般 |
若 |
心 |
経 |
入 |
門 |
(下)
全 文
摩訶般若波羅蜜多心経 |
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五 |
蘊皆空度一切苦厄舎利子色不異空空不 |
異色色即是空空即是色受想行識亦復如 |
是舎利子是諸法空相不生不滅不垢不浄 |
不増不減是故空中無色無受想行識無眼 |
耳鼻舌身意無色声香味触法無眼界乃至 |
無意識界無無明亦無無明尽乃至無老死 |
亦無老死尽無苦集滅道無智亦無得以無 |
所得故菩提薩埵依般若波羅蜜多故心無 |
罣礙無罣礙故無有恐怖遠離一切顛倒夢 |
想究竟涅槃三世諸仏依般若波羅蜜多故 |
得阿耨多羅三藐三菩提故知般若波羅蜜 |
多是大神咒是大明咒是無上咒是無等等 |
咒能除一切苦真実不虚故説般若波羅蜜 |
多咒即説咒曰 |
掲諦 掲諦 波羅掲諦 波羅僧掲諦 |
菩提薩婆訶 般若心経 |
目 次
摩訶般若波羅蜜多心経 |
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観自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空。度一切苦厄 |
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舎利子。 |
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色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。 受想行識亦復如是 |
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舎利子。是諸法空相。不生不滅。不垢不浄。不増不減 |
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是故空中。無色。無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色声香味触法。 無眼界。乃至無意識界 |
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無無明。亦無無明尽。乃至無老死。亦無老死尽 |
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無苦集滅道。無智亦無得。以無所得故。 |
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菩提薩埵依般若波羅蜜多。故心無罣礙。 無罣礙故。無有恐怖。遠離一切顛倒夢想。究境涅槃 |
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三世諸仏。依般若波羅蜜多故。得阿耨多羅三藐三菩提 |
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故知般若波羅蜜多。是大神咒。是大明咒。是無上咒。是無等等咒 能除一切苦。真実不虚。 |
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故説般若波羅蜜多咒。即説咒曰 掲諦 掲諦 波羅掲諦 波羅僧掲諦 菩提薩婆訶 般若心経
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題 号
摩訶般若波羅蜜多心経 |
偉大なる般若波羅蜜多について、心髄の経 |
摩訶(まか)とは偉大なという意味です。般若波羅蜜多(はんにゃはらみった)が偉大であるために、摩訶というのです。大般若経(600巻、詳しくは大般若波羅蜜多経、玄奘訳)の大もおなじ意味です。なぜ偉大なというかといいますと、一説によりますと、この般若波羅蜜多は、全ての仏教的なもの、全ての良いものを、生み出す母であるから、偉大なと言うとあります。波羅蜜多は第一部では、波羅蜜(はらみつ)といっていました。訳者により、鳩摩羅什(くまらじゅう)は波羅蜜といい、玄奘(げんじょう)は波羅蜜多といいます。 般若波羅蜜多については、すでに第一部で説明しました。しかし第二部を始めるに当って、もう一度説明することにしましょう。
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般若波羅蜜多は六波羅蜜の一部で知恵の一種です。菩薩(菩提薩埵:菩提を求める人)は生活として六波羅蜜を行いながら、つねにこれを追い求めているのです。どうしてかといいますと、この般若波羅蜜多が増大することにより、菩薩はより楽に、六波羅蜜を行うことが出来るからなのです。 では菩薩の求めるもう一つのもの、菩提とは何でしょうか。ふつう、これを悟りと訳したり、悟りの知恵などと訳しているようですが、これでは、わかる人にはわかると言った程度で、そのまま菩提と言ったのと、さほどの違いがあるとは言えません。 知恵といいましても、いろいろあります、たとえば、この子は知恵があるとか、あるいは、大工には大工の知恵がある、料理人の知恵だといった具合です。これは悟りという言葉についても言えることで、やはり何を悟ったかが、たいへん重要な意味をもちます。そのことを理解していないと、悟りという言葉が、その本来の意味を発揮できません。 仏(ほとけ)ということばも、全てを悟った人と言うような説明をされますと、つい理解したような気がしますが、やはりある枠内で考えませんと、仏が料理に堪能であったり、大工の仕事にくわしかったりと、ついこのようなことが起こったりも致します。 このような理由がありますので、菩提も、仏も、悟りも、知恵も、すべてを、仏教という、ある目的をもった教えという枠内で考えなくてはならないのです。 その上で初めて、われわれは菩提とは、すなわち全ての生き物の幸福をめざすための知恵、あるいは、そのための方法、またそれらの獲得を表す言葉であると、知ることが出来、またその上さらに、菩薩の行動をみてみれば、すなおに納得できるのです。
