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  仏説箭喩経(ぶっせつせんゆきょう)は、種種の経典に引用される有名な経です。

  ある人が、坐禅をしていた所、いったい世間は変らないのだろうか、世界は有限の広さなのだろうか、死んでも魂は有るのか等、いろいろ考え出して、とうとう我慢できなくなってしまいました。

  そこでついに、仏に、お聞きしたのですが、だいたいお前は、何よりも大切な事を考えずに、役にも立たないことを考えて、何をしているのだと、たいそう呵られてしまいました。

  世尊は、比丘たちに、ある毒箭に射られた男についてたとえ話をされました。

 

  この経は、同種のものが、他にも中阿含経巻第60、第221経にもあります。

 

 

 

 

 

 

佛說箭

 失譯人名今附東晉錄

仏説箭喩経(ぶっせつせんゆきょう)

   訳人名を失い今東晋録に附す

 毒矢に射られても、抜かずに毒矢を調べようとする男の話。

聞如是。一時婆伽婆。在舍衛城祇樹給孤獨園

かくの如く聞けり。 一時、婆伽婆(ばがば、世尊)、舎衛城の祇樹給孤獨園(ぎじゅぎっこどくおん、精舎名)に在せり。

 このように聞いております、――

 ある時、

   世尊は、

     舎衛城(しゃえいじょう、国名)の

     祇樹給孤獨園(ぎじゅぎっこどくおん、精舎名)におられました。

彼時尊者摩羅鳩摩羅。獨在靜處。有是念生。謂世尊棄邪見除邪見。不記說。世間有常世間無常。世間有邊世間無邊。命是身命異身異。有如此命終。無有命終。有此無有此。無有命終。我不能忍。我所不用。我所不樂

彼の時、尊者(そんじゃ、先輩比丘に対する敬称)摩羅鳩摩羅(まらくまら、比丘名)は、独り静処に在りて、この念(おも)いを生ずること有り。 謂わく、『世尊は、邪見を棄てて邪見を除き、記(き、述べる)して説きたまわず。 世間は有常なりや世間は無常なりや。 世間は有辺なりや世間は無辺なりや。 命はこれ身なりや命は異なりて身は異なりや。 かくの如き命の終ること有りや命の終ること有ること無しや。 我は忍ぶこと能わず。 我が用いざる所なり。 我が楽しまざる所なり。

 その時、

   尊者(そんじゃ、先輩比丘の敬称)摩羅鳩摩羅(まらくまら、比丘名)は、

     独り、静処(じょうしょ、坐禅をする静かな所)に居り、こう念いました、

     『世尊は、

        邪見(じゃけん、正法以外の見解)を棄てた、

        邪見を除いたと言われて、

        (次の事を)お説きにならない、

        謂わく、

          世間(せけん、世の事物)は有常(うじょう、常に変らない)か?

          世間は無常(むじょう、常に変る)か?

          世間(せけん、世界)は有辺(うへん、際限が有る)か?

          世間は無辺(むへん、際限が無い)か?

          命と身とは同じか?

          命と身とは異なるか?

          このような命は終ることが有るか?

          このような命は終ることが無いか?

          この物は有るか?

          この物が有ることは無いか?

          命に終りが有るということは無いのだろうか?

        わたしは我慢できない。

        わたしは許せない。

        わたしは楽しめない。

世尊若一向記世間有常者。我當從行梵行

世尊、もし一向に『世間は有常なり』と記したまわば、我はまさに従うて梵行(ぼんぎょう、修行)を行うべし。

 世尊が、

   もしはっきりと

   『世間は有常である。』と仰れば、

 わたしも、

   世尊に従って修行できるだろう。

若世尊不一向記世間。世間有常者。論已當離去

もし世尊、一向に世間と世間の有常なるをば記したまわずんば、論じおわりて、まさに離れ去るべし。 

 世尊が、

   もしはっきりと、

     『世間は有常である。』と仰らなければ、

 わたしは、

   言いたいことを言いおわり、

   離れて去ることだろう。

如是世間。世間有邊。世間無有邊。命是身命異身異。有如此命終。無有命終。有此無有此。無有命終。若世尊一向記我言。真諦餘者。愚癡者。我當行梵行

かくの如く、世間と世間の有辺なると世間の無辺なると、命はこれ身なると命は異なり身は異なると、かくの如き命の終ること有ると命の終ることの有ること無きと、これ有るとこれの有ること無きと、命の終ることの有ること無きを、もし世尊、一向に『我は真諦(しんたい、真実)を言えり。 余は愚癡(ぐち、愚か)の者なり。』と記したまわば、我はまさに梵行を行うべし。

