巻上之第三

 

home

 

菩薩品第四

弥勒菩薩(みろくぼさつ)

光厳童子(こうごんどうじ)

持世菩薩(じせぼさつ)

長者子善徳(ちょうじゃしぜんとく)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

菩薩品第四

菩薩品第四

菩薩品第四(ぼさつぼんだいし)

 諸の菩薩も皆維摩詰の疾を問うに堪えずと辞す。

 

 

 

 

弥勒菩薩

於是佛告彌勒菩薩。汝行詣維摩詰問疾

ここに於いて、仏、弥勒菩薩(みろくぼさつ)に告げたまわく、『汝、行きて維摩詰に詣(いた)り、疾を問え。』

 仏は、弥勒菩薩(みろくぼさつ)に仰います、『お前、維摩詰を見舞って来なさい。』と。

 

  弥勒菩薩(みろくぼさつ):慈氏菩薩(じしぼさつ)、弥勒は菩薩の姓、名は阿逸多(あいつた)という。釈迦入滅後の五十六億七千万年に、この土に於いて仏となる。現在は兜卒天内院に於いて説法しつつあり。

彌勒白佛言。世尊。我不堪任詣彼問疾。所以者何。憶念我昔為兜率天王及其眷屬。說不退轉地之行

弥勒、仏に白(もう)して言(もう)さく、『世尊、我は、彼れに詣りて、疾を問うに堪任(たんにん、耐える)せず。所以(ゆえ、理由)は何(いか)んとなれば、憶念(おくねん、思い出す)するに、我、昔、兜卒天王(とそつてんおう)、およびその眷属の為に、不退転地(ふたいてんじ、菩薩の大願を捨てない位)の行(修行)を説けり。

 弥勒菩薩は仏に申します、

『世尊、私には出来かねます。何うしてかと申しますと、今でも思い出します。

 私は、昔兜卒天王(とそつてんおう)、およびその眷属の為に、

   不退転地(ふたいてんじ、

   阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい、獲得された仏の境地)を志して不退転)の

     修行について説いていました。

時維摩詰來謂我言。彌勒。世尊授仁者記一生當得阿耨多羅三藐三菩提。為用何生得受記乎。過去耶未來耶現在耶。若過去生過去生已滅。若未來生未來生未至

時に、維摩詰来たりて、我に謂(い)って言わく、『弥勒、世尊は、仁者(にんじゃ、ナンジ)に、記(き、記別、未来の決定事を記帳するコト、予言)を授けたまわく、『一生にて、まさに阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい、仏の心境)を得べし』と。何(いづれ)の生を用いて、受記(じゅき、記を受くるコト)を得たりと為すや。過去(の生)なりや。未来(の生)なりや。現在(の生)なりや。もし過去の生ならば、過去の生はすでに滅しぬ。もし未来の生ならば、未来の生は未だ至らず。

 そこへ維摩詰が通りかかり、私に言いました、

『弥勒、世尊は、

   あなたに記(き、記別、将来仏に成ることの予言)を授けて、

   『あと一生すれば、阿耨多羅三藐三菩提を得る(仏と成る)』と言われたたが、

   何の生のことを言われたと思いますか。

     過去の生か、

     未来の生か、

     現在の生か。

 もし過去の生であれば、過去の生はすでに滅している。

 もし未来の生であれば、未来の生は未だ至っていない。

若現在生現在生無住。如佛所說。比丘汝今即時亦生亦老亦滅

もし現在の生ならば、現在の生は無住(むじゅう、暫くも停住せず)なり。仏の所説の如きは、『比丘、汝が今は、即時に、また生じ、また老い、また滅す。』となり。

 もし現在の生であれば、現在の生は暫くも住まらない。

 仏も、仰っていられる、

『比丘、あなたの今は、即時に、生じ、老い、滅する』と。

若以無生得受記者。無生即是正位。於正位中亦無受記。亦無得阿耨多羅三藐三菩提

もし無生を以って、受記を得とせば、無生は、すなわちこれ正位(しょうい、真如の実相)なり。正位の中に於いては、また受記なし。また阿耨多羅三藐三菩提を得ることも無し。

 もし無生を以って受記を得たとするならば、

   無生とは、

     真如の実相である。

     実相の中では受記はない。また

       阿耨多羅三藐三菩提を得ることもない。

 

  正位(しょうい):真如の実相のこと。真如とは一切の因縁、変化、生滅がない世界、即ち涅槃常住をいう。

云何彌勒受一生記乎。為從如生得受記耶為從如滅得受記耶

云何(いかん)ぞ、弥勒、一生の記を受くる。如(にょ、真如)の生により、受記を得と為すや。如の滅により、受記を得と為すや。

 弥勒が一生の記を受けたとは、何のことか。

   真如の生ずることにより

     受記を得たのか。

   真如の滅することにより

     受記を得たのか。

 

