巻上之第一

 

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仏国品第一

菩薩を明かす

長者子宝積、偈を以って仏を讃嘆す

諸の菩薩の浄土の行を明かす

この土の清浄なることを明かす

方便品第二

維摩詰(ゆいまきつ)

維摩詰病む

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 維摩経は戯曲構成で、大部分が会話形式です。そのために話の流れに乗ることは、理解の上でかなり重要です。初めての方は、先に、現代語訳(背景色が白)の部分のみを読んでください。そうすれば話の流れに、うまく乗ることができ、いっそう理解しやすくなります。

 最後まで読みおわった後に、不審な点を、読み下し文なり、原文なりで確かめてください。味わいが、さらに増すことと思います。

 

 

 

 

 

維摩詰所說經(一名不可思議解脫上卷)

    姚秦三藏鳩摩羅什譯

 

維摩詰所説経(ゆいまきつしょせつきょう)上巻

 (一名不可思議解脱経(いちめいふかしぎげだつきょう))

  姚秦三蔵鳩摩羅什(ようしんさんぞうくまらじゅう)訳す

  維摩詰(ゆいまきつ):毘耶離国(びやりこく)の長者。俗人ながら仏と同等の智慧を持つ菩薩。

  鳩摩羅什(くまらじゅう):父は天竺の出家人、西域亀茲国に至り、国王の妹と婚し鳩摩羅什を生む。その頃母出家し道果を得る。羅什七歳にして母に随いて出家し遍く西域に遊び、その間群籍に通じる。その中に大乗の勝れたることを知る。その後亀茲国は秦の苻堅(ふけん)に攻められ、羅什も獲られ還俗せしめられて涼州に至る。後秦の姚興(ようこう)、涼州を伐つ。羅什始めて長安に入り姚興は国師の礼を以って之を礼す。これより已後長安の西明閣および逍遥園に入り、おもに大乗の経典を訳すこと三百六十余巻して長安において寂す。臨終に言わく「吾が伝える所に謬無し。則ち涅槃の後に、舌焦げ爛れざるべし。」と。これにより逍遥園に於いて火葬にしたところ唯舌のみが焼け残ったという。

 

仏国品第一

佛國品第一  

仏国品第一(ぶっこくぼんだいいち)

 菩薩と仏国土は清浄を明かす。

 

 

菩薩を明かす

如是我聞。一時佛在毘耶離菴羅樹園。與大比丘眾八千人俱

かくの如くを我聞きき。ある時、仏、毘耶離(びやり)菴羅樹園(あんらじゅおん)に在(まし)まして、大比丘衆八千人と倶(とも)なり。

 私(阿難(あなん、仏の十大弟子の一、仏の侍者))は、このように聞きました、――

 ある時、仏は、

   毘耶離国(びやりこく)の菴羅樹園(あんらじゅおん、マンゴー園)に、

   大比丘(びく、出家した男の仏弟子)の方たち八千人と共に、

     住(とどま)られていました。

 

  毘耶離国(びやりこく):毘舎離国(びしゃりこく)、中印度の国名。後に摩竭陀国(まがだこく)の阿闍世王(あじゃせおう)に併合された。釈迦が最後にした安居(あんご、比丘が雨季の間の三ヶ月間、仮に定住すること)の地。

菩薩三萬二千。眾所知識。大智本行皆悉成就。諸佛威神之所建立

菩薩も三万二千あり。衆に知識せられ、大智の本行(六波羅蜜等)、皆ことごとく成就せり。諸仏の威神(いじん、威神力)の建立(こんりゅう、擁立)する所なり。

 菩薩(ぼさつ、大乗の修行者)も三万二千人いらっしゃいまして、皆に信頼され、

   大慈悲にもとづく智慧(一切種智)と行動(六波羅蜜)が完全に身に備わっています。

   諸仏が力を尽くして、護っていられるからでしょう。

 

  一切種智(いっさいしゅち):一切の物事は空であり、我(が、ワレ)と我所(がしょ、ワガモノ、身心)も無いと知りながら、衆生(あらゆる生き物)に差別あることを知り、それに応じた方便を工夫して救う智慧。

  六波羅蜜(ろくはらみつ):菩薩の大慈悲にもとづく全行動を六種に分類し説明する。

   (1)布施波羅蜜(ふせはらみつ)、施すと意識せずに相手の欲しがる物を無制限に与えること。

   (2)持戒波羅蜜(じかいはらみつ)、戒を守るという意識なしに無制限に五戒を守ること。

   (3)忍辱波羅蜜(にんにくはらみつ)、耐え忍ぶという意識なしに無制限に耐え忍ぶこと。

   (4)精進波羅蜜(しょうじんはらみつ)、精進するという意識なしに無制限に精進すること。

   (5)静慮波羅蜜(じょうりょはらみつ)、心を統一するという意識なしに無制限に心を統一すること。

   (6)般若波羅蜜(はんにゃはらみつ):一切の論議を離れた智慧で無制限に衆生を幸福にすること。

為護法城。受持正法。能師子吼名聞十方。眾人不請友而安之。紹隆三寶能使不絕

法城を護らんが為に、正法を受持し、よく師子吼(ししく、説法)して、名は十方に聞こゆ。衆人(多数の人)、請(こ)わざれども、友としてこれ(衆人)を安んじ、三宝(さんぼう、仏法僧)を紹隆(しょうりゅう、受継ぎ興隆)して、よく絶えざらしむ。

 菩薩たちは、皆

   仏法の城を護るために、

   正法(しょうぼう、大乗)を信じ、常に心に留めて、

   人々に説法すれば、その名声は世界中に轟きわたり、

   人々には頼まれなくとも、親友であるかのように、不安を取り除いてやり、

   仏法僧の三宝を受け継いで、発展させ断絶させません。

 

  大乗(だいじょう):布施(ふせ、与えること)、持戒(じかい、取らないこと)、忍辱(にんにく、取られても怒らないこと)を、但ひたすらに行ずる菩薩道を通して、理想の世界を建設しようとする理念。

降伏魔怨制諸外道。悉已清淨永離蓋纏。心常安住無礙解脫

魔怨(まおん、修行の妨げ、欲魔身魔死魔天魔)を降伏(ごうぶく)して、諸の外道(げどう、仏教以外)を制し、ことごとくすでに清浄(しょうじょう、身口意に悪業を作らず)にして、永く(永遠に)、蓋纏(がいてん、修行の妨げ)を離れ、心常に無礙(むげ、自由自在)解脱(げだつ、束縛から離れ自由となる)に安住す。

 身心を制して、

   欲望を抑え怒りを起こさず、

   身体の苦痛を顧みず、

   寿命の短きを苦ともせず、

   災難に遭っても気にもせず、

   諸の外道の誘いにも乗らず、

   衆生の為のことのみ思い、

   自らの為は考えず、

   永遠に煩悩の束縛から逃れ、

     心は常に自由です。

 

  清浄(しょうじょう):悪業(あくごう、悪い結果をもたらす行為)を作らない。他の為を考え、自らの為は考えないこと。

  蓋纏(がいてん):修行の妨げに五蓋(ごがい、フタをして閉じ込める)と十纏(じってん、纏いつくもの)がある。

     (1)五蓋(ごがい):貪欲、瞋恚、睡眠(心昏迷身体重)、掉悔(とうかい、躁鬱)、疑法(無決断)。

     (2)十纏(じってん):無慚、無愧、嫉妬、慳惜、後悔、睡眠、躁狂、昏沈、忿怒、覆蔵(罪を隠す)。

念定總持辯才不斷。布施持戒忍辱精進禪定智慧。及方便力無不具足

念(ねん、正念)、定(じょう、禅定)、総持(そうじ、不忘失)、辯才(べんざい、弁舌の才能)ありて断ぜず。布施(ふせ)、持戒(じかい)、忍辱(にんにく)、精進(しょうじん)、禅定(ぜんじょう)、智慧および方便力(ほうべんりき、衆生を教化する手段)の具足(ぐそく)せざるなく、

 衆生のことを常に心掛け、心は平静で、

   仏の教えを忘れることはなく、

   説法は弁舌さわやかです。

   人々に与え、

   取らず、

   取られても気にせず、

   進んで衆生を助け、

   心が散乱することなく、

     衆生を助ける手段にも事欠きません。

 

  (ねん):常に心に掛け忘れないこと。衆生のことを忘れない。

  (じょう):心を統一し散乱させないこと。

  総持(そうじ):忘れないこと。衆生を助ける大願を忘れないこと。

  方便(ほうべん):衆生を助ける手段。智慧から発する。

逮無所得不起法忍

無所得(むしょとく、空を体得)、不起法忍(ふきほうにん、空を体得して不退)に逮(およ)ぶ。

 我(が、ワレ)と我所(がしょ、ワガモノ、身心)とは

   空であり存在しないと体得して、

   生滅(しょうめつ、生死)することはないと

     確信しています。

 

  不起法忍(ふきほうにん):無生法忍(むしょうほうにん)、空理を体得して不退(ふたたび元に戻らない)でいること。忍は認可をいう。

已能隨順轉不退輪。善解法相知眾生根。蓋諸大眾得無所畏

すでによく(仏法に)随順(ずいじゅん)して、不退(ふたい、不退転)の輪(りん、)を転(てん、説法)ず。よく法相(ほうそう、物事の真相)を解(げ、理解)して、衆生(しゅじょう)の根(こん、本性)を知り、諸の大衆(だいしゅ)を蓋(おお)いて、無所畏(むしょい、説法の自在)を得たり。

 多くの世代をこえて、

   昔から仏法になれ随い、

   不退(ふたい、いく度生まれ変わっても菩薩道を行ずる)の地位にあって、

     法を説く。

 あらゆる物事の本性が

   空であることを、よく

   理解していながらも、

 衆生の性根には

   いく種類もあることを知って、

   あらゆる人々を漏らさず護り、

 無限の自信を持って

   法を説きます。

功德智慧以修其心。相好嚴身色像第一。捨諸世間所有飾好。名稱高遠踰於須彌

功徳(くどく、衆生に利益を与える力)と智慧、以ってその心を修め、相好(そうごう、仏の容貌)身を厳(かざ)りて、色像(しきぞう、姿形)第一なり。諸の世間の有らゆる飾好(じきこう、装身具)を捨て、名称(みょうしょう)高遠(こうおん)にして須弥(しゅみ、須弥山)に踰(こ)ゆ。

 衆生を利益する力と智慧で心を修め(心を飾る)、

   自信に満ち溢れた容貌で身を厳(かざ)り、

   姿形は人々の中でも第一です。

 世間的な装身具の力を借りないでも、

   名声は高く、須弥山を踰えるほどです。

深信堅固猶若金剛。法寶普照而雨甘露。於眾言音微妙第一

深信(じんしん、深く仏法を信ず)堅固にして、なお金剛のごとし。法宝、普(あまね)く照らせば、甘露を雨ふらす。衆(もろもろ)の言音(ごんのん)において微妙第一なり。

 深く仏法を信ずる心は、

   揺るぎなく金剛(こんごう、物を打砕く道具)のように堅固です。

 説法すれば、人々の心を

   日に照らされたように明るくし、

   甘露を注ぐかのように慰安を与え、

     その声の微妙な快さは第一です。

深入緣起斷諸邪見。有無二邊無復餘習

深く縁起に入りて諸の邪見を断じ、有無の二辺(我と無我のいづれかに固執すること)は、また余習(よしゅう、ブリカエス)することなし。

 あらゆる物事は因縁によって生ずることを

   深く理解して

   邪見に陥ることなく、

   我(が、ワレアリ)と無我(むが、ワレナシ)の

     両の見解に惑わされることもなく、

     そのような考えが起こることもありません。

演法無畏猶師子吼。其所講說乃如雷震

法を演(の)べて、畏(おそ)れ無きこと、なお師子吼(ししく)のごとく、その講説する所は、すなわち雷の震(ふる)うがごとし。

 法を演説するときは、

   師子が吼えるよりもなお自信に溢れ、

   その内容は雷震(カミナリ)のように

     人々に感銘を与えます。

無有量已過量。集眾法寶如海導師。了達諸法深妙之義。善知眾生往來所趣及心所行

量あること無くして、すでに量を過ぎたり。衆(あまた)の法宝を集めること、海の導師(行路を決める船長)のごとし。諸法の深妙の義に了達して、よく衆生の往来して趣く所(地獄餓鬼畜生人間天上)、および心の行ずる所(の善悪)を知る。