 このように、世間について、

   世間は有辺であるか、世間は無辺であるか、

   命は身と同じであるか、命と身とは異なるか、

   このような命は終ることが有るか、命に終りは無いのか、

   この物は有るのか、この物が有ることは無いのか、

   命の終りが有ることは無いのか、

 世尊が、

   もしはっきりと

     『わたしは真実を言った。 他の考えは愚かである。』と仰れば、

 わたしも、

   修行ができるのに。

 

  注:『我言真諦余者愚癡者』は、世尊が質問に対して答えられる締めの言葉。

若世尊不一向記。我言。真諦餘者愚癡者。我問已當離還

もし世尊、一向に『我は真諦を言えり。 余は愚癡の者なり。』と記したまわずんば、我は問いおわりて、まさに離れて還るべし。』と。

 世尊が、

   もしはっきりと、

     『わたしは真実を言った。 他の考えは愚かである。』と仰らなければ、

 わたしは、

   それ以上は問わずに、

   離れて、還ってしまおう。』と。

於是尊者摩羅鳩摩羅從下晡起。至世尊所。到已禮世尊足卻坐一面

ここに於いて、尊者摩羅鳩摩羅、下晡(かほ、夕方)に起ちて世尊の所に至り、到りおわって世尊の足を礼し、却(しりぞ)いて一面に坐せり。

 こう考えると、

   摩羅鳩摩羅は、

     夕方に、坐禅から起(た)ち、

     世尊の所に至って、世尊の足に礼すると、

       退いて、壁の一面に坐った。

尊者摩羅鳩摩羅卻坐一面已。白世尊曰。唯世尊。我在靜處。有是念生。謂世尊棄邪見除邪見。不記說世間有常乃至無有命終。此者我不欲。我不能忍。不能樂

尊者摩羅鳩摩羅、却って一面に坐しおわると、世尊に白(もう)して曰(もう)さく、『唯(ゆい、丁寧な呼びかけ、もうし)世尊、我は静処に在りて、この念いを生ぜり。 謂わく、世尊は邪見を棄てて邪見を除き、記して世間の有常なることより、乃(すなわ)ち命の終ることの有ること無きに至るまで説きたまわず。 これを、我は欲せず、我は忍ぶこと能(あた)わず、楽しむこと能わず。

 尊者摩羅鳩摩羅は、

   退いて壁の一面に坐ると、

   世尊に申した、

     『唯(ゆい、丁寧な呼びかけ、もうし)世尊、

        わたしは、

          静処で坐禅しながらこう考えました、

          謂わく、

            世尊は、

              『邪見を棄てた、邪見を除いた。』と仰って、

              世間は有常であるか?より

              命の終りが有ることは無いか?に至るまでを

              お説きになりません。

        これは、

          わたくしの欲することでなく、

          わたくしにとって

            我慢できず、

            楽しむことができません。

若世尊一向知世間有常者。世尊當記之。世尊若一向不知世間有常者。但直言我不能知。如是世間無常至無有命終。若世尊一向知。我言真諦。餘者愚癡。世尊當記之。若世尊不知。我言真諦。餘者愚癡者。直言我不能知

もし世尊、一向に世間の有常なるを知りたまわば、世尊はまさにこれを記したもうべし。 世尊、もし一向に世間の有常なるを知りたまわざれば、ただ直ちに我は知ること能わずと言(のたも)うべし。 かくの如く、世間の無常なるより、命の終ることの有ること無きに至るまで、もし世尊、一向に『我は真諦を言えり。 余は愚癡なり。』と知りたまわば、世尊まさにこれを記したもうべし。 もし世尊、『我は真諦を言えり。 余は愚癡の者なり。』と知りたまわざれば、直ちに『我は知ること能わず。』と言うべし。

