巻中之第三

 

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仏道品第八

菩薩、非道を行う

如来の種

菩薩の父母と妻子

入不二法門品第九

不二法門に入る

文殊師利、不二法門を説く

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

仏道品第八

佛道品第八

仏道品(ぶつどうぼん)第八

 菩薩は、すでに仏道に通達する。

 

 

 

菩薩、非道を行う

爾時文殊師利問維摩詰言。菩薩云何通達佛道

その時、文殊師利、維摩詰に問うて言わく、『菩薩は、云何が仏道に通達する。』

 その時、文殊師利が維摩詰に問いました、

『菩薩は何のようにして仏道に通達するのがよいでしょう?』

維摩詰言。若菩薩行於非道。是為通達佛道

維摩詰言わく、『もし菩薩、非道を行ぜば、これを仏道に通達すと為す。』

 維摩詰が言います、

『もし菩薩が非道を行えば、仏道に通達しよう。』

又問。云何菩薩行於非道

また問わく、『云何が菩薩は非道を行ずる。』

 また問います、

『菩薩は何のように非道を行うのがよいでしょう?』

答曰。若菩薩行五無間而無惱恚

答えて曰く、『もし菩薩、五無間(ごむげん、無間地獄に入るべき五つの罪悪、五無間業、五逆)を行ずれども、悩恚(のうい、悩みと瞋り)無く、

 答えます、『もし

 菩薩が、

   五無間(殺父、殺母、殺阿羅漢、従仏身出血、破和合僧)を行っても、

   悩みと怒りは無い。

 

  五無間業(ごむげんごう):五逆(ごぎゃく)、無間獄に入るべき五つの罪悪、父を殺す、母を殺す、阿羅漢を殺す、仏身より血を出だす、和合僧(わごうそう、仏教教団)を破す。

至于地獄無諸罪垢

地獄に至れども、諸の罪垢(ざいく、罪と煩悩)無く、

 地獄に堕ちても、

   諸の罪と煩悩は無い。

至于畜生無有無明憍慢等過

畜生に至れども、無明憍慢等の過ち有ること無く、

 畜生に生まれても、

   愚か、軽慢などの過ちは無い。

至于餓鬼而具足功德

餓鬼に至れども、功徳(衆生済度の力)を具足し、

 餓鬼になっても、

   衆生済度の力は備えている。

行色無色界道不以為勝

色無色界の道を行ずれども、以って勝れたりと為さず、

 色界、無色界の天に生まれても、

   それを勝れた世界だとは思わない。

示行貪欲離諸染著

貪欲を行ずることを示せども、諸の染著を離れ、

 貪欲であるように見えても、

   執著することは無い。

示行瞋恚於諸眾生無有恚閡

諸の衆生に於いて、瞋恚を行ずることを示せども、恚礙(瞋恚と罣礙)有ること無く、

 諸の衆生について怒っているように見えても、

   衆生済度の妨げにはならない。

示行愚癡而以智慧調伏其心

愚癡(ぐち、ワレとワガモノ有りとすること)を行ずることを示せども、智慧を以ってその心を調伏し、

 我あり、我が物ありと思っているように見えても、

   智慧があるので心は囚われることなく自在である。

示行慳貪而捨內外所有不惜身命

慳貪(けんどん、モノオシミとムサボリ)を行ずることを示せども、内外の所有(身体と財産)を捨てて身命を惜しまず、

 物惜しみも貪りもしているように見えても、

   身体と財産を捨てることに躊躇しない。

示行毀禁而安住淨戒乃至小罪猶懷大懼

毀禁(ききん、犯戒)を行ずることを示せども、淨戒に安住して、すなわち小罪に至るまでも、なお大懼(だいく、大イナルオソレ)を懐き、

 戒を犯したように見えても、常に

   戒を守り、小罪を犯せば大いに恐れている。

示行瞋恚而常慈忍

瞋恚を行ずることを示せども、常に慈(慈悲)と忍(忍耐)あり、

 怒っているように見えても、常に

   慈悲と忍耐がある。

示行懈怠而懃修功德

懈怠(けたい、怠けること)を行ずることを示せども、懃に功徳を修め、

 怠けているように見えても、懃(ねんごろ、細々と)に

   功徳(くどく、衆生を救うの力)を得ようと修行している。

示行亂意而常念定

乱意を行ずることを示せども、常に念(正念)と定(禅定)あり、

 心が乱れているように見えても、常に

   心を乱すことはない。

示行愚癡而通達世間出世間慧

愚癡を行ずることを示せども、世間と出世間の慧に通達し、

 愚かであるように見えても、

   俗と聖との智慧に通達している。

示行諂偽而善方便隨諸經義

諂偽(てんぎ、ヘツライとイツワリ)行ずることを示せども、よく方便して、諸の経義に随い、

 諂(へつら)いと偽(いつわ)りを行っているように見えても、

   衆生を救うためで仏の教えに背かない。

示行憍慢而於眾生猶如橋梁

憍慢を行ずることを示せども、衆生に於いて、なお橋梁の(人の為にフミツケらるるが)如く、

 軽慢であるように見えても、

   衆生が彼岸に渡る橋となって、

   踏みつけられることを恐れてはいない。

示行諸煩惱而心常清淨

諸の煩悩を行ずることを示せども、心は常に清浄に、

 諸の煩悩があるように見えても、

   心は常に清浄である。

示入於魔而順佛智慧不隨他教

魔に入ることを示せども、仏の智慧に順じて他の教えに随わず、

 魔王であるように見えても、

   仏の智慧に随って、

   他の教えに随うことはない。

示入聲聞而為眾生說未聞法

声聞に入ることを示せども、衆生の為に、未聞の法を説き、

 声聞(しょうもん、仏の直弟子)であるように見えても、

   衆生の為に、まだ聞いたことのない法を説く。

示入辟支佛而成就大悲教化眾生

辟支仏に入ることを示せども、大悲を成就して衆生を教化し、

 辟支仏(びゃくしぶつ、仏に因らずに覚った者)であるように見えても、

   大悲を以って衆生を教化する。

示入貧窮而有寶手功德無盡

貧窮(びんぐ)に入るを示せども、宝手(ほうしゅ、財宝を出だす手)有りて功徳尽くること無く、

 貧窮しているように見えても、

   宝を取り出す手があり、

   衆生に施しても尽きることがない。

示入刑殘而具諸相好以自莊嚴

形残(ぎょうざん、身体の不具なること)に入ることを示せども、諸の相好(そうごう、仏の容貌形態、三十二相八十種好)を具え、以って自ら荘厳し、

 身体が不具であるように見えても、

   仏と同じ顔かたちで自らを飾っている。

示入下賤而生佛種姓中具諸功德

下賎に入ることを示せども、仏の種姓中に生じて諸の功徳を具え、(無生忍を得れば、必ず仏種を継ぐことをいう

 身分が賎しく見えても、

   仏の後継として生まれ、

   諸の衆生済度の力を得る。

示入羸劣醜陋而得那羅延身。一切眾生之所樂見

羸劣(るいれつ、弱く劣る)醜陋(しゅうろう、容貌醜く下品をいう)に入ることを示せども、那羅延(ならえん、天の力士)の身を得て、一切衆生の見ることを楽(ねが)う所となり、

 身体が弱く劣って容貌が醜く下品であるように見えても、

   天の力士の身を得て、

   一切の衆生は見ることを楽しむ。

示入老病而永斷病根超越死畏

老病死に入ることを示せども、永く病根を断じて死の畏れを超越し、

 老いて病んでいるように見えても、昔から

   病の根を断ち切ってあるので、

   死を恐れない。

示有資生而恒觀無常實無所貪

資生(ししょう、生業)有ることを示せども、無常を観じて、実に貪る所無く、

 生業があるように見えても、

   無常を観察しているので、

   欲しい物は何もない。

示有妻妾采女而常遠離五欲淤泥

妻妾、采女(さいにょ、女官)有ることを示せども、常に五欲(ごよく、色声香味触)の汚泥を遠離し、

 妻妾、女官などがあるように見えても、常に

   肉体的な欲望の泥沼からは離れている。

現於訥鈍而成就辯才總持無失

訥鈍(とつどん、鈍きこと)を現せども、辯才をを成就し、総持(そうじ、総て持して忘れず)して失うこと無く、

 辯舌悪く、頭が鈍いように見えても、

   辯才があり、記憶したことは忘れない。

示入邪濟而以正濟度諸眾生

邪済(じゃさい、邪道)に入ることを示せども、以って正しく諸の衆生を済度し、

 邪道の者であるように見えても、

   正法で以って諸の衆生を済度する。

現遍入諸道而斷其因緣

諸の道にあまねく入ることを現せども、その因縁を断じ(影響せられず)、

 諸の邪道邪教を信じているように見えても、

   それに影響されることはない。

現於涅槃而不斷生死。文殊師利。菩薩能如是行於非道。是為通達佛道

涅槃を現せども、生死を断ぜず。文殊師利、菩薩は、よくかくの如く、非道を行ず、これを仏道に通達すと為す。』と。

 涅槃に入ったように見えても、

   生死を断つことはない(衆生済度の為に何所にでも生まれる)。

 文殊師利、

   菩薩がこのように非道を行うことができれば、

   仏道に通達していると言えよう。』と。

 

