巻中之第二

 

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観衆生品第七

文殊師利、衆生を問う

文殊師利、慈を問う

文殊師利、悲喜捨所依等を問う

天女、舎利弗に教える

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

観衆生品第七

觀眾生品第七

観衆生品(かんしゅじょうぼん)第七

 菩薩、衆生を観ること幻師の幻人を見るが如くにして、慈悲を行ず。

 

 

 

 

文殊師利、衆生を問う

爾時文殊師利問維摩詰言。菩薩云何觀於眾生

その時、文殊師利、維摩詰に問うて言わく、『菩薩は、云何が衆生を観ずる。』

 その時、文殊師利は維摩詰に問いました、

『菩薩は、何のようにして衆生を観るのでしょうか。』

維摩詰言。譬如幻師見所幻人。菩薩觀眾生為若此

維摩詰言わく、『譬えば、幻師、所幻の人を見るが如し。菩薩の衆生を観ずることかくの若(ごと)しと為す。

 維摩詰は言います、

『譬えば、幻術師が幻の人を見るようにするのだ。

   菩薩は衆生をそのようにして観なくてはならない。

如智者見水中月。如鏡中見其面像。如熱時焰。如呼聲響。如空中雲。如水聚沫。如水上泡。如芭蕉堅。如電久住。如第五大。如第六陰。如第七情。如十三入。如十九界。菩薩觀眾生為若此

智者の水中の月を見るが如く、鏡中にその面像を見るが如く、熱時の焔(ほのお、カゲロウ)の如く、呼ぶ声の響きの如く、空中の雲の如く、水の聚沫の如く、水上の泡の如く、芭蕉の堅き(こと無き)が如く、電(でん、イナヅマ)の久しく住するが如く、第五大(地水火風以外)の如く、第六陰(色受想行識以外)の如く、第七情(眼耳鼻舌身意以外)の如く、十三入(眼耳鼻舌身意色声香味触法以外)の如く、十九界(眼耳鼻舌身意色声香味触法眼識耳識鼻識舌識身識意識以外)の如く、菩薩の衆生を観ずるはかくの若しと為す。

 智慧の有る者が、

   水中の月を見るように、

   鏡中にその顔を見るように、

   陽炎(かげろう)のように、

   コダマのように、

   雲のように、

   水の飛沫のように、

   水に浮かぶ泡のように、

   芭蕉が堅いように(この事無し)、

   イナヅマが永久に消えないように(この事無し)、

   第五大(この事無し)のように、

   第六陰(この事無し)のように、

   第七情(この事無し)のように、

   十三入(この事無し)のように、

   十九界(この事無し)のように、

 菩薩は衆生をこのように観なければならない。

如無色界色。如焦穀牙。如須陀洹身見。如阿那含入胎。如阿羅漢三毒。如得忍菩薩貪恚毀禁。如佛煩惱習。如盲者見色。如入滅盡定出入息。如空中鳥跡。如石女兒。如化人起煩惱。如夢所見已寤。如滅度者受身。如無煙之火。菩薩觀眾生為若此

無色界の色の如く、焦穀(しょうこく、イリゴメ)の牙()の如く、須陀洹(しゅだおん、小乗の身見を除きたる位)の身見(しんけん、我が身体ありとの思い)の如く、阿那含(あなごん、小乗の再度入胎すること無きの位)の入胎の如く、阿羅漢(あらかん、小乗の三毒を除きたる位)の三毒(貪瞋癡の根本煩悩)の如く、得忍(無生忍を得たる)の菩薩の貪(貪欲)恚(瞋恚)、毀禁(ききん、戒律を破る)の如く、仏の煩悩習(ぼんのうしゅう、煩悩の余習(ナゴリ))の如く、盲者の色を見るが如く、滅尽定(めつじんじょう、六識、心、心所(しんじょ、心の働き)を滅尽する三昧)に入りて息を出入するが如く、空中の鳥跡の如く、石女(せきにょ、ウマヅメ)の児(に)の如く、化人の煩悩を起こすが如く、夢に見る所のすでに寤(さめ)たるが如く、滅度の者の身を受くるが如く、無煙の火の如く、菩薩の衆生を観ずるはかくの若しと為す。』と。

 無色界の色のように、

   焦穀(しょうこく、イリゴメ)の牙()のように、

   須陀洹(しゅだおん、小乗の身見を除いた位)の身見(しんけん、我が身体ありとの思い)のように、

   阿那含(あなごん、小乗の再度入胎することの無い位)の入胎のように、

   阿羅漢(あらかん、小乗の三毒を除いた位)の三毒(貪瞋癡の根本煩悩)のように、

   得忍(無生忍を得た)の菩薩の貪(貪欲)恚(瞋恚)、毀禁(ききん、戒律を破る)のように、

   仏の煩悩習(ぼんのうしゅう、煩悩の余習(ナゴリ))のように、

   盲者の色を見るがように、

   滅尽定(めつじんじょう、六識、心、心所(しんじょ、心の働き)を滅尽する三昧)に入りて

     息を出入するがように、

   空中の鳥跡のように、

   石女(せきにょ、ウマヅメ)の児(に)のように、

   化人の煩悩を起こすがように、

   夢に見る所のすでに寤(さめ)たるがように、

   滅度の者の身を受くるがように、

   無煙の火のように、

 菩薩は、衆生をこのように観なければならない。』と。

 

 

 

 

文殊師利、慈を問う

文殊師利言。若菩薩作是觀者。云何行慈

文殊師利言わく、『もし菩薩、この観を作さば、云何が慈を行ずる。』

 文殊師利が言います、

『もし

   菩薩が、

     そのように衆生を観るならば、

     何うして慈(じ、楽を与える)を行うことができましょうか。』

維摩詰言。菩薩作是觀已自念。我當為眾生說如斯法。是即真實慈也

維摩詰言わく、『菩薩、この観を作しおわりて、自ら念ずらく、『我は、まさに衆生の為に、かくの如き法を説くべし。これすなわち真実の慈なり。』と。

 維摩詰は言います、

『菩薩は、

   そのように衆生を観て心の中でこう思う、

     『私は衆生のために、

        この(衆生は空であるという)法を説こう。

        これが真実の慈なのだ。』と。

 