  真如の生ずる:空が生ずるに近似。人の身心が空、即ち弥勒は真如であるならば、それが生じ、或いは滅するのかという。

若以如生得受記者如無有生。若以如滅得受記者如無有滅

もし如の生を以って、受記を得とせば、如には生あること無し。もし如の滅を以って、受記を得とせば、如には滅あること無し。

 もし真如の生ずることにより

   受記を得たとならば、

   真如には生は無い。

 もし真如の滅することにより

   受記を得たとならば、

   真如には滅は無い。

一切眾生皆如也

一切の衆生は、皆如なり。

 一切の衆生は皆真如です。

一切法亦如也

一切の法も、また如なり。

 一切の物事もまた真如です。

眾聖賢亦如也

衆(もろもろ)の聖賢(しょうけん、小乗の覚りを得た者、大乗の仏菩薩)も、また如なり。

 衆の阿羅漢、大菩薩もまた真如です。

至於彌勒亦如也

弥勒に至るまでも、また如なり。

 弥勒もまた真如なのです。

若彌勒得受記者。一切眾生亦應受記

もし弥勒にして、受記を得るならば、一切の衆生も、またまさに記を受くべし。

 もし弥勒が

   受記を得るならば、

 一切の衆生もまた

   受記を得なければならない。

所以者何。夫如者不二不異

所以は何んとなれば、それ、如とは不二不異なり。

 それはなぜか。

   真如というものは、

     二つと無く、

     一つのみが有るからです。

若彌勒得阿耨多羅三藐三菩提者。一切眾生皆亦應得

もし弥勒にして、阿耨多羅三藐三菩提を得るならば、一切の衆生も、皆またまさに得べし。

 もし弥勒が

   阿耨多羅三藐三菩提を得るならば、

 一切の衆生も、皆

   得なければなりません。

所以者何。一切眾生即菩提相

所以は何んとなれば、一切の衆生は、すなわち菩提(ぼだい、阿耨多羅三藐三菩提)の相なり。

 それはなぜか、

   一切の衆生とは

     阿耨多羅三藐三菩提の表れなのです。

若彌勒得滅度者。一切眾生亦應滅度

もし弥勒にして、滅度(めつど、涅槃)を得るならば、一切の衆生も、またまさに滅度を得べし。

 もし弥勒が

   涅槃を得るならば、

 一切の衆生もまた

   涅槃を得なければなりません。

所以者何。諸佛知一切眾生畢竟寂滅即涅槃相不復更滅

所以は何んとなれば、諸仏は、一切の衆生は畢竟(ひっきょう、ツマルトコロ)寂滅す、すなわち涅槃の相にして、また更に滅せずと知りたもう。

 それはなぜか。諸仏は知っていられます、

『一切の衆生は、畢竟(ひっきょう、つまるところ)、

   涅槃にいるのだ。更に

   涅槃に入ることはない』と。

是故彌勒。無以此法誘諸天子。實無發阿耨多羅三藐三菩提心者。亦無退者

この故に、弥勒、この法を以って、諸の天子を誘(まどわ)すことなかれ。実に阿耨多羅三藐三菩提を発す者なく、また退く者もなし。

 その故に、弥勒、

   不退転の法(阿耨多羅三藐三菩提を志すこと)について、

   諸の天子をそそのかしてはいけません。

 実には(衆生は空であるから

   阿耨多羅三藐三菩提心を

     発す者も無く、

     退転する者も無いのです。

彌勒當令此諸天子捨於分別菩提之見

弥勒、まさにこの諸の天子をして、菩提を分別するの見を捨てしむべし。

 弥勒、この諸の天子には、

   菩提(阿耨多羅三藐三菩提、仏の境地)とは何かを

     知ろうとする気持ちを捨てさせなさい。

所以者何。菩提者。不可以身得。不可以心得

所以は何んとなれば、菩提とは、身を以って得べからず。心を以って得べからず。

 それはなぜか。

   菩提とは、

     身に着けることも、

     心で知ることもできないからです。

寂滅是菩提。滅諸相故

寂滅は、これ菩提なり、諸相を滅するが故に。

 寂滅(涅槃)、これが菩提です。

   あらゆる物事を五感で感じることを滅します。

不觀是菩提離諸緣故

不観は、これ菩提なり、諸縁を離るるが故に。

 観察しない、これが菩提です。

   あらゆる物事に因縁することが有りません。

不行是菩提無憶念故

不行は、これ菩提なり、憶念無きが故に。

 行わない、これが菩提です。

   憶えていることが有りません。

斷是菩提捨諸見故

断は、これ菩提なり、諸見(諸邪見)を捨つるが故に。

 断つこと、これが菩提です。

   諸の邪見を捨てられます。

離是菩提離諸妄想故

離は、これ菩提なり、諸の妄想を離るるが故に。

 離れること、これが菩提です。

   諸の妄想から離れられます。

障是菩提障諸願故

障は、これ菩提なり、諸願を障うるが故に。(菩提は願欲を以って求むべからず

 障(さえ)ぎること、これが菩提です。

   諸の願いを障ぎれます(真の道は無欲)。

不入是菩提無貪著故

不入(にゅう、受、五感、心に侵入する)は、これ菩提なり、貪著なきが故に。

 五感を受けないこと、これが菩提です。

   欲望を無くせます。

順是菩提順於如故

順は、これ菩提なり、如に順ずるが故に。

 柔順なこと、これが菩提です。

   真如に順ずることができます。

住是菩提住法性故

住は、これ菩提なり、法性(物事の本性、真如、涅槃)に住するが故に。

 住まること、これが菩提です。

   本性に住することができます。

至是菩提至實際故

至は、これ菩提なり、実際(真如の実体、涅槃、彼岸)に至るが故に。

 至ること、これが菩提です。

   彼岸に至ることができます。

不二是菩提離意法故

不二は、これ菩提なり、意(心意)法(外界の事物)を離るるが故に。

 不二(ふに、二つならざること)は、菩提です。

   意()と法(心の対象)を区別することから離れられます。

等是菩提等虛空故

等(平等)は、これ菩提なり、虚空と等しきが故に。

 等しく見ること、これが菩提です。

   虚空と等しく見ることができます。

無為是菩提無生住滅故

無為は、これ菩提なり、生住滅なきが故に。

 無為(むい、因縁に依らないこと)は菩提です。

   生ずること、住すること、滅することが有りません。

知是菩提了眾生心行故

知は、これ菩提なり、衆生の心行を了(了知)するが故に。

 知ること、これが菩提です。

   衆生の心の働きを知ることができます。

不會是菩提諸入不會故

不会(ふえ、会は集まる)は、これ菩提なり、諸入(六根六境)の会(あつ)まらざるが故に。(内外共に空なるをいう

 集まらないこと、これが菩提です。

   眼耳鼻舌身意と色声香味触法が集まりません(心が動かない)。

不合是菩提離煩惱習故

不合は、これ菩提なり、煩悩の習(しゅう、染み付いた習性)を離るるが故に(諸煩悩相い合して煩悩の習をなす)。

 合わないこと、これが菩提です。

   煩悩の染み著いた習性は諸の煩悩が合うことによるからです。

無處是菩提無形色故

無処は、これ菩提なり、形色なきが故に。(これを置くべき処なし

 場所の無いこと、これが菩提です。

   場所が無ければ形も色も無くなります。

假名是菩提名字空故

仮名は、これ菩提なり、名字は空なるが故に。

 仮りの名、これが菩提です。

   名前は空を表します。

如化是菩提無取捨故

如化は、これ菩提なり、取捨なきが故に。

 化の如きもの、これが菩提です。

   取る(盗む)ことも捨てる(施す)ことも有りません。

無亂是菩提常自靜故

無乱は、これ菩提なり、常に自ら静かなるが故に。

 乱れない、これが菩提です。

   常に心が平静です。

善寂是菩提性清淨故

善寂は、これ菩提なり、性清浄なるが故に。

 善く寂(しず)かなること、これが菩提です。

   本性が清浄です。

無取是菩提離攀緣故

無取(しゅ、執著)は、これ菩提なり、攀縁(はんえん、心が外界の事物に捉えられるコト)を離るるが故に。

 執著しないこと、これが菩提です。

   心が物事に囚われません。

無異是菩提諸法等故

無異(い、区別するコト)は、これ菩提なり、諸法は等しきが故に。

 区別しないこと、これが菩提です。

   あらゆる物事を等しく見ることができます。

無比是菩提無可

無比は、これ菩提なり、喩うべきもの無きが故に。

 比べないこと、これが菩提です。

   菩提には喩えるものが有りません。

微妙是菩提諸法難知故

微妙は、これ菩提なり、諸法は知り難きが故に。』と。

 微妙なこと、これが菩提です。

   あらゆる物事を智慧で知ることはできません。』と。

世尊。維摩詰說是法時。二百天子得無生法忍。故我不任詣彼問疾

世尊、維摩詰、この法を説きし時、二百の天子、無生法忍を得たり。故に我は、彼れに詣りて、疾を問うに任(た)えず。』と。

 世尊、維摩詰がこの法を説いた時、

   二百の天子たちが無生法忍(むしょうほうにん、真実の智慧を得ること)を得ました。

 このようなことが有りましたので、私は見舞いすることに堪えられないのです。』と。

 

 

 

 

光厳童子

佛告光嚴童子。汝行詣維摩詰問疾

仏、光厳童子(こうごんどうじ)に告げたまわく、『汝、行きて維摩詰に詣り、疾を問え。』

 仏は、光厳童子(こうごんどうじ)に仰います、『お前、維摩詰を見舞って来なさい。』と。

 