 世尊が、

   もしはっきりと、

     『世間は有常である。』とご存知ならば、

 世尊は、

   そう仰らなくてはなりません。

 世尊が、

   もしはっきりと、

     『世間は有常である。』とご存知でなければ、

   ただ正直に、

     『わたしは知ることができない。』と仰ってください。

 

 このようにして

   世間は無常であるか?より

   命の終りが有ることは無いか?に至るまで、

 世尊が、

   もしはっきりと、ご存知ならば、

 世尊は、

   それを、

     『わたしは真実を言った。 他の考えは愚かである。』と

       仰らなければなりません。

 世尊が、

   もしご存知でなく、

     『わたしは真実を言った。 他の考えは愚かである。』と

       仰らないのであれば、

   正直に、

     『わたしは知ることができない。』と仰ってください。』と。

此摩羅鳩摩羅。我前頗向汝說。若我記世間有常。汝便從我行梵行耶。不也唯世尊

『これ摩羅鳩摩羅、我は前に頗(すこぶ、しばしば)る汝に向かいて説かく、もし我、世間の有常なるを記せば、汝は便(すなわ)ち我に従うて梵行を行わんやと。』 『不なり、唯世尊。』

 『これ摩羅鳩摩羅、

    わたしは、

      以前からしばしば、お前に向って、

    『もし、

      わたしが、『世間は有常である。』と述べれば、

      お前は、すぐに

        わたしに従って修行できるか?』と説いたことが有るか?』

 『いいえ、唯世尊。』

如是世間無常至無有命終。若我記。我言真諦餘者愚癡者。汝當從我行梵行耶。不也唯世尊

『かくの如く、世間の無常なるより、命の終ることの有ること無きに至るまで、もし我、『我は真諦を言えり。 余は愚癡の者なり。』と記せば、汝はまさに我に従うて梵行を行うやと。』 『不なり、唯世尊。』

 『このようにして、

    世間は無常である。より

    命の終ることが有ることは無い。に至るまで、

      『もし、

         わたしが、『わたしは真実を言った。 他の考えは愚かである。』と言ったならば、

         お前は、

           わたしに従って修行できるのか?』と説いたことが有るか?』

 『いいえ、唯世尊。』

汝摩羅鳩摩羅前頭向我說。若世尊一向記世間有常者。我當從行梵行耶。不也唯世尊

『汝、摩羅鳩摩羅、前に頗る頭を我に向けて、『もし世尊、一向に世間の有常なるを記したまわば、我はまさに従うて梵行を行うべし。』と説けるや。』 『不なり、唯世尊。』

 『お前、摩羅鳩摩羅、

    以前に、頭をわたしに向けて

      『世尊が、

         もしはっきりと、『世間は有常である。』と仰れば、

       わたしは、

         必ず、世尊に従って修行します。』と説いたことが有るか?』

 『いいえ、唯世尊。』

如是世間無常至無有命終。若世尊記我言。真諦餘者愚癡者。我當從行梵行耶。不也唯世尊

『かくの如く、世間の無常なるより、命の終ることの有ること無きに至るまで、『もし世尊、『我は真諦を説けり。 余は愚癡なる者ぞ。』と記したまわば、我はまさに従うて梵行を行うべし。』と(説ける)や。』 『不なり、唯世尊。』