  注:衆生は本より空である。しかし衆生にはその自覚が無いために今それを説こう。

行寂滅慈無所生故

寂滅(空、無相、無作)の慈を行ぜよ、生まるる所のもの無きが故に。

 空である、何も無い、何も作さない慈を行え。

   生まれた者など本々無いのだから。

 

  注:以下さまざまな慈が出るが、すべて逆説的表現であることに気付かなくてはならない。

 空であり何も無い何も作さないとは、無制限の慈を空として言っているのである。

行不熱慈無煩惱故

不熱(熱悩無き)の慈を行ぜよ、煩悩無きが故に。

 熱心ではない慈を行え。

   熱を発する煩悩など本々無いのだから。

 

  注:熱心ではない慈というのも、無制限の熱心さを空として言っている。

行等之慈等三世故

等(平等)の慈を行ぜよ、三世に等しきが故に。

 平等の慈を行え。

   過去と未来と現在は、等しくて区別できないのだから。

行無諍慈無所起故

無諍の慈を行ぜよ、起こる所無きが故に。

 諍いの無い慈を行え。

   何も起きていないのだから。

行不二慈內外不合故

不二(自他は平等にして違い無き)の慈を行ぜよ、内外(内心外境)合せざるが故に。

 自他は平等にして二つならずという慈を行え。

   自心と外境とは共に空であって、会合することなど無いのだから。

行不壞慈畢竟盡故

不壊の慈を行ぜよ、畢竟尽くる(諸法の畢竟空なる)が故に。

 破壊することのない慈を行え。

   結局あらゆる物事は何も無くなるのだから。

行堅固慈心無毀故

堅固の慈を行ぜよ、心の毀(やぶ)るること無きが故に。

 堅固な慈を行え。

   心が傷つくことは無いのだから。

行清淨慈諸法性淨故

清浄(平等にして私心無き)の慈を行ぜよ、諸法の性は浄なる(衆生も本性は平等にして私心無し)が故に。

 平等にして私心のない清浄な慈を行え。

   あらゆる物事の本性は私心なく浄らかで平等であるのだから。

行無邊慈如虛空故

無辺の慈を行ぜよ、(衆生は)虚空の如く(無辺)なるが故に。

 無辺の慈を行え。

   心は虚空のように一切を覆うのだから。

行阿羅漢慈破結賊故

阿羅漢の慈を行ぜよ、結の賊(煩悩)を破るが故に。(阿羅漢とは結賊を殺すと訳す

 阿羅漢(あらかん、煩悩の賊を殺すの意を持つ)のようにせよ。

   煩悩の賊を破るのだから。

 

  注:煩悩を破ることが即ち慈である。

  注:以下『慈』を省略して訳す。

行菩薩慈安眾生故

菩薩の慈を行ぜよ、衆生を安んずるが故に。(菩薩とは衆生を安んずと訳す

 菩薩のようにせよ。

   衆生を安んずるのだから。

行如來慈得如相故

如来の慈を行ぜよ、如の相を得るが故に。(如来とは真如の相を得と訳す

 如来のようにせよ。

   真如の相(そう、姿形、五感に感ずるもの)を得るのだから。

行佛之慈覺眾生故

仏の慈を行ぜよ、衆生を覚らすが故に。(仏とは自覚覚他と訳す

 仏のようにせよ。

   衆生を覚らせるのだから。

行自然慈無因得故

自然の慈を行ぜよ、無因(自然)に得るが故に。(大乗の道に師無し

 自然にせよ。

   自然に覚りを得るのだから。

行菩提慈等一味故

菩提の慈を行ぜよ、等しく一味なるが故に。(菩提とは平等にして自他の区別無しと訳す

 菩提の慈を行え。

   平等にして自他の区別がないのだから。

行無等慈斷諸愛故

無等の慈を行ぜよ、諸愛を断ずるが故に。(無等とは平等一味なるをいう

 等しきものが無いようにせよ。

   一切は平等一味にして愛著することはないのだから。

行大悲慈導以大乘故

大悲の慈を行ぜよ、導くに大乗を以ってするが故に。

 大悲を行え。

   導くのは大きな車乗(くるま)でするのだから。

行無厭慈觀空無我故

無厭の慈を行ぜよ、空無我を観ずるが故に。(疲厭する者無し

 疲れ厭うことのないようにせよ。

   自らは空にして無我なのだから。

行法施慈無遺惜故

法施の慈を行ぜよ、遺惜(いしゃく、オシムコト)無きが故に。

 法を施せ。

   惜しむことはないのだから。

行持戒慈化毀禁故

持戒の慈を行ぜよ、毀禁(ききん、犯戒)のものを化(教化)するが故に。

 持戒せよ。

   戒を犯す者を教化するのだから。

行忍辱慈護彼我故

忍辱の慈を行ぜよ、彼と我を護るが故に。(忍辱を行う者は自他を傷けず

 忍辱(にんにく、耐え忍ぶ)せよ。

   彼と我を傷付けず護るのだから。

行精進慈荷負眾生故

精進の慈を行ぜよ、衆生を荷負(かふ、ニナウ)するが故に。

 精進(努力)せよ。

   衆生を背負うのだから。

行禪定慈不受味故

禅定の慈を行ぜよ、味(アジワイ)を受けざるが故に。(禅定により心の乱れざる者は、五欲を味わわず、また禅定の味を受けることも無し

 禅定を行え。

   心が乱れなければ欲望を受けることがないのだから。

行智慧慈無不知時故

智慧の慈を行ぜよ、時を知らざること無きが故に。(時を知らずとは、行いて未だ満ぜざるに、果を求むをいう

 智慧を働かせよ。

   その時を知らなくてはならないのだから。

 

