問曰。佛以何因緣故。說摩訶般若波羅蜜經。諸佛法不以無事及小因緣而自發言。譬如須彌山王不以無事及小因緣而動。今有何等大因緣故。佛說摩訶般若波羅蜜經 |
問うて曰(いわ)く、仏は何の因縁を以っての故(ゆえ)にか、摩訶般若波羅蜜経を説きたもうや。諸仏の法は、事無きと、小因縁を以ってしては、自(みずか)ら発言したまわず。譬(たと)えば須弥山王は、事無きと、及び小因縁を以って、動かざるが如(ごと)し。今、何等の大因縁有るが故に、仏は、摩訶般若波羅蜜を説きたもうや。 |
問い、
『仏』は、
何の、
『因縁』の故に、
『摩訶般若波羅蜜経』を、
『説かれたのですか?』。
諸の、
『仏の法( やりかた)』では、
『事件の無い!』時と、
『因縁の小さい!』時には、
自ら、
『言(ことば)』を、
『発しられません!』。
譬えば、
『須弥山王』が、
『事件の無い!』時と、
『因縁の小さい!』時には、
『動かない!』のと、
『同じです!』。
今、
何のような、
『大因縁』の故に、
『仏』は、
『摩訶般若波羅蜜』を、
『説かれるのですか?』。
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因縁(いんねん):原因、理由。わけ。『大智度論巻32上注:四縁、六因、因縁』参照。
法(ほう):[ヒンズー教/仏教の]法/徳/守るべき軌範( dharma )、梵語 dharma の訳、文脈により種種の語に訳される( Rendered
into English variously according to the context )、例えば真理/現実/事物/現象/要素/成分/精神的要素/特質である(
as: truth, reality; thing, phenomenon, element, constituent, (mental) factor;
quality )。◯「dharma」の語は元と印度語の動詞語幹 √(dhR) より派生し、「保存する/維持する/保つもの」の意を有し、特に「人の活動を保存/維持するもの」の意を有する(
The word dharma is originally derived from the Indic root dhr, with the
meaning of 'that which preserves or maintains,' especially that which preserves
or maintains human activity )。◯仏教に於いては此の語は、広範なる意味を有すると雖も、主要な意味は、仏によって伝えられた、完全に真実に一致する教訓/学説である(
The term has a wide range of meanings in Buddhism, but the foremost meaning
is that of the teaching delivered by the Buddha, which is fully accordant
with reality )。従って真理/真実/真実の原理/法則でもあり( Thus, truth, reality, true principle,
law (Skt. satya) )、完全な宗教としての仏教を暗示する。法は、三宝の第二でもある( It connotes Buddhism
as the perfect religion. The Dharma is also the second component among
the Three Treasures (triratna) 佛法僧 )、そしてそれは法身という観念に於いて、西洋の「霊的」の意に近似している(
and in the sense of dharmakāya 法身 it approaches the Western idea of 'spiritual.'
)。◯それは一切の事物、或いは何か小/大、可見/不可見、真実/不実の事物、現象、真実、原理、方式、有形の物/抽象的な概念等の意味に於いて使用される(
It is used in the sense of 一切 all things, or anything small or great, visible
or invisible, real or unreal, affairs, truth, principle, method, concrete
things, abstract ideas, etc. )。◯法は、実体を有し、それ自身の性質を帯びるものとして説明され( Dharma is
described as that which has entity and bears its own attributes )、特性/特質/性質/要因等の意味に於いて、此の語は、一般に印度の学問的著述に於いて、認識可能な全般的体験の有らゆる詳細を述べることに使用されている(
It is in the sense of attribute, quality, characteristic quality, factor,
etc. that this term is commonly used in Indian scholastic works to fully
detail the gamut of possible cognitive experiences )。◯阿毘曇学派の説一切有部等は、七十五法を列挙し、一方瑜伽唯識派では体験的世界の事象を百種の現象[百法]として分類する(
Abhidharma schools such as Sarvâstivāda enumerated seventy-five dharmas
七十五法, while the Yogâcāra school categorized the events of the experiential
world into one hundred types of phenomena 百法 )。唯識は、二乗[声聞/縁覚]の修行者に於いては、是れ等の法に於ける自性の欠如が、正しく認識されていないと主張している(
Yogâcāras argued that the lack of inherent identity in these dharmas is
not duly recognized by the practitioners of the two vehicles 二乘 )。◯六種の認識される対象[六塵]中に於いて、法は、思考的意識[意識]の対象としての概念に等しい(
Among the six cognitive objects 六塵, dharmas are equivalent to 'concepts,'
being the objects of the thinking consciousness 意識 )。[漢語としての]法には、その他にも慣習/習癖/標準的習性/社会的秩序等の意味を有する(
Other meanings include: custom, habit, standard of behavior; social order
)。
発言(ほつごん):言をおこす。発言する。
須弥山王(しゅみせんおう):須弥sumeruは梵語。世界の中央に聳立する大高山の名。山の中の王につき須弥山王と称す。『大智度論巻9上注:須弥山』参照。 |
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答曰。佛於三藏中廣引種種諸喻。為聲聞說法不說菩薩道。唯中阿含本末經中。佛記彌勒菩薩。汝當來世當得作佛號字彌勒。亦不說種種菩薩行。佛今欲為彌勒等廣說諸菩薩行是故說摩訶般若波羅蜜經 |
答えて曰く、仏は、三蔵中に広く種種諸の喩を引き、声聞の為に、法を説きたまえるも、菩薩道を説きたまわず。唯だ中阿含本末経中に、仏は、弥勒菩薩を、『汝は当来の世に、当に仏と作るを得て、号を弥勒と字(な)づくべし』と記したまえるも、亦た種種の菩薩行を説きたまわざれば、今、弥勒等の為に、広く諸の菩薩行を説かんと欲して、是の故に、摩訶般若波羅蜜経を説きたまえり。 |
答え、 ――弥勒等の為に菩薩行を説く――
『仏』は、
『三蔵』中に、
種種に、
諸の、
『喻( たとえ)』を、
『引き!』、
『声聞』の為に、
『法』を、
『説かれた!』が、
『菩薩』の、
『道』は、
『説かれなかった!』。
唯だ、
『中阿含本末経』中に、
『仏』は、
『弥勒菩薩』に、
『記』を、こう授けられたが、――
お前は、
未来の世に、
『仏』と、
『作(な)り!』、
『号』を、
『弥勒』と、
『呼ばれるだろう!』、と。
亦た、
種種の、
『菩薩』の、
『行』は、
『説かれなかった!』ので、
『仏』は、
今、
『弥勒等の菩薩』の為に、
広く( くわしく)、
諸の、
『菩薩の行』を、
『説こう!』と、
『思い!』、
是の故に、
『般若波羅蜜経』を、
『説かれたのである!』。
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当来世(とうらいのよ):未来世に同じ。
声聞(しょうもん):仏の教を直に聞く者の意。即ち小乗を奉ずる仏教信者。『大智度論巻7上注:声聞』参照。
三蔵(さんぞう):小乗法宝を経蔵、律蔵、論蔵の三蔵に分類せしもの。梵語triiNi piTakaaniの訳。巴梨語tiiNi piTakaani、三種の摂蔵の意。(一)仏教の聖典を三種に類摂せしもの。又三法蔵とも名づく。一に素呾䌫蔵suutraanta-piTaka(巴梨語suttanta-piTaka)、二に毘奈耶蔵vinaya-p.(巴同じ)、三に阿毘達磨蔵abhidharma-p.(巴abhidhamma-p.)なり。又修多羅蔵毘尼蔵阿毘曇蔵に作り、訳して経蔵律蔵論蔵、或いは契経蔵調伏蔵対法蔵と云い、又阿毘達磨蔵を摩得勒伽maatRkaa、或いは鄔波題鑠upadeza(巴梨語upadesa)と名づく。「増一阿含経巻2」に、「契経と律と法とを三蔵となす」と云い、「十誦律巻60」に、「我等今応に一切の修妒路、一切の毘尼、一切の阿毘曇を集むべし」と云い、「大智度論巻100」に、「摩訶迦葉は諸の比丘を将いて、耆闍崛山の中に在りて三蔵を集む」と云い、「分別功徳論巻1」に、「首陀会天は密かに阿難に告げて曰わく、正に当に三分と作すべきのみと。即ち天の所告の如く判じて三分と作す、一分は契経、二分は毘尼、三分は阿毘曇なり」と云える是れなり。蓋し此の三蔵は能詮の教門にして、即ち戒定慧の三学を詮す。故に「大毘婆沙論巻1」に、「若し増上心論道に依らば是れ素怛䌫なり、若し増上戒論道に依らば是れ毘捺耶なり、若し増上慧論道に依らば是れ阿毘達磨なり。(中略)有るが是の説を作す、素怛䌫の中、増上心論道に依るは是れ素怛䌫なり。増上戒論道に依るは即ち毘捺耶なり、増上慧論道に依るは即ち阿毘達磨なり。毘捺耶の中、増上戒論道に依るは是れ毘捺耶なり。増上心論道に依るは即ち素怛䌫なり、増上慧論道に依るは即ち阿毘達磨なり。阿毘達磨の中、増上慧論道に依るは是れ阿毘達磨なり、増上心論道に依るは即ち素怛䌫なり、増上戒論道に依るは即ち毘捺耶なり」と云えり。此の中、前説は心即ち定を素怛䌫、戒を毘奈耶、慧を阿毘達磨となせるものにして、即ち増勝に約して三蔵は各一学を詮すとなし、後説は剋性門の意に依り、三蔵各三学を詮すとなせるものなり。又「大乗阿毘達磨蔵集論巻11」には、「三種の学を開示せんと欲するが為の故に素怛䌫蔵を建立す。所以は何ぞ、要ず此の蔵に依りて所化の有情は三学を解了す、此の蔵の中に広く三種の所修学を開するに由るが故なり。増上戒学、増上心学を成立せんと欲するが為の故に毘奈耶蔵を建立す。要ず此の蔵に依りて二の増上学方に成立することを得。所以は何ぞ、広く別解脱律儀の学道を釈する聖教を所依止と為して、方に能く浄尸羅を修治するが故なり。浄尸羅は無悔等を生ずるに依りて、漸次に修学して心に定を得るが故なり。増上慧学を成立せんと欲するが為の故に阿毘達磨蔵を建立す。要ず此の蔵に依りて増上慧学方に成立することを得。所以は何ぞ、此の蔵中に能く広く諸法を簡択する巧方便を開示するが故なり」と云えり。是れ素怛䌫は戒定慧の三を詮し、毘奈耶は戒定の二を詮し、阿毘達磨は唯慧を詮すとなすの説なり。「大乗荘厳経論巻4」に出す所亦た之に同じ。「大乗起信論義記巻上」に依るに、若し剋性門に依らば三蔵各一学を詮す、今の「雑集論」の所説の如きは即ち兼正門に依る。経は寛きを以っての故に三を具し、律は次なれば二を具し、論は狭きが故に唯だ一なり。又是れ本末門の意なり。即ち経は是れ本、余の二は次第に末なりと云えり。以って其の説の趣旨を見るべし。又「大毘婆沙論巻1」に依るに、三蔵は其の所顕等流等亦た各異あることを説き、所謂素怛䌫は次第の所顕、毘捺耶は縁起の所顕、阿毘達磨は性相の所顕なり。又素怛䌫は是れ力の等流、毘捺耶は是れ大悲の等流、阿毘達磨は是れ無畏の等流なり。又種種雑説するは是れ素怛䌫、諸の学処を説くは是れ毘捺耶、諸法の自相共相を分別するは是れ阿毘達磨なりと云い、更に広く多種の差別を説けり。又「大乗荘厳経論巻4」には、九因あるが故に三蔵の別を立つとす。彼の文に「三を成ずるに九因あり、修多羅を立つるは疑惑を対治せんが為なり。若し人あり、義に於いて処処に疑を起こさば、彼の人をして決定を得しめんが為の故なり。毘尼を立つるは受用の二辺を対治せんが為なり。楽行の辺を離れんが為に有過の受用を遮し、苦行の辺を離れんが為に無過の受用を聴す。阿毘曇を立つるは自心の見取を対治せんが為なり、不倒の法相は此れ能く示すが故なり。復た次ぎに修多羅を立つるは三学を説かんが為なり、毘尼を立つるは戒学心学を成ぜんが為なり、持戒に由るが故に不悔なり、不悔に由るが故に随次に定を得るなり。阿毘曇を立つるは慧学を成ぜんが為なり、不顛倒の義は此れ能く択ぶが故なり。復た次ぎに修多羅を立つるは正しく法及び義を説かんが為なり、毘尼を立つるは謂わく法及び義を成就し、勤方便に由りて煩悩滅するが故なり。阿毘曇を立つるは法及び義に通達せんが為なり、種種の簡択に由りて此れを方便と為すが故なり。此の九因に由るが故に三蔵を立つ」と云える是れなり。「唐訳摂大乗論釈巻1」に出す所亦た略ぼ之に同じ。又此の三蔵は、元と小乗声聞法の中の分類なりしが如きも、後大乗菩薩法の中にも亦た其の別ありとなすに至れり。「法華経巻5安楽行品」に、「貪著小乗三蔵学者」と云い、「大智度論巻100」に、「仏口の所説は、文字語言を以って分って二種と為す、三蔵は是れ声聞法、摩訶衍は是れ大乗法なり」と云えるは、共に三蔵を以って小乗声聞法の中の分類となすの説なり。然るに「大乗荘厳経論巻4」、「唐訳世親摂大乗論釈巻1」等には、此の三蔵は下上乗の差別に由るが故に、復た説いて声聞蔵及び菩薩蔵の二となすと云い、「大乗法苑義林章巻2本」に、上下乗を分たば以って六蔵を成ずと云い、又「大乗起信論義記巻上」に、彼の声聞鈍根下乗の法執分別に依るが為に、三蔵を施設して声聞の理行果等を詮示するを声聞蔵と名づけ、諸の菩薩利根上乗の三無性二無我智に依るが為に、三蔵を施設して菩薩の理行位果を詮示するを菩薩蔵と名づくと云えり。此等は大乗菩薩蔵にも亦た三蔵ありとなすの説なり。但し「大智度論巻100」に仏在世の時には三蔵の名あることなく、但だ修多羅を持する比丘、毘尼を持する比丘、摩多羅伽を持する比丘あるのみと云うに依れば、三蔵の名は仏滅後に於いて起りたるものなるを知るべし。蔵の字義に関しては、「大乗荘厳経論巻4」、「唐訳摂大乗論巻1」等に摂の義とし、即ち一切所応知の義を摂するが故に蔵と名づくと云うも、覚音の説に依れば、蔵はpariyatti即ち諳記されたるもの、又はbhaajana即ち器の義なりと云えり。諳記されたるものとは、三蔵は元と筆録せられたるものに非ず、即ち諳誦の法を以って師資口伝したることを意味し、又器とは所応知の義を容受するの意に取れるものなり。「文殊師利普超三昧経巻中」に、「菩薩蔵とは無量の器と名づく。(中略)無限の施聞戒定慧度知見の器たり。故を以って名づけて菩薩筺蔵と曰う」と云えるは、即ち亦た器の義に約して蔵を解したるなり。又「雑阿含経巻35」、「増一阿含経巻1」、「四分律巻58」、「毘尼母経巻3」、「善見律毘婆沙巻1」、「迦葉結経」、「阿育王伝巻4」、「大智度論巻2」、「瑜伽師地論巻25、81、85」、「顕揚聖教論巻6」、「大乗阿毘達磨集論巻6」、「長阿含経序」、「出三蔵記集巻1」、「大乗義章巻1」、「維摩経義記巻1」、「金剛般若波羅蜜経略疏巻上」、「盂蘭盆経疏巻上」、「大唐西域記巻9」、「倶舎論光記巻1」等に出づ。(二)三乗の人に約して教法を三種に類摂せるもの。一に声聞蔵、二に縁覚蔵、三に菩薩蔵なり。「文殊師利普超三昧経巻中三蔵品」に、「菩薩に斯の三の筺要蔵あり、何をか三と謂う、一に曰わく声聞、二に曰わく縁覚、三に曰わく菩薩蔵なり。声聞蔵とは他の音響を承けて而も解脱を得。縁覚蔵とは縁起十二の所因を暁了し、報応因起の所尽を分別す。菩薩蔵とは無量諸法の正義を綜理し、自ら覚を分別す」と云い、「入大乗論巻上」に、「此の大乗の中に亦た三乗を説くを即ち三蔵と名づく。菩薩蔵経の中に説くが如き、仏阿闍世王に告ぐ、族姓子、蔵に三種あり、何等をか三となす、謂わく声聞蔵、辟支仏蔵、菩薩蔵なり」と云える是れなり。是れ即ち声聞の理行果等を詮示するを声聞蔵と名づけ、縁覚の理行果を詮示するを縁覚蔵、又は辟支仏蔵と名づけ、菩薩の理行果等を詮示するを菩薩蔵と名づけたるなり。又「阿闍世王経巻下」、「大乗義章巻1」、「大乗法苑義林章巻2本」、「大乗起信論義記巻上」、「縁覚経大疏巻2上」等に出づ。<(望) |
参考:『中阿含巻13説本経』:『佛復告曰。彌勒。汝於未來久遠人壽八萬歲時。當得作佛。名彌勒如來.無所著.等正覺.明行成為.善逝.世間解.無上士.道法御.天人師。號佛.眾祐。猶如我今如來.無所著.等正覺.明行成為.善逝.世間解.無上士.道法御.天人師。號佛.眾祐。汝於此世。天及魔.梵.沙門.梵志。從人至天。自知自覺。自作證成就遊。猶如我今於此世。天及魔.梵.沙門.梵志。從人至天。自知自覺。自作證成就遊。汝當說法。初妙.中妙.竟亦妙。有義有文。具足清淨。顯現梵行。猶如我今說法。初妙.中妙.竟亦妙。有義有文。具足清淨。顯現梵行。汝當廣演流布梵行。大會無量。從人至天。善發顯現。猶如我今廣演流布梵行。大會無量。從人至天。善發顯現。汝當有無量百千比丘眾。猶如我今無量百千比丘眾』 |
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復次有菩薩修念佛三昧。佛為彼等欲令於此三昧。得增益故。說般若波羅蜜經。如般若波羅蜜初品中說。佛現神足放金色光明。遍照十方恒河沙等世界。示現大身清淨光明種種妙色滿虛空中。佛在眾中端正殊妙無能及者。譬如須彌山王處於大海。諸菩薩見佛神變。於念佛三昧倍復增益。以是事故。說摩訶般若波羅蜜經 |
復(ま)た次ぎに、有る菩薩は念仏三昧を修むれば、仏は彼等の為に、此(こ)の三昧に於(お)いて、増益を得しめんと欲するが故に、般若波羅蜜を説きたまえり。般若波羅蜜初品中に説くが如し。仏は、神足を現わして、金色の光明を放ち、遍く十方の恒河沙等の世界を照らして、大身を示現したまえるに、清浄の光明、種種の妙色、虚空中に満てり。仏は、衆中に在りて、端正殊妙なること、能く及ぶ者無し。譬えば須弥山王の大海に於いて処するが如し。諸の菩薩は、仏の神変を見て、念仏三昧に於いて、倍して復た増益す。是を以っての故に、摩訶般若波羅蜜を説きたまえり。 |
復( ま)た次に、 ――菩薩の念仏三昧を増益する――
有る、
『菩薩』は、
『仏』は、
彼等の為に、
此の、
『三昧』を、
『増益させよう!』と、
『思われた!』が故に、
『般若波羅蜜経』を、
『説かれた!』。
例えば、
『般若波羅蜜経初品』中に、こう説く通りである、――
『仏』は、
『神足( 神通力)』を、
遍く、
『十方』の、
『恒河の沙( すな)』に、
『等しい!』ほどの、
