大般若波羅蜜多経巻第五百七十八
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自  序

大般若経600巻中の巻第578を「大般若理趣分」と称し、仏家では非常に珍重しているが、謎が多く、重要で、かつ非常に面白いものである。

大般若波羅蜜多経、即ち大般若が何時、何の為に、誰によって造られたものか、恐らく知ることはできまい。しかし、所造の年代に関しては、早くとも龍樹以後、或いは羅什以後、又遅くとも玄奘以前の間に、相当の期間を要したものと思われる。

今、望月仏教大辞典に依れば、総じて600巻、中を16会に分ち、都べて玄奘の訳(AD660~663)に係る。16会の内訳は、初会の400巻は玄奘初出、第2会の78巻は初会の縮約判、西晋無羅叉訳の放光般若経、同竺法護訳の光讃経10巻、或いは姚秦鳩摩羅什訳の摩訶般若波羅蜜経(大品)27巻の同本となし、第3会の59巻は初会、第2会の所説に略ぼ同趣、玄奘の初出に係るとなし、第4会の18巻は初会乃至第3会を更に縮約せるもの、後漢支婁迦讖訳の道行般若経10巻、呉支謙訳の大明度経5巻、及び鳩摩羅什訳の般若波羅蜜多経(小品)10巻等と同本となし、第5会の10巻は前の第4会を更に簡略せしものにして、玄奘の初出に係るとし、第6会の8巻は陳月婆首那訳の勝天王般若波羅蜜経7巻と同本となし、第7会の曼殊室利分2巻は梁曼陀羅仙訳の文殊師利所説摩訶般若波羅蜜経2巻(大宝積経第46会にも収載せらる)、並びに梁僧伽婆羅訳の文殊師利所説般若波羅蜜経1巻と同本となし、第8会の那伽室利(妙吉祥菩薩)分1巻は宋翔公訳の濡首菩薩無上清浄分衛経2巻と同本となし、第9会の能断金剛分1巻は後秦鳩摩羅什、元魏菩提流支、及び陳真諦訳の金剛般若波羅蜜経1巻と同本となし、第10会の般若理趣分1巻は唐菩提流支訳の実相般若波羅蜜経、金剛智訳の金剛頂瑜伽理趣般若経、不空訳の大楽金剛不空真実三摩耶経、並びに宋施護訳の遍照般若波羅蜜経各1巻と同本となし、第11会の布施波羅蜜多分5巻、第12会の浄戒波羅蜜多分5巻、第13会の安忍波羅蜜多分1巻、第14会の精進波羅蜜多分1巻、第15会の静慮波羅蜜多分2巻、第16会の般若波羅蜜多分8巻は共に玄奘の初出となすものとされている。

図示すれば、下表の通りである、――
会次数 内 容 巻数 同   本
第1会 大般若主分 400巻 玄奘初出
(AD660~663)
第2会 第1会縮約 78巻 放光般若経
西晋無羅叉訳
(AD291)
10巻
光讃経
同竺法護訳
(AD286)
10巻
大品般若経
姚秦鳩摩羅什訳
(AD404)
27巻
第3会 第2会同本 59巻 玄奘初出
(AD660~663)
第4会 第2会簡約 18巻 道行般若経
後漢支婁迦讖訳
(AD179)
10巻
大明度経
呉支謙訳
(AD222~228)
5巻
小品般若経
鳩摩羅什訳
(AD408)
10巻
第5会 10巻 玄奘初出
(AD660~663)
第6会 8巻 勝天王-
般若波羅蜜経
陳月婆首羅訳
(AD565)
7巻
第7会 曼殊室利分 2巻 文殊師利所説-
摩訶般若波羅蜜経
梁曼陀羅仙訳
(AD503頃)
2巻
文殊師利所説-
摩訶般若波羅蜜経
梁僧伽婆羅訳
(AD460~524頃)
1巻
第8会 那伽室利分 1巻 濡首菩薩無上-
清浄分衛経
宋翔公訳
(AD420~479頃)
2巻
第9会 能断金剛分 1巻 金剛-
般若波羅蜜経
後秦鳩摩羅什訳
(AD344~413頃)
1巻
元魏菩提流支訳
(AD509)
1巻
陳真諦訳
(AD562)
1巻
第10会 般若理趣分 1巻 実相-
般若波羅蜜経
唐菩提流支訳
(AD693)
1巻
金剛頂瑜伽-
理趣般若経
金剛智訳
(AD???)
1巻
大楽金剛不空-
真実三摩耶経
不空訳
(AD705~774頃)
1巻
遍照-
般若波羅蜜経
宋施護訳
(AD980頃)
1巻
第11会 布施波羅蜜多分 5巻 玄奘初出
(AD660~663)
第12会 浄戒波羅蜜多分 5巻
第13会 安忍波羅蜜多分 1巻
第14会 精進波羅蜜多分 2巻
第15会 静慮波羅蜜多分 2巻
第16会 般若波羅蜜多分 8巻