 『このようにして、

    世間は無常である。より

    命の終りが有ることは無い。に至るまで、

  『もし、

     世尊が『わたしは真実を言った。 他の考えは愚かである。』と仰れば、

   わたしは、

     必ず、世尊に従って修行します。』と説いたことが有るか?』

 『いいえ、唯世尊。』

此摩羅鳩摩羅。我本不向汝說。汝本不向我說。汝愚癡人。無所因而罵耶

『これ摩羅鳩摩羅。 我は本より汝に向って説かず、汝も本より我に向かって説かず。 汝、愚癡の人、因る所無くて罵るや。』

 『これ摩羅鳩摩羅、

    わたしは、本よりお前に向って説かず、

    お前も、本よりわたしに向って説かない。

  お前は、愚か者である。

    訳もなく、人を罵っておるのだ。』

於是尊者摩羅鳩摩羅面被世尊責。默然無言。身面汗迴其面默然無言

ここに於いて、尊者摩羅鳩摩羅、面(めん、顔を背ける)して世尊の責めを被り、黙然として言無く、身面に汗せり。 その面を迴らし、黙然として言無し。

 そのようにして、

   尊者摩羅鳩摩羅は、

     顔を背けて、世尊の責めを被り、

     黙然として、言葉もなく、

     身体と顔に、汗を流しておりました。

 その面を迴らしたまま、

   黙然として無言です。

彼時世尊。面責摩羅鳩摩羅已。告諸比丘。若有愚癡人。作是念。我不從世尊行梵行。要令世尊一向記世間有常。彼愚癡人不自知中間當命終

彼の時、世尊、摩羅鳩摩羅を面責しおわりて、諸の比丘に告げたまわく、『もし、ある愚癡の人、この念い作して、『我は世尊に従うて梵行を行わず、要(かなら)ず世尊をして一向に世間の有常なるを記せしめん。』とせば、彼の愚癡の人は、自ら中間にして、まさに命の終るべきを知らざるなり。

 その時、

   世尊は、

     摩羅鳩摩羅を面責しおえて、

     諸の比丘に教えられました、――

    もし

      ある愚か者が、このように念った、

        『わたしは、

           世尊に従って修行せずに、

         先に、

           世尊に、はっきりと『世間は有常である。』と述べさせよう。』と。

      その愚か者は、

        自らが、

          このような事をしている間に、

          当然、命が終ってしまうことを知らないのだ。

如是世間無常至無有命終。我不從世尊行梵行。要令世尊記。我言真諦餘者愚癡。彼人不自知中間命終。猶若有人身中毒箭。彼親屬慈愍之。欲令安隱。欲饒益之。求索除毒箭師

かくの如く、世間の無常なるより、命の終ることの有ること無きに至るまで、『我は世尊に従うて梵行を行わず、要ず世尊をして、『我は真諦を言えり。 余は愚癡なり。』と記せしめん。』とせば、彼の人は、自ら中間にして命の終らんことを知らず。 なお、ある人、身に毒箭(どくや)中(あた)るが若(ごと)し、彼の親属これを慈愍(じみん、哀れむ)して、安穏ならしめんと欲し、これを饒益(にょうやく、不自由させない)せんと欲して、毒箭を除く師を求索(ぐさく、求める)せり。

 このようにして、

   『世間は無常である。』より

   『命の終りが有ることは無い。』に至るまで、

     『わたしは、

        世尊に従って修行せずに、

      先に、

        世尊に、

          『わたしは真実を言った。 他の考えは愚かである。』と述べさせよう。』とするならば、

 その人は、

   自らが、

     このような事をしている間に

     当然、命が終ってしまうことを知らないのだ。

 

 それはちょうど、

   ある人が、毒箭(どくせん、毒矢)にあたった時のようである。

   彼の親属は、

     この人を、哀れんで、

       楽にさせようと、思い、

       不自由させないようにと、思って、

         毒箭を抜く師を、探し求めた。

於是彼人作是念。我不除箭。要知彼人己姓是字是像是。若長若短若中。若K若白。若利姓。若婆羅門姓。若居士姓。若工師姓。若東方南方西方北方誰以箭中我

ここに於いて、彼の人、この念いを作さく、『我は箭を除かず、要ず彼の人を知りおわらん。 姓はこれ、字はこれ、像(ぞう、すがた)はこれ、若しは長(ちょう、背が高い)、若しは短、若しは中なるや。 若しは黒、若しは白なるや。 若しは刹利(せつり、王種)の姓、若しは婆羅門(ばらもん、祭司種)の姓、若しは居士(こじ、帰依者)の姓、若しは工師の姓なるや。 若しは東方南方西方北方なるや。 誰か箭を以って我に中(あつ)る。

 その時、

   この人は、こんなことを考えていたのだ、

 『わたしは、箭(や)を抜かせないぞ、

  まず先に、

    彼の射た人のことを、すっかり知らなくてはならない、

    その人は、

      姓は何で、名前は何で、容姿は何うなのだ?