『世界』を、
『照らして!』、
『大身』を、
『示現される!』と、
『清浄』な、
『光明』と、
『種種の名色』とが、
『虚空』中を、
『満たした!』。
『仏』は、
『衆( 僧)』中に、
『居られる!』時、
『端正であり!』、
『殊妙であり!』、
『衆』中に、
『及ぶことのできる!』者が、
『無い!』のは、
譬えば、
『須弥山』が、
『大海』中に、
『聳え立つ!』のと、
『同じである!』。
諸の、
『菩薩』は、
『仏』の、
『神変(神通の変化)』を、
『見て!』の、
『念仏三昧』が、
『前に倍して!』、
『増益した!』、と。
是の、
『事』の故に、
『仏』は、
『摩訶般若波羅蜜』を、
『説かれたのである!』。
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増益(ぞうやく):ふやしてくわえる。増加。
神足(じんそく):五神通の一。身を以って不思議を現わす。『大智度論巻16下注:五通』参照。
十方恒河沙等世界(じっぽうのごうがしゃにひとしきせかい):十方は東西南北、東南、南西、西北、北東、及び上下を指し、十方のガンジズ河の底の砂粒の数に等しい世界の意。
大身(だいしん):仏の身量は無限であり、宇宙をも凌ぐことを云う。
示現(じげん):示して見せる。
妙色(みょうしき):すばらしい肉体。
端正殊妙(たんじょうしゅみょう):正しくととのい特別すばらしい。
念仏三昧(ねんぶつさんまい):「一心に仏を念じる」という三昧/定の名。『大智度論巻1上注:念仏、大智度論巻17下注:定、同注:三摩鉢底、巻20上注:三昧』参照。
念仏(ねんぶつ):梵語buddhaanusmRtiの訳。巴梨語buddhaanussati、仏を憶念するの義。転じて又仏の相好等を念観し、或いは仏の名号を唱うるの意に用いらる。「雑阿含経巻33」に六念の中の念仏を説き、「聖弟子は如来の事を念ずべし、如来は応等正覚明行足善逝世間解無上士調御丈夫天人師仏世尊なりと。聖弟子是の如く念ずる時、貪欲纏を起こさず、瞋恚と愚癡心を起こさず。其の心正直にして如来の義を得、如来の正法を得、如来の正法に於いて、如来の所に於いて随喜の心を得、随喜の心已りて歓悦し、歓悦已りて身猗息し、身猗息し已りて楽を覚受し、楽を覚受し已りて其の心定まり、心定まり已らば、彼の聖弟子は兇嶮の衆生の中に於いて諸の罣閡なく、法流水に入りて乃ち涅槃に至らん」と云えり。是れ仏は十号具足の応等正覚者なりと念ずる時、貪瞋癡起らず、其の心正直にして乃至定を得、無漏の法水に入りて遂に涅槃に至るべきことを説けるものなり。又「増一阿含経巻2広演品」に十念の中の念仏を明かし、「若し比丘あり、正身正意にして結跏趺坐し、繋念前に在りて他想あることなく、専精に仏を念じ、如来の形を観じて未だ目を離さざれ。已に目を離れずんば便ち如来の功徳を念ぜよ。如来の体は金剛の所成にして、十力具足し四無所畏あり、衆に在りて勇健なり。如来の顔貌は端正無双にして、之を視るも厭くことなし。戒徳成就し、猶お金剛の如くにして毀るべからず、清浄にして瑕なく亦た琉璃の如し。如来の三昧は未だ始めより減あらず、已息永寂して他念なく、憍慢強梁の諸情憺怕にして、欲意恚想愚惑の心、猶豫網結皆尽く除尽す。如来の慧身は、智に崖底なく罣礙する所なし。如来の身は解脱成就し、諸趣已に尽きて、復た生分の我れ当に更に生死に堕すべしと言うものなし。如来の身は知見城を度り、他人の根の応度不度、此生死彼周旋往来生死の際を知り、解脱ある者解脱なき者、皆具に之を知ると。是れを念仏を修行せば便ち名誉あり、大果報を成じて諸善普く具し、甘露味を得て無為処に至り、便ち神通を成じて諸の乱想を除き、沙門果を獲て自ら涅槃に致ると謂う」と云えり。是れ即ち如来の相好を観じ、並びに其の十力四無所畏、及び戒定慧解脱解脱知見の五分法身の功徳を念ずるを念仏と名づけ、之を修行することによりて遂に四沙門果を得、自ら涅槃に到るべしとなすの意なり。又「長阿含巻5闍尼沙経」には、優婆塞の人が念仏して天上に生じたることを説き、「我れ本人王たりし時、如来の法の中に於いて優婆塞と為り、一心に仏を念じて命終を取る。故に生じて毘沙門天王の太子と為ることを得たり」と云い、又「増一阿含経巻32力品」に、「衆生は身口意に悪を行ずるも、彼れ若し命終に如来の功徳を憶せば、三悪趣を離れて天上に生ずることを得ん。正使い極悪の人も天上に生ずることを得ん」と云い、「那先比丘経」に、「王又那先に問う、卿曹沙門言わく、人は世間に在りて悪を作りて百歳に至るも、死せんと欲する時に臨みて仏を念ぜば、死後に皆天上に生ずと。我れ是の語を信ぜず。(中略)那先言わく、船中の百枚の大石は船に因るが故に没するを得ず、人に本悪ありと雖も一時念仏すれば、是れを用いて泥犁の中に入らず、便ち天上に生ず」と云えり。此等は念仏の功によりて生天を得となすの説なり。又「般舟三昧経」には念仏三昧の法を説き、一心に他方現在の仏を念じ、仏に三十二相及び巨億の光明あり、衆の中に在りて説法しつつありと念ぜば、定中に於いて彼の仏を見、亦た其の国に往生することを得べしとなせり。「般舟三昧経行品」に、「何の法を以って此の国に生ずることを得るや。阿弥陀仏報えて言わく、来生せんと欲せば当に我が名を念ずべし、休息あることなくんば則ち来生することを得んと。仏言わく、専念の故に往生することを得、常に仏身に三十二相八十種好あり、巨億の光明徹照し、端正無比にして菩薩の中に在りて説法するを見ん。(中略)仏を念ずるを用いての故に是の三昧を得」と云える即ち其の説なり。又「大阿弥陀経巻下」に、「至誠に願じて阿弥陀仏国に往生せんと欲し、常に念じて至心に断絶せずんば、其の人便ち今世に於いて道を求むる時、即ち自然に其の臥止夢中に於いて阿弥陀仏及び諸の菩薩阿羅漢を見、其の人寿命終らんと欲する時、(中略)則ち阿弥陀仏国に往生せん」と云い、「旧華厳経巻7賢首品」に、「念仏三昧は必ず見仏し、命終の後仏前に生ず。彼の臨終を見ては念仏を勧め、又尊像を示して瞻敬せしめよ」と云い、「同巻20金剛幢菩薩十廻向品」に、「正しく三世一切の諸仏を念ぜば、念仏三昧悉く具足することを得ん」と云い、又「文殊師利所説摩訶般若波羅蜜経巻下」に、「一行三昧に入らんと欲せば、応に空閑に処して諸の乱意を捨て、相貌を取らず、心を一仏に繋けて専ら名字を称すべし。仏の方所に随って端身正向し、能く一仏に於いて念念相続せば、即ち是の念中に能く過去未来現在の諸仏を見ん」と云えるは、皆即ち般舟三昧見仏の法を説けるものなり。又「旧華厳経巻46入法界品」には、功徳雲比丘が善財童子の所問に対し、菩薩の要行として、円満普照念仏三昧門、一切衆生遠離顛倒念仏三昧門、一切力究竟念仏三昧門、諸法中心無顛倒念仏三昧門、分別十方一切如来念仏三昧門、不可見不可入念仏三昧門、諸劫不顛倒念仏三昧門、随時念仏三昧門、厳浄仏刹念仏三昧門、三世不顛倒念仏三昧門、無壊境界念仏三昧門、寂静念仏三昧門、離月離時念仏三昧門、広大念仏三昧門、微細念仏三昧門、莊嚴念仏三昧門、清浄事念仏三昧門、浄心念仏三昧門、浄業念仏三昧門、自在念仏三昧門、虚空等念仏三昧門の二十一種の念仏三昧を示したることを記せり。蓋し念仏三昧には仏の名号を念じ、仏の色身相好を念じ、仏の法身を念じ、又諸法実相を念ずる等の別あり。「大智度論巻21」に念仏を修する次第を説き、初に仏の十号を念じ、次に仏の三十二相八十随形好及び神通功徳力を念じ、次に仏の戒定慧解脱解脱知見の五分法身を念じ、次に復た仏の一切智一切智見大慈大悲十力四無所畏四無礙智十八不共法等を念ずべしと云い、又「十住毘婆沙論巻12助念仏三昧品」には、「新発意の菩薩は応に三十二相を以って仏を念ずべし、先に説くが如し。転た深入して中勢力を得ば、応に法身を以って仏を念ずべし。心転た深入して上勢力を得ば、応に実相を以って仏を念じて貪著せざるべし。(中略)是の人は未だ天眼を得ざるが故に、他方世界の仏を念ずるに則ち諸山の障礙あり、是の故に新発意の菩薩は応に十号の妙相を以って仏を念ずべし。(中略)十号の妙相とは、所謂如来応供正遍知明行足善逝世間解無上士調御丈夫天人師仏世尊なり。(中略)是の人、名号を縁ずるを以って禅法を増長し、則ち能く相を縁ず。是の人、爾の時即ち禅法に於いて相を得、所謂身に殊異の快楽を得ん。当に知るべし、般舟三昧を成ずるを得たることを。三昧成ずるが故に諸仏を見ることを得」と云い、又「思惟略要法」にも、初に生身観法、次に法身観法を挙げ、後更に諸法実相観法を明かし、「諸法実相観とは、当に知るべし諸法は因縁より生ず、因縁生の故に自在を得ず、自在ならざるが故に畢竟空相なり。但だ仮名のみありて実なるものあることなし。若し法実に有らば無と説くべからず、先に有りて今無き、是れを名づけて断と為す。常ならず断ならず、亦た有無ならず、心識処滅し言説亦た尽く。是れを甚深清浄観と名づくるなり」と云えり。以って其の念の種別及び行修の次第を知るべし。又「摂大乗論巻下」には、法身を縁じて念仏を修習するに七種の相あることを明かし、世親の往生論には奢摩他、毘婆舎那の法によありて、阿弥陀仏及び其の浄土を観察すべきことを説き、智顗の著と伝うる「五方便念仏門」には、念仏に称名往生念仏三昧門、観相滅罪念仏三昧門、諸境唯心念仏三昧門、心境俱離念仏三昧門、性起円通念仏三昧門の五種の別ありとし、浄土往生を求むるには称名往生門、懼障を除かんとするには観相滅罪門、迷心執境を離れんとするには諸境唯心門、実有の計を除かんとするには心境俱離門、深寂滅を希う者は性起円通門に依りて各念仏を修すべしと云い、澄観の「華厳経疏巻56」にも亦た、縁境念仏門、摂境唯心念仏門、心境俱泯念仏門、心境無礙念仏門、重重無尽念仏門の五種の別を立て、宗密の「華厳経行願品別行疏鈔巻4」には、称名念、観像念、観想念、実相念の四種の念仏を出し、其の中、「文殊般若経」の説に基づきて相貌を取らず、専ら仏名を称念するを称名念とし、「大宝積経」等の説に基づき、塑画等の像を念観するを観像念とし、「観仏三昧経」、「坐禅三昧経」等に基づき、仏の相好を観ずるを観想念とし、「文殊般若」及び「占察」等の経に基づき、自身及び一切法の真実相を観ずるを実相念となせり。亦た懐感の「釈浄土群疑論巻7」には、有相無相の二種の念仏三昧を明かし、無相の念仏三昧を得んと欲せば法身仏を念じ、有相の念仏三昧を得んと欲せば報化身仏を念ずべしとし、源信の「往生要集巻下末」には、尋常の念相に定散有相無相の四種の別ありとし、坐禅入定して仏を観ずるを定業とし、行住坐臥に散心念仏するを散業とし、或いは相好を念じ、或いは名号を念じ、偏に穢土を厭いて浄土を求むるを有相業とし、仏を称念し浄土を欣求すと雖も、而も身土は畢竟空にして幻の如く夢の如く、復た空なりと雖も而も有なりと観じ、無二に通達して第一義に入るを無相業と名づくと云えり。又飛錫の「念仏三昧宝王論」には三世仏通念の法を説き、現在仏を念じて心を一境に専注し、過去仏を念じて、因果相同じきを知り、未来仏を念じて、一切衆生等同の想を起こすべきことを論じ、伝灯の「大仏頂首楞厳経円通疏巻5」には、念仏に念他仏、念自仏、自他俱念の三種の別あることを明かす等、諸師種種の念仏あるを説けり。又「中阿含巻55持斎経」、「増一阿含経巻14高幢品」、「放光般若経巻16漚和品」、「仏蔵経巻上念仏品」、「菩薩念仏三昧経巻4讃三昧相品」、「同正観品」、「十住毘婆沙論巻5易行品」、「同巻9念仏品」、「分別功徳論巻2」、「解脱道論巻6」等に出づ。<(望) |
参考:『大品般若経巻1』:『爾時世尊自敷師子座結跏趺坐直身繫念在前。入三昧王三昧一切三昧悉入其中。是時世尊。從三昧安詳而起。以天眼觀視世界舉身微笑。從足下千輻相輪中。放六百萬億光明。足十指兩踝兩[跳-兆+尃]兩膝兩髀腰脊腹脅背臍心胸德字。肩臂手十指。項口四十齒。鼻兩孔。兩眼兩耳。白毫相肉髻。各各放六百萬億光明。從是諸光出大光明。遍照三千大千國土。從三千大千國土。遍照東力如恒河沙等諸佛國土。南西北方四維上下亦復如是。若有眾生遇斯光者。必得阿耨多羅三藐三菩提。光明出過東方如恒河沙等諸佛國土。南西北方四維上下亦復如是。爾時世尊舉身毛孔。皆亦微笑而放諸光。遍照三千大千國土。復至十方如恒河沙等諸佛國土。若有眾生遇斯光者。必得阿耨多羅三藐三菩提。爾時世尊以常光明。遍照三千大千國土。亦至東方如恒河沙等諸佛國土。乃至十方亦復如是。若有眾生遇斯光者。必得阿耨多羅三藐三菩提。爾時世尊出廣長舌相。遍覆三千大千國土熙怡微笑。從其舌根放無量千萬億光。是一一光化成千葉金色寶花。是諸花上皆有化佛。結跏趺坐說六波羅蜜。眾生聞者必得阿耨多羅三藐三菩提。復至十方如恒河沙等諸佛國土皆亦如是。』 |
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復次菩薩初生時。放大光明普遍十方。行至七步四顧觀察。作師子吼。而說偈言
我生胎分盡 是最末後身
我已得解脫 當復度眾生
作是誓已身漸長大。欲捨親屬出家修無上道。 |
復た次ぎに、菩薩は、初めて生まるる時、大光明を放ちて十方を普遍し、行くこと七歩に至りて、四顧し観察して、師子吼を作し、而も偈を説いて言(のたま)わく、
我れ生じて胎分尽き、是れ最も末後の身なり、
我れ已に解脱を得て、当(まさ)に復た衆生を度すべし
是の誓を作(な)し已りて、身漸(ようや)く長大するに、親属を捨てて出家し、無上道を修めんと欲す。 |
復た次ぎに、 ――諸天の勧請を受けて、初の法輪を転じる――
『菩薩』は、
初めて、
『生まれた!』時、
『大光明』を、
『放って!』、
遍く、
『十方』を、
『照らし!』、
『行く( 歩く)!』こと、
『七歩』に、
『至り!』、
『四方』を、
『顧(かえり)みて!』、
『観察し!』、
『師子吼して!』、
『偈』を説き、こう言われた、――
わたしは、
『生まれて!』、
『胎の分(割り当て)』が、
『尽きた!』。
是れは、
『最も末後(最後)』の、
『身である!』。
わたしは、
已に、
『解脱』を、
『得た!』、
当然、
『衆生』を、
『度さねばならぬ!』、と。
是のように、
『誓って!』、
『身』が、
『暫く(やがて)!』、
『長大(成長)する!』と、
『親族』を、
『捨てて!』、
『出家し!』、
『無上の道』を、
『修めよう!』と、
『思われた!』。
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初生(しょしょう):生まれたばかりの。
普遍(ふへん):ひろくあまねくする。
四顧(しこ):四方をみまわす。
師子吼(ししく):如来の説法を師子王の一たび咆吼すれば百獣悉く懾伏するに喩える。『大智度論巻24下注:師子吼』参照。
偈(げ):四句を以って一章となす韻文。或いは歌。『大智度論巻4上注:偈』参照。
解脱(げだつ):生死の苦縛を解いて脱するの意。『大智度論巻18下注:解脱』参照。
度衆生(しゅじょうをどす):度はわたす。渡に同じ。大乗、即ち大きな乗り物に載せ、苦の河を渡すの意。
長大(ちょうだい):成長する。
無上道(むじょうどう):この上ない道。 |
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中夜起觀見諸伎直后妃婇女狀若臭屍。即命車匿令被白馬。夜半踰城行十二由旬。到跋伽婆仙人所住林中。以刀剃髮。以上妙寶衣貿麤布僧伽梨。於泥連禪河側六年苦行。日食一麻或食一米等。而自念言。是處非道。 |
中夜に起きて、諸伎、直の后妃、婇女の状(さま)を見るに、臭屍の若(ごと)し。即ち車匿に命じて、白馬を被(おお)わしめ、夜半に城を踰(こ)え、行くこと十二由旬にして、跋伽婆仙人の住する所の林中に到り、刀を以って剃髪し、上妙の宝衣を麁布の僧伽梨に貿(か)え、泥連禅河の側(ほとり)に於(お)いて六年苦行し、日に一麻を食し、或いは一米等を食して、自ら念じて言わく、『是の処は、道に非ず』と。 |
『中夜( 真夜中)』に、
『起きて!』、
『観察する!』と、――
諸の、
『伎(俳優)』や、
直( とのい)の、
『后妃』や、
『婇女』の、
『状(さま)』は、
『臭い!』、
『屍(しかばね)』を、
『見るようであった!』。
『即座に!』、
『車匿( 御者の名)』に、
『命じて!』、
『白馬』に、
『鞍』を、
『被(お)かせ!』、
『夜半』に、
『城』を、
『踰( こ)えて!』、
『行く!』こと、
『十二由旬(由旬≒10㎞)』、
『婆伽婆仙人』の、
『住する!』、
『林』中に、
『到る!』と、
『刀』を、
『上妙の宝衣』を、
『粗布の法衣』と、
『交換して!』、
『尼連禅河の側( ほとり)』で、
『六年』、
『苦行して!』、
或は、
『日ごと!』に、
『一粒の米』等を、
『食っていた!』が、
自ら、
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中夜(ちゅうや):初夜、中夜、後夜の真ん中。真夜中頃を指す。
伎(ぎ):わざおぎ。歌舞、演劇等に従事する俳優。
直(じき):とのい。宿直。
后妃(こうひ):きさき。皇后。
婇女(さいにょ):うねめ。天子の御膳を給仕する官女。
臭屍(しゅうし):くさいかばね。
車匿(しゃのく):馭者の名。『大智度論巻33上注:車匿』参照。
由旬(ゆじゅん):梵語yojana、巴梨名同じ。又兪旬、由延、踰繕那、瑜膳那、踰闍那に作り、合、和合、応、限量、一程、或いは駅と訳す。印度の里程の名。蓋し梵語yojanaは「軛を附する」の義なる語根yujより来たれる名詞にして元と軛を牡牛に附載して一日に旅行しうる里程を指せるものなるが如し。然るに其の計数に関し異説あり。「有部毘奈耶巻21」、「大毘婆沙論巻136」、「倶舎論巻12」、「順正理論巻32」、「阿毘達磨蔵顕宗論巻17」、「彰所知論巻上器世界品」等には八拘盧舎を以って一由旬となし、「方広大荘厳経巻4現藝品」、「摩登迦経巻下明時分別品」、「摩訶僧祇律巻9」等には四拘盧舎を以って一由旬となせり。又之を支那の里数に配するにも多説あり。即ち「薩婆多毘尼毘婆沙巻5」には四十里を一由旬とし、「注維摩詰経巻6」には僧肇の説を挙げ、「由旬は天竺の里数の名なり。上由旬は六十里、中由旬は五十里、下由旬は四十里なり」と云えり。是れ旧訳の所謂四十里一由旬の説なり。又「大唐西域記巻2」に、「踰繕那とは古より聖王の一日軍行なり。旧に一踰繕那は四十里なりと伝う。印度の国俗には乃ち三十里、聖教に載する所は惟だ十六里なり。窮微の数は一踰繕那を分ちて八拘盧舎と為す」と云い、「慧苑音義巻下」に、「仏本行集経巻12」の文を引き、「計するに一由旬は合一十七里余二百八十歩あり」と云えり。是れ一由旬は十六里或いは十七里余に当るとなすの説なり。又義浄の「有部百一羯磨巻3」の挟註に、「瑜膳那と言うは既に正翻なし。義は東夏の一駅に当りて三十余里なるべし。旧に由旬と云うは訛略なり。若し西国の俗法に準ぜば四俱盧舎を一瑜膳那と為す。一俱盧舎を計るに八里あるべし、即ち是れ其の三十二里に当れり。若し内教に準ぜば八俱盧舎を一瑜膳那と為す、一俱盧舎に五百弓あり、弓に一歩数あり。其の歩数に準ずるに纔かに一里半余、将に之を八倍するも十二里に当らんとす、此れ乃ち一駅に充たず。親しく当今西方の瑜膳那を験するに一駅あるべし、故に今皆一駅と作して之を翻ず。庶くば遠滞なからん」と云えり。是れ印度の俗法には四俱盧舎を以って一由旬とし、仏典中には八俱盧舎を一由旬となすことを伝うるものにして、上記俱盧舎の両説の由来を知るを得べく、又俗法に准ぜば一由旬は三十二里に当ると云うは、即ち「西域記」の国俗三十里説に略ぼ合致するを見るべし。但し此の中、俗法の四俱盧舎一由旬を数えて三十二里とし、内教は之を倍増して八俱盧舎を一由旬となし、而も里程は半減以下に之を十二里となせるは、俗法と内教とに於いて俱盧舎の量を定むる同じからざるに起因するなり。即ち仏典に於いては摩揭陀国に行われたる五百弓若しくは四百弓一俱盧舎の説を取り、俗法には二千弓一俱盧舎の説を取りしものなるべし。フリートJ.Fleetは印度の一肘hatsaを以って半碼とし、之に基づきて前記「西域記」に掲ぐる由旬の量を換算し、内教に用いる摩揭陀の一由旬十六里を一万六千肘、即ち四.五四哩、国俗の三十里を三万二千肘、即ち九.〇九哩、旧伝の四十里を国俗の一.三分の一即ち一二.一二哩となし、就中、旧伝の説を以って最も原本的のものとし、二頭の牡牛が満載せる車両を牽引しうる距離なりとし、且つ此の一由旬は玄奘の所謂百里に相当すとなせり。然るにヴォストMajor
