巻第四
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中論 巻第四
 龍樹菩薩造
 梵志青目釋
 姚秦三藏鳩摩羅什譯


中論觀如來品第二十二(十六偈)

問曰。一切世中尊。唯有如來正遍知。號為法王。一切智人是則應有。 問うて曰く、一切の世中の尊に、唯だ如来、正遍知のみ有り、号して、法王、一切智の人と為す。是れは則ち応に有るべし。
問い、
一切の、
『世間』中の、
『尊ばれて!』、
『法王』とか、
『一切智の人』と、
『呼ばれる!』のは、
唯だ、
『如来・正遍知』が、
『有るのみ!』だが、
是のような、
『人』ならば、
『存在するはずだ!』。
答曰。今諦思惟。若有應取。若無何所取。何以故。 答えて曰く、今、諦らかに思惟すらく、若し有らば、応に取るべし。若し無くんば、何んが取る所なる。何を以っての故に、――
答え、
今、
詳細に、
『思惟しよう!』、――
是の、
『如来・正遍知』が、
『有れば!』、
『五陰』を、
『取られたはず!』だが、
若し、
『如来』が、
『無ければ!』、
何が、
『取られたのか?』。
何故ならば、――
  (たい):注意深く/慎重に( careful, attentive )。
  (しゅ):梵語 upaadaana の訳、自分自身の為に取る/着服/横領する行為( the act of taking for one's self, appropriating to one's self )、知覚する/気づく/学ぶ/[知識]を獲得する( perceiving, noticing, learning, acquiring (knowledge) )受容れる/許す/含めて考える( accepting, allowing, including )の義。[仏典に於いては]存在について握りしめる/しがみつく( (with Buddh. ) grasping at or clinging to existence )の意。
如來
 非陰不離陰  此彼不相在 
 如來不有陰  何處有如來
如来は、
陰に非ず陰を離るるにあらず、此れと彼れと相在らず、
如来は陰を有せず、何処にか如来有らん。
『如来』は、
『陰(色受想行識)でない!』が、
『陰』を、
『離れることもない!』、
『此の陰』は、
『彼の如来』中に、
『在るのでもなく!』、
『彼の如来』は、
『此の陰』中に、
『在るのでもない!』。
『如来』に、
『陰』が、
『無ければ!』、
何処に、
『如来』が、
『有るのか?』。
参考
skandhā na nānyaḥ skandhebhyo nāsmin skandhā na teṣu saḥ |
tathāgataḥ skandhavān na katamo ’tra tathāgataḥ ||1||
Not the aggregates, not other than the aggregates;
the aggregates are not in him; he is not in them:
the Tathagata does not possess the aggregates.
What is the Tathagata?

参考
Not the aggregates and not different from the aggregates.
The aggregates are not in him and he is not in them.
The Tathagata does not possess the aggregates.
What Tathagata is there?

参考
如來は,もろもろの構成要素(五蘊)そのものではなく,それら構成要素から異なっているのでもない,それ(如來)のなかに,もろもろの構成要素があるのでもなく,それら(もろもろの構成要素) のなかに,それ(如來) があるのでもない。〔如來が〕それらの構成要素を持っているのでもない。こうしてみると,如來とは,どのようなものであろうか。
若如來實有者。為五陰是如來。為離五陰有如來。為如來中有五陰。為五陰中有如來。為如來有五陰。是事皆不然。 若し如来が、実に有らば、五陰を、是れ如来と為すや、五陰を離れて如来有りと為すや。如来中に五陰有りと為すや、五陰中に如来有りと為すや、如来に五陰有りと為すや。是の事は、皆然らず。
若し、
『如来』が、
『実に!』、
『有る!』とすれば、――
『五陰』は、
是れが、
『如来だ!』と、
『思うのか?』。
『五陰』を、
『離れて!』、
『如来』が、
『有る!』と、
『思うのか?』。
『如来』中に、
『五陰』が、
『有る!』と、
『思うのか?』。
『五陰』中に、
『如来』が、
『有る!』と、
『思うのか?』。
『如来』が、
『五陰』を、
『所有する!』と、
『思うのか?』。
是の、
『事』は、
皆、
『間違っている!』。
五陰非是如來。何以故。生滅相故。五陰生滅相。 五陰は、是れ如来なるに非ず。何を以っての故に、生滅の相の故に、五陰は生滅の相なり。
『五陰』は、
是れが、
『如来ではない!』、――
何故ならば、
『如来』が、
『生滅』の、
『相となるからだ!』、
『五陰』とは、
『生滅』の、
『相である!』。
若如來是五陰。如來即是生滅相。若生滅相者。如來即有無常斷滅等過。 若し如来が、是れ五陰ならば、如来は、即ち是れ生滅の相なり。若し生滅の相ならば、如来には、即ち無常、断滅等の過有り。
若し、
『如来』が、
『五陰ならば!』、
是の、
『如来』は、
『生滅の相である!』。
若し、
『如来』が、
『生滅の相ならば!』、
『如来』には、
『無常、断滅等の過』が、
『有る!』。
又受者受法則一。受者是如來。受法是五陰。是事不然。是故如來非是五陰。 又受者と受法とは、則ち一なり。受者は、是れ如来、受法は是れ五陰ならば、是の事は然らず。是の故に如来は、是れ五陰に非ず。
又、
若し、
『如来』が、
『五陰ならば!』、
『受者』と、
『受法』とが、
『一だということになる!』。
謂わゆる、
『受者』が、
『如来であり!』、
『受法』が、
『五陰だとすれば!』、
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
是の故に、
『如来』は、
『五陰ではない!』。
離五陰亦無如來。若離五陰有如來者。不應有生滅相。若爾者。如來有常等過。 五陰を離れても、亦た如来無し。若し五陰を離れて、如来有らば、応に生滅の相有るべからず。若し爾らば、如来には、常等の過有り。
『五陰』を、
『離れても!』、
『如来』は、
『無い!』、――
若し、
『五陰』を、
『離れて!』、
『如来』が、
『有れば!』、
『如来』には、
『生滅の相』が、
『有るはずがない!』。
若し、
『如来』に、
『生滅の相』が、
『無ければ!』、
『如来』には、
『常等の過』が、
『有る!』。
又眼等諸根不能見知。但是事不然。是故離五陰亦無如來。 又眼等の諸根は、見知する能わず。但だ是の事は然らず。是の故に、五陰を離れても、亦た如来無し。
又、
若し、
『五陰』を、
『離れて!』、
『如来』が、
『有れば!』、
『眼』等の、
『諸根』には、
『如来』を、
『見知できないはず!』だが、
但だ、
是の、
『事』は、
『事実ではない!』。
是の故に、
『五陰』を、
『離れても!』、
『如来』は、
『無い!』。
如來中亦無五陰。何以故。若如來中有五陰。如器中有果水中有魚者。則為有異。若異者。即有如上常等過。是故如來中無五陰。 如来中にも、亦た五陰無し。何を以っての故に、若し如来中に、五陰有らば、器中に果有り、水中に魚有るが如きは、則ち異有りと為せばなり。若し異ならば、即ち上の如く、常等の過有り。是の故に如来中に五陰無し。
『如来』中にも、
『五陰』は、
『無い!』、――
何故ならば、
若し、
『如来』中に、
『五陰』が、
『有れば!』、
例えば、
『器』中に、
『果』が、
『有ったり!』、
『水』中に、
『魚』が、
『有るように!』、
則ち、
『如来』と、
『五陰』とに、
『異(ことなり!)』が、
『有るからだ!』。
若し、
『異なれば!』、
上のように、
『常等の過』が、
『有る!』、
是の故に、
『如来』中に、
『五陰』は、
『無い!』。
又五陰中無如來。何以故。若五陰中有如來。如床上有人器中有乳者。如是則有別異。如上說過。是故五陰中無如來。 又五陰中にも如来無し。何を以っての故に、若し五陰中に如来有らば、床上に人有り、器中に乳有るが如くんば、是の如きは則ち別異有れば、上に過を説くが如し。是の故に五陰中にも如来無し。
又、
『五陰』中に、
『如来』は、
『無い!』、――
何故ならば、
若し、
『五陰』中に、
『如来』が、
『有れば!』、
例えば、
『床』上に、
『人』が、
『有ったり!』、
『器』中に、
『乳』が、
『有るようだ!』が、
是の通りならば、
『別異』が、
『有ることになり!』、
上に、
『過』を、
『説いた通りだ!』。
是の故に、
『五陰』中に、
『如来』は、
『無い!』。
如來亦不有五陰。何以故。若如來有五陰。如人有子。如是則有別異。若爾者。有如上過。是事不然。是故如來不有五陰。如是五種求不可得。 如来には、亦た五陰有らず。何を以っての故に、若し如来に五陰有らば、人に子有るが如し。是の如きは、則ち別異有り。若し爾らば、上の如き過有り。是の事は然らず。是の故に如来には五陰有らず。是の如く五種に求むるも得べからず。
『如来』は、
亦た、
『五陰』を、
『所有しない!』、――
何故ならば、
若し、
『如来』に、
『五陰』が、
『有れば!』、
例えば、
『人』に、
『子』が、
『有るように!』、
是のような、
『如来』と、
『五陰』には、
『別異』が、
『有ることになる!』。
若し、
爾うならば、
上のような、
『過』が、
『有る!』ので、
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
是の故に、
『如来』には、
『五陰』が、
『無い!』。
何等是如來。
問曰。如是義求如來不可得。而五陰和合有如來。
何等か、是れ如来なる。
問うて曰く、是の如き義は、如来を求むるも得べからずして、而も五陰の和合に如来有り。
『如来』とは、
何のようなものか?――
問い、
是のような、
『義』に、――
『如来』を、
『求めて!』、
『認められなかった!』が、
而し、
『如来』は、
『五陰の和合』中に、
『有るのだ!』。
答曰
 陰合有如來  則無有自性 
 若無有自性  云何因他有
答えて曰く、
陰の合に如来有らば、則ち自性有ること無けん、
若し自性有ること無くんば、云何が他に因りて有らん。
答え、
『五陰』の、
『和合』中に、
『如来』が、
『有れば!』、
『如来』には、
『自性』が、
『無いことになる!』。
若し、
『如来』に、
『自性』が、
『無ければ!』、
何故、
『他に!』、
『因って!』、
『有るのか?』。
参考
buddhaḥ skandhān upādāya yadi nāsti svabhāvataḥ |
svabhāvataś ca yo nāsti kutaḥ sa parabhāvataḥ ||2||
If the buddha depends on the aggregates,
he does not exist from an own-nature.
How can that which does not exist
from an own-nature exist from an other-nature?

参考
If a Buddha depended upon his aggregates
He would not exist through his own essence.
How could that which does not exist through its own essence
Exist through a different essence?

参考
もしももろもろの構成要素に依存して,ブッダ(如來)〔が存在している〕とするならば,〔ブッダは〕,自性(固有の実体)として存在しているのではない。また自性として存在しているのではないものが,どうして,他性(他のものに固有の実体)として〔存在するであろう〕か。
若如來五陰和合故有。即無自性。何以故。因五陰和合有故。 若し如来、五陰和合の故に有れば、即ち自性無し。何を以っての故に、五陰の和合に因りて有るが故なり。
若し、
『如来』が、
『五陰』の、
『和合』の故に、
『有るということは!』、
即ち、
『自性』が、
『無い!』。
何故ならば、
『五陰』の、
『和合』に、
『因って!』、
『有るからだ!』。
問曰。如來不以自性有。但因他性有。 問うて曰く、如来は、自性を以って有るにあらず。但だ他性に因って有り。
問い、
『如来』は、
『自ら!』の、
『性』に、
『因って!』、
『有るのではない!』。
但だ、
『他の!』、
『性』に、
『因って!』、
『有るのだ!』。
答曰。若無自性。云何因他性有。 答えて曰く、若し自性無くんば、云何が他性に因って有らん。
答え、
若し、
『如来』に、
『自ら!』の、
『性』が、
『無ければ!』、
何のようにして、
『他の!』、
『性』に、
『因って!』、
『有るのか?』。
何以故。他性亦無自性。又無相待因故。他性不可得。不可得故不名為他。 何を以っての故に、他性も亦た自性無ければなり。又相待の因無きが故に、他性を得べからず、得べからざるが故に名づけて、他と為さず。
何故ならば、
『他の!』、
『性』にも、
『自ら!』の、
『性』は、
『無いからである!』、
又、
『相待する!』、
『因(自性)』が、
『無い!』が故に、
『他の!』、
『性』も、
『認められない!』。
『他の!』、
『性』は、
『認められない!』が故に、
『他』と、
『呼ばれることもない!』。
復次
 法若因他生  是即為非我 
 若法非我者  云何是如來
復た次ぎに、
法が若し他に因りて生ぜば、是れを即ち非我と為す、
若し法が非我ならば、云何が是れ如来ならん。
復た次ぎに、
『法』が、
若し、
『他!』に、
『因って!』、
『生じる!』とすれば、
是れは、
即ち、
『我ではない!』。
若し、
『法』が、
『我でなければ!』、
是れが、
何故、
『如来なのか?』。
参考
pratītya parabhāvaṃ yaḥ so ’nātmety upapadyate |
yaś cānātmā sa ca kathaṃ bhaviṣyati tathāgataḥ ||3||
It is not tenable for something dependent on other-nature to be self-existent.
How can that which has no self-existence be tathagata?

参考
That which is dependent on a different essence
Is inadmissible to have a self nature.
How could that which has no self nature
Be a Tathagata?

参考
およそ他性(他のものに固有の実体)に縁って(依存して)いるものは,無我である,ということが成立している。およそ無我であるものが,どのようにして,如來であり得るであろうか。
若法因眾緣生。即無有我。如因五指有拳。是拳無有自體。如是因五陰名我。是我即無自體。 若し法が、衆縁に因って生ずれば、即ち我有ること無し。五指に因りて、拳有るも、是の拳には、自体有ること無きが如し。是の如く、五陰に因って、我と名づくれば、是の我には、即ち自体無し。
若し、
『法』が、
『衆縁』に、
『因って!』、
『生じるとすれば!』、
即ち、
『我』は、
『無い!』。
譬えば、
『五指』に、
『因って!』、
『拳』は、
『有る!』が、
是の、
『拳』には、
『自体』が、
『無いように!』、
是のように、
『五陰』に、
『因って!』、
『我』と、
『呼ばれても!』、
是の、
『我』には、
『自体』が、
『無い!』。
我有種種名。或名眾生人天如來等。 我には種種の名有り、或いは衆生、人、天、如来等と名づく。
『我』には、
種種の、
『名』が、
『有り!』、
或いは、
『衆生、人、天、如来』等と、
『称する!』。
若如來因五陰有。即無自性。無自性故無我。 若し如来が五陰に因りて有れば、即ち自性無し。自性無きが故に我無し。
若し、
『如来』が、
『五陰』に、
『因って!』、
『有るとすれば!』、
即ち、
『自性』が、
『無い!』。
『自性』が、
『無い!』が故に、
『如来』には、
『我』が、
『無い!』。
若無我云何說名如來。是故偈中說法若因他生是即為非我。若法非我者云何是如來。 若し我無くんば、云何が説いて如来と名づくる。是の故に、偈中に説かく、『若し他に因りて生ずれば、是れ即ち非我と為す。若し法が非我なれば、云何が是れ如来なる』、と。
若し、
『我』が、
『無ければ!』、
何を、
『説いて!』、
『如来』と、
『称するのか?』。
是の故に、
『偈』中に、こう説くのである、――
若し、
『他に!』、
『因って!』、
『生じるとすれば!』、
是れは、
即ち、
『我ではない!』、
若し、
『法』が、
『我でなければ!』、
是れが、
何故、
『如来なのか?』、と。
復次
 若無有自性  云何有他性 
 離自性他性  何名為如來
復た次ぎに、
若し自性有ること無くんば、云何が他性有らん、
自性他性を離るれば、何をか名づけて如来と為す。
復た次ぎに、
若し、
『自ら!』の、
『性』が、
『無ければ!』、
何故、
『他』の、
『性』が、
『有るのか?』。
若し、
『自ら!』の、
『性』を、
『離れて!』、
『他!』の、
『性』を、
『離れた!』ならば、
何が、
『如来』と、
『呼ばれるのか?』。
参考
yadi nāsti svabhāvaś ca parabhāvaḥ kathaṃ bhavet |
svabhāvaparabhāvābhyām ṛte kaḥ sa tathāgataḥ ||4||
If self-nature does not exist,
how can there be the existence of other-nature?
What is a Tathagata apart from own-nature and other-nature?

参考
If there is no own essence
How could there be a different essence?
Apart from an own essence and a different essence
What Tathagata is there?

参考
もしも自性(固有の実体)が存在しないならば,どうして,他性(他のものに固有の実体)が存在するであろうか。自性と他性とを離れて,かの如來は,どのようなものであろうか。
若無自性。他性亦不應有。因自性故名他性。此無故彼亦無。 若し自性無ければ、他性も亦た応に有るべからず。自性に因るが故に、他性と名づくれば、此れ無きが故に彼れも亦た無し。
若し、
『自ら!』の、
『性』が、
『無ければ!』、
『他!』の、
『性』も、
『無いはずだ!』、
何故ならば、
『自ら!』の、
『性』に、
『因る!』が故に、
『他!』の、
『性』と、
『呼ぶからだ!』。
『此れ!』が、
『無い!』が故に、
『彼れ!』も、
亦た、
『無い!』。
是故自性他性二俱無。若離自性他性。誰為如來。 是の故に自性、他性は二倶に無し。若し自性、他性を離るれば、誰をか、如来と為す。
是の故に、
『自性』と、
『他性』という、
『二種の性』は、
『どちらも!』、
『存在しない!』。
若し、
『自性』も、
『他性』も、
『離れる!』とすれば、
誰が、
『如来なのか?』。
復次
 若不因五陰  先有如來者 
 以今受陰故  則說為如來 
 今實不受陰  更無如來法 
 若以不受無  今當云何受 
 若其未有受  所受不名受 
 無有無受法  而名為如來 
 若於一異中  如來不可得 
 五種求亦無  云何受中有 
 又所受五陰  不從自性有 
 若無自性者  云何有他性
復た次ぎに、
若し五陰に因らず、先に如来有れば、
今陰を受くるを以っての故に、則ち説いて如来と為さん。
今実に陰を受けざれば、更に如来の法無し、
若し受けざるを以って無くんば、今は当に云何が受くる。
若し其れ未だ受くる有らざれば、所受を受くると名づけず、
受法無く、而も名づけて如来と為すもの有ること無し。
若し一異中に於いて、如来を得べからず、
五種に求めて亦た無ければ、云何が受中に有らん。
又受くる所の五陰は、自性により有るにあらず、
若し自性無くんば、云何が他性有らん。
復た次ぎに、
若し、
『五陰』に、
『因らず!』、
先に、
『如来』が、
『有った!』としても、
今、
『陰』を、
『受けた!』が故に、
是れが、
『如来だ!』と、
『説かれるはずだ!』。
今、
実に、
『陰』を、
『受けなければ!』、
更に、
『如来』という、
『法』は、
『無いだろう!』、
若し、
『陰』を、
『受けない!』が故に、
『如来』が、
『無ければ!』、
今、
何のようにして、
『陰』を、
『受けるというのか?』。
若し、
其れが、
未だ、
『受ける!』所を、
『受けていなければ!』、
『受ける!』所を、
『受けた!』とは、
『言わないだろう!』、
若し、
『受けた!』、
『法』が、
『無ければ!』、
『如来』と、
『呼ばれる!』ことも、
『無い!』。
若し、
『一異』中に、
『如来』を、
『求めて!』、
『得られず!』、
『五種』に、
『求めても!』、
『無ければ!』、
何故、
『受(身=所受 )』中に、
『有る!』と、
『言えるのか?』。
又、
『受ける!』所の、
『五陰』は、
『自ら!』の、
『性により!』、
『有るのではないとしても!』、
若し、
『自ら!』の、
『性』が、
『無ければ!』、
何故、
『他!』の、   ――他性も、他に於いては自性なり――
『性』が、
『有るのか?』。
  (じゅ):◯梵語vedaanaaの訳、知覚、感受、苦痛等の義、即ち苦受、楽受、捨受の三受。◯梵語upaadaanaの訳、又取と訳す、執著の義。the act of taking for one's self , appropriating to one's self. 自分の物にする行為、取る。執著する。十二因縁の一。◯梵語 upaadaaya の訳、受取る/取得する( receiving, acquiring )、~の助けを借りて/~を用いて/依存する( by help of, by means of, depending on )の義。◯梵語 samaadaana の訳、残さず全てを手に入れる/抱え込む/請け負う/結果を招く( taking fully or entirely, taking upon one's self, contracting, incurring )の義、容認する/容認( to accept, acceptance )の意。
  所受(しょじゅ):梵語 upaadattam の訳、握りしめられた/依存された( be grasped, dependent on )の義。
参考
skandhān yady anupādāya bhavet kaścit tathāgataḥ |
sa idānīm upādadyād upādāya tato bhavet ||5||
If there exists a tathagata [who is] not depending on the aggregates,
he exists in depending [on them] now and will henceforth depend.

skandhāṃś cāpy anupādāya nāsti kaścit tathāgataḥ |
yaś ca nāsty anupādāya sa upādāsyate katham ||6||
If there does not exist a tathagata
[who is]not depending on the aggregates,
how does he grasp [depend on? them]?

na bhavaty anupādattam upādānaṃ ca kiṃ cana |
na cāsti nirupādānaḥ kathaṃ cana tathāgataḥ ||7||
[Since] there is nothing to be grasped/dependent on,
there can be no grasping/depending.
There is no tathagata at all who is without grasping/depending.

tattvānyatvena yo nāsti mṛgyamāṇaś ca pañcadhā |
upādānena sa kathaṃ prajñapyate tathāgataḥ ||8||
If having examined in five ways,
how can that tathagata who does not exist
as that one or the other
be [conventionally] understood by grasping/depending?

yad apīdam upādānaṃ tat svabhāvān na vidyate |
svabhāvataś ca yan nāsti kutas tat parabhāvataḥ ||9||
That which is grasped/depended on does not exist from its own nature.
It is impossible for that
which does not exist from its own nature to exist from another nature.

参考
If, without depending on the aggregates,
There existed some Tathagata
Then he would be now depending on them and this would rely upon
Him becoming that in dependence upon them.

There is not one single Tathagata
Who does not depend upon the aggregates.
If there are none who do not depend upon them
How could they be appropriated by that Tathagata?

The non-appropriated
Could not be appropriated in any way.
A Tathagata without appropriation
Does not, in any way, exist.

How could a Tathagata
Who, when having searched in the five ways,
Is not the same as or different from the appropriated
Be designated due to them?

That which is to be appropriated
Does not exist through an essence.
That which does not exist through its own essence
Cannot exist through a different essence.

参考
もしももろもろの構成要素(五蘊)に依存することなく,なんらかの如來が存在するならば,それ(如來)は,今こそ依存するであろう。依存して,そこで〔その如來が〕存在するであろう。

さらにまた,もろもろの構成要素(五蘊)に依存することがないならば,どのような如來も,存在しない。およそ依存することがなくて存在してはいないようなものが,どのようにして依存するであろうか。

まだ依存していないものは,存在しない。また依存するということも,どのようにしても〔決して存在しない〕。また依存することのない如來も,どのようにしても決して存在しない。

およそ,〔もろもろの構成要素(五蘊)と〕同一であるか,ないし別異であるかについて,五種に求めても存在していない如來が,〔ここで〕依存するということによって,どのようにして,想定される(仮に說からる)であろうか。

およそ依存するというこのこともまた,自性(固有の実体)として,存在しているのではない。また,およそ自性として存在しているのではないものが,どうして,他性(他のものに固有の実体)として〔存在するであろう〕か。
若未受五陰。先有如來者。是如來今應受五陰。已作如來。而實未受五陰時先無如來。今云何當受。 若し未だ五陰を受けざるに、先に如来有らば、是の如来は、今応に五陰を受くべし。已に如来に作りても、実に未だ五陰を受けざる時には、先に如来無し。今、云何が当に受くべき。
若し、
未だ、
『五陰』を、
『受けていない!』のに、
先に、
『如来』が、
『有れば!』、
是の、
『如来』は、
今、
『五陰』を、
『受けなくてはならない!』。
已に、
『如来』と、
『作っていても!』、
実に、
未だ、
『五陰』を、
『受けていない!』時には、
先に、
『如来』は、
『無い!』、
何故、
今、
『五陰』を、
『受けられるのか?』。
又不受五陰者。五陰不名為受。無有無受而名為如來。 又、五陰を受けざれば、五陰を名づけて、受と為さず。受無くして、名づけて如来と為すもの有ること無し。
又、
『五陰』を、
『受けなければ!』、
『五陰』は、
『受』と、
『呼ばれず!』、
『受』が、
『無ければ!』、
『如来』と、
『呼ばれる!』者も、
『無い!』。
又如來一異中求不可得。五陰中五種求亦不可得。若爾者。云何於五陰中說有如來。 又、如来は、一異中に求むるも、得べからず。五陰中に五種に求むるも、亦た得べからず。若し爾らば、云何が五陰中に於いて、如来有りと説かん。
又、
『如来』は、
『一異』中に、
『求めても!』、
『得られない!』し、
『五陰』中に、
『五種に求めても!』、
『得られない!』。
若し、
爾うならば、
何故、こう説くのか?――
『五陰』中に、
『如来』が、
『有る!』、と。
又所受五陰。不從自性有。若謂從他性有。若不從自性有。云何從他性有。何以故。以無自性故。又他性亦無。 又、受くる所の五陰は、自性により有らず。若し他性により有りと謂わば、若し自性により有らざるに、云何が他性により有らん。何を以っての故に、自性無きを以っての故に、又他性も亦た無ければなり。
又、
『受ける!』所の、
『五陰』は、
『自ら!』の、
『性により!』、
『有るのではない!』。
若し、
こう謂うならば、――
『他!』の、
『性により!』、
『有る!』、と。
若し、
『自ら!』の、
『性によって!』、
『有るのでないとすれば!』、
何故、
『他!』の、
『性によって!』、
『有るのか?』。
何故ならば、
『自ら!』の、
『性』が、
『無い!』が故に、
『他!』の、
『性』も、
『無いからである!』。
復次
 以如是義故  受空受者空 
 云何當以空  而說空如來
復た次ぎに、
是の如き義を以っての故に、受も空受者も空なり、
云何が当に空を以って、而も空の如来を説くべき。
復た次ぎに、
是のような、
『義』の故に、
『受』も、
『受者』も、
『空である!』。
何故、
『空』を、
『用いて!』、
『空』の、
『如来』を、
『説くことができるのか?』。
参考
evaṃ śūnyam upādānam upādātā ca sarvaśaḥ |
prajñapyate ca śūnyena kathaṃ śūnyas tathāgataḥ ||10||
In that way,
what is grasped/depended on and what grasps/depends
are empty in every aspect.
How can an empty tathagata
be [conventionally] understood by what is empty?

参考
Thus, the objects appropriated and the appropriator
Are empty in all ways.
How could an empty Tathagata
Be designated due to empty aggregates?

参考
このように,依存するというはたらきも,依存する主体も,まったく空である。空〔であるもの〕によって,空である如來が,どのようにして,想定される(仮に說かれる) であろうか。
以是義思惟。受及受者皆空。若受空者。云何以空受。而說空如來。 是の義を以って思惟すらく、『受、及び受者は皆空なり』、と。若し受が空ならば、云何が空の受を以って、空の如来を説かん。
是の、
『義』から、こう思惟する、――
『受』も、
『受者』も、
皆、
『空である!』、と。
若し、
『受』が、
『空ならば!』、
何故、
『空』の、
『受』を、
『用いて!』、
『空』の、
『如来』を、
『説くのか?』。
問曰。汝謂受空受者空。則定有空耶。 問うて曰く、汝が謂わく、『受も空、受者も空なり』なれば、則ち定んで、空有りや。
問い、
お前は、こう謂った、――
『受』も、
『受者』も、
『空である!』、と。
それなら、
絶対に、
『空』は、
『有るのか?』。
答曰不然。 答えて曰く、然らず。
答え、
そうではない!
何以故
 空則不可說  非空不可說 
 共不共叵說  但以假名說
何を以っての故に、
空は則ち説くべからず、空に非ざるも説くべからず、
共も共ならざるも説きがたし、但だ仮名を以って説く。
何故ならば、
『空』ならば、
『説くことはできない!』、
『空でない!』ものも、
『説くことはできない!』、
『空である!』と、
『空でない!』とが、
『共に成立しても!』、
『共に成立しなくても!』、
『説くことはできない!』。
但だ、
『空』という、
『仮名』を、
『説くだけだ!』。
参考
śūnyam iti na vaktavyam aśūnyam iti vā bhavet |
ubhayaṃ nobhayaṃ ceti prajñaptyarthaṃ tu kathyate ||11||
Do not say “empty,” or “not empty,” or “both,” or “neither:”
these are mentioned for the sake of [conventional] understanding.

参考
Do not say ‘He is empty’.
Also do not say ‘He is not empty’,
‘He is both’ or ‘He is neither’.
They are expressed for the sake of designation.

