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巻中之第一
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文殊師利問疾品第五 |
不思議品第六 |
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文殊師利問疾品第五
維摩詰所說經卷中 姚秦三藏鳩摩羅什譯 |
維摩詰所説経(ゆいまきつしょせつきょう)巻の中 姚秦三蔵(ようしんのさんぞう)鳩摩羅什(くまらじゅう)訳す |
文殊師利菩薩は、維摩詰の疾を問い、共に問答をする。維摩詰は数々の不思議を現して見せる。 |
文殊師利、維摩詰の疾を問う
文殊師利問疾品第五 |
文殊師利問疾品(もんじゅしりもんしつぼん)第五 |
文殊師利、維摩詰の疾を問う。 |
爾時佛告文殊師利。汝行詣維摩詰問疾 |
その時、仏、文殊師利(もんじゅしり)に告げたまわく、『汝行きて、維摩詰(ゆいまきつ)に詣(いた)り、疾(やまい)を問え』と。 |
仏は、文殊師利(もんじゅしり)に仰います、『お前、維摩詰(ゆいまきつ)を見舞って来なさい。』と。
文殊師利(もんじゅしり):文殊菩薩(もんじゅぼさつ)、妙徳菩薩(みょうとくぼさつ)、妙吉祥菩薩(みょうきちじょうぼさつ)、法王子(ほうおうじ)とも言う。仏の智慧を現す菩薩として、慈悲を現す普賢菩薩(ふげんぼさつ)と共に、釈迦の両脇侍を勤める。首楞厳三昧経巻下(しゅりょうごんさんまいきょう)によれば、南方千仏国を過ぎた所に平等(びょうどう)という仏国があり、文殊師利は、かつて既にこの国土で仏であり、龍種上如来(りゅうしゅじょうにょらい)と号したとある。法王子というのは、仏身を継いで断絶させないという意味であり、文殊師利の像は多くが童顔を現しているのはその故である。また多くの像が三つ或いは五つの髻(もとどり)を頭上に結っているのは当時の王族(刹帝利(せっていり))の風習であるとも、童子の姿であるともいう。 注:仏のことを、しばしば法王という。 |
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文殊師利白佛言。世尊。彼上人者難為詶對。深達實相善說法要。辯才無滯智慧無礙。一切菩薩法式悉知。諸佛祕藏無不得入降伏眾魔遊戲神通。其慧方便皆已得度。雖然當承佛聖旨詣彼問疾 |
文殊師利、仏に白(もう)して言(もう)さく、『世尊、彼の上人(しょうにん、上徳の人)は、酬対(しゅうたい、応対)なし難く、深く実相に達して、よく法の要(かなめ)を説き、辯才(べんざい、弁舌の才能)滞ることなく、智慧無礙(むげ、自由自在)なり。一切の菩薩の法式(ほっしき、作法儀式)悉く知り、諸仏の秘蔵に入ること得ざるは無く、衆魔を降伏(ごうぶく、制圧)し、神通(じんつう、神通力)に遊戯(ゆげ、アソブ)し、その慧(智慧)と方便(衆生済度の手段)は、すなわち皆すでに度(わたる、得ること)を得て、しかりといえども、まさに仏の聖旨(しょうじ、オオセ)を承(う)けたてまつり、彼れに詣りて、疾を問うべし。』と。 |
文殊師利は仏に申します、 『世尊、あの上人(しょうにん、徳の有る人)と対等に語り合うのは、容易なことではありません。 彼は、 物事の真実の相(そう、スガタ、五感に感じるもの)に深く通じていまして、 法の要点を上手く説明し、弁舌も爽やかで、 智慧も自由自在に使いこなします。
菩薩としての為すべき事は全て知っていて、 諸仏の心に深く入ることにも何の困難もありません。
衆魔(しゅうま、欲魔(欲望)、身魔(身心の苦痛)、死魔(寿命の短いこと)、天魔(災難))については 気にも掛けず、 神通力を遊びのように使って、 智慧と方便(智慧から出る衆生を救う手段)とは、既に 仏と同等です。 このような大変な方にとって、 私では力が不足しておりますが、 仏のご命令とあれば、喜んで彼を見舞おうと思います。』と。 |
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於是眾中諸菩薩大弟子釋梵四天王等咸作是念。今二大士文殊師利維摩詰共談。必說妙法。即時八千菩薩五百聲聞。百千天人皆欲隨從 |
ここに於いて、衆中の諸の菩薩、大弟子、釈(帝釈天)梵(梵天)四天王(四天王天)等、ことごとく、この念(ねん、オモイ)を作さく、『今、二(ふたり)の大士(だいじ、菩薩の通称)、文殊師利と維摩詰共に談(かたら)わば、必ず妙法を説かん』と。即時に八千の菩薩と五百の声聞、百千の天人も皆随従せんんと欲す。 |
このようなことが有りましたので、一会の中の諸の菩薩、大弟子、帝釈、梵天、四天王たちは、悉く、 『さあ、 二人の大菩薩、文殊師利と維摩詰とが対決するぞ。きっと 面白くて為になる話を、たくさん 聞くことができるだろう。』と思いまして、即時に、 八千の菩薩と五百の声聞と百千(10万)の天人たちが、皆 一緒にお供をすることにしました。 |
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於是文殊師利與諸菩薩大弟子眾及諸天人恭敬圍繞入毘耶離大城 |
ここに於いて、文殊師利は、諸の菩薩、大弟子衆、および諸の天人のために恭敬(くぎょう、ウヤウヤシク)囲繞(いにょう、トリカコマレ)せられて、毘耶離大城(びやりだいじょう)に入る。 |
そこで文殊師利は、 大勢の菩薩、大弟子、天人等に恭しく敬われ、取り囲まれながら、 毘耶離大城(びやりだいじょう)に入りました。 |
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爾時長者維摩詰心念。今文殊師利與大眾俱來。即以神力空其室內。除去所有及諸侍者。唯置一床以疾而臥 |
その時、長者維摩詰は、心に念(おも)わく、『今、文殊師利、大衆と倶(とも)に来たる』と。すなわち神力を以って、その室内を空しくし、所有および諸の侍者を除きて、ただ一の床を置き、疾を以って臥せり。 |
ちょうどその頃、 長者維摩詰は、心で、 『さあ、 文殊師利が大勢と一緒に来るぞ。』と察知しまして、 神通力を使って、 室内に在る家具も、 世話をしていた侍者も、 別の場所に移動させてしまいました。 空っぽの室には、唯一つ 床(とこ、寝台を兼ねた椅子)を置き、その上で 疾(やまい)に臥せって待つことにしました。 |
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文殊師利既入其舍。見其室空無諸所有獨寢一床 |
文殊師利、すでにその舎(いえ)に入り、その室の空にして、諸の所有なく、(維摩詰)独り一床に寝(い)ぬるを見る。 |
文殊師利は、その家に入るとすぐに気が付きました。 その室内は空っぽで何も無く、唯一つ 床があるだけです。その上に 維摩詰が、ただ独り疾(やまい)に 臥せっておりました。 |
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時維摩詰言。善來文殊師利。不來相而來。不見相而見 |
時に、維摩詰言わく、『善来(ぜんらい、ヨクイラッシャイマシタ)、文殊師利。(汝は)不来の相にて来たり。(我は)不見の相にて見る。(実相から見れば、我と彼と無し。故に、来と不来、見と不見も無し)』と。 |
維摩詰が言います、 『善く来たな。文殊師利。 お前が、来ずに来たので、 私も会わずに会うことにしよう。』と。
注:勿論、実相という観点からすれば、来る者、去る者、見る者、見られる者の全てが空であり、個別の実体は無く、ただ真如の一相のみが存在する。 |
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文殊師利言。如是居士。若來已更不來。若去已更不去。所以者何。來者無所從來去者無所至所可見者更不可見。且置是事 |
文殊師利言わく、『かくの如し(ソノトオリ)、居士。来たりおわるが若(ごと)ければ更に来たらず(実相から見れば、すでに来ているのであるから、更に来ることはない)、去りおわるが若ければ更に去らず。所以(ゆえ)は何(いかん)となれば、来たる者は、従りて来たる所無く、去る者は、従りて至る所無し。見るべき所の者は更に見るべからず。しばらく、この事は置かん。 |
文殊師利が言います、 『その通りです。居士(こじ、有力の信者を敬って言う)。 ここには以前から居りましたようなもので、更に来たのではありません。 去る時についても、ここには居らないようなものですから、更に去ることもありません。 何のことかと申しますと、来ることについては、何処から来たか、来る所がありません。 去ることについても、何処へ去るのか、去る所がありません。 会おうとする者にも、更に会うことはできないのです。 さてこの事はこれぐらいにして置きましょう。
注:真如の実相は、常に遍在する。何時でも、何所にでも存在する。 |
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居士。是疾寧可忍不。療治有損不至增乎。世尊慇懃致問無量。居士。是疾何所因起。其生久如。當云何滅 |
居士、この疾は、むしろ忍ぶべしや不(いな)や。療治は、(疾を)損ずること有りや不や、増すに至らんや。世尊、慇懃に問いを致すこと無量なり。居士、この疾は、何の因起する所ぞ。それ生じて久しきなりや。まさに云何が滅すべき。』と。 |
居士。この疾は、 耐えることがおできでしょうか。 治療はなさっているのでしょうか。 段々良くなっていますでしょうか。 世尊は、ねんごろに、 お訊ねするように申して居りました。 居士。この疾は、 何から起こったのでしょうか。 随分永くお患いでしょうか。 何うすれば治るのでしょうか。』と。 |
菩薩の病
維摩詰言。從癡有愛則我病生。以一切眾生病是故我病。若一切眾生病滅則我病滅 |
維摩詰言わく、『癡(ち、愚癡、実相を知らざること)に従りて、愛(愛著)有れば、すなわち我が病生ず。一切の衆生病むを以っての故に、我病む。もし一切の衆生の病滅すれば、すなわち我が病も滅す。 |
維摩詰が言います、 『愚かさの為に、愛著することが有るから、私は病んでおるのだ。 一切の衆生が病んでおる、そこで私も病む。 もし一切の衆生の病が無くなれば、私の病も無くなる。 |
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所以者何。菩薩為眾生故入生死。有生死則有病。若眾生得離病者。則菩薩無復病 |
所以は何となれば、菩薩は、衆生の為の故に、生死に入る。生死有れば、すなわち病有り。もし衆生、病を離るることを得ば、すなわち菩薩また病むこと無からん。 |
その訳は、 菩薩は、 衆生の為に 生死を繰り返しておる。 生死が有れば、そこには必ず 病が有る。 もし 衆生が病を離れることができれば、 菩薩の病も無くなる。 |
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譬如長者唯有一子其子得病父母亦病。若子病愈父母亦愈 |
譬えば、長者に、ただ一子のみ有りて、その子病を得ば、父母もまた病み、もし子の病癒えなば、父母もまた癒えんが如し。 |
譬えば、ある長者には、子供がただ一人しかいなかったとしよう。 その子が病めば 父母もまた病み、 もし子の病が癒えれば 父母もまた癒えるのだ。 |
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菩薩如是。於諸眾生愛之若子。眾生病則菩薩病。眾生病愈菩薩亦愈 |
