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< 自  序 >

 どこの書店にも、たくさんの般若心経入門があります。

しかし、その多くは、ただ仏教用語の解説書ではあっても、般若とは何か、般若心経とは何か、について適切な解説をしていないように見えます。

 般若とは、難しい概念ではありません。それどころか、我々は、つねに般若を必要としているのです。

 

 般若心経のなかには般若波羅蜜多菩提阿耨多羅三藐三菩提という四種類の悟りがあります。

 仏教用語の辞典によれば般若波羅蜜多は『完全な知恵』、智は『智慧のこと』、菩提は『覚りの知恵』、菩薩は『菩提を求めて修行する人』、阿耨多羅三藐三菩提は『無上正等覚といって、この上ない覚り』と説明しています。

 しかし、これらの言葉は仏教用語にあまりくわしくない人にとっては、ただの言い換えにしか過ぎません。この言葉をそのまま使って説明しようとすれば、それは混乱するに決まっています。

 

 覚りとは、何かを悟るということで、別に覚りというものがある訳ではないのです。

 般若心経を理解するためには、その覚りの内容を特定することが、何よりも大切なのです。

 仏教のめざすところは、心の平安と平和です。

 そしてその実現のためには、『全ての生き物が幸福になること以外にはない』と悟ること、これがいわゆる菩薩の覚り、菩提ということです。

 菩提とは『全ての生き物の幸福を願い、それを求めて実践すること』。

 菩薩とは『全ての生き物の幸福を願い、追求する人』。

 智とはこの場合『無我を知ること』。

 般若波羅蜜多とは『菩薩が全ての生き物の幸福を追求するとき生ずる、あらゆる困難に打ち勝つ智慧』。

 阿耨多羅三藐三菩提とは『全ての生き物が幸福になったとき得られる心境』。

 これが四種の覚りの内容を現代語にしたものです。

 

 詳しくは本文でどうぞ。

 

 

 

 

 

 

 

目   次

 

はじめに

第一部

般若心経について

般若心経の特徴

最初に知っておくべきこと

十二縁起について

十二縁起その二

四聖諦について

八正道について

五戒について

輪廻について

小乗と大乗について

大乗に固有のことについて

六波羅蜜について

大品般若経による補強

菩薩の具体的イメージその一

菩薩の具体的イメージその二

 

第二部

般若心経解釈

 

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はじめに

 友人宅のベランダから隣家の飼い犬が目にはいりました。いかにも困っている様子です、強い夏の日差しにコンクリートのたたきが熱くなって座ることができないのでしょう。短いクサリのとどく範囲には身を休める日陰もありません。幸い以前に、あいさつを交わしたことがありましたので、その家の奥さんに声を掛けて、犬が困っていますよ、と伝えることができました。夕方になって、帰る時間になりましたので玄関に出てみますと、その家の小さな女の子の声が聞こえてきました。お手とか、お座りとか言っている声が、じれて段々と大きくなっていきます。それを聞いて、何ともやるせない、残念な、哀しいような気がしてきました、そしてそれは家についても消えず、ずっと心の中に居座ったままなのです。あの犬がいることによって、あの女の子は、犬のしつけを覚えるよりも、もっと良いものを、教えてもらうことができたのに、と思ったからです。

 それは何かといいますと、優しさです。ほとんどの親は子供が、特に女の子が生まれると、健康で優しい子に、育って欲しいといいます。しかし優しさを教えることは、めったにありません、子供は自然と優しい子に育つと、思っているのです、しかしそれは間違っています。

 多くの子供が、優しさの種(たね)を持って生まれてくることは、あるいはそうかもしれませんが、それに水をやることをしなければ、枯れてしまうものなのです。

 この親子は、それを教え教えられる、実によいチャンスを逃しました。

 人間は自分たちが思っているほど優しい生きものではありません。野生の動物にも劣るものであることは、おそらく証明できましょう。教えられなければ、優しくなれないとは残念なことですが、しかしそれでもなお優しさは、人間にとって必要なのです。

 では優しさを教えるということは、どういうことでしょうか、これが解らないと教えることはできません、もちろん普段から親が、身をもって教えていれば、子供はそれを見て、自然と身に着けることができます。しかし優しさとは何か、すぐに言える人は、どれだけいますか。親切にすることと言う人はいますが、しかしそれは、ただ言葉を言い換えただけで、優しさの定義ではありません。

 優しさとは、それは人のことを先にして、自分のことを後にすることと、学ばなくてはなりません。

 このお母さんは自分たちがエアコンのよくきいた、涼しい、閉めきった部屋の中でテレビを見る前に、先に犬のために、涼しい日陰を作ってやれば良かったのです。そのとき子供が、どんなに良いものを学ぶことになるのか、それを知らなかったのでしょう。

 この時代は優しさの価値が、不当に低くみられています。心の平安は財産が作りだすのでも、お金が作りだすのでもありません、優しさがつくります。平和は優しさによってでなければ、齎(もたら)されることはありません。仏教の目的は、この心の平安と、平和いがいにはありません。

 これから説明しようとする般若心経は、その優しさの心髄の経であります。不幸なことに、今という時代は、この経が広まるのを、早く早くと待っているのです。

 

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 ここに来て家内の横槍が入りました、あなたにそんな偉そうなことを言う資格があるの?、ちっとも優しくないじゃないと言うのです。優しくないことについては異論はありませんが、しかし資格を問うとはまったく頑迷の徒は、言うことに筋が通ってないからこまります。優しくないからこそ、その価値が解るのじゃないか、自分の欠点だからこそ、よく反省して、よく考えるのじゃないか、それに般若心経は、おれが考え出したものではないぞ、世尊(お釈迦様のこと)から下しおかれたものであるぞ、おれはただそれを翻訳しようとしているだけであって、何ほどの資格がいるものか。しかしいつものように老妻は黙殺する気です。老生は気を取り直して、続きに取り掛かります。

 

 

 

 

 <はじめに   <目次

 

般若心経について

 

 般若心経は大正新脩大藏經(たいしょうしんしゅうだいぞうきょう)に掲載されているものが小本系二本、大本系が五本あり、このうち小本系の玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)訳のものが、わが国に広く行われているもので、最も簡潔であり、最も美しい、言ってみればダイヤモンドのように小さくて光り輝き、まったく金剛不壊といわれるように、欠点の見つからないものです。本文262字のどれ一つとして余分なものがなく、それでいて要を尽くしていることは、まさに驚嘆に値するといわなくてはなりません。

 この小本系には他に鳩摩羅什三蔵(くまらじゅうさんぞう)が250年ほど前に訳したものがあります。この二本は翻訳年代が離れているにもかかわらず、ほとんど同一といってよいほど違いがありません。しかし違いがないにもかかわらず何故か玄奘訳のほうがはるかに良いために、玄奘訳のみが世間に広まっていますが、この翻訳の手柄は二人のものともいえるのです。

 このように重要な経であるために解説書も無数にありますが、それらの内のどれを取っても、どこか物足りないように思えます。短い経でありながら、しかもごく一般的な仏教用語しか使われていないのにもかかわらず、どこか釈然としないのです。なにかまるで人に話してはいけない、秘密があるようにも見えます。

 このことは1200年前に、弘法大師も同じ事を、考えられたものとみえまして、般若心経秘鍵(ひけん)という著作のなかに「(意訳)‥‥この経の解釈は多くあるが、微妙な核心をみのがしている、‥‥中略‥‥ではどうして昔の人は、正しく言わなかったのか、言わなくてはならないのに言わなかったのか、それとも言ってはならないから言わなかったのか、そのどちらであったのか、考えても判らない。もしやここで、言うべきでないことを、わたしは言おうとしているのだろうか。たとえ過失があるとしても、それは仏にしか判断できないのだ。‥‥後略」というようなことを言っていられるのです。しかし、それにもかかわらず大師のこの著作も、最大限によく言って我田引水の謗りを免れることは難しく、内容から見てもちょっとした思い付きを何かに書き付けて、そのまま筐底に忘れられていたものを、誰かが世に出してしまったような中途半端な感じを受けます。そのような訳で、これも参考にはなりません。

 現代においては、すべてのタブーが無くなった筈なのに、あいかわらず般若心経の解説書には、どこかその伝統を受け継いで曖昧なところが見られるのは、やはり不思議なことです。

 この般若心経入門も、その伝統を受け継ぐのでしょうか。そうならないように、注意しながら先に進むことに致しましょう。

 

 

 

 

 <はじめに   <目次

 

 