参考
「空である」と語られるべきではない。〔そうでなければ〕,「不空である」,「両者(空且つ不空)である」,また「両者(空且つ不空)ではない」ということになるであろう。しかし,〔これらは〕想定(仮に說く)のために說かれるにすぎない。

  :本より存在しないものは、説きようがない。物の無い状態が空である、物を想定しない、但の空は存在しない。
諸法空則不應說。諸法不空亦不應說。諸法空不空亦不應說。非空非不空亦不應說。 諸法の空は、則ち応に説くべからず。諸法の不空なるも、亦た応に説くべからず。諸法の空にして不空なるも、亦た応に説くべからず。空に非ず、不空に非ざるも、亦た応に説くべからず。
諸の、
『法』が、
『空』ならば、
『説くことはできない!』。
諸の、
『法』が、
『不空である!』とも、
『説くことはできない!』。
諸の、
『法』は、
『空であるか、不空であるかだ!』とも、
『説くことはできない!』。
諸の、
『法』は、
『空でもなく、不空でもない!』とも、
『説くことはできない!』、
何以故。但破相違故。以假名說。如是正觀思惟。諸法實相中。不應以諸難為難。 何を以っての故に、但だ相違するを破らんが故に、仮名を以って説けばなり。是の如く正観し、思惟するに、諸法の実相中は、応に諸難を以って、難ぜらるべからず。
何故ならば、
但だ、
『実』に、
『相違する!』、
『法』を、
『破る!』為の故に、
『仮名』を、
『用いて!』、
『空である!』と、
『説くからである!』。
是のように、
『正観して!』、
『思惟すれば!』、――
諸の、
『法』の、
『実相』中に、
『諸の難』を、
『用いて!』、
『非難してはならない!』。
何以故
 寂滅相中無  常無常等四 
 寂滅相中無  邊無邊等四
何を以っての故に、
寂滅相中には、常無常等の四無く、
寂滅相中には、辺無辺等の四無し。
何故ならば、
『寂滅の相』中には、
『常(常住)、無常(生死)等の四』は、
『無く!』、
『寂滅の相』中には、
『辺(有限 term )、無辺(無限 eternal )等の四』も、
『無いからだ!』。
参考
śāśvatāśāśvatādy atra kutaḥ śānte catuṣṭayam |
antānantādi cāpy atra kutaḥ śānte catuṣṭayam ||12||
Where can the four such as permanence and impermanence exist in this peaceful one?
Where can the four such as end and no-end [of the world] exist in this peaceful one?

参考
How could the four – being permanent, impermanent and so forth
Exist for this pacified one?
How could the four – having an end, no end and so forth
Exist for this pacified one?

参考
この寂靜である〔如来〕について,「常住である」「常住でない」などの四種は,どのようにして〔成立するであろう〕か,この寂靜である〔如来〕について,「有限である」 「無限である」などの四種もまた,どのようにして〔成立するであろう〕か。
諸法實相。如是微妙寂滅。但因過去世。起四種邪見。世間有常。世間無常。世間常無常。世間非常非無常。寂滅中盡無。 諸法の実相は、是の如き微妙寂滅なるも、但だ過去世に因って、四種の邪見を起こす。世間の有常、世間の無常、世間は常無常、世間の非常非無常は、寂滅中には、尽く無し。
諸の、
『法』の、
『実相』は、
是のように、
『微妙な!』、
『寂滅である!』が、
但だ、
『過去世』に、
『因って!』、
『四種』の、
『邪見』を、
『起こす!』が、
『世間』の、
『有常』や、
『無常』や、
『常無常』や、
『非常非無常』は、
『寂滅』中には、
『尽く!』、
『存在しない!』。
何以故。諸法實相。畢竟清淨不可取。空尚不受。何況有四種見。 何を以っての故に、諸法の実相は、畢竟清浄にして、取るべからず、空すら尚お受けず、何に況んや、四種の見有るをや。
何故ならば、
諸の、
『法』の、
『実相』は、
『畢竟清浄であり!』、
『取ることができない!』。
『空』すら、
尚お、
『受けない!』、
況して、
『四種』の、
『見』など、
『有ろうはずがない!』。
四種見皆因受生。諸法實相無所因受。四種見皆以自見為貴。他見為賤。諸法實相無有此彼。是故說寂滅中無四種見。 四種の見は、皆、受より生ず。諸法の実相には、所因の受無し。四種の見は、皆自見を以って貴と為し、他見を賎と為す。諸法の実相には、此彼有ること無し。是の故に説かく、『寂滅中には、四種の見無し』、と。
『四種』の、
『見』は、
皆、
『受』に、
『因って!』、
『生じる!』が、
諸の、
『法』の、
『実相』には、
『因となる!』、
『受』が、
『無い!』。
『四種』の、
『見』は、
皆、
『自ら!』の、
『見』が、
『貴ばれ!』、
『他!』の、
『見』が、
『賎しまれる!』が、
諸の、
『法』の
『実相』には、
『此れ!』も、
『彼れ!』も、
『無い!』ので、
是の故に、こう説く、――
『寂滅』中には、
『四種の見』が、
『無い!』、と。
如因過去世有四種見。因未來世有四種見亦如是。世間有邊。世間無邊。世間有邊無邊。世間非有邊非無邊。 過去世に因って、四種の見有るが如く、未来世に因って、四種の見有るも、亦た是の如し。世間の有辺、世間の無辺、世間の有辺無辺、世間の非有辺非無辺なり。
『過去世』に、
『因って!』、
『四種の見』が、
『有る!』ように、
『未来世』に、
『因っても!』、
『四種の見』が、
『有る!』のも、
『是の通りである!』、
『世間』は、
『有辺(有限)か?』、
『無辺(無限)か?』、
『有辺でもあり、無辺でもあるか?』、
『有辺でもなく、無辺でもないか?』、と。
  有辺(うへん):梵語 anta の訳、国境/終端/期限/有限( border, end, term, limited )の義。
  無辺(むへん):梵語 ananta の訳、無限の/無制限の/永久の/果てしない( endless, boundless, limitless, eternal, infinit )の義。
  :過去世に因って四種の見有りとは、過去世に元始有りや、無しやを問い、未来世に四種の見ありとは、未来に生ずるに、世界の辺の有りや、無しやを問うからである。
問曰。若如是破如來者。則無如來耶。 問うて曰く、若し是の如く、如来を破れば、則ち如来無しや。
問い、
若し、
是のように、
『如来』を、
『破ってしまえば!』、
則ち、
『如来』は、
『無いということか?』。
答曰
 邪見深厚者  則說無如來 
 如來寂滅相  分別有亦非
答えて曰く、
邪見が深く厚ければ、則ち如来無しと説かん、
如来の寂滅の相を、分別すれば有も亦た非なり。
答え、
『邪見』が、
『深く厚ければ!』、
こう説くだろう、――
『如来』は、
『無い!』、と。
『如来』という、
『寂滅の相』は、
『分別して!』、
『有った!』としても、
『真実ではない!』。
参考
ghanagrāho gṛhītas tu yenāstīti tathāgataḥ |
nāstīti sa vikalpayan nirvṛtasyāpi kalpayet ||13||
Those who hold the dense apprehension, “the tathagata exists”
conceive the thought, “he does not exist in nirvana.”

参考
Those who apprehend due to dense conceptions
Conceive of the misconceptions
‘The Tathagata exists in nirvana’
Or ‘The Tathagata does not exist in nirvana’.

参考
およそ「如来は存在する」という深い執着にとらわれている者は,ニルヴァーナに入った(入滅した)〔如来〕についてもまた,「〔如来は〕存在しない」と分別し想定するであろう。
邪見有二種。一者破世間樂。二者破涅槃道。 邪見には二種有り、一には世間の楽を破り、二には涅槃の道を破る。
『邪見』には、
『二種』有り、
一には、
『世間』の、
『楽』を、
『破り!』、
二には、
『涅槃』の、
『道』を、
『破る!』。
破世間樂者。是麤邪見。言無罪無福。無如來等賢聖。起是邪見捨善為惡。則破世間樂。 世間の楽を破るとは、是れ麁の邪見にして、『罪無し、福無し、如来等の賢聖無し』と言う。是の邪見を起こして、善を捨てて悪を為せば、則ち世間の楽を破る。
『世間』の、
『楽』を、
『破る!』とは、――
是れは、
『麁(下等な!)』の、
『邪見であり!』、
こう言うのである、――
『罪』も、
『無い!』し、
『福』も、
『無く!』、
『如来』等の、
『賢聖』も、
『無い!』、と。
是の、
『邪見』を、
『起こして!』、
『善を捨てて!』、
『悪を為せば!』、
則ち、
『世間の楽』を、
『破ることになる!』。
  (そ):下等な( coarse )、細/微細( subtle )の対語。
破涅槃道者。貪著於我。分別有無。起善滅惡。起善故得世間樂。分別有無故不得涅槃。 涅槃の道を破るとは、我に貪著し、有無を分別し、善を起こして、悪を滅す。善を起こすが故に世間の楽を得、有無を分別するが故に涅槃を得ず。
『涅槃』の、
『道』を、
『破る!』とは、――
『我』に、
『貪著して!』、
『有』と、
『無』とを、
『分別し!』、
『善』を、
『起こして!』、
『悪』を、
『滅する!』が、
『善』を、
『起こす!』が故に、
『世間の楽』を、
『得!』、
『有、無』を、
『分別する!』が故に、
『涅槃の道』を、
『得られない!』。
是故若言無如來者。是深厚邪見。乃失世間樂。何況涅槃。 是の故に若し、『如来無し』と言わば、是の深厚なる邪見は、乃(すなわ)ち世間の楽すら失う。何に況んや涅槃をや。
是の故に、
若し、こう言えば、――
『如来』は、
『無い!』、と。
是のような、
『深く厚い邪見』は、
やがて、
『世間』の、
『楽』すら、
『失うのであり!』、
況して、
『涅槃』を、
『失う!』のは、
『言うまでもない!』。
若言有如來。亦是邪見。何以故。如來寂滅相。而種種分別故。 若し、『如来有り』と言わば、亦た是れ邪見なり。何を以っての故に、如来の寂滅相を、種種に分別するが故なり。
若し、
こう言うならば、――
『如来』は、
『有る!』、と。
是れも、
亦た、
『邪見である!』。
何故ならば、
『如来』という、
『寂滅の相』を、
種種に、
『分別するからである!』、
是故寂滅相中。分別有如來。亦為非 是の故に、寂滅の相中に分別して、如来有れば、亦た非と為す。
是の故に、
『寂滅の相』中に、
『分別して!』、
『如来』が、
『有るとすれば!』、
亦た、
『真実ではない!』。
 如是性空中  思惟亦不可 
 如來滅度後  分別於有無
是の如き性空中に、思惟して亦た、
如来の滅度後の、有無を分別すべからず。
是のような、
『性』としての、
『空』中に、
『思惟して!』、
『滅度』後の、
『如来の有、無』を、
『分別してはならない!』。
参考
svabhāvataś ca śūnye ’smiṃś cintā naivopapadyate |
paraṃ nirodhād bhavati buddho na bhavatīti vā ||14||
For that one empty of own-nature,
it is entirely inappropriate to think that once the buddha has nirvana-ed
he either “exists” or “does not exist.”

参考
For that empty of an own essence
It would simply not be admissible to have the thoughts
‘The Buddha, having passed beyond sorrow, exists’
Or ‘The Buddha, having passed beyond sorrow, does not exist’.

参考
〔如来は〕自性(固有の実体)として空なのであるから,これ(如来)について,「ブッダ(如来)は,入滅後に存在する」とか,「存在しない」とかという思考は,成り立たない。
諸法實相性空故。不應於如來滅後思惟若有若無。若有無。 諸法に実相は性空なるが故に、応に如来の滅後の、若しは有、若しは無、若しは有無を思惟すべからず。
諸の、
『法』の、
『実相』は、
『性として!』の、
『空である!』、
『如来』の、
『滅後』も、
こう思惟してはならない、――
『有るのか?』、
『無いのか?』、
『有ることもあり、無いこともあるのか?』、と。
如來從本已來畢竟空。何況滅後 如来は、本より来(このかた)、畢竟じて空なり。何に況んや、滅後をや。
『如来』は、
本より、
『畢竟じて!』、
『空である!』。
況して、
『滅後』は、
『言うまでもない!』。
 如來過戲論  而人生戲論 
 戲論破慧眼  是皆不見佛
如来は戯論を過ぎたるに、而も人は戯論を生ず、
戯論して慧眼を破れば、是れ皆仏を見ず。
『如来』は、
『戯論』を、
『超過する!』のに、
『人』は、
『戯論』を、
『生じる!』。
『戯論して!』、
『慧眼』を、
『破れば!』、
是の、
『人達』は、
皆、
『仏』を、
『見ることはない!』。
  戯論(けろん):概念の推敲/無駄な論義( conceptual elaboration; (Idle) discourse )。
参考
prapañcayanti ye buddhaṃ prapañcātītam avyayam |
te prapañcahatāḥ sarve na paśyanti tathāgatam ||15||
Those who make fixations about Buddha
who is beyond fixations and without deterioration --
all those who are damaged by fixations
do not see the tathagata.

参考
Those who have degenerated due to elaborations
Which elaborate with respect to the Buddha
Who has passed beyond elaborations and is never extinguished,
None of them will see the Tathagata.

参考
およそ戲論(想定された議論)を超越していて,滅することのないブッダ(如来)を,〔あれこれ〕戲論する人人は,すべて〔その〕戲論によって害されており,如来そのものを見ることがない。
戲論名憶念取相分別此彼。言佛滅不滅等。是人為戲論。覆慧眼故不能見如來法身。 戯論を、憶念して相を取り、此彼を分別して、仏の滅、不滅等を言うと名づく。是の人は、戯論の為に、慧眼を覆わるるが故に、如来の法身を見る能わず。
『戯論』とは、
こういうことである、――
『憶念して!』、
『相』を、
『取り!』、
『此れ!』と、
『彼れ!』とを、
『分別して!』、
『仏』の、
『滅、不滅』等を、
『議論する!』、と。
是の、
『人』は、
『戯論』に、
『慧眼』を、
『覆われる!』が故に、
『如来』という、
『法身』を、
『見ることができない!』。
  戯論(けろん):龍樹によれば、言葉とは、現実を覆い隠すものであり、主観的欺瞞以外の何ものでもなく、有情を無智と苦悩へ導くものである(According to Nāgârjuna , words that conceal and cover reality, which are nothing but subjective counterfeits, and lead sentient beings further into ignorance and affliction . )
此如來品中。初中後思惟。如來定性不可得。 此の如来品中の初、中、後に思惟するも、如来の定性は得べからず。
此の、
『如来品』中の、
『初、中、後』に於いて、
『思惟してきた!』が、――
『如来』の、
『定性』は、
『認められなかった!』。
是故偈說
 如來所有性  即是世間性 
 如來無有性  世間亦無性
是の故に偈に説かく、
如来所有の性、即ち是れ世間の性なり、
如来に性有ること無く、世間にも亦た性無し。
是の故に、
『偈』に、こう説く、――
『如来』の、
『所有する!』、
『性』は、
是れは、
『世間』の、
『性である!』。
『如来』には、
『性』が、
『無く!』、
『世間』にも、
『性』は、
『無い!』。
参考
tathāgato yatsvabhāvas tatsvabhāvam idaṃ jagat |
tathāgato niḥsvabhāvo niḥsvabhāvam idaṃ jagat ||16||
Whatever is the own-nature of the tathagata,
that is the own-nature of this world.
The tathagata has no own-nature.
This world has no own-nature.

参考
That which is the essence of the Tathagata
Is the essence of this world.
Just as the Tathagata has no essence
This world has no essence.

参考
およそ如来の自性は,それがそのままこの世間(世界)の自性である。如来は自性の無い〔ものである〕。この世間(世界)も自性の無い〔ものである〕。
此品中思惟推求。如來性即是一切世間性。 此の品中に思惟し推求するも、如来の性は、即ち是れ一切世間の性なり。
此の、
『品』中に、
『思惟し!』、
『推求(推理追求)してきた!』が、――
『如来』の、
『性』とは、
即ち、
『一切の世間』の、
『性である!』。
問曰。何等是如來性。 問うて曰く、何等か、是れ如来の性なる。
問い、
『如来』の、
『性』とは、
『何のようなものですか?』。
答曰。如來無有性。同世間無性 答えて曰く、如来には性有ることなく、世間の無性なるに同じ。
答え、
『如来』には、
『性』が、
『無い!』、
『世間』が、
『無性である!』のと、
『同じことだ!』。



中論觀顛倒品第二十三(二十四偈)

問曰
 從憶想分別  生於貪恚癡 
 淨不淨顛倒  皆從眾緣生
問うて曰く、
憶想と分別により、貪恚癡を生じ、
浄不浄の顛倒は、皆衆縁より生ず。
問い、
『憶想』と、
『分別』とにより、
『貪欲』、
『瞋恚』、
『愚癡』を、
『生じ!』、
『浄、不浄』等の、
『顛倒』は、
皆、
『衆縁』より、
『生じる!』。
  顛倒(てんどう):逆しまの状態( inverted )、梵語 viparyaasa の訳、置き換え/取換える/逆/反対/対立( transposition, exchange, reverse, contrariety, opposition )の義、悪化( change for the worse, deterioration )、間違い/妄想( error, mistake, delusion )、不実/虚偽の事について、実/真実の事であると想像すること( imagining what is unreal or false to be real or true )の意。◯梵語 viparyaya の訳、反転した/逆転した/非を認めない/違背する( reversed, inverted, perverse, contrary to )、悪化( change for the worse )、誤解/錯誤( misapprehension, error, mistake )の義。
参考
saṃkalpaprabhavo rāgo dveṣo mohaś ca kathyate |
śubhāśubhaviparyāsān saṃbhavanti pratītya hi ||1||
It is said that desire, hatred, stupidity arise from conceptuality;
they arise in dependence on the pleasant,
the unpleasant and confusion.
[they arise in dependence on confusion about the pleasant and unpleasant]

参考
Attachment, hatred and confusion
Are said to arise from misconceptions.
They originate in dependence upon
The pleasant, the unpleasant and the mistaken.

参考
貪欲(むさぼり)と,瞋恚(憎しみ怒り)と,愚痴(愚かな迷い)とは,思考作用から生ずる,と說かれている。なぜならば,〔それらは〕,淨と不淨とのもろもろの顛倒(妄想)に縁って起こるからである。
經說因淨不淨顛倒。憶想分別生貪恚癡。是故當知有貪恚癡。 経に説かく、『浄、不浄の顛倒に因りて、憶想、分別して貪恚癡を生ず』、と。是の故に当に知るべし、貪恚癡有りと。
『経』には、こう説かれている、――
『浄』と、
『不浄』との、
『顛倒』に、
『因り!』、
『憶想し!』、
『分別する!』ので、
『貪、恚、癡』が、
『生じる!』、と。
是の故に、こう知る、――
『貪欲』と、
『瞋恚』と、
『愚癡』は、
『有る!』、と。
答曰
 若因淨不淨  顛倒生三毒 
 三毒即無性  故煩惱無實
答えて曰く、
若し浄不浄の顛倒に因り、三毒を生ずれば、
三毒は即ち性無し、故に煩悩に実無し。
答え、
若し、
『浄』と、
『不浄』とが、
『顛倒する!』に、
因って、
『三毒』を、
『生じた!』とすれば、
『三毒』には、
『性』が、
『無い!』、
故に、
『煩悩』には、
『実』が、
『無い!』。
参考
śubhāśubhaviparyāsān saṃbhavanti pratītya ye |
te svabhāvān na vidyante tasmāt kleśā na tattvataḥ ||2||
Whatever arises in dependence upon the pleasant,
the unpleasant and confusion,
(whatever arises in dependence on confusion about the pleasant and unpleasant)
they have no own-nature,
therefore, afflictions do not really exist
(do not exist in themselves).

参考
Those which arise in dependence upon
The pleasant, the unpleasant and the mistaken
Do not exist through an own essence.
Thus, afflictions are not real.

参考
およそ,浄と不浄とのもろもろの顛倒に縁って起こるそれらのものは,自性(固有の実体)として存在しているのではない。それゆえ,もろもろの煩悩は,真実からすれば,〔存在し〕ない。
若諸煩惱。因淨不淨顛倒。憶想分別生。即無自性。是故諸煩惱無實。 若し、諸の煩悩が浄、不浄の顛倒と、憶想、分別に因りて生ずれば、即ち自性無し。是の故に、諸の煩悩には実無し。
若し、
諸の、
『煩悩』が、
『浄、不浄の顛倒』や、
『憶想、分別』に、
『因って!』、
『生じる!』とすれば、
『自ら!』の、
『性』は、
『無いことになる!』。
是の故に、
諸の、
『煩悩』には、
『実』が、
『無い!』。
復次
 我法有以無  是事終不成 
 無我諸煩惱  有無亦不成
復た次ぎに、
我法の有と無とは、是の事終に成ぜず、
無我なれば諸の煩悩の、有無も亦た成ぜず。
復た次ぎに、
『我』という、
『法』が、
『有る!』のも、
『無い!』のも、
是の、
『事』は、
『成立しなかった!』。
『我』が、
『無ければ!』、
諸の、
『煩悩』の、
『有、無』も、
『成立しない!』。
  (い):と、与に同じ。( as well as, and )。
参考
ātmano ’stitvanāstitve na kathaṃ cic ca sidhyataḥ |
taṃ vināstitvanāstitve kleśānāṃ sidhyataḥ katham ||3||
The existence or non-existence of self is not established in any way.
Without that, how can the existence or non-existence
of afflictions be established?

参考
The existence or non-existence of the self
Has not been established in any way.
Without that, how could the existence
Or non-existence of the afflictions be established?

参考
我(アートマン)の有と無とは,どのようにしても,成立しない。それ(我)が無いのに,もろもろの煩悩の有と無とが,どのようにして,成立するであろうか。
我無有因緣若有若無而可成。今無我諸煩惱云何以有無而可成。 我には、因縁の若しは有、若しは無の成ずべき有ること無し。今我無きに、諸の煩悩は、云何が有無を以って、成ずべけんや。
『我』は、
『有る!』とも、
『無い!』とも、
『成立すべき!』、
『因縁』が、
『無い!』。
今、
『我』が、
『無い!』のに、
諸の、
『煩悩』の、
『有、無!』が、
何故、
『成立するのか?』。
何以故
 誰有此煩惱  是即為不成 
 若離是而有  煩惱則無屬
何を以っての故に、
誰か此の煩悩有らん、是れ即ち成ぜずと為す、
若し是れを離れて有れば、煩悩は則ち属する無し。
何故ならば、
誰が、
此の、
『煩悩』を、
『所有するのか?』、
是れが、
即ち、
『成立しないということだ!』。
若し、
是れを、
『離れて!』、
『煩悩』が、
『有れば!』、
是の、
『煩悩』には、
『属する!』所が、
『無い!』。
参考
kasya cid dhi bhavantīme kleśāḥ sa ca na sidhyati |
kaścid āho vinā kaṃcit santi kleśā na kasyacit ||4||
These afflictions are someone’s.
But that [someone] is not established.
Without [someone], the afflictions are not anyone’s.

参考
Moreover, an owner of those afflictions
Has not been established.
Without any owner
Owned afflictions cannot exist.

参考
実に,これらもろもろの煩悩は,だれか或る人に属して存在している〔という〕。しかし,だれかというその人そのものが成立しないのである。だれか或る人〔という属するところ〕が無いから,もろもろの煩悩は,どのような人にとっても,決して存在しない。
煩惱名為能惱他。惱他者應是眾生。是眾生於一切處推求不可得。 煩悩を名づけて、能く他を悩ますと為すに、他を悩ます者は、応に是れ衆生なるべし。是の衆生は、一切処に於いて、推求するも得べからず。
『煩悩』を、
『他』を、
『悩ます!』者と、
『称する!』ならば、
『他』を、
『悩ます!』者は、
『衆生でなくてはならない!』、
是の、
『衆生』を、
『一切の処(五陰、十二入、十八界)』に、
『推求(推理追求)した!』が、
『認められなかった!』。
若謂離眾生但有煩惱。是煩惱則無所屬。若謂雖無我而煩惱屬心。是事亦不然。 若し『衆生を離れて、但だ煩悩のみ有り』と謂わば、是の煩悩には、則ち所属無し。若し『無我なりと雖も、煩悩は心に属す』と謂わば、是の事も亦た然らず。
若し、
こう謂えば、――
『衆生』を、
『離れて!』、
但だ、
『煩悩のみ!』が、
『有る!』、と。
是の、
『煩悩』には、
『属する!』所が、
『無い!』。
若し、
こう謂えば、――
『我』が、
『無くても!』、
『煩悩』は、
『心』に、
『属する!』、と。
是の、
『事』は、
『正しくない!』。
何以故
 如身見五種  求之不可得 
 煩惱於垢心  五求亦不得
何を以っての故に、
身見の五種に、之を求めて得べからざるが如く、
煩悩を垢心に、五求するも亦た得ず。
何故ならば、
『我』を、
『身見』の、
『五種』に、
『求めた!』が、
『得られなかった!』ように、
『煩悩』を、
『垢心』中に、
『五種』に、
『求めても!』、
『得られなかったからだ!』。
  身見(しんけん):梵語 svakaaya- dRSTi, satkaaya- dRSTi の訳、個人的人格の存在に関する[異教的]見解[/教義]( the (heretical) view (or doctrine) of the existence of a personality or individuality )の意。
参考
svakāyadṛṣṭivat kleśāḥ kliṣṭe santi na pañcadhā |
svakāyadṛṣṭivat kliṣṭaṃ kleśeṣv api na pañcadhā ||5||
Like [the self apprehended in] the view of one’s own body,
the afflictions do not exist in five ways in the afflicted.
Like [the self apprehended in] the view of one’s own body,
the afflicted does not exist in five ways in the afflictions.

参考
Just as in viewing one’s own body
Afflictions do not exist in the afflicted in the five ways.
Just as in viewing one’s own body
The afflicted does not exist in afflictions in the five ways.

参考
自分の身体を我と考える見解の場合のように,もろもろの煩悩は,煩悩に污されている人について,五種に求めても,存在していない。また自分の身体を我と考える見解の場合のように,煩惱に污されている人は,もろもろの煩悩について,五種に求めても,〔存在してい〕ない。
如身見。五陰中五種求不可得。諸煩惱亦於垢心中。五種求亦不可得。又垢心於煩惱中。五種求亦不可得。 身見を、五陰中に五種に求むるも得べからざるが如く、諸の煩悩も亦た、垢心中に於いて、五種に求めて、亦た得べからず。又垢心を、煩悩中に於いて、五種に求むるも、亦た得べからず。
『身見(我の実在)』を、
『五陰』中に、
『五種』に、
『求めて!』、
『得られなかった!』ように、
諸の、
『煩悩』を、
『垢心』中に、
『五種』に、
『求めても!』、
『得られない!』し、
又、
『垢心』を、
『煩悩』中に、
『五種』に、
『求めても!』、
『得られない!』。
  :身見を五陰中に五種に求めて得られない:「中論巻4如来品」、「大智度論巻55」参照。
  :煩悩を垢心中に五種に求めて得られない:煩悩と垢心とを、燃可燃の如き一異中に五種に破るを云う。「中論巻3縛解品の註」参照。
  参考:『大智度論巻55』:『於五眾中。五種求如來不可得。是故無如來。』
  参考:『中論巻4如来品第22』:『若如來實有者。為五陰是如來。為離五陰有如來。為如來中有五陰。為五陰中有如來。為如來有五陰。是事皆不然。』
復次
 淨不淨顛倒  是則無自性 
 云何因此二  而生諸煩惱
復た次ぎに、
浄不浄の顛倒は、是れ則ち自性無し、
云何が此の二に因りて、諸の煩悩を生ぜん。
復た次ぎに、
『浄』と、
『不浄』との、
『顛倒』には、
『自性』が、
『無い!』、
何故、
此の、
『二』に、
『因って!』、
諸の、
『煩悩』が、
『生じるのか?』。
参考
svabhāvato na vidyante śubhāśubhaviparyayāḥ |
pratītya katamān kleśāḥ śubhāśubhaviparyayān ||6||
If confusion about the pleasant and unpleasant
does not exist from its own nature,
what afflictions can depend on confusion
about the pleasant and unpleasant?

参考
If the pleasant, the unpleasant and the mistaken
Do not exist through an essence
Then any afflictions in dependence upon the pleasant,
The unpleasant and the mistaken also do not.

参考
浄と不浄とのもろもろの顛倒は,自性(固有の実体)として存在しているのではない。 どのような浄と不浄とのもろもろの顛倒に縁って,もろもろの煩悩が〔起こるであろう〕か。
淨不淨顛倒者。顛倒名虛妄。若虛妄即無性。無性則無顛倒。 浄、不浄の顛倒とは、顛倒を虚妄と名づく。若し虚妄なれば、即ち無性、無性なれば、則ち顛倒無し。
『浄、不浄の顛倒』とは、――
『顛倒』は、
『虚妄』と、
『称される!』が、
若し、
『虚妄』ならば、
『性』が、
『無く!』、
若し、
『無性』ならば、
『顛倒』は、
『無いことになる!』。
若無顛倒。云何因顛倒起諸煩惱。 若し顛倒無ければ、云何が顛倒に因りて、諸の煩悩を起こさん。
若し、
『顛倒』が、
『無ければ!』、
何故、
『顛倒』に、
『因って!』、
諸の、
『煩悩』が、
『起こされるのか?』。
問曰
 色聲香味觸  及法為六種 
 如是之六種  是三毒根本
問うて曰く、
色声香味触、及び法を六種と為す、
是の如きの六種は、是れ三毒の根本なり。
問い、
『色、声、香、味、触、法』を、
『六種だとすれば!』、
是のような、
『六種』が、
『三毒』の、
『根本である!』。
参考
rūpaśabdarasasparśā gandhā dharmāś ca ṣaḍvidham |
vastu rāgasya doṣasya mohasya ca vikalpyate ||7||
Colour/shape, sound, taste, tactile sensation, smell and dharmas:
these six are conceived as the basis of desire, hatred and stupidity.

参考
The six types – visual forms, sounds, tastes,
Tactile objects, odours and phenomena –
Are considered to be the basis of attachment,
Hatred and confusion.