  光厳童子(こうごんどうじ):菩薩の修行にあこがれる若者。

光嚴白佛言。世尊。我不堪任詣彼問疾。所以者何。憶念我昔出毘耶離大城

光厳、仏に白して言さく、『世尊、我は、彼れに詣りて、疾を問うに堪任せず。所以は何んとなれば、憶念するに、我、昔、毘耶離大城を出でんとしき。

 光厳童子は仏に申します、

『世尊、私には出来かねます。何うしてかと申しますと、今でも思い出します。

 私は、昔毘耶離大城(びやりだいじょう)を出ようとしていました。

時維摩詰方入城。我即為作禮而問言。居士從何所來。答我言。吾從道場來。我問道場者何所是

時に、維摩詰、まさに城に入らんとす。我は、すなわち為に礼を作し、問うて言わく、『居士(こじ、資産家であって仏道を志す者)、何れの所より来る。』と、我に答えて言わく、『吾は、道場より来たれり。』と、我問わく、『道場とは、何れの所か、これなる。』と。

 そこへ維摩詰が城に入ろうとして通りかかりますので、私は、礼をして言いました、

『居士(こじ、有力信者)、何処からいらっしゃいました』。

 これに答えます、

『私は、道場から来ました。』

 私は、更に問います、

『道場とは、何処の道場のことで。』と。

答曰。直心是道場無虛假故

答えて曰く、『直心(じきしん、真直ぐなる心)は、これ道場なり、虚仮(こけ、イツワリ)なきが故に。

 答えはこうでした、

『直心(じきしん、真直ぐな心)は、これが道場です。

   偽りがありません。

發行是道場能辦事故

発行(ほつぎょう、事を発す)は、これ道場なり、よく事を辨(べん、処理する)ずるが故に。

 発行(ほつぎょう、始めること)は、これが道場です。

   事を処理できます。

深心是道場增益功德故

深心は、これ道場なり、功徳を増益するが故に。

 深心(じんしん、深く信ずる心)は、これが道場です。

   力を増します。

菩提心是道場無錯謬故

菩提心は、これ道場なり、錯謬(さくみょう、ゴカイ)なきが故に。

 菩提心(ぼだいしん、理想の世界を志す心)は、これが道場です。

   (当然のことで)誤解が有りません。

布施是道場不望報故

布施は、これ道場なり、報(報酬)を望まざるが故に。

 布施は、これが道場です。

   報酬を望みません(仏道に果報無し)。

持戒是道場得願具故

持戒は、これ道場なり、(一切衆生の)願の具わるを得るが故に。

 持戒は、これが道場です。

   (害せられないことは)一切の衆生の願いです。

忍辱是道場於諸眾生心無礙故

忍辱は、これ道場なり、諸の衆生に於いて、心に礙(さわ)り無きが故に。

 忍辱は、これが道場です。

   諸の衆生に対して、心が自由になります。

   (衆生のすることに腹を立てなければ、心に憎愛無く、自由を得る

精進是道場不懈退故

精進は、これ道場なり、懈退(けたい、ナマケシリゾク)せざるが故に。

 精進は、これが道場です。

   (仏道)を怠けたり、退いたりしません(即ち大利益を得る)。

禪定是道場心調柔故

禅定は、これ道場なり、心、調柔(ちょうにゅう)なるが故に。

 禅定は、これが道場です。

   心が柔らかくなります。

智慧是道場現見諸法故

智慧は、これ道場なり、諸法を現見(げんけん)するが故に。

 智慧は、これが道場です。

   あらゆる物事の

     総相(無我無常など総じて見られる相)と

     別相(地相、水相など個別に見られる相)を知ることができます。

慈是道場等眾生故

慈(衆生に楽を与うる)は、これ道場なり、衆生を等しくするが故に。

 慈(じ、他に楽を与える)は、これが道場です。

   衆生を平等に見られます。

悲是道場忍疲苦故

悲(衆生の苦を抜く)は、これ道場なり、疲苦を忍ぶが故に。

 悲(ひ、他の苦を抜く)は、これが道場です。

   疲労と苦痛を忍べます。

喜是道場悅樂法故

喜(衆生と共に喜ぶ)は、これ道場なり、法を悦楽するが故に。

 喜(き、他の喜びを喜ぶ)は、これが道場です。

   正法(大乗)を楽しめます。

捨是道場憎愛斷故

捨(是非、善悪、法非法、一切を捨つる)は、これ道場なり、憎愛断ずるが故に。

 捨(しゃ、一切を平等に見る)は、これが道場です。

   憎愛を断じることができます。

神通是道場成就六通故

神通は、これ道場なり、六通を成就するが故に。

 神通力は、これが道場です。

   六種の神通力(天眼、天耳、他心、宿命、神足、漏尽)を持てます。

解脫是道場能背捨故

解脱は、これ道場なり、よく背捨(はいしゃ、欲を背捨して菩提分(ぼだいぶん、三十七道品)に従う)するが故に。

 解脱(げだつ、束縛を解く)は、これが道場です。

   欲を捨てて菩薩の修行ができます。

方便是道場教化眾生故

方便は、これ道場なり、衆生を教化するが故に。

 方便(衆生教化のあらゆる手段)は、これが道場です。

   衆生を導けます。

四攝是道場攝眾生故

四摂(ししょう、布施、愛語、利行、同事)は、これ道場なり、衆生を摂するが故に。

 布施、

 愛語(優しい言葉)、

 利行(人に役立つ)、

 同事(同じ立場に立つ)、この四つは道場です。

   衆生を取り込めます。

多聞是道場如聞行故

多聞は、これ道場なり、聞くが如く行ずるが故に。

 多く聞く、これが道場です。

   聞いたことを行うことができます。

伏心是道場正觀諸法故

伏心(ふくしん、心を制する)は、これ道場なり、正しく諸法を観ずるが故に。

 心を制する、これが道場です。

   あらゆる物事を正しく観察できます。

三十七品是道場捨有為法故

三十七品(菩薩の修行項目)は、これ道場なり、有為法(一般的な物事)を捨つるが故に。

 菩薩の修行は、これが道場です。

   因縁によって作られた、あらゆる物事を捨てられます。

諦是道場不誑世間故

諦(たい、四諦)は、これ道場なり、世間を誑(たぶら)かさざるが故に。

 四諦(したい、

   世間は苦である。

   苦の原因は執著()である。

   執著を除けば苦もなくなる。

   執著を除くには八正道(はっしょうどう、

     正しい見解。

     正しい思考法。

     正しい言葉。

     正しい行い。

     正しい生活。

     正しい精進。

     正しい思い。

     正しい禅定。)による。)は、これが道場です。

   世間を誑かしません。

緣起是道場無明乃至老死皆無盡故

縁起(十二縁起)は、これ道場なり、無明ないし老死は皆尽くること無きが故に。

 十二縁起(じゅうにえんぎ、

   無明(むみょう、生まれる以前の智慧)、

   行(ぎょう、原始的な行動)、

   識(しき、原始的な心作用)、

   名色(みょうしき、識別)、

   六処(ろくしょ、眼耳鼻舌身意)、

   触(そく、感覚)、

   受(じゅ、感知)、

   愛(あい、渇愛)、

   取(しゅ、執著)、

   有(う、存在)、

   生(しょう、)、

   老死(ろうし、)は、これが道場です。

   無明から老死に至る過程は尽きることが有りません。

諸煩惱是道場知如實故

諸の煩悩は、これ道場なり、(これによりて遂に)如実を知るが故に。

 諸の煩悩は、これが道場です。

   この煩悩が有ることによって、

     真実を知ることができます。

眾生是道場知無我故

衆生は、これ道場なり、(衆生を観て遂に)無我を知るが故に。

 衆生は、これが道場です。衆生を観察して、無我を知ることができます。

一切法是道場知諸法空故