般若心経の特徴

 

 般若心経のきわだった特徴はというと、それはやはり、他には見られないほど短いこと、この一言に尽きます。

 この短いなかに仏教のエッセンスが、つまっているのですから、まったくたいしたものだと、言わなくてはならない訳ですが、それでもやはり限界はあるもので、なかに書かれた用語の意味については、他の経典類に頼らなくてはなりません。

 ではこのコンパクトさの意味はといいますと、それは携帯性に優れるということです。この経にはちゃんと、もとになる経典が有り、鳩摩羅什の訳した大品般若経(だいぼんはんにゃきょう)、玄奘の訳した大般若経(だいはんにゃきょう)がそれに相当します。しかし何分にも、それらは大部の経典であり、前者は27巻、後者は600巻もありますから、そのエッセンスを、暗記できるようにするということは、意味のあることです。

 しかしそれにしても、なお異常に短いということは、とっさのときに、呪文として使うということなのです。また真言(しんごん)でないということは、その意味を思い出すことに、重点が置かれた呪文であるということができます。

 

真言(しんごん):インドでも理解する人の少ない、普通のことばではない、特別のことばによる呪文で、意味を訳さない、また神仏の言葉そのものであるところから、神仏に願うときには特に有効だとも言われています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 <はじめに   <目次

 

 

最初に知っておくべきこと

 それでは、すぐに般若心経の解釈に入りましょうと言うべきところですが、その前に仏教用語のおさらいをして、そして仏教の常識とでもいうことを、知っておきましょう。すでによく知っていいるかたも、ぜひ目を通してください。

 仏教の目的は、先ほども申しましたが、個人の心の平安と、国の平和です。とくにお釈迦様の故郷である、カピラヴァットゥという国は、小国でありながら豊かで、そのために、たびたび隣国の侵害を受け、とうとう亡ぼされてしまったと、言われています。そのような国の王子として生まれたならば、平和について望まないというほうが、おかしいでしょう。

 平和ということは、仏教にとって中心的な目的であり、個人のことは、そのための第一段階に過ぎない、とも見てとることができます。

 

 それでは仏教が、他の仏教以外の宗教と、どこが違うのか、見てみましょう。

 

 仏教には次のような特徴があります。

 

目的

心の平安と国の平和。仏教用語では涅槃(ねはん)といいます。

創造神がない

 あらゆる物質は縁によって作られる。例えば我々の心と身体は、両親、そのまた両親、‥‥、環境、両親の環境、‥‥と無数の縁によって作られているとするものです。十二縁起の項参照。

無我である

縁によって作られたものには、過去世、未来世に通じる、(霊魂)がありません。

輪廻をする

 無我にもかかわらず、輪廻転生をする。

いわば主体を欠いた輪廻です。輪廻の項参照。

平等である

 縁によって作られたものは平等である。

もし高貴の人、金持ちの人が、神によって作られたものであるならば、それは神に愛されていることを意味する、そのために人々は神と同じ様に、それらの恵まれた人を愛さなければ、神に逆らうことになろう。逆に卑しい人は神に嫌われているとも、考えなくてはならないのです。創造神があるということは、このような神についての解釈を、可能とします。

 それがために創造神を信奉する国々では、たとえ平等をうたっているとしても、本質的なものではなく、便宜的なものであるために、決して動物たちまでには及びません。

 仏教はあらゆる生きものは平等であると教えます。

他宗に寛容である

 お釈迦様の定められた戒律に、他宗との論争は無益だとして禁じています。寛容というよりは、かかわりを避けて無視しているとも言えます。

教えが多様である

 真理は一つでも、理解する人のほうが多様であり、また真理を言葉で伝えることが困難な場合には、喩え話で教えられたために、さまざまな教えが後に残り、ときには矛盾することもあります。また300年ほど後のことになりますが、大乗が起こったように、重点の置き方が変化したことも見逃せません。

 

 お釈迦様は35才のときに、悟りを得て覚者となられてからも、それ以後お亡くなりになるまでの、45年間、一所に留まることなく歩いて、悟りの成果を法に説いて、広められました。

 このことは、上に見ました心の平安が、決して自分ひとりのものではなく、全ての人に、行き渡らなくてはならない、ということを意味しています。

 このように仏の教えを世に広めることにより、世界を平和にしようとすることを仏教用語で菩提(ぼだい)といいます。そして全ての生きものの幸福を願うことを菩提心を発(おこ)すといいます。なお菩提の直接的なことばの意味は、覚りという意味ですが、その覚りの内容はというと、要するに世界の平和ということです。

 では具体的に、お釈迦様は、どのようにお説きになったかと言いますと、それが十二縁起、四聖諦、八正道といわれるものです。

 

 次にそれらを一つ一つ見てゆきましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 <はじめに   <目次

 

十二縁起(じゅうにえんぎ)について

 縁によって起こる、此れ有るが故に彼有り此れ無ければ彼無しということを縁起といいます。これを十二つらねて我々の生存の原因と結果を示そうということを、十二縁起または十二因縁といいます。

 無明(むみょう)、(ぎょう)、(しき)、名色(みょうしき)、六処(ろくしょ)、(そく)、(じゅ)、(あい)、(しゅ)、(う)、(しょう)、老死(ろうし)の十二を、互いに関連あるものとして、無明有るが故に行あり、行有るが故に識有り、また逆から見まして、生なければ老死なし、有なければ生なしなどとして、つまるところ無明有るが故に、老死の苦しみ有りと説くものです。

 我々が際限もなく生老死をくりかえすのは、要するに無明有るためで、無明さえ無くせば、生老死も無いのだというのが、一般的な十二縁起の解釈でありますが、これはなかなか高級な解釈で、理解するだけでも大変な困難があります。

 このなかにも仏教の派によっては、無明と行とは過去世の分、識から有までの八支分を現在世の分、生老死を未来世の分と理解して、この三世にわたる十二縁起によって、生存の秘密を解き明かそうとしますが、なかなか過去世の無明を滅するのは、困難が増すことになりそうです。また十二支分の、ひとつひとつの解釈にも、いろいろな人が、いろいろな事をいいまして、伝統的な解釈といっても、一つ二つではないものがあります。

 いくら高級な論議をしても、理解してもらえなければ、意味の無いことでありますので、ここではなるべく解り易(やす)い、ということを大切に、そのうちの一つを選んで見てみましょう。

 

無明:むみょう

真理にたいする無知

:ぎょう

環境から受ける経験

:しき

行を受けて知識として蓄積

名色:みょうしき

蓄積した知識を分別する心的作用

六処:ろくしょ

感覚器官

:そく

感覚器官が対象に接触

:じゅ

心で触を受ける

:あい

盲目的な渇愛(かつあい)

:しゅ

執著

10

:

生存、我

11

:しょう

誕生

12

老死:ろうし

死苦生ずる

 

 この表を見るときに、ぜひ注意していただきたいことは、ここで生存と言っていることは、決して胎生学的な生存の過程ではない、ということです。

 この表は、我々の生存は空(くう)であるということを表わしています。夢幻のごときものを、あたかも真実であるがごとくに、思いこんでいる誤ちを正して、真実に目覚めさせようというのです。

 ではどのようにして、この表を見ればよいかというと、まず全体を三つのグループに分けて考えます。

生老死という苦(く)を考えてみますと、必然的に生存とは何んだろう、あるいは『我(が)』とは、何だろうということに思い至ります。そして生命をはじめ、あらゆるものにたいする執著こそが、その生存の核に違いない、ということに気がつきます。ここまでが、取から老死までの第三のグループです。

 そしてこんどは、逆のほうから、この表を見て、真理にたいする無知、すなわち空にたいする、無知の上に、さまざまの経験による、知識を積み重ね、そしてそれを分別して、事物に名前をつけ、それが固定的な、正しい観念であると、間違って受け止める。ここまでが、無明から名色までの、第一のグループです。

 そして、六処から愛までの、第二のグループは、前の段階で蓄積された、誤った固定観念にもとづいて、各種の感覚器官が、対象に接触し、そのために心に受けた、感覚にたいして、盲目的な渇愛をおぼえ、やがては生命に対する執著として、『我』というものがめばえるのです。

 全体を要約すると空にたいする無知によって『我』が生じ、それによって生老死の苦を受けるとなります。

 この考えはなかなか美しいもので、よくよく研究して、真理にたいする無知を、なくすることができれば、あるいは恵林寺の快川が、災火をこうむった時のように、心頭滅却すれば火もまた涼し、などという境地に達しないとも限りません。