参考
いろかたち(色)‧音(声)‧味‧触れられるもの‧香り‧「もの」(法)が,貪欲と瞋 恚と愚痴にとって,六種類の対象である,と分析的に考えられている。
是六入三毒根本。因此六入生淨不淨顛倒。因淨不淨顛倒生貪恚癡。 是の六入は、三毒の根本にして、此の六入に因って、浄、不浄の顛倒を生じ、浄、不浄の顛倒に因って、貪恚癡を生ず。
是の、
『六入(色、声、香、味、触、法)』という、
『三毒』の、
『根本』は、――
此の、
『六入』に、
『因って!』、
『浄、不浄』の、
『顛倒』を、
『生じ!』、
『浄、不浄』の、
『顛倒』に、
『因って!』、
『貪、恚、癡』を、
『生じる!』。
答曰
 色聲香味觸  及法體六種 
 皆空如炎夢  如乾闥婆城 
 如是六種中  何有淨不淨 
 猶如幻化人  亦如鏡中像
答えて曰く、
色声香味触、及び法の体は六種にして、
皆空なること炎、夢の如く、乾闥婆城の如し。
是の如き六種中に、何んが浄、不浄有らん、
猶お幻化の人の如く、亦た鏡中の像の如きなるに。
答え、
『色、声、香、味、触、法』の、
『体』は、
『六種である!』が、
皆、
『空であり!』、
譬えば、
『炎、夢のようであり!』、
『乾闥婆城(蜃気楼)のようである!』。
是のような、
『六種』中に、
何故、
『浄、不浄』が、
『有るのか?』、
猶お( just like )、
『幻化の人』や、
『鏡中の像』と、
『同じなのに!』。
参考
rūpaśabdarasasparśā gandhā dharmāś ca kevalāḥ |
gandharvanagarākārā marīcisvapnasaṃnibhāḥ ||8||
Colour/shape, sound, taste, tactile sensation, smell and dharmas:
these are like gandharva-cities and similar to mirages, dreams.

aśubhaṃ vā śubhaṃ vāpi kutas teṣu bhaviṣyati |
māyāpuruṣakalpeṣu pratibimbasameṣu ca ||9||
How can the pleasant and unpleasant occur in those [things]
which are like phantoms and similar to reflections?

参考
Visual forms, sounds, tastes, tactile objects,
Odours and phenomena are merely designated.
They are like a city of Gandharvas
And similar to a mirage and a dream.

Also how could the pleasant and the unpleasant
Arise with respect to those
Which are like an illusory person
And similar to a reflection?

参考
いろかたち‧音‧味‧触れられるもの‧香り‧「もの」は,たんにそれだけのものであり(固有の実体は無く),蜃気楼(ガンダルヴァ城)のありかたをしており,陽炎や夢に似ている。

これらの幻の人のようなもの,また映像に等しいものにおいて,どうして,不浄とか浄とかが存在するであろうか。
色聲香味觸法自體。未與心和合時。空無所有。如炎如夢。如化如鏡中像。但誑惑於心無有定相。如是六入中。何有淨不淨。 色声香味触法は、自体の、未だ心と和合せざる時には、空にして無所有なること、炎の如く、夢の如く、化の如く、鏡中の像の如く、但だ心を誑惑して、定相有ること無し。是の如き六入中に、何んが浄、不浄有らん。
『色、声、香、味、触、法』は、
『自体』が、
未だ、
『心』と、
『和合しない(接触しない)!』時には、
譬えば、
『炎のように!』、
『夢のように!』、
『化のように!』、
『鏡中の像のように!』、
『空であり!』、
『無所有であり!』、
但だ、
『心』を、
『誑惑する!』のみで、
『定まった!』、
『相』は、
『存在しない!』。
是のような、
『六入』中に、
何故、
『浄』や、
『不浄』が、
『有るのか?』。
復次
 不因於淨相  則無有不淨 
 因淨有不淨  是故無不淨
復た次ぎに、
浄相に因らざれば、則ち不浄有ること無し、
浄に因りて不浄有り、是の故に不浄無し。
復た次ぎに、
『浄相』に、
『因らなければ!』、
『不浄』は、
『存在しない!』。
『浄』に、
『因って!』、
『不浄』が、
『有るのだから!』、
是の故に、
『不浄』は、
『存在しない!』。
参考
anapekṣya śubhaṃ nāsty aśubhaṃ prajñapayemahi |
yat pratītya śubhaṃ tasmāc chubhaṃ naivopapadyate ||10||
Something is called “pleasant” in dependence on the unpleasant.
Since that would not exist without relation to the pleasant,
therefore, the pleasant is not tenable.

参考
Something is designated ‘pleasant’
In dependence upon the unpleasant.
And since that does not exist without reliance upon the pleasant
The pleasant is inadmissible.

参考
浄に依存していない不浄は,存在しない。しかも,それ(不浄)に縁って浄〔がある〕,とわれわれは想定して(仮に說いて)いる〔にすぎない〕。それゆえ,浄そのものは,成り立たない。
若不因於淨。先無有不淨。因何而說不淨。是故無不淨。 若し浄に因らざれば、先に不浄有ること無し。何に因りてか、不浄と説く。是の故に、不浄無し。
若し、
『浄』に、
『因らなければ!』、
先に、
『不浄』は、
『無い!』、
何に、
『因って!』、
『不浄だ!』と、
『説くのか?』。
是の故に、
『不浄』は、
『存在しない!』。
復次
 不因於不淨  則亦無有淨 
 因不淨有淨  是故無有淨
復た次ぎに、
不浄に因らざれば、則ち亦た浄有ること無し、
不浄に因りて浄有り、是の故に浄有ること無し。
復た次ぎに、
『不浄』に、
『因らなければ!』、
『浄』は、
『存在しない!』、
『不浄』に、
『因って!』、
『浄』が、
『有る!』、
是の故に、
『浄』は、
『存在しない!』。
参考
anapekṣyāśubhaṃ nāsti śubhaṃ prajñapayemahi |
yat pratītyāśubhaṃ tasmād aśubhaṃ naiva vidyate ||11||
Something is called “unpleasant” in dependence on the pleasant.
Since that would not exist without relation to the unpleasant,
therefore, the unpleasant is not tenable.

参考
Something is designated ‘unpleasant’
In dependence upon the pleasant.
And since that does not exist without reliance upon the unpleasant
The unpleasant is inadmissible.

参考
不浄に依存していない浄は,存在しない。しかも,それ(浄)に縁って不浄〔がある〕,とわれわれは想定して(仮に說いて)いる〔にすぎない〕。それゆえ,不浄そのものは,存在しないのである。
若不因不淨。先無有淨。因何而說淨。是故無有淨。 若し不浄に因らざれば、先に浄有ること無し。何に因りて、浄を説く。是の故に浄有ること無し。
若し、
『不浄』に、
『因らなければ!』、
先に、
『浄』は、
『存在しない!』、
何に、
『因って!』、
『浄だ!』と、
『説くのか?』。
是の故に、
『浄』は、
『存在しない!』。
復次
 若無有淨者  何由而有貪 
 若無有不淨  何由而有恚
復た次ぎに、
若し浄有ること無くんば、何に由りてか貪有らん、
若し不浄有ること無くんば、何に由りてか恚有らん。
復た次ぎに、
若し、
『浄』が、
『存在しなければ!』、
何に、
『由って!』、
『貪』が、
『有るのか?』。
若し、
『不浄』が、
『存在しなければ!』、
何に、
『由って!』、
『恚』が、
『有るのか?』。
参考
avidyamāne ca śubhe kuto rāgo bhaviṣyati |
aśubhe ’vidyamāne ca kuto dveṣo bhaviṣyati ||12||
If the pleasant does not exist, how can desire exist?
If the unpleasant does not exist, how can hatred exist?

参考
If the pleasant do not exist
How could there be attachment?
And if the unpleasant do not exist
How could there be hatred?

参考
浄が現に存在していないのであるならば,どうして,貪欲は存在するであろうか。 また不浄が現に存在していないのであるならば,どうして,瞋恚(憎しみ怒り)は存在するであろうか。

  :浄なれば、之を貪り、不浄なれば、之に恚るを云う。
無淨不淨故。則不生貪恚。 浄、不浄無きが故に、則ち貪、恚を生ぜず。
『浄』も、
『不浄』も、
『無い!』が故に、
『貪』や、
『恚』を、
『生じさせない!』。
問曰。經說常等四顛倒。若無常中見常。是名顛倒。 問うて曰く、経に、常等の四顛倒を説かく、『若し無常中に常を見れば、是れを顛倒と名づく』、と。
問い、
『経』中には、
『常』等の、
『四顛倒(常、楽、我、浄)』を、
こう説く、――
若し、
『無常』中に、
『常』を、
『見れば!』、
是れを、
『顛倒』と、
『称する!』、と。
若無常中見無常。此非顛倒。餘三顛倒亦如是。有顛倒故。顛倒者亦應有。何故言都無。 若し無常中に無常を見れば、此れは顛倒に非ず。余の三顛倒も亦た是の如く、顛倒有るが故に、顛倒の者も亦た応に有るべし。何なる故にか、都べて無しと言う。
若し、
『無常』中に、
『無常』を、
『見るならば!』、
此れは、
『顛倒ではない!』。
他の、
『三顛倒』中にも、
是のように、
『顛倒』が、
『有る!』が故に、
『顛倒する!』者も、
亦た、
『有るはずだ!』。
何故、
こう言うのか?――
『都()べて!』、
『無い!』、と。
答曰
 於無常著常  是則名顛倒 
 空中無有常  何處有常倒
答えて曰く、
無常に於いて常に著す、是れ則ち顛倒と名づくるも、
空中には常有ること無し、何処にか常の倒有らん。
答え、
『無常』を、
『常だ!』と、
『著すれば!』、
是れを、
『顛倒』と、
『称する!』が、
『空』中には、
『常』が、
『無い!』のに、
何処に、
『常』の、
『顛倒』が、
『有るのか?』。
参考
anitye nityam ity evaṃ yadi grāho viparyayaḥ |
nānityaṃ vidyate śūnye kuto grāho viparyayaḥ ||13||
If such an apprehension as “the impermanent is permanent” is confused,
since impermanence does not exist in the empty,
how can such an apprehension be confused?

参考
If apprehending the impermanent
Saying ‘They are permanent’ is mistaken
Since the empty are not impermanent
How is that apprehension mistaken?

参考
無常であるものにおいて「常である」とする,このような執着が,もしも顛倒であるならば,空においては,無常であるものは,存在しない。どうして,執着が顛倒であろうか。
若於無常中著常。名為顛倒。諸法性空中無有常。是中何處有常顛倒。餘三亦如是。 若し、無常中に於いて常に著すれば、名づけて顛倒と為す。諸の法性の空中には、常有ること無し。是の中の何処にか、常の顛倒有らん。余の三も亦た是の如し。
若し、
『無常』中に、
『常』に、
『著せば!』、
『顛倒』と、
『呼ばれる!』が、
諸の、
『法性である!』、
『空』中には、
『常』が、
『存在しない!』。
是の中の、
何処に、
『常』の、
『顛倒』が、
『有るのか?』。
他の、
『三顛倒』も、
亦た、
『是の通りである!』。
復次
 若於無常中  著無常非倒 
 空中無無常  何有非顛倒
復た次ぎに、
若し無常中に於いて、無常に著して倒に非ざれば、
空中には無常無し、何んが顛倒に非ざる有らん。
復た次ぎに、
若し、
『無常』中に於いて、
『無常』に、
『著しても!』、
『顛倒でないとすれば!』、
『空』中には、
『無常』が、
『存在しない!』、
何処に、
『顛倒でない!』ものが、
『有るのか?』。
参考
anitye nityam ity evaṃ yadi grāho viparyayaḥ |
anityam ity api grāhaḥ śūnye kiṃ na viparyayaḥ ||14||
If such an apprehension as “the impermanent is permanent” is confused,
how would the apprehension “there is impermanence in the empty” also not be confused?

参考
If apprehending the impermanent
Saying ‘They are permanent’ is mistaken
How is apprehending the empty saying ‘They are impermanent’
Also not mistaken?

参考
無常であるものにおいて「常である」とする,このような執着が,もしも顛倒であるならば,空においては,「無常である」とする執着も,どうして,顛倒ではないのか。
若著無常言是無常。不名為顛倒者。諸法性空中無無常。無常無故誰為非顛倒。餘三亦如是。 若し無常に著して、『是れ無常なり』と言うに、名づけて顛倒と為さずんば、諸の法性の空中には無常無く、無常無きが故に、誰か顛倒に非ずと為す。余の三も亦た是の如し。
若し、
『無常』に、
『著して!』、
是れが、
『無常だ!』と、
『言いながら!』、
是れを、
『顛倒だ!』と、
『呼ばないとすれば!』、
諸の、
『法性である!』、
『空』中には、
『無常』すら、
『存在しない!』、
『無常』の、
『存在しない!』が故に、
『誰が!』、
『顛倒でないのか?』。
他の、
『三顛倒』も、
亦た、
『是の通りである!』。
復次
 可著著者著  及所用著法 
 是皆寂滅相  云何而有著
復た次ぎに、
可著と著者と著と、及び所用の著法と、
是れ皆寂滅相なり、云何が而も著有らん。
復た次ぎに、
『可著(著の対象)』も、
『著者』も、
『著(著の行為)』も、
『所用の著法(眼触、耳触等)』も、
皆、
『寂滅の相である!』。
それなのに、
何故、
『著』が、
『有るのか?』。
参考
yena gṛhṇāti yo grāho grahītā yac ca gṛhyate |
upaśāntāni sarvāṇi tasmād grāho na vidyate ||15||
[The means] by which one apprehends,
the apprehension [itself],
the apprehender and the apprehended:
all are completely pacified,
therefore there is no apprehending.

参考
Every method of apprehending, action of apprehending,
Apprehender and object apprehended
Is completely pacified.
Thus, apprehension does not exist.

参考
およそ何によって執着するのであろうと,どのような執着であろうと,執着する者であろうと,またおよそ執着されるものであろうと,〔それら〕すべては,寂滅している。それゆえ,執着は〔固有の実体として〕存在することはない。
可著名物著者名作者。著名業。所用法名所用事。是皆性空寂滅相。如如來品中所說。是故無有著。 可著を物と名づけ、著者を作者と名づけ、著を業と名づけ、所用の法を所用の事と名づくるに、是れ皆性空にして、寂滅相なること、『如来品』中の所説の如し。是の故に著有ること無し。
『可著』を、
『物』と、
『呼び!』、
『著者』を、
『作者』と、
『呼び!』、
『著』を、
『業』と、
『呼び!』、
『所用の法』を、
『所用の事』と、
『呼ぶならば!』、
是れは、
皆、
『性空であり!』、
『寂滅の相である!』が、
例えば、
『如来品』中の、
『所説のように!』、
是の故に、
『著』は、
『無い!』。
復次
 若無有著法  言邪是顛倒 
 言正不顛倒  誰有如是事
復た次ぎに、
若し著法有ること無くして、邪は是れ顛倒なりと言い、
正は顛倒にあらずと言わば、誰か是の如き事有らん。
復た次ぎに、
若し、
『著』という、
『法』が、
『無い!』のに、
『邪』は、
『顛倒である!』と、
『言い!』、
『正』は、
『顛倒でない!』と、
『言う!』ならば、
誰に、
是のような、
『事』が、
『有るのか?』。
参考
avidyamāne grāhe ca mithyā vā samyag eva vā |
bhaved viparyayaḥ kasya bhavet kasyāviparyayaḥ ||16||
If there is neither confused nor right apprehension,
who is confused and who is not confused?

参考
If neither mistaken
Nor correct apprehension exist
Who is there that can have mistakes
And who is there that can have no mistakes?

参考
誤りにしても,正しいにしても,執着は存在していないのであるから,だれにとっ て,顛倒が存在するであろうか。まただれにとって,非顛倒が存在するであろうか。
著名憶想分別此彼有無等。若無此著者。誰為邪顛倒。誰為正不顛倒。 著を憶想して、此彼、有無等を分別すと名づく。若し此の著者無くんば、誰か邪顛倒を為し、誰か正不顛倒を為さん。
『著』を、
こう呼ぶとして、――
『憶想して!』、
『此れ!』と、
『彼れ!』とを、
『分別し!』、
『有』と、
『無』等を、
『分別する!』、と。
若し、
此の、
『著者』が、
『無ければ!』、
誰が、
『邪に!』、
『顛倒しており?』、
誰が、
『正しく!』、
『顛倒していないのか?』。
復次
 有倒不生倒  無倒不生倒 
 倒者不生倒  不倒亦不生 
 若於顛倒時  亦不生顛倒 
 汝可自觀察  誰生於顛倒
復た次ぎに、
倒有るは倒を生ぜず、倒無きも倒を生ぜず、
倒者は倒を生ぜず、不倒をも亦た生ぜず。
若しは顛倒の時にも、亦た顛倒を生ぜず、
汝自ら観察すべし、誰か顛倒を生ぜん。
復た次ぎに、
『顛倒』が、
『有れば!』、
『顛倒』を、
『生じない!』、
『顛倒』が、
『無くても!』、
『顛倒』を、
『生じない!』。
『顛倒した!』者は、
『顛倒』を、
『生じない!』し、
『顛倒しない!』者も、
『生じない!』。
若し、
『顛倒した!』時にも、
『顛倒』を、
『生じないとすれば!』、
お前は、
『自ら!』を、
『観察するがよい!』、
誰が、
『顛倒』を、
『生じているのか?』、と。
参考
na cāpi viparītasya saṃbhavanti viparyayāḥ |
na cāpy aviparītasya saṃbhavanti viparyayāḥ ||17||
Confusions do not occur for those who are [already] confused;
confusions do not occur for those who are not [yet] confused;

na viparyasyamānasya saṃbhavanti viparyayāḥ |
vimṛśasva svayaṃ kasya saṃbhavanti viparyayāḥ ||18||
confusions do not occur for those who are being confused.
For whom do confusions occur? Examine this by yourself!

参考
Mistakes are not possible
For someone already mistaken.
Mistakes are not possible
For someone not yet mistaken.

And mistakes are not possible
For someone who is becoming mistaken.
For whom are mistakes possible?
Analyse this yourself thoroughly!

参考
すでに顛倒した者には,もろもろの顛倒は起こらない。まだ顛倒していない者にもまた,もろもろの顛倒は起こらない。

現に顛倒しつつある者に,もろもろの顛倒は起こらない。汝みずから,よく熟慮せよ,何びとにもろもろの顛倒が起こるのであろうか。
已顛倒者。則更不生顛倒。已顛倒故。 已に顛倒せる者は、則ち更に顛倒を生ぜず、已に顛倒せるが故に。
已に、
『顛倒した!』者が、
更に、
『顛倒』を、
『生じない!』のは、
已に、
『顛倒しているからだ!』。
不顛倒者亦不顛倒。無有顛倒故。 顛倒せざる者も、亦た顛倒せず、顛倒有ること無きが故に。
未だ、
『顛倒していない!』者も、
『顛倒しない!』のは、
未だ、
『顛倒』が、
『存在しないからだ!』。
顛倒時亦不顛倒。有二過故。 顛倒する時も亦た顛倒せず、二過有るが故に。
亦た、
『顛倒する!』時にも、
『顛倒しない!』のは、
『顛倒する!』者と、
『顛倒しない!』者と、
『二過』が、
『有るからだ!』。
汝今除憍慢心。善自觀察。誰為顛倒者。 汝は、今憍慢心を除きて、善く自ら観察せよ。誰か顛倒を為す者なる。
お前は、
今、
『憍慢』の、
『心』を、
『除いて!』、
『善く!』、
自ら、
『観察せよ!』、――
誰が、
『顛倒しているのか?』。
復次
 諸顛倒不生  云何有此義 
 無有顛倒故  何有顛倒者
復た次ぎに、
諸の顛倒生ぜずんば、云何が此の義有らん、
顛倒有ること無きが故に、何んが顛倒の者有らん。
復た次ぎに、
諸の、
『顛倒』が、
『生じなければ!』、
何故、
此の、
『顛倒の義』が、
『有る!』と、
『言うのか?』。
『顛倒』が、
『存在しない!』のに、
何故、
『顛倒する!』者が、
『有るのか?』。
参考
anutpannāḥ kathaṃ nāma bhaviṣyanti viparyayāḥ |
viparyayeṣv ajāteṣu viparyayagataḥ kutaḥ ||19||
If confusions are not born, how can they exist?
If confusions are not born,
where can there be someone who has confusion?

参考
If mistakes cannot be produced
How could they exist?
If mistakes cannot be produced
How could there someone possessing mistakes?

参考
まだ生じていないもろもろの顛倒が,一体,どうして,存在するであろうか。もろもろの顛倒がまだ生じていないのに,顛倒にいたった者が,どうして,〔存在するであろう〕か。
顛倒種種因緣破故。墮在不生。彼貪著不生。謂不生是顛倒實相。 顛倒は種種の因縁に破せらるるが故に、墮ちて不生に在り。彼れが不生に貪著して謂わく、『不生は、是れ顛倒の実相なり』、と。
『顛倒』は、
種種の、
『因縁』に、
『破られた!』が故に、
『不生』に、
『堕ちた!』。
彼れは、
『不生』に、
『貪著して!』、こう謂う、――
『不生』が、
『顛倒』の、
『実相である!』、と。
是故偈說。云何名不生為顛倒。乃至無漏法尚不名為不生相。何況顛倒是不生相。 是の故に偈に説かく、『云何が、不生を名づけて、顛倒と為す。乃至無漏法まで、尚お名づけて、不生の相と為さず。何に況んや、顛倒の、是れ不生の相なるをや。
是の故に、
『偈』には、こう説かれている、――
何故、
『不生』を、
『顛倒』と、
『呼ぶのか?』、
乃至、
『無漏法』すら、
尚お( even )、
『不生の相』とは、
『呼ばれないのに!』。
況して、
『顛倒』が、
『不生の相だ!』とは、
『言うまでもない!』、と。
顛倒無故何有顛倒者。因顛倒有顛倒者。 顛倒無きが故に、何んが顛倒の者有らん、顛倒に因りて、顛倒の者有ればなり。
『顛倒』が、
『無い!』のに、
何故、
『顛倒する!』者が、
『有るのか?』、
『顛倒』に、
『因って!』、
『顛倒する!』者が、
『有るのだ!』。
復次
 若常我樂淨  而是實有者 
 是常我樂淨  則非是顛倒
復た次ぎに、
若し常我楽浄にして、是れ実に有れば、
是の常我楽浄は、則ち是れ顛倒に非ず。
復た次ぎに、
若し、
『常、我、楽、浄』が、
『実に!』、
『有れば!』、
是の、
『常、我、楽、浄』は、
『顛倒ではない!』。
参考
na svato jāyate bhāvaḥ parato naiva jāyate |
na svataḥ parataś ceti viparyayagataḥ kutaḥ ||20||
Things are not born from themselves, not born from others.
If they are also not from self and others,
where can there be someone who has confusion?

ātmā ca śuci nityaṃ ca sukhaṃ ca yadi vidyate |
ātmā ca śuci nityaṃ ca sukhaṃ ca na viparyayaḥ ||21||
If self and purity and permanence and happiness were existent,
self and purity and permanence and happiness would not be confusions.

参考
If things are not produced from themselves,
Not produced from something different
And also not produced from both themselves and something different
How could there be someone possessing mistakes?

If the self, the pure,
The permanent and happiness existed
The self, the pure, the permanent
And happiness would not be mistaken.

参考
もしも我(アートマン)と浄と常と樂とが,〔実際に〕存在するのであるならば,我と浄と常と樂とは,顛倒ではない〔ことになるであろう〕。
若常我樂淨是四實有性者。是常我樂淨則非顛倒。何以故。定有實事故。云何言顛倒。 若し常我楽浄の、是の四に実に性有らば、是の常我楽浄は、則ち顛倒に非ず。何を以っての故に、定んで実事有るが故に、云何が顛倒と言う。
若し、
『常、我、楽、浄』という、
是の、
『四』に、
実に、
『性』が、
『有れば!』、
是の、
『常、我、楽、浄』は、
『顛倒ではない!』。
何故ならば、
定んで、
『実の事』が、
『有る!』のに、
何故、
『顛倒だ!』と、
『言うのか?』。
若謂常我樂淨倒是四無者。無常苦無我不淨。是四應實有。不名顛倒。顛倒相違故名不顛倒。是事不然。 若しは謂わく、『常我楽浄の倒は、是の四無くんば、無常苦無我不浄は、是の四は応に実に有りて、顛倒と名づけざるべし。顛倒と相違するが故に、不顛倒と名づくればなり』、と。是の事は然らず。
若し、
こう謂うならば、――
『常、我、楽、常』の、
『顛倒』という、
是の、
『四』が、
『無ければ!』、
『無常、無我、苦、不浄』という、
是の、
『四』が、
『有るはず!』だが、
是れは、
『顛倒』とは、
『呼ばれない!』。
是れは、
『顛倒』と、
『相違する!』が故に、
『不顛倒』と、
『呼ばれるのだ!』、と。
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
何以故
 若常我樂淨  而實無有者 
 無常苦不淨  是則亦應無
何を以っての故に、
若し常我楽浄にして、実に有ること無ければ、
無常苦不浄は、是れ則ち亦た応に無かるべし。
何故ならば、
若し、
『常、我、楽、浄』が、
『実に!』、
『無ければ!』、
『無常、無我、苦、不浄』も、
亦た、
『無いことになる!』。
参考
nātmā ca śuci nityaṃ ca sukhaṃ ca yadi vidyate |
anātmā ’śucy anityaṃ ca naiva duḥkhaṃ ca vidyate ||22||
If self and purity and permanence and happiness were non-existent,
selflessness, impurity, impermanence and anguish would not exist.

参考
If the self, the pure,
The permanent and happiness did not exist
The selfless, the impure,
The impermanent and suffering would not exist.

参考
もしも我(アートマン)と浄と常と樂とが,〔実際に〕存在しないのであるならば,無我と不浄と無常と苦ともまた,〔実際には〕存在しない〔ことになるであろう〕。
若常我樂淨是四實無。無故無常等四事亦不應有。何以故。無相因待故。 若し常我楽浄の是の四実に無ければ、無きが故に無常等の四事も亦た応に有るべからず。何を以っての故に、相因待すること無きが故になり。
若し、
『常、我、楽、浄』という、
是の、
『四』が、
『実に!』、
『無ければ!』、
『無い!』が故に、
『無常等の四事』も、
『有るはずがない!』。
何故ならば、
『因待する!』、
『相手』が、
『無いからだ!』。
復次
 如是顛倒滅  無明則亦滅 
 以無明滅故  諸行等亦滅
復た次ぎに、
是の如く顛倒滅すれば、無明も則ち亦た滅す、
無明滅するを以っての故に、諸行等も亦た滅す。
復た次ぎに、
是のように、
『顛倒』が、
『滅した!』ので、
『無明』も、
『滅することになった!』。
『無明』が、
『滅した!』が故に、
『諸行』等も、
『滅するだろう!』。
参考
evaṃ nirudhyate ’vidyā viparyayanirodhanāt |
avidyāyāṃ niruddhāyāṃ saṃskārādyaṃ nirudhyate ||23||
Thus by stopping confusion, ignorance will stop.
If ignorance is stopped, impulsive acts etc. will stop.

参考
Thus, due to mistakes having ceased
Ignorance will cease.
When ignorance has ceased
Compositional actions and so forth will cease.

参考
このようにして,顛倒が滅するから,無明(根源的無知)が滅せられる。無明が滅せられるときに,〔潜在的〕形成作用(行)などが滅せられる。
如是者如其義。滅諸顛倒故。十二因緣根本無明亦滅。 是の如くとは、其の義の如く、諸の顛倒を滅するが故に、十二因縁の根本の無明も亦た滅す。
『是のように!』とは、
其の、
『道理』に、
『随って!』、――
諸の、
『顛倒』が、
『滅した!』が故に、
『十二因縁の根本』の、
『無明』も、
『滅した!』。
無明滅故三種行業。乃至老死等皆滅。 無明の滅せるが故に、三種の行業、乃至老死等も、皆滅せり。
『無明』が、
『滅した!』が故に、
『三種』の、
『行業(身口意の業)』も、
乃至、
『老死!』等も、
『皆、滅した!』。
復次
 若煩惱性實  而有所屬者 
 云何當可斷  誰能斷其性
復た次ぎに、
若し煩悩の性実にして、所属有れば、
云何が当に断ずべき、誰か能く其の性を断ぜん。
復た次ぎに、
若し、
『煩悩』の、
『性』が、
『実であり!』、
而も、
『属する!』所の、
『人』が、
『有るとすれば!』、
何故、
『煩悩』を、
『断つことができるのか?』、
誰に、
其の、
『性』を、
『断つことができるのか?』。
参考
yadi bhūtāḥ svabhāvena kleśāḥ kecid dhi kasyacit |
kathaṃ nāma prahīyeran kaḥ svabhāvaṃ prahāsyati ||24||
If the afflictions of some existed by their own nature,
how could they be let go of?
Who can let go of what exists by nature?

参考
If any afflictions of anybody
Existed by way of their own essence
How could they be abandoned?
Who could abandon that which exists?

