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< は じ め に > 『答叡山澄法師求理趣釈経書』(叡山の澄法師、理趣釈経を求めたるに答うるの書)とは、弘法大師空海から伝教大師最澄に宛てた手紙である。これは弘法大師の著作を集めた遍照発揮性霊集(へんしょうほっきしょうりょうしゅう、性霊集ともいう)の巻き第十に収録されている。
最澄と空海とは共に日本仏教史を飾る双璧である。ただその志は同じではなかった。最澄は法華経を中心として密教を含む全仏教を統率しようと考えていたのに対し、空海はあくまでも仏教界の密教化を考えていたのである。 また仏教そのものに対する考えかたも異なっていた。空海は仏教の実践面を重んじ一人一人の個人的問題と捉え、一方の最澄は先ず仏教界を組織化することに重きを置いたのである。共に仏教のために尽くしながら、その考えかたの違いは大きくいづれはぶつかり合う運命にあった。 最澄は自らが持ち帰った資料の中の密教に関して不足する分を、空海の請来した中に見付けてしばしば借り受けた。更には空海に従って密教の潅頂(かんちょう、密教の仏に結縁する儀式)を受けるようなことまでして自身の中に密教を取り込もうとしたのであるが、この『理趣釈経』の借り受けを断られてからは空海と疎遠になりやがて決別した。 これが断りの手紙である。この中で空海は最澄を罵倒している。その言葉は慇懃であるが、最も初歩的な知識を相手に教えてあげようと言って侮辱しているのである。 しかしそれを非難するのは適当ではない、仏教とはそもそもそういうものなのだ。相手を覚らせることは慈悲である。そのためには相手に応じた手段を選ばなくてはならない。時には歯に衣着せたような優しい言葉が有効である、また時には警策(きょうさく)で背中を打って目を覚まさせることもあり、時に罵倒することも有効なのである。最澄のような仏教界の最高指導者に対して飾った言葉は不用であるし、反って失礼にも当たろう。 空海の真率な人間性はこの手紙によって証明される。それを知る上でこの手紙はこの上なく貴重である。更に仏教とは真剣勝負の中に於いて始めて生きたものになるということを知るためにはもっと貴重である。
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答叡山澄法師求理趣釈経書 |
叡山の澄法師、理趣釈経を求めたるに答うる書 |
比叡山の最澄法師が理趣釈経を求めたので、それに答える書
最澄(さいちょう):伝教大師(でんぎょうだいし、767-822)、平安初期の僧、19歳のとき東大寺で具足戒(ぐそくかい、僧侶となる儀式)を受け、比叡山の草庵にこもって山林修行に入る。やがて名が知られるようになり、30歳のとき内供奉(ないぐぶ、宮中内道場)十禅師に任ぜられ、桓武天皇に認められて37歳のとき短期留学生として遣唐使に随行し唐に渡った、八ヶ月間天台教学を学んで帰国、39歳のとき天台宗の開立を勅許された。 最澄は台州(浙江省)の天台山で天台教学、禅、密教を学んだのであるが、このとき『梵網経(ぼんもうきょう)』に基づく大乗菩薩戒をも受けることができた。東大寺から受けたのは謂ゆる小乗戒である。ここに大乗菩薩戒を授けるための戒壇を比叡山に設置するよう奔走したのであるが、それが許されたのは56歳で死去した七日目であった。東大寺などの干渉を受けずに独自に僧を養成できるために戒壇を設置したことの意味は大きい。 空海(くうかい):弘法大師(こうぼうだいし、774-835)、平安初期の僧、18歳のとき大学に入学したが仏教に引かれて中退し、阿波、土佐、吉野、伊予の山間にて独自に修行した。 30歳のとき東大寺において具足戒を受け、同年最澄が留学生として遣唐使に随行したときに、空海も無名ながら同行することができた。空海は唐の都長安の青龍寺で恵果(けいか)より密教の奥義を授かり、大日如来―金剛薩埵―龍猛―龍智―金剛智―不空―恵果―空海と続く、密教正統の第八祖となった。そして凡そ一年後の帰国にあたっては、多数の密教経典と法具とをもたらしたのである。 空海は仏教以外にも多くの知識と技術をもって世に知らしめている。書に堪能であり嵯峨天皇、橘逸勢(たちばなのはやなり)と共に三筆のひとりに数えられ、或は漢字辞書を著し、或は綜芸種智院(しゅけいしゅちいん)を造って、儒教仏教道教を庶民に講ぜしめ、或は取得した土木工事の技術をもって旱魃に苦しむ讃岐の国に満濃池を修築したりしている。或は語学にも堪能であったようで、恐らく留学のときに通訳の必要は無かったのであろう、恵果は空海が師事して半年で死去するが、このとき全弟子を代表して恵果を顕彰する碑文を起草している。このようなことは通訳を通していてはとてもできるものではないので、この点においても通訳を使用した最澄は後れを取っている。 理趣釈経(りしゅしゃくきょう):大楽金剛不空真実三昧耶経般若波羅蜜多理趣釈(たいらくこんごうふくうしんじつさんまやきょうはんにゃはらみたりしゅしゃく)の別名、不空の訳、或は作。『大楽金剛不空真実三麽耶経(たいらくこんごうふくうしんじつさんまやきょう、理趣経ともいう)』の注釈書。理趣釈経と経の字を付すのは真言宗にてはこれを貴んでいるためであろう。
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書信至深慰下情雪寒伏惟止観座主法友勝常貧道易量貧道与闍梨契積有年歳常思膠漆之芳与松柏不凋乳水之馥将芝蘭弥香 |