 

 

 

如来の種

於是維摩詰問文殊師利。何等為如來種

ここに於いて維摩詰、文殊師利に問わく、『何等をか如来の種と為す。』

 次に維摩詰が文殊師利に問いました、

『如来の種とは何だと思うか?』と。

文殊師利言。有身為種

文殊師利言わく、『身(身見)有るは、為(これ)種なり。

 文殊師利が言います、

『身体が有ると思うこと、

   これが如来の種です。

無明有愛為種

無明の愛(渇愛)有るは、これ種なり。

 無明(むみょう、生得の愚かさ、我見と我所見)からくる渇愛があること、

   これが如来の種です。

貪恚癡為種

貪恚癡は、これ種なり。

 貪りと怒りと愚かさ(真理に暗いこと、我見と我所見)とは、

   これが如来の種です。

四顛倒為種

四顛倒(してんどう、常楽我浄、顛倒せる妄想、即ち苦を楽と計り、無常を常と計り、無我を我と計り、不浄を浄と計ること)は、これ種なり。

 四顛倒(してんどう、常楽我浄の顛倒せる妄想、即ち

              苦を楽と思い、

              無常を常と思い、

              無我を我と思い、

              不浄を浄と思うこと)は、

   これが如来の種です。

五蓋為種

五蓋(ごがい、五つの本心を覆うもの、即ち貪欲、瞋恚、睡眠(心昏く身重し)、掉悔(とうかい、心が躁鬱すること)、疑(無決断))は、これ種なり。

 五蓋(ごがい、五つの本心を覆うもの、

          貪り、怒り、睡眠、躁鬱、優柔不断)は、

   これが如来の種です。

六入為種

六入(ろくにゅう、眼耳鼻舌身意の六根)は、これ種なり。

 六入(ろくにゅう、眼耳鼻舌身意)は、

   これが如来の種です。

七識處為種

七識処(しちしきじょ、七識住、衆生の心識がそこに住むことを楽う所、即ち欲界の人天、初禅、二禅、三禅、空処、識処、無所有処)は、これ種なり。

 七識処(しちしきじょ、七識住、衆生の心識がそこに住むことを楽しむ所、

               欲界の人天、初禅、二禅、三禅、空処、識処、無所有処)は、

   これが如来の種です。

八邪法為種

八邪法(はちじゃほう、八正道の逆、即ち邪見、邪思惟、邪語、邪業、邪精進、邪定、邪念、邪命)は、これ種なり。

 八邪法(はちじゃほう、八正道の逆、邪見、邪思惟、邪語、邪業、邪精進、邪定、邪念、邪命)は、これが如来の種です。

九惱處為種

九悩処(くのうじょ、仏が受けた九つの災難)は、これ種なり。

 九悩処(くのうじょ、仏が受けた九つの災難)は、

   これが如来の種です。

 

  九悩(くのう):九難(くなん)、仏が受けた九つの災難。

    (1)梵志(ぼんし、婆羅門の修行者)のむすめ孫陀利(そんだり)に、五百の阿羅漢と共に誹謗された。

    (2)旋遮(せんじゃ)婆羅門のむすめが、木鉢を腹に縛りつけ、仏に孕まされたと誹謗した。

    (3)提婆達多(だいばだった、仏の従兄弟にして弟子)が岩で以って、仏を圧し潰そうとして、足指に傷を受けた。

    (4)逆木が脚に刺さった。

    (5)璃王(びるりおう)が兵を興し釈迦の一族を皆殺しにした時、仏は頭痛された。

    (6)阿耆達多(あぎだった)婆羅門の請(しょう、招待)を受けたが、馬麦(めばく、馬に食わせる飼料)を食うことになった。

    (7)冬に冷風の為に、背中が痛んだ。

    (8)六年間苦行された。

    (9)ある婆羅門の聚落にては、乞食して得られず、空鉢にて還ることになった。

十不善道為種

十不善道(殺生、偸盗、邪婬、妄語、綺語、悪口、両舌、慳貪、瞋恚、邪見)は、これ種なり。

 十不善道(じゅうふぜんどう、

      殺し、

      盗み、

      邪なる男女関係、

      嘘、

      飾った言葉、

      悪口、

      二枚舌、

      物惜しみ、

      怒り、

      邪見)は、

   これが如来の種です。

以要言之。六十二見及一切煩惱皆是佛種

要を以ってこれを言えば、六十二見(断見常見の二見を本に過去現在未来の色受想行識に対して起こる所の六十二種の妄見)は、これ種なり。』

 簡単に言ってしまえば、六十二の邪見と一切の煩悩とは、皆、これが仏の種なのです。』

 

ここまで、如来は邪見を正す為に、ただその理由で出世することをいう。

曰何謂也

曰く、『何の謂いぞや。』

 『何を言おうとしておる?』

答曰。若見無為入正位者。不能復發阿耨多羅三藐三菩提心。譬如高原陸地不生蓮華卑濕淤泥乃生此華。如是見無為法入正位者。終不復能生於佛法。煩惱泥中乃有眾生起佛法耳

答えて曰く、『もし無為を見て正位に入る者(声聞辟支仏の如き者)は、また阿耨多羅三藐三菩提心を発すこと能わず。譬えば、(清々しき)高原の陸地には蓮華は生ぜず、卑湿(ひしつ)の汚泥なれば、すなわちこの華を生ず。かくの如く、無為法を見て正位に入る者は、ついにまた仏法を生ずること能わず。煩悩の泥中に、すなわち衆生の仏法を起こすもの有るのみ。

 答えます、

『世間は無為(むい、何も無い)であると見て涅槃に入る

   声聞、辟支佛たちは、

   阿耨多羅三藐三菩提心(あのくたらさんみゃくさんぼだいしん、

     この世を浄め理想の仏国土を建設したいとの思い)を発(おこ)すことができません。

 譬えば、

   清清しき高原の陸地には蓮華は生じませんが、

   じめついた泥沼にならば生ずることができます。

 このように、

   この世は無為であって何も無いと知って

   涅槃に入る者は、ついに

     仏と同じような

     仏法を生み出すことができません。

 煩悩の泥沼の中にあって初めて

   衆生は

     仏法を起こすことができるのです。

又如殖種於空終不得生。糞壤之地乃能滋茂。如是入無為正位者不生佛法。起於我見如須彌山。猶能發于阿耨多羅三藐三菩提心生佛法矣

また、空に於いて種を植えるに、ついに生ずることを得ず。糞壌の地には、すなわちよく滋茂するが如し。かくの如く、無為の正位に入る者は仏法を生ぜず、我見を起こすこと須弥山の如く(高大)なるものも、なおよく阿耨多羅三藐三菩提心を発し、仏法を生ず。

 また

   虚空に種を植えても

   生ずることはありません。

 よく

   こやしを施して耕した地であれば、よく

   繁らせることができます。

 

 このように

   無為の涅槃に入った者は

     仏法を生ずることがなく、

   我見(がけん、我ありとの思い)を起こして、

     須弥山のように尊大に構えている者の方が、まだ

     阿耨多羅三藐三菩提心を発して

       仏法を生ずることができましょう。

是故當知一切煩惱為如來種。譬如不下巨海不能得無價寶珠。如是不入煩惱大海。則不能得一切智寶

この故に、まさに知るべし、一切の煩悩は、これ如来の種なりと。譬えば、巨海に下らざれば、無価の宝珠(価の付けようがない高貴なる真珠)を得ること能わざるが如し。かくの如く、煩悩の大海に入らざれば、すなわち一切智の宝を得ること能わず。』と。

 この故に、知らなくてはならないことは、

   一切の煩悩は、これは

   如来の種なのです。

 譬えば、

   大海の中に沈まなくては、

   高貴な宝珠を得ることはできません。同じように、

 煩悩の

   大海の中に入らなければ、

   一切智(いっさいち、仏の智慧)の宝を得ることはできないのです。』と。

 