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仏教というものは、また全ての人を、仏にしたいということを、目的にしています。では仏とはどのような人を言うのでしょう。 我々の知っている、いちばんポピュラーな仏はといえば、すぐに阿弥陀仏を思いうかべますが、この仏は、いちばん端的に仏とは何かを表わす仏であると言えます。 阿弥陀仏は、非常に長い間の六波羅蜜の実践により、その悲願のとおりに、極楽世界という、一切の苦しみのない世界、そこでは全ての生き物が幸福である世界という、いわば理想的な世界を、はるか昔に建設して、今にいたる仏として、よく知られています。そして、それと同じ枠内で、われわれは菩提も、仏も、悟りも、知恵も考えなくてはなりません。 われわれはまた、般若波羅蜜多を考えるとき、菩提を求める人(菩薩、菩提薩埵)の、全ての生き物を幸福にするための実践行動、すなわち六波羅蜜の枠内で考えなくてはならないのです。
第一部では、精進波羅蜜を船のへさきであると言いました、その例に倣えば、般若波羅蜜は船体を護る、強固な鋼鉄の船殻として、菩薩の心を強固に護るものと言えます。その訳は、だんだんと明らかになります。
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経 文
観自在菩薩は、観世音菩薩あるいは観音菩薩の別名です。玄奘が翻訳するとき、時の皇帝の諱(いみな)に、世字がふれるため、それを避けて観自在と訳したと、むかし聞いたことがありますが、あるいは、そのような事が有ったのかも知れません。 またこの菩薩は別名を、大慈大悲、あるいは大悲、また施無畏者(せむいしゃ)といいます。 観自在は、よく世の中の音(こえ)のするほうを観(み)て、自在に大慈、大悲、無畏を施す菩薩であるために、そのような名で呼ばれるのです。なお慈悲といいますが、慈とは楽を与えること、悲とは苦を抜くことをいいます。
この短い経典では、すべての言葉に重要な意味があります。他の有名な菩薩である、弥勒菩薩、文殊菩薩、普賢菩薩、勢至菩薩等ではなく、なぜ観自在菩薩なのかについても、その意味を考えなくてはなりません。 この菩薩は、さまざまな経典で、その働きを称えられています。いわく三十三に変化して、苦しむ衆生(しゅじょう:あらゆる生き物のこと)を救う、いわく極楽の衆生を教化しながら、他の穢れた世界に自在に生まれて、その世界の苦の衆生を救う、いわく十一の顔を持って、つねに八方を観はり、衆生を救う、千の手と千の目を持って、さまざまな手段で衆生を救うというように、つねに積極的に行動して、衆生を救う様子は、まさに六波羅蜜の実践者として理想的なのです。
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般若心経は、この菩薩は、どのような方法で偉大な六波羅蜜の実践者となることになったのか、それを回想することから始まります。 ここで少しだけ注意してください。深は浅に対応する言葉で、一切は一部に対応する言葉です。つまり菩薩は五蘊皆空と理解することによって、浅い般若波羅蜜多を深い般若波羅蜜多に進化させることが出来、あわせて一部のものを救うという限定的な状態を、無限の救済を意味する一切に進化させることが出来たのです。 ここに般若波羅蜜多に関する重要なヒントがあります。般若波羅蜜多の全てではなく、重要な一部が五蘊皆空を理解することにあると言うのです。
このような訳で、この一句は、現代語訳すると、次のようになります。
この観自在菩薩も、修行中には、六波羅蜜を行うといっても、まだ浅い段階の般若波羅蜜多であったのでしょう。そしてある日、我々の身体と心とは、空であると気がつき、また理解されました。その結果として、般若波羅蜜多は最高の段階に達し、全ての生き物を救うことが、出来るようになったということが、この一句のもつ意味なのです。
なお深き般若波羅蜜多を行ずるというのは、般若波羅蜜多でもって六波羅蜜を代表させ、かつ般若波羅蜜多という知恵を深く極めることをいいます。 その訳は、般若波羅蜜多は単独に存在しているのではなく、六波羅蜜の一部としてのみ存在しているからです。 たとえば茶の湯の稽古を引き合いにだして考えてみますと、まづ茶の手前を稽古して、その結果として茶の心が分かり、またその結果、手前が上達します。同じように布施持戒忍辱精進静慮の各波羅蜜を行うことにより、知恵である般若波羅蜜多が心に形成され、その結果、他の五波羅蜜が楽に出来るようになるのです。