書信(しょしん、書簡)至りて深く下情(げじょう、わたくし)を慰む。雪寒し。 伏して惟(おもんみ)れば、止観(しかん、天台宗)の座主、法友の勝れたることは常なりと。 貧道(ひんどう、わたくし)の易(たやす)く量るらくは、貧道と闍梨(じゃり、導師)と契りて積むこと年歳有りと。 常に思わくは、膠漆(こうしつ)の芳しさと、松柏の凋(しぼ)まざるとなり。 乳水の馥(かおり)は芝蘭(しらん)とともにいよいよ香ぐわし。 |
お手紙を頂戴いたし、深く慰められました。雪が寒うございます。 顔を伏せれば思い出されます、 天台宗の座主である法友は私に勝れていて、それが常でございました。 指を折って数えてみました、二人が友情の契りを結んでからもう何年になったのかと。 常に思っております、 膠(にかわ)か漆(うるし)のように着いて離れない友情の芳しさ、 松柏(しょうはく、マツとヒノキ、共に常緑の樹)が枯れないように、 二人の友情も枯れることがありません。 それどころか乳と水のように、二人は溶け合って香り、 その香りは芝蘭と競い合っています。
下情(げじょう):情は有情、即ち衆生のこと、へりくだって下情という。 闍梨(じゃり):阿闍梨(あじゃり)、弟子の行為を矯正し、教団の規則を師範する高僧。 芝蘭(しらん):芝は霊之(レイシ)、古木の根に生ずる芳香のある塊。蘭はキク科の蘭草、芳香がある。 |
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舒止観羽翼高翥二空上騁定慧驥騮遠跨三有之外分多宝座弘釈尊法此心此契誰忘誰忍 |
止観の羽翼を舒(の)べて、高く二空(にくう、人法両空)の上に翥(とびあが)り、 定慧(禅定と智慧)の驥騮(きりゅう、千里の馬)を騁(は)せて遠く三有(さんう、三界)の外に跨り、 多宝(たほう、多宝仏)と座を分かちて、釈尊の法を弘む。 この心とこの契り、誰か忘れ誰か忍ばん。 |
あなたは、 止(し、禅定)と観(かん、観察)との両翼を広げて飛びあがり、 高みから人も物も空であるという虚無の世界を見下ろし、 禅定と智慧という千里の馬を駆け馳せて、三界(衆生世界)の内外を自由に行き来し、 多宝如来と半座を分かって、釈尊に代わって法を弘めていらっしゃいます。 このようなあなたの志と友情の契りとを、誰が忘れ誰が言わずにおられましょうか。
止観(しかん):禅定と智慧、次々と起こる妄想を止めることにより、平等の智慧を起こし観察すること。鳥の両翼に喩える。仏教全体の教えであるが、天台大師智顗(ちぎ、天台宗の開祖)は『摩訶止観』を著している。 二空(にくう):人の身心は空であるとする人空と、一切の物事は空であるとする法空をいう、やや小乗的な考え。 三有(さんう):欲界、色界、無色界の三界をいう。地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六道と同じ。 多宝(たほう):多宝如来、東方宝浄世界の教主。入滅後に本願を以って全身舎利となり、諸仏が法華経を説くときに必ずその場に現前する。(『大智度論』巻第七) また釈迦が法華経を説いたとき、地より多宝仏の宝塔が涌出した。その塔の中に多宝仏と釈迦が座を分けて坐る。(『法華経』見宝塔品第十一) |
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雖然顕教一乗非公不伝秘密仏蔵唯我所誓彼此守法不遑談話不謂之志何日忘矣 |
然りといえども、顕教(けんきょう)の一乗(いちじょう)は公(きみ)に非ざれば伝えず、 秘密の仏蔵はただ我が誓う所なり。 彼とこれと法を守って談話するに遑(いとま)あらず。謂わざるの志、何れの日にか忘れん。 |
そうではありますが、法華経の教えは、あなたでなければ伝えることができませんし、 秘密の教えはわたくしが伝えようと誓うものでございます。 あれこれと法を守り伝えることにいそがしく、談話している暇もございませんが、 言わなくても分かるこの志を、いつの日にか忘れてもよいものでしょうか。
顕教(けんきょう):秘密の教えである密教に対する言葉。経に表された教えをいう。 一乗(いちじょう):声聞乗(仏の説法を聞いて覚る者の教え)、縁覚乗(独自に覚る者の教え)、菩薩乗(一切の衆生を覚らせる教え)の三乗は一の仏乗に収斂されるという教え。(『法華経』方便品第二) 秘密の仏蔵:世界に遍満する大日如来は秘密の手段で法を説く。そこに説かれる法。 |
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忽開封緘具覚覓理趣釈雖然疑理趣多端所求理趣指何名相 |
忽(たちま)ち封緘を開いて具(つぶさ)に覚る、理趣釈を覓(もと)むと。 然りといえども疑わくは、理趣は端(はし、糸口)多し、求むる所の理趣とは何れの名相を指すやと。 |
このようなことを考えながら、封を開きよくよく拝読いたしました所、 『理趣釈(りしゅしゃく)』をお求めのことと得心いたしました。 しかしながらどうも納得いたし難く思われます、 理趣という言葉は甚だ多くの意味を含んでおります、 お求めになったのは、どの理趣を指して仰るのでございましょうか。
理趣(りしゅ):道理への道、覚りに至る道を論理的に説く。 名相(みょうそう):名と物。一切の事物には名と相がある。耳に聞くものを名といい、目で見るものを相をいう。 |
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夫理趣之道釈経之文天所不能覆地所不能載塵刹之墨河海之水誰能敢得尽其一句一偈之義乎自非如来心地之力大士如空之心豈能信解受持乎 |