 その心も身体も、

   人の域を遥かに凌駕して量り知ることは出来ません。

 船団率いる船長が珍しい宝を集めるように、

   法の宝を数多く集めて、

 あらゆる物事の奥深い意味を知り、

   人々が何処から来て何処へ往くのか、

   その場所(地獄餓鬼畜生人間天上)についてよく知り、

   人々が

     何を望むか

     何を嫌うかもよく知っています。

近無等等佛自在慧十力無畏十八不共。關閉一切諸惡趣門。而生五道以現其身

無等等(むとうとう、比類無き)の仏の自在の慧、十力(じゅうりき、仏、菩薩の智慧)、無畏(むい、仏、菩薩のもつ自信)、十八不共(じゅうはちふぐう、仏、菩薩のみがもつ功徳)に近づき、一切の諸の悪趣(あくしゅ、地獄餓鬼畜生)の門を関閉(かんぺい、トザス)して、しかも五道(天上人間畜生餓鬼地獄)に生じ、以ってその身を現す。

 比類なき仏の、自在の智慧、自信、衆生を助ける力を、

   生まれる度に得て、

   人々が

     地獄餓鬼畜生に生じないよう教導し、

 それでいながら自らは

   そのような場所に生まれることも厭わずに、

   その場所に於いて人々を助け導きます。

 

  仏の十力:仏の持つ十の智慧。いろいろな呼びかたがありますが、その一つをあげますと、

   (1)処非処智力:物ごとの道理と非道理を知る智力。処は道理のことです。

   (2)業異熟智力:一切の衆生の三世の因果と業報を知る智力。異熟とは果報のことです。

   (3)静慮解脱等持等至智力:諸の禅定と八解脱と三三昧を知る智力。

   (4)根上下智力:衆生の根力の優劣と得るところの果報の大小を知る智力。根とは能く生ずることをいい、何かを生み出す能力のことです。

   (5)種々勝解智力:一切衆生の理解の程度を知る智力。

   (6)種々界智力:世間の衆生の境界の不同を如実に知る智力。

   (7)遍趣行智力:五戒などの行により諸々の世界に趣く因果を知る智力。

   (8)宿住隨念智力:過去世の事を如実に知る智力。

   (9)死生智力:天眼を以って衆生の生死と善悪の業縁を見通す智力。

   (10)漏尽智力:煩悩をすべて断ち永く生まれないことを知る智力。をいいます。

 

  四無所畏:四無畏、仏が説法するとき怖れを懐かないことをいいます。

   (1)一切智無所畏:一切智の人であることにたいする畏れ無き自信をいいます。

   (2)漏尽無所畏:煩悩を尽くしたという畏れ無き自信をいいます。

   (3)説障道無所畏:修行の障(さまたげ)を説くことにたいする畏れ無き自信をいいます。

   (4)説尽苦道無所畏:戒定慧等の苦を滅する道を説くことにたいする畏れ無き自信をいいます。

 

  十八不共法:仏と菩薩のみがもつ功徳のことです。

   (1~10)仏の十力のことです。

   (11~14)仏の四無所畏のことです。

   (15~17)三念処または三念住といい、仏が衆生を導くとき心がける三種の思いをいいます。

     (i)衆生が仏を信じても、仏は喜心を懐かず平常心である。

     (ii)衆生が仏を信じなくても、仏は憂愁に沈まない。

     (iii)衆生に信じる信じないの両様があっても、仏は歓喜も憂悩もしない。

   (18)仏の大悲心をいいます。

為大醫王善療眾病。應病與藥令得服行。無量功德皆成就

大医王となりて、よく衆病を療(いや)し、病に応じて薬を与え、服することを得しめ、無量の功徳を行じて、皆成就す。

 世界最高の医者が、

   あらゆる病気を治す為に、

   病に応じた薬を与えて服用させるように、

 さまざまな方法技術をすべて会得しています。

無量佛土皆嚴淨。其見聞者無不蒙益。諸有所作亦不唐捐。如是一切功德皆悉具足

無量の仏土(ぶつど、理想の国土)、皆厳浄(ごんじょう、浄く飾る)し、その(仏土を)見聞(けんもん)する者、益(やく)を蒙(こうむ)らざるは無く、諸の有らゆる所作もまた唐(むな)しく捐(すて)ず。かくの如き、一切の功徳は皆ことごとく具足せり。

 さまざまな土地土地で人々を教導して、

   理想の国土を建設して来ました。

 そのことは見聞きするだけでも大きな利益があり、

 その行為には無駄が一切ありません。

 

 このようにこの菩薩たちは、

   あらゆる衆生を助ける力を身に備えています。

 

  功徳(くどく):衆生を救う為の力。

其名曰等觀菩薩。不等觀菩薩。等不等觀菩薩。定自在王菩薩。法自在王菩薩。法相菩薩。光相菩薩。光嚴菩薩。大嚴菩薩。寶積菩薩。辯積菩薩。寶手菩薩。寶印手菩薩。常舉手菩薩。常下手菩薩。常慘菩薩。喜根菩薩。喜王菩薩。辯音菩薩。虛空藏菩薩。執寶炬菩薩。寶勇菩薩。寶見菩薩。帝網菩薩。明網菩薩。無緣觀菩薩。慧積菩薩。寶勝菩薩。天王菩薩。壞魔菩薩。電德菩薩。自在王菩薩。功德相嚴菩薩。師子吼菩薩。雷音菩薩。山相擊音菩薩。香象菩薩。白香象菩薩。常精進菩薩。不休息菩薩。妙生菩薩。華嚴菩薩。觀世音菩薩。得大勢菩薩。梵網菩薩。寶杖菩薩。無勝菩薩。嚴土菩薩。金髻菩薩。珠髻菩薩。彌勒菩薩。文殊師利法王子菩薩。如是等三萬二千人

その名は、等観菩薩(とうかんぼさつ)、不等観菩薩、等不等観菩薩、定自在王菩薩(じょうじざいおうぼさつ)、法自在王菩薩、法相菩薩、光相菩薩、光厳菩薩(こうごんぼさつ)、大厳菩薩、宝積菩薩(ほうしゃくぼさつ)、辯積菩薩、宝手菩薩、宝印手菩薩、常挙手菩薩(じょうこしゅぼさつ)、常下手菩薩、常惨菩薩、喜根菩薩、喜王菩薩、辯音菩薩、虚空蔵菩薩、執宝炬菩薩(しゅうほうこぼさつ)、宝勇菩薩、宝見菩薩、帝網菩薩(たいもうぼさつ)、明網菩薩(みょうもうぼさつ)、無縁観菩薩、慧積菩薩、宝勝菩薩、天王菩薩、壊魔菩薩(えまぼさつ)、電徳菩薩、自在王菩薩、功徳相厳菩薩、師子吼菩薩、雷音菩薩、山相撃音菩薩(せんそうぎゃくおんぼさつ)、香象菩薩、白香象菩薩(びゃくこうぞうぼさつ)、常精進菩薩(じょうしょうじんぼさつ)、不休息菩薩(ふくそくぼさつ)、妙生菩薩(みょうしょうぼさつ)、華厳菩薩(けごんぼさつ)、観世音菩薩、得大勢菩薩(とくだいせいぼさつ)、梵網菩薩(ぼんもうぼさつ)、宝杖菩薩(ほうじょうぼさつ)、無勝菩薩、厳土菩薩(ごんどぼさつ)、金髻菩薩(こんけいぼさつ)、珠髻菩薩(しゅけいぼさつ)、弥勒菩薩(みろくぼさつ)、文殊師利法王子菩薩(もんじゅしりほうおうじぼさつ)という。かくの如き等の三万二千人なり。

 その名は、等観菩薩(とうかんぼさつ)、不等観菩薩、等不等観菩薩、定自在王菩薩(じょうじざいおうぼさつ)、法自在王菩薩、法相菩薩、光相菩薩、光厳菩薩(こうごんぼさつ)、大厳菩薩、宝積菩薩(ほうしゃくぼさつ)、辯積菩薩、宝手菩薩、宝印手菩薩、常挙手菩薩(じょうこしゅぼさつ)、常下手菩薩、常惨菩薩、喜根菩薩、喜王菩薩、辯音菩薩、虚空蔵菩薩、執宝炬菩薩(しゅうほうこぼさつ)、宝勇菩薩、宝見菩薩、帝網菩薩(たいもうぼさつ)、明網菩薩(みょうもうぼさつ)、無縁観菩薩、慧積菩薩、宝勝菩薩、天王菩薩、壊魔菩薩(えまぼさつ)、電徳菩薩、自在王菩薩、功徳相厳菩薩、師子吼菩薩、雷音菩薩、山相撃音菩薩(せんそうぎゃくおんぼさつ)、香象菩薩、白香象菩薩(びゃくこうぞうぼさつ)、常精進菩薩(じょうしょうじんぼさつ)、不休息菩薩(ふくそくぼさつ)、妙生菩薩(みょうしょうぼさつ)、華厳菩薩(けごんぼさつ)、観世音菩薩、得大勢菩薩(とくだいせいぼさつ)、梵網菩薩(ぼんもうぼさつ)、宝杖菩薩(ほうじょうぼさつ)、無勝菩薩、厳土菩薩(ごんどぼさつ)、金髻菩薩(こんけいぼさつ)、珠髻菩薩(しゅけいぼさつ)、弥勒菩薩(みろくぼさつ)、文殊師利法王子菩薩(もんじゅしりほうおうじぼさつ)といいます。このような方たちが三万二千人いらっしゃいました。

復有萬梵天王尸棄等。從餘四天下來詣佛所而聽法。復有萬二千天帝。亦從餘四天下來在會坐。并餘大威力諸天.龍神.夜叉.乾闥婆.阿脩羅.迦樓羅.緊那羅.摩[*]羅伽.等悉來會坐

また万の梵天王尸棄(ぼんてんおうしき)等あり。余の四天下(してんげ)より来たりて仏所に詣で、法を聴けり。また万二千の天帝あり、また余の四天下より来たりて会坐(えざ)にあり。ならびに余の大威力(いりき)の諸天、龍神、夜叉(やしゃ)、乾闥婆(けんだつば)、阿修羅(あしゅら)、迦楼羅(かるら)、緊那羅(きんなら)、摩[*]羅伽(まごらか)等もことごとく会坐に来たり。

 また一万の梵天王尸棄(しき、大梵天の王の名)等の梵天たちが、

   この娑婆世界以外からも来て法を聴こうとしています。

 また一万二千の天帝(てんてい、帝釈天主)たちが、

   この娑婆世界以外からも来て会坐(えざ、法座)に列なっています。

 ならびにその他の大威力の諸天、龍神、夜叉(やしゃ、鬼神)、乾闥婆(けんだつば、香神)、阿修羅(あしゅら、戦闘神)、迦楼羅(かるら、金翅鳥)、緊那羅(きんなら、歌神)、摩[*]羅伽(まごらか、大蠎神)等も、

   悉く会坐に列なっています。

諸比丘比丘尼優婆塞優婆夷俱來會坐

諸の比丘(びく、出家の男弟子)、比丘尼(びくに、出家の女弟子)、優婆塞(うばそく、在俗の男信者)、優婆夷(うばい、在俗の女信者)もともに会坐に来たり。

 諸の比丘(びく、出家の男弟子)、比丘尼(びくに、出家の女弟子)、優婆塞(うばそく、在俗の男)、優婆夷(うばい、在俗の女)たちも、共に会坐に列なっています。

彼時佛與無量百千之眾恭敬圍繞而為說法。譬如須彌山王顯于大海。安處眾寶師子之座。蔽於一切諸來大眾

かの時、仏、無量百千の衆に恭敬(くぎょう)囲繞(いにょう、囲まれる)されて、為に法を説きたもう。譬えば須弥山王、大海に顕(あら)わるるが如く、衆宝の師子の座に安処(あんしょ、ドッシリと坐る)して、一切の諸來(しょらい、諸方から来る)の大衆(だいしゅ)を蔽(おお)いたもう。