菩薩もかくの如し。諸の衆生に於いて、これを愛すること子の若し。衆生病めば、すなわち菩薩病み、衆生の病癒ゆれば、菩薩もまた癒ゆ。 |
菩薩も同じことで、 諸の衆生を愛することは、 子を愛することと異ならない。 衆生が病んでいれば 菩薩もまた病み、 衆生の病が癒えれば 菩薩の病もまた癒える。 |
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又言。是疾何所因起。菩薩病者以大悲起 |
また、『この疾は、何の因起する所ぞ』と言えるには、菩薩の病は、大悲を以って起こる。』と。 |
またお前が言った、 『この病は何から起こったのか』ということについては、 菩薩の病は、 大悲から起こるものなのだ。』と。
注:先の『癡』と『愛』、これを菩薩の『大悲』という。 |
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文殊師利言。居士。此室何以空無侍者 |
文殊師利言わく、『居士、この室は、何を以ってか空にして侍者無き。』 |
文殊師利が言います、 『居士。この室は空っぽで、 家具も在りませんし侍者も居りません。 何うかなさいましたのでしょうか。』 |
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維摩詰言。諸佛國土亦復皆空 |
維摩詰言わく、『諸仏の国土も、またまた皆空なり。』 |
維摩詰が言います、 『諸仏の国土も、 ここと同じように、皆 空っぽである。』 |
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又問。以何為空。答曰。以空空 |
また問う、『何を以ってか空と為す。』 答う、『空なるを以って空なり(その外に所以なし)。』 |
問い、『空っぽとは何ういうことでしょうか』 答え、『空っぽだから空っぽと言っておる。』 |
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又問。空何用空。答曰。以無分別空故空 |
また問う、『空に何ぞ空を用うる(諸法の本性は空なることは当然、何故いまさらに空を用いる)。』 答えて曰く、『無分別の空を以っての故に空なり(空を用いて説明したのではない。説明を絶したものが空なのだ)。』 |
問い、『勿論、空っぽではございますが、 なぜ空っぽと仰いますのでしょうか。(当然のことではございませんでしょうか。)』 答え、『空っぽというものの事を言っておるのではない。 説明できないものであるということを 空っぽと言っておるのだ。』 |
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又問。空可分別耶。答曰。分別亦空 |
また問う、『空は分別すべきや。』 答えて曰く、『分別もまた空なり(何物も分別すること能わず)。』 |
問い、『空(くう、空っぽということ)は、 説明することができましょうか。』 答え、『説明することも 空である(何事も説明することは不可能)。』
注:『空』とは、有ると思っていたが実は無かったという意味合いを持つので、ここまで『空っぽ』として来たが、以後はただ単に『空』とする。 『空』と『空っぽ』とは本来同じことを指す筈であるが、『空』には段々と意味が付加されて単なる『空っぽ』からは遠く離れて、『真如の実相』、『平等』というような意味をも兼ね持つようになった。 即ち、『空』は全宇宙、全意味合いの一切を含むという概念を表すので、個別の物事を表現する通常の言葉では説明が不可能である。 |
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又問。空當於何求。答曰。當於六十二見中求 |
また問う、『空は、まさに何に於いてか求むべき。』 答えて曰く、『まさに六十二見(断常二見を本として、過去現在未来に亘り、色受想行識によりて起こる所の六十二の邪見)の中に於いて求むべし。』 |
問い、『空とは、何所に在るのでしょうか。』 答え、『六十二見(一切の邪見)の中に在る。』
注:六十二見有りとするは過失にて、実は六十二見無し。これは邪見なりとするは過失にて、実は邪見には非ざるなりという。一切の法を空に照らして見れば、平等にして差異無し。 |
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又問。六十二見當於何求。答曰。當於諸佛解脫中求 |
また問う、『六十二見は、まさに何に於いて求むべし。』 答えて曰く、『まさに諸仏の解脱の中に於いて求むべし(六十二見の外に諸仏の解脱なし、諸仏の解脱の外に六十二見なし)。』 |
問い、『六十二見は、何所に在るのでしょうか。』 答え、『諸仏の解脱(げだつ、覚り)の中に在る。』
注:諸仏の解脱もまた空にして、六十二の邪見と差異無しという。では諸仏の何が尊いかというと、大慈悲を尊しと為すのであるが、衆生に苦の無い極楽世界に於いては、これもまた尊しとはしない。要するに空である。 |
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又問。諸佛解脫當於何求。答曰。當於一切眾生心行中求。又仁所問何無侍者。一切眾魔及諸外道皆吾侍也。所以者何。眾魔者樂生死。菩薩於生死而不捨。外道者樂諸見。菩薩於諸見而不動 |
また問う、『諸仏の解脱は、まさに何に於いて求むべし。』 答えて曰く、『まさに一切の衆生の心の行(ぎょう、働き)の中に於いて求むべし(一切衆生の心行は、即ち諸仏の解脱なることをいう)。また仁(なんじ)の問う所の、『何ぞ侍者無きや』とは、一切の衆魔、および諸の外道、皆、吾が侍(者)なり。所以は何となれば、衆魔は生死を楽(ねが)い、菩薩は生死に於いて、しかも捨てず。外道は諸見を楽い、菩薩は諸見に於いて、しかも動ぜず。』 |
問い、『諸仏の解脱は、何所に在るのでしょうか。』 答え、『一切の衆生の心(心と心の働き)の中に在る。 また、お前の言う、 『何うして侍者が居らないのか。』ということについては、 一切の衆魔(欲望、身心、死、災難)と 諸の外道たちは、皆 私の侍者である。
なぜならば、 衆魔は 生死に在ることを楽しみ、 菩薩も 生死を離れようとはしない。
外道たちは、 諸の邪見を楽しみ、 菩薩は 邪見から逃げようとはしない。』
注:生死、邪見の中に在って初めて菩薩は菩薩たりうる。 |
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文殊師利言。居士所疾。為何等相 |
文殊師利言わく、『居士が疾む所は、何等の相と為す(疾は、痛みますか、熱がありますか、渇きますか)。』 |
文殊師利は言います、 『居士の疾は、何のような症状を呈しますのでしょうか。』と。 |
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維摩詰言。我病無形不可見 |
維摩詰言わく、『我が疾は、形無し、見るべからず。』 |
維摩詰が言います、 『私の疾は、見て分かるものではない。』 |
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又問。此病身合耶心合耶。答曰。非身合身相離故。亦非心合心如幻故 |
また問う、『この病は、身と合するや、心と合するや。』 答えて曰く、『身と合するに非ず、(病は)身の相を離るるが故に。また心と合するにも非ず、心は幻の如きなるが故に。』 |
問い、『この病は、身の病となりますでしょうか、心の病となりましょうか。』 答え、『この病は 身の病ではない、身には何の変わりもない。 また 心の病でもない、心は本々 幻のようなもので実には 存在しない。』 |
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又問。地大水大火大風大。於此四大何大之病。答曰。是病非地大亦不離地大。水火風大亦復如是。而眾生病從四大起。以其有病是故我病 |
また問う、『地大、水大、火大、風大、この四大に於いて、何(いづ)れの大の病なりや。』 答えて曰く、『この病は、地大に非ず、また地大を離れず。水火風大も、またまたかくの如し。しかれども、衆生の病は、四大従り起こる。それ(衆生)に病有るを以って、この故に我病む。 |
問い、『地大、水大、火大、風大の四大の中では、この病は何大に属しましょうか。』 答え、『この病は、 地大に属する訳ではないが、 地大を離れるものでもない。水火風大についても同じだ。 衆生の病は、 この四大が病むことによって起こる。 衆生が病んでおるので、 私も病んでおるのだ。』と。 |
有疾の菩薩を慰喩する
爾時文殊師利問維摩詰言。菩薩應云何慰喻有疾菩薩 |
その時、文殊師利、維摩詰に問うて言わく、『菩薩は、まさに云何が疾有る菩薩を慰喩(いゆ、ナグサメサトス)すべき。』 |
そこで文殊師利は維摩詰に問いました、 『菩薩は、疾んだ菩薩を慰める為には、何を話せばよろしいのでしょうか。』 |
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維摩詰言。說身無常不說厭離於身 |
維摩詰言わく、『身は無常なりと説けども、身を厭離(えんり、イトイハナレル)することは説かざれ。 |
維摩詰が言います、 『身は無常であると説くのはよいが、 身を厭い離れよとは説かないでくれ。 |
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說身有苦不說樂於涅槃 |
身は苦有りと説けども、涅槃を楽(ねが)えとは説かざれ。 |
身には苦が有ると説くのはよいが、早く 涅槃に入れとは説かないでくれ。 |
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說身無我而說教導眾生 |
身は無我なりと説いて、しかも衆生を教え導けと説け。 |
身には我(が、ワレアリとの妄想)など無いと説くのはよいが、(本来無我である所の) 衆生を教え導けとも説いてくれ。 |
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說身空寂不說畢竟寂滅 |
身は空寂(くうじゃく、空)なりと説けども、畢竟寂滅(涅槃に在る)なりとは説かざれ。 |
身は空であると説くのはよいが、要するに 何もしなくてよいのだとは説かないでくれ。 |
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說悔先罪而不說入於過去 |
先罪を悔いよとは説けども、しかも過去に入れよとは説かざれ。 |
過去世に犯した罪を悔いよと説くのはよいが、 過去の事を考えよとは説かないでくれ。 |
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以己之疾愍於彼疾。當識宿世無數劫苦。當念饒益一切眾生 |
己の疾を以って、彼の疾を愍(あわれ)み、まさに宿世(過去世)の無数劫の苦を識るべし。まさに一切の衆生を饒益(にょうやく、利益)することを念ずべし。 |
自らの疾から、 彼の疾を哀れんで同情せよ。 自ら経験して来た 過去世の苦しい生活に思いを致して、 一切の衆生の為になろうと、心に常に思っておれ。 |
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憶所修福。念於淨命。勿生憂惱 |