Vostは一肘を以って半碼より少しく長きものとし、内教の由旬を約五.三哩、国俗を一〇.六哩、旧伝を一四.二哩と解せり。又「翻梵語巻10」、「玄応音義巻2、3」、「続高僧伝巻2達摩笈多附伝」、「慧琳音義巻1、27」、「希麟音義巻6」、「翻訳名義集巻8」等に出づ。<(望)
跋伽婆仙(ばっかばせん):跋伽婆bhaargavaは梵名。巴梨名bhaggava、又婆伽婆、或いは跋伽に作り、瓦師と訳し、一に無不達とも名づく。毘舎離国の一苦行林に住せし仙人にして、釈尊が出家踰城の後、直に其の地に到り、一宿して道を問われしを以って其の名著わる。其の学説は詳ならざるも、「過去現在因果経巻2」に、此の仙人と倶に修行せし諸仙は、凡べて苦行を修して生天を求め、草又は樹皮を被り、花果を食し、或いは自餓の法を行じ、水火に事え、日月を奉じ、或いは一脚を翹(つまだ)て、塵土又は荊棘等に臥せりと云えば、此の仙も亦た苦行外道なりしを察するを得べし。其の他の事蹟伝わらず。又「仏本行経巻2瓶沙王問事品」、「仏本行集経巻20観諸異道品」、「有部毘奈耶破僧事巻3」、「仏所行讃巻2車匿還品」、「大智度論巻1」、「翻梵語巻5」等に出づ。<(望)
上妙宝衣(じょうみょうのほうえ):すばらしい金銀宝石で装飾された衣。
麁布(そふ):粗末なぬの。
僧伽梨(そうぎゃり):三衣の一。法衣。『大智度論巻26上注:僧伽梨、三衣』参照。
泥連禅河(にれんぜんが):恒河の一支流、釈尊成道の古蹟。『大智度論巻1上注:尼連禅河』参照。
尼連禅河(にれんぜんが):尼連禅nairaJjanaaは梵名。巴梨名neraJjaraa、又はniraJjaraa、又尼連禅那、尼連然、尼連、尼蓮、或いは泥連に作り、不楽着と訳し、又尼連禅江、尼連江水、尼連水の称あり。恒河gangesの一支流にして、釈尊成道の古蹟なり。「方広大荘厳経巻7苦行品」に、「菩薩は伽耶山を出で已り、次第に巡行して優楼頻螺池側に至り、東面して尼連河を視見するに、其の水清冷湍洄皎潔、涯岸は平正にして林木扶踈に、種種の花果鮮栄にして愛すべし。河辺の村邑は処処豊饒に、棟宇相接し、人民殷盛なり」と記し、又「過去現在因果経巻3、4」に、釈尊出家の後、尼連禅河の側に静坐思惟し、苦行を修すること六年、遂に座より起ち、尼連禅河に入りて洗浴するに、身体羸痩して自ら出づる能わず。時に天神来下して樹枝を案じ、之を攀ぢて水を出で、牧牛女難陀波羅の乳糜の供養を受け、尋いで畢波羅樹(即ち菩提樹)下に至りて成道せられたりと云えるもの是れなり。其の沿岸には幾多の聖蹟あり、「大唐西域記摩揭陀国の條」に玄奘当時の状況を記し、河の西岸伽耶gayaa城の西南五六里にして伽耶山に至り、又南方及び二十里にして菩提樹あり、樹の南に苦行林あり、其の附近に釈尊が河水に沐浴し、乳糜、麨蜜等の供養を受け、又三迦葉を教化し給いし故跡あり、皆窣堵波を建つ。又河の東岸、菩提樹を距つる東北十四五里にして鉢羅笈菩提praag-bodhi山(即ち前正覚山)ありと云えり。「高僧法顕伝」に記する所亦た粗ぼ之に同じ。此の河はベンゴールbengal州ハザリバグhazaribagh地方シメリアshimeriaに源を発し、北流して仏陀伽耶buddha gayaの北方に於いてモーハナーmohanaa河と合しパトナpatnaの東方に至りて恒河に注げり。又「長阿含巻4遊行経」、「中阿含巻23水浄梵志経」、「雑阿含経巻39」、「太子瑞応本起経巻下」、「修行本起経巻下」、「仏五百弟子自説本起経優為迦葉品」、「四分律巻31、32」、「仏所行讃巻3」、「大唐西域記巻6」、「同解説」、「玄応音義巻2」等に出づ。<(望)
念言(ねんじていう):心中に強く思って言う。 |
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爾時菩薩捨苦行處。到菩提樹下坐金剛處。魔王將十八億萬眾來壞菩薩。菩薩以智慧功德力故。降魔眾已。即得阿耨多羅三藐三菩提。是時三千大千世界主梵天王名式棄。及色界諸天等。釋提桓因。及欲界諸天等。并四天王。皆詣佛所勸請世尊初轉法輪。亦是菩薩念本所願及大慈大悲故。受請說法。諸法甚深者般若波羅蜜是。以是故佛說摩訶般若波羅蜜經 |
爾(そ)の時、菩薩は、苦行の処を捨てて、菩提樹の下に到り、金剛の処に坐すに、魔王は十八億万の衆を将い来て、菩薩を壊(やぶ)らんとす。菩薩は、智慧の功徳力を以っての故に、魔衆を降し已り、即(すなわ)ち阿耨多羅三藐三菩提を得たまえり。是の時、三千大千世界の主、梵天王の尸棄と名づくるもの、及び色界の諸の天等、釈提桓因、及び欲界の諸の天等、並びに四天王、皆、仏所に詣でて、世尊に初の転法輪を請う。亦た是の菩薩は、本の願う所、及び大慈大悲を念ずるが故に、請を受けて法を説きたまわく、『諸の法の甚深なる者は、般若波羅蜜是れなり。』と。是(ここ)を以っての故に、仏は般若波羅蜜を説きたまえり。 |
爾( そ)の時、
『菩薩』が、
『苦行の処』を、
『捨てて!』、
『菩提樹の下』に、
『魔王』は、
『十八億万』の、
『魔衆』を、
『将(ひき)いて!』、
『菩薩』を、
『壊(やぶ)り!』に、
『来た!』が、
『菩薩』は、
『智慧』という、
『功徳の力』の故に、
『魔衆』を、
『降(くだ)し!』、
即座に、
『阿耨多羅三藐三菩提(仏の境地)』を、
『得た!』。
是の時、
『三千大千世界の主』の、
『尸棄』という、
『梵天の王』や、
『色界』の、
『諸天』の、
『釈提桓因』等や、
『欲界』の、
『諸天』等や、
『四天王』が、
皆、
『仏の所( もと)』に、
『詣(いた)って!』、
『世尊』に、
『初の転法輪(説法)』を、
『勧請した(請うた)!』。
亦た、
是の、
『菩薩』は、
『本願』と、
『大慈大悲』とを、
『念じられた!』が故に、
是の、
『勧請』を、
『受けて!』、
『説法された!』が、
諸の、
『法』中の、
『最も深い!』者が、
『般若波羅蜜なので!』、
是の故に、
『摩訶般若波羅蜜経』を、
『説かれたのである!』。
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金剛処(こんごうのところ):金剛は最も堅い物質。心の堅固にして挫折しないさまに喩える。
魔王(まおう):欲界六天中第六他化自在天の主。『大智度論巻9上注:他化自在天』参照。
阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい):梵語anuttara-samyaksaMbodhi、無上等正覚と訳す。清浄の仏世界を得た欠くる所のなき完き満足の境地。『大智度論巻45上注:阿耨多羅三藐三菩提』参照。
三千大千世界(さんぜんだいせんせかい):十億の世界の意。四禅天に依りて覆わるる世界の総称。『大智度論巻7下注:三千大千世界』参照。
梵天王(ぼんてんのう):色界初禅天の主。『大智度論巻8上注:大梵天』参照。
尸棄(しき):梵名zikhin、又式、式棄、式詰等に作り、頂髻、或いは火と訳す。大梵天王の名。
色界(しきかい):梵語ruupa-dhaatuの訳。巴梨語同じ。色所属の界の意。三界の一。又色天、或いは色行天とも名づく。色は変礙の義、或いは示現の義。界は能く自相を持するの義、或いは種族の義なり。即ち浄妙の色質を有する器世界及び有情の総称にして、欲界の上方に位する天人の住処を云う。凡べて定地なるも、其の所入の定に浅深次第あるに由りて自ら四地の別あり。所謂四禅天なり。又四静慮処、或いは生静慮とも名づく。「倶舎論巻8」に、「此の欲界の上に処に十七あり。謂わく三の静慮処に各三あり、第四静慮処にのみ独り八あり。器及び有情を総じて色界と名づく」と云える是れなり。此の中、三の静慮処に各三ありとは、即ち初禅二禅三禅の三地に各三天あるを云い、第四静慮処にのみ独り八ありとは、第四禅に即ち八天あるを云うなり。初禅の三天とは一に梵衆brahma-paariSadya、二に梵輔brahma-purohita、三に大梵mahaa-brahmanなり。二禅の三天とは、一に少光pariittaabhaa、二に無量光apramaaNaabhaa、三に極光浄aabhaas-varaなり。三禅の三天とは、一に少浄pariitta-zubha、二に無量浄apramaaNa-zubha、三に遍浄zubha-kRtsnaなり。四禅の八天とは、一に無雲anabhraka、二に福生puNya-prasava、三に広果bRhat-phala、四に無煩avRha、五に無熱atapa、六に善現sudRza、七に善見sudarzana、八に色究竟akaniSThaなり。「順正理論巻21」に、其の名義を釈し、「広善の所生なるが故に名づけて梵と為し、此の梵即ち大なるが故に大梵と名づく。彼れ中間定を獲得するに由るが故に、最初に生ずるが故に最後に歿するが故に、威徳等勝るるが故に名づけて大と為す。大梵の所有所化所領なるが故に梵衆と名づけ、大梵の前に於いて行列侍衛するが故に梵輔と名づく。自地の天の内に光明最小なるが故に少光と名づけ、光明転た勝れて量測り難きが故に無量光と名づけ、浄光遍く自地の処を照らすが故に極光浄と名づく。意地の受楽を説いて名づけて浄と為す、自地の中に於いて此の浄最も劣なるが故に少浄と名づけ、此の浄転た増して量測り難きが故に無量浄と名づけ、此の浄周普するが故に遍浄と名づく。意は更に楽の能く此れに過ぐるもの無きを顕す。以下の空中天の所居の地は、雲の密合するが如くなるが故に説いて雲と名づく。此の上の諸天は更に雲地なし、無雲の首に在るが故に無雲と説く。更に異生の勝福ありて方に往生すべき所なるが故に説いて福生と名づく。方所に居在する異生の果の中、是れ最も殊勝なるが故に広果と名づく。離欲の聖者は聖道の水を以って煩悩の垢を濯うが故に名づけて浄と為し、浄身の所止なるが故に浄居と名づく。或いは此に住して生死の辺を窮むることは、債を還し尽くせし如くなるが故に名づけて浄と為し、浄者の所住なるが故に浄居と名づく。或いは此の天の中には異生の雑わることなく、純聖の所止なるが故に浄居と名づく。繁は謂わく繁雑、或いは謂わく繁広なり。繁雑なき中に此れ最も初なるが故に、繁広天の中に最も劣なるが故に説いて無繁(即ち無煩)と名づく。或いは無求と名づくるは、無色界に趣入することを求めざるが故なり。已に善く雑修静慮の上中品の障を伏除し、意楽調柔して諸の熱悩を離るるが故に無熱と名づく。或いは全の下生の煩悩を熱と名づく、此れ初めて離遠すれば無熱の名を得。或いは復た熱とは熾盛を義と為す、謂わく上品の雑修静慮と及び果とは此れ猶お未だ証せざるが故に無熱と名づく。已に上品の雑修静慮を得ば果徳彰れ易きが故に善現と名づけ、雑修定の障は余品至微にして、見極めて清徹するが故に善見と名づく。更に処として有色の中に於いて能く此れに過ぐるものあること無きを色究竟と名づく。或いは此れ已に衆苦所依の身の最後辺に到るを色究竟と名づく。有が言わく、色とは是れ積聚の色なり。彼の後辺に至るを色究竟と名づくと。此の十七処の諸の器世間並びに諸の有情を総じて色界と名づく」と云えり。以って其の名称の意義を知るべし。然るに色界諸天の廃立に関しては諸経論に頗る異説あり。「長阿含経巻20」には、「色界の衆生に二十二種あり。一には梵身天、二には梵輔天、三には梵衆天、四には大梵天、五には光天、六には少光天、七には無量光天、八には光音天、九には浄天、十には少浄天、十一には無量浄天、十二には遍浄天、十三には厳飾天、十四には小厳飾天、十五には無量厳飾天、十六には厳飾果実天、十七には無想天、十八には無造天、十九には無熱天、二十には善見天、二十一には大善見天、二十二には阿迦尼吒天なり」と云い、「起世経巻8」、「起世因本経巻8」、「大般若経巻403」等に出す所之に同じ。「旧華厳経巻13」、「新華厳経巻21」、「大般若経巻402」、「仏本行集経巻9」等には此の中の無想天を除きて二十一天とす。「華厳経探玄記巻7」に華厳の二十一天を釈し、「然るに余処には四禅の中に於いて各三天ありと説き、此に各四というは、皆一は是れ総にして余の三は是れ別なるが故なり。謂わく初禅中の梵眷属天、二禅中の光天、三禅中の浄天、四禅の密身天は、此れ各是れ総なり。故に同じからざるなり」と云えり。是れ初禅の梵身天、二禅の光天、三禅の浄天、四禅の厳飾天を以って各総名となし、総別兼挙するが故に二十一天ありとなすも、実は即ち唯十七天に過ぎずとなすの意なり。「大毘婆沙論巻136」、「立世阿毘曇論巻6」、「雑阿毘曇心論巻2」並びに「大乗阿毘達磨蔵集論巻6」等には、上記の二十二天中、梵身、光天、浄天及び厳飾の四天を除きて十八天を立て、「仏母出生三法蔵般若波羅蜜多経巻4」、「金光明最勝王経巻3」、「阿毘曇甘露味論巻上」、「順正理論巻21」、「有部尼陀那目得迦巻1」、「彰所知論巻上」等には、更に無想天を除きて十七天となし、「阿毘曇心論経巻5」には大梵天を除き、無想天を加えて亦た十七天とし、「中阿含巻9地動経」には更に無想天を除きて十六天となせり。「大毘婆沙論巻98」に依るに、初禅に梵衆、梵輔、大梵の三天ありとなすは西方諸師の所立にして、迦溼弥羅国の諸論師は大梵を梵輔に摂し、初禅に唯二処ありとなすと云えり。是れ今の「中阿含経」の説に合するが如し。「阿毘達磨蔵顕宗論巻12」に十六天説を挙ぐる中、「何に縁りて大梵及び無想天なきや。寿量等は殊なれども別に建立せざるは別に大梵の一を立つべからざるが故なり。要ず同分に依りて天処の名を立つ。一の梵王を同分と名づく可きに非ず。寿量等は余と同じからずと雖も、然も一身にして同分を成ぜざるに由るが故に、梵輔と合して一天を立つ。高下は異なりと雖も然も地に別なし。無想の有情は、彼の広果と寿身量等差別なきが故に、亦た異因なきが故に、立てて第四処と為すべからず」と云えり。是れ有部の正義を敍説せるものというべし。又「順正理論巻21」に、「上座は色界に十八天を立つ。故に是の言を作さく、諸の静慮を修するに各三品あり、謂わく上中下なり。三品の因に随って三の天処に生ず。第一静慮の大梵天王は、自類相望して同分あることを得。梵輔の処と勝劣殊あること聚落の辺の阿練若処の如し。相隣近すと雖も而も処同じからず。無想の有情は、第四定に於いて第四処と為す。広果天と差別あるが故なり」と云えり。是れ十八天説の所由を挙げたるなり。「倶舎論頌疏巻8」に依るに、経部宗は色界の中に十七天を立て、薩婆多宗は唯十六天を立て、上座部は十八天を立つと云えり。去来之に依りて「十六七八薩経上」と称すと雖も是れ謬説なるを免れず。十六天説は迦溼弥羅国諸論師の所立なることは、「大毘婆沙論巻98」、「倶舎論巻8」等に記する所なるも、十七天説は所謂西方師の所立にして経部宗の説に非ず。又十八天説は「順正理論」に上座の説となすも、其の所謂上座は二十部中の上座部に非ずして、即ち経部の本師室利羅多を指すなり。「倶舎論光記巻9」に、「余復釈言より染濁作意に至るは、此れは是れ経部の中の室利羅多の解なり。此には執勝と名づく。正理に呼んで上座と為す」と云えるは即ち其の証なり。されば円暉の説は正しからずというべし。又「順正理論巻21」に、一師は初静慮の中に総じて二処を立てて大梵を開かず。第四静慮に別に無想天を立て、合して十七天ありと説くと云えり。是れ「阿毘曇心論経」の説に当れり等の異説ありて、更に枚挙すべからず。又「兜沙経」、「新華厳経巻22」、「仁王般若波羅蜜経巻上」、「大毘婆沙論巻137、145」、「大智度論巻16」、「成実論巻12」、「菩薩地持経巻2」、「倶舎論巻5、28」、「順正理論巻22、31」、「大乗義章巻8末」、「仁王般若経疏巻1」、「仁王護国般若波羅蜜多経疏巻2」、「華厳経孔目章巻2」、「瑜伽論略纂巻2」、「瑜伽論記巻2下」、「城喩式論述記巻3本、7本」、「同了義灯巻6本」、「法華経玄賛巻2」、「同摂釈巻4」、「倶舎論光記巻8、11」、「同宝疏巻8、11」、「同頌疏巻11」、「法苑珠林巻2」、「翻訳名義集巻7」等に出づ。<(望)
釈提桓因(しゃくだいかんいん):須弥山頂忉利天の主。因陀羅、天帝釈、帝釈天等とも称す。『大智度論巻21下注:因陀羅』参照。
欲界(よくかい):梵語kaama-dhaatuの訳。巴梨語同じ。欲所属の界の意。又欲を任持する界の意。三界の一。即ち食欲婬欲等を有する有情の居住する世界を云う。「大毘婆沙論巻193」に、「欲界に二十処あり。(中略)無間地獄より乃至他化自在天は、皆欲愛に差別せらるるに由るが故に欲界を建立す」と云い、「雑阿毘曇心論巻8修多羅品」に、「八大地獄、畜生、餓鬼、四天下、六欲天、此の二十を欲界と説く。此の諸の衆生は欲を以って身と衆具と及び第二を受く。是の故に欲界と説く」と云える是れなり。是れ欲界は等活saMjiiva、黒縄kaala-suutra、衆合saMghaata、号叫raurava、大叫mahaa-raurava、炎熱tapana、大熱pratapana、無間ariiciの八大地獄、傍生tiryaJc(即ち畜生)、鬼趣preta(即ち餓鬼)、及び南瞻部jambu-dviipa、東勝身puurva-videha、西牛貨apara-godaaniiya,北俱盧uttara-kuruの四大洲、四大王衆caaturmahaaraajakaayika、三十三trayastriMza(即ち忉利天)、夜摩yaama、覩史多tuSita、楽変化nirmaaNa-rati、他化自在paranirmita-vaza-vartinの六欲天、即ち総じて二十処より成ることを説けるものなり。但し「長阿含経巻20忉利天品」には、欲界に地獄、畜生、餓鬼、人、阿須倫、四天王、忉利天、焔摩天、兜率天、化自在天、他化自在天及び魔天の十二種の別ありとし、「瑜伽師地論巻4」には八大地獄、八寒地獄、四大洲、八中洲、六欲天、餓鬼及び非天の三十六処ありとなせり。今二十処と言うは此の中の阿須倫(非天)を鬼或いは天に摂し、又魔天を他化自在天に、八寒地獄を八大地獄に、八中洲を四大洲に摂するに由るなり。其の位置等に関しては、「倶舎論巻11分別世間品」に南瞻部州等の四大洲は妙高山(即ち須弥山)の西方に在り、南瞻部州は其の南辺は三由旬半(立世阿毘曇論巻2に三由旬)、他の三辺は各二千由旬(長阿含経巻18に縦広七千由旬)、東勝身洲は東辺は三百五十由旬、他の三辺は各二千由旬(立世阿毘曇論に広さ二千三百三十三由旬三分の一、周囲七千由旬、長阿含に縦広九千由旬)、西牛貨洲は径二千五百由旬、周囲七千半由旬(立世阿毘曇論に広さ二千三百三十三由旬三分の一、周囲七千由旬、長阿含に縦広八千由旬)、北俱盧洲は四辺各二千由旬(長阿含に縦広一万由旬)あり。八大地獄は南瞻部州の下方に在り。就中、無間地獄は瞻部州より下方二万由旬に位置し、深広各二万由旬あり。余の七大地獄は無間地獄の上に在りて次第に各重累せり。傍生は水と陸と空とに住し、其の本処は大海に在り。鬼趣は琰魔王国を本処とし、展転して余処に散居す。琰魔王国は瞻部州の下五百由旬に位置し、縦広亦た五百由旬あり。六欲天は瞻部州の上方に次第に重累せり。就中、四大王衆天は妙高山の第四層級の四面を占め、山より傍出すること二千由旬(立世阿毘曇論巻4に周囲各千由旬、長阿含経巻20に妙高山の四方各千由旬、縦広各六千由旬)、瞻部州の上層四万由旬の処に在り。三十三天は妙高山の頂上にして瞻部州より八万由旬の上層に位し、縦広八万由旬あり。夜摩天、覩史多天、楽変化天、他化自在天の四天は即ち空居天にして虚空に住し、就中、夜摩天は瞻部州より十六万由旬、覩史多天は三十二万由旬、楽変化天は六十四万由旬、他化自在天は百二十八万由旬の上層を占め、縦広各皆八万由旬ありと云えり。此の中、八大地獄鬼趣及び傍生の十処は悪趣にして、即ち身口意に悪を行ずる者其の中に生じ、四大洲六欲天の十処は善趣にして、善を行ずる者の生ずる処たり。