此の中、大般若の初会400巻と、第2会78巻(大品27巻)と、第4会18巻(小品10巻)とは、縮約相似、同趣旨であり、その更に縮約したものが、金剛般若経の如く見えるが、或いは小品を原初として、それに増広と縮約とを加えたるものか、或いは序の部分がほとんど無く、記述の少ない金剛般若経あたりを原初として、それにどんどん追加したものか、いっこうに詳でない。そもそも金剛般若経なるものは、般若波羅蜜の他には忍辱波羅蜜の名を出すのみにして、六波羅蜜を具足しないとか、「須菩提、衆生の衆生たる者を如来は衆生に非ずと説く、是れを衆生と名づく」と云うようなひねくれた語法を多用したりして、人に理解させようとする熱意が感じられないとか、「大品般若経」等にみる率直さにも欠けるとかで、卒かには真っ当な般若経典とは認め難い。疑えば執空論者の所造ではないのかとも思える。

いづれにしても、上記の如き600巻にも及ぶ大部を、誰が、何の為に造ったのか?そこには何等かの理由があるはずである。何故ならば、大品、或いは小品に於いてすら、般若を説いて余りあるのに、何故に更に屋上屋を重ねなくてはならなかったのか?この大部を造ろうとする意志は、何処からそのエネルギーを得たのだろうか?火事場の馬鹿力のような途方もないエネルギーが発散されたからには、その本となった喫緊の事情があるはずである、それは何であろうか?筆者には、それを解明するだけの力も時間もない、ただ憶測するだけである。仮りに般若波羅蜜を信奉する一派があったとすれば、恐らく中観派と瑜伽唯識派とに逼迫されて、最後のエネルギーを振り絞りながら、花火のように消えていったのではないだろうか?「南海寄帰内法伝序(義浄AD691)」には、「云う所の大乗とは二種に過ぐるなし、一には則ち中観、二には乃ち瑜伽なり。中観は則ち俗有真空にして、体虚なること幻の如く、瑜伽は則ち外無内有にして事皆唯識なり」と当時の印度のありさまを、如実に説いている。

此の中に就き、中観派の「俗有真空」とは、「一切の法(事物を指す為の名前、又は文句)には、世俗の義(法の指し示す所の事物、意味)と真実の義との二種を有する」ということであり、瑜伽派の「外無内有」は、「一切の義は外境に無く、内識中に有る」と主張するものである。又瑜伽派を瑜伽唯識派、或いは単に唯識派とも呼ぶのは、此の「外無内有」の意味が要するに「唯識」という言葉の意味と同じであることに依る。

「大乗」に就いても少し触れておこう。「望月仏教大辞典」に、「大乗:梵語摩訶衍mahaa- yaanaの訳、広大なる車乗の意。小乗に対す。即ち六波羅蜜を行じ、一切の衆生を化度し、以って成仏を期する菩薩所被の法門を云う」と云い、例として、「放光般若経巻4摩訶衍品」の、「世尊、云何が当に菩薩は大乗に趣くと知るべき、是の乗に乗じて当に何の所にか至るべき、誰か当に是の乗を成ずべきものぞ。仏須菩提に告げて言わく、六波羅蜜は是れ菩薩摩訶薩の大乗なり」の文を掲ぐるを以って、大乗の意味としては、当にこれ以上でも、これ以下でもないとして必要十分であろう。

六波羅蜜の内訳、――
1 布施波羅蜜 "布施"の河を渡って彼岸に至る
与える
2 持戒波羅蜜 "持戒"の河を渡って彼岸に至る
取らない
3 忍辱波羅蜜 "忍辱"の河を渡って彼岸に至る
取られても怒らない
4 精進波羅蜜 "精進"の河を渡って彼岸に至る
常に行う、息まない
5 禅定波羅蜜 "禅定"の河を渡って彼岸に至る
心が定まっている、疑わない
6 般若波羅蜜 "智慧"の河を渡って彼岸に至る
六波羅蜜は心に自然に起る、守るべき法として在るのではない

此の論をもう少し進めるために、説明の容易な六波羅蜜中の布施波羅蜜と、持戒波羅蜜、般若波羅蜜とに就いて見ておこう。

「布施波羅蜜」と、単なる「布施」とは何が異なるのか?
「持戒波羅蜜」と、単なる「持戒」とは何が異なるのか?
「般若波羅蜜」と、単なる「智慧」とは何が異なるのか?