  注:時を知るとは、阿耨多羅三藐三菩提を得る時を知る。即ち清浄なる仏国土の建設が成った時をいう。途中にて涅槃に入ることはない、これが第一に大切なことである。

行方便慈一切示現故

方便の慈を行ぜよ、一切(の衆生の求め)に(応じて種々の相を)示現するが故に。

 方便せよ。

   一切の衆生の求めに応じて何処にでも現れるのだから。

行無隱慈直心清淨故

隠すこと無き慈を行ぜよ、直心(じきしん)清浄なるが故に。

 隠すな。

   素直な心は清浄なのだから。

行深心慈無雜行故

深心(じんしん、深く信ずる)の慈を行ぜよ、雑行(ホカゴト)無きが故に。

 深く信ぜよ。

   他事をまじえることは無いのだから。

行無誑慈不虛假故

誑かすこと無き慈を行ぜよ、虚仮ならざるが故に。

 誑かすな。

   嘘偽りは無いのだから。

行安樂慈令得佛樂故。菩薩之慈為若此也

安楽の慈を行ぜよ、仏の楽を得しむるが故に。菩薩の慈は、かくの若しと為す。』と。

 衆生を安楽にせよ。

   衆生に仏の楽しみを得させるのだから。

 菩薩の慈とはこれをいうのだ。』と。

 

 

 

 