ここまで、如来の心は衆生心の中に生ずることをいう。

爾時大迦葉歎言。善哉善哉文殊師利。快說此語誠如所言。塵勞之疇為如來種。我等今者不復堪任發阿耨多羅三藐三菩提心。乃至五無間罪。猶能發意生於佛法。而今我等永不能發

その時、大迦葉歎じて言わく、『善哉善哉、文殊師利、快くこの語を説くこと、誠に言う所の如し。塵労(じんろう、煩悩)の疇(たぐい、トモガラ)を如来の種と為すとは、我等は今は、また阿耨多羅三藐三菩提心を発すに堪任(たんにん、タエル)せず。すなわち五無間罪(ごむげんざい、無間地獄に堕ちる罪)に至るすら、なおよく意を発して仏法を生ずれども、今の我等は永く(永久に)発すこと能わず。

 その時、大迦葉(だいかしょう、最高位の仏弟子)が歎いて言いました、

『素晴らしい素晴らしい、文殊師利、この説をよく説いてくだされた。誠にその通りです。

   煩悩の類が如来の種であったとは。

 私どもには、今はもう

   阿耨多羅三藐三菩提心を発すだけの

   力が残っていません。

 五無間罪を犯した者ですら、

   阿耨多羅三藐三菩提心を発して

   仏法を生ずることができるというのに、今の

 私どもにはもうそれができないのです。

譬如根敗之士其於五欲不能復利。如是聲聞諸結斷者。於佛法中無所復益永不志願。是故文殊師利。凡夫於佛法有返復。而聲聞無也

譬えば、根敗(こんぱい、眼耳鼻舌身の敗壊したる)の士(声聞辟支仏等)の、それ五欲(色声香味触)に於いて、また利する(利益する)こと能わざるが如し。かくの如く、声聞の諸結(種々の煩悩)を断じたる者も、仏法の中に於いて、また益(利益)する所無く、永く志願せず。この故に、文殊師利、凡夫は仏法に於いて返復(へんぷく、復帰)すること有れども、声聞には無きなり。

 譬えば、

   眼耳鼻舌身意の根が腐ってしまっている者には、

   色声香味触法で衆生を利益することはできません。

 同じように、

   声聞の諸の煩悩を断った者たちは、

   仏法の中で

     衆生を利益するものが

     何も残っていない為に、

   菩薩となって

     衆生を利益することができないのです。

 この故に文殊師利、

   凡夫は仏法に復帰することがありますが、

   声聞にはそれがありません。

所以者何。凡夫聞佛法能起無上道心不斷三寶。正使聲聞終身聞佛法力無畏等。永不能發無上道意

所以(ゆえ)は何(いかん)となれば、凡夫は、仏法を聞かば、よく無上道を起こして、心に三宝(さんぽう、仏法僧)断ぜず。(されど)まさに声聞をして、身を終るまで、仏法の力、無畏等を聞かしめれど、永く無上道の意(こころ)を発すこと能わず。』と。

 なぜならば、

   凡夫が、仏法を聞けば

     無上心を起こして

     三宝(さんぼう、仏宝、法宝、僧宝)を

       断たしめないようにできます。

 たとい声聞に、死ぬまで

   仏法と、仏の力(十力)、仏の無畏力(四無所畏)などを聞かせたとしても、

   無上道を志すことはできません。』と。

 

 

 

 

菩薩の父母と妻子

爾時會中有菩薩名普現色身。問維摩詰言。居士。父母妻子親戚眷屬吏民知識悉為是誰。奴婢僮僕象馬車乘皆何所在

その時、会中のある菩薩、普現色身と名づくるもの、維摩詰に問うて言わく、『居士、父母妻子、親戚眷属(けんぞく、ミウチ)、吏民(りみん、官吏と庶民)の知識(ちしき、友人)、悉くこれ誰とか為す。奴婢僮僕、象馬車乗は、皆何れの所にか在る。』と。

 その時、その場に普現色身という名の菩薩がいまして、維摩詰に問いました、

『居士、

   父母、妻子、親戚、眷属(使用人)、官吏、庶民、友人などは、悉く

   これを誰と思えばよいのでしょうか? 