それ理趣(りしゅ、理の道)の道、釈経の文は天も覆うこと能わざる所、地も載すること能わざる所なり。 塵刹(じんせつ、無数の世界を一塊にする)の墨、河海の水、誰かよく敢えてその一句一偈の義(意味)を尽くすことを得んや。 自ら如来心地の力、大士(菩薩)の空の如き心に非ずんば、豈(あに)よく信解(しんげ)受持(じゅじ)せんや。 |
そもそも理趣の道と、釈経(理趣釈)の文とは天でさえ覆うことができないほど広く、 地も載せることができないほど重く、 全世界を粉にして一塊にしたほどの墨と、河と海の水を全部尽くしても、 これらの一句一偈の意味すら書きつくすことは、誰にもできないことなのです。 わたくしたちが、一切を生み出すこと大地のごとき如来の心と、 広く寛容なること大空のごとき菩薩の心とを持っていないのであれば、 どうしてそれを信じ、理解し、受け、保持することなどできましょうか。 |
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余雖不敏略示大師之訓旨冀子正汝智心浄汝戯論聴理趣之句義密教之逗留 |
余(よ、われ)不敏なりといえども、略して大師(釈迦)の訓旨(くんし、教え)を示さん。 冀(こいねがわ)くは、子(し、あなた)汝が智心を正し、汝が戯論(けろん、冗談の如き言論)を浄めて、理趣の句義(くぎ、意味)と、密教の逗留(とうりゅう、奥義)とを聴け。 |
わたくしは愚鈍ではございますが、簡単に釈迦の教えをお示し申しましょう。 なにとぞ智慧の心を正し、戯れの論議を誡めて、 理趣の意味と密教の奥義をお聴きください。 |
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夫理趣妙句無量無辺不可思議摂広従略棄末帰本且有三種一可聞理趣二可見理趣三可念理趣 |
それ理趣の妙句は無量無辺不可思議なり。 広を摂(おさ)めて略に従い、末を棄てて本に帰すに且(しばらく)三種あり。 一は可聞の理趣、二は可見の理趣、三は可念の理趣なり。 |
そもそも理趣の意味は、妙にして広く無量無辺、思議し難きものでございます、 そこで詳細ではなく簡略に、枝葉を捨てて根本のみを説くということにすれば、 ほぼ三種に分けることができましょう。 一は聞く理趣、二は見る理趣、三は念(おも)う理趣でございます。 |
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若求可聞理趣者可聞者則汝声密是也汝口中言説即是也更不須求他口中 |
もし可聞の理趣を求むれば、聞く可きは則ち汝が声密(しょうみつ、声)これなり。汝が口中の言説、即ちこれなり。 更に他の口中に求むるを須(もち)いざれ。 |
もし聞く理趣をお求めであれば、聞かなければならないのは、 あなたの声がそれでございます。 あなたが口で説く言葉がそれでございます。 その上に他人の口中にまで求めてはなりません。 |
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若覓可見理趣者可見者色汝四大等即是也更不須覓他身辺 |
もし可見の理趣を覓(もと)むれば、見る可きは汝が四大(地水火風の性質をもつ物質の構成要素)等、即ちこれなり。 更に他の身辺に覓むるを須いざれ。 |
もし見る理趣をお求めであれば、見なくてはならないのは、 あなたの身体がそれでございます。 その上に他人の身辺にまで求めてはなりません。 |
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若索可念理趣者汝一念心中本来具有更不須索他心中 |
もし可念の理趣を索(もと)むれば、汝が一念(いちねん、一瞬)の心中に本来具有(ぐゆう、備え持つ)す。 更に他の心中に索むるを須いざれ。 |
もし念(おも)う理趣をお求めであれば、 あなたの一瞬ごとの心中に本来備え持っておられます。 その上に他人の心中にまで求めてはなりません。 |
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復次有三種心理趣仏理趣衆生理趣 |
また次に三種あり。 心の理趣、仏の理趣、衆生の理趣なり。 |
また別の三種もございます。 心の理趣、仏の理趣、衆生の理趣と申します。 |
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若覓心理趣者汝心中有不用覓別人身中 |
もし心の理趣を覓むれば、汝が心中にあり。 別人の身中に覓むるを用いざれ。 |
もし心の理趣をお求めであれば、 あなたの心の中にございます。 別人の身体の中にまで求めてはなりません。 |
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若求仏理趣者汝心中能覚者即是又可求諸仏辺不須覓凡愚所 |
もし仏の理趣を求むれば、汝が心中の能覚の者(覚りの主体)、即ちこれなり。また諸仏の辺りに求むべし。 凡愚の所に覓むるを須いざれ。 |
もし仏の理趣をお求めであれば、 あなたの心の中にある仏性がそれでございます。 または諸仏の辺にお求めになればよろしいでしょう。 凡愚の者の辺にお求めになるものではございません。 |
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若覓衆生理趣者汝心中有無量衆生可随其覓 |
もし衆生の理趣を覓むれば、汝が心中に無量の衆生あり。 それに随うて覓むべし。 |