文殊師利、悲喜捨所依等を問う

文殊師利又問。何謂為悲。答曰。菩薩所作功德。皆與一切眾生共之

文殊師利、また問わく、『何をか謂って悲と為す。』

答えて曰く、『菩薩は、作す所の功徳を、皆一切の衆生とこれを共にす。』

 文殊師利がまた問いました、

『悲とは何をいうのでしょうか。』

 答えて言います、

『菩薩は得た力は、皆、

   一切の衆生の為に使うのだ。』

何謂為喜。答曰。有所饒益歡喜無悔

『何をか謂って喜と為す。』

答えて曰く、『(衆生を)饒益する所有れば、歓喜して悔ゆること無し。』

 『喜とは何をいうのでしょうか。』

 答えて言います、『衆生の役に立てれば、歓喜して悔いることが無い。』

何謂為捨。答曰。所作福祐無所悕望

『何をか謂って捨と為す。』

答えて曰く、『作す所の福祐(ふくゆう、助け)は、悕望(けもう、希望)する所無し。』

 『捨とは何をいうのでしょうか。』

 答えて言います、『人を助けても、何も望まない。』

文殊師利又問。生死有畏菩薩當何所依

文殊師利、また問わく、『生死に畏れ有る菩薩は、まさに何(いづ)れの所にか依るべし。』

 文殊師利がまた問います、

『生死を繰り返すことを恐れる菩薩は、

   何を頼りにすればよいのでしょうか。』

維摩詰言。菩薩於生死畏中。當依如來功德之力

維摩詰言わく、『菩薩は、生死の畏れの中に於いて、まさに如来の功徳の力に依るべし。』

 維摩詰が言います、

『菩薩が生死を繰り返すことを恐れているのならば、

   如来(にょらい、)の力を持とうとせよ。』

文殊師利又問。菩薩欲依如來功德之力。當於何住。答曰。菩薩欲依如來功德力者。當住度脫一切眾生

文殊師利、また問わく、『菩薩、如来の功徳の力に依らんと欲せば、まさに何に於いてか住すべき。』

答えて曰く、『菩薩、如来の功徳の力に依らんと欲せば、まさに一切の衆生を度脱(済度して解脱せしむ)するに住すべし。』

 文殊師利が重ねて問います、

『菩薩が

   如来の力を持とうとするならば、

   何をしておるのがよいのでしょうか。』

 答えて言います、『菩薩が如来の力を持とうとするならば、ただ一切の衆生を救うことのみせよ。』

又問。欲度眾生當何所除。答曰。欲度眾生除其煩惱

また問わく、『衆生を度せんと欲せば、まさに何れの所をか除くべし。』

答えて曰く、『衆生を度せんと欲せば、その煩悩を除くべし。』

 また問います、『衆生を救おうとするならば、何を取り除くのがよいのでしょうか。』

 答えて言います、『衆生を救おうとするならば、その(衆生の)煩悩を取り除け。』

又問。欲除煩惱當何所行。答曰。當行正念

また問わく、『煩悩を除かんと欲せば、まさに何れの所をか行ずべし。』

答えて曰く、『まさに正念を行ずべし。』

 また問います、『煩悩を取り除こうとすれば、何を行えばよいのでしょうか。』

 答えて言います、『邪念を抑えて正念を保て。』

又問。云何行於正念。答曰。當行不生不滅

また問わく、『云何が正念に於いて行ぜん。』

答えて曰く、『まさに不生不滅を行ずべし。』

 また問います、『心を正念に保って行うとは、何うすればよいのでしょうか。』

 答えて言います、『不生不滅を行え。』

又問。何法不生何法不滅。答曰。不善不生善法不滅

また問わく、『何れの法か不生なる。何れの法か不滅なる。』

答えて曰く、『不善(悪法、ワルイコト)は生ぜず、善法は滅せず。』

 また問います、『何を不生といい、何を不滅というのでしょうか。』

 答えて言います、『不善を生じさせず、善を滅しないことだ。』

又問。善不善孰為本。答曰身為本

また問わく、『善と不善は、孰(いず)れをか本と為す。』

答えて曰く、『身を本と為す。』

 また問います、『善と不善とは何を本として起こるのでしょうか。』

 答えて言います、『身を本とする。』

又問。身孰為本。答曰。欲貪為本。

また問わく、『身は、孰れをか本と為す。』

答えて曰く、『欲貪を本と為す(欲貪あるにより我身あるを自ら識る)。』

 また問います、『身は何を本とするのでしょうか。』

 答えて言います、『欲望を本とする。』

又問。欲貪孰為本。答曰。虛妄分別為本。

また問わく、『欲貪は、孰れをか本と為す。』

答えて曰く、『虚妄の分別を本と為す(虚妄の分別により自他の区別を識る)。』

 また問います、『欲望は何を本として起こるのでしょうか。』

 答えて言います、『虚妄の分別(にて自他を区別する)を本とする。』

又問。虛妄分別孰為本。答曰。顛倒想為本。

また問わく、『虚妄の分別は、孰れをか本と為す。』

答えて曰く、『顛倒の想(我有りとの思い)を本と為す。』

 また問います、『虚妄の分別は何を本として起こるのでしょうか。』

 答えて言います、『(我有りと思う)顛倒(てんどう、逆さま)の想を本とする。』

又問。顛倒想孰為本。答曰。無住為本。

また問わく、『顛倒の想は、孰れをか本と為す。』

答えて曰く、『(心の)住すること無きを本と為す。』

 また問います、『顛倒の想は何を本として起こるのでしょうか。』

 答えて言います、『(あらゆる物事は自性を持たないのだから)一瞬も住(とど)まらないことを本とする。』

又問。無住孰為本。答曰。無住則無本。文殊師利。從無住本立一切法

また問わく、『住すること無きとは、孰れをか本と為す。』

答えて曰く、『住すること無ければ、すなわち本無し。文殊師利、住すること無き()の本に従り、一切の法を立つ。』

 また問います、『一瞬も住まらないことは何を本として起こるのでしょうか。』

 答えて言います、『一瞬も住まらないのであるから本もないのだ。

 文殊師利、

   一瞬も住まらないということを本として、

   あらゆる物事は起こるのだ。』と。

 

 

 

 

天女、舍利弗に教える

時維摩詰室有一天女。見諸大人聞所說法便現其身。即以天華散諸菩薩大弟子上。華至諸菩薩即皆墮落。至大弟子便著不墮。一切弟子神力去華不能令去

時に、維摩詰が室に一(ひとり)の天女有り。諸の大人(菩薩)を見、所説の法を聞きて、すなわちその身を現し、すなわち天華を以って、諸の菩薩、大弟子の上に散(ま)く。華は、諸の菩薩に至りては、すなわち皆堕落し、大弟子に至りては、すなわち著いて堕ちず。一切の弟子、神力もて華を去らんとすれども、去らしむること能わず。

 その頃、維摩詰の室には一人の天女が居りました。

 この天女は、諸の菩薩を見、そしてその説法を聞いていましたが、ここにきて

   天華(てんげ、天上の花)を

   諸の菩薩と大弟子の上に撒き散らしました。

 諸の菩薩に降り懸かった花びらは皆下に落ちてしまいましたが、

   大弟子に降り懸かった花びらは、へばり著いて離れません。

 大弟子たちは、皆、神通力で取り去ろうとしますが、それでも離れません。

爾時天女問舍利弗。何故去華

その時、天女は、舍利弗に問わく、『何が故に華を去る。』

 それを見て天女が舎利弗に問いました、

『何うしてそんなに花を取り去りたいのでしょう?』と。

答曰。此華不如法是以去之

答えて曰く、『この華は、如法ならず。ここを以ってこれを去る(香華を以って身を飾るは沙門の法に非ず)。』

 答えて言います、

『この花は、戒を破るので良くありません。それで取り去ろうとしているのです。』と。

 

  注:花が著くとは、花を身に著けて飾ることに及ぶ。

天曰。勿謂此華為不如法。所以者何。是華無所分別。仁者自生分別想耳

天曰く、『この華を謂って、如法ならずと為すことなかれ。所以は何となれば、この華は、(如法不如法の)分別する所なし。仁者(にんじゃ、アナタハ)、自ら分別の想を生ずるのみ。

 天女が言います、

『この花を良くないなどと仰るものではありませんわ。だってこの花に罪はございませんでしょう。

 あなたが良いとか悪いとか、勝手にお決めになっていらっしゃるだけではありませんか。

若於佛法出家有所分別為不如法。若無所分別是則如法。觀諸菩薩華不著者已斷一切分別想故

もし仏法に於いて出家して、分別する所有らば、如法ならずと為す。もし、分別する所無くば、これすなわち如法なり。諸の菩薩を観るに、華の著かざるは、すでに一切の分別の想を断ずるが故なり。

 あなたは仏についてご出家なすって、

   良いとか悪いとか勝手にお分けになり、これは悪いとか仰いますが、

   お分けにならなければ、これは良いものなんでございますのよ。

 菩薩の方たちをご覧なさいましよ。

   皆さん花が著いていないのは、何につけてもお分けになったりなさいませんからですわ。

譬如人畏時非人得其便。如是弟子畏生死故。色聲香味觸得其便也。已離畏者一切五欲無能為也。結習未盡華著身耳。結習盡者華不著也

譬えば、人の畏るる時には、非人(鬼神)もその便(たより、便宜)を得るが如く、かくの如き弟子も、生死を畏るるが故に、色声香味触もその便を得るなり。すでに畏れを離れたれば、一切の五欲もよく為すこと無し。結習(けつじゅう、五欲の余習(ナゴリ))、未だ尽きざれば、華身に著くのみ。結習尽くれば、華は著かざるなり。』

 譬えば、鬼神が恐ろしいというのも、人が畏れることが本なんですのよ。

 

 ここにいらっしゃる弟子の方たちも、

   生死を繰り返すことを恐れていらっしゃるから、

   何を見ても聞いても畏れなくてはならないんじゃないかしら。

 

 もし恐れていなければ、

   何を見ても聞いても、畏れることなどない筈ですわ。

 