其の身量は地獄傍生及び鬼趣は不定なるも、瞻部州の人は三肘半、勝身洲の人は八肘(一説三肘半)、牛貨洲の人は十六肘(一説三肘半)、俱盧洲の人は三十二肘(一説七肘)、四大王衆天は四分の一俱盧舎(一説半由旬)にして、其の初生の者は人間の五歳(一説一二歳)の童の如く、三十三天は半俱盧舎(一説一由旬)、其の初生の者は人間の六歳(一説二三歳)、夜摩天は四分の三俱盧舎(一説二由旬)、其の初生の者は人間の七歳(一説三四歳)、覩史多天は一俱盧舎(一説四由旬)、其の初生の者は人間の八歳(一説四五歳)、楽変化天は一俱盧舎四分の一(一説八由旬)、其の初生の者は人間の九歳(一説五六歳)、他化自在天は一俱盧舎半(一説十六由旬)にして、其の初生の者は人間の十歳(一説六七歳)の童の如し。又寿量は瞻部州の人は定限なく(一説百歳)、劫減には極寿十歳、劫初には無量歳(一説八万歳)、勝身洲の人は二百五十歳(一説五百歳、又三百歳)、牛貨洲の人は五百歳(一説二百五十歳、又二百歳)、俱盧洲の人は千歳、四大王衆天は人の五十歳を一昼夜とし五百歳、三十三天は人の百歳を一昼夜とし千歳、夜摩天は人の二百歳を一昼夜とし二千歳、覩史多天は人の四百歳を一昼夜とし四千歳、楽変化天は人の八百歳を一昼夜とし八千歳、他化自在天は人の千六百歳を一昼夜とし一万六千歳、等活地獄は四大王衆天の寿量を一昼夜とし五百歳、黒縄地獄は三十三天の寿量を一昼夜とし千歳、衆合地獄は夜摩天の寿量を一昼夜とし二千歳、号叫地獄は覩史多天の寿量を一昼夜とし四千歳、大叫地獄は楽変化天の寿量を一昼夜とし八千歳、炎熱地獄は他化自在天の寿量を一昼夜とし一万六千歳、大熱地獄は半中劫、無間地獄は一中劫、傍生は多く定限なく、極長は一中劫(一説一劫)、鬼趣は人間の一月を一日とし五百歳なり。但し余の諸処には中夭の者あるも、唯北俱盧洲のみ定んで千歳なり。此等の有情は皆段食(一説に地獄は識食)を食とし、以って生存するなり。又地獄の衆生を除き他の諸趣には皆婬事あり。就中、鬼趣傍生及び人は形を交えて婬を成じ、且つ不浄を出し、四天王衆、三十三の二天は形を交うるも不浄なく、夜摩天は纔かに抱きて婬を成じ、覩史多天は但だ手を執り、楽変化天は相向かいて笑み、他化自在天は相視て婬を成ず。又人と傍生とは卵胎湿化の四生に通じ、鬼趣は胎生及び化生、地獄と天とは唯化生なりと云う。又欲界に定ありや否やに関し、「毘婆沙論巻10」に欲界には定の名あるも定の用なしと云い、「大乗義章巻11」には諸説を出し、達摩多羅は欲界には一向に定なきが故に四善根を修起するを得ずとし、瞿沙は欲界に六禅定あるが故に之を依として四善根を修起するを得とし、摩訶僧祇部も亦た欲界に禅定ありと説くと云えり。又「長阿含経巻19、21」、「起世経巻1至9」、「大方等大集経巻33、39」、「品類足論巻6」、「舎利弗阿毘曇論巻7」、「大毘婆沙論巻136、137、147、192」、「立世阿毘曇論巻6、7」、「大智度論巻16、54」、「瑜伽師地論巻5」、「倶舎論巻3」、「順正理論巻21、31」、「大乗義章巻7、8」、「摩訶止観巻9上」等に出づ。<(望)
四天王(してんのう):須弥山中腹四王天の四主。『大智度論巻26下注:四王天、四天王』参照。
世尊(せそん):梵語路伽那他loka-naathaの訳。巴梨語同じ。又梵語loka-jyeSTha、巴梨語loka-jeTTha、世に尊重せらるる者、或いは世中の最尊者の意。仏の尊称なり。「十号経」に、「云何が世尊なる、仏言わく、我れ因地に於いて自ら審に有らゆる善法、戒法、心法、智慧法を観察し、復た貪等の不善の法が能く諸有の生滅等の苦を招くを観じ、無漏智を以って彼の煩悩を破して無上覚を得たり。是の故に天人凡聖世出世間咸く皆尊重す、故に世尊と曰う」と云い、曇鸞の「往生論註巻上」に、「世尊とは諸仏の通号なり。智を論ぜば則ち義として達せざるなく、断を語れば則ち習気余ることなし。智断具足して能く世間を利し、世の為に尊重せらる、故に世尊と曰う」と云える是れなり。蓋し世尊の原語は、若し敵対正翻に依らばloka-naatha、又はloka-jyeSThaなるも、諸経論には多く婆伽婆bhagavatを翻じて世尊となし、又他語を世尊と訳せる例も少なからず。今「法華経」に就いて之を見るに、梵文にbhagavat(具徳者)、loka-naatha(世主)、loka-vidu(世の賢者)、lokaadhipati(世の勝者)、jina(勝者)、naatha(主)、naayaka(導師)、vinaayaka(導師)、mhaa-vinaayaka(大導師)、buddha(覚者)、jineendra(勝者王)、svayaM-bhu(自然生者)、sugata(善逝)、mha-rSi(大仙)、mahaa-viira(大雄者)、puruSa-rSabha(人中牛王)、naroottama(最上人)、mahaa-muni(大牟尼)、taayin(救度者)、anuttara(無上士)、dharma-raaja(法王)、prajaanaaM naayaka(衆生の導師)、ananta-cakSus(無辺眼者)とあるを、漢訳には総じて皆翻じて世尊となせり。之に依るに世尊の語は最も解知し易きが故に古来訳者は多く義訳せしものなるを知るべし。又「大智度論巻2」、「百論巻上」、「大日経疏巻1」、「翻梵語巻1」、「翻訳名義集巻1」等に出づ。<(望)『大智度論巻21下注:婆伽婆、仏』参照。
勧請(かんじょう):こうてすすめる。願う。
転法輪(てんぽうりん):梵語dharma-cakra-pravartanaの訳。巴梨語dhamma-cakka-ppavattana、法輪を転ずるの意。又転梵輪とも名づく。八相の一。即ち仏成道の後、四聖諦等の法を説き、衆生をして各得道せしめたるを云う。「過去現在因果経巻3」に仏成道の後、婆羅㮈国に至り、阿若憍陳如等の五人の為に初めて四聖諦の法を説き、憍陳如等は諸法の中に於いて遠塵離垢し、法眼浄を得たることを敍し、其の下に、「諸人聞き已りて欣悦無量に、高声に唱えて言わく、如来今日婆羅㮈国鹿野苑中の仙人住処に於いて大法輪を転ず。一切世間の天人魔梵、沙門婆羅門の転ずる能わざる所なり」と云える是れなり。是れ仏鹿野苑に於いて始めて法輪を転ぜられたることを伝うるものにして、之を初転法輪と名づくるなり。其の時日に関しては、「過去現在因果経巻3」、「法華経巻1方便品」等に仏成道三七日の後とし、「十地経論巻1」には第二七日後、「四分律巻31」には六七日後、「方広大荘厳経巻10」には七七日後、「五分律巻15」には八七日後、「大智度論巻7、34」には五十七日後となせり。蓋し仏の説法を転法輪と名づくるは譬喩に約したるものにして、「大毘婆沙論巻182」に、「問う、何故に法輪と名づくるや。答う、此の輪は是れ法の所成にして、法を自性と為すが故に法輪と名づく。世間の輪が金等の所成にして金等を性と為すを金等の輪と名づくるが如し。此れも亦た是の如し。(中略)問う、何故に輪と名づくる、輪は是れ何の義なりや。答う、動転して住せざるの義は是れ輪の義、此れを捨てて彼に趣くの義は是れ輪の義、能く怨敵を伏するの義は是れ輪の義なり。斯れ等の義に由るが故に名づけて輪と為す」と云い、又「大智度論巻25」に転梵輪と名づくるの義を解し、「転梵輪とは清浄の故に梵と名づけ、仏の智慧及び智慧相応の法、是れを輪と名づけ、仏の所説を受者は法に随って行ずる、是れを転と名づく。是の輪は四念処を具足するを以って轂と為し、五根五力を輻と為し、四如意足を堅牢輞と為し、(中略)是の輪は能く転ずる者なく、是の輪は仏法を持す。是れを以っての故に転梵輪と名づく。復た次ぎに仏の法輪を転ずるは、転輪聖王の宝輪を転ずるが如し」と云えり。是れ如来が法を説いて衆生の無知を摧破するを転輪聖王が金輪を転じて須弥四洲を降伏するに喩えたるものにして、即ち彼の金輪が金の所成なるが故に金輪と名づくるが如く、如来の法輪は四念処五根等の法を以って組織せられたるが故に、法輪と名づくるの意を明にしたるものなり。法輪の自性に関しては諸部の間に異説あり。就中、説一切有部に於いては唯八支聖道を以って法輪の体とす。「大毘婆沙論巻182」に、「云何が法輪なる、答う、八支聖道なり。若し相応と随転とを兼ねば則ち五蘊の性なり。此れは是れ法輪の自性なり」と云える其の説なり。是れ法輪は正しく八支聖道を体とし、若し相応と随転との法を取らば則ち五蘊を性となすことを説けるものなり。又「大毘婆沙論巻183」に、「問う、仏所説の法を尽く法輪と名づくるや。答う不なり。唯見道に入らしむる者を乃ち法輪と名づく」と云い、「倶舎論巻24」に、「即ち此の中に於いて唯見道に依りて、世尊は有処に説いて法輪と名づく。世間の輪に速等の相あるが如く、見道は彼れに似たるが故に法輪と名づく。見道如何が彼れと相似するや、速行等は彼の輪に似たるに由るが故なり。謂わく見諦の道は速疾に行ずるが故に、捨取あるが故に、未伏を降すが故に、已伏を鎮するが故に、上下に転ずるが故に、此の五相を具すること世間の輪の如きに似たり」と云えり。是れ説一切有部に於いては仏の一切の所説を転法輪となさず、必ず人をして見道に入らしめ、彼の煩悩を摧破するを要すとし、世間の輪に速行等の五相あるが如く、見道にも亦た此の五相あるが故に、即ち彼の見道を名づけて転法輪となすべしというの説なり。又「大乗法苑義林章巻1本総料簡章」に、「多聞部、薩婆多部、雪転部、犢子部、法上部、賢胄部、正量部、密林山部、化他部、経量部の十部は同じく説く、諸仏の語は皆利益を為すに非ず。要ず物機に逗し、務めて道に入らしむるを利益と名づく。故に唯八聖道のみ是れ正法輪の轂輞輻円なり。煩悩を摧破するを名づけて輪と為すが故なり。故に世友は説く、如来の語は皆転法輪たるに非ず。世尊の所言にも亦た不如義あり、八正道を詮する教は八道の境なるが故に亦た法輪と名づく。所余の功徳及び所余の教は聖教と名づくと雖も法輪と名づけず」と云い、多聞部等の諸部も亦た唯八聖道を以って法輪の体となすことを明にせり。然るに大衆部等に於いては、仏語には総べて不如義なきが故に、一切の仏語は皆転法輪と名づくべしと云い、随って法輪は仏語を以って体とすと説くべしとなせり。「大毘婆沙論巻182」に摩訶僧祇部の説を出し、「彼れ是の説を作す、一切の仏語は皆是れ法輪なり。若し聖道是れ法輪なりと謂わば、則ち菩提樹下に已に法輪を転ずべし。何が故に婆羅痆斯に至るを方に転法輪と名づくるや」と云い、又「異部宗輪論」に大衆部、一説部、説出世部、雞胤部の本宗同義を挙げ、「諸の如来の語は皆転法輪なり」と云い、又「大乗法苑義林章巻1本」に、「大衆部、一説部、説出世部、雞胤部、説仮部、制多山部、西山住部、北山住部、法蔵部、飲光部の十部は同じく説く、仏の一切の語は皆利益と為す、如来の所言には不如義なし。唯八聖道のみ是れ正法輪なるに非ず、一切の功徳も能く諸惑を摧く、並びに法輪と名づく」と云える即ち其の説なり。之に依るに大衆部一説部等の諸部に於いて、仏の一切の語を皆転法輪と名づけたるを知るべし。又「大般涅槃経巻14」に、「諸仏世尊は、凡そ所説あれば皆悉く名づけて転法輪と為すなり」と云い、又前引「大乗法苑義林章」の連文に、「大乗を明さば、正文に仏の所語は皆其の義に如かず、咸く転法輪なりと説くものなしと雖も、然も正法輪は唯八聖道なり、余は正に非ずと雖も是れ助法輪なり」と云えり。之に依るに大乗に於いても亦た大衆部に同じく仏の一切の所説を以って転法輪とし、其の中、特に八聖道を正法輪、余の所言を助法輪となすの意なるを見るべし。又「華厳経探玄記巻3」には、五教の別に従って法輪の体性を異にするとし、即ち小乗に約せば八正道を体となし、初教に約せば無分別智を体となし、終教に約せば真理を体となし、頓教に約せば理智倶に泯じ、教の果も亦た亡じて言慮を絶するを体となし、円教に約せば無尽法門を体となすと云えり。是れ所説の法の浅深に依りて法輪の体に不同ありとなすの説なり。蓋し転法輪は鹿野苑に於いて始めて四諦の法輪を転ぜられたる以来、諸処に於ける説法も亦た皆転法輪なること固より言を要せざる所なるも、大乗に於いては所説の内容に約し、鹿苑の説法を初転法輪とし、之に対して更に第二第三の転法輪ありとなすに至れり。彼の「大品般若経巻12無作品」に、「爾の時、諸天子は虚空の中に立ち、大音声を発して踊躍歓喜し、漚波羅華、波頭摩華、拘物頭華、分陀利華を以って仏の上に散じ、是の如きの言を作す、我等は閻浮提に於いて第二の法輪転じ、是の中の無量百千の天子は無生法忍を得たるを見ると」と云えるは、即ち鹿苑四諦の法輪を初転とし、般若の法を開説せるを第二の法輪転となせるものなり。又「解深密経巻2無自性相品」には三時の転法輪あることを説き、「世尊は初め一時に於いて婆羅痆斯仙人の堕処施鹿林中に在りて、惟だ声聞乗に発趣する者の為に、四諦の相を以って正法輪を転ず。是れ甚だ奇に、甚だ希有と為し、一切世間の諸天人等の先に能く如法に転ずる者あることなしと雖も、而も彼の時に於いて転ずる所の法輪は、有上有容にして是れ未了義なり、是れ諸の諍論安足の処所なり。世尊は昔第二時の中に在りて、惟だ大乗に発趣する者の為に一切法皆無自性無生無滅本来寂静自性涅槃に依り、隠密の相を以って正法輪を転ず。更に甚だ奇に、甚だ希有と為すと雖も、而も彼の時に於いて転ずる所の法輪も亦た是れ有上にして容受する所あり、猶お未了義にして、是れ諸の諍論安足の処所なり。世尊は今第三時の中に於いて、普く一切乗に発趣する者の為に、一切法皆無自性無生無滅本来寂静自性涅槃無自性性に依り、顕了の相を以って正法輪を転ず。第一甚奇にして最も希有と為す。今世尊の転ずる所の法輪は無上無容にして是れ真の了義なり、諸の諍論安足の処所に非ず」と云えり。是れ鹿苑に於ける四諦の説法を初時とし、般若皆空の説を第二時、深密中道の教を第三時となすの意にして、即ち亦た前の般若第二法輪転の説に加上したるものというべし。真諦及び玄奘等は三法輪の説を立て、此の中の初時有教を名づけて転法輪、第二時空教を照法輪、第三時中道教を持法輪となせり。又吉蔵の「法華遊意巻上」には、「法華経巻2」の文に依りて別に三法輪の説を唱え、華厳一乗教を根本法輪、中間の三乗教を枝末法輪、法華の会三帰一を摂末帰本法輪と称せり。此等は皆所説の内容に約して転法輪に諸種の別ありとなすの説なり。又「海龍王経巻3女宝錦受決品」に、宝錦女は無動輪、本無輪、無断輪、無著輪、無二輪、無言法輪、清浄輪、断諸不調輪、無乱輪、至誠輪、空無輪等の諸法輪を転ずと云い、「旧華厳経巻31」には、一切の諸仏は妙法輪、無量法輪、一切覚法輪、知一切法蔵法輪、無著法輪、無礙法輪、一切世間灯法輪、示現一切智法輪、一切諸仏同一法輪等の無量阿僧祇の法輪を転じ、転ずべき所に随って仏事の不可思議を施作すと云い、「悲華経巻5」には、菩薩は四清浄法を成就し、虚空法輪、不可思議法輪、不可量法輪、無我法輪、無言説法輪、出世法輪、通達法輪を転ずと云えり。是れ亦た所説の不同に就き法輪の名を立てたるものというべし。又「華厳経巻59」には如来の転法輪に十種の事あることを明かし、「一には清浄の四無畏智を具足し、二には四辯随順の音声を出生し、三には善く能く四真諦の相を開闡し、四には諸仏の無礙解脱に随順し、五には能く衆生の心をして皆浄信ならしめ、六には所有の言説は皆唐捐ならず、能く衆生の諸苦の毒箭を抜き、七には大悲願力の加持する所、八には随って音声を出すに十方一切の世界に普遍し、九には阿僧祇劫に於いて説法して断ぜず、十には所説の法に随って皆能く根力覚道禅定解脱三昧等の法を生起すと云い、又「大乗法苑義林章巻1」、「法華経玄賛巻2、4」等には広く五門に約して法輪の体等を分別し、即ち八聖道を法輪の体、四聖諦十二因縁三性等の諸法を法輪の境、諸の聖道の助伴たる五蘊の功徳を法輪の眷属、聞思修三慧の如く能く聖道を生ずる諸数を法輪の因、道に因りて証せし菩提涅槃を法輪の果となすと云い、「華厳経探玄記巻3」には、二障の使習は法輪の所断、真俗二諦は法輪の境、福慧万行は法輪の眷属、一教及び念処等は法輪の因、菩提涅槃は法輪の果なりとせり。又「長阿含経巻1」、「雑阿含経巻15」、「増一阿含経巻10、14」、「中本起経巻上」、「維摩詰所説経巻上仏国品」、「菩薩処胎経巻5」、「如来不思議秘密大乗経巻11、12」、「四分律巻32」、「阿毘曇毘婆沙論巻21」、「大毘婆沙論巻41」、「大智度論巻1、52、65」、「雑阿毘曇心論巻10」、「瑜伽師地論巻49、95」、「転法輪経憂波提舎」、「倶舎論光記巻24」、「同宝疏巻1、24」等に出づ。<(望)
本願(ほんがん):梵語 puurva- praNidhaana の訳、以前の誓い/過去世の願( Past vows )の義。菩薩の発菩提心時の誓願を指す。 |
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復次有人。疑佛不得一切智。所以者何。諸法無量無數。云何一人能知一切法。佛住般若波羅蜜。實相清淨如虛空。無量無數法中。自發誠言。我是一切智人欲斷一切眾生疑。以是故說摩訶般若波羅蜜經 |
復た次ぎに、有る人の疑わく、『仏は、一切智を得ず。所以(ゆえ)は何(いか)んとなれば、諸法は無量無数なればなり。云何(いかん)が一人にして、能(よ)く一切の法を知らんや。』と。仏は、般若波羅蜜に住したまえば、実相の清浄なること虚空の如し、無量無数の法中に、自ら誠言を発したまわく、『我れは是れ一切智の人なり。一切の衆生の疑いを断ぜんと欲す。』と。是を以っての故に、摩訶般若波羅蜜経を説きたまえり。 |
復た次ぎに、 ――衆生の疑惑を断じる――
有る人は、
こう疑っているが、――
『仏』は、
『一切智』を、
『得ていない!』。
何故ならば、
諸の、
『法』は、
『無量であり!』、
『無数だからだ!』。
何故、
『一人』で、
『一切』の、
『法』を、
『知ることができるのか?』、と。
『仏』は、
『般若波羅蜜』という、
『虚空のように!』、
『清浄な!』、
『実相』中に、
『住(とど)まり!』、
『無量、無数の法』中に、
自ら、
『誠実の言( ことば)』を、こう発しられた、――
わたしは、
一切を、
『知る!』、
『一切智の人である!』。
一切の、
『衆生の疑』を、
『断じよう!』、と。
是の故に、
『摩訶般若波羅蜜経』を、
『説かれたのである!』。
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誠言(じょうごん):誠実なることば。
一切智(いっさいち):内外一切の法相を知る智慧。『大智度論巻37上注:一切智』参照。
実相(じっそう):如実の相の意。即ち諸法の真実不虚の相を云う。「南本涅槃経巻36」に、「世尊、云何が名づけて実相となす。善男子、無相の相を名づけて実相となす。世尊、云何が名づけて無相の相となす。善男子、一切法は自相他相及び自他相なく、無因相なく、作相なく受相なく、作者相なく受者相なく、法非法相なく、男女相なく、士夫相なく、微塵相なく時節相なく、為自相なく為他相なく、為自他相なく、有相なく無相なく、生相なく生者相なく、因相なく因因相なく、果相なく果果相なく、昼夜相なく明闇相なく、見相なく見者相なく、聞相なく聞者相なく、覚知相なく覚知者相なく、菩提相なく得菩提者相なく、業相なく業主相なく、煩悩相なく煩悩主相なし。善男子、是の如き等の相の随って滅する所の処を真実相と名づく。善男子、一切の諸法は皆是れ虚仮なり、随って其の滅する処、是れを名づけて実となす。是れを実相と名づけ、是れを法界と名づけ、畢竟智と名づけ、第一義諦と名づけ、第一義空と名づく」と云い、又「大智度論巻32」に、「諸法の如に二種あり、一には各各相、二には実相なり。各各相とは地の堅相、水の湿相、火の熱相、風の動相の如き、是の如き等、諸法を分別するに各自ら相あり。実相とは各各相の中に於いて分別して実を求むるに、不可得不可破にして諸の過失なし。自相空の中に説くが如き、地若し実に是れ堅相ならば、何を以っての故に、膠蝋等と火と会する時、其の自性を捨つるや。神通ある人は地に入ること水の如し。又木石を分散すれば則ち堅相を失し、又地を破して以って微塵となし、方を以って塵を破すれば終に空に帰し、亦た堅相を失す。是の如く地相を推求すれば則ち不可得なり、若し不可得ならば其れ実に皆空なり。空は則ち是れ地の実相なり。一切の別相も皆亦た是の如し。是れを名づけて如となす」と云える是れなり。是れ蓋し諸法各各の相は虚仮虚妄にして、破すべく壊すべきものなるに対し、無漏智所証の実相は虚妄の諸相を離れ、平等一如にして妄情の前には全く不可得なるの意を明にしたるものなり。又天台家等に於いて盛んに諸法実相の義を唱え、又密家には声字実相の説をなせり。空海の「声字実相義」に、「声字分明にして実相顕る。所謂声字実相とは即ち是れ法仏平等の三密にして、衆生本有の曼荼なり。(中略)声発して虚しからず、必ず物の名を表するを号して字と曰う。名は必ず体を招く、之を実相と名づく」と云える即ち其の説なり、又「中論巻3」、「注維摩詰経巻3」、「往生論註巻下」、「維摩経義記巻4末」、「大般涅槃経疏巻33」、「法華経文句記巻4中」、「大日経疏巻1」、「吽字義」等に出づ。<(望) |