参考
もしも何らかのもろもろの煩悩が,その自性(固有の実体)として実在しており,だれかに所属しているのであるならば,一体,どうして,〔それらは〕断じ滅せられるであろうか。どのようなものが,自性を断じ滅し得るであろうか。
若諸煩惱即是顛倒。而實有性者。云何可斷。誰能斷其性。 若し諸の煩悩、即ち是れ顛倒にして、而も実に性有れば、云何が断ずべき、誰か能く其の性を断ぜん。
若し、
諸の、
『煩悩』が、
『顛倒だ!』とし、
而も、
『実に!』、
『性』が、
『有れば!』。
何故、
『煩悩』を、
『断つことができるのか?』、
誰に、
其の、
『性』を、
『断つことができるのか?』。
若謂諸煩惱皆虛妄無性而可斷者。是亦不然。 若し、諸の煩悩は、皆虚妄にして無性なれば、断ずべしと謂わば、是れ亦た然らず。
若し、
こう謂うならば、――
諸の、
『煩悩』は、
皆、
『虚妄であり!』、
『無性である!』が故に、
『断つことができる!』、と。
是れも、
亦た、
『間違っている!』。
何以故
 若煩惱虛妄  無性無屬者 
 云何當可斷  誰能斷無性
何を以っての故に、
若し煩悩が虚妄にして、無性無属なれば、
云何が当に断ずべき、誰か能く無性を断ぜん。
何故ならば、
若し、
『煩悩』が、
『虚妄であり!』、
『無性であり!』、
『無属である!』とすれば、
何故、
『煩悩』を、
『断つことができるのか?』、
誰に、
『無性』を、
『断つことができるのか?』。
参考
yady abhūtāḥ svabhāvena kleśāḥ kecid dhi kasyacit |
kathaṃ nāma prahīyeran ko ’sadbhāvaṃ prahāsyati ||25||
If the afflictions of some did not exist by their own nature,
how could they be let go of?
Who can let go of what does not exist?

参考
If any afflictions of anybody
Did not exist by way of their own essence
How could they be abandoned?
Who could abandon that which does not exist?

参考
もしも何らかのもろもろの煩悩が,その自性(固有の実体)として実在していないのに,だれかに所属しているのであるならば,一体,どうして,〔それらは〕断じ滅せられるであろうか。どのようなものが,実在していないものを断じ滅し得るであろうか。
若諸煩惱虛妄無性。則無所屬。云何可斷。誰能斷無性法 若し諸の煩悩が虚妄にして無性なれば、則ち所属無し。云何が断ずべき。誰か能く無性の法を断ぜん。
若し、
諸の、
『煩悩』が、
『虚妄であり!』、
『無性ならば!』、
則ち、
『属する!』所が、
『無いことになる!』、
何故、
誰にも、
『属さない!』所が、
『断てるのか?』。
誰に、
『無性』の、
『法』を、
『断つことができるのか?』。



中論觀四諦品第二十四(四十偈)

問曰。破四顛倒。通達四諦。得四沙門果 問うて曰く、四顛倒を破れば、四諦に通達して、四沙門果を得ん。
問い、
『四顛倒(常、楽、我、淨顛倒)』を、
『破れば!』、
『四諦(苦、集、滅、道諦)』に、
『通達して!』、
『四沙門果(預流、一来、不還、阿羅漢果)』を、
『得られる!』。
  四諦(したい):四種の崇高なる真実/四聖諦( four noble truths )、梵語 catvaari- aarya- satyaani の訳、四種の崇高な真実の意、仏の波羅奈斯 vaaraaNasii に於ける最初の説教の中心的趣旨を為すものである( The noble truths (ārya-satya), which form the main content of the Buddha's first sermon given at Vārāṇasī: ):謂わゆる、――
  1. 苦諦 duHkha- satya 苦に関する真実 the truth of suffering :苦は六趣中に満ちている( suffering is the lot of the six states of existence );
  2. 集諦 samudaya- satya 苦の生起に関する真実 the truth of the arising of suffering :苦悩の精神情態に由り、苦を聚集/激化することを云う( it is the aggregation (or exacerbation) of suffering by reason of afflicted mental states );
  3. 滅諦 nirodha- satya 苦の停止に関する真実 the truth of the cessation of suffering :停止とは涅槃を云う、欲望とその帰結との火を消して、空虚或いは絶滅の如き死苦を離れること( cessation is nirvāṇa, the extinction of desire and its consequences, and the leaving of the sufferings of mortality as void and extinct );
  4. 道諦 maarga- satya 苦を滅する道に関する真実 the truth of the path to the cessation of suffering :此の絶滅の道とは、即ち八正道をである。( this the way of extinction, i. e. the eightfold correct path )。
  四顛倒(してんどう):四種の倒置/逆転( four inversions )、梵語 viparyaasa- catuSka の訳、viparyaasa は転覆する( overturning, overthrow, upsetting )、~の逆/反対/対立( reverse, contrariety, opposition, opposite of )の義、人を真実の道から踏み外させる四種の逆転した見解( The four inverted views, which cause one to fall from the true path )、謂わゆる常、楽、我、浄に関する四種の歪曲された見解( The four distorted views in regard to permanence 常, joy 樂, self 我, and purity 淨. )。其れには二種あり、一には上記の四種の一般的信念であり、初期の仏教徒の、一切は無常であり、苦、無我、不浄であるとする教義により否定された( the common belief in the four above, denied by the early Buddhist doctrine that all is impermanent 無常, suffering 苦, lacking selfhood 無我, and impure 不淨 )、二には涅槃は常、楽、我、浄の状態ではないとする、小乗学派の誤った信念である。小乗の教義は、経験的生命に関する一般的見解を破ったが、大乗の教義は、両方の見解を否定したのである( the false belief of the lesser vehicle school that nirvāṇa is not a state of permanence, joy, self, and purity. The lesser vehicle doctrine refutes the common view in regard to the phenomenal life; the Mahāyāna teaching refutes both views )。四種とは即ち以下のごとし、――
  1. 常顛倒 nitya-viparyaasa 永久に関する誤解 the error of permanence:一時的なものを永久であると看做す(taking the impermanent to be permanent );
  2. 楽顛倒 sukha- viparyaasa 愉楽に関する誤解 the error of enjoyment :苦痛を愉楽として認識する( perceiving suffering as enjoyment );
  3. 我顛倒 aatma- viparyaasa 自己に関する誤解 the error of self :非自己でないものを自己として認識する( perceiving what is not a self to be a self );
  4. 浄顛倒 zuci- viparyaasa 清浄に関する誤解 the error of purity :不浄を清浄であると視る( seeing the impure as pure )。
  四沙門果(ししゃもんか):四種の認識( four realizations )、梵語 catvaari- phalaani の訳、声聞道に於ける四段階の到達点( The four attainments of the śrāvaka path )の意、即ち以下のごとし――
  1. 須陀洹 srota- aapanna :預流果/[聖者の]流れに入る者( stream- enterer );
  2. 斯陀含 sakRdaagaamin :一来果/[人間]に唯一来する者( once- returner );
  3. 阿那含 anaagaamin :不還果/[人間]に再び還らざる者( nonreturner );
  4. 阿羅漢 arhat :応供/[供養]を受けるに足る者( one who deserves to receive (a offerings) )。
 若一切皆空  無生亦無滅 
 如是則無有  四聖諦之法 
 以無四諦故  見苦與斷集 
 證滅及修道  如是事皆無 
 以是事無故  則無四道果 
 無有四果故  得向者亦無 
 若無八賢聖  則無有僧寶 
 以無四諦故  亦無有法寶 
 以無法僧寶  亦無有佛寶 
 如是說空者  是則破三寶
若し一切皆空なれば、生無く亦た滅無し、
是の如きは、則ち四聖諦の法有ること無し。
四諦無きを以っての故に、見苦と断集と、
証滅及び修道との、是の如き事皆無し。
是の事無きを以っての故に、則ち四道の果無く、
四果有ること無きが故に、得、向者も亦た無し。
若し八賢聖無くんば、則ち僧宝有ること無く、
四諦無きを以っての故に、亦た法宝も有ること無けん。
法と僧宝と無きを以って、亦た仏法も有ること無けん、
是の如く空を説く者は、是れ則ち三宝を破せん。
若し、
『一切が!』、
皆、
『空ならば!』、
『無生であり!』、
『無滅である!』が、
是の通りならば、
『四聖諦』という、
『法』も、
『無いことになる!』。
『四諦』が、
『無い!』が故に、
『苦を見る!』、
『集を断つ!』、
『滅を証する!』、
『道を修める!』、
是のような、
『事』は、
『皆、無い!』。
是の、
『事』の故に、
『四種』の、
『道果』が、
『無くなり!』、
『四種』の、
『道果』が、
『無い!』が故に、
『果』を、
『得た!』者も、
『無く!』、
『果』に、
『向う!』者も、
『無い!』。
若し、
『八賢聖』が、
『無ければ!』、
『僧宝』が、
『無くなる!』、
『四諦』が、
『無くなる!』が故に、
『法宝』も、
『無くなる!』。
『法宝』も、
『僧宝』も、
『無くなれば!』、
『仏宝』も、
『無くなるだろう!』。
是のように、
『空』を、
『説く!』者は、
『三宝』を、
『破ることになる!』。
  (こう):梵語 pratipannaka の訳、目的に達した( arrived at an aim )の義。目的の位階に登りつるある状態(The state of ascending to the objective stage )の意、これに四向有り、即ち以下のごとし、――
  1. 須陀洹向 srota-aapatti-pratipannaka;
  2. 斯陀含向 sakRdaagaami-pratipannaka;
  3. 阿那含向 anaagaami-pratipannaka;
  4. 阿羅漢向 arhat-pratipannaka。
  八賢聖(はちけんじょう):梵語 aTTHaarya- pudgalaaH, aSTau puruSa- pudgalaaH の訳、八人[八位階]の聖者( eight [stages] of saints )の意、四向、四果の総称、声聞道に於ける八段階の完成( Eight levels of accomplishment in the śrāvaka path )を云う。
参考
yadi śūnyam idaṃ sarvam udayo nāsti na vyayaḥ |
caturṇām āryasatyānām abhāvas te prasajyate ||1||
“If all were empty, nothing could come about or perish.
It would follow for you that the four ennobling truths could not exist.

parijñā ca prahāṇaṃ ca bhāvanā sākṣikarma ca |
caturṇām āryasatyānām abhāvān nopapadyate ||2||
Since the four ennobling truths would not exist,
understanding, letting go, cultivating and realizing
would no longer be valid.

tadabhāvān na vidyante catvāry āryaphalāni ca |
phalābhāve phalasthā no na santi pratipannakāḥ ||3||
“Since they would not exist, the four fruits would also not exist.
If the fruits did not exist, there could be no abiding in the fruits.
Experiencing them would also not exist.

saṃgho nāsti na cet santi te ’ṣṭau puruṣapudgalāḥ |
abhāvāc cāryasatyānāṃ saddharmo ’pi na vidyate ||4||
“If those eight beings did not exist,
the Community would not exist.
Since there would be no ennobling truths,
the sublime Dharma could also not exist.

dharme cāsati saṃghe ca kathaṃ buddho bhaviṣyati |
evaṃ trīṇy api ratnāni bruvāṇaḥ pratibādhase ||5||
“If the Community and the Dharma did not exist,
how could Buddha exist? When you talk of emptiness,
the three Jewels are maligned.

参考
If all these things were empty
They would not arise or disintegrate.
And it would follow that for you
The Four Noble Truths would not exist.

Since there are no Four Noble Truths
Complete knowledge, abandoning,
Cultivating and actualizing
Would not be tenable.

Since there are none of those
Also the four results would not exist.
If there are no results, also abiders in the result
And approachers to the result would not exist.

If those eight persons do not exist
The Sangha would not exist.
And since there are no Noble Truths
Also the holy Dharma would not exist.

If there is no Dharma and no Sangha
How could Buddha exist?
If emptiness is propounded in such a way
The Three Jewels would be invalidated.

参考
もしもこの一切が空であるならば,生は存在しない,滅は〔存在し〕ない〔ことになるであろう〕。そして〔それから〕,四つの聖なる真理(苦・集・滅・道の四聖諦)は存在しないということが,汝に付随することになるであろう。

四つの聖なる真理が存在しないがゆえに,完全に知ること(智)も,〔煩悩を〕断じ滅すること(断)も,〔道を〕修習(実踐) すること(修)も,さとりを得ること(証)も,成り立たないことになるであろう。

それ(智・断・修・証)が存在しないがゆえに,四つの聖なる果も,存在しないことになるであろう。果が存在しないならば,その果に住する者(四果)はなく,その果に向かって進む者(四向)は,存在しないことになるであろう。

もしもそれら八種の人人(八賢聖,四向四果の聖者)が存在しないならば,僧伽(サンガ,教団)は,存在しないことになるであろう。また,〔四つの〕聖なる真理(四聖諦 が存在しないがゆえに,正しい教え(正法)もまた,存在しないことになるであろう。

法〔宝〕と僧〔宝〕が存在しないならば,どうして,仏〔宝〕が存在するであろうか。 このように,〔空であること(空性)を〕語るならば,三宝(仏‧法‧僧)をもまた,汝は破壞することになるであろう。
若一切世間皆空無所有者。即應無生無滅。以無生無滅故。則無四聖諦。 若し一切の世間、皆空にして無所有なれば、即ち応に無生、無滅なるべく、無生、無滅を以っての故に、則ち四聖諦無し。
若し、
一切の、
『世間』が、
皆、
『空であり!』、
『無所有ならば!』、
即ち、
『生』も、
『滅』も、
『無いはずだ!』。
『世間』には、
皆、
『生』も、
『滅』も、
『無い!』が故に、
則ち、
『四聖諦』も、
『無いことになる!』。
何以故。從集諦生苦諦。集諦是因苦諦是果。滅苦集諦名為滅諦。能至滅諦名為道諦。道諦是因滅諦是果。 何を以っての故に、集諦によって苦諦を生ずれば、集諦は是れ因、苦諦は是れ果なり。苦の集まるを滅する諦を名づけて、滅諦と為し、能く滅に至る諦を名づけて、道諦と為せば、道諦は是れ因、滅諦は是れ果なり。
何故ならば、
『集諦』により、
『苦諦』を、
『生じる!』とすれば、
則ち、
『集諦』は、
『因であり!』、
『苦諦』は、
『果である!』。
『苦』の、
『集まる!』のを、
『滅する!』為の、
『諦(真実)』を、
『滅諦』と、
『称し!』、
『滅』に、
『至る!』為の、
『諦』を、
『道諦』と、
『称する!』。
則ち、
『道諦』は、
『因であり!』、
『滅諦』は、
『果である!』。
如是四諦有因有果。若無生無滅則無四諦。四諦無故。則無見苦斷集證滅修道。見苦斷集證滅修道無故。則無四沙門果。四沙門果無故。則無四向四得者。 是の如く四諦には因有り、果有り。若し無生、無滅なれば、則ち四諦無し。四諦無きが故に、則ち見苦、断集、証滅、修道無し。見苦、断集、証滅、修道無きが故に、則ち四沙門果無し。四沙門果無きが故に、則ち四向、四得の者無し。
是のように、
『四諦』には、
『因』も、
『果』も、
『有る!』が、
若し、
『無生、無滅ならば!』、
『四諦』も、
『無くなり!』、
『四諦』が、
『無くなる!』が故に、
『苦を見る!』こと、
『集を断つ!』こと、
『滅を証する!』こと、
『道を修める!』ことも、
『無くなり!』、
則ち
『四沙門果』が、
『無くなる!』、
『四沙門果』が、
『無くなる!』が故に、
『四向の者』や、
『四得(四果)の者』も、
『無くなる!』。
若無此八賢聖。則無僧寶。又四聖諦無故。法寶亦無。若無法寶僧寶者。云何有佛。 若し、此の八賢聖無ければ、則ち僧宝無し。又四聖諦無きが故に、法宝も亦た無し。若し法宝、僧宝無くんば、云何が仏有らん。
若し、
此の、
『八賢聖』が、
『無ければ!』、
則ち、
『僧宝』は、
『無いということである!』。
又、
『四聖諦』が、
『無い!』が故に、
亦た、
『法宝』も、
『無い!』。
若し、
『法宝』も、
『僧宝』も、
『無ければ!』、
何故、
『仏』が、
『有るのか?』。
得法名為佛。無法何有佛。汝說諸法皆空。則壞三寶。 法を得れば、名づけて仏と為す。法無くんば、何んが仏有らん。汝が、『諸法は皆空なり』、と説けば、則ち三宝を壊る。
『法』を、
『得た!』ので、
『仏』と、
『称される!』のに、
若し、
『法』が、
『無ければ!』、
何のような、
『仏』が、
『有るのか?』。
お前が、
諸の、
『法』は、
『皆空である!』と、
『説けば!』、
則ち、
『三宝』を、
『壊(やぶ)ることになる!』。
復次
 空法壞因果  亦壞於罪福 
 亦復悉毀壞  一切世俗法
復た次ぎに、
空法因果を壊らば、亦た罪福を壊り、
亦復た悉く、一切の世俗の法を毀壊せん。
復た次ぎに、
『空』という、
『法』が、
『因、果』を、
『壊れば!』、
亦た、
『罪、福』も、
『壊るだろう!』、
亦復た、
『更に!』、
『悉く!』、
一切の、
『世俗の法』も、
『壊るだろう!』。
参考
śūnyatāṃ phalasadbhāvam adharmaṃ dharmam eva ca |
sarvasaṃvyavahārāṃś ca laukikān pratibādhase ||6||
“The existence of actions and fruits,
what is not Dharma and what is Dharma,
the conventions of the world:
all these too are maligned.”

参考
The existence of activities and results,
Non-Dharma, Dharma
And the conventions of the world –
All these as well would be invalidated.

参考
また,空であること(空性)〔を語るならば〕,果報が実在すること‧非法‧法‧世間における一切の語言習慣をもまた,汝は破壞することになるであろう。
若受空法者。則破罪福及罪福果報。亦破世俗法。有如是等諸過故。諸法不應空。 若し空法を受くれば、則ち罪福、及び罪福の果報を破り、亦た世俗の法を破らん。是の如き等の諸の過有るが故に、諸法は応に空なるべからず。
若し、
『空』という、
『法』を、
『受容する!』ならば、
則ち、
『罪、福』と、
『罪、福の果報』を、
『破ることになり!』、
亦た、
『世俗』の、
『法』も、
『破ることになるだろう!』。
是れ等のような、
諸の、
『過』が、
『有る!』が故に、
諸の、
『法』は、
『空であるはずがない!』。
答曰
 汝今實不能  知空空因緣 
 及知於空義  是故自生惱
答えて曰く、
汝は今実に、空と空の因縁とを知り、
及び空義を知る能わず、是の故に自ら悩を生ず。
答え、
お前は、
今、
実に、
『空』と、
『空の因縁』と、
『空の意義』とを、
『知ることができず!』、
是の故に、
自ら、
『悩み!』を、
『生じている!』。
参考
atra brūmaḥ śūnyatāyāṃ na tvaṃ vetsi prayojanam |
śūnyatāṃ śūnyatārthaṃ ca tata evaṃ vihanyase ||7||
An explanation for that:
since you do not understand the need for emptiness,
emptiness, and the point of emptiness,
therefore in that way you malign.

参考
The explanation in response to that
Is that since you do not realize the need to teach emptiness,
The entity of emptiness or the meaning of emptiness
Your argument is thus invalidated.

参考
ここに,われわれはいう。──汝は,空であること(空性) における效用(動機,目的),空であること,また空であることの意義を,知らないのである。それゆえ,汝は,このように〔みずから〕かき乱されている。
汝不解云何是空相。以何因緣說空。亦不解空義。不能如實知故。生如是疑難。 汝は、云何が是れ空相なる、何なる因縁を以って空を説くやを解せず、亦た空の義を解せざれば、如実に知る能わざるが故に、是の如き疑難を生ず。
お前は、
『空』という、
『相』は、
『何のようなものなのか?』を、
『理解せず!』、
『空』とは、
何のような、
『因縁』の故に、
『説かれたのか?』も、
『理解せず!』、
亦た、
『空』の、
『意義( meaning )』をも、
『理解していない!』。
『空』を、
『如実に!』、
『知ることができない!』が故に、
是のような、
『疑難(疑問と非難)』を、
『生じるのだ!』。
復次
 諸佛依二諦  為眾生說法 
 一以世俗諦  二第一義諦 
 若人不能知  分別於二諦 
 則於深佛法  不知真實義
復た次ぎに、
諸仏は二諦に依りて、衆生の為に法を説きたもう、
一には世俗諦を以って、二には第一義諦なり。
若し人、二諦を分別するを知る能わざれば、
則ち深き仏法に於ける、真実の義を知らず。
復た次ぎに、
諸の、
『仏』は、
『二諦』に依って、
『衆生』の為に、
『法』を、
『説かれた!』、
一には、
『世俗諦』を、
『用いて!』、
『説かれ!』、
二には、
『第一義諦』を、
『用いて!』、
『説かれた!』。
若し、
『人』が、
此の、
『二諦』を、
『分別する!』ことを、
『知らなければ!』、
深い、
『仏法』の、
『真実の義』を、
『知ることはないだろう!』。
参考
dve satye samupāśritya buddhānāṃ dharmadeśanā |
lokasaṃvṛtisatyaṃ ca satyaṃ ca paramārthataḥ ||8||
The Dharma taught by Buddhas perfectly relies on two truths:
the ambiguous truths of the world and the truths of the sublime meaning.

ye ’nayor na vijānanti vibhāgaṃ satyayor dvayoḥ |
te tattvaṃ na vijānanti gambhīraṃ buddhaśāsane ||9||
Those who do not understand the division into two truths,
cannot understand the profound reality of the Buddha’s teaching.

参考
The Buddhas teach the Dharma
Correctly depending on the two truths –
The thoroughly obscured truths of the world
And ultimate truth.

Those who do not fully understand
The distinctions of the two truths
Do not fully understand the profound suchness
In the teachings of the Buddha.

参考
二つの真理(二諦)にもとづいて,もろもろのブッダの法(教え)の說示〔がなされている〕。〔すなわち〕,世間の理解としての真理(世俗諦)と,また最高の意義としての真理(勝義諦)とである。

およそ,これら二つの真理(二諦)の区別を知らない人々は,何びとも,ブッダの教えにおける深遠な真実義を,知ることがない。
世俗諦者。一切法性空。而世間顛倒故生虛妄法。於世間是實。 世俗諦とは、一切の法性は空なるも、世間は顛倒の故に、虚妄の法を生じ、世間に於いては是れ実なり。
『世俗諦』とは、
一切の、
『法性』は、
『空である!』が、
而し、
『世間』は、
『顛倒』の故に、
『虚妄の法』を、
『生じる!』ので、
『世間』には、
是の、
『世俗諦』が、
『実である!』。
諸賢聖真知顛倒性。故知一切法皆空無生。於聖人是第一義諦名為實。 諸の賢聖は、真に顛倒の性を知るが故に、一切の法は皆空にして、無生なるを知り、聖人に於いては、是の第一義諦を名づけて、実と為す。
諸の、
『賢聖』は、
『世間』の、
『顛倒の性』を、
『知る!』が故に、
『一切の法』は、
皆、
『空、無生である!』と、
『知る!』。
『聖人』には、
是の、
『第一義諦』が、
『実である!』と、
『称される!』。
諸佛依是二諦。而為眾生說法。 諸仏は、是の二諦に依りて、衆生の為に法を説きたもう。
諸の、
『仏』は、
是の、
『世俗諦』と、
『第一義諦』という、
『二諦』を、
『用いて!』、
『衆生』の為に、
『法』を、
『説かれた!』。
若人不能如實分別二諦。則於甚深佛法。不知實義。 若し人、如実に二諦を分別する能わざれば、則ち甚深の仏法に於いて、実義を知らず。
若し、
『人』が、
『如実に!』、
『二諦』を、
『分別する!』ことを、
『知らなければ!』、
『甚だ深い!』、
『仏法』の、
『実の義』を、
『知らないことになる!』。
若謂一切法不生是第一義諦。不須第二俗諦者。是亦不然。 若し、『一切法の不生なる、是れ第一義諦にして、第二の俗諦を須いず』、と謂わば、是れも亦た然らず。
若し、
こう謂うならば、――
一切の、
『法』の、
『不生』が、
『第一義諦であり!』、
『第二』の、
『俗諦』は、
『不必要である!』、と。
是れも、
亦た、
『真実でない!』。
何以故
 若不依俗諦  不得第一義 
 不得第一義  則不得涅槃
何を以っての故に、
若し俗諦に依らずんば、第一義を得ず、
第一義を得ずんば、則ち涅槃を得ず。
何故ならば、
若し、
『俗諦』に、
『依らなければ!』、
『第一義』を、
『理解できず!』、
『第一義』を、
『理解できなければ!』、
『涅槃』を、
『得られないからである!』。
参考
vyavahāram anāśritya paramārtho na deśyate |
paramārtham anāgamya nirvāṇaṃ nādhigamyate ||10||
Without relying on conventions,
the sublime meaning cannot be taught.
Without understanding the sublime meaning,
one will not attain nirvana.

参考
Without depending on conventions
The ultimate cannot be taught.
Without realizing the ultimate
Nirvana will not be attained.

参考
〔世間の〕言語習慣に依拠しなくては,最高の意義は,說き示されない。最高の意義に到達しなくては,ニルヴァーナ(涅槃)は,証得されない。
第一義皆因言說。 言說是世俗。是故若不依世俗。第一義則不可說。 第一義は皆、言説に因り、言説は、是れ世俗なり。是の故に、世俗に依らざれば、第一義は、則ち説くべからず。
『第一義』は、
皆、
『言説』に、
『因って!』、
『存在する!』が、
『言説』は、
『世俗である!』。
是の故に、
『世俗』の、
『言説』に、
『依らなければ!』、
『第一義』は、
『説かれない!』。
若不得第一義。云何得至涅槃。 若し第一義を得ざれば、云何が涅槃に至るを得ん。
若し、
『第一義』を、
『理解していなかった!』とすれば、
何故、
『涅槃』に、
『至ることができるのか?』。
是故諸法雖無生。而有二諦。 是の故に、諸法は無生なりと雖も、二諦有り。
是の故に、
諸の、
『法』は、
『無生でありながら!』、
而も、
『二種』の、
『諦(真実)』を、
『有するのである!』。
復次
 不能正觀空  鈍根則自害 
 如不善咒術  不善捉毒蛇
復た次ぎに、
空を正観する能わざる、鈍根は則ち自ら害す、
呪術を善くせず、善く毒蛇を捉えられざるが如し。
復た次ぎに、
『空』を、
『正しく!』、
『観ることのできない!』、
『鈍根』が、
『空』を、
『邪(よこしま)に!』、
『観れば!』、
『逆に!』
『自ら!』を、
『害するだろう!』。
譬えば、
『呪術』が、
『不善(へた)だ!』とか、
『毒蛇』を、
『捉える!』のが、
『不善なように!』。
参考
vināśayati durdṛṣtā śūnyatā mandamedhasam |
sarpo yathā durgṛhīto vidyā vā duṣprasādhitā ||11||
If their view of emptiness is wrong,
those of little intelligence will be hurt.
Like handling a snake in the wrong way,
or casting a spell in the wrong way.

参考
If their view of emptiness is faulty
Those of little wisdom will be ruined.
It is just like handling a snake in the wrong way
Or accomplishing a knowledge mantra in the wrong way.

参考
誤って見られた空であること(空性)は,智慧の鈍いもの破滅させる。あたかも誤って捕えられた蛇,あるいはまた,誤ってなされる呪術のように。
若人鈍根。不善解空法。於空有失而生邪見。 若し人鈍根にして、善く空法を解せずんば、空に失有りて、邪見を生ぜん。
若し、
『人』が、
『鈍根で!』、
『空』という、
『法』を、
『善(うま)く!』、
『理解できなければ!』、
『空』中に、
『正理』を、
『見失って!』、
『邪見』を、
『生じるだろう!』。
如為利捉毒蛇不能善捉反為所害。又如咒術欲有所作不能善成則還自害。鈍根觀空法亦如是。 利の為に毒蛇を捉らうるに、善く捉らうる能わざれば、反って害せらるるが如く、又咒術して、所作有らんと欲するに、善く成ずる能わざれば、則ち還って自ら害するが如く、鈍根の空法を観ずるも、亦た是の如し。
譬えば、
『利』の為に、
『毒蛇』を、
『捉える!』時、
『善く!』、
『捉えられなければ!』、
反って、
『毒蛇』に、
『害されるように!』、
又、
『呪術』で、
何か、
『作したい!』と、
『思っても!』、
『善く!』、
『成し遂げられなければ!』、
還って、
『自ら!』を、
『害するように!』、
『鈍根』が、
『空』という、
『法』を、
『観る!』ことも、
亦た、
『是の通りなのである!』。
復次
 世尊知是法  甚深微妙相 
 非鈍根所及  是故不欲說
復た次ぎに、
世尊の知りたまわく、是の法の甚深微妙の相は、
鈍根の及ぶ所に非ずと、是の故に説くを欲したまわず。
復た次ぎに、
『世尊』は、
こう知られた、――
是の、
『法』の、
『甚だ深く!』、
『微妙な!』、
『相』は、
『鈍根』の、
『知ろうとして!』、
『及ぶ所ではない!』、と。
是の故に、
是の、
『法』を、
『説こう!』とは、
『思われなかった!』。
参考
ataś ca pratyudāvṛttaṃ cittaṃ deśayituṃ muneḥ |
dharmaṃ matvāsya dharmasya mandair duravagāhatām ||12||
Therefore, knowing how difficult
it is for the weak to understand the depths of this Dharma,
the heart of the Muni strongly turned away from teaching the Dharma.

参考
Thus, knowing that for the weak-minded
This Dharma is difficult to fathom,
The mind of the Sage completely turned away
From teaching this Dharma.