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五蘊とは、我々の身体と心を形づくる、五つの要素をいいます。 第一の色は身体をあらわし、第二からの受想行識は、心の働きの四要素をいいます。われわれは色から受けた感覚により、自分の心の中に、いままで蓄積した記憶と知識をもとにして、あるイメージを形づくります。それらは、われわれの記憶と知識のなかに蓄積され、やがて、われわれの自我を形成するのです。 このような自我は、ただ我々の記憶と知識の中に存在するのみで、言ってみれば確固とした存在ではなく、しかも五蘊のそれぞれにおいて、間違った情報にさらされます。
このような訳で菩薩は、われわれの身体と心は空であると、理解されたのです。ここで言う空とは、たとえば飴の入った箱があり、このなかには飴があると思っていたところ、ある日それがなくなっていたということです。 このように、存在していると思っていたものが、実は存在していなかったという、ある種の驚きを言い表した言葉が空なのです。 無と空とは、どう違うかというと、空にはこのように、思っているものが無いという微妙な違いがありますが、しかしそれは決定的な違いが有るとも、ないとも考えてはならないことで、ただ文脈の上で意味を持つ違いと考えてください。
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十二縁起は、我々の受ける苦しみは、自らの空性を知らないことに原因があると、教えていますが、この一句では、我々は自らの空性を知ることによって、一切の苦しみ、全ての生き物を、その受ける苦しみから救うことが出来る、と言っているのです。この違いは大きく、ここに空性を知ると言うことの、大乗的な考えを見ることができます。 この一句を、たんなる地の文と考えるか、あるいは世尊の言葉ととるかは、多少もんだいとなるところではありますが、全体としては、世尊の言葉としたほうが、より自然であり、またその場面の理解もしやすいのではないかと思います。 では次に行きましょう。
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舎利子は鳩摩羅什の訳では、舎利弗(しゃりほつ)といいます。弗(ほつ)はインドの言葉では、誰々の子を表わしますので、意味は同じです。 インドにはシャーリという鳥がいるそうですが、舎利子のお母さんは、目がその舎利鳥の目に似ていたため、舎利と呼ばれていて、その舎利の子であるために、舎利子というのです。 舎利子は、お釈迦様のお弟子のなかでも、とくに知恵にすぐれ、そのために世尊は、すべての弟子を集めても、知恵では舎利子の十六分の一にもおよばない、と言われたほどで、釈迦十大弟子のうち知恵第一といわれています。 この舎利子について知ることは、般若心経を解釈するうえで、たいへん重要なことです。ちょうど大智度論巻11と12に、この舎利子について、二つのエピソード、その人となりについてと、その失敗についてを採録しています。たいへん面白い話ですので、ここにもその一部を紹介しておきましょう。だだし、ここでは舎利子ではなく、舎利弗として出てきます。
インドのマガダ国の首都は王舎城(おうしゃじょう)といい、そこにビンバシャラという王がいました。王はマダラという名の、バラモンの論議師を尊敬していましたので、王舎城の近くの村から上がる収入を与えて大切にされていました。
このマダラに、やがて一人の女の子が生まれました。この女の子は眼が舎利鳥の眼に似ていたため、舎利と名づけられました。次いでまた一人の男の子が生まれました。この子は膝が大きかったため、マカクチラ(大膝という意味)と名づけました。このバラモンは、このようにして、邸宅や、大勢の使用人を持って、安楽に暮らしているうちに、学ばなくてはならない学問も、新しい出来事などにも、すっかり興味をなくして、すべて忘れてしまいました。 ちょうどこのような時、南インドにもう一人のバラモンの大論議師で名を提舎(だいしゃ)といい、数多くの学問に通じている者がいました。この人は王舎城に入ってくるとき、頭の上に火をのせて、腹を銅の板金(いたがね)で巻いていましたので、人がその訳を問うと、その人は、「学びおわった学問が、あまりに多いため、腹が破裂してはいけないからだ」と答えます。また頭上の火は何のためかと問うと、「真っ暗闇だからだ」と答え、日がでているのに、どうして真っ暗闇と言うのかと問うと、「闇には二種類ある、一つは日光不足、二つは愚かしさの闇が覆う、今、日光は照らしているが、愚かしさが真っ暗な闇をなしている」と答えました。これを聞いて人々は口々に、「まだバラモンのマダラに会わないうちから、そのような大口をたたいて、会えば必ず、腹は縮んで、火も消えるだろう」と言いましたので、このバラモンは道をゆき、太鼓のある所まできて、論議に挑戦するために太鼓を打ち鳴らしました。 王はそれを聞いて、近くのものに尋ねますと、「南インドのバラモンで提舎という者が、論議をしたいといって打ち鳴らしているのです」と答えましたので、王は大いに喜んで、皆を集め「もし受けてたつ者があれば、このものと論議せよ」とおおせになりました。 マダラはこれを聞いて、「私は、もう全部忘れてしまった、また新しい学問も知らない。いまの私に論議ができるだろうか」と思いながら、首をふりふり道を歩いてゆきますと、二頭の牡牛が、あわや角を突きあわせようとするところに、出会いました。