大般若波羅蜜多経巻第五百七十八
home

大般若波羅蜜多経第十般若理趣分
  三藏法師玄奘奉 詔譯


1.讃薄伽梵品

如是我聞。一時薄伽梵。妙善成就一切如來金剛住持平等性智種種希有殊勝功德。已能善獲一切如來灌頂寶冠超過三界。已能善得一切如來遍金剛智大觀自在。已得圓滿一切如來決定諸法大妙智印。已善圓證一切如來畢竟空寂平等性印。於諸能作所作事業。皆得善巧成辦無餘。一切有情種種希願。隨其無罪皆能滿足。已善安住三世平等常無斷盡廣大遍照身語心性。猶若金剛等諸如來無動無壞。 是の如く我れ聞けり。一時、薄伽梵、妙に善く一切如来の金剛住持したまえる平等性智の種種に希有殊勝の功徳を成就したまい、已に能く善く一切如来の潅頂したまえる宝冠を獲(え)て三界を超過し、已に能く善く一切如来の遍き金剛智の大観して自在なるを得、已に一切如来の諸法を決定したまえる大妙智の印を円満するを得、已に善く一切如来の畢竟空寂平等性の印を円証し、諸の能作、所作の事業に於いて、皆善巧成辦するを得て余す無く、一切有情の種種の希願を、其の無罪なるに随いて、皆能く満足し、已に善く三世平等にして、常に断尽する無く、広大遍照せる身語心の性に安住して、猶お金剛の若く、諸如来の無動無壊なるに等し。
わたしは、
是のように、聞いた、――
一時(あるとき)、
『薄伽梵(世尊)』は、      ――世尊の已に獲得せる功徳を説く――
妙に善く、
一切の、
『如来』の、
『金剛住時』する! ――魔を摧伏して住持すること金剛座に坐せるが如し――
『平等性智』の、    ――一切法の平等性を察知する智――
種種の、
希有にして、
殊勝な、
『功徳』を、
『成就されていた!』が、
已にして、
能く善く、
一切の、
『如来』の、
『潅頂』する!、        ――王位を授くるをいう――
『宝冠』を、         ――法王の位を得て、――
『獲()られて!』、
『三界』を、
『超過されていた!』し、
已に、
能く善く、
一切の、
『如来』の、
『世界』に遍き、
『金剛智』を、   ――金剛の如く邪智を破り、自ら摧けざる智――
『得られて!』、
『大観』して、       ――三千世界を遍く観ずるが故に大という――
『自在であった!』し、
已に、
一切の、
『如来』の、
諸の、
『法』を、
『決定する!』、   ――法の可否を決裁する――
『大妙智』の、
『印』を、        ――通行自在なる割り符の契合せるをいう――
『円満されていた!』し、
已に、
善く、
一切の、
『如来』の、
畢竟じて、
『空寂』である!
『平等性』の、  ――一切法の平等乃至空中には戯論なく寂静せるをいう――
『印』を、
『円証されていた!』し、 ――印を所持せることを余さず承知するをいう――
諸の、
『能作、所作の事業』を、  ――作すべき事業、及び已に作されたる事業――
皆、
『善巧(方便)』が、     ――善巧は、衆生済度の方便をいう――
『成辦(成就)』して、    ――成辦は、成就し具備するをいう――
『余す!』所が、
『無かった!』し、
一切の、
『有情(衆生)』の、
種種の、
『希願』を、            ――希願は、希望と願望――
其れが、
『罪』の、
『無い!』ものならば、
皆、
『満足させていられた!』し、
已に、
善く、
『三世平等』で、     ――過去現在未来を通じて絶えることのない、――
常に、
『断尽する!』ことの、
『無い!』、
『広大』にして、
遍く、
『世界』を、
『照らす!』、
『身、語、心』の、          ――身語心は、身語意ともいう――
『性』に、             ――性は、改変せざるにいう――
『安住されていた!』ので、  ――安住は、改変せず不動なるにいう――
猶お、
『金剛』のように、
諸の、
『如来』と、
『同等』であり、
『動かす者』も、
『壊す者』も、
『無かった!』。
  薄伽梵(ばぎゃぼん):梵語bhagavat、世尊と訳す。衆徳を具して世に尊重恭敬せらるる者の意。即ち仏の尊称なり。
  如来(にょらい):梵語多陀阿伽度tathaagataの訳にして、又如去、如解、如説等と翻ず。即ち法相の如く解し、法相の如く説き、安隠の道より来たりて更に後有の中に去らざるを云う。
  金剛住持(こんごうじゅうじ):金剛は菩提樹下の金剛座の意、即ち悪魔を摧伏して成道せしに由り、無動無壊の坐なるをいう。住持とは智慧を邸第に喩え、其の中に居住し、其れを護持すれば之を住持という。
  功徳(くどく):梵語guNaの訳。美徳の義。即ち功とは福利の功能、この功能は善行の徳と為すが故に徳という。また徳とは得なり。功を修むるに所得有るが故に功徳という。
  潅頂宝冠(ほうかんをかんちょうす):潅頂の儀式を以って王冠を授け、王位に著くるをいう。
  超過三界(さんがいにちょうかす):三界は欲界色界無色界の総称。又世間と称す。凡人の居住の処をいう。
  徧金剛智(こんごうちをあまねくす):金剛の如き無動無壊の智を以って三界に遍満せしむるをいう。
  大観自在(だいかんじざい):一時に三界を観るが故に大といい、自在という。
  決定諸法(しょほうをけつじょうす):諸法の空、平等、無所有、無所得等の義を決定するをいう。
  大妙智(だいみょうち):諸法を決定せる智は、深妙にして一切に通ずるが故に之を大妙という。
  (いん):梵語mudraaの訳。智印を梵にjJaana- mudraaという。印とは即ち関所を通過するに当りて身分を保証すべき王印にして、通行自在の意なり。即ち智慧を以って一切法に通達するをいう。
  畢竟空寂平等性(ひっきょうくうじゃくびょうどうしょう):一切法は畢竟じて空なれば、其の中に戯論の余地なく、遂に寂静すべきなるをいう。平等は一切の衆生は因縁の所生にして、其の性、空なれば彼此、彼我、男女、四姓、五道等の差別なく、皆行業の果報を受けて輪転するのみなることをいう。
  能作所作事業(のうさとしょさのじごう):能作は作すべきこと、所作は已に作されたこと。
  善巧(ぜんぎょう):具に善巧方便と称し、梵語upaaya- kauzalyaの訳、巧妙な手段を以ってする福利をいう。又方便と称す。衆生を導引するに便利な巧みな手段の意。
  成辦(じょうべん):成就し具備するをいう。完璧に成し遂げること。
  有情(うじょう):梵語sattvaの訳。又衆生とも訳す。生物の義。即ち天、人、餓鬼、畜生、阿修羅等の情識を有する者の意にして、此れに対して草木等を非情と称す。
  希願(けがん):希望及び願望。
  能満足(よくまんぞくす):満足させる。
  三世平等(さんぜびょうどう):三世に変わることのない。
  身語心性(しんごしんのしょう):身を以ってする行い、口を以ってする行い、意志を以ってする行いの三種の業の性が、善にして改変せざるをいう。
  金剛(こんごう):梵語vajraの訳。雷電の義。一切の物中に最も堅固なるものの意。菩薩の有する衆生済度の意志の堅固なるに喩う。
  無動無壊(むどうむえ):動じさせる者無く、壊す者も無い。
是薄伽梵。住欲界頂他化自在天王宮中。一切如來常所遊處。咸共稱美大寶藏殿。其殿無價末尼所成。種種珍奇間雜嚴飾。眾色交[日*英]放大光明。寶鐸金鈴處處懸列。微風吹動出和雅音。綺蓋繒幡花幢綵拂。寶珠瓔珞半滿月等。種種雜飾而用莊嚴。賢聖天仙之所愛樂。與八十億大菩薩俱。 是の薄伽梵、欲界の頂の他化自在天の王宮中、一切如来の常に遊びたまえる処にして、咸(みな)共に称美したまえる大宝蔵殿に住(とど)まりたまえり。其の殿は、無価の末尼の成す所の種種の珍奇間雑し厳飾して、衆色交映して大光明を放ち、宝鐸金鈴処処に懸列し、微風吹動すれば和雅の音を出し、綺蓋、繒幡、花幢は宝珠、瓔珞、半満月等を綵払し、種種に雑飾して用(も)って荘厳し、賢聖、天仙の愛楽する所にして、八十億の大菩薩と倶(とも)なり。
是の、
『薄伽梵』は、        ――説法の処と、その荘厳を説く――
『欲界の頂』にある、
『他化自在天』の、
『王宮』中に、
『住(とど)まられていた!』が、
其の処は、
一切の、
『如来』の、
常に、
『遊ぶ!』、
『処』であり、
皆共に、
『称美する!』、
『大宝蔵殿』であった。
其の、
『宮殿』は、
『無価の末尼』の、
『成す!』所の、
『種種の珍奇』が、
『間雑(入り雑る)』して、
『厳飾(丁寧に飾りつける)』しており、
『多くの色彩』が、
『交映(互いに映し合う)』して、
『大光明』を放ち、
『宝鐸、金鈴(軒の飾りの類)』が、
『処処』に、
『懸列』して、
『微風』が、
『吹動する!』たびに、
『和雅の音』を出し、
『綺蓋、繒幡、花幢(吹き流しの類)』が、
『宝珠、瓔珞、半満月(屋根飾りの類)』等を、
『綵払(絹の綾布ではらう)』していた!
是の、
種種の、
『雑飾』を用()って、
『荘厳』された!
『賢聖、天仙』の、
『愛楽』する!
『宮殿』に、
『八十億』の、
『大菩薩』と、
『倶(とも)にされていた!』のである。
  欲界(よっかい):梵語kaama- dhaatuの訳。欲所属の界の意。又欲を任持する界の意。三界の一。即ち食欲婬欲等を有する有情の居住する世界を云う。
  他化自在天(たけじざいてん):梵語para- nirmita- vaza- vartinの訳。他の化作せる欲境を自在に受用し、自ら楽を受くるが故に他化自在と名づく。欲界六欲天の最頂に位す。是の主を魔王波旬と称し、即ち正法を害する者にして、仏成道の時にも、来たりて障害せんと試みし事を伝う。
  称美(しょうみ):ほめたたえる。
  無価(むげ):値をつけられないほど高価なことをいう。
  末尼(まに):梵語maNi。具に真陀摩尼cintaa- maNiと称し、意訳して如意宝、如意珠に作り、また如意摩尼、摩尼宝珠、末尼宝、無価宝珠に作る。凡そ所求有らば、この珠は皆よくこれを出すの意にして、故に如意宝珠と称す。
  珍奇(ちんき):珍宝。
  間雑(けんざつ):いりまじる。
  厳飾(ごんじき):丁寧に飾り付ける。
  衆色交映(しゅしききょうよう):多くの色の光が入混じりながら、照り映えるさま。
  宝鐸(ほうじゃく):軒先に吊す小鐘にして、金銀宝石を以って造られしもの。
  金鈴(こんりょう):黄金を以って造られし鈴。
  懸列(けんれつ):列をなして懸けられたるさま。
  微風(みふう):かすかなかぜ。
  吹動(すいどう):ふきうごかす。
  和雅(わげ):調和と高雅。やわらぎみやびやか。和やかにして高貴。
  綺蓋(きがい):美しい天蓋。
  繒幡(そうばん):絹の懸け幕。
  花幢(けどう):花模様の柱飾り。
  綵払(さいほつ):五色の綾絹を以ってはらう。
  宝珠(ほうじゅ):擬宝珠の如し。
  瓔珞(ようらく):珠玉をレース状に綴ったもの。
  半満月(はんまんがつ):半月状の飾りと満月状の飾り。
  賢聖(けんじょう):賢とは善に和すの義、聖とは正に会すの義。善に和し、悪を離ると雖も、未だ無漏智を発せず、理を証せず、惑を断ぜず、凡夫の位に在る者は之を賢と謂い、既に無漏智を発し、理を証して惑を断じ、次いで凡夫の性を捨つる者は之を聖と謂う。
  天仙(てんせん):梵語deva- RSiの訳。天人と仙人との総称。五趣の極を天と称し、人にして神徳ある者を仙と称す。又或いは虚空を飛遊する仙人を天仙と称す。
  愛楽(あいぎょう):愛したのしむ。
  菩薩(ぼさつ):梵語菩提薩埵Bodhisattvaの略。菩提を求むる人の義。菩提bodhiとは衆生を教化し清浄ならしめて理想的な世界である浄土を成就せる仏の境地をいう。
  :魔天宮に於いて、般若波羅蜜多を説くとは、是の般若波羅蜜多は一切法は空なるが故に、応に六種の波羅蜜多を行ずべしと説くものなれば、応に欲界の主たる魔王波旬こそ、是の経を聞いて最も益を得る者なるべし。是を以っての故に世尊は、此の処に於いて、此の経を説かれた。
一切皆具陀羅尼門三摩地門無礙妙辯。如是等類無量功德。設經多劫讚不能盡。其名曰金剛手菩薩摩訶薩。觀自在菩薩摩訶薩。虛空藏菩薩摩訶薩。金剛拳菩薩摩訶薩。妙吉祥菩薩摩訶薩。大空藏菩薩摩訶薩。發心即轉法輪菩薩摩訶薩。摧伏一切魔怨菩薩摩訶薩。如是上首有八百萬大菩薩眾前後圍繞。宣說正法。初中後善文義巧妙純一圓滿清白梵行 一切は皆、陀羅尼門、三摩地門、無礙妙辯を具(そな)え、是の如き等の類の無量の功徳は、設(も)し多劫を経(へ)て讃ずるとも、尽くす能(あた)わず。其の名を金剛手菩薩摩訶薩、観自在菩薩摩訶薩、虚空蔵菩薩摩訶薩、金剛拳菩薩摩訶薩、妙吉祥菩薩摩訶薩、大空蔵菩薩摩訶薩、発心即転法輪菩薩摩訶薩、摧伏一切魔怨菩薩摩訶薩と曰い、是の如き上首には、八百万の大菩薩衆有りて、前後囲遶し、正法を宣説するに、初中後に善く、文義巧妙にして、純一円満、清白梵行なり。
是の、         ――八十億の大菩薩衆の正法宣説の功徳を説く――
『八十億』の、
一切の、
『菩薩』は、
皆、
『陀羅尼の門』、
『三摩地の門』、
『無礙の妙辯』を具(そな)えており、
是れ等の、
類(たぐい)の、
『無量の功徳』を、
設()し、
『讃じた!』ならば、
『多劫』を経ても、
『尽くせない!』のであった。
其の名を、
こう曰()う、――
『金剛手菩薩摩訶薩』、
『観自在菩薩摩訶薩』、
『虚空蔵菩薩摩訶薩』、
『金剛拳菩薩摩訶薩』、
『妙吉祥菩薩摩訶薩』、
『大空蔵菩薩摩訶薩』、
『発心即転法輪菩薩摩訶薩』、
『摧伏一切魔怨菩薩摩訶薩』と。
是のような、
『上首』には、
『八百万』の、
『大菩薩衆』が有り、
『上首』の、
『前後』を、
『囲遶』しながら、
皆、
『正法』を、
『宣説』していた!が、
其れは、
『初』も、
『中』も、
『後』も、
皆、
『善く!』、
『文義』は、
『巧妙(巧みですばらしい!)』、
『純一(もっぱら大乗のみ!)』、
『円満(欠けたところがない!)』、
『清白(清廉潔白)』であり、
『梵行(清浄なる行)』であった。
  陀羅尼門(だらにのもん):門は仏道に入る門。陀羅尼は梵語dhaaraNii、総持、能持、或いは能遮と訳す。即ち能く総持して忘失せざる念慧の力をいい、言葉の力を以って経文の要旨等を記憶する術をいう。
  三摩地門(さんまじのもん):門は仏道に入る門。三摩地は梵語samaadhi、又三昧に作り、正定、又は等持等と訳す。禅定の如き、心の一境に住して動ぜざる状態をいう。
  無礙妙辯(むげみょうべん):凝滞することの無き絶妙なる辯才。即ち仏菩薩の成就せる説法に関する四種の無礙智を云う。謂わゆる四無礙(梵catuH- pratisaMvid)と称し、一に法無礙(梵dharma-p.)、二に義無礙(梵artha- p.)、三に辞無礙(梵nirukti- p.)、四に辯無礙(梵pratibhaana- p.)である。就中、一に法無礙とは、法即ち事物を示す文章、乃至経書の理解に於いて無礙なることを云い、二に義無礙とは、法に由って示さるる義(意味)の理解に於いて無礙なるを云い、辞無礙とは、単語、術語、言葉の理解に於いて無礙なるを云い、辯無礙とは、雄弁に説得するに於いて無礙なるを云う。
  多劫(たこう):多くの劫。劫は梵語kalpa、分別時分、分別時節、長時、大時、時と訳す。世界の生住滅に関する周期の一回分を表す時間単位をいう。
  菩薩摩訶薩(ぼさつまかさつ):梵語菩提薩埵摩訶薩埵bodhi- sattva- mahaa- sattvaの略。菩提薩埵bodhi-sattvaは菩提を求むる人、摩訶薩埵mahaa- sattvaは偉大なる人の意。即ち衆生を教化して清浄ならしめ、遂に浄土を成就せる仏の境地を求めて、常に努力して怠らざる人をいう。
  金剛手(こんごうしゅ):梵語vajira- paaNi?の訳。金剛を手に執るの意。
  観自在(かんじざい):梵語avalokitezvaraの訳。世間を観るに自在なりの意。
  虚空蔵(こくうぞう):梵語aakaaza- garbhaの訳。虚空の如く無限の財宝、法宝を収蔵するの意。
  金剛拳(こんごうけん):梵語vajira- muSTiの訳。金剛の拳、或いは金剛を執した意。
  妙吉祥(みょうきちじょう):梵語maJju- zriiの訳。絶妙にしてめでたしの意。
  大空蔵(だいくうぞう):梵語mahaa- zuunyataa- garbhaの訳。大空の如く無限の財宝、法宝を収蔵するの意。
  発心即転法輪(ほっしんそくてんぽうりん):梵語saha- cittotpaada- dharmacakra- pravartin?の訳。発心して直ちに法輪を転ずるの意。
  摧伏一切魔怨(さいぶくいっさいまおん):梵語sarva- maara- pramardinの訳。一切の魔を摧伏するの意。
  上首(じょうしゅ):席次の上首なるをいう。
  前後囲遶(ぜんごいにょう):前後をとりかこむ。
  宣説(せんぜつ):当に然るべきを説く。
  初中後善(しょちゅうごぜん):説法の初め善く、中ほど善く、後も善いことをいう。
  文義巧妙(もんぎぎょうみょう):文句も意味も巧みですばらしい。
  純一円満(じゅんいちえんまん):純ら仏道のみで欠くる所なく満ちているさまをいう。
  清白梵行(しょうびゃくぼんぎょう):梵語paryavadaataの訳。完全に清浄、潔白、純粋の義。