      背は高いのか、低いのか、中ぐらいか?

      肌の色は、黒いのか、白いのか?

      刹利(せつり、王種)の姓なのか?

      婆羅門(ばらもん、祭司種)の姓なのか?

      居士(こじ、仏教の帰依者)の姓なのか?

      工師の姓なのか?

      東方の人か、南方か、西方か、北方か?

    誰が、箭でわたしを射たのだ?

 

  注:他本により、己は已に改める。

我不除毒箭。要當知彼弓。為是薩羅木。為是多羅木。為是翅羅鴦掘梨木

我は毒箭を除かず、要ずまさに彼の弓を知るべし。 これ薩羅(さら、樹木名)の木とせんや、これ多羅(たら、樹木名)の木とせんや、これ翅羅鴦掘梨(しらおうくつり、樹木名)の木とせんや。

 わたしは、毒箭を抜かせないぞ、

   まず先に、その弓について知らなければならない、

   それは、

     薩羅(さら、樹木名)の木でできているのか?

     多羅(たら、樹木名)の木でできているのか?

     翅羅鴦掘梨(しらおうくつり、樹木名)の木でできているのか?

我不除毒箭。要當知彼筋。若牛筋。若羊筋。若氂牛筋。而用纏彼弓

我は毒箭を除かず、要ずまさに彼の筋(すじ、弓に弦を取り付ける糸)を知るべし。 若しは牛の筋なるや、若しは羊の筋なるや、若しは氂牛(りご、ヤク、チベット産の牛)の筋なるや、しかも用って彼の弓に纏えるは。

 わたしは、毒箭を抜かせないぞ、

   まず先に、その弓に巻いた筋について知らなければならない、

   それは、

     牛の筋か?

     羊の筋か?

     氂牛(りご、チベット産の牛、ヤク)の筋か?

   何が、

     その弓に巻いてあったのだ?

我不除毒箭。要知彼弓弝為白骨耶。為K漆耶。為赤漆耶

我は毒箭を除かず、要ず彼の弓の弝(ゆづか、弓の持つ所)を知らん。 白き骨とせんや、黒き漆とせんや、赤き漆とせんや。

 わたしは、毒箭を抜かせないぞ、

   まず先に、その弓の弓束(ゆづか、弓を持つ所)について知らなければならない、

   それは、

     白い骨でできているのか?

     黒い漆でできているのか?

     赤い漆でできているのか?

我不除毒箭。我要當知彼弓弦。為牛筋羊筋氂牛筋耶

我は毒箭を除かず、我、要ずまさに彼の弓の弦を知るべし。 牛の筋とせんや、羊の筋、氂牛の筋とせんや。

 わたしは、毒箭を抜かせないぞ、

   まず先に、その弓の弦について知らなければならない、

   それは、

     牛の筋でできているのか?

     羊の筋でできているのか?

     氂牛の筋でできているのか?

我不除毒箭。要當知彼箭。為是舍羅木。為是竹耶。為是羅蛾梨木耶

我は毒箭を除かず、要ずまさに彼の箭を知るべし。 これ舎羅(しゃら、樹木名)の木とせんや、これ竹とせんや、これ羅蛾梨(らがり、樹木名)の木とせんや。

 わたしは、毒箭を抜かせないぞ、

   まず先に、その箭について知らなければならない、

   それは、

     舎羅(しゃら、樹木名)の木でできているのか?

     竹でできているのか?

     羅蛾梨(らがり、樹木名)の木でできているのか?

