 『仏を念う』とは仏の功徳を念うこと、『法を念う』とは持戒して悪を作さず善を為すこと、『僧を念う』とは教団が和合して仏法の永続を願うことです。 僧とは、仏教教団のことです。

 

<2.2-4 極楽の荘厳 その4>

 舍利弗。汝勿謂此鳥實‥‥ 變化所作』 (*5)

  舎利弗汝勿謂此鳥実是罪報所生、所以者何彼仏国土無三悪趣』:舎利弗よ、お前は思ってはいけない、この鳥たちは、実に罪の報いによって、この鳥に生まれたのであると。 何故ならば彼の国土には地獄、餓鬼、畜生の三悪趣が無いのであるから。 仏教では前世の悪業によって、畜生道に生を受けると教えています。 しかし極楽の鳥はそうではありません。

  『其仏国土尚無三悪道之名、何況有実、是諸衆鳥皆是阿弥陀仏欲令法音宣流変化所作』:その仏の国土には、三悪道の名さえない、どうして実の三悪道があるであろうか。 この種種の多くの鳥たちは、皆、阿弥陀仏が法音を宣流せんがために変化した姿なのである。 歌を歌っている鳥たちは、皆、阿弥陀仏が変化した姿であり、皆、法音を宣流(せんる、のべながす)しているのです。 極楽で法を説くことは、不確実でどのようにでも取れる言葉によるのではありません、心に直接響く種種の音によっています。

 

<2.2-5 極楽の荘厳 その5>

 舍利弗。彼佛國土‥‥ 功德莊嚴』 (*6)

  彼仏国土微風吹動諸宝行樹及宝羅網出微妙音、譬如百千種楽同時倶作、聞是音者皆自然生念仏念法念僧之心』:彼の仏の国土では、微風によって諸の並木を吹き動かすと、宝の網から微妙な音が出る。 譬えば百千種の音楽が同時に鳴るようなものである。 この音を聞けば、皆は自然に仏を念い、法を念い、僧を念う心が生まれる。 並木に懸けられた七重の網に付けられた金銀の鈴と種種の宝石が風に吹かれて動き音を出します。

 

<2.2-6 極楽の荘厳 その6>

 舍利弗。於汝意云何‥‥ 功德莊嚴』 (*7)

  彼仏何故号阿弥陀』:彼の仏は、何故に阿弥陀と号するのか。 阿弥陀(あみだ)とは無量という意味です。 『舎利弗よ、お前はこれを何う思うか』と、極楽の無量をここで列挙します。  (1)光明無量、光明とは日の光のことです、明るさは智慧を、温かさは慈悲を表します。 また光は遠くまで、また隅々まで照らして、照らす物を差別しません、法の譬えでもあります。 (2)彼の仏の寿命無量、世界は大変広いものです、法を隅々まで届かせるには長い寿命が必要です。 (3)彼の国の人民の寿命無量、人民の願いの第一は長い寿命です。 (4)声聞の弟子無量、一人の力で法を隅々まで届かせるのは不可能です。 極楽の世界が成就したのは、法の力によります、法の力を届かせるのは弟子の力です。 (5)菩薩無量、菩薩は法を弘めることのみを使命としています。

 

<2.2-7 極楽に生まれる>

 又舍利弗。極樂國土眾生生者‥願生彼國土』 (*8)

  *8-1)『又舎利弗、極楽国土衆生生者皆是阿鞞跋致、其中多有一生補処、其数甚多、非是算数所能知之、但可以無量無辺阿僧祇劫説』:また、舎利弗よ、極楽国土の衆生は生まれたならば、皆、阿鞞跋致である。 その中の多くは一生補処であり、その数は甚だ多く、算数してこれを知ることはできない。 ただ無量無辺阿僧祇劫の間、説けばできるというのみである。  阿僧祇劫(あそうぎこう)とは無限に近い有限の時間ということです。

  不退の菩薩を阿鞞跋致(あびばっち)と言います。 菩薩は六波羅蜜を行って法を弘めます。 

  【六波羅蜜(ろくはらみつ)】:(1)布施波羅蜜:与えること、財産は言うにおよばず、自身、妻子、眷属、すべてを与えることです、(2)持戒波羅蜜:取らないこと、与えられないものは何一つ取らないことです。 特に他の命は決して取らないことです、(3)忍辱波羅蜜:怒らないこと、自身は取られても、怒らないことです、(4)精進波羅蜜:怠けないこと、上のことに休みはありません、(5)禅定波羅蜜:心が乱れないこと、環境が何のようであれ、決して心が乱れないことです、(6)智慧波羅蜜:以上を行うのは、極めて自然のことであると知ることです。 この六波羅蜜から逃げないことを不退といいます。