 奴婢、僮僕、象、馬、車などは

   何所にございましょうか?』と。

於是維摩詰以偈答曰

 智度菩薩母 方便以為父

 一切眾導師 無不由是生

 法喜以為妻 慈悲心為女

 善心誠實男 畢竟空寂舍

 弟子眾塵勞 隨意之所轉

 道品善知識 由是成正覺

 諸度法等侶 四攝為伎女

 歌詠誦法言 以此為音樂

 總持之園苑 無漏法林樹

 覺意淨妙華 解脫智慧果

 八解之浴池 定水湛然滿

 布以七淨華 浴此無垢人

 象馬五通馳 大乘以為車

 調御以一心 遊於八正路

 相具以嚴容 眾好飾其姿

 慚愧之上服 深心為華鬘

 富有七財寶 教授以滋息

 如所說修行 迴向為大利

 四禪為床座 從於淨命生

 多聞增智慧 以為自覺音

 甘露法之食 解脫味為漿

 淨心以澡浴 戒品為塗香

 摧滅煩惱賊 勇健無能踰

 降伏四種魔 勝幡建道場

 雖知無起滅 示彼故有生

 悉現諸國土 如日無不見

 供養於十方 無量億如來

 諸佛及己身 無有分別想

 雖知諸佛國 及與眾生空

 而常修淨土 教化於群生

 諸有眾生類 形聲及威儀

 無畏力菩薩 一時能盡現

 覺知眾魔事 而示隨其行

 以善方便智 隨意皆能現

 或示老病死 成就諸群生

 了知如幻化 通達無有礙

 或現劫盡燒 天地皆洞然

 眾人有常想 照令知無常

 無數億眾生 俱來請菩薩

 一時到其舍 化令向佛道

 經書禁咒術 工巧諸伎藝

 盡現行此事 饒益諸群生

 世間眾道法 悉於中出家

 因以解人惑 而不墮邪見

 或作日月天 梵王世界主

 或時作地水 或復作風火

 劫中有疾疫 現作諸藥草

 若有服之者 除病消眾毒

 劫中有飢饉 現身作飲食

 先救彼飢渴 卻以法語人

 劫中有刀兵 為之起慈心

 化彼諸眾生 令住無諍地

 若有大戰陣 立之以等力

 菩薩現威勢 降伏使和安

 一切國土中 諸有地獄處

 輒往到于彼 勉濟其苦惱

 一切國土中 畜生相食噉

 皆現生於彼 為之作利益

 示受於五欲 亦復現行禪

 令魔心憒亂 不能得其便

 火中生蓮華 是可謂希有

 在欲而行禪 希有亦如是

 或現作婬女 引諸好色者

 先以欲鉤牽 後令入佛道

 或為邑中主 或作商人導

 國師及大臣 以祐利眾生

 諸有貧窮者 現作無盡藏

 因以勸導之 令發菩提心

 我心憍慢者 為現大力士

 消伏諸貢高 令住無上道

 其有恐懼眾 居前而慰安

 先施以無畏 後令發道心

 或現離婬欲 為五通仙人

 開導諸群生 令住戒忍慈

 見須供事者 現為作僮僕

 既悅可其意 乃發以道心

 隨彼之所須 得入於佛道

 以善方便力 皆能給足之

 如是道無量 所行無有涯

 智慧無邊際 度脫無數眾

 假令一切佛 於無量億劫

 讚歎其功德 猶尚不能盡

 誰聞如是法 不發菩提心

 除彼不肖人 癡冥無智者

ここに於いて維摩詰、偈を以って答えて曰く、

「智度(ちど、般若波羅蜜)は菩薩の母なり、方便を以って父と為す、

 一切衆(衆生)の導師、これに由りて生ぜざるは無し。

 法喜を以って妻と為し、慈悲心を女と為し、

 善心誠実は男なり、畢竟空寂は舎なり。

 弟子は衆の塵労(じんろう、煩悩)なり、意の転ずる所に随う、

 道品(どうほん、修道の品目)は善知識なり、これに由りて正覚を成ず。

 諸度(ど、六波羅蜜)は法の等侶にして、四摂(ししょう、布施愛語利行同事)を妓女と為し、

 歌詠して法言を誦し、これを以って音楽と為す。

 総持(そうじ、無忘失法)の園苑、無漏法(むろほう、真如)の林樹、

 覚意の浄妙華、解脱智慧の果あり。

 八解()の浴池には、定水湛然(たんねん、タタウ)として満てり、

 布くに七浄花を以ってし、この無垢の人を浴す。

 五通を象馬として馳せ、大乗を以って車と為し、

 調御するに一心を以ってし、八正()の路に遊ぶ。

 相(三十二相)具以って容(かたち)を厳り、衆好(こう、八十種好)もてその姿を飾り、

 慚愧(ざんき、ハヅルコト)の上服、深心を華鬘(けまん、髪飾り)と為す。

 七財宝(信戒慚愧聞施慧)を富有して、教授して以って滋息(じそく、利息)し、

 所説の如く修行して、廻向するを大利と為す。

 四禅(四種の禅定)を牀座と為し、浄命より生じ、

 多聞もて智慧を増し、以って自覚の音を為す。

 甘露の法の食、解脱の味を漿と為し、

 浄心を以って澡浴し、戒品を塗香と為す。

 煩悩の賊を摧滅し、勇健にして能く踰ゆる無く、

 四種の魔(五陰煩悩天魔死魔)を降伏して、勝幡を道場に建つ。

 起滅(生滅)無きことを知れども、彼に示すが故に生有り、

 悉く諸の国土を現ずること、日の見ざる無きが如し。

 十方の無量億の如来を供養すれども、

 諸仏及び己が身、分別の想有ること無し。

 諸仏の国及び衆生の空なることを知ると雖も、

 常に浄土を修して、群生(ぐんしょう、衆生)を教化す、

 諸の有らゆる衆生の類、形声及び威儀を、

 無畏力の菩薩は、一時に能く尽く現ず。

 衆魔の事を覚知して、その行に随うことを示せども、

 善方便の智を以って、意に随って皆能く現ず。

 或は老病死を示して、諸の群生を成就し、

 幻化の如くなることを了知して、通達して礙有ること無し。

 或は劫尽きて焼け、天地皆洞然(どうねん、ウツロ)たることを現じて、

 衆の人の常想有るに、照らして無常を知らしむ。

 無数億の衆生、倶に来たりて菩薩を請ずれば、

 一時にその舎に到りて、化して仏道に向かわしむ。

 経書禁呪(ごんじゅ、マジナイ)の術、工巧(くぎょう、手わざ)諸の技芸、

 尽くこの事を行ずることを現じて、諸の群生を饒益(にょうやく、利益)す。

 世間の衆の道法の、悉く中に於いて出家すれども、

 因りて以って人の惑いを解きて、邪見に堕ちしめず。

 或は日月天と作り、梵王世界主となり、

 或る時には地水と作り、或は復た風火と作る。

 劫中に疾疫有れば、現じて諸の薬草と作る、

 これを服する者有れば、病を除き衆毒を消す。

 劫中に飢饉有れば、身を現じて飲食と作り、

 先ず彼れの飢渇を救い、却って法を以って人に語る。

 劫中に刀兵有れば、これが為に慈心を起こし、

 彼の諸の衆生を化して、無諍の地に住せしむ。

 もし大戦陣有れば、ここに立ちて等力を以(も)ちい、

 菩薩、威勢を現じ、降伏して和安ならしむ。

 一切の国土の中の、諸の有らゆる地獄の処には、

 輒(たちま)ち往きて彼(かしこ)に到り、勉めてその苦悩を済う。

 一切の国土の中に、畜生相い食噉(じきたん)すれば、

 皆彼に生ずることを現じ、これが為に利益を作す。

 五欲を受くるを示し、亦た復た禅を行ずるを示し、

 魔の心をして憒乱(けらん、ミダス)し、その便りを得ること能わざらしむ。

 火中に蓮華を生ずるは、これ希有なりと謂うべし、

 欲に在りて禅を行ず、希有なること亦た是の如し。

 或は現じて婬女と作り、諸の色を好む者を引くに、

 先ず欲の鉤を以って牽き、後に仏道に入らしむ。

 或は邑中の主と為り、或は商人の導と作り、

 国師及び大臣と作り、以って衆生を祐利す。

 諸の貧窮なる者有れば、現じて無尽蔵と作り、

 因りて以ってこれを勧導して、菩提心を発さしむ。

 我心憍慢の者には、為に大力士を現じ、

 諸の貢高を消伏して、無上道に住せしむ。

 その恐懼(くく)有るものには、前に居りて慰安し、

 先ず施すに無畏を以ってし、後に道心を発さしむ。

 或は婬欲を離るるを現じ、五通仙人と為り、

 諸の群生を開導し、戒忍慈に住せしむ。

 供を須むる者を見ては、現じて為に僮僕と作り、

 既にその意を悦可して、乃ち発すに道心を以ってせしむ。

 彼の須むる所に随い、仏道に入るを得しめ、

 善方便力を以って、皆能く給足す。

 是の如く道は無量にして、行う所は涯有ること無く、

 智慧は辺際無く、無数の衆を度脱す。

 たとい一切の仏、無数億劫に於いて、

 その功徳を讃嘆すとも、なお尽くすこと能わじ。

 誰か是の如き法を聞いて、菩提心を発さざらん、

 彼の不肖の人と、癡冥無智なる者とを除く。」と。

 そこで維摩詰は歌で答えました、

 『智度ぞ菩薩の母ならむ、方便これを父として、(ちど、般若波羅蜜、ほうべん、手段)

  一切衆生を師とあおぎ、これより生ぜぬものはなく、(いっさいしゅ、一切衆生)

  法のよろこび妻となし、慈悲の心ぞむすめなる、

  善心誠実おのこにて、畢竟空をばいえとなす、(ひっきょうくう、つまるところ空なり)

  弟子は塵労意のままに、これを転じて覚らしめ、(じんろう、煩悩)

  修行の道は善知識、仏となるはこれにより、(どうほん、三十七道品、ぜんちしき、良き友)

  六度の朋と修行する、四摂のうたいめ歌うたい、(ろくど、六波羅蜜、ししょう、布施、愛語、利他、同時)

  歌う歌こそ法のうた、天人さえも耳かしぐ、

  総持の苑に高だかと、無漏のはやしか人目ひく、(そうじ、諸善法を持して忘失せしめざること、むろ、無煩悩)

  覚りの華も浄らかに、解脱と智慧のこのみなり、(げだつ、煩悩の繫縛を解きて脱すること)

  解脱は八つの池となり、禅定のみず湛えたり、(はちげだつ、解脱)

  七浄の華みずおおい、ここにあみせむ無垢の人、

                   しちじょうけ、戒浄、心浄、見浄、度疑浄、分別道浄、行断知見浄、涅槃浄)

  大乗これを車とし、五通の象馬これを挽き、(ごつう、天耳、天眼、宿命、他心、神足)

  調御する人一心に、八正道をひた走る、(はっしょうどう、正見、正思惟、正語、正業、正精進、正定、正念、正命)

  三十二相にかおつくり、八十種好身をかざり、(さんじゅうにそう、はちじっしゅこう、共に仏の容貌上の特徴)

  慚愧の上服身をかくし、深心華鬘髪かざる、

                   (ざんき、恥づる、じょうふく、上等の服、じんしん、深く信づる、けまん、髪飾り)

  富めば七つの宝あり、教えてこそや滋息せめ、(しちざいほう、信、戒、慚、愧、聞、施、慧、じそく、利息)

  説の如くに修行して、仏道廻向大利あり、(せつ、仏の所説、えこう、振り向ける)

  四禅の床座に身をやすめ、浄きくらしに身をたもち、(しぜん、禅定、じょうみょう、戒をまもる生活)

  多聞に智慧を増しつれば、寝覚めの音を今ぞ聞く、(たもん、多く聞く、かくおん、眠りを覚ます音)

  甘露の法を食として、解脱の味を漿となし、(じき、食い物、しょう、飲み水)

  心を浄むるゆあみして、戒の香をば身にぬりて、(きよむ、清潔、かい、こう)

  煩悩の賊たいらげて、この勇健には勝るなく、(ゆごん、勇敢)

  四種の魔をば降伏し、勝利の旗をば高く建つ、(ししゅま、五陰魔、煩悩魔、天魔、死魔、ごうぶく)

  生滅無きを知るとても、衆生に示す生まるるを、(しょうめつ、生きることと死ぬこと)

  諸国の仏土もちきたり、日のあるよりも明らかに、(こくど、仏国土)

  供養十方無量億、仏の数もかずしれず、(くよう、飲食衣物を施す)

  諸仏とおのれ同じうし、分けへだてする思いなし、(ふんべつそう、物事を別けへだてすること)

  諸仏の国も住むひとも、みな空なりと知るとても、(しゅじょう、住民)

  なおもかざるや浄土をば、衆生おしえて休みなし、(修、カザル、ぐんしょう、衆生)

  衆生はたぐいそれぞれに、形声威儀を異にして、(ぎょうしょういぎ、形状、鳴き声、行動)

  四無畏十力大菩薩、一時に姿を現しぬ、(しむい、じゅうりき)

