爾時世尊為諸菩薩。說一切法甚深微妙般若理趣清淨法門。此門即是菩薩句義。云何名為菩薩句義。 |
爾の時、世尊は諸の菩薩の為に説きたまわく、『一切法は、甚深微妙なる般若の理趣にして、清浄なる法門なり。此の門は、即ち是れ菩薩の句義なり。云何が名づけて、菩薩の句義と為す。 |
爾の時、
『世尊』は、
諸の、
『菩薩』の為に、
こう説かれた、――
一切の、
『法( 事物)』は、
『甚深微妙』な、
『般若の理趣(智慧の道)』であり、
『清浄の法門(菩提の門)』である!。
此の、
『門』とは、
是れは、
『菩薩』という、
『句(ことば)』の、
『義(意味)』である。
何を、
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世尊(せそん):世に尊ばるる者の義。通常梵語薄伽梵bhagavatの訳語となす。
一切法(いっさいほう):梵語 sarva- dharma,一切の有為法(梵 saMskRta- dharma)即ち造られたもの、及び無為法(梵 asaMskRta-
dharma)即ち造られないものの総称。即ち、一切の事物、物質、精神,及び有らゆる現象としての存在を含むものの意。
甚深(じんじん):甚だ深くて理解しがたいこと。
微妙(みみょう):高尚深遠なこと。幽深で知り難いさま。理趣の幽玄なのを微といい、迥(はるか)に思議を超絶したのを妙という。
般若(はんにゃ):梵語prajJaa、判断、識別の義。慧又は智慧等と訳す。
般若理趣(はんにゃりしゅ):梵語prajJaa- paaramitaa- nayaの訳。此の中nayaは指揮、指導の義。或いは智慧の義。即ち世間の分別を離れて智慧を究竟し、一切智の彼岸に至る道の意。
清浄法門(しょうじょうほうもん):梵語parizuddha- dharma- paryaayaの訳。煩悩を遠離して心清浄となり、真の仏の境地たる阿耨多羅三藐三菩提に至る道を得る門をいう。
句義(くぎ):梵語padaarthaの訳。文の意義。ことばの意味。ことばの意味に相応する事物、人、対象、主題、話題等をいう。 |
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註:窺基の「大般若波羅蜜多経般若理趣分述讃(以後述讃)」には、「甚深微妙清浄法門」と標し、「即ち是れ妄に対して、真実相、真如の境体を顕す」と略讃する。 |
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謂極妙樂清淨句義是菩薩句義。 |
謂わゆる『極めて妙楽なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 |
その意味は、――
『極めて!』、
『妙であり!』、
『楽である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
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極妙楽(ごくみょうらく):梵語surata?の訳。極めて大きな楽しみの義。時に性愛を意味する語。即ち菩薩の境地である。是の一句を以って、菩薩は、般若波羅蜜多の無分別智の中に在って、常に六波羅蜜を行ずるも、是の境地は苦に非ず、而も極妙楽の境地なりと主張するものである。
清浄句義(しょうじょうくぎ):梵語parizuddha- padaartha、又はvizuddha- padaartha?の訳。無罪、或いは潔白な句の義の意。蓋し極妙楽等の句の義に関して、単なる言葉の上には、義を得べからず、則ち戯論無きが故に清浄なりという。復た次ぎに極めて妙楽なりの語ありと雖も、菩薩に於いては是れ即ち自らを謂うに非ず、一切衆生の極妙楽なるを謂うにより、是の句義あり、故に清浄なりの意である。又清浄句義に二種の釈あり、一には「極妙楽」等の句の清浄、即ち語言、乃至法の本性無きこと虚空の如し、故に清浄である。二には「極妙楽」等の句義の清浄、即ち一切法に二種あり、有為法と無為法である。有為法ならば一切は因縁所生の故に本性無きこと虚空の如し、故に清浄である。無為法ならば一切の無為法は寂静にして無の如く、虚空の如きなるが故に清浄である。
菩薩句義(ぼさつくぎ):梵語bodhisattva- padaartha?の訳。菩薩ということばの意味。又は菩薩ということばの意味に相応する事物、或いは物体を云う。 |
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註:以下69清浄句義文を列ねて、大菩提を求むる菩薩心に於いて、一切法は、皆清浄なりと説く。
註:第一極妙楽、乃至第十一意善安楽の十一句義は、衆生空についての大乗的解釈たる彼我平等の境地を説き、第十二句義以後には一切法の空なることを示す。即ち衆生の空とは、謂わゆる第一極妙楽、第二諸見永寂、第三微妙適悦、第四渇愛永息の四種を以って、菩薩の空三昧と為し、此の中、第二諸見永寂を以って愚癡を破り、第三微妙適悦(喜悦)を以って瞋恚を破り、渇愛永息を以って貪欲を破り、総じて三毒を皆破る。次に第五胎蔵超越、第六衆徳荘厳、第七意極猗適、第八得大光明の四種を以って、菩薩の無相三昧と為し、此の中第五胎蔵超越を以って身の不浄なるを破り、第七意極猗適を以って受の苦なるを破り、第六衆徳荘厳を以って法の無我を破り、第八得大光明を以って心の無常を破り、総じて常楽我淨の不顛倒なることを明かし、第九身善安楽、第十語善安楽、第十一意善安楽の三種を以って、菩薩の無作三昧を示して、身口意業の善なる六波羅蜜を行うを以って、後世の安楽なるを明す。
註:小乗に於いては、衆生の空は、即ち不自在、故に苦なることを示すも、大乗に於いては、彼我平等の空三昧中に於いて、六波羅蜜を以って、彼れを利益する、即ち是れ我が極妙楽の境地なりと為すものである。 |
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諸見永寂清淨句義是菩薩句義。 |
『諸見は永寂せり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 |
諸の、
『見( 邪見)』は、
『永久に!』、
『寂静である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
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諸見(しょけん):見は梵語dRSTi、或いはdarzanaの訳。見るの義。所謂見解、思想、主義、主張の意にして、正見、邪見等の別あるも、今は五種の邪見を云う。謂わゆる五見(梵語paJca
dRSTayaH)である、就中一に有身見(梵satkaaya- dRSTi)、即ち自ら我の存在有りと執するを称して我見と為し、この我に属するを以って、則ち我所見と称す。二に辺執見(梵anta-graaha-
dRSTi)、即ち極端なる一遍に辺執する見解にして、謂わゆる我は死後にも仍ち常住不滅なり、これを称して常見(有見)と為し、謂わゆる我は死後に則ち断絶す、これを称して断見(無見)と為す。三に邪見(梵mithyaa-
dRSTi)、即ち因果の道理を否定する見解と為す。四に見取見(梵dRSTi- paraamarza)、即ち錯誤の見解に執著し、以って真実と為す者なり。五に戒禁取見(梵)ziila-
vrata- paraamarza)、即ち不正確なる戒律、禁制等を見て、涅槃に可達の戒行と為す等、この取の執著を即ち称して、戒禁取見と為す。
永寂(ようじゃく):永く寂す。永久に静寂となる。寂は梵語zaantiの訳、又寂静、静寂と訳す。悪思が鎮まり、心が平和になることをいう。 |
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註:諸見は無明、或いは愚癡より生ずる三毒の一である。菩薩は彼我平等の空三昧中に於いて、般若波羅蜜の智慧を以って、六波羅蜜を行うが故に、諸見永寂と言う。 |
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微妙適悅清淨句義是菩薩句義。 |
『微妙にして適悦なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 |
『微妙に!』、
『適悦(快適)である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
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微妙適悦(みみょうちゃくえつ):梵語abhirati?の訳。歓喜、満足、愉悦、献身等の義。 |
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註:微妙適悦は喜悦の意、即ち三毒の一たる瞋恚の逆である。菩薩は彼我平等の空三昧中に於いて、彼れ若し手を以って打たば、忍辱波羅蜜を以って忍び、彼れの瞋恚をして解消せしめて、以って自ら喜悦す。故に是れを微妙適悦と言う。 |
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渴愛永息清淨句義是菩薩句義。 |
『渇愛は永息せり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 |
『渇愛』は、
『永久に!』
『休息した!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
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渇愛(かつあい):梵語tRSNaa、或いはtRSnaaの訳。又愛とも訳す。咽の渇き、欲望、貪欲、性愛等の義を有する。煩悩の異名。
永息(ようそく):永くやむ。永久に休息する。 |
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註:渇愛は三毒の一たる貪欲の異名である。菩薩は彼我平等の空三昧中に於いて、布施波羅蜜を行い、彼れの渇愛を解消せしめて、以って自ら渇愛を息ましむ、故に渇愛永息と言う。 |
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胎藏超越清淨句義是菩薩句義。 |
『胎蔵は、超越せり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 |
『胎蔵』は、
『世間』を、
『超越した!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