  【一生補処(いっしょうふしょ)】:法が十分弘まり、次ぎに生まれる時は、仏であることをいいます。 仏とは、阿弥陀仏のように理想の国土を建設した人のことです。 そこでは、皆が与えあって、決して取ろうとしないので、争いが有りません。 菩薩は、非常に長い間、何度も生まれ変わって、理想の国土を建設します。 さて、理想の国土が建設しあがって、次ぎに生まれる時には、菩薩としては何もすることがない。 これを一生補処(いっしょうふしょ)、この一生で仏の処を補うというのです。

  (*8-2)『衆生聞者応当発願願生彼国、所以者何、得与如是諸上善人倶会一処』:この国の事を聞いたならば、必ず彼の国に生まれたいと願え、何故ならば、このような上善の人と一処にともに会うことができるからである。 上善の人とは、阿鞞跋致と一生補処の菩薩を言います。

  【倶会一処(くえいっしょ)】:『倶(とも)に一処に会う』、これは何という楽しい想像でしょうか。 先に亡くなった親しい人に会うと考えると、それはまた非常に楽しいものです。 極楽であれば、またそれも可能です。

  (*8-3)『不可以少善根福徳因縁得生彼国』:少しばかりの善根の福徳の因縁では、彼の国に生まれることはできない。 善根とは善い行いのこと、福徳は善い行いの報いです。 少しばかり善いことをして、それで極楽に生まれることができるかと言えば、そうではありません。 少しばかりの善いこととは、偶然たまたま行った善いことという意味です。

  (*8-4)『若有善男子善女人聞説阿弥陀仏執持名号、若一日若二日若三日若四日若五日若六日若七日、一心不乱、其人臨命終時、阿弥陀仏与諸聖衆現在其前、是人終時心不顛倒、即得往生阿弥陀仏極楽国土』:もしある善男子、善女人が、阿弥陀仏のことを聞き、名号を執持して、一日なり、二日なり、もしくは七日なり、一心不乱であれば、その人の命が終る時、阿弥陀仏は諸の聖衆とともに、その人の前に現れ、この人は心が顛倒することなく、すぐに阿弥陀仏の極楽国土に往生する。 善男子(ぜんなんし)とは男子、善女人(ぜんにょにん)とは女子のことです。 その男子女子が、阿弥陀仏のことを聞いて、その名前を忘れずに、もしは一日、もしは二日、‥‥もしは七日の間、阿弥陀仏の極楽国土に生まれたいと、一心不乱に念うのであれば、その人の命が終るときには、阿弥陀仏が大勢の菩薩、或は声聞の弟子と一緒に、その人の前に現れ、その人は、その証拠を見て安心して、迷ったり疑ったりすることなく、阿弥陀仏の国土に往って生まれることができます。 

  【執持名号(しゅうじみょうごう)】:執持は記憶して忘れない事です。 阿弥陀仏の名を記憶して忘れるな。 ここで何故名号と言うかといいますと、前に阿弥陀仏が何故そう呼ばれるのか、何々が無量、何々が無量と出ました。 これがあるから名号を忘れるなと言うのです。 実の所は、阿弥陀仏の事を記憶せよと言うのと同じです。 名号自体に不思議な力が有るというのではありません。 この阿弥陀仏の事、一切を忘れるな。 人の心は容量が決まっています、善事を入れて悪事を駆逐する。 浄土とはこれを言うのです。

  【若一日若二日】:一心不乱というのですから、七日ぐらいが限度ということです。 一心不乱に阿弥陀仏の事を思い、自らも彼の仏のように成りたいとこう思います。 ただ声に出して念仏しろというのではありません。 それには短すぎます。

  【臨命終時】:このようにしたことのある人の所には、命の終りに当って、阿弥陀仏が大勢の聖者と一処に迎えに来ます。 ただし、これはその人が一心不乱であったかどうかの尺度とするものではありません。

  【心不顛倒】:死を恐れず、一切平等の真理に驚かないことです。

  【即得往生】:これは大事なことです。 次ぎに目を覚ませば、そこはもう極楽であるというのです。

  (*8-5)『我見是利故説此言、若有衆生聞是説者応当発願生彼仏国土』:わたしは、この利を見るが故に、この言葉を説くのである。 もし誰であろうと、この説を聞いたならば、必ず彼の国に生まれたいと願え。

 

<2.2-8 東方の諸仏が称讃する>

 舍利弗。如我今者‥‥諸佛所護念經』 (*9)