 その時、仏は、無量百千の弟子たちに、恭しく取り囲まれ、

   この人たちの為に法を説いていらっしゃいます。

 その様子を譬えると、

   須弥山が大海上に形を顕しているようで、

   多くの宝物で飾られた師子座(ししざ、高座)に安らかにお坐りになり、

   その威光は、一切の他の世界から来た方々の光を蔽い隠しています。

爾時毘耶離城有長者子。名曰寶積。與五百長者子俱。持七寶蓋來詣佛所

その時、毘耶離城に長者子(ちょうじゃし、財産家の子息)あり、名を宝積(ほうしゃく)という。五百の長者子とともに、七宝の蓋(かさ、貴人に差し掛ける絹のかさ)を持して仏所に来詣(らいけい)す。

 その時、毘耶離城(びやりじょう)の長者(ちょうじゃ、資産家)の子息である宝積(ほうしゃく)という者が、

   五百人の長者の子息たちと共に、

   各々七宝(金、銀、瑠璃、頗梨(はり、水晶)、硨磲(しゃこ、シャコ貝

          赤珠(せきしゅ、赤真珠)、瑪瑙(メノウ)で美しく飾られた

     絹張りの蓋(カサ)を携えて、

     仏に会いに来ました。

頭面禮足。各以其蓋共供養佛。佛之威神令諸寶蓋合成一蓋。遍覆三千大千世界。而此世界廣長之相悉於中現

頭面(づめん)に足を礼(らい)し、おのおのその蓋を以って共に仏に供養す。

仏の威神、諸の宝蓋(ほうがい)を合(がっ)して一の蓋に成し、あまねく三千大千世界(全世界)を覆い、しかもこの世界の広長の相は、ことごとく中に於いて現ぜり。

 五百の長者子は、

   仏の足に自らの頭を著けて礼をし、各々

   その蓋を仏に差し掛けて供養します。

 仏は神通力で以って、

   差し掛けられた五百の蓋を

   一つの蓋に合成し、

     全世界をその蓋で

       覆っておしまいになりました。

 しかも世界が小さくなった訳でもありませんのに、

   蓋の中に

   全世界が出現したのです。

 

  三千大千世界(さんぜんだいせんせかい):須弥山を中心とした海中に四大洲が浮かぶ。その内の南瞻部州(なんせんぶしゅう)に我々が住んでいる。これが一世界、これを千集めて小千世界、それを千集めて中千世界、それを千集めて大千世界という。三千大千世界はこの大千世界のことである。一応の全世界をいう。

  注:鳩摩羅什の注によれば、この神変は、意味が二つ有る。その一は、神変の無量を現すは、仏の智慧のもっぱら深きを顕す。その二は、宝積の献ずる珍宝も、来世にはかくの如く成らんと、小因に大果あることを明かすとするが、それは深読みに過ぎるであろう。

 この維摩経には、これ以後にもこのような不可思議の神変がしばしば現れることからも、その一一に深い意味を読み取ることは、返ってその真意を失う。維摩経は一名を不可思議解脱経と言うと、わざわざ巻頭に明記してあることにこそ、深い意味を読み取らなくてはならない。

又此三千大千世界。諸須彌山雪山。目真鄰陀山摩訶目真鄰陀山。香山寶山金山黑山。鐵圍山大鐵圍山。大海江河川流泉源。及日月星辰。天宮龍宮。諸尊神宮。悉現於寶蓋中

また、この三千大千世界の諸の須弥山(しゅみせん)、雪山(せっせん)、目真鄰陀山(もくしんりんだせん)、摩訶目真鄰陀山(まかもくしんりんだせん)、香山(こうせん)、宝山(ほうせん)、金山(こんせん)、黒山(こくせん)、鉄囲山(てついせん)、大鉄囲山(だいてついせん)、大海、江河、川流(せんる)、泉源、および日月星辰(にちがつしょうしん)、天宮(てんぐう)、龍宮、諸尊の神宮、悉く宝蓋中に現ぜり。

 また、この三千大千世界(十億個の世界)の、それぞれの須弥山(しゅみせん)、雪山(せっせん)、目真鄰陀山(もくしんりんだせん)、摩訶目真鄰陀山(まかもくしんりんだせん)、香山(こうせん)、宝山(ほうせん)、金山(こんせん)、黒山(こくせん)、鉄囲山(てついせん)、大鉄囲山(だいてついせん)、大海、江河、川流、泉源、および日月星辰、天宮、龍宮、諸尊の神宮も、悉くが

   宝蓋中に出現しました。

 

  雪山(せっせん):雪山(せっせん)、目真鄰陀山(もくしんりんだせん)、摩訶目真鄰陀山(まかもくしんりんだせん)、香山(こうせん)、宝山(ほうせん)、金山(こんせん)、黒山(こくせん)、須弥山と四大洲の中間に在り、須弥山を七重に取り囲む輪状の山。

  鉄囲山(てっちせん):鉄囲山と大鉄囲山とは四大洲を輪状に取り囲む。

又十方諸佛諸佛說法亦現於寶蓋中

また、十方の諸仏と、諸仏の説法も、また宝蓋中に現ぜり。

 また十方(東西南北、南西西北北東東南、上下)にいらっしゃいます

   諸仏と、

   諸仏の説法も、

     その悉くがその宝蓋中に出現しました。

 

 

 

 

長者子宝積、偈を以って仏を讃嘆す

爾時一切大眾。睹佛神力歎未曾有。合掌禮佛瞻仰尊顏目不暫捨。於是長者子寶積。即於佛前以偈頌曰

 目淨脩廣如青蓮 

 心淨已度諸禪定 

 久積淨業稱無量 

 導眾以寂故稽首 

 既見大聖以神變 

 普現十方無量土 

 其中諸佛演說法 

 於是一切悉見聞 

 法王法力超群生 

 常以法財施一切 

 能善分別諸法相 

 於第一義而不動 

 已於諸法得自在 

 是故稽首此法王 

 說法不有亦不無 

 以因緣故諸法生 

 無我無造無受者 

 善惡之業亦不亡 

 始在佛樹力降魔 

 得甘露滅覺道成 

 已無心意無受行 

 而悉摧伏諸外道 

 三轉法輪於大千 

 其輪本來常清淨 

 天人得道此為證 

 三寶於是現世間 

 以斯妙法濟群生 

 一受不退常寂然 

 度老病死大醫王 

 當禮法海德無邊 

 毀譽不動如須彌 

 於善不善等以慈 

 心行平等如虛空 

 孰聞人寶不敬承 

 今奉世尊此微蓋 

 於中現我三千界 

 諸天龍神所居宮 

 乾闥婆等及夜叉 

 悉見世間諸所有 

 十力哀現是化變 

 眾睹希有皆歎佛 

 今我稽首三界尊 

 大聖法王眾所歸 

 淨心觀佛靡不欣 

 各見世尊在其前 

 斯則神力不共法 

 佛以一音演說法 

 眾生隨類各得解 

 皆謂世尊同其語 

 斯則神力不共法 

 佛以一音演說法 

 眾生各各隨所解 

 普得受行獲其利 

 斯則神力不共法 

 佛以一音演說法 

 或有恐畏或歡喜 

 或生厭離或斷疑 

 斯則神力不共法 

 稽首十力大精進 

 稽首已得無所畏 

 稽首住於不共法 

 稽首一切大導師 

 稽首能斷眾結縛 

 稽首已到於彼岸 

 稽首能度諸世間 

 稽首永離生死道 

 悉知眾生來去相 

 善於諸法得解脫 

 不著世間如蓮華 

 常善入於空寂行 

 達諸法相無罣礙 

 稽首如空無所依

その時、一切の大衆、仏の神力を睹(み)て、未曾有(みぞう)なりと歎じ、合掌して仏を礼(らい)し、尊顔(そんげん)を瞻仰(せんぎょう、仰ぎ見る)して、目、暫くも捨てず。

ここに於いて、長者子宝積、すなわち仏前に於いて偈(げ、)を以って頌(じゅ、歌う)して曰く、

『仏の目、浄く修広(しゅうこう、長く広し)なること青蓮(しょうれん)の如く、

 心浄く、すでに諸の禅定を度(ど、渡る)し、

 久しく浄業(じょうごう、人の為になる善き行ない)を積みて、無量と称し、

 衆を導くに寂(じゃく、涅槃)を以ってす、故に稽首(けいしゅ、頭を垂れてする礼)したてまつる。

 すでに、大聖(だいしょう、)が神変(じんぺん、不思議の力)を以って、

 あまねく十方の無量の土(ど、仏土)を現わしたもうを見れば、

 その中に、諸仏、法を演説したまい、

 ここに於いて一切、悉くを見聞(けんもん)す。

 法王(ほうおう、)の法力は群生(ぐんしょう、衆生)を超え、

 常に法と財とを以って、一切に施し、

 よくよく諸法(しょほう、万物)の相(そう、ミカケ)を分別(ふんべつ)したまえども、

 第一義(真実、空平等)に於いて、しかも不動(ふどう、第一義を離れず)なり。

 すでに諸法に於いて、自在を得たもう。

 この故に、この法王に稽首したてまつる。

 『法は有るにあらず、また無きにもあらず、

 因縁を以っての故に、諸法生ず、

 我なく、造(ぞう、造作)なく、受くる者も無けれども、

 善悪の業も、また亡びず』と説きたもう。

 始め仏樹(ぶつじゅ、菩提樹)に在(ましま)して、魔を降すに力あり、

 甘露の滅(めつ、寂滅)を得て、覚道(かくどう)を成(じょう)じたまえり。

 すでに心意(しんい、ココロ)なく、受行(じゅぎょう、心の働き)なけれども、

 しかも、悉く諸の外道(げどう、仏道以外)を摧伏(さいぶく、打ち砕く)す。

 三たび法輪(ほうりん、説法)を、大千(だいせん、世界)に於いて転じ、

 その輪(りん、説法)、本来常に清浄(しょうじょう、平等にして悪業なし)なり。

 天人も道を得る、これを証(しょう、証拠)となして、

 三宝(さんぽう、仏法僧)は、ここに於いて世間に現る。

 この妙法を以って、群生(ぐんしょう、衆生)を救う、

 一たび受くれば退かず、常に寂然(じゃくねん、静かなサマ)たり。

 老病死を度(ど、救う)す大医王なり。

 まさに法海(ほうかい)の徳の無辺なるを礼(らい)すべし。

 毀誉(きよ、貶すと誉める)にも動かざること須弥(しゅみ、須弥山)の如く、

 善と不善に於いて、等しく慈(じ)を以ってし、

 心行(しんぎょう、心の働き)の平等なること、虚空の如し、

 たれか、人の宝を聞きて敬い承けたまわざる。

 今、世尊にこの微蓋(びがい、小さき蓋)を奉(たてま)つれるに、

 中に於いて、我に三千界を現したまえば、

 諸天、龍神の居ます所の宮、

 乾闥婆(けんだつば、歌神)等、および夜叉(やしゃ、鬼神)、

 悉く世間の諸の所有(しょう、アラユルモノ)を見る。

 十力(じゅうりき、仏の力)、哀れんで、この化変(けへん、変化)を現したまい、

 衆(しゅ、衆生)は希有(けう)を睹(み)て、皆仏を歎ず。

 今、我、三界(さんがい、六道世界)の尊(そん)を稽首したてまつる。

 大聖(だいしょう、)、法王(ほうおう、)は衆の帰(き、帰依)する所、

 心を浄くし、仏を観て、欣(よろ)こばざるはなく、

 おのおの、世尊に見(まみ)えて、その前に在るは、

 これすなわち神力(じんりき、神通力)不共法(ふぐうほう、仏のみ持つ力)なり。

 仏、一音を以って、法を演説したもうに、

 衆生は、類に随うて、おのおの解することを得、

 皆、世尊は、その語(ご、言語)を同じくしたもうと謂(おも)う。

 これすなわち、神力不共法なり。

 仏、一音を以って、法を演説したもうに、

 衆生は、おのおの解する所に随うて、

 あまねく、受行(じゅぎょう、信受奉行)を得て、その利(り、利益)を獲(う)。

 これすなわち、神力不共法なり。

 仏、一音を以って、法を演説したもうに、

 あるいは恐畏(くい)あり、あるいは歓喜し、

 あるいは厭離(えんり、俗を厭う)し、あるいは疑いを断ず。

 これすなわち、神力不共法なり。

 十力の大精進(だいしょうじん、暫くも休まざること)を稽首したてまつる。

 すでに無所畏(むしょい、畏れず説法する)を得たまえるを稽首したてまつる。

 不共法(ふぐうほう、仏のみが持つ力)に住したまえるを稽首したてまつる。

 一切のための大導師たるに稽首したてまつる。

 よく、衆(もろもろ)の結縛(けつばく、煩悩)を断じたまえるに稽首したてまつる。

 すでに、彼岸に到りたまえるに稽首したてまつる。

 よく、諸の世間を度したまえるに稽首したてまつる。

 ながく生死の道を離れたまえるに稽首したてまつる。

 悉く衆生の来去(らいこ、六道を旅する)の相(そう、スガタ)を知りたまい、

 よく諸法(しょほう、アラユルモノ)に於いて解脱(げだつ、執著なし)したまい、

 世間に著(じゃく)せざること蓮華の如く、

 常によく、空寂の行(執著しない心の働き)に入りたまい、

 諸法の相に達して(アラユル物事ヲヨク知リ)罣礙(けげ、障害)なく、

 空(くう、大空)の如く所依(しょえ、他に拠り所のあること)無きに、

 稽首したてまつる。』と。

 その場に立ち会った者たちは、皆

   この仏の神通力による未曽有な出来事を見て言葉も出ないありさまで、

 ただ合掌して仏の顔を拝み、暫くの間も目を離すことが出来ません。

 