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胎蔵(たいぞう):梵語garbhaの訳。子宮の義。
超越(ちょうおつ):胎蔵は世間を超越するの意。 |
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註:胎蔵は子宮の異名、即ち人の臓腑なるが故に不浄と為すも、菩薩は無相三昧中に住するを以って、浄不浄を超越す、故に胎蔵超越と言う。是れ即ち四念処中の身念処に於いて、身の不浄を破るを言う。 |
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眾德莊嚴清淨句義是菩薩句義。 |
『衆徳は荘厳せり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 |
『衆徳( 多くの功徳)』が、
『身心』を、
『荘厳した!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
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衆徳(しゅとく):多くの徳。徳は梵語guNaの訳。又功徳と訳す。美徳、才能、性質の義。即ち衆生を利益するに能く功ある力をいう。
荘厳(しょうごん):梵語vyuuhaの訳語にして、即ち諸種の衆宝雑華宝蓋幢幡瓔珞等を布列し、以って道場または国土等を荘飾厳浄するをいう。引いては種種の美徳を以って自身を飾ることの意。 |
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註:四念処中法念処に於いて、法の無我を観ると雖も、彼我平等の無相三昧中に於いては、衆徳を以って荘厳する所、即ち是れ菩薩なり。故に即ち無我を破る。 |
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意極猗適清淨句義是菩薩句義。 |
『意は極めて猗適なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 |
『意( こころ)』は、
『極めて!』、
『猗適(信頼)である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
|
猗適(いしゃく):梵語prazrabdhiの訳。信頼、信用の義。寄りかかり頼りきるが故に安心なり。 |
|
註:四念処中の受念処に於いて、受は即ち苦なりと雖も、般若波羅蜜の大船を以って、不平等苦の大海を渡れば、即ち大安心を得、大楽の浄土に生じて、阿耨多羅三藐三菩提を成就す、故に意極猗適と言う。 |
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得大光明清淨句義是菩薩句義。 |
『大光明を得たり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 |
『大きな!』、
『光明』を、
『得た!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
|
大光明(だいこうみょう):梵語razmiの訳。仏、菩薩の身体より放たるる智慧の光明。 |
|
註:四念処中の心念処に於いて、心の無常を云うと雖も、彼我平等の無相三昧中に於いては、般若の大光明を得たる所、即ち是れ菩薩なり、故に菩提心の常に存す、故に他世に於いて阿耨多羅三藐三菩提を成ず、故に得大光明と言う。 |
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身善安樂清淨句義是菩薩句義。語善安樂清淨句義是菩薩句義。意善安樂清淨句義是菩薩句義。 |
『身は善にして安楽なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。『語は善にして安楽なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。『意は善にして安楽なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 |
『身( 身業)』は、
『善である!』が故に、
『安らかで!』、
『楽しい!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『語( 語業)』は、
『善である!』が故に、
『安らかで!』、
『楽しい!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『意( 意業)』は、
『善』である!が故に、
『安らかで!』、
『楽しい!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
|
身(しん):身業(梵語kaaya- karma)の略。罪福の果報を招くべき善悪の身の行い。
語(ご):口業(梵語vaak- karma)の意。又語業に作る。罪福の果報を招くべき善悪の口の行い。
意(い):意業(梵語manas- karma)の略。又心業に作る。罪福の果報を招くべき善悪の意の行い。
善(ぜん):善は梵語kuzalaの訳。福報を引く善い行いを善業(梵語kuzala- karma)という。 |
|
註:身業、口業、意業を併せて三業(梵語triiNi- karmaaNi)と称す。彼我平等の無作三昧中に於いて、身語意を以って、衆生を善導すれば、故に他世に於いて安楽の浄土を得て、阿耨多羅三藐三菩提を成ず、故に身、語意善安楽と言う。 |
|
色蘊空寂清淨句義是菩薩句義。受想行識蘊空寂清淨句義是菩薩句義。 |
『色蘊は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。『受想行識蘊は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 |
『色蘊』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『受、想、行、識蘊』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
|
色蘊(しきうん):梵語ruupa- skandhaの訳。蘊(梵語skandha)は積聚の義。色(梵語ruupa)は一切の色法、即ち色と形を有するものの総称。即ち眼等の五根、及び色等の五境をいう。
受蘊(じゅうん):梵語vedanaa- skandhaの訳。境に対して感受する苦楽等の精神作用。
想蘊(そううん):梵語aMjJaa- skandhaの訳。境に対して事物を想像する精神作用。
行蘊(ぎょううん):梵語saMskaara- skandhaの訳。受想識を除き、境に対して生ずる貪瞋等の一切善悪の精神作用。
識蘊(しきうん):梵語vijJaana- skandhaの訳。境に対して事物を了別識知する精神作用。
空寂(くうじゃく):梵語zuunyataa空虚の義、及び梵語zaanti静寂の義の併称。即ち諸の相無きを空といい、起滅無きを寂という。即ち法に対して其の相を取らず、分別せざれば、意は静寂安穏にして清浄なることをいう。蓋し小乗乃至外道の法に於いては種種に諸法を論ずるに、時として諍論の害少なからず。故に大乗に於いては相を取らずに、一切の因縁所生の法は空にして分別すべからずと為すに由りて、意(思)の寂静たるを求め、但仏の大慈大悲に倣いて、其の中に於いて六波羅蜜等を行ずるをいう。 |
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註:第12句義乃至第第69句義を以って、一切法の空寂にして、清浄なることを説く。是れ即ち般若波羅蜜多に由るが故なり。
註:色蘊乃至識蘊を総じて五蘊(梵語paJca skandhaaH)と称す。
註:色蘊空寂とは、即ち色蘊に関して語言絶え、思慮分別することなきが故に戯論なき状態なることをいう。
註:以下空寂清浄の句義が続くが、是れ等色蘊等の法、或いは其の名は皆、用有るに応じて説かれたものであるが故に、本来空寂なることを言い、戯論すべからざることを説くものである。 |
|
眼處空寂清淨句義是菩薩句義。耳鼻舌身意處空寂清淨句義是菩薩句義。色處空寂清淨句義是菩薩句義。聲香味觸法處空寂清淨句義是菩薩句義。 |
『眼処は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。『耳鼻舌身意処は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。『色処は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。『声香味触法処は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 |
『眼処』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『耳、鼻、舌、身、意処』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『色処』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『声、香、味、触、法処』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
|
眼処(げんじょ):梵語cakSur- aayatanaの訳、処aayatanaは家、宿舎の義にして生長、養育の意。即ち眼根を以って、心を養育するの意。眼根に同じ。
耳処(にじょ):梵語zrotraayatanaの訳、耳根に同じ。
鼻処(びじょ):梵語ghraaNaayatanaの訳、鼻根に同じ。
舌処(ぜつじょ):梵語jihvaayatanaの訳、舌根に同じ。
身処(しんじょ):梵語kaayaayatanaの訳、身根に同じ。
意処(いじょ):梵語mana- aayatanaの訳、意根に同じ。
色処(しきじょ):梵語ruupaayatanaの訳、色境に同じ。
声処(しょうじょ):梵語zabdaayatanaの訳、声境に同じ。
香処(こうじょ):梵語gandhaayatanaの訳、香境に同じ。
味処(みじょ):梵語rasaayatanaの訳、味境に同じ。
触処(そくじょ):梵語spraSTavyaayatanaの訳、触境に同じ。
法処(ほうじょ):梵語dharmaayatanaの訳、法境に同じ。 |
|
註:眼処乃至法処を総称して十二処(梵語dvaadaza aayatanaani)という。 |
|