 なおここで、空と言っているのは、後にも説明しますが、ごく簡潔に言うと、自他の区別がないということです。

 自他の区別がないので、執著もまたないのです。執著がないから、アンカーによって繋がれるということがない。あらゆる感情にとらわれることがないために限りなく自由である、このような境地をいうのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 <はじめに   <目次

 

十二縁起その二

 空はよく解らない、苦手だという人のために、世尊はまた別の十二縁起を説かれています。

 しかし実際に世尊がお説きになったものは、実は十二縁起ではなく、五縁起とか六縁起であったという説もあり、どれがほんとうに、世尊のお説きになったものか、どの部分がのちになって増広されたものかは、よく解りません。

 これから説明しようとするのはいくぶん胎生学的であるために、苦の原因はより理解しやすいと思います。

 

無明

生存の根本原因

原初的な活動

原初的な心的活動

名色

原初的な識別活動

六処

感覚器官生ずる

感覚器官が対象に接触

心に触を受ける

渇愛生ずる

執著生ずる

10

自我生ずる

11

自我確立する

12

老死

自我段々滅する

 

 我々の生存は、無明というものを核とした原初的な、おそらくは細胞的な、心身の活動を始まりとします。

 やがて感覚器官が生じて、その触れたものに対し、激しい渇愛を生じ、執著へと変わります。

 執著すれば自然と、自他の区別をおぼえ、自我が生じます。そして自我が確立することにより、老死に対し激しい苦しみを、感じとるというのが、この表の意味です。

 ここで生存の根本的な原因、すなわち無明とは何かということですが、それはこの宇宙いっぱいに、遍満している根本原理で、ほとんど物理的な法則とでも言ってよいものです。

 それは意識する以前の、原始的な生にたいする執著で、宇宙始まって以来の、記憶の積み重なりでもあります。

 それにあえて名前をつければ、ホシイホシイと言います、『欲しい欲しい』以外なにもないのです。しかしそれは原理であって、物質ではないところには、注意してください。

 要約しますと、我々の生存の本体は、このホシイホシイなのであって、我々の欲望に際限がないのも、また強く生に執着するのも、身体のどの部分をなくすことにも、激しい抵抗を感じるのも、財産を無くすことをおそれるのも、家族に対して強い愛情を懐くのも、全てこのホシイホシイの働きによるものなのです。

 また細胞が増殖したりするのも、これが原因です。けだし我々が死を恐れるのは必然で、今まで苦労して手に入れた身体財産を、手放さなくてはならないからで、ホシイホシイにとっては、まったく耐えがたいことでしょう。

 それが我々の生存は、苦しみに満ちている、ということの意味なのです。

 

 さきほどの表では、無明という無知をなくすことにより、生老死の苦からの解脱ということの、可能性がありましたが、この表ではありません。ただ欲しいという気持ち、あるいは執著が起こったとき、その時々に、またホシイホシイが働きだしたなと察知して、心の働きをコントロールすることは可能です。その結果として、ごく低レベルでは似たようなものとなります。

 世尊は苦からの脱出の方法として、四種の間違いのない真理という意味である、四聖諦(ししょうたい)をお説きになりましたが、その苦からの脱出というときの苦とは、これら十二縁起によって説明された、苦という意味であります。

 

 ではその四種の、間違いのない真理とは何かを、次に見ることにいたしましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 <はじめに   <目次

 

四聖諦(ししょうたい)について

 四聖諦は次の四種の間違いのない真理からなっています。

 

苦聖諦

(苦諦:くたい)

迷いのこの世はすべてが苦である

 根本的な苦しみを普通は四苦とよんでいますので、表にまとめておきましょう。

 人は望んで生まれてくるのではありません。輪廻することにより、生まれ変わり死に変わりして、あらゆる生きものとして、生まれなくてはならないのです、これは最大の苦です。

 老とはだんだん死んでゆくことです。死を待つということは苦しみです。

 病とは部分死のことです。いつ死が来るか分からないことは苦しみです。

 死とは今までに得たもの全てを、財産も、体も、知識もすべて、手放すことです。さらに先にはどこに生まれるか分からない不安があります。これは苦しみです。

 

 八苦というときは、次の四つをくわえます。

愛別離苦(あいべつりく)

 愛するものと、いつかは分かれなくてはならない苦しみです。

怨憎会苦(おんぞうえく)

 かたきにも、憎みあっているものにも、出会わなくてはならない苦しみです。

求不得苦(ぐふとっく)

 求めても得られない、欲しいものが手に入らない苦しみです。

五陰盛苦(ごおんじょうく)

 すべての苦しみは、心と体が作り出したものです。分かっていても逃れるすべがないという苦しみです。

 

 

苦集聖諦

(集諦:じったい)

苦の因は求めて飽くことのない愛執である

 愛執とは煩悩のことです。心の中にあり、我々を内側から悩ませます。煩悩はたくさんありますが、無明から直接生まれる三つの煩悩を三毒といいます、これを表にしました。

貪(とん)

 貪欲といいます、持っているのにまだ欲しいという、飽くことのない欲望です。この欲望にはかぎりがなく、満たされないときには、心を傷つけます。

瞋(じん)

 怒りのことです、あらゆる欲望は、満たされないとき怒りに変わります。怒りの炎は人間を内側から焼き、心と身体を傷つけます。

癡(ち)

 愚痴ともいい、この世の真理であるところの空について、無知ということです。この世は無常であるのに常と思い、この世は苦であるものを楽と思い、無我を知らずに我が有ると思い、人間の本性は煩悩にまみれて不浄であることを見ずに、浄であると思っていることです。見解がこのように逆転しているために、あらゆる苦しみを生み出します。貪欲も怒りも、この癡によって起こります。

 癡の項で説明した常楽我浄は四つのひっくり返った見解という意味で、四顛倒といわれます。

また無常苦無我不浄を涅槃の四徳といって、悟った人の見解であるといいます。

苦滅聖諦

(滅諦:めったい)

愛執を滅することが苦を滅することである

苦滅道聖諦

(道諦:どうたい)

そのためには八種の正しい道、八正道(はっしょうどう)に依らなくてはならない

 

 八種の正しい道を次に説明することにします。

 

 

 

 

 

 

 

 <はじめに   <目次

 

八正道(はっしょうどう)について

 八正道は次の八種の正しい道からなっています。

 

正見:しょうけん

四聖諦から離れない正しい見解

正思:しょうし

正しい意業(いごう)、心の行いを正しくする

正語:しょうご

正しい語業(ごごう)、言葉と対話を正しくする

正業:しょうごう

正しい身業(しんごう)、身体の行いを正しくする

正命:しょうみょう

正しい生活、上の意語身の三業全てを通じて正しくする

正精進:しょうしょうじん

この八正道に正しい努力を怠らない

正念:しょうねん

この八正道を常に心にかけて忘れない

正定:しょうじょう

正しい方法による心の統一

 

 我々はこの世に起こること、有ること全てが苦の原因となりうることを、良く理解して、むやみにものを欲しがらず、人と対話するときは言葉づかいに気をつけて、粗暴な振舞いをしないよう良く慎んで、生活の隅々までよく気を配り、このような生活をするように常に努力を怠らず、いつも心に掛けて忘れずに、正しい方法によって心を目的に向けて散乱しないようにする。

 ここで身業語業意業をあわせて三業(さんごう)といい、仏教では人の意志的な生活はこの三業によって説明します。

 この三業を正して生活しようというものが八正道なのです。しかし何か楽しみの少ない、苦しいことの多そうな生活のような気はしませんか。何か労多くして実り少なしといった気はしませんか。もしそうならば空を理解していない証拠なのです。

 つまり他人に対して常に正しく接するためには、この八正道が絶対に必要なのです。なぜ他人に対して正しく接する必要があるのでしょうか。なぜならば苦の原因は常に自分の内にあるとはかぎらないからです。他からの悪い影響は苦となるのです。であれば常に三業を正して他に対して悪い影響をあたえないということは当然のことなのです。

 空を自覚した者にとって自他の区別というものはないのですから、自らの引き起こした悪い影響が引き金となって次から次に悪い影響の連鎖が起こるのを何よりも恐れるのです。

 

 八正道では、何をしなくてはならないかを見てきました。次に何をしてはならないかを見ることにしましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 <はじめに   <目次

 

五戒について

 自分がされて嫌なことは人にするな、これがしてはならないことの定義です。

 これを戒といいますが、戒の基本は五つです、表にしてみました。

 