一切の法(あるあゆる事物)は、これ道場なり、諸法の空を知るが故に。

 一切の物事は、これが道場です。

   あらゆる物事は空であると知ることができます。

降魔是道場不傾動故

降魔(ごうま)は、これ道場なり、(心が)傾動(きょうどう)せざるが故に。

 魔(ま、欲望、身心の苦痛、寿命の短いこと、災難)は、これが道場です。

   心が揺れ動くことが無くなります。

三界是道場無所趣故

三界(世間、六道)は、これ道場なり、趣く所なきが故に。

 三界(さんがい、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六道)は、これが道場です。

   六道に差別の無いことが分かります(一切は無差別にて平等なること)。

師子吼是道場無所畏故

師子吼(ししく、仏の説法の大音声なる)は、これ道場なり、畏るる所なきが故に。

 師子吼(ししく、大音声の説法)は、これが道場です。

   畏れることが無くなります。

力無畏不共法是道場無諸過故

力(十力)無畏(四無所畏)不共法(十八不共法)は、これ道場なり、諸の過ちなきが故に。(総て仏の力をいう

 十力(じゅうりき、仏の智力)、

 四無所畏(しむしょい、法を説いて畏れ無し、仏の説法に対する自信)、

 十八不共法(じゅうはちふぐうほう、仏のみが持つ力)は、これが道場です。

   諸の過ちを犯すことが有りません。

三明是道場無餘礙故

三明(さんみょう、宿住智、死生智、漏尽智)は、これ道場なり、余の礙なきが故に。

 三明(さんみょう、

   衆生の過去の因縁を知る。

   衆生の死と、何処に生れるかを知る。

   煩悩を尽くして愛憎せず。)は、これが道場です。

   衆生を導くことが、自由になります。

一念知一切法是道場成就一切智故

一念(一瞬の間)に一切の法を知る、これ道場なり、一切智(総てを知る智慧)を成就するが故に。

 一切の物事を一瞬の間に知る、これが道場です。

   一切智(一切を知る智慧)を得ることができます。

如是善男子。菩薩若應諸波羅蜜教化眾生。諸有所作舉足下足。當知皆從道場來住於佛法矣

かくの如く、善男子(ぜんなんし、仏の在家出家の男に対するヨビカケ)、菩薩は、もし諸の波羅蜜(はらみつ、菩薩の理想的な生活)に応じて、衆生を教化すれば、諸の、あらゆる作す所の挙足下足(こそくげそく、挙措動作)は、まさに知るべし、道場より来たりて仏法に住することを。』と。

 このように、善男子(ぜんなんし、オマエサン)、菩薩が、もし

   六波羅蜜(ろくはらみつ、

     布施波羅蜜(与える)、

     持戒波羅蜜(取らない)、

     忍辱波羅蜜(取られても怒らない)、

     精進波羅蜜(怠けない)、

     禅定波羅蜜(心が平静)、

     智慧波羅蜜(衆生を導く無量の手段を生む)を行いながら、

   衆生を教え導くならば、

     何のような行いも、

       全てが道場であり、

       それが仏法なのです。これをよく知りなさい』と。

說是法時五百天人皆發阿耨多羅三藐三菩提心。故我不任詣彼問疾

この法を説きし時、五百の天人は、皆阿耨多羅三藐三菩提心を発しき。故に我は、彼れに詣りて、疾を問うに任えず。』と。

 この法を説いた時、五百の天人が、皆、阿耨多羅三藐三菩提心を発しました。

 このようなことが有りましたので、私は見舞いすることに堪えられないのです。』と。

 

 

 

 

持世菩薩

佛告持世菩薩。汝行詣維摩詰問疾

仏、持世菩薩(じせぼさつ)に告げたまわく、『汝、行きて維摩詰に詣り、疾を問え。』

 仏は、持世菩薩(じせぼさつ)に仰います、『お前、維摩詰を見舞って来なさい。』と。

持世白佛言。世尊。我不堪任詣彼問疾。所以者何。憶念我昔住於靜室

持世、仏に白して言さく、『世尊、我は、彼れに詣りて、疾を問うに堪任せず。所以は何んとなれば、憶念するに、我は、昔、静室に住せり。

 持世菩薩は仏に申します、

『世尊、私には出来かねます。何うしてかと申しますと、今でも思い出します。

 私は、昔静かな室に坐っていました。

時。魔波旬從萬二千天女。狀如帝釋鼓樂絃歌來詣我所。與其眷屬稽首我足。合掌恭敬於一面立

時に、魔波旬(はじゅん、天魔の別名)、万二千の天女を従え、状(かたち)、帝釈(たいしゃく、帝釈天)の如く、鼓楽絃歌(くがくげんか、音楽)しながら、我が所に来詣し、その眷属とともに、我が足を稽首(けいしゅ、礼拝)し、合掌恭敬(くぎょう)して、一面に於いて立てり。

 そこへ魔王波旬(はじゅん、魔王の名)が

   帝釈天に姿を偽り、

     一万二千の天女を従えて

     唱歌管絃を伴いながら、

   私の所に来たのです。

 そして眷属と共に慇懃に頭を垂れ

   私の足に礼をして、合掌して恭しく敬いながら室の一面に立ちました。

 

  魔波旬(まはじゅん):波旬には殺者の意味がある。法身の命である所の智慧(慧命という)を断つ、即ち修行を中断させる。

 また悪中悪ともいう。悪には三種有る。一は悪、他から悪を加えられて、悪を以って報いる。二は大悪、他から悪を加えられないのに、自ら悪を加える。三は悪中悪、他から親切を受け、それに対して悪を以って報いる。

我意謂是帝釋。而語之言。善來憍尸迦。雖福應有不當自恣。當觀五欲無常以求善本。於身命財而修堅法

我、意(こころ)に、『これ帝釈なり』と謂(おも)いて、これに語りて言わく、『善く来たれり、憍尸迦(きょうしか、帝釈の姓)、福応(ふくおう、福の応報)ありといえども、まさに自ら恣(ほしいまま)にすべからず。まさに五欲(色声香味触)の無常なることを観じて、以って善本(ヨキオコナイ、菩提の根本)を求め、身命財に於いて、堅法(けんぽう、カタキコト)を修行すべし。(柔き身命財を投げ捨て、無尽無窮の身命財を得べし)』と。

 私は、これを帝釈だと思い、疑わずに言葉を掛けました、

『善くいらっしゃいました、憍尸迦(きょうしか、帝釈の姓)、

   過去の応報の福を受け、

     良いご身分でいらっしゃいますが、

     放逸になさってはいけませんよ。

 色声香味触の楽しみは

   無常であることを悟り、

   良い行いをなさらなければなりません。

 身体、命、財産などの頼みにならない物は投げ捨てても、

   常住の法身を得るように修行なさって下さい。』と。

即語我言。正士。受是萬二千天女可備掃灑

すなわち、我に語りて言わく、『正士(しょうじ、菩薩に向かい敬って言う)、この万二千の天女を受けよ。掃灑(そうれい、水を撒いて掃く)に備うべし。』

 彼は答えて言いました、

『大菩薩さま、どうかこの一万二千の天女をお受け取りくださいまして、掃除洗濯、何にでもお使いください。』

我言。憍尸迦。無以此非法之物要我沙門釋子此非我宜

我言わく、『憍尸迦、この非法の物を以って、我が沙門(しゃもん、出家)釈子(しゃくし、釈迦の弟子)に要(もと)むることなかれ。これ我の宜しきに非ず。』

 私は言いました、

『憍尸迦、

   これは戒律に反します。

   これを我々、出家の仏弟子に押し付けないでください。これは困ります。』と。

所言未訖時維摩詰來謂我言。非帝釋也。是為魔來嬈固汝耳。即語魔言。是諸女等可以與我。如我應受

言う所、未だ訖(おわ)らざる時、維摩詰来たりて、我に謂って言わく、『帝釈には非ざるなり。これ魔が来たりて、汝を嬈固(にょうこ、モテアソブ)すと為すのみ。』、(維摩詰)すなわち魔に語りて言わく、『この諸女等、以って我に与うべし。我が如き、まさに受くべし。』