眼界空寂清淨句義是菩薩句義。耳鼻舌身意界空寂清淨句義是菩薩句義。色界空寂清淨句義是菩薩句義。聲香味觸法界空寂清淨句義是菩薩句義。眼識界空寂清淨句義是菩薩句義。耳鼻舌身意識界空寂清淨句義是菩薩句義。 |
『眼界は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。『耳鼻舌身意界は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。『色界は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。『声香味触法界は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。『眼識界は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。『耳鼻舌身意識界は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 |
『眼界』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『耳、鼻、舌、身、意界』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『色界』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『声、香、味、触、法界』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『眼識界』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『耳、鼻、舌、身、意識界』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
|
眼界(げんかい):梵語cakSur -dhaatuの訳。眼根に同じ。界dhaatuは要素の義、人の身心を十八種の要素に分類するの意。
色界(しきかい):梵語ruupa- dhaatuの訳、色境に同じ。
眼識界(げんしきかい):梵語cakSur- vijJaana- dhaatuの訳、眼の色に対して生ずる心識。
耳界(にかい):梵語zrotra- dhaatuの訳、耳根に同じ。
声界(しょうかい):梵語zabda- dhaatuの訳、声境に同じ。
耳識界(にしきかい):梵語zrotra- vijJaana- dhaatuの訳、耳の声に対して生ずる心識。
鼻界(びかい):梵語ghraaNa- dhaatuの訳、鼻根に同じ。
香界(こうかい):梵語gandha- dhaatuの訳、香境に同じ。
鼻識界(びしきかい):梵語ghraaNa- vijJaana- dhaatuの訳、鼻の香に対して生ずる心識。
舌界(ぜつかい):梵語jihvaa- dhaatuの訳、舌根に同じ。
味界(みかい):梵語rasa -dhaatuの訳、味境に同じ。
舌識界(ぜつしきかい):梵語jihvaa- vijJaana- dhaatuの訳、舌の味に対して生ずる心識。
身界(しんかい):梵語kaaya- dhaatuの訳、身根に同じ。
触界(そくかい):梵語spraSTavya- dhaatuの訳、触境に同じ。
身識界(そくしきかい):梵語kaaya- vijJaana- dhaatuの訳、身の所触に対して生ずる心識。
意界(いかい):梵語mano- dhaatuの訳、意根に同じ。
法界(ほうかい):梵語dharma- dhaatuの訳、法境に同じ。
意識界(いしきかい):梵語mano- vijJaana- dhaatuの訳、意の法に対して生ずる心識。 |
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註:色界乃至意識界を総称して十八界(梵語aSTaadaza dhaatavaH)という。 |
|
眼觸空寂清淨句義是菩薩句義。耳鼻舌身意觸空寂清淨句義是菩薩句義。眼觸為緣所生諸受空寂清淨句義是菩薩句義。耳鼻舌身意觸為緣所生諸受空寂清淨句義是菩薩句義。 |
『眼触は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。『耳鼻舌身意触は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。『眼触を縁と為して生ずる所の諸受は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。『耳鼻舌身意触を縁と為して生ずる所の諸受は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 |
『眼触』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『耳、鼻、舌、身、意触』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『眼触』を、
『縁』として、
『生ずる!』、
諸の、
『受』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『耳、鼻、舌、身、意触』を、
『縁』として、
『生ずる!』、
諸の、
『受( 苦、楽)』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
|
眼触(げんそく):眼根色境眼識の三者和合して生ずる所の精神作用をいう。
触(そく):梵語sparzaの訳。根境識和合して生ずる所の精神作用をいう。 |
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註:眼触乃至意触を総称して六触という。 |
|
地界空寂清淨句義是菩薩句義。水火風空識界空寂清淨句義是菩薩句義。 |
『地界は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。『水火風空識界は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 |
『地界』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『水、火、風、空、識界』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
|
地界(じかい):梵語pRthivii- dhaatuの訳。又地大と称す。堅を性とする。
水界(すいかい):梵語aap- dhaatuの訳。又水大と称す。湿を性とする。
火界(かかい):梵語tejas- dhaatuの訳。又火大と称す。熱を性とする。
風界(ふうかい):梵語vaayu- dhaatuの訳。又風大と称す。動を性とする。
空界(くうかい):梵語aakaaza- dhaatuの訳。又空大と称す。竅隟(スキマ)を性とする。
識界(しきかい):梵語vijJaana- dhaatuの訳。又識大と称す。識知を性とする。 |
|
註:地界乃至識界を総称して六界(梵語SaD- dhaatavaH)、又は六大と称す。界(梵語dhaatu)は要素の義。此の六界は有情一期の間能く其の生を任持するものの意にして、此の中、地水火風の四界は即ち能造の大種、一切諸色の所依となり、空界は内外の竅隟にして亦た能く生長の因となり、共に色蘊に摂す。識界は即ち有漏識にして諸有を摂益任持するものなるが故に、総じて此の六界を有情相続の所依の体事とする。 註:以上色蘊、受想行識蘊、眼処、耳鼻舌身意処、色処、声香味触法処、眼界、耳鼻舌身意界、色界、声香味触法界、眼識界、耳鼻舌身意識界、眼触、耳鼻舌身意触、眼触為縁所生諸受、耳鼻舌身意為縁所生諸受、地界、水火風空職界に関する18清浄句義文を以って、菩薩の内外の根境識等の法の清浄を説く。 |
|
苦聖諦空寂清淨句義是菩薩句義。集滅道聖諦空寂清淨句義是菩薩句義。 |
『苦聖諦は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。『集滅道聖諦は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 |
『苦聖諦』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『集、滅、道聖諦』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
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苦聖諦(くしょうたい):梵語duHkha- satyaの訳。生老病死苦、怨憎会苦、愛別離苦、所求不得苦、五盛陰苦を明了に知る。
集聖諦(じゅうしょうたい):梵語samudaya- satyaの訳。眼等に於ける愛が苦を集めると明了に知る。
滅聖諦(めつしょうたい):梵語nirodha- satyaの訳。眼等の愛が息めば苦が滅すると明了に知る。
道聖諦(どうしょうたい):梵語maagra- satyaの訳。苦を滅する道は八正道、謂わゆる正見、正思、正語、正業、正命、正方便、正念、正定であると明了に知って之を行う。 |
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註:苦聖諦乃至道聖諦を総称して四聖諦(梵語catvaary- aarya- satyaani)という。 註:菩薩は四聖諦に関し、其の名義に就いて戯論を用いず、但だ六波羅蜜を実践するのみ、故に四聖諦空寂すと説く。 |
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因緣空寂清淨句義是菩薩句義。等無間緣所緣緣增上緣空寂清淨句義是菩薩句義。 |
『因縁は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。『等無間縁所縁縁増上縁は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 |
『因縁』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『等無間縁、所縁縁、増上縁』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
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因縁(いんねん):梵語hetu- pratyayaの訳。果を生ずる直接的な原因。
等無間縁(とうむげんえん):梵語samanantara- pratyayaの訳。前刹那の心は後の心の原因。