 この時、長者子宝積は、歌でもって仏を褒め称えました、

 『すずしく冴えるそのひとみ、睡蓮よりもいや青く、(蓮花、睡蓮)

  心浄らに澄みわたり、須弥山よりも揺るぎなし。(ぜんじょう、心ユルガズ、しゅみせん、山の王)

  数さえ知れぬ昔より、人の頼みとなりたまい、(じょうごう、人の為にナル)

  あまた塵沙(じんじゃ)の人つれて、正しき道を歩みゆく。(じんじゃ、無数)

  仏の力なればこそ、遠くの浄土まのあたり、(じんぺん、神通力)

  浄土に仏ましまして、雲なす人に法を説く、

  宮居の屋根の美しく、玉なす水の池もあり、

  神変(じんぺん)無量の仏にぞ、われら稽首し礼拝す。(けいしゅ、頭頂を相手の足に接してする礼)

  法の力はただならず、人に超えたるありさまは、

  常に施す法と財、一切衆生をふところに、

  懐(いだ)きて教えかみくだき、ただひとりすら洩れぬよう、

  深き教えをやさしくと、されど離れぬ真実義。(だいいちぎ、真如、真実の義)

  かかる自在の説法は、深くわれらを魅了する、

  説法自在の仏にぞ、われら稽首し礼拝す。

  諸法(しょほう)の相(そう)は有りと無し、仏のたもう否なりと、(諸法は事物、相は外見)

  有るにもあらず無きならず、因縁つくれるものなるぞ、

  われら人みな無我なれど、つくりし業のみ後の世に、(むが、空、我に定まれるもの無し、ごう、行為)

  善悪ところをあやまたず、苦楽を受くる身の因果。

  烈しき苦行なげうちて、菩提樹のもと魔を降し、(ぼだいじゅ、釈迦成道の座)

  甘露の寂滅身に受けて、尊き仏となりたもう。(じゃくめつ、涅槃、心の平静)

  波立つ世間に心なく、真如のままに法を説き、(じゅぎょう、心の働き)

  悪魔外道はことごとく、邪見おさめて遁走す。(あくま、修行の障害、げどう、仏道以外)

  法輪三たび転ずれば、清浄世界現れて、(さんてんぽうりん、聞く人の上中下に応じた説法)

  恩讐(おんしゅう)捨てて等しく見、敵も味方もうち解けぬ。(しょうじょう、恩讐を捨てて平等に見る)

  いづこにありてか天人も、聞いてよろこび誓うらく、

  われら天こそ三宝を、絶やさぬように護りなめ、

  この妙法はただひとり、むらがる衆生を救いてむ。(ぐんしょう、衆生、生き物)

  仏ひとたび世に出なば、更にいまさぬときはなく、(いちじゅふたい等、法身常住)

  老病死苦を哀れみて、手をさしのべて掬いあぐ、

  天の守護するこの法を、われら稽首し礼拝す。

  人は互いに誉めそしり、仏しずかに須弥のごと、(しゅみ、須弥山)

  善なる人も悪人も、仏の慈悲にかわりなく、

  心平らに等しくし、大空のごと澄み渡る、

  人の宝はここに在り、誰か敬い聞かざらん。

  いま奉るこの蓋(かさ)は、貧しく小さき蓋なれど、(かさ、貴人に差し掛けるかさ)

  世尊の力は限り無く、中に世界の現われぬ。

  あまたの神の宮居をも、夜叉(やしゃ)歌神(うたがみ)のすがたさえ、(けんだつば、歌神、やしゃ、鬼神)

  世間にありとあらゆるは、みな姿をば現しぬ。

  仏あわれみ力もて、われらに見せるこの世界、

  希有なることと人々の、讃えまつれるこの仏、

  かかる不思議をまえにして、われら稽首し礼拝す。

  法の王たる仏には、いかで頼らぬ人やある、

  心浄らに見るなれば、仏のすがた喜ばし、

  世尊のすがた前に見て、拝むも仏の力なり、

  この神力は仏のみ、ただ持ちたもう力なり。(ふぐうほう、仏のみもつ力)

  言葉にあらぬ一声に、法の要(かなめ)を説きこめば、(いっとん、ただ一音のみの説法)

  衆生の類(たぐい)異れど、みな明らかに分け知りぬ。

  語りたもうやわが言葉、世尊の力限りなし、

  われ一人(いちにん)の為にのみ、尊き法を説きたもう。

  法聞く衆生それぞれに、心に喜び満ち溢れ、

  眼(まなこ)はなさず聞き取れば、おのおの受くる大利益。

  真如の智慧の現るに、ひとびと心異にして、

  あるは驚き恐れつつ、あるはしずかに喜びぬ。

  世間を遠離するもあり、また疑いを晴らすあり、(おんり、世俗を厭う)

  大精進たる十力に、われら稽首し礼拝す。(じゅうりき、仏の力)

  已に無所畏を得たまえる、われら稽首し礼拝す。(むしょい、説法するに畏れなし)

  ただ仏のみ持つ力、われら稽首し礼拝す。

  あらゆるものの大導師、われら稽首し礼拝す。

  よく煩悩を断ちたもう、われら稽首し礼拝す。

  已に彼岸に行きたもう、われら稽首し礼拝す。

  よく世間をば度したもう、われら稽首し礼拝す。

  よく生死をばはなれたもう、われら稽首し礼拝す。

  一切衆生のそれぞれに、過去と未来を知りたまい、

  あらゆることを巧みにし、さらに解脱をなしたまう。

  世間の泥にとどまれど、蓮華のごとく清らかに、

  涅槃の界にとどまりて、世間のことをなしたまう。

  物事すべてあるがまま、真如のすがたそのままに、

  何にもたよりたまわねば、われら稽首し礼拝す。』と。

  

  三転法輪(さんてんぽうりん):仏は鹿野園において、苦集滅道の四諦について、三度の説法をされた。

    (1)示転(じてん):これは苦である。これは集である。これは滅である。これは道である。

    (2)勧転(ごんてん):苦は当に知るべし。集は当に断ずべし。滅は当に証すべし。道は当に修むべし。

    (3)証転(しょうてん):苦は我已に知りたり。集は我已に断じたり。滅は我已に証したり。道は我已に修したり。

 仏は自ら己を挙げて証拠とされ、ここに三度の説法をされたが、これは上根の者には示転を、中根の者には勧転を、下根の者には証転を以って、各々悟らせようということである。

 

 

 

諸の菩薩の浄土の行を明かす

爾時長者子寶積。說此偈已白佛言。世尊。是五百長者子。皆已發阿耨多羅三藐三菩提心。願聞得佛國土清淨。唯願世尊。說諸菩薩淨土之行

その時、長者子宝積(ほうしゃく)は、この偈を説きおわりて、仏に白(もう)して言(もう)さく、『世尊、この五百の長者子は、皆すでに阿耨多羅三藐三菩提心(あのくたらさんみゃくさんぼだいしん、仏になり衆生を済度したいという願い)を発(おこ)せり。願わくは、仏国土の清浄なるを得ることを聞かん。ただ、願わくは、世尊、諸の菩薩の浄土の行を説きたまえ。』と。

 長者子宝積(ほうしゃく)は、このように歌い終ると、仏に言いました、

『世尊(せそん、仏に対する呼び掛け)、我々五百の長者子は、皆すでに

   仏と成って、人々を救おうと決めました。どのように、

   国土を清浄にすれば

   仏の国土に相応しくなるのでしょうか。

 

 どうか諸の菩薩の行っている

   『国土を浄める行い』をお説きください。』と。

佛言。善哉寶積。乃能為諸菩薩問於如來淨土之行。諦聽諦聽善思念之。當為汝說

仏、言(の)たまわく、『善きかな宝積、すなわち、よく諸の菩薩の為に、如来に於いて、浄土の行を問えり。諦(あきら)かに聴け諦かに聴け。善くこれを思念せよ。まさに汝が為に説かん。』と。

 仏は仰(おっしゃ)いました、

『善いことだ、宝積。

   清浄なる国土を建設しようとしている諸の菩薩の為に、

   如来に、国土を浄める行いをよく問うた。

 心を落ち着けてよく聴け。

 よく聴いて心の中でよく考えよ。

 まさにあなたの為に説こう。』と。

 

  諦かに聴け諦かに聴け、善くこれを思念せよ:仏が説法を始めるに当たっての決まり言葉。意味は『心を落ち着けて、正しく聞き取り、心の中でよく考えよ』。

於是寶積及五百長者子。受教而聽

ここに於いて、宝積および五百の長者子、教えを受けて聴く。

 宝積と五百の長者子は、皆こう言われるままに慎んで聴きました。

佛言。寶積。眾生之類是菩薩佛土。所以者何。菩薩隨所化眾生而取佛土。隨所調伏眾生而取佛土。隨諸眾生應以何國入佛智慧而取佛土。隨諸眾生應以何國起菩薩根而取佛土

仏、言たまわく、『宝積、衆生の類は、これ菩薩の浄土なり。所以(ゆえ)は何(いか)に。菩薩は化(け、化導、導く)する所の衆生に随って、仏土を取る。調伏(ちょうぶく、調御征服、教える)する所の衆生に随って、仏土を取る。諸の衆生の、まさに何の国を以って、仏の智慧に入るべきかに随って、仏土を取る。諸の衆生の、まさに何の国を以って、菩薩の根を起こすべきかに随って、仏土を取る。

 仏は仰います、

『宝積、衆生(しゅじょう、すべての生き物)は、菩薩の浄土(浄むべき国土)である。

 それはなぜか。菩薩によって教え導かれる所の衆生が仏土なのだ。

 教え導かれた衆生が仏土なのだ。

 諸の衆生は、どのような国であれば、仏の智慧を持てるか。その実現が仏土なのだ。

 諸の衆生は、どのような国であれば、菩薩としての性根を持てるか。その実現が仏土なのだ。

 

  仏土を取る:菩薩が仏土を持つこと。

  菩薩の根:菩提心(ぼだいしん)、菩薩として衆生を救おうとする心。

所以者何。菩薩取於淨國。皆為饒益諸眾生故

所以は何に。菩薩の浄国を取るは、皆諸の衆生を饒益(にょうやく、利益を与う、仏と成らせる)せんが為の故なり。

 それはなぜか。菩薩が仏土を取るのは、皆

   諸の衆生をして仏と成らせる為である。

譬如有人欲於空地造立宮室隨意無礙。若於虛空終不能成

譬えば、ある人、空き地に宮室を造立(ぞうりゅう)せんと欲するに、意に随って無礙(むげ、自由自在)なれども、もし虚空に於いてせば、ついに成ること能(あた、可能)わざるが如し。