修むる所の福を憶(おも)い、浄命(じょうみょう、浄い生活)を念じ、憂悩を生ずることなかれ。 |
修めておる所の善行の 結果を常に心に留めよ。 一切の衆生の為に生きる 浄い生活を送るよう心がけて、 憂い悩むな。 |
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常起精進。當作醫王療治眾病。菩薩應如是慰喻有疾菩薩令其歡喜 |
常に精進を起こして、まさに医王と作りて衆病を療治すべし。菩薩は、まさにかくの如く、疾有る菩薩を慰喩して、それをして歓喜せしむべし。』と。 |
常に努力することを忘れずに、世界第一の 医者となって、衆生の 病を療治せよ。 このように菩薩は、疾んだ菩薩に言葉を掛けて、慰め励まして喜ばせるのがよかろう。』と。 |
有疾の菩薩、その心を調伏する
文殊師利言。居士。有疾菩薩云何調伏其心 |
文殊師利言わく、『居士、疾有る菩薩は、云何がその心を調伏(ちょうぶく、制御)せん。』 |
文殊師利が言いました、 『居士。疾んだ菩薩は、何のような心構えで居ればよろしいのでしょうか。』 |
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維摩詰言。有疾菩薩應作是念。今我此病皆從前世妄想顛倒諸煩惱生。無有實法誰受病者。所以者何。四大合故假名為身。四大無主身亦無我 |
維摩詰言わく、『疾有る菩薩は、まさにこの念(おもい)を作すべし、『今、我がこの病は、皆前世の妄想、顛倒(てんどう、有無見などの実相に反する見解)、諸の煩悩より生じて、実の法有ること無し。誰か病を受くる者ぞ。所以(ゆえ)は何(いか)んとなれば、四大(しだい、地大水大火大風大)合するが故に、仮に名づけて身と為す。四大は主無く、身もまた我も無し。 |
維摩詰が言います、『疾んだ菩薩は、こう思わなくてはならない、 『私のこの病は、皆、前世に起こした 妄想(もうそう、真実ならざる思い)と 顛倒(てんどう、真実に反する思い)と諸の 煩悩(ぼんのう、真実を知らないことから生ずる悩み)から 生ずるものであるが、 実は、それ等の 妄想、顛倒、諸煩悩等は 存在しないのだ。 それは何故かというならば、 私のこの身は、 地大、水大、火大、風大の四大が合わせ集まって 仮に成り立っているものであるが、本々 四大には 主体が無い。 私のこの身にしても 我(が、ワレアリとする主体)というものは無いのだ。
四大(しだい):物質を造る四つの基本的な性質。またその性質を持つ物質の構成要素。 (1)地大(ちだい):堅実堅固の性質。万物を支持する。 (2)水大(すいだい):湿潤の性質。万物を収める。 (3)火大(かだい):温暖の性質。万物を調熟する。 (4)風大(ふうだい):運動の性質。万物を生長する。 |
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又此病起皆由著我。是故於我不應生著。既知病本即除我想及眾生想。當起法想 |
またこの病の起こるは、皆我(が、我ありとの思い)に著(じゃく、執著)するに由る。この故に、我に於いて、まさに著を生ずべからず。すでに病の本を知れば、すなわち我想(がそう、我ありとの思い)、および衆生想(しゅじょうそう、衆生ありとの思い)を除いて、まさに法想(ほうそう、単なる物と思うこと)を起こすべし。』と。 |
また、この病は、皆 我(が、我ありとの思い)に執著することに起因している。だからもう 我に執著することは止めよう。 もう、この病の本を 知っているのだから、これ以上は 『我(われ、救済行為の主体)』だとか 『衆生(しゅじょう、救済の対象)』だとかの 妄想を起こすことは止めにして、ただ単に 物だと思うことにしよう。』と。 |
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應作是念。但以眾法合成此身。起唯法起滅唯法滅。又此法者各不相知。起時不言我起。滅時不言我滅 |
(即ち)まさにこの念を作すべし、『ただ衆法(しゅほう、イロイロナモノ)を以ってこの身を合成す。起こるは、ただ法(ほう、モノ)の起こるなり。滅するは、ただ法の滅するなり。また、この法は、おのおの相い知らず、起こる時、我起こると言わず、滅する時、我滅すと言わず。』と。 |
そしてこう思わなくてはならない、 『私のこの身は、 衆(もろもろ、多く)の物が 合わせ集まって造られている。 生まれるとは、ただ 物が生まれる(生起する)こと、 死ぬとは、ただ 物が死ぬことなのだ。
この衆の物(身心の構成要素)は 一つに合成しているが、 互いに何も知ってはいない。 (合成した物は) 生れるとき、 『これから生まれよう』と言うこともなく、 死ぬとき、 『これから死のう』とも言わないのだ。』と。 |
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彼有疾菩薩為滅法想。當作是念。此法想者亦是顛倒。顛倒者是即大患。我應離之 |
彼の疾有る菩薩は、法想を滅せんが為に、まさにこの念を作すべし、『この法想は、またこれ顛倒なり。顛倒は、これすなわち大患なり。我、まさにこれを離るべし。 |
次にこの疾んだ菩薩は、この 『単なる物が生滅するという思い』を離れる為に、 こう思わなくてはならない、 『この物が 生滅するとする考えも、 顛倒(てんどう、真理に反する考え)である。 顛倒は、大きな患いであるから、 離れなくてはならない。 |
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云何為離。離我我所。云何離我我所。謂離二法。云何離二法。謂不念內外諸法行於平等 |
云何なるをか離るると為す。我(ワレ)と我所(ワガモノ)とを離るるなり。云何なるか我と我所とを離るる。二法を離るるを謂う。云何なるか二法を離るる。内外の諸法を念(おも)わず、平等(空)に行ずることを謂う。 |
何う離れればよいのだろう。 我(が、自身)と 我所(がしょ、自身以外の一切の事物)とを 離れるのだ。 何う我と我所とを離れればよいのだろう。 二つの事を離れればよいのだ。 二つの事を離れるとは何か。 内(うち、我)と 外(そと、彼、他の衆生)という思いに 囚われず、 二つは 平等(一つの空)であると 考えるのだ。
注:我を自らの本体、我所を自らの身心とする考えもあります。 |
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云何平等。為我等涅槃等。所以者何。我及涅槃此二皆空 |
云何なるか平等なる。我等しく涅槃等しきと為す。所以は何となれば、我および涅槃は、この二つは、皆空なればなり。 |
何を『平等』というのだろう。 我も等し(特別でない)ければ、 涅槃も等しいと考えることだ。 何故ならば、 我も涅槃も、この二つは皆 『空』であるからなのだ。 |
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以何為空。但以名字故空 |
何を以ってか空と為す。ただ名字を以っての故に空なり。(ただ名あるのみ、実に物あるに非ず) |
では『空』とは何なのだ。 『空』とは 名前が有るのみ、それが 『空』なのだ。 |
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如此二法無決定性。得是平等無有餘病。唯有空病空病亦空 |
かくの如く、二法は決定の性無し。この平等を得れば、余病有ること無く、ただ空病のみ有り。空病もまた空なり。』 |
このような 内外の二法(二事)は、決まった性質を持たない。 ここに 『平等』という事を知れば、もう病むことも無くなるだろう。 ただ 『空』に執著する病のみは残るが、その 『空』病もまた 『空』であるのだ。』と。 |
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是有疾菩薩以無所受而受諸受。未具佛法亦不滅受而取證也 |
この疾有る菩薩は、受くる所無きを以って、しかも諸受(苦受(クルシミ)、楽受(タノシミ)、捨受(空平等を感ずること)の三受)を受け、未だ仏法を具(具足)せざるも、また受(三受)を滅せずして、しかも証を取るなり。(証を取る:証文を受け取る、ここでは涅槃に入ることをいう) |
この疾んだ菩薩は、 何も感受することは無いのであるが、 憂いも喜びも苦しみも楽しみも感じている。 まだ 仏に成った訳ではないが、 衆生と同じく 憂い喜び苦しみ楽しみを感じていながら、 涅槃に入っているのである。
諸受(しょじゅ):ここでは次の四をいう。 (1)憂受(うじゅ):意識が思いと違う境(きょう、色声香味触)にあって思い惑う、即ち憂う。 (2)喜受(きじゅ):意識が思いに適った境にあって、悦びを覚える、即ち喜ぶ。 (3)苦受(くじゅ):眼等の五識が思いと違う境にあって苦痛を感ずる。 (4)楽受(らくじゅ):眼等の五識が思いに適った境にあって、快楽を感ずる。 |
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設身有苦念惡趣眾生起大悲心。我既調伏亦當調伏一切眾生。但除其病而不除法。為斷病本而教導之 |
もし身に苦有らば、悪趣(あくしゅ、地獄餓鬼畜生)の衆生を念(おも)いて、大悲心を起こす、『我すでに(我が疾を)調伏せり、またまさに一切の衆生を調伏すべし、ただその病を除いて法(諸法)は除かず、病の本を断ぜんが為に、これを教え導かん』と。 |
たとえ身に苦しみが有ろうとも、 地獄、餓鬼、畜生にいる衆生を思えば 大悲心が起こって、こう思うのだ、 『私は、既に疾を克服した。これからは 一切の衆生の疾を取り除いてやろう。 ただ その病のみを取り除いて、 その身と心とは そのままにしておかなくてはならない。 病の本を断つために、 衆生を教え導くのだ。
注:諸法(身と心)は患いではない。我我所の顛倒妄想あるが故に諸法は我が患いとなる。 |
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何謂病本。謂有攀緣。從有攀緣則為病本。何所攀緣謂之三界。云何斷攀緣以無所得。若無所得則無攀緣。何謂無所得。謂離二見。何謂二見。謂內見外見是無所得 |
何をか病の本と謂う。攀縁(はんえん、対象ニシガミツクコト)有るを謂う。攀縁有るに従りて、すなわち病の本と為る。何の所にか攀縁する。これを三界(世間)と謂う。云何が攀縁を断ずる。無所得(むしょとく、持つモノ無しの心)を以ってす。もし無所得なれば、すなわち攀縁無し。何をか無所得と謂う。二見を離るるを謂う。何をか二見と謂う。内見(自らの身心)と外見(外境)は、これ(を離るることは)無所得なり。 |
病の本とは何だろうか。 物事に執著し愛著することだ。 何に執著し愛著するというか。 世間に執著する。 執著を断つ為には何うすればよいか。 何も存在しないという心で執著を断つのだ。 何も無ければ執著も無い。 何も存在しないとは何をいうのか。 二つの考えから離れなくてはならない。 二つの考えとは何か。 内には我(ワレ)と我所(ワガモノ、身心)であり、 外には一切の境界(色声香味触法)をいう。 これを離れることを、 何も存在しないというのだ。』と。
攀縁(はんえん):煩悩と妄想の本。攀とはしがみつくこと。心は独り起きず、対象に寄りかかって起こる。老人が杖にしがみつくことに喩える。 無所得(むしょとく):心中に執著する何物も無いこと。 |