2.菩薩句義清浄法門

爾時世尊為諸菩薩。說一切法甚深微妙般若理趣清淨法門。此門即是菩薩句義。云何名為菩薩句義。 爾の時、世尊は諸の菩薩の為に説きたまわく、『一切法は、甚深微妙なる般若の理趣にして、清浄なる法門なり。此の門は、即ち是れ菩薩の句義なり。云何が名づけて、菩薩の句義と為す。
爾の時、
『世尊』は、
諸の、
『菩薩』の為に、
こう説かれた、――
一切の、
『法(事物)』は、
『甚深微妙』な、
『般若の理趣(智慧の道)』であり、
『清浄の法門(菩提の門)』である!。
此の、
『門』とは、
是れは、
『菩薩』という、
『句(ことば)』の、
『義(意味)』である。
何を、
『菩薩』の、
『句』の、
『義』というのか?――
  世尊(せそん):世に尊ばるる者の義。通常梵語薄伽梵bhagavatの訳語となす。
  一切法(いっさいほう):梵語 sarva- dharma,一切の有為法(梵 saMskRta- dharma)即ち造られたもの、及び無為法(梵 asaMskRta- dharma)即ち造られないものの総称。即ち、一切の事物、物質、精神,及び有らゆる現象としての存在を含むものの意。
  甚深(じんじん):甚だ深くて理解しがたいこと。
  微妙(みみょう):高尚深遠なこと。幽深で知り難いさま。理趣の幽玄なのを微といい、迥(はるか)に思議を超絶したのを妙という。
  般若(はんにゃ):梵語prajJaa、判断、識別の義。慧又は智慧等と訳す。
  般若理趣(はんにゃりしゅ):梵語prajJaa- paaramitaa- nayaの訳。此の中nayaは指揮、指導の義。或いは智慧の義。即ち世間の分別を離れて智慧を究竟し、一切智の彼岸に至る道の意。
  清浄法門(しょうじょうほうもん):梵語parizuddha- dharma- paryaayaの訳。煩悩を遠離して心清浄となり、真の仏の境地たる阿耨多羅三藐三菩提に至る道を得る門をいう。
  句義(くぎ):梵語padaarthaの訳。文の意義。ことばの意味。ことばの意味に相応する事物、人、対象、主題、話題等をいう。
  :窺基の「大般若波羅蜜多経般若理趣分述讃(以後述讃)」には、「甚深微妙清浄法門」と標し、「即ち是れ妄に対して、真実相、真如の境体を顕す」と略讃する。
謂極妙樂清淨句義是菩薩句義。 謂わゆる『極めて妙楽なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。
その意味は、――
『極めて!』、
『妙であり!』、
『楽である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『菩薩』という、
『句』の、
『義』である。
  極妙楽(ごくみょうらく):梵語surata?の訳。極めて大きな楽しみの義。時に性愛を意味する語。即ち菩薩の境地である。是の一句を以って、菩薩は、般若波羅蜜多の無分別智の中に在って、常に六波羅蜜を行ずるも、是の境地は苦に非ず、而も極妙楽の境地なりと主張するものである。
  清浄句義(しょうじょうくぎ):梵語parizuddha- padaartha、又はvizuddha- padaartha?の訳。無罪、或いは潔白な句の義の意。蓋し極妙楽等の句の義に関して、単なる言葉の上には、義を得べからず、則ち戯論無きが故に清浄なりという。復た次ぎに極めて妙楽なりの語ありと雖も、菩薩に於いては是れ即ち自らを謂うに非ず、一切衆生の極妙楽なるを謂うにより、是の句義あり、故に清浄なりの意である。又清浄句義に二種の釈あり、一には「極妙楽」等の句の清浄、即ち語言、乃至法の本性無きこと虚空の如し、故に清浄である。二には「極妙楽」等の句義の清浄、即ち一切法に二種あり、有為法と無為法である。有為法ならば一切は因縁所生の故に本性無きこと虚空の如し、故に清浄である。無為法ならば一切の無為法は寂静にして無の如く、虚空の如きなるが故に清浄である。
  菩薩句義(ぼさつくぎ):梵語bodhisattva- padaartha?の訳。菩薩ということばの意味。又は菩薩ということばの意味に相応する事物、或いは物体を云う。
  :以下69清浄句義文を列ねて、大菩提を求むる菩薩心に於いて、一切法は、皆清浄なりと説く。
  :第一極妙楽、乃至第十一意善安楽の十一句義は、衆生空についての大乗的解釈たる彼我平等の境地を説き、第十二句義以後には一切法の空なることを示す。即ち衆生の空とは、謂わゆる第一極妙楽、第二諸見永寂、第三微妙適悦、第四渇愛永息の四種を以って、菩薩の空三昧と為し、此の中、第二諸見永寂を以って愚癡を破り、第三微妙適悦(喜悦)を以って瞋恚を破り、渇愛永息を以って貪欲を破り、総じて三毒を皆破る。次に第五胎蔵超越、第六衆徳荘厳、第七意極猗適、第八得大光明の四種を以って、菩薩の無相三昧と為し、此の中第五胎蔵超越を以って身の不浄なるを破り、第七意極猗適を以って受の苦なるを破り、第六衆徳荘厳を以って法の無我を破り、第八得大光明を以って心の無常を破り、総じて常楽我淨の不顛倒なることを明かし、第九身善安楽、第十語善安楽、第十一意善安楽の三種を以って、菩薩の無作三昧を示して、身口意業の善なる六波羅蜜を行うを以って、後世の安楽なるを明す。
  :小乗に於いては、衆生の空は、即ち不自在、故に苦なることを示すも、大乗に於いては、彼我平等の空三昧中に於いて、六波羅蜜を以って、彼れを利益する、即ち是れ我が極妙楽の境地なりと為すものである。
諸見永寂清淨句義是菩薩句義。 『諸見は永寂せり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。
諸の、
『見(邪見)』は、
『永久に!』、
『寂静である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『菩薩』という、
『句』の、
『義』である。
  諸見(しょけん):見は梵語dRSTi、或いはdarzanaの訳。見るの義。所謂見解、思想、主義、主張の意にして、正見、邪見等の別あるも、今は五種の邪見を云う。謂わゆる五見(梵語paJca dRSTayaH)である、就中一に有身見(梵satkaaya- dRSTi)、即ち自ら我の存在有りと執するを称して我見と為し、この我に属するを以って、則ち我所見と称す。二に辺執見(梵anta-graaha- dRSTi)、即ち極端なる一遍に辺執する見解にして、謂わゆる我は死後にも仍ち常住不滅なり、これを称して常見(有見)と為し、謂わゆる我は死後に則ち断絶す、これを称して断見(無見)と為す。三に邪見(梵mithyaa- dRSTi)、即ち因果の道理を否定する見解と為す。四に見取見(梵dRSTi- paraamarza)、即ち錯誤の見解に執著し、以って真実と為す者なり。五に戒禁取見(梵)ziila- vrata- paraamarza)、即ち不正確なる戒律、禁制等を見て、涅槃に可達の戒行と為す等、この取の執著を即ち称して、戒禁取見と為す。
  永寂(ようじゃく):永く寂す。永久に静寂となる。寂は梵語zaantiの訳、又寂静、静寂と訳す。悪思が鎮まり、心が平和になることをいう。
  :諸見は無明、或いは愚癡より生ずる三毒の一である。菩薩は彼我平等の空三昧中に於いて、般若波羅蜜の智慧を以って、六波羅蜜を行うが故に、諸見永寂と言う。
微妙適悅清淨句義是菩薩句義。 『微妙にして適悦なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。
『微妙に!』、
『適悦(快適)である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『菩薩』という、
『句』の、
『義』である。
  微妙適悦(みみょうちゃくえつ):梵語abhirati?の訳。歓喜、満足、愉悦、献身等の義。
  :微妙適悦は喜悦の意、即ち三毒の一たる瞋恚の逆である。菩薩は彼我平等の空三昧中に於いて、彼れ若し手を以って打たば、忍辱波羅蜜を以って忍び、彼れの瞋恚をして解消せしめて、以って自ら喜悦す。故に是れを微妙適悦と言う。
渴愛永息清淨句義是菩薩句義。 『渇愛は永息せり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。
『渇愛』は、
『永久に!』
『休息した!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『菩薩』という、
『句』の、
『義』である。
  渇愛(かつあい):梵語tRSNaa、或いはtRSnaaの訳。又愛とも訳す。咽の渇き、欲望、貪欲、性愛等の義を有する。煩悩の異名。
  永息(ようそく):永くやむ。永久に休息する。
  :渇愛は三毒の一たる貪欲の異名である。菩薩は彼我平等の空三昧中に於いて、布施波羅蜜を行い、彼れの渇愛を解消せしめて、以って自ら渇愛を息ましむ、故に渇愛永息と言う。
胎藏超越清淨句義是菩薩句義。 『胎蔵は、超越せり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。
『胎蔵』は、
『世間』を、
『超越した!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『菩薩』という、
『句』の、
『義』である。
  胎蔵(たいぞう):梵語garbhaの訳。子宮の義。
  超越(ちょうおつ):胎蔵は世間を超越するの意。
  :胎蔵は子宮の異名、即ち人の臓腑なるが故に不浄と為すも、菩薩は無相三昧中に住するを以って、浄不浄を超越す、故に胎蔵超越と言う。是れ即ち四念処中の身念処に於いて、身の不浄を破るを言う。
眾德莊嚴清淨句義是菩薩句義。 『衆徳は荘厳せり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。
『衆徳(多くの功徳)』が、
『身心』を、
『荘厳した!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『菩薩』という、
『句』の、
『義』である。
  衆徳(しゅとく):多くの徳。徳は梵語guNaの訳。又功徳と訳す。美徳、才能、性質の義。即ち衆生を利益するに能く功ある力をいう。
  荘厳(しょうごん):梵語vyuuhaの訳語にして、即ち諸種の衆宝雑華宝蓋幢幡瓔珞等を布列し、以って道場または国土等を荘飾厳浄するをいう。引いては種種の美徳を以って自身を飾ることの意。
  :四念処中法念処に於いて、法の無我を観ると雖も、彼我平等の無相三昧中に於いては、衆徳を以って荘厳する所、即ち是れ菩薩なり。故に即ち無我を破る。
意極猗適清淨句義是菩薩句義。 『意は極めて猗適なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。
『意(こころ)』は、
『極めて!』、
『猗適(信頼)である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『菩薩』という、
『句』の、
『義』である。
  猗適(いしゃく):梵語prazrabdhiの訳。信頼、信用の義。寄りかかり頼りきるが故に安心なり。
  :四念処中の受念処に於いて、受は即ち苦なりと雖も、般若波羅蜜の大船を以って、不平等苦の大海を渡れば、即ち大安心を得、大楽の浄土に生じて、阿耨多羅三藐三菩提を成就す、故に意極猗適と言う。
得大光明清淨句義是菩薩句義。 『大光明を得たり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。
『大きな!』、
『光明』を、
『得た!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『菩薩』という、
『句』の、
『義』である。
  大光明(だいこうみょう):梵語razmiの訳。仏、菩薩の身体より放たるる智慧の光明。
  :四念処中の心念処に於いて、心の無常を云うと雖も、彼我平等の無相三昧中に於いては、般若の大光明を得たる所、即ち是れ菩薩なり、故に菩提心の常に存す、故に他世に於いて阿耨多羅三藐三菩提を成ず、故に得大光明と言う。
身善安樂清淨句義是菩薩句義。語善安樂清淨句義是菩薩句義。意善安樂清淨句義是菩薩句義。 『身は善にして安楽なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。『語は善にして安楽なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。『意は善にして安楽なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。
『身(身業)』は、
『善である!』が故に、
『安らかで!』、
『楽しい!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『菩薩』という!、
『句』の、
『義』である。
『語(語業)』は、
『善である!』が故に、
『安らかで!』、
『楽しい!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『菩薩』という、
『句』の、
『義』である。
『意(意業)』は、
『善』である!が故に、
『安らかで!』、
『楽しい!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『菩薩』という、
『句』の、
『義』である。
  (しん):身業(梵語kaaya- karma)の略。罪福の果報を招くべき善悪の身の行い。
  (ご):口業(梵語vaak- karma)の意。又語業に作る。罪福の果報を招くべき善悪の口の行い。
  (い):意業(梵語manas- karma)の略。又心業に作る。罪福の果報を招くべき善悪の意の行い。
  (ぜん):善は梵語kuzalaの訳。福報を引く善い行いを善業(梵語kuzala- karma)という。
  :身業、口業、意業を併せて三業(梵語triiNi- karmaaNi)と称す。彼我平等の無作三昧中に於いて、身語意を以って、衆生を善導すれば、故に他世に於いて安楽の浄土を得て、阿耨多羅三藐三菩提を成ず、故に身、語意善安楽と言う。
色蘊空寂清淨句義是菩薩句義。受想行識蘊空寂清淨句義是菩薩句義。 『色蘊は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。『受想行識蘊は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。
『色蘊』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『菩薩』という、
『句』の、
『義』である。
『受、想、行、識蘊』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『菩薩』という、
『句』の、
『義』である。
  色蘊(しきうん):梵語ruupa- skandhaの訳。蘊(梵語skandha)は積聚の義。色(梵語ruupa)は一切の色法、即ち色と形を有するものの総称。即ち眼等の五根、及び色等の五境をいう。
  受蘊(じゅうん):梵語vedanaa- skandhaの訳。境に対して感受する苦楽等の精神作用。
  想蘊(そううん):梵語aMjJaa- skandhaの訳。境に対して事物を想像する精神作用。
  行蘊(ぎょううん):梵語saMskaara- skandhaの訳。受想識を除き、境に対して生ずる貪瞋等の一切善悪の精神作用。
  識蘊(しきうん):梵語vijJaana- skandhaの訳。境に対して事物を了別識知する精神作用。
  空寂(くうじゃく):梵語zuunyataa空虚の義、及び梵語zaanti静寂の義の併称。即ち諸の相無きを空といい、起滅無きを寂という。即ち法に対して其の相を取らず、分別せざれば、意は静寂安穏にして清浄なることをいう。蓋し小乗乃至外道の法に於いては種種に諸法を論ずるに、時として諍論の害少なからず。故に大乗に於いては相を取らずに、一切の因縁所生の法は空にして分別すべからずと為すに由りて、意(思)の寂静たるを求め、但仏の大慈大悲に倣いて、其の中に於いて六波羅蜜等を行ずるをいう。
  :第12句義乃至第第69句義を以って、一切法の空寂にして、清浄なることを説く。是れ即ち般若波羅蜜多に由るが故なり。
  :色蘊乃至識蘊を総じて五蘊(梵語paJca skandhaaH)と称す。
  :色蘊空寂とは、即ち色蘊に関して語言絶え、思慮分別することなきが故に戯論なき状態なることをいう。
  :以下空寂清浄の句義が続くが、是れ等色蘊等の法、或いは其の名は皆、用有るに応じて説かれたものであるが故に、本来空寂なることを言い、戯論すべからざることを説くものである。
眼處空寂清淨句義是菩薩句義。耳鼻舌身意處空寂清淨句義是菩薩句義。色處空寂清淨句義是菩薩句義。聲香味觸法處空寂清淨句義是菩薩句義。 『眼処は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。『耳鼻舌身意処は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。『色処は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。『声香味触法処は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。
『眼処』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『菩薩』という、
『句』の、
『義』である。
『耳、鼻、舌、身、意処』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『菩薩』という、
『句』の、
『義』である。
『色処』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『菩薩』という、
『句』の、
『義』である。
『声、香、味、触、法処』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『菩薩』という、
『句』の、
『義』である。
  眼処(げんじょ):梵語cakSur- aayatanaの訳、処aayatanaは家、宿舎の義にして生長、養育の意。即ち眼根を以って、心を養育するの意。眼根に同じ。
  耳処(にじょ):梵語zrotraayatanaの訳、耳根に同じ。
  鼻処(びじょ):梵語ghraaNaayatanaの訳、鼻根に同じ。
  舌処(ぜつじょ):梵語jihvaayatanaの訳、舌根に同じ。
  身処(しんじょ):梵語kaayaayatanaの訳、身根に同じ。
  意処(いじょ):梵語mana- aayatanaの訳、意根に同じ。
  色処(しきじょ):梵語ruupaayatanaの訳、色境に同じ。
  声処(しょうじょ):梵語zabdaayatanaの訳、声境に同じ。
  香処(こうじょ):梵語gandhaayatanaの訳、香境に同じ。
  味処(みじょ):梵語rasaayatanaの訳、味境に同じ。
  触処(そくじょ):梵語spraSTavyaayatanaの訳、触境に同じ。
  法処(ほうじょ):梵語dharmaayatanaの訳、法境に同じ。
  :眼処乃至法処を総称して十二処(梵語dvaadaza aayatanaani)という。
眼界空寂清淨句義是菩薩句義。耳鼻舌身意界空寂清淨句義是菩薩句義。色界空寂清淨句義是菩薩句義。聲香味觸法界空寂清淨句義是菩薩句義。眼識界空寂清淨句義是菩薩句義。耳鼻舌身意識界空寂清淨句義是菩薩句義。 『眼界は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。『耳鼻舌身意界は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。『色界は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。『声香味触法界は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。『眼識界は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。『耳鼻舌身意識界は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。
『眼界』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『菩薩』という、
『句』の、
『義』である。
『耳、鼻、舌、身、意界』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『菩薩』という、
『句』の、
『義』である。
『色界』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『菩薩』という、
『句』の、
『義』である。
『声、香、味、触、法界』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『菩薩』という、
『句』の、
『義』である。
『眼識界』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『菩薩』という、
『句』の、
『義』である。
『耳、鼻、舌、身、意識界』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『菩薩』という、
『句』の、
『義』である。
  眼界(げんかい):梵語cakSur -dhaatuの訳。眼根に同じ。界dhaatuは要素の義、人の身心を十八種の要素に分類するの意。
  色界(しきかい):梵語ruupa- dhaatuの訳、色境に同じ。
  眼識界(げんしきかい):梵語cakSur- vijJaana- dhaatuの訳、眼の色に対して生ずる心識。
  耳界(にかい):梵語zrotra- dhaatuの訳、耳根に同じ。
  声界(しょうかい):梵語zabda- dhaatuの訳、声境に同じ。
  耳識界(にしきかい):梵語zrotra- vijJaana- dhaatuの訳、耳の声に対して生ずる心識。
  鼻界(びかい):梵語ghraaNa- dhaatuの訳、鼻根に同じ。
  香界(こうかい):梵語gandha- dhaatuの訳、香境に同じ。
  鼻識界(びしきかい):梵語ghraaNa- vijJaana- dhaatuの訳、鼻の香に対して生ずる心識。
  舌界(ぜつかい):梵語jihvaa- dhaatuの訳、舌根に同じ。
  味界(みかい):梵語rasa -dhaatuの訳、味境に同じ。
  舌識界(ぜつしきかい):梵語jihvaa- vijJaana- dhaatuの訳、舌の味に対して生ずる心識。
  身界(しんかい):梵語kaaya- dhaatuの訳、身根に同じ。
  触界(そくかい):梵語spraSTavya- dhaatuの訳、触境に同じ。
  身識界(そくしきかい):梵語kaaya- vijJaana- dhaatuの訳、身の所触に対して生ずる心識。
  意界(いかい):梵語mano- dhaatuの訳、意根に同じ。
  法界(ほうかい):梵語dharma- dhaatuの訳、法境に同じ。
  意識界(いしきかい):梵語mano- vijJaana- dhaatuの訳、意の法に対して生ずる心識。
  :色界乃至意識界を総称して十八界(梵語aSTaadaza dhaatavaH)という。
眼觸空寂清淨句義是菩薩句義。耳鼻舌身意觸空寂清淨句義是菩薩句義。眼觸為緣所生諸受空寂清淨句義是菩薩句義。耳鼻舌身意觸為緣所生諸受空寂清淨句義是菩薩句義。 『眼触は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。『耳鼻舌身意触は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。『眼触を縁と為して生ずる所の諸受は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。『耳鼻舌身意触を縁と為して生ずる所の諸受は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。
『眼触』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『菩薩』という、
『句』の、
『義』である。
『耳、鼻、舌、身、意触』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『菩薩』という、
『句』の、
『義』である。
『眼触』を、
『縁』として、
『生ずる!』、
諸の、
『受』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『菩薩』という、
『句』の、
『義』である。
『耳、鼻、舌、身、意触』を、
『縁』として、
『生ずる!』、
諸の、
『受(苦、楽)』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『菩薩』という、
『句』の、
『義』である。
  眼触(げんそく):眼根色境眼識の三者和合して生ずる所の精神作用をいう。
  (そく):梵語sparzaの訳。根境識和合して生ずる所の精神作用をいう。
  :眼触乃至意触を総称して六触という。
地界空寂清淨句義是菩薩句義。水火風空識界空寂清淨句義是菩薩句義。 『地界は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。『水火風空識界は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。
『地界』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『菩薩』という、
『句』の、
『義』である。
『水、火、風、空、識界』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『菩薩』という、
『句』の、
『義』である。
  地界(じかい):梵語pRthivii- dhaatuの訳。又地大と称す。堅を性とする。
  水界(すいかい):梵語aap- dhaatuの訳。又水大と称す。湿を性とする。
  火界(かかい):梵語tejas- dhaatuの訳。又火大と称す。熱を性とする。
  風界(ふうかい):梵語vaayu- dhaatuの訳。又風大と称す。動を性とする。
  空界(くうかい):梵語aakaaza- dhaatuの訳。又空大と称す。竅隟(スキマ)を性とする。
  識界(しきかい):梵語vijJaana- dhaatuの訳。又識大と称す。識知を性とする。
  :地界乃至識界を総称して六界(梵語SaD- dhaatavaH)、又は六大と称す。界(梵語dhaatu)は要素の義。此の六界は有情一期の間能く其の生を任持するものの意にして、此の中、地水火風の四界は即ち能造の大種、一切諸色の所依となり、空界は内外の竅隟にして亦た能く生長の因となり、共に色蘊に摂す。識界は即ち有漏識にして諸有を摂益任持するものなるが故に、総じて此の六界を有情相続の所依の体事とする。
  :以上色蘊、受想行識蘊、眼処、耳鼻舌身意処、色処、声香味触法処、眼界、耳鼻舌身意界、色界、声香味触法界、眼識界、耳鼻舌身意識界、眼触、耳鼻舌身意触、眼触為縁所生諸受、耳鼻舌身意為縁所生諸受、地界、水火風空職界に関する18清浄句義文を以って、菩薩の内外の根境識等の法の清浄を説く。
苦聖諦空寂清淨句義是菩薩句義。集滅道聖諦空寂清淨句義是菩薩句義。 『苦聖諦は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。『集滅道聖諦は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。
『苦聖諦』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『菩薩』という、
『句』の、
『義』である。
『集、滅、道聖諦』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『菩薩』という、
『句』の、
『義』である。
  苦聖諦(くしょうたい):梵語duHkha- satyaの訳。生老病死苦、怨憎会苦、愛別離苦、所求不得苦、五盛陰苦を明了に知る。
  集聖諦(じゅうしょうたい):梵語samudaya- satyaの訳。眼等に於ける愛が苦を集めると明了に知る。
  滅聖諦(めつしょうたい):梵語nirodha- satyaの訳。眼等の愛が息めば苦が滅すると明了に知る。
  道聖諦(どうしょうたい):梵語maagra- satyaの訳。苦を滅する道は八正道、謂わゆる正見、正思、正語、正業、正命、正方便、正念、正定であると明了に知って之を行う。
  :苦聖諦乃至道聖諦を総称して四聖諦(梵語catvaary- aarya- satyaani)という。
  :菩薩は四聖諦に関し、其の名義に就いて戯論を用いず、但だ六波羅蜜を実践するのみ、故に四聖諦空寂すと説く。
因緣空寂清淨句義是菩薩句義。等無間緣所緣緣增上緣空寂清淨句義是菩薩句義。 『因縁は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。『等無間縁所縁縁増上縁は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。
『因縁』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『菩薩』という、
『句』の、
『義』である。
『等無間縁、所縁縁、増上縁』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『菩薩』という、
『句』の、
『義』である。
  因縁(いんねん):梵語hetu- pratyayaの訳。果を生ずる直接的な原因。
  等無間縁(とうむげんえん):梵語samanantara- pratyayaの訳。前刹那の心は後の心の原因。
  所縁縁(しょえんえん):梵語aalambana- pratyayaの訳。所縁即ち外境は、心の生ずる縁。
  増上縁(ぞうじょうえん):梵語adhipati- pratyayaの訳。一切の法は、果となる一法のための縁。
  :因縁乃至増上縁を総称して四縁(梵語catvaaraH- pratyayaaH)という。
  :因縁生起の法は仏法の肝要なりと雖も、菩薩は敢て戯論するを用いず、但だ六波羅蜜の実践あるのみ、故に四縁空寂すと説く。
無明空寂清淨句義是菩薩句義。行識名色六處觸受愛取有生老死空寂清淨句義是菩薩句義。 『無明は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。『行識名色六処触受愛取有生老死は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。
『無明』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『菩薩』という、
『句』の、
『義』である。
『行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『菩薩』という、
『句』の、
『義』である。
  無明(むみょう):梵語avidyaaの訳。十二因縁の第一。即ち無知、乃至無学の義。
  (ぎょう):梵語saMskaaraの訳。十二因縁の第二。即ち訓練、教育の義。
  (しき):梵語vijJaanaの訳。十二因縁の第三。即ち識別、知識の義。
  名色(みょうしき):梵語naama- ruupaの訳。十二因縁の第四。即ち名前と形色の義。名と事物。
  六処(ろくじょ):梵語SaD- aayatanaの訳。十二因縁の第五。即ち六ヶの宿舎の義。六根。
  (そく):梵語sparzaの訳。十二因縁の第六。即ち接触の義。六根は六境に対する。
  (じゅ):梵語vedanaaの訳。十二因縁の第七。即ち苦痛の義。根境に対して生じる苦楽。
  (あい):梵語tRSNaaの訳。十二因縁の第八。即ち欲望の義。苦楽を受けて欲望を生じる。
  (しゅ):梵語upaadaanaの訳。十二因縁の第九。即ち贈物に関心を示すの義。得んと欲する。
  (う):梵語bhavaの訳。十二因縁の第十。即ち存在の義。外境に対し関心を示すが故に存在する。
  (しょう):梵語jaataの訳。十二因縁の第十一。即ち生まれたものの義。自己を確立する。
  老死(ろうし):梵語jaraa- maraNaの訳。十二因縁の第十二。即ち老と死の義。即ち苦有り。
  :無明乃至老死を総称して十二因縁(梵語dvaadazaaGga- pratiitya- samutpaada)という。即ち無明を縁として行あり、行を縁として識あり、乃至生を縁として老死あるをいい、又生無ければ老死無し、乃至無明無ければ行無きをいう。
布施波羅蜜多空寂清淨句義是菩薩句義。淨戒安忍精進靜慮般若波羅蜜多空寂清淨句義是菩薩句義。 『布施波羅蜜多は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。『浄戒安忍精進静慮般若波羅蜜多は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。
『布施波羅蜜多』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『菩薩』という、
『句』の、
『義』である。
『浄戒、安忍、精進、静慮、般若波羅蜜多』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『菩薩』という、
『句』の、
『義』である。
  布施波羅蜜多(ふせはらみった):梵語daana- paaramitaaの訳。布施の河を渡って彼岸に到る。
  浄戒波羅蜜多(じょうかいはらみった):梵語ziila- paaramitaaの訳。持戒の河を渡って到る。
  安忍波羅蜜多(あんにんはらみった):梵語kSaanti- paaramitaaの訳。忍辱の河を渡って到る。
  精進波羅蜜多(しょうじんはらみった):梵語viirya- paaramitaaの訳。精進の河を渡って到る。
  静慮波羅蜜多(じょうりょはらみった):梵語dhyaana- paaramitaaの訳。禅定の河を渡って到る。
  般若波羅蜜多(はんにゃはらみった):梵語prajJaa- paaramitaaの訳。智慧の河を渡って到る。
  :布施波羅蜜多乃至般若波羅蜜多を総称して六波羅蜜多(梵語Sad- paaramitaa)という。
  :六波羅蜜を行ずるを以って、即ち是れ菩薩なりとし、六波羅蜜を戯論するが故に菩薩に非ずと説く。
真如空寂清淨句義是菩薩句義。法界法性不虛妄性不變異性平等性離生性法定法住實際虛空界不思議界空寂清淨句義是菩薩句義。 『真如は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。『法界法性不虚妄性不変異性平等性離生性法定法住実際虚空界不思議界は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。
『真如』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『菩薩』という、
『句』の、
『義』である。
『法界、法性、不虚妄性、不変異性、平等性、離生性』、
『法定、法住、実際、虚空界、不思議界』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『菩薩』という、
『句』の、
『義』である。
  真如(しんにょ):梵語tathataaの訳。事物のあるがままのすがた。
  法界(ほっかい):梵語dharma dhaatuの訳。意識の対象となるすべての事物。
  法性(ほっしょう):梵語dharmataaの訳。法の体性の義。一切の事物の有する真実不変の本性。
  不虚妄性(ふこもうしょう):虚妄ならざる真実の性。
  不変異性(ふへんいしょう):変異せざる常住の性。
  平等性(びょうどうしょう):梵語samataaの訳。彼我、彼此の虚妄各各相を破る空平等性をいう。
  離生性(りしょうしょう):三界の生を離れたる性。
  法定(ほうじょう):決定して諸法の中に在るをいい、空、或いは真如の異名。
  法住(ほうじゅう):必ず一切諸法中に住するをいい、空、或いは真如の異名。
  実際(じっさい):梵語bhuuta- koTiの訳。真如の界際、真実際の義。又真如の異名。
  虚空界(こくうかい):梵語aakaaza- dhaatuの訳。何者も存在しない竅隟(スキマ)。
  不思議界(ふしぎかい):梵語acintya- dhaatuの訳。仏力、衆生多少、業果報等不可思議の性。
四靜慮空寂清淨句義是菩薩句義。四無量四無色定空寂清淨句義是菩薩句義。 『四静慮は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。『四無量四無色定は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。
『四静慮』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『菩薩』という、
『句』の、
『義』である。
『四無量、四無色定』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『菩薩』という、
『句』の、
『義』である。
  四静慮(しじょうりょ):梵語catvaari dhyaanaaniの訳。又四禅とも称す。色界の静慮に四種の別あるの意。謂わゆる
    一に初禅(梵prathama- dhyaana)、有尋有伺(有覚有観)、離生喜楽の地。
    二に第二禅(梵dvitiiya- dhyaana)、無尋無伺(無覚無観)、定生喜楽の地。
    三に第三禅(梵tRtiiya- dhyaana)、無尋無伺(無覚無観)、離喜妙楽の地。
    四に第四禅(梵caturtha- dhyaana)、無尋無伺(無覚無観)、捨念清浄の地。
  四無量(しむりょう):梵語catvaary- apramaaNaaniの訳。四種の無量の意。無量の衆生を縁じ、それをして楽を得、苦を離れしめんと思惟し、各その等至に入るの意。謂わゆる、
    一に慈無量(梵maitry- apramaaNa)、
    二に悲無量(梵karuNa- apramaaNa)、
    三に喜無量(梵mudita- apramaaNa)、
    四に捨無量(梵upekSa- apramaaNa)。
  四無色定(しむしきじょう):梵語catasra- aaruupya- samaapattayaHの訳。四種の無色定の意。謂わゆる、
    一に空無辺処(梵aakaazaanantyaayatana- samaapatti)、
    二に識無辺処(梵vijJaanaanantyaayatana- samaapatti)、
    三に無所有処(梵aakiMcanyaayatana- samaapatti)、
    四に非想非非想処(梵naivasaMjJaanaasaMjJaayatana- samaapatti)。
四念住空寂清淨句義是菩薩句義。四正斷四神足五根五力七等覺支八聖道支空寂清淨句義是菩薩句義。 『四念住は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。『四正断四神足五根五力七等覚支八聖道支は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。
『四念住』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『菩薩』という、
『句』の、
『義』である。
『四正断、四神足、五根、五力、七等覚支、八正道支』は、
『空寂であり!』、
『清浄である!』という、
『句』の、
『義』、
是れが、
『菩薩』という、
『句』の、
『義』である。
  四念住(しねんじゅう):梵語catvaari- smRty- upasthaanaaniの訳。又四念処と訳す。四種の念処の意。謂わゆる、
    一に身念処(梵kaaya- smRty- upasthaana)、
    二に受念処(梵vedanaa- smRty- upasthaana)、
    三に心念処(梵citta- smRty- upasthaana)、
    四に法念処(梵dharma- smRty- upasthaana)。