 煩悩がまだ少しは残っていらっしゃるのではないかしら、

   花を身体に著けていらっしゃるんですもの。

 煩悩が無くなれば、

   花も著かなくなりましてよ。』と。

舍利弗言。天止此室其已久如。

舍利弗言わく、『天、この室に止まること、それすでに久しきか。』

 舎利弗が言います、

『お前は、この室にいつから居るのだ。随分永くここに居たのか。』

答曰。我止此室如耆年解脫。舍利弗言。止此久耶。

答えて曰く、『我、この室に止まること、耆年(ぎねん、高僧に対する呼びかけ)の解脱の如し。』

舍利弗言わく、『ここに止まりて久しきや。』

 答えて言います、『私がこの室に居るのは、あなた様の解脱と同じでことですわ。』

 舎利弗が言います、『どれくらい居るのだ。』

天曰。耆年解脫亦何如久。舍利弗默然不答。

天曰く、『耆年が解脱も、また何如が久しき。』

舍利弗、黙然として答えず。

 天女が言います、『あなた様の解脱は、どれくらい経(た)ちますの。』

 舎利弗は黙ったまま答えません。

天曰。如何耆舊大智而默。答曰。解脫者無所言說故吾於是不知所云

天曰く、『如何が耆旧(ぎきゅう、耆年に同じ)、大智ありて、しかも黙する。』。

答えて曰く、『解脱とは、言説する所無きが故に、吾はここに於いて云(い)う所を知らず。』

 天女が言います、『何うなすったの、あなた様。大智がお有りになって、しかも黙っていらっしゃるなんて。』

 答えて言います、

   『解脱とは

      言葉では説明できない。何を言えというのか。』

天曰。言說文字皆解脫相。所以者何。解脫者不內不外不在兩間。文字亦不內不外不在兩間

天曰く、『言説も文字も、皆解脱の相あり。所以は何となれば、解脱とは、内にあらず外にあらず両の間に在らず。文字も、また内にあらず外にあらず両の間に在らざればなり。

 天女が言います、

『言葉も文字も、皆、解脱ですのよ。その訳は

   解脱は

     心の内にあるのでも、

     外の世界にあるのでも、その

     中間にあるのでもございませんの。

 文字も同じですわ。

   内にも外にもその中間にもありませんのよ。

是故舍利弗。無離文字說解脫也。所以者何。一切諸法是解脫相

この故に舍利弗、文字を離れて解脱を説くこと無し。所以は何となれば、一切の諸法は、これ解脱の相なればなり。』

 お分かり?舎利弗。

   文字や言葉を離れて解脱を説くだなんて、ちょっとばかりお早くてよ。

 なぜかとおっしゃるの?

   一切の物事は、それはみーんな解脱なんですの。』

舍利弗言。不復以離婬怒癡為解脫乎

舍利弗言わく、『また婬怒癡(いんぬち、貪瞋癡)を離るることを以って解脱と為さずや。』

 舎利弗が言います、

『貪り怒り愚か、これを離れることなどはもう解脱ではないと言っているのか。』

天曰。佛為增上慢人。說離婬怒癡為解脫耳。若無增上慢者。佛說婬怒癡性即是解脫

天曰く、『仏、増上慢(ぞうじょうまん、我覚れりと慢心すること)の人の為に、婬怒癡を離るるを解脱と為すと説きたもうのみ。もし増上慢無ければ、仏も、婬怒癡の性は、すなわちこれ解脱なりと説きたもう。』

 天女が言います、

『仏は、

   もう覚り終わったと思っている傲慢な人の為に、

   貪りと怒りと愚かを離れることが解脱だとお説きになりました。ただそれだけよ。

 もし

   覚り終わったと勘違いしている人がいなければ、仏も、

   貪り怒り愚かが返って解脱であると、お説きになったことでしょうね。』

舍利弗言。善哉善哉。天女。汝何所得以何為證辯乃如是

舍利弗言わく、『善哉善哉(ぜんざい、ヨキカナ)、天女、汝は、何の得る所あり、何を以ってか証(証悟)と為して、辯(辯才)すなわちかくの如き。』

 舎利弗が言いました、

『よく仰いますな、天のお方。あなたは何をお覚りになって、そのような大口をお叩きになるんですか。』

天曰。我無得無證故辯如是。所以者何。若有得有證者即於佛法為增上慢

天曰く、『我は、得ること無く証すること無きが故に、辯かくの如し。所以は何となれば、もし得ること有りて証すること有らば、すなわち仏法に於いて増上慢と為す。』

 天女が言います、

『私が覚ったことなど何もございませんことよ。それでこのように大口を叩いておりますの。

 訳をお聞かせしましょうか?もし覚ったなどと思えばそれは増上慢(慢心)であると仏も仰っていましてよ。』

 

  注:もし得る所(得られるもの)あり、証悟する所(証悟されるもの)あれば、心に罣礙(けげ、障り)が生じて自在ならず。得る所なく、証悟する所も無きが故に、心に罣礙生じず自在を得る。

舍利弗問天。汝於三乘為何志求

舍利弗、天に問わく、『汝、三乗(声聞乗、辟支仏乗、大乗)に於いて、何の志求をか為す。』

 舎利弗は天女に問います、

『あなたは、三乗(声聞乗、辟支仏乗、大乗)の中の何乗を求めていらっしゃるんですか。』

 

  注:乗は車乗、それぞれの覚りを目指す乗り物である。大乗とは文字通り一切を乗せる大きな車をいい、一切の衆生が同時に同一の清浄国土に活きることを目指す。

天曰。以聲聞法化眾生故我為聲聞。以因緣法化眾生故我為辟支佛。以大悲法化眾生故我為大乘

天曰く、『声聞の法を以って衆生を化(教化)するが故に、我は声聞と為り、因縁の法(十二因縁)を以って衆生を化するが故に、我は辟支仏と為り、大悲の法を以って衆生を化するが故に、我は大乗と為る。

 天女が言います、

『声聞の法(四諦、八正道)で衆生を教え導きますから、私は声聞でございます。

 十二因縁の法で衆生を導きますから、私は辟支仏でございます。

 また大悲でもって衆生を導きますので、私は大乗(菩薩)でもございます。

舍利弗。如人入瞻蔔林唯嗅瞻蔔不嗅餘香。如是若入此室。但聞佛功德之香。不樂聞聲聞辟支佛功德香也

舍利弗、人の瞻蔔林(せんぷくりん、香木の林)に入りて、ただ瞻蔔を嗅ぎて余香を嗅がざるが如し。かくの如く、もしこの室に入らば、ただ仏の功徳の香(か)を聞いて、声聞辟支仏の功徳の香を聞くことを楽(ねが)わず。