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文殊師利。是為有疾菩薩調伏其心。為斷老病死苦是菩薩菩提。若不如是己所修治為無慧利。譬如勝怨乃可為勇。如是兼除老病死者菩薩之謂也 |
文殊師利、これ疾有る菩薩のその心を調伏し、為に老病死の苦を断ずと為す。これ菩薩の菩提なり。もしかくの如くせずんば、己が修治(修行対治)する所の慧利(智慧と利益)無しと為す。譬えば、怨(うらみ、敵)に勝ちて、すなわち勇(勇者)と為すべきが如し。かくの如くして、老病死を兼ねて除く者、菩薩の謂いなり。 |
文殊師利。 これが 疾んだ菩薩がその心を調えて、 老病死の苦しみを断つということだ。 菩薩の菩提(ぼだい、覚り、惑いの無いこと)とは、これを言っておる。 もしこのようにしなければ、 いくら修行しても 智慧も力も得ることは無いであろう。 譬えば、 敵に勝って初めてその者を勇者と呼ぶように、 老と病と死の悉くに勝つ者が菩薩と呼ばれるのだ。 |
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彼有疾菩薩應復作是念。如我此病非真非有。眾生病亦非真非有。作是觀時。於諸眾生若起愛見大悲。即應捨離。所以者何。菩薩斷除客塵煩惱而起大悲 |
彼の疾有る菩薩は、まさにまたこの念を作すべし、『我がこの病の如きは、真に非ず有(う、仮有、仮名)に非ず。衆生の病もまた真に非ず、有に非ず。』と。この観(かん、観察)を作す時、諸の衆生に於いて、愛見(あいけん、愛著の念)の大悲を起こさば、すなわちまさに捨離すべし。所以は何となれば、菩薩は客塵煩悩(かくじんぼんのう、心が外縁に遭遇して起こる煩悩)を断除して、大悲を起こすべし。 |
この疾んだ菩薩はこう思わなければならない、 『私のこの病は、 真実のものでも 仮のものでもない。 衆生の病も、また 真実でもなければ 仮のものでもない。』と。
このように観察する時には、 衆生を見て愛著し 大悲を起こしても、その思いを即座に 捨て去るだろう。
何故ならば、 菩薩は、 対象を見て 煩悩を起こすことなく、 大悲を起こすことができるからなのである。 |
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愛見悲者則於生死有疲厭心。若能離此無有疲厭。在在所生不為愛見之所覆也。所生無縛能為眾生說法解縛 |
愛見の悲とは、すなわち生死に於いて、疲厭(ひえん、ツカレイトウコト)の心有り。もしこれを離るれば、疲厭有ること無し。在在に生まるる所、愛見の覆う所と為らず。生まるる所に縛(ばく、煩悩の異名、愛著に同じ)無ければ、よく衆生の為に法を説いて、縛を解かん。 |
衆生に対する 愛著から起こる悲(ひ、衆生の苦しみを取り除いてやりたいと思う心)では、とても 生死を繰り返すことはできずに、それに 疲れ厭う心を生ずるだろう。 もし愛著する心から 離れることができれば、 生死を繰り返すことに 疲れ厭うこともないのだ。 たとえ 地獄、餓鬼、畜生に生まれても、その為に 遮られること無く、 衆生の為に法を説いて、 苦しみから解き放つことができるのである。 |
方便の縛と解
如佛所說。若自有縛能解彼縛無有是處。若自無縛。能解彼縛斯有是處。是故菩薩不應起縛 |
仏の所説の如く、もし自ら縛有りて、よく彼の縛を解くこと、この処(ことわり)有ること無し。もし自ら縛無くして、よく彼の縛を解くこと、これはこの処有り。この故に、菩薩はまさに縛を起こすべからず。 |
仏も仰っておる、 『もし 自分が煩悩に縛られているならば、何うして 他人を煩悩から解き放つことができよう。 もし 自分が煩悩に縛られていないならば、 他人を煩悩から解き放つことができる。 これが道理というものだ。』と。 菩薩が 煩悩に縛られていては駄目なのだ。 |
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何謂縛何謂解。貪著禪味是菩薩縛。以方便生是菩薩解 |
何をか縛と謂い、何をか解と謂う。禅味に貪著すること、これ菩薩の縛なり。方便を以って生ずる(衆生を済度せんが為に生まれる)こと、これ菩薩の解なり。 |
煩悩に縛られているとは何であるか、煩悩から解き放つとは何であるか。
座禅などして、その 快さに酔ってしまうこと、これを菩薩が 煩悩に縛られるという。 方便(ほうべん、衆生を救うための手段を尽くすこと)として この世に生まれること、これを菩薩が 煩悩から解き放たれるという。
注:羅什の注に禅味に貪著することは、涅槃と菩薩道を二つながらに障うとある。座禅は外から見れば何もしていないと同じである。もし座禅から起つことが無ければ人は救えない。 |
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又無方便慧縛。有方便慧解。無慧方便縛。有慧方便解 |
また、方便無き慧は縛なり。方便有る慧は解なり。慧無き方便は縛なり。慧有る方便は解なり。 |
方便の無い智慧は煩悩に縛られ、方便の有る智慧は煩悩から解き放つ。 智慧の無い方便は煩悩に縛られ、智慧の有る方便は煩悩から解き放つ。
注:心は有っても手段が無ければ、愁憂する。手段が有りながら心が無ければ、必定して悪道に堕ちる。 |
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何謂無方便慧縛。謂菩薩以愛見心。莊嚴佛土成就眾生。於空無相無作法中而自調伏。是名無方便慧縛 |
何の謂いぞ、方便無き慧は縛なりとは。謂わく、菩薩は、愛見の心を以って、仏土を荘厳(しょうごん、飾り立てること)し、衆生を成就(衆生に覚らしめること)し、空(ワレナシ)、無相(ワガスガタナシ)、無作(ワガナスベキコトナシ)の法の中に於いて、自ら調伏す、これを方便無き慧は縛なりと名づく。 |
方便の無い智慧は煩悩に縛られるとは。
菩薩は、 衆生に愛著する心で、 仏土を飾り立て衆生を覚らせる。 空無相無作(くうむそうむさ、我は空なり)と思って 自らの心を調える。 これを方便の無い智慧は煩悩に縛られるという。
注:菩薩は一切の衆生に対して、平等無差別の心で臨まなくてはならない。 |
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何謂有方便慧解。謂不以愛見心莊嚴佛土成就眾生。於空無相無作法中。以自調伏而不疲厭。是名有方便慧解 |
何の謂いぞ、方便有る慧は解なりとは。謂わく、愛見の心を以って、仏土を荘厳し、衆生を成就せず、空、無相、無作の法の中に於いて、以って自ら調伏して、(生死を遊歴して)疲厭せず。これを方便有る慧は解なりと名づく。 |
方便の有る智慧は煩悩から解き放つとは。
菩薩は、 衆生に愛著する心では、 仏土を飾り立てもせず、 衆生を覚らせもしない。 我は空なりと思って 自らの心を調える。 これを方便の有る智慧は煩悩から解き放つという。 |
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何謂無慧方便縛。謂菩薩住貪欲瞋恚邪見等諸煩惱。而植眾德本。是名無慧方便縛 |
何の謂いぞ、慧無き方便は縛なりとは。謂わく、菩薩は貪欲、瞋恚、邪見等の諸の煩悩に住して、しかも衆(もろもろ)の徳本(とくほん、善根、諸善行は仏果菩提の根本)を植う。これを慧無き方便は縛なりと名づく。 |
智慧の無い方便は煩悩に縛られるとは。
菩薩は、 貪欲、瞋恚、邪見等の 諸の煩悩を有るがままにして、 来世の為に善行を行う。 これを智慧の無い方便は煩悩に縛られるという。 |
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何謂有慧方便解。謂離諸貪欲瞋恚邪見等諸煩惱。而植眾德本。迴向阿耨多羅三藐三菩提。是名有慧方便解 |
何の謂いぞ、慧有る方便は解なりとは。謂わく、諸の貪欲、瞋恚、邪見等の諸の煩悩を離れて、しかも衆の徳本を植え、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい、仏国土を成就し、仏と作ること)に廻向(えこう、善根を振り向けて目的を成就すること)す。これを慧有る方便は解なりと名づく。 |
智慧の有る方便は煩悩から解き放つとは。
諸の貪欲、瞋恚、邪見等の 諸の煩悩を離れて善行を行うが、それは皆、 阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい、 理想の世界を成就すること)の為に振り向ける。 これを智慧の有る方便は煩悩から解き放つという。 |
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文殊師利。彼有疾菩薩應如是觀諸法 |
文殊師利、彼の疾有る菩薩は、まさにかくの如く、諸法を観ずべし。 |
文殊師利、 疾んだ菩薩は、このように物事を観察しなければならないのだ。 |
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又復觀身無常苦空非我。是名為慧 |
また、また身の無常、苦、空、非我なるを観ず。これを名づけて慧と為す。 |
また、更に 身を観察して、 この身は無常であって変化し続ける、 この身は苦しみを引き起こす、 この身は存在しない、 私は存在しないのだと知る。 これを智慧という。 |
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雖身有疾常在生死。饒益一切而不厭倦。是名方便 |
身に疾有りといえども、常に生死に在りて、一切(衆生)を饒益(にょうやく、利益)し、厭倦(えんけん、アキウムコト)せず。これを方便と名づく。 |
身が疾んでいても、常に 生死を繰り返して、 一切の衆生の為になり、 厭きることも疲れることもない。 これを方便という。 |
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又復觀身身不離病病不離身。是病是身非新非故。是名為慧 |
また、また身を観ずるに、身は病を離れず、病は身を離れず、この病この身は、新たなるものに非ず、故(もと)のものに非ずとす。これを名づけて慧と為す。 |
また、更に 身を観察して、 身は病から離れて存在せず、 病は身を離れて存在せず。 この病と、この身は 新しくなるのでもなく、 古いままであるのでもないのだと知る。 これを智慧という。 |
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設身有疾而不永滅。是名方便 |
たとい身に疾有れども、永滅(ようめつ、寂滅)せず。これを方便と名づく。 |
たとい 身に疾が有ろうとも、必ず 生死を繰り返す。 これを方便という。 |
菩薩の行
文殊師利。有疾菩薩應如是調伏其心不住其中。亦復不住不調伏心。所以者何。若住不調伏心是愚人法。若住調伏心是聲聞法。是故菩薩不當住於調伏不調伏心。離此二法是菩薩行 |
文殊師利、疾有る菩薩は、まさにかくの如く、その心を調伏しても、その中には住せず、また、また調伏せざる心にも住すべからず。 所以は何となれば、もし調伏せざる心に住せば、これ愚人の法なり。もし調伏せる心に住せば、これ声聞の法なり。 この故に、菩薩は、まさに調伏せると、調伏せざるとの心には住すべからず。この二法を離るる、これ菩薩の行なり。 |
文殊師利。 疾んだ菩薩は、 このように心を調えても、 それに安心してはならない。 また 心を調えなくてもよいと思ってもならない。