  四正断(ししょうだん):梵語catvaari-prahaaNaaniの訳。四種の正断の意。即ち悪を遮断し善を生長せしめんが為に方便精勤すること。謂わゆる、
    一に未生悪令不生(梵anutpannaanaaM paapakaanaam akuzalaanaaM dharmaanaam anutpaadaaya cchandaM janayati)、
    二に已生悪令永断(梵utpannaanaaM paapakaanaam akuzalaanaaM dharmaanaaM prahaaNaaya cchandaM janayati)、
    三に未生善令生(梵anutpannaanaaM kuzalaanaaM dharmaanaam utpaadaaya cchandaM janayati)、
    四に已生善令増上(梵utpannaanaaM kuzalaanaaM dharmaaNaaM sthitayebhuuyo- bhaavataayai asaMpramoSaaya paripuuNaaya cchandaM janayati)。
  四神足(しじんそく):梵語catvaara- Rddhi- paadaaHの訳。又四如意足と称す。四種の神足の意。即ち欲等の四法の力に由りて引発せられ、種種の神用を現起する三摩地をいう。謂わゆる
    一に欲三摩地断行成就神足(梵chanda- samaadhi- prahaaNa- saMskaara- samanvaagata- rddhi- paada)、
    二に心三摩地断行成就神足(梵citta- samaadhi- prahaaNa- saMskaara- samanvaagata- rddhi-paada)、
    三に勤三摩地断行成就神足(梵viirya- samaadhi- prahaaNa- saMskaara- samanvaagata- rddhi-paada)、
    四に観三摩地断行成就神足(梵miimaaMsaa- samaadhi- prahaaNa- saMskaara- samanvaagata- rddhi-paada)。
  五根(ごこん):梵語paJca- indriyaaNiの訳。煩悩を伏し聖道を引くに於いて増上の用ある五種の根をいう。謂わゆる、
    一に信根(梵zraddha- indriya)、
    二に進根(梵viirya- indriya)、
    三に念根(梵smRti- indriya)、
    四に定根(梵samaadhi- indriya)、
    五に慧根(梵prajJa- indriya)。
  五力(ごりき):梵語paJca- balaaniの訳。即ち聖道を発生する五種の力用の意。謂わゆる、
    一は信力(梵zraddhaa- bala)、
    二は精進力(梵viirya- bala)、
    三は念力(梵smRti- bala)、
    四に定力(梵samaadhi- bala)、
    五に慧力(梵prajJaa- bala)。
  七等覚支(しちとうがくし):梵語sapta- bodhyaGgaaniの訳。菩提に順趣する七種の法の意。又七覚支、七覚分とも称す。
    一に念覚支(梵smRti- saMbodhyaGga)、
    二に択法覚支(梵dharma- pravicaya- saMbodhyaGga)、
    三に精進覚支(梵viirya- saMbodhyaGga)、
    四に喜覚支(梵priiti- saMbodhyaGga)、
    五に軽安覚支(梵prasrabodhi- saMbodhyaGga)、
    六に定覚支(梵samaadhi- saMbodhyaGga)、
    七に捨覚支(梵upekSaa- saMbodhyaGga)。
  八聖道支(はっしょうどうし):梵語aaryaaSTaaGgika- maargaの訳。八種の正道の意。又八聖道分、八正道とも名づく。即ち涅槃を求趣する道支に八種あるをいう。謂わゆる、
    一に正見(梵samyag-dRSTi)、
    二に正思(梵samyak- saMkalpa)、
    三に正語(梵samyag- vaac)、
    四に正業(梵samyak- karmaanta)、
    五に正命(梵samyag- aajiiva)、
    六に正方便(梵samyag- vyaayaama)、
    七に正念(梵samyak- smRti)、
    八に正定(梵samyak- samaadhi)。
空解脫門空寂清淨句義是菩薩句義。無相無願解脫門空寂清淨句義是菩薩句義。 『空解脱門は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。『無相、無願解脱門は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。
『空解脱門』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『菩薩』という、
『句』の、
『義』である。
『無相解脱門、無願解脱門』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『菩薩』という、
『句』の、
『義』である。
  空解脱門(くうげだつもん):梵語のzuunyataa vimokSa- mukha訳。空を行じて解脱するの意。
  無相解脱門(むそうげだつもん):梵語のanimitta vimokSa- mukha訳。無相を行じて解脱する。
  無願解脱門(むがんげだつもん):梵語のapraNihita vimokSa- mukha訳。無願を行じて解脱する。
  :空解脱門乃至無願解脱門を総称して三解脱門(梵語tiiNi vimokSa- mukhaani)という。
八解脫空寂清淨句義是菩薩句義。八勝處九次第定十遍處空寂清淨句義是菩薩句義。 『八解脱は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。『八勝処九次第定十遍処は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。
『八解脱』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『菩薩』という、
『句』の、
『義』である。
『八勝処、九次第定、十遍処』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『菩薩』という、
『句』の、
『義』である。
  八解脱(はちげだつ):梵語aSTau-vimokSaaHの訳。又八背捨とも名づく。即ち八種の定力に由りて色貪等の心を棄背するをいう。謂わゆる、
    一に内有色想観諸色解脱(梵ruupii ruupaaNi pazyat)、
    二に内無色想観外色解脱(梵adhyaatmam aruupa-saMjJii bahirdhaa ruupaaNi pazyati)、
    三に浄解脱身作証具足住(梵zubhaM vimokSaM kaayena saakSaatkRtvopasaMpadya viharati)、
    四に超諸色想観有対想不思惟種種想入無辺空空無辺処具足住解脱(梵sa sarvazoruupa-saMjJaanaaM samatikranaat pratigha-saMjJaaNaam astaMgamaan naanaatva-saMjJaanaam amanasikaaraad anantamaakaazam ity aakaazaanantyaayatanam upasaMpadya viharati)、
    五に超一切空無辺処入無辺識識無辺処具足住解脱(梵sa sarvaza aakaazaanantyaayatanaM samatikramyaanantaM vijJaanam iti vijJaanaanantyaanatanam upasaMpadya viharati)、
    六に超一切識無辺処入無所有無所有処具足住解脱(梵sa sarvazo vijJaanaanantyaayatanaM samatikramya naasti kiJcid ity aakiJcanyaayatanam upasaMpadya viharati)、
    七に超一切無所有処入非想非非想処具足住解脱(梵sa sarvaza aakciJcanyaayatanaM samatikramya naiivasaMjJaanaasamjJaayaayatanam upasaMpadya viharati)、
    八に超一切非想非非想処入想受滅身作証具足住解脱(梵sa sarvazo naiivasaMjJaanaasaM jJaayatanaM samatikramya saMjJaa- vedita- nirodhaM kaayena saakSaatkRtvopasaMpadya viharati)。
  八勝処(はっしょうじょ):梵語aSTaavabhibhv- aayatanaaniの訳。欲界の色処を観じて、所縁を勝伏し、貪を対治するに八種の別あるをいう。謂わゆる、
    一に内有色想観外色少勝処、
    二に内有色想観外色多勝処、
    三に内無色想観外色少勝処、
    四に内無色想観外色多勝処、
    五に内無色想観外色青勝処、
    六に内無色想観外色黄勝処、
    七に内無色想観外色赤勝処、
    八に内無色想観外色白勝処。
  九次第定(くしだいじょう):梵語navaanupuuva- samaapattayaHの訳。次第に無間に修する九種の定の意。又無間禅、或いは練禅、錬禅とも名づく。謂わゆる、
    一に初禅次第定、
    二に二禅次第定、
    三に三禅次第定、
    四に四禅次第定、
    五に空処次第定、
    六に識処次第定、
    七に無所有処次第定、
    八に非想非非想処次第定、
    九に滅受想次第定。
  十遍処(じっぺんじょ):梵語dazakRtsnaayatanaani、十種の遍処の意。また十一切入、十一切処、十遍入、或は十遍処定とも名づく。即ち勝解作意に依りて色等の十法が、各一切処に周遍して間隙なしと観ずるをいう。謂わゆる、
    一に地遍処(梵pRthivii- kRtsnaayatana)、
    二に水遍処(梵ap- kRtsnaayatana)、
    三に火遍処(梵tejas- kRtsnaayatana)、
    四に風遍処(梵vaayu- kRtsnaayatana)、
    五に青遍処(梵niila- kRtsnaayatana)、
    六に黄遍処(梵piita- kRtsnaayatana)、
    七に赤遍処(梵lohita- kRtsnaayatana)、
    八に白遍処(梵avadaata- kRtsnaayatana)、
    九に空遍処(梵aakaaza- kRtsnaayatana)、
    十に識遍処(梵vijJaana- kRtsnaayatana)。
極喜地空寂清淨句義是菩薩句義。離垢地發光地焰慧地極難勝地現前地遠行地不動地善慧地法雲地空寂清淨句義是菩薩句義。 『極喜地は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。『離垢地発光地焔慧地極難勝地現前地遠行地不動地善慧地法雲地は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。
『極喜地』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『菩薩』という、
『句』の、
『義』である。
『離垢地、発光地、焔慧地、極難勝地、現前地、遠行地、不動地、善慧地、法雲地』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『菩薩』という、
『句』の、
『義』である。
  極喜地(ごくきち):梵語pramuditaa- bhuumiの訳。十地中の初地。
  離垢地(りくち):梵語vimalaa- bhuumiの訳。十地中の第二地。
  発光地(はっこうぢ):梵語prabhaakarii- bhuumiの訳。十地中の第三地。
  焔慧地(えんねち):梵語arciSmatii- bhuumiの訳。十地中の第四地。
  極難勝地(ごくなんしょうち):梵語sudurjayaa- bhuumiの訳。十地中の第五地。
  現前地(げんぜんち):梵語abhimukhii- bhuumiの訳。十地中の第六地。
  遠行地(おんぎょうち):梵語duuraMgama- bhuumiの訳。十地中の第七地。
  不動地(ふどうち):梵語acalaa- bhuumiの訳。十地中の第八地。
  善慧地(ぜんねち):梵語saadhumatii- bhuumiの訳。十地中の第九地。
  法雲地(ほううんち):梵語dharma- meghaa- bhuumiの訳。十地中の第十地。
  :極喜地乃至法雲地は通常極喜地等の十地(梵語daza-bhuumayaH)と称し、菩薩の位階に十地あることを示す。
淨觀地空寂清淨句義是菩薩句義。種性地第八地具見地薄地離欲地已辦地獨覺地菩薩地如來地空寂清淨句義是菩薩句義。 『浄観地は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。『種性地第八地具見地薄地離欲地已辦地独覚地菩薩地如来地は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。
『浄観地』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『菩薩』という、
『句』の、
『義』である。
『種性地、第八地、具見地、薄地、離欲地、已辦地、独覚地、菩薩地、如来地』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『菩薩』という、
『句』の、
『義』である。
  浄観地(じょうかんち):梵語zukla- vidarzanaa- bhuumiの訳。又乾慧地と称す。十地中の初地。
  種性地(しゅしょうち):梵語gotra- bhuumiの訳。又性地と称す。十地中の第二地。
  第八地(だいはちち):梵語aSTamaka- bhuumiの訳。又八人地と称す。十地中の第三地。
  具見地(ぐけんち):梵語darzana- bhuumiの訳。又見地と称す。十地中の第四地。
  薄地(はくち):梵語tanuu- bhuumiの訳。十地中の第五地。
  離欲地(りよくち):梵語viita- raaga- bhuumiの訳。十地中の第六地。
  已辦地(いべんち):梵語kRtaavii- bhuumiの訳。又已作地と称す。十地中の第七地。
  独覚地(どくかくち):梵語pratyeka- buddha- bhuumiの訳。又辟支仏地と称す。十地中の第八地。
  菩薩地(ぼさつち):梵語bodhi- sattva- bhuumiの訳。十地中の第九地。
  如来地(にょらいち):梵語buddha- bhuumiの訳。又仏地とも称す。十地中の第十地。
  :浄観地乃至如来地を三乗共十地と称し、菩薩の位階に十種の別あることを示す。
一切陀羅尼門空寂清淨句義是菩薩句義。 『一切の陀羅尼門は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。
一切の、
『陀羅尼の門』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『菩薩』という、
『句』の、
『義』である。
  陀羅尼門(だらにもん):梵語dhaaraNii- mukha。陀羅尼は総持と訳し、種種の不忘失法の義。
一切三摩地門空寂清淨句義是菩薩句義。 『一切の三摩地門は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。
一切の、
『三摩地の門』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『菩薩』という、
『句』の、
『義』である。
  三摩地門(さんまじもん):梵語samaadhi- mukha。又三昧門と称す。種種の禅定の意。
五眼空寂清淨句義是菩薩句義。 『五眼は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。
『五眼』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『菩薩』という、
『句』の、
『義』である。
  五眼(ごげん):梵語paJca cakSuuMSiの訳。五種の眼力ををいう。即ち、
    一に肉眼(梵maaMsa- cakSus)、肉身所有の眼。
    二に天眼(梵divya- cakSus)、色界天人所有の眼。
    三に慧眼(梵prajJaa- cakSus)、二乗の人所有の眼。
    四に法眼(梵charma- cakSus)、菩薩所有の眼。
    五に仏眼(梵buddha- cakSus)、唯仏のみ前四眼を具備する。
六神通空寂清淨句義是菩薩句義。 『六神通は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。
『六神通』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『菩薩』という、
『句』の、
『義』である。
  六神通(ろくじんづう):梵語SaD abhijJaaHの訳。略して六通とも名づく。仏菩薩の定慧力に依りて示現する六種の無礙自在の妙用をいう。即ち、
    一に神足通(梵Rddhy- abhijJaa)、
    二に天眼通(梵divya- cakSur- abhijJaa)、
    三に天耳通(梵divya- srotra- abhijJaa)、
    四に他心通(梵cetaH- paryaaya- abhijJaa)、
    五に宿住通(梵puurva- nivaasaanusmRti- abhijJaa)、
    六に漏尽通(梵aasrava- kSaya- abhijJaa)。
如來十力空寂清淨句義是菩薩句義。四無所畏四無礙解大慈大悲大喜大捨十八佛不共法空寂清淨句義是菩薩句義。三十二相空寂清淨句義是菩薩句義。八十隨好空寂清淨句義是菩薩句義。 『如来の十力は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。『四無所畏四無礙解大慈大悲大喜大捨十八仏不共法は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。『三十二相は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。『八十随好は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。
『如来』の、
『十力』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『菩薩』という、
『句』の、
『義』である。
『四無所畏、四無礙解、大慈、大悲、大喜、大捨、十八不共法』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『菩薩』という、
『句』の、
『義』である。
『三十二相』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『菩薩』という、
『句』の、
『義』である。
『八十随好』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『菩薩』という、
『句』の、
『義』である。
  十力(じゅうりき):梵語daza- tathaagata- blaani、仏のみ成就する十種の智力をいう。謂わゆる、
    一に処非処智力(梵語sthaanaasthaana- jJaana- bala)、
    二に業異熟智力(梵語karma- vipaaka- jJaana- bala)、
    三に静慮解脱等持等至智力(梵語sarva- dhyaana- vimokSa- samaadhi- samaapatti- saMkleza- vyavadaana- vyutthaana- jJaana- bala)、
    四に根上下智力(梵語indriya- paraapara- jJaana- bala)、
    五に種種勝解智力(梵語naanaadhimukti- jJaana- bala)、
    六に種種界智力(梵語naanaa- dhaatu- jJaana- bala)、
    七に徧趣行智力(梵語sarvatra- gaaminii- pratipaj- jJaana- bala)、
    八に宿住随念智力(梵語puurva- nivaasiinusmRti- jJaana- bala)、
    九に死生智力(梵語cyuty- utpatti- jJaana- bala)、
    十に漏尽智力(梵語aasrava- kSaya- jJaana- bala)。
  四無所畏(しむしょい):梵catvaari- tathaagatasya vaizaaradyaaniの訳。仏は四種の無所畏有るが故に説法に当りて勇猛安穏なることをいう。謂わゆる、
    一に諸法現等覚無畏(梵sarva- dharamaabhisaMbodhi- vaizaaradya)、
    二に一切漏尽智無畏(梵sarvaasrava- kSaya- jJaana- vaizaaradya)、
    三に障法不虚決定授記無畏(梵antaraayika- dharmaananyathaatva- nizcita- vyaakaraNa- vaizaaradya)、
    四に為証一切具足出道如性無畏(梵sarva- saMpad- adhigamaaya- nairyaaNika- pratipat- tataatva- vaizaaradya)。
  四無礙解(しむげげ):梵語catasraH- pratisaMvidaHの訳。四種の無礙自在なる解智をいう。謂わゆる、
    一に法無礙解(梵dharma- pratisaMvid)、事物の意味を示す為の文章、乃至経書に於いて無礙である。
    二に義無解礙(梵arthaー pratisaMvid)、法に由って示さるる意味に於いて無礙である。
    三に詞無解礙(梵niruktiー pratisaMvid)、単語、術語、言葉の理解に於いて無礙である。
    四に楽説無解礙(梵pratibhaanaー pratisaMvid)、雄弁に説得するに於いて無礙である。
  十八仏不共法(じゅうはちぶつふぐうほう):梵語aSTadazaaveNikaa- buddha- dharumaaHの訳。又十八不共法と訳す。仏のみ有し他の声聞等と共にせざる十八種の智力をいう。謂わゆる、
    一に諸仏身無失(梵naasti tathaagatasya skhalitaM)、
    二に口無失(梵naasti ravitaM)、
    三に念無失(梵naasti muSita- smRtitaa)、
    四に無異想(梵naasti naanaatva- saMjJaa)、
    五に無不定心(梵naasty a- samaahita- citaM)、
    六に無不知己捨心(梵naasy a- pratisaMkhyaayoopeksaa)、
    七に欲無減(梵naasti chandasya haaniH)、
    八に精進無減(梵naasti viiryasya haaniH)、
    九に念無減(梵naasti smRter haaniH)、
    十に慧無減(梵naasti prajJaayaa haanniH)、
    十一に解脱無減(梵naasti vimukterhaaniH)、
    十二に解脱知見無減(梵naasti vimukti- jJaana- darzana- parihaaniH)、
    十三に一切身業随智慧行(梵sarva- kaaya- karma jJaana- purvaMgamaM jJaanaanuparivarti)、
    十四に一切口業随智慧行(梵sarava- vaak- karma jJaana- purvaMgamaM jJaanaanuparivarti)、
    十五に一切意業随智慧行(梵sarva- manas- karma jJaana- purvaMgamaM jJaanaanuparivarti)、
    十六に智慧知見過去世無礙無障(梵atiite'dhvany asaNgam apratihataM jJaana-darzanaM pravartate)、
    十七に智慧知見未来世無礙無障(梵anaagate'dhvany asaNgam apratihataM jJaana-darzanaM pravartate)、
    十八に智慧知見現在世無礙無障(梵pratyutpanne'dhvany asaNgam apratihataM jJaana-darzanaM pravartate)。
    三十二相(さんじゅうにそう):梵語dvaatriMzan- mahaa- puruSa- lakSaNaaniの訳。仏及び転輪聖王の身に具足せる三十二種の微妙の相をいう。
    八十随好(はちじゅうずいこう):三十二相に随う八十種の好相をいう。
無忘失法空寂清淨句義是菩薩句義。 『無忘失の法は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。
『無忘失』の、
『法』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『菩薩』という、
『句』の、
『義』である。
  無忘失法(むもうしつほう):忘失せざる法。
恒住捨性空寂清淨句義是菩薩句義。 『恒住する捨性は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。
『恒住』の、
『捨性』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『菩薩』という、
『句』の、
『義』である。
  恒住捨性(ごうじゅうしゃしょう):恒に住する捨性。捨は梵語upekSaの訳。平静、または無関心の義。心をして平等正直ならしめ、寂静に住せしむる精神作用。
一切智空寂清淨句義。是菩薩句義。道相智一切相智空寂清淨句義是菩薩句義。 『一切智は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。『道相智一切相智は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。
『一切智』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『菩薩』という、
『句』の、
『義』である。
『道相智、一切相智』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『菩薩』という、
『句』の、
『義』である。
  一切智(いっさいち):梵語sarva- jJataaの訳。又sarva- jJaa、或はsarva- jJaanaと訳す。内外一切の法相を知る智。
  道相智(どうそうち):また道種智ともいう。種種の道の相を知る智。
  一切相智(いっさいそうち):梵語sarvathaa- jJaanaの訳。また一切種智と訳す。一切法の寂滅相及び行類差別に了達する仏所得の智をいう。
一切菩薩摩訶薩行空寂清淨句義是菩薩句義。 『一切の菩薩摩訶薩の行は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。
一切の、
『菩薩摩訶薩』の、
『行』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『菩薩』という、
『句』の、
『義』である。
諸佛無上正等菩提空寂清淨句義是菩薩句義。 『諸仏の無上正等菩提は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。
諸の、
『仏』の、
『無上正等菩提』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『菩薩』という、
『句』の、
『義』である。
  無上正等菩提(むじょうしょうとうぼだい):梵語阿耨多羅三藐三菩提anuttara- samyaku- saMbodhiの訳。仏のみ受くる満足の境地。
一切異生法空寂清淨句義是菩薩句義。一切預流一來不還阿羅漢獨覺菩薩如來法空寂清淨句義是菩薩句義。 『一切の異生の法は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。『一切の預流一来不還阿羅漢独覚菩薩如来の法は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。
一切の、
『異生(凡夫)』の、
『法(存在する事物)』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『菩薩』という、
『句』の、
『義』である。
一切の、
『預流、一来、不還、阿羅漢、独覚、菩薩、如来』の、
『法』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『菩薩』という、
『句』の、
『義』である。
  異生(いしょう):梵語pRthag- janaの訳。又凡夫と訳す。凡夫は六道を輪迴して、種種の別異の果報の生を受けて邪見、造悪するが故に異生という。
  預流(よる):梵語須陀洹srota- aapannaの訳。聖者中の初位。
  一来(いちらい):梵語斯陀含sakRdaagaaminの訳。聖者中の第二位。
  不還(ふげん):梵語阿那含anaagaaminの訳。聖者中の第三位。
  阿羅漢(あらかん):梵語arhatの訳。聖者中の頂位。
  独覚(どくかく):梵語辟支仏pratyeka- buddhaの訳。仏菩薩に依らず自ら覚る者。
  菩薩(ぼさつ):梵語菩提薩埵bodhi- sattvaの略。阿耨多羅三藐三菩提を求める衆生。
  如来(にょらい):梵語梵語多陀阿伽陀tathaagataの訳。如去とも訳す。如実に来至せし者、又如実より到来せし者、或いは如く来たりし者の意。仏の十号の一。
一切善非善法空寂清淨句義是菩薩句義。一切有記無記法有漏無漏有為無為法世間出世間法空寂清淨句義是菩薩句義。 『一切の善、非善の法は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。『一切の有記無記の法、有漏無漏有為無為の法、世間出世間の法は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。
一切の、
『善、非善』の、
『法』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『菩薩』という、
『句』の、
『義』である。
一切の、
『有記、無記の法』、
『有漏、無漏、有為、無為の法』、
『世間、出世間の法』は、
『空寂である!』という、
『清浄な!』、
『句』の、
『義』、
是れが、
『菩薩』という、
『句』の、
『義』である。
  (ぜん):梵語kuzalaの訳。其の性安隠にして此世及び他世を順益すべき白浄の法をいう。
  非善(ひぜん):梵語akuzalaの訳。善ならざるの意。悪に同じ。其の性不安隠にして、能く此世及び他世の違損をなす黒悪の法をいう。
  有記(うき):梵語vyaakRtaの訳。其の性の善又は不善なる法をいう。
  無記(むき):梵語avyaakRtaの訳。其の性の善又は不善を記別すべからざる法をいう。
  有漏(うろ):梵語aasrabaHの訳。無漏に対す。漏は漏泄の意、又煩悩の異名。貪、瞋等の煩悩の日夜眼耳等の六根門より不善を漏泄するが故に称して漏と為す。
  無漏(むろ):梵語anaasrabaHの訳。有漏に対す。煩悩なき法なることをいう。
  有為(うい):梵語saMskRtaの訳。無為に対す。拵えられたるものの義。即ち因縁所成の現象の諸法をいう。
  無為(むい):梵語asaMskRtaの訳。為(梵saMskRta)は造作の義にして、因縁の造作無きことを無為といい、また生住異滅の四相の造作無きことを無為という。乃ち真如、法性、法界、実相等を指す。真理の異名。
  世間(せけん):梵語lokaの訳。毀壊すべきものの意。毀壊すべく、対治せらるべき有為有漏の現象。
  出世間(しゅっせけん):梵語 lokottaraの訳。世間を超出するの意。世間に対す。有漏の繋縛を出離せる無漏解脱の法をいう。
  :善非善無記を総称して三性という。
  :以上苦聖諦、集滅道聖諦、因縁、等無間縁所縁縁増上縁、無明、行識名色六処愛取有生老死、布施波羅蜜多、浄戒安忍精進静慮般若波羅蜜多、真如、法界法性不虚妄性不変異性平等性離生性法定法住実際虚空界不思議界、四静慮、四無量四無色定、四念住、四正断四神足五根五力七等覚支八聖道支、空解脱門、無相無願解脱門、八解脱、八勝処九次第定十遍処、極喜地、離垢地発光地焔慧地極難勝地現前地遠行地不動地善慧地法雲地、浄観地、種性地第八地具見地薄地離欲地已辦地独覚地菩薩地如来地、一切陀羅尼門、一切三摩地門、五眼、六神通、如来十力、四無所畏四無礙解大慈大悲大喜大捨十八不共法、三十二相、八十随好、無亡失法、恒住捨性、一切智、道相智一切相智、一切菩薩摩訶薩行、諸仏無上正等覚、一切異生法、一切預流一来不還阿羅漢独覚菩薩如来法、一切善非善、一切有記無記法有記無記法有漏無漏法有為無為法世間出世間法に関する菩薩行、及び行果に就き、40清浄句義文を以って、菩薩心に於いて、是れ等の法は空寂しており、敢て戯論を用いざることを説けり。
所以者何。以一切法自性空故自性遠離。由遠離故自性寂靜。由寂靜故自性清淨。由清淨故甚深般若波羅蜜多最勝清淨。如是般若波羅蜜多。當知即是菩薩句義。諸菩薩眾皆應修學。 所以(ゆえ)は何んとなれば、一切法の自性空なるを以っての故に、自性を遠離す。遠離に由るが故に、自性寂静たり。寂静に由るが故に、自性清浄なり。清浄に由るが故に甚深般若波羅蜜多は最勝清浄なり。是の如き般若波羅蜜多は、当に知るべし、即ち是れ菩薩の句義なり。諸の菩薩衆は、皆、応に修学すべし、と。
何故ならば、
一切の、
『法』は、            ――一切法は、自性が空である――
『自性』の、
『空である!』ことを以って、
故に、
『自性』を、        ――故に菩薩は、心に法の自性を遠離する――
『遠離する!』、からであり、
『遠離する!』が故に、    ――遠離するが故に、心中の法の自性は寂静する――
『自性』は、
『寂静であり!』、
『寂静である!』が故に、――寂静するが故に、菩薩心中の法の自性は清浄である――
『自性』は、
『清浄である!』。
一切の、
『法』は、    ――心中に法未だ生起せざれば、菩薩心は本より自性清浄である――
『自性』が、
『清浄である!』が故に、
『甚深』の、
『般若波羅蜜多』は、  ――一切を清浄にする般若波羅蜜多は最も清浄である――
『最勝であり!』、
『清浄である!』。
是のような、
『般若波羅蜜多』とは、
当然、
こう知るべきである、――
是れが、
『菩薩』という、
『句』の、
『義』である!と。
是のように、
諸の、
『菩薩衆』は、
『修学すべき!』である、と。
  :菩薩は一切法の自性空なることを知るが故に戯論せず。故に法の自性は未だ生起せず。生起せざるが故に寂静である。寂静であるが故に一切法は自性清浄である。一切法が自性清浄ならば、故に菩薩心も清浄である。菩薩心が清浄であるが故に、菩薩をして是の如く行ぜしむる所の智慧、即ち般若波羅蜜は最勝清浄である。
  :吾人が諍論するとき、その対象となるべき法は、一切皆、吾人の心に投じられたる名と色とであり、言わば幻の如き、影の如きものに過ぎず、そこに実法は一も存在しない。また一方一切の法は、それ自体既に因縁所生の存在であるが故に、自由に非ず、自在に非ず、皆自ら存するに非ず、受くる所の因縁に応じて常に変化すべくして、その自性は謂わゆる空なのである。ここを知るとき、吾人の心は諍論息みて寂静せざるべからず。故に即ち仏の説く所の一切平等、因果応報の理を浄信することができ、積集する所の善業の因縁の故に煩悩の束縛より解脱する。
佛說如是菩薩句義般若理趣清淨法已。告金剛手菩薩等言。若有得聞此一切法甚深微妙般若理趣清淨法門深信受者。乃至當坐妙菩提座。一切障蓋皆不能染。謂煩惱障業障報障。雖多積集而不能染。雖造種種極重惡業而易消滅不墮惡趣。若能受持日日讀誦精勤無間如理思惟。彼於此生定得一切法平等性金剛等持。於一切法皆得自在。恒受一切勝妙喜樂。當經十六大菩薩生。定得如來執金剛性。疾證無上正等菩提 仏は是の如き菩薩の句義、般若の理趣の清浄の法を説き已りて、金剛手菩薩等に告げて言わく、『若し此の一切法の甚深微妙なる般若理趣の清浄法門を聞くを得て、深く信受すること有らば、乃至当に妙菩提座に坐すべく、一切の障蓋は、皆染する能わざらん。謂わゆる煩悩障、業障、報障、多く積集すと雖も、染する能わず。種種の極重の悪業を造ると雖も、易(たやす)く消滅して、悪趣に堕ちざらん。若し能く受持して日日読誦し、精勤無間にして、理の如く思惟せば、彼れは此の生に於いて、一切法の平等性、金剛の等持を得て、一切法に於いて、皆、自在を得、恒に一切の勝妙なる喜楽を受け、当に十六大菩薩の生を経て、定んで如来の執金剛性を得、疾かに無上正等菩提を証せん。
『仏』は、
是のような、
『菩薩』という!、
『句』の、
『義』は、
則ち、
『般若の理趣(智慧の道)』であり!、
『清浄の法門(菩提の門)』である!と、
『説かれて!』、
『金剛手菩薩』等に告げて、
こう言われた、――
若し、
此の、
一切の、
『法』は、
『甚深微妙』な、
『般若の理趣』であり!、
『清浄の法門』である!と、
『聞く!』ことができ、
而も、
『深く!』、
『信受する!』ならば、
その時より、
『妙菩提(成仏)』の、
『座』に、
『至る!』まで、
一切の、
『障蓋(煩悩等)』は、
『心』を、
『汚染する!』ことが、
『できない!』。
謂わゆる、
『煩悩障、業障、報障』が、
『多く!』、
『積集していた!』としても、
『汚染する!』ことが、
『できない!』ので、
種種の、
『極重』の、
『悪業』を、
『造った!』としても、
『易(たやす)く!』、
『生滅』して、
『悪趣』に、
『堕ちることはない!』のである。
若し、
此の、
『法門』を、
『受持する!』ことができ、
『日日、読誦』して、
『精勤、無間』であり、
『理』に、
『随って!』、
『思惟する!』ならば、
彼れは、
此の、
『生』に於いて、
定めて、
一切の、
『法』の、
『平等性』という、
『金剛のよう!』な、
『等持(境地)』を、
『得る!』ことができ、
一切の、
『法』に於いて、
皆、
『自在』を、
『得る!』ので、
恒に、
一切の、
『勝妙』な、
『喜楽』を、
『受ける!』ことになり、
『未来』には、
『十六』の、
『大菩薩』の、
『生』を、
『経た!』のちに、
定んで、
『如来』の、
『執金剛』の、
『性』を、
『得て!』、
疾かに、
『無上正等菩提(阿耨多羅三藐三菩提)』を、
『証する(自覚する)!』だろう、と。
  障蓋(しょうがい):心に蓋(フタ)をして菩提を求むるに障礙となるもの。
  煩悩障(ぼんのうしょう):梵語kleza- avaraNaの訳。衆生の本性たる貪瞋癡等の煩悩。
  業障(ごうしょう):梵語karma- avaraNaの訳。父母阿羅漢を殺す等の五種の無間業。
  報障(ほうしょう):梵語vipaaka- avaraNaの訳。地獄餓鬼畜生等覚り難き生を受くること。
  精勤無間(しょうごんむげん):怠らず精進に勤めること。無間は暇なきことの意。
  悪趣(あくしゅ):地獄、餓鬼、畜生の総称。
  等持(とうじ):梵語三摩地samaadhiの訳。又三昧に作り、正定と訳す。心の一境に住して動ぜざる状態。
  十六大菩薩(じゅうろくだいぼさつ):大菩薩は特定の菩薩を指すに非ず、但だ十六反大菩薩としての生を受くるをいうのみ。
  執金剛性(しゅうこんごうしょう):煩悩を摧く金剛(梵語vajra、武器の一種)を手に持つ性。即ち菩提心の譬喩。
  :煩悩障業障報障を総称して三障という。
  :菩薩の心地に於いて、一切の法は自性空なり、故に空中には彼我、彼此、男女等の相なし、故に一切法の性は平等なり、故に一切の法に能作、所作の別なく、即ち所作なきが故に一切の法に於いて、菩薩は自在なりと説く。