  魔事と知れどもあえてまた、魔のなすままに行うは、(まじ、前出四魔)

  善き方便と智慧をもて、みな意のままに現しぬ、(ぜんほうべん、巧みなる方便)

  衆生に示す老病死、見せて覚醒せしむため、(かくせい、目覚める)

  幻なりと知りぬれど、神通力に通達し、

                  (つうだつ、衆生を教化すること、むげ、妨げなし、じんつうりき、不思議の力)

  あるは世界を焼き尽くし、洞然たらしむ天も地も、(こう、世界、どうねん、空ろなさま)

  ひとびと常想かたけれど、かくして無常覚らしむ、(じょうそう、自分および世界は変わらないとの思い)

  無数の人のともに来て、たとえ一時に請おうとも、(こう、食事に招待する)

  化仏化菩薩手をわけて、一時にいたるそのいえに、(け、化身)

  経書まじない皆おさめ、手わざ技芸もたくみにし、(きょうしょ、仏典、きんじゅじゅつ、マジナイ)

  かかること皆人のため、衆生饒益せしむため、(にょうやく、あまねく利益せしむ)

  九十六種の外道にも、中に入りてぞ出家する、(げどう、仏教以外)

  人の惑いは深ければ、身を同じうして救い出す、

  あるは日となり月となり、梵王世界の主となりて、(ぼんのうせかい、梵天王天)

  あるとき地となり水となり、風ともなれば火ともなり、

  世界に疾疫みつるとき、薬の草となればこそ、(しつやく、疫病)

  もし人ありてこれのめば、病をのぞき毒をけす、

  世界に飢饉あるときは、身を飲食にやつしかえ、

  餓えをみたしてその後に、法を語りて覚らしむ、

  世界にいくさあるときは、慈悲を起こしてこれがため、

  言葉たくみにみちびきて、あらそいなき地に住まわしむ、

  大きいくさのおこるとき、弱きに立ちて加勢して、

  菩薩の威勢あらわせば、ただちにいくさ静まらん、

  たとえ世界のはてなるも、地獄と聞かばおり往きて、

  すでにかしこに入りぬれば、苦しみ救いてやすみなく、

  畜生界はあいたがい、食いつ食われつするところ、

  菩薩はここに生を得て、身をあたえてぞなぐさむる、

  五欲受くるを示せども、行ずる禅はなお深く、(ごよく、五陰、人の身心)

  悪魔が心憒乱し、その便りさえあたえざる、(かいらん、心をみだす)

  火中に蓮華の花さかば、希有なりこれに勝るなし、(けう、マレニモナシ)

  欲にありてぞ禅行ず、これぞ希有とはよべよかし、(ぜん、心動かされず)

  あるは遊女のすがたかり、色をこのむを引きよせて、(ゆうじょ)

  欲の鉤もてつりあげて、仏の魚篭に遊ばしむ、(はり、びく)

  あるとき村のおさとなり、あるは商人ひきつれて、(邑主、ゆうしゅ、村長)

  国師大臣ときになり、人のくらしの立つように、(こくし、だいじん)

  貧窮のもののあるときは、尽きざる蔵をひろくあけ、(びんぐ)

  道をときときなつかしめ、菩提の心おこさしむ、(ぼだい)

  おごり高ぶるものあらば、見上ぐる力士あらわれて、(がしん、ワガママ、きょうまん、オゴル)

  その高ぶりを消し去りて、無上の道をあゆましむ、(くこう、タカブリ)

  恐れおののくものあらば、前にすわりてなぐさめて、

  畏れのこころなくさしめ、道のこころを呼び覚ます、(むい、オソレナシ)

  あるは婬欲はなれたる、五通仙人あらわして、(ごつう、神通力)

  むらがる人をみちびきて、やがて住まわす戒忍慈、(かいにんじ、持戒、忍辱、慈悲)

  給仕もとむる人あらば、わらわのしもべ現れて、(くじ、給仕)

  主人のこころ悦ばせ、ひそかに道心おこさしむ、

  これ求むればこれあたえ、みな仏道に入らしむる、

  善き方便の力もて、人のこころを満足す、

  この方便は無量にて、行ずるさまも涯知らず、(はて)

  智慧のおよぶも限りなく、救う衆生もかず知れず、

  たとえばあらゆる仏たち、無量の年月やすまずに、

  菩薩の功徳讃嘆す、されども尽きぬその功徳、(くどく、人の為になる力、さんたん、ホメタタエル)

  誰かこのこと聞きてのち、菩提のこころ発さざる、

  ただしおろかと無智のもの、不肖のものは除くべし。』と。(ふしょう、愚かな人)

 

 

 

  七浄華(しちじょうけ):七覚支(しちかくし)、または次の七をいう。

    (1)戒浄:心と口の作す所が清浄。

    (2)心浄:煩悩を断ち、心が清浄。

    (3)見浄:物事の真性を見て、妄想を起こさない。

    (4)度疑浄:六度を行じて、疑いを起こさない。

    (5)分別道浄:正しく正道と非道を分別する。

    (6)行断知見浄:行ずる所の善法と、断ずる所の悪法を正しく知見する。

    (7)涅槃浄:涅槃を証得し、諸垢を遠離する。

 

 

 

 

 

入不二法門品第九

入不二法門品第九

入不二法門品(にゅうふにほうもんぼん)第九

 会中の諸の菩薩、各々不二法門に入るを説く。

 

 

 

 

不二法門に入る

爾時維摩詰。謂眾菩薩言。諸仁者。云何菩薩入不二法門。各隨所樂說之

その時、維摩詰、衆の菩薩に謂って言わく、『諸仁者、云何が菩薩は不二法門(ふにほうもん)に入る。各々楽う所に随って、これを説け。』

 そして維摩詰は、その場にいる菩薩たちに言いました、

『お前たち、何のようにして、菩薩が

   不二法門(ふにほうもん、

     二つの物事は実は一つであると発見することから仏法に入る門)に入るのか、各々

   思うように説いてみよ。』

 

  注:羅什は有無迭用仏法之常、『有』と『無』とを替わる替わる用いるのは仏法の常である。前の品に於いて『有』を説いたので、次に空門を説くと注釈している。

會中有菩薩名法自在。說言。諸仁者。生滅為二。法本不生今則無滅。得此無生法忍。是為入不二法門

会中の有る菩薩、法自在と名づくるもの、説いて言わく、『諸仁者、生滅を二と為す。法は本より不生なれば、今すなわち滅すること無し。この無生法忍(不退転の位)を得ること、これを不二法門に入ると為す。』と。

 集まった中の法自在(ほうじざい)という名の菩薩が説いて言います、

『皆さん、『生滅』が二だと思います。

 

 あらゆる物事には、本来

   『生ずること』がありません。そこで

   『滅すること』も無いのです。

 この無生法忍(むしょうほうにん、生滅が無いと認証する)を得ること、

   これを不二法門に入るといいます。』

德守菩薩曰。我我所為二。因有我故便有我所。若無有我則無我所。是為入不二法門

徳守菩薩曰く、『我(ワレ)と我所(ワガモノ)とを二と為す。我有るに因るが故に、すなわち我所有り。もし我有ること無ければ、すなわち我所も有ること無し。これを不二法門に入ると為す。』と。

 徳守菩薩(とくしゅぼさつ)が言います、

『我(が、我有りとの妄想)と我所(がしょ、我が物、我が身心有りとの妄想)とが二とします。

 

 我が有るので

   我所も有る、もし

 我が無ければ

   我所も無い。

 これを不二法門に入るといいます。』

 

  注:我を我が身心、我所を我以外の一切の事物とも考えられます。

不眴菩薩曰。受不受為二。若法不受則不可得。以不可得故無取無捨無作無行。是為入不二法門

不眴菩薩(ふげんぼさつ)曰く、『受(じゅ、相を取る)と不受とを二と為す。もし法を受けざれば、すなわち不可得(ふかとく、識別できない)なり。不可得なるを以っての故に、取ること無く、捨てること無く、作すこと無く、行うこと無し。これを不二法門に入ると為す。』と。

 不眴菩薩(ふげんぼさつ)が言います、

『受(じゅ、感受する)と不受とを二とします。

 

 もし物事を感受しなければ、

   認識せず、したがって

   取る(愛著する)ことも無く、

   捨てることも無く、

   生滅の因縁を作ることも無く、

   心の動き()も無い。

 これを不二法門に入るといいます。』

德頂菩薩曰。垢淨為二。見垢實性則無淨相順於滅相。是為入不二法門

徳頂菩薩曰く、『垢(く、煩悩)と浄(じょう、煩悩が無いこと)とを二と為す。垢の実性を見れば、すなわち浄相(煩悩が無くなること)無けれども、滅相(寂滅、真如の実相)に順ず。これを不二法門に入ると為す。』と。