心のなかで「こちらの牛が私、あちらが彼」と決めて、占ってみますと、はたしてこちらの牛が負けてしまいましたので、「これは私が負けるということか」とガッカリしながら、論議場の見物人のなかへ入ってゆきました。見物人のなかに一人の母親が、水の入ったビンを持っていましたが、マダラの前まで来ると、どうしたことか何かにつまづいて、ビンを落として割ってしまいました。これにも不吉を感じ、ため息をつきながら、場内を見回しますと、相手の論議師が目につきました。顔色もよく、意欲も足りているようで、これはとても適(かな)わないと思いながらも、とうとう論議することになりました。 たがいに論議しあいましたが、やはり言い負かされてしまいました。王は、たいへんな大学者がわが領内に来てくれたと喜ばれ、また一村の収入を与えようと思って、大臣に諮(はか)りました。大臣たちは議論のすえ、手柄(てがら)のあったものに賞を与えなければ、恐らく国家の安泰は損なわれるだろうとして、論議に負けたマダラの村を、提舎に与えて、またこれに勝つものが現れたときには、またそれに与えることにしました。 王がその助言を取り上げられたため、マダラは国を出ることになり、提舎に「あなたは聡明なひとだ。わたしの娘をあなたの妻にしよう。わたしにはすでに男子がいて、後をついでくれるから、わたしは他国で出家しようと思う」と申しました。提舎がそれを受けて、マダラの娘を妻にしますと、妻は早速懐妊して、一つの夢をみました。夢の中では、一人のひとが、身に甲冑をつけ、手に金剛(物を打ち砕く武器)をもって、たくさんの山を打ち砕いた後、大きな山のふもとに立って、その山を仰ぎ見ていました。夫にそのことを話しますと、夫は「男の子が生まれ、その子は、すべての論議師を打ち破り、ただ一人には勝てずに、その人の弟子となるだろう」と言いました。 舎利は懐妊しますと、そのお腹の子のせいで、たいへん聡明になり、論議にも勝れるようになりました。 弟のクチラは、いくら論議をしても、いつも負けてばかりいるのは、きっとお腹の子が大変な知恵を持っているからに違いない、生まれる前からこれでは、生まれたならば、どんなことになるかと思い、家の学問を捨てて、南インドへゆき、指の爪を切らずに、学問をして全てに通じるようになったため、当時のひとから、長爪梵志(ちょうそうぼんし)とよばれました。梵志とはバラモンのことです。 舎利の子は生まれてから七日目に、白い布につつんで、その父に示されました。その父はしばらく考えて、わたしの名は提舎であるから、わたしの後を追うことができるように、憂波提舎(うばだいしゃ、提舎を追うもの)と名づけることにしました。これは父母のつけた名前ですが、世間の人は、舎利の生んだ子という意味で、舎利弗とよんでいました。 これが舎利子の名前の由来です。舎利子は父の予言のとおりに、大勢の論議師を打ち破り、その後、お釈迦様の弟子になり、叔父の長爪梵志も、その少しあとに同じく弟子になりました。
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大智度論巻12には布施の河を渡りおえるまえに、途中で帰ってしまって、彼岸に至ることが出来なかった人の例として、次のように言っています。
舎利弗は、その前世において、六十劫という長いあいだ、菩薩道を行って、布施の河を渡ろうと努力していました。劫(こう)というのは、この宇宙が何度もできたり、滅(ほろ)びたりするほどの永い時間です。そのときです。一人のコジキがきて、その眼をくれと言いました。舎利弗は「眼なんかもらっても役にたちませんよ。いったい何に使うのですか。もし、わたしの身体でも、財物でも必要なら差し上げますが」と言いますと、「お前の身体も、財物も必要ない。ただ眼が欲しいのだ。もし、ほんとうに、お前が布施を行っているというのなら、眼を与えてみせよ」と言い張りますので、舎利弗は一方の眼を摘出して、このコジキに与えました。コジキは眼をもらうと、舎利弗の前で、それを嗅いでみて臭いを嫌い、唾をはきかけて地面に投げ棄て、そのうえ足でもって踏みつけました。 舎利弗は「こんな悪人を、どう救うのだ。眼なんか必要もないのに、あえて欲しがり、しかも与えれば、それを地面に投げ棄てて、それを足で踏みつけるとは。まったく腐りきった人だ、こんな人を、どうやって救えというのだ。こんなことなら、さっさと一人で生死を脱するに如(し)かずだ」と考えまして、とうとう菩薩道を転向して小乗をめざしたということです。
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これが般若心経という大乗の経に、舎利子が登場する因縁です。舎利子は五蘊皆空ということの大乗的な意味を知らず、また全ての生き物を救うということも知らず、かつこのように般若波羅蜜多も未熟なために、このようにして小乗に向かったのです。世尊は、その舎利子に観自在菩薩の例をもって、再び大乗に志すよう、この経を開かれました。 しかし、われわれは、どれくらいの間、菩薩道を行わなければならないのでしょうか。これについては、大智度論の著者が、また十住毘婆沙論(じゅうじゅうびばしゃろん)という著作のなかで、次のように述べていますので、参考にしてください。