3.性平等現等覚門

爾時世尊復依遍照如來之相。為諸菩薩宣說般若波羅蜜多一切如來寂靜法性甚深理趣現等覺門。 爾の時、世尊は復た、遍く照す如来の相に依りて、諸の菩薩の為に宣説したまわく、『般若波羅蜜多は、一切如来の寂静法性なる、甚深理趣、現等覚門なり。
爾の時、
『世尊』は、
復た、
『世間』を、
『遍く照す!』、
『如来の相』に依り、
諸の、
『菩薩』の為に、
こう宣説された、――
『般若波羅蜜多』は、
一切の、
『如来』は、
『寂静』の、
『法性』である!という、
『甚深の理趣(仏の道)』であり!、
『現等覚の門(菩提の門)』である!。
  寂静法性(じゃくじょうほっしょう):梵語zaanta- dharmataaの訳。寂静たる法の本性の義。一切法の空平等に住持するが故に心寂静せる仏の性をいう。
  現等覚(げんとうがく):梵語abhisaMbodhi- nirhaaraHの訳。等覚、即ち仏に等しき覚りを世間に現すの意。即ち如来の楽説をいう。
  宣説(せんぜつ):遍く説く。
  :「述讃」には、「寂静法性現等覚門」と標し、「即ち是れ闇を除き、観照に於いて正智の境体を顕す。真如は是れ性なり、正智は是れ相なり。説に前後有れば、下は皆準じて知り、次の二段にて行境を明かす」と略讃する。
  :如来の相に依るとは、蓋し如来所有の功徳は甚だ多し。今、其の中の一義を以って、以下の事を明かすの意か。
謂金剛平等性現等覺門。以大菩提堅實難壞如金剛故。 謂わゆる金剛の平等性は現等覚の門なり、大菩提の堅実にして難壊なること金剛の如きを以っての故に。
その意味は、――
『金剛(菩提心)』の、
『平等性』は、
『現等覚の門』である!、
『大菩提』は、
『堅実、難壊』であり!、
『金剛のよう!』であるが故に。
  金剛(こんごう):梵語vajraの訳。雷電の義。山を打ち砕くに由り、最勝堅固なる菩提心の譬喩。
  平等性(びょうどうしょう):梵語samataaの訳。平等の性。同一の性。
  大菩提(だいぼだい):梵語mahaa- bodhi- cittaの訳。大菩提心。仏に等しき大菩提を求める心が堅実であることを、金剛に喩える。
  :金剛の如き菩提心は堅実不壊なり、即ち菩薩は世世、生を替え、人を易うと雖も、菩提心は平等の一性にして、金剛の如く堅実不壊なることをいう。
義平等性現等覺門。以大菩提其義一故。 義の平等性は現等覚の門なり、大菩提は、其の義一なるを以っての故に。
『義(法、即ち経論等の意味)』の、
『平等性』は、
『現等覚の門』である!、
『大菩提』の、
『義』は、
『一』である!が故に。
  義平等性(ぎびょうどうしょう):梵語artha- samataaの訳。梵語arthaは目的、意味の義。「大智度論巻25」に依れば、「義artha」とは名字語言を用いて説く所の事であり、各各の諸法の相である。謂わゆる堅相とは、此の中に「地は堅相である」と言えば、是れを義とし、「地」という名字を「法」となすという。即ち語言、乃至経論を以って説かるる所の事を義となすも、謂わゆる諸法の性、体、相の、凡そ是れ等の者は皆義にして、義に非ざるものなし。
  :大菩提は仏の境地なるも、仏の体性は大慈悲に他ならず、故に大菩提の義は大慈悲の一を以ってす。即ち大菩提なる大慈悲は、一切の衆生に於いて等一なることを云う。
法平等性現等覺門。以大菩提自性淨故。 法の平等性は現等覚の門なり、大菩提は、自性浄なるを以っての故に。
『法(文章、乃至経論)』の、
『平等性』は、
『現等覚の門』である!、
『大菩提』の、
『自性』は、
『清浄である!』が故に。
  法平等性(ほうびょうどうしょう):梵語dharma- samataaの訳。此の中に就き、「法dharma」は「保持」の義なるdhRより転化せし名詞なるが故に、自相を保持して改変せざるものの義を有するに至れるも、その意となす所の者は、「大智度論巻22」に依れば、二種あり、一には仏の演説せる所の三蔵、十二部経、八万四千の法聚なり、二には聖道、及び解脱果、涅槃等なりとし、又「大智度論巻25」に依れば、「義artha」を以って、「名字、語言を用いて説く所の事にして、各各は諸法の相なり。謂わゆる堅相なれば、此の中に地の堅相なるは、是れ義なり。地の名字は、是れ法なり。言語を以って地を説く、是れ辞なり。」と為す。此れに由って、即ち文章、乃び其れを以って語られたる所の経論等を法となし、その指す所の意味を義となすものと知る。
  :仏の教は、謂わゆる三蔵、十二部経、八万四千の法聚中に在りて、而も法は種種に異なり。然れど大菩提の自性は清浄の大慈悲に他ならず、故に種種の経説は皆平等、等一にして、一切の衆生を視ること、父母の児子を視るが如くなるを云う。
一切法平等性現等覺門。以大菩提於一切法無分別故。 一切法の平等性は現等覚の門なり、大菩提は一切法に於いて分別無きを以っての故に、と。
一切の、
『法』の、
『平等性』は、
『現等覚の門』である!、
一切の、
『法』に於いて、
『分別』して、
『大菩提』は、
『無い!』が故に。
  一切法平等性(いっさいほうびょうどうしょう):梵語sarva- dharma- samataaの訳。一切法sarva- dharmaとは、「大智度論巻27」に、「復た一切法有り、謂わゆる名色なり」と云うに依れば、心中に投じられたる所の影にして、一切の内外の境、即ち六根、六境、六識、及び前の一切法清浄句義門に説く善不善、有為無為、有漏無漏等の一切の法を云が、今は四無礙智中の義、法に続く辞、即ち単語、乃至術語、及び言葉を指すものと為す。
  :金剛、義、法、一切法を以って、四無礙智の楽説、義、法、辞に当てる。即ち仏の説法については、楽説無礙、義無礙、法無礙、辞無礙の四分を以って全分と為し、菩薩心の平等に関しては、菩提心、義、法、一切法を以って全分と為す。
佛說如是寂靜法性般若理趣現等覺已。告金剛手菩薩等言。若有得聞如是四種般若理趣現等覺門。信解受持讀誦修習。乃至當坐妙菩提座。雖造一切極重惡業。而能超越一切惡趣。疾證無上正等菩提。 仏は、是の如き寂静の法性なる般若の理趣、現等覚を説き已り、金剛手菩薩等に告げて言わく、『若し是の如き四種の般若の理趣、現等覚の門を聞くを得て、信解、受持、読誦、修習すること有らば、乃至当に妙菩提の座に坐すときまで、一切の極重の悪業を造ると雖も、能く一切の悪趣を超越して、疾かに無上正等菩提を証すべし。
『仏』は、
是のような、
『寂静の法性』は、
『般若の理趣』であり、
『現等覚の門』である!と説かれる!と、
『金剛手菩薩』等に告げて、
こう言われた、――
若し、
是のような、
『四種(金剛心、義、法、一切法)』は、
『般若の理趣(智慧の道)』であり!、
『現等覚の門(成仏の門)』である!と、
『聞く!』ことができ、
『信解、受持、読誦、修習』する!ならば、
乃至、
『妙菩提(阿耨多羅三藐三菩提)』の、
『座』に、
『坐す!』まで、
一切の、
『極重』の、
『悪業』を、
『造っていた!』としても、
一切の、
『悪趣』を、
『超越する!』ことができ、
疾かに、
『無上正等菩提』を、
『証する!』だろう、と。
  :蓋し菩薩は一個人に非ず、六波羅蜜の行時を以って菩薩と名づくるが故に、菩薩には過去の業も、業報も無きことを説く。



4.無戯論普勝法門

爾時世尊復依調伏一切惡法釋迦牟尼如來之相。為諸菩薩宣說般若波羅蜜多攝受一切法平等性甚深理趣普勝法門。 爾の時、世尊は、復た一切の悪法を調伏する釈迦牟尼如来の相に依って、諸の菩薩の為に宣説したまわく、『般若波羅蜜多は、一切法を摂受する平等性の甚深理趣、普勝法門なり。
爾の時、
『世尊』は、
復た、
一切の、
『悪法』を、
『調伏する!』、
『釈迦牟尼如来の相』に依り、
諸の、
『菩薩』の為に、
こう宣説された、――
『般若波羅蜜多』は、
一切の、
『法』を、
『摂受する!』、
『平等性』という!、
『甚深の理趣』であり!、
『普勝の法門』である!。
  悪法(あくほう):梵語nirguNa- dharma?の訳。無徳の法の義。即ち戯論を指す。
  調伏(ちょうぶく):梵語vijaya- saMgraahaの訳。調和制伏。屈伏して摂取するの義。
  釈迦牟尼如来(しゃかむににょらい):梵語zaakya- muni tathaagataの訳。吾人の善く知る所。
  摂受一切法平等性(しょうじゅいっさいほうびょうどうしょう):梵語sarvadharma- samataa- upasaMhaara?の訳。一切法の平等性に帰結するの義。
  普勝(ふしょう):梵語vijetR?の訳。勝利者、征服者の義。
  :「述讃」には、「調伏衆悪普勝法門」と標し、「実相を観ずるに由りて能く衆悪を伏す」と略讃する。
謂貪欲性無戲論故瞋恚性亦無戲論。 謂わゆる貪欲性は、無戯論なるが故に、瞋恚性も亦た無戯論なり。
その意味は、――
一切の、
『法』は、
『平等』の、
『性である!』と、
『知る!』が故に、    ――即ち、般若波羅蜜を以っての故に――
『貪欲』の、
『性』は、
『無戯論であり!』、
故に、
『瞋恚』の、
『性』も亦た、
『無戯論である!』。
  貪欲(とんよく):梵語lobha或いはraagaの訳。三毒の一。
  瞋恚(しんに):梵語pratigha或いはdveSaの訳。三毒の一。
  無戯論(むけろん):梵語aprapaJcaの訳。梵語prapaJcaは戯論と訳す、冗長な、或いは滑稽な対話の義。甲乙是非を論じて、互いに相譲らざれば、即ち此の論議は無益、有害なるのみ、即ち是れ戯論なり。
  :貪欲、瞋恚、愚癡を三毒と総称し、一切の煩悩の根本と為す。我れに利益する者有れば貪欲を生じ、我れに違逆する者有れば瞋恚を生じ、、此の結使は智より生ぜず、狂惑より生ずれば、故に是れを癡と名づく。
瞋恚性無戲論故愚癡性亦無戲論。 瞋恚性は、無戯論なるが故に、愚癡性も亦た無戯論なり。
『瞋恚』の、
『性』は、
『無戯論である!』が故に、
『愚癡()』の、
『性』も亦た、
『無戯論である!』。
  愚癡(ぐちしょう):梵語muuDha、或いはmohaの訳。三毒の一。
  :貪欲の者が求めて得られなければ、瞋恚を生ずるが、貪欲も瞋恚も倶に愚癡より生ずるをいう。
愚癡性無戲論故猶預性亦無戲論。 愚癡性は、無戯論なるが故に、猶豫性も亦た無戯論なり。
『愚癡』の、
『性』は、
『無戯論である!』が故に、
『猶豫(不決断)』の、
『性』も亦た、
『無戯論である!』。
  猶豫(ゆうよ):梵語kathaM- kathaa?、又はsaMzaya?の訳。懐疑の義。不決断の意。即ち正道を前にしても信じず、ぐずぐず迷って決断しないことをいう。
猶豫性無戲論故諸見性亦無戲論。 猶豫性は、無戯論なるが故に、諸見性も亦た無戯論なり。
『猶豫』の、
『性』は、
『無戯論である!』が故に、
『諸見』の、
『性』も亦た、
『無戯論である!』。
  諸見(しょけん):梵語dRSTayaHの訳。物の有無等に関する種種の邪見をいう。
諸見性無戲論故憍慢性亦無戲論。 諸見性は、無戯論なるが故に、憍慢性も亦た無戯論なり。
『諸見』の、
『性』は、
『無戯論である!』が故に、
『憍慢』の、
『性』も亦た、
『無戯論である!』。
  憍慢(きょうまん):梵語adhi- maanaの訳。自ら高ぶり他を下げすむ心状。
憍慢性無戲論故諸纏性亦無戲論。 憍慢性は、無戯論なるが故に、諸纏性も亦た無戯論なり。
『憍慢』の、
『性』は、
『無戯論である!』が故に、
『諸纏()』の、
『性』も亦た、
『無戯論である!』。
  諸纏(しょてん):梵語paryavasthānaaniの訳。心を纏縛して善を修めるを妨げるもの。煩悩の異名。
諸纏性無戲論故煩惱垢性亦無戲論。 諸纏性は、無戯論なるが故に、煩悩垢性も亦た無戯論なり。
『諸纏』の、
『性』は、
『無戯論である!』が故に、
『煩悩垢()』の、
『性』も亦た、
『無戯論である!』。
  煩悩垢(ぼんのうく):梵語kleza- malaの訳。煩悩は心を汚染すること垢の如くなるをいう。
煩惱垢性無戲論故諸惡業性亦無戲論。 煩悩垢性は、無戯論なるが故に、諸悪業性も亦た無戯論なり。
『煩悩垢』の、
『性』は、
『無戯論である!』が故に、
諸の、
『悪業』の、
『性』も亦た、
『無戯論である!』。
  諸悪業(しょあくごう):梵語akzala- karmaaNiの訳。殺、盗等の不善にして罪報ある行為。
諸惡業性無戲論故諸果報性亦無戲論。 諸悪業性は、無戯論なるが故に、諸果報性も亦た無戯論なり。
諸の、
『悪業』の、
『性』は、
『無戯論である!』が故に、
諸の、
『果報』の、
『性』も亦た、
『無戯論である!』。
  諸果報(しょかほう):梵語vipaaka- phalaaniの訳。善悪の業に因って得る所の罪福の果報。
諸果報性無戲論故雜染法性亦無戲論。 諸果報性は、無戯論なるが故に、雑染法性も亦た無戯論なり。
諸の、
『果報』の、
『性』は、
『無戯論である!』が故に、
『雑染法』の、
『性』も亦た、
『無戯論である!』。
  雑染法(ぞうぜんほう):梵語kleza- dharmaの訳。煩悩を雑えたる法。世俗の布施等の善法。生死を離れざるが故に。
雜染法性無戲論故清淨法性亦無戲論。 雑染法性は、無戯論なるが故に、清浄法性も亦た無戯論なり。
『雑染法』の、
『性』は、
『無戯論である!』が故に、
『清浄法』の、
『性』も亦た、
『無戯論である!』。
  清浄法(しょうじょうほう):梵語akleza- dharmaの訳。生死を離るる法。即ち六波羅蜜を指す。
清淨法性無戲論故一切法性亦無戲論。 清浄法性は、無戯論なるが故に、一切法性も亦た無戯論なり。
『清浄法』の、
『性』は、
『無戯論である!』が故に、
一切の、
『法』の、
『性』も亦た、
『無戯論である!』。
  一切法(いっさいほう):梵語sarve- dharmaaHの訳。一切のあらゆる法の意。
一切法性無戲論故當知般若波羅蜜多亦無戲論。 一切法性は、無戯論なるが故に、当に知るべし、般若波羅蜜多も亦た無戯論なり、と。
一切の、
『法』の、
『性』は、
『無戯論である!』が故に、
当然、
こう知るはず!である、――
『般若波羅蜜多』も亦た、
『無戯論である!』と。
  :貪欲というものは、戯論する余地が無いが故に、瞋恚というものも戯論する余地が無い。乃至一切の法というものに、戯論する余地が無いが故に、般若波羅蜜多にも亦た戯論する余地が無い。
  :「大智度論巻27」に、「復た一切法あり、謂わゆる名色なり。仏の説きたまえる利衆経中の偈の如し。若し真観を求めんと欲せば、但だ名と色と有るのみ、若し実を審らかにして知らんと欲せば、亦た当に名色を知るべし。癡心は多想して、諸法を分別すと雖も、更に異事有りて、名色を出づる者なし」というように、一切の法は吾人の心中に投じられたる名と色に過ぎないのであり、それを知れば戯論とは、他の心中の名色と、己の心中の名色とを諍わしむることであり、甚だ得る所の少ないことは当然であると言わねばならない。
  :貪欲法、乃至一切法まで十三因縁を以って、無明、乃至老死の十二因縁に擬す。即ち貪欲の求めて得ざるを以っての故に瞋恚あり、瞋恚の智を覆うが故に愚癡あり、愚癡にして真を疑うが故に猶豫あり、猶豫して真に就かざるが故に諸見あり、諸見の真を排するが故に憍慢あり、憍慢して羞愧せざるが故に諸纏あり、諸纏の故に煩悩垢あり、煩悩垢を以っての故に諸悪業を行じ、諸悪業を行ずるが故に生死の諸果報あり、生死の故に雑染法あり、雑染法断ずるが故に清浄法生じ、雑染清浄合するを以っての故に一切法と為す。因縁を以っての故に是の如きの法ありと雖も、菩薩は敢て其の如き名義を詮ずることなく、但だ六波羅蜜を実践するのみ、何に況んや戯論有るをや。
佛說如是調伏眾惡般若理趣普勝法已。告金剛手菩薩等言。若有得聞如是般若波羅蜜多甚深理趣。信解受持讀誦修習。假使殺害三界所攝一切有情。而不由斯復墮於地獄傍生鬼界。以能調伏一切煩惱及隨煩惱惡業等故。常生善趣受勝妙樂。修諸菩薩摩訶薩行。疾證無上正等菩提 仏は是の如き衆悪を調伏する般若の理趣の普勝法を説き已り、金剛手菩薩等に告げて言わく、『若し是の如き般若波羅蜜多の甚深の理趣を聞くを得て、信解、受持、読誦、修習すること有らば、仮使(たとい)三界所摂の一切の有情を殺害すとも、斯れに由りて復た地獄、傍生、鬼界に堕ちず。能く一切の煩悩、及び随煩悩、悪業等を調伏するを以っての故に、常に善趣に生じて、勝妙の楽を受け、諸の菩薩摩訶薩の行を修めて、疾かに無上正等菩提を証せん。』と。
『仏』は、
是のような、
『衆(あまた)の!』、
『悪』を、
『調伏する!』、
『般若の理趣』である!
『普勝の法』を説き已ると、
『金剛手菩薩』等に告げて、
こう言われた、――
若し、
是のような、
『般若波羅蜜多』の、
『甚深の理趣』を聞く!ことができ、
『信解、受持、読誦、修習』する!ならば、
仮令(たとい)、
『三界』の摂する!所の、
一切の、
『有情(衆生)』を、
『殺害した!』としても、
其れに由り、
『地獄、傍生(畜生)、鬼界(餓鬼)』に、
『堕ちることはなく!』、
一切の、
『煩悩』や、
『随煩悩』の起す!、
『悪業』等を、
『調伏する!』が故に、
常に、
『善趣』に、
『生まれて!』、
『勝妙』の、
『楽』を、
『受ける!』ことになり、
諸の、
『菩薩摩訶薩』の、
『行』を、
『修める!』が故に、
疾かに、
『無上正等菩提』を、
『証する!』であろう、と。
  有情(うじょう):梵語sattvaの訳。又衆生と訳す。一切の命有る者の意。
  傍生(ぼうしょう):梵語tiryaJc、或いはtiryagyoniの訳。又畜生と称す。
  鬼界(きかい):梵語preta- lokaの訳。又餓鬼道と称す。
  随煩悩(ずいぼんのう):梵語upaklezaaの訳。根本煩悩に随従して起る諸の心行をいう。
  善趣(ぜんしゅ):人天二道の意。
  :一切の法は空にして、無戯論の性なりと知れば、地獄乃至傍生も亦た空なり。何に況んや、戯論せずして六波羅蜜を行ずる者をや。



5.性清浄照明法門

爾時世尊復依性淨如來之相。為諸菩薩宣說般若波羅蜜多一切法平等性觀自在妙智印甚深理趣清淨法門。 爾の時、世尊は復た、性浄なる如来の相に依りて、諸の菩薩の為に宣説したまわく、『般若波羅蜜多は、一切法平等性なる観自在妙智の印にして、甚深の理趣、清浄の法門なり。
爾の時、
『世尊』は、
復た、
『性』として、
『浄である!』、
『如来の相』に依り、
諸の、
『菩薩』の為に、
こう宣説された、――
『般若波羅蜜多』とは、
一切の、
『法』は、
『平等である!』という、
『性』を以って、
『世間』を、
『自在』に、
『観る!』為の、
『妙智』の、
『印(通行証)』という、
『甚深の理趣』であり!、
『清浄の法門』である!。
  性浄(しょうじょう):梵語sva- bhaava- zuddha?、又はprakRti- parizuddha?の訳、自性清浄の義。或いはprakRti- prabhaasvara?の訳。自性として光り輝くの義。
  一切法平等性(いっさいほうびょうどうしょう):梵語sarva- dharma- samataaの訳。
  観自在(かんじざい):梵語avalokiteezvaraの訳。慈眼を以って衆生を観るに自在なる者の意。
  妙智印(みょうちいん):梵語jJaana- mudraaの訳。智慧の印章の義。智慧を通行証となすの意。
  :「述讃」には、「平等智印清浄法門」と標し、「観観照らすに由りて、智慧照明し、後の二段に果境を明かす」と略讃する。
謂一切貪欲本性清淨極照明故能令世間瞋恚清淨。 謂わゆる一切の貪欲は、本性清浄にして極めて照明なるが故に、能く世間の瞋恚をして清浄ならしむ。
その意味は、――
一切の、
『貪欲』の、
『本性』は、
『清浄であり!』、
極めて、
『照らして!』、
『明るくする!』が故に、
『世間』の、
『瞋恚』をして、
『清浄にする!』ことができる。
  本性(ほんしょう):梵語prakRti?の訳。性、体、体性、自然等と訳す。
  清浄(しょうじょう):梵語parizuddha?の訳。無罪、或いは解放、或いは浄化されたの義。
  照明(しょうみょう):梵語vimala- bhaasa?の訳。浄らかに輝くの義。明らかに照らす。照らして明るくする。
  :一切平等の地平に立ちて観察するに、即ち知るらく、衆生なし、故に衆生に属する善悪も無し。即ち貪欲は名字のみ有るも、実有るに非ず。譬えば有る人、貪欲なるも、其の人の性、必ずしも貪欲なるに非ず、即ち因縁の然らしむる所なりと。是を以っての故に曰わく、一切の貪欲の本生清浄にして、極めて照明なりと。前門に釈したるが如く、貪欲は求めて得ざるが故に瞋恚あり、今貪欲清浄なれば、即ち瞋恚をして清浄ならしむと。
一切瞋恚本性清淨極照明故能令世間愚癡清淨。 一切の瞋恚は、本性清浄にして極めて照明なるが故に、能く世間の愚癡をして清浄ならしむ。
一切の、
『瞋恚』の、
『本性』は、
『清浄であり!』、
極めて、
『照らして!』、
『明るくする!』が故に、
『世間』の、
『愚癡』をして、
『清浄にする!』ことができる。
一切愚癡本性清淨極照明故能令世間疑惑清淨。 一切の愚癡は、本性清浄にして極めて照明なるが故に、能く世間の疑惑をして清浄ならしむ。
一切の、
『愚癡』の、
『本性』は、
『清浄であり!』、
極めて、
『照らして!』、
『明るくする!』が故に、
『世間』の、
『疑惑』をして、
『清浄にする!』ことができる。
  疑惑(ぎわく):梵語vicikitsaaの訳。疑うこと。不決定。
一切疑惑本性清淨極照明故能令世間見趣清淨。 一切の疑惑は、本性清浄にして極めて照明なるが故に、能く世間の見趣をして清浄ならしむ。
一切の、
『疑惑』の、
『本性』は、
『清浄であり!』、
極めて、
『照らして!』、
『明るくする!』が故に、
『世間』の、
『見趣(見取)』をして、
『清浄にする!』ことができる。
  見趣(けんしゅ):梵語dRSti- gataの訳。論理、教義の義。或いは見取(梵語dRSTi paraamarza)の義?即ち誤った見解に執著すること。
一切見趣本性清淨極照明故能令世間憍慢清淨。 一切の見趣は、本性清浄にして極めて照明なるが故に、能く世間の憍慢をして清浄ならしむ。
一切の、
『見趣』の、
『本性』は、
『清浄であり!』、
極めて、
『照らして!』、
『明るくする!』が故に、
『世間』の、
『憍慢』をして、
『清浄にする!』ことができる。
一切憍慢本性清淨極照明故能令世間纏結清淨。 一切の憍慢は、本性清浄にして極めて照明なるが故に、能く世間の纏結をして清浄ならしむ。
一切の、
『憍慢』の、
『本性』は、
『清浄であり!』、
極めて、
『照らして!』、
『明るくする!』が故に、
『世間』の、
『纏結』をして、
『清浄にする!』ことができる。
  纏結(てんけつ):梵語paryavasthaana- bandhanaの訳。纏も結も倶に煩悩の異名。
一切纏結本性清淨極照明故能令世間垢穢清淨。 一切の纏結は、本性清浄にして極めて照明なるが故に、能く世間の垢穢をして清浄ならしむ。
一切の、
『纏結』の、
『本性』は、
『清浄であり!』、
極めて、
『照らして!』、
『明るくする!』が故に、
『世間』の、
『垢穢』をして、
『清浄にする!』ことができる。
  垢穢(くえ):梵語malaの訳。汚物、不浄の義。
一切垢穢本性清淨極照明故能令世間惡法清淨。 一切の垢穢は、本性清浄にして極めて照明なるが故に、能く世間の悪法をして清浄ならしむ。
一切の、
『垢穢』の、
『本性』は、
『清浄であり!』、
極めて、
『照らして!』、
『明るくする!』が故に、
『世間』の、
『悪法』をして、
『清浄にする!』ことができる。
一切惡法本性清淨極照明故能令世間生死清淨。 一切の悪法は、本性清浄にして極めて照明なるが故に、能く世間の生死をして清浄ならしむ。
一切の、
『悪法』の、
『本性』は、
『清浄であり!』、
極めて、
『照らして!』、
『明るくする!』が故に、
『世間』の、
『生死』をして、
『清浄にする!』ことができる。
  悪法(あくほう):梵語paapa- dharma、又はa- kuzala- dharmaの訳。悪事、不吉事、過失事の義。
  生死(しょうじ):梵語saMsaara、或いはjaati- maraNaの訳。世間の生死。輪廻転生。
一切生死本性清淨極照明故能令世間諸法清淨。 一切の生死は、本性清浄にして極めて照明なるが故に、能く世間の諸法をして清浄ならしむ。
一切の、
『生死』の、
『本性』は、
『清浄であり!』、
極めて、
『照らして!』、
『明るくする!』が故に、
『世間』の、
『諸法』をして、
『清浄にする!』ことができる。
  諸法(しょほう):梵語sarva- dharmaaHの訳。一切の法。
以一切法本性清淨極照明故能令世間有情清淨。 一切の法の、本性清浄にして極めて照明なるを以っての故に、能く世間の有情をして清浄ならしむ。
一切の、
『法』の、
『本性』は、
『清浄であり!』、
極めて、
『照らして!』、
『明るくする!』が故に、
『世間』の、
『有情』をして、
『清浄にする!』ことができる。
  有情(うじょう):梵語sattvaの訳。又衆生と訳す。一切の命有る者の意。
一切有情本性清淨極照明故能令世間一切智清淨。 一切の有情は、本性清浄にして極めて照明なるが故に、能く世間の一切智をして清浄ならしむ。
一切の、
『有情』の、
『本性』は、
『清浄であり!』、
極めて、
『照らして!』、
『明るくする!』が故に、
『世間』の、
『一切智』をして、
『清浄にする!』ことができる。
  一切智(いっさいち):梵語sarvajJaa、或いはsarva- jJaana、sarva- jJataaの訳。
以一切智本性清淨極照明故能令世間甚深般若波羅蜜多最勝清淨。 一切智の、本性清浄にして極めて照明なるを以っての故に、能く世間の甚深般若波羅蜜多をして最勝清浄ならしむ、と。
『一切智』の、
『本性』は、
『清浄であり!』、
極めて、
『照らして!』、
『明るくする!』が故に、
『世間』の、
『甚深』なる!、
『般若波羅蜜多』を、
『最勝清浄にする!』ことができる。
  :貪欲、乃至一切智まで十三因縁を以って、無明乃至老死の十二因縁に擬す。即ち貪欲の故に瞋恚あり、今貪欲の本性清浄なり、故に瞋恚の本生清浄なり。瞋恚の故に愚癡あり、今瞋恚の本性清浄なり、故に愚癡の本性清浄なり。愚癡の故に疑惑あり、今愚癡の本性清浄なり、故に疑惑の本性清浄なり。疑惑の故に見趣あり、今疑惑の本性清浄なり、故に見趣の本性清浄なり。見趣の故に憍慢あり、今見趣の本性清浄なり、故に憍慢の本性清浄なり。憍慢の故に纏結あり、今憍慢の本性清浄なり、故に纏結の本性清浄なり。纏結の故に垢穢あり、今纏結の本性清浄なり、故に垢穢の本性清浄なり。垢穢の故に悪法あり、今垢穢の本性清浄なり、故に悪法の本性清浄なり。悪法の故に生死あり、今悪法の本性清浄なり、故に生死の本性清浄なり。生死の故に諸法あり、今生死の本性清浄なり、故に諸法の本性清浄なり。一切法の故に有情あり、今一切法の本性清浄なり、故に有情の本性清浄なり。有情の故に一切智あり、今有情の本性清浄なり、故に一切智清浄なり。即ち菩薩をして、是の如く知らしむるが故に、般若波羅蜜多は最勝清浄なりと説く。
佛說如是平等智印般若理趣清淨法已。告金剛手菩薩等言。若有得聞如是般若波羅蜜多清淨理趣。信解受持讀誦修習。雖住一切貪瞋癡等客塵煩惱垢穢聚中。而猶蓮華不為一切客塵垢穢過失所染。常能修習菩薩勝行。疾證無上正等菩提 仏は、是の如き平等智の印なる般若理趣の清浄法を説き已りて、金剛手菩薩等に告げて言わく、『若し是の如き般若波羅蜜多の清浄の理趣を聞くを得て、信解、受持、読誦、修習すること有らば、一切の貪瞋癡等の客塵煩悩の垢穢の聚中に住すと雖も、猶お蓮華の一切の客塵垢穢、過失の染する所と為らず、常に能く菩薩の勝行を修習して、疾かに無上正等菩提を証せん。』と。
『仏』は、
是のような、
『平等智の印』という!
『般若の理趣』である!、
『清浄の法』を説き已ると、
『金剛手菩薩』等に告げて、
こう言われた、――
若し、
是のような、
『般若波羅蜜多』の、
『清浄の理趣』を聞く!ことができ、
『信解、受持、読誦、修習』する!ならば、
一切の、
『貪、瞋、癡』等の、
『客塵煩悩』の、
『垢穢の聚』中に、
『住まっていた!』としても、
猶お、
『蓮華』が、
一切の、
『客塵垢穢』の、
『過失』に、
『汚染されない!』ように、
常に、
『菩薩』の、
『勝行』を、
『修習する!』ことができ、
疾かに、
『無上正等菩提』を、
『証する!』だろう、と。
  平等智印(びょうどうちいん):梵語samataa- jJaana- mudraaの訳。
  客塵煩悩(きゃくじんぼんのう):梵語akasmaat- klezaの訳。心は自性清浄なるも外塵の侵入するに因って、煩悩を生ずることをいう。
  :一切の法は空にして、平等性なり、云何が清浄ならざること有らん。