我不除毒箭。要當知彼箭筋。為是牛筋羊筋氂牛筋耶。而用纏箭耶

我は毒箭を除かず、要ずまさに彼の箭(や)の筋を知るべし。 これ牛の筋とせんや、羊の筋、氂牛の筋とせんや、しかも用って箭に纏えるは。

 わたしは、毒箭を抜かせないぞ、

   まず先に、その箭に巻いた筋について知らなければならない、

   それは、

     牛の筋でできているのか?

     羊の筋でできているのか?

     氂牛の筋でできているのか?

   何が、

     その箭に巻いてあったのだ?

我不除毒箭。要當知彼毛羽。是孔雀耶。為是鶬鶴耶。為是鷲耶。取彼翅用作羽

我は毒箭を除かず、要ずまさに彼の毛羽を知るべし。 これ孔雀とせんや、これ鶬鶴(そうかく、鶴の類)とせんや、これ鷲とせんや、彼の翅(つばさ)を取り用って羽と作せるは。

 わたしは、毒箭を抜かせないぞ、

   まず先に、その箭の毛羽について知らなければならない、

   それは、

     孔雀の羽でできているのか?

     鶬鶴(そうかく、鶴の類)の羽でできているのか?

     鷲の羽でできているのか?

   何の翅(つばさ)を取って、

     その羽を作ったのだ?

我不除毒箭。要當知彼鐵。為是婆蹉耶。為是婆羅耶。為是那羅耶。為是伽羅鞞耶

我は毒箭を除かず、要ず彼の鉄(てつ、)を知るべし。 これ婆蹉(ばしゃ、鏃の種類?)とせんや、これ婆羅(ばら、鏃の種類?)とせんや、これ那羅(なら、鏃の種類?)とせんや、これ伽羅鞞(からひ、鏃の種類?)とせんや。

 わたしは、毒箭を抜かせないぞ、

   まず先に、その鏃(やじり)について知らなければならない、

   それは、

     婆蹉(ばしゃ、鏃の種類)か?

     婆羅(ばら、鏃の種類)か?

     那羅(なら、鏃の種類)か?

     伽羅鞞(からひ、鏃の種類)か?

 

   注:鏃の種類は他本によれば、平なもの、被ったもの、矛のように尖ったもの、刀の付いたものとある。

我不除毒箭。要當知彼鐵師。姓是字是像是。若長若短若中。若K若白。若在東方若南方若西方若北方

我は毒箭を除かず、要ずまさに彼の鉄師を知るべし。 姓はこれ、字はこれ、像はこれと。 若しは長、若しは短、若しは中なるや。 若しは黒、若しは白なるや。 若しは東方に在り、若しは南方、若しは西方、若しは北方なるや。

 わたしは、毒箭を抜かせないぞ、

   まず先に、その鉄師(刀鍛冶)について知らなければならない、

   それは、

     姓は何か、名前は何か、容姿は何うか?

     背は高いのか、低いのか、中ぐらいか?

     肌の色は黒いのか、白いのか?

     東方の人か、南方か、西方か、北方か?

彼人亦不能知。於中間當命終

彼の人もまた知ること能わず、中間に於いてまさに命の終らんとすべきを。

 この人も、また

   そのような事をしている間に、

   当然、命が終ってしまうことを

     知ることができないでいるのだ。

如是。若有愚癡人作是念。我不從彼世尊行梵行。要令世尊記世間是常。彼愚癡人不自知。於中間當命終

かくの如く、もしある愚癡の人、この念いを作して、『我は世尊に従うて梵行を行わず、要ず世尊をして世間はこれ常なるを記せしめん。』とせば、彼の愚癡の人は、自ら中間に於いてまさに命の終らんとすべきことを知らず。

 これと同じように、

   もしある愚か者が、このように

     『わたしは、

        世尊に従って修行しないぞ、

        まず先に、

          世尊に、『世間は有常である。』と言わせなければならない。』と念うならば、

   この愚かな人は、

     自らが、

       そのような事をしている間に、

       当然、命が終ってしまうことを、

         知らないのである。

如是。世間非是常。世間有邊至無有命終。若有愚癡人作是念。我不從彼世尊行梵行。要令世尊作是記我言。真諦餘者愚癡。彼愚癡人不自知。於中間當命終

かくの如く、世間はこれ常に非ず、世間は有辺なりより、命の終ることの有ること無しに至るまで、もしある愚癡の人、この念いを作して、『我は世尊に従うて梵行を行わず、要ず世尊をして、この『我は真諦を言えり。 余は愚癡なり。』との記を作さしん。 彼の愚癡の人は、自ら中間に於いて、まさに命の終らんとすべきことを知らず。