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復次有眾生應得度者。以佛大功德智慧無量難知難解故。為惡師所惑。心沒邪法不入正道。為是輩人起大慈心。以大悲手授之令入佛道。是故自現最妙功德。出大神力。 |
復た次ぎに、有る衆生は応に度を得べき者なるも、仏の大功徳の智慧は、無量にして、難知難解なるを以っての故に、悪師の惑わす所と為り、心、邪法に歿して、正道に入らず。是の輩(はい)の人の為に、大慈の心を起こし、大悲の手を以って之(これ)に授けて、仏道に入らしめんとし、是の故に自ら最妙の功徳を現して、大神力を出したまえり。 |
復た次ぎに、
有る、
『衆生』は、
『度』を、
『得られるはずである!』が、
『仏』の、
『大功徳の智慧』が、
『知り難く!』、
『理解し難い!』が故に、
『悪師』に、
『惑わされて!』、
『心』が、
『邪悪』の、
『法』に、
『没して!』、
『真正』の、
『道』に、
『入ることができない!』。
是の、
『輩( 衆生)』の為に、
『仏』は、
『大慈』の、
『心』を、
『起し!』、
『大悲』の、
『手』を、
『授けて!』、
『仏』の、
『道』に、
『入らせようとし!』、
是の故に、
自ら、
『最妙の功徳』を、
『現して!』、
『大神力』を、
『出されたのである!』。
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是輩(このはい):輩は同類を指すの語。是れ等に同じ。
難知難解(なんちなんげ):知りがたく理解しがたい。
大神力(だいじんりき):理解しがたい巨大な力。 |
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如般若波羅蜜初品中說。佛入三昧王三昧。從三昧起。以天眼觀十方世界。舉身毛孔皆笑。從其足下千輻輪相。放六百千萬億種種色光明。從足指上至肉髻。處處各放六百千萬億種種色光明。普照十方無量無數如恒沙等諸佛世界。皆令大明。佛從三昧起欲宣示一切諸法實相斷一切眾生疑結故。說般若波羅蜜經 |
般若波羅蜜の初品中に説くが如し、『仏は、三昧王三昧に入りて、三昧より起ち、天眼を以って、十方の世界を観たまえるに、挙身の毛孔、皆笑い、其の足下の千輻輪相より、六百千万億の種種の色の光明を放ち、足の指より、上は肉髻に至るまで、処処に各六百千万億の種種の色の光明を放ちて、普(あまね)く十方の無量無数、恒河沙等の如き諸仏の世界を照らし、皆、大明ならしむ』、と。仏は、三昧より起ちて、一切の諸法の実相を宣示し、一切の衆生の疑結を断ぜんと欲したもうが故に、般若波羅蜜経を説きたまえり。 |
例えば、
『般若波羅蜜初品』中に、こう説く通りである、――
『仏』が、
『三昧王三昧』に、
『入って!』、
『三昧』より、
『起ち!』、
『天眼』で、
『十方の世界』を、
『観察される!』と、
『全身』の、
其( そ)の、
『足下の千輻輪相』より、
『六百千万億』の、
『種種の色』の、
『光明』が、
『放たれ!』、
『足の指』より、
上の、
『肉髻』に、
『至る!』まで、
処処、
各各より、
『六百千万億』の、
『種種の色』の、
『光明』が、
『放たれ!』、
普( あまね)く、
『十方』の、
『無量、無数』の、
『恒河の沙』に、
『等しい!』ほどの、
『諸仏』の、
『世界』を、
『照らして!』、
皆、
『大いに!』、
『明かるくした!』、と。
『仏』は、
『三昧』より、
『起って!』、
一切の、
諸の、
『法の実相』を、
『広く!』、
『示す!』ことにより、
一切の、
『衆生』の、
『疑結』を、
『断じようとして!』、
故に、
『般若波羅蜜経』を、
『説かれたのである!』。
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三昧王三昧(さんまいおうさんまい):一切の諸の三昧を其の中に摂する三昧の名。『大智度論巻7下注:三昧王三昧、同巻17下注:定、同巻20上注:三昧』参照。
天眼(てんげん):物質を見るに障害する所の無い目。『大智度論巻5上注:五眼』参照。
挙身毛孔(こしんのもうく):全身の毛穴。
笑(しょう):ひらく。花の開くを花笑うと云うが如し。
足下千輻輪相(そくげのせんぷくりんそう):仏の足裏の車輪の相。『大智度論巻21下注:三十二相』参照。
肉髻(にくけい):仏の頭頂の隆起せる相。『大智度論巻21下注:三十二相』参照。
宣示(せんじ):広く示す。
疑結(ぎけつ):疑いの煩悩。『大智度論巻15上注:五下分結、同巻41下注:結、十結』参照。 |
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三昧(さんまい):『大智度論巻7』に『善心にて一処に住(とど)まりて動かず』という。また、『菩薩は百千の種々の三昧を生み出して、衆生を煩悩から解放する、譬えば、貧に苦しむ人は富ましめる為に、種々の財物を蓄えて貧者に与え、諸の病人の為には種々の薬を与えて治す』等ともあるように、三昧とは一心に衆生の為に働くことをいう。 |
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復次有惡邪人懷嫉妒意誹謗言。佛智慧不出於人。但以幻術惑世。斷彼貢高邪慢意故。現無量神力無量智慧力。於般若波羅蜜中自說。我神德無量三界特尊。為一切覆護。若一發惡念獲罪無量。一發淨信受人天樂。必得涅槃果 |
復た次ぎに、有る悪邪人は、嫉妬の意を懐き、誹謗して言わく、『仏の智は、人を出でず。但(た)だ幻術を以って、世を惑わすのみ。』と。彼の貢高、邪慢の意を断ぜんが故に、無量の神力、無量の智慧力を現し、般若波羅蜜中に於いて、自ら説きたまわく、『我が神徳は無量にして、三界に特(ひと)り尊く、一切の覆護為(た)り。若(も)し一たび、悪念を発(おこ)さば罪を獲(う)ること無量なり、一たび浄信を発さば、人天の楽を受け、必ず涅槃の果を受けん。』と。 |
復た次ぎに、 ――貢高、邪慢の者を摧く――
有る、
『邪悪の人』は、
『嫉妒』の、
『意(こころ)』を、
『懐(いだ)き!』、
『誹謗して!』、こう言う、――
『仏』の、
『智慧』は、
『人』を、
『超えるものではない!』。
但だ、
『幻術』で、
『世間』を、
『惑わすのみだ!』、と。
彼れの、
『貢高、邪慢』の、
『意』を、
『断とうとする!』が故に、
『無量の神力』と、
『無量の智慧力』とを、
『現して!』、
『般若波羅蜜』中に、
自ら、こう説かれたのである、――
わたしの、
『神徳( 神力)』は、
『無量であり!』、
『三界』中に、
『特に尊く!』、
一切の、
『衆生』の、
『覆護として!』、
若し、
一たび、
『悪念』を、
『発(おこ)して!』、
無量の、
『罪』を、
『獲(え)ても!』、
一たび、
『浄信』を、
『発せば!』、
『人、天の楽』を、
『受けて!』、
必ず、
『涅槃の果』を、
『得るだろう!』、と。
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誹謗(ひぼう):そしること。
貢高(くこう):自薦自高の意。自らを挙げて自らを高うすること。
邪慢(じゃまん):よこしまにして慢心すること。
神力(じんりき):神通力。超絶的な力。
神徳(じんとく):神力に同じ。善い力のみを云う。
三界(さんがい):欲界、色界、無色界の総称。即ち一切衆生所居の処。『大智度論巻1上注:色界、欲界、同巻18上注:無色界』参照。
特尊(とくそん):ひとり尊い。独尊。
覆護(ふご):おおいまもる者。守護。
悪念(あくねん):悪をなそうとする思い。悪心。
浄信(じょうしん):浄い信心。心を浄めて善悪の果報を信ずること。
人天(にんてん):人間と、及び諸天と。
涅槃果(ねはんのか):果報としての涅槃。『大智度論巻1上注:涅槃』参照。
涅槃(ねはん):梵語nirvaaNa。巴梨語nibbaana、又泥洹、泥曰、涅槃那、涅隷槃那、抳縛南、涅婆南、䁥縛喃に作り、滅、寂滅、滅度、或いは寂と訳す。又般涅槃parinirvaaNa(巴parinibbaana)と云い、一に波利抳縛南、波利涅婆南に作り、円寂と訳す。又摩訶般涅槃mahaa-parinirvaaNa(巴mahaa-parinibbaana)とも称し、大円寂と訳す。即ち一切の煩悩災患の永尽せる境地を云う。「雑阿含経巻18」に、「涅槃とは貪欲永く尽き、瞋恚永く尽き、愚癡永く尽き、一切の諸煩悩永く尽く。是れを涅槃と名づく」と云い、「入阿毘達磨論巻下」に、「一切の災患煩悩の火滅するが故に涅槃と名づく」と云える是れなり。是れ貪瞋癡の三火滅し、衆苦永尽せるを涅槃と名づけたるなり。涅槃の字義に関しては、「大毘婆沙論巻28」に、「煩悩滅するが故に名づけて涅槃と為し、復た次ぎに三火息むが故に名づけて涅槃と為し、復た次ぎに三相寂するが故に名づけて涅槃と為し、復た次ぎに臭穢を離るるが故に名づけて涅槃と為し、復た次ぎに諸趣を離るるが故に名づけて涅槃と為す。復た次ぎに槃は稠林に名づけ、涅を名づけて出と為す、蘊の稠林を出づるが故に涅槃と名づく。復た次ぎに槃を名づけて織と為し、涅を名づけて不と為す、不織を以っての故に名づけて涅槃と為す。縷者あれば即ち織る所あるも、無ければ則ち然らざるが如く、是の如く若し業煩悩あらば便ち生死を織るも、無学は業煩悩あることなきが故に生死を織らず、故に涅槃と名づく。復た次ぎに槃は後有に名づけ、涅を名づけて無と為す、後有なきが故に名づけて涅槃と為す。復た次ぎに槃は繋縛に名づけ、涅を名づけて離と為す、繋縛を離るるが故に名づけて涅槃と為す。復た次ぎに槃は一切生死の苦難に名づけ、涅は超度に名づく、一切生死の苦難を超度するが故に涅槃と名づく」と云い、又「大般涅槃経巻25」に、不織、不覆、不去不来、不取、無不定、無新故、無障礙、無相、無有、無和合、無苦の義を各涅槃と名づくと云えり。蓋し梵語涅槃nirvaaNaは、前接字nir(nis)と、動詞vaaと、後接字Na(na)との三字より成れる語にして、此の中nisは「不」、「無く」、「外に」、又は「を離れて」の義を有し、vaaは「吹く」、「香を放つ」、「行く」、「動く」等の義を有し、naは分詞を作る後接字にして、即ち前接動詞を名詞化するものなり。従って此の語には、一に「吹き消されたること」、或いは「消えたること」、二に「香を放たざること」、三に「行かざること」等の諸義あり。今煩悩滅し、三火息み、又は三相寂するが故に涅槃と名づくと云えるは、即ち此の中の第一義に当り、臭穢を離ると云えるは第二義に当り、諸趣を離る、又は不去不来と云えるは第三義に当ると云うべく、又此の語を以って「不」の義なる前接字nirと、「織る」の義なる動詞veより来たれる名詞vaana(織)との合成語と解せば「不織」の義となり、「林」の義なる名詞vanaより来たれる名詞vaana(稠林)との合成語と解せば「稠林を出でたる」の義となり、「生」の義なる名詞vaanaとの合成語と解せば「後有なきこと」、「生死の苦難を超度せること」等の義となるべく、又「覆う」、或いは「障礙す」の義なる動詞vRより来たれる名詞vaanaとの合成語と解せば、即ち「不覆」、「無障礙」、「繋縛を離れたること」等の義となるべきが如く、兎に角煩悩衆苦永滅して更に後有なき境地を称したるものなるを知るべし。又「大般涅槃経巻33」には涅槃に無量の名ありとし、無生、無出、無作、無為、帰依、窟宅、解脱、光明、灯明、彼岸、無畏、無退、安処、寂静、無相、無二、一行、清浄、無闇、無礙、無諍、無漏、広大、甘露、吉祥の二十五異名を列ね、「四諦論巻3」には又無為、無下等の六十六種の別名を出せり。凡そ涅槃は阿羅漢の人が煩悩を永断して得る所の果にして、之に有余依と無余依との二種あり、有余依涅槃は煩悩既に永尽せるも、猶お依身ありて色心相続するを云い、無余依涅槃は依身亦た滅して更に余なきを云うなり。小乗諸部の中、説一切有部に於いては、滅諦涅槃は無為法にして、慧の揀択力に由りて得せらるる果なるが故に之を択滅pratisaMkhyaa-nirodhaと名づくとし、即ち慧を以って四聖諦の理を揀択し、煩悩を断ずる時、諸の有漏法は繋縛を離れ、解脱を証得するを択滅となし、而して択滅は離繋を以って性とし、其の体実に有り、且つ其の性善にして常住なりとなすなり。「大毘婆沙論巻34」に帰依法を解する中、「此の中、若し法実有とは実に涅槃あることを顕す。此の言は有るが是の説を作し、唯衆苦滅するを説きて涅槃と名づく、実に体あるに非ずというを遮し、涅槃には実に自体あるを顕さんと欲するが為の故に是の説を為す」と云い、又「同巻31」に、「一切法の中、唯涅槃のみありて是れ善、是れ常なり。余は爾らざるが故に不同類と名づく。謂わく所余の法は、有るは善なるも常に非ず、有るは常なるも善に非ず、有るは二倶に非ず。涅槃は独り善常の二義を具す、是の故に独り不同類と名づくるなり」と云える其の意なり。然るに経量部に於いては、涅槃は唯煩悩及び諸苦の永滅に名づけたるものにして、別に自体あるに非ずとし、即ち揀択力に由りて過去及び現在の煩悩の種子を滅し、未来の煩悩並びに後有をして不生ならしむる永断の分位に涅槃を仮立すとなせり。「倶舎論巻6」に、「不生は本来自有なり。若し揀択なくんば諸法は応に生ずべし。揀択生ずる時、法は永く起らず、此の不起に於いて択は功能あり。謂わく先時に於いては未だ生の障あらざるも、今生の障と為る。不生を造るには非ず。(中略)二世(即ち過去現在)に起こす所の煩悩は未来の諸の煩悩を生ぜんが為の故に現の相続に於いて種子を引起す。此の種断ずるが故に彼れを亦た断と名づく、異熟尽くる時を亦た説きて業尽と名づくるが如し。以来の衆苦及び諸の煩悩は種なきに由るが故に、畢竟不生なるを説きて名づけて断と為す。(中略)復た聖教に能く涅槃は唯非有を以って其の自性と為すと顕すことあり、謂わく契経に言わく、所有の衆苦皆余なく断じ、各別に捨棄し、尽く離染し滅し静息し永没して余苦続かず、取らず生ぜず、此れ極めて寂静、此れ極めて美妙なりと。謂わく諸依及び一切の愛を捨し、尽く離染し滅するを名づけて涅槃と為す」と云えり。是れ経量部に於いては揀択生ずる時、煩悩の種子断ずるが故に、未来の衆苦及び諸の煩悩畢竟して生ぜざるを名づけて涅槃となし、涅槃は唯衆苦及び煩悩の永滅に名づけたるものなるが故に、別に其の自体あるに非ずとなづの意を説けるものなり。又説一切有部に於いては、涅槃は非学非無学の法にして、恒に自性に住して常住不変なりとなし、余部の涅槃転変論及び涅槃決定論を否認せり。「大毘婆沙論巻33」に、「復た次ぎに涅槃は先には是れ非学非無学にして後転じて学と成り、先には是れ学にして後転じて無学と成り、先には是れ無学にして復た転じて学と成るべからずとは、涅槃は転変不定にして三種ありと説く者を遮する意なり。若し爾らば涅槃は得に随って変易し、応に無常なるべきが故に正理に応ぜず。又涅槃には応に学あり無学あり非学非無学あるべからずとは、涅槃の体類を差別して三種ありと説く者を遮する意なり。若し爾らば涅槃は位の差別に随って雑乱あるが故に正理に応ぜず。謂わく異生の位は三を具して一を得し、有学位に至れば三を具して二を得し、無学位に至るも亦た三種を具す、若し具に三を得せば応に学の得あるべく、若し唯二を得せば応に具足して涅槃を得する者に非ざるべし。(中略)若し諸位に各三を具するも、而も得に随うが故に各但だ一と名づくと言わば、是れ則ち涅槃は得に随って転変するものにして、応に前説の如く無常の過あるべし。是の故に此の説も亦た理に応ぜず。(中略)涅槃は恒に是れ非学非無学なるを以って、諸法決定して雑乱あることなく、恒に自性に住して自性を捨てず、涅槃は常住にして変易あることなし。是の故に涅槃は但だ応に非学非無学と言うべし」と云える是れなり。是れ転変論者は、涅槃は学無学非学非無学に於いて転変不定なりとし、決定論者は涅槃の体に学無学非学非無学の三種あり、各此の三を具するも、得に別あるが故に学無学等の異を生ずとなすに対し、説一切有部に於いては涅槃は唯一にして転変なく、即ち恒に非学非無学なりと説くの意を明にせるなり。蓋し小乗諸部中には、是の如く涅槃の有体無体一体多体等に関し異説ありと雖も、通じて皆煩悩及び諸苦の永尽せる境地を名づけて涅槃となし、就中、説一切有部に於いては其の性を善とし、常住不変となすと雖も、是れ唯法を以って実有となすに過ぎずして、別に之に積極的意義ありとなすに非ず。然るに大乗経論に至りては涅槃を以って不生不滅の義なりとし、之を如来の法身と同視し、種種の積極的意味を附せり。「大般涅槃経巻6」に、「若し如来の涅槃に入るこたおは、薪尽きて火滅するが如くなりと言わば不了義の名づく。若し如来は法性に入ると言わば是れを了義と名づく」と云い、「同巻4」に、「若し油尽き已らば明も亦た倶に尽く、其の明の滅するをば煩悩の滅に喩う。明は滅尽すと雖も灯爐猶お存す。如来も亦た爾り、煩悩滅すと雖も法身常に存す」と云い、「法華経巻5寿量品」に、「爾来無量劫、衆生を度せんが為の故に、方便して涅槃を現ずるも而も実には滅度せず、常に此に住して説法す」と云い、「勝鬘経一乗章」に、「一乗を得る者は阿耨多羅三藐三菩提を得。阿耨多羅三藐三菩提は即ち是れ涅槃界なり。涅槃界とは即ち是れ如来の法身なり」と云えり。是れ皆釈尊の涅槃は薪尽きて火滅するが如きには非ず。即ち法性常住の境地に入れるものにして、所謂肉身逝くと雖も法身常存すとなし、法身を以って如来の大般涅槃の体となすべきことを説けるものなり。又「大般涅槃経巻4」に、「大涅槃とは即ち是れ諸仏の法界なり」と云い、「同巻11」に、「是の大涅槃は即ち是れ諸仏の甚深の禅定なり」と云い、「同巻23」に常楽我淨を名づけて大涅槃となすと云い、又「大智度論巻83」に、「涅槃は無相無量不可思議にして諸の戯論を滅す、此れ涅槃の相なり。即ち是れ般若波羅蜜なり」と云い、「法華論巻下」に、「唯如来のみありて大菩提を証し、究竟じて一切の智慧を満足するを大涅槃と名づく」と云い、又「金光明最勝王経巻1如来寿量品」に、「其の十法あり、能く如来応正等覚の真実の理趣を解し、究竟の大般涅槃ありと説く。云何が十となす、一には諸仏如来は究竟して諸の煩悩障所知障を断尽するが故に名づけて涅槃となす。二には諸仏如来は善く能く有情の無性及び法の無性を解するが故に名づけて涅槃となす。三には能く身依及び法依を転ずるが故に名づけて涅槃となす。四には諸の有情に於いて任運に化の因縁を休息するが故に名づけて涅槃となす。五には真実無差別相の平等法身を証得するが故に名づけて涅槃となす。六には生死及び涅槃に二性なきを了知するが故に名づけて涅槃となす。七には一切法に於いて其の根本を了し、清浄を証するが故に名づけて涅槃となす。八には一切法無生無滅に於いて善く修行するが故に名づけて涅槃となす。九には真如法界実際平等に正智を得るが故に名づけて涅槃となす。