6.一切施智蔵法門

爾時世尊復依一切三界勝主如來之相。為諸菩薩宣說般若波羅蜜多一切如來和合灌頂甚深理趣智藏法門。 爾の時、世尊は、復た一切の三界の勝主たる如来の相に依り、諸の菩薩の為に宣説したまわく、『般若波羅蜜多は、一切の如来の和合潅頂なる甚深の理趣にして、智蔵の法門なり。
爾の時、
『世尊』は、
復た、
一切の、
『三界の勝主』という、
『如来の相』に依り、
諸の、
『菩薩』の為に、
こう宣説された、――
『般若波羅蜜多』は、
『一切の如来』が、
『和合して!』、
『潅頂する!』という、
『甚深の理趣』であり!、
『智蔵の法門』である!。
  一切三界勝主(いっさいさんがいのしょうしゅ):梵語sarva- traidhaatuka- adhipatiの訳。一切の三界中最上位の主をいう。即ち大施主の意。
  潅頂(かんちょう):梵語abhiSecana、或いはabhiSekaの訳。王の就位に際し頭頂に水を潅ぐ儀式。即ち一切の如来は、世間の布施等をなす大施主を潅頂して一切三界の勝主に即位せしむの意。
  智蔵(ちぞう):梵語jJaana- garbhaの訳。智慧の蔵の意。
  :「述讃」には、「法王潅頂智蔵法門」と標し、「二行に由りて位財の果を得」と略讃する。
  :所謂埋蔵されたる智慧とは、即ち是れ布施乃至般若波羅蜜多なり、其の智慧の蔵を開く鍵とは、即ち是れ世間出世間の布施なりと説く。
謂以世間灌頂位施。當得三界法王位果。 謂わゆる世間の潅頂位を以って施さば、当に三界の法王位の果を得べし。
その意味は、――  世間の布施、持戒等を以って、布施、持戒等の波羅蜜を円満する――
『世間』の、
『潅頂位(王位)』を以って、
『施す!』ならば、
『未来』には、
『三界』の、
『法王位の果』を、
『得る!』だろう。
  潅頂位(かんちょうい):梵語abhiSeka- avsthaaの訳。潅頂された位。王位。
  法王位(ほうおうい):梵語dharma- raaja- avashtaaの訳。法王の位。
以出世間無上義施。當得一切希願滿足。 出世間の無上の義を以って施さば、当に一切の希願満足することを得べし。
『出世間』の、
『無上』の、
『義』を以って、
『施す!』ならば、
『未来』の、
一切の、
『希願』を、
『満足する!』だろう。
  出世間(しゅっせけん):梵語 lokottaraの訳。世間を超出するの意。世間に対す。
  義施(ぎせ):梵語artha-daanaの訳。金銭、衣食等の実質的な布施、或いは利己的な目的を有する布施の義。出世間の無上の義は、涅槃を指す、即ち出世間の無形中の最上である。
以出世間無上法施。於一切法當得自在。 出世間の無上の法を以って施さば、一切の法に於いて、当に自在を得べし。
『出世間』の、
『無上』の、
『法』を以って、
『施す!』ならば、
『未来』の、
一切の、
『法』に於いて、
『自在』を、
『得る!』だろう。
  法施(ほうせ):梵語dharma- daanaの訳。法より成る布施の義。出世間の無上の法施は、仏法、又は三蔵を指す、即ち出世間の有形中の最上である。
若以世間財食等施。當得一切身語心樂。 若し世間の財、食等を以って施さば、当に一切の身語心の楽を得べし。
若し、
『世間』の、
『財、食』等を以って、
『施す!』ならば、
『未来』の、
一切の、
『身、語、心』の、
『楽』を、
『得る!』だろう。
  財食等施(ざいじきとうのせ):梵語dravya- daana?の訳。世間の一切の有形の施をいう。
  :必ずしも最上と言わない所に注目すべし。
  :以上、世間/出世間の最上の無形施、出世間の最上の有形施、及び世間の一切の有形施を挙ぐ。
若以種種財法等施。能令布施波羅蜜多速得圓滿。 若し種種の財、法等を以って施さば、能く布施波羅蜜多をして、速かに円満を得しめん。
若し、
種種(世間、出世間)の、
『財、法』等を以って、
『施す!』ならば、
速かに、
『布施波羅蜜多』をして、
『円満させれらる!』だろう。
受持種種清淨禁戒能令淨戒波羅蜜多速得圓滿。 種種の清浄の禁戒を受持せば、能く浄戒波羅蜜多をして、速かに円満を得しめん。
若し、
種種の、
『清浄なる!』、
『禁戒』を、
『受持する!』ならば、
速かに
『浄戒波羅蜜多』をして、
『円満させれらる!』だろう。
於一切事修學安忍能令安忍波羅蜜多速得圓滿。 一切の事に於いて、安忍を修学せば、能く安忍波羅蜜多をして、速かに円満を得しめん。
若し、
一切の、
『事』に於いて、
『安忍(忍耐)』を、
『修学する!』ならば、
速かに
『安忍波羅蜜多』をして、
『円満させれらる!』だろう。
於一切時修習精進能令精進波羅蜜多速得圓滿。 一切の時に於いて、精進を修習せば、能く精進波羅蜜多をして、速かに円満を得しめん。
若し、
一切の、
『時』に於いて、
『精進(努力)』を、
『修習する!』ならば、
速かに
『精進波羅蜜多』をして、
『円満させれらる!』だろう。
於一切境修行靜慮能令靜慮波羅蜜多速得圓滿。 一切の境に於いて、静慮を修行せば、能く静慮波羅蜜多をして、速かに円満を得しめん。
若し、
一切の、
『境』に於いて、
『静慮(禅定)』を、
『修行する!』ならば、
速かに
『静慮波羅蜜多』をして、
『円満させれらる!』だろう。
  静慮(じょうりょ):梵語dhyaanaの訳。瞑想、或いは専注すること。
於一切法常修妙慧能令般若波羅蜜多速得圓滿。 一切の法に於いて、妙慧を常修せば、能く般若波羅蜜多をして、速かに円満を得しめん。
若し、
一切の、
『法』に於いて、
『妙慧』を、
『常修する!』ならば、
速かに
『般若波羅蜜多』をして、
『円満させれらる!』だろう。
  妙慧(みょうえ):梵語jJaanaの訳。正しい洞察の義。
  :世間の布施乃至智慧を修めて、疾かに六波羅蜜を円満せしむと説くに当り、六波羅蜜を行ずる者は、「我れ六波羅蜜を行ず」と言わず、知らず、而も世間の布施等を行う、是れ即ち般若波羅蜜なりと曰う、是れ即ち其の謂なり。
  :此の段にて、六波羅蜜の眼目は施に在ることを知るべし。即ち布施波羅蜜多の他にも、持戒波羅蜜多は不殺、不盗等を施し、忍辱波羅蜜多は忍辱を施し、精進波羅蜜多は精進を施し、静慮波羅蜜多は静慮を施し、般若波羅蜜多は般若を施す。即ち菩薩行とは、行者と他人との関わり合いは、即ち施に在るを知るべし。
佛說如是灌頂法門般若理趣智藏法已。告金剛手菩薩等言。若有得聞如是灌頂甚深理趣智藏法門。信解受持讀誦修習。速能滿足諸菩薩行。疾證無上正等菩提 仏は、是の如き潅頂法門なる般若の理趣の智蔵法を説き已りて、金剛手菩薩等に告げて言わく、『若し是の如き潅頂の甚深の理趣、智蔵の法門を聞くを得て、信解、受持、読誦、修習すること有らば、速かに能く諸の菩薩行を満足して、疾かに無上正等菩提を証せん。』と。
『仏』は、
是のように、
『潅頂の法門』という!
『般若の理趣』の、
『智蔵の法門』を説き已ると、
『金剛手菩薩』等に告げて、
こう言われた、――
若し、
是のような、
『潅頂する!』という、
『甚深の理趣』である!、
『智蔵の法門』を聞く!ことができ
『信解、受持、読誦、修習』する!ならば、
速かに、
諸の、
『菩薩の行』を、
『満足する!』ことができ、
疾かに、
『無上正等菩提』を、
『証する!』だろう、と。
  :此の段は総じて、勝主の布施、即ち王者の如く、惜しみなく施すことを以って、六波羅蜜を成就し、阿耨多羅三藐三菩提を得ることを説く。



7.菩提心金剛法門

爾時世尊復依一切如來智印持一切佛祕密法門如來之相。為諸菩薩宣說般若波羅蜜多一切如來住持智印甚深理趣金剛法門 爾の時、世尊は、復た一切の如来の智印の、一切の仏の秘密法門を持せる如来の相に依りて、諸の菩薩の為に宣説したまわく、『般若波羅蜜多は、一切の如来の住持する智印なる甚深の理趣にして、金剛の法門なり。
爾の時、
『世尊』は、
復た、
『一切の如来』の、
『智印』は、
『一切の仏』の、
『秘密の法門』を、
『持(保証)する!』という、
『如来の相』に依り、
諸の、
『菩薩』の為に、
こう宣説された、――
『般若波羅蜜多』は、
『一切の如来』の、
『住持(信頼)する!』、
『智印である!』、
『甚深の理趣』であり!、
『金剛の法門』である!。
  智印(ちいん):梵語jJaana- mudraaの訳。智慧の印の義。智慧を以って通行証となすの意。
  秘密(ひみつ):梵語guhyaの訳。隠すの義。如来法身の身口意業の顕露ならざるをいう。
  :「述讃」には、「如来智印金剛法門」と標し、「二行に由り自体の果を得。次の六段に行を明かして、復た分けて三と為す、初の二段は実相に依りて、修の相を断ずるを明かす」と略讃する。
  :如来の教法は常に仏の法身を以って常時説かれているが、但だ衆生には如来の三業を知り難いが故に秘密という。別に隠されている訳ではない。
謂具攝受一切如來金剛身印當證一切如來法身。 謂わゆる、具に一切の如来の金剛身の印を摂受せば、当に一切の如来の法身を証すべし。
その意味は、――
若し、      ――菩薩の金剛の身語心は、常住にして破壊すべからず――
具(つぶさ)に、
『一切の如来』の、
『金剛身の印』を、
『摂受(受納)した!』ならば、
当然、
『一切の如来』の、
『法身』を、
『証する!』だろう。
  金剛身印(こんごうしんのいん):梵語vajra- kaaya- mudraaの訳。金剛不壊の菩提心に基づく身業を保証する印。
  摂受(しょうじゅ):梵語saMgrahaの訳。受納、獲得、修得の義。
  如来法身(にょらいのほっしん):梵語tathaagata- darma- kaayaの訳。如来の法を身となすの意。
  (しょう):梵語adhigamaの訳。完全に了解するの義。法に対して無疑なることをいう。
  :若し一切の如来より、「金剛(菩提心)の身である」という印(保証)を受けたならば、‥‥
若具攝受一切如來金剛語印於一切法當得自在。 若し具に一切の如来の金剛語の印を摂受せば、一切の法に於いて当に自在を得べし。
若し、
具に、
『一切の如来』の、
『金剛語の印』を、
『摂受した!』ならば、
当然、
『一切の法』に於いて、
『自在』を、
『得る!』だろう。
  金剛語印(こんごうごのいん):梵語vajra- vaaG- mudraaの訳。金剛不壊の菩提心に基づく語業を保証する印。
  自在(じざい):法の自在は梵語dharma- vazitaaという。法の主たりの義。自在に法を説くの意。
  :若し一切の如来より、「金剛(菩提心)の語である」という印(保証)を受けたならば、‥‥。
若具攝受一切如來金剛心印於一切定當得自在。 若し具に一切の如来の金剛心の印を摂受せば、一切の定に於いて当に自在を得べし。
若し、
具に、
『一切の如来』の、
『金剛心の印』を、
『摂受した!』ならば、
当然、
『一切の定(三昧)』に於いて、
『自在』を、
『得る!』だろう。
  金剛心印(こんごうしんのいん):梵語vajra- citta- mudraaの訳。金剛不壊なる菩提心に基づく意志を保証する印。
  :若し一切の如来より、「金剛(菩提心)の心である」という印(保証)を受けたならば、‥‥
若具攝受一切如來金剛智印能得最上妙身語心。猶若金剛無動無壞。 若し具に一切の如来の金剛智の印を摂受せば、能く最上妙の身語心を得て、猶お金剛の若く無動無壊なるべし。
若し、
具に、
『一切の如来』の、
『金剛智の印』を、
『摂受した!』ならば、
『最上妙』の、
『身、語、心』を、
『得ることができ!』、
『金剛』よりも、
猶お、
『無動(動かせず!)』、
『無壊(壊せない!)』となるだろう。
  金剛智印(こんごうちのいん):梵語vajra- jJaana- mudraaの訳。金剛不壊の菩提心に基づく智慧を保証する印。
  :若し一切の如来より、「金剛(菩提心)の智である」という印(保証)を受けたならば、‥‥
佛說如是如來智印般若理趣金剛法已。告金剛手菩薩等言。若有得聞如是智印甚深理趣金剛法門。信解受持讀誦修習。一切事業皆能成辦。常與一切勝事和合。所欲修行一切勝智。諸勝福業皆速圓滿。當獲最勝淨身語心。猶若金剛不可破壞。疾證無上正等菩提 仏は、是の如き如来の智印たる般若の理趣の金剛法を説き已りて、金剛手菩薩等に告げて言わく、『若し、是の如き智印なる甚深理趣の金剛法門を聞くを得て、信解、受持、読誦、修習すること有らば、一切の事業は、皆能く成辦して、常に一切の勝事と和合し、修行せんと欲する所の一切の勝智、諸の勝福の業は、皆速かに円満し、当に最勝浄の身語心を獲べくして、猶お金剛の破壊すべからざるが若く、疾かに無上正等菩提を証せん。』と。
『仏』は、
是のような、
『如来』の、
『智印』という!、
『般若の理趣』である、
『金剛の法門(菩薩の法門)』を説き已ると、
『金剛手菩薩』等に告げて、
こう言われた、――
若し、
是のような、
『如来』の、
『智印』という!、
『甚深の理趣』の、
『金剛の法門』を、
『聞く!』ことができ、
『信解、受持、読誦、修習』する!ならば、
『一切の事業』は、
皆、
『成辦(成就、具備)して!』、
常に、
一切の、
『勝事(如来の仕事)』と、
『和合し!』、
欲するがままに、
一切の、
『勝智(如来の智慧)』を、
『修行する!』ので、
諸の、
『勝れた!』、
『福業』が、
皆、
『速かに!』、
『円満する!』、
故に、
当然、
『最勝』に、
『清浄』な、
『身、語、心』を、
『獲得して!』、
『金剛』よりも、
猶お、
『破壊できない!』ものとなり、
疾かに、
『無上正等菩提』を、
『証する!』だろう、と。
  成辦(じょうべん):成就して具備する。
  :「金剛法門(菩薩法門)」,即ち菩薩の菩提心に基づく身、語、心、智業は、皆、如来より智印を摂受するが故に、「秘密法門」、即ち如来の身、語、心、智業に住持するに等しい。



8.無戯論性空法門

爾時世尊復依一切無戲論法如來之相。為諸菩薩宣說般若波羅蜜多甚深理趣輪字法門。 爾の時、世尊は、復た一切は無戯論法なる、如来の相に依り、諸の菩薩の為に宣説したまわく、『般若波羅蜜多は、甚深の理趣にして輪字の法門なり。
爾の時、
『世尊』は、
復た、
一切の、
『法』には、
『戯論』が、
『無い!』という、
『如来の相』に依り、
諸の、
『菩薩』の為に、
こう宣説された、――
『般若波羅蜜多』は、
『甚深の理趣』であり!、
『輪字の法門』である!。
  一切無戯論法(いっさいむけろんほう):梵語sarva- dharmaaprapaJcaの訳。一切の法に於いて無戯論なることをいう。一切法無戯論。
  輪字(りんじ):梵語cakra- akSaraの訳。輪(cakra)とは、梵語dharma- cakra、即ち法輪の意、字(akSara)は、語或いは字の義、またa-kSaraと釈して、即ち不壊、不死の義とも解せられる。即ち如来の法輪中の語の不死不壊なることをいう。又輪には衆多の輻(ヤ)の轂(コシキ)より出づるありて、輞(オオワ)を支う。是れ即ち一切の法に、衆多の側面あるの譬喩なり。
  :「述讃」には、「離諸戯論輪字法門」と標し、「無相を観ずるに由り、分別を断ずるが故なり」と略讃する。
  :輪(梵cakra)とは、「A Dictionary of Buddhism, Oxford University Press」に、「A wheel, often used symbolically in Buddhism to signify the various aspects of the Dharma. 」と云えるが如し。即ち車輪の中央の車軸より、多くのスポークが出ていることに喩えて、一の自性より多面的な相の顕現を示唆するものと言えよう。
謂一切法空無自性故。 謂わゆる、一切の法は空なり、自性無きが故に。
その意味は、――
一切の、        ――無戯論の故に、智に於いて無礙である――
『法』は、
『空である!』、
何故ならば、
一切の、
『法』には、
『自性』が、
『無い!』。
  一切法空(いっさいほうくう):梵語zuunyaaH sarava- dharmaaHの訳。
一切法無相離眾相故。 一切の法は無相なり、衆相を離るるが故に。
一切の、
『法』は、
『無相である!』、
何故ならば、
一切の、
『法』は、
『衆相(諸相)』を、
『離れている!』。
  無相(むそう):梵語animitta(或いはnirmitta)の訳。
一切法無願無所願故。 一切の法は無願なり、願う所の無きが故に。
一切の、
『法』は、
『無願である!』、
何故ならば、
一切の、
『法』には、
『願う!』所が、
『無い!』。
  無願(むがん):梵語apraNihtaの訳。
一切法遠離無所著故。 一切の法は遠離なり、著する所の無きが故に。
一切の、
『法』は、
『遠離している!』、
何故ならば、
一切の、
『法』には、
『著する!』所が、
『無い!』。
一切法寂靜永寂滅故。 一切の法は寂静なり、永く寂滅するが故に。
一切の、
『法』は、
『寂静である!』、
何故ならば、
一切の、
『法』は、
『永く(昔から)!』、
『寂滅している!』。
一切法無常性常無故。 一切の法は無常なり、性の常に無きが故に。
一切の、
『法』は、
『無常である!』、
何故ならば、
一切の、
『法』には、
『性(自性)』が、
『常に!』、
『無い!』。
  無常(むじょう):梵語anityaの訳。一時的の義。
  (しょう):梵語prakRtiの訳。法の自性の意。本質の義。相、又は修に対す。即ち本来自爾の体質にして改変せざるものを云う。
一切法無樂非可樂故。 一切の法は楽無し、楽しむべきに非ざるが故に、
一切の、
『法』は、
『無楽である!』、
何故ならば、
一切の、
『法』は、
『楽しむべき!』もの、
『ではない!』。
  無楽(むらく):梵語asukhaの訳。楽でないこと、又は苦の義。
一切法無我不自在故。 一切の法は無我である、自在ならざるが故に。
一切の、
『法』は、
『無我である!』、
何故ならば、
一切の、
『法』は、
『自在でない!』。
  無我(むが):梵語anaatman、或いはniraatmanの訳。神我の無いことをいう。
一切法無淨離淨相故。 一切の法は無浄である、浄相を離るるが故に。
一切の、
『法』は、
『無浄である!』、
何故ならば、
一切の、
『法』は、
『浄相』を、
『離れている!』。
  無浄(むじょう):梵語azuddhaの訳。不浄。
一切法不可得推尋其性不可得故。 一切の法は不可得なり、其の性を推尋して得べからざるが故に。
一切の、
『法』は、
『不可得である!』、
何故ならば、
一切の、
『法』は、
其の、
『性』を、
『推尋して!』も、
『得られない!』。
  不可得(ふかとく):梵語anupalambhaの訳。非認知の義。認知できないことをいう。
  (しょう):梵語prakRtiの訳。性質の義。本来自爾の体質にして改変せざるものをいう。
一切法不思議思議其性無所有故。 一切の法は不思議なり、其の性を思議して無所有なるが故に。
一切の、
『法』は、
『不思議である!』、
何故ならば、
一切の、
『法』は、
其の、
『性』を、
『思議して!』も、
『有する!』所が、
『無い!』。
  不思議(ふしぎ):梵語acintyaの訳。想像しがたいの義。不可思議。
  無所有(むしょう):梵語akiJcanaの訳。まったく何も無きことの義。
一切法無所有眾緣和合假施設故。 一切の法は無所有なり、衆縁和合して仮の施設なるが故に。
一切の、
『法』は、
『有する!』所が、
『無い!』。
何故ならば、
一切の、
『法』は、
『衆縁』の、
『和合した!』、
『仮の!』、
『施設である!』。
  施設(せせつ):梵語prajJaptiの訳。協定、契約、約束、或いは取り決めの義。
一切法無戲論本性空寂離言說故。 一切の法は無戯論なり、本性空寂にして、言説を離るるが故に。
一切の、
『法』には、
『戯論』が、
『無い!』、
何故ならば、
一切の、
『法』の、
『本性』は、
『空寂であり!』、
『言説』を、
『離れている!』。
  無戯論(むけろん):梵語aprapaJcaの訳。戯論が無いことの義。
  本性空寂(ほんしょうくうじゃく):梵語prakRti- zuunyataaの訳。本性が空なることの義。
  言説(ごんぜつ):梵語sarva- vaadaの訳。有らゆることばの義。
一切法本性淨甚深般若波羅蜜多本性淨故。 一切の法は本性浄なり、甚深の般若波羅蜜多の本性浄なるが故に。
一切の、
『法』の、
『本性』は、
『浄い!』、
何故ならば、
甚深の、
『般若波羅蜜多』の、
『本性』が、
『浄いからである!』。
  本性浄(ほんしょうじょう):梵語sva- bhaava- zuddhaの訳。自性清浄の義。
  :一切の法とは、即ち吾人の心中に投ぜられた名、色をいい、その本性が浄となる所以は、吾人の心中に存する所の般若波羅蜜多が浄だからである。若し吾人が此れは我がものだから、故に大切にしよう、此れは彼れのものだから、粗末にしようと思えば、其の心には般若波羅蜜多が不在であるが故に、即ち吾人の心は不浄である。
  :一切法の空、無相、無願を説いて衆生相を破り、遠離、寂静を説いて一切法の寂滅なるを示し、無常、無楽、無我、無浄を説いて世間の常楽我淨の四顛倒を破り、一切法の不可得、不思議、無所有を説いて無戯論と、其の本性清浄なることを説き、最後にその所以は甚深の般若波羅蜜多の本性清浄なるが故であることを示す。是れ即ち甚深の般若波羅蜜多の本性清浄なるが故に、一切法は無戯論性にして不可得、不思議、無所有であり、常楽我淨に非ず、遠離寂滅にして、空無相無願であることを説くものであり、是れ即ち若し甚深の般若波羅蜜多なければ、無戯論乃至空無相無願なく、かるが故に一切は混乱を極めると説くものである。
佛說如是離諸戲論般若理趣輪字法已。告金剛手菩薩等言。若有得聞此無戲論般若理趣輪字法門。信解受持讀誦修習。於一切法得無礙智。疾證無上正等菩提 仏は、是の如く諸の戯論を離れたる、般若の理趣の輪字法を説き已りて、金剛手菩薩等に告げて言わく、『若し、此の無戯論の般若の理趣なる輪字の法門を聞くを得て、信解、受持、読誦、修習すること有らば、一切の法に於いて、無礙智を得、疾かに無上正等菩提を証せん。』と。
『仏』は、
是のような、
諸の、
『戯論』を、
『離れた!』、
『般若の理趣』の、
『輪字の法』を説き已ると、
『金剛手菩薩』等に告げて、
こう言われた、――
若し、
此の、
『無戯論』という、
『般若の理趣』の、
『輪字の法門』を聞く!ことができ、
『信解、受持、読誦、修習』する!』ならば、
一切の、
『法』に於いて、
『無礙(妨げる者の無い!)』の、
『智』を、
『得る!』ことができ、
疾かに、
『無上正等菩提』を、
『証する!』だろう、と。
  無礙智(むげち):梵語apratihata- jJaana?の訳。妨げる者の無い智の義。