 このように、

   『世間は常ではない。世間は有辺である。』より

   『命の終りが有るということは無い。』に至るまで、

   もし、ある愚か者が、このように

     『わたしは、

        彼の世尊に従って修行しないぞ、

        まず先に、

          世尊に、

            『わたしは真実を言った。 他の考えは愚かである。』と

              言わせなければならない。』と念うならば、

     その愚かな人は、

       自らが、

         そのような事をしている間に、

         当然、命が終ってしまうことを、

           知らないのである。

世間有常。有此邪見。亦當於我行於梵行。如是世間無常至無有命終。此邪見者。亦當於我行梵行

世間は有常なり、この邪見有るも、またまさに我に於いて梵行を行うべし。 かくの如く、世間は無常なりより、命の終ることの有ること無きに至るまで、この邪見せん者も、またまさに我に於いて梵行を行うべし。

 『世間は有常である。』と、このような邪見を有(も)つ者は、

   また当然、わたしに従って修行しなければならない。

   (もしこのように言えば、それは間違っている。

 このように、

   『世間は無常である。』より

   『命の終りが有ることは無い。』に至るまで、このような邪見を有つ者は、

     また当然、わたしに従って修行しなければならない。

   (もしこのように言えば、それは間違っている。

世間有常。有此邪見。不應從我行梵行。如是世間無常至無有命終。有此邪見。不應從我行梵行

世間は有常なり、この邪見有るも、またまさに我に従うて梵行を行うべからず。 かくの如く、世間は無常なりより、命の終ることの有ること無きに至るまで、この邪見有るもの、まさに我に従うて梵行を行うべからず。

 『世間は有常である。』と、このような邪見を有つ者は、

   決して、わたしに従って修行してはならない。

   (もしこのように言えば、それは間違っている。

 このように、

   『世間は無常である。』より

   『命の終りが有ることは無い。』に至るまで、このような邪見を有つ者は、

     決して、わたしに従って修行してはならない。

   (もしこのように言えば、それは間違っている。

世間有常。無此邪見。亦當從我行梵行。如是世間無常至無有命終。無此邪見者。亦當從我行梵行

世間は有常なり、この邪見の無きものも、またまさに我に従うて梵行を行うべし。 かくの如く、世間は無常なりより、命の終ることの有ること無きに至るまで、この邪見の無き者は、またまさに我に従うて梵行を行うべし。

 『世間は有常である。』と、このような邪見を有たない者は、

   また当然、わたしに従って修行しなければならない。

   (もしこのように言えば、それは間違っている。

 このように、

   『世間は無常である。』より

   『命の終りが有ることは無い。』に至るまで、このような邪見を有たない者は、

     また当然、わたしに従って修行しなければならない。

   (もしこのように言えば、それは間違っている。

世間有常。無此邪見。不應從我行梵行。如是世間無常至無有命終。無此邪見。不應從我行梵行

世間は有常なり、この邪見の無きもの、まさに我に従うて梵行を行うべからず。 かくの如く、世間は無常なりより、命の終ることの有ること無きに至るまで、この邪見の無きもの、まさに我に従うて梵行を行うべからず。

 『世間は有常である。』と、このような邪見を有たない者は、

   決して、わたしに従って修行してはならない。

   (もしこのように言えば、それは間違っている。

 このように、

   『世間は無常である。』より

   『命の終りが有ることは無い。』に至るまで、このような邪見を有たない者は、

     決して、わたしに従って修行してはならない。

   (もしこのように言えば、それは間違っている。

世間有常。有生有老有病有死。有憂慼啼哭不樂。如是此大苦陰是習。如是世間無常至無有命終。有生有老。至大苦陰是習。世間有常。此不可記。如是世間無常至無有命終。此不可記