 まだ言い終らない中に、維摩詰が通りかかって、私に言いました、

『これ、帝釈ではありませんぞ。魔が来て、あなたをもて遊んでいるのですよ。』と、

 そして魔に言いました、

『この天女たちは、

   私が貰いましょう。

   私が受けるのならば

     別に問題ありません』と。

魔即驚懼念。維摩詰將無惱我。欲隱形去而不能隱。盡其神力亦不得去

魔、すなわち驚懼して念(おも)えらく、『維摩詰は、はた我を悩ますことなからんや。』と、形を隠して去らんと欲すれども、隠すこと能わず。その神力を尽くせども、また去るを得ず。

 魔は驚いて、心の中で、

『維摩詰は、どうも私を悩ませそうだぞ。』と思い、

   身を隠して逃げようとしましたが、

   隠れることができません。

   神通力の限りを尽くしても、

     なお逃げられないのです。

即聞空中聲曰。波旬。以女與之乃可得去。魔以畏故俛仰而與

すなわち空中に声を聞く、曰く、『波旬、女を以って、これに与えれば、すなわち去ることを得べし。』と。魔、畏れを以っての故に、俛仰(めんぎょう、ウツムクとアオグ)して、与えぬ。

 その時、空中に声がしました、

『波旬、女を与えよ。そうすれば逃げることができるぞ』と。

 魔は、

   恐怖を感じて、

   首でいやいやをしながら与えました。

爾時維摩詰語諸女言。魔以汝等與我。今汝皆當發阿耨多羅三藐三菩提心。即隨所應而為說法令發道意

その時、維摩詰、諸女に語りて言わく、『魔は、汝等を以って、我に与う。今、汝らは、皆まさに阿耨多羅三藐三菩提心を発すべし。』と。すなわち、応ずる所に随いて(人に応じてフサワシク)、為に法を説き、道意を発さしむ。

 その時、維摩詰は、諸の天女に語って言いました、

『魔は、お前たちを、私に与えた。

 今、お前たちは、

   阿耨多羅三藐三菩提心(仏に成ろうとする心)を発しなさい。』と、

 天女たちに

   相応しい法を説き、

   仏道に心を向けさせました。

復言。汝等已發道意。有法樂可以自娛。不應復樂五欲樂也

また言わく、『汝等は、すでに道意を発せり。法楽あり、以って自ら娯(たの)しむべし。まさに、また五欲(色声香味触)の楽しみを楽むべからず。』と。

 またこうも言いました、

『お前たちは、すでに

   仏道に心を向けた。

   仏法は楽しいものである、

   お前たちも楽しみなさい。

 再び

   五感で得るものを

     楽しんではならない。』と。

天女即問。何謂法樂

天女、すなわち問う、『何をか法楽と謂う。』

 天女が問いました、

『何を仏法の楽しみと申すのでございましょうか。』

答言。樂常信佛

答えて言わく、『常に仏を信ずることを楽しみ、

 答えます、

『常に

   仏を

     信ずることを、

   楽しむのだ。

樂欲聽法

法を聞かんと欲することを楽しみ、

 仏法を

   聞こうとすることを、

   楽しむのだ。

樂供養眾

衆を供養することを楽しみ、

 比丘たちを

   供養することを、

   楽しむのだ。

樂離五欲

五欲を離るることを楽しみ、

 五感の欲を

   離れることを

   楽しむのだ。

樂觀五陰如怨賊

五陰(ごおん、色受想行識、人の身心)は怨賊(おんぞく)の如しと観ずることを楽しみ、

 人の身心は、

   敵か盗賊のようなものだと

   観察することを

     楽しむのだ。

樂觀四大如毒蛇

四大(しだい、地大水大火大風大、物質の構成要素)は毒蛇の如しと観ずることを楽しみ、

 身心を作る四つの要素、

   地大、水大、火大、風大は

   毒蛇のようなものだと

   観察することを

     楽しむのだ。

樂觀內入如空聚

内入(ないにゅう、眼耳鼻舌身意)は、空聚(くうじゅ、空村)の如しを観ずることを楽しみ、

 眼耳鼻舌身意は、

   空村(無人村)のようなものだと

   観察することを

     楽しむのだ。

樂隨護道意

道意に随って護ることを楽しみ、

 正しい生活をしたいと

   思う心を

   護ることを

     楽しむのだ。

樂饒益眾生

衆生を饒益(にょうやく、利益)することを楽しみ、

 衆生に

   利益を与えることを

   楽しむのだ。

樂敬養師

師を敬い養うことを楽しみ、

 師を

   敬い養うことを

   楽しむのだ。

樂廣行施

広く施(布施)を行ずることを楽しみ、

 広く

   布施を行うことを

   楽しむのだ。

樂堅持戒

戒を堅持することを楽しみ、

 堅く

   戒を持(たも)つことを

   楽しむのだ。

樂忍辱柔和

忍辱柔和なることを楽しみ、

 忍耐を養い

   柔和な心でいることを

   楽しむのだ。

樂勤集善根

勤めて善根を集むることを楽しみ、

 一時も怠らず

   善い行いをすることを

   楽しむのだ。

樂禪定不亂

禅定の乱れざることを楽しみ、

 何が起きても

   心が平静であることを

   楽しむのだ。

樂離垢明慧

離垢(りく、煩悩を離る)の明慧(みょうえ、平等の境地に立つ清浄の慧)を楽しみ、

 煩悩を離れ、

   自他の平等を知る

   清浄なる智慧を

     楽しむのだ。

樂廣菩提心

菩提心を広むることを楽しみ、

 仏法を

   広めることを

   楽しむのだ。

樂降伏眾魔

衆魔を降伏することを楽しみ、

 欲望、身体の苦痛、死、災難等の

   数々の魔に

   打ち勝つことを

     楽しむのだ。

樂斷諸煩惱

諸の煩悩を断ずることを楽しみ、

 諸の煩悩を

   断つことを

   楽しむのだ。

樂淨佛國土

仏国土を浄むることを楽しみ、(菩提心を以って国土を飾る

 国土を

   平等心を持つ衆生で

   飾り浄めることを

     楽しむのだ。

樂成就相好故修諸功德

相好(そうごう、仏の容貌)を成就せんが故に、諸功徳を修むることを楽しみ、

 仏の容貌を持ちたいが為に、

   諸の修行をすることを

   楽しむのだ。

樂嚴道場

道場を厳(かざ)ることを楽しみ、

 自らの修行の成果により

   道場を厳(かざ)ることを(衆生を飾る

   楽しむのだ。

樂聞深法不畏

深法を聞きて畏れざることを楽しみ、(真実を知ることを畏れない

 真実を知っても

   畏れないことを

   楽しむのだ。

樂三脫門不樂非時

三脱門(さんだつもん、三解脱門、空、無相、無作、自ら空なることを体得するコト)を楽しみ、非時(ひじ、三脱門に入れども、その極みを尽くさずして、中路にて証を取る、サトッタトスル)を楽しまず、