  如我今者讃歎阿弥陀仏不可思議功徳』:わたしが今、阿弥陀仏の不可思議の功徳を称讃しているように、東方の諸仏も、また称讃している。 功徳とは衆生を救うための力です。 ここで経には東方の諸仏の名が挙げられます。 このように、東方の諸仏の名を挙げた後、次々と南方、西方、北方、上方、下方と諸仏の名を挙げて、あらゆる世界で、諸仏が称讃していることを証します。 

  『如是等恒河沙数諸仏各於其国出広長舌相、遍覆三千大千世界、説誠実言、汝等衆生当信是称讃不可思議功徳一切諸仏所護念経』:このようなガンジズ河の川底の砂の数ほどの諸仏が、各その本国において出す幅広く長い舌で、遍く三千大千世界を覆い、誠実なる言葉を説いている、お前たち衆生よ、必ずこの不可思議の功徳を称讃する、一切の諸仏に護られた経を信じよと。

  【恒河沙数(ごうがしゃすう)】:ガンジズ河の川底の砂の数という意味で、無限に近い有限の数をいいます。

  【出広長舌相遍覆三千大千世界】:幅広く長い舌を出して世界を覆って真実の言葉を説くとは、印度で古くから人々に信じられてきた婆羅門(ばらもん)の法に、舌を延ばして額の生え際に届く人は嘘を言わないと有ります。 『観無量寿経』に仏の身量は高さが六十万億那由他(なゆた、億)恒河沙由旬(ゆじゅん、10キロメートル)と有ります。 恒河沙が有るので実際には見当もつきません。

  【三千大千世界(さんぜんだいせんせかい)】:十億の世界をいいます。 一世界には一須弥山と四大洲と四大海と七重の連山が有り、ある人が計算したところでは、ほぼ太陽系ほどの量があるそうです。 通常、仏は一三千大千世界に一人と言われます。

  【諸仏所護念経】:諸仏に護念される経とは、この阿弥陀経のことです。 護ってやろうと念うことが護念であり、諸仏はただ極楽を称讃するのみではなく、その極楽を説くこの経をも護念しています。 諸仏は舌を延ばして、『お前たち衆生は、この不可思議の功徳を称讃し、一切の諸仏に護念される経を信じよ。』と、このように嘘でない真実の言葉を説かれたのです。

 

<2.2-9 諸仏に護念される経>  (*10)

  舍利弗。於汝意云何‥‥諸佛所說

  何故名為一切諸仏所護念経』:何故この経は一切の諸仏に護念された経というのであろうか。

  『若有善男子善女人聞是経受持者、及聞諸仏名者、是諸善男子善女人皆為一切諸仏共所護念、皆得不退転於阿耨多羅三藐三菩提』:もしある善男子善女人が、この経を聞いて受持するか、少なくとも諸仏の名なりと聞いたならば、この善男子善女人は、皆、諸仏に護念され、阿耨多羅三藐三菩提に於いて不退転を得るからである。 

  【不退転於阿耨多羅三藐三菩提】:阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)とは、仏の境地ということです。 争いの無い理想の国土を建設する揺るぎない決意と、建設が成ったときの大いなる安心をいいます。 その決意に対して不退転となるのです。 前に出た阿鞞跋致と同じです。

  『是故舎利弗汝等皆当信受我語及諸仏所説』:この故に、舎利弗よ、お前たちは、わたしの語る言葉と諸仏の所説を、必ず信じなければならない。 わたしの語る言葉とは、この阿弥陀仏の国をということです。 理想の国土とは単なる理想にすぎないのではない、必ず現実に存在しているのだということです。

 

<2.2-10 願を発せ> (*11)

  若有人已發願。今發願‥‥發願生彼國土

  若有人已発願今発願当発願、欲生阿弥陀仏国者、是諸人等皆得不退転於阿耨多羅三藐三菩提、於彼国土若已生若今生若当生』:もしある人が、過去であろうと、未来であろうと、今であろうと、願を発して阿弥陀仏の国に生まれたいと欲するならば、この人は皆、阿耨多羅三藐三菩提に於いて不退転を得て、彼の国土に、過去であろうと、未来であろうと、今であろうと生まれるであろう。

  【生阿弥陀仏国】:ここで阿弥陀仏の国とことわってあるからには、阿弥陀仏の国に限定されると思ってはなりません。 理想の国であるならば、そこが何処であれ仏の国であり、阿弥陀仏の国であるからです。 今現在生きているこの国が将来の阿弥陀仏の国でもあるのです。

  『是故舎利弗、諸善男子善女人応当発願生彼国土』:この故に舎利弗よ、諸の善男子、善女人は必ず彼の国土に生まれたいと願わなければならないのである。 これを聞いたからには、誰でも当然彼の国に生まれたいと思うはずです。 まず、願を発すことから始めなくてはなりません。 聞いて信じ、その上で願います。 願わなくては何も始まらないのです。