 舎利弗、人が

   香木の林に入れば、ただ香木の香を嗅いで他の香を嗅ごうとはしないように、

 この室に入れば、ただ

   仏の功徳の香を聞くだけで、

   声聞辟支仏の功徳の香までは聞きたいとは思いませんの。

舍利弗。其有釋梵四天王諸天龍鬼神等入此室者。聞斯上人講說正法。皆樂佛功德之香發心而出

舍利弗、その釈(帝釈)梵(梵天)四天王、諸の天龍、鬼神等も、この室に入らば、この上人(しょうにん、菩薩)の正法を講説するを聞いて、皆仏の功徳の香を楽い、心(阿耨多羅三藐三菩提心)を発して(世間(一切の生死)を)出づ。

 舎利弗、そこにいらっしゃる帝釈、梵天、四天王、諸天龍、鬼神たちも、皆、

   この室に入れば、この上人(維摩詰)の説法を聞いて、皆、

     仏の功徳の香を聞くことを楽しみ、

     阿耨多羅三藐三菩提心を発して

       生死の世間をお出になりますのよ。

舍利弗。吾止此室十有二年。初不聞說聲聞辟支佛法。但聞菩薩大慈大悲不可思議諸佛之法

舍利弗、我は、この室に止まること十有二年、初めて声聞辟支仏の法を説くを聞かず、ただ菩薩の大慈大悲、不可思議なる諸仏の法を聞くのみ。

 舎利弗、私がこの室に止まる十二年の間は、初めて

   声聞辟支佛の法を聞きませんでした。ただ

   菩薩の大慈大悲と、

   不可思議な諸仏の法のみを聞いておりましたの。

舍利弗。此室常現八未曾有難得之法

舍利弗、この室は、常に八の未曽有難得の法を現す。

 舎利弗、この室には常に

   八つの未曽有で得難きものがございますのよ。

何等為八。此室常以金色光照晝夜無異。不以日月所照為明。是為一未曾有難得之法

何等をか八と為す。この室は、金色の光を以って照らし、昼夜に異なり無し。日月の照らす所を以ってしても、明(あかる)しと為さず。これを、一の未曽有難得の法と為す。

 その八つとは、

 この室は金色の光で照らされて、昼も夜も異なりがございませんの。

   日月よりも明るいこと、これが第一の未曽有で得難きもの。

此室入者不為諸垢之所惱也。是為二未曾有難得之法

この室に入る者は、諸垢の為に悩まされず。これを、二の未曽有難得の法と為す。

 この室に入る者は、

   煩悩に悩まされることはございません。これが第二の未曽有で得難きもの。

此室常有釋梵四天王他方菩薩來會不絕。是為三未曾有難得之法

この室には、常に釈梵四天王、他方の菩薩来会する有りて絶えず。これを、三の未曽有難得の法と為す。

 この室には、常に

   帝釈、梵天、四天王や他方の菩薩たちがお会いになっていらしって絶えることがございませんの。

     これが第三の未曽有で得難きもの。

此室常說六波羅蜜不退轉法。是為四未曾有難得之法

この室には、常に六波羅蜜不退転の法を説く。これを、四の未曽有難得の法と為す。

 この室には、常に

   六波羅蜜と不退転の法が説かれていますの。これが第四の未曽有で得難きもの。

 

  注:六波羅蜜と不退転とは、菩薩は常に六波羅蜜を行い退転してはならないということ。

此室常作天人第一之樂絃出無量法化之聲。是為五未曾有難得之法

この室には、常に天人、第一の楽(音楽)を作して、絃(いと)より無量の法化(ほうけ、法身と化身)の声を出だす。これを、五の未曽有難得の法と為す。

 この室には、常に

   天人が最上の音楽を奏で

   絃(いと、楽器の糸)からは、無量の仏が

     声を出して法を説いていらっしゃいますの。これが第五の未曽有で得難きもの。

此室有四大藏眾寶積滿。賙窮濟乏求得無盡。是為六未曾有難得之法

この室には、四つの大蔵(慈悲喜捨の四無量心)有り、衆宝積満して、窮(貧窮)に賙(あた)え、乏(困乏)を済(すく)い、求め得れども尽くること無し。これを六の未曽有難得の法と為す。

 この室には、宝物を満した大きなお蔵が四つもございまして、

   貧乏な方にいくら施しても尽きることがございませんの。これが第六の未曽有で得難きもの。

 

  注:四大蔵とは慈悲喜捨の四無量心に譬える。

此室釋迦牟尼佛.阿彌陀佛.阿[@(/(*))]佛.寶德.寶炎.寶月.寶嚴.難勝.師子響.一切利成。如是等十方無量諸佛。是上人念時。即皆為來廣說諸佛秘要法藏說已還去。是為七未曾有難得之法

この室には、釈迦牟尼仏、阿弥陀仏、阿閦仏(あしゅくぶつ)、宝徳、宝炎、宝月、宝厳、難勝、師子響、一切利成(いっさいりじょう)、かくの如き等の十方の無量の諸仏、この上人の念ずる時、すなわち為に来たりて、広く諸仏秘要の法蔵を説き、説きおわりて還り去りたもう。これを、七の未曽有難得の法と為す。