もし衆生の理趣をお求めであれば、 あなたの心中には無量の衆生がお有りです。 そこにお求めください。 |
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又有三種文字観照実相也 |
また三種あり。 文字と観照と実相となり。 |
また三種あります。 文字と、観照(観察)と、実相(真如、真実なるもの)と申します。 |
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若覓文字則声上屈曲即是不対不碍若紙墨和合生文字彼処亦有又須覓筆紙博士辺 |
もし文字を覓むれば、則ち声の上の屈曲、即ちこれ不対不碍(ふたいふげ、非物質的)なり。 紙墨和合して文字を生ずるがごときは、彼の処にもまたあり。 また須(すべか)らく筆と紙と博士の辺りに覓むべし。 |
もし文字を求めるのであれば、文字とは声の調子が上がり下がりすること、 これは物ではありませんので、お求めになっても困ります。 紙と墨が和合して生み出した文字をお求めならば、 あなたの所にもきっとそれが有りましょう。 あるいは筆と、紙と、文章博士の辺にお求めになってはどうでしょうか。
対碍(たいげ):対とは同じ場所に同時に存在できないこと、碍とは障害しあうこと。あらゆる物質の持つ空間的占有をいう。 |
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若求観照則能観之心所観之境無色無形誰取誰与 |
もし観照を求むれば、則ち能観の心、所観の境なり。 色なく形なし。誰か取り誰か与えん。 |
もし観照をお求めであれば、 観るものは心、観られるものは心に映った世界です。 物でないものを誰が取り、誰が与えることができましょうか。 |
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若求実相則実相之理無名相無名相者与虚空冥会彼処有空更不用外 |
もし実相を求むれば、則ち実相の理に名相なし。 名相なければ、虚空と冥会(みょうえ、冥合)す。 彼の処にも空あり、更に外(ほか)を用いざれ。 |
もし実相をお求めになっているのであれば、 実相は見ることも聞くこともできません。 見ることも聞くこともできなければ、虚空(大空)と同じです。 あなたの所にも空はございましょう、その外のものを求めないでください。 |
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又所謂理趣釈経者汝之三密則是理趣也我之三密即是釈経汝身等不可得我身等亦不可得彼此倶不可得誰求誰与 |
また所謂(いわゆる)理趣釈経とは、汝が三密(さんみつ、身口意三業)、即ちこれ釈経なり。 汝が身等は不可得(空)、我が身等も不可得、誰か求め誰か与えん。 |
また理趣釈経と言われておりますものは、 あなたの身と口と意(こころ)の行為がそれです。 それが釈経なのです。 あなたの身と口と意とは空であり、わたくしの身と口と意も空なのです、 これを誰が求め誰が与えることができましょうか。 |
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又有二種汝理趣我理趣即是也 |
また二種あり。汝が理趣と我が理趣が、即ちこれなり。 |
また別の二種もごさいます。 あなたの理趣と、わたくしの理趣がそれです。 |
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若求汝理趣則汝辺即有不須求我辺 |
もし汝が理趣を求むれば、則ち汝が辺に、即ち有り。 我が辺に求むるを須いざれ。 |
もしあなたの理趣をお求めであれば、 それはあなたの辺にございます。 わたくしの辺にお求めにならないでください。 |
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若求我理趣則有二種我一五蘊仮我二無我大我 |
もし我が理趣を求むれば、則ち二種の我あり。 一は五蘊(ごうん、身心)の仮我(けが)、 二は無我の大我なり。 |
もしわたくしの理趣をお求めであれば、それには二種のわたくしがあります。 一はわたくしの身と心、これを化我(けが、仮の我)と申します。 二は無我、これを大我(宇宙と一体化した我)と申します。 |
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若求五蘊仮我理趣則仮我者無実体無実体者何由覓得 |
もし五蘊の仮我の理趣を求むれば、則ち仮我とは実体なし。 実体なくば、何によりてか覓めて得ん。 |
もしわたくしの身と心、即ち仮我をお求めであれば、 化我は空であって実体はございません。 実体がない者を、何をお求めになって得ることができましょうか。 |
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若求無我大我則遮那三密即是也 |
もし無我の大我を求むれば、則ち遮那(しゃな、大日如来)の三密(身口意三業)、即ちこれなり。 |
もし無我の大我をお求めであれば、 大日如来の三密(秘密の身口意の行い)がそれでございます。
三密(さんみつ):三密とは仏の力の働きで思慮の及ばない世界であり、身口意の働きが隠されていることをいう。また衆生の三密とは衆生の本性は仏と同じであることからいう。 |