<2.2-11 この難信の法を説く> (*12)

 如我今者稱讚諸佛‥‥是為甚難』 

  如我今者称讃諸仏不可思議功徳、彼諸仏等亦称説我不可思議功徳而作是言』:わたしが今、諸仏の不可思議の功徳を称讃するように、諸仏もまたわたしの不可思議の功徳を称讃してこう言っている。

  『釈迦牟尼仏能為甚難希有之事、能於娑婆国土五濁悪世、劫濁見濁煩悩濁衆生濁命濁中、得阿耨多羅三藐三菩提、為諸衆生説是一切世間難信之法』:釈迦牟尼仏はよく甚だ困難な希有の事を成し遂げた。 この娑婆国土の五濁(ごじょく)の悪世に於いて、劫濁、見濁、煩悩濁、衆生濁、命濁の中で、よく阿耨多羅三藐三菩提を得て、諸の衆生の為に、一切の世間の人の信じ難い法を、よく説くことができたと。 信じ難い法とは、阿弥陀仏の国土の事です。 また、阿弥陀仏の国土に於いて生まれたいと願え、そうすれば阿耨多羅三藐三菩提に於いて不退転を得て、彼の国に生まれるであろうという事です。

  【娑婆国土】:我々が現実に住んでいるこの世界を娑婆(しゃば)といいます。 娑婆は訳して忍土(にんど)といいます。 耐え忍んで活きるという意味です。

  【五濁悪世】:この娑婆は五つの濁りによって耐え難いものとなっています。 (1)劫濁(こうじょく):世界もまた生滅を繰り返します。 そして汚れのない澄んだ世界から、穢れに濁った世界に向かいます。 (2)見濁(けんじょく):世界が濁れば、間違った見解が幅をきかせます。 因果の道理が信じられなくなるのです。 (3)煩悩濁(ぼんのうじょく):因果を信じず、代りに貪欲、瞋恚、嫉妬が人の心の中に住み着きます。 (4)衆生濁(しゅじょうじょく):その結果、人としての能力が弱まり、福は少なく苦が多くなります。 (5)命濁(みょうじょく):寿命も短くなります。

  【此難信之法】:何が信じ難いのか。 極楽国土が信じ難い、それを成し遂げたことが信じ難い、即ち因果の理法が信じ難い。 信じ難くても信じなければなりません。

  『舎利弗、当知我於五濁悪世行此難事、得阿耨多羅三藐三菩提、為一切世間説此難信之法、是為甚難』:舎利弗よ、これを知っているか、五濁の悪世に生まれて、この難事を行い、阿耨多羅三藐三菩提を得て、一切の世間のためにこの信じ難い法を説くということは、甚だ困難なことであるということを。

 

  仏は、この経を説きおわられた。 舎利弗と諸の比丘たちと、一切の世間の天人阿修羅等は、仏の所説を聞いて歓喜し、信じ受入れて礼をして去った。

 

<2.3 まとめ>

  以上を簡単にまとめてみますと、ここより西方に十万億土を過ぎた所に、阿弥陀仏の極楽国土があり、そこでは、まさに一切の理想が成し遂げられている。 それは実に一切の諸仏の称讃する所であり、人は皆、そこに生まれようと願わなくてはならない。

  さて、そこに生まれる方法であるが、ある善男子善女人が、阿弥陀仏の事を聞いて、その名号を、一日でも、二日でも、‥‥七日でも、一心不乱に執持(しゅうじ)して忘れなければ、その人の命が終るとき、阿弥陀仏が迎えに来てくれるだろう。

  そこに生まれることができれば、諸の上善の人に出会うことができるのであるから、是非それを願わなくてはならない。 これが、この経の要旨です。

  更に要約すれば、理想の国土は現実に存在する、それを信じよ。 これがこの経の主旨です。 しかしただそれだけでしょうか。 理想の国土が現実に存在しているものならば、われわれは、当然、この娑婆国土も理想の国土にしたいと願わなくてはなりません。 その為には何をすればよいか。 次ぎに解説する無量寿経では、むしろその事に重点が置かれています。

 

  この経は無量寿経の主旨を要約したとも言えるものですが、またあえて非を怖れず、この経を譬えてみますと映画のパンフレットに似ています。 特に東西南北上下のそれぞれ恒沙の世界の諸仏が口をそろえて絶賛するあたりは、特にその感を受けます。

     阿弥陀経解説 終り

 

仏説無量寿経上巻

  

  

  

 

 

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