十には諸の法性及び涅槃の性に於いて無差別を得るが故に名づけて涅槃となす」と云い、更に二種の十法涅槃の説を出せる如き、即ち皆積極的に涅槃の相を説示せるものというべし。又「大般涅槃経巻2寿命品」に、「何等をか名づけて秘密の蔵をなす、猶お伊字の三点の如く、若し並ばば則ち伊を成ぜず、縦なるも亦た成ぜず。摩醯首羅の面上の三目の如くにして乃ち伊の三点を成ずることを得。若し別なるも亦た成ずることを得ず。我れも亦た是の如し、解脱の法も亦た涅槃に非ず、如来の身も亦た涅槃に非ず、摩訶般若も亦た涅槃に非ず、三法各異なるも亦た涅槃に非ず。我れ今是の如き三法に安住し、衆生の為の故に涅槃に入ると名づく」と云えり。是れ所謂三徳秘蔵の大涅槃説にして、即ち前引「婆沙」等の離繋択滅説と、「大智度論」等の般若即涅槃説と、及び如来法身説とを綜合して、以って三法一体不縦不横の義を組成せしものとなすべきが如し。吉蔵の「大乗玄論巻3涅槃義」に、此の三徳を以って涅槃となすに総じて四義あることを明かし、「三徳を涅槃と為す所以は略して四種の義あり。生死と涅槃と相対するに生死に三障あり、謂わく煩悩と業と苦なり。報障に対するが故に法身と名づけ、業障に対するが故に解脱を辨じ、煩悩障に対して波若を説く。二には如来の三業自在なることを顕さんと欲す。法身あるが故に身業自在なり、波若を具する故に口業自在なり、解脱あるが故に意業自在なり。三には境として照らさざるなきを名づけて波若と為し、感として応ぜざるなきを法身と名づけ、累として尽くさざるなきを解脱と称す。故に三徳を宗と為すなり。四には二乗の三徳円ならざるに対せんが為なり。身智あれば解脱足らず、解脱亦た円なれば則ち身智なし。故に如来の三徳円備すと名づく」と云い、又智顗の「法華経玄義巻5下」等には、広く此の三徳を三道三識三般若三菩提等の三法に配せり。又「十地経論巻2」には涅槃に性浄方便浄の二種の別あることを説き、「彼の智は已に方便壊涅槃を顕し、亦た性浄涅槃を示す。偈に定滅と言うが故なり。定とは同相涅槃を成ず、自性寂滅なるが故なり。滅とは不同相方便壊涅槃を成ず、智縁滅を示現するが故なり」と云い、又「三無性論巻上」に、「清浄如如とは所謂滅諦なり。亦た三義あり、(中略)三に垢浄二滅なり、謂わく本来清浄と無垢清浄となり。分別性に約して本来無垢と説き、依他性に約して無垢清浄と説く。何を以っての故に、此の性に体ありて則ち能く染汚す、道に由りて垢を除くが故に清浄を得。本来清浄は即ち是れ道前道中なり、無垢清浄は即ち是れ道後なり。此の二の清浄を亦た二種の涅槃と名づく。前は即ち択滅に非ず、自性本有にして智慧の所得に非ざればなり。後は即ち択滅にして修道の所得なり。前に約するが故に本有と説き、後に約するが故に始有と説く」と云えり。是れ本来清浄自性寂滅なるを性浄涅槃とし、慧の揀択に由りて染汚の垢を除き、清浄を得するを方便浄又は無垢清浄涅槃と名づけ、且つ其の中、無垢清浄は修道の所得なれば之を択滅とし、自性清浄は慧の所得に非ざれば択滅の摂に非ざることを明にするの意なり。又慧遠の「大乗義章巻18涅槃義」には、涅槃に性浄涅槃、方便涅槃、応化涅槃の三種ありとし、智顗の「金光明経玄義巻上」等には、性浄涅槃、円浄涅槃、方便浄涅槃の三種の別ありとなせり。又「梁訳摂大乗論釈巻13」には、涅槃に本来清浄涅槃、無住処涅槃、有余涅槃、無余涅槃の四種あることを説き、「成唯識論巻10」に之を釈し、本来自性清浄涅槃とは一切法相真如の理にして、一切の有情平等に之を共有し、其の性本寂なるが故に涅槃と名づく。有余依涅槃とは真如が煩悩障を出でたるものにして、尚お微苦の所依ありと雖も、而も障永く寂するが故に涅槃と名づく。無余依涅槃とは真如が生死の苦を出でたるものにして、余依亦た滅し、衆苦永く寂するが故に涅槃と名づく。無住処涅槃とは真如が所知障を出でたるものにして、大悲と般若とに輔翼せられ、生死及び涅槃に住せず、未来際を窮めて有情を利楽するも、其の用常に寂なるが故に涅槃と名づくと云えり。是れ自性清浄の如来法身を以って涅槃の体とし、其の法身が煩悩障を出でたるを有余依涅槃、生死の苦を出でたるを無余依涅槃、所知障を出でて生死に住せず涅槃に住せざるを無住処涅槃と名づけたるなり。此の中、亦た初の自性清浄涅槃は真如の理にして択滅の摂に非ず、後の三は皆択滅なりとし、且つ択滅は唯施設有にして実有に非ずとなすなり。又「大乗義章巻18涅槃義」に涅槃の分斉に総じて四種の不同ありとし、「分斉に四あり、一は是れ事滅なり、生死の因を断じ、生死の果を滅するを名づけて涅槃と為す。二には徳滅なり、諸仏の涅槃は万徳を円備す、衆徳を具すと雖も妙寂離相なり、之を称して滅と為す。又復た離性を亦た説いて滅と為す。(中略)三には応滅なり、応滅に二あり、一に現に有の因を断じて生死の果を尽くす、之を名づけて滅と為す。二に化を息めて真に帰し、用息むを滅と称す。四には理滅なり、経中に説くが如く、一の苦滅諦にして一切衆生即ち涅槃の相なりと。是の如き等なり。理滅に二あり、一には相虚なり、妄情の起こす所にして、一切の諸法は相有体無なり、之を名づけて滅となす。此れ即ち経中の空如来蔵なり。二には真空なり、真如来蔵は相を離れ性を離る、之を名づけて滅と為す。(中略)此の四相望するに亦た本末あり、理滅を本となす。理中の相空の滅を見るに由りて前の事滅を成ず、理を悟りて情を捨て、生死を離るるが故なり。理中の真空の滅を証するに由りて前の徳滅を成ず、彼の真法の如く性相を離るるが故なり。徳に依りて用を起こす、故に応滅あり」と云えり。是れ涅槃は如来蔵を以って其の体とし、就中、空如来蔵の義に由りて事滅あり、不空如来蔵の義に由りて徳滅あり、徳滅に由りて更に応滅を示現すとなすの意なり。按ずるに涅槃の説は古くより印度に行われたるものにして、薄伽梵歌bhagavad-giitaa,v.に梵我一如の境地を梵涅槃brahma-nerbaaNaと名づけ、又「入楞伽経巻4」には、外道所執の涅槃に自体相涅槃、種種相有無涅槃、自覚体有無涅槃、諸陰自相同相断相続体涅槃の四種の別あることを明かし、「同巻6涅槃品」には二十種外道の涅槃説を挙げ、提婆の「外道小乗涅槃論」に略して其の義を解し、又「大毘婆沙論巻200」には、外道は現に五妙欲を受け、並びに初静慮乃至第四禅の受楽を以って涅槃となすことを説き、此の五種の現法涅槃論は、我ありて常に涅槃を得と執するが故に常見品に入ると云い、「瑜伽師地論巻11」には、四禅等の浄定は煩悩を伏して寂静の義あるが故に之を彼分涅槃と名づくと云える如き皆其の説なり。仏教中に於いては我の実有を認めざるが故に、涅槃は単に滅に帰するを其の元意となしたるが如きも、大乗興るに及びて如来法身の永存を説き、遂に涅槃は真如法身を以って其の体性とすとなすに至れり。又般涅槃は円寂と訳するにより、去来僧侶の死を円寂或いは新円寂と云い、又帰寂、入寂、示寂、或いは単に寂と称するを例とせり。又「増一阿含経巻7」、「中阿含巻10涅槃経」、「雑阿含経巻26」、「入楞伽経巻2」、「首楞厳三昧経」、「大般涅槃経巻5」、「発智論巻2」、「大毘婆沙論巻32」、「尊婆須蜜菩薩所集論巻10」、「解脱道論巻11五方便品」、「中論巻4観涅槃品」、「百論巻下破常品」、「大智度論巻18、19、22、23、32、50、55」、「仏性論巻4」、「倶舎論巻1、28」、「涅槃論」、「涅槃経本有今無偈論」、「順正理論巻17」、「大般涅槃経集解巻1、6」、「大般涅槃経疏巻3、9」、「華厳経孔目章巻4」、「倶舎論光記巻6」、「成唯識論述記巻1本、10末」、「金光明最勝王経疏巻2」、「涅槃経疏三徳指帰巻2、16」等に出づ。<(望) 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涅槃(ねはん):梵語nirvaana、迷妄を脱して、無為法性に安立するの意。 |
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復次欲令人信受法故。言我是大師。有十力四無所畏。安立聖主住處心得自在。能師子吼轉妙法輪。於一切世界最尊最上 |
復た次ぎに、人をして法を信受せしめんと欲するが故に言わく、『我れは是れ大師なり。十力、四無所畏有りて、聖主の住処に安立し、心に自在を得て、能く師子吼して妙法輪を転じ、一切の世界に於いて、最尊最上たり。』と。 |
復た次ぎに、 ――妙法を信受させる――
『人』に、
『法』を、
『信受させたい!』と、
『思う!』が故に、
こう言われたのである、――
わたしは、
『大師である!』。
わたしには、
『十力』と、
『四無所畏』とが、
『有り!』、
『聖主の住処』に、
『安立している!』。
わたしは、
『心』に、
『自在』を、
『得て!』、
『獅子吼し!』、
『妙法の輪』を、
『転じることができる!』。
わたしは、
一切の、
『世界』中の、
『最尊であり!』、
『最上である!』、と。
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信受(しんじゅ):信用する( to have confidence )、◯梵語 adhimukti の訳、信用( confidence )の義、◯梵語
abhy- upa- √(gam)の訳、同意する( to assent, agree to )の義。
十力(じゅうりき):仏の有する十種の智慧力。『大智度論巻16上注:十力』参照。
四無所畏(しむしょい):仏が説法するに際し、畏るる所の無きに四種の別あるを云う。『大智度論巻5下注:四無所畏』参照。
安立(あんりゅう):安んじて立つ。
聖主住処(しょうしゅのじゅうしょ):聖衆中の主のすまい。
自在(じざい):梵語伊湿伐羅iizvaraの訳。又はvazitaa、巴梨語issara、無礙又は縦任の義。即ち意の欲する所に随って所為皆縦任無礙なるを云う。蓋し自在は諸仏及び上位の菩薩の得る所の功徳にして、諸経論には之に関し宣説するもの尠からず。就中、「旧華厳経巻26十地品」には十自在の説を出せり。即ち彼の文に、「是の菩薩は善く是の如きの諸身を起こすことを知り、則ち命自在aayur-vazitaa、心自在cetc-v.、財自在pariSkaara-v.、業自在karma-v.、生自在upapatti-v.、願自在praNiDhaana-v.、信解自在adhimukti-v.、如意自在Rddhi-v.、智自在jJaana-v.、法自在dharma-v.を得」と云える是れなり。「旧華厳経巻39離世間品」、「法集経巻3」並びに「顕揚聖教論巻8」等には亦た十自在の説あり。其の名称及び次第は互いに少異ありと雖も、説は今の経と正しく一致するなり。此の中、命自在とは又寿命自在、或いは寿自在とも称す。即ち長劫に寿命を住持して其の化益無窮なるを云い、心自在とは阿僧祇の三昧を出生して深智に入るを云い、財自在とは又荘厳自在、物自在、或いは衆具自在とも称す。即ち大荘厳を以って一切の国土を荘厳するを云い、業自在とは諸業に於いて大自在を得、随時に報を受くるを云い、生自在とは又受生自在とも称す。即ち一切の国土に於いて自在に生を受くるを云い、願自在とは所願に随って随時随処に菩提を成ずるを云い、信解自在とは又解脱自在、信自在、或いは勝解自在とも称す。即ち一切の世界に諸仏の充満するを見るを云い、如意自在とは又神力自在、或いは神変自在とも称す。即ち一切の大神変を示現するを云い、智自在とは念念の中に於いて如来の十力無所畏を示現し覚悟するを云い、法自在とは即ち無量無辺の法門を示現するを云うなり。就中、命自在、心自在及び財自在の三は、順次に法施、無畏施、財施の布施行を成満することに由りて之を得。業自在、生自在の二は持戒の行を成満し、願自在は精進行を成満し、信解自在は忍辱、安受、通達の三忍行を成満し、如意自在は静慮の行を成満し、智自在及び法自在の二は般若の行を成満することによりて之を得とせらるるなり。又「旧華厳経巻39離世間品」には之と別種の十自在の説あり。即ち彼の文に「菩薩摩訶薩に十種の自在あり、何等をか十と為す、所謂衆生自在、刹自在、法自在、身自在、願自在、境界自在、智自在、通自在、神力自在、力自在なり。仏子、是れを菩薩摩訶薩の十種の自在と為す」と云い、而して亦た彼の一一に各十種の自在あることを説き、総じて百種の自在を出せり。就中、第一に衆生自在に十種の自在ありとは、一に度脱一切衆生自在、二に持一切衆生想自在、三に為一切衆生説法未曽失時自在、四に変化一切衆生自在、五に安置一切衆生於一毛道而不迫迮自在、六に於一切世界一切衆生中示現為王自在、七に於一切衆生中示現帝釈梵王自在、八に於一切衆生中示現声聞縁覚不転威儀自在、九に於一切衆生中示現菩薩行自在、十に於一切衆生中示現仏身相好荘厳覚悟一切智力自在なり。第二に刹自在に十種ありとは、一に令一切刹為一刹自在、二に令一切刹入一毛道自在、三に於一切刹深入無尽方便自在、四に於一切刹示現一身結跏趺坐充満自在、五に令一切刹現入己身自在、六に神力震動一切仏刹不令衆生恐怖自在、七に以一切刹荘厳荘厳一刹示現自在、八に以一刹荘厳荘厳一切刹示現自在、九に一如来身及其眷属皆悉充満一切仏刹示現衆生自在、十に一切刹小刹中刹大刹広刹深刹翻覆刹俯刹仰刹平正刹以此等刹示現衆生自在なり。第三に法自在に十種ありとは、一に一切法即是一法一法即是一切法而不違衆生法相自在、二に般若波羅蜜出生一切法覚悟一切衆生不了知自在、三に於一切法悉離法想普令衆生入勝法自在、四に一切諸法入一方便分別解脱無量方便自在、五に一切諸法言語道断而能演説無量法門自在、六に於一切法巧方便転普門法輪無尽自在、七に一切諸法入一法門於不可説劫分別解脱不可窮尽自在、八に一切法悉入仏法殊勝衆生自在、九に一切法示現無量無辺自在、十に一切法無礙実際無量無辺猶如幻網於無量劫為衆生説不可窮尽自在なり。第四に身自在に十種ありとは、一に令一切衆生入己身自在、二に己身示現一切衆生身自在、三に一切仏身示現一仏身自在、四に一仏身示現一切仏身自在、五に一切刹置己身内自在、六に一法身充満三世示現衆生自在、七に一身入三昧無量身起三昧自在、八に一身成最正覚示現衆生等身自在、九に一切衆生身作一衆生身示現一切衆生身自在、十に一切衆生身示現法身法身示現一切衆生身自在なり。第五に願自在に十種ありとは、一に一切菩薩願即是己願願自在、二に以一切仏願力菩提示現衆生願自在、三に随其所応悉令成就阿耨多羅三藐三菩提願自在、四に於不可数阿僧祇劫大願不断願自在、五に遠離識身不著智身而示現一切身願自在、六に不捨己事而能成満一切他事願自在、七に教化成熟一切衆生令不退転願自在、八に於一切阿僧祇劫修菩薩行未曽断絶願自在、九に於一毛道成等正覚願力充満一切仏刹為一一衆生示現不可説不可説世界願自在、十に説一句法法雲普覆一切法界震実法雷耀明解脱電光澍甘露法雨充満一切衆生心願願自在なり。第六に境界自在に十種の自在ありとは、一に菩薩は法界の境界に在るも示現して衆生の境界に在り、二に仏の境界に在るも示現して衆魔の境界に在り、三に涅槃の境界に在るも生死の境界を離れず、四に一切智の境界に在るも菩薩の境界を離れず、五に寂滅の境界に在るも散乱衆生の境界を捨てず、六に離一切虚妄の境界に在るも虚妄の境界を離れず、七に荘厳力の境界に在るも非一切智境界を示現す、八に無衆生の実際の境界に在るも化度一切衆生の境界を捨てず、九に諸禅三昧解脱通明智離欲の境界に在るも一切世界衆生の境界を示現す、十に如来行菩提荘厳の境界に在るも声聞縁覚寂静威儀の境界を示現するなり。第七に智自在に十種ありとは、一に無尽辯智自在、二に不惑一切陀羅尼智自在、三に決定知一切衆生諸根智自在、四に於一念中以無礙心智悉知一切衆生心心数法智自在、五に知一切衆生心心使煩悩習気随病対治法智自在、六に於一念中深入如来十力智自在、七に無礙智知三世衆生随時度脱智自在、八に於一念中成等正覚示現一切衆生智自在、九に於一衆生想了達一切衆生業行智自在、十に於一衆生音声示現一切衆生音声智自在なり。第八に通自在に十種ありとは、一に一切世界示現身一身境界通自在、二に於一如来大衆中坐聴受正法悉能聞持一切諸仏大衆会法通自在、三に於一衆生一念境界成不可説無上菩提一切衆生無不知者通自在、四に出一妙音皆能充徧一切世界出生一切音声各各別異一切衆生無不開解通自在、五に於一念中示現尽過去際劫一切衆生諸業果報無不知者通自在、六に令一切世界皆悉荘厳通自在、七に観察三世平等通自在、八に出生一切諸仏菩提及衆生願、九に放大法光明通自在、十に一切天龍夜叉乾闥婆阿修羅迦楼羅緊那羅摩睺羅伽帝釈梵王及一切声聞縁覚諸菩薩等悉恭敬尊重善能護持諸如来力一切善根通自在なり。第九に神力自在に十種ありとは、一に以不可説世界入一微塵神力自在、二に於一微塵中顕現一切法界等一切仏刹神力自在、三に於一毛孔皆悉容受一切大海能持遊行一切世界不令衆生有恐怖心神力自在、四に以一切世界内己身中悉能顕現一切衆生事神力自在、五に以一毛繋不可思議金剛囲山悉持遊行一切世界不令衆生有恐怖心神力自在、六に不可説劫示現一劫一劫示現不可説諸成敗劫不令衆生有恐怖心神力自在、七に於一切世界示現水火風災成敗不令衆生有恐怖心神力自在、八に一切世界水火風災壊時悉能住持一切衆生資生之具神力自在、九に以不可思議世界置於掌中遠擲他方過不可説世界不令衆生有恐怖心神力自在、十に令一切衆生解一切仏刹猶如虚空神力自在なり。第十に力自在に十種ありとは、一に衆生力自在、二に仏刹力自在、三に法力自在、四に劫力自在、五に仏力自在、六に行力自在、七に如来力自在、八に無師智力自在、九に一切智力自在、十に大悲力自在なり。「華厳経探玄記巻17」に「初めに十章を列し、後に百門を以って次第に解釈す」と云える即ち其の意なり。又「自在王菩薩経巻上」には、「菩薩摩訶薩に四自在の法あり、是の法を以っての故に能く自在に行じ、諸の衆生をして大乗に住することを得しむ。何等か四なる、一には戒自在、二には神通自在、三には智自在、四には慧自在なり」と云い、「大宝積経巻68遍浄天授記品」には寿命自在、生自在、業自在、覚観自在及び衆具果報自在の五種の自在を説き、又「辯中辺論巻上」、「大乗荘厳経論巻5」等には無分別自在、浄土自在(又刹土自在)、智自在、業自在の四種の自在を出せり。就中、「自在王菩薩経」には自ら広く四自在を解説し、具足戒を行じて諸戒を具するが故に所願皆成ずるを戒自在とし、天眼、天耳等の五通を具足して所欲無礙なるを神通自在とし、陰智、性智等の五智を具足して無滞自在なるを智自在とし、義無礙智、法無礙智等の四無礙智を得て能く諸法に通じ、章句を解釈することを慧自在と名づくと云えり。又「新華厳経巻46」、「宝雨経巻4」、「十地経論巻10」、「摂大乗論釈巻9(無性)」、「華厳経孔目章巻3」、「華厳経探玄記巻14」、「華厳経疏巻47」等に出づ。<(望) |
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十力(じゅうりき):仏の有する十種の智慧力。
(1)処非処智力:物事の理と非理を知る。
(2)業異熟智力:三世に渡る業の因果関係を知る。
(3)静慮解脱等持等至智力:禅定、三昧等について知る。
(4)根上下智力:衆生の理解力、能力を知る。
(5)種々勝解智力:衆生がどこまで仏法を理解したかを知る。
(6)種々界智力:衆生の置かれている環境を知る。
(7)遍趣行智力:諸趣に生まれる行いの因果を知る。
(8)宿住隨念智力:過去世の事を思い出すことができる。
(9)死生智力:衆生の死生について知る。
(10)漏尽智力:煩悩が尽きることについて知る。
四無所畏(しむしょい):仏が説法するに際し畏るる所の無きに四種の別あるを云う。
(1)一切智無所畏:全てを知っていることに対する自信。
(2)漏尽無所畏:煩悩が無いことに対する自信。
(3)説障道無所畏:修行の障りは全て説き終わったという自信。
(4)説苦道無所畏:この世は全て苦であることを説き終わったという自信。 |
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復次佛世尊欲令眾生歡喜故。說是般若波羅蜜經言。汝等應生大喜。何以故。一切眾生入邪見網。為異學惡師所惑。我於一切惡師邪網中得出。十力大師難可值見。汝今已遇。我隨時開發三十七品等諸深法藏。恣汝採取 |