殺生戒(せっしょうかい)

生きものを殺すなということです。

偸盗戒(ちゅうとうかい)

自分のもの以外を取るなということです。

邪淫戒(じゃいんかい)

人の女房に手を出すなということです。

妄語戒(もうごかい)

嘘をついて人をだますなということです。

飲酒戒(おんじゅかい)

酒を飲むな。これは単に酒を飲むことを戒めることではなくて、酒を飲んで正気をなくし、責任を取れないようなことに、なってはならないということで、そのような状態すべてを戒めています。

 

 不殺生戒、不偸盗戒等と言うこともあります。

 

 一般的に『戒』というときには、この五戒をさします。仏教徒であれば誰でも、僧俗にかかわりなく守らなくてはなりません。

 ではもし守らなかったならば、どうなるのかというと、これが罰としては何もありません。反省すれば良いのです。一たび犯してしまった罪は、何をどうしても無くなる事はないのです。しかし罪はどんどん蓄積されて、この世に停まりますので、この世はだんだん悪くなっていきます。

 この外に僧だけが守る戒として、十誦律(じゅうじゅりつ)、四分律(しぶんりつ)、摩訶僧祇律(まかそうぎりつ)、弥沙塞五分律(みしゃそくごぶんりつ)、有部律(うぶりつ)などという、皆250ほどの戒と、20ほどの規則を収めた、それぞれ50巻、60巻という大部の戒律があります。

 これらは僧の共同生活にたいして、何か問題がおきるごとに、お釈迦様が一つ一つ、ご自分で定められたものでありますから、後になって時代がかわり、条件が変わったときに議題にはのぼりましたが、恐れ多いこととして、変えることができませんでした。

 そのために、ほぼ2500年前そのままの姿で残っていると言われています。

 一般人が中を見ることは、厳しく禁じられていますので、当たり障りのないところを、少しだけお目にかけましょう。

 ・「にぎり飯を大きな口を開けたまま、待っていてはならない」

 ・「食べ物が口に入ったままで、話をしてはならない」

 ・「にぎり飯を口のなかへ放り込んではならない」

 ・「両ほほの中にいっぱいに食べ物を入れて、食べてはならない」

 ・「わざと音を立てて食べ物を嚼(か)んではならない」

 ここでいうにぎり飯とは、インドでは飯は手でつかんで丸めて食べるそのことです。

 僧がこのようなことをしていると、一般信者がそれを見て、「口いっぱいに頬張って、猿みたいです」とか「クチャクチャ音をさせて物を食べるから、犬が物を食べているのかと思いました」とか言って、お釈迦様のところに知らせに来ます。そのたびに、世尊はいちいち本人をお呼びになり、真偽を確かめてから、一戒づつ定められました。

 そのために、総数250にもなってしまったのです。また一つ一つの戒の規制する範囲は、可能な限り狭いほうが良い、できるだけ僧の自主性にまかせたいという、世尊のお考えもあって、このような多数になったと言うことができます。

 まあ普通の僧が、普通に過ごしている限り、僧は戒のことを、それほど気にする必要もなっかったのです。

 「ぴょんぴょん跳びながら信者の家に入ってはならない」と「ぴょんぴょん跳びながら、信者の家に入って、席についてはならない」とは、別の戒として立てられました。あるイタズラ好きの僧が、ぴょんぴょん飛び跳ねながら、信者の家の門を入りました、世尊は、その事を聞いて制戒しますと、こんどは門は歩いて入りましたが、食事の席には、ぴょんぴょんと跳びながら着きましたので、また一戒が増えたのです。

 これらの律を読んで見ますと、総じてお釈迦様は、僧たちの立ち居振る舞いに、いかにも心を尽くしていられた様子が、よく伝わってきます。僧の立ち居振る舞いを、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)と言います。人から後ろ指を差されないという事が、法を説くということの上で、いかに大切なことなのかということを、世尊はお弟子たちに厳しく躾けられたのです。

 戒を守ることを持戒(じかい)といいます。佛説戒香經(ぶっせつかいこうきょう)というお経の中で、世尊は持戒の僧を良い香にたとえていられます。良い香がかおりだすと、どんなに閉(た)て切った室の中にあっても、漂いだして、あたり一面を清々しくするように、一人の持戒の僧がいれば、一帯が影響を受けて、仏の教えが充満するという意味です。

 僧は畑を耕してはならない、柱を建てる穴を掘ってはならない、というような戒もありますが、殺生戒を説く者が、耕したり穴を掘ったりして、ミミズのような虫などを殺生したのでは、人々のそしりをいずれ受けることが、火を見るより明らかです。そのために、いずれ誰かがするのですから、少々偽善的ではありましても、やむをえないことなのだ、ということも言っておきましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 <はじめに   <目次

 

輪廻(りんね)について

 生きものには、さまざまの種類がありますが、人間と人間以外の生きものについては我々のよく知っているところです。その他に空想的な生きものとして、天人、阿修羅、餓鬼、地獄の住人の四種類があります。

 すべての生きものはこの六種類のあいだを、無限に生まれ変わるのです。

 これを輪廻といい、インドではここからの脱出ということが、実に大問題なのであります。

 お釈迦様はその解を二つ、小乗と大乘としてお示しになりました。まず六種類の生きものについて見てみることにして、小乗と大乗についてはその次に見ることに致します。

 

天人(てんにん)

天人の種類はたくさんあります、総じて寿命が長く、また楽しみの多い暮らしをしています。しかし苦しみがないわけではなく、寿命の尽きる死もあれば、天人の五衰といいまして、体が臭くなる、わきの下から汗が流れるというような老化現象もあるといわれます。

人間(にんげん)

すでに説明しました。

阿修羅(あしゅら)

天人でありながら争いごとが好きで、苦しみが絶えないといわれています。

畜生(ちくしょう)

食用に、使役用に、実験用に使われることは、よく知られていますが、野生のものは、いつもお腹をすかせて食物をさがしています。

餓鬼(がき)

人間が変化した生きもので、喉が細く、香りを吸うことで栄養をとっているために、いつも猛烈にお腹がすいています。

地獄(じごく)

ここに生まれたものは大変な苦しみをあじわいます。そして楽しいことは、ほんの少しも有りません。毎日毎日が苦しいことの連続です。地獄の種類はたくさんありますが、総じてものすごい大音に満たされているために頭が割れそうに痛み、至るところ火が渦巻き、至るところ真っ赤に燃えた石炭のある落し穴と煮えたぎった糞尿の河があり、牙のある動物や毒のある蛇に咬まれて、木の上に逃げれば、剃刀のような刃を持った木の葉が、下向きになって体を切りつけてくるので、身体は素麺のようにズタズタになってしまいます。そして死ねばすぐに生き返るため休む暇もありません。やかましく、熱く、臭く、痛いところです。

 

 これらは六種の行程であると見て、六道(ろくどう)あるいは六趣(ろくしゅ)というのが普通です。

 

 

 

 

 

 

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小乗と大乗について

 ここまで説明してきました、十二縁起、四聖諦、八正道、五戒、輪廻については、小乗も大乗も違いはありません。ただ空の解釈と、輪廻からの脱出については、かなりの相違を見て取ることができます。それを表にしてみると、およそ次のようになります。

 

 

小    乗

大    乗

(空についての解釈)

我々の心と身体は、無明によって作られた、誤りの記憶と知識にほかならない。よって我々の存在は、夢か幻のように実体がない。すなわち空である。

我々は他と対立する自己という概念が実体であると、無明による誤った記憶と知識によって思い込まされてきた。しかし自他は対立するものではなく、実はただ一つの実体なのである。そのことを無我、すなわち空という。

(輪廻からの脱出)

我々の心と身体が、誤りの概念であることと同じように、輪廻も誤りの概念であり、この世への執著がなくなれば輪廻をするということもない。

 あらゆる生きものは同一であるとしても、実体であるからには、輪廻をまぬがれることはない。しかしどこに生まれようと、優しさが充満していれば恐れることはない。逆にかえって楽しみでさえあろう。

 

 ここに見たような事が、小乗は自己の解脱(げだつ)をのみ目的として、大乗は他と一緒に解脱することををめざすと、言われるわけですが、東南アジアなどの小乗の僧侶が輪廻を恐れ、殺生を厳しく戒めて、腕に止まった蚊を追い払うことすらせずに、肉、魚、卵、乳製品の一切を食べないことから考えると、我々の小乗に関する知識は、恐らく間違ったものであろうと思われますので、どうか小乗に関する部分は、参考までにとどめてください。