と。これで菩薩の目指さなくてはならないことは、決して涅槃でも解脱でもないことを、解っていただきたいと思います。 では次に進みましょう。 |
この部分は、五蘊皆空とほとんど同じことを言っています。色とは、われわれの身体のことですから、世尊は舎利子にたいして、お前は、我々のこの身体は実際に存在していると、思っているかもしれないが、実はこの箱と同じように、空っぽなのだよ。と空(から)の箱を指差されて言われます。さらに言葉をつづけて、この空の箱はお前と異なることはないのだ。いってみれば、お前は空箱で、空箱がお前なのだよ。心についても、まったく同じなのだ。と教えられているのです。 世尊は言葉を替えて四度も、五蘊皆空もかぞえれば五度も、同じことを言っていられますが、言葉がだんだんと論理的から直感的に変わってゆくことに注意してください。五蘊皆空これは論理的な見方です、色不異空これもほぼ論理的な言葉です、そして色即是空これはまったく直感的な決め付けるような言葉です。 われわれも、なかなか理解してくれない者に、理解させようとするとき、初めのうちは理性的論理的に言葉を選んで、理解させようとしますが、それが通じないとなると、このように言葉が、だんだん過激的直感的になり、さいごにはただ、解ったか解ったかと、くりかえすことになります。そしてこのような文脈上で考えるとき、空は色に異ならずという一句も理解できるのではないのでしょうか。 たとえば、飴の入った箱があるとします。さて、この箱のなかの飴は、いつかは無くなりますから、あるあると思っていたものが、いつのまにか無くなっていれば、その飴の箱は空だということが出来ます。しかしいったい、空の箱をさして、これは飴だと言うことが出来るのでしょうか。箱には何でも入ります、そのために飴の箱だと言うことさえも出来ないのです。 空(くう)には、ラベルが貼ってある訳ではありませんから、これは誰々の空とは、もちろん言うことは出来ません。そのためにこの一句は論理的には理解しがたい訳ですが、言葉の流れのうえでは、当然ありうることで、また何かの劇を観ているようで、面白いと思います。
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また別の解釈もあります。 大乗的な考え方では空を発展させて、自他を区別することが、心のうえでも、身体のうえでも、まったく出来ないということを、言うようになります。その点からしますと、空の中には、我々をふくめて、全ての生き物を含んでいると言えるのです。このように考えれば、「我々の」という概念がなくなりますから、全ての色と受想行識とは、空と一致するということになります。つまり菩薩にとっては、自他を区別することが出来ないほど、他者に対する共感が強いことを言っているのです。 現代語訳は、この大乗的な考えを取り入れてみたいと思いましたが、原文と直接対応させることが出来ません、それでかなり自由に訳しましたが、どうかご了承ください。
では次に進みましょう。
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「この諸法の空相は、」是諸法を、このように読むときは、諸法は前の五蘊を表わします。また「これ諸法の空相は、」と読むとき、諸法の意味は「すべてのものは」となります。どちらも有りますが、言っていることに違いはありません。
法には三つの意味があり、それぞれ区別する必要があります。そのために法字が現れるたびに、前後の関係から当てはまる意味を探さなければなりません。この場合は物についての概念を意味します。
相は、姿、見かけと訳しまして、表面上の見かけを表わす言葉ですから、空相は空という一面、あるいは空という見方と訳すことが出来ます。
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ここを現代語訳するときも、前後の関係をよく考え、しかも単なる言葉の言い換えに堕さないためには、かなりの自由な意訳をしなくてはなりません。
不増不減は、舎利子と乞眼婆羅門の因縁から、このように訳しました。
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また伝統的な訳もあります。伝統的な訳のほうは、論理的であり、かつスマートですが、多少哲学的論議におちいり、そのために菩薩の本来的な行動的性格と一致しないような気もします。こちらは意訳がしにくいため、ほぼ原文のままです。
では次に進みましょう。
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空中は空性においては、または空という見方では、という意味です。
われわれの六つの感覚器官(六根)は、六種類の環境(六境)を感じ取って、六種類の心の働き(六識)として処理します。このことを十八界といい、われわれの身体と、心と、環境のすべてだとしています。