9.入広大輪平等性門

爾時世尊復依一切如來輪攝如來之相。為諸菩薩宣說般若波羅蜜多入廣大輪甚深理趣平等性門。 爾の時、世尊は、復た一切の如来の輪摂なる如来の相に依り、諸の菩薩の為に宣説したまわく、『般若波羅蜜多は、広大の輪に入る甚深の理趣にして、平等性の門なり。
爾の時、
『世尊』は、
復た、
一切は、
『如来』の、
『輪』に、
『摂される(含まれる)!』という、
『如来の相』に依り、
諸の、
『菩薩』の為に、
こう宣説された、――
『般若波羅蜜多』は、
『広大』な、
『輪(想処)』に、
『悟入する!』為の、
『甚深の理趣』であり!、
『平等性の門』である!。
  一切如来輪摂(いっさいにょらいりんしょう):梵語sarva- tathaagata- cakra- antargataの訳。一切は如来の輪(グループ)に含まれるの意。
  入広大輪(にゅうこうだいりん):梵語mahaa- cakra- pravezaの訳。広大の輪に悟入するの義。輪(cakra)は、観想すべき場所の意。
  (にゅう):梵語pravezaの訳。専ら真理を追求するの義。悟入とも訳す。
  平等性(びょうどうしょう):梵語samataaの訳。平等性、或いは同一性の義。
  :「述讃」には、「入広大輪平等性門」と標し、「平等を観ずるに由りて真を証するが故なり。次の二段にて観照に依りて、断の相を修するを明かす」と略讃する。
謂入金剛平等性能入一切如來性輪故。 謂わゆる、金剛の平等性に入れ、能く一切の如来性の輪に入るが故に。
その意味は、――
『金剛(自己の菩提心)』の、
『平等の性』に、
『悟入せよ!』、
一切の、
『如来の性』の、
『輪(グループ)』に、
『悟入できる!』のだから。
  金剛平等性(こんごうのびょうどうしょう):梵語vajra- samataaの訳。金剛は不壊なる菩提心の義。即ち種種一切の菩提心の平等なる性の意。
  如来の性(にょらいしょう):梵語tathaagata- prakRtiの訳。如来の本性の意。
  (しょう):梵語prakRtiの訳。同種の者中の不変同一なる部分。
  :行者、須らく自心を観察して、菩提心の平等なることを知るべし。然すれば則ち能く一切の如来の性に悟入せん。
  :此の門に於いては、自らの中なる種種の法を観察することにより、同種の一切の法に悟入することをいう。即ち、一自己を以って、一切に対す。
入義平等性能入一切菩薩性輪故。 義の平等性に入れ、能く一切の菩薩性の輪に入るが故に。
『義』の、
『平等性』に、
『悟入せよ!』、
一切の、
『菩薩の性』の、
『輪』に、
『入れる!』のだから。
  (ぎ):梵語arthaの訳。名に対する義の意。
  :菩薩は、男女、彼我、此彼等の義の差別あるを知りながらも、その中に義の平等性を見るからである。
入法平等性能入一切法性輪故。 法の平等性に入れ、能く一切の法性の輪に入るが故に。
『法』の、
『平等性』に、
『悟入せよ!』、
一切の、
『法の性』の、
『輪』に、
『悟入できる!』のだから。
  法(ほう):梵語dharmaの訳。義に対する名の意。
  :法、即ち名には男女、彼此、此彼等の差別ありといえども、空義に於いて差別なきことをいう。
入蘊平等性能入一切蘊性輪故。 蘊の平等性に入れ、能く一切の蘊性の輪に入るが故に。
『蘊(色受想行識の五蘊)』の、
『平等性』に、
『悟入せよ!』、
一切の、
『蘊の性』の、
『輪』に、
『悟入できる!』のだから。
  (うん):梵語skandhaの訳。色受想行識の五蘊。
入處平等性能入一切處性輪故。 処の平等性に入れ、能く一切の処性の輪に入るが故に。
『処(六根六境の十二処)』の、
『平等性』に、
『悟入せよ!』、
一切の、
『処の性』の、
『輪』に、
『悟入できる!』のだから。
  (しょ):梵語aayatanaの訳。六根六境の十二処。
入界平等性能入一切界性輪故。 界の平等性に入れ、能く一切の界性の輪に入るが故に。
『界(六根六境六識の十八界)』の、
『平等性』に、
『悟入せよ!』、
一切の、
『界の性』の、
『輪』に、
『悟入できる!』のだから。
  (かい):梵語dhaatuの訳。六根六境六識の十八界。
入諦平等性能入一切諦性輪故。 諦の平等性に入れ、能く一切の諦性の輪に入るが故に。
『諦(世諦即ち有漏、聖諦即ち無漏)』の、
『平等性』に、
『悟入せよ!』、
一切の、
『諦の性』の、
『輪』に、
『悟入できる!』のだから。
  (たい):梵語satyaの訳。諦に有漏即ち世諦、無漏即ち聖諦の別あり。就中無漏の聖諦を苦集滅道諦の四聖諦と云う。
  :諦(有漏、無漏)、縁起(有為法、無為法)、宝(世間宝、出世間宝)、食(不浄食、浄食)の四句を以って、総じて世間、出世間の平等を云う。
入緣起平等性能入一切緣起性輪故。 縁起の平等性に入れ、能く一切の縁起性の輪に入るが故に。
『縁起(縁起即ち有為、非縁起即ち無為)』の、
『平等性』に、
『悟入せよ!』、
一切の、
『縁起の性』の、
『輪』に、
『悟入できる!』のだから。
  縁起(えんぎ):梵語pratītya- samutpādaの訳。因果関係の連鎖の義。縁起生の法を有為、非縁起生の法を無為となす。就中無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死の十二縁起支の連鎖は、十二縁起と称し、我見の起る所以を説くものとして知られている。
入寶平等性能入一切寶性輪故。 宝の平等性に入れ、能く一切の宝性の輪に入るが故に。
『宝(世間、出世間の宝)』の、
『平等性』に、
『悟入せよ!』、
一切の、
『宝の性』の、
『輪』に、
『悟入できる!』のだから。
  (ほう):梵語ratnaの訳。財宝には、世間と出世間との別が有り、就中仏法僧を三宝(梵triratna)と称して、出世間の財宝となす。
入食平等性能入一切食性輪故。 食の平等性に入れ、能く一切の食性の輪に入るが故に。
『食(浄、不浄の食)』の、
『平等性』に、
『悟入せよ!』、
一切の、
『食の性』の、
『輪』に、
『悟入できる!』のだから。
  (じき):梵語aahaaraの訳。食物。食には不浄と浄との別があり、即ち火浄(火を以って命根を去る)、刀浄(刀を以って命根を去る)、爪浄(爪を以って命根を去る)、蔫乾浄(自ら乾燥するを以って種を為すに堪えず)、鳥啄浄(鳥啄むを以って種を為すに堪えず)の五種の作浄を得ざる食を不浄食、既に作浄せる食を浄食と称す。
入善法平等性能入一切善法性輪故。 善法の平等性に入れ、能く一切の善法性の輪に入るが故に。
『善法(不殺不盗不邪婬不妄語不両舌不悪口不綺語不貪不瞋正見の十善)』の、
『平等性』に、
『悟入せよ!』、
一切の、
『善法の性』の、
『輪』に、
『悟入できる!』のだから。
  善法(ぜんほう):梵語kuzala- dharmaの訳。善の法の義。
  :善法とは、不殺不盗不邪婬不妄語不両舌不悪口不綺語不貪不瞋正見の十善を云う。
入非善法平等性能入一切非善法性輪故。 非善法の平等性に入れ、能く一切の非善法性の輪に入るが故に。
『非善法(殺盗邪婬妄語両舌悪口綺語貪瞋邪見の十不善)』の、
『平等性』に、
『悟入せよ!』、
一切の、
『非善法の性』の、
『輪』に、
『悟入できる!』のだから。
  非善法(ひぜんほう):梵語akuzala- dharmaの訳。善法でない法の義。
入有記法平等性能入一切有記法性輪故。 有記法の平等性に入れ、能く一切の有記法性の輪に入るが故に。
『有記法』の、
『平等性』に、
『悟入せよ!』、
一切の、
『有記法の性』の、
『輪』に、
『悟入できる!』のだから。
  有記法(うきほう):梵語vyaakRtadharmaの訳。已に善悪決定している法の義。
入無記法平等性能入一切無記法性輪故。 無記法の平等性に入れ、能く一切の無記法性の輪に入るが故に。
『無記法』の、
『平等性』に、
『悟入せよ!』、
一切の、
『無記法の性』の、
『輪』に、
『悟入できる!』のだから。
  無記法(むきほう):梵語avyaakRta- dharmaの訳。未だ善悪決定しない法の義。
入有漏法平等性能入一切有漏法性輪故。 有漏法の平等性に入れ、能く一切の有漏法性の輪に入るが故に。
『有漏法』の、
『平等性』に、
『悟入せよ!』、
一切の、
『有漏法の性』の、
『輪』に、
『悟入できる!』のだから。
  有漏法(うろほう):梵語aasrava- dharmaの訳。未だ煩悩の有る法の義。
入無漏法平等性能入一切無漏法性輪故。 無漏法の平等性に入れ、能く一切の無漏法性の輪に入るが故に。
『無漏法』の、
『平等性』に、
『悟入せよ!』、
一切の、
『無漏法の性』の、
『輪』に、
『悟入できる!』のだから。
  無漏法(むろほう):梵語anaasrava- dharmaの訳。已に煩悩の無い法の義。
入有為法平等性能入一切有為法性輪故。 有為法の平等性に入れ、能く一切の有為法性の輪に入るが故に。
『有為法』の、
『平等性』に、
『悟入せよ!』、
一切の、
『有為法の性』の、
『輪』に、
『悟入できる!』のだから。
  有為法(ういほう):梵語saMskRta- dharmaの訳。因縁所生の法の義。
入無為法平等性能入一切無為法性輪故。 無為法の平等性に入れ、能く一切の無為法性の輪に入るが故に。
『無為法』の、
『平等性』に、
『悟入せよ!』、
一切の、
『無為法の性』の、
『輪』に、
『悟入できる!』のだから。
  無為法(むいほう):梵語asaMskRta- dharmaの訳。因縁所生でない法の義。
入世間法平等性能入一切世間法性輪故。 世間法の平等性に入れ、能く一切の世間法性の輪に入るが故に。
『世間法』の、
『平等性』に、
『悟入せよ!』、
一切の、
『世間法の性』の、
『輪』に、
『悟入できる!』のだから。
  世間法(せけんぼう):梵語loka- dharmaの訳。生死輪迴を解脱しない法の意。
入出世間法平等性能入一切出世間法性輪故。 出世間法の平等性に入れ、能く一切の出世間法性の輪に入るが故に。
『出世間法』の、
『平等性』に、
『悟入せよ!』、
一切の、
『出世間法の性』の、
『輪』に、
『悟入できる!』のだから。
  出世間法(しゅっせけんほう):梵語lokottara- dharmaの訳。世間を超出した法の意。
入異生法平等性能入一切異生法性輪故。 異生法の平等性に入れ、能く一切の異生法性の輪に入るが故に。
『異生(凡夫)法』の、
『平等性』に、
『悟入せよ!』、
一切の、
『異生法の性』の、
『輪』に、
『悟入できる!』のだから。
  異生法(いしょうほう):梵語pRthagjana- dharmaの訳。異なる生に輪迴するの義。凡夫、俗人の意。
入聲聞法平等性能入一切聲聞法性輪故。 声聞法の平等性に入れ、能く一切の声聞法性の輪に入るが故に。
『声聞法』の、
『平等性』に、
『悟入せよ!』、
一切の、
『声聞法の性』の、
『輪』に、
『悟入できる!』のだから。
  声聞法(しょうもんほう):梵語zraavaka- dharmaの訳。声を聞く人の義。仏の直弟子の意。
入獨覺法平等性能入一切獨覺法性輪故。 独覚法の平等性に入れ、能く一切の独覚法性の輪に入るが故に。
『独覚法』の、
『平等性』に、
『悟入せよ!』、
一切の、
『独覚法の性』の、
『輪』に、
『悟入できる!』のだから。
  独覚法(どっかくほう):梵語pratyeka- buddha- dharmaの訳。仏に依らず独りで覚るの意。
入菩薩法平等性能入一切菩薩法性輪故。 菩薩法の平等性に入れ、能く一切の菩薩法性の輪に入るが故に。
『菩薩法』の、
『平等性』に、
『悟入せよ!』、
一切の、
『菩薩法の性』の、
『輪』に、
『悟入できる!』のだから。
  菩薩法(ぼさつほう):梵語bodhisattva- dharmaの訳。菩提を求める人の意。
入如來法平等性能入一切如來法性輪故。 如来法の平等性に入れ、能く一切の如来法性の輪に入るが故に。
『如来法』の、
『平等性』に、
『悟入せよ!』、
一切の、
『如来法の性』の、
『輪』に、
『悟入できる!』のだから。
  如来法(にょらいほう):梵語tathaagata- dharmaの訳。真如より来た人の意。
入有情平等性能入一切有情性輪故。 有情の平等性に入れ、能く一切の有情性の輪に入るが故に。
『有情(衆生)』の、
『平等性』に、
『悟入せよ!』、
一切の、
『有情の性』の、
『輪』に、
『悟入できる!』のだから。
  有情(うじょう):梵語sattvaの訳。衆生。
入一切平等性能入一切性輪故。 一切の平等性に入れ、能く一切性の輪に入るが故に。
『一切』の、
『平等性』に、
『悟入せよ!』、
『一切の性』の、
『輪』に、
『悟入できる!』のだから。
  一切平等性(いっさいのびょうどうしょう):梵語sarva- samataa?の訳。
  :一切法に各各種種相ありと雖も、其の性は皆是れ平等性なり。
佛說如是入廣大輪般若理趣平等性已。告金剛手菩薩等言。若有得聞如是輪性甚深理趣平等性門。信解受持讀誦修習。能善悟入諸平等性。疾證無上正等菩提 仏は、是の如き広大輪に入る般若の理趣の平等性を説き已りて、金剛手菩薩等に告げて言わく、『若し是の如き輪の性なる甚深の理趣の平等性の門を聞くを得て、信解、受持、読誦、修習すること有らば、能く善く諸の平等性に悟入して、疾かに無上正等菩提を証せん。』と。
『仏』は、
是のような、
『広大』の、
『輪』に、
『悟入する!』という、
『般若の理趣』の、
『平等性』を説き已ると、
『金剛手菩薩』等に告げて、
こう言われた、――
若し、
是のような、
『輪の性』という、
『甚深の理趣』である!、
『平等性の門』を聞く!ことができ、
『信解、受持、読誦、修習』する!ならば、
善く!、
諸の、
『平等性』に、
『悟入する!』ことができ、
疾かに、
『無上正等菩提』を、
『証する!』だろう、と。
  :一切法の性は空なりと雖も、眼に見、耳に聞く所に種種の諸相あり、然れども、是れ等種種相は皆、其の由りて来たる所一等にして、平等なることを云う。或いは輪を曼荼羅の義と為すこと、是を以っての故なり。須らく如来の智相に大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智の四智を認むと雖も、其の由って来たる所は、皆一等、平等の如来智なるを以って、之を知るべし。



10.一切供養無上法門

爾時世尊復依一切廣受供養真淨器田如來之相。為諸菩薩宣說般若波羅蜜多一切供養甚深理趣無上法門。 爾の時、世尊は、復た一切の供養を広く受くる真浄の器田たる如来の相に依り、諸の菩薩の為に宣説したまわく、『般若波羅蜜多は、一切は供養なりとする、甚深の理趣にして、無上法門なり。
爾の時、
『世尊』は、
復た、
一切の、
『供養』を、
『広く受ける!』為の、
真の、
『浄器、福田』である!という、
『如来の相』に依り、
諸の、
『菩薩』の為に、
こう宣説された、――
『般若波羅蜜多』は、
『一切』が、
『供養である!』とする、
『甚深の理趣』であり!、
『無上の法門』である!。
  供養(くよう):梵語puujanaaの訳。飲食、衣服、臥具、湯薬を以って、仏法僧の三宝、或いは師長、父母等を養うことを云う。
  真浄器田(しんじょうのきでん):他人の善行を受くる為の浄器(梵語puNya- bhaajana?)及び福徳の種を種うるべき福田(梵語puNya- kSetra)の意。
  :「述讃」には、「真浄供養無上法門」と標し、「観照に依りて、真の供養を修するが故なり」と略讃する。
謂發無上正等覺心於諸如來廣設供養。 謂わゆる、無上正等覚の心を発すは、諸の如来に於いて、広く供養を設くるなり。
その意味は、――
『無上正等覚』の、           ――菩提心を発す!――
『心』を、
『発(おこ)す!』ことは、
諸の、
『如来』の為に、
『供養』を、
『広く設ける!』ことである。
  無上正等覚(むじょうしょうとうがく):梵語阿耨多羅三藐三菩提anuttara- samyaksaMbodhiの訳。一切を成就したる仏にして初めて覚すべき無上の境地の意。
  :我れ応に当来の世に於いて仏と作り、阿耨多羅三藐三菩提を得えんが為の故には、先ず阿耨多羅三藐三菩提心を発すべし。諸の如来を供養すとは、如来の法身、普く三千世界に遍ずれば、即ち是れ我が己体を供養し、一切の衆生を供養するの意なり。
攝護正法於諸如來廣設供養。 正法を摂護するは、諸の如来に於いて、広く供養を設くるなり。
『正法』を、         ――正法を摂受し守護する!――
『摂受し!』て、
『守護する!』ことは、
諸の、
『如来』の為に、
『供養』を、
『広く設ける!』ことである。
修行一切波羅蜜多於諸如來廣設供養。 一切の波羅蜜多を修行するは、諸の如来に於いて、広く供養を設くるなり。
一切の、
『波羅蜜多』を、    ――一切の波羅蜜多を修行する!――
『修行する!』ことは、
諸の、
『如来』の為に、
『供養』を、
『広く設ける!』ことである。
修行一切菩提分法於諸如來廣設供養。 一切の菩提分法を修行するは、諸の如来に於いて、広く供養を設くるなり。
一切の、
『菩提分法』を、      ――一切の菩提分法を修行する!――
『修行する!』ことは、
諸の、
『如来』の為に、
『供養』を、
『広く設ける!』ことである。
  菩提分法(ぼだいぶんぽう):梵語bodhi-paakSikaの訳。菩提に趣向すべき種種の法、即ち四念処、四正勤、四如意足、五根、五力、七覚支、八正道支の三十七菩提分法を云う。
修行一切總持等持於諸如來廣設供養。 一切の総持、等持を修行するは、諸の如来に於いて、広く供養を設くるなり。
一切の、
『総持、等持』を、      ――一切の総持、等持を修行する!――
『修行する!』ことは、
諸の、
『如来』の為に、
『供養』を、
『広く設ける!』ことである。
  総持(そうじ):梵語陀羅尼dhaaraNiiの訳。一切を憶持して忘失せざる法を云う。
  等持(とうじ):梵語三摩地ssamaadhiの訳。又三昧に作る。心を平等安穏ならしめて持し、一処に住せしむるを云う。
修行一切五眼六通於諸如來廣設供養。 一切の五眼、六通を修行するは、諸の如来に於いて、広く供養を設くるなり。
一切の、
『五眼、六通』を、     ――一切の五眼、六通を修行する!――
『修行する!』ことは、
諸の、
『如来』の為に、
『供養』を、
『広く設ける!』ことである。
  五眼(ごげん):五種の眼の意。既出。
  六通(ろくつう):六種の通力の意。六神通。既出。
修行一切靜慮解脫於諸如來廣設供養。 一切の静慮、解脱を修行するは、諸の如来に於いて、広く供養を設くるなり。
一切の、
『静慮、解脱』を、     ――一切の静慮、解脱を修行する!――
『修行する!』ことは、
諸の、
『如来』の為に、
『供養』を、
『広く設ける!』ことである。
  静慮(じょうりょ):瞑想の義。心を一処に定めるの意。又禅、或いは禅定とも云う。即ち四禅を指す。
  解脱(げだつ):梵語vimokSaの訳。解放の義。心を煩悩の繋縛より解放するの意。即ち八解脱、或いは四無色定を指す。
修行一切慈悲喜捨於諸如來廣設供養。 一切の慈、悲、喜、捨を修行するは、諸の如来に於いて、広く供養を設くるなり。
一切の、
『慈、悲、喜、捨』を、  ――一切の慈悲喜捨の四無量なるを修行する!――
『修行する!』ことは、
諸の、
『如来』の為に、
『供養』を、
『広く設ける!』ことである。
  (じ):梵語maitriiの訳。衆生を慈しみ楽を与えるの意。
  (ひ):梵語karuNaaの訳。衆生を憐れんで苦を抜くの意。
  (き):梵語muditaaの訳。満足の義。衆生の楽を得るを喜ぶの意。
  (しゃ):梵語upekSaaの訳。無関心の義。衆生に対し愛憎怨親なく、心が平等なるを云う。
修行一切佛不共法於諸如來廣設供養。 一切の仏の不共法を修行するは、諸の如来に於いて、広く供養を設くるなり。
一切の、
『仏の不共法』を、    ――一切の仏の不共法を修行する!――
『修行する!』ことは、
諸の、
『如来』の為に、
『供養』を、
『広く設ける!』ことである。
  仏不共法(ぶつふぐうほう):梵語aaveNika- buddha- dharmaの訳。仏のみ有し、他と共有せざる殊勝の法の意。即ち十八仏不共法を指す。既出。
觀一切法若常若無常皆不可得。於諸如來廣設供養。 一切の法の若しくは常、若しくは無常なるに、皆、不可得なるを観るは、諸の如来に於いて、広く供養を設くるなり。
一切の、
『法』に於いて、    ――一切法に常、無常の不可得なるを観る!――
『常』も、
『無常』も、
皆、
『得られない!』と、
『観る!』ことは、
諸の、
『如来』の為に、
『供養』を、
『広く設ける!』ことである。
  (じょう):梵語nityaの訳。永続の義。永遠に変易しないことを云う。
  無常(むじょう):梵語anityaの訳。常の対語。永続しないの義。
  不可得(ふかとく):梵語anupalambhaの訳。非認知の義。認知できないことをいう。
  :常、無常は倶に四顛倒の一。心の無常は、四念処中の一。
觀一切法若樂若苦皆不可得。於諸如來廣設供養。 一切の法の若しくは楽、若しくは苦なるに、皆、不可得なるを観るは、諸の如来に於いて、広く供養を設くるなり。
一切の、
『法』に於いて、     ――一切法に楽、苦の不可得なるを観る!――
『楽』も、
『苦』も、
皆、
『得られない!』と、
『観る!』ことは、
諸の、
『如来』の為に、
『供養』を、
『広く設ける!』ことである。
  (らく):梵語skuhaの訳。苦に対す。身心の感ずる快い感覚。
  (く):梵語duHkha、或いはaskuhaの訳。身心に痛みを招く感覚。
  :楽、苦は倶に四顛倒の一。受の苦は、四念処中の一。
觀一切法若我若無我皆不可得。於諸如來廣設供養。 一切の法の若しくは我、若しくは無我なるに、皆、不可得なるを観るは、諸の如来に於いて、広く供養を設くるなり。
一切の、
『法』に於いて、   ――一切法に我、無我の不可得なるを観る!――
『我』も、
『無我』も、
皆、
『得られない!』と、
『観る!』ことは、
諸の、
『如来』の為に、
『供養』を、
『広く設ける!』ことである。
  (が):梵語aatmanの訳。自己、或いは魂の義。自我。
  無我(むが):梵語anaatmanの訳。自我の欠如の義。
  :我、無我は倶に四顛倒の一。法の無我は、四念処中の一。
觀一切法若淨若不淨皆不可得。於諸如來廣設供養。 一切の法の若しくは浄、若しくは不浄なるに、皆、不可得なるを観るは、諸の如来に於いて、広く供養を設くるなり。
一切の、
『法』に於いて、    ――一切法に浄、不浄の不可得なるを観る!――
『浄』も、
『不浄』も、
皆、
『得られない!』と、
『観る!』ことは、
諸の、
『如来』の為に、
『供養』を、
『広く設ける!』ことである。
  (じょう):梵語zuddhaの訳。純粋の義、又清浄とも訳す。或いは梵語vimalaの訳、離垢の義。或いは梵語kaayazuciの訳、身清浄の義。
  不浄(ふじょう):梵語azuddhaの訳。不純の義。或いは梵語malaの訳、又垢と訳す。或いは梵語kaayaazuciの訳、身不浄の義。
  :浄、不浄は倶に四顛倒の一。身の不浄は、四念処中の一。
觀一切法若空若不空皆不可得。於諸如來廣設供養。 一切の法の若しくは空、若しくは不空なるに、皆、不可得なるを観るは、諸の如来に於いて、広く供養を設くるなり。
一切の、
『法』に於いて、    ――一切の法に空、不空の不可得なるを観る!――
『空』も、
『不空』も、
皆、
『得られない!』と、
『観る!』ことは、
諸の、
『如来』の為に、
『供養』を、
『広く設ける!』ことである。
  (くう):梵語zuunyaの訳、空虚(カラッポ)の義。英訳empty。又zuunyataaの訳、空性の義。
  不空(ふくう):梵語azuunyaの訳。非空虚の義。又azuunyataaの訳。不空性の義。
  :空三昧は、三三昧の一。
觀一切法若有相若無相皆不可得。於諸如來廣設供養。 一切の法の若しくは有相、若しくは無相なるに、皆、不可得なるを観るは、諸の如来に於いて、広く供養を設くるなり。
一切の、
『法』に於いて、     ――一切の法に有相、無相の不可得なるを観る!――
『有相』も、
『無相』も、
皆、
『得られない!』と、
『観る!』ことは、
諸の、
『如来』の為に、
『供養』を、
『広く設ける!』ことである。
  有相(うそう):梵語saakaaraの訳。形相を有するの義。無相に対す。
  無相(むそう):梵語niraakaaraの訳。形相無きの義。有相に対す。或いは梵語animittaの訳。無根拠の義、無性とも訳す、形相無きの意に用いて、有相に対す。
  :無相三昧は、三三昧の一。
觀一切法若有願若無願皆不可得。於諸如來廣設供養。 一切の法の若しくは有願、若しくは無願なるに、皆、不可得なるを観るは、諸の如来に於いて、広く供養を設くるなり。
一切の、
『法』に於いて、      ――一切の法に有願、無願の不可得なるを観る!――
『有願』も、
『無願』も、
皆、
『得られない!』と、
『観る!』ことは、
諸の、
『如来』の為に、
『供養』を、
『広く設ける!』ことである。
  有願(うがん):梵語praNihitaの訳、祈願の義。或いは梵語praNidhaanaの訳、努力の義、亦た渇望の義、目的を達せんとして努力するの意。
  無願(むがん):梵語apraNihitaの訳。無目的の義。渇望を離るるの意。或いは梵語apraNidhaanaの訳。渇望を離るるの義。有願に対す。目的を達せんとして努力することを離るるの意。即ち其れを意識せざる精神情態を云う。
  :無願三昧は、三三昧の一。
觀一切法若遠離若不遠離皆不可得。於諸如來廣設供養。 一切の法の若しくは遠離、若しくは不遠離なるに、皆、不可得なるを観るは、諸の如来に於いて、広く供養を設くるなり。
一切の、
『法』に於いて、      ――一切の法に遠離、不遠離の不可得なるを観る!――
『遠離』も、
『不遠離』も、
皆、
『得られない!』と、
『観る!』ことは、
諸の、
『如来』の為に、
『供養』を、
『広く設ける!』ことである。
  遠離(おんり):梵語duurii- karaNaの訳。遠ざける、又は遠ざかる行為の義。
  不遠離(ふおんり):梵語avirahitaの訳。未分離の義、遠ざからない、又遠ざけないの義。
觀一切法若寂靜若不寂靜皆不可得。於諸如來廣設供養。 一切の法の若しくは寂静、若しくは不寂静なるに、皆、不可得なるを観るは、諸の如来に於いて、広く供養を設くるなり。
一切の、
『法』に於いて、    ――一切の法に寂静、不寂静の不可得なるを観る!――
『寂静』も、
『不寂静』も、
皆、
『得られない!』と、
『観る!』ことは、
諸の、
『如来』の為に、
『供養』を、
『広く設ける!』ことである。
  寂静(じゃくじょう):梵語asaMsarga?の訳。不接触の義。世間と没交渉なる意。
  不寂静(ふじゃくじょう):梵語saMsarga?の訳。接触の義。世間と交渉あるの意。
於深般若波羅蜜多。書寫聽聞受持讀誦思惟修習。廣為有情宣說流布。或自供養或轉施他於諸如來廣設供養。 深き般若波羅蜜多に於いて、書写、聴聞、受持、読誦、思惟、修習し、広く有情の為に宣説、流布して、或いは自ら供養し、或いは転(うた)た他に施すは、諸の如来に於いて、広く供養を設くるなり。
深い!、
『般若波羅蜜多』を、
『書写、聴聞、受持、読誦、思惟、修習』して、
広く!、
『有情(衆生)』の為に、
『宣説、流布し!』て、
或いは、
『自ら!』の為に、
『供養したり!』、
或いは、
『他!』の為に、
『転じて!』、
『施す!』ことは、
諸の、
『如来』の為に、
『供養』を、
『広く設ける!』ことである。
  :此の段は、前に説く所の「正法摂受守護」の段と同義なり。故に他の手が入るものと為す。蓋し以下の如くならん、「観於深般若波羅蜜多若書写、聴聞、受持、読誦、思惟、修習、広為有情宣説流布、或自供養、或転施他、若不書写、聴聞、受持、読誦、思惟、修習、不広為有情宣説流布、或自供養、或転施他、皆不可得、於諸如来広設供養(深般若波羅蜜多に於いて若しは書写、聴聞、受持、読誦、思惟、修習し、広く有情の為に宣説流布し、或いは自ら供養し、或いは転じて他に施す、若しは書写、聴聞、受持、読誦、思惟、修習せず、広く有情の為に宣説流布して、或いは自ら供養し、或いは転じて他に施さざること、皆、不可得なりと観るは、諸の如来の為に広く供養を設くるなり)」。何となれば、般若波羅蜜も諸余の法に同じく、法を得んするに不可得なればなり。然れど、此のままにて、義を欠くの意には非ざるなり。
佛說如是真淨供養甚深理趣無上法已。告金剛手菩薩等言。若有得聞如是供養般若理趣無上法門。信解受持讀誦修習。速能圓滿諸菩薩行。疾證無上正等菩提 仏は、是の如き真浄の供養なる甚深の理趣の無上の法を説き已りて、金剛手菩薩等に告げて言わく、『若し是の如き供養なる般若の理趣の無上の法門を聞くを得て、信解、受持、読誦、修習すること有らば、速かに能く諸の菩薩行を円満して、疾かに無上正等菩提を証せん。』と。
『仏』は、
是のような、
真に!、
『浄い!』、
『供養』という!、
『甚深の理趣』である!、
『無上の法門』を説き已ると、
『金剛手菩薩』等に告げて、
こう言われた、――
若し、
是のような、
『供養』という、
『般若の理趣』である!、
『無上の法門』を聞く!ことができ、
『信解、受持、読誦、修習』する!ならば、
速かに、
諸の、
『菩薩』の、
『行』を、
『円満する!』ことができ、
疾かに、
『仏』の、
『無上正等菩提』を、
『証する!』だろう、と。
  :以上菩薩若し、諸仏を供養せんと欲せば、応に六波羅蜜を行じて、更に諸の善根を修行すべきことを説く。