それは何故か。 もし 心を調えていなければ、それは 愚か者である。 もし 心を調えて、それに 安心していれば、それは 声聞と同じである。
それ故に 菩薩は、 心を調えるか、 心を調えないかを 問題としてはならない。
菩薩の行動は、それを超えている。 |
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在於生死不為污行。住於涅槃不永滅度。是菩薩行。 |
生死に在りて、汚行を為さず。涅槃に住して、永く滅度せず。これ菩薩の行なり。 |
生死を繰り返しながら、しかも 汚れた行いをしない。 心は、完全なる 満足の状態にありながらも、心が 死んだように静かでもない。 これが菩薩行なのだ。 |
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非凡夫行非賢聖行。是菩薩行 |
凡夫の行に非ず、賢聖の行に非ず(空無相無作の三解脱門を行じて、しかも涅槃の楽を取らず)。これ菩薩の行なり。 |
凡夫と同じように行動するのでもなく、 悟りきった仏のように行動するのでもない。 これが菩薩行である。 |
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非垢行非淨行。是菩薩行 |
垢行に非ず、浄行に非ず。これ菩薩の行なり。 |
煩悩にまみれた行いでもなく、 煩悩がなく浄い行いでもない。 これが菩薩行である。 |
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雖過魔行。而現降眾魔。是菩薩行 |
魔の行(欲魔身魔死魔天魔の四魔をいう)を過ぐといえども、衆魔を降伏することを現ず。これ菩薩の行なり。 |
欲望、身心の苦痛、短い寿命、災難、これ等の魔は問題ともしていないが、 衆生の為に、いかにしても衆の魔を降して見せる。 これが菩薩行である。 |
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求一切智無非時求。是菩薩行 |
(仏の)一切智を求めて、時に非ざれば求むること無し。これ菩薩の行なり。(一切智未だ成ぜずして声聞縁覚の如く中道にして証を求むること無きをいう) |
一切智(いっさいち、仏の智慧)を求めてはいるが、 時が来なければ敢えて求めることはしない (仏と成ろうとはしているが、それのみを求めているのではない)。 これが菩薩行である。 |
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雖觀諸法不生而不入正位。是菩薩行 |
諸法の不生なることを観ずといえども、正位(しょうい、証を取る位)に入らず。これ菩薩の行なり。 |
あらゆる物事は不生であると知ってはいるが、 それを覚って満足はしない。 これが菩薩行である。 |
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雖觀十二緣起而入諸邪見。是菩薩行 |
十二縁起を観ずといえども、諸の邪見に入る。これ菩薩の行なり。 |
十二縁起(我についての妄信を引き起こす原因と結果の十二段階、 無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死)を知ってはいるが、 諸の邪見も理解している。 これが菩薩行である。 |
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雖攝一切眾生而不愛著。是菩薩行 |
一切の衆生を摂(摂取)すといえども、愛著せず。これ菩薩の行なり。 |
一切の衆生を救い取るが 愛著してはいない。 これが菩薩行である。 |
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雖樂遠離而不依身心盡。是菩薩行 |
(身心の繫縛を)遠離することを楽(ねが)うといえども、身心の尽くることに依らず。これ菩薩の行なり。 |
煩悩から解き放たれることを願ってはいるが、 身心が無くてもよいとは思っていない。 これが菩薩行である。 |
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雖行三界而不壞法性。是菩薩行 |
三界を行(現生)ずるといえども、法性(ほっしょう、真如、空平等)を壊せず。これ菩薩の行なり。 |
世間の行いをするが、実際の 空平等を否定してはいない(三界は法性の現れである)。 これが菩薩行である。
注:法性も凡夫の眼で観れば三界と見える。 |
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雖行於空而植眾德本。是菩薩行 |
空を行ずるといえども、衆の徳本を植う。これ菩薩の行なり。 |
空の中で行っているが、 衆の善行を行う。 これが菩薩行である。 |
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雖行無相而度眾生。是菩薩行 |
無相を行ずるといえども、衆生を度す。これ菩薩の行なり。 |
無相(我が身心なし)の思いで行っているが、 (無い筈の我が身心が)衆生を救う。 これが菩薩行である。 |
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雖行無作而現受身。是菩薩行 |
無作を行ずるといえども、現れて身を受く。これ菩薩の行なり。 |
無作(我が行為なし)の思いで行っているが、 この世に生まれて来ることを現す。 これが菩薩行である。 |
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雖行無起而起一切善行。是菩薩行 |
無起(無因生果)を行ずるといえども、一切の善行を起こす。これ菩薩の行なり。 |
無起(結果を生む行為をしない)の思いで行っているが、 一切の善行の因(もと)を起こす。 これが菩薩行である。 |
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雖行六波羅蜜而遍知眾生心心數法。是菩薩行 |
六波羅蜜を行ずるといえども、あまねく衆生の心と心数(しんしゅ、心所、心の働き)の法を知る。これ菩薩の行なり。(六波羅蜜は衆生を分別せずに行うことをいう) |
六波羅蜜(ろくはらみつ、 布施(与える)、 持戒(取らない)、 忍辱(取られても怒らない)、 精進(怠けない)、 禅定(心を移さない)、 智慧(方便を生み出す)の各波羅蜜(無分別にて行う))を行っているが、 衆生の心の思いと 心の働きについて 隈なく知っている。 これが菩薩行である。
注:六波羅蜜は無分別の中に行い、相手を分別して行うものではない。 |
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雖行六通而不盡漏。是菩薩行 |
六通(神足、天眼、天耳、他心智、宿命、漏尽通)を行ずるといえども、漏を尽くさず。これ菩薩の行なり。 |
六通(神足(意のままになる行為)、 天眼(障害物を見通す)、 天耳(聞きのがさない)、 他心智(他の心を知る)、 宿命(過去世を知る)、 漏尽(煩悩を一滴残さず尽くす))を行っていても、 敢えて煩悩を尽くすことをしない。 これが菩薩行である。 |
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雖行四無量心而不貪著生於梵世。是菩薩行 |
四無量心(慈、悲、喜、捨無量の心)を行ずるといえども、梵世(四禅天)に生ずることに貪著せず。これ菩薩の行なり。 |
四無量心(慈(楽を与える)、 悲(苦を抜く)、 喜(他の為に喜ぶ)、 捨(無我平等))を行っていても、 四禅天に生まれる為ではない。 これが菩薩行である。
注:四無量心は四禅天に生まれる業であるといわれている。 |
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雖行禪定解脫三昧而不隨禪生。是菩薩行 |
禅定(四禅)、解脱(八解脱)、三昧(空無相無作)を行ずるといえども、禅に随うて生ぜず。これ菩薩の行なり。(行ずる所の禅に相応した処に生まれることを求めない) |
禅定、解脱、三昧を行うのは、 天に生まれたいが為ではない。 これが菩薩行である。 |
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雖行四念處而不永離身受心法。是菩薩行 |
四念処(しねんじょ、身は不浄なり、心はこれ苦なり、心は無常なり、法は無我なりと観ずる)を行ずるといえども、永く身受心法(しんじゅしんぽう、身と感覚と心と物事)を離れず。これ菩薩の行なり。(この四念処より八聖道までの三十七道品は、浅法を学んで、深法に入ることをいう) |
身は不浄である。 感覚は苦である。 心は無常である。 あらゆる物事には主体が無い。 このように観察して行動していても、 身も感覚も心も物事も 捨て去ろうとはしない。 これが菩薩行である。 |
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雖行四正勤而不捨身心精進。是菩薩行 |
四正勤(ししょうごん、已生の悪は永く断えしめ、未生の悪は生ぜざらしめ、已生の善は忘れざらしめ、未生の善は生ずるを得しむ)を行ずるといえども、身心精進を捨てず(無為に入らず)。これ菩薩の行なり。 |
既に生じている悪は断ち、 まだ生じていない悪は生じさせない。 既に生じている善は増やし、 まだ生じていない善は生じさせる。
このように行っているが、 身心の精進を捨てて、 涅槃に入ることが目的ではない。
注:四正勤は無為(一切の因縁を断って身心を捨てた状態)に入る行為である。 |
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雖行四如意足而得自在神通。是菩薩行 |
四如意足(しにょいそく、欲、念、進、慧如意足)を行ずるといえども、自在神通を得。これ菩薩の行なり。 |
願望、心念、精進、智慧が思い通りであるとしても、 それで満足せずに自在の神通を得る。 これが菩薩行である。 |
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雖行五根而分別眾生諸根利鈍。是菩薩行 |
五根(ごこん、信、進、念、定、慧根)を行ずるといえども、衆生の諸根の利鈍を分別す。これ菩薩の行なり。 |
心の根本的な五つの部分、 信心、精進、憶念、禅定、智慧は 思い通りであるとしても、 衆生の 信心、精進、心念、禅定、智慧が 何れほどかについても知っている。 これが菩薩行である。 |
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雖行五力而樂求佛十力。是菩薩行 |
五力(ごりき、信、進、念、定、慧力)を行するといえども、楽(ねが)いて仏の十力(じゅうりき)を求む。これ菩薩の行なり。 |
心の発する五つの力、 信心、精進、憶念、禅定、智慧は 思い通りであるとしても、 なお、 仏の力を願い求める。 これが菩薩行である。 |
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雖行七覺分而分別佛之智慧。是菩薩行 |
七覚分(しちかくぶん、念、択、進、喜、軽安、定、捨覚分)を行ずるといえども、仏の智慧を分別す。これ菩薩の行なり。 |