世間は有常なり、生有り老有り病有り死有り、憂慼(うせき、憂い)、啼哭(たいこく、泣く)、楽しまざる有り。 かくの如き、この大苦の陰(おん、集まり)は、これ習いなり。 かくの如く、世間は無常なりより、命の終ることの有ること無きに至るまで、生有り老有りより、大苦の陰に至るまで、これ習いなり。 世間は有常なりとも、これを記すべからず。 かくの如く、世間の無常より、命の終ることの有ること無きに至るまで、これを記すべからず。

 『世間は有常である。』としても、

   生は有り、老は有り、病は有り、死は有り、

   憂慼(うせき、憂うこと)も、啼哭(たいこく、泣くこと)も、楽しまないことも有る。

   このような

     大苦の陰(おん、集まり、人の身心)は、

     これが、

       習(しゅう、)である。

 このようにして、

   『世間は無常である。』より

   『命の終りが有ることは無い。』に至るまで、

     生は有り、老も有る、より

     大苦の陰に至るまで、

     これが

       習である。

 

 『世間は有常である。』とは、

   これを言うことはできない。

 このようにして、

   『世間は無常である。』より

   『命の終りが有ることは無い。』に至るまで、

     これを言うことできないのである。

云何不可記。此非是義。亦非法。非是梵行。不成神通。不至等道。不與涅槃相應。是故不可記

云何が記すべからざる。 これはこれ義に非ず、また法に非ず。 これ梵行に非ず、神通を成さず、等しき道に至らず。 涅槃と相応せず。 この故に、記すべからざるなり。

 何故、言うことができないのか、

   これは、

     義(ぎ、正しい意味)でもなく、

     法(ほう、正しい教え)でもなく、

     梵行(ぼんぎょう、正しい修行)でもなく、

     神通(じんつう、不思議な力)を成すこともなく、

     仏と等しい道に至ることもなく、

     涅槃(ねはん、理想の境地)と相応することも無い。

 この故に、

   言ってはならないのである。

云何是我所一向記。此苦我一向記。苦習苦盡住處。我一向記。何以故。我一向記。此是義是法。得成神通。行梵行至等道與涅槃相應。是故我一向記之

云何がこれ我が一向に記す所なる。 これ苦なり、我は一向に記す。 苦の習い、苦の尽き住まる処、我は一向に記す。 何を以っての故に、我が一向に記するは、これはこれ義、これ法、神通を成すことを得、梵行を行いて等しき道に至り、涅槃と相応す。 この故に我は一向にこれを記するなり。

 何のような事を、わたしははっきり言うのだろうか。

   『これは苦である。』とは、わたしは、はっきりと言う、

   『これは

      苦の習(しゅう、)である、

      苦を尽くすことである、

      苦の住(とど)まる処である。』とは、わたしは、はっきりと言う。

 これは、

   義(ぎ、正しい意味)があり、

   法(ほう、正しい教え)があり、

   神通を成らせ、

   梵行(ぼんぎょう、正しい修行)を行わせ、

   仏と等しい道に至り、

   涅槃(ねはん、理想の境地)と相応するからである。

 この故に、

   わたしは、はっきりとこれを言うのである。

所可不記者當棄彼。我所記者當持之

記せざるべき所は、まさに彼を棄つべし。 我が記する所は、まさにこれを持(たも)つべし。

 わたしの言うべきでない事は、

   まさに、それを棄てなければならない。

 わたしが言う事は、

   まさに、それを持(たも、不忘)たなければならない。

佛如是說。彼諸比丘聞世尊所說。歡喜而樂

佛說箭

仏、かくの如く説きたまえり。 彼の諸の比丘も、世尊の説きたもう所を聞き、歓喜して楽しめり。

仏説箭喩経

 仏が、このように説かれますと、

 彼の諸の比丘たちは、

   世尊のお説きになった事を聞いて、

   歓喜して楽しみました。

 

 仏説箭喩経

 

 

 

 

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