 我は空であり、

 我が身心は無く、

 我が作すことも無いと

   体得することを

   楽しみ、

 途中にて

   修行を中断することを

   楽しまない。

樂近同學

同学に近づくことを楽しみ、

 同じく修行する仲間に

   近づくことを

   楽しむのだ。

樂於非同學中心無恚礙

同学ならざる中に於いて、心に罣礙(けげ、サワリ)なきことを楽しみ、

 仲間でない者の中に在っても、

   心が自由であることを

   楽しむのだ。

樂將護惡知識

悪知識(あくちしき、悪しき朋)を将護(しょうご、護り養う)することを楽しみ、(悪友を善導する楽しみ

 悪見の者を

   (悪見から)護り導くことを

   楽しむのだ。

樂親近善知識

善知識(ぜんちしき、善き朋)に親近(しんごん)することを楽しみ、

 正しく導いてくれる者に

   近づき親しむことを

   楽しむのだ。

樂心喜清淨

心に清浄を喜ぶことを楽しみ、

 心が喜んで

   平等であり

   清浄であることを

     楽しむのだ。

樂修無量道品之法。是為菩薩法樂

無量の道品(どうほん、菩薩の修行)の法を修むることを楽しむ、これ菩薩の法楽と為す。

 無量の菩薩の修行を修めることを楽しむのだ。

   これを仏法の楽しみという』と。

於是波旬告諸女言。我欲與汝俱還天宮

ここに於いて、波旬、諸女に告げて言わく、『我は、汝と倶に、天宮に還らんと欲す。』

 その時、波旬が諸の天女に言いました、

『もう一緒に天宮へ還ろう。』と。

諸女言。以我等與此居士。有法樂我等甚樂。不復樂五欲樂也

諸女言わく、『我等を以って、この居士に与えぬ。法楽あり、我等、甚だ楽しく、また五欲の楽しみを楽しまざるなり。』

 諸の天女が言いました、

『私たちを、この居士にお与え遊ばしたのではございませんこと?

   仏法の楽しみを知り、

   私たちはそれを楽しんでおりますもの。

 もう以前のように

   見る物、

   聞く物を

     楽しむわけにはまいりませんわ。』

魔言。居士可捨此女。一切所有施於彼者。是為菩薩

魔言わく、『居士、この女を捨つべし。一切の所有を、彼れに施す者、これを菩薩と為す。』と。

 魔が言います、

『居士、この天女を返してくれ。一切の所有を人に施す、これが菩薩だろう。』

維摩詰言。我已捨矣。汝便將去。令一切眾生得法願具足

維摩詰言わく、『我は、すでに捨てぬ。汝は、すなわち将(ひき)いて去れ。一切の衆生をして、法と願い具足することを得しめん。』と。

 維摩詰が言います、

『よし与えよう。

   お前は、直ぐに連れて帰れ。

   一切の衆生に、

     仏法と

     願いの物を

       与え満足させるのが

       私の役目だ。』と。

於是諸女問維摩詰。我等云何止於魔宮

ここに於いて、諸女は、維摩詰に問わく、『我等は、云何が魔宮に於いて止まらん。』

 それを聞いて諸の天女は、維摩詰に言いました、

『私たちは、これ以上、魔宮には止まれませんわ、何ういたせばよろしいのでございましょう?』

維摩詰言。諸姊有法門名無盡燈。汝等當學。無盡燈者。譬如一燈燃百千燈。冥者皆明。明終不盡

維摩詰言わく、『諸姉(しょし、ミナサン、姉は女人に対する丁寧な呼びかけ)、法門あり、無尽灯と名づく。汝等は、まさに学ぶべし。無尽灯とは、譬えば、一灯もて百千灯を燃やせば、冥(くら)き者は皆明らかにして、明(光明)はついに尽きざるが如し。

 維摩詰は言います、

『皆さん、無尽灯(むじんとう)と名づける

   法門(仏法の門)が有ります。皆さんは、

   学んで下さい。無尽灯とは、

 譬えば、

   一の灯にて、

   百千の灯を燃やせば、

     真っ暗闇であろうと、

     真昼のように明るくなり、

   明かりが尽きることは有りません。

如是諸姊。夫一菩薩開導百千眾生。令發阿耨多羅三藐三菩提心。於其道意亦不滅盡。隨所說法而自增益一切善法。是名無盡燈也

かくの如く、諸姉、それ、一の菩薩、百千の衆生を開導して、阿耨多羅三藐三菩提心を発さしむれば、その道(過程)に於いて、意(阿耨多羅三藐三菩提心)もまた滅尽せず。所説の法に随って、自ら一切の善法を増益す。これを無尽灯と名づくるなり。

 こういうことです、皆さん、

   一人の菩薩が

     百千の衆生を

       目覚めさせて導き、ついには

       阿耨多羅三藐三菩提心を発させるのです。

 こうすれば、

   その修行の志は

     滅して尽きることが無く、

     法に説くがままに、自然と

     一切の善い行いが

       増益して行きます。

   これが無尽灯です。

汝等雖住魔宮。以是無盡燈。令無數天子天女發阿耨多羅三藐三菩提心者。為報佛恩。亦大饒益一切眾生

汝等は、魔宮に住むといえども、この無尽灯を以って、無数の天子、天女をして、阿耨多羅三藐三菩提心を発さしめば、仏恩に報じ、また一切の衆生に大饒益すと為す。』と。

 皆さんは、

   魔宮に住まっていても、

   この無尽灯が有れば、

     無数の天子天女が

       阿耨多羅三藐三菩提心を発し、

       仏の恩に報いて、

     一切の衆生に、大いに

       利益するでしょう。』と。

爾時天女。頭面禮維摩詰足。隨魔還宮忽然不現

その時、天女は、維摩詰が足を、頭面(づめん)に礼して、魔に随うて、宮に還り、忽然(こつねん、フッと)現れざりき。

 それを聞いて、天女たちは、頭を垂れて維摩詰の足に礼をし、

 魔と一緒に宮に還り、フッと見えなくなってしまいました。

世尊。維摩詰有如是自在神力智慧辯才。故我不任詣彼問疾

世尊、維摩詰は、かくの如きの自在の神力と智慧と辯才あり。故に我は、彼れに詣りて、疾を問うに任えず。』と。

 世尊、維摩詰は、このような自在の神通力と智慧と辯才とが有ります。

 このようなことが有りましたので、私は見舞いすることに堪えられないのです。』と。

 

 

 

 

長者子善徳

佛告長者子善德。汝行詣維摩詰問疾

仏、長者子善徳(ちょうじゃしぜんとく)に告げたまわく、『汝、行きて維摩詰に詣り、疾を問え』

 仏は、長者子善徳(ちょうじゃしぜんとく)に仰います、『お前、維摩詰を見舞って来なさい。』と。

善德白佛言。世尊我不堪任詣彼問疾。所以者何。憶念我昔自於父舍設大施會。供養一切沙門婆羅門及諸外道貧窮下賤孤獨乞人。期滿七日

善徳、仏に白して言さく、『世尊、我は、彼れに詣りて、疾を問うに堪任せず。所以は何んとなれば、憶念するに、我、昔、自ら父の舎(いえ)に於いて、大施会(だいせえ)を設けて、一切の沙門、婆羅門、および諸の外道、貧窮、下賤、孤独、乞人を供養し、期(ご、期間)は七日に満つ。