 

 次に大乗のみに見られる特徴を見てみましょう。

 

 

 

 

 

 

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大乗に固有のことについて

 仏教が徐々に行き詰まりになってくると、僧侶が僧院にこもりがちになり、哲学的研究に力を注ぎ、布教のような実践的な行動がおろそかになり、説教もマンネリになって、信者の支持も、だんだんと熱を失ってきます。

 世尊が戒により、論争を禁じられたにもかかわらず、哲学的論議が盛んになって、その結果として仏教の教団は、いくつかに分裂してしまいました。大乗は、そんな時にでき(しゅったい)しました。

 そのために論争をさけ、哲学的研究を嫌うという性質から、信仰、そして後に述べる六波羅蜜(ろくはらみつ)を重視するような、より実践的な仏教に変質しました。それまでの仏教界にたいする批判は在家の信者からも上がり、大乗運動として盛り上がりをみせます。そのために大乗は在家主義ともいわれるようになりました。

 

 大乗の顕著な特徴として次の三点を挙げることにします。

 

信仰

 布教のための方便として、その当時の世俗的な信仰をとりいれて、阿弥陀仏(あみだぶつ)、観音菩薩(かんのんぼさつ)等にたいする信仰を布教の中心にすえます。ただし、そのような信仰の対象の持つ元の性質は、仏教的な空の概念を、根底に持つように変質させて、仏教としての本質を失わないように論理付けされました。これにより仏教はより一般的となり、理解しやすいものになったのです。

菩薩(ぼさつ)

 菩薩は菩提(ぼだい:覚り)薩埵(さった:求める人)の意味で、もとは修行中のお釈迦様をさす言葉でしたが、大乗では変質させて、仏教的な理想を実践する人という普通名詞として、生まれ変わらせました。

 菩薩は全ての生き物を幸福にしますという、ただ一つの願をたてます。このことを仏教用語では、菩提心を発(おこ)すといいます。そしてその実践の方法を六波羅蜜(ろくはらみつ)といいます。しかしこれはものすごく大変なことで、とてもできそうには思えませんが、何回も、何回も無限に生まれ変わって、徐々にできるようになって行くのです。

三種の仏

 信仰の拡充とともに、それまでの仏の概念では、説明しきれないことがでてきましたが、次のように三種の仏という、概念の拡大により解決することができました。

法身(ほっしん)

 絶対的な真理そのものです。すなわち、全ての生き物の幸福にたいする願のことです。報身と応身は、この法身が肉身をもって現れたものと考えます。

報身(ほうじん)

 ある人が、全ての生き物を幸福にする願を立て、そのために六波羅蜜を行って、長い時間をかけて、とうとう世界中の生き物が幸福になったとき、その世界の仏となります。

 善(よ)いことをしたことの報(むく)いとして、仏になりますので、報身といいます。

 阿弥陀仏、薬師仏がそれです。

応身(おうじん)

 全ての生き物の願いにより、それに応(こた)えて、その世界に誕生する仏です。応えて現れるため、応身といいます。

 お釈迦様は、この応身の仏であると言われます。

 

 全ての生き物を幸福にしたいと思えば、その人はすでに、菩提心を発した菩薩であるということができます。一人の菩薩のできることは高が知れたものですが、運動として盛り上がり、大勢の菩薩がでてくれば、あるいは現実となるのです。菩薩はそのために六波羅蜜を実践しなければなりません。次には六波羅蜜を見ることにします。

 

 

 

 

 

 

 

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六波羅蜜(ろくはらみつ)について

 菩薩は全ての生き物の幸福という願を立てますが、実際何をしなければならないかというと、人のことを先にして、自分のことは後にするということを、自ら身をもって実践して、人々に教えて、それが世界的な運動になることを、目指すということなのです。

 しかし、それでも人は、さまざまの理由を考えて、例えば、今日はちょっと忙しいからとか、手元不如意なので、あるいは、うちの子供があとで使うので、主人が、妻がと言って、何とか自分のことを先にしたい、と思うのが普通なのです。

 そのために菩薩は、実践の課題を六つに分けて、それぞれに目標をもうけます。それが六波羅蜜と言われるものです。 波羅蜜とは彼岸に至るということです。例えば檀那波羅蜜(だんなはらみつ)といえば、布施(ふせ)という名の舟に乗り、河を渡って、向こう岸にある、悟りの世界に至るということですが、ただ良いことをして、その果報として彼岸に渡るというのではなく、施すという行為のなかに、彼岸があるという意味もあるところが大切なのです。

 

檀那(だんな)波羅蜜

布施波羅蜜ともいいます。施しをすることです。

 三種の布施があります。

財施(ざいせ)

あらゆる持ち物を施すことです。

 各種経文には、財宝、王国、家臣、妻子、奴隷などの財産のほかに、体の各部分、肉骨血手足頭目を言っています。これらを惜しまないことを、不惜身命といいます。まあこれは空を誇張した言い方で、普通はこれほどのことは必要ないでしょう。

法施(ほうせ)

仏法を説くことです。

 このように六波羅蜜を説くことも、法施と言われます。一般に法施は財施より貴いと言われます。何故かというと、法施には次から次と伝播する能力があるためと、仏法により、財施等のほかの良いことが、生み出されるからです。しかし、それぞれの内に、上中下といった差があるので、ただ比較すればよい、というものでもありません。縁起について、よく理解すれば、同等なことがわかります。

無畏施(せむい)

全ての生き物に安楽を与えることです。

 これは本来、次の持戒の項で、説明すべきものです。持戒の人は、殺生をしません、他の生き物の所有に属するものを取りません、また人をだましたり、無責任なことをしたりも、しません。

 これは恐れを与えない、すなわち無畏を与えるということです。また安楽を与えることでもあります。

 檀那波羅蜜とは、この三種の布施を、他の五波羅蜜と共同して、滞りなく徹底的に行なうことです。ただ条件があります、自分はいま檀那波羅蜜を行なっているのだと、思っているうちは、ただ普通に言う布施をしているだけで、檀那波羅蜜をしている訳ではないという事です。

 誰でも右手が持っているものを、左手が取るとき、滞(とどこお)りがあったり、また、いま布施をしているのだ、と思ったりすることはないと思いますが、まったくこのような状態で布施をすることを、檀那波羅蜜というのです。

 また実を言うと、布施という言葉は、正確とはいえません。習慣から布施といっていますが、「捨」というほうが、より正確な言い方だと、いうことができます。「捨」には、手から放すという意味がありますので、自他の区別をしない、つまり施す人と施される人という区別をしないという、菩薩の空による人生観に、よりマッチするからです。

尸羅(しら)波羅蜜

持戒(じかい)波羅蜜ともいいます。五戒をまもることです。

 全ての生き物は、生命と身体を、なにより大切にします。であるからして、人は殺生をしないことを、なにより先に考えなければなりません。このことが習性となったとき、尸羅波羅蜜を行っていると、いうことができます。

 このことは害する者と害される者との区別をしない、菩薩の空による人生観によります。

羼提(せんだい)波羅蜜

忍辱(にんにく)波羅蜜ともいいます。決して怒らないことです。

 例えば、菩薩が人に道を尋ねられたので、親切にも案内をいたします。ところが寂しいところにさしかかると、この人は強盗にはや変わりをして、身ぐるみ剥がしてしまいました。このとき少しも腹が立たなければ、羼提波羅蜜を行っていると言うことができます。また道を歩いていて、毒蛇に咬まれたとしても、腹を立てるようでは、いけません。

 このことは害する者と害される者との区別をしない、菩薩の空による人生観によります。

毘利耶(びりや)波羅蜜

精進(しょうじん)波羅蜜ともいいます。休まないことです。

 全ての生き物を幸福にするということは、終わりのない行為です。そのとき、この毘利耶波羅蜜は他の五波羅蜜を先導する、いわば船のへさきの役割をいたします。精進ということは、それだけを行って、他の事をしないということですから、すこしも他ごとに気を取られないとき、毘利耶波羅蜜を行っていると、いうことができます。

 このことは優しさを宗(むね)とする、菩薩の空の人生観によります。

褝那(ぜんな)波羅蜜

静慮(じょうりょ)波羅蜜ともいいます。心を乱さないことです。

 ときには静かなところで、心を統一しなければならないこともあります。その統一が、全ての生き物の幸福に向けられて、それが習性となっていれば、褝那波羅蜜を行っていると言えます。

 心を統一することを禅定といいますが、それが心地よいからといって、それが目的になってしまうと、それは褝那波羅蜜とは、よばれません。

 このことは優しさを宗とする、菩薩の空の人生観によります。

般若(はんにゃ)波羅蜜

智慧波羅蜜ともいいます。慈悲を失わないことです。

 全ての生き物の幸福という目的を、決して忘れない、優しさを中核にすえた智慧を、般若波羅蜜といいます。全ての無駄な論議を超えたもので、他の五波羅蜜をささえる土台です。

 世の中には、優しさを忘れた邪悪な論議をする人が、たくさんいます。

 例えば、「施す人も空、施される人も空、それならば、どうして施さなくてはならないのか?