所縁縁(しょえんえん):梵語aalambana- pratyayaの訳。所縁即ち外境は、心の生ずる縁。
増上縁(ぞうじょうえん):梵語adhipati- pratyayaの訳。一切の法は、果となる一法のための縁。 |
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註:因縁乃至増上縁を総称して四縁(梵語catvaaraH- pratyayaaH)という。 註:因縁生起の法は仏法の肝要なりと雖も、菩薩は敢て戯論するを用いず、但だ六波羅蜜の実践あるのみ、故に四縁空寂すと説く。 |
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無明空寂清淨句義是菩薩句義。行識名色六處觸受愛取有生老死空寂清淨句義是菩薩句義。 |
『無明は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。『行識名色六処触受愛取有生老死は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 |
『無明』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
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無明(むみょう):梵語avidyaaの訳。十二因縁の第一。即ち無知、乃至無学の義。
行(ぎょう):梵語saMskaaraの訳。十二因縁の第二。即ち訓練、教育の義。
識(しき):梵語vijJaanaの訳。十二因縁の第三。即ち識別、知識の義。
名色(みょうしき):梵語naama- ruupaの訳。十二因縁の第四。即ち名前と形色の義。名と事物。
六処(ろくじょ):梵語SaD- aayatanaの訳。十二因縁の第五。即ち六ヶの宿舎の義。六根。
触(そく):梵語sparzaの訳。十二因縁の第六。即ち接触の義。六根は六境に対する。
受(じゅ):梵語vedanaaの訳。十二因縁の第七。即ち苦痛の義。根境に対して生じる苦楽。
愛(あい):梵語tRSNaaの訳。十二因縁の第八。即ち欲望の義。苦楽を受けて欲望を生じる。
取(しゅ):梵語upaadaanaの訳。十二因縁の第九。即ち贈物に関心を示すの義。得んと欲する。
有(う):梵語bhavaの訳。十二因縁の第十。即ち存在の義。外境に対し関心を示すが故に存在する。
生(しょう):梵語jaataの訳。十二因縁の第十一。即ち生まれたものの義。自己を確立する。
老死(ろうし):梵語jaraa- maraNaの訳。十二因縁の第十二。即ち老と死の義。即ち苦有り。 |
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註:無明乃至老死を総称して十二因縁(梵語dvaadazaaGga- pratiitya- samutpaada)という。即ち無明を縁として行あり、行を縁として識あり、乃至生を縁として老死あるをいい、又生無ければ老死無し、乃至無明無ければ行無きをいう。 |
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布施波羅蜜多空寂清淨句義是菩薩句義。淨戒安忍精進靜慮般若波羅蜜多空寂清淨句義是菩薩句義。 |
『布施波羅蜜多は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。『浄戒安忍精進静慮般若波羅蜜多は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 |
『布施波羅蜜多』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『浄戒、安忍、精進、静慮、般若波羅蜜多』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
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布施波羅蜜多(ふせはらみった):梵語daana- paaramitaaの訳。布施の河を渡って彼岸に到る。
浄戒波羅蜜多(じょうかいはらみった):梵語ziila- paaramitaaの訳。持戒の河を渡って到る。
安忍波羅蜜多(あんにんはらみった):梵語kSaanti- paaramitaaの訳。忍辱の河を渡って到る。
精進波羅蜜多(しょうじんはらみった):梵語viirya- paaramitaaの訳。精進の河を渡って到る。
静慮波羅蜜多(じょうりょはらみった):梵語dhyaana- paaramitaaの訳。禅定の河を渡って到る。
般若波羅蜜多(はんにゃはらみった):梵語prajJaa- paaramitaaの訳。智慧の河を渡って到る。 |
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註:布施波羅蜜多乃至般若波羅蜜多を総称して六波羅蜜多(梵語Sad- paaramitaa)という。 註:六波羅蜜を行ずるを以って、即ち是れ菩薩なりとし、六波羅蜜を戯論するが故に菩薩に非ずと説く。 |
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真如空寂清淨句義是菩薩句義。法界法性不虛妄性不變異性平等性離生性法定法住實際虛空界不思議界空寂清淨句義是菩薩句義。 |
『真如は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。『法界法性不虚妄性不変異性平等性離生性法定法住実際虚空界不思議界は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 |
『真如』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『法界、法性、不虚妄性、不変異性、平等性、離生性』、
『法定、法住、実際、虚空界、不思議界』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
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真如(しんにょ):梵語tathataaの訳。事物のあるがままのすがた。
法界(ほっかい):梵語dharma dhaatuの訳。意識の対象となるすべての事物。
法性(ほっしょう):梵語dharmataaの訳。法の体性の義。一切の事物の有する真実不変の本性。
不虚妄性(ふこもうしょう):虚妄ならざる真実の性。
不変異性(ふへんいしょう):変異せざる常住の性。
平等性(びょうどうしょう):梵語samataaの訳。彼我、彼此の虚妄各各相を破る空平等性をいう。
離生性(りしょうしょう):三界の生を離れたる性。
法定(ほうじょう):決定して諸法の中に在るをいい、空、或いは真如の異名。
法住(ほうじゅう):必ず一切諸法中に住するをいい、空、或いは真如の異名。
実際(じっさい):梵語bhuuta- koTiの訳。真如の界際、真実際の義。又真如の異名。
虚空界(こくうかい):梵語aakaaza- dhaatuの訳。何者も存在しない竅隟(スキマ)。
不思議界(ふしぎかい):梵語acintya- dhaatuの訳。仏力、衆生多少、業果報等不可思議の性。 |
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四靜慮空寂清淨句義是菩薩句義。四無量四無色定空寂清淨句義是菩薩句義。 |
『四静慮は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。『四無量四無色定は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 |
『四静慮』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『四無量、四無色定』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
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四静慮(しじょうりょ):梵語catvaari dhyaanaaniの訳。又四禅とも称す。色界の静慮に四種の別あるの意。謂わゆる
一に初禅(梵prathama- dhyaana)、有尋有伺(有覚有観)、離生喜楽の地。
二に第二禅(梵dvitiiya- dhyaana)、無尋無伺(無覚無観)、定生喜楽の地。
三に第三禅(梵tRtiiya- dhyaana)、無尋無伺(無覚無観)、離喜妙楽の地。
四に第四禅(梵caturtha- dhyaana)、無尋無伺(無覚無観)、捨念清浄の地。
四無量(しむりょう):梵語catvaary- apramaaNaaniの訳。四種の無量の意。無量の衆生を縁じ、それをして楽を得、苦を離れしめんと思惟し、各その等至に入るの意。謂わゆる、
一に慈無量(梵maitry- apramaaNa)、
二に悲無量(梵karuNa- apramaaNa)、
三に喜無量(梵mudita- apramaaNa)、
四に捨無量(梵upekSa- apramaaNa)。
四無色定(しむしきじょう):梵語catasra- aaruupya- samaapattayaHの訳。四種の無色定の意。謂わゆる、
一に空無辺処(梵aakaazaanantyaayatana- samaapatti)、
二に識無辺処(梵vijJaanaanantyaayatana- samaapatti)、
三に無所有処(梵aakiMcanyaayatana- samaapatti)、
四に非想非非想処(梵naivasaMjJaanaasaMjJaayatana- samaapatti)。 |
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四念住空寂清淨句義是菩薩句義。四正斷四神足五根五力七等覺支八聖道支空寂清淨句義是菩薩句義。 |
『四念住は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。『四正断四神足五根五力七等覚支八聖道支は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 |
『四念住』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『四正断、四神足、五根、五力、七等覚支、八正道支』は、
『空寂であり!』、