覚りの七つの部分、 憶念、選択、精進、喜法(正法を喜ぶ)、軽安(心が軽く安らか)、禅定、捨(心が平等無我)は 思い通りであるとしても、 仏の智慧とは分けて 別物であると考える。 これが菩薩行である。 |
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雖行八聖道而樂行無量佛道。是菩薩行 |
八聖道(はっしょうどう、正見、正思惟、正語、正業、正精進、正定、正念、正命)を行ずるといえども、楽いて無量の仏道を行ず。これ菩薩の行なり。 |
八正道(はっしょうどう、正しい見解、 正しい思考、 正しい言葉、 正しい行為、 正しい努力、 正しい禅定、 正しい思い、 正しい生活)を行っているとしても、 無量の仏道を楽しんで行う(小乗の涅槃に入るためではない)。 これが菩薩行である。 |
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雖行止觀助道之法而不畢竟墮於寂滅。是菩薩行 |
止(し、定)観(かん、慧)助道の法を行ずるといえども、畢竟じて寂滅に堕せず。これ菩薩の行なり。 |
禅定と観察との道を助ける法を行ってはいるが、最終的には 身心を寂滅したいと考えるのではない。 これが菩薩行である。 |
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雖行諸法不生不滅而以相好莊嚴其身。是菩薩行 |
諸法の不生不滅を行ずるといえども、相好(そうごう、三十二相八十種好)を以って、その身を荘厳す。これ菩薩の行なり。 |
あらゆる物事は不生不滅であると知って行っているが、 仏の相好(そうごう、容貌と威儀(振舞い))で身を飾っている (人を正道に導くに用があるから)。 これが菩薩行である。 |
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雖現聲聞辟支佛威儀而不捨佛法。是菩薩行 |
声聞辟支仏の威儀を現ずるといえども、仏の法(大乗)を捨てず。これ菩薩の行なり。 |
声聞(仏により覚った者)と辟支仏(独りで覚った者)として現れることはあるが、 大乗を捨てることはない。 これが菩薩行である。 |
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雖隨諸法究竟淨相而隨所應為現其身。是菩薩行 |
諸法の究竟の浄相(無相)に随うといえども、応ずる所に随うて(六道の何れの処にも)、その身を現す。これ菩薩の行なり。 |
あらゆる物事は結局は空無相であると知ってはいるが、 衆生の求めに応じて何所にでも身を現す。 これが菩薩行である。 |
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雖觀諸佛國土永寂如空而現種種清淨佛土。是菩薩行 |
諸仏の国土は永く寂(寂静)して空(虚空)の如しと観ずるといえども、種々に清浄の仏土を現す。これ菩薩の行なり。 |
諸仏の国土は永寂(ようじゃく、静か)で大空のようであると観察してはいるが、 種々の清浄な仏土を現す。 これが菩薩行である。 |
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雖得佛道轉于法輪入於涅槃而不捨於菩薩之道。是菩薩行 |
仏道を得て、法輪を転じ、涅槃に入るといえども、菩薩の道を捨てず。これ菩薩の行なり。』と。 |
(釈迦牟尼世尊と同じく) 仏と成って法を説き 涅槃に入るが、 菩薩道を捨てた訳ではない。 これが菩薩行である。』と。 |
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說是語時文殊師利所將大眾。其中八千天子皆發阿耨多羅三藐三菩提心 |
この語を説く時、文殊師利に将(ひきい)られたる大衆の、その中の八千の天子、皆阿耨多羅三藐三菩提心を発せり。 |
維摩詰がこう語り終えた時、 文殊師利にひきいられた大衆の中の八千の天子たちは、皆、 阿耨多羅三藐三菩提心を発(おこ)しました。 |
不思議品第六
不思議品第六 |
不思議品(ふしぎぼん)第六 |
維摩詰、三万二千の師子座をその小室の中に入れて、不可思議解脱の法門を説く。 |
法を求める
爾時舍利弗。見此室中無有床座。作是念。斯諸菩薩大弟子眾當於何坐。長者維摩詰知其意。語舍利弗言。云何仁者。為法來耶求床座耶 |
その時、舍利弗、この室中に床座有ること無きを見て、この念(おもい)を作さく、『この諸の菩薩、大弟子の衆は、まさに何に於いてか坐すべき。』 長者維摩詰、その意を知りて、舍利弗に語りて言わく、『云何に、仁者(にんじゃ、アナタハ)、法の為に来たるや、床座を求むるや。』と。 |
その時、舎利弗は、この室中には坐るための床座が無いことに気付いて、こう思いました、 『この大勢の菩薩と大弟子たちは、一体何所に坐れば良いのだろう。』と。 長者維摩詰は、すばやくそれを察知して舎利弗に話しかけます、 『何うかなされたか。あなたは法の為にきたのか、それとも床座を求めて来なされたのか。』 |
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舍利弗言。我為法來非為床座。維摩詰言。唯舍利弗。夫求法者不貪軀命。何況床座 |
舍利弗言わく、『我は、法の為に来たり、床座の為に非ず。』 維摩詰言わく、『唯(ゆい、モシ)、舍利弗、それ法を求むる者は、躯命(くみょう、身命)を貪らず。何をか況や床座をや。 |
舎利弗は言いました、 『私は法の為に来ました。床座の為ではありません。』 維摩詰が言います、 『これ、舎利弗、 法を求めるということは、身や命の為ですらない。 まして床座のことなどとんでもない話だ。 |
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夫求法者。非有色受想行識之求。非有界入之求。非有欲色無色之求 |
それ法を求むる者は、色受想行識の求め有るに非ず、界(かい、十八界)入(にゅう、十二入)の求め有るに非ず、欲色無色(三界)の求め有るに非ず。 |
法を求めるということは、この 身や心が求めるのでもなく、 身の周囲が求めるのでもなく、 世界が求めるのでもない。 |
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唯舍利弗。夫求法者。不著佛求不著法求不著眾求 |
唯、舍利弗、それ法を求むる者は、仏に著せずして求め、法に著せずして求め、衆(僧)に著せずして求む。 |
のう、舎利弗、 法を求めるということは、 仏に執著して求めるのでも、 法に執著して求めるのでも、 僧に執著して求めるのでもないのだ。 |
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夫求法者。無見苦求無斷集求。無造盡證修道之求 |
それ法を求むる者は、苦(苦諦)を見ること無くして求め、集(集諦)を断ずること無くして求め、尽証(滅諦)を造り、道を修むる(道諦)こと無くして求む。 |
法を求めるということは、 世間が苦であることを知って求めるのでも無く、 苦の本を断つために求めるのでも無く、 覚って安心するために求めるのでも無く、 修行のために求めるのでも無い。 |
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所以者何。法無戲論。若言我當見苦斷集證滅修道。是則戲論非求法也 |
所以(ゆえ)は何(いかん)となれば、法には戯論(けろん、憶念取相分別より生ずる無益の論議)無ければなり。もし我、まさに苦を見、集を断じ、滅を証し、道を修むべしと言わば、これすなわち戯論なり、法を求むるに非ざるなり。 |
なぜならば、 法は単なる言葉の遊びではないからだ。
もし、 『私は、 この世が 苦であることを知っている。 苦の本を断ち、 覚って安心する為に 修行しよう。』と言えば、 これは単なる言葉であって、 法を求めることではない。 |
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唯舍利弗。法名寂滅。若行生滅是求生滅非求法也 |
唯、舍利弗、法は、寂滅と名づく。もし生滅を行ぜば、これ生滅を求むるなり。法を求むるには非ざるなり。 |
これ舎利弗、 法とは 寂滅(じゃくめつ、空涅槃)ということなのだ。 もし 生滅を繰り返していれば、それは 生滅を求めているからなのだ。 法を求めているのではない。 |
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法名無染。若染於法乃至涅槃。是則染著非求法也 |
法は、染まること無しと名づく。もし法に染まば、すなわち涅槃に至るまで、これすなわち染著なり。法を求むるには非ず。 |
法は染めることがない。 もし 法に染まっているのならば、それが例え 涅槃であろうと、これは 煩悩に染まっているのだ。 法を求めているのではない。 |
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法無行處。若行於法是則行處非求法也 |
法は、行処(ぎょうしょ、行為)無し。もし法を行ぜば、これすなわち行処なり。法を求むるには非ず。 |
法は行うものではない。 もし 法を行えば、それは 行っているというに過ぎないのだ。 法を求めているのではない。 |
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法無取捨。若取捨法是則取捨非求法也 |
法は、取捨無し。もし法を取捨せば、これすなわち取捨なり。法を求むるには非ず。 |
法は取捨するものではない。 もし 法を取捨すれば、それは 取捨したというに過ぎないのだ。 法を求めているのではない。 |
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法無處所。若著處所。是則著處非求法也 |
法は、処する所無し。もし処する所に著せば、これすなわち処することに著す。法を求むるには非ず。 |
法は拠り所ではない。 もし 頼ろうとすれば、それは 拠り所に執著しているに過ぎないのだ。 法を求めているのではない。 |
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法名無相。若隨相識是則求相非求法也 |
法は無相と名づく。もし相に随うて識らば、これすなわち相を求む。法を求むるには非ず。 |
法は見聞きできない。 もし 見聞きできたとすれば、それは 見聞きしたというに過ぎないのだ。 法を求めているのではない。 |
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法不可住。若住於法是則住法非求法也 |
法は住すべからず。もし法に住せば、これすなわち法に住するなり。法を求むるには非ず。 |
法は、それに住(とど)まることができない(常に動く)。 もし 法に住まれば、それは 法に住まったというに過ぎないのだ。 法を求めているのではない。 |
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法不可見聞覺知。若行見聞覺知。是則見聞覺知非求法也 |
法は見聞覚知すべからず。もし見聞覚知を行ぜば、これすなわち見聞覚知なり。法を求むるには非ず。 |
法は見聞きして知ることができない。 もし 見聞きして知ったとしても、それは 見聞きして知ったというに過ぎないのだ。 法を求めているのではない。 |