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遮那三密何処不遍汝三密即是不合外求 |
遮那の三密は、何処にか遍ねからざる。 汝が三密は、即ちこれなり。外に求むるべからず。 |
大日如来の三密(身口意)は至るところに遍満しており、無いところはございません。 あなたの三密(身の行い、言葉、想い)がそれなのです。 外に求めることが適当であるとは申されません。 |
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又余未知公是聖化耶為当凡夫耶 |
また余(われ)は、未だ知らず、 公(きみ)はこれ聖化(しょうけ、仏の化生せるもの)なりや、 凡夫に当たると為すや。 |
またわたくしには、未だ知ることができないでおりますが、 あなたは仏の化身でしょうか、 それともただの凡夫(ぼんぶ、凡人、聖人と対の言葉)と考えてよろしいのでしょうか。 |
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若仏化則仏智周円有何所闕更事求覓 |
もし仏化なれば、則ち仏智は周円なり。 何の闕(か)くる所か有りて、更に求覓(ぐみゃく)を事とする。 |
もし仏の化身であれば、 仏の智慧に欠けたものはございません。 何が欠けているとて、懸命に探し求めていらっしゃるのでしょうか。 |
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若権故求覓則如悉達事外道文殊事釈迦若実凡求則応随仏教 |
もし権(ごん、仮)の故に求覓すれば、 則ち悉達(しった、釈尊の幼名)は外道に事(つか)え、 文殊は釈迦に事えたるが如し。 もし実の凡なれば、則ちまさに仏の教えに随うべし。 |
もし修行中の仏であって、探し求めていると仰るのであれば、 昔、釈尊が外道に仕えたように、 文殊菩薩が釈迦に仕えたようになさってはどうでしょうか。 もしただの凡人であれば、当然仏の教えには随うべきでしょう。
外道に事える:釈迦は過去世に於いて外道に事えて妙法華経を得た。即ち、為に所須を供給し、菓を採り、水を汲み、薪を拾い、食を設け、乃至、身を以って床座と為して、身心に倦むことが無かった。(妙法蓮華経 提婆達多品第十二) 文殊菩薩:妙法蓮華経に於いて文殊菩薩は釈迦を取り巻く諸の菩薩衆の中の第一に挙げられ、序品第一、提婆達多品第十二、安楽行品第十四、妙音菩薩品第二十四等の処々に見られる。 |
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若隨仏教則必須慎三昧耶越三昧耶則伝者受者倶無益也 |
もし仏の教えに随えば、則ち必ず須らく三昧耶(さんまや、仏の心、密教的戒律)を慎むべし。 越三昧耶(おつさんまや、非法授受)すれば、則ち伝者と受者とともに無益なり。 |
仏の教えに随うということは、 仏の心に外れてはならないということなのです。 仏の心に外れて非法に教えを授受すれば、 伝える者にも、受ける者にもそれは無益なことなのです。
三昧耶(さんまや):本誓(ほんぜい)、仏の誓い、衆生の修行、或は戒律。 越三昧耶(おつさんまや):妄りに教えを授受すること。 法を受けて修行しない退三昧耶、法を謗る破三昧耶と共に三種重罪とする。 |
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夫秘蔵興廃唯汝我汝若非法而受我若非法而伝則将来求法之人何由得知求道之意非法伝受是名盗法即是誑仏 |
それ、秘蔵(秘密の法蔵)の興廃は、ただ汝と我にあり。 汝はもし非法に受け、我は非法に伝うれば、則ち将来の法を求むる人は、何によりてか道を求むるの意(こころ)を知るを得ん。 非法の伝受は、これを法を盗むと名づく、即ちこれ仏を誑(あざむ)くなり。 |
そもそも密教の興廃は、 ただあなたとわたくしとにだけかかっております。 あなたがもし非法に受け、わたくしがもし非法に伝えたならば、 将来の法を求める人は、 道を求めるということの意味を、何によって知ることができるでしょうか。 非法に伝受することを、法を盗むと申します、 これは仏を欺くことなのです。 |
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又秘蔵奥旨不貴得文唯在以心伝心 |
また秘蔵の奥旨(おうし)は、文を得ることを貴ばず。 ただ心を以って心に伝うるなり。 |
また密教の奥義を文にすることは貴ばれておりません。 ただ心から心に伝えることを貴ぶのです。 |
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文是糟粕文是瓦礫受糟粕瓦礫則失粋実至実棄真拾偽愚人之法愚人之法汝不可随亦不可求 |
文はこれ糟粕、文はこれ瓦礫、糟粕と瓦礫を受くれば、則ち粋実と至実とを失う。 真を棄てて偽を拾うは、愚人の法なり。 愚人の法には、汝は随うべからず、また求むべからず。 |
文は、これは糟粕(そうはく、酒粕)、これは瓦礫なのです。 糟粕や瓦礫をお受けになれば、大切な真実を失ってしまいます。 真を捨てて、偽を拾うのは、愚か者のすることです。 愚か者のすることに、あたたは随わないでください。 もうお求めになりませんよう。 |
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又古人為道求道今人為名利求為名之求不求道之志 |
また古の人は道の為に道を求め、今の人は名利の為に求む。 名の為に求むるは、道を求むる志にあらず。 |