 譬えば、空き地に家を建てようとすれば、自在に出来る。

   しかし、空中に建てることは不可能であろう。

菩薩如是。為成就眾生故願取佛國。願取佛國者非於空也

菩薩は、かくの如く、衆生を成就(じょうじゅ、成仏)せんが為の故に、願いて仏国を取る。願いて仏国を取るとは、空に於いてするには非ざるなり。

 菩薩も同じである。

   衆生をして仏と成す為に、

   仏より国を預かるのだ。

 願って国を預かるとは、

   空中に浄土を建設することは出来ないからなのだ(菩薩と衆生は浄土である)。

寶積。當知直心是菩薩淨土。菩薩成佛時不諂眾生來生其國

宝積、まさに知るべし、直心(じきしん、真っ直ぐな心)は、これ菩薩の浄土なり。菩薩、成仏の時、諂(へつら)わざる衆生、その国に来生す。

 宝積、これを知らなくてはならない。

 直心(じきしん、真直ぐな心)は、菩薩の浄土である。

 この菩薩の建設した浄土には、

   こび諂(へつら)うことのない衆生が、

   他方世界から来て生まれるだろう。

深心是菩薩淨土。菩薩成佛時具足功德眾生來生其國

深心(じんしん、深く仏法を信ずる)は、これ菩薩の浄土なり。菩薩、成仏の時、功徳を具足するの衆生、その国に来生す。

 深心(じんしん、深く仏法を信ずる心)は、菩薩の浄土である。

 この菩薩の建設した浄土には、

   衆生を救う力を持つ衆生が、

   他方世界から来て生まれるだろう。

菩提心是菩薩淨土。菩薩成佛時大乘眾生來生其國

菩提心(ぼだいしん、衆生を済度する願い)は、これ菩薩の浄土なり。菩薩、成仏の時、大乗の衆生、その国に来生す。

 菩提心(ぼだいしん、衆生を救う志)は、菩薩の浄土である。

 この菩薩の建設した浄土には、

   大乗(だいじょう、彼我の差別を捨てた理想の国土建設の理念)を志す衆生が、

   他方世界から来て生まれるだろう。

布施是菩薩淨土。菩薩成佛時一切能捨眾生來生其國

布施は、これ菩薩の浄土なり。菩薩、成仏の時、一切をよく捨つる衆生、その国に来生す。

 布施は、菩薩の浄土である。

 この菩薩の建設した浄土には、

   何物をも自らの所有と思わない衆生が、

   他方世界から来て生まれるだろう。

持戒是菩薩淨土。菩薩成佛時行十善道滿願眾生來生其國

持戒は、これ菩薩の浄土なり。菩薩、成仏の時、十善道(じゅうぜんどう、不殺生、不偸盗、不邪婬、不妄語、不綺語、不悪口、不両舌、不慳貪、不瞋恚、不邪見)を行ずる、満願の衆生、その国に来生す。

 持戒は、菩薩の浄土である。

 この菩薩の建設した浄土には、

   殺さない、

   取らない、

   邪婬しない、

   嘘をつかない、

   悪口を言わない、

   二枚舌を使わない、

   猥褻な冗談を言わない、

   物惜しみしない、

   決して怒らない、

   邪見に堕ちない、

 これらの善い事をすべて満たした衆生が、

   他方世界から来て生まれるだろう。

忍辱是菩薩淨土。菩薩成佛時三十二相莊嚴眾生來生其國

忍辱は、これ菩薩の浄土なり。菩薩、成仏の時、三十二相をもって荘厳せる衆生、その国に来生す。

 忍辱(にんにく、耐え忍ぶこと)は、菩薩の浄土である。

 この菩薩の建設した浄土には、

   仏と同じ理想的な身相を持った衆生が、

   他方世界から来て生まれるだろう。

精進是菩薩淨土。菩薩成佛時勤修一切功德眾生來生其國

精進は、これ菩薩の浄土なり。菩薩、成仏の時、一切の功徳を勤修する衆生、その国に来生す。

 精進(しょうじん、怠けないこと)は、菩薩の浄土である。

 この菩薩の建設した浄土には、

   一切の力を出し切り、

   衆生を救うことに邁進(まいしん)する衆生が、

     他方世界から来て生まれるだろう。

禪定是菩薩淨土。菩薩成佛時攝心不亂眾生來生其國

禅定は、これ菩薩の浄土なり。菩薩、成仏の時、心を摂(おさ)めて乱れざる衆生、その国に来生す。

 禅定(ぜんじょう、心を散乱させないこと)は、菩薩の浄土である。

 この菩薩の建設した浄土には、

   心が平静で、乱れることのない衆生が、

   他方世界から来て生まれるだろう。

智慧是菩薩淨土。菩薩成佛時正定眾生來生其國

智慧は、これ菩薩の浄土なり。菩薩、成仏の時、正定(正定聚、必定して証悟する)の衆生、その国に来生す。

 智慧は、菩薩の浄土である。

 この菩薩の建設した浄土には、

   仏と成ることが決定した衆生が、

   他方世界から来て生まれるだろう。

四無量心是菩薩淨土。菩薩成佛時成就慈悲喜捨眾生來生其國

四無量心(しむりょうしん、慈悲喜捨の四が無量)は、菩薩の浄土なり。菩薩、成仏の時、慈悲喜捨を成就する衆生、その国に来生す。

 慈(他に楽を与える)、

   悲(他の苦を抜く)、

   喜(他の楽を受けるを喜ぶ)、

   捨(自他に平等)が心に無量であることは、菩薩の浄土である。

 この菩薩の建設した浄土には、

   慈悲喜捨の心を持った衆生が、

   他方世界から来て生まれるだろう。

四攝法是菩薩淨土。菩薩成佛時解脫所攝眾生來生其國

四摂法(ししょうほう、布施愛語利益同事によって衆生を摂取する)は、これ菩薩の浄土なり。菩薩、成仏の時、解脱に摂せらるる衆生、その国に来生す。

 布施(与えること)、

   愛語(優しい言葉をかけること)、

   利益(他の為に尽くすこと)、

   同事(他と同じ苦を受けること)を行うことは、菩薩の浄土である。

 この菩薩の建設した浄土には、

   将来解脱する衆生が、

   他方世界から来て生まれるだろう。

方便是菩薩淨土。菩薩成佛時於一切法方便無礙眾生來生其國

方便(ほうべん、衆生を摂取する手段)は、これ菩薩の浄土なり。菩薩、成仏の時、一切の法に於いて、方便の無礙なる衆生、その国に来生す。

 方便(ほうべん、衆生を教導する手段)は、菩薩の浄土である。

 この菩薩の建設した浄土には、

   一切の物事を方便として自在に使いこなす衆生が、

   他方世界から来て生まれるだろう。

三十七道品是菩薩淨土。菩薩成佛時念處正勤神足根力覺道眾生來生其國

三十七道品(さんじゅうしちどうほん、菩薩の修行すべき項目)は、これ菩薩の浄土なり。菩薩、成仏の時、念処、正勤、神足、根、力、覚、道の衆生、その国に来生す。

 三十七道品(さんじゅうしちどうほん、菩薩の修行項目)は、菩薩の浄土である。

 この菩薩の建設した浄土には、

   四念処(しねんじょ、心に正しく念ずる)、

   四正勤(ししょうごん、正しい努力)、

   四如意足(しにょいそく、禅定による超自然的能力)、

   五根(ごこん、根本的能力)、

   五力(ごりき、高い能力)、

   七覚分(しちかくぶん、覚りを得る為の門)、

   八正道(はっしょうどう、正しい道)を行う衆生が、

     他方世界から来て生まれるだろう。

 

  三十七道品:次に示す、四念処(しねんじょ)、四正勤(ししょうごん)、四如意足(しにょいそく)、五根(ごこん)、五力(ごりき)、七覚分(しちかくぶん)、八聖道分(はっしょうどうぶん)のことで、菩薩の修行項目をいう。

  四念処:次のように自ら身、受(粗の感覚)、心、法について観じ、常楽我淨の四顛倒を破ることをいう。

   (1)身は不淨(清潔でない)である。

   (2)受は苦である。

   (3)心は常に変化して住(とど)まらない。

   (4)法(私というもの)は無我である。

  四正勤:常に、(1)悪を生じず、(2)悪を断ち、(3)善を生じ、(4)善を増大せしめることに、努力すること。

  四如意足四正勤に次いで修める四種の禅定。(1)欲望、(2)努力、(3)思念、(4)観察についての超越的な能力をいう。前の四念処中には実の智慧を修め、四正勤中には正しい精進を修めて智慧と精進力を増多せしめたのであるが、定力が小し弱いため、今四種の禅定を修めて心を摂め、禅定と智慧とを均等ならしめ、所願を皆得ようとする。意のままに得る、これを以って如意、或いは神足という。

  五根:仏道を行うときの根本的な行いです。

   (1)信根:仏法僧の三宝と四諦を信ずること。

   (2)精進根:十善などの善いことを怠らずに行うこと。

   (3)念根:正法を憶念して忘れないこと。

   (4)定根:心を散乱せしめないこと。

   (5)慧根:真理を思惟すること。

  五力:前の五根を増長せしめる力をいいます。

   (1)信力、(2)精進力、(3)念力、(4)定力、(5)慧力。

  七覚分:七覚支、七菩提分、覚りを助ける七つのものです。

   (1)念覚支:憶念して忘れないこと。

   (2)択法覚支:物事の真偽を選択する智慧のこと。

   (3)精進覚支:正法に精進すること。

   (4)喜覚支:正法を喜ぶこと。

   (5)軽安覚支:身心が軽快であること。

   (6)定覚支:心を散乱せしめないこと。

   (7)捨覚支:心が偏らず平等であること。捨とは平等ということを意味する。

  八聖道分:次のものをいう。

   (1)正見:苦集滅道の四諦の理を認めることをいい、八正道の基本となる。

   (2)正思惟:既に四諦の理を認め、なお考えて智慧を増長させる。

   (3)正語:正しい智慧で口業を修め、理ならざる言葉を吐かない。

   (4)正業:正しい智慧で身業を修め、清浄ならざる行為をしない。

   (5)正命:身口意の三業を修め、正法に順じて生活する。

   (6)正精進:正しい智慧でもって、涅槃の道を精進する。

   (7)正念:正しい智慧でもって、常に正道を心にかける。

   (8)正定:正しい智慧でもって、心を統一する。

 

 

迴向心是菩薩淨土。菩薩成佛時得一切具足功德國土

廻向心(えこうしん、自ら積んだ一切の善業を理想の国土建設に振り向ける心)は、これ菩薩の浄土なり。菩薩、成仏の時、一切の功徳を具足する国土を得。

 廻向心(えこうしん、自ら積んだ一切の善業を浄土に振り向ける)は、菩薩の浄土である。

 この菩薩の建設した浄土には、

   一切の衆生を救う力を持った者ばかりの国土ができるだろう。

說除八難是菩薩淨土。菩薩成佛時國土無有三惡八難

八難(はちなん、仏法を聴き難い八ヶ処)を除くことを説く、これ菩薩の浄土なり。菩薩、成仏の時、国土に三悪と八難あること無し。

 八難(はちなん、仏法を聞き難い所、地獄、餓鬼、畜生、北鬱単越洲(ほくうったんおつしゅう、四大洲の一、恵まれ過ぎ)、長寿天、聾盲瘖瘂(ろうもうおんあ)、世智に勝る、仏前仏後)を除くことを説くことは、菩薩の浄土である。