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法名無為。若行有為是求有為非求法也 |
法は無為と名づく。もし有為を行ぜば、これ有為を求むるなり。法を求むるには非ず。 |
法は何もしない。 もし 結果を求めているならば、それはただ 結果を求めているのだ。 法を求めているのではない。 |
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是故舍利弗。若求法者。於一切法應無所求。說是語時。五百天子於諸法中得法眼淨 |
この故に、舍利弗、もし法を求めん者は、一切の法に於いて、まさに求むる所無し。』と。この語を説く時、五百の天子、諸法の中に於いて、法眼浄(ほうげんじょう、四諦の理を正しく見ること)を得たり。 |
このように舎利弗、もし 法を 求めているのならば、何ものも 求めてはならないのだ。』と。 この話が終った時には、五百の天子が、あらゆる物事を正しく見ることができる眼を得ていたのです。 |
不可思議解脱
爾時長者維摩詰問文殊師利。仁者。遊於無量千萬億阿僧祇國。何等佛土有好上妙功德成就師子之座。文殊師利言。居士。東方度三十六恒河沙國有世界。名須彌相。其佛號須彌燈王。今現在。彼佛身長八萬四千由旬。其師子座高八萬四千由旬嚴飾第一 |
その時、長者維摩詰、文殊師利に問わく、『仁者(にんじゃ、アナタハ)、無量千万億阿僧祇(あそうぎ、無数)の国に遊び、何等の仏土にか、好き上妙の功徳成就せる師子の座ある。』 文殊師利言わく、『居士、東方に三十六恒河沙(ごうがしゃ、ガンジス河の砂の数)の国を度(こ)えて、世界有りて、須弥相と名づく。その仏は、須弥灯王と号し、今現に在(ま)します。彼の仏の身長(ミノタケ)は八万四千由旬(ゆじゅん、帝王の一日の行軍の里程)なり。その師子座は、高さ八万四千由旬にて厳飾(ごんじき、荘厳飾好)第一なり。 |
それから維摩詰は文殊師利に問いました、 『お前は、 無量千万億、無数の国々に遊んでおったな。 何所の仏土に、大変役に立つ好い師子座が有るかな。』 文殊師利が言います、 『居士、 東方に三十六恒河沙(ごうがしゃ、ガンジス河の砂の数)の国々を過ぎて行きますと、 須弥相(しゅみそう)という国が有ります。そこには 須弥灯王(しゅみとうおう)という仏が今現にいらっしゃいます。その 仏の身長は八万四千由旬(ゆじゅん、10キロメートル)で、その 師子座の高さも八万四千由旬あり、 美しく飾られています。これが第一でしょう。』 |
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於是長者維摩詰。現神通力。即時彼佛遣三萬二千師子座高廣嚴淨。來入維摩詰室。諸菩薩大弟子釋梵四天王等昔所未見。其室廣博悉皆包容三萬二千師子座。無所妨礙。於毘耶離城及閻浮提四天下。亦不迫迮。悉見如故 |
ここに於いて、長者維摩詰、神通力を現せば、即時に彼の仏は、三万二千の師子座の高広にして厳浄なるを遣わして、維摩詰の室に来たり入れしむ。 諸の菩薩、大弟子、釈梵四天王等も、昔より未だ見ざる所なり。その室は、広博にして、悉く皆三万二千の師子座を包み容(い)れ、妨礙(ぼうげ、サマタグ)する所無し。毘耶離城および閻浮堤、四天下(してんげ、須弥山の四方に在る地、即ち閻浮堤とその他をいう)も、また迫迮(はくさく、セバマル)せずして、悉く故(もと)の如くに見ゆ。 |
そこで長者維摩詰は神通力を使いますと、彼の仏は即時に、 三万二千の師子座の高く広く美しく浄らかなものを遣わされまして 維摩詰の室にお入れになります。 これには、 諸の菩薩、大弟子、釈梵四天王たちも、初めて見たことですので驚きました。
その室はなぜか広くなり、 三万二千の師子座を皆悉く呑み込んで、 少しも窮屈ではありません。
それだけ室が広がったにも拘わらず、 毘耶離城(びやりじょう、維摩詰所住の処)も、 閻浮堤(えんぶだい、大陸、四大洲の一)も、 四天下(四大洲、須弥山を取り巻く海中に浮かぶ四大陸)も狭まることなく、 まったく元のままでありました。 |
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爾時維摩詰語文殊師利。就師子座。與諸菩薩上人俱坐。當自立身如彼座像。其得神通菩薩即自變形。為四萬二千由旬坐師子座。諸新發意菩薩及大弟子皆不能昇 |
その時、維摩詰、文殊師利に語らく、『師子の座に就き、諸の菩薩、上人(しょうにん、声聞を敬っていう)と倶(とも)に坐し、まさに自ら身を立て、彼の座像の如く(須弥灯王仏の坐したもうが如く)なるべし。』と。 その神通を得たる菩薩は、すなわち自ら形を変じて、四万二千由旬と為り、師子の座に坐せども、諸の新発意(しんほつい、新入の)の菩薩および大弟子は、皆昇ること能わず。 |
それから維摩詰は文殊師利に語りかけました、 『師子座に就こう。 諸の菩薩、上人(しょうにん、大弟子)たちと共に坐って、 姿勢を正し彼の仏のようにしようではないか。』と。 神通力の有る菩薩たちは、即座に 身の丈を四万二千由旬(坐形であるから半分でいう)に変身して坐りましたが、 新入の菩薩、および大弟子たちは、皆 座に昇ることができません。 |
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爾時維摩詰語舍利弗。就師子座。舍利弗言。居士。此座高廣吾不能昇。維摩詰言。唯舍利弗。為須彌燈王如來作禮乃可得坐。於是新發意菩薩及大弟子。即為須彌燈王如來作禮。便得坐師子座 |
その時、維摩詰、舍利弗に語らく、『師子の座に就け。』 舍利弗言わく、『居士、この座は高広にして、吾は昇ること能わず。』 維摩詰言わく、『唯、舍利弗、須弥灯王如来の為に礼を作さば、すなわち坐ることを得べし。』と。ここに於いて、新発意の菩薩および大弟子、すなわち須弥灯王如来の為に礼を作して、すなわち師子の座に坐することを得たり。 |
そして維摩詰は舎利弗に語りました、 『師子座に就きなさい。』と。 舎利弗が言います、 『居士、この座はあまりにも高く広すぎます。私には昇ることができません。』 維摩詰が言います、 『のう、舎利弗、須弥灯王如来の為に礼をしてみよ。それで坐ることができよう。』 それを聞いて、 新入の菩薩たち、および大弟子たちは須弥灯王の為に礼をしますと、はたして 師子座に坐ることができました。 |
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舍利弗言。居士未曾有也。如是小室乃容受此高廣之座。於毘耶離城無所妨礙。又於閻浮提聚落城邑及四天下諸天龍王鬼神宮殿。亦不迫迮 |
舍利弗言わく、『居士、未曽有なり。かくの如き小室に、すなわちこの高広の座を容受して、毘耶離城に於いても、妨礙する所なく、また閻浮堤の聚落(じゅらく)、城邑(じょうゆう)、および四天下、諸天龍王鬼神の宮殿に於いても、また迫迮(はくさく、セバマル)せざること。』 |
舎利弗が言います、 『居士、驚きました。このような小室に、この高く広い床座を入れて、 毘耶離城は少しも窮屈にならず、また 閻浮堤の聚落(じゅらく、村)、城邑(じょうゆう、町)、および 四天下、諸天、龍王、鬼神の宮殿さえも 窮屈にならないとは。』 |
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維摩詰言。唯舍利弗。諸佛菩薩有解脫名不可思議。若菩薩住是解脫者。以須彌之高廣內芥子中無所增減。須彌山王本相如故。而四天王忉利諸天。不覺不知己之所入。唯應度者乃見須彌入芥子中。是名住不思議解脫法門 |
維摩詰言わく、『唯、舍利弗、諸仏菩薩に解脱あり、不可思議と名づく。もし菩薩にして、この解脱に住する者は、須弥(山)の高広なるを以って、芥子(けし、ケシツブ)の中に内(い)れて、増減する所無し。須弥山王の本(本来)の相は故(もと)の如く、しかも四天王、忉利(とうり)の諸天も覚らずして、己(おのれ)の入れられたることを知らず。ただまさに度すべき者(仏等)のみ、すなわち須弥の芥子中に入るを見る。これを不思議解脱の法門に住すと名づく。 |
維摩詰が言います、 『のう、舎利弗、諸仏菩薩には不可思議という名の解脱がある。 もし 菩薩が、この解脱を体得しておれば、 須弥山のような高く広い山でさえ、 芥子粒(けしつぶ、ゴマ粒より遥かに小)の中に入れることができ、しかも 増えも減りもしないのだ。 須弥山の山自体は、元のままであり、 須弥山上の四天王天、忉利天、三十三天等も、 知らぬまに芥子粒の中に入れられて 気付くことさえ無いのだ。 ただ仏と同等の者だけが 須弥山が芥子の中に入るのを 見ることができるのだ。 これを不可思議解脱の法門を体得したと言うのである。
注:不可思議解脱とはこの維摩詰所説経の副題である。不可思議解脱とは不可思議なる事により解脱することを言う。不可思議とは何であるか、謂わく不可思議所見、不可思議所聞等、種々あることに気付くことがこの経を理解する道である。 |
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又以四大海水入一毛孔。不嬈魚鱉黿鼉水性之屬。而彼大海本相如故。諸龍鬼神阿修羅等不覺不知己之所入。於此眾生亦無所嬈 |
また、四大海の水を以って、一毛孔(もうく)に入れ、魚、鱉(べつ、スッポン)、黿(げん、大スッポン)、鼉(だ、ワニ)の水性の属を嬈(みだ、乱)さずして、しかも彼の大海の本の相は故の如く、諸龍、鬼神、阿修羅等も、覚らずして、己(おのれ)の入れられたることを知らず。この衆生に於いても、また嬈す所無し。 |
また四大海の水をすべて 一毛孔に入れて、 魚、鱉(べつ、スッポン)、黿(げん、大スッポン)、鼉(だ、ワニ)等の 水中の属が 生活を乱されず、しかも 四大海も元のままである。 諸龍、鬼神、阿修羅等も 何が起こったのか気付かない。またこれらの 衆生の生活も乱れない。
四大海(しだいかい):須弥山の四方にある大海。須弥山は四大海の中央に在り、四大海の中に、各一大洲(四大洲)が在り、四大海の外は、鉄囲山(てっちせん)がこれを取り囲んでいる。 |
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又舍利弗。住不可思議解脫菩薩。斷取三千大千世界。如陶家輪著右掌中。擲過恒河沙世界之外。其中眾生不覺不知己之所往。又復還置本處。都不使人有往來想。而此世界本相如故 |
また舍利弗、不可思議解脱に住する菩薩は、三千大千世界を断ち取ること、陶家の輪(陶器を造るとき使うロクロ)の如く、右の掌中に著けて、恒河沙の世界の外に過ぎて擲(なげう)つに、その中の衆生は覚らずして、己の往く所を知らず。また、また本の処に還し置くけば、すべて人をして、往来の想有らしめずして、しかもこの世界の本の相は故の如し。 |
また舎利弗、 不可思議解脱を体得した菩薩は、三千大千世界を輪切りにすることができる。
粘土をロクロの上で輪切りにするように 世界を輪切りにして、それを右の掌の中に置き、 恒河沙等の世界の外に放り投げても、その中の 衆生は 気付かず、今自分が 何所へ行こうとしているかも 知ることがない。 またそれを 元の処に還せば、 誰も恒河沙等の世界を 往来したことを想像だにしない。 それでいて この世界は、元と少しも 変わってはいないのだ。 |
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又舍利弗。或有眾生樂久住世而可度者。菩薩即延七日以為一劫。令彼眾生謂之一劫。或有眾生不樂久住而可度者。菩薩即促一劫以為七日。令彼眾生謂之七日 |