また、昔の人は道の為に道を求めておりました。 今の人は名利の為に道を求めております。 名の為に道を求めるのは、道を求めようという志ではありません。 |
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求道之志忘己道法猶如輪王仕仙 |
道を求むる志は、己(おのれ)を忘るる道法(修行法)なり。 なお輪王(転輪聖王、世界を統べる王)の如きも仙(人)に仕えたり。 |
道を求めようとする志は、自分を忘れて求めるものなのです。 転輪聖王(てんりんじょうおう、全世界を支配する王)が 仙人に仕えたようになさらなければなりません。 |
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途聞途説夫子亦聴時機不応我師黙然 |
途(みち)に聞き途に説くは、夫子(孔子)はまた聴(ゆる)さんとも、時機(時と人)応ぜざれば、我が師は黙然たり。 |
道端に聞いたことを、道端に説くというようなことも、 夫子(ふうし、孔子)ならば、また、 俗人と同じように聴(ゆる、許)されましょうが、 聞く時と、聞く人が相応しくなければ、 わが師釈尊は、 黙然としてお答えにはなられません。
途に聞き途に説く:道端で聞いたことを、そのまま気軽に道端で説くの意。「論語、陽貨」に、「道に聞きて途に説くは、徳の棄つるなり。」とあるに由る。 時機(じき):時と人。機ははたおり機、ここを引けばあそこが動き、それを蹈めばあれが動くの意で、因縁に動かされる人間に喩える。 |
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所以者何法是難思信心能入口唱信修心則嫌退有頭無尾言而不行如信修不足為信修合始淑終君子之人 |
所以(ゆえ)は何(いか)んとなれば、法はこれ思い難く、信心のみよく入る。 口は信じ修むると唱うれど、心は則ち嫌い退けば、頭ありて尾なし。 言いて行わざれば、信じ修むるが如きも信じ修むると為すに足らず。 始め淑(すなお)にして終りは君子の人たるべし。 |
それはなぜかと申しますと、法とは思考し難いものです、しかし 心から信じておれば理解することもできるのです。 口で信じております、修めますと言っておりましても、 心が嫌い、それから逃げようとしておれば、頭が有って尾の無いものと同じです。 言っても行わないのであれば、 信じ修めていたとしても、それは信じ修めることにはなりません。 素直から始まって君子(道を得た人)に終る、 このような人でなくてはならないのです。 |
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世人厭宝女而愛婢賎咲摩尼以緘燕石好偽龍失真像悪乳粥宝鍮石癭者是鑽左手則是 |
世人は宝女(転輪王の七宝の一)を厭うて卑賤を愛し、 摩尼(まに、意のままになる宝珠)を咲(わら)うて燕石(えんせき、燕が巣の中に隠し持つ石、無価値)緘(つつ)み、 偽龍を好んで真像を失い、 乳粥を悪(にく)んで鍮石(ちゅうじゃく、真鍮)を宝とし、 癭(よう、背にある瘤)者はこれ左手を鑽(き)るとは、則ちこれなり。 |
世の人は宝女を嫌って、卑賤の女を愛し、 宝珠を笑って、燕の巣にある石を大切に包み、 描かれた偽の龍を好んで、真の龍を見逃し、 仏を助けた乳粥を憎んで、金銭を作る真鍮を宝としている。 背に瘤のある者が、左手を切って治すというような迷信もこれであります。
乳粥(にゅうじゅく):乳糜(にゅうび)、釈迦は苦行を止め、乳粥を食べて覚りを開いた。 |
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涇渭不別醍醐誰知 |
涇渭(けいい、涇水と渭水、共に河の名、涇水は渭水に合流するが、涇水は濁り渭水は澄むために区別できる)を別たざるもの、醍醐(だいご、最高の美味)を誰か知らん。 |
濁った涇水(けいすい、河の名)と、澄んだ渭水(いすい、河の名)とを区別できないならば、どうして醍醐(だいご)の最高の美味を知ることができましょう。
醍醐(だいご):天台宗の中国に於ける開祖 天台大師智顗(ちぎ)は、仏の教説の異なりを五時に分類して、それぞれを乳から醍醐(一説に澄ましバター)に至る五段階として譬え、それを承けた最澄は醍醐味の法華経を最高の依り所とした。 (1)華厳時:乳味、(2)阿含時:酪味、(3)方等時:生酥味、(4)般若時:熟酥味、(5)法華涅槃時:醍醐味。 |
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欲知面妍媸不如磨鏡不可論金薬有無 |
面(かお)の妍媸(けんし、美醜)を知らんと欲せば、鏡を磨くにしかず。 金薬(水銀)の有無を論ずべからず。 |
顔の美醜を知ろうと思えば、 まず鏡を磨かなくてはなりません。 なぜ鏡を造る水銀があるかどうか議論なさるのですか。 |
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欲達心海岸不如棹船不合談船筏虚実 |
心海(衆生の心、外境の風によって常に波立つ)の岸に達せんと欲せば、船に棹(さお)さすにしかず。 船と筏(いかだ)の虚実を談ずべからず。 |
波風に騒ぐ心の海を渡って、彼岸に到達しようと思うのであれば、 まず船をこがなくてはなりません。 船や筏(いかだ)が空であるか、実であるかを談じておる場合ではないのです。 |
