舍 |
利 |
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文 |
< 自 序 > この舎利礼文は、般若心経ほど一般に知られている訳ではないが、天台真言浄土禅等の各宗派各寺院に於いてよく読まれ、恐らく、その読まれる頻度からすると、遥かに他方を凌駕する。そして、その内容も、心経よりも二百字少ないことは、たとえ考慮に入ずとも、実に簡にして要を得ていると言わざるを得ない。大乗の主旨を尽くしていると言えるだろう。 しかしそれ程の経(正確にはこれは経ではないが、同等の価値を認め、便利の為に意味を拡げた)で有りながら、その作者が誰であるか、説が分かれているようである。 望月佛教大辭典によれば、つまる所、亮汰(りょうた、徳川初期の真言宗新義派の僧)の『舍利禮文鈔(しゃりらいもんのしょう)』に「舎利礼の文は、不空三蔵、都卒内院に於いて伝うる所なり。」と有りとする。不空三蔵というは、唐の玄宗、粛宗、代宗の三代に仕えた、北インドの密教僧であり、大翻訳家である。都卒内院というは、都卒天に在り釈迦が菩薩時代の最後に住した場所として知られる。 丁福保佛學大辭典(電子檔)によれば、『本地』の項に、「道安之舍利禮文曰く、本地法身 法界塔婆。」と有る。道安というは、不空より四百年早い東晋頃に活躍した、常山扶柳(じょうざんふりゅう、今の中国河北省)の人である。この人は、鳩摩羅什(くまらじゅう、亀茲国の人、道安より三十年遅く長安で活躍した大翻訳家)以前に中国の佛教界に君臨し、中国仏教を大成した最初の人として知られる。 『高僧伝』巻5によれば、「一外国の銅像有りて、形製(ぎょうせい、形の作りが)古異(こい、古く勝れる)なり。時の衆(僧衆)は、甚だしくは恭重(きょうじゅう、恭しく重んず)せず。安(道安)曰く、『像の形相(ぎょうそう、カタチ)佳(か、ウツクシ)を致(いた、キワム)す。ただ髻(けい、マゲ)の形、未だ称(かな、ツリアウ)わず。』と。弟子をして、その髻を炉冶(ろや、鋳溶かす)せしむ。既にして、光炎煥炳(かんぺい、アキラカ)として、燿(かがやき)一堂に満つ。詳(つまび)らかに髻中を視れば、一の舍利見ゆ。衆、ことごとく愧服(きふく、恥じて従う)す。安曰く、『像、すでに霊異有り、煩(まどわ)せず。』と。復治(ふくち、元に戻す)して、すなわち(炉冶を)止む。」と記している。この『舎利礼文』、或いはこの時作られしものか。 これ等二つの、乏しい知識からのみ、結論を導くことは出来ないが、もしこれ以上を知ることが不可能であるとすれば、道安作という事にしても、不自然とは言えない。更に情報を所有の方は、報せて欲しい。
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舎利礼文 |
舎利を礼拝する文 |
仏舎利を礼拝することにより、釈迦如来と同心同体となり、衆生を利益せんが為に菩薩行を修めんと誓う。 |
一心頂礼 |
一心に頂礼(ちょうらい、頭頂を相手の足に著ける礼)したてまつる、 |
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万徳円満 |
万の徳(とく、衆生済度の力)の円満する |
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釈迦如来 |
釈迦如来に。 |
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真身舎利 |
真身(しんじん、真実の身体)の舎利(しゃり、火葬した遺骨)の |
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本地法身 |
本地(ほんじ、本性)は法身(ほっしん、世界に満ちる真実の法)にて、 |
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法界塔婆 |
法界の塔婆(とうば、標柱)なり。 |
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我等礼敬 |
我等、礼敬したてまつる、 |
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為我現身 |
我が為に身を現したまえるに。 |
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入我我入 |
(仏、)入我我入(にゅうががにゅう、仏と同心同体となり、仏の大慈悲が身心に満ち溢れること)したまえば、 |
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仏加持故 |
仏、加持(かじ、助力)したもうが故に、 |
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我証菩提 |
我、菩提(ぼだい、衆生済度の大慈悲)を証(あか、証明)さん。 |
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以仏神力 |
仏の神力(じんりき、神通力)を以って、 |
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利益衆生 |
衆生(しゅじょう、あらゆる生き物、人々)を利益(りやく)し、 |
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発菩提心 |
菩提心(ぼだいしん、衆生済度の志)を発(おこ)して、 |
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修菩薩行 |
菩薩行(ぼさつぎょう、布施(ふせ、与えること)、持戒(じかい、取らないこと)、忍辱(にんにく、取られても怒らないこと)、精進(しょうじん、怠けないこと)、禅定(ぜんじょう、心が平静であること)、智慧(ちえ、衆生済度の方便を作り出すこと)の六波羅蜜(はらみつ、菩薩行のまま仏になること))を修(しゅ、行いにより身を飾ること)し、 |
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同入円寂 |
(衆生と)同じく円寂(えんじゃく、涅槃、理想の世界)に入らん。 |
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平等大智 |
平等(びょうどう、我と彼との無差別)の大智(だいち、仏の智慧)に、 |
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今将頂礼 |
今まさに頂礼したてまつる。 |
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