世尊は、ここでも我々の身体と心とが無いということを、空字に替えて無字を用い、強調され、あわせて我々の身体と心とが無いということは、その対境である六境も無いのだ、ということも言われます。我々の存在のすべてを否定されるのです。 しかし、このことについて哲学的な意味を考え過ぎてはいけません。このことは対話としての、話の流れとして捉えなければならないことなのです。われわれは言葉を流れの上で使います。これは全ての経典に対しても言いうることで、その経典独自の目的と、話の流れを考えに入れて、解釈しないと、とんでもない結果を引き起こしかねません。このことは、いくら強調しても強調し過ぎることにはならないことを、特に般若経典の場合には、言い添えておきたいと思います。 例えば大般若経巻578般若理趣分には、「若有得聞如是般若波羅蜜多甚深理趣。信解受持讀誦修習。假使殺害三界所攝一切有情。而不由斯復墮於地獄傍生鬼界」もしこの般若波羅蜜多の甚深の理趣を聞きえて、信じ、理解し、受持し、読誦し、修習すれば、たとえ三界(六道のすべて)の摂する一切の有情(衆生)を、殺害するとも、これによりては、ふたたび地獄、傍生(ぼうしょう:畜生)、鬼界(餓鬼道)に堕することなからん。とありますが、人は、信解受持讀誦修習の意味を理解しないままに、假使殺害三界所攝一切有情の部分だけを取り出して、全文を理解したつもりになることも、往々にしてあることなのです。 これらは、すべて経の目的を忘れて、言葉だけを理解しようとする態度から起こることを、仏典を読もうという人、あるいは読んでいる人は心得ていなければなりません。われわれが仏典を読むときも、その目的が全ての生き物の幸福を願うのでなければ、まったく無駄であることをも、あらためて言っておかねばならないことだと思います。
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現代語訳は次のようになります。
では次に進みましょう。
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無明も無く、また無明の尽きることも無い。世尊はこのように、我々の生存の原因であるところの、無明も無い。無明が無いのだから、悟りによって、無明を尽くすことも無いと、教えられ、更に、ないし老死も無く、また老死の尽くることも無いのだと、十二縁起の全体を否定して、われわれの生存の各段階にわたって無いということを示されます。 十二縁起を否定するということは、悟りによって煩悩をはなれ、生死から解脱することを否定することです。
辟支佛(びゃくしぶつ:縁覚(えんがく)ともいう)は十二縁起を観察して、仏によらずに一人で悟るといいますが、そのような小乗的な悟りを否定したものとも言えます。 このような意味合いで、我々が自らの身体と心とを、空と知ることは、十二縁起によってではないのです。 では何によって知ることが出来るのかと言いますと、観自在菩薩と同じように、般若波羅蜜多という知恵によって直感的に知らなくてはならないのです。 このことからも解るように、般若波羅蜜多とは理性的な一般の知恵とは、まったくの別物です。このことは説明されることのほとんどない般若波羅蜜多を理解する、一つのキーワードとして重要です。 では次に進みましょう。
苦集滅道は四聖諦といい、すでに第一部で説明しました。 世尊が三十五歳のとき、菩提樹の下で初めて成道(じょうどう:悟りを得ること)されたとき、その悟りの内容が、四聖諦だと言われています。また声聞(しょうもん:世尊の声を直接聞いた人という意味)は、これを学んで阿羅漢(あらかん:悟りを得た人)になるといわれています。 智は悟りによって得られた知恵、得は悟りを得ること、所得は悟りを得ようとして、得るだろうところのもののことです。 この世は苦である、その原因は何か、苦を滅するということの意味、その方法、これが四聖諦ですが、このようなものは無い、また悟りによって得られる知恵も無い、悟るということも無い。それは何故かと言うと、悟りによって得るものが無いからだ。
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このように、世尊は自らが菩提樹下でえられた悟り、そのものを完全に否定してしまいます。しかしそれには理由があります。というのは、これらのいわゆる悟りとは何かというと、これらは個人の心の平安、それを獲得すれば、もうそれ以上何も望まないということなのです。それは世尊の真意とはかけ離れたことでした。世尊は、この世のもの全ては縁起によって成り立ち、すなわち無常である、無我である、苦である、煩悩にまみれていると言われ、そこからの脱却が心に平安をもたらすと言われました。しかしそれだけでしたら、仏教に価値はありません。他にも代わりになるものはいくらでもあります。他の生き物のことを忘れた教えには、どのような価値があるとも言うことが出来ないのです。 では、我々は心の平安をどのようにして、得ればよいか。それを、この経は順次説き明かしてゆきますが、まずこの部分の現代語訳をいたしておきましょう。
では次に進みましょう。
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菩提薩埵とは菩薩のことです。そして菩提とは、全ての生き物の幸福を願うこと、薩埵とは、それを願い求める人であると、すでに言いました。これについて、竜樹菩薩(ナーガールジュナ)はどのように言っているか、見てみましょう。