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不抜毒箭空問来処 |
毒箭(どくや)を抜かずして空しく来処を問い、 |
毒矢に射られたならば、 まず抜かなければなりません。 抜かずにその矢がどこから来たのか、訊ねておられるのはなぜでしょうか。 |
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聞道不動千里何見 |
道を聞いて動かざれば千里を何にして見ん。 |
道を聞いても動かなければ、千里も先のものをどうして見ることができましょう。 |
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双丸足以却鬼 |
双(ふたつ)の丸(がん、弾丸)は以って鬼を却(かえ)し、 |
泥で作った団子を、二ばかり投げつけることでさえ、鬼を追い返すことができます。 |
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一匕可以得仙 |
一匕(さじ、の仙藥)、以って仙を得べし。 |
仙薬をひとさじ掬って飲めば、仙人になることもできます。 |
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若使千年読誦本草大素四大之病何曽得除 |
たとい千年、本草(ほんぞう、藥学書)大素(だいそ、医学書)を読誦すれども、四大の病は何(いか)んがかつて除くことを得たる。 |
しかし、たとい千年の間、薬学書や医学書を読んだところで、 それだけでは、この身が病んだとき、どうして治すことができましょうか。 |
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百歳談論八万法蔵三毒之賊寧調伏乎 |
百歳、八万の法蔵を談論して、三毒の賊は寧(なん)ぞ調伏すべきや。 |
百年の間、八万もある仏法を談論したところで、 どうして煩悩を除くことができましょう。
三毒(さんどく):三大煩悩、貪欲、瞋恚、愚癡をいう。 |
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自非酌海之信磨鎚之士誰能信一覚之妙行修三磨之難思 |
自ら海を酌むの信、鎚を磨くの士に非ざれば、誰かよく一覚の妙を信じ、三磨(さんま、三昧耶、密教の修行)の難思を行修せん。 |
自ら進んで海の水を酌みつくす信頼と、鎚を磨いて針にする努力の人でなければ、 どうして直ちに覚るという教えを信じ、思議し難い密教の修行をすることができましょう。
一覚(いちかく):悟り。 三磨(さんま):三昧耶(さんまや)、本誓(ほんぜい)、仏の誓い、衆生の修行をいう。 |
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止止舎舎吾未見其人 |
止みね止みね。舎(すてお)きね舎きね。 吾(われ)、未だその人を見ず。 |
止めましょう、止めましょう。捨て置きましょう、捨て置きましょう。 わたくしも、そのような人に会ったことはございません。 |
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其人豈遠乎信修則其人 |
その人、豈(あに)遠からんや。 信じ修れば、則ちその人なり。 |
しかし、その人は遠くにいるのではありません。 信じて修めれば、それがその人なのです。 |
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若有信修不論男女皆是其人不簡貴賎悉是其器 |
もし信じ修ること有れば、男女を論ぜずして皆これその人なり。 貴賎を簡(えら)ばず、悉くこれその器なり。 |
もし信じて修めておるならば、 男女を問わず、皆その人なのです。 貴賎を択ばず、誰でもその器(法を入れる器)であるのです。 |
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其器来扣鐘谷則響 |
その器にして来たり鐘を扣(たた)けば、谷に則ち響あり。 |
その器が来て玄関の鐘を打ち鳴らせば、谷中に響き渡ることでしょう。 決してわたくしに聞こえないことはございません。 |
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妙薬盈篋不嘗無益珍衣満櫃不著則寒 |
妙薬、篋(はこ)に盈(み)てども嘗めずんば無益なり。 珍衣、櫃(ひつ)に満(み)てども著(き)ざれば則ち寒し。 |
妙薬が篋(こばこ)に満ちていても、嘗めなければ無益です。 珍衣が櫃(ひつ)に満ちていても、着なければ寒いではありませんか。 決して法を惜しむのではございません。 |
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阿難多聞不足為是 |
阿難(あなん、仏十大弟子の一)、多聞なれども是(ぜ)とするに足りず。 |
阿難は仏の近くにいて多く聞いておりますが、 これで良いというわけにはまいらないのです。
阿難(あなん):釈尊の十大弟子の中の多聞第一。仏に近侍して常に法を聞く。 |
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釈迦精勤伐柯不遠挙代皆然 |
釈迦は精勤(しょうごん)したもう。 伐柯(ばつか、手本は手近にありの喩え)は遠からず。 代を挙げて皆然り。 |