あるいは、「すべてが縁によって起こるのならば、世の中には善も悪もない、どうして五戒を守る必要があるのか?」等々です。

 また「ノラ猫にえさを、やらないで下さい。ノラ猫がふえすぎて、街じゅうが猫だらけになってしまいます。」、とか「鯨は大量の魚を食べる、食べられる魚は、かわいそうではないのか。」というものもあります。

 これらは一見正しい論議のように見えますが、実は目的を忘れた無駄な論議なのです、まず、このような論議をする人には、目的がありません。すべて目的のない論議を称して戯論(けろん)というのですが、良いものを悪い、悪いものを良いというような、戯論を相手にしない知恵を、般若波羅蜜というのです。

 優しさのまったくない国を、称して地獄というのでありますが、猫にも鯨にも、優しさを掛けられないような論議は、すべて戯論です。

 また縁起というものの不思議は、まったく論議には、なじまないもので、ヨーロッパのある町で、猫は悪魔の手先であるとして、すべての猫をとって、殺してしまったら、ネズミが増えすぎて、それがペストを流行させたために、町が全滅してしまったという話があります。

 それを仏教のほうでは、善因善果、悪因悪果といい、他のためにした行為からは良い結果が、自分のためのみを、思ってした行為には、すべて悪い結果が齎(もたら)されるというのであります。

 このような知恵が、いかなる戯論にあっても壊されないことを、金剛不壊(こんごうふえ)といいますが、これが般若波羅蜜なのです。

 

 

 以上のように、六波羅蜜を見てきましたが、すべてが互いに関連しあって、目的を達成するために機能することを、見ていただけたものと思います。

 人間で言うと、手足あるいは口といったものが、檀那波羅蜜、尸羅波羅蜜、羼提波羅蜜であり、また心が、毘利耶波羅蜜と褝那波羅蜜であり、そのうえに、生きがいと言ったものがあり、それが般若波羅蜜であると言えば、よく理解できるのではないでしょうか。

 

 

 

 

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大品般若経(だいぼんはんにゃきょう)による補強

 ここで一人でも多くの人に、信用していただきたいので、大品般若経をひいて、管見の補強とさせていただきます。

 この引用した部分は、間違いなく大品般若経の核心であり、まるで心臓のように、経のすみずみにまで、その智慧の思想を送り込んでいます。

 インドの偉大な、大乗の解説者である、ナーガールジュナ(竜樹)は、この大品般若経の解説書である大智度論(だいちどろん)100巻を著しましたが、実にその内の8巻を、この部分の解説についやしているほどなのです。

 

 

佛告舍利弗。

菩薩摩訶薩以不住法住般若波羅蜜中。

仏の舍利弗に告(の)たまわく、

菩薩摩訶薩(ぼさつまかさつ)は不住法(ふじゅうほう)を以って、般若波羅蜜中に住す。

(現代語訳)

仏は舍利弗に、こう教えられた。「大菩薩は、そこに心を留めないという方法によって、般若波羅蜜を身に備えている。

 

以無所捨法應具足檀那波羅蜜施者受者及財物不可得故。

捨てる所無きの法を以って、応(まさ)に檀那波羅蜜を具足すべし。施者(せしゃ)と受者(じゅしゃ)、及び財物の、不可得(ふかとく)なるが故に。

施すものなど何も無いのだから、檀那波羅蜜を身に備えなくてはならない。何故ならば、施す者と、施しを受ける者と、および施される財物とは、区別できないのだから。

  注:自他、彼此の区別は無い。

罪不罪不可得故應具足尸羅波羅蜜。

罪と罪ならざると不可得なるが故に、応に尸羅波羅蜜を具足すべし。

罪か罪でないかは分らないのだから、尸羅波羅蜜を身に備えなくてはならない。

  注:仏の所説に従い、五戒を守るべきである

心不動故應具足羼提波羅蜜。

心の不動なるが故に、応に羼提波羅蜜を具足すべし。

心が動くことはないのだから、羼提波羅蜜を身に備えなくてはならない。

  注:辱められても動揺するような心は存在しない。

身心精進不懈怠故應具足毘梨耶波羅蜜。

身心は精進して、懈怠せざるが故に、応に毘利耶波羅蜜を具足すべし。

身心は、精進して怠けないのだから、毘利耶波羅蜜を身に備えなくてはならない。

  注:精進すべき身心は存在しない。

不亂不味故應具足禪那波羅蜜。

乱れず、味あわざるが故に、応に褝那波羅蜜を具足すべし。

心は、乱れず、また禅定に入っても、それを楽しまないのだから、褝那波羅蜜を身に備えなくてはならない。

  注:乱れるべき心も無い。

於一切法不著故應具足般若波羅蜜。

一切法に於いて、著(じゃく)せざるが故に、応に般若波羅蜜を具足すべし、と。

あらゆる物、あらゆる見解に執著することがないのだから、般若波羅蜜を身に備えなくてはならない。」と。

  注:自他彼此の区別をしなければ、執著することも無い。

 

(注1)

舍利弗(しゃりほつ)とは、お釈迦様の十大弟子の一人で、智慧第一と言われ、各種の般若経の中で、質問するものという役割をする。

(注2)

不住法(ふじゅうほう)とは、すべての見解に執著しないこと。住とは見解を持つこと。また心を留めないこと。

(注3)

不可得(ふかとく)とは、得とは納得のことで、知ること。ここでいう不可得とは菩薩にとっては区別がない、見分けがつかないということ。

 

 

 

 

 

 

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菩薩の具体的イメージその一

 ここまで菩薩とは何か、について種々の表などを使って、なるべく理解していただけるように、説明してきましたが、しかしまだ具体的イメージを、持てるほどではないと思います。

 この第一部の仕上げとして、厳選した本生譚を二つご覧に入れようと思います。本生譚というのは、仏が、どのような菩薩の修行をして、現在の果報(仏の地位をうること)を獲得するに至ったかを、解りやすい話にまとめたものです。

 その第一話は金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)巻10からとりました。

それによると、ある時、世尊が阿難尊者(あなんそんじゃ)に、もしわたしが昔、菩薩の修行をしていたときの、舎利(しゃり:遺骨)があったとしたら、見たいと思うか、と問いかけられました。阿難が、はいと答えますと、世尊は手で、地面を指されます、そのとき大地が振動して割り裂け、宝石で飾られた仏塔が忽然(こつねん)としてあらわれました。世尊は、その仏塔の扉を開け、中の七宝作りの箱を取り出して、開けてみよ、と教えられましたので、阿難がそのとおりに致しますと、中から白瑪瑙か白蓮華のように、真っ白な舎利が出てまいりました。そこで世尊は、汝ら、まさに苦行の菩薩の遺身の舎利を観ずべし、まさに菩薩の本身を礼敬すべし、この舎利は戒定慧香のかおるところ、最上の福田にして、極めて逢いがたしと言って、以下のような話をされました。

 

 

 

 

 

 

第一話は金光明最勝王経巻10から

 昔ある国がありました。その国の王の名は大車といい、巨万の富と、強い軍隊を持ち、国民からは尊敬され、常に正しい法で、国を治めていました。

 人民は活気があり、豊で、たがいに敵対しあうということもありませんでした。

 この国の大夫人(だいぶにん)に三人の王子が誕生しましたが、みな顔かたちがよく、ひとびとはそれを見ては、楽しんでいました。

 この三人は、太子の名を摩訶波羅(まかはら)、次の王子を摩訶提婆(まかだいば)、いちばん幼い王子を摩訶薩埵(まかさった)といいました。

---------------------------------------( 1 )---------------------------------------

 あるとき王は、大勢を引き連れて物見遊山をして山林の風光を楽しもうと思いました。三人の王子も一緒に行きましたが、美しい花や、美味しい果物を求めて、だんだん父から離れて林の中へ入り、大竹林にたどり着いたので、そこで休憩することにしました。