「大品般若経巻1」に、「菩薩摩訶薩は不住の法を以って、般若波羅蜜に住する中、捨つる所無きの法を以って、応に檀(daana布施)波羅蜜を具足すべし、施者、受者、及び財物の不可得なるが故に。罪と罪ならざると不可得なるが故に、応に尸羅(ziila持戒)波羅蜜を具足すべし。(中略)一切の法に於いて著せざるが故に、応に般若(prajJaa智慧)波羅蜜を具足すべし」と云うにより、此れ等の違いは明白である。

説明しよう、――
1 布施波羅蜜 捨つる所無きの法を以って、応に檀那波羅蜜を具足すべし、施者、受者、及び財物の不可得なるが故に
施す者が常に施す訳ではなく、受ける者も常に受ける訳ではない、或いは時に施す者が受ける者になり、受ける者が施す者になるのだ。要するに施者、受者は定まった法でない。故に物を惜んではならない。物を捨てるのも自分なら、拾うのも自分なのだ
明日は我が身
一切の法には、定まった義がない
2 持戒波羅蜜 罪と罪ならざると不可得なるが故に、応に尸羅波羅蜜を具足すべし
譬えば虎を助けた者がいる。その虎が命あるが故に、その後、人を何人食い殺すか、誰に知れよう。或いは、食い殺された人の中には、一村中の人を皆殺しにしようとたくらむ、極悪人の盗賊がいたかもしれないではないか、誰に予知できよう。
故に仏の教に従い、虎狼の如き猛獣といえども、妄に殺すべきではない
殺されたい者などいるはずがないのだから
一切の法は、因縁に由り起る
3 般若波羅蜜 一切の法に著せざるが故に、応に般若波羅蜜を具足すべし
仏の説かれた法といえども、時と人とを見て、それに応じて説かれたものである。口を離れた言葉は絶対的なものでなく、実義を失っている可能性がある。
一切の法は、背景と切り離しては論義できない
[筏の喩]ある人が、河を渡ろうとしたが、増水していて歩いて渡ることができない。流木を拾い集め、持っていた革紐で縛り、筏を造って河を渡った。その筏は良くできており、非常に役に立つものであったが、はたして、渡り終えた後も、その筏を背負って旅を続けるべきだろうか?

要するに、大乗とは、慈悲心より生じ、他に対する強い共感に基づく、自他平等、怨親平等の精神状態を智慧に比して般若波羅蜜と称し、その般若波羅蜜という智慧に基づく六波羅蜜を自らも行い、人にも教えることを通して、現実の格差を無くし、世界を平和にして、一切の苦を絶滅しようという、一種の社会運動をいうのである。

大乗の興りに就いても、少し見てみよう。
大乗は、教団中に種種の矛盾や不善が生じて、それが顕著になったがために、旧教団に対向して興ったものである。

六波羅蜜には大乗精神が如実に顕れているが、およそ次の二点を挙げれば十分であろう、
1 小乗 法の義を厳格に定める
法の義を論義する
部派を分つ
大乗 一切の法には、定まった義がない
一切の法には、執著すべきでない
論義して派を分つなど、本末顛倒だ
2 小乗 持戒して清浄になる
禅定に入って心を定める
学門して智慧を研く
自ら
涅槃に入る為
大乗 持戒して人の尊敬を得る
禅定に入って心を定める
学門して智慧を研く
他人に
法を説く為


上のような理想を掲げて興った大乗であったが、時代が下ると共に前に記すような二派が興隆して来て、理想から大きく軌道を外れることになる。
理想を追求することよりも、現実を追求する方が、人の本性に合致していたのではないか、論義を僻けて人を教育しようという時、その実現が困難であるだけに、方法論を尽くすべきであるが、そこに問題があったのか、なかったのか、
大乗は、大きく軌道修正しなくてはならなくなった。が、しかし、
中観派とは、内外の執空論者が、空有の二道を捨てて、中道に宗旨替えしたものであり、瑜伽派は小乗一切有部の学徒が一切法を心中にのみ実在するものとして、心を修めれば一切は自在になると執し、瑜伽外道と結びついたものである。それ等が真正か、虚偽かは別としても、他の為に力を尽くす事よりは、自分の為に計る方を好むという点に於いては、小乗と異ならなくなったと言わざるをえない。

大般若経の造られた所由は、はたして上記の通りであったのか?
いささか粗雑な思考力を以って、推理した結果である。故に読者は別の結論に至るかも知れない。作者は読者の心に幾分かでも寄与したことを以って満足することにする。

「大般若理趣分」に就いては、どうか?
困ったことに、何の為に造られた者か、解明できずにいる。
そこでやむを得ず、「大般若理趣分講義」と称する一文を造り、その中で、疑問を立てては解答を施すことにした。相変わらず何の為に造られたものかは解明していないが、読者にも得る所があるはずである、一読して戴きたい。
以上    




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