 徳頂菩薩(とくちょうぼさつ)が言います、

『垢(く、煩悩)と浄(じょう、煩悩が無い)とを二とします。

 

 煩悩の本性とは、

   煩悩が無くなくならなくても

   真実に従うことができる。

 これを不二法門に入るといいます。』

善宿菩薩曰。是動是念為二。不動則無念。無念則無分別。通達此者。是為入不二法門

善宿菩薩曰く、『これ動(どう、惑心微かに起こること)、これ念(ねん、相を取りて深く執著すること)を二と為す。動かざれば、すなわち念無く、念無ければ、すなわち分別することも無し。これに通達する者、これを不二法門に入ると為す。』と。

 善宿菩薩(ぜんしゅくぼさつ)が言います、

『動(どう、心が動くこと)と念(ねん、心から離れないこと)とを二とします。

 

 心が動かなければ、

   心が離れなくなることも無く、

   分別(ふんべつ、善悪好悪を分別)することもない。

 これに通達することを不二法門に入るといいます。』

善眼菩薩曰。一相無相為二。若知一相即是無相。亦不取無相入於平等。是為入不二法門

善眼菩薩曰く、『一相(平等)と無相とを二と為す。もし一相は、すなわちこれ無相なりと知れば、また無相を取らずして、平等(一相)に入る。これを不二法門に入ると為す。』と。

 善眼菩薩(ぜんげんぼさつ)が言います、

『一相(あらゆる物事はただ一つのものとする想念)と

   無相(あらゆる物事は見聞きし認識しようとしてもできない)とを二とします。

 

 《あらゆる物事はただ一つのものだ》という事は、

   《あらゆる物事は見聞きし認識することはできない》という事だと知れば、

 見聞きし認識すらできないことに執著せずに

   平等(一相)を知ることになる。

 これを不二法門に入るといいます。』

妙臂菩薩曰。菩薩心聲聞心為二。觀心相空如幻化者。無菩薩心無聲聞心。是為入不二法門

妙臂菩薩(みょうひぼさつ)曰く、『菩薩心と声聞心とを二と為す。心相(しんそう、色等の心に映ること)の空なること幻化の如しと観ずれば、菩薩心無く声聞心も無し。これを不二法門に入ると為す。』と。

 妙臂菩薩(みょうひぼさつ)が言います、

『菩薩の心と声聞の心とを二とします。

 

 心に映る物事は、皆

   空であって幻化(げんけ、幻の者)のようなものだと観察すれば、

     菩薩の心も

     声聞の心も無い。

 これを不二法門に入るといいます。

弗沙菩薩曰。善不善為二。若不起善不善。入無相際而通達者。是為入不二法門

弗沙菩薩(ふしゃぼさつ)曰く、『善と不善とを二と為す。もし善()と不善()とを起こさず無相の際(さい、領域)に入りて、通達する者、これを不二法門に入ると為す。』と。

 弗沙菩薩(ふしゃぼさつ)が言います、

『善と不善とを二とします。

 

 もし

 善心も不善心も起こさず、

 あらゆる物事は

   見聞きすることも認識することもできないと知り、

 これに通達することを不二法門に入るといいます。』

師子菩薩曰。罪福為二。若達罪性則與福無異。以金剛慧決了此相無縛無解者。是為入不二法門

師子菩薩曰く、『罪福を二と為す。もし罪性(罪業の本性)は、すなわち福と異なり無しと達して、金剛の慧を以って、この相を決了(罪福に異なり無きことを確信)して、縛無く解無き(悩み悔ゆることなく、解脱を求むることなき)者、これを不二法門に入ると為す。』と。

 師子菩薩(ししぼさつ)が言います、

『罪業(罪となる行い)と福業(福となる行い)とを二とします。

 

 もし

   罪業の本性は

     福業と異ならないと知り、

   金剛のように堅固なる智慧で確信して、

     悩み悔いることなく、

     解脱を求めようともしないものを、

 不二法門に入るといいます。』

師子意菩薩曰。有漏無漏為二。若得諸法等則不起漏不漏想。不著於相亦不住無相。是為入不二法門

師子意菩薩曰く、『有漏(うろ、煩悩)と無漏(むろ、涅槃)とを二と為す。もし諸法等しき(漏と無漏と皆一相平等なり)を得れば、すなわち漏と不漏(無漏)の想を起こさず、相に於いても著せず、また無相()に住せず。これを不二法門に入ると為す。』と。

 師子意菩薩(ししいぼさつ)が言います、

『有漏(うろ、煩悩が残ること)と無漏(むろ、涅槃)とを二とします。

 

 もしあらゆる物事は

   平等であると確信すれば、

     煩悩と涅槃とについて妄想を起こさず、あらゆる物事の

     見かけに執著せず、

     無相()の中で行動することができる。

 これを不二法門に入るといいます。』

淨解菩薩曰。有為無為為二。若離一切數則心如虛空。以清淨慧無所礙者。是為入不二法門

浄解菩薩曰く、『有為(うい、衆生)と無為(むい、法身)とを二と為す。もし一切の数(すう、分別計略)を離るれば、すなわち心は虚空の如し、清浄の慧(平等大智)を以って礙(さ)うる所無き者、これを不二法門に入ると為す。』と。

 浄解菩薩(じょうげぼさつ)が言います、

『有為(うい、衆生)と無為(むい、涅槃法身、仏身)とを二とします。

 

 もし一切の分別を離れれば、

   心は虚空の如く、

   清浄なる平等の大智によって

     自由となる。

 これを不二法門に入るといいます。』

那羅延菩薩曰。世間出世間為二。世間性空即是出世間。於其中不入不出不溢不散。是為入不二法門

那羅延菩薩(ならえんぼさつ)曰く、『世間と出世間とを二と為す。世間の性は空なれば、すなわちこれ出世間なり。その中に於いて、入らず出でず(生死なく)、溢れず散ぜず(行業因縁なし)。これを不二法門に入ると為す。』と。

 那羅延菩薩(ならえんぼさつ)が言います、

『世間(生死世間)と出世間とを二とします。

 

 世間の本性は

   空であり

   出世間である。その

 世間にあって

   生死なく、

   行業も他に因縁せず

   自らも因縁されず。

 これを不二法門に入るといいます。』

善意菩薩曰。生死涅槃為二。若見生死性則無生死。無縛無解不生不滅。如是解者。是為入不二法門

善意菩薩曰く、『生死と涅槃とを二と為す。もし生死の性を見れば、すなわち生死無く、縛も無く解も無く、不生不滅なり。かくの如く解する者、これを不二法門に入ると為す。』と。

 善意菩薩(ぜんいぼさつ)が言います、

『生死と涅槃とを二とします。

 

 もし生死の本性に気が付けば、

   生死は無く、生死に縛りつける

   煩悩も、それを解く

   覚りも無く、

   不生不滅であると知る。

 これを不二法門に入るといいます。』

現見菩薩曰。盡不盡為二。法若究竟盡若不盡皆是無盡相。無盡相即是空。空則無有盡不盡相。如是入者。是為入不二法門

現見菩薩曰く、『尽と不尽とを二と為す。法、もしくは究竟して尽くるも、もしくは尽きざるも、皆これ尽くる相無し。尽くる相無ければ、すなわちこれ空なり。空とは、すなわち尽くると尽きざるの相有ること無し。かくの如く入る者、これを不二法門に入ると為す(法は、これ有為と見れば尽き、これ無為と見れば尽きず。有為と無為の相を離るるを空と為す)。』と。

 現見菩薩(げんけんぼさつ)が言います、

『尽くすと尽くさないとを二とします。

 

 あらゆる物事を

   尽くしきってしまうという事と、

   尽くさないという事とは、

 皆本来

   尽きるものが無い。

   尽きるものが無ければ空である。

 空には

   尽きるという事も

   尽きないという事も無い。

 このように理解することを不二法門に入るといいます。』

普守菩薩曰。我無我為二。我尚不可得非我何可得。見我實性者不復起二。是為入不二法門

普守菩薩曰く、『我と無我とを二と為す。我すら、なお不可得なり、非我(無我)、何ぞ得べき。我の実の性を見る者は、また(我と無我の)二を起こさず。これを不二法門に入ると為す。』と。

 普守菩薩(ふしゅぼさつ)が言います、

『我と無我とを二とします。

 