釈迦は精進して勤められました。 よい手本が近くにあるではございませんか。 何を見ても手本になるのです。
伐柯(ばつか):柯(か)とは斧の柄のことである。木材を伐るときには斧の柄を尺として伐ればよい。手本は手近にあるの喩え。 |
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悲哉濁世化仏所以棄入五千所以退者 |
悲しきかな、濁世(じょくせ)の化仏(釈尊)は、所以(ゆえ)に棄てて(涅槃に)入りたまい、五千(の弟子)は所以に退せり。 |
悲しいかな。今は濁世(じょくせ)でございます。 釈迦も濁世には涅槃に入ってしまわれます。 釈迦のお弟子たちも、大乗を聞いては五千人が退出してしまいました。
濁世(じょくせ):五濁(ごじょく)、五つの世の中の濁り。 (1)劫濁(こうじょく):末世という時代のもつ汚れ、飢饉、疫病、天災、戦争をいう。 (2)見濁(けんじょく):邪悪な思想、見解が栄える。 (3)煩悩濁(ぼんのうじょく):貪欲、瞋恚等の、さまざまな悪徳がはびこる。 (4)衆生濁(しゅじょうじょく):衆生の質が落ち、身体は衰弱し、苦は多く、福は少なくなる。 (5)命濁(みょうじょく):人の寿命が短くなる。 五千:釈迦が法華経を説こうとするとき、五千の弟子が『我等はすでに妙果を得たり、聞くまでもなし』として退席した。(『法華経』方便品第二) |
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雖毒鼓之慈広而無辺而干将之誡高而有淬 |
毒鼓(悪事を滅ぼす)の慈、広くして無辺なりといえども、干将(かんしょう、名剣の名)の誡め高うして、あるは淬(にら、熱鉄を水に入れて堅くすること)ぐ。 |
毒を塗った鼓を打ち鳴らして人を殺すように、 仏の声は悪を滅し、その慈悲は無辺ですが、 干将(かんしょう、名剣の名)は、 刀剣師干将と妻の莫耶(ばくや)との非常なる努力のたま物であり、 熱した鉄を水に入れて堅くするようなことまでしなくてはならないのです。
毒鼓(どくく):毒を塗った鼓を打ち鳴らすと人を殺すことができる。同じように、仏常住の声も衆生の犯す十悪(殺生、偸盗、邪婬、妄語、両舌、悪口、綺語、貪欲、瞋恚、邪見)を殺害する。 干将(かんしょう):刀剣師干将は妻の莫耶(ばくや)と非常なる努力の末、二口の剣を造り、それに干将と莫耶と名づけた。 |
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師師誥訓不可不慎 |
師師の誥訓(こうくん、誡め)は慎まざる可からず。 |
諸師の誡めは慎んで聞かなくてはなりません。 |
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子若不越三昧耶護如身命堅持四禁愛均眼目 |
子(なんじ)、もし三昧耶(さんまや、密教戒律)を越さずして、護ること身命の如く、四禁(重罪戒、婬戒、盗戒、殺人戒、妄語戒)を堅持すること眼目に均(ひと)しく愛し、 |
あなたが、もし身命を護るように、密教の戒律を守って、非法に授受することをせず、 眼目を愛するように、四重禁戒(婬戒、盗戒、殺人戒、妄語戒)を堅持して、
三昧耶(さんまや):本誓(ほんぜい)、仏の衆生済度の誓い。衆生にとっては密教的戒律。 四禁(しきん):四重禁、四波羅夷(はらい)、僧伽(そうが、教団)から永久追放の重罪。 |
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如教修観臨坎有績則五智秘璽旋踵可期 |
教えの如く観(座禅)を修し、坎(かん、つか穴)に臨んで積むこと有れば、則ち五智(ごち、如来)の秘璽(ひじ、秘密の印)も踵(くびす)を旋(めぐ)らすと期(ご、待つ)すべし。 |
教えのように観(観察)を修め、墓穴に臨んで功績があれば、 如来の秘密の印(認許)も、また戻ってくることもあろうかと思います。 お待ちになってみてはいかがでしょうか。
五智(ごち):大日如来の円満な智慧を五つに分類する。 (1)法界体性智(ほっかいたいしょうち):法界とは有差別の義。諸法(あらゆる物事)の差別は無数である。方便を究竟する徳を主とする。 (2)大円鏡智(だいえんきょうち):法界の万象を顕現すること大円鏡の如し。 (3)平等性智(びょうどうしょうち):法界の万象の平等の本性を知る。 (4)妙観察智(みょうかんさつち):法界の万象の違いを詳細に知る。 (5)成所作智(じょうしょさち):妙業を起こし、行う。 |
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況乃髻中明珠誰亦秘惜努力自愛因還此示一二 釈遍照 |
況んや乃(すなわ)ち髻中の明珠(秘蔵の宝)すら、誰かまた秘し惜しまん。努力自愛せよ。 還るに因り、ここに一二を示す。 釈遍照(しゃくへんしょう、空海) |
このようになされば、転輪王が髻(もとどり)の中に秘蔵する明珠ですら、 誰が隠し誰が惜しむことがございましょう。努力して御自愛ください。 使いの者の還るに詫して、ここに一二を示します。 釈遍照(しゃくへんしょう、空海)
髻中の明珠(けいちゅうのみょうじゅ):転輪聖王の髻(もとどり)の中に秘蔵された珠。聖王は衆兵の中の手柄により、あらゆる物を与えたが、ただこの珠だけは与えなかった。この秘蔵の宝は法華経に喩えられる。(『法華経』安楽行品第十四)
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