参考
それゆえ,鈍い者たちには,〔この空であることの〕法(教え)が体得され難いことを慮って,〔この〕法(教え)を說示しようとする,〔シャカ〕ムニ(聖者,ブッダ)の心は,押しとどめられた。
世尊以法甚深微妙。非鈍根所解。是故不欲說。 世尊は法の甚深微妙にして、鈍根の解する所に非ざるを以って、是の故に説くことを欲したまわず。
『世尊』は、
是の、
『法』が、
『甚だ深く!』、
『微妙であり!』、
『鈍根』には、
『理解されないだろう!』と、
『思われた!』、
是の故に、
『説こう!』とは、
『思われなかった!』。
復次
 汝謂我著空  而為我生過 
 汝今所說過  於空則無有
復た次ぎに、
汝は我れ空に著すと謂い、而も我れ過を生ずと為す、
汝が今の所説の過は、空に於いて則ち有ること無し。
復た次ぎに、
お前は、――
わたしが、
『空』に、
『著している!』と、
『謂い!』、
わたしが、
『過(あやまち)』を、
『生じた!』と、
『思っている!』が、
お前の、
今、
『説いた!』所の、
『過』は、
『空』中には、
『存在しない!』。
参考
śūnyatāyām adhilayaṃ yaṃ punaḥ kurute bhavān |
doṣaprasaṅgo nāsmākaṃ sa śūnye nopapadyate ||13||
Since [those] erroneous consequences do not apply to emptiness,
whatever rejections you make of emptiness do not apply to me.

参考
Since those faults which would follow
Are inadmissible with respect to emptiness,
Any rejections you make of emptiness
Are inadmissible in our system.

参考
およそ,汝がさらに空であることについて,どれほど論難しても,われわれには,誤りが付随することは,ない。空においては,それ(誤り)は,成り立たないのである。
汝謂我著空故。為我生過。我所說性空。空亦復空。無如是過。 汝は、我れは空に著せりと謂い、故に我れ過を生ずと為す。我が所説の性空は、空も亦復た空なれば、是の如き過無し。
お前は、
わたしが、
『空』に、
『著している!』と、
『謂い!』、
故に、
わたしが、
『過』を、
『生じた!』と、
『思っている!』が、
わたしの、
『説く!』所の、
『性』としての、
『空』とは、
『空ですら!』、
『空なのだ!』から、
是のような、
『過』は、
『存在しない!』。
復次
 以有空義故  一切法得成 
 若無空義者  一切則不成
復た次ぎに、
空義有るを以っての故に、一切の法は成ずるを得、
若し空義無くんば、一切は則ち成ぜず。
復た次ぎに、
『空』という、
『義』を、
『有する!』が故に、
一切の、
『法』は、
『成立する!』。
若し、
『空』という、
『義』が、
『無ければ!』、
一切の、
『法』が、
『成立しないことになる!』。
参考
sarvaṃ ca yujyate tasya śūnyatā yasya yujyate |
sarvaṃ na yujyate tasya śūnyaṃ yasya na yujyate ||14||
Those for whom emptiness is possible, for them everything is possible.
Those for whom emptiness is not possible, for them everything is not possible.

参考
In a system where emptiness is acceptable
Everything is acceptable.
In a system where emptiness is not acceptable
Nothing is acceptable.

参考
およそ,空であることが妥当するものには,一切が妥当する。およそ,空〔であること〕が妥当しないものには,一切が妥当しない。
以有空義故。一切世間出世間法皆悉成就。若無空義。則皆不成就。 空義有るを以っての故に、一切の世間と出世間の法は、皆悉く成就す。若し空義無ければ、則ち皆成就せず。
『空』という、
『義』を、
『有する!』が故に、
一切の、
『世間の法』と、
『出世間の法』とが、
皆、
『悉く!』、
『成立する!』。
若し、
『空』の、
『義』が、
『無ければ!』、
皆、
『成立しない!』。
復次
 汝今自有過  而以迴向我 
 如人乘馬者  自忘於所乘
復た次ぎに、
汝は今自ら過有るに、而も以って我れに迴向す、
人の乗馬する者、自ら乗る所を忘るるが如し。
復た次ぎに、
お前は、
今、
自ら、
『過』が、
『有る!』のに、
それを、
『わたしに!』、
『向けようとしている!』。
譬えば、
『人』が、
『馬()』に、
『乗りながら!』、
自らの、
『乗る所()』を、
『忘れているようなものだ!』。
参考
sa tvaṃ doṣān ātmanīyān asmāsu paripātayan |
aśvam evābhirūḍhaḥ sann aśvam evāsi vismṛtaḥ ||15||
You are transferring your own mistakes onto me.
This is like mounting a horse but forgetting about the horse itself.

参考
In turning your own faults
Into being ours,
You are like someone, who while riding a horse,
Forgets that very horse.

参考
汝は,自身に属するもろもろの誤りを,われわれに〔誤って〕投げつけている。あたかも,汝は馬に乘っていながら,その馬を忘れてしまっているかのように。
汝於有法中有過不能自覺。而於空中見過。如人乘馬而忘其所乘。 汝は有法中に於いて、過有るに、自ら覚る能わずして、而も空中に過を見る。人の馬に乗りて、而も其の乗る所を忘るるが如し。
お前は、
『有』という、
『法』中に、
『過(錯誤)』が、
『有る!』のに、
自ら、
『誤解している!』と、
『覚ることができず!』、
而も、
『空』という、
『法』中に、
『過』を、
『見ている!』。
譬えば、
『人』が、
『馬』に、
『乗っていながら!』、
其の、
『乗る所』を、
『忘れているようなものだ!』。
何以故
 若汝見諸法  決定有性者 
 即為見諸法  無因亦無緣
何を以っての故に、
若し汝が諸法を見るに、決定して性有らば、
即ち諸法は無因にして、亦た無縁と見ると為す。
何故ならば、
若し、
お前が、――
諸の、
『法』には、
決定して、
『性』が、
『有る!』と、
『見る!』ならば、
即ち、
諸の、
『法』には、
『因』も、
『縁』も、
『無い!』と、
『見ることになる!』。
参考
svabhāvād yadi bhāvānāṃ sadbhāvam anupaśyasi |
ahetupratyayān bhāvāṃs tvam evaṃ sati paśyasi ||16||
If you view all things as existing from their own nature,
then you would view all things as not having causes and conditions.

参考
If you regard things
As existing through an essence,
In that case you would be viewing
Things as not having causes and conditions.

参考
もしも汝が,もろもろの「存在(もの‧こと)」は自性(固有の実体)として 実在する,と認めるならば,それならば,汝は,もろもろの「存在(もの‧こと)」を因縁の無いもの,と見ているのである。
汝說諸法有定性。若爾者。則見諸法無因無緣。 汝が説かく、『諸法には定性有り』とは、若し爾らば、則ち諸法は無因、無縁なりと見る。
お前は、――
諸の、
『法』には、
『定まった性』が、
『有る!』と、
『説く!』が、
若し、爾うならば、――
諸の、
『法』には、
『因』も、
『縁』も、
『無い!』と、
『見たことになる!』。
何以故。若法決定有性。則應不生不滅。如是法何用因緣。 何を以っての故に、若し法に、決定して性有らば、則ち応に不生、不滅なるべし。是の如き法は、何んが因縁を用いん。
何故ならば、
若し、
『法』に、
決定して、
『性』が、
『有れば!』、
則ち、
『不生であり!』、
『不滅でなくてはなならない!』。
是のような、
『法』が、
何うして、
『因縁』を、
『必要とするのか?』。
若諸法從因緣生則無有性。是故諸法決定有性。則無因緣。 若し諸法が、因縁より生ずれば、則ち性有ること無し。是の故に諸法に、決定して性有らば、則ち因縁無し。
若し、
諸の、
『法』が、
『因縁』より、
『生じる!』とすれば、
則ち、
『性』は、
『無いことになる!』。
是の故に、
諸の、
『法』に、
決定して、
『性』が、
『有れば!』、
則ち、
『因縁』は、
『無い!』。
若謂諸法決定住自性。是則不然。 若し、『諸法は、決定して自性に住す』と謂わば、是れ則ち然らず。
若し、
こう謂うならば、――
諸の、
『法』は、
決定して、
『自性』中に、
『住まっている!』、と。
是れは、
則ち、
『真実でない!』。
何以故
 即為破因果  作作者作法 
 亦復壞一切  萬物之生滅
何を以っての故に、
即ち因、果、作、作者、作法を破り、
亦復た一切、万物の生滅を壊ると為す。
何故ならば、
即ち、
『因』と、
『果』と、
『作』と、
『作者』と、
『作法』とを、
『破り!』、
亦復た(その上)、
一切の、
『万物』の、
『生、滅』を、
『壊(やぶ)ることになるからだ!』。
参考
kāryaṃ ca kāraṇaṃ caiva kartāraṃ karaṇaṃ kriyām |
utpādaṃ ca nirodhaṃ ca phalaṃ ca pratibādhase ||17||
Cause and effect itself, agents,
tools and acts,
production and cessation,
the effects too would be undermined.

参考
Results and their causes,
Agents, means and actions,
Production, cessation and results
Would also be invalidated.

参考
〔そして〕汝は,結果と原因と,行為主体と手段と作用と,生と滅とを,そして果報をも,破壞する。
諸法有定性。則無因果等諸事。 諸法に定性有らば、則ち因果等の諸事無し。
若し、
諸の、
『法』に、
『定まった性』が、
『有れば!』、
則ち、
『因、果』等の、
諸の、
『事』は、
『無いことになる!』。
如偈說
 眾因緣生法  我說即是無 
 亦為是假名  亦是中道義 
 未曾有一法  不從因緣生 
 是故一切法  無不是空者
偈に説くが如し、
衆因縁の法を生ずれば、我れは説く即ち是れ無なり、
亦た是れを仮名と為し、亦た是れ中道の義なりと。
未だ曽て一法として、因縁より生ぜざるは有らず、
是の故に一切法は、是れ空ならざる者無し。
『偈』に、こう説く通りである、――
『多く!』の、
『因縁』が、
『法』を、
『生じる!』ので、
わたしは、
こう説く、――
即ち、
是れは、
『無であり!』、
亦た、
是れは、
『仮名である!』が、
亦た、
是れは、
『中道』の、
『義(意味)でもあるのだ!』、と。
未だ曽て、
『一法』として、
『因縁』より、
『生じなかった!』者は、
『無く!』、
是の故に、
『一切』の、
『法』に、
『空でない!』者は、
『無い!』。
参考
yaḥ pratītyasamutpādaḥ śūnyatāṃ tāṃ pracakṣmahe |
sā prajñaptir upādāya pratipat saiva madhyamā ||18||
Whatever is contingently related,
that is explained as emptiness.
That is contingently configured;
it is the central path.

apratītya samutpanno dharmaḥ kaścin na vidyate |
yasmāt tasmād aśūnyo hi dharmaḥ kaścin na vidyate ||19||
Because there are no things at all,
which are not contingently emergent,
therefore, there are no things at all,
which are not empty.

参考
That which arises dependently and relatedly
Is explained as simply being empty.
And that which is empty is dependently designated.
This is the middle way path.

Because there is not one single phenomenon
That is not a dependent-arising,
There is not one single phenomenon
That is not empty.

参考
およそ,縁起しているもの,それを,われわれは空であること (空性) と說く。それは,相待の仮說 (縁って想定されたもの) であり,それはすなわち,中道そのものである。

どのような「もの」(法)であろうと,縁起しないで生じたものは,存在しない。それゆえ,実に,どのような「もの」(法) であろうと,空でないものは,存在しない。
眾因緣生法。我說即是空。何以故。眾緣具足和合而物生。 衆因縁生の法を、我れは『即ち是れ空なり』と説く。何を以っての故に、衆縁具足和合して、物が生ずればなり。
『多く!』の、
『因縁』より、
『生じた!』、
『法』を、、
わたしは、
こう説く、――
即ち、
是れが、
『空なのだ!』、と。
何故ならば、
『多く!』の、
『縁』が
『具足して!』、
『和合する!』と、
『物』が、
『生じるからだ!』。
是物屬眾因緣故無自性。無自性故空。 是の物は、衆因縁に属するが故に自性無く、自性無きが故に空なり。
是の、
『物』は、
『多く!』の、
『因縁』に、
『属する!』が故に、
『自ら!』の、
『性』が、
『無く!』、
『自ら!』の、
『性』が、
『無い!』が故に、
『空である!』。
空亦復空。但為引導眾生故。以假名說。離有無二邊故名為中道。是法無性故不得言有。亦無空故不得言無。 空も亦復た空なり、但だ衆生を引導せんが為の故に、仮名を以って説く。有、無の二辺を離るるが故に名づけて、中道と為すも、是の法は無性なるが故に、有りと言うを得ず、亦た空無きが故に、無しと言うを得ず。
『空』も、
勿論、
『空である(そんなものはない)!』が、
但だ、
『衆生』を、
『引導する!』為の故に、
『空という!』、
『仮名』を、
『用いて!』、
『説くのである!』。
『空』は、
『有、無』の、
『二辺』を、
『離れる!』が故に、
是れを、
『中道』と、
『呼んでいる!』が、
是の、
『空』という、
『法』には、
『性』が、
『無い!』が故に、
『法』が、
『有る!』とは、
『言えず!』、
亦た、
『空』という、
『法』は、
『存在しない!』が故に、
『空』が、
『無い!』とも、
『言えない!』。
   :空は本来存在しないが故に、存在しないものを『空が!』と言うことはできない。
若法有性相。則不待眾緣而有。若不待眾緣則無法。是故無有不空法。 若し法に性、相有らば、則ち衆縁を待たずして有らん。若し衆縁を待たざれば、則ち法無し。是の故に、不空の法有ること無し。
若し、
『法』に、
『性、相』が、
『有れば!』、
『衆縁』を、
『待たずに!』、
『有ることになる!』が、
若し、
『衆縁』を、
『待たなければ!』、
則ち、
『法』は、
『無い!』。
是の故に、
『空でない!』、
『法』は、
『無い!』。
  :衆縁を待たざる無為法なれば云何。無為法とは、即ち有為法に非ざる法を言う。若し有為法無くんば、何ぞ独り無為法有らんや。
汝上所說空法有過者。此過今還在汝。 汝が上に説く所の、『空法には、過有り』とは、此の過は、今還って汝に在り。
お前は、
上に、こう説いたが、――
『空』という、
『法』には、
『過(錯誤)』が、
『有る!』、と。
此の、
『過』は、
今、
『お前に!』、
『還ってきた!』。
何以故
 若一切不空  則無有生滅 
 如是則無有  四聖諦之法
何を以っての故に、
若し一切は空ならずんば、則ち生滅有ること無けん、
是の如きは則ち、四聖諦の法有ること無し。
何故ならば、
若し、
一切の、
『法』が、
『空ならば!』、
則ち、
『生、滅』は、
『存在しない!』。
是れは、
則ち、
『四聖諦の法』も、
『無いということだ!』。
参考
yady aśūnyam idaṃ sarvam udayo nāsti na vyayaḥ |
caturṇām āryasatyānām abhāvas te prasajyate ||20||
If all were not empty, nothing could come about or perish.
It would follow for you that the four ennobling truths could not exist.

参考
If all these things were not empty
They would not arise or disintegrate.
And it would follow that for you
The Four Noble Truths would not exist.

参考
もしもこの一切が空でないとするならば,生は存在しない,滅は〔存在し〕ない〔ことになるであろう〕。そして〔それから〕,四つの聖なる真理(苦・集・滅・道の四聖諦 は存在しないということが,汝に付随することになるであろう。
若一切法各各有性不空者。則無有生滅。無生滅故。則無四聖諦法。 若し、一切法各に性有りて、空ならずんば、則ち生滅有ること無けん。生滅無きが故に、則ち四聖諦の法無し。
若し、
一切の、
『法』の、
各各に、
『性』が、
『有って!』、
『空でなければ!』、
則ち、
『生、滅』は、
『無いことになり!』、
『生、滅』が、
『無い!』が故に、
則ち、
『四聖諦の法』は、
『無いことになる!』。
何以故
 苦不從緣生  云何當有苦 
 無常是苦義  定性無無常
何を以っての故に、
苦は縁より生ぜずんば、云何が当に苦有るべき、
無常は是れ苦の義なれば、定性には無常無し。
何故ならば、
『苦』は、
『縁』より、
『生じない!』のに、
何故、
『苦』が、
『有ることになるのか?』。
『無常』とは、
『苦』の、
『義(意味)だが!』、
『定まった性』に、
『無常』は、
『無い!』。
参考
apratītya samutpannaṃ kuto duḥkhaṃ bhaviṣyati |
anityam uktaṃ duḥkhaṃ hi tat svābhāvye na vidyate ||21||
If things were not contingently emergent,
how could anguish exist?
Impermanent things are taught to be anguish;
in their very own nature they do not exist.

参考
If they were not dependent-arisings
How could there be suffering?
The impermanent, taught to be suffering,
Do not exist through an essence.

参考
縁起しないで生じた苦が,どうして,存在するであろうか。なぜならば,「無常であるものは苦である」と說かれているが,それ(無常であるもの)は,自性(固有の実体)として存在しているのではないからである。
苦不從緣生故則無苦。何以故。經說無常是苦義。 苦、縁より生ぜざるが故に、則ち苦無し。何を以っての故に、経に説かく、『無常は是れ苦義なり』、と。
『苦』が、
『縁』より、
『生じない!』が故に、
『苦』は、
『無いことになる!』。
何故ならば、
『経』に、こう説かれている、――
『無常』とは、
『苦』の、
『義である!』、と。
  参考:『雑阿含(11)経巻1』:『如是我聞。一時。佛住舍衛國祇樹給孤獨園。爾時。世尊告諸比丘。色無常。若因.若緣生諸色者。彼亦無常。無常因.無常緣所生諸色。云何有常。如是受.想.行.識無常。若因.若緣生諸識者。彼亦無常。無常因.無常緣所生諸識。云何有常。如是。諸比丘。色無常。受.想.行.識無常。無常者則是苦。苦者則非我。非我者則非我所。聖弟子。如是觀者。厭於色。厭於受.想.行.識。厭者不樂。不樂則解脫。解脫知見。我生已盡。梵行已立。所作已作。自知不受後有。時。諸比丘聞佛所說。歡喜奉行』
若苦有定性。云何有無常。以不捨自性故。 若し苦にして、定性有らば、云何が無常有らん。自性を捨てざるを以っての故に。
若し、
『苦』に、
『定まった性』が、
『有れば!』、
何故、
『無常』が、
『有るのか?』。
何故ならば、
『定まった性』を、
『捨てていないからである!』。
復次
 若苦有定性  何故從集生 
 是故無有集  以破空義故
復た次ぎに、
若し苦に定性有らば、何なる故にか集より生ずる、
是の故に集有ること無し、空義を破るを以っての故に。
復た次ぎに、
若し、
『苦』に、
『定まった性』が、
『有れば!』、
何故、
『集』より、
『生じるのか?』。
是の故に、
『集』は、
『無い!』、
何故ならば、
『空の義』を、
『破ったからである!』。
参考
svabhāvato vidyamānaṃ kiṃ punaḥ samudeṣyate |
tasmāt samudayo nāsti śūnyatāṃ pratibādhataḥ ||22||
If it did exist from its own nature,
why would it have an origin? Therefore,
for those who undermine emptiness,
it can have no origin.

参考
If they existed through an essence
What could originate?
Thus, for those who invalidate emptiness
Origins would not exist.

参考
自性(固有の実体)として現に存在しているどのようなものが,さらに再び生起するであろうか。それゆえ,空であること(空性)を破壞する者には,生起(集諦)は, 存在しないことになる。
若苦有定性者。則不應更生。先已有故。若爾者。則無集諦。以壞空義故。 若し苦に定性有らば、則ち応に更に生ずべからず。先に已に有るが故なり。若し爾らば、則ち集諦無けん。空義を破るを以っての故に。
若し、
『苦』に、
『定まった性』が、
『有れば!』、
則ち、
『更に!』、
『生じるはずがない!』、
先に、
『已に!』、
『有るからだ!』。
若し、
爾うならば、
『集諦』も、
『無いだろう!』、
何故ならば、
『空の義』を、
『壊したからだ!』。
復次
 苦若有定性  則不應有滅 
 汝著定性故  即破於滅諦
復た次ぎに、
苦に若し定性有らば、則ち応に滅有るべからず、
汝は定性に著するが故に、即ち滅諦を破れり。
復た次ぎに、
『苦』に、
若し、
『定まった性』が、
『有れば!』、
則ち、
『滅』は、
『有るはずがない!』。
お前は、
『定まった性』に、
『著する!』が故に、
即ち、
『滅諦』を、
『破ったのである!』。
参考
na nirodhaḥ svabhāvena sato duḥkhasya vidyate |
svabhāvaparyavasthānān nirodhaṃ pratibādhase ||23||
If anguish existed by its own nature,
there could be no cessation.
Because its own nature would be totally present,
cessation too would be undermined.

参考
If suffering existed by way of its own essence
Cessations would not exist.
Since that with an essence would thoroughly abide
Cessations would be invalidated.

参考
自性(固有の実体)として存在している苦には,滅は存在しない。汝は,自性を固執しているがゆえに,滅(滅諦)を,破壞することになる。
苦若有定性者。則不應滅。何以故。性則無滅故。 苦に若し定性有らば、則ち応に滅すべからず。何を以っての故に、性は、則ち滅無きが故なり。
『苦』に、
若し、
『定まった性』が、
『有れば!』、
『滅するはずがない!』。
何故ならば、
『性』は、
『滅する!』ことが、
『無いからだ!』。
復次
 苦若有定性  則無有修道 
 若道可修習  即無有定性
復た次ぎに、
苦に若し定性有らば、則ち修道有ること無けん、
若し道にして修習すべくんば、即ち定性有ること無し。
復た次ぎに、
『苦』に、
若し、
『定まった性』が、
『有れば!』、
『道』を、
『修める!』ことも、
『無くなるだろう!』。
若し、
『道』を、
『修習できる!』とすれば、
即ち、
『定まった性』は、
『無いはずだ!』。
参考
svābhāvye sati mārgasya bhāvanā nopapadyate |
athāsau bhāvyate mārgaḥ svābhāvyaṃ te na vidyate ||24||
If the path existed by its own nature,
cultivation would not be appropriate.
If the path is to be cultivated,
your own nature cannot exist.

参考
If paths existed by way of their own essence
Cultivating them would not be admissible.
However if paths are to be cultivated
They cannot have an essence.

参考
もしも〔道(道諦)が〕自性(固有の実体)として存在するのであるならば,道の修習(実踐)は,成り立たないことになる。しかるに,道が修習されるならば,汝にとって,〔道の〕自性なるものは,存在しないのである。
法若定有。則無有修道。何以故。若法實者則是常。常則不可增益。若道可修。道則無有定性。 法、若し定んで有らば、則ち修道有ること無けん。何を以っての故に、若し法にして、実なれば、則ち是れ常なり。常なれば、則ち増益すべからず。若し道にして修すべくんば、道は則ち定生有ること無し。
『法』が、
若し、
『定んで!』、
『有る!』とすれば、
則ち、
『道』を、
『修める!』ことは、
『無いことになる!』。
何故ならば、
若し、
『法』が、
『実だとすれば!』、
是の、
『法』は、
『常だからである!』。
若し、
『法』が、
『常ならば!』、
『増益するはずがない!』。
若し、
『道』が、
『修められるならば!』、
『道』には、
『定まった性』が、
『無いことになる!』。
復次
 若無有苦諦  及無集滅諦 
 所可滅苦道  竟為何所至
復た次ぎに、
若し苦諦有ること無く、及び集、滅諦無くんば、
苦を滅すべき所の道は、竟(つい)に何所に至ると為す。
復た次ぎに、
若し、
『苦諦』が、
『無く!』、
『集諦』も、
『滅諦』も、
『無ければ!』、
『苦』を、
『滅するはず!』の、
『道』は、
結局、
何処に、
『至ることになるのか?』。
参考
yadā duḥkhaṃ samudayo nirodhaś ca na vidyate |
mārgo duḥkhanirodhatvāt katamaḥ prāpayiṣyati ||25||
When anguish, origins and cessation cannot exist,
what ceasing of anguish could one seek to attain by the path?

参考
When there is no suffering,
Origin or cessation
What cessation of suffering
Could be desired to be attained by the path?

参考
苦‧集‧滅が存在しないときには,苦の滅そのものとして,どのような道が,〔ニルヴァーナに〕到達させるであろう。
諸法若先定有性。則無苦集滅諦。今滅苦道。竟為至何滅苦處。 諸法に、若し先に定んで性有らば、則ち苦集滅諦無けん。今、滅苦の道も、竟に何なる滅苦の処に至ると為んや。
諸の、
『法』に、
先に、
『定んで!』、
『性』が、
『有れば!』、
則ち、
『苦諦』も、
『集諦』も、
『滅諦』も、
『無いことになる!』が、
今、
『苦』を、
『滅する!』、
『道』は、
結局、
何のような、
『苦』を、
『滅する!』処に、
『至るのか?』。
復次
 若苦定有性  先來所不見 
 於今云何見  其性不異故
復た次ぎに、
若し苦に定んで性有り、先来見られずんば、
今に於いて云何が見んや、其の性の異ならざるが故に。
復た次ぎに、
若し、
『苦』に、
『定んで!』、
『性』が、
『有った!』のに、
『先より!』、
『知見されなかった!』とすれば、
其の、
『性』が、
『異ならない!』のに、
何故、
『今になって!』、
『知見できるのか?』。
  先来(せんらい):先よりこのかた。元来。以前からずーっと。
参考
svabhāvenāparijñānaṃ yadi tasya punaḥ katham |
parijñānaṃ nanu kila svabhāvaḥ samavasthitaḥ ||26||
If non-understanding existed by its very own nature,
how could one ever understand?
Doesn’t it abides by nature?

参考
If non-complete knowledge existed
By way of its own essence
How could complete knowledge eventuate?
An essence abides, does it not?

参考
もしも〔苦が〕自性(固有の実体)として完全には知られないものであるならば,さらにどうして,それを完全に知ることがあるであろうか。実に,自性は確立しているもの,とされているのではないのか。
若先凡夫時。不能見苦性。今亦不應見。何以故。不見性定故。 若し先に凡夫の時の、苦を見る能わざる性は、今亦た応に見るべからず。何を以っての故に、不見の性の定まれるが故なり。
若し、
先に、
『凡夫の時』は、
『苦』を
『見ることができない!』、
『性であるので!』、
今でも、
当然、
『苦』を、
『見られるはずがない!』。
何故ならば、
『見ることができない!』、
『性』が、
『定まっているからだ!』。
復次
 如見苦不然  斷集及證滅 
 修道及四果  是亦皆不然
復た次ぎに、
見苦の然らざるが如く、断集及び証滅、
修道及び四果は、是れも亦た皆然らず。
復た次ぎに、
『苦を見る!』ことが、
『真実でない!』ように、
『集を断つ!』ことも、
『滅を証する!』ことも、
『道を修める!』ことも、
『四果』も、
皆、
『真実でない!』。
参考
prahāṇasākṣātkaraṇe bhāvanā caivam eva te |
parijñāvan na yujyante catvāry api phalāni ca ||27||
In the same way,
your letting go, realizing, cultivating
and the four fruits too
are as impossible as understanding.

参考
Similarly, for you,
Abandoning, actualizing,
Cultivating and the four results
Would also be unacceptable, just like complete knowledge.

参考
〔苦を〕完全に知ること(智)と同樣に,〔煩悩を〕断じ滅すること(断)も,さとり を得ること(証)も,〔道を〕修習すること(修)も,また四つの果報(四果)も,汝には妥当しないことになる。
如苦諦性先不見者後亦不應見。如是亦不應有斷集證滅修道。 苦諦は、性として先に見ざれば、後にも亦た応に見るべからざるが如く、是の如く亦た応に断集、証滅、修道有るべからず。
『苦諦』が、
『性』として、
『先に!』、
『苦』を、
『見ることがなければ!』、
『後にも!』、
『見るはずがない!』ように、
是のように、
亦た、
『集を断つ!』ことや、
『滅を証する!』ことや、
『道を証する!』ことも、
『有るはずがない!』。
何以故。是集性先來不斷。今亦不應斷。性不可斷故。滅先來不證。今亦不應證。先來不證故。道先來不修。今亦不應修。先來不修故。 何を以っての故に、是の集の性は、先来断ぜざれば、今亦た応に断ずべからず。性の断ずべからざるが故なり。滅を先来証せざれば、今亦た応に証すべからず。先来証せざるが故なり。道は先来修めざれば、今亦た応に修むべからず。先来修めざるが故なり。
何故ならば、
是の、
『集』は、
『性』として、
『以前より!』、
『断たれなければ!』、
今も、
『断たれるはずがない!』。
何故ならば、
『性』は、
『断たれないからである!』。
『滅』は、
以前より、
『証されなければ!』、
今も、
『証されるはずがない!』。
何故ならば、
『以前より!』、
『証されないからである!』。
『道』は、
以前より、
『修められなければ!』、
今も、
『修められるはずがない!』。
何故ならば、
『以前より!』、
『修められないからである!』。
是故四聖諦。見斷證修四種行。皆不應有。 是の故に四聖諦の見、断、証、修の四種の行は、皆応に有るべからず。
是の故に、
『四聖諦』の、
『見』、
『断』、
『証』、
『修』という、
『四種』の、
『行』は、
皆、
『有るはずがない!』。
四種行無故。四道果亦無。 四種の行無きが故に、四道の果も亦た無し。
『四種』の、
『行』が、
『無い!』が故に、
『四道』の、
『果』も、
『無い!』。
何以故
 是四道果性  先來不可得 
 諸法性若定  今云何可得
何を以っての故に、
是の四道の果の性は、先来不可得なり、
諸法の性若し定まらば、今云何が得べけんや。
何故ならば、
是の、
『四道の果』は、
『性』が、
『以前より!』、
『認められなかった!』。
若し、
諸の、
『法』の、
『性』が、
『定まっている!』ならば、
今、
何故、
『認められないのか?』。
参考
svabhāvenānadhigataṃ yat phalaṃ tat punaḥ katham |
śakyaṃ samadhigantuṃ syāt svabhāvaṃ parigṛhṇataḥ ||28||
How can any fruits, which totally hold their own nature
and by their own nature are unattained, be attained?