また舍利弗、或いは衆生、久しく世に住することを楽(ねが)いて、度(済度)すべき者有らば、菩薩は、すなわち七日を延ばして、以って一劫と為し、彼の衆生をして、これを一劫と謂(おも)わしむ。或いは衆生、久しく住することを楽わずして、度すべき者有らば、菩薩は、すなわち一劫を促(ちぢ)めて、以って七日と為し、彼の衆生をして、これを七日と謂わしむ。 |
また舎利弗、 ある人の願いは永い寿命であれば、その人を導くために、 菩薩は直ちに その人の七日を一劫(いっこう、世界ができてから滅亡するまでの時間)に延ばして、 その人にそう想わせることができる。 また ある人の願いは寿命の短いことであれば、その人を導くために、 菩薩は直ちに、 一劫を縮めて七日にし、 その人にそう想わせる。 |
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又舍利弗。住不可思議解脫菩薩。以一切佛土嚴飾之事。集在一國示於眾生。又菩薩以一佛土眾生置之右掌。飛到十方遍示一切。而不動本處 |
また舍利弗、不可思議解脱に住する菩薩は、一切の仏土の厳飾の事を以って、一国に集め在(お)き、衆生に示す。また菩薩は、一仏土の衆生を以って、右の掌に置きて、十方に飛び到り、遍く一切を示して、しかも本の処を動かず。 |
また舎利弗、 不可思議解脱を体得した菩薩は、 一切すべての諸仏の国土の美しい飾りを 一国に集めて人に見せることができる。
また菩薩は、 一仏土中の 一切の衆生を、右の掌に置き、 十方を飛び回って 一切の仏国土を残さず見せて、しかも 本の処を動かないでいることもある。 |
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又舍利弗十方眾生供養諸佛之具。菩薩於一毛孔皆令得見。又十方國土所有日月星宿。於一毛孔普使見之 |
また舍利弗、十方の衆生が諸仏を供養するの具を、菩薩は、一毛孔に於いて、皆見ることを得しむ。また、十方の国土の、あらゆる日月星宿を、一毛孔に於いて、あまねくこれを見しむ。 |
また舎利弗、 十方の衆生が諸仏を供養するための物を、菩薩は一毛孔の中で皆見ることができる。 また 十方の国土のあらゆる日月星宿(しょうしゅく、星座)を、一毛孔の中に余さず見ることができる。 |
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又舍利弗。十方世界所有諸風。菩薩悉能吸著口中而身無損。外諸樹木亦不摧折。又十方世界劫盡燒時。以一切火內於腹中。火事如故而不為害。又於下方過恒河沙等諸佛世界。取一佛土舉著上方。過恒河沙無數世界。如持鍼鋒舉一棗葉而無所嬈 |
また舍利弗、十方の世界の、あらゆる諸の風を、菩薩は、悉くよく吸いて、口中に著け、しかも身を損ずること無く、外の諸の樹木も、また摧折(さいせつ、オレル)せず。また十方の世界の劫尽き(世界の滅亡すること)て焼くる時、一切の火を以って、腹中に内(い)れて、火事は故の如くにして、しかも(腹中に)害を為さず。また下方に恒河沙等の諸仏の世界を過ぎて、一仏土を取りて、上方に挙げ著(お)き、恒河沙無数の世界を過ぐるに、鍼鋒(しんぶ、ハリノサキ)を持して一の棗(ナツメ)の葉を挙ぐるが如くにして、しかも嬈(みだ)す所無し。 |
また舎利弗、 十方の世界に吹く風を、 菩薩は悉く吸い取って口中に含むことができ、しかも 身を傷付けることなく、外の諸の樹木も折れたりしない。 また 十方の世界が終末を迎えて燃え出しても、 菩薩は一切の火を腹中に入れて、 火事は無かったようにすることもできるが、 腹に傷つけることはない。 また 下方に恒河沙等の世界を過ぎた所の、 ある仏土を掌に載せて上に挙げ、 上方に恒河沙等の世界を飛び過ぎれば、まるで 針の先で一枚の棗(なつめ)の葉を刺して持ち上げるようなものであり、しかも その仏土が乱れることはない。 |
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又舍利弗。住不可思議解脫菩薩。能以神通現作佛身。或現辟支佛身。或現聲聞身。或現帝釋身。或現梵王身。或現世主身。或現轉輪王身。又十方世界所有眾聲。上中下音皆能變之令作佛聲。演出無常苦空無我之音。及十方諸佛所說種種之法。皆於其中。普令得聞 |
また舍利弗、不可思議解脱に住する菩薩は、よく神通を以って現して、仏身と作る。或いは辟支仏の身を現し、或いは声聞の身を現し、或いは帝釈の身を現し、或いは梵王の身を現し、或いは世主の身を現し、或いは転輪王の身を現す。また十方の世界の、あらゆる衆(もろもろ)の声を、上中下の音、皆よくこれを変じて、仏の声と作し、無常、苦、空、無我の音を演出せしめ、および十方の諸仏の説きたもう所の、種々の法を、皆その中に於いて(その声の在る場所に於いて)、あまねく聞くことを得しむ。 |
また舎利弗、 不可思議解脱を体得した菩薩は、神通力によって仏身を現すことができる。 或いは 辟支仏、声聞、帝釈、梵天、世主、転輪聖王の身を現すこともできる。 また 十方の世界のあらゆる衆の声を、上中下の音を皆、 仏の声に変じて、無常、苦、空、無我を説かせることができる。 また、このようにして 十方の諸仏の説かれる種々の法を、その中に演じて 一切の衆生に聞かせることができる。 |
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舍利弗。我今略說菩薩不可思議解脫之力。若廣說者窮劫不盡 |
舍利弗、我は、今、略して菩薩の不可思議解脱の力を説く。もし広く説かば、劫を窮むとも、尽きじ。 |
舎利弗、私は今、 菩薩の不可思議解脱の力の概略を説いた。 もし詳しく説こうとすれば一劫あったとしても足るまい。』と。 |
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是時大迦葉。聞說菩薩不可思議解脫法門。歎未曾有。謂舍利弗。譬如有人於盲者前現眾色像非彼所見。一切聲聞聞是不可思議解脫法門。不能解了為若此也。智者聞是。其誰不發阿耨多羅三藐三菩提心。我等何為永絕其根。於此大乘已如敗種。一切聲聞聞是不可思議解脫法門。皆應號泣聲震三千大千世界。一切菩薩應大欣慶頂受此法。若有菩薩信解不可思議解脫法門者。一切魔眾無如之何。大迦葉說是語時。三萬二千天子皆發阿耨多羅三藐三菩提心 |
この時、大迦葉(だいかしょう)、菩薩の不可思議解脱の法門を説くを聞き、未曽有と歎じて、舍利弗に謂わく、『譬えば有る人の、盲者の前に於いて、衆(もろもろ)の色像を現せども、彼が見る所には非ざるが如く、一切の声聞も、この不可思議解脱の法門を聞きて、解了することの能わざること、かくの若しと為す。智者なれば、これを聞きて、それ誰か阿耨多羅三藐三菩提心を発さざらん。我等は、何すれぞ永くその根(菩薩の根本)を断ちて、この大乗に於いて、すでに敗種(はいしゅ)の如きなる。一切の声聞、この不可思議解脱の法門を聞いて、皆まさに号泣し声を三千大千世界に震(ふる)うべし。一切の菩薩は、まさに大いに欣慶して、この法を頂受すべし。もし菩薩、不可思議解脱の法門を信解する者有らば、一切の魔衆もこれを如何(いかん)ともする無けん。』と。 大迦葉、この語を説く時、三万二千の天子は、皆阿耨多羅三藐三菩提心を発しき。 |
この時、大迦葉(だいかしょう)は、 維摩詰がこの菩薩の不可思議解脱の法門を説くのを聞いて、驚いて舎利弗に心の内を話した、 『譬えば、 ある人が盲者の前で姿を種々に変えたとしても、 その盲者には見えないように、 我々一切の声聞も、 この不可思議解脱の法門を聞いて、 それを理解することはできない。
智慧のある者がこれを聞けば、 誰が阿耨多羅三藐三菩提心を発さずにいられよう。 我々は何処で間違えて、 菩薩の根を断ち切り、 大乗の種子を腐らせてしまったのだろう。 一切の声聞も、この 不可思議解脱の法門を聞けば、皆、 号泣して三千大千世界を震わすことだろう。 一切の菩薩は、まさに 大いに喜び勇んで、この法を拝領せよ。 菩薩が、この 不可思議解脱の法門を信じ理解すれば、 一切の魔の衆も 何うすることもできないのだから。』と。 大迦葉がこう説くのを聞いて、三万二千の天子が、皆、阿耨多羅三藐三菩提心を発しました。 |
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爾時維摩詰語大迦葉。仁者。十方無量阿僧祇世界中作魔王者。多是住不可思議解脫菩薩。以方便力教化眾生現作魔王 |
その時、維摩詰、大迦葉に語らく、『仁者、十方の無量阿僧祇(あそうぎ、無数)の世界の中に魔王と作る者も、多くは、これ不可思議解脱に住する菩薩なり。方便力を以って、衆生を教化し、現じて魔王と作る。 |
その時、維摩詰は大迦葉に語りました、 『のう、お前、 十方の無量無数の世界の中の魔王となっておる者も、 多くは不可思議解脱を体得した菩薩である。 方便力でもって、 衆生を教え導くために、 魔王となっておる。 |
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又迦葉。十方無量菩薩。或有人從乞手足耳鼻頭目髓腦血肉皮骨聚落城邑妻子奴婢象馬車乘金銀琉璃車磲馬瑙珊瑚琥珀真珠珂貝衣服飲食。如此乞者多是住不可思議解脫菩薩。以方便力而往試之令其堅固 |
また迦葉、十方の無量の菩薩も、或いは有る人、(菩薩)従(よ)り、手足、耳鼻、頭目、髄脳、血肉、皮骨、聚落、城邑、妻子、奴婢、象馬、車乗、金銀、瑠璃、車磲、瑪瑙、珊瑚、琥珀、真珠、珂貝(かばい)、衣服、飲食を乞うときは、この乞う者の如きは、多くは、これ不可思議解脱に住する菩薩なり。方便力を以って往きて、これを試し、それをして堅固ならしむ。 |
また迦葉、 十方の無量の菩薩に、 或いはある人が、 手足、耳鼻、頭目、髄脳、血肉、皮骨、聚落、城邑、妻子、奴婢、 象馬、車乗、金銀、瑠璃、車磲、瑪瑙、珊瑚、琥珀、真珠、珂貝(かばい)、衣服、飲食を 乞うたとしても、 この乞う者の多くは、これまた 不可思議解脱を体得した菩薩である。 方便力でもって、 この菩薩を試し、その道心を堅固にならせようとしてのことなのだ。 |
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所以者何。住不可思議解脫菩薩。有威德力故現行逼迫。示諸眾生如是難事。凡夫下劣無有力勢。不能如是逼迫菩薩。譬如龍象蹴踏非驢所堪。是名住不可思議解脫菩薩智慧方便之門 |
所以は何となれば、不可思議解脱に住する菩薩は、威徳力有るが故に、現れて逼迫することを行い、諸の衆生に、かくの如き難事を示す。凡夫は下劣にして、力勢有ること無ければ、かくの如く、菩薩を逼迫すること能わず。譬えば、龍象の蹴踏(しゅうとう)するは、驢(ろ、ロバ)の堪うる所に非ざるが如し。これを不可思議解脱に住する菩薩の智慧方便の門と名づく。』と。 |
そして何うするかというと、 不可思議解脱を体得した菩薩は、 威勢も威力も有るので、 種々に姿を変えて 菩薩にこのようなことを迫り、そしてこの難事を 衆生に示して 仏道に向かわせようとしておるのだ。 凡夫は、 力弱く勢力が無いので、 菩薩にこのように迫ることができない。 譬えば、 龍や象が蹴ったり踏んだりするようには、 ロバにできる訳がないのだ。 これを不可思議解脱を体得した菩薩の智慧による方便の門という。』と。 |
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