『清浄である!』という、
『句』の、
『義』、
是れが、
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四念住(しねんじゅう):梵語catvaari- smRty- upasthaanaaniの訳。又四念処と訳す。四種の念処の意。謂わゆる、
一に身念処(梵kaaya- smRty- upasthaana)、
二に受念処(梵vedanaa- smRty- upasthaana)、
三に心念処(梵citta- smRty- upasthaana)、
四に法念処(梵dharma- smRty- upasthaana)。
四正断(ししょうだん):梵語catvaari-prahaaNaaniの訳。四種の正断の意。即ち悪を遮断し善を生長せしめんが為に方便精勤すること。謂わゆる、
一に未生悪令不生(梵anutpannaanaaM paapakaanaam akuzalaanaaM dharmaanaam anutpaadaaya
cchandaM janayati)、
二に已生悪令永断(梵utpannaanaaM paapakaanaam akuzalaanaaM dharmaanaaM prahaaNaaya
cchandaM janayati)、
三に未生善令生(梵anutpannaanaaM kuzalaanaaM dharmaanaam utpaadaaya cchandaM janayati)、
四に已生善令増上(梵utpannaanaaM kuzalaanaaM dharmaaNaaM sthitayebhuuyo- bhaavataayai asaMpramoSaaya paripuuNaaya cchandaM janayati)。
四神足(しじんそく):梵語catvaara- Rddhi- paadaaHの訳。又四如意足と称す。四種の神足の意。即ち欲等の四法の力に由りて引発せられ、種種の神用を現起する三摩地をいう。謂わゆる
一に欲三摩地断行成就神足(梵chanda- samaadhi- prahaaNa- saMskaara- samanvaagata- rddhi- paada)、
二に心三摩地断行成就神足(梵citta- samaadhi- prahaaNa- saMskaara- samanvaagata- rddhi-paada)、
三に勤三摩地断行成就神足(梵viirya- samaadhi- prahaaNa- saMskaara- samanvaagata-
rddhi-paada)、
四に観三摩地断行成就神足(梵miimaaMsaa- samaadhi- prahaaNa- saMskaara- samanvaagata-
rddhi-paada)。
五根(ごこん):梵語paJca- indriyaaNiの訳。煩悩を伏し聖道を引くに於いて増上の用ある五種の根をいう。謂わゆる、
一に信根(梵zraddha- indriya)、
二に進根(梵viirya- indriya)、
三に念根(梵smRti- indriya)、
四に定根(梵samaadhi- indriya)、
五に慧根(梵prajJa- indriya)。
五力(ごりき):梵語paJca- balaaniの訳。即ち聖道を発生する五種の力用の意。謂わゆる、
一は信力(梵zraddhaa- bala)、
二は精進力(梵viirya- bala)、
三は念力(梵smRti- bala)、
四に定力(梵samaadhi- bala)、
五に慧力(梵prajJaa- bala)。
七等覚支(しちとうがくし):梵語sapta- bodhyaGgaaniの訳。菩提に順趣する七種の法の意。又七覚支、七覚分とも称す。
一に念覚支(梵smRti- saMbodhyaGga)、
二に択法覚支(梵dharma- pravicaya- saMbodhyaGga)、
三に精進覚支(梵viirya- saMbodhyaGga)、
四に喜覚支(梵priiti- saMbodhyaGga)、
五に軽安覚支(梵prasrabodhi- saMbodhyaGga)、
六に定覚支(梵samaadhi- saMbodhyaGga)、
七に捨覚支(梵upekSaa- saMbodhyaGga)。
八聖道支(はっしょうどうし):梵語aaryaaSTaaGgika- maargaの訳。八種の正道の意。又八聖道分、八正道とも名づく。即ち涅槃を求趣する道支に八種あるをいう。謂わゆる、
一に正見(梵samyag-dRSTi)、
二に正思(梵samyak- saMkalpa)、
三に正語(梵samyag- vaac)、
四に正業(梵samyak- karmaanta)、
五に正命(梵samyag- aajiiva)、
六に正方便(梵samyag- vyaayaama)、
七に正念(梵samyak- smRti)、
八に正定(梵samyak- samaadhi)。 |
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空解脫門空寂清淨句義是菩薩句義。無相無願解脫門空寂清淨句義是菩薩句義。 |
『空解脱門は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。『無相、無願解脱門は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 |
『空解脱門』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『無相解脱門、無願解脱門』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
|
空解脱門(くうげだつもん):梵語のzuunyataa vimokSa- mukha訳。空を行じて解脱するの意。
無相解脱門(むそうげだつもん):梵語のanimitta vimokSa- mukha訳。無相を行じて解脱する。
無願解脱門(むがんげだつもん):梵語のapraNihita vimokSa- mukha訳。無願を行じて解脱する。 |
|
註:空解脱門乃至無願解脱門を総称して三解脱門(梵語tiiNi vimokSa- mukhaani)という。 |
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八解脫空寂清淨句義是菩薩句義。八勝處九次第定十遍處空寂清淨句義是菩薩句義。 |
『八解脱は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。『八勝処九次第定十遍処は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 |
『八解脱』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『八勝処、九次第定、十遍処』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
|
八解脱(はちげだつ):梵語aSTau-vimokSaaHの訳。又八背捨とも名づく。即ち八種の定力に由りて色貪等の心を棄背するをいう。謂わゆる、
一に内有色想観諸色解脱(梵ruupii ruupaaNi pazyat)、
二に内無色想観外色解脱(梵adhyaatmam aruupa-saMjJii bahirdhaa ruupaaNi pazyati)、
三に浄解脱身作証具足住(梵zubhaM vimokSaM kaayena saakSaatkRtvopasaMpadya viharati)、
四に超諸色想観有対想不思惟種種想入無辺空空無辺処具足住解脱(梵sa sarvazoruupa-saMjJaanaaM samatikranaat
pratigha-saMjJaaNaam astaMgamaan naanaatva-saMjJaanaam amanasikaaraad anantamaakaazam
ity aakaazaanantyaayatanam upasaMpadya viharati)、
五に超一切空無辺処入無辺識識無辺処具足住解脱(梵sa sarvaza aakaazaanantyaayatanaM samatikramyaanantaM
vijJaanam iti vijJaanaanantyaanatanam upasaMpadya viharati)、
六に超一切識無辺処入無所有無所有処具足住解脱(梵sa sarvazo vijJaanaanantyaayatanaM samatikramya naasti kiJcid ity aakiJcanyaayatanam upasaMpadya viharati)、
七に超一切無所有処入非想非非想処具足住解脱(梵sa sarvaza aakciJcanyaayatanaM samatikramya
naiivasaMjJaanaasamjJaayaayatanam upasaMpadya viharati)、
八に超一切非想非非想処入想受滅身作証具足住解脱(梵sa sarvazo naiivasaMjJaanaasaM jJaayatanaM
samatikramya saMjJaa- vedita- nirodhaM kaayena saakSaatkRtvopasaMpadya
viharati)。
八勝処(はっしょうじょ):梵語aSTaavabhibhv- aayatanaaniの訳。欲界の色処を観じて、所縁を勝伏し、貪を対治するに八種の別あるをいう。謂わゆる、
一に内有色想観外色少勝処、
二に内有色想観外色多勝処、
三に内無色想観外色少勝処、
四に内無色想観外色多勝処、
五に内無色想観外色青勝処、
六に内無色想観外色黄勝処、
七に内無色想観外色赤勝処、
八に内無色想観外色白勝処。
九次第定(くしだいじょう):梵語navaanupuuva- samaapattayaHの訳。次第に無間に修する九種の定の意。又無間禅、或いは練禅、錬禅とも名づく。謂わゆる、
一に初禅次第定、
二に二禅次第定、
三に三禅次第定、
四に四禅次第定、
五に空処次第定、
六に識処次第定、
七に無所有処次第定、
八に非想非非想処次第定、
九に滅受想次第定。
十遍処(じっぺんじょ):梵語dazakRtsnaayatanaani、十種の遍処の意。また十一切入、十一切処、十遍入、或は十遍処定とも名づく。即ち勝解作意に依りて色等の十法が、各一切処に周遍して間隙なしと観ずるをいう。謂わゆる、
一に地遍処(梵pRthivii- kRtsnaayatana)、
二に水遍処(梵ap- kRtsnaayatana)、
三に火遍処(梵tejas- kRtsnaayatana)、