復た次ぎに、仏世尊は、衆生をして歓喜せしめんと欲するが故に、是の般若波羅蜜経を説いて、言(のたま)わく、『汝等(なんじら)、応(まさ)に大喜を生ずべし。何を以っての故に、一切の衆生は、邪見の網に入り、異学の悪師の惑わす所と為(な)る。我れは、一切の悪師の邪網中より、出すことを得。十力の大師は値見すべきこと難く、汝は今已に遇(あ)えり。我れは時に随いて三十七品等の諸の深法の蔵を開発し、汝等をして恣(ほしいまま)にに採取せしめん。 |
復た次ぎに、 ――深法の蔵を開く――
『仏、世尊』は、
『衆生』を、
『歓喜させよう!』と、
『思う!』が故に、
是の、
『般若波羅蜜』を、
『説いて!』、こう言われた、――
お前たちは、
『大喜』を、
『生じなくてはならない!』。
何故ならば、
一切の、
『衆生』は、
『邪見の網』に、
『入って!』、
『異学』の、
『悪師』に、
『惑わされているからだ!』。
わたしは、
一切の、
『悪師』の、
『邪網』中より、
『出すことができる!』、
『十力の大師であり!』、
『値見する(出会う)!』ことが、
『難しい!』が、
お前は、
わたしは、
時に随い、
『三十七品』等の、
諸の、
『深法の蔵』を、
『開き!』、
お前たちに、
『恣(ほしいまま)に!』、
『採取させよう!』、と。
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汝等(なんじら):お前たち。
大喜(だいき):おおよろこび。
邪見網(じゃけんのあみ):因果を信じず、来世の身心の有無に拘泥するを網に捕われたる状に喩える。『大智度論巻26上注:五見』参照。
異学悪師(いがくあくし):邪見を以って人を誤導する師。
邪網(じゃもう):邪見の網。
値見(ちけん):遭遇してまみえる。
三十七品(さんじゅうしちほん):助けて菩提に至る三十七品の行の総称。『大智度論巻17下注:三十七菩提分法』参照。
随時(ずいじ):時の宜しきにしたがう。適当な時に。
開発(かいほつ):ひらく。
深法蔵(じんぽうのくら):甚だ深い法の蔵。 |
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三十七品(さんじゅうしちほん):助けて菩提に至る三十七品の行、即ち次の四念処、四正勤、四如意足、五根五力、七覚支、八正道の総称。
四念処(しねんじょ):常楽我淨の四顛倒(てんどう、逆しまの見解)を破る。
(1)身念処:身は不淨である観察として、身は浄であるとする顛倒を破る。
(2)受念処:受は苦であると観察して、受は楽であるとする顛倒を破る。
(3)心念処:心は無常であると観察して、心は常であるとする顛倒を破る。
(4)法念処:法は無我であると観察して、法(事物、肉体と心)にわが有るとする顛倒を破る。
四正勤(ししょうごん):四つの努力。
(1)悪を生じないよう、精進して勤める。
(2)悪を断つよう、精進して勤める。
(3)善を生じるよう、精進して勤める。
(4)善を増大せしめよう、精進して勤める。
四如意足(しにょいそく):四正勤に次いで修める四種の禅定。前の四念処中には実の智慧を修め、四正勤中には正しい精進を修めて智慧と精進力を増多せしめたのであるが、定力が小し弱いため、今四種の禅定を修めて心を摂め、禅定と智慧とを均等ならしめ、所願を皆得ようとする。意のままに得る、これを以って如意、或いは神足という。
(1)欲如意足:欲を主として禅定を得る。
(2)精進如意足:精進(努力)を主として禅定を得る。
(3)心如意足:心念を主として禅定を得る。
(4)思惟如意足:観察を主として禅定を得る。
五根(ごこん):仏道に必要な根本的能力。
(1)信根:仏法僧の三宝と四諦を信ずること。
(2)精進根:十善などの善いことを怠らずに行うこと。
(3)念根:正法を憶念して忘れないこと。
(4)定根:心を散乱せしめないこと。
(5)慧根:真理を思惟すること。
五力(ごりき):五根が増長して、五障の勢力を治する者。
(1)信力:信根が増長して、よく諸の邪信を破る者。
(2)精進力:精進根が増長して、よく諸の懈怠を破る者。
(3)念力:念根が増長して、よく諸の邪念を破る者。
(4)定力:定根が増長して、よく諸の乱想を破る者。
(5)慧力:慧根が増長して、よく諸の癡惑を破る者。
七覚支(しちかくし):覚りを助ける七つのもの。七つの覚りの成分。
(1)念覚支:憶念して忘れないこと。
(2)択法覚支:物事の真偽を選択する智慧のこと。
(3)精進覚支:正法に精進すること。
(4)喜覚支:正法を喜ぶこと。
(5)軽安覚支:身心が軽快であること。
(6)定覚支:心を散乱せしめないこと。
(7)捨覚支:心が偏らず平等であること。捨とは平等の意。
八正道:生死を脱れる道の八成分。
(1)正見:苦集滅道の四諦の理を認めること。
(2)正思惟:既に四諦の理を認め、なお考えて智慧を増長させること。
(3)正語:正しい智慧で口業を修め、理ならざる言葉を吐かないこと。
(4)正業:正しい智慧で身業を修め、清浄ならざる行為をしないこと。
(5)正命:身口意の三業を修め、正法に順じて生活すること。
(6)正精進:正しい智慧でもって、涅槃の道を精進すること。
(7)正念:正しい智慧でもって、常に正道を心にかけること。
(8)正定:正しい智慧でもって、心を統一すること。 |
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復次一切眾生為結使病所煩惱。無始生死已來。無人能治此病者。常為外道惡師所誤。我今出世為大醫王集諸法藥。汝等當服。是故佛說摩訶般若波羅蜜經 |
復た次ぎに、一切の衆生は、結使の病の為に煩悩せらるるも、無始の生死已来、人の能く此の病を治す者無く、常に外道の悪師の為に誤たる。我れ今出世して、大医王と為り、諸法の薬を集むれば、汝等当(まさ)に服すべし。』と。是の故に仏は、摩訶般若波羅蜜経を説きたまえり。 |
復た次ぎに、 ――諸の法薬を服ませる――
一切の、
『衆生』は、
『結使』という、
『病』に、
『煩悩されている(悩まされている)!』が、
『無始の生死( 原初)』以来、
此の、
常に、
『外道』の、
『悪師』に、
『誤らされてきた!』。
わたしは、
今、
『世間』に、
『出て!』、
『大医王と為り!』、
諸の、
『法の薬』を、
『集めてきた!』。
お前たちは、
之を、
『服まねばならぬ!』、と。
是の故に、
『仏』は、
『摩訶般若波羅蜜経』を、
『説かれたのである!』。
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結使(けっし):人を生死に結びつけ、又人を使役する者。煩悩の異名。『大智度論巻41下注:結、十結』参照。
煩悩(ぼんのう):乱し悩せること。又能く其れを為す者。『大智度論巻27下注:煩悩』参照。
無始生死(むしのしょうじ):始まりのない生死。
已来(いらい):以来。 |
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復次有人念言。佛與人同亦有生死。實受飢渴寒熱老病苦。佛欲斷彼意故。說是摩訶般若波羅蜜經。示言。我身不可思議。梵天王等諸天祖父。於恒河沙等劫中。欲思量我身尋究我聲不能測度。況我智慧三昧。如偈說
諸法實相中 諸梵天王等
一切天地主 迷惑不能了
此法甚深妙 無能測量者
佛出悉開解 其明如日照 |
復た次ぎに、有る人の念じて言わく、『仏も人と同じく、亦た生死有りて、実に飢渇、寒熱、老病の苦を受けたもう。』と。仏は、彼の意(こころ)を断ぜんと欲したもうが故に、是の摩訶般若波羅蜜経を説き、示して言わく、『我が身は不可思議なり。梵天王等の諸天の祖父すら、恒河沙等の劫中に於いて、我が身を思量し、我が声を尋究せんと欲すれど、測度する能(あた)わず。況んや我が智慧、三昧をや。』と。
偈に説くが如し、
諸法の実相中には、諸の梵天王等
一切の天地の主も、迷惑して了する能わず
此の法は甚だ深妙なり、能く測量する者無し
仏出でて悉く開解す、其の明日の照らすが如し
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復た次ぎに、 ――仏の身口意業の不可思議を説く――
有る人は、
『念じて!』、こう言う、――
『仏』にも、
『人』と、
『同じように!』、
亦た、
『生、死』が、
『有り!』、
実に、
『飢渴、寒熱、老病の苦』を、
『受けられる!』、と。
『仏』は、
彼れの、
『意』を、
『断とう!』と、
『思われた!』が故に、
是の、
『摩訶般若波羅蜜経』を、
『説き示して!』、こう言われた、――
わたしの、
『身』は、
『不可思議である!』。
『梵天王』等の、
『諸天の祖父』は、
『恒河の沙』に、
『等しい!』ほどの、
『劫』中に、
わたしの、
『身』を、
『思量し!』、
わたしの、
『声』を、
『尋ね究めようとした!』が、
わたしの、
『身、声』を、
『測度することができなかった!』。
況して、
わたしの、
『智慧、三昧』は、
『尚更である!』、と。
『偈』に、こう説く通りである、――
諸の、
『法の実相』中には、
諸の、
『梵天王』等の、
一切の、
『天、地の主』も、
『迷惑して!』、
『了解することができない!』。
此の、
『法( 法の実相)』は、
甚だ、
『深妙であり!』、
『測量できる!』者が、
『無かった!』が、
『仏』が、
『世間』に、
『出て!』、
悉く、
『解き!』、
『開かれた!』ので、
其れは、
『日』に、
『照らされたように!』、
『明了である!』。
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飢渇(きかつ):うえとかわき。
寒熱(かんねつ):さむさとあつさと。
思量(しりょう):おもいはかる。
尋究(じんぐ):たずねきわめる。
測度(しきど):はかる。
迷惑(めいわく):まよいまどう。
深妙(じんみょう):奥深く微妙。
測量(しきりょう):はかる。
開解(かいげ):ひらきとく。 |
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又如佛初轉法輪時。應時菩薩從他方來欲量佛身。上過虛空無量佛剎。至華上佛世界。見佛身如故。菩薩說言
虛空無有邊 佛功德亦爾
設欲量其身 唐勞不能盡
上過虛空界 無量諸佛土
見釋師子身 如故而不異
佛身如金山 演出大光明
相好自莊嚴 猶如春華敷
如佛身無量。光明音響亦復無量。戒定慧等諸佛功德皆悉無量。如密跡經中三密。此中應廣說 |
又、仏の初めて法輪を転じたもう時の如し。時に応じて菩薩、他方より来たりて、仏身を量らんと欲し、虚空の上を、無量の仏刹を過ぐして、華上仏の世界に至れども、仏身を見れば、故(もと)の如し。菩薩の説いて言わく、
虚空に辺有ること無く、仏の功徳も亦た爾(しか)り
設(たと)い其の身を量ろうと欲するも
唐(いたずら)に労して、尽くす能(あた)わず
上に虚空界を過ぐること、無量諸の仏土なれど
釈の師子身を見れば、故の如くして異ならず
仏の身は金山の如く、大光明を演出し
相好自ら荘厳して、猶お春の華の敷くが如し
仏身の無量なるが如く、光明音響も亦復た無量なり。戒定慧等の諸仏の功徳も、皆悉く無量なること、密跡経中の三密の如し。此の中にも、応に広く説くべし。 |
又、 ――仏の身業の不可思議を説く――
例えば、
『仏』が、
初めて、
『法輪』を、
『転じられた!』時、
他方より、
『菩薩』が、
『来て!』、
『仏』の、
『身』を、
『量ろうとし!』、
『虚空』上を、
『無量の仏刹(仏の国土)』を、
『過ぎ!』、
『華上仏』の、
『世界』にまで、
『至った!』が、
『仏』の、
『身』は、
『故(もと)のように!』、
『見えた!』。
『菩薩』は、
『偈』を説いて、こう言った、――
『虚空』に、
亦た、
『仏の功徳』も、
『同じである!』。
若し、
『仏』の、
『身』を、
『量ろうとすれば!』、
唐( いたずら)に、
『労しても!』、
『尽すことはできない!』。
『虚空界』上を、
無量の、
『諸仏』の、
『国土』を、
『過ぎて!』、
『釈師子』の、
『身』を、
『見れば!』、
『身』は、
『故のままに!』、
『異ならない!』。
『仏身』は、
譬えば、
『金山のように!』、
『大光明』を、
『演出し!』、
『相好』が、
自ら、
『荘厳して!』、
『仏』の、
『身』が、
『無量である!』のと、
『同様に!』、
『光明』や、
『音響』も、
亦た、
『無量である!』。
『戒、定、慧』等の、
『諸仏の功徳』も、
亦た、
悉く、
『無量である!』のは、
例えば、
『密跡経』中の、
『三密(仏の身口意)』と、
『同じである!』が、
此の中にも、
『広く!』、
『説くことになるだろう!』。
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他方(たほう):此の世界以外。
仏刹(ぶっせつ):仏の国土。
仏土(ぶつど):仏の国土。仏刹。
釈師子身(しゃくのしししん):釈迦仏の身を師子の身に喩える。
金山(こんせん):金色に輝く山を仏に喩える。
演出(えんしゅつ):ひろがる。
相好(そうごう):仏の三十二の殊特の相と、八十種の好ましい所。『大智度論巻10下注:八十随形好、同巻21下注:三十二相』参照。
戒定慧(かいじょうえ):持戒、禅定、智慧のこと。『大智度論巻1上注:三学』参照。
華上仏(けじょうぶつ):大宝積経所載の蓮華上如来。
三密(さんみつ):如来の身口意業の不可思議なるを云う。 |
参考:『大宝積経巻10密迹金剛力士会』:『佛成道未久時。轉法輪遊波羅奈。東方去是世界甚遠。乃得思夷華佛土。世界曰懷調。有菩薩名曰應持。來詣忍界奉覲世尊。稽首作禮敬問供事。禮足下已。繞佛七匝則往其前。應持菩薩時心念言。我欲度知如來身限。自變其身高三百三十六萬里。觀如來身五百四十三萬兆垓二萬億里。則心念言。我獲神足。神通自娛。我寧可復測度佛身所入云何。佛以威德。以神足力。上方去此百億江河沙諸佛國土。有世界名蓮華嚴。其土有佛名蓮華上。如來至真等正覺。現在說法。應持菩薩往在其前。不能睹之。在上而立遙視。永不逮見世尊大聖能仁佛頂。欲見頂相永不得見也。不知佛身高長廣遠幾千億載江河沙佛土。』
参考:『大宝積経巻10至11密迹金剛力士会』:『如來祕要。有三事。何謂為三。一曰身密。二曰口密。三曰意密何謂身密。如來於斯無所思想。亦不惟念。普現一切威儀禮節。或有諸天人民。自喜經行。見睹如來經行之時。諸天人民心自念言。世尊為上。斯等逮見如來身密。佛之所念亦不思望。一切眾生睹見如來至真妙德威儀。若諸天人喜坐。見如來坐。若諸天人喜臥。見如來臥。‥‥何謂為如來口祕要。其夜如來逮無上正真道。成最正覺。至無餘界泥洹之界。滅度日夜。於其中間。施一文字以能頒宣。一一分別無數億載。講演布散無限義理。所以者何。如來常定。如來至真無出入息。無所思念。亦無所行。無復思想。悉無所行。雖口所宣無想無行。‥‥何謂為如來心祕要。其業清淨。所以因緣一切諸天子所生。以一識慧。壽八萬四千劫。又其神識不轉不變。以為餘識乃至定意還得壽命。從彼終沒。因其所行受身而生。』 |
三密(さんみつ):身密、語密、意密をいい、如来自証の三密をいう。如来の三密とは、身語意の三業は本来平等であり、身は語に等しく、語は意に等しいことをいい、皆法界に遍満していることをいう。謂わゆる法仏の平等の三密である。然らば則ち一切の形色は身密であり、一切の音声は語密であり、一切の理は意密である。これを密というのは、人には秘隠されているの意味ではなく、これ等の義は、法仏自証の境であれば、凡人の分が無いが故に密といい、またわれ等には一切平等について、本来これを具えていながら、惑染によりこれを隠秘されているので、これを密というのである。 |
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復次佛初生時墮地行七步。口自發言。言竟便默。如諸嬰孩不行不語。乳餔三歲。諸母養育漸次長大。 |
復た次ぎに、仏は初めて生まるる時、地に堕ちて七歩行き、口に自ら言を発して、言い竟(おわ)りて便(すなわ)ち黙すること、諸の嬰孩の如し。行かず語らずして、乳餔すること三歳、諸母養育して、漸次長大す。 |
復た次ぎに、
『仏』は、
初めて、
『生まれた!』時、
『地』に、
『口』に、
自ら、
『言(ことば)』を、
『発しられた!』が、
言ってしまうと、
『黙ってしまい!』、
諸の、
『嬰孩( 幼児)のように!』、
『行くこともなく!』、
『語ることもなく!』、
『三歳( 三年)』、
『乳』を、
『飲み!』、
諸の、
『母( 乳母)』が、
『養育して!』、
『漸次(次第に)!』、
『長大(成長)した!』。
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嬰孩(ようがい):嬰児。
乳餔(にゅうほ):乳を飲む。
三歳(さんさい):三年に同じ。
漸次(ぜんじ):ゆっくりと次第して。 |
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然佛身無數過諸世間。為眾生故現如凡人。凡人生時身分諸根及其意識未成就故。身四威儀坐臥行住言談語默。種種人法皆悉未了。日月歲過漸漸習學能具人法 |
然(しか)るに仏身は無数にして、諸の世間に過ぎたり。衆生の為の故に凡人の如きを現す。凡人は生時に、身分、諸根、及び其の意識、未だ成就せざるが故に、身の四威儀、坐臥行住、言談語默、種種の人法、皆悉く、未だ了せず。日月歳過ぎ、漸漸に習学して、能く人法を具す。 |
然( しか)し、
『仏』の、
『身』は、
『実に!』、
『無数であり!』、
諸の、
『世間の人』を、
『超えている!』。
『仏』は、
『衆生』の為の故に、
『凡人のように!』、
『現されたのである!』。
『凡人』は、
『生まれる!』時、
『身の分』や、
『諸の根』や、
『意識』は、
未だ、
『成就(成熟)していない!』が故に、
『身』の、
『四威儀である!』、
『坐、臥、行、住』や、
『口』の、
『言、談、語、黙』や、
種種の、
『人法( 人の機能/要素)』は、
皆、
悉く、
『完全でなく!』、
『日、月、歳』を、
『過ごして!』、
『漸漸と(徐々に)!』、
『習学して!』、
漸く、
『人法』を、
『具えることができるのである!』。
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身分(しんぶん):身の部分。
諸根(しょこん):外境に接する根本器官。即ち眼耳鼻舌身意の六根を云う。
身四威儀(みのしいぎ):身を以ってする坐臥行住を云う。
坐臥行住(ざがぎょうじゅう):すわると、ふせると、あるくと、とまると。
言談語默(ごんだんごもく):言はことばを発すること。談はあれこれ相手とはなすこと。語はことばをもって意志を通ずること。默はだまること。
人法(にんぽう):人と名づけたる法、即ち事物の意。『大智度論巻1上注:法』参照。
未了(いまだりょうせず):まだはっきりしない。
漸漸(ぜんぜん):ゆっくりと。 |
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今佛云何生。便能語能行。後更不能以此致怪。但為此故以方便力現行人法如人威儀。令諸眾生信於深法。 |
今、仏は云何(いか)んが生じて、便ち能く語り、能く行くに、後に更に能わざる。此(ここ)を以って怪を致すが故に、但だ此の為の故に、方便の力を以って、人法を行ずること、人の威儀の如くなるを現し、諸の衆生をして深法を信ぜしむ。 |
今、
『仏』は、
何故、
『生まれた!』時には、
便ち(難無く)、
『語ることができ!』、
『行くことができた!』のに、
後には、
此の故に、
『怪訝』を、
『招く!』ので、
但だ、