このような菩薩は、般若波羅蜜多によるがゆえに、心に罣礙(けげ:とどこおり)が無い。心が自由にならないことを罣礙といいます。また罣礙が無いから、恐怖があるということも無い、心が自由であるということは、全ての恐怖から解放されているということです。一切の顛倒した夢想を遠離して、涅槃を究竟する。我々の、この身体が空であると思うことも、心に悟らなくてはならないと思うことも、意識が自分に向いているために、起こることです。自分のことから、意識が離れれば、心が自由になります。これによって菩薩は世界を平和にします。これを涅槃を究竟すると言うのです。 われわれは、自分の心の平安さえ得られれば、それで良いとするような悟りは、すでに否定されたことを知っています。それに代わり、般若波羅蜜多によって心が自由になることを、ここで学ぶのです。般若波羅蜜多とは、全ての生き物の願いをかなえてやりたいという思いが、菩薩の六波羅蜜をとおして知恵となるとき、般若波羅蜜多とよばれます。これはあらゆるものに執著しないために、心に自由を得るのです。その心の自由であることにより、菩薩は六波羅蜜を行って恐怖が無いというのが、この一文の主旨です。 般若波羅蜜多は執著しないことであるということを、竜樹は次のように述べています。
この意味は、われわれが六波羅蜜を行うとき、これが般若波羅蜜多だ、これは般若波羅蜜多ではないと意識してはならない。また、これが般若波羅蜜多だ、これは般若波羅蜜多ではないと、言うことも出来ないということです。これは要するに、般若波羅蜜多は説明することが出来ないということで、単に心が自由だとか、ものごとに拘らないということでもありません。 よってこの部分の現代語訳は次のようになります。
では次に進みましょう。 |
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辞書を見てみますと、阿耨多羅三藐三菩提は無上正等正覚と訳し、仏の知恵に由来する悟りのことであると言っていますが、これもただの菩提とどう違うのか、と言うような議論は無意味なことで、菩薩と仏は、それぞれの立場がちがいますから、悟りという心の状態もまた違うわけです。 たとえば、うな丼と天丼との違いは何かといって、ドンブリをいくら調べたところで、そこで得られた違いは、まったく意味がないのと同じことなのです。このような訳で、阿耨多羅三藐三菩提という言葉の詮議はこれまでにして、そこに盛られた内容について考えてみましょう。 われわれには、それが誰でも無数の過去世があり、無数の現在世があり、無数の未来世がありますが、それぞれの世において会う仏のことを、三世の仏といいます。それらの仏は間違いなく、長時間にわたる六波羅蜜を行じて、その果報として、全ての生き物が幸福であるような世界を獲得されるのです。その故に、それらの仏の心の状態は、限りなく平安であり、あらゆるものの平等を確信されています。このような仏の心の状態を阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)といいます。 すべての菩薩は、この阿耨多羅三藐三菩提をその最終目的としています。
わたくしは、ここまで般若波羅蜜多について、その理解のために数々のヒントを出してきました。それをこのあたりで、まとめたいと思います。
この部分の現代語訳は次のとおりです。
では次に進みましょう。 |
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呪とは、また真言ともいって、神仏の言葉であり、この真言をとおして神仏に祈れば霊験あらたかなりというものです。 オンコロコロセンダリマトウギソワカ(薬師真言)と言って、薬師如来に祈れば、過去世における自らの悪因縁までも消すことが出来るというようなものです。言葉のとおりに解釈すれば、般若波羅蜜多は真言(言葉)ではありませんから、般若波羅蜜多は大神呪のように霊験のあるものと訳さなければなりません。また般若波羅蜜多の真言は大神呪なりと解釈することもあるようです。般若波羅蜜多の真言とは、次のギャテイギャテイの真言を指します。この場合、真言はシンボリックに般若波羅蜜多を指します。 その他、この般若波羅蜜多は般若心経というこの経自体をさすとも考えられます。その場合は、般若心経のもつ特効薬としての特質を言うことになります。誰でも般若心経を心の中で読めば、心の中に五蘊皆空の理念が目覚め、その結果として六波羅蜜を行おうとして滞りなしということです。
よって現代語訳は次の通りです。
むかしのインドでは、真言に対する信仰がつよく、本当に霊験があったということを思い出してください。 では次に進みます。
世尊はここで、般若波羅蜜多の大威力を証明するために、観自在菩薩の言われた真言をお示しになります。
真言は神仏の心に直接相応する言葉であるから、俗語に翻訳することは不可能であるとして、訳さないことが通例ですが、むかしからしばしば訳されてきました。しかし言語的に相当な困難があるようで、どうも決定版がありませんから、やむをえず観自在菩薩の心に相応するようなものをえらびました。
以上で般若心経の解釈を終わります。 ***************************
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全文の現代語訳 念のために現代語訳をまとめておきます。