 我ですら知ることができないのに、

   無我を何うして知ることができよう。

 我の本性を知れば、再び

   我と無我との二を起こすことはない。

 これを不二法門に入るといいます。』

電天菩薩曰。明無明為二。無明實性即是明。明亦不可取離一切數。於其中平等無二者。是為入不二法門

電天菩薩曰く、『明と無明とを二と為す。無明の実の性は、すなわちこれ明なり。明もまた取るべからず。一切の数(すう、分別、ハカライ)を離れて、その中に平等にして無二なる者、これを不二法門に入ると為す(無明とは癡冥なり、明は智明なれども、なお有為法を離れず)。』と。

 電天菩薩(でんてんぼさつ)が言います、

『明(みょう、真理に通達すること)と無明(むみょう、真理に無智なこと)とを二とします。

 

 無明の本性は明である。

 明もまた知ることはできなくて

   一切の考慮を超えている。

 そのことを

   平等であり無二であると知れば、

 不二法門に入るといいます。』

喜見菩薩曰。色色空為二。色即是空非色滅空色性自空。如是受想行識識空為二。識即是空非識滅空識性自空。於其中而通達者。是為入不二法門

喜見菩薩曰く、『色と色空とを二と為す。色とは、すなわちこれ空なり、色滅して、(然る後に)空となるに非ず。色の性は自ずから空なり。かくの如く、受想行識と(受想行)識空とを二と為す。識とは、すなわちこれ空なり、識滅して、(然る後に)空となるに非ず。識の性は自ずから空なり。その中に於いて通達する者、これを不二法門に入ると為す。』と。

 喜見菩薩(きけんぼさつ)が言います、

『色(しき、物事)と色空(しきくう、物事は空であるとすること)とを二とします。

 

 色は空である。

   色が滅して空となるのではない。

   色の本性は空なのである。

 

 同様に

   受想行識(心の働き)と受想行識空(心の働きは空であるとすること)とを二とします。

 

 識(受想行識)は空である。

   識が滅して空となるのではない。

   識の本性は空でなのである。

 これを通達すれば不二法門に入るといいます。』

明相菩薩曰。四種異空種異為二。四種性即是空種性。如前際後際空故中際亦空。若能如是知諸種性者。是為入不二法門

明相菩薩曰く、『四種(地水火風の四大)の異(い、特徴)と空種(空大)の異とを二と為す。四種の性とは、すなわちこれ空種の性なり。(衆生の)前際(ぜんさい、過去世)と後際(ごさい、未来世)と空なるが故に、中際(ちゅうさい、現在世)もまた空なるが如し。もしかくの如く、諸種の性を知る者、これを不二法門に入ると為す(四大は衆生を生ずる所の最大の因縁なれども、衆生にして空なれば、四大もまた空なり)。』と。

 明相菩薩(みょうそうぼさつ)が言います、

『地水火風の四大と空大とを二とします。

 

 四大の本性は、

   空の本性と同じである。

衆生は

   過去世と未来世が空であるから

     現在世も空である。

 このように物事の本生を知る者を、不二法門に入るといいます。』

 

  :働きが大きいので大という。

妙意菩薩曰。眼色為二。若知眼性於色不貪不恚不癡。是名寂滅。如是耳聲鼻香舌味身觸意法為二。若知意性於法不貪不恚不癡。是名寂滅。安住其中。是為入不二法門

妙意菩薩曰く、『眼と色とを二と為す。もし眼の性は、色に於いて、貪らず恚(いか)らず癡(おろか)ならずと知らば、これを寂滅(涅槃)と名づく。かくの如く、耳と声と、鼻と香と、舌と味と、身と触と、意と法とを二と為す。もし意の性は、法に於いて、貪らず恚らず癡ならずと知らば、これを寂滅と名づけ、その中に安住すること、これを不二法門に入ると為す。』と。

 妙意菩薩(みょういぼさつ)が言います、

『眼(眼等の六根)と色(色等の六境)とを二とします。

 

 もし

   眼の本性は色に於いて

     貪らず、怒らず、愚かならず(空について無智)と知れば、

       これは涅槃である。

 同じく

   耳と声、鼻と香、舌と味、身と触、意(心の動き)と法(考え)とを二とします。

 

 もし

   意の本性は、法()に於いて

     貪らず、怒らず、愚かならずと知れば、

       これが涅槃である。

 そのように知って驚かないものを不二法門に入るといいます。』

無盡意菩薩曰。布施迴向一切智為二。布施性即是迴向一切智性。如是持戒忍辱精進禪定智慧。迴向一切智為二。智慧性即是迴向一切智性。於其中入一相者。是為入不二法門

無尽意菩薩曰く、『布施と(仏の)一切智に廻向(えこう、善根を特定の果報に振り向ける)するとを二と為す。布施の性は、すなわちこれ一切智に廻向するの性なり。かくの如く、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧と、一切智に廻向するとを二と為す。智慧の性は、すなわちこれ一切智に廻向するの性なり。その中に於いて、一相に入る者(六波羅蜜は因、一切智に廻向するは果、因果同性なることを悟れば、即ち一相に入る)、これを不二法門に入ると為す。』と。

 無尽意菩薩(むじんにぼさつ)が言います、

『布施と一切智に廻向することを二とします。

 

 布施の本性は、

   一切智に廻向する(仏となる)ことである。

 

 同じく

   持戒、忍辱、精進、禅定、智慧と一切智に廻向することを二とします。

 

 智慧の本性は、

   一切智に廻向することである。

 

 布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧と、

 仏になることとは

   一つのことであると知る。

 これを不二法門に入るといいます。』

深慧菩薩曰。是空是無相是無作為二。空即無相無相即無作。若空無相無作則無心意識。於一解脫門即是三解脫門者。是為入不二法門

深慧菩薩曰く、『これ空(我ナシ)と、これ無相(我ガ身心ナシ)と、これ無作(我ガ行ズル因縁ナシ)とを二と為す。空は、すなわち無相。無相は、すなわち無作なり。もし空無相無作なれば、すなわち心意識無し。一解脱門に於いて、すなわちこれ三解脱門なる者、これを不二法門に入ると為す。』と。

 深慧菩薩(じんねぼさつ)が言います、

『空(くう、我無し)と無相(むそう、我が身心無し)と無作(むさ、我が行為無し)とを二とします。

 

 空は無相であり、

   無相は無作である。

 空、無相、無作であれば

   心に意識が無い。

 

 一つの解脱の門は

   三つの解脱の門である。

 これを不二法門に入るといいます。』

寂根菩薩曰。佛法眾為二。佛即是法法即是眾。是三寶皆無為相與虛空等。一切法亦爾。能隨此行者。是為入不二法門

寂根菩薩曰く、『仏と法と衆()とを二と為す。仏は、すなわちこれ法。法は、すなわちこれ衆なり。この三宝は、皆無為の相にして、虚空と等し。一切の法もまた爾(しか)り。よくここに随うて行ずる者、これを不二法門に入ると為す。』と。

 寂根菩薩(じゃくこんぼさつ)が言います、

『仏(ぶつ、教えの本体)と法(ほう、教えの表示)と衆僧(しゅそう、教えを伝える者)とを二とします。

 

 この三宝は皆

   涅槃の現れであり、

   虚空と等しい。

 一切の物事も同じように

   虚空と等しい。

 このように修行できる者を不二法門に入るという。』

心無礙菩薩曰。身身滅為二。身即是身滅。所以者何。見身實相者不起見身及見滅身。身與滅身無二無分別。於其中不驚不懼者。是為入不二法門

心無礙菩薩曰く、身(五陰)と身滅(涅槃)とを二と為す。身とは、すなわちこれ身滅なり(本来不生不滅なり)。所以は何となれば、身の実の相を見る者は、身を見ること、および滅身を見ることを起こさず。身と滅身とは、二無く分別無し。その中に於いて、驚かず懼(おそ)れざる者、これを不二法門と為す。』と。

 心無礙菩薩(しんむげぼさつ)が言います、

『身と身が滅することとを二とします。

 

 身とは

   身が滅することである。なぜならば

 身の本性を知る者は

   身を見ることも

   身の滅することを、

     見ることもない。

 

 身と、身の滅することとは

   別の事ではなく、

   区別できない。

 そのように聞いて驚かず畏れることの無い者を不二法門に入るといいます。』

上善菩薩曰。身口意善為二。是三業皆無作相。身無作相即口無作相。口無作相即意無作相。是三業無作相即一切法無作相。能如是隨無作慧者。是為入不二法門

上善菩薩曰く、『身口意の業を二と為す。この三業は、皆作相(行為して他に因縁すること)無し。身に作相無ければ、すなわち口に作相無し。口に作相無ければ、すなわち意に作相無し。この三業に作相無ければ、すなわち一切の法に作相無し。よくかくの如く、無作の慧に随う者、これを不二法門に入ると為す。』と。