 この菩薩の建設した浄土には、

   地獄、餓鬼、畜生の三悪道と、

   その他の八難処が無いであろう。

自守戒行不譏彼闕是菩薩淨土。菩薩成佛時國土無有犯禁之名

自ら戒行を守り、彼れの闕(けつ、過失、破戒)を譏(そし)らざる、これ菩薩の浄土なり。菩薩、成仏の時、国土に禁を犯すの名あること無し。

 自らは戒律と正しい行いを守り、

   他人の過失と破戒を譏(そし)らないことは、菩薩の浄土である。

 この菩薩の建設した浄土には、

   禁じられた行いを犯すことは、

   その名さえないだろう(思いつきもしない)。

十善是菩薩淨土。菩薩成佛時命不中夭。大富梵行所言誠諦。常以軟語眷屬不離。善和諍訟言必饒益。不嫉不恚正見眾生來生其國

十善は、これ菩薩の浄土なり。菩薩、成仏の時、命中夭(ちゅうよう)せず、大いに富み、梵(きよ)き行い、言う所は誠にして諦(あきら)かに、常に軟語(なんご、ヤサシキ言葉)を以(もち)い、眷属離れず、よく諍頌(じょうしょう、イサカイ)を和し、言えば必ず饒益(にょうやく、利益を与う)し、嫉まず、恚(いか)らず、正見の衆生、その国に来生す。

 十善(じゅうぜん、殺さない、取らない、邪婬しない、嘘をつかない、悪口を言わない、二枚舌を使わない、物惜しみしない、決して怒らない、邪見に堕ちない)は、菩薩の浄土である。

 この菩薩の建設した浄土には、

   長命であり(不殺生の報)、

   大いに富み(不偸盗の報)、

   行いは清く(不邪婬の報)、

   常に誠を言って明朗であり(不妄語の報)、

   常に優しく言い(不悪口の報)、

   親属も仕える者たちも決して離れず、他人の諍い事を和睦せしめ(不両舌の報)、

   言葉は必ず有益であり(不綺語の報)、

   嫉まず(不慳貪の報)、

   怒らず(不瞋恚の報)、

   常に正しい見解(不邪見の報)を持った衆生が、

     他方世界から来て生まれるだろう。

如是寶積。菩薩隨其直心則能發行

かくの如く、宝積、菩薩は、その直心に随って、すなわち、よく発行(ほつぎょう、行動)す。

 このように、宝積、菩薩は、

   直心(じきしん、真直ぐな心)で行動するのだ。

隨其發行則得深心

その発行に随って、すなわち深心を得。

 その行動によって、

   深心(じんしん、深く信ずる心)を得る。

隨其深心。則意調伏

その深心に随って、すなわち意(こころ)調伏す。

 その深心によって、

   意志は調えられる。

隨意調伏則如

その意の調伏するに随って、すなわち説の如く行ず。

 その意志が調えられたことによって、

   仏の説の通りに行うことが出来る。

隨如說行則能迴向

説の如くに行ずるに随って、すなわち、よく廻向す。

 説の通りに行うことによって、

   菩提心(浄土の建設)に廻向(意を振り向ける)することが出来る。

隨其迴向則有方便

その廻向に随って、すなわち方便あり。

 廻向することによって、

   方便が可能になる。

隨其方便則成就眾生

その方便に随って、すなわち衆生を成就す。

 方便によって、

   衆生の心を仏と同じにすることが出来る。

隨成就眾生則佛土淨

衆生を成就するに随って、すなわち仏土浄(きよ)し。

 衆生の心を仏と同じにすることによって、

   仏土は浄まる。

隨佛土淨則說法淨

仏土の浄きに随って、すなわち法を説くこと浄し。

 仏土が浄まれば、

   あらゆる物事は浄まる。

法淨則智慧

法を説くこと浄きに随って、すなわち智慧浄し。

 あらゆる物事が浄まれば、

   智慧も浄まる。

隨智慧淨則其心淨

智慧浄きに随って、すなわち、その心浄し。

 智慧が浄まれば、

   心が浄まる。

隨其心淨則一切功德淨

その心の浄きに随って、すなわち一切の功徳浄し。

 心が浄まれば、

   一切の力は浄い。

是故寶積。若菩薩欲得淨土當淨其心。隨其心淨則佛土淨

この故に、宝積、もし菩薩、浄土を得んと欲せば、まさにその心を浄むべし。その心の浄きに随って、すなわち浄土浄し。』と。

 この故に、宝積、

   もし菩薩が、浄土を得ようと思えば、

   その心を浄めなくてはならない。

 その心が浄いことから、

   仏土は浄まるのだ。』と。

 

 

 

 

この土の清浄を明かす

爾時舍利弗。承佛威神作是念。若菩薩心淨則佛土淨者。我世尊本為菩薩時意豈不淨。而是佛土不淨若此

その時、舍利弗、仏の威神(いじん、)を承けて、この念(おもい)を作(な)さく、『もし菩薩が心浄ければ、すなわち仏土浄しとならば、我が世尊、もと菩薩たりし時、意(こころ)、豈(あに)不浄ならんや、しかもこの仏土の不浄なること、かくの如き。』と。

 その時、舍利弗は、

   仏の偉大な力により(即ち以下の舍利弗の質問は仏の威神により言わされた)、こう思いました、

『もし菩薩の心が浄ければ仏土も浄いと言うのならば、

   私の世尊は、かつて

     菩薩であった時、

     心が不浄であったということになる。そんなことがあろうか。

 しかしこの世界はこの通り不浄である。』と。

佛知其念即告之言。於意云何。日月豈不淨耶。而盲者不見

仏、その念(おもい)を知り、すなわち、これに告げて言(の)たまわく、『意に於いて云何(いかん)。日月は豈(あに)不浄ならんや、しかも盲者は見ずとは。』

 仏は、それを知って仰いました、

『これはどう思うか。どうして日月が不浄であるものか。しかし盲者は見ることが出来ない。』と。

對曰不也。世尊。是盲者過非日月咎

対(こた)えて曰く、『不なり。世尊、これ盲者の過(とが)にして、日月の咎(とが)には非ず』と。

 答えて言います、

『そうではありません、世尊。それは盲者の罪で、日月の罪ではありません。』

舍利弗。眾生罪故不見如來佛土嚴淨。非如來咎

『舍利弗、衆生の罪の故に、如来の仏土の荘厳なるを見ず。如来の咎には非ず。

 仏は仰います、

『舍利弗、

   如来(にょらい、)の仏土が荘厳であると見えないのは、

     衆生の罪なのだ。

     如来の罪ではない。

舍利弗。我此土淨而汝不見

舍利弗、我がこの土(ど)は浄けれど、汝は見ず』と。

 舍利弗、私の国土は浄い、しかしお前には、それが見えない。』と。

爾時螺髻梵王語舍利弗。勿作是意。謂此佛土以為不淨。所以者何。我見釋迦牟尼佛土清淨。譬如自在天宮

その時、螺髻梵王(らけいぼんおう)、舍利弗に語らく、『この意を作すことなかれ。謂わく、この仏土は、以って不浄と為すと。所以(ゆえ)は何に。我、釈迦牟尼仏の土を見るに、清浄なること、譬えば、自在天宮(じざいてんぐう)の如し』と。

 その時、螺髻梵王(らけいぼんのう、梵天王の髻(もとどり)が螺形(うづまき状)であることからこう呼ぶ)が舍利弗に語りました、

『この仏土は不浄であると思ってはなりません。なぜならば、

   私には釈迦牟尼仏の国土が清浄であると見えるからです。

   譬えば私の天に在る宮と同じようにです。』と。

舍利弗言。我見此土。丘陵坑坎荊蕀沙礫。土石諸山穢惡充滿

舍利弗言わく、『我、この土を見るに、丘陵(きゅうりょう)、坑坎(こうかん)、荊棘(けいきょく)、沙礫(しゃれき)、土石、諸山、穢悪(えあく)充満せり』と。

 舍利弗が言います、

『私には、この国土は、丘陵があり、坑(あな)や窪みがあり、イバラもあれば砂もあり、石も礫(れき、小石)もあり、土石、山々、このように汚い物が充満しています。』と。

螺髻梵言。仁者心有高下。不依佛慧故。見此土為不淨耳

螺髻梵言わく、『仁者(なんじ)が心に、高下あり。仏慧に依らざるが故に、この土を見て、不浄と為すのみ。

 螺髻梵が言います、

『あなたの心は平静でなく、

   仏の智慧で見ていない為に、

   この国土を見て不浄だと思うのです。

舍利弗。菩薩於一切眾生。悉皆平等。深心清淨。依佛智慧則能見此佛土清淨

舍利弗、菩薩は一切の衆生に於いて、悉く皆平等なり。深心清浄にして、仏慧に依れば、すなわち、よくこの土の清浄なるを見る』と。

 舍利弗、菩薩は、

   一切の衆生を悉く平等に見なければなりません。

     深く信ずる心が清浄(平等)ならば、

     仏の智慧によるのであれば、

   この国土を見て清浄だと思うことが出来ますよ。』と。

於是佛以足指按地。即時三千大千世界若干百千珍寶嚴飾。譬如寶莊嚴佛無量功德寶莊嚴土

ここに於いて、仏、足の指を以って、地を按(お)したまえば、即時に三千大千世界は、若干(そこばく)百千の珍宝厳飾(ごんじき)すること、譬えば、宝荘厳仏(ほうしょうごんぶつ、仏名)の無量功徳宝荘厳土(むりょうくどくほうしょうごんど、仏土名)の如し。

 ここで仏が足の指で地をお押しになりますと、

   即時に世界中が何百何千という宝石で飾られ、

   譬えば、宝荘厳仏(ほうしょうごんぶつ)の

     無量功徳宝荘厳土(むりょうくどくほうしょうごんど)のようになりました。

一切大眾歎未曾有。而皆自見坐寶蓮華

一切の大衆、未曾有(みぞう)を歎じ、しかも皆自ら宝蓮華(の座に)に坐するを見る。

 一切の大衆(だいしゅ、会坐に列席する者たち)は、

   未曽有の出来事に驚嘆しました。

 そして気が付いて見回しますと、皆

   自ら宝で出来た蓮華の中に坐っていたのです。

佛告舍利弗。汝且觀是佛土嚴淨

仏、舍利弗に告げたまわく、『汝、且(しばら)く、この仏土の厳浄(ごんじょう)なるを観よ。』

 仏は舍利弗に言われました、

『まず、この仏土が厳かにして浄いことを観よ。』と。

舍利弗言。唯然世尊。本所不見。本所不聞。今佛國土嚴淨悉現

舍利弗言わく、『唯(ゆい、ハイと返事)、然り世尊、もと見ざる所、もと聞かざる所なり。今、仏国土の厳浄なること、悉く現る。』

 舍利弗が言います、

『唯(ゆい、ハイ)、その通りです、世尊。

   今まで見たことも聞いたこともありません。今初めて、

   この仏国土が厳かに浄くなって、悉く現れました。』と。

佛語舍利弗。我佛國土常淨若此。為欲度斯下劣人故。示是眾惡不淨土耳

仏、舍利弗に語りたまわく、『我が仏国土、常に浄きこと是の如し。この下劣人を度せんと欲するが故に、この衆悪、不浄の土を示すのみ。

 仏は舍利弗に語られました、

『私の国土はこのように浄い。

   お前のような劣った人を教えようとして、

   不浄の国土を示しているのだ。

譬如諸天共寶器食隨其福德飯色有異

譬えば、諸天の如きは、宝器を共にして食すれども、その福徳に随って、飯色に異なりあり。

 譬えば、諸天は、同じ一つの宝の器で食事をしているが、その過去の善行によって、飯の色が異なっている。

如是舍利弗。若人心淨便見此土功德莊嚴

かくの如く舍利弗、もし人の心浄くば、すなわち、この土の功徳荘厳を見ん。』

 このように、舍利弗、

   もし人の心が浄ければ、

     この国土の持っている荘厳を見ることが出来るのだ。』と。

當佛現此國土嚴淨之時。寶積所將五百長者子皆得無生法忍。八萬四千人皆發阿耨多羅三藐三菩提心

仏、この国土の厳浄なるを現したもうの時に当たりて、宝積の将(ひきい)る所の五百の長者子、皆無生法忍(むしょうほうにん、仏道に不退転)を得、八万四千人は皆阿耨多羅三藐三菩提心(仏道に向かう心)を発せり。