 長者子善徳は仏に申します、

『世尊、私には出来かねます。何うしてかと申しますと、今でも思い出します。

 私は、昔父の家に於いて、

   大施会(だいせえ、梵天を七日間祭って、大いに布施を行い、天に生ずることを期する)を設け、

   七日の間、一切の

     沙門(しゃもん、内外の出家)、婆羅門、および外道、貧窮、下賎、孤独、乞人を

     供養しました。

時維摩詰來入會中。謂我言。長者子。夫大施會不當如汝所設。當為法施之會。何用是財施會為

時に、維摩詰来たりて、会(え)中に入り、我に謂って言わく、『長者子、それ、施会は、まさに汝が設くる所の如くなるべからず。まさに法施の会を為すべし。何んすれぞ、この財施の会を用いる。』と。

 そこへ維摩詰が来て会(え)の中に入り、私に言いました、

『長者子、施会というものは、このようにしてはいけません。

   法施(ほうせ)の会を開きなさい。このように

   財物を施して何をしようというのですか。』と。

我言。居士。何謂法施之會

我言わく、『居士、何をか法施の会と謂う。』

 私は言いました、

『居士、法施の会とは何を仰っているのですか。』と。

答曰。法施會者。無前無後一時供養一切眾生。是名法施之會

答えて曰く、『法施の会とは、前なく後なく、一時に一切の衆生を供養する、これ法施の会と名づく。』

 答えました、

『法施の会とは、

   前後の順なく、

   一時に一切の衆生を供養することです。

 これが法施の会です。』

曰何謂也

曰く、『何の謂いぞや』

 『何を仰っているのです。』

謂以菩提起於慈心

『謂わく、菩提(阿耨多羅三藐三菩提)を以(おも)いて、慈心を起こし、

 『菩提(ぼだい、理想の世界の実現)の為に、

   慈心(楽を与える心)を起こさせます。

以救眾生。起大悲心

衆生を救うことを以(おも)いて、大悲心を起こし、

 衆生を救う為に、

   大悲心(苦を抜く心)を起こさせます。

以持正法起於喜心

正法を持することを以いて、喜心を起こし、

 大乗が栄える為に、

   喜心(他人の喜びを喜ぶ心)を起こさせます。

以攝智慧行於捨心

智慧を摂することを以いて、捨心を行じ、

 智慧が身に着くようにと、

   捨心(自他の区別を捨てる心)を修行することを起こさせます。

以攝慳貪起檀波羅蜜

慳貪(の者)を摂することを以いて、檀(だん、布施)波羅蜜を起こし、

 物惜しみする者を救う為に、

   檀波羅蜜(だんはらみつ、ためらい無く一切の所有を施す)を起こさせます。

以化犯戒起尸羅波羅蜜

戒を犯す()を化することを以いて、尸羅(しら、持戒)波羅蜜を起こし、

 戒を犯す者を救う為に、

   尸羅波羅蜜(しらはらみつ、ためらい無く持戒する)を起こさせます。

以無我法起羼提波羅蜜

無我法を以いて、羼提(せんだい、忍辱)波羅蜜を起こし、

 自他の区別の無いことを知る為に、

   羼提波羅蜜(せんだいはらみつ、ためらい無く一切を忍耐する)を起こさせます。

以離身心相起毘梨耶波羅蜜

身心の相を離るることを以いて、毘利耶(びりや、精進)波羅蜜を起こし、

 身心は無いと知る為に、

   毘利耶波羅蜜(びりやはらみつ、ためらい無く行って休まない)を起こさせます。

以菩提相起禪波羅蜜

菩提の相を以いて、禅(禅定)波羅蜜を起こし、

 理想の世界の相を想像する為に、

   禅波羅蜜(ぜんはらみつ、ためらい無く心を平静にする)を起こさせます。

以一切智起般若波羅蜜

一切智を以いて、般若波羅蜜を起こし、

 仏の智慧を得る為に、

   般若波羅蜜(はんにゃはらみつ、ためらい無く一切の方便を生み出す)を起こさせます。

教化眾生而起於空

衆生を教化すれども、空を起こし、(衆生を教化すれども、空に背かず

 衆生を教え導く為に、

   『しかし自他共に空である』とする心を起こさせます。

不捨有為法而起無相

有為法(ういほう、人の身心)を捨てずして、無相(見聞きするものナシ)を起こし、(人の姿かたちを取れども、実は空を観ず

 衆生を見捨てない為に、

   (自らの)身心が無いとする心を起こさせます。

示現受生而起無作

生を受くることを示現すれども、無作(むさ、ナニモセズ)を起こし、(生を受け生活すれども、実は空を観ず

 菩薩として生を受ける為に、

   作すことは無いとする心を起こさせます。

護持正法起方便力

正法を護持して、方便力を起こし、

 大乗を護り持(たも)つ為に、

   方便力を起こさせます。

以度眾生起四攝法

衆生を度せんことを以いて、四摂法(ししょうほう、布施愛語利行同事)を起こし、

 衆生を救う為に、

   布施(与える)、

   愛語(優しい言葉)、

   利行(人に役立つ)、

   同事(同じ立場に立つ)を起こさせます。

以敬事一切起除慢法

一切に敬い事(つか)うることを以いて、慢法を除くことを起こし、

 一切の衆生に敬い仕える為に、

   高慢を除くことを起こさせます。

於身命財起三堅法

身命財に於いて、三堅の法を起こし、

 柔らかい身命財を堅くする為に、

   身命を忘れ、

   財を捨てることを起こさせます。

於六念中。起思念法

六念(ろくねん、念佛、念法、念僧、念天、念戒、念施)の中に於いて、(正しき)思念の法を起こし、

 仏を念じ、

 法を念じ、

 僧を念じ、

 戒を念じ、

 施を念じ、

 天を念ずる中に、正しく

   大乗を思念することを起こさせます。

 