四に風遍処(梵vaayu- kRtsnaayatana)、
五に青遍処(梵niila- kRtsnaayatana)、
六に黄遍処(梵piita- kRtsnaayatana)、
七に赤遍処(梵lohita- kRtsnaayatana)、
八に白遍処(梵avadaata- kRtsnaayatana)、
九に空遍処(梵aakaaza- kRtsnaayatana)、
十に識遍処(梵vijJaana- kRtsnaayatana)。 |
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極喜地空寂清淨句義是菩薩句義。離垢地發光地焰慧地極難勝地現前地遠行地不動地善慧地法雲地空寂清淨句義是菩薩句義。 |
『極喜地は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。『離垢地発光地焔慧地極難勝地現前地遠行地不動地善慧地法雲地は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 |
『極喜地』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『離垢地、発光地、焔慧地、極難勝地、現前地、遠行地、不動地、善慧地、法雲地』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
|
極喜地(ごくきち):梵語pramuditaa- bhuumiの訳。十地中の初地。
離垢地(りくち):梵語vimalaa- bhuumiの訳。十地中の第二地。
発光地(はっこうぢ):梵語prabhaakarii- bhuumiの訳。十地中の第三地。
焔慧地(えんねち):梵語arciSmatii- bhuumiの訳。十地中の第四地。
極難勝地(ごくなんしょうち):梵語sudurjayaa- bhuumiの訳。十地中の第五地。
現前地(げんぜんち):梵語abhimukhii- bhuumiの訳。十地中の第六地。
遠行地(おんぎょうち):梵語duuraMgama- bhuumiの訳。十地中の第七地。
不動地(ふどうち):梵語acalaa- bhuumiの訳。十地中の第八地。
善慧地(ぜんねち):梵語saadhumatii- bhuumiの訳。十地中の第九地。
法雲地(ほううんち):梵語dharma- meghaa- bhuumiの訳。十地中の第十地。 |
|
註:極喜地乃至法雲地は通常極喜地等の十地(梵語daza-bhuumayaH)と称し、菩薩の位階に十地あることを示す。 |
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淨觀地空寂清淨句義是菩薩句義。種性地第八地具見地薄地離欲地已辦地獨覺地菩薩地如來地空寂清淨句義是菩薩句義。 |
『浄観地は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。『種性地第八地具見地薄地離欲地已辦地独覚地菩薩地如来地は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 |
『浄観地』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『種性地、第八地、具見地、薄地、離欲地、已辦地、独覚地、菩薩地、如来地』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
|
浄観地(じょうかんち):梵語zukla- vidarzanaa- bhuumiの訳。又乾慧地と称す。十地中の初地。
種性地(しゅしょうち):梵語gotra- bhuumiの訳。又性地と称す。十地中の第二地。
第八地(だいはちち):梵語aSTamaka- bhuumiの訳。又八人地と称す。十地中の第三地。
具見地(ぐけんち):梵語darzana- bhuumiの訳。又見地と称す。十地中の第四地。
薄地(はくち):梵語tanuu- bhuumiの訳。十地中の第五地。
離欲地(りよくち):梵語viita- raaga- bhuumiの訳。十地中の第六地。
已辦地(いべんち):梵語kRtaavii- bhuumiの訳。又已作地と称す。十地中の第七地。
独覚地(どくかくち):梵語pratyeka- buddha- bhuumiの訳。又辟支仏地と称す。十地中の第八地。
菩薩地(ぼさつち):梵語bodhi- sattva- bhuumiの訳。十地中の第九地。
如来地(にょらいち):梵語buddha- bhuumiの訳。又仏地とも称す。十地中の第十地。 |
|
註:浄観地乃至如来地を三乗共十地と称し、菩薩の位階に十種の別あることを示す。 |
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一切陀羅尼門空寂清淨句義是菩薩句義。 |
『一切の陀羅尼門は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 |
一切の、
『陀羅尼の門』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
|
陀羅尼門(だらにもん):梵語dhaaraNii- mukha。陀羅尼は総持と訳し、種種の不忘失法の義。 |
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一切三摩地門空寂清淨句義是菩薩句義。 |
『一切の三摩地門は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 |
一切の、
『三摩地の門』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
|
三摩地門(さんまじもん):梵語samaadhi- mukha。又三昧門と称す。種種の禅定の意。 |
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|
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五眼空寂清淨句義是菩薩句義。 |
『五眼は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 |
『五眼』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
|
五眼(ごげん):梵語paJca cakSuuMSiの訳。五種の眼力ををいう。即ち、
一に肉眼(梵maaMsa- cakSus)、肉身所有の眼。
二に天眼(梵divya- cakSus)、色界天人所有の眼。
三に慧眼(梵prajJaa- cakSus)、二乗の人所有の眼。
四に法眼(梵charma- cakSus)、菩薩所有の眼。
五に仏眼(梵buddha- cakSus)、唯仏のみ前四眼を具備する。 |
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六神通空寂清淨句義是菩薩句義。 |
『六神通は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 |
『六神通』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
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六神通(ろくじんづう):梵語SaD abhijJaaHの訳。略して六通とも名づく。仏菩薩の定慧力に依りて示現する六種の無礙自在の妙用をいう。即ち、
一に神足通(梵Rddhy- abhijJaa)、
二に天眼通(梵divya- cakSur- abhijJaa)、
三に天耳通(梵divya- srotra- abhijJaa)、
四に他心通(梵cetaH- paryaaya- abhijJaa)、
五に宿住通(梵puurva- nivaasaanusmRti- abhijJaa)、
六に漏尽通(梵aasrava- kSaya- abhijJaa)。 |
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如來十力空寂清淨句義是菩薩句義。四無所畏四無礙解大慈大悲大喜大捨十八佛不共法空寂清淨句義是菩薩句義。三十二相空寂清淨句義是菩薩句義。八十隨好空寂清淨句義是菩薩句義。 |
『如来の十力は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。『四無所畏四無礙解大慈大悲大喜大捨十八仏不共法は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。『三十二相は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。『八十随好は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 |
『如来』の、
『十力』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『四無所畏、四無礙解、大慈、大悲、大喜、大捨、十八不共法』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『三十二相』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『八十随好』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
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十力(じゅうりき):梵語daza- tathaagata- blaani、仏のみ成就する十種の智力をいう。謂わゆる、
一に処非処智力(梵語sthaanaasthaana- jJaana- bala)、
二に業異熟智力(梵語karma- vipaaka- jJaana- bala)、
三に静慮解脱等持等至智力(梵語sarva- dhyaana- vimokSa- samaadhi- samaapatti- saMkleza-
vyavadaana- vyutthaana- jJaana- bala)、
四に根上下智力(梵語indriya- paraapara- jJaana- bala)、
五に種種勝解智力(梵語naanaadhimukti- jJaana- bala)、
六に種種界智力(梵語naanaa- dhaatu- jJaana- bala)、