参考
Since it thoroughly holds its own essence,
How could a result
That is non-attained by way of its own essence,
Be attained?

参考
およそ,〔四〕果が自性(固有の実体)として証得されないのであるならば,そのような自性を固執する人にとって,さらにどうして,〔そのような四果を〕証得することが可能であろうか。
諸法若有定性。四沙門果先來未得。今云何可得。若可得者。性則無定。 諸法にして若し定性有らば、四沙門果は先来未だ得ざるに、今云何が得べけんや。若し得べくんば、性には則ち定無し。
諸の、
『法』に、
若し、
『定まった性』が、
『有る!』ならば、
『四沙門果』の、
『性』は、
以前より、
未だ、
『認められていない!』のに、
今になって、
何故、
『認められることになったのか?』。
若し、
『性』が、
『認められる!』ならば、
『性』には、
『定まる!』ということが、
『無いはずだ!』。
復次
 若無有四果  則無得向者 
 以無八聖故  則無有僧寶
復た次ぎに、
若し四果有ること無くんば、則ち得、向の者無けん、
八聖無きを以っての故に、則ち僧宝有ること無し。
復た次ぎに、
若し、
『四果』が、
『無ければ!』、
『四果』を、
『得る!』者も、
『四果』に、
『向う!』者も、
『無いことになる!』。
『八賢聖』が、
『存在しない!』が故に、
『僧宝』も、
『無い!』。
参考
phalābhāve phalasthā no na santi pratipannakāḥ |
saṃgho nāsti na cet santi te ’ṣṭau puruṣapudgalāḥ ||29||
If the fruits did not exist,
there could be no abiding in the fruits.
Experiencing them would also not exist.
If those eight beings did not exist,
the Community would not exist.

参考
If there are no results, also abiders in the result
And approachers to the result would not exist.
If those eight persons do not exist
The Sangha would not exist.

参考
〔四〕果が存在しないならば,その果に住する者(四果)はなく,その果に向かって進む者(四向)は,存在しないことになる。もしもそれら八種の人人(八賢聖,四向四果)が存在しないならば,僧伽(サンガ,教団)は,存在しないことになる。
無四沙門果故。則無得果向果者。無八賢聖故。則無有僧寶。而經說八賢聖。名為僧寶。 四沙門果無きが故に、則ち果を得、果に向う者無し。八賢聖無きが故に、則ち僧宝有ること無し。而も経に説かく、『八賢聖を名づけて、僧宝と為す』、と。
『四沙門果』が、
『無い!』が故に、
『果』を、
『得る!』者も、
『果』に、
『向う!』者も、
『無いことになる!』。
『八賢聖』が、
『無い!』が故に、
『僧宝』も、
『無い!』。
而し、
『経』には、こう説かれている、――
『八賢聖』を、
『僧宝』と、
『称する!』、と。
復次
 無四聖諦故  亦無有法寶 
 無法寶僧寶  云何有佛寶
復た次ぎに、
四聖諦無きが故に、亦た法宝有ること無し、
法宝と僧宝と無くんば、云何が仏法有らん。
復た次ぎに、
『四聖諦』が、
『無い!』が故に、
『法宝』も、
『無い!』。
『法宝』と、
『僧宝』とが、
『無い!』が故に、
何故、
『仏法』が、
『有るのか?』。
参考
abhāvāc cāryasatyānāṃ saddharmo ’pi na vidyate |
dharme cāsati saṃghe ca kathaṃ buddho bhaviṣyati ||30||
Since there would be no ennobling truths,
the sublime Dharma could also not exist.
If the Community and the Dharma did not exist,
how could Buddha exist?

参考
And since there are no Noble Truths
Also the holy Dharma would not exist.
If there is no Dharma and no Sangha
How could there be Buddha?

参考
また,〔四つの〕聖なる真理(四聖諦)が存在しないがゆえに,正しい教え(正法)もまた,存在しないことになる。法〔宝〕と僧〔宝〕とが存在しないならば,どうして,仏〔宝〕が存在するであろうか。
行四聖諦得涅槃法。若無四諦則無法寶。若無二寶云何當有佛寶。 四聖諦を行じて、涅槃の法を得るに、若し四諦無くんば、則ち法宝無けん。若し二宝無ければ、云何が当に仏宝有るべき。
『四聖諦』を、
『行って!』、
『涅槃』という、
『法』を、
『得る!』が、
若し、
『四諦』が、
『無ければ!』、
『法宝』は、
『無いということになる!』。
若し、
『二宝』が、
『無ければ!』、
何故、
『仏宝』が、
『有りうるのか?』。
汝以如是因緣。說諸法定性。則壞三寶 汝は、是の如き因縁を以って、諸法の定性を説かば、則ち三宝を壊らん。
お前は、
是の、
『因縁』の故に、
若し、
諸の、
『法の定性』を、
『説けば!』、
則ち、
『三宝』を、
『壊ることになるだろう!』。
問曰。汝雖破諸法。究竟道阿耨多羅三藐三菩提應有。因是道故名為佛。 問うて曰く、汝が、諸法を破すと雖も、道を究竟せる阿耨多羅三藐三菩提は、応に有るべし。是の道に因るが故に名づけて、仏と為せばなり。
問い、
お前が、
諸の、
『法』を、
『破った!』としても、
『道』を、
『究竟した(終着点の)!』、
『阿耨多羅三藐三菩提』は、
『有るはずだ!』。
何故ならば、
是の、
『道』に、
『因る!』が故に、
『仏』と、
『称されるからだ!』。
答曰
 汝說則不因  菩提而有佛 
 亦復不因佛  而有於菩提
答えて曰く、
汝の説は則ち、菩提に因らざるに仏有り、
亦復た仏に因らずして、菩提有りとなり。
答え、
お前は、
こう説いたことになる、――
『菩提』に、
『因らなくても!』、
『仏』は、
『有る!』し、
『仏』に、
『因らなくても!』、
『菩提』は、
『有る!』、と。
参考
apratītyāpi bodhiṃ ca tava buddhaḥ prasajyate |
apratītyāpi buddhaṃ ca tava bodhiḥ prasajyate ||31||
It would also follow that your Buddha does not depend on awakening.
It would also follow that your awakening does not depend on Buddha.

参考
For you, it would follow that a Buddha
Would also not depend upon enlightenment.
And for you, it would follow that enlightenment
Would also not depend upon a Buddha.

参考
さとりに縁らないでも仏〔がある〕,という誤りが,汝には付随する。また,仏に縁らないでもさとり〔がある〕,という誤りが,汝には付随する。
汝說諸法有定性者。則不應因菩提有佛。因佛有菩提。是二性常定故。 汝が、諸法に定性有りと説かば、則ち応に菩提因りて仏有り、仏に因りて菩提有るべからず。是の二性の常に定まりたるが故なり。
お前は、
こう説いたが、――
諸の、
『法』には、
『定まった性』が、
『有る!』、と。
則ち、こういうことになる、――
『菩提』に、
『因って』、
『仏』は、
『有るはずがなく!』、
『仏』に、
『因って!』、
『菩提』は、
『有るはずがない!』。
是の、
『二性』は、
『常に!』、
『定まっているからである!』、と。
復次
 雖復勤精進  修行菩提道 
 若先非佛性  不應得成佛
復た次ぎに、
復た勤めて精進し、菩提の道を修行すと雖も、
若し先に仏性に非ざれば、応に仏と成るを得べからず。
復た次ぎに、
復た、
勤めて、
『精進し!』、
『菩提の道』を、
『修行した!』としても、
若し、
先に、
『仏』の、
『性でなければ!』、
当然、
『仏』と、
『成れるはずがない!』。
参考
yaś cābuddhaḥ svabhāvena sa bodhāya ghaṭann api |
na bodhisattvacaryāyāṃ bodhiṃ te ’dhigamiṣyati ||32||
For you, someone
who by his very nature is not Buddha could not attain awakening
however much he strove in the practice of awakening for the sake of awakening.

参考
For you, someone who is a non-Buddha by way of their own essence,
Although striving in the practices for enlightenment
For the sake of enlightenment,
Would not attain enlightenment.

参考
また,汝によれば,およそ自性(固有の実体)として仏でない者は,ボサツの修行(菩薩行)において,いかにさとりのために專念しても,さとりを証得することはない,ということになるであろう。
以先無性故。如鐵無金性。雖復種種鍛煉。終不成金。 先に性無きを以っての故に、鉄に金性無ければ、復た種種に鍛練すと雖も、終に金と成らざるが如し。
先に、
『性』が、
『無い!』が故に、
譬えば、
『鉄』には、
『金の性』が、
『無い!』ので、
どれだけ、
種種に、
『鍛練した!』としても、
終に、
『金』には、
『成らないようなものである!』。
復次
 若諸法不空  無作罪福者 
 不空何所作  以其性定故
復た次ぎに、
若し諸法にして不空ならば、罪福を作す者無けん、
不空の何の作す所ぞ、其の性定まるを以っての故に。
復た次ぎに、
若し、
諸の、
『法』が、
『空でなければ!』、
『罪、福』を、
『作す!』者も、
『無いだろう!』。
若し、
『罪、福』という、
『法』が、
『空でなければ!』、
何が、
『作されるというのか?』。
其の、
『性』は、
『定まっているのに!』。
参考
na ca dharmam adharmaṃ vā kaścij jātu kariṣyati |
kim aśūnyasya kartavyaṃ svabhāvaḥ kriyate na hi ||33|
No one would ever do what is Dharma and what is not Dharma.
What can that which is not empty do? Inherent nature is inactive.

参考
No one would ever perform Dharma
Or non-Dharma.
What could the non-empty do
Since that existing by way of an essence has no actions.

参考
また,どのような者も,法〔にかなった行ない〕と,非法〔の行ない〕とを,決してなすことはないであろう。空でないものには,何のなすべきことがあるであろうか。 なぜならば,自性は〔もはや〕なされることがないからである。
若諸法不空。終無有人作罪福者。何以故。罪福性先已定故。又無作作者故。 若し諸法にして不空ならば、終に人の罪福を作す者有ること無けん。何を以っての故に、罪福の性は、先に已に定まれるが故に、又作と作者と無きが故に。
若し、
諸の、
『法』が、
『空でなければ!』、
終に、
『罪、福』を、
『作す!』者は、
『無いであろう!』。
何故ならば、
『罪、福』という、
『性』が、
『定まっているからである!』。
又、
『作』も、
『作者』も、
『無いからである!』。
復次
 汝於罪福中  不生果報者 
 是則離罪福  而有諸果報
復た次ぎに、
汝罪福中に於いて、果報を生ぜずんば、
是れ則ち罪福を離れて、諸の果報有らん。
復た次ぎに、
お前が、
『罪、福』中に、
『果報』を、
『生じなければ!』、
是れは、――
『罪、福』を、
『離れても!』、
諸の、
『果報』が、
『有るということだ!』。
参考
vinā dharmam adharmaṃ ca phalaṃ hi tava vidyate |
dharmādharmanimittaṃ ca phalaṃ tava na vidyate ||34||
Even without Dharma and not-Dharma,
you would have the fruits.
You would not have the fruits which have arisen
from the causes of Dharma and not-Dharma.

参考
For you, results even without Dharma
Or non-Dharma would exist.
And for you, results arisen due to Dharma
Or non-Dharma causes would not exist.

参考
汝の說では,法〔にかなった行ない〕と非法〔の行ない〕とが無くても,果報が存在することになるであろう。汝の說では,法〔にかなった行ない〕と非法〔の行ない〕 とから生ぜられる果報は,存在しないことになるであろう。
汝於罪福因緣中。皆無果報者。則應離罪福因緣而有果報。何以故。果報不待因出故。 汝が、罪福の因縁中に於いて、皆果報無くんば、則ち応に罪福の因縁を離れても、果報有るべし。何を以っての故に、果報の因の出づるを待たざるが故なり。
お前の、
『罪、福』の、
『因縁』中に、
皆、
『果報』が、
『無ければ!』、
『罪、福』の
『因縁』を、
『離れても!』、
『果報』は、
『有ることになる!』。
何故ならば、
『果報』が、
『因』の、
『出る!』のを、
『待たないからだ!』。
問曰。離罪福可無善惡果報。但從罪福有善惡果報。 問うて曰く、罪福を離るれば、善悪の果報無かるべし。但だ罪福に従って、善悪の果報有り。
問い、
若し、
『罪、福』を、
『離れてしまえば!』、
『善、悪』の、
『果報』は、
『無いだろう!』、
但だ、
『罪、福』に、
『従って!』、
『善、悪』の、
『果報』は、
『有るのだ!』。
答曰
 若謂從罪福  而生果報者 
 果從罪福生  云何言不空
答えて曰く、
若し罪福に従いて、果報を生ずと謂わば、
果は罪福に従いて生ずるに、云何が不空と言う。
答え、
若し、
こう謂うならば、――
『罪、福』に、
『従って!』、
『果報』を、
『生じる!』、と。
『果』は、
『罪、福』に、
『従って』、
『生じる!』のに、
何故、
こう言うのか、――
『空でない!』、と。
参考
dharmādharmanimittaṃ vā yadi te vidyate phalam |
dharmādharmasamutpannam aśūnyaṃ te kathaṃ phalam ||35||
If you have the fruits which have arisen from the causes of Dharma and not-Dharma,
why are the fruits which have arisen from the Dharma and not-Dharma not empty?

参考
If results arisen due to Dharma
Or non-Dharma causes existed for you
Why would the results arisen from Dharma
Or non-Dharma not be empty?

参考
あるいは,もしも汝にとって,法〔にかなった行ない〕と非法〔の行ない〕とから生ぜられる果報が存在するのであるならば,法〔にかなった行ない〕と非法〔の行ない〕 とから生起した果報が,汝にとって,どうして,空ではない(不空である)のか。
若離罪福無善惡果。云何言果不空。若爾離作者則無罪福。 若し罪福を離れて善悪の果無くんば、云何が、『果は空にあらず』、と言う。若し爾らば、作者を離れて、則ち罪福無けん。
若し、
『罪、福』を、
『離れて!』、
『善、悪の果』が、
『無ければ!』、
何故、
こう言うのか?――
『果』は、
『空でない!』、と。
若し、
爾うならば、
『作者』を、
『離れて!』、
『罪、福』は、
『無いことになる!』。
汝先說諸法不空。是事不然。 汝、先に『諸法は不空なり』と説くも、是の事は然らず。
お前は、
先に、こう説いたが、――
諸の、
『法』は、
『空でない!』、と。
是の、
『事』は、
『真実でない!』。
復次
 汝破一切法  諸因緣空義 
 則破於世俗  諸餘所有法
復た次ぎに、
汝は一切法と、諸の因縁との空義を破りて、
則ち世俗の諸余の有らゆる法を破れり。
復た次ぎに、
お前は、
『一切の法』と、
『諸の因縁』とが、
『空だ!』という、
『義』を、
『破った!』が、
則ち、
『世俗』の、
『その他の!』、
『有らゆる!』、
『法』を、
『破ったのだ!』。
参考
sarvasaṃvyvahārāṃś ca laukikān pratibādhase |
yat pratītyasamutpādaśūnyatāṃ pratibādhase ||36||
Whoever undermines emptiness which is contingent emergence
also undermines all the conventions of the world.

参考
Whoever invalidates
The emptiness of dependent-arisings
Invalidates
All the conventions of the world.

参考
汝が,縁起と空性(空であること)とを,破壞するならば,汝はまた,世間における一切の言語習慣を,破壞することになる。
汝若破眾因緣法第一空義者。則破一切世俗法。 汝、若し衆因縁の法と、第一空義を破らば、則ち一切の世俗の法を破らん。
お前が、
若し、
『多くの!』、
『因縁の法』を、
『破り!』、
『第一の!』、
『空の義』を、
『破れば!』、
則ち、
『一切の!』、
『世俗の法』を、
『破ることになる!』。
何以故
 若破於空義  即應無所作 
 無作而有作  不作名作者
何を以っての故に、
若し空義を破らば、即ち応に所作無かるべし、
作無くして作有り、作さざるに作者と名づけん。
何故ならば、
若し、
『空の義』を、
『破れば!』、
『作された!』、
『事』は、
『無いだろう!』、
『作( 作者 )』が、
『無い!』のに、
『作』が、
『有り!』、
『作さない!』のに、
『作者』と、
『呼ばれるだろう!』。
参考
na kartavyaṃ bhavet kiṃcid anārabdhā bhavet kriyā |
kārakaḥ syād akurvāṇaḥ śūnyatāṃ pratibādhataḥ ||37||
If one undermines emptiness,
there would be no actions at all and actions
without an author and agents who do not act.

参考
If emptiness is invalidated
There would be actions without anyone having done them,
There would be actions not being undertaken
And there would also be agents not doing any action.

参考
空であること(空性)を破壞するものには,なすべきことは何も存在しないであろう。 作用は開始が存在しないであろう。行為者は何の行為もなさないことになるであろう。
若破空義。則一切果皆無作無因。又不作而作。又一切作者不應有所作。又離作者。應有業有果報有受者。但是事皆不然。是故不應破空。 若し空義を破らば、則ち一切の果は、皆作無く、因無けん。又作さざるに作さん。又一切の作者は、応に所作有るべからず。又作者を離れて、応に業有り、果報有り、受者有るべし。但だ是の事は皆然らず。是の故に応に空を破るべからず。
若し、
『空の義』を、
『破れば!』、
一切の、
『果』には、
皆、
『作(作業)』も、
『因(報因)』も、
『無いだろう!』。
又、
『作さない!』のに、
『作すだろう!』。
又、
一切の、
『作者』には、
『所作(作された事)』が、
『無いはずだ!』。
又、
『作者』を、
『離れて!』、
『業』や、
『果報』が、
『有り!』、
『受者』が、
『有るはずだ!』。
但だ、
是の、
『事』は、
『皆、真実でない!』。
是の故に、
『空』を、
『破ってはならない!』。
復次
 若有決定性  世間種種相 
 則不生不滅  常住而不壞
復た次ぎに、
若し決定の性有らば、世間の種種相は、
則ち不生不滅、常住にして不壊ならん。
復た次ぎに、
若し、
『決定した!』、
『性』が、
『有った!』とすれば、――
『世間』の、
種種の、
『相』は、
則ち、
『不生、不滅であり!』、
『常住であり!』、
『壊れることもないだろう!』。
参考
ajātam aniruddhaṃ ca kūṭaśthaṃ ca bhaviṣyati |
vicitrābhir avasthābhiḥ svabhāve rahitaṃ jagat ||38||
If there were inherent nature,
all beings would be unborn and unceasing,
would be fixed in place forever,
separated from the variety of situations.

参考
If they existed by way of their own essence
Worlds would not be produced,
They would not cease, they would remain forever
And would be devoid of varieties of situations.

参考
自性(固有の実体)によって,種種の狀態というありかたを失ってしまっている世間〔というもの〕は,〔縁起しないのであるから〕,生まれることもなく,滅びることもなく,常住不動のもの,ということになるであろう。
若諸法有定性。則世間種種相。天人畜生萬物。皆應不生不滅常住不壞。 若し諸法に定性有らば、則ち世間の種種の相は、天、人、畜生、万物も、皆、応に不生、不滅にして、常住不壊なるべし。
若し、
諸の、
『法』に、
『定まった性』が、
『有れば!』、
『世間』の、
種種の、
『相である!』、
『天』も、
『人』も、
『畜生』も、
『万物』も、
皆、
『不生、不滅であり!』、
『常住であって!』、
『壊れることはないはずだ!』。
何以故。有實性不可變異故。而現見萬物。各有變異相生滅變易。是故不應有定性。 何を以っての故に、実性有りて、変異すべからざるが故なり。而るに現に万物を見るに、各各変異の相有りて、生滅し変易す。是の故に、応に定性有るべからず。
何故ならば、
『実の性』が、
『有れば!』、
『変異させられないからである!』。
而し、
『現に!』、
『万物』を、
『見てみる!』と、
各に、
『変異する!』、
『相』が、
『有って!』
各、
『生滅したり!』、
『変易したりしている!』。
是の故に、
『定まった!』、
『相』は、
『有るはずがない!』。
復次
 若無有空者  未得不應得 
 亦無斷煩惱  亦無苦盡事
復た次ぎに、
若し空有ること無くんば、未だ得ざれば応に得べからず、
亦た煩悩を断ずることも無く、亦た苦尽くる事も無けん。
復た次ぎに、
若し、
『空』が、
『無ければ!』、
未だ、
『得ていなければ!』、
『得られるはずがない!』し、
亦た、
『煩悩』を、
『断つ!』ことも、
『無い!』し、
亦た、
『苦を尽くす!』という、
『事(行為)も!』、
『無いだろう!』。
参考
asaṃprāptasya ca prāptir duḥkhaparyantakarma ca |
sarvakleśaprahāṇaṃ ca yady aśūnyaṃ na vidyate ||39||
If [things] were not empty,
there could be no attainment of what had not been attained,
no ending of anguish and no letting go of all actions and afflictions.

参考
If the empty did not exist
The attainment of the unattained, the elimination of suffering
And the abandonment of every karma and affliction
Would also not exist.

参考
もしも空でない(不空である)ならば,まだ到達しないものが〔さとりに〕到達することも,苦を終極させる行為も,また一切の煩悩の断じ滅することも,存在しないことになる。
若無有空法者。則世間出世間所有功德未得者。皆不應得。亦不應有斷煩惱者。亦無苦盡。何以故。以性定故 若し空法有ること無くんば、則ち世間、出世間の有らゆる功徳を、未だ得ざる者は、皆応に得べからず、亦た応に煩悩を断ずる者も有るべからず、亦た苦の尽くることも無けん。何を以っての故に、性の定なるを以っての故に。
若し、
『空』という、
『法』が、
『無ければ!』、
則ち、
『世間』や、
『出世間』の、
有らゆる、
『功徳』を、
未だ、
『得ていない!』者は、
『得られるはずがない!』し、
亦た、
『煩悩』を、
『断つ!』者も、
『有るはずがない!』。
亦た、
『苦』が、
『尽きる!』ことも、
『無いだろう!』。
何故ならば、
『性』が、
『定まっているからだ!』。
 是故經中說  若見因緣法 
 則為能見佛  見苦集滅道
是の故に経中に説かく、若し因縁の法を見れば、
則ち能く仏を見、苦集滅道を見ると為すと。
是の故に、
『経』中には、こう説かれている、――
若し、
『因縁』という、
『法』を、
『見る!』者は、
則ち、
『仏』を、
『見ることができ!』、
『苦』の、
『集まり!』を、
『滅する!』、
『道』を、
『見るだろう!』、と。
参考
yaḥ pratītyasamutpādaṃ paśyatīdaṃ sa paśyati |
duḥkhaṃ samudayaṃ caiva nirodhaṃ mārgam eva ca ||40||
He who sees contingent emergence sees anguish
and origins and cessation and the path itself.

参考
Whoever sees dependent-arisings
Sees suffering,
Origins, cessations
And paths.

参考
およそ,この縁起を見るものは,その人こそ,実に,苦‧集‧滅‧道(四聖諦)を見。
若人見一切法從眾緣生。是人即能見佛法身。增益智慧。能見四聖諦苦集滅道。見四聖諦得四果滅諸苦惱。是故不應破空義。 若し人、一切の法の衆縁より生ずるを見れば、是の人は、即ち能く仏の法身を見て、智慧を増益し、能く四聖諦の苦集滅道を見、四聖諦を見て、四果を得、諸の苦悩を滅せん。是の故に応に、空義を破るべからず。
若し、
『人』が、
『一切の法』は、
『衆縁』より、
『生じる!』と、
『見れば!』、――
是の、
『人』は、
即ち、
『仏』の、
『法身』を、
『見ることができて!』、
『智慧』を、
『増益し!』、
『四聖諦』の、
『苦、集、滅、道』を、
『見ることができ!』、
『四聖諦』を、
『見たので!』、
『四果』を
『得!』、
諸の、
『苦悩』を、
『滅するだろう!』。
是の故に、
『空の義』を、
『破ってはならないのである!』。
若破空義則破因緣法。破因緣法。則破三寶。若破三寶。則為自破。 若し空義を破れば、則ち因縁の法を破り、因縁の法を破れば、則ち三宝を破る。若し三宝を破らば、則ち自らを破ると為さん。
若し、
『空の義』を、
『破れば!』、
『因縁の法』を、
『破ることになり!』、
『因縁の法』を、
『破れば!』、
『三宝』を、
『破ることになる!』が、
若し、
『三宝』を、
『破れば!』、
『自ら!』を、
『破ることになるのだ!』。



中論觀涅槃品第二十五(二十四偈)

問曰
 若一切法空  無生無滅者 
 何斷何所滅  而稱為涅槃
問うて曰く、
若し一切法が空にして、無生無滅ならば、
何をか断じ何か滅せらるるを、称して涅槃と為すや。
問い、
若し、
一切の、
『法』が、
『空であり!』、
『無生、無滅ならば!』、
何の、
『法』を、
『断じ!』、
何の、
『法』が、
『滅せられて!』、
而も、
『涅槃』と、
『称するのか?』。
  涅槃(ねはん):梵語 nirvaaNa, 巴梨語 nibbaana の音訳。消火/[動詞]絶滅に入る。印度俗語の nibban, 巴梨語 nibbaana の正確な訳( Extinction. As a verb, to enter extinction. An approximate transliteration of the Indic vulgar nibban, which becomes the Pāli nibbāna )。個々の存在、或いは有らゆる欲望/情熱の完全な消滅、或いは絶滅(=空)( absolute extinction or annihilation (= śūnya- ) of individual existence or of all desires and passions )。妄想の火が吹き消された状態を言い、印度の宗教に於ける最終目標にして到達点である( Interpreted as the condition where the flames of delusion have been blown out—the final goal and attainment in Indian religions. )。ヒンズー教に於いて、涅槃は世俗的欲望及び煩悩の消滅であり、それ故神、或いは絶対者との合一が可能となる。完全なる消滅、或いは絶滅であり、個々の存在の完全なる消滅である( In Hinduism, nirvāṇa is the extinction of worldly desires and attachments, so that the union with God or the absolute is possible; absolute extinction or annihilation, complete extinction of individual existence. )。苦痛の停止としての涅槃は、当初には仏陀によって獲得された覚りの状態と同等であり、有らゆる幻想の停止、及び輪廻の原因である有らゆる業の破壊によって到達することのできる状態を意味していた( As cessation of suffering; nirvāṇa was originally equivalent to the state of enlightenment attained by the Buddha, meaning the state that can be reached by extinguishing all illusions and destroying all karma, which is the cause of rebirth. )。大乗仏教に於いては、涅槃の概念は覚りと区別されるようになり、声聞のような小乗の行者に属する二次的到達点となった( In Mahāyāna Buddhism, the notion of nirvāṇa becomes distinguished from enlightenment, becoming a secondary level attainment of lesser vehicle practitioners such as śrāvakas. )。大乗涅槃経中に於いて涅槃は常、楽、我、淨の四要素を持つものであると記述されているが;それは仏教の有らゆる宗派に於ける精神修養の最終到達点である。( In the Mahāyāna Mahāparinirvāṇa-sūtra, nirvāṇa is described as having the four essential qualities of eternity 常, bliss 樂, substantiality 我, and purity 淨; It is the goal of spiritual practice in all branches of Buddhism. )。
参考
yadi śūnyam idaṃ sarvam udayo nāsti na vyayaḥ |
prahāṇād vā nirodhād vā kasya nirvāṇam iṣyate ||1||
If everything were empty, there would be no arising and perishing.
From the letting go of and ceasing of what could one assert nirvana(-ing)?

参考
If all these were empty
They would not arise or disintegrate.
Then through what abandonment and cessation
Would there be nirvana?

参考
もしもこの一切が空であるならば,生は存在しない,滅は〔存在し〕ない〔ことになるであろう〕。〔それならば〕,何ものを断じ,また滅することから,ニルヴァーナ(涅槃) が立論されるのであろうか。
若一切法空。則無生無滅。無生無滅者。何所斷何所滅。而名為涅槃。 若し一切法が空ならば、則ち無生無滅ならん。無生無滅なれば、何んが断ぜられ、何んが滅せられて、而も名づけて、涅槃と為す。
若し、
一切の、
『法』が、
『空』ならば、
則ち、
『無生、無滅であろう!』。
若し、
『法』が、
『無生、無滅ならば!』、
何のような、
『法』が、
『断じられ!』、
何のような、
『法』が、
『滅せられた!』ので、
是れを、
『涅槃』と、
『呼ぶのか?』。
是故一切法不應空。以諸法不空故。斷諸煩惱滅五陰。名為涅槃。 是の故に、一切の法は、応に空なるべからず。諸法の空ならざるを以っての故に、諸の煩悩を断じて、五陰を滅し、名づけて涅槃と為す。
是の故に、
一切の、
『法』は、
『空のはずがない!』。
諸の、
『法』は、
『空でない!』が故に、
諸の、
『煩悩』を、
『断じて!』、
『五陰』を、
『滅するのであり!』、
是れを、
『涅槃』と、
『称するのである!』。
答曰
 若諸法不空  則無生無滅 
 何斷何所滅  而稱為涅槃
答えて曰く、
若し諸法が空ならずんば、則ち無生無滅ならん、
何をか断じ、何か滅せられて、而も称して涅槃と為すや。
答え、
若し、
諸の、
『法』が、
『空でなければ!』、
則ち、
『無生、無滅である!』。
何のような、
『法』を、
『断じ!』、
何のような、
『法』が、
『滅せられて!』、
是れを、
『涅槃』と、
『呼ぶのか?』。
参考
yady aśūnyam idaṃ sarvam udayo nāsti na vyayaḥ |
prahāṇād vā nirodhād vā kasya nirvāṇam iṣyate ||2||
If everything were not empty, there would be no arising and perishing.
From the letting go of and ceasing of what could one assert nirvana(-ing)?