 この室には

   釈迦牟尼仏、阿弥陀仏、阿閦仏(あしゅくぶつ)、宝徳、宝炎、宝月、宝厳、難勝、

   師子響(ししごう)、一切利成(いっさいりじょう)のような

   十方の無量の諸仏が、

     この上人(維摩詰)の思い一つで即座にお出ましになり、

     諸仏の秘密の法蔵を詳細(こまごま)とお説きになってから

       お帰りになられますのよ。これが第七の未曽有で得難きもの。

此室一切諸天嚴飾宮殿諸佛淨土皆於中現。是為八未曾有難得之法

この室には、一切の諸天、厳飾(ごんじき)せる宮殿、諸仏の浄土、皆中に於いて現る。これを、八の未曽有難得の法と為す。

 この室には、

   一切の諸天の美しく飾った宮殿、

   諸仏の浄土などが現れますの。これが第八の未曽有で得難いもの。

舍利弗。此室常現八未曾有難得之法。誰有見斯不思議事。而復樂於聲聞法乎

舍利弗、この室は、常に八の未曽有難得の法を現す。誰か、この不思議の事を見て、また声聞の法を楽うこと有らんや。』

 舎利弗、この室には、常にこのような八つの未曽有で得難いものが現れますのよ。

 この不思議を見れば、誰だって二度と

   声聞の法を楽しもうなどとは思いませんわ。』と。

舍利弗言。汝何以不轉女身

舍利弗言わく、『汝は、何を以ってか女身を転ぜざる。』

 舎利弗が言います、

『あなたは何うして女身を転じて男にならないのですか。』

天曰。我從十二年來。求女人相了不可得。當何所轉。譬如幻師化作幻女。若有人問何以不轉女身。是人為正問不

天曰く、『我は、十二年従り来(このかた)、女人の相を求めて、ついに得るべからず。まさに何の転ずる所かあるべき。譬えば、幻師の幻女を化作するが如きは、もし人の何を以ってか女身を転ぜざると問うこと有らば、この人は、正しき問いを為すや不や。』

 天女が言います、

『私はこの十二年の間というもの、

   女人になろうと求めて来ましたのに遂に適いませんでした。それなのに

   男になれなどと何うして仰いますの?

 譬えば、幻術師の作った幻の女人に、もし

   ある人が何うして男にならないのかと問うたならば、

   この人の問いは正しいのでしょうか?』

舍利弗言。不也。幻無定相當何所轉

舍利弗言わく、『不(いな)なり。幻は定まれる相無し、まさに何の転ずる所かあらん。』

 舎利弗が言います、

『いいえ正しくありません。幻には定まった相がありません。何うして男女の相を転じることができましょう。』

天曰一切諸法亦復如是無有定相。云何乃問不轉女身。即時天女以神通力。變舍利弗令如天女。天自化身如舍利弗。而問言。何以不轉女身

天曰く、『一切の諸法も、またかくの如く、定まれる相有ること無し。云何が、すなわち女身を転ぜずやと問う。』と。すなわち時に、天女、神通力を以って、舍利弗を変じて天女の如くならしめ、天自らは身を化して舍利弗の如くにし、しかも問うて言わく、『何を以ってか女身を転ぜず。』と。

 天女が言います、

『一切の物事も同じこと、定まった相など無いのです。何うして女身を転じて男になれなどと仰いますの?』

 こう言うと天女は、神通力で

   舎利弗を天女のように変身せしめ、

   自らもまた舎利弗の姿に変じてしまいました。

 そして舎利弗に問うて言います、『何うして女身を転じて男にならないの?』と。

舍利弗以天女像而答言。我今不知何轉而變為女身

舍利弗、天女の像(かたち)を以って、答えて言わく、『我は今、何(いか)にして転ずるかを知らずして、しかも変じて女身と為れり。』

 舎利弗は天女の姿のままで答えて言います、

『私は今、何うすれば転じることができるかを知らずに女身になってしまった。』と。

天曰。舍利弗。若能轉此女身。則一切女人亦當能轉。如舍利弗非女而現女身。一切女人亦復如是。雖現女身而非女也。是故佛說一切諸法非男非女。即時天女還攝神力。舍利弗身還復如故

天曰く、『舍利弗、もしよくこの女身を転ぜば、すなわち一切の女人も、またまさによく転ずべし。舍利弗の、女に非ずして女身を現すが如く、一切の女人も、またかくの如く、女身を現すといえども、女に非ざるなり。

この故に、仏も、一切の諸法は、男に非ず女に非ずと説きたまえり。』と。

すなわち時に、天女は、また神力を摂(おさ)むれば、舍利弗が身もまた、故(もと)の如くに復す。

 天女が言います、

『舎利弗、もしあなたが女身を転じて男になることができれば、一切の女人も転じることができましてよ。

 舎利弗、女ではなくても女身を現すということがお分かり?

 

 一切の女人も同じですのよ、

   女身を現してはいますが、実は

   女ではございませんの。

 だから

   仏もお説きになっていらっしゃいます、

     一切のあらゆる物事は、

     男でもなく女でもないと。』と。

 こう言って、

   天女が神通力を収めますと舎利弗の身も元に戻りました。

 

  注:『文殊師利問経』巻上の般若波羅蜜品第六に、文殊師利が世尊に般若波羅蜜は云何にして修行すればよろしいでしょうかと問うた所、世尊はこう答えられた、『‥‥形色を修せざるこれ般若を修行するなり。地水火風に非ざるこれ般若を修行するなり。有に非ず無に非ず。声聞縁覚(えんがく、辟支仏)に非ず。善不善無記(むき、未決)に非ず。十二因縁に非ず。男に非ず女に非ず。‥‥』と。また菩薩の出世間(しゅっせけん、俗世間の対語)の戒については云何がでしょうと問うた所、『もし心で男女非男非女と分別すれば、それは菩薩が波羅夷(はらい、教団追放の最重罪)を犯したことになる。』と教えられた。