七に徧趣行智力(梵語sarvatra- gaaminii- pratipaj- jJaana- bala)、
八に宿住随念智力(梵語puurva- nivaasiinusmRti- jJaana- bala)、
九に死生智力(梵語cyuty- utpatti- jJaana- bala)、
十に漏尽智力(梵語aasrava- kSaya- jJaana- bala)。
四無所畏(しむしょい):梵catvaari- tathaagatasya vaizaaradyaaniの訳。仏は四種の無所畏有るが故に説法に当りて勇猛安穏なることをいう。謂わゆる、
一に諸法現等覚無畏(梵sarva- dharamaabhisaMbodhi- vaizaaradya)、
二に一切漏尽智無畏(梵sarvaasrava- kSaya- jJaana- vaizaaradya)、
三に障法不虚決定授記無畏(梵antaraayika- dharmaananyathaatva- nizcita- vyaakaraNa-
vaizaaradya)、
四に為証一切具足出道如性無畏(梵sarva- saMpad- adhigamaaya- nairyaaNika- pratipat-
tataatva- vaizaaradya)。
四無礙解(しむげげ):梵語catasraH- pratisaMvidaHの訳。四種の無礙自在なる解智をいう。謂わゆる、
一に法無礙解(梵dharma- pratisaMvid)、事物の意味を示す為の文章、乃至経書に於いて無礙である。
二に義無解礙(梵arthaー pratisaMvid)、法に由って示さるる意味に於いて無礙である。
三に詞無解礙(梵niruktiー pratisaMvid)、単語、術語、言葉の理解に於いて無礙である。
四に楽説無解礙(梵pratibhaanaー pratisaMvid)、雄弁に説得するに於いて無礙である。
十八仏不共法(じゅうはちぶつふぐうほう):梵語aSTadazaaveNikaa- buddha- dharumaaHの訳。又十八不共法と訳す。仏のみ有し他の声聞等と共にせざる十八種の智力をいう。謂わゆる、
一に諸仏身無失(梵naasti tathaagatasya skhalitaM)、
二に口無失(梵naasti ravitaM)、
三に念無失(梵naasti muSita- smRtitaa)、
四に無異想(梵naasti naanaatva- saMjJaa)、
五に無不定心(梵naasty a- samaahita- citaM)、
六に無不知己捨心(梵naasy a- pratisaMkhyaayoopeksaa)、
七に欲無減(梵naasti chandasya haaniH)、
八に精進無減(梵naasti viiryasya haaniH)、
九に念無減(梵naasti smRter haaniH)、
十に慧無減(梵naasti prajJaayaa haanniH)、
十一に解脱無減(梵naasti vimukterhaaniH)、
十二に解脱知見無減(梵naasti vimukti- jJaana- darzana- parihaaniH)、
十三に一切身業随智慧行(梵sarva- kaaya- karma jJaana- purvaMgamaM jJaanaanuparivarti)、
十四に一切口業随智慧行(梵sarava- vaak- karma jJaana- purvaMgamaM jJaanaanuparivarti)、
十五に一切意業随智慧行(梵sarva- manas- karma jJaana- purvaMgamaM jJaanaanuparivarti)、
十六に智慧知見過去世無礙無障(梵atiite'dhvany asaNgam apratihataM jJaana-darzanaM pravartate)、
十七に智慧知見未来世無礙無障(梵anaagate'dhvany asaNgam apratihataM jJaana-darzanaM pravartate)、
十八に智慧知見現在世無礙無障(梵pratyutpanne'dhvany asaNgam apratihataM jJaana-darzanaM pravartate)。
三十二相(さんじゅうにそう):梵語dvaatriMzan- mahaa- puruSa- lakSaNaaniの訳。仏及び転輪聖王の身に具足せる三十二種の微妙の相をいう。
八十随好(はちじゅうずいこう):三十二相に随う八十種の好相をいう。 |
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無忘失法空寂清淨句義是菩薩句義。 |
『無忘失の法は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 |
『無忘失』の、
『法』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
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無忘失法(むもうしつほう):忘失せざる法。 |
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恒住捨性空寂清淨句義是菩薩句義。 |
『恒住する捨性は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 |
『恒住』の、
『捨性』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
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恒住捨性(ごうじゅうしゃしょう):恒に住する捨性。捨は梵語upekSaの訳。平静、または無関心の義。心をして平等正直ならしめ、寂静に住せしむる精神作用。 |
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一切智空寂清淨句義。是菩薩句義。道相智一切相智空寂清淨句義是菩薩句義。 |
『一切智は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。『道相智一切相智は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 |
『一切智』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『道相智、一切相智』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
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一切智(いっさいち):梵語sarva- jJataaの訳。又sarva- jJaa、或はsarva- jJaanaと訳す。内外一切の法相を知る智。
道相智(どうそうち):また道種智ともいう。種種の道の相を知る智。
一切相智(いっさいそうち):梵語sarvathaa- jJaanaの訳。また一切種智と訳す。一切法の寂滅相及び行類差別に了達する仏所得の智をいう。 |
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一切菩薩摩訶薩行空寂清淨句義是菩薩句義。 |
『一切の菩薩摩訶薩の行は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 |
一切の、
『菩薩摩訶薩』の、
『行』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
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諸佛無上正等菩提空寂清淨句義是菩薩句義。 |
『諸仏の無上正等菩提は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 |
諸の、
『仏』の、
『無上正等菩提』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
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無上正等菩提(むじょうしょうとうぼだい):梵語阿耨多羅三藐三菩提anuttara- samyaku- saMbodhiの訳。仏のみ受くる満足の境地。 |
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一切異生法空寂清淨句義是菩薩句義。一切預流一來不還阿羅漢獨覺菩薩如來法空寂清淨句義是菩薩句義。 |
『一切の異生の法は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。『一切の預流一来不還阿羅漢独覚菩薩如来の法は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 |
一切の、
『異生( 凡夫)』の、
『法( 存在する事物)』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
一切の、
『預流、一来、不還、阿羅漢、独覚、菩薩、如来』の、
『法』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
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異生(いしょう):梵語pRthag- janaの訳。又凡夫と訳す。凡夫は六道を輪迴して、種種の別異の果報の生を受けて邪見、造悪するが故に異生という。
預流(よる):梵語須陀洹srota- aapannaの訳。聖者中の初位。
一来(いちらい):梵語斯陀含sakRdaagaaminの訳。聖者中の第二位。
不還(ふげん):梵語阿那含anaagaaminの訳。聖者中の第三位。
阿羅漢(あらかん):梵語arhatの訳。聖者中の頂位。
独覚(どくかく):梵語辟支仏pratyeka- buddhaの訳。仏菩薩に依らず自ら覚る者。
菩薩(ぼさつ):梵語菩提薩埵bodhi- sattvaの略。阿耨多羅三藐三菩提を求める衆生。
如来(にょらい):梵語梵語多陀阿伽陀tathaagataの訳。如去とも訳す。如実に来至せし者、又如実より到来せし者、或いは如く来たりし者の意。仏の十号の一。 |
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一切善非善法空寂清淨句義是菩薩句義。一切有記無記法有漏無漏有為無為法世間出世間法空寂清淨句義是菩薩句義。 |