参考
If all these were not empty
They would not arise or disintegrate.
Then through what abandonment and cessation
Would there be nirvana?

参考
もしもこの一切が空でないならば,生は存在しない,滅は〔存在し〕ない〔ことになるであろう〕。〔それならば〕,何ものを断じ,また滅することから,ニルヴァーナ(涅槃) が立論されるのであろうか。
若一切世間不空。則無生無滅。何所斷何所滅。而名為涅槃。 若し一切の世間は、空ならずんば、則ち無生、無滅なり。何か断ぜられ、何か滅せられて、而も名づけて涅槃と為す。
若し、
一切の、
『世間』が、
『空でなければ!』、
則ち、
『無生、無滅である!』。
何の、
『法』が、
『断じられ!』、
何の、
『法』が、
『滅せられて!』、
是れを、
『涅槃』と、
『称するのか?』。
是故有無二門。則非至涅槃。 是の故に有無の二門は、則ち涅槃に至るに非ず。
是の故に、
『有、無』の、
『二門』は、
『涅槃』に、
『至るものではない!』。
所名涅槃者
 無得亦無至  不斷亦不常 
 不生亦不滅  是說名涅槃
名づくる所の涅槃とは、
得る無く亦た至る無く、断にあらず亦た常にあらず、
不生にして亦た不滅、是れを説いて涅槃と名づく。
『涅槃』と称されるものは、――
『得る!』ことも、
『至る!』ことも、
『無く!』、
『断でもなく、常でもなく!』、
『生じることもなく、滅することもない!』、
是れを、
『説いて!』、
『涅槃』と、
『称する!』。
参考
aprahīṇam asaṃprāptam anucchinnam aśāśvatam |
aniruddham anutpannam etan nirvāṇam ucyate ||3||
No letting go, no attainment, no annihilation, no permanence, no cessation, no birth:
that is spoken of as nirvana.

参考
That which is neither abandoned nor attained,
Neither annihilated nor permanent,
Neither ceasing nor produced
Is expressed to be nirvana.

参考
〔何ものも〕断ぜられることなく,〔あらたに〕得ることなく,断滅でなく(不断),常住でなく(不常),滅することなく(不滅),生ずることなく(不生),これがニルヴァーナであ る,と說かれる。
無得者。於行於果無所得。 無得とは、行に於いて、果に於いて、所得無きなり。
『得る!』ことが、
『無い!』とは、――
『行』にも、
『果』にも、
『得る!』所が、
『無いからである!』。
無至者。無處可至。 無至とは、処として至るべき無きなり。
『至る!』ことが、
『無い!』とは、――
『至るべき!』、
『処』が、
『無いからである!』。
不斷者。五陰先來畢竟空故。得道入無餘涅槃時。亦無所斷。 不断とは、五陰先来、畢竟じて空なるが故に、道を得て、無余涅槃に入る時にも、亦た断ずる所無きなり。
『断でない!』とは、――
『五陰』は、
『以前より!』、
『ずーっと!』、
『畢竟じて!』、
『空であった!』が故に、
『道』を、
『得て!』、
『無余涅槃』に、
『入った!』時にも、
亦た、
『断たれる!』ものが、
『無い!』。
  無余涅槃(むよねはん):残余無き涅槃( Nirvāṇa without remainder )、梵語 anupadhi-zeSa- nirvaaNa, nirupadhizeSa- nirvaaNa )の訳、個体としての状況が何も残っていない( in whom there is no longer a condition of individuality )涅槃の義。残余無き涅槃/無条件、無制限の涅槃/有らゆる肉体と精神の状況から完全に解放された状態( Nirvāṇa without residue. Unconditioned, unlimited nirvāṇa; the state of total liberation from all physical and mental conditions. )、肉体の未だ存する有余涅槃に対す( This is in contrast to nirvāṇa with remainder 有餘涅槃, where the body still exists. )。
不常者。若有法可得分別者。則名為常。涅槃寂滅無法可分別故。不名為常。生滅亦爾。如是相者名為涅槃。 不常とは、若し法の分別するを得べき有らば、則ち名づけて、常と為す。涅槃は寂滅して、法の分別すべき無きが故に、名づけて常と為さず。生滅も亦た爾り、是の如き相の者を名づけて、涅槃と為す。
『常でない!』とは、
若し、
『分別され得る!』ような、
『法』が、
『有れば!』、
『常』と、
『称される!』が、
『涅槃』は、
『寂滅しており!』、
『分別される!』ような、
『法』が、
『無い!』ので、
是れを、
『常』とは、
『呼ばない!』し、
『生滅』も、
亦た、
『同じである!』。
是のような、
『相ならば!』、
其の、
『法』を、
『涅槃』と、
『称する!』。
復次經說。涅槃非有非無非有無。非非有非非無。一切法不受內寂滅名涅槃。 復た次ぎに、経に説かく、『涅槃は有に非ず、無に非ず、有無に非ず、非有に非ず、非無に非ず。一切の法を受けずして、内に寂滅なるを涅槃と名づく』、と。
復た次ぎに、
『経』には、こう説かれている、――
『涅槃』は、
『有でもなく!』、
『無でもなく!』、
『有、無でもなく!』、
『非有、非無でもない』。
一切の、
『法』を、
『感受せず!』、
『内』の、
『心』の、
『寂滅した!』時、
是れを、
『涅槃』と、
『呼ぶ!』、と。
何以故
 涅槃不名有  有則老死相 
 終無有有法  離於老死相
何を以っての故に、
涅槃を有と名づけず、有は則ち老死の相なり、
終に有法にして、老死の相を離るる有ること無し。
何故ならば、
『涅槃』は、
『有( Skt.bhaava≒有為法 )』と、
『呼ばれることはない!』、
『有』とは、
則ち、
『老死の相である!』。
『有』という、
『法』は、
『老死の相』を、
『離れる!』ことが、
『無い!』。
  (う):梵語 bhaava, bhava の訳、存在するもの/事物/物質/存在するか活きている物( that which is or exists, thing or substance, being or living creature )の義。有為法( saMskaara, saMskRta )に相似の法。有為法と訳されることもある。
参考
bhāvas tāvan na nirvāṇaṃ jarāmaraṇalakṣaṇam |
prasajyetāsti bhāvo hi na jarāmaraṇaṃ vinā ||4||
Nirvana is not a thing.
Then it would follow that it would have the characteristics of aging and death.
There does not exist any thing that is without aging and death.

参考
For example, nirvana is not a thing.
Otherwise it would follow as having the characteristics of aging and perishing.
There are no things
That are without aging and perishing.

参考
まず第一に,ニルヴァーナは「存在(もの・こと)」ではない。〔もしも「存在(もの・こと)」であるならば,ニルヴァーナ〕老死の特質(相)のあるもの,という誤りが付随するであろう。なぜならば,「存在(もの・こと)」は,老死〔の特質〕を離れては,存在しないからである。
眼見一切萬物皆生滅故。是老死相。涅槃若是有則應有老死相。但是事不然。是故涅槃不名有。 眼に、一切の万物は、皆生滅するを見るが故に、是れ老死の相なり。涅槃は、若し是れ有ならば、則ち応に老死の相有るべし。但だ是の事は然らず。是の故に涅槃を、有とは名づけず。
『眼』には、
一切の、
『万物』は、
皆、
『生滅する!』のが、
『見える!』が、
是れが、
『老死の相である!』。
『涅槃』は、
若し、
是れが、
『有であれば!』、
『老死の相』が、
『有るはずである!』。
但だ、
是れは、
『真実ではない!』。
是の故に、
『涅槃』は、
『有』と、
『呼ばれない!』。
又不見離生滅老死別有定法而名涅槃。若涅槃是有即應有生滅老死相。以離老死相故。名為涅槃。 生滅、老死を離れて、別に定法有り、而も涅槃と名づくるを見ず。若し涅槃は、是れ有なれば、即ち応に生滅、老死の相有るべし。老死の相を離るるを以っての故に、名づけて涅槃と為す。
又、
『生滅』や、
『老死』を、
『離れて!』、
別に、
有る、
『定法』が、
『涅槃』と、
『呼ばれる!』のは、
『見たことがない!』。
若し、
『涅槃』が、
『有であれば!』、
即ち、
『生滅、老死の相』が、
『有るはずであり!』、
『老死の相』を、
『離れる!』が故に、
『涅槃』と、
『呼ばれるからである!』。
復次
 若涅槃是有  涅槃即有為 
 終無有一法  而是無為者
復た次ぎに、
若し涅槃は是れ有ならば、涅槃は即ち有為なり、
終に一法として、而も是れ無為なる者有ること無し。
復た次ぎに、
若し、
『涅槃』が、
『存在する!』ならば、
『涅槃』は、
『有為ということになる!』が、
終に、
『一法』として、
『無為である!』者は、
『存在しない!』。
参考
bhāvaś ca yadi nirvāṇaṃ nirvāṇaṃ saṃskṛtaṃ bhavet |
nāsaṃskṛto hi vidyate bhāvaḥ kva cana kaś cana ||5||
If nirvana were a thing, nirvana would be a conditioned phenomenon.
There does not exist any thing anywhere that is not a conditioned phenomenon.

参考
If nirvana were a thing
Nirvana would be a compounded phenomena.
There is not one single thing anywhere
That is uncompounded.

参考
また,もしもニルヴァーナが「存在(もの・こと)」であるならば,ニルヴァーナはつくられたもの(有為)となるであろう。なぜならば,つくられない(無為である)「存在(もの・ こと)」は,どのようなものも,どこにも,決して存在しないからである。
涅槃非是有。何以故。一切萬物從眾緣生。皆是有為。 涅槃は、是れ有なるに非ず。何を以っての故に、一切の万物は、衆縁より生じ、皆、是れ有為なればなり。
『涅槃』は、
『存在するのではない!』。
何故ならば、
一切の、
『万物』は、
『衆縁』より、
『生じる!』ので、
皆、
『有為だからである!』。
無有一法名為無為者。雖常法假名無為。 一法として、名づけて無為と為す者有ること無く、常法と雖も、無為と仮名するのみ。
『一法』として、
『無為』と、
『称する!』者は、
『存在しない!』。
『常法』と、
『称しても!』、
『仮名』の、
『無為である!』。
以理推之。無常法尚無有。何況常法不可見不可得者。 理を以って之を推すに、無常の法すら、尚お有ること無し。何に況んや、常法の不可見、不可得なる者をや。
是れを、
『推理すれば!』、こうである、――
『無常』の、
『法』すら、
尚お、
『存在しない!』。
況して、
『常法』という、
『見られることもなく!』、
『認識されることもない!』者など、
『言うまでもない!』。
復次
 若涅槃是有  云何名無受 
 無有不從受  而名為有法
復た次ぎに、
若し涅槃は是れ有ならば、云何が無受と名づくる、
受によらずして、名づけて有と為す法の有ること無し。
復た次ぎに、
若し、
『涅槃』が、
『有だとすれば!』、
何故、
『受( Skr. upaadaaya≒receiving )』が、
『無い!』と、
『称するのか?』。
『受』に、
『従らずに!』、
『有(存在する!)』と、
『呼ばれる!』、
『法』は、
『存在しない!』。
参考
bhāvaś ca yadi nirvāṇam anupādāya tat katham |
nirvāṇaṃ nānupādāya kaścid bhāvo hi vidyate ||6||
If nirvana were a thing, how would nirvana not be dependent?
There does not exists any thing at all that is not dependent.

参考
If nirvana were a thing
How would nivana not be dependent?
There is not one single thing
That is not dependent.

参考
また,もしもニルヴァーナが「存在(もの・こと)」であるならば,そのニルヴァーナは, どうして,〔何ものにも〕依存しないで〔存在する〕であろうか。なぜならば,どのような「存在(もの・こと)」も,依存しないで存在することはないからである。
若謂涅槃是有法者。經則不應說無受是涅槃。 若し、『涅槃は是れに法有り』と謂わば、経に則ち応に『受無き、是れ涅槃なり』と説くべからず。
若し、
こう謂うならば、――
『涅槃』には、
『法』が、
『有る!』、と。
『経』に、
こう説かれるはずがない、――
『受ける!』ことの、
『無い!』のが、
『涅槃である!』、と。
何以故。無有有法不受而有。是故涅槃非有。 何を以っての故に、有る法の受けずして有るもの有ること無し。是の故に、涅槃は有に非ず。
何故ならば、
『存在する!』、
『法』で、
『受けずに!』、
『存在する!』ような、
『法』は、
『存在しないからである!』。
是の故に、
『涅槃』は、
『存在しない!』。
問曰。若有非涅槃者無應是涅槃耶。 問うて曰く、若し有は、涅槃に非ずんば、無は応に是れ涅槃なるべしや。
問い、
若し、
『有』が、
『涅槃でない!』とすれば、
『無』が、
『涅槃であるはずだ!』。
答曰
 有尚非涅槃  何況於無耶 
 涅槃無有有  何處當有無
答えて曰く、
有すら尚お涅槃に非ず、何に況んや無に於いてをや、
涅槃には有有ること無し、何処にか当に無有るべき。
答え、
『有』すら、
尚お!
『涅槃ではない!』、
況して、
『無』などは、
『言うまでもない!』。
『涅槃』には、
『有すら!』、
『存在しない!』、
何処に、
『無』が、
『有るというのか?』。
参考
yadi bhāvo na nirvāṇam abhāvaḥ kiṃ bhaviṣyati |
nirvāṇaṃ yatra bhāvo na nābhāvas tatra vidyate ||7||
If nirvana were not a thing, how could it possibly be nothing?
The one for whom nirvana is not a thing, for him it is not nothing.

参考
If nirvana were not a thing
How could it be acceptable for it to be a non-thing?
Where nirvana is not a thing
It cannot be a non-thing.

参考
もしもニルヴァーナが「存在(もの・こと)」でないならば,「非存在(もの・こと)」が,どうして,ニルヴァーナであり得るであろうか。およそ,「存在(もの・こと)」の無いところには,「非存在(のもの・こと)」は,存在しない。
若有非涅槃。無云何是涅槃。何以故。因有故有無。若無有。何有無。 若し有は涅槃に非ずんば、無は云何が是れ涅槃なる。何を以っての故に、有に因るが故に無有ればなり。若し有無くんば、何ぞ無有らん。
若し、
『有』が、
『涅槃でない!』とすれば、
何故、
『無』が、
『涅槃なのか?』。
何故ならば、
『有』に、
『因る!』が故に、
『無』が、
『有るからである!』。
若し、
『有』が、
『無ければ!』、
何処に、
『無』が、
『有るのか?』。
如經說。先有今無則名無。涅槃則不爾。何以故。非有法變為無故。是故無亦不作涅槃。 経に説くが如し、『先に有りて、今無ければ、則ち無と名づく』、と。涅槃は則ち爾らず。何を以っての故に、有なる法は、変じて無と為るに非ざるが故なり。是の故に、無も亦た、涅槃と作らず。
例えば、
『経』には、こう説かれているが、――
『先に!』、
『有った!』ものが、
『今!』、
『無ければ!』、
則ち、
『無』と、
『称する!』、と。
『涅槃』は、
『此れ!』と、
『同じではない!』。
何故ならば、
『有』という、
『法』が、
『変じて!』、
『無』と、
『為るのではないからだ!』。
是の故に、
『無』も、
亦た、
『涅槃』と、
『作ることはない!』。
不爾(ふに):不如此、不這様。
復次
 若無是涅槃  云何名不受 
 未曾有不受  而名為無法
復た次ぎに、
若し無は是れ涅槃ならば、云何が不受と名づくる、
未だ曽て不受にして、名づけて無と為す法有らず。
復た次ぎに、
若し、
『無』が、
『涅槃ならば!』、
何故、
『受けない!』と、
『称されるのか?』。
未だ、
かつて、
『受けずに!』、
『無』と、
『称される!』、
『法』は、
『無い!』。
参考
yady abhāvaś ca nirvāṇam anupādāya tat katham |
nirvāṇaṃ na hy abhāvo ’sti yo ’nupādāya vidyate ||8||
If nirvana were nothing, how could nirvana possibly be not dependent?
There does not exist any nothing which is not dependent.

参考
If nirvana were not a thing
How would nirvana not be dependent?
There is no non-thing
That is not dependent on something.

参考
また,もしもニルヴァーナが「非存在(のもの・こと)」であるならば,そのニルヴァーナは,どうして,〔何ものにも〕依存しないで〔存在する〕であろうか。なぜならば,〔何ものにも〕依存しないであるような「非存在(のもの・こと)」は,存在しないからである。
若謂無是涅槃。經則不應說不受名涅槃。何以故。無有不受而名無法。是故知涅槃非無。 若し、無は、是れ涅槃なりと謂わば、経に則ち、応に不受を、涅槃と名づくと説くべからず。何を以っての故に、不受にして、無と名づくる法有ること無ければなり。是の故に知る、涅槃は、無に非ずと。
若し、
こう謂うならば、――
『無』が、
『涅槃である!』、と。
『経』に、
こう説かれるはずがない、――
『受けない!』ことを、
『涅槃』と、
『称する!』、と。
何故ならば、
『受けない!』のに、
『無』と、
『呼ばれる!』、
『法』は、
『無いからだ!』。
是の故に、
こう知る、――
『涅槃』は、
『無ではない!』、と。
問曰。若涅槃非有非無者。何等是涅槃。 問うて曰く、若し涅槃は非有非無ならば、何等か、是れ涅槃なる。
問い、
若し、
『涅槃』が、
『有でもなく!』、
『無でもなければ!』、
何のようなものを、
『涅槃というのか?』。
答曰
 受諸因緣故  輪轉生死中 
 不受諸因緣  是名為涅槃
答えて曰く、
諸の因縁を受くるが故に、生死中に輪転し、
諸の因縁を受けざる、是れを名づけて涅槃と為す。
答え、
諸の、
『因縁』を、
『受ける!』が故に、
『生、死』中に、
『輪転する!』、
諸の、
『因縁』を、
『受けない!』ことを、
『涅槃』と、
『称する!』。
参考
ya ājavaṃjavībhāva upādāya pratītya vā |
so ’pratītyānupādāya nirvāṇam upadiśyate ||9||
Whatever things come and go are dependent or caused.
Not being dependent and not being caused is taught to be Nirvana.

参考
Things that come and go
Are those which are dependent or made by causes.
That which is not dependent and not made by causes
Is taught to be nirvana.

参考
およそ,〔もろもろの要素に〕依存して,あるいは縁って,生死往来するもの,それが,縁らず,依存していないときに,これがニルヴァーナである,と說かれている。
不如實知顛倒故。因五受陰往來生死。 如実に顛倒を知らざるが故に、五受陰に因りて、生死を往来す。
『顛倒』を、
『如実に!』、
『知らない!』が故に、
『五陰』を、
『受ける!』ことに、
『因って!』、
『生』と、
『死』とを、
『往来する!』。
如實知顛倒故。則不復因五受陰往來生死。無性五陰不復相續故。說名涅槃。 如実に顛倒を知るが故に、則ち復た五受陰に因って、生死を往来せず。無性の五陰は、復た相続せざるが故に、説いて涅槃と名づく。
『顛倒』を、
『如実に!』、
『知る!』が故に、
もう、
『五陰』を、
『受ける!』ことに、
『因って!』、
『生』と、
『死』とを、
『往来することはない!』。
『無性』の、
『五陰』は、
もう、
『相続しない!』が故に、
『涅槃だ!』と、
『説かれる!』。
  五受陰(ごじゅおん):梵語 paJca- upaadaana- skandha の訳。染著の対象たる五種の集まり( the five aggregates as objects of impure attachment )の義。有漏の五陰、五陰に大略同義。
  :即ち、常楽我淨の顛倒を"知る"が故に、是れを涅槃と名づく。
復次
 如佛經中說  斷有斷非有 
 是故知涅槃  非有亦非無
復た次ぎに、
仏の経中の説の如く、有を断じ非有を断ぜよ、
是の故に知る、涅槃は有に非ず亦た無に非ず。
復た次ぎに、
例えば、
『仏』が、
『経』中に、説かれたように、――
『有』を、
『断ち!』、
『非有』を、
『断つ!』ならば、
是の故に、
こう知るだろう、――
『涅槃』は、
『有でもなく!』、
『無でもない!』、と。
参考
prahāṇaṃ cābravīc chāstā bhavasya vibhavasya ca |
tasmān na bhāvo nābhāvo nirvāṇam iti yujyate ||10||
The teacher taught [it] to be the letting go of arising and perishing.
Therefore, it is correct that nirvana is not a thing or nothing.

参考
The Teacher declared that
Arisal and disintegration are to be abandoned.
Thus, it is tenable for nirvana
Not to be a thing or a non-thing.

参考
また,師(ブッダ)は,〔われわれのこの〕生存と非生存と〔の執着〕を断ずることを說かれた。それゆえ,ニルヴァーナは「存在(もの・こと)」でもなく,「非存在(のもの・こと)」でもなく,というのが,正しい。
有名三有。非有名三有斷滅。佛說斷此二事故。當知涅槃非有亦非無。 有を、三有と名づけ、有に非ざるを、三有の断滅と名づく。仏の説きたまわく、『此の二事を断ずるが故に、当に知るべし、涅槃は有に非ず、亦た無に非ず』、と。
『有』とは、
『三有であり!』、
『非有』とは、
『三有の断滅』を、
『言うのである!』が、
『仏』は、
こう説かれた、――
此の、
『二事』を、
『断つ!』が故に、
こう知らねばならない、――
『涅槃』は、
『有でもなく!』、
『無でもない!』、と。
  三有(さんう):三種の存在( three kinds of existence )、梵語 tri- bhava の訳、(1)本有 Skr. saakSin- bhava :現在の存在/現在の身心( present existence, or the present body and mind; )、(2)当有 anya- bhava :未来に於ける( in a future state; )、(3)中有 antaraa- bhava :中間に於ける( in the intermediate state. )。
問曰。若有若無非涅槃者。今有無共合。是涅槃耶。 問うて曰く、若しは有、若しは無にして涅槃に非ずんば、今、有無共に合すれば、是れ涅槃なりや。
問い、
若し、
『有』も、
『無』も、
『涅槃でない!』とすれば、
今、
『有』と、
『無』とを、
『共に!』、
『合した!』ならば、
是れは、
『涅槃ではないのか?』。
答曰
 若謂於有無  合為涅槃者 
 有無即解脫  是事則不然
答えて曰く、
若し有無の合を、涅槃と為すと謂わば、
有無は即ち解脱なり、是の事は則ち然らず。
答え、
若し、
こう謂うならば、――
『有』と、
『無』との、
『合(両者)』を、
『涅槃だ!』とすれば、
『有』と、
『無』とは、
『解脱(≒無)だということになる!』が、
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
参考
bhaved abhāvo bhāvaś ca nirvāṇam ubhayaṃ yadi |
bhaved abhāvo bhāvaś ca mokṣas tac ca na yujyate ||11||
If nirvana were both a thing and nothing,
it would follow that it would be a thing and nothing.
That is incorrect.

参考
If nirvana were both
A thing and non-thing
Then both a thing and non-thing would be liberation.
That is not tenable.

参考
もしもニルヴァーナが「非存在(のもの・こと)」と「存在(もの・こと)」との兩者であるならば,解脫は「非存在(のもの・こと)」と「存在(もの・こと)」〔との両者〕である〔ということになるであろう〕。しかし,それは正しくない。
若謂於有無合為涅槃者。即有無二事合為解脫。是事不然。何以故。有無二事相違故。云何一處有。 若し、有、無の合を、涅槃と為すと謂わば、即ち有無の二事の合を、解脱と為すも、是の事は然らず。何を以っての故に、有無の二事相違するが故に、云何が一処に有らん。
若し、
こう謂うならば、――
『有』と、
『無』との、
『合』を、
『涅槃だ!』とすれば、
『有』と、
『無』との、
『二事』の、
『合』が、
『解脱だということになる!』が、
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
何故ならば、
『有』と、
『無』との、
『二事』が、
『相違する!』のに、
何故、
『一処』に、
『有るのか?』。
復次
 若謂於有無  合為涅槃者 
 涅槃非無受  是二從受生
復た次ぎに、
若し有無の合を、涅槃と為すと謂わば、
涅槃は受無きに非ず、是の二は受より生ず。
復た次ぎに、
若し、
こう謂えば、――
『有』と、
『無』との、
『合』が、
『涅槃だ!』、と。
『涅槃』には、
『受』が、
『有ることになる!』、
是の、
『有、無の二』は、
『受』より、
『生じるのだから!』。
参考
bhaved abhāvo bhāvaś ca nirvāṇam ubhayaṃ yadi |
nānupādāya nirvāṇam upādāyobhayaṃ hi tat ||12||
If nirvana were both a thing and nothing,
nirvana would not be not-dependent,
because it would depend on those two.

参考
If nirvana were both
A thing and non-thing
Nirvana would not be non-dependent
Because it would be dependent on those two.

参考
もしもニルヴァーナが「非存在(のもの・こと)」と「存在(もの・こと)」との兩者であるならば,ニルヴァーナは,〔何ものにも〕依存しないで〔成立している〕のではない,ということになるであろう。なぜならば,その兩者は,〔何ものかに〕依存して〔成立している〕からである。
若謂有無合為涅槃者。經不應說涅槃名無受。何以故。有無二事從受生。相因而有。是故有無二事。不得合為涅槃。 若し、有無の合を涅槃と為さば、『経』に、応に『涅槃を、無受と名づく』と説くべからず。何を以っての故に、有無の二事は受より生じ、相因となりて、有ればなり。是の故に、有無の二事は合して、涅槃と為るを得ず。
若し、
こう謂うならば、――
『有』と、
『無』との、
『合』が、
『涅槃である!』、と。
『経』に、
こう説かれるはずがない、――
『涅槃』を、
『受が無い!』と、
『称する!』、と。
何故ならば、
『有』と、
『無』との、
『二事』は、
『受』より、
『生じ!』、
『互いに!』、
『因待して!』、
『存在するからである!』。
是の故に、
『有』と、
『無』との、
『二事』は、
『合して!』、
『涅槃となることはない!』。
復次
 有無共合成  云何名涅槃 
 涅槃名無為  有無是有為
復た次ぎに、
有無共に合成すれば、云何が涅槃と名づくる、
涅槃を無為と名づけ、有無は是れ有為なればなり。
復た次ぎに、
『有』と、
『無』とが、
『共に!』、
『合して!』、
『成った!』ものが、
何故、
『涅槃』と、
『呼ばれるのか?』、
何故ならば、
『涅槃』は、
『無為』と、
『呼ばれる!』が、
『有』や、
『無』は、
『有為だからだ!』。
参考
bhaved abhāvo bhāvaś ca nirvāṇam ubhayaṃ katham |
asaṃskṛtaṃ hi nirvāṇaṃ bhāvābhāvau ca saṃskṛtau ||13||
How could nirvana be both a thing and nothing?
Nirvana is unconditioned;
things and nothings are conditioned.

参考
How could nirvana be both
A thing and non-thing?
Nirvana is uncompounded
Whereas things and non-things are compounded.

参考
どうして,ニルヴァーナは「非存在(のもの・こと)」と「存在(もの・こと)」との兩者であり得るであろうか。ニルヴァーナは,つくられないもの(無為)である。しかし,「存在(もの・こと)」と「非存在(のもの・こと)」とは,つくられたもの(有為)なのである。
有無二事共合。不得名涅槃。涅槃名無為。有無是有為。是故有無非是涅槃。 有無の二事は共に合するも、涅槃と名づくるを得ず。涅槃を無為と名づけ、有無は是れ有為なればなり。是の故に有無は、是れ涅槃なるに非ず。
『有』と、
『無』との、
『二事』が、
『共に!』、
『合した!』としても、
『涅槃』と、
『呼ぶことはできない!』。
何故ならば、
『涅槃』は、
『無為』と、
『呼ばれる!』が、
『有』や、
『無』は、
『有為だからだ!』。
是の故に、
『有』や、
『無』は、
『涅槃ではない!』。
復次
 有無二事共  云何是涅槃 
 是二不同處  如明暗不俱
復た次ぎに、
有無の二事共なれば、云何が是れ涅槃なる、
是の二は処を同じうせず、明暗の倶にせざるが如し。
復た次ぎに、
『有』と、
『無』との、
『二事』が、
『共である!』として、
何故、
是れが、
『涅槃なのか?』。
是の、
『二事』が、
『同じ!』、
『処にいない!』のは、
譬えば、
『明』と、
『暗』とが、
『いっしょにならない!』のと、
『同じである!』。
参考
bhaved abhāvo bhāvaś ca nirvāṇa ubhayaṃ katham |
tayor abhāvo hy ekatra prakāśatamasor iva ||14||
How could nirvana exist as both a thing and nothing?
Those two do not exist as one.
They are like light and dark.

参考
How could there be both
A thing and non-thing with respect to nirvana?
Those two cannot exist with respect to a single base
Just like illumination and darkness.