 第一の王子が言いました、「今日は、本当に怖かった。林の中で、猛獣に食われそうな気がしていたのだ。」

 第二の王子が言いました、「わたしは身体(からだ)が惜しいとは思いません。ただお兄さんがいなくなったら、悲しむだろうと思います。」

 第三の王子が言いました、「この林には神様がいらっしゃいます、ですから怖いことも、悲しいこともありません。かえって元気が出てきて、良いことがありそうな気がします。」

 このように話し合った後に、また先へ進んでゆきますと、一頭の虎が、生まれてから七日ばかりの、七頭の子に囲まれて、お腹がすいて、やせ細り、今にも死にそうになっているのに、行き逢いました。

 第一の王子が言いました、「かわいそうだな。この虎は、子を産んでから七日間も、飢えているのに、乳をやっていて、食べ物をさがしに行くときが、なかったのだろうな。しかしこのままでは、きっと我慢できずに、子供を食べてしまうのだろう。」

 そのとき薩埵王子が問いかけました、「この虎は、いつも何を食べているのですか。」

 第一の王子が答えます、「虎、豹、獅子は、新鮮な肉しか食べない、他のものでは、この虎を救うことはできないのだ。」

 第二の王子が言いました、「この虎は、飢えていて、しかも痩せていて、もうじき死にそうだけれど、私達に、そのような新鮮な肉を、手に入れるような力があると思いますか。それとも誰か、この虎のために、自分の身体をやることができますか。」

 第一の王子が言いました、「自分の命はいちばん大切だからな。」

 薩埵王子が言いました、「私達は、いまは自分の身体が、いちばん大切に思っています。そのうえ智慧もなくて、他のために役立つこともありません。しかし、りっぱな人ならば、優しい心で、つねに人のためを思って、自分のことは忘れて、救うのではないでしょうか。」

 そして心の中でこう考えました、「私のこの身体は、今まで何百回も、何千回も生まれては、むなしく捨てては腐りただれ、そのあいだ何の役にも立ってこなかった。それなのにどうして、今日それを、唾を捨てるように捨てて、飢えの苦しみを、救うことができないことがあろうか。」

 このように話し合い、王子たちは、優しさから哀れに思って、ながい間、じっと痩せた虎を見ていて、そのあたりを、あっちへ行ったり、こっちへ来たりしていましたが、やがて一緒に帰って行きました。

---------------------------------------( 2 )---------------------------------------

 そのとき薩埵王子は、このように考えました、「わたしは命を捨てよう。今は、そうしなければならないのだ。なぜかというと、

  昔から、この身体を、大切にしてきたが、汚いものが流れ出したりして、好きではなかった。

  柔らかいふとんや着物、美味しい食べ物、象や馬、馬車や宝石などを与えてきたが、

  少しも満足しなかった、常に不足を嘆いては、世間をうらみ、

  わたしがどんなに尽くしても、恩も返さぬうちに、この身体は、いつかは独りで朽ちてゆくのだ。」

 また次に、

「この身体は堅くなくて、そのうえ役にも立たない。まったく盗賊のようであり、汚らしいこと糞のようだ。

 わたしは今日、この身体に良いことをさせてみよう、生死の海の大船となって、輪廻を捨てて、覚りの世界へ行かせよう。」

 またこのようにも思った、

「もし、この身体を捨てたならば、悪病や悪いできものなど、たくさんの恐怖から逃れられる。

 この身体は、ただ大小便をするだけで、泡のように堅くなく、たくさんの虫が集まるところで、血、肉、筋、骨などが連なって、非常に気持ちが悪いものだ。この故に、わたしは、この身体を施して、以って究竟の涅槃を求めよう。永遠に煩悩の苦を離れ、生死を離れ、やがて仏となったなら、世間を浄め、全ての生き物に、無量の楽を与えよう。」

 このように王子は、勇気を奮い起こし、大悲の大願をおこした。そして二人の兄が恐れを懐いて、引き止められ、願の果たせなくなることを恐れて、こう言った、「兄さんたちは先に行って下さい、わたしは後からまいります」と。

---------------------------------------( 3 )---------------------------------------

 そして王子摩訶薩埵は、また林の中に入り、その虎のところへ来て、衣服を脱いで竹の上に置き、こう誓った、

 「わたしは世の中の、全ての生き物のために、覚りの世界を求めます。大悲心を発して、揺るがず、世間の人が愛してやまない身体を捨てよう。

 覚りの世界は、患いもなく、心を燃やす悩みもない、あらゆる智者の願うところです。この世の全ての生き物を、いま安楽にしてやろう」と。

 王子はこう言いおわると、飢えた虎のまえに身を伏せた。しかし虎は動きません。

 菩薩(王子)は崖から身を投げて、身体中の骨をくだき、肉を柔らかくして与えますが、それでも虎は動きません。

 そのとき菩薩は、こう思いました、「虎はいま弱りきっているために、わたしを食べることができないのだ」と。そこで刀を探しましたが見つかりません。一本の竹を折り取って、その端で、首を刺し、血を流し出して、虎の口に近づけました。

---------------------------------------( 4 )---------------------------------------

 このとき大地は振動し、太陽は光を失い、世の中は真っ暗闇になりました。天は妙なる花と名香を、雨のようにふらして、林の中いっぱいに、香りが充満しました。虚空には大勢の天人がいて、この事を見ていましたが、心が喜びで満たされ、このようなことは事は始めて見た、と言いながら、声をそろえて讃えました。「素晴らしいことだ、大菩薩よ」、そして歌を作って言いました、

 「大菩薩は、つねに優しい心を起こし、全ての生き物を、ただ一人のわが子を見るようにして、

 勇気と歓喜とをもって、身体を捨てて苦を救い、その福徳は思うも難し。

 さだめて覚りの世界に至り、とこしえに、輪廻の輪から逃れいで、遠からずして仏となろう」と。

 このとき、かの飢えた虎は、菩薩のあごの下に、血が流れているのに気がついて、すぐに血をなめ、肉を咬み、すべてを食べて、ただ骨だけが残りました。

---------------------------------------( 5 )---------------------------------------

 このころ、第一の王子は、地が動くのに気がついて、その弟に教えて言いました、

 「大地山河がみな振動して、世界が暗くなって、天の花が乱れ落ちて、空いっぱいになったのは、すなわち下の弟が、身をほどこした、しるしなのだ」と。

 第二の弟が唄にして言いました、

 「わたしは弟の薩埵から、慈悲の言葉を聞きました。あの飢え虎を見てみると、身体はひどく痩せ細り、飢えのために苦しんで、恐らく子供を食べるだろう。わが弟はそのために、その身体をば捨てたのか」と。

 そこで二人は泣きながら、虎のところへ行きました。弟の衣服を見てみると、竹の上にかけてあり、骸骨と髪の毛が、そこらじゅうに散らばって、血が流れたか泥となって、あたり一面を潤していました。二人はそれを見て、気を失い、骨の散らばった地面の上に、倒れました。そして気がついたときには、二人とも、両手を挙げて、泣き叫びながら、このように言いました、

 「弟は顔かたちが美しく、両親もいちばんに可愛がっていた、一緒に出かけながら、なぜ捨てて帰ってきたと、言われたならば、いったいどう答えれば良いのだろう。むしろ一緒に身を捨てたほうが、良かったのだ、どうして私達だけが、生きていられるものか」と泣きながら、ようやくその場を離れてゆきました。

 王子のお付きの人たちも、たがいに「王子はどこにいらっしゃるのだろう、さァ一緒に探しに行こう」と言いました。

---------------------------------------( 6 )---------------------------------------

 そのころ、国の大夫人は、高殿の上で、お休みになっていましたが、不吉な夢をご覧になりました。両の乳房は張り裂けて、すべての歯が抜け落ちて、三羽の雛をもらったのに、そのうちの一羽を鷹にさらわれて、残りの二羽が驚き恐れているのです。大地が動いたとき、夫人はついに目が覚めて、心がふさがり、このように、ひとり言を、言われました、