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おわりに わたくしは菩提心または菩提の意味が、全ての生き物の幸福を願うことにあることを、むかしから気がついていました。「為衆生故(衆生のための故に)」とか「為ゥ衆生(諸の衆生のために)」あるいは「憐愍衆生(衆生をれんみんす)」という言葉は経典上ではどこにでも見られるのですから、知らない訳はないのです。しかし、このようにあからさまに、言うことは知りませんでした。しかし、このように言ってみると、今まであやふやに理解していたことが、非常に明快になってきました。そしてこの言葉をキーワードとして、心経を理解出来るようになったのです。わたしくは、この言葉に気が付かなかった自分自身に内心忸怩たる思いを懐きながら、春秋社から出版されている「般若心経入門」と、その著者であるダライラマと、その訳者である宮坂宥洪師に感謝します。同本の中に、「般若波羅蜜多は単なる空性の理解だけではなく、それが菩提心という、すべての生き物を苦しみから救うために仏陀になりたいという願望と合一した状態を意味している」という一節があり、この一節によって、わたしの中にある、「般若心経入門」が一時に形を成したからです。 ***************************
ここまで読み進んでくれた読者は、少しは般若心経について理解できただろうか。この入門書では、誰にでも理解できることと、読者に菩提心をおこさせることを第一にしてきたため、伝統的な解釈について考慮することは全然しませんでした。しかしまたそのために失ったものも多いのです。これ以後は読者自身で進まなければなりません。この心経の後ろには、広大な世界が開けているのですから、読者は是非それに挑まなくてはならぬのです。 そこでごく初心者のために、大乗を理解するために、必ず読まなければならない経典類若干を列挙しておきます。 1.大智度論100巻 このうち1〜20巻ぐらいを精読、残りは必要に応じて。わたくしも処々に引用しましたが、難しい仏教用語をあまり使わず、非常に読みやすい上に、大乗の基礎を固めるのに必要なことは、すべて書かれています。 2.摩訶般若波羅蜜経27巻(大品)または摩訶般若波羅蜜経10巻(小品)理解できる範囲で全体を。大智度論を補強するように読めばよいかと思います。 3.大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)40巻(北本)または大般涅槃経36巻(南本)なるべく全体を。般若経典以後の大乗の展開を知るうえで最高です。また読みやすいのも特徴です。作家にして天台の僧でもある今東光師も是非天台宗でも研究すべきだとかつて言っていられました。 4.大乗起信論(だいじょうきしんろん)1巻、これを読むと仏教にたいする理解力が大幅に高まります。短いものですから解説書と兼用するようなものが適しています。 以上は大乗の骨格ともいうべきものです。 1〜4は、国訳一切経(株式会社 大東出版社)、または国訳大蔵経(株式会社 第一書房)が便利ですが、もっと深く仏教を学びたい方は、大正新脩大蔵経(たいしょうしんしゅうだいぞうきょう)(大蔵出版株式会社)を読まなくてはなりません。これらは全て分売されていますから、必要な分だけ買えば十分だと思います。また広大な大蔵経の中から必要な経を探すときには、大蔵経全解説大事典(雄山閣出版株式会社)が必要でしょう。仏教には独特の用語が多いので、そのための辞典類は必須です、出版されているもの多数ありますが、そのなかではハンディな仏教学辞典(株式会社 法藏館)が索引が完備しているため、使い勝手がよいような気がします。ただし人名については、仏名、菩薩名にいたるまで項目がありませんので、それには時として困ることもあります。もしお金と、本棚のスペースに余裕があれば、望月佛教大辞典はぜひ欲しいもので、読み物としても面白いと思います。また4.大乗起信論は大蔵出版株式会社の佛典講座によって勉強すれば、理解するのに困難を感じずにすみます。 大正新脩大蔵経の重要部分は電子化されていて、CBETA中華電子佛典協會またはSAT大正新脩大藏經テキストデータベースが無料で使用できます。 また仏教を研究しようとするとき、漢訳仏典を正確に読むことが出来ることは、最低限の条件です。しかしこれはある種の技術と一緒で、かなりの努力と時間をかけて習得すべきものですから、忙しい現代では、なかなか出来る人が少なくなりました。それで私の採った方法ですが、国訳大蔵経から適当な経典(私の場合は大般涅槃経36巻)を選んで、それをノートに丸写しする方法です。ノートの片面だけを使用して、反対の面を注釈用にあてると、およそ経典一巻分がノート一冊になります。これで私は八ヶ月で大般涅槃経を写し終えることが出来ました、毎週一巻の経典を書き写したことになります。途中、実力を漢訳経典から直接翻訳することで計りながら、五年ほど毎日2時間の勉強で相当な自信が着きますから、ながい目で見れば早い方法ではないでしょうか。なお現代語訳の大般涅槃経も優れたものがありますが、漢文に対応できませんので、漢文の勉強には役に立ちません。ぜひ文語訳のものを使ってください、漢文と文語文の両方を習うことになりますから、効率が非常に良い方法だと思います。 ***************************
では勝鬘経(しょうまんぎょう)中の有名な一節をもって、お別れしたいと思います。またいつかお会いしましょう。
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