此の、
『事』の為の故に、
『方便』の、
『力』を、
『用いて!』、
例えば、
『人』の、
『威儀のような!』、
『人法』を、
『現して!』、
『行い!』、
諸の、
『衆生』に、
『深い法』を、
『信じさせられたのである!』。
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致怪(けをいたす):怪訝の意をまねく。
方便(ほうべん):智慧より出る所の方法。『大智度論巻25上注:善巧方便、同巻41下注:方便』参照。 |
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方便(ほうべん):般若に対する言葉であり、則ち真如の智に達するを般若と為し、権道の智に達するを方便と為すを謂う。権道とは乃ち他を利益する手段方法である。この釈に依れば則ち大小乗一切の仏教は、概ねこれを称して方便と為す。方とは方法、便とは使用、使用とは一切の衆生の機に適合する方法をいう。また方を方正の理と為し、便とは巧妙なる言辞と為す。種種の機に対して、方正の理と巧妙なる言を用いることである。また方とは衆生の方域、便とは教化の便法として、諸の機の方域に応じて、適化の便法を用いる。
賢聖(けんじょう):賢とは善に和するの義。善に和し、悪を離れるといえども、未だ無漏の智を発さず、理を証せず、惑を断たずして、凡夫の位に在る者を、賢といい、既に無漏の智を発して理を証し、惑を断じるに次いで凡夫の性を捨てたる者を聖という。見道前の七方便の位を賢といい、見道以上を証という。 |
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若菩薩生時便能行能語。世人當作是念。今見此人世未曾有。必是天龍鬼神。其所學法必非我等所及。何以故。我等生死肉身為結使業所牽不得自在。如此深法誰能及之。以此自絕不得成賢聖法器。為是人故。於嵐毘尼園中生 |
若しは菩薩生るる時、便ち能く行き、能く語らば、世人は、当に是の念を作すべし、『今見る此の人は、世に未だ曽(かつ)て有らず。必ず是れ天、龍、鬼神ならん。其の学ぶ所の法も、必ず我等の及ぶ所に非ず。何を以っての故に、我等が生死の肉身は、結使の業の為に牽かれて、自在を得ざればなり。此の深法の如き、誰か能く之に及ばん。』と。此の自ら絶えて、賢聖の法器と成るを得ざる以って、是の人の為の故に、嵐毘尼園中に生じたまえり。 |
若し、
『菩薩』が、
『生まれた!』時に、
便ち( 難無く)、
『行くことができ!』、
『語ることができれば!』、
『世間の人』は、
是の念を作すはずである、――
今、
『見る!』、
此の、
必ず、
是れは、
『天か!』、
『龍か!』、
『鬼神だろう!』。
其の、
『学ぶ!』所の、
『法』も、
必ず、
わたし達の、
『及ぶ所ではないだろう!』。
何故ならば、
わたし達の、
『生、死の肉身』は、
『結使の業』に、
『牽(ひ)かれて!』、
『自在でないからである!』。
誰が、
此のような、
『深い!』、
『法』に、
『及ぶことができるのか?』、と。
此の、
自ら、
『道』を、
『絶やして!』、
『賢聖の法器』と、
『成ることができない!』が故に、
是の、
『人』の為に、
『嵐毘尼園』中に、
『生まれられたのである!』。
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賢聖法器(けんじょうのほうき):仏法を受ける器。
嵐毘尼園(らんびにおん):花園の名。『大智度論巻26上注:藍毘尼園』参照。 |
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雖即能至菩提樹下成佛。以方便力故。而現作孩童幼小年少成人。於諸時中次第而受嬉戲術藝服御五欲。具足人法。後漸見老病死苦生厭患心。於夜中半踰城出家。到鬱特伽阿羅洛仙人所。現作弟子而不行其法。雖常用神通自念宿命。迦葉佛時持戒行道。而今現修苦行六年求道 |
即ち、能く菩提樹下に至りて、仏と成ると雖(いえど)も、方便力を以っての故に、孩童、幼小、年少、成人と作るを現し、諸の時中に於いて、次第に嬉戯、術藝、服御、五欲を受けて、人法を具足し、後に漸(ようや)く、老病死の苦を見て、厭患心を生じ、夜中の半ばに於いて、城を踰えて出家し、鬱特伽、阿羅洛仙人の所に到りて弟子と作るを現したまえるも、其の法を行ぜず、常に神通を用いて、自ら宿命を念じたもうに、迦葉仏の時の持戒、行道すと雖も、今、苦行を修めて、六年の求道を現したもう。 |
即座に、
『菩提樹』下に、
『至って!』、
『仏』と、
『成ることもできた!』が、
『方便の力』を、
『用いた!』が故に、
『孩童( 児童)』、
『幼小( 幼年)』、
『年少( 少年)』、
『成人』と、
『作る!』ことを、
『現された!』。
諸の、
『時期』中に於いて、
次第に、
『嬉戯( 遊び)』、
『術藝( 学問)』、
『服御( 乗馬)』、
『五欲( 色、声、香、味、触欲)』を、
『受けて!』、
『人法』を、
『具足(満足)し!』、
後に、
夜半に、
『城』を、
『踰えて!』、
『出家し!』、
『鬱特伽、阿羅洛』という、
『仙人の所』に、
『到って!』、
『弟子と作る!』ことを、
『現された!』が、
其の、
『法』を、
『用いられず!』、
常に、
『神通』を、
『用いて!』、
自ら、
『宿命(過去世の生)』を、
『念じられる!』と、
已に、
『迦葉仏の時』、
『持戒して!』、
『道を行っていたのである!』が、
今、
復た、
『苦行』を、
『修めて!』、
『六年』、
『道を求める!』ことを、
『現されたのである!』。
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孩童(がいどう):小児。
嬉戯(きげ):あそびたわむれること。
術藝(じゅつげい):六藝。即ち礼、楽、射、御、書、数を云う。
服御(ふくぎょ):馬に乗り、車を御すること。
五欲(ごよく):色声香味触の五境を云う。
厭患心(えんげんしん):いといわずらわしく思う心。
鬱特伽(うっどか):梵名udraka、仙人の名。又鬱頭藍に作る。『大智度論巻22上注:数論』参照。
阿羅洛(あららく):梵名aaraadakaalaama、仙人の名。又阿羅藍に作る。『大智度論巻22上注:数論』参照。
迦葉仏(かしょうぶつ):過去の仏の名。『大智度論巻4上注:迦葉仏』参照。
行道(ぎょうどう):道を求めて修行すること。
宿命(しゅくみょう):過去の生活。
求道(ぐどう):道を探しもとめること。 |
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菩薩雖主三千大千世界而現破魔軍成無上道。隨順世法故現是眾變。今於般若波羅蜜中。現大神通智慧力故。諸人當知。佛身無數過諸世間 |
菩薩は、三千世界の主たりと雖も、魔軍を破りて、無上道を成ずるを現し、世法に随順するが故に、是の衆変を現したまえり。今、般若波羅蜜中に於いて、大神通と智慧との力を現したもうが故に、諸人は、当に、『仏の身は無数にして、諸の世間を過ぎたり』と知るべし。 |
『菩薩』が、
『三千大千世界』の、
『主でありながら!』、
而も、
『魔の軍』を、
『破って!』、
『無上の道』を、
『完成する!』ことを、
『現された!』のは、
『世法』に、
『随順された!』が故に、
是のような、
『衆変(多くの神変)』を、
『現されたのである!』。
今、
『般若波羅蜜』中に於いて、
『大神通』と、
『智慧の力』を、
『現された!』が故に、
諸の、
『人』は、こう知ることになる、――
『仏の身』は、
『無数であり!』、
諸の、
『世間』を、
『超えている!』、と。
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随順(ずいじゅん):したがってさからわない。
衆変(しゅへん):神通力による多くの変事。多くの神変。 |
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復次有人應可度者。或墮二邊。或以無智故。但求身樂。或有為道故修著苦行。如是人等於第一義中失涅槃正道。佛欲拔此二邊令入中道故。說摩訶般若波羅蜜經 |
復た次ぎに、有る人は、応に度すべき者なるも、或いは二辺に堕ち、或いは無智なるを以っての故に、但だ身の楽を求め、或いは道の為の故に、苦行を修著する有り。是の如き人等は、第一義中に於いて、涅槃の正道を失えば、仏は、此の二辺より抜いて、中道に入れしめんと欲したもうが故に、摩訶般若波羅蜜経を説きたまえり。 |
復た次ぎに、 ――有、無の二辺を離れさせる――
有る、
是れ等のような、
『人』は、
『第一義』中に於いて、
『涅槃』の、
『正道』を、
『失っている!』ので、
『仏』は、
此の、
『二辺』より、
『抜いて!』、
『中道』に、
『入れたい!』と、
『思い!』、
故に、
『摩訶般若波羅蜜経』を、
『説かれたのである!』。
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二辺(にへん):善悪の果報の有無等、相反する二種の見解を云う。『大智度論巻26上注:五見、同巻41下注:十結』参照。
修著(しゅじゃく):執著して修める。
第一義(だいいちぎ):諸法の実相。『大智度論巻1上注:第一義』参照。
中道(ちゅうどう):二辺を離れた道。二辺に執著しない道の意。『大智度論巻43上注:中道』参照。 |
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復次分別生身法身供養果報故。說摩訶般若波羅蜜經。如舍利塔品中說 |
復た次ぎに、生身、法身の供養の果報を分別したもうが故に、摩訶般若波羅蜜経を説きたまえり。舎利塔品中に説くが如し。 |
復た次ぎに、 ――法身を供養することを説く――
『仏』を、
『供養する!』、
『果報』に於いて、
『生身』と、
『法身』とを、
『分別する!』が故に、
『摩訶般若波羅蜜経』を、
『説かれた!』。
例えば、
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生身(しょうじん):父母所生の身の意。『大智度論巻16下注:生身』参照。
法身(ほうしん):仏所説の法を仏の真実身と為す。『大智度論巻16下注:法身』参照。 |
参考:『大品般若経巻10法称品』:『復次世尊。是摩尼寶。若著篋中舉寶出。其功德薰篋故人皆愛敬。如是世尊在所在處。有書般若波羅蜜經卷。是處則無眾惱之患。亦如摩尼寶所著處則無眾難。世尊。佛般涅槃後舍利得供養。皆是般若波羅蜜力。禪那波羅蜜乃至檀那波羅蜜。內空乃至無法有法空。四念處乃至十八不共法。一切智法相法住法位法性。實際不可思議性一切種智是諸功德力。善男子善女人作是念。是佛舍利一切智一切種智大慈大悲。斷一切結使及習。常捨行不錯謬法等諸佛功德住處。以是故。舍利得供養。世尊。舍利是諸功德寶波羅蜜住處。不垢不淨波羅蜜住處。不生不滅波羅蜜。不入不出波羅蜜不增不損波羅蜜。不來不去不住波羅蜜。是佛舍利。是諸法相波羅蜜住處。以是諸法相波羅蜜修薰故舍利得供養。』 |
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復次欲說阿鞞跋致阿鞞跋致相故說。又為魔幻魔事故說 |
復た次ぎに、阿毘跋致と、阿毘跋致の相とを説かんと欲したもうが故に説き、又魔幻、魔事の為の故に説きたまえり。 |
復た次ぎに、 ――阿鞞跋致と魔事とを説く――
『阿鞞跋致( 不退)』と、
『阿鞞跋致の相』とを、
『説こうとし!』、
又、
『魔の幻』と、
『魔の事( 仕事)』とを、
『説こうとされた!』が故に、
『説かれた!』。
|
阿鞞跋致(あびばっち):梵語avinivartaniiya、不退と訳す。菩薩の地より退かないの意。『大智度論巻36上注:阿鞞跋致』参照。
魔幻(まげん):魔の現す幻事。『大智度論巻5下注:魔』参照。
魔事(まじ):摩の仕事。『大品般若経巻13魔事品』、『大智度論巻68釈魔事品』参照。 |
参考:『大品般若経巻13魔事品』:『爾時慧命須菩提白佛言。世尊。是善男子善女人發阿耨多羅三藐三菩提心。行六波羅蜜成就眾生淨佛國土。佛已讚歎說其功德。世尊。云何是善男子善女人求於佛道生諸留難。佛告須菩提。樂說辯不即生。當知是菩薩魔事。須菩提言。世尊。何因緣故。樂說辯不即生是菩薩魔事。佛言。有菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。難具足六波羅蜜。以是因緣故樂說辯不即生是菩薩魔事。復次須菩提。樂說辯卒起。當知亦是菩薩魔事。世尊。何因緣故。樂說辯卒起復是魔事。佛言。菩薩摩訶薩行檀那波羅蜜乃至般若波羅蜜著樂說法。以是因緣故樂脫辯卒起。當知是菩薩魔事。‥‥』 |
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復次為當來世人供養般若波羅蜜因緣故。又欲授三乘記別故。說是般若波羅蜜經。如佛告阿難。我涅槃後。此般若波羅蜜。當至南方。從南方至西方。後五百歲中當至北方。是中多有信法善男子善女人。種種華香瓔珞幢幡伎樂燈明珍寶以財物供養。若自書若教人書。若讀誦聽說。正憶念修行。以法供養。是人以是因緣故。受種種世間樂。末後得三乘入無餘涅槃。如是等觀諸品中因緣事故。說般若波羅蜜經 |
復た次ぎに、当来の世の人の般若波羅蜜を供養する因縁の為の故に、又三乗の記別を授けんと欲したもうが故に、是の般若波羅蜜を説きたまえり。仏の阿難に告げたまえるが如し、『我が涅槃の後、此の般若波羅蜜は、当に南方に至り、南方より西方に至るべく、後の五百歳中に当に北方に至るべし。是の中に多く法を信ずる善男子、善女人有り、種種の華香、瓔珞、幢幡、伎楽、灯明、珍宝、以って財物の供養し、若(も)しは自ら書き、若しは人に教えて書かしめ、若しは読誦、聴説、正憶念、修行して、以って法の供養せん。是の人は是の因縁を以っての故に、種種の世間の楽を受け、末後には三乗を得て、無余涅槃に入らん。』と。是の如き等の諸品中の因縁事を観る故に、般若波羅蜜を説きたまえり。 |
復た次ぎに、 ――記別の因縁を観る――
『当来の世( 来世)の人』が、
『般若波羅蜜』を、
『供養する!』、
『因縁とする!』為の故に、
又、
『三乗』の、
『記別』を、
『授けようとされた!』が故に、
是の、
『般若波羅蜜経』を、
『説かれた!』。
例えば、こうである、――
『仏』は、
『阿難』に、こう告げられた、――
わたしの、
『涅槃の後』、
此の、
『般若波羅蜜』は、
『南方』に、
『至り!』、
『南方』より、
『西方』に、
『至るだろう!』。
その後の、
『五百歳』中に、
『西方』より、
『北方』に、
『至るだろう!』。
是の中に、
『法』を、
『信じる!』、
『善男子、善女人』が、
『多く!』、
『有り!』、
種種の、
『華香、瓔珞、幢幡、伎楽、灯明、珍宝』の、
『財物』を、
『用いて!』、
『般若波羅蜜』を、
『供養するだろう!』。
若しくは、
若しは、
自ら、
『読誦し!』、
『聴き!』、
『説き!』、
『正憶念し!』、
『修行する!』ことを、
『用いて!』、
『法』を、
『供養するだろう!』。
是の、
『人』は、
是の、
『因縁』の故に、
種種の、
『世間の楽』を、
『受け!』、
『末後( 最後)』には、
『三乗の法』を、
『得て!』、
『無余涅槃』に、
『入るだろう!』、と。
是れ等のように、
『諸品』中に、
『因縁の事』を、
『観る!』が故に、
『仏』は、
『般若波羅蜜経』を、
『説かれたのである!』。
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三乗記別(さんじょうのきべつ):仏が弟子等の為に、将来の阿羅漢果、辟支仏道、仏果を予告すること。
記別(きべつ):記録して区別する( to record and differentiate )、梵語 vyaakaraNa の訳、分離/区別/差別(
separation, distinction, discrimination )、説明/詳細記述( explanation, detailed
description )の義、[仏教徒に於いては]予測/予言( (with Buddhists) prediction, prophecy
)の義、保証/仏が弟子の将来の仏果(成仏)を予告すること( Guarantee; prediction; the Buddha's foretelling
of the future of his disciples to Buddhahood. )の意。
阿難(あなん):梵名aananda、仏の侍従の名。『大智度論巻24下注:阿難』参照。
善男子(ぜんなんし):男の信者。
善女人(ぜんにょにん):女の信者。
華香(けこう):花と香木。
瓔珞(ようらく):垂して胸等を飾るもの。
幢幡(どうばん):旗の類の荘厳具。
伎楽(ぎがく):音楽。
財物供養(ざいもつのくよう):財物を以って供養するの意。法供養に対す。
読誦(どくじゅ):経を読むと、経を諳誦すると。
聴説(ちょうぜつ):説法を聴く。
正憶念(しょうおくねん):正しく記憶する。
法供養(ほうのくよう):法の書写、読誦、聴説、正憶念、修行等を以って供養する。財供養に対す。
無余涅槃(むよねはん):肉体を滅尽し、生死の苦を永く離れたる涅槃の意。『大智度論巻1上注:涅槃』参照。 |
参考:『大品般若経巻13聞持品』:『舍利弗言。世尊。十方現在無量無邊阿僧祇諸佛。皆識皆以佛眼見是善男子善女人書深般若波羅蜜時乃至修行時。佛言。如是如是。舍利弗。十方現在無量無邊阿僧祇諸佛。皆識皆以佛眼見是善男子善女人書深般若波羅蜜時乃至修行時。舍利佛。是中求菩薩道善男子善女人。若書是深般若波羅蜜。受持讀誦正憶念如說修行。當知是人近阿耨多羅三藐三菩提不久。舍利弗。善男子善女人書是深般若波羅蜜。受持讀誦乃至正憶念。是人於深般若波羅蜜多信解相。亦供養恭敬尊重讚歎是深般若波羅蜜。華香瓔珞乃至幡蓋供養。舍利弗。諸佛皆識皆以佛眼見是善男子善女人。是善男子善女人供養功德當得大利益大果報。舍利弗。是善男子善女人以是供養功德因緣故終不墮惡道中。乃至阿惟越致地終不遠離諸佛。舍利弗。是善男子善女人是善根因緣故。乃至阿耨多羅三藐三菩提終不遠離六波羅蜜。終不遠離內空乃至無法有法空。終不遠離四念處乃至八聖道分。終不遠離佛十力乃至阿耨多羅三藐三菩提。舍利弗。是深般若波羅蜜佛般涅槃後當至南方國土是中比丘比丘尼優婆塞優婆夷。當書是深般若波羅蜜。當受持讀誦思惟說正憶念修行。以是善根因緣故終不墮惡道中受天上人中樂增益六波羅蜜。供養恭敬尊重讚歎諸佛。漸以聲聞辟支佛佛乘而得涅槃。舍利弗。是深般若波羅蜜從南方當轉至西方。所在處是中比丘比丘尼優婆塞優婆夷。當書是深般若波羅蜜。當受持讀誦思惟說正憶念修行。以是善根因緣故終不墮惡道中。受天上人中樂增益六波羅蜜。供養恭敬尊重讚歎諸佛。漸以聲聞辟支佛佛乘而得涅槃。舍利弗。是深般若波羅蜜從西方當轉至北方。所在處是中比丘比丘尼優婆塞優婆夷。當書是深般若波羅蜜。當受持讀誦思惟說正憶念修行。以是善根因緣故終不墮惡道中。受天上人中樂增益六波羅蜜。供養恭敬尊重讚歎諸佛。漸以聲聞辟支佛佛乘而得涅槃。』 |
三乗(さんじょう):乗は運載、または乗り物の義。永遠の菩薩行を信奉する者たちは自らを大乗と称し、安楽の境地を自身のみに求める者たちを小乗、更にその小乗を二分して声聞、辟支仏と称した。
(1)声聞(しょうもん):仏の声を聞いた者。仏に依り安楽な境地を求めて煩悩を断とうとする聖者。
(2)辟支仏(びゃくしぶつ):無仏、無法の時に世に出て、仏に依らず煩悩を断った聖者。
(3)菩薩:一切の衆生を済度してから涅槃に入る永遠の修行者。菩薩の船は大きいので大乗という。 |
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