 上善菩薩(じょうぜんぼさつ)が言います、

『身と口と意の業を二とします。

 

 本来

   身口意の三業は皆、働いて

     他に因縁することは無い。

 

 身が他に因縁しなければ

   口も他に因縁しない。

 口が他に因縁しなければ

   意も他に因縁しない。

 

 このように三業は

   他に働いて因縁しないのである。

 このような他に働いて因縁しないと知る者を不二法門に入るといいます。』

福田菩薩曰。福行罪行不動行為二。三行實性即是空。空則無福行無罪行無不動行。於此三行而不起者。是為入不二法門

福田菩薩曰く、福行と罪行と不動行(福にも罪にも非ざる行)とを二と為す。三行の実の性は、すなわちこれ空なり。空は、すなわち福行無く、罪行無く、不動行無し。この三行に於いて、起こさざる者、これを不二法門と為す。』と。

 福田菩薩(ふくでんぼさつ)が言います、

『福を招く行いと、罪を招く行いと、どちらでもない行いとを二とします。

 

 三つの行いの本性は空である。

 

 空には

   福を招く行いも、

   罪を招く行いも、

    どちらでもない行いも無い。

 この三つの行いをしない者を不二法門に入るといいます。』

華嚴菩薩曰。從我起二為二。見我實相者不起二法。若不住二法則無有識。無所識者。是為入不二法門

華厳菩薩曰く、『我(が、ワレアリ)に従り、二(我と彼)を起こすを二と為す。我の実の相を見る者は、二法を起こさず。もし二法に住せざれば、すなわち識ること(認識)有ること無し。識る所の無き者、これを不二法門に入ると為す。』と。

 華厳菩薩(けごんぼさつ)が言います、

『我の妄念があるために、我(われ)と彼(かれ)との二がある。

 

 我の本性を知る者は

   我も彼も無い。

 我も彼も無ければ

   物事を識別することも無い。

 識別しない者を不二法門に入るといいます。』

德藏菩薩曰。有所得相為二。若無所得則無取捨。無取捨者。是為入不二法門

徳蔵菩薩曰く、『得る所の相(我相と彼相)を二と為す。得る所(分別)無ければ、すなわち取捨無し。取捨無き者、これを不二法門と為す。』と。

 徳蔵菩薩(とくぞうぼさつ)が言います、

『心に得る所の我相と彼相を二とします。

 

 得る所が無ければ

   取る(執著)も

   捨てることも無い。

 取ることも捨てることも無い者を不二法門に入るといいます。』

月上菩薩曰。闇與明為二。無闇無明則無有二。所以者何。如入滅受想定無闇無明一切法相亦復如是。於其中平等入者。是為入不二法門

月上菩薩曰く、『闇と明とを二と為す。闇無く明無ければ、すなわち二有ること無し。所以は何となれば、受想を滅する定に入れば、闇無く明無きが如し。一切の法相もまた、またかくの如し。その中に於いて、平等にして入る者、これを不二法門に入ると為す。』と。

 月上菩薩(がつじょうぼさつ)が言います、

『闇と明とを二とします。

 

 闇が無く

 明も無ければ、

   二つではない。

 なぜならば

   感受し想像することを

     滅する禅定に入れば、

     闇も無く明も無い。

 あらゆる物事の相も同じである。

 そう知って平等を理解する者を不二法門に入るといいます。』

寶印手菩薩曰。樂涅槃不樂世間為二。若不樂涅槃不厭世間則無有二。所以者何。若有縛則有解。若本無縛其誰求解。無縛無解則無樂厭。是為入不二法門

宝印手菩薩曰く、涅槃を楽(ねが)うと、世間を楽わざるとを二と為す。もし涅槃を楽わず、世間を厭わざれば、すなわち二有ること無し。所以は何となれば、もし縛(繫縛)有らば解(解脱)有り。もし本より縛無くんば、それ誰か解を求むる。縛無く解無ければ、すなわち楽うと厭うも無し。これを不二法門と為す。』と。

 宝印手菩薩(ほういんしゅぼさつ)が言います、

『涅槃を楽(ねが)うことと世間を楽しまないこととを二とします。

 

 もし

   涅槃を楽(ねが)わず、

   世間を厭わなければ、

     二つは別ではない。

 

 なぜならば、もし世間に縛り付ける

   煩悩があれば、それを

   解脱する覚りもある。

 もし本から

   煩悩が無ければ

   誰が覚りを求めよう。

 

 煩悩も解脱も無ければ、

   楽(ねが)うことも

   厭うことも無い。

 これを不二法門に入るといいます。』

珠頂王菩薩曰。正道邪道為二。住正道者則不分別是邪是正。離此二者。是為入不二法門

珠頂王菩薩曰く、『正道と邪道とを二と為す。正道に住すれば、すなわちこれ邪、これ正と分別せず。この二を離るる者、これを不二法門と為す。』と。

 珠頂王菩薩(しゅちょうおうぼさつ)が言います、

『正道と邪道とを二とします。

 

 正道を往く人は

   邪と正とを

   分別しない。

 邪と正とを超えた者を不二法門に入るといいます。』

樂實菩薩曰。實不實為二。實見者尚不見實何況非實。所以者何。非肉眼所見慧眼乃能見。而此慧眼無見無不見。是為入不二法門

楽実菩薩(ぎょうじつぼさつ)曰く、『実と不実とを二と為す。実に見る者も、なお実をすら見ず、何をか況や実に非ざるものをや。所以は何となれば、肉眼(にくげん、肉体付属の眼)の見る所に非ず、慧眼(えげん、よく空相を見る智慧の眼)なれば、すなわちよく見る。しかれども、この慧眼は見ること無く、見ざること無し。これを不二法門と為す。』と。

 楽実菩薩(ぎょうじつぼさつ)が言います、

『真実と不実とを二とします。

 

 真実を見る者は

   真実を見ない。

 不実の者に何うして

   真実が見れようか。

 

 なぜならば、

   肉眼で見るのではない。

   慧眼(空を見る智慧の眼)ならば見ることができる。

 しかし

   慧眼は見ることも無く見ないことも無い。

 これを不二法門に入るといいます。』と。

如是諸菩薩各各說已。問文殊師利。何等是菩薩入不二法門

かくの如く、諸の菩薩は、各々説きおわりて、文殊師利に問わく、『何等かこれ菩薩、不二法門に入る。』と。

 このように諸の菩薩が各々自説を述べ終って、文殊師利に問います、

『菩薩が不二法門に入るとは何をいうのでしょうか?』と。

 

 

 

 

文殊師利、不二法門を説く

文殊師利曰。如我意者。於一切法無言無說。無示無識離諸問答是為入不二法門

文殊師利曰く、『我が意の如きは、一切の法に於いて、言うこと無く、説くこと無く、示すこと無く、識ること無し。諸の問答を離るる、これを不二法門に入ると為す。』と。

 文殊師利が言います、

『私が思うに、

   一切のあらゆる物事は

     言葉で説明できない。

     示すことも識ることも無い。

 諸の問答を離れたならば、それを不二法門に入るといいます。』と。

於是文殊師利。問維摩詰。我等各自說已。仁者當說。何等是菩薩入不二法門

ここに於いて文殊師利、維摩詰に問わく、『我等、おのおの自ら説きおわりぬ。仁者、まさに説くべし。何等かこれ菩薩、不二法門に入る。』と。

 そこで文殊師利は維摩詰に問いました、

『我々は既に各々自説を述べました。

   次はあたなの番です。何をいうのでしょう、

     菩薩が不二法門に入るとは?』

時維摩詰默然無言

時に維摩詰黙然として言無し。

 そう問われても、維摩詰は

   黙ったまま言葉がありません。

文殊師利歎曰。善哉善哉。乃至無有文字語言。是真入不二法門

文殊師利歎じて曰く、『善哉善哉、すなわち文字言語の有ること無きに至る。これ真の不二法門なり。』と。

 文殊師利が感嘆して言いました、

『素晴らしい素晴らしい。まさに言葉も文字も用が無いということですね。

 まさに不二法門に入っていられます。』と。

說是入不二法門品時。於此眾中五千菩薩。皆入不二法門得無生法忍

 

維摩詰所說經卷中

この不二法門品を説く時、この衆中に於いて五千の菩薩、皆不二法門に入りて無生法忍を得たり。

 

 

維摩詰所説経 巻の中

 この不二法門品を説いた時、この場に於いて

   五千の菩薩が皆不二法門に入り、無生法忍(不退)を得ました。

 

維摩詰所説経 巻きの中終り

 

 

 

 

 

 

 

 

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