11.智密忿性調伏法門

爾時世尊復依一切能善調伏如來之相。為諸菩薩宣說般若波羅蜜多攝受智密調伏有情甚深理趣智藏法門。 爾の時、世尊は復た一切を能く善く調伏する如来の相に依り、諸の菩薩の為に宣説したまわく、『般若波羅蜜多は智密を摂受し、有情を調伏する甚深の理趣、智蔵の法門なり。
爾の時、
『世尊』は、
復た、
一切を、
能く善く!、
『調伏する!』という、
『如来の相』に依り、
諸の、
『菩薩』の為に、
こう宣説された、――
『般若波羅蜜多』は、
『智密』を摂受して、
『有情』を、
『調伏する!』という、
『甚深の理趣』であり!、
『智蔵の法門』である!。
  調伏(ちょうぶく):梵語vinayaの訳。調教、教育、訓練、鍛練等の義。
  能善調伏(のうぜんちょうぶく):梵語vinaya- samarthaの訳。鍛練の強力なるものの義。
  調伏有情(ちょうぶくうじょう):梵語sattva- vinayaの訳。有情を鍛練するの義。
  智密(ちみつ):梵語jJaana- guhyaの訳。仏心中に密蔵され、凡夫には伺う能わざる智慧の意。
  智蔵(ちぞう):梵語jJaana- garbhaの訳。智慧の蔵の義。
  :「述讃」には、「能善調伏智蔵法門」と標し、「観照に依りて、能く忿等を除くに由るが故なり。後の二段には二法に依りて、修の相を遍くするを明かす」と略讃する。
謂一切有情平等性即忿平等性。 謂わゆる一切の有情の平等性は、即ち忿の平等性なり。
その意味は、――
一切の、
『有情』の、
『平等性』とは、
即ち、
『忿』の、
『平等性』である。
  一切有情平等性(いっさいのうじょうのびょうどうしょう):梵語sarva- sattva- samataaの訳。
  忿平等性(ふんのびょうどうしょう):梵語krodha- samataaの訳。いかりの平等性の意。
  忿(ふん):梵語krodhaの訳。怒りの義。瞋恚。
  (そく):とりもなおさず。即是に同じ。
  :一切の有情が平等性を有すれば、即ち浄土である。忿とは則ち菩薩心、即ち菩提心である。浄土の建立は偏に、菩薩の忿に拘るの意。
  :菩薩の忿は、凡夫の忿に非ず、即ち菩薩は忍辱行を以って、忿と為せばなり。
一切有情調伏性即忿調伏性。 一切の有情の調伏性は、即ち忿の調伏性なり。
一切の、
『有情』の、
『調伏性』とは、
即ち、
『忿』の、
『調伏性』である。
  調伏性(ちょうぶくしょう):梵語vinayataaの訳。謙恭温順なる性質の義。
一切有情真法性即忿真法性。 一切の有情の真法性は、即ち忿の真法性なり。
一切の、
『有情』の、
『真法性』とは、
即ち、
『忿』の、
『真法性』である。
  真法性(しんほうしょう):梵語dharmataaの訳。真法の性の義。法性に同じ。
一切有情真如性即忿真如性。 一切有情の真如性は、即ち忿の真如性なり。
一切の、
『有情』の、
『真如性』とは、
即ち、
『忿』の、
『真如性』である。
  真如性(しんにょしょう):梵語tathataaの訳。諸法の真実如常の性の義。
一切有情法界性即忿法界性。 一切有情の法界性は、即ち忿の法界性なり。
一切の、
『有情』の、
『法界性』とは、
即ち、
『忿』の、
『法界性』である。
  法界性(ほっかいしょう):法界は梵語dharma- dhaatuの訳。真如界の意。十八界の一に非ず。
一切有情離生性即忿離生性。 一切の有情の離生性は、即ち忿の離生性なり。
一切の、
『有情』の、
『離生性』とは、
即ち、
『忿』の、
『離生性』である。
  離生性(りしょうしょう):離生は梵語viveka- ja?の訳。三界の生を離るるの義。
一切有情實際性即忿實際性。 一切の有情の実際性は、即ち忿の実際性なり。
一切の、
『有情』の、
『実際性』とは、
即ち、
『忿』の、
『実際性』である。
  実際性(じっさいしょう):実際は梵語bhuuta- koTiの訳。真実際の意。虚妄を離絶せる境地、或いは涅槃の実証を云う。
一切有情本空性即忿本空性。 一切の有情の本空性は、即ち忿の本空性なり。
一切の、
『有情』の、
『本空性』とは、
即ち、
『忿』の、
『本空性』である。
  本空性(ほんくうしょう):本空は梵語zuunya、或いはabhaava、abhuutvaa?の訳。空、不生の義。
一切有情無相性即忿無相性。 一切有情の無相性は、即ち忿の無相性なり。
一切の、
『有情』の、
『無相性』とは、 
即ち、
『忿』の、
『無相性』である。
  無相性(むそうしょう):無相は梵語niraakaaraの訳。形相無きの義。有相に対す。
一切有情無願性即忿無願性。 一切の有情の無願性は、即ち忿の無願性なり。
一切の、
『有情』の、
『無願性』とは、
即ち、
『忿』の、
『無願性』である。
  無願性(むがんしょう):無願は梵語apraNihitaの訳。無目的の義。渇望を離るるの意。
一切有情遠離性即忿遠離性。 一切の有情の遠離性は、即ち忿の遠離性なり。
一切の、
『有情』の、
『遠離性』とは、
即ち、
『忿』の、
『遠離性』である。
  遠離性(おんりしょう):遠離は梵語duurii- karaNaの訳。遠ざける、又は遠ざかるの義。煩悩の垢穢を遠離するを云う。
一切有情寂靜性即忿寂靜性。 一切の有情の寂静性は、即ち忿の寂静性なり。
一切の、
『有情』の、
『寂静性』とは、
即ち、
『忿』の、
『寂静性』である。
  寂静性(じゃくじょうしょう):寂静は梵語asaMsarga?の訳。不接触の義。世間と没交渉なる意。
一切有情不可得性即忿不可得性。 一切の有情の不可得性は、即ち忿の不可得性なり。
一切の、
『有情』の、
『不可得性』とは、
即ち、
『忿』の、
『不可得性』である。
  不可得性(ふかとくしょう):不可得は梵語an- upalambhaの訳。所得すべからざるの意。可得に対す。即ち推求するも所得すべからざるを云う。
一切有情無所有性即忿無所有性。 一切の有情の無所有性は、即ち忿の無所有性なり。
一切の、
『有情』の、
『無所有性』とは、
即ち、
『忿』の、
『無所有性』である。
  無所有性(むしょうしょう):無所有は梵語aakiMcanyaの訳。欠乏、無所有の義。
一切有情難思議性即忿難思議性。 一切の有情の難思議性は、即ち忿の難思議性なり。
一切の、
『有情』の、
『難思議性』とは、
即ち、
『忿』の、
『難思議性』である。
  難思議性(なんしぎしょう):難思議は梵語acintyaの訳。思議すべからざるの義。
一切有情無戲論性即忿無戲論性。 一切の有情の無戯論性は、即ち忿の無戯論性なり。
一切の、
『有情』の、
『無戯論性』とは、
即ち、
『忿』の、
『無戯論性』である。
  無戯論性(むけろんしょう):梵語aprapaJcataaの訳。戯論無き性を云う。戯論prapaJcaは、冗長な論議、談話の義。
一切有情如金剛性即忿如金剛性。 一切の有情の如金剛性は、即ち忿の如金剛性なり。
一切の、
『有情』の、
『如金剛性』とは、
即ち、
『忿』の、
『如金剛性』である。
  如金剛(にょこんごう):梵語vajropama?の訳。金剛類似の義。金剛vajraは煩悩を摧伏する器の意。金剛の如き堅固不壊の性をいう。
所以者何。一切有情真調伏性即是無上正等菩提。亦是般若波羅蜜多。亦是諸佛一切智智。 所以は何んとなれば、一切の有情の真の調伏性は、即ち是れ無上正等菩提なり、亦た是れ般若波羅蜜多なり、亦た是れ諸仏の一切智智なり。
何故ならば、
一切の、
『有情』が、
『真に!』、
『調伏性である!』ならば、
即ち、
是れが、
『無上正等菩提』であり!、
亦た、
是れが、
『般若波羅蜜多』であり!、
亦た、
是れが、
諸の、
『仏』の、
『一切智智』だからである。
  一切智智(いっさいちち):梵語sarva- jJa- jJaanaの訳。仏の智慧を指し、一切の智中に最も殊勝なる智慧の意。
  :無上正等菩提とは、即ち是れ一切の有情が謙恭温順であり、諍論無き境界なりと明す。
佛說如是能善調伏甚深理趣智藏法已。告金剛手菩薩等言。若有得聞如是調伏般若理趣智藏法門。信解受持讀誦修習。能自調伏忿恚等過。亦能調伏一切有情。常生善趣受諸妙樂。現世怨敵皆起慈心。能善修行諸菩薩行。疾證無上正等菩提 仏は、是の如き能く善く調伏する甚深理趣の智蔵の法を説き已りて、金剛手菩薩等に告げて言わく、『若し、是の如き調伏の般若理趣の智蔵法門を聞くを得て、信解、受持、読誦、修習し、能く自らの、忿恚等の過を調伏し、亦た能く一切の有情を調伏して、常に善趣に生じて、諸の妙楽を受けしむること有らば、現世の怨敵は、皆、慈心を起して、能く善く諸の菩薩行を修行し、疾かに無上正等菩提を証せん。』と。
『仏』は、
是のような、
『能く善く!』、
『調伏する!』という、
『甚深の理趣』である!、
『智蔵の法』を説き已ると、
『金剛手菩薩』等に告げて、
こう言われた、――
若し、
有る者、
是のように、
『調伏する!』という、
『般若の理趣』の、
『智蔵の法門』を聞く!ことができ、
『信解、受持、読誦、修習』して、
自ら!の、
『忿恚』等の、
『過』を、
『調伏する!』ことができ、
亦た、
一切の、
『有情』を、
『調伏して!』、
常に、
『善趣』に生まれて、
諸の、
『妙楽』を、
『受けさせる!』ことができれば、
現世の、
『怨敵』は、
皆!、
『慈心』を、
『起こし!』て、
善く!、
諸の、
『菩薩行』を、
『修行する!』ことができ、
疾かに、
『無上正等菩提』を、
『証する!』だろう、と。
  :能く善く調伏して、現世の怨敵が皆、諸の菩薩行を修行して、疾かに無上正等菩提を証すること、是れ即ち菩薩の無上正等菩提の証に他ならない。何故ならば、菩薩心中には自他の区別が無いからである。



12.一切法性平等法門

爾時世尊復依一切能善建立性平等法如來之相。為諸菩薩宣說般若波羅蜜多一切法性甚深理趣最勝法門。 爾の時、世尊は復た、一切の能く善く性の平等の法を建立する如来の相に依りて、諸の菩薩の為に宣説したまわく、『般若波羅蜜多は、一切の法の性にして、甚深の理趣、最勝の法門なり!。
爾の時、
『世尊』は、
復た、
一切の、
『性』は、
『平等である!』という、
『法』を、
『建立する!』、
『如来の相』に依り、
諸の、
『菩薩』の為に、
こう宣説された、――
『般若波羅蜜多』は、
一切の、
『法』の、
『性である!』という、
『甚深の理趣』であり!、
『最勝の法門』である!。
  性平等(しょうびょうどう):梵語svabhaava- samataa?の訳。梵語sarva- dharma- svabhaava- samataaは、一切法の自性平等の意。
  :「述讃」には、「性平等性最勝法門」と標し、「実相を観るを修すれば、一切の人法平等にして遍満するが故なり」と略讃する。
  :一切は、下記の一切の有情、及び一切の法を指す。
謂一切有情性平等故甚深般若波羅蜜多亦性平等。一切法性平等故甚深般若波羅蜜多亦性平等。 謂わゆる一切の有情の性平等なるが故に、甚深の般若波羅蜜多も、亦た性平等なり。一切の法の性平等なるが故に、甚深の般若波羅蜜多も、亦た性平等なり。
その意味は、――
一切の、       ――平等は大乗的空の異名――
『有情』の、
『性』は、
『平等である!』が故に、
亦た、
甚深の、
『般若波羅蜜多』の、
『性』も、
『平等である!』。
一切の、
『法』の、
『性』は、
『平等である!』が故に、
亦た、
甚深の、
『般若波羅蜜多』の、
『性』も、
『平等である!』。
  :平等は大乗的空の異名。この章では般若波羅蜜多は一切の有情/法に於いて、下記の法を共にし、異なり無しと説く。
一切有情性調伏故甚深般若波羅蜜多亦性調伏。一切法性調伏故甚深般若波羅蜜多亦性調伏。 一切の有情の性調伏なるが故に、甚深の般若波羅蜜多も、亦た性調伏なり。一切の法の性調伏なるが故に、甚深の般若波羅蜜多も、亦た性調伏なり。
一切の、
『有情』の、
『性』は、             ――調伏は温順、謙恭の相――
『調伏(温順)である!』が故に、
亦た、
甚深の、
『般若波羅蜜多』の、
『性』も、
『調伏である!』。
一切の、
『法』の、
『性』は、
『調伏である!』が故に、
亦た、
甚深の、
『般若波羅蜜多』の、
『性』も、
『調伏である!』。
一切有情有實義故甚深般若波羅蜜多亦有實義。一切法有實義故甚深般若波羅蜜多亦有實義。 一切の有情は実義を有するが故に、甚深の般若波羅蜜多も、亦た実義を有する。一切の法は実義を有するが故に、甚深の般若波羅蜜多も、亦た実義を有する。
一切の、
『有情』は、
『実義』を、           ――実義、即ち実の事物有り――
『有する!』が故に、
亦た、
甚深の、
『般若波羅蜜多』も、
『実義』を、
『有する!』。
一切の、
『法』は、
『実義』を、
『有する!』が故に、
亦た、
甚深の、
『般若波羅蜜多』も、
『実義』を、
『有する!』。
一切有情即真如故甚深般若波羅蜜多亦即真如。一切法即真如故甚深般若波羅蜜多亦即真如。 一切の有情は即ち真如なるが故に、甚深の般若波羅蜜多も、亦た即ち真如なり。一切の法は即ち真如なるが故に、甚深の般若波羅蜜多も、亦た即ち真如なり。
一切の、
『有情』は、       ――真如は小乗的空の異名――
『即ち(とりもなおさず)!』、
『真如である!』が故に、
亦た、
甚深の、
『般若波羅蜜多』も、
『即ち!』、
『真如である!』。
一切の、
『法』は、
『即ち!』、
『真如である!』が故に、
亦た、
甚深の、
『般若波羅蜜多』も、
『即ち!』、
『真如である!』。
  :真如、法界、法性、実際等は、小乗的空の異名である。
一切有情即法界故甚深般若波羅蜜多亦即法界。一切法即法界故甚深般若波羅蜜多亦即法界。 一切の有情は即ち法界なるが故に、甚深の般若波羅蜜多も、亦た即ち法界なり。一切の法は即ち法界なるが故に、甚深の般若波羅蜜多も、亦た即ち法界なり。
一切の、
『有情』は、          ――法界は、即ち真如界――
『即ち!』、
『法界である!』が故に、
亦た、
甚深の、
『般若波羅蜜多』も、
『即ち!』、
『法界である!』。
一切の、
『法』は、
『即ち!』、
『法界である!』が故に、
亦た、
甚深の、
『般若波羅蜜多』も、
『即ち!』、
『法界である!』。
一切有情即法性故甚深般若波羅蜜多亦即法性。一切法即法性故甚深般若波羅蜜多亦即法性。 一切の有情は即ち法性なるが故に、甚深の般若波羅蜜多も、亦た即ち法性なり。一切の法は即ち法性なるが故に、甚深の般若波羅蜜多も、亦た即ち法性なり。
一切の、
『有情』は、           ――法性、即ち真如の異名――
『即ち!』、
『法性である!』が故に、
亦た、
甚深の、
『般若波羅蜜多』も、
『即ち!』、
『法性である!』。
一切の、
『法』は、
『即ち!』、
『法性である!』が故に、
亦た、
甚深の、
『般若波羅蜜多』も、
『即ち!』、
『法性である!』。
一切有情即實際故甚深般若波羅蜜多亦即實際。一切法即實際故甚深般若波羅蜜多亦即實際。 一切の有情は即ち実際なるが故に、甚深の般若波羅蜜多も、亦た即ち実際なり。一切の法は即ち実際なるが故に、甚深の般若波羅蜜多も、亦た即ち実際なり。
一切の、
『有情』は、           ――実際は、即ち真如界の際――
『即ち!』、
『実際である!』が故に、
亦た、
甚深の、
『般若波羅蜜多』も、
『即ち!』、
『実際である!』。
一切の、
『法』は、
『即ち!』、
『実際である!』が故に、
亦た、
甚深の、
『般若波羅蜜多』も、
『即ち!』、
『実際である!』。
一切有情即本空故甚深般若波羅蜜多亦即本空。一切法即本空故甚深般若波羅蜜多亦即本空。 一切の有情は即ち本空なるが故に、甚深の般若波羅蜜多も、亦た即ち本空なり。一切の法は即ち本空なるが故に、甚深の般若波羅蜜多も、亦た即ち本空なり。
一切の、
『有情』は、            ――本空は、無我の異名――
『即ち!』、
『本空である!』が故に、
亦た、
甚深の、
『般若波羅蜜多』も、
『即ち!』、
『本空である!』。
一切の、
『法』は、
『即ち!』、
『本空である!』が故に、
亦た、
甚深の、
『般若波羅蜜多』も、
『即ち!』、
『本空である!』。
  :本空、無相、無願は無我の異名、大乗的には平等の異名。
一切有情即無相故甚深般若波羅蜜多亦即無相。一切法即無相故甚深般若波羅蜜多亦即無相。 一切の有情は即ち無相なるが故に、甚深の般若波羅蜜多も、亦た即ち無相なり。一切の法は即ち無相なるが故に、甚深の般若波羅蜜多も、亦た即ち無相なり。
一切の、
『有情』は、       ――無相は無我の異名――
『即ち!』、
『無相である!』が故に、
亦た、
甚深の、
『般若波羅蜜多』も、
『即ち!』、
『無相である!』。
一切の、
『法』は、
『即ち!』、
『無相である!』が故に、
亦た、
甚深の、
『般若波羅蜜多』も、
『即ち!』、
『無相である!』。
一切有情即無願故甚深般若波羅蜜多亦即無願。一切法即無願故甚深般若波羅蜜多亦即無願。 一切の有情は即ち無願なるが故に、甚深の般若波羅蜜多も、亦た即ち無願なり。一切の法は即ち無願なるが故に、甚深の般若波羅蜜多も、亦た即ち無願なり。
一切の、
『有情』は、       ――無願は無我の異名――
『即ち!』、
『無願である!』が故に、
亦た、
甚深の、
『般若波羅蜜多』も、
『即ち!』、
『無願である!』。
一切の、
『法』は、
『即ち!』、
『無願である!』が故に、
亦た、
甚深の、
『般若波羅蜜多』も、
『即ち!』、
『無願である!』。
一切有情即遠離故甚深般若波羅蜜多亦即遠離。一切法即遠離故甚深般若波羅蜜多亦即遠離。 一切の有情は即ち遠離なるが故に、甚深の般若波羅蜜多も、亦た即ち遠離なり。一切の法は即ち遠離なるが故に、甚深の般若波羅蜜多も、亦た即ち遠離なり。
一切の、
『有情』は、       ――遠離は小乗的涅槃の異名――
『即ち!』、
『遠離である!』が故に、
亦た、
甚深の、
『般若波羅蜜多』も、
『即ち!』、
『遠離である!』。
一切の、
『法』は、
『即ち!』、
『遠離である!』が故に、
亦た、
甚深の、
『般若波羅蜜多』も、
『即ち!』、
『遠離である!』。
  :遠離、寂静は小乗的涅槃の異名である。
一切有情即寂靜故甚深般若波羅蜜多亦即寂靜。一切法即寂靜故甚深般若波羅蜜多亦即寂靜。 一切の有情は即ち寂静なるが故に、甚深の般若波羅蜜多も、亦た即ち寂静なり。一切の法は即ち寂静なるが故に、甚深の般若波羅蜜多も、亦た即ち寂静なり。
一切の、
『有情』は、      ――寂静は小乗的涅槃の異名――
『即ち!』、
『寂静である!』が故に、
亦た、
甚深の、
『般若波羅蜜多』も、
『即ち!』、
『寂静である!』。
一切の、
『法』は、
『即ち!』、
『寂静である!』が故に、
亦た、
甚深の、
『般若波羅蜜多』も、
『即ち!』、
『寂静である!』。
一切有情不可得故甚深般若波羅蜜多亦不可得。一切法不可得故甚深般若波羅蜜多亦不可得。 一切の有情は不可得なるが故に、甚深の般若波羅蜜多も、亦た不可得なり。一切の法は不可得なるが故に、甚深の般若波羅蜜多も、亦た不可得なり。
一切の、
『有情』は、      ――不可得は大乗的空の異名――
『不可得である!』が故に、
亦た、
甚深の、
『般若波羅蜜多』も、
『不可得である!』。
一切の、
『法』は、
『不可得である!』が故に、
亦た、
甚深の、
『般若波羅蜜多』も、
『不可得である!』。
  :不可得、無所有、不思議、無戯論、無辺際は大乗的空の異名。
一切有情無所有故甚深般若波羅蜜多亦無所有。一切法無所有故甚深般若波羅蜜多亦無所有。 一切の有情は無所有なるが故に、甚深の般若波羅蜜多も、亦た無所有なり。一切の法は無所有なるが故に、甚深の般若波羅蜜多も、亦た無所有なり。
一切の、
『有情』は、       ――無所有は大乗的空の異名――
『無所有である!』が故に、
亦た、
甚深の、
『般若波羅蜜多』も、
『無所有である!』。
一切の、
『法』は、
『無所有である!』が故に、
亦た、
甚深の、
『般若波羅蜜多』も、
『無所有である!』。
一切有情不思議故甚深般若波羅蜜多亦不思議。一切法不思議故甚深般若波羅蜜多亦不思議。 一切の有情は不思議なるが故に、甚深の般若波羅蜜多も、亦た不思議なり。一切の法は不思議なるが故に、甚深の般若波羅蜜多も、亦た不思議なり。
一切の、
『有情』は、        ――不思議は無戯論に同じ、大乗的空の異名――
『不思議である!』が故に、
亦た、
甚深の、
『般若波羅蜜多』も、
『不思議である!』。
一切の、
『法』は、
『不思議である!』が故に、
亦た、
甚深の、
『般若波羅蜜多』も、
『不思議である!』。
一切有情無戲論故甚深般若波羅蜜多亦無戲論。一切法無戲論故甚深般若波羅蜜多亦無戲論。 一切の有情は無戯論なるが故に、甚深の般若波羅蜜多も、亦た無戯論なり。一切の法は無戯論なるが故に、甚深の般若波羅蜜多も、亦た無戯論なり。
一切の、
『有情』は、       ――無戯論は大乗的空の異名――
『無戯論である!』が故に、
亦た、
甚深の、
『般若波羅蜜多』も、
『無戯論である!』。
一切の、
『法』は、
『無戯論である!』が故に、
亦た、
甚深の、
『般若波羅蜜多』も、
『無戯論である!』。
一切有情無邊際故甚深般若波羅蜜多亦無邊際。一切法無邊際故甚深般若波羅蜜多亦無邊際。 一切の有情は無辺際なるが故に、甚深の般若波羅蜜多も、亦た無辺際なり。一切の法は無辺際なるが故に、甚深の般若波羅蜜多も、亦た無辺際なり。
一切の、
『有情』は、     ――無辺際は大乗的空の異名――
『無辺際である!』が故に、
亦た、
甚深の、
『般若波羅蜜多』も、
『無辺際である!』。
一切の、
『法』は、
『無辺際である!』が故に、
亦た、
甚深の、
『般若波羅蜜多』も、
『無辺際である!』。
一切有情有業用故當知般若波羅蜜多亦有業用。一切法有業用故當知般若波羅蜜多亦有業用。 一切の有情は業用有るが故に、当に知るべし、般若波羅蜜多も、亦た業用有りと。一切の法は業用有るが故に、当に知るべし、般若波羅蜜多も、亦た業用有りと。
一切の、
『有情』は、  ――一切有情、法乃至般若波羅蜜多は、業用を有する――
『業用(行業の果報)』を、
『有する!』が故に、
こう知るべきである、――
『般若波羅蜜多』も亦た、
『業用』を、
『有する!』。
一切の、
『法』は、
『業用』を、
『有する!』が故に、
こう知るべきである、――
『般若波羅蜜多』も亦た、
『業用』を、
『有する!』、と。
  有業用(うごうゆう):梵語sa- karmakaは行業の果報あるを云う。行業の果報無きの意を表わす無業用a- karmakaに対す。
佛說如是性平等性甚深理趣最勝法已。告金剛手菩薩等言。若有得聞如是平等般若理趣最勝法門。信解受持讀誦修習。則能通達平等法性甚深般若波羅蜜多。於法有情心無罣礙。疾證無上正等菩提 仏は、是の如き性平等性なる甚深の理趣の最勝法を説き已りて、金剛手菩薩等に告げて言わく、『若し、是の如き平等の般若理趣の最勝法門を聞くを得て、信解し、受持、読誦、修習すること有らば、則ち能く、平等の法性なる甚深の般若波羅蜜多に通達し、法と、有情に於いて、心に罣礙無く、疾かに無上正等菩提を証せん。』と。
『仏』は、
是のような、
『性』の、
『平等性』という!、
『甚深の理趣』である!、
『最勝の法』を説き已ると、
『金剛手菩薩』等に告げて、
こう言われた、――
若し、
是のような、
『平等』という、
『般若の理趣』の、
『最勝の法門』を聞く!ことができ、
『信解、受持、読誦、修習』する!ならば、
則ち
『平等』という、
『法』の、
『性』である!、
『甚深』の、
『般若波羅蜜多』に、
『通達する!』ことができ、
『法』と、
『有情』とに於いて、
『心』に、
『罣礙(障害)』が、
『無くなり!』、
疾かに、
『無上正等菩提』を、
『証する!』だろう、と。
  :此の中、般若波羅蜜多の性は、一切の有情、一切の法と同じく、平等を体と為す真実の法であると説く。即ち布施、浄戒、安忍、精進、静慮、般若波羅蜜多の六は、阿耨多羅三藐三菩提に至る為の法であるが、一切の法が、譬えば地球が戯論無くして、太陽の周囲を公転するが如く、一切の衆生が活命するが如く、無戯論性のものであることを説き、それには実の義と、実の果報とを有することを説く。



13.一切有情勝蔵法門

爾時世尊復依一切住持藏法如來之相。為諸菩薩宣說般若波羅蜜多一切有情住持遍滿甚深理趣勝藏法門。 爾の時、世尊は、復た一切は住持にして、法を蔵する如来の相に依りて、諸の菩薩の為に宣説したまわく、『般若波羅蜜多は、一切の有情に住持、遍満する甚深の理趣、勝蔵の法門なり。
爾の時、
『世尊』は、
復た、
一切は、
『住持(屋舎)』であり、
『法』を、
『蔵する!』という、
『如来の相』に依り、
諸の、
『菩薩』の為に、
こう宣説された、――
『般若波羅蜜多』は、
一切の、
『有情』に、
『住持して!』、
『遍満する!』、
『甚深の理趣』であり!、
『勝蔵の法門』である!。
  一切住持蔵法(いっさいじゅうじぞうほう):梵語sarvaadhiSThaana saddharma-garbha?の訳。住持adhiSThaanaは住居の義。saddharma-garabhaは妙法の蔵の意。即ち一切の有情心の中に所蔵する正法を云う。
  一切有情住持(いっさいうじょうじゅうじ):梵語sarvasattvaadhiSThaana?の訳。一切の有情心の中に住するの意。
  勝蔵(しょうぞう):梵語saddharma- garbha?の訳。正法を納める勝れた蔵の義、即ち般若波羅蜜多の住持する有情を指す。
  :「述讃」には、「有情住持勝蔵法門」と標し、「観を修して、遍く諸の人法を観照すれば、皆善縁なるが故なり。前の六境を観ずるに由り、六行を起こし、已後の二段にて得果を明かす」と略讃する。
謂一切有情皆如來藏普賢菩薩自體遍故。 謂わゆる一切の有情は、皆如来の蔵なり。普賢菩薩の自体遍きが故に。
その意味は、――
一切の、
『有情』は、
皆、
『如来(大慈悲)』の、
『蔵である!』、
『普賢菩薩』、
自らの、
『体(妙業)』が、
『遍満している!』が故に。
  如来蔵(にょらいのくら):梵語tathaagata- garbhaの訳。如来を納める蔵、即ち有情の心に云う。
  普賢菩薩(ふげんぼさつ):梵語samantabhadra bodhi- sattvaの訳。智慧の文殊に対し、慈悲を表わす菩薩として知られる。其の名に就き、samantaは一切処の義、bhadraは吉祥の義、故に亦た遍吉祥とも称す、即ち菩提心所起の行願、及び身口意皆悉く平等にして、一切処に遍じ、純一妙善にして、衆徳を具備するが故に、其の名を為す。
一切有情皆金剛藏以金剛藏所灌灑故。 一切の有情は、皆金剛の蔵なり。金剛に蔵するを以って、潅灑さるるが故に。
一切の、
『有情』は、
皆、
『金剛(菩提心)』の、
『蔵である!』、
『金剛』の、
『蔵(菩提心)』が、
一切の、
『有情』を、
『潅灑(即位させる)した!』が故に。
  金剛蔵(こんごうのくら):梵語vajra- garbhaの訳。金剛は最も堅き金属、又最も堅固なる武器の義にして、菩薩の菩提心の堅固なることに譬える。
  潅灑(かんしゃ):梵語abhiSiktaの訳。就位式に於いて水を潅ぐ儀礼。潅頂に同じ。
一切有情皆正法藏一切皆隨正語轉故。 一切の有情は、皆正法の蔵なり。一切は、皆、正語に随い転ずるが故に。
一切の、
『有情』は、
皆、
『正法』の、
『蔵である!』、
一切の、
『有情』は、
皆、
『正語』に随って、
『善』に、
『転じる!』が故に。
  正法蔵(しょうぼうのくら):梵語saddharma garbha?の訳。正法を納める蔵の義。即ち有情の心を指す。
  正語(しょうご):梵語samyak- vaacの訳。真智を以って修する口業。仏の説法の如し。
一切有情皆妙業藏一切事業加行依故。 一切の有情は、皆、妙業の蔵なり。一切の事業の加行の依なるが故に。
一切の、
『有情』は、
皆、
『妙業(妙善の行業)』の、
『蔵である!』、
一切の、
『有情』は、
一切の、
『事業』の、
『加行(修行)』の、
『依(拠り所)である!』が故に、
  妙業蔵(みょうごうのくら):梵語kuzalakarma garbha?の訳。殊妙の行業を納める蔵の義。
  事業(じごう):梵語artha?の訳。利益の義。
  加行(けぎょう):梵語abhisaMskaara?の訳。開発、修行の義。
  (え):梵語aazrayaの訳。又所依とも訳す。依止し、依頼する所、拠り所の意。
佛說如是有情住持甚深理趣勝藏法已。告金剛手菩薩等言。若有得聞如是遍滿般若理趣勝藏法門。信解受持讀誦修習。則能通達勝藏法性。疾證無上正等菩提。 仏は、是の如き有情の住持する甚深の理趣の勝蔵の法を説き已りて、金剛手菩薩等に告げて言わく、『若し、是の如く遍満する般若の理趣の勝蔵法門を聞くを得て、信解し、受持、読誦、修習すること有らば、則ち能く勝蔵の法性に通達して、疾かに無上正等菩提を証せん。』と。
『仏』は、
是のような、
『有情』に、
『住持する!』、
『甚深の理趣』である!、
『勝蔵の法』を説き已ると、
『金剛手菩薩』等に告げて、
こう言われた、――
若し、
是のような、
一切の、
『有情』に、
『遍満する!』、
『般若の理趣』である!、
『勝蔵の法門』を聞く!ことができ、
『信解、受持、読誦、修習』する!ならば、
則ち、
『勝蔵(有情の心)』の、
『法性』に、
『通達する!』ことができ、
疾かに、
『無上正等菩提』を、
『証する!』だろう、と。