 仏がこの国土が厳かに浄いことを、お現しになった、ちょうどその時、

   宝積に率いられた五百の長者子たちは、皆

     無生法忍(むしょうほうにん、真理に目覚め仏道に不退)となり、

   八万四千人は、皆

     阿耨多羅三藐三菩提心(あのくたらさんみゃくさんぼだいしん、仏に成ろうという決心)を

       発(おこ)しました。

佛攝神足。於是世界還復如故

仏、神足を摂(おさ)めたもう。ここに於いて世界は、また故(もと)の如く復す。

 仏が神通力を収められますと、世界はまた本の通りになりました。

求聲聞乘三萬二千天及人。知有為法皆悉無常。遠塵離垢得法眼淨

声聞乗を求むる三万二千の天および人、『有為法(ういほう、世間の物事)は皆悉く無常なり』と知り、塵(じん、見聞きする所)を遠ざけ、垢(く、心の垢、煩悩)を離れ、法眼浄(ほうげんじょう、真実を見極める濁らない眼)を得(う)。

 声聞乗(しょうもんじょう、自ら悟りを開き心の平静を求めること)を求める三万二千の人や天たちは、

   『世間の物事は、皆悉く無常である』と知り、

   見聞きする事に心を遠ざけ、

   煩悩を離れて、

     真実を見極める濁らない眼を得ることができました。

八千比丘不受諸法漏盡意解

八千の比丘、諸法を受けずして、漏(ろ、煩悩)尽き、意(い、心)解(げ、理解)す。

 八千人の比丘は、あらゆる物事に捉われず、煩悩が尽きて、心が自在になりました。

 

 

 

 

方便品第二

方便品第二

方便品第二(ほうべんぼんだいに)

 維摩詰、方便して疾に因りて法を説く。

 

 

維摩詰(ゆいまきつ)

爾時毘耶離大城中有長者名維摩詰。已曾供養無量諸佛深植善本。得無生忍。辯才無礙。遊戲神通逮諸總持。獲無所畏降魔勞怨。入深法門善於智度。通達方便大願成就。明了眾生心之所趣。又能分別諸根利鈍。久於佛道心已純淑決定大乘。諸有所作能善思量。住佛威儀心大如海。諸佛咨嗟弟子。釋梵世主所敬

その時、毘耶離大城(びやりだいじょう)の中に長者あり、維摩詰(ゆいまきつ)と名づく。

すでに、かつて無量の諸仏を供養し、深く善本(ぜんぽん、善業)を植え、無生忍(むしょうにん、無我)を得、辯才(べんざい、弁説の才能)無礙(むげ、自在)にして、神通に遊戯(ゆげ、自在)し、諸の総持(そうじ、不忘失)に逮(およ、獲得)び、無所畏(むしょい、説法自在)を獲(え)、魔の労怨(ろうおん)を降し、深法(じんぽう)の門に入り、智度(ちど、般若波羅蜜)を善くし、方便(ほうべん、衆生を救う手段)に通達(つうだつ)し、大願成就し、衆生の心の趣く所を明了にし、また、よく諸根の利鈍を分別し、久しく仏道に於いて、心すでに純熟(じゅんじゅく、成就)し、大乗を決定し、諸の有らゆる所作、よくよく思量し、仏の威儀(いぎ、行住坐臥)に住して、心の大なること海の如く、諸仏は咨嗟(しさ、感嘆)し、弟子、釈、梵、世主の敬う所なり。

 その時、毘耶離大城(びやりだいじょう)に一人の長者が居りました。名を維摩詰(ゆいまきつ)といいます。

 すでに、代々の過去の世に於いて、

   無量の諸仏を供養し、

   深く善業(ぜんごう、善い行い)を行い、

   諸法(あらゆる物事)の実相(真実のスガタ)に通じて、

   説法すれば弁舌も爽やかに、

   自在に神通力を操り、

   過去世に於いて聞いた善法を忘れず、

   自信に溢れた説法をして、

   欲魔(欲望から生ずる苦悩)身魔(身心から生ずる苦悩)死魔(寿命の短きこと)天魔(災難)を

     受け付けず、大乗の門に入って、

   般若波羅蜜(はんにゃはらみつ、衆生を救う智慧)を会得し、

   方便(衆生を救う種々の方法)に通達し、

   菩薩の大願(国土を浄めること)を成就し、

   衆生の考えていることに明通し、

   個々の衆生の性格の違いをよく知り、

   ずっと以前から仏と同じ心を持ち、

   大乗を確信し、

   あらゆる行為はよく考えられていて、

     仏を同じ行為をし、

     心は大きく海のようです。

 

 諸仏には感嘆され、

   仏弟子、帝釈、梵天、世主天には敬われていました。

欲度人故以善方便居毘耶離

人を度せんと欲するが故に、善方便を以って、毘耶離に居り、

 人々を導く為に、

   善方便(それを良い方法と考えて)して、毘耶離に居ります。

資財無量攝諸貧民

資財、無量にして、諸の貧民を摂(せつ、摂受、救い取る)し、

 資財は無量ですので、

   諸の貧民を養い、

奉戒清淨攝諸毀禁

戒を奉じ清浄にして、諸の毀禁(ききん、犯戒の者)を摂し、

 常に戒を持して清浄ですが、

   諸の戒を犯した者をも差別せず、

以忍調行攝諸恚怒

忍調(にんちょう、忍耐)の行を以って、諸の恚怒(いぬ、怒りを持つ者)を摂し、

 忍耐で行いを調えながらも、

   諸の怒りを持つ人を受け入れ、

以大精進攝諸懈怠

大精進を以って、諸の懈怠(けたい、怠け者)を摂し、

 常に精進して怠けませんが、

   怠け者を認めてやり、

一心禪寂攝諸亂意

一心禅寂(ぜんじゃく、寂静)にして、諸の乱意(の者)を摂し、

 一心を貫き心が乱れませんが、

   心が定まらず散乱する者には待ってやり、

以決定慧攝諸無智

決定の慧を以って、諸の無智(の者)を摂し、

 絶対的な智慧で、

   無智の者には優しく教えてやり、

雖為白衣奉持沙門清淨律行

白衣(びゃくえ、俗人)たりといえども、沙門(しゃもん、出家)の清浄の律行(りつぎょう、戒律による修行)を奉持(ぶじ、支う)し、

 俗人ですが、

   沙門(しゃもん、出家)が戒律を守って

   清浄であることを支え、

雖處居家不著三界

居家(こけ、在家)に処するといえども、三界に著(じゃく、執著)せず、

 在家ですが、

   俗世間の物事には執著せず、

示有妻子常修梵行

妻子あることを示せども、常に梵行(ぼんぎょう、清浄無欲の行)を修め、

 妻子がありますが、

   清浄無欲の行いを修め、

現有眷屬常樂遠離

眷属(けんぞく、家族)あることを現わせども、常に遠離(おんり、一切の繫縛を離る)を楽(ねが)い、

 家族と使用人は有りますが、

   それに縛られず、

雖服寶飾而以相好嚴身

宝飾(ほうじき)を服すといえども、相好(そうごう、仏の容貌)を以って、身を厳(かざ)り、

 金銀宝石で身を飾りますが、

   仏と同じく相好(そうごう、偉大さを表す顔形の特徴)で身を厳(かざ)り、

雖復飲食而以禪悅為味

また飲食すといえども、禅悦を以って味(あじわい)と為し、

 飲食はしますが、

   心が乱れない楽しみを味わい、

若至博弈戲處輒以度人

もしくは博奕(ばくえき、賭博)の戯処(けじょ)に至りても、すなわち以って人を度し、

 もし賭博遊技場に入っても、

   容易に人々を正道に導き、

受諸異道不毀正信

諸の異道を受くれども、正信を毀(やぶ)らず、

 種々の外道の法を学びましたが、

   大乗を捨てず、

雖明世典常樂佛法

世典(せてん、世俗の典籍)に明らかなりといえども、常に仏法を楽しみ、

 世俗の書籍に明らかですが、

   常に仏法を楽しみ、

一切見敬為供養中最

一切(の人)に敬われて、供養せらるる中の最たり。

 一切の人に敬われ、最も多く供養されます。

執持正法攝諸長幼

正法を執持(しゅうじ)して、諸の長幼を摂し、

 正法を堅持して、年長にも幼少にも懐かれ、

一切治生諧偶雖獲俗利不以喜悅

一切の治生(じしょう、生業)諧偶(かいぐう、順調)して、俗利を獲(う)といえども、喜悦を以ってせず。

 あらゆる生業は順調であり、

   俗世の利益を得てはいますが、

   それを喜ぶことは致しません。

遊諸四衢饒益眾生

諸の四衢(しく、繁華街)に遊べども、衆生を饒益(にょうやく、利益を与う)し、

 繁華街に出ては、

   衆生を教え導き、

入治政法救護一切

治政(じしょう)の法に入りて、一切を救護(くご)し、

 世俗の法律を定めて、

   民を罪から護り、

入講論處導以大乘

講論の処に入りては、導くに大乗を以ってし、

 講義、討論の場では、

   大乗を以って導き、

入諸學堂誘開童蒙

諸の学堂に入りては、誘いて童の蒙(もう、無智)を開き、

 諸の学校に出入りして、

   子供たちを無智から開放し、

入諸婬舍示欲之過

諸の婬舎(いんしゃ、娼家)に入りては、欲(欲情)の過(とが)を示し、

 諸の娼家に出入りして、

   欲情の罪を教示し、

入諸酒肆能立其志

諸の酒肆(しゅし、酒場)に入りては、よくその志を立つ。

 諸の酒場では、

   その志を立てて忘れず(酒は放逸せしめ、志を失わす)、

若在長者長者中尊為說勝法

もし長者(ちょうじゃ、財産家)に在りては、長者中の尊(そん、尊敬せらるる者)として、為に勝法を説き、

 長者の集まりでは、皆に尊敬されて、

   勝れた法を説き、

若在居士居士中尊斷其貪著

もし居士(こじ、在俗の信者)に在りては、居士中の尊として、その貪著(とんじゃく、貪愛執著)を断ち、

 居士(資産家の仏教信者)の集まりでは、皆に尊敬されて、

   貪欲と執著の罪から解き放ってやり、

若在利中尊教以忍辱

もし刹利(せつり、王族)に在りては、刹利中の尊として、教うるに忍辱(にんにく、忍耐)を以ってし、

 王族の集まりでは、皆に尊敬されて、

   忍耐の持つ力を教えてやり、

若在婆羅門婆羅門中尊除其我慢

もし婆羅門(ばらもん、学問呪術族)に在りては、婆羅門中の尊として、その我慢(がまん、高慢)を除き、

 婆羅門の集まりでは、皆に尊敬されて、

   その慢心の罪を除いてやり、

若在大臣大臣中尊教以正法

もし大臣に在りては、大臣中の尊として、教うるに正法を以ってし、

 大臣の集まりでは、皆に尊敬されて、

   正法(大乗)の素晴らしさを教えてやり、

若在王子王子中尊示以忠孝

もし王子に在りては、王子中の尊として、示すに忠孝を以ってし、

 王子たちの集まりでは、皆に尊敬されて、

   忠(よく君に仕えること)と孝(よく親に仕えること)を教えてやり、

若在內官內官中尊化政宮女

もし内官(ないかん、後宮の官)に在りては、内官中の尊として、化(け、教化)して宮女を政(ただ)し、

 内官(女官)の集まりでは、皆に尊敬されて、

   物事を整える方法を教えてやり、

若在庶民庶民中尊令興福力

もし庶民に在りては、庶民中の尊として、福力(ふくりき、福徳の果報を受くべき善業)を興さしめ、

 庶民の集まりでは、皆に尊敬されて、

   良い結果を生む方法を教えてやり、

若在梵天梵天中尊誨以勝慧

もし梵天に在りては、梵天中の尊として、誨(おし)うるに勝慧を以ってし、

 梵天の集まりでは、皆に尊敬されて、

   圧倒的な智慧で教え導き、

若在帝釋帝釋中尊示現無常

もし帝釈(たいしゃく、仏教護持の神々)に在りては、帝釈中の尊として、無常を示現し、

 帝釈の集まりでは、皆に尊敬されて、

   世間は無常であることを教示してやり、

若在護世護世中尊護諸眾生

もし護世(ごせ、四天王)に在りては、護世中の尊として、諸の衆生を護らしむ。

 護世(ごせ、四天王)の集まりでは、皆に尊敬されて、

   諸の衆生を護らせています。

 

 

 

 