『一切の善、非善の法は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。『一切の有記無記の法、有漏無漏有為無為の法、世間出世間の法は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 |
一切の、
『善、非善』の、
『法』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
一切の、
『有記、無記の法』、
『有漏、無漏、有為、無為の法』、
『世間、出世間の法』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
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善(ぜん):梵語kuzalaの訳。其の性安隠にして此世及び他世を順益すべき白浄の法をいう。
非善(ひぜん):梵語akuzalaの訳。善ならざるの意。悪に同じ。其の性不安隠にして、能く此世及び他世の違損をなす黒悪の法をいう。
有記(うき):梵語vyaakRtaの訳。其の性の善又は不善なる法をいう。
無記(むき):梵語avyaakRtaの訳。其の性の善又は不善を記別すべからざる法をいう。
有漏(うろ):梵語aasrabaHの訳。無漏に対す。漏は漏泄の意、又煩悩の異名。貪、瞋等の煩悩の日夜眼耳等の六根門より不善を漏泄するが故に称して漏と為す。
無漏(むろ):梵語anaasrabaHの訳。有漏に対す。煩悩なき法なることをいう。
有為(うい):梵語saMskRtaの訳。無為に対す。拵えられたるものの義。即ち因縁所成の現象の諸法をいう。
無為(むい):梵語asaMskRtaの訳。為(梵saMskRta)は造作の義にして、因縁の造作無きことを無為といい、また生住異滅の四相の造作無きことを無為という。乃ち真如、法性、法界、実相等を指す。真理の異名。
世間(せけん):梵語lokaの訳。毀壊すべきものの意。毀壊すべく、対治せらるべき有為有漏の現象。
出世間(しゅっせけん):梵語 lokottaraの訳。世間を超出するの意。世間に対す。有漏の繋縛を出離せる無漏解脱の法をいう。 |
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註:善非善無記を総称して三性という。
註:以上苦聖諦、集滅道聖諦、因縁、等無間縁所縁縁増上縁、無明、行識名色六処愛取有生老死、布施波羅蜜多、浄戒安忍精進静慮般若波羅蜜多、真如、法界法性不虚妄性不変異性平等性離生性法定法住実際虚空界不思議界、四静慮、四無量四無色定、四念住、四正断四神足五根五力七等覚支八聖道支、空解脱門、無相無願解脱門、八解脱、八勝処九次第定十遍処、極喜地、離垢地発光地焔慧地極難勝地現前地遠行地不動地善慧地法雲地、浄観地、種性地第八地具見地薄地離欲地已辦地独覚地菩薩地如来地、一切陀羅尼門、一切三摩地門、五眼、六神通、如来十力、四無所畏四無礙解大慈大悲大喜大捨十八不共法、三十二相、八十随好、無亡失法、恒住捨性、一切智、道相智一切相智、一切菩薩摩訶薩行、諸仏無上正等覚、一切異生法、一切預流一来不還阿羅漢独覚菩薩如来法、一切善非善、一切有記無記法有記無記法有漏無漏法有為無為法世間出世間法に関する菩薩行、及び行果に就き、40清浄句義文を以って、菩薩心に於いて、是れ等の法は空寂しており、敢て戯論を用いざることを説けり。 |
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所以者何。以一切法自性空故自性遠離。由遠離故自性寂靜。由寂靜故自性清淨。由清淨故甚深般若波羅蜜多最勝清淨。如是般若波羅蜜多。當知即是菩薩句義。諸菩薩眾皆應修學。 |
所以(ゆえ)は何んとなれば、一切法の自性空なるを以っての故に、自性を遠離す。遠離に由るが故に、自性寂静たり。寂静に由るが故に、自性清浄なり。清浄に由るが故に甚深般若波羅蜜多は最勝清浄なり。是の如き般若波羅蜜多は、当に知るべし、即ち是れ菩薩の句義なり。諸の菩薩衆は、皆、応に修学すべし、と。 |
何故ならば、
一切の、
『法』は、 ――一切法は、自性が空である――
『自性』の、
『空である!』ことを以って、
故に、
『自性』を、 ――故に菩薩は、心に法の自性を遠離する――
『遠離する!』、からであり、
『遠離する!』が故に、 ――遠離するが故に、心中の法の自性は寂静する――
『自性』は、
『寂静であり!』、
『寂静である!』が故に、 ――寂静するが故に、菩薩心中の法の自性は清浄である――
『自性』は、
『清浄である!』。
一切の、
『法』は、 ――心中に法未だ生起せざれば、菩薩心は本より自性清浄である――
『自性』が、
『清浄である!』が故に、
『甚深』の、
『般若波羅蜜多』は、 ――一切を清浄にする般若波羅蜜多は最も清浄である――
『最勝であり!』、
『清浄である!』。
是のような、
是のように、
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註:菩薩は一切法の自性空なることを知るが故に戯論せず。故に法の自性は未だ生起せず。生起せざるが故に寂静である。寂静であるが故に一切法は自性清浄である。一切法が自性清浄ならば、故に菩薩心も清浄である。菩薩心が清浄であるが故に、菩薩をして是の如く行ぜしむる所の智慧、即ち般若波羅蜜は最勝清浄である。
註:吾人が諍論するとき、その対象となるべき法は、一切皆、吾人の心に投じられたる名と色とであり、言わば幻の如き、影の如きものに過ぎず、そこに実法は一も存在しない。また一方一切の法は、それ自体既に因縁所生の存在であるが故に、自由に非ず、自在に非ず、皆自ら存するに非ず、受くる所の因縁に応じて常に変化すべくして、その自性は謂わゆる空なのである。ここを知るとき、吾人の心は諍論息みて寂静せざるべからず。故に即ち仏の説く所の一切平等、因果応報の理を浄信することができ、積集する所の善業の因縁の故に煩悩の束縛より解脱する。 |
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佛說如是菩薩句義般若理趣清淨法已。告金剛手菩薩等言。若有得聞此一切法甚深微妙般若理趣清淨法門深信受者。乃至當坐妙菩提座。一切障蓋皆不能染。謂煩惱障業障報障。雖多積集而不能染。雖造種種極重惡業而易消滅不墮惡趣。若能受持日日讀誦精勤無間如理思惟。彼於此生定得一切法平等性金剛等持。於一切法皆得自在。恒受一切勝妙喜樂。當經十六大菩薩生。定得如來執金剛性。疾證無上正等菩提 |
仏は是の如き菩薩の句義、般若の理趣の清浄の法を説き已りて、金剛手菩薩等に告げて言わく、『若し此の一切法の甚深微妙なる般若理趣の清浄法門を聞くを得て、深く信受すること有らば、乃至当に妙菩提座に坐すべく、一切の障蓋は、皆染する能わざらん。謂わゆる煩悩障、業障、報障、多く積集すと雖も、染する能わず。種種の極重の悪業を造ると雖も、易(たやす)く消滅して、悪趣に堕ちざらん。若し能く受持して日日読誦し、精勤無間にして、理の如く思惟せば、彼れは此の生に於いて、一切法の平等性、金剛の等持を得て、一切法に於いて、皆、自在を得、恒に一切の勝妙なる喜楽を受け、当に十六大菩薩の生を経て、定んで如来の執金剛性を得、疾かに無上正等菩提を証せん。 |
『仏』は、
是のような、
『菩薩』という!、
『句』の、
『義』は、
則ち、
『般若の理趣( 智慧の道)』であり!、
『清浄の法門( 菩提の門)』である!と、
『説かれて!』、
『金剛手菩薩』等に告げて、
こう言われた、――
若し、
此の、
一切の、
『法』は、
『甚深微妙』な、
『般若の理趣』であり!、
『清浄の法門』である!と、
『聞く!』ことができ、
而も、
『深く!』、
『信受する!』ならば、
その時より、
『妙菩提( 成仏)』の、
『座』に、
『至る!』まで、
一切の、
『障蓋( 煩悩等)』は、
『心』を、
『汚染する!』ことが、
『できない!』。
謂わゆる、
『煩悩障、業障、報障』が、
『多く!』、
『積集していた!』としても、
『汚染する!』ことが、
『できない!』ので、
種種の、
『極重』の、
『悪業』を、
『造った!』としても、
『易( たやす)く!』、
『生滅』して、
『悪趣』に、
『堕ちることはない!』のである。
若し、
此の、
『法門』を、
『受持する!』ことができ、
『日日、読誦』して、
『精勤、無間』であり、
『理』に、
『随って!』、
『思惟する!』ならば、
彼れは、
此の、
『生』に於いて、
定めて、
一切の、
『法』の、
『平等性』という、
『金剛のよう!』な、
『等持(境地)』を、
『得る!』ことができ、
一切の、
『法』に於いて、
皆、
『自在』を、
『得る!』ので、
恒に、
一切の、
『勝妙』な、
『喜楽』を、
『受ける!』ことになり、
『未来』には、
『十六』の、
『大菩薩』の、
『生』を、
『経た!』のちに、
定んで、
『如来』の、
疾かに、
『無上正等菩提(阿耨多羅三藐三菩提)』を、
『証する(自覚する)!』だろう、と。
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障蓋(しょうがい):心に蓋(フタ)をして菩提を求むるに障礙となるもの。
煩悩障(ぼんのうしょう):梵語kleza- avaraNaの訳。衆生の本性たる貪瞋癡等の煩悩。
業障(ごうしょう):梵語karma- avaraNaの訳。父母阿羅漢を殺す等の五種の無間業。
報障(ほうしょう):梵語vipaaka- avaraNaの訳。地獄餓鬼畜生等覚り難き生を受くること。
精勤無間(しょうごんむげん):怠らず精進に勤めること。無間は暇なきことの意。
悪趣(あくしゅ):地獄、餓鬼、畜生の総称。
等持(とうじ):梵語三摩地samaadhiの訳。又三昧に作り、正定と訳す。心の一境に住して動ぜざる状態。
十六大菩薩(じゅうろくだいぼさつ):大菩薩は特定の菩薩を指すに非ず、但だ十六反大菩薩としての生を受くるをいうのみ。
執金剛性(しゅうこんごうしょう):煩悩を摧く金剛(梵語vajra、武器の一種)を手に持つ性。即ち菩提心の譬喩。 |
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註:煩悩障業障報障を総称して三障という。
註:菩薩の心地に於いて、一切の法は自性空なり、故に空中には彼我、彼此、男女等の相なし、故に一切法の性は平等なり、故に一切の法に能作、所作の別なく、即ち所作なきが故に一切の法に於いて、菩薩は自在なりと説く。 |
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