 「どうして大地が動いて、林が振動し、日の光に力なく、覆い隠されたようになり、どうして乳が動くのだろう。胸が矢に射られたように、苦しくて、身体がすみずみまで、震えて、少しもじっとしていられない。いま見た夢は違いなく、不吉な夢にちがいない」と。とつぜん両の乳房から、乳が流れ出しましたので、悪いことが起きたのが分かりました。侍女に尋ねさせてみると「みんなで、いま探していますが、まだ見つかりません」と答えましたので、泣きながら王のところへ行き、「わたしは、いちばん可愛い子をなくしてしまいました。」、王もそれを聞いて、「可愛いあの子をなくしてしまったのか。しかし心配するな、わたしが自分で探してみよう」と、おおせられました。王と大臣と大勢の人が、分散して、いろいろな所を探しましたが、すぐに一人の大臣が進み出て、こう申しました、「いま王子達が見つかったと聞きましたが、どうか、お嘆きになりませんよう、いちばん下の方は、まだ見つかりません」と。王はこれを聞いて、こうお嘆きになりました、「苦しいかな、苦しいかな、わたしは最愛の子を失った。

 まえに、あの子がいたときは、喜びだとも思わなかった、しかしいまは失って、なぜこのように苦しく思う。もしいま帰ってきたならば、わが身に替えても惜しくはない」と。

 夫人も嘆き悲しんで、こうおおせられました、「三たりの王子と侍従どもが、いっしょに林の中に入って、遊びまわっているうちに、わたしの最愛の子だけが帰ってこない。きっとはぐれて、ひとり災いに遭ったに違いない」と。

 第二の大臣が王に知らせを持ってきました、王はさっそく、お問いになります、「わたしの愛子はどこにいる」と。大臣は泣いて声になりません、喉も舌も乾いてしまって、何も言うことができませんでした。夫人もお問いになりました、「早くおっしゃい、いまどこにいるのです。心配で燃え尽きそう、もう何がなんだか分からない。わたしの胸を破裂させないで」と。それでとうとう、大臣は王子が捨身(しゃしん)されたことを申し上げました。

 王と王妃は、とうとう我慢されずに、むせび泣きされ、捨身の場所をひと目みたいと、お輿を召されて、捨身の場所へと、竹林さして、お急ぎになりました。

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 あの竹林の菩薩の捨身の所には、いたるところ骸骨が散乱しています。王と王妃は、ふたりとも、それをご覧になって、たまらずに魂消えて、大地に倒れかかられ、何も分からなく、おなりになられました。大臣たちが、あわてて水を、お二人に注ぐと、息を吹き返されて、両手を挙げ、嘆いて言われました、「どうしてこの禍(わざわい)に遭う、可愛い子なのに、なぜ先に死ぬ、わたしのほうが長生きするとは、何たる苦しみかな」と。

 夫人も少し正気づき、髪を振り乱して、両手で胸を打ちながら、大地をころげ回り、まるで牛が子を失ったかのごとくに、声を上げて泣きながら、こう言われました、「誰かが、わが子を殺してしまった。骨だけが散らばっている。わたしは可愛い子を失って、悲しみを我慢できない。苦しい。誰が、わが子を殺して、これほど苦しませる。これほど苦しんで、なぜ胸が張り裂けない。夢の中で、両の乳房が割け、歯が抜け落ちて、三羽の雛のうちの一羽を鷹にさらわれた。あの夢は嘘ではなかった」と。

 そして、大王と夫人は、二王子とともに、哀しみを尽くして、声を上げて泣き、髪飾りも召されずに、大勢の人と共に、菩薩の遺骨を、仏塔に収め、供養をされました。

 

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と、このように世尊は話おわり、これがそのときの菩薩の舎利なのだ、とお示しになりました。

 

 

 

 

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菩薩の具体的イメージその二

 菩薩の具体的イメージその二は、大智度論巻16からとりました、ナーガールジュナはこの巻全体を毘利耶(精進)波羅蜜の説明に当てています。それによると菩薩は、だんだん修行が進んで、大菩薩ともなりますと、神通力(じんつうりき:超自然的な力)を自在につかって、六道を自在に行き来、生死して、衆生(しゅじょう:全ての生き物)を救うことができるようになります。ここでは菩薩は鹿となって、生き物を救います。

 

 

大智度論巻16から

 波羅奈国(はらなこく)の梵摩達王(ぼんまだつおう)が、林の中で狩をしているときに、二つの鹿の群れを見つけました。それぞれの群れには、およそ五百頭ばかりの鹿がいて、群れにはそれぞれの王がいました。その一方は七宝色に輝いた釈迦牟尼(しゃかむに)菩薩です、もう一方は提婆達多(だいばだった)といいました。

提婆達多は、お釈迦様のいとこです、一度はお弟子となりながら、教団を分裂させようと図りましたので、仏教では大悪人とされています。

 菩薩の鹿王は、人間の王の手勢が、その群れの鹿を、たくさん殺しているのを見て、大悲心を起こし、小道をたどって、王の前に進み出ました。

 王の家来たちは、競って雨のように矢を射掛けました。

 王は、この鹿がまっすぐに進んで、すこしも遠慮するところがないことを見て、人々に矢を射掛けることをやめさせて、その来意を知ろうとなさいました。

 やがて鹿王は人王の前に跪(ひざまづ)いて、言いました、「人王よ、あなたの楽しみのために、わが鹿の群れは、一時にみな、死の苦しみを受けている。もし鹿肉が必要ということならば、一日あたり一頭の鹿を、そちらへ送ろう」と。それを聞いて、王は、その言葉をもっともだと思い、その通りにせよと、言われました。

 この二つの群れの王は、たがいの群れの鹿たちを集めて、次に誰をさしだすかの順番をとり決めさせました。

 このとき、提婆達多王の群れの中に、腹に子をもった鹿がいて、「わたしは今日、死の順番に当っています、しかし、わたしのお腹の子は、次の番ではありません。どうか、次に生まれてくる命を、無駄にしないよう、お願いします」と、提婆達多王に申しました。

 鹿の王は、これに怒って言いました、「誰が命を惜しまない。後のことにして、もう帰れ。何を考えて来たのだ」と。

 母鹿は、「わたしの王は、思いやりもなく、理解しようともせず、わたしの気持ちを察しようともしない。ただ横を向いて、怒るばかり。話をしてもしかたがない、こんどは、もう一人の王に会ってみよう」と思い、 そこで菩薩王のところへ来て、訴えました。

 菩薩王はこの鹿に「お前の主はどう言っているのだ」と問いかけました。母鹿は、「わたしの主は、思いやりがありません、考えることもせずに、ただ怒るばかりです。大王の優しさは、みんなが知っています、だからここに来たのです。わたしのようなものは、今日、どんなに天地が広くても、どこにも、お願いするところがないのです」と答えました。

 菩薩は、「それはかわいそうだ、その子まで、殺してよいとは理解できない。もし次でなければ、またその次にすれば良いではないか。ただ私ならば、代わってやることもできよう」と考えました。

 このように、考えおわると、鹿王は「私が代わってやろう、心配するな」と言われ、母鹿を帰してやりました。

 菩薩の鹿王がみずから、小道づたいに人王の門まで来たとき、人々はなぜ鹿王が、みずから来たと不思議がり、そのことを王に申しました。

 王もまた不思議に思い、前に進み出るよう命じて、「他の鹿はいないのか、もう尽きてしまったのか、何を思って来たのだ」と問いかけました。

 鹿王は、「大王の思いやりは、鹿にも及んでいます、人々はご命令に従っています。このような思いやりを受けては、どうして群れの尽きることがありましょう。

 ただもう一方の群れに、身ごもった鹿がいまして、近く産まれる予定です。もし身をまな板のうえに、割かれましたならば、子の命まで失ってしまいます。わたしを慕って、そのようなことを申して来ましたので、わたしも可哀そうに思いました。

 まだ産まれてもいないのに、この鹿を送ることはできません。

 もしも救ってやらなければ、心がないのとおなじです。

 私の身体は、いつかは死ななければならないのですから、思いやりを持って、苦しみを救うことは、大変良いことをしたことになります。

 もしも思いやりがなかったならば、虎や狼と同じでしょう」と申されました。

 これを聞いて、人王はすぐに立ち上がって、こう言われました、

 「実に、わたしは獣である、人の頭をもった鹿である、

  あなたを見れば、鹿にみえるが、実は鹿の頭をもった人である、

  どうしてか、人であるとは姿かたちによるのではない、

  もし優しさがありさえすれば、獣と見えても、実にそれは人である。

  わたしは今日から肉は食うまい、今から無畏(むい)を施すことによって、

  おまえの心を安んじよう」と。

 すべての鹿は安心を得、王は思いやりと信仰をもつことができたのでした。

 

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 それではどうぞ第二部の般若心経解釈へお進みください。たいへんお待たせして申し訳ございませんでした。

 

 

 

 

 

 

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