14.一味無辺際究竟法門

爾時世尊復依究竟無邊際法如來之相。為諸菩薩宣說般若波羅蜜多究竟住持法義平等金剛法門。 爾の時、世尊は、復た究竟じて辺際無き法なる如来の相に依り、諸の菩薩の為に宣説したまわく、『般若波羅蜜多は、法義の平等に究竟じて住持する金剛の法門なり。
爾の時、
『世尊』は、
復た、
『究竟』じて、
『無辺際である!』、
『法』という、
『如来の相』に依り、
諸の、
『菩薩』の為に、
こう宣説された、――
『般若波羅蜜多』は、
『究竟』じて、
『法、義』の、
『平等』に、
『住持する!』という、
『金剛の法門』である!。
  究竟無辺際法(くきょうむへんざいほう):梵語atyantaaparyanta- dharma?の訳。完全に辺際無き法の意。
  究竟住持(くきょうじゅうじ):梵語atyantaadhiSTaana?の訳。完全なる住居の意。
  法義平等(ほうぎびょうどう):梵語dharmaartha samataa?の訳。法と、義に於いて平等の意。
  :「述讃」には、「無辺無際究竟法門」と標し、「二果を得る時、広深一味にして極めて殊勝なるが故に自ら果徳を利す」と略讃する。
謂甚深般若波羅蜜多無邊故一切如來亦無邊。 謂わゆる甚深の般若波羅蜜多は、無辺であるが故に、一切の如来も、亦た無辺である。
その意味は、――
甚深の、
『般若波羅蜜多』は、
『無辺である!』が故に、
亦た、
一切の、
『如来』も、
『無辺である!』。
  無辺(むへん):梵語anantaの訳。無終、無辺際、永久、無限等の義。無限の空間の意。
甚深般若波羅蜜多無際故一切如來亦無際。 甚深の般若波羅蜜多は、無際であるが故に、一切の如来も、亦た無際である。
甚深の、
『般若波羅蜜多』は、
『無際である!』が故に、
亦た、
一切の、
『如来』も、
『無際である!』。
  無際(むさい):梵語aparyantaの訳。無束縛、無制限の義。三世の別なく、時間的無制限の意。
甚深般若波羅蜜多一味故一切法亦一味。 甚深の般若波羅蜜多は、一味であるが故に、一切の法も、亦た一味である。
甚深の、
『般若波羅蜜多』は、
『一味(一性)である!』が故に、
亦た、
一切の、
『法』も、
『一味である!』。
  一味(いちみ):梵語eka- rasaの訳。平等一性。大海の塩味を以って平等の譬喩と為すが如し。
甚深般若波羅蜜多究竟故一切法亦究竟。 甚深の般若波羅蜜多は、究竟であるが故に、一切の法も、亦た究竟である。
甚深の、
『般若波羅蜜多』は、
『究竟である!』が故に、
亦た、
一切の、
『法』も、
『究竟である!』。
  究竟(くきょう):梵語atyantaの訳。常識的制限を超えたの義。完全、完璧、無終、不変、永久等の意。
  :以上般若波羅蜜の無量、無辺、唯一、不変を明す。
佛說如是無邊無際究竟理趣金剛法已。告金剛手菩薩等言。若有得聞如是究竟般若理趣金剛法門。信解受持讀誦修習。一切障法皆悉消除。定得如來執金剛性。疾證無上正等菩提。 仏は、是の如き無辺、無際、究竟の理趣なる金剛の法を説き已り、金剛手菩薩等に告げて言わく、『若し、是の如き、究竟なる般若の理趣の、金剛の法門を聞くを得て、信解し、受持、読誦、修習すること有らば、一切の障法、皆、悉く消除して、定んで、如来の執金剛性を得、疾かに無上正等菩提を証せん。』と。
『仏』は、
是のような、
『般若の理趣』が、
『無辺、無際、究竟』である!という、
『金剛の法』を説き已ると、
『金剛手菩薩』等に告げて、
こう言われた、――
若し、
是のような、
『究竟』の、
『般若の理趣』である!、
『金剛の法門』を聞く!ことができ、
『信解、受持、読誦、修習』する!ならば、
一切の、
『障法(障害)』は、
皆、
『悉く!』が、
『消除して!』、
定んで、
『如来』の、
『執金剛の性』を、
『得る!』ことができ、
疾かに、
『無上正等菩提』を、
『証する!』だろう、と。
  執金剛性(しゅうこんごうしょう):梵語vajra- dRDhataaの訳。金剛(武器)を堅持するの義。



15.畢竟大楽最勝成就

爾時世尊復依遍照如來之相。為諸菩薩宣說般若波羅蜜多得諸如來祕密法性及一切法無戲論性大樂金剛不空神咒金剛法性。初中後位最勝第一甚深理趣無上法門。 爾の時、世尊は、復た遍く照す如来の相に依りて、諸の菩薩の為に宣説したまわく、『般若波羅蜜多は、諸の如来の秘密の法性と、及び一切法の無戯論の性と、大楽の金剛たる不空の神咒と、金剛の法性とを得る、初中後位、最勝第一の、甚深の理趣にして、無上の法門なり。
爾の時、
『世尊』は、
復た、
『遍く照す!』という、
『如来の相』に依り、
諸の、
『菩薩』の為に、
こう宣説された、――
『般若波羅蜜多』は、
諸の、
『如来』の、
『秘密の法性』と、
及び、
一切の、
『法』の、
『無戯論の性』とを、
『得た!』、
『大楽の金剛』であり!、
『不空の神呪』であるという!、
『金剛の法性』であり!、
『初、中、後位(徹頭徹尾)』、
『最勝』であり、
『第一』である!、
『甚深の理趣(般若の道)』であり、
『無上の法門』である!。
  諸如来秘密法性(しょにょらいひみつほっしょう):梵語sarva- tathaagata- guhya- dharmataaの訳。一切の如来の隠れたる法性の意。
  一切法無戯論性(いっさいほうむけろんしょう):梵語sarvadharma- aprapaJcataaの訳。一切の法の無戯論性なることをいう。
  大楽金剛不空神呪金剛法性(だいらくこんごうふくうじんじゅなるこんごうほっしょう):梵語mahaa- sukha- vajra- amogha- dhaaraNii naama vajradharmataaの訳。大安楽の金剛菩提心という、堅固にして真実なる神咒である金剛菩提心の法性の意。神咒は不可思議功徳の意。
  初中後位(しょちゅうごい):徹頭徹尾。
  :「述讃」には、「甚深理趣無上法門」と標し、「二果を得已りて自利利他し、三界の主と為りて、諸の有情の所願に随い、皆利他の果徳を証す」と略讃する。
謂大貪等最勝成就。令大菩薩大樂最勝成就 謂わゆる大貪等の最勝成就は、大菩薩をして、大楽を、最勝成就せしむ。
その意味は、――
『大貪』等の、
『最勝成就』は、
『大菩薩』をして、
『大楽』を、
『最勝成就せしめる!』。
  大貪等(だいとんとう):梵語mahaa- lobha- aadiの訳。大貪など。
  最勝成就(さいしょうじょうじゅ):梵語uttama- siddhiの訳。完璧に成就するの意。
  大楽(だいらく):梵語mahaa- sukhaの訳。最大の安楽の意。
大樂最勝成就。令大菩薩一切如來大覺最勝成就。 大楽の最勝成就は、大菩薩をして、一切の如来の大覚を、最勝成就せしむ。
『大楽』の、
『最勝成就』は、
『大菩薩』をして、
『一切の如来』の、
『大覚』を、
『最勝成就せしめる!』。
  一切如来大覚(だいがく):梵語sarva- tathaagata- mahaa- bodhiの訳。
一切如來大覺最勝成就。令大菩薩降伏一切大魔最勝成就。 一切の如来の大覚の最勝成就は、大菩薩をして、一切の大魔の降伏を、最勝成就せしむ。
『一切の如来』の、
『大覚』の、
『最勝成就』は、
『大菩薩』をして、
『一切の大魔』の、
『降伏』を、
『最勝成就せしめる!』。
  降伏一切大魔(ごうぶくいっさいだいま):梵語sarva- mahaa- maara- pramardanaの訳。一切の大魔を降伏するの意。
降伏一切大魔最勝成就。令大菩薩普大三界自在最勝成就。 一切の大魔の降伏の最勝成就は、大菩薩をして、大三界に普く自在なるを、最勝成就せしむ。
『一切の大魔』の、
『降伏』の、
『最勝成就』は、
『大菩薩』をして、
『大三界に普き!』、
『自在』を、
『最勝成就せしめる!』。
  普大三界自在(ふだいさんがいじざい):梵語sakala- mahaa- traidhaatukaadhipatiの訳。三界に遍くする大自在主の意。
普大三界自在最勝成就。令大菩薩能無遺餘。拔有情界利益安樂一切有情。畢竟大樂最勝成就。 大三界の普き自在の最勝成就は、大菩薩をして、能く遺余無く、有情界より抜かしめ、一切の有情を利益し安楽ならしめて、畢竟大楽なるをして、最勝成就せしむ。
『大三界に普き!』、
『自在』の、
『最勝成就』は、
『大菩薩』をして、
『一切の有情』を、
『遺余無く!』、
『有情界』より抜いて、
『利益』し、
『安楽ならしめる!』ことができ、
『畢竟の大楽(安楽浄土)』を、
『最勝成就せしめる!』。
  拔有情界(ばつうじょうかい):梵語sattva- dhaatu- paritraaNa?の訳。有情界より有情を拔済するの意。
所以者何。乃至生死流轉住處有勝智者齊此常能以無等法。饒益有情不入寂滅。 所以は何んとなれば、乃至生死流転の住処まで、勝智有る者は、斉(ひと)しく此(ここ)に常に、能く無等の法を以って、有情を饒益し、寂滅に入らざればなり。
何故ならば、
乃至、
『生死』という、
『住処』に、
『流転』してまでも、
『勝智有る!』者は、
此の中に於いて、
斉(ひと)しく、    ――一切の国土に普く!――
常に、          ――一切の劫に於いて!――
『無等(最上)の法』を以って、
『有情』を、
『饒益する!』ことができ、
『寂滅』に、
『入らない!』からである。
  無等法(むとうのほう):世間に並ぶものなき法の意。
又以般若波羅蜜多方便善巧成立勝智。善辦一切清淨事業。能令諸有皆得清淨。 又、般若波羅蜜多を以って、方便善巧たりて、勝智を成立し、一切の清浄事業を善辦し、能く諸有をして、皆清浄を得しむればなり。
又、
『般若波羅蜜多』の、
『方便』は、
『善巧であり!』、
『勝智』を、
『成立する!』ので、
一切の、
『清浄の事業』を、
『善く辦ずる(うまく処理する)!』ことを以って、
諸の、
『有(存在)』をして、
皆、
『清浄』を、
『得しめる!』ことができるからである。
  方便善巧(ほうべんぜんぎょう):梵語upaaya- kauzalaの訳。方便の賢明なることをいう。
  成立(じょうりゅう):梵語utpadyate、utpadyatiの訳。生起するの意。成就。
  善辦(ぜんべん):善く実践すること。善修。
  清浄事業(しょうじょうじごう):梵語parizuddha- arthaの訳。有情を利益するに清浄なるをいう。
  諸有(しょう):梵語sarvabhaavaの訳。一切の有為法の意。
又以貪等調伏世間。普遍恒時乃至諸有。皆令清淨自然調伏。 又貪等を以って、世間を調伏し、普遍、恒時に、乃至諸有を、皆、清浄ならしむれば、自然に調伏すればなり。
又、
『貪』等を以って、
『世間』を、
『調伏して!』、
普遍(あまねく)!、
恒時(つねに)!、
乃至、
諸の、
『有』をして、
皆、
『清浄ならしめる!』ならば、
『自然』に、
『調伏する!』からである。
  普遍(ふへん):梵語sarvatasの訳。周遍、完全、徹底の義。
  恒時(ごうじ):梵語nitya- kaalamの訳。常時、常に、いつでもの義。
  自然調伏(じねんちょうぶく):梵語aprayatna- vinaya?の訳。努力せずに調伏するの意。
  :般若波羅蜜多の善巧方便に於いて、貪等は必ずしも悪ならず。何となれば、即ち此の段を以って答う。
又如蓮華形色光淨。不為一切穢物所染。如是貪等饒益世間。住過有過常不能染。 又、蓮華の、形、色、光浄にして、一切の穢物の染むる所と為らざるが如く、是の如き貪等は、世間を饒益するに、過に住し、過有るも、常に染むる能わず。
又、
譬えば、
『蓮華』は、
『形、色、光』が、
『浄らか!』でありながら、
一切の、
『穢物』に、
『染められない!』ように、
是のような、
『貪』等も、
『世間』を、
『饒益し!』ながら、
『世間』の、
『過(とが)』に住して、
『過』を、
『有する!』のであるが、
『過』は、
『染する!』ことが、
『できない!』からである。
  形色(ぎょうしき):梵語saMsthaana- ruupaの訳。色法中質礙麁者にして、触るるに因りて長短等を覚知すべきものをいう。
  光浄(こうじょう):梵語aabhaasvara?の訳。明るく輝くの義。
  (か):梵語doSaの訳。過失、犯罪、罪悪、暗闇等の義。
又大貪等能得清淨大樂大財三界自在。常能堅固饒益有情。 又、大貪等は、能く清浄、大楽、大財、三界の自在を得て、常に能く堅固にして、有情を饒益す。
又、
『大貪』等は、
『清浄』の、
『大楽』と、
『大財』と、
『三界の自在』とを、
『得る!』ことができ、
常に、
『堅固』に、
『有情』を、
『饒益する!』ことができるからである。
  大貪等(だいとんとう):梵語mahaa- lobha- aadi?の訳。平等を得るが故に、貪は己の為にあらず、唯他の為にのみ貪するをいう。



16.不空神呪疾証菩提

爾時如來即說神咒 爾の時、如来は、即ち神咒を説きたまわく、
爾の時、
『如来』は、
即ち、
『神咒』を、こう説かれた、――
  神咒(じんじゅ):梵語dhaaraNiiの訳。神秘的呪文。
納慕薄伽筏帝(一)缽刺壤波囉弭多曳(二)薄底(丁履反)筏攃(七葛反)羅曳(三)罨跛履弭多窶拏曳(四)薩縛呾他揭多跛履布視多曳(五)薩縛呾他揭多奴壤多奴壤多邲壤多曳(六)呾姪他(七)缽刺[口*兮](一弟反)缽刺[口*兮](八)莫訶缽喇[口*兮](九)缽刺壤婆娑羯[口*麗](十)缽刺壤路迦羯[口*麗](十一)案馱迦囉毘談末[泥/土](十二)悉遞(十三)蘇悉遞(十四)悉殿都漫薄伽筏底(十五)薩防伽孫達[口*麗](十六)薄底筏攃[口*麗](十七)缽刺娑履多喝悉帝(十八)參磨濕[口*縛]婆羯[口*麗](十九)勃[口*陀]勃[口*陀](二十)悉[口*陀]悉[口*陀](二十一)劍波劍波(二十二)浙羅浙羅(二十三)曷邏[口*縛]曷邏[口*縛](二十四)阿揭車阿揭車(二十五)薄伽筏底(二十六)麼毘濫婆(二十七)莎訶(二十八) ナウボバギャバーテイ(一)ハラジャハラミタエイ(二)バチバザラエイ(三)アフハリミタグナエイ(四)サルバタタギャタ・ハリフジタエイ(五)サルバタタギャタ・ドジャタドジャタ・ビジャタエイ(六)タニヤタ(七)ハラエイハラエイ(八)マカハラエイ(九)ハラジャバサキャレイ(十)ハラジャロキャキャレイ(十一)アンダキャラ・ビダンマニ(十二)シツデイ(十三)ソシツデイ(十四)シツデントマン・バギャバチ(十五)サルボウギャソンダレイ(十六)バチバサレイ(十七)ハラサリタカシツテイ(十八)サンマジンバサキャレイ(十九)ボダボダ(二十)シツダシツダ(廿一)ケンバケンバ(廿二)シャラシャラ(廿三)キャラバキャラバ(廿四)アギャシャアギャシャ(廿五)バギャバチ(廿六)マビランバ(廿七)ソハカ(廿八)
  (現代語訳なし)
如是神咒三世諸佛皆共宣說同所護念。能受持者一切障滅。隨心所欲無不成辦。疾證無上正等菩提。爾時如來復說神咒 是の如き神呪は、三世の諸仏の皆共に宣説し、同じく護念する所なり。能く受持せば、一切の障(さわり)滅して、心の欲する所に随って、成辦せざる無く、疾かに無上正等菩提を証せん。爾の時、如来は、復た神呪を説きたまわく、
是のような、
『神咒』は、
『三世の諸仏』が、
皆、
『共に宣説して!』、
『同じく護念する!』所であり、
『受持する!』者は、
一切の、
『障(煩悩、業、異熟障)』が、
『滅する!』ので、
『心』の、
『欲する!』所のままに、
『成辦しない!』ことが、
『無く!』、
疾かに、
『無上正等菩提』を、
『証する!』だろう、と。
爾の時、
『如来』は、
復た、
『神呪』を、こう説かれた、――
  成辦(じょうべん):梵語karaNa- prasiddhi?の訳。修行の達成の意。
納慕薄伽筏帝(一)缽刺壤波囉弭多臾(二)呾姪他(三)牟尼達[繼-糸+言](四)僧揭洛訶達[繼-糸+言](五)遏奴揭洛訶達[繼-糸+言](六)毘目底達[繼-糸+言](七)薩馱奴揭洛訶達[繼-糸+言](八)吠室洛末拏達[繼-糸+言](九)參漫多奴跛履筏刺呾那達[繼-糸+言](十)窶拏僧揭洛訶達[繼-糸+言](十一)薩縛迦羅跛履波刺那達[繼-糸+言](十二)莎訶(十三) ナウボバギャバテイ(一)ハラジャハラミタエイ(二)タニャタ(三)ムニダルメイ(四)ソウギャラカダルメイ(五)アドギャラカダルメイ(六)ビモクチダルメイ(七)サダドギャラカダルメイ(八)ベイシラマナダルメイ(九)サンマンダドハリバラタナダルメイ(十)グナソウギャラカダルメイ(十一)サラバキャラハリハラナダルマイ(十二)ソハカ(十三)
  (現代語訳なし)
如是神咒是諸佛母。能誦持者一切罪滅。常見諸佛得宿住智。疾證無上正等菩提。爾時如來復說神咒 是の如き神咒は、是れ諸仏の母なり。能く誦持せば、一切の罪滅して、常に諸仏を見、宿住の智を得て、疾かに無上正等菩提を証せん。爾の時、如来は、復た神呪を説きたまわく、
是のような、
『神咒』は、
『諸仏の母』であり!、
『誦持する!』者は、
一切の、
『罪』が、
『滅する!』ので、
常に、
諸の、
『仏』を見て、
『宿住智』を、
『得る!』ことができ、
疾かに、
『無上正等菩提』を、
『証する!』だろう、と。
爾の時、
『如来』は、
復た、
『神呪』を、こう説かれた、――
  宿住智(しゅくじゅうのち):梵語puurva- nivaasa- jJaanaの訳。前世の生を憶念して知る智慧の意。
納慕薄伽筏帝(一)缽刺壤波囉弭多臾(二)呾姪他(三)室[口*麗]曳(四)室[口*麗]曳(五)室[口*麗]曳(六)室[口*麗]曳細(七)莎訶(八) ナウボバギャバテイ(一)ハラジャハラミタエイ(二)タニャタ(三)シツレイエイ(四)シツレイエイ(五)シツレイエイ(六)シツレイエイサイ(七)ソハカ(八)
  (現代語訳なし)
如是神咒具大威力。能受持者業障消除。所聞正法總持不忘。疾證無上正等菩提。 是の如き神咒は、大威力を具う。能く受持せば、業障消除して、聞く所の正法を総持して忘れず、疾かに無上正等菩提を証せん。
是のような、
『神咒』は、
『大威力』を、
『具えており!』、
『受持する!』者は、
『業障』が、
『消除する!』ので、
『聞く!』所の、
『正法』を、
『総持(記憶)して!』、
『忘れず!』、
疾かに、
『無上正等菩提』を、
『証する!』だろう、と。
  業障(ごうしょう):梵語karma- aavaraNaの訳。業が隠蔽するの義。身口意の造作する所の不善業は能く修行を障礙するの意。
  総持(そうじ):梵語aadhaaraNa、或いはdhaaraNaの訳。帯同する、保持する等の義。正法を憶持して忘れないの意。



17.讃般若理趣品

爾時世尊說是咒已。告金剛手菩薩等言。若諸有情於每日旦。至心聽誦如是般若波羅蜜多甚深理趣最勝法門無間斷者。諸惡業障皆得消滅。諸勝喜樂常現在前。 爾の時、世尊は、是の咒を説き已りて、金剛手菩薩等に告げて言わく、『若し、諸の有情、日旦毎に於いて、至心に是の如き般若波羅蜜多の甚深の理趣の最勝法門を聴誦して、間断無くんば、諸の悪業の障の、皆、消滅することを得、諸の勝喜楽、常に現じて、前に在らん。
爾の時、
『世尊』は、
是の、
『咒』を、
『説き已る!』と、
『金剛手菩薩』等に告げて、
こう言われた、――
若し、
諸の、
『有情』が、
『日旦(早朝)』毎に、
是のような、
『般若波羅蜜多』の、
『甚深の理趣』という、
『最勝の法門』を、
至心(心より)に!、
『聴誦して!』、
『間断(断絶)する!』ことが、
『無ければ!』、
諸の、
『悪業の障(さわり)』が、
皆、
『消滅する!』ことを、
『得て!』、
諸の、
『勝れた喜楽』が、
常に、
『前に!』、
『現在する!』だろう。
  日旦(にちたん):あさ。夜明。
  至心(ししん):梵語avirahita?の訳。不離とも訳す。離れないこと。
  間断(けんだん):間を開けることと断絶すること。
大樂金剛不空神咒現身必得。究竟成滿一切如來金剛祕密最勝成就。不久當得大執金剛及如來性。 大楽の金剛たる不空の神咒を、現身に必ず究竟じて成満するを得、一切の如来の金剛秘密の最勝成就して、久しからずして、当に大執金剛、及び如来性を得しむべし。
『大楽の金剛(大安楽の菩提心)』という、
『不空の神咒(不空不可思議なる功徳)』を、
『現身』に、
必ず、
『究竟じて!』、
『成満することができ!』、
一切の、
『如来』の、
『金剛の秘密』を、
『最勝の成就』して、
久しからずして、
『大執の金剛』と、  ――大いに執る金剛(武器)――
『如来の性』とを、
『得る!』だろう。
  大執金剛(だいしゅうこんごう):梵語mahaa- vajra- dRDhataaの訳。大金剛(武器)を堅持するの義。
  如来性(にょらいしょう):梵語tathaagatatva?の訳。如来の法性の意。
若有情類未多佛所植眾善根久發大願。於此般若波羅蜜多甚深理趣最勝法門。不能聽聞書寫讀誦供養恭敬思惟修習。要多佛所植眾善根久發大願。乃能於此甚深理趣最勝法門。下至聽聞一句一字。況能具足讀誦受持。 若し有情の類、未だ多くの仏の所に衆善根を植え、久しく大願を発(おこ)さずんば、此の般若波羅蜜多の甚深の理趣、最勝の法門に於いて、聴聞、書写、読誦、供養、恭敬、思惟、修習すること能わず、要(かな)らず、多くの仏の所に衆善根を種え、久しく大願を発せば、乃ち能く、此の甚深の理趣、最勝の法門に於いて、下は一句一字を聴聞するに至れり。況んや、能く具足して読誦、受持するをや。
若し、
『有情の類』が、
未だ、
『多くの仏』の所に於いて、
『衆(多く)の!』の、
『善根』を、
『植えず!』に、
『大願』を、
『久しく!』、
『発(おこ)さなかった!』ならば、
此の、
『般若波羅蜜多』の、
『甚深の理趣』という、
『最勝の法門』を、
『聴聞、書写、読誦、供養、恭敬、思惟、修習する!』ことが、
『できない!』のであり、
要(かな)らず、
『多くの仏』の所に於いて、
『衆の!』、
『善根』を、
『植え!』、
『久しく!』、
『大願』を、
『発してきた!』者だけが、
乃ち(ようやく)、
此の、
『甚深の理趣(智慧の道)』という!、
『最勝の法門(菩提の門)』を、
下は、
『一句一字』を、
『聴聞する!』に、
『至る!』のであり、
況()して、
『具足して(完全に)!』、
『読誦、受持する!』のは、
『言うまでもなく!』、
『困難なのである!』。
若諸有情供養恭敬尊重讚歎八十殑伽沙等俱胝那庾多佛。乃能具足聞此般若波羅蜜多甚深理趣。 若し諸の有情、八十殑伽沙等俱胝那庾多の仏を供養し、恭敬、尊重、讃歎せば、乃ち能く具足して、此の般若波羅蜜多の甚深の理趣を聞かん。
若し、
諸の、
『有情』が、
『八十恒河沙』等の、
『俱胝那由他』の、
『仏』を、
『供養、恭敬、尊重、讃歎した!』ならば、
乃ち、
此の、
『般若波羅蜜多』の、
『甚深の理趣』を、
『具足して!』、
『聞く!』ことが、
『できる!』。
  殑伽沙等(ごうがしゃとう):梵語gaGgaa- nadii- vaalukaa- samaの訳。殑伽河の沙の数にも等しきの義。
  俱胝(くち):梵語koTiiの訳。千万、或いは一億の称と云う。
  那庾多(なゆた):梵語nayutaの訳。一億、或いは俱胝の十万倍の称と云う。
若地方所流行此經。一切天人阿素洛等。皆應供養如佛制多。有置此經在身或手。諸天人等皆應禮敬。 若しは、地方に流行する所の此の経を、一切の天、人、阿素洛等は、皆応に、仏の制多の如く、供養すべし。有るいは此の経を置きて、身或いは手に在らば、諸の天、人等、皆応に礼敬すべし。
若し、
『地方』に、
『流行する!』所の、
此の、
『経』は、
一切の、
『天、人、阿素洛(阿修羅)』等は、
皆、
『仏の制多()』のように、
『供養するべき!』であり、
若し、
此の、
『経』を、
『身に著けたり!』、
『手に持ったり!』していれば、
諸の、
『天、人』等は、
皆、
『礼敬するはず!』である。
  阿素洛(あそら):梵語asura。常に帝釈天と戦闘せる鬼神を云う。六道の一。四悪道の一。阿修羅。
  制多(せいた):梵語caitya。塔と訳す。仏の遺灰等を埋葬したるが如き至聖所に建造せらるる記念碑。
  仏制多(ほとけのせいた):梵語tathaagata- caitya。仏の遺灰を埋葬したる所に建造せられたる記念碑。
若有情類受持此經。多俱胝劫。得宿住智常勤精進修諸善法。惡魔外道不能稽留。四大天王及餘天眾。常隨擁衛未曾暫捨。終不橫死[打-丁+王]遭衰患。諸佛菩薩常共護持。令一切時善增惡滅。於諸佛土隨願往生。乃至菩提不墮惡趣。 若し有情の類、此の経を受持すること多俱胝劫ならば、宿住の智を得て、常に勤めて精進し、諸の善法を修め、悪魔、外道も稽留する能わず、四大天王、及び余の天衆、常に随いて擁衛し、未だ曽て暫くも捨てず、終に横死、枉遭、衰患せず、諸仏菩薩、常に共に護持して、一切の時をして、善を増して、悪を滅せしめ、諸の仏土に於いて、願に随いて往生し、乃至菩提まで、悪趣に堕ちず。
若し、
『有情の類』が、
此の、
『経』を、
『多くの俱胝劫』、
『受持していた!』ならば、
『宿住智』を得て、
常に、
『精進』を、
『勤めて!』、
諸の、
『善法』を、
『修める!』ので、
『悪魔、外道』も、
『稽留する(引留める)!』ことが、
『できず!』、
『四大天王、及び余の天衆』が、
常に、
『随って!』、
『擁衛(擁護)し!』、
未だ曽て、
『暫く!』も、
『見捨てず!』、
終(つい)に、
『横死、枉遭、衰患する!』ことが、
『無く!』、
『諸仏、菩薩』が、
常に、
『共に!』、
『護持して!』、
一切の時に、
『善を増さしめ!』、
『悪を滅せしめる!』ので、
諸の、
『仏土』に、      ――生生常に仏に見ゆるを云う――
『願のままに!』、
『往生し!』、
乃至、
『菩提』まで、
『悪趣』に、
『堕ちない!』。
  宿住智(しゅくじゅうのち):前世よりの智慧。
  稽留(けいりゅう):とどめる。
  擁衛(ようえい):まもる。擁護。
  横死(おうし):災禍に遭い、天命を全うせずに死ぬ。
  枉遭(おうそう):法をまげて罪におとされる。
  衰患(すいげん):おとろえわずらう。
  隨願(ずいがん):梵語yathaa- praarthitam?の訳。願のままに。
  往生(おうじょう):梵語upapad?の訳。又「往く」、「生まる」等に訳す。
諸有情類受持此經。定獲無邊勝利功德。我今略說如是少分。時薄伽梵說是經已。金剛手等諸大菩薩及餘天眾。聞佛所說皆大歡喜信受奉行
大般若波羅蜜多經卷第五百七十八
諸の有情の類、此の経を受持せば、定めて無辺の勝利の功徳を獲(え)ん。我れは今、略して、是の如き少分を説く。時に薄伽梵、是の経を説き已りたもう。金剛手等の、諸の大菩薩、及び余の天衆、仏の説きたもう所を聞きて、皆、大いに歓喜し、信受し奉行せり。
大般若波羅蜜多経巻第五百七十八
諸の、
『有情の類』が、
此の、
『経』を、
『受持する!』ならば、
定んで、
『無辺』の、
『勝利、功徳』を、
『獲()る!』のである。
わたしは、
今、
略して、
是のような、
『少分』を、
『説いた!』、と。
爾の時、
『薄伽梵』は、
是の、
『経』を、
『説き已られた!』。
『金剛手菩薩』等の、
諸の、
『大菩薩、及び余の天衆』は、
『仏』の、
『説かれた!』所を、
『聞いて!』、
皆、
『大歓喜し!』、
『信受し!』、
『奉行した!』。

大般若波羅蜜多経巻第五百七十八
  勝利功徳(しょうりくどく):梵語guNaの訳。行善の果報、福徳。功徳。


著者に無断で複製を禁ず。
Copyright(c)2014 AllRightsReserved