天問舍利弗。女身色相今何所在

天問わく、『舍利弗、(先の)女身の色相は、今、何所(いづく)にか在る。』

 天女が舎利弗に問います、

『先ほどの女身は今何所にございますの?』

舍利弗言。女身色相無在無不在

舍利弗言わく、『女身の色相は、在ること無く、在らざること無し。』

 舎利弗が言います、

『女身というものは存在しませんし、また存在しないのでもありません。』

天曰。一切諸法亦復如是。無在無不在。夫無在無不在者佛所說也

天曰く、『一切の諸法もまた、またかくの如く、在ること無く、在らざること無し。それ、在ること無きと在らざること無きとは、仏の説きたもう所なり。』と。

 天女が言います、

『一切のあらゆる物事も同じです。存在するのでもなく、存在しないのでもないのです。

 存在するのでもなく、存在しないのでもないとは、仏のお説きになったことなのです。』

舍利弗問天。汝於此沒當生何所

舍利弗、天に問わく、『汝は、ここに於いて没し、まさに何所(いづく)にか生ずべき。』

 舎利弗が天女に問います、

『あなたはここで没すれば次には何所にお生まれになるのですか。』

天曰。佛化所生吾如彼生

天曰く、『仏化の所生(謂ゆる化仏)、吾は彼(仏化の所生)の如く生ず。』

 天女が言います、

『仏が仮にお生まれになるように、私も同じように生まれます。』

曰。佛化所生非沒生也

曰く、『仏化の所生とは、沒生(生滅)には非ず。』

 舎利弗が言います、

『仏が仮にお生まれになるのは、ここに没して、かしこに生ずるというものではありません。』

天曰。眾生猶然無沒生也

天曰く、『衆生も、なお然り、沒生無し。』

 天女が言います、

『衆生だとて同じこと、ここに没して、かしこに生ずるのではありません。』

舍利弗問天。汝久如當得阿耨多羅三藐三菩提

舍利弗、天に問わく、『汝は久しくして(イツカ)、まさに阿耨多羅三藐三菩提を得べし。』

 舎利弗が天女に問います、

『あなたはきっと何時か阿耨多羅三藐三菩提を得られますね。』

天曰。如舍利弗還為凡夫。我乃當成阿耨多羅三藐三菩提

天曰く、『舍利弗が、また凡夫と為るが如く、我もすなわち、まさに阿耨多羅三藐三菩提を成ずべし。』

 天女が言います、

『舎利弗が再び凡夫(ぼんぶ、聖人の対語)となるように、私も阿耨多羅三藐三菩提を得るでしょう。』

舍利弗言。我作凡夫無有是處

舍利弗言わく、『我が凡夫と作るとは、この処(ことわり、根拠)有ること無し。』

 舎利弗が言います、

『私が再び凡夫になることは、絶対にあり得ません。』

天曰。我得阿耨多羅三藐三菩提亦無是處。所以者何。菩提無住處。是故無有得者

天曰く、『我が阿耨多羅三藐三菩提を得ることも、またこの処無し。所以は何となれば、菩提は住処無ければなり(特定の住処無し、即ちドコニモアル)。この故に得る者も有ること無し。』

 天女が言います、

『私が阿耨多羅三藐三菩提を得ることも絶対にあり得ません。何故かと申しますと、

   菩提とは特定の場所(ある人の心の中)に住(とど)まることはありません。

   だから得る人もいないのです。』

舍利弗言。今諸佛得阿耨多羅三藐三菩提。已得當得。如恒河沙。皆謂何乎

舍利弗言わく、『今、(現在の)諸仏、阿耨多羅三藐三菩提を得たまい、すでに(過去の諸仏)得たまいき、まさに(未来の諸仏)得たまわんこと、恒河沙(ごうがしゃ、ガンジス河の砂の数)の如きをば、皆何と謂うや。』

 舎利弗は言います、

『今の諸仏は阿耨多羅三藐三菩提を得ていられます。過去にも得られましたし未来にも得られます。

 このように恒河沙(ごうがしゃ、ガンジス河の川底の砂の数)ほどの仏が

   阿耨多羅三藐三菩提を得ていられますのに、皆何と謂われることでしょう。』

天曰。皆以世俗文字數故說有三世。非謂菩提有去來今

天曰く、『皆、世俗の文字と数とを以っての故に、三世有りと説けども、菩提に去(過去)来(未来)今(現在)有りと謂うには非ず。』

 天女が言います、

『仏も世俗の文字と数とを用いていらっしゃいますので、三世が有るとお説きになっていますが、

   菩提に過去未来現在が有ると仰っているのではありません。』

天曰。舍利弗。汝得阿羅漢道耶

天曰く、『舍利弗、汝は、阿羅漢道を得たりや。』

 天女が言います、

『舎利弗、あなたは阿羅漢道はもう得られましたか。』

曰。無所得故而得

曰く、『得る所無きが故に、しかも得たり。』

 舎利弗が言います、

『得るものは何もありませんので、すでに得ております。』

天曰。諸佛菩薩亦復如是。無所得故而得

天曰く、『諸の仏菩薩もまた、またかくの如く、得る所無きが故に得たもう。』と。(舍利弗の阿羅漢を得るも無所得、諸仏の菩提を得たもうも無所得なりという

 天女が言います、

『諸仏菩薩も同じこと、得るものが何も無いので得ていらっしゃるのです。』と。

爾時維摩詰。語舍利弗。是天女已曾供養九十二億佛已。能遊戲菩薩神通。所願具足得無生忍住不退轉。以本願故隨意能現教化眾生

その時、維摩詰、舍利弗に語らく、『この天女は、すでにかつて九十二億の仏を供養しおわりて、よく菩薩の神通に遊戯(ゆげ、アソブ)し、所願具足し、無生忍を得て不退転に住し、本願(ほんがん、初めて心を発した時に立てた願)を以っての故に、意の隨(まま)によく現れて、衆生を教化す。』と。

 その時、維摩詰が舎利弗に語りました、

『この天女はのう、すでに九十二億の仏を供養してきておるのじゃよ。

 菩薩の神通力に遊ぶことも願いどおりに満足させて不退転の菩薩という所じゃな。

 本願(ほんがん、菩薩が一切の衆生を救う願い)の為に、

   意の随(まま)に姿を現して衆生を教化しておるのじゃ。』と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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