維摩詰病む

長者維摩詰。以如是等無量方便饒益眾生。其以方便現身有疾

長者維摩詰、かくの如き等の、無量の方便を以って、衆生を饒益(にょうやく、利益を与う)す。

それ、方便を以って、身に疾(やまい)あることを現ず。

 このように長者維摩詰は、

   無量の方便(方法)で、

   衆生を教え導いていますが、

 今また

   方便として病気になってみせました。

以其疾故。國王大臣長者居士婆羅門等。及諸王子并餘官屬。無數千人皆往問疾

その疾を以っての故に、国王、大臣、長者、居士、婆羅門等、および諸の王子、ならびに余の官属、無数千人、皆往きて疾を問う。

 それを聞いて、国王、大臣、長者、居士、婆羅門等、および諸の王子、並びにその他の官属たちの、

   無数千人が、皆、

     見舞いに訪れました。

其往者。維摩詰因以身疾廣為說法

その往く者には、維摩詰、ちなみに身の疾を以って、為に法を説く。

 その人たちに、維摩詰は、自らの身の疾を見せて、それを種に説法します。

諸仁者。是身無常無強無力無堅。速朽之法不可信也。為苦為惱眾病所集

『諸仁者(しょにんじゃ、ミナサン)、この身は無常なり。強くなく、力なく、堅くなく、速やかに朽(く)つるの法(ほう、モノ)にして、信ずべからず。苦(く)たり、悩(のう)たり、衆病の集まる所なり。

 『皆さん、この身は無常です。

   強くなく、力なく、堅固でなく、速やかに朽ち果てるものですから、信じてはいけません。

   この身は苦しみであり、悩みであり、多くの病が集まる所です。

諸仁者。如此身明智者所不怙

諸仁者、この身の如きは、明智の者の怙(たの、頼る)まざる所なり。

 皆さん、このような身は、

   智慧の有る人は、

   誰も頼みにしていません。

是身如聚沫不可撮摩

この身は、聚沫(じゅまつ、飛沫)の如く、撮摩(さつま、触れる)すべからず。

 この身は、水の滴のように、

   触れれば消えてしまいます。

是身如泡不得久立

この身は、泡の如く、久しく立つことを得ず。

 この身は、泡のように、

   永く立っていることは出来ません。

是身如炎從渴愛生

この身は、炎(かげろう)の如く、渇愛(かつあい、渇くように欲する)より生ず。

 この身は、陽炎(カゲロウ)のように、

   渇愛から生まれるのです(欲しいと思うから生ずる)。

是身如芭蕉中無有堅

この身は、芭蕉(の幹)の如く、中は堅なるもの有ること無し。

 この身は、芭蕉の幹のように、

   堅く詰まったものではありません。

是身如幻從顛倒起

この身は、幻の如く、顛倒(てんどう、妄想)より起こる。

 この身は、幻のように、

   妄想から起こるのです。

是身如夢為虛妄見

この身は、夢の如く、虚妄の見(けん、所見)と為す。

 この身は、夢のように、

   見えた物は虚妄(こもう、真実でない)です。

是身如影從業緣現

この身は、影の如く、業縁(ごうえん、過去の行為と因縁)より現る。

 この身は、影のように、

   過去の行為が因縁して現れます。

是身如響屬諸因緣

この身は、響(ひびき、コダマ)の如く、諸の因縁に属す。

 この身は、響(コダマ)のように、

   ただ因縁によって作られた物です。

是身如浮雲須臾變滅

この身は、浮雲の如く、須臾(しゅゆ、短時間)に変滅す。

 この身は、浮雲のように、

   瞬間瞬間に変形し、生滅します。

是身如電念念不住

この身は、電(イナズマ)の如く、念念(瞬間瞬間)にも住(とど)まらず。

 この身は、電(イナズマ)のように、

   一瞬の間も住(とど)まりません。

是身無主為如地

この身は、無主にして、地の如しと為す。(土地には常主なし

 この身は、主がありません。

   地面のようです。

是身無我為如火

この身は、無我にして、火の如しと為す。(やがて消える

 この身は、無我です。

   火のように輝き、やがて消えてしまいます。

是身無壽為如風

この身は、無寿にして、風の如しと為す。(働きはあれど本体なし

 この身は、長寿ではありません。

   風のように力を出して、やがて消えて行きます。

是身無人為如水

この身は、無人にして、水の如しと為す。(六道を経巡る

 この身は、人ではありません。

   水のように(地獄餓鬼畜生人間天上を)循環して流れるのです。

是身不實四大為家

この身は、実にあらずして、四大(しだい、地水火風)を家と為す。

 この身は、実体がありません。

   四大(しだい、地水火風)で出来た家なのです(壊れれば家の相なし)。

是身為空離我我所

この身は、空にして、我(が、ワレ)と我所(がしょ、ワガモノ)を離る。

 この身は、空です。

   我(が、ワレ)も我所(がしょ、我が身心)も無いのです。

是身無知如草木瓦礫

この身は、無知にして、草木瓦礫の如し。

 この身は、無知です。

   草木瓦礫のように真実に無関心なのです。

是身無作風力所轉

この身は、無作(むさ、無作主)にして、風の力に転ぜらる。

 この身は、自らの意志で行為しません。

   風の力で転がされているのです。

是身不淨穢惡充滿

この身は、不浄たり、穢悪(えあく、汚きもの)充満す。

 この身は、不浄です。

   汚い物が充満しています。

是身為虛偽。雖假以澡浴衣食必歸磨滅

この身は、虚偽たり。仮に、澡浴衣食を以ってすといえども、必ず磨滅に帰す。

 この身は、虚偽です。

   澡浴して着飾り、物を食べたりしますが、必ず

   磨り減ってしまうのです。

是身為災百一病惱

この身は、災たり、百一病の悩みあり。

 この身は、災いです。

   百一の病に悩まされます。

是身如丘井為老所逼

この身は、丘井(きゅうせい、廃墟の井戸)の如く、老いの為に逼(せま)らる。

 この身は、廃墟の井戸です。

   やがて老いさらばえて、水を出さなくなりましょう。

 

  丘井(きゅうせい):丘墟(きゅうきょ、廃墟)の井戸と解釈したが、井(せい)は周代の土地区画で、八戸を井、四井を邑(ゆう)、四邑を丘(きゅう)と呼ぶので、あるいはこれのことか。

是身無定為要當死

この身は、定(じょう、定まれる寿命)なく、要(かなら)ず、まさに死すべしと為す。

 この身は、定まった寿命がありません。

   いつか必ず死ぬのです。

是身如毒蛇如怨賊如空聚。陰界諸入所共合成

この身は、毒蛇の如く、怨賊の如く、空聚(くうじゅ、空き部落)の如く、陰界諸入(おんかいしょにゅう、身心と環境)の共に合成する所なり。

 この身は、毒蛇のように、怨敵、盗賊のように、無住の聚落のように、歓迎すべからざるものです。

   ただ多くの物の寄せ集めなのです。

諸仁者。此可患厭當樂佛身

諸仁者、これ患厭(げんえん)すべし。まさに仏身を楽(ねが)うべし。

 皆さん、この身は、患(わずら)わしく厭うべきものです。

   永遠に楽しむべき仏身を持ちましょう。

所以者何。佛身者即法身也

所以(ゆえ)は何に。仏身とは、すなわち法身(ほっしん、真如)なり。

 なぜならば、

   仏身とは、法身(ほっしん、真如)なのです。

從無量功德智慧生

無量の功徳(くどく、衆生を済う力)の智慧より生ず。

 無量の功徳()と智慧とから出来上がっています。

從戒定慧解脫解脫知見生。從慈悲喜捨生。從布施持戒忍辱柔和勤行精進禪定解脫三昧多聞智慧諸波羅蜜生。從方便生。從六通生。從三明生。從三十七道品生。從止觀生。從十力四無所畏十八不共法生

戒、定、慧、解脱、解脱知見(げだつちけん、已に解脱せることを知る)より生ず。布施、持戒、忍辱(にんにく、耐え忍ぶ)、柔和、勤行、精進、禅定(ぜんじょう、心を平静に保つ)、解脱(げだつ、煩悩の繫縛から脱する)、三昧(さんまい、一心に行う)、多聞、智慧の諸の波羅蜜(はらみつ、仏となる為の道)より生ず。方便より生ず。六通(ろくつう、不思議な能力)より生ず。三明(さんみょう、不思議な能力)より生ず。三十七道品(さんじゅうしちどうほん、仏となる為の修行)より生ず。止(し、禅定)観(かん、智慧)より生ず。十力(じゅうりき、仏の智慧)、四無所畏(しむしょい、仏、菩薩のもつ自信)、十八不共法(じゅうはちふぐうほう、仏、菩薩のみがもつ功徳)より生ず。

 持戒と禅定と智慧と解脱と解脱知見(げだつちけん、解脱したことを知る)とから生まれます。

 布施(与える)と

 持戒(取らない)と

 忍辱(にんにく、取られても怒らない)と柔和と

 勤行と精進と

 禅定と解脱と三昧(さんまい、一心)と

 多聞と智慧との

   諸の波羅蜜(はらみつ、以上を意識せず自然に行う仏の行為)から生まれます。

 方便から生まれます。

 神通力から生まれます。

 三明から生まれます。

 三十七道品(さんじゅうしちどうほん、菩薩の修行項目)から生まれます。

 四無所畏(しむしょい、仏の持つ説法に対する自信)から生まれます。

 十八不共法(じゅうはちふぐうほう、仏だけが持つ力)から生まれます。

 

  五分法身(ごぶんほっしん):小乗の考えではあるが、仏の法身を五種の功徳の集まりとする。

    (1)戒(かい):如来の身口意の三業は、一切の過を離れる。

    (2)定(じょう):如来の心は寂静にして、一切の妄念を離れる。

    (3)慧(え):如来の真智は、一切の本性を観達する。

    (4)解脱(げだつ):如来の身心は、一切の繫縛を解脱する。

    (5)解脱知見(げだつちけん):如来は、すでに一切の繫縛を解脱したことを知る。

  六神通(ろくじんつう):仏と大力の菩薩と転輪聖王の持つ六種の超能力をいう。

    (1)神足通(じんそくつう):如意(にょい)ともいい、即時に何処にでも行くことが出来る能力。

    (2)天眼通(てんげんつう):世間の全てを見通す能力。

    (3)天耳通(てんにつう):世間の全てを聞く能力。

    (4)他心通(たしんつう):他の心を全て知る能力。

    (5)宿命通(しゅくみょうつう):自他の過去世を全て知る能力。

    (6)漏尽通(ろじんつう):煩悩(ぼんのう)が全くないこと。

  三明(さんみょう):六神通の中の、天眼、宿命、漏尽をいう。

從斷一切不善法集一切善法生

一切の不善法(ふぜんほう、他を害する)を断じ、一切の善法(ぜんぽう、他の為になる)を集むるより生ず。

 一切の不善法(他を害する行い)を断じ、

 一切の善法(他の為になる行い)を集めることから生まれます。

從真實生

真実より生ず。

 真実から生まれます。

從不放逸生

不放逸より生ず。(持戒の生活

 放逸でないこと(持戒の生活)から生まれます。

從如是無量清淨法生如來身

かくの如きの無量の清浄の法より、如来の身は生ずるなり。

 このような無量の清浄(自己の為を図らない)の法から如来の身は生まれるのです。

諸仁者。欲得佛身斷一切眾生病者。當發阿耨多羅三藐三菩提心

諸仁者、仏身を得て一切の衆生の病を断ぜんと欲する者は、まさに阿耨多羅三藐三菩提心を発すべし。

 皆さん、仏身を得て、

   一切の衆生の病を断とうと思うのならば、

 まさに

   阿耨多羅三藐三菩提心(あのくたらさんみゃくさんぼだいしん、仏身を得んと志す心)を

     発さなくてはなりません。』と。

如是長者維摩詰。為諸問疾者如應說法。令無數千人皆發阿耨多羅三藐三菩提心

かくの如く長者維摩詰、諸の疾を問う者の為に、応ずるが如く(時、場所、人に適応した)法を説き、無数千人をして、皆阿耨多羅三藐三菩提心を発さしむ。

 このように長者維摩詰は、諸の見舞いの者に、相手に相応しく説法し、

   無数千人をして皆

   阿耨多羅三藐三菩提心を発させました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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