  六念(ろくねん):修行者は常にこの六を念じなくてはならない。

   念佛:仏の大慈悲は、よく衆生の苦を抜くことができる。私も仏と同じくなろう。

   念法:仏の所説の法は、大功徳有って、衆生の為に大妙薬である。私もこれを了知して、衆生に施そう。

   念僧:仏の弟子は、煩悩が無く、戒定慧を具足して、世間の福田である。私も僧の行を修行しよう。

   念戒:仏の戒には衆生の悪を除く大勢力がある。私も精進して護持しよう。

   念施:布施は衆生の慳貪の病を除く。私も布施をして衆生を救おう。

   念天:天は良い仏法の守護者である。私の修行も天が護ってくれるように。

於六和敬起質直心

六和敬(ろくわぎょう、僧が互いに、身、口、意、見、戒、利に於いて敬い和順すること)に於いて、質直の心を起こし、

 互いに

   身業(他の行為)、

   口業(他の言葉)、

   意業(他の思い)、

   見解(他の見解)、

   持戒(他の持戒)、

   利益(他の利益)に、

     和(なご)み敬う為に、

 質朴正直の心を起こさせます。

正行善法起於淨命

正しく善法を行い、浄命(じょうみょう、浄き生活)を起こし、

 正しく行う為に、

   浄い生活を起こさせます。

心淨歡喜起近賢聖

心、浄く歓喜して、賢聖に近づくことを起こし、

 心(に彼我の区別なく)浄まり歓喜する為に、

   仏菩薩に近づくことを起こさせます。

不憎惡人起調伏心

悪人を憎まずして、調伏の心を起こし、

 悪人であっても憎まない為に、

   よく調えられた心を起こさせます。

以出家法起於深心

真の)出家の法を以いて、深心を起こし、

 出家する為に、

   深心(深く信ずる心)を起こさせます。

以如說行起於多聞

説(仏説)の如く行ぜんことを以いて、多聞を起こし、

 仏の所説のように行う為に、

   多く聞くことを起こさせます。

以無諍法起空閑處

無諍の法を以いて、空閑処(くうげんじょ、清閑処)を起こし、

 論争しない為に、

   静閑処に居ることを起こさせます。

趣向佛慧起於宴坐

仏の慧に趣向せんとて、宴坐(えんざ、座禅)を起こし、

 仏の智慧を得る為に、

   座禅を起こさせます。

解眾生縛起修行地

衆生の縛(ばく、煩悩に縛られていること)を解かんとて、修行地(地は拠り所)を起こし、

 衆生の煩悩を解く為に、

   修行の方法を起こさせます。

以具相好及淨佛土起福德業

相好を具し、および仏土を浄めんことを以いて、福徳の業を起こし、

 仏の相好(そうごう、身相容貌)を身に着け、

 仏土を浄める為に、

   善根(福報を得る善行)を起こさせます。

知一切眾生心念如應說法起於智業

一切の衆生の心念を知り、応ずるが如くに(適応する)法を説かんとて、智業を起こし、

 一切の衆生の心の中を知り、

   適切な法を説く為に、

   智慧を起こさせます。

知一切法不取不捨。入一相門起於慧業

一切の法は、取らず捨てざるを知り、一相の門に入らんとて、慧業を起こし、

 あらゆる物事には、

   執著しても

   棄捨してもならないと知り、

 あらゆる物事の持つ、ただ一つの

   真実の相()を知る為に、

   智慧を起こさせます。

斷一切煩惱一切障礙一切不善法起一切善業以得一切智慧一切善法。起於一切助佛道法

一切の煩悩、一切の障礙、一切の不善法を断ぜんとて、一切の善業を起こし、一切の智慧と一切の善法を得んことを以(おも)いて、一切の助仏道の法(諸種の修行法)を起こす。

 一切の煩悩と、

 一切の障害と、

 一切の不善の行いとを

   断つ為に、

   一切の善業を起こさせ、

 一切の智慧と

 一切の善い行いとを

   得る為に、

   一切の仏道修行の法を起こさせます。

如是善男子。是為法施之會

かくの如く、善男子、これを法施の会と為す。

 こういうことです。善男子、

   これが法施の会です。

若菩薩住是法施會者。為大施主。亦為一切世間福田

もし菩薩、この法施の会に住すれば、大施主と為し、また一切世間の福田(ふくでん、福の種を蒔く田、布施の対象)と為す。』と。

 もし菩薩が、

   この法施の会を常に開けば、

     大施主となり、また一切の

     世間の福田となります。』と。

世尊。維摩詰說是法時。婆羅門眾中二百人皆發阿耨多羅三藐三菩提心

世尊、維摩詰、この法を説きし時、婆羅門衆の中の二百人、皆阿耨多羅三藐三菩提心を発せり。

 世尊、維摩詰がこの法を説いた時、婆羅門衆の中の二百人が皆、

   阿耨多羅三藐三菩提心を発しました。

我時心得清淨歎未曾有。稽首禮維摩詰足。即解瓔珞價直百千。以上之。不肯取

我は、時に、心に清浄を得、未曽有を歎じ、稽首して維摩詰の足に礼して、すなわち瓔珞(ようらく、襟飾り)の価値(けじき、アタイ)百千()なるを解き、以ってこれに上(たてま)つらんとすれども、取ることを肯(がえん、承知)ぜず。

 私も、それを聞いて

   心が清浄になり、

   未曽有のこととして称嘆し、

   頭を垂れて維摩詰の足を礼し、

 瓔珞(ようらく、襟飾り)の百千の価のものを

   奉げましたが、

   取りません。

我言居士。願必納受隨意所與

我、居士に言わく、『願わくは、必ず納受して、与うる所を意のままにしたまえ。』と。

 私は言いました、

『居士、どうかお受けになり、後は何うでもお好きなようになさって下さい。』と。

維摩詰乃受瓔珞分作二分。持一分施此會中一最下乞人。持一分奉彼難勝如來

維摩詰、すなわち瓔珞を受け、分けて二分と作し、一分を持して、この会の中の、一(ひとり)の最下の乞人に施し、一分を持して、彼の難勝如来に奉る。

 維摩詰は、受けた瓔珞を二分して、

   一つをこの会に来ていた一番貧しい乞人に施し、もう

   一つは彼の難勝如来(なんしょうにょらい)に奉りました。

一切眾會皆見光明國土難勝如來。又見珠瓔在彼佛上變成四柱寶臺四面嚴飾不相障蔽

一切の衆会は皆、光明国土の難勝如来を見たてまつり、また珠瓔の彼の仏土上に在りて変じ、四柱の宝台と成り、四面を厳飾(ごんじき)して、相い障蔽(しょうへい)せざることを見る。

 この会の一切の衆は、皆

   光明国土の難勝如来を見、また

   真珠の瓔珞が、

     彼の仏の上で変じて

     四本の柱を持つ宝台となることも見ました。

 この宝台の四面は

   多くの宝で厳かに

   飾られていましたが、

 この宝が、互いに

   光を遮ることは有りません。

時維摩詰。現神變已作是言。若施主等心施一最下乞人。猶如如來福田之相無所分別。等于大悲不求果報。是則名曰具足法施

時に、維摩詰、神変を現じおわりて、この言(コトバ)を作さく、『もし施主、等心に、一の最下の乞人に施して、なお如来の福田の相の如きと、分別する所なく、大悲に於いて等しく、果報を求めざらば、これをば、すなわち名づけて、法施を具足すと曰う。』と。

 維摩詰はこの神通力による変化を現し終わると、こう言いました、

『もし施主が、

   一切の衆生を等しく見、

     最も貧しい乞人に施すことは、

     如来の福田に施すことと同じで、

 何等の差別も無いと、

   大悲を等しくして、

   果報を求めることが無ければ、

 これを法施を具足すると言う。』と。

城中一最下乞人。見是神力聞其所說。皆發阿耨多羅三藐三菩提心。故我不任詣彼問疾

城中の一の最下の乞人、この神力を見、その所説を聞いて、皆阿耨多羅三藐三菩提心を発しき。故に我は、彼れに詣りて、疾を問うに任えず。』と。

 城中の最も貧しい乞人は、

   この神通力を見、その所説を聞いて、

   阿耨多羅三藐三菩提心を発しました。

 このようなことが有りましたので、私は見舞いすることに堪えられないのです。』と。

如是諸菩薩各各向佛說其本緣。稱述維摩詰所言。皆曰不任詣彼問疾

 

維摩詰經卷上

かくの如く、諸の菩薩も、各々、仏に向かいて、その本縁(理由)を説き、維摩詰の言う所を称述して、皆『彼れに詣りて、疾を問うに任えず』と曰いき。

 

維摩詰経巻き上

 このように諸の菩薩も、各々仏に向かって、その因縁の有る所を説き、

 維摩詰の言葉を称えて述べながら、皆

『私は見舞いすることに堪えられません』と申しました。

 

維摩詰経 巻の上

 

 

 

 

 

 

 

 

著者に無断で複製を禁ず。

Copyright(c)200 AllRightsReserved