参考
どうして,ニルヴァーナのなかに,「非存在(のもの・こと)」と「存在(もの・こと)」との兩者が存在するであろうか。この両者が同一处に存在することはない。それはたとえば,光と闇とのようである。
有無二事。不得名涅槃。何以故。有無相違一處不可得。如明暗不俱。 有無の二事は、涅槃と名づくるを得ず。何を以っての故に、有無相違して、一処に得べからざればなり。明暗の倶にせざるが如し。
『有』と、
『無』との、
『二事』を、
『涅槃』と、
『呼ぶことはできない!』。
何故ならば、
『有』と、
『無』とは、
『相違する!』ので、
『一処』には、
『認められないからである!』。
譬えば、
『明』と、
『暗』とが、
『いっしょにならない!』のと、
『同じである!』。
是故有時無無。無時無有。云何有無共合。而名為涅槃。 是の故に有の時には無無く、無の時には有無し。云何が有無共に合して、而も名づけて涅槃と為す。
是の故に、
『有の時』には、
『無』が、
『無く!』、
『無の時』には、
『有』が、
『無い!』。
何故、
『有』と、
『無』とが、
『共に!』、
『合して!』、
而も、
『涅槃』と、
『呼ばれるのか?』。
問曰。若有無共合非涅槃者。今非有非無應是涅槃。 問うて曰く、若し有無共に合するも、涅槃に非ざれば、今、非有非無ならば、応に是れ涅槃なるべし。
問い、
若し、
『有、無』が、
『共に!』、
『合しても!』、
『涅槃でない!』とすれば、
今、
『非有非無』は、
是れが、
『涅槃でなくてはならない!』。
答曰
 若非有非無  名之為涅槃 
 此非有非無  以何而分別
答えて曰く、
若し非有非無にして、之を名づけて涅槃と為さば、
此の非有非無は、何を以ってか分別せん。
答え、
若し、
『非有非無』が、
『涅槃』と、
『呼ばれるとすれば!』、
此の、
『非有非無』は、
何を、
『用いて!』、
『分別するのか?』。
参考
naivābhāvo naiva bhāvo nirvāṇam iti yā ’ñjanā |
abhāve caiva bhāve ca sā siddhe sati sidhyati ||15||
The presentation of neither a thing nor nothing as nirvana
will be established [only] if things and nothings are established.

参考
A teaching that nirvana is neither
A thing nor non-thing
Could be established
If both things and non-things had been established.

参考
「ニルヴァーナは『非存在(のもの・こと)』でもなく,『存在(もの・こと)』でもない」 ということが,もしも存在するとするならば,「『非存在(のもの・こと)』でもなく,『存 在(もの・こと)』でもない」というそのことは,何によって示されるのか。
若涅槃非有非無者。此非有非無。因何而分別。是故非有非無是涅槃者。是事不然。 若し涅槃にして、非有非無ならば、此の非有非無は、何に因りてか分別せん。是の故に非有非無にして、是れ涅槃ならば、是の事は然らず。
若し、
『涅槃』が、
『非有非無』ならば、
此の、
『非有非無』は、
何に、
『因って!』、
『分別するのか?』。
是の故に、
『非有非無』が、
『涅槃だとすれば!』、
是の、
『事』は、
『正しくない!』。
復次
 分別非有無  如是名涅槃 
 若有無成者  非有非無成
復た次ぎに、
有無に非ざるを分別し、是の如きを涅槃と名づく、
若し有無にして成ぜば、非有非無も成ぜん。
復た次ぎに、
『非有非無』を、
『分別して!』、
是れを、
『涅槃』と、
『呼ぶ!』時、
若し、
『有無』が、
『成立していれば!』、
『非有非無』も、
『成立するだろう!』。
参考
naivābhāvo naiva bhāvo nirvāṇaṃ yadi vidyate |
naivābhāvo naiva bhāva iti kena tad ajyate ||16||
If nirvana is neither a thing nor nothing,
by who could “neither a thing nor nothing” be perceived?

参考
If nirvana were neither
A thing nor non-thing
Who could apprehend
That which is ‘neither a thing nor non-thing’?

参考
およそ,「ニルヴァーナは『非存在(のもの・こと)』でもなく,『存在(もの・こと)』でもない」という想定は,「非存在(のもの・こと)」と「存在(もの・こと)」とが成立するときにのみ,成立する。
汝分別非有非無是涅槃者是事不然。 汝は、非有非無を是れ涅槃なりと分別すれば、是の事は然らず。
お前が、
こう分別すれば、――
『非有非無』は、
是れが、
『涅槃だ!』、と。
是の、
『事』は、
『正しくない!』。
何以故。若有無成者。然後非有非無成。有相違名無。無相違名有。是有無第三句中已破。有無無故。云何有非有非無。是故涅槃。非非有非非無。 何を以っての故に、若し有無成ぜば、然る後に非有非無成ぜん。有に相違するを無と名づけ、無と相違するを有と名づくれば、是の有無は第三句中に已に破る、有無無きが故なり。云何が、非有非無有らん。是の故に、涅槃は非有非無に非ず。
何故ならば、
若し、
『有無』が、
『成立していれば!』、
その後に、
『非有非無』が、
『成立するからである!』。
『有』と、
『相違する!』ので、
『無』と、
『呼ばれ!』、
『無』と、
『相違する!』ので、
『有』と、
『呼ばれる!』が、
是の、
『有無』は、
『四句分別』中の、
『第三句( 亦有亦無 Both empty and not empty )』中に於いて、
『破られている!』、
『有無』が、
『無い!』のに、
何故、
『非有非無』が、
『有るのか?』。
是の故に、
『涅槃』は、
『非有非無ではない!』。
復次
 如來滅度後  不言有與無 
 亦不言有無  非有及非無 
 如來現在時  不言有與無 
 亦不言有無  非有及非無
復た次ぎに、
如来の滅度の後の、有と無とを言わず、
亦た有無と、非有及び非無を言わず。
如来の現在の時の、有と無とを言わず、
亦た有無と、非有及び非無を言わず。
復た次ぎに、
『如来』は、
『滅度の後』に、
『有る!』とも、
『無い!』とも、
『言わない!』し、
亦た、
『有無だ!』とも、
『非有非無だ!』とも、
『言わない!』。
『如来』は、
『現在の時』に、
『有る!』とも、
『無い!』とも、
『言わない!』し、
亦た、
『有無だ!』とも、
『非有非無だ!』とも、
『言わない!』。
参考
paraṃ nirodhād bhagavān bhavatīty eva nājyate |
na bhavaty ubhayaṃ ceti nobhayaṃ ceti nājyate ||17||
After the Bhagavan has entered nirvana,
one cannot perceive [him? it?] as “existing,” likewise as “not existing,”
nor can one percieve [him? it?] as “both” or “neither”.

tiṣṭhamāno ’pi bhagavān bhavatīty eva nājyate |
na bhavaty ubhayaṃ ceti nobhayaṃ ceti nājyate ||18||
Even when the Bhagavan is alive,
one cannot perceive [him? it?] as “existing,” likewise as “not existing,”
nor can one percieve [him? it?] as “both” or “neither”.

参考
The Bhagavan having passed beyond sorrow
Was not apprehended as existing.
Similarly, he was also not apprehended
Saying ‘He does not exist’, ‘both’ or ‘neither’.

Even when the Bhagavan was alive
He was not apprehended as existing.
Similarly, he was also not apprehended
Saying ‘He does not exist’, ‘both’ or ‘neither’.

参考
「世尊は入滅後にも存在する」と,表現されることはない。「存在しない」とも,「両者 (存在し且つ存在しない)である」とも,また「両者ではない」とも,表現されることはない。

「世尊はまた現に住しつつ存在している」と,表現されることはない。「〔現に〕存在していない」とも,「両者(現に存在し且つ存在していない)である」とも,また「両者ではない」とも,表現されることはない。
若如來滅後若現在。有如來亦不受。無如來亦不受。亦有如來亦無如來亦不受。非有如來非無如來亦不受。以不受故。不應分別涅槃有無等。 若し如来の滅後、若しは現在に、如来有りとも亦た受けず、如来無しとも亦た受けず、亦た如来有り、亦た如来無しとも亦た受けず、如来有るに非ずして、如来無きに非ずとも亦た受けざれば、受けざるを以っての故に、応に涅槃の有無等を分別すべからず。
若し、
『如来』の、
『滅度の後』や、
『現在の時』に、
『如来』が、
『有る!』とも、
『受けず(容認せず)!』、
『如来』が、
『無い!』とも、
『受けず!』、
『如来』が、
『有るか、無いかだ!』とも、
『受けず!』、
『如来』が、
『有るでもなく、無いでもない!』とも、
『受けなければ!』、
『如来』の、
『有、無』を、
『受けない!』が故に、
『涅槃』の、
『有、無』等を、
『分別してはならない!』。
離如來誰當得涅槃。何時何處以何法說涅槃。是故一切時一切種。求涅槃相不可得。 如来を離れて、誰か当に涅槃を得べき。何れの時、何れの処、何れの法を以って、涅槃を説かん。是の故に一切の時、一切の種に、涅槃の相を求めて得べからず。
『如来』を、
『離れて!』、
誰が、
『涅槃』を、
『得ることになるのか?』、
『何時に?』、
『何処で?』、
『何の法を用いて!』、
『涅槃』を、
『説くのか?』。
是の故に、
一切の、
『時』と、
『種』とに、
『涅槃の相』を、
『求めても!』、
『認めることはできない!』。
復次
 涅槃與世間  無有少分別 
 世間與涅槃  亦無少分別
復た次ぎに、
涅槃は世間と、少分の別も有ること無く、
世間は涅槃と、亦た少分の別も無し。
復た次ぎに、
『涅槃』は、
『世間』と、
『少分の区別』も、
『無い!』し、
『世間』は、
『涅槃』と、
『少分の区別』も、
『無い!』。
参考
na saṃsārasya nirvāṇāt kiṃcid asti viśeṣaṇam |
na nirvāṇasya saṃsārāt kiṃcid asti viśeṣaṇam ||19||
Samsara does not have the slightest distinction from Nirvana.
Nirvana does not have the slightest distinction from Samsara.

参考
Cyclic existence is not in the slightest way
Different from nirvana.
Nirvana is not in the slightest way
Different from cyclic existence.

参考
輪迴(生死世界)には,ニルヴァーナ,どのような区別も存在しない。ニルヴァーナには,輪迴と,どのような区別も存在しない。
五陰相續往來因緣故。說名世間。五陰性畢竟空無受寂滅。此義先已說。 五陰の相続し往来する因縁の故に、説いて世間と名づくるも、五陰の性は畢竟じて空、無受、寂滅なりと、此の義は、先に已に説けり。
『五陰』は、
『相続して!』、
『往来する!』、
『因縁』の故に、
『世間である!』と、
『説明される!』が、
『五陰』の、
『性』は、
『畢竟じて!』、
『空であり!』、
『無受であり!』、
『寂滅である!』、と、
此の、
『義』は、
『先に!』、
『説いた!』。
以一切法不生不滅故。世間與涅槃無有分別。涅槃與世間亦無分別。 一切の法の不生不滅なるを以っての故に、世間は、涅槃と分別有ること無し。涅槃は、世間と亦た分別無し。
一切の、
『法』は、
『不生であり!』、
『不滅である!』が故に、
『世間』は、
『涅槃』と、
『区別』が、
『無い!』し、
『涅槃』も、
『世間』と、
『区別』が、
『無い!』。
復次
 涅槃之實際  及與世間際 
 如是二際者  無毫釐差別
復た次ぎに、
涅槃の実際と、世間の際と、
是の如き二際は、毫釐の差別無し。
復た次ぎに、
『涅槃』の、
『実際』と、
『世間』の、
『際限』との、
是のような、
『二際』には、
『ほんの少し!』の、
『差別』も、
『存在しない!』。
  毫釐(ごうり):ほんの少し。毫は少数の単位10000分の1、釐は少数の単位1000分の1。
参考
nirvāṇasya ca yā koṭiḥ koṭiḥ saṃsaraṇasya ca |
na tayor antaraṃ kiṃcit susūkṣmam api vidyate ||20||
Whatever is the end of Nirvana, that is the end of Samsara.
There is not even a very subtle slight distinction between the two.

参考
That which is the limit of nirvana
Is the limit of cyclic existence.
The two of them are not different
Even in the slightest most subtle way.

参考
およそ,ニルヴァーナの究極であるものは,〔そのまま〕輪迴の究極でもある。両者には,どのようなきわめて微細な間隙も,存在しない。
究竟推求世間涅槃實際無生際。以平等不可得故。無毫釐差別。 究竟して、世間と涅槃との実際と無生の際とを推求するに、平等にして不可得なるを以っての故に、毫釐の差別無し。
『世間』という、
『無生の際』と、
『涅槃』という、
『実際』とを、
『究竟まで!』、
『推求した!』が、
『平等であり!』、
『認識できない!』が故に、
『ほんの少し!』の、
『差別さえ!』、
『存在しなかった!』。
復次
 滅後有無等  有邊等常等 
 諸見依涅槃  未來過去世
復た次ぎに、
滅後の有無等と、有辺等と常等の、
諸の見は涅槃と、未来過去世とに依る。
復た次ぎに、
『如来の滅後』の、
『有、無』等、
『世間』の、
『有辺』等、
『常』等の、
諸の、
『見』は、
『涅槃、未来、過去世』に、
『依存している!』。
参考
paraṃ nirodhād antādyāḥ śāśvatādyāś ca dṛṣṭayaḥ |
nirvāṇam aparāntaṃ ca pūrvāntaṃ ca samāśritāḥ ||21||
Views about who passes beyond, ends etc. and permanence etc.
are contingent upon nirvana and later ends and former ends.

参考
The views of a Tathagata after passing beyond sorrow,
The self and the world having an end and so forth
And the self and the world being permanent and so forth
Are dependent on nirvana, an end point and a start point.

参考
入滅後において〔世尊は存在するかどうか〕,〔世界は〕有限であるかどうかなど,また 〔世界は〕常住であるかどうかなど,〔それらの〕もろもろの見解は,ニルヴァーナと,後(未來)の限界と,前(過去)の限界とに,〔仮に〕依拠して立てられているものである。
如來滅後有如來無如來。亦有如來亦無如來。非有如來非無如來。 如来の滅後のに如来有り、如来無し、亦た如来有りて亦た如来無し、如来有るに非ずして如来無きに非ず。
『如来』の、
『滅度の後』に、
『如来』は、
『有るのか?』、
『無いのか?』、
『有ることもあり、無いこともあるのか?』、
『有ることもなく、無いこともないのか?』。
世間有邊世間無邊。世間亦有邊亦無邊。世間非有邊非無邊。 世間は有辺なり、世間は無辺なり、世間は亦た有辺にして亦た無辺なり、世間は有辺に非ずして無辺に非ず。
『世間』は、
『有辺なのか?』、
『無辺なのか?』、
『有辺でもあり、無辺でもあるのか?』、
『世間は有辺でもなく、無辺でもないのか?』。
世間常世間無常。世間亦常亦無常。世間非有常非無常。 世間は常なり、世間は無常なり、世間は亦た常にして亦た無常なり、世間は有常に非ずして無常に非ず。
『世間』は、
『常なのか?』、
『無常なのか?』、
『常でもあり、無常でもあるのか?』、
『常でもなく、無常でもないのか?』。
此三種十二見。如來滅後有無等四見。依涅槃起。世間有邊無邊等四見。依未來世起。世間常無常等四見。依過去世起。 此の三種十二見は、如来の滅後の有無等の四見は、涅槃に依って起り、世間の有辺無辺等の四見は未来世に依って起り、世間の常無常等の四見は過去世に依って起る。
此の、
『三種』の、
『十二見』中、
『如来の滅後の有、無』等の、
『四見』は、
『涅槃』に、
『依って!』、
『起り!』、
『世間の有辺、無辺』等の、
『四見』は、
『未来世』に、
『依って!』、
『起り!』、
『世間の常、無常』等の、
『四見』は、
『過去世』に、
『依って!』、
『起る!』。
如來滅後有無等不可得。涅槃亦如是。如世間前際後際有邊無邊有常無常等不可得。涅槃亦如是。是故說世間涅槃等無有異。 如来の滅後の有無等は不可得にして、涅槃も亦た是の如し。世間の前際、後際、有辺、無辺、有常、無常等の不可得なるが如く、涅槃も亦た是の如し。是の故に説かく、『世間と涅槃と等しく異有ること無し』、と。
『如来の滅後』の、
『有、無』等は、
『認められない!』が、
『涅槃』も、
亦た、
『是の通りである!』。
『世間』の、
『前際、後際、有辺、無辺、有常、無常』等が、
『認められない!』ように、
『涅槃』も、
亦た、
『是の通りである!』。
是の故に、
こう説く、――
『世間』と、
『涅槃』とは、
『等しく!』、
『異が無い!』、と。
復次
 一切法空故  何有邊無邊 
 亦邊亦無邊  非有非無邊 
 何者為一異  何有常無常 
 亦常亦無常  非常非無常 
 諸法不可得  滅一切戲論 
 無人亦無處  佛亦無所說
復た次ぎに、
一切の法の空なるが故に、何んが辺、無辺、
亦辺亦無辺、非有非無辺有らん。
何者か一異を為し、何んが常、無常、
亦常亦無常、非常非無常有らん。
諸法は不可得にして、一切の戯論を滅し、
人無く亦た処無ければ、仏にも亦た所説も無し。
復た次ぎに、
一切の、
『法』は、
『空である!』が故に、
何処に、
『辺、無辺、亦辺亦無辺、非有辺非無辺』が、
『有るのか?』。
何者が、
『差別して!』、
『一』や、
『異』と、
『為すのか?』、
何処に、
『常、無常、亦常亦無常、非常非無常』が、
『有るのか?』。
諸の、
『法』は、
『認識できない!』ので、
一切の、
『戯論』は、
『滅した!』、
『戯論』する、
『人』も、
『処(戯論の対象)』も、
『無くなった!』ので、
『仏』にも、
『所説』が、
『無くなった!』。
参考
śūnyeṣu sarvadharmeṣu kim anantaṃ kim antavat |
kim anantam antavac ca nānantaṃ nāntavac ca kim ||22||
In the emptiness of all things what ends are there?
What non-ends are there?
What ends and non-ends are there?
What of neither are there?

kiṃ tad eva kim anyat kiṃ śāśvataṃ kim aśāśvatam |
aśāśvataṃ śāśvataṃ ca kiṃ vā nobhayam apy atha ||23||
Is there this? Is there the other?
Is there permanence? Is there impermanence?
Is there both permanence and impermanence?
Is there neither?

sarvopalambhopaśamaḥ prapañcopaśamaḥ śivaḥ |
na kva cit kasyacit kaścid dharmo buddhena deśitaḥ ||24||
Totally pacifying all referents and totally pacifying fixations is peace.
The Buddha nowhere taught any dharma to anyone.

参考
For every thing which is empty
What could have an end? What could have no end?
What could have both an end and no end?
What could have neither an end nor no end?

What could be the same? What could be different?
What can be permanent? What could be impermanent?
What could be both permanent and impermanent?
What could be neither permanent nor impermanent?

The Buddha who is completely pacified
Of all observed objects and elaborations and is abiding in peace
Did not teach any Dharma
Even to anyone anywhere.

参考
一切の「もの」(諸法)は空なのであるから,何が無限であろうか,何が有限であろうか, 何が無限であり且つ有限であろうか,何が無限でもなく有限でもないのであろうか。

何が同一であろうか,何が別異であろうか。何が常住であろうか,何が非常住であろうか,何が常住であり且つ非常住であろうか,またさらに〔何が〕両者(常住且つ非常住) でないのであろうか。

〔ニルヴァーナとは〕,一切の得ること(有所得)が寂滅し,戲論(想定された論議)が寂滅して,吉祥なるものである。ブッダによって,どのような法(教え)も,どのような处でも,だれに対しても,說かれたことはない。
一切法一切時一切種。從眾緣生故。畢竟空故無自性。 一切の法、一切の時、一切の種は、衆縁より生ずるが故に、畢竟じて空なるが故に、自性無し。
一切の、
『法』や、
『時』や、
『種』は、
『多く!』の、
『縁』より、
『生じる!』が故に、
『畢竟じて!』、
『空であり!』、
故に、
『自性』が、
『無い!』。
如是法中。何者是有邊誰為有邊。 是の如き法中に、何者か、是れ有辺なる、誰か有辺と為す。
是のような、
『法』中に、
何が、
『有辺なのか?』、
誰が、
『有辺だ!』と、
『認めたのか?』。
何者是無邊。亦有邊亦無邊。非有邊非無邊。誰為非有邊非無邊。 何者か、是れ無辺なる、亦有辺亦無辺、非有辺非無辺なる。誰か非有辺非無辺と為す。
何が、
『無辺、亦有辺亦無辺、非有辺非無辺なのか?』、
誰が、
『非有辺非無辺だ!』と、
『認めたのか?』。
何者是常誰為是常。何者是無常。常無常非常非無常。誰為非常非無常。 何者か、是れ常なる。誰か是れ常と為す。何者か、是れ無常、常無常、非常非無常なる。誰か非常非無常と為す。
何が、
『常なのか?』、
誰が、
『常だ!』と、
『認めたのか?』。
何が、
『無常、常無常、非常非無常なのか?』、
誰が、
『非常非無常だ!』と、
『認めたのか?』。
何者身即是神。何者身異於神。 何者の身か、即ち是れ神なる。何者の身か、神に異なる。
何の、
『身』が、
『即ち(そのままで)!』、
『神なのか?』、
何の、
『身』が、
『神』と、
『異なるのか?』。
如是等六十二邪見。於畢竟空中皆不可得。 是の如き等の六十二の邪見は、畢竟の空中に於いては、皆不可得なり。
是れ等のような、
『六十二』の、
『邪見』は、
『畢竟じた!』、
『空』中には、
『皆、認められない!』。
諸有所得皆息。戲論皆滅。戲論滅故。通達諸法實相得安隱道。 諸の有の所得、皆息みて、戯論、皆滅すれば、戯論滅するが故に、諸法の実相に通達して、安隠の道を得。
諸の、
『有(存在)』に関する、
『所得(見解)』が、
皆、
『休息して!』、
『戯論』が、
皆、
『滅すれば!』、
『戯論』が、
『滅した!』が故に、
諸の、
『法』の、
『実相』に、
『通達して!』、
『安隠への!』、
『道』を、
『見出せるだろう!』。
  所得(しょとく):取得物( aquisition )、梵語 upalambha の訳、知覚/確認/認識( perceiving, ascertaining, recognition )の義、見解/意見( view, opinion )、研究と実践との道を通じて獲得された仏法の主要な真実に関する見解( The view of the essential truth of the Buddha-dharma gained through the path of study and practice. )の意、又は選び取る/選び出すような分別する精神( The discriminating mind that picks and chooses. )の意。
從因緣品來。分別推求諸法。有亦無。無亦無。有無亦無。非有非無亦無。是名諸法實相。亦名如法性實際涅槃。 因縁品より来(このかた)、諸の法を分別し推求するに、有も亦た無く、無も亦た無く、有無も亦た無く、非有非無も亦た無し。是れを諸法の実相と名づけ、亦た如、法性、実際、涅槃と名づく。
『因縁品』以来、
諸の、
『法』を、
『分別し!』、
『推求してきた!』が、
則ち、
『有』も、
『無』も、
『無く!』、
『有無』も、
『非有非無』も、
『無かった!』。
是れを、
諸の、
『法の実相』と、
『呼び!』、
亦た、
『如、法性、実際、涅槃』と、
『呼ぶのである!』。
是故如來無時無處。為人說涅槃定相。是故說諸有所得皆息。戲論皆滅 是の故に如来は、時として無く、処として無く、人の為に、涅槃の定相を説きたもう。是の故に説かく、『諸の有の所得、皆息み、戯論皆滅す』、と。
是の故に、
『如来』は、
『何時でも!』、
『何処でも!』、
『人』の為に、
『涅槃の定相』を、
『説かれていたのである!』が、
是の故に、
こう説く、――
諸の、
『有』に関しての、
『所得(見解)』が、
皆、
『休息すれば!』、
『戯論』も、
皆、
『絶滅するだろう!』、と。
  無時(むじ):何れの時刻にも。随時。
  無処(むしょ):何れの処に於いても、随処。



中論觀十二因緣品第二十六(九偈)

問曰汝以摩訶衍說第一義道。我今欲聞說聲聞法入第一義道。 問うて曰く、汝は、摩訶衍を以って、第一義の道を説くも、我れは今、声聞法を説くを聞きて、第一義の道に入らんと欲す。
問い、
お前は、
『摩訶衍』の、
『法』を、
『用いて!』、
『第一義』の、
『道』を、
『説明した!』が、
わたしは、
今、
『声聞』の、
『法』が、
『説かれる!』のを、
『聞いて!』、
『第一義』の、
『道』に、
『入ろう!』と、
『思う!』。
答曰
 眾生癡所覆  為後起三行 
 以起是行故  隨行墮六趣 
 以諸行因緣  識受六道身 
 以有識著故  增長於名色 
 名色增長故  因而生六入 
 情塵識和合  而生於六觸 
 因於六觸故  即生於三受 
 以因三受故  而生於渴愛 
 因愛有四取  因取故有有 
 若取者不取  則解脫無有 
 從有而有生  從生有老死 
 從老死故有  憂悲諸苦惱 
 如是等諸事  皆從生而有 
 但以是因緣  而集大苦陰 
 是謂為生死  諸行之根本 
 無明者所造  智者所不為 
 以是事滅故  是事則不生 
 但是苦陰聚  如是而正滅
答えて曰く、
衆生は癡に覆われ、為に後に三行を起こす、
是の行を起こすを以っての故に、行に随うて六趣に墮つ。
諸行の因縁を以って、識は六道の身を受け、
識の著有るを以っての故に、名色を増長す。
名色増長するが故に、因りて六入を生じ、
情塵識和合して、六触を生ず。
六触に因るが故に、即ち三受を生じ、
三受の因を以っての故に、渇愛を生ず。
愛に因りて四取有り、取に因るが故に有有り、
若し取る者取らざれば、則ち解脱して有無し。
有に従いて生有り、生に従いて老死有り、
老死に従うが故に、憂悲諸の苦悩有り。
是の如き等の諸事は、皆生に従いて有り、
但だ是の因縁を以って、大苦陰を集む。
是れを謂いて、生死の諸行の根本と為せば、
無明の者の造る所、智者の為さざる所なり。
是の事の滅するを以っての故に、是の事則ち生ぜず、
但だ是の苦陰聚は、是の如くして正に滅す。
答え、
『衆生』は、
『愚癡』に、
『覆われて!』、
後に、
『三行(身、口、意業)』を、
『起こさせられ!』、
是の、
『行』を、
『起こす!』が故に、
『行』の、
『善、悪』に、
『随って!』、
『六趣』に、
『堕ちる!』。
諸の、
『行』の、
『因縁』の故に、
『識』は、
『六道の身』を、
『受け!』、
有る、
『識』は、
『著する!』が故に、
『名色(身心)』を、
『増長する!』。
『名色』が、
『増長する!』が故に、
『六入(眼耳鼻舌身意/色声香味触法)』を、
『生じ!』て、
『情(眼耳鼻舌身意)』と、
『塵(色声香味触法)』と、
『識(眼識乃至意識)』とが、
『和合する!』が故に、
『六触(眼触乃至意触)』を、
『生じる!』。
『六触』に、
『因る!』が故に、
『三受(苦、楽、不苦不楽)』を、
『生じ!』、
『三受』に、
『因る!』が故に、
『渇愛』を、
『生じる!』。
『愛』に、
『因る!』が故に、
『四取(欲、見、戒、我語)』が、
『有り!』、
『取(執著)』に、
『因る』が故に、
『有(存在)』が、
『有る!』が、
若し、
『取る(執著する)!』者が、
『取らなければ!』、
『解脱して!』、
『有』は、
『無い!』。
『有』に、
『従って!』、
『生』が、
『有り!』、
『生』に、
『従って!』、
『老死』が、
『有り!』、
『老死』に、
『従って!』、
『憂、悲、諸の苦悩』が、
『有る!』。
是れ等の、
諸の、
『事象』は、
皆、
『生』に、
『従って!』、
『有り!』、
但だ、
是の、
『因縁』の故に、
『大苦陰(大苦聚)』を、
『集める!』。
是れ等の、
『因縁』は、
『生死の諸行(輪迴)』の、
『根本である!』と、
『謂われている!』ので、
『無明の者(愚者)』には、
『造られる!』が、
『智者』には、
『造られない!』。
是の、
『事(前の因縁)』が、
『滅する!』が故に、
是の、
『事(後の因縁)』は、
『生じない!』と、
『知るならば!』、
但だ、
是の、
『苦陰聚』は、
是のようにしてのみ、
『正しく!』、
『滅するのである!』。
  三行(さんぎょう):三種の業を起こす行( three karmic activities )、梵語 tri- saMskaara- karma の訳、身口意三業を起こす行。三業 tri- karman に同じ。
  三受(さんじゅ):三種の感覚( three feelings )、梵語 tri- vedanaa の訳、三種の苦痛( three pains )の義、即ち以下の如し、一に苦受 duHkha- vedanaa :苦( pain )、二に楽受 sukha- vedanaa :楽( pleasure )、三に捨受/不苦不楽受 aduHkha- asukha- vedanaa :不楽不苦( neither-pleasure-nor-pain )。外境/事態が、望みに違逆する時には苦が起り、順ずる時には楽と、その継続に関する欲望が生じ、そのどちらでもない時には欲望/外境より切り離されて、自由である( When things are opposed to desire, pain arises; when accordant, there is pleasure and a desire for their continuance; when neither, one is detached or free )。
  四取(ししゅ):四種の執著( four kinds of clinging )、梵語 catraary upaadaanaani の訳、四取の把握( Four kinds of grasping )の意、即ち以下の如し、一に欲取 kaamopaadaana :欲望にしがみつくこと( clinging to desire )、二に見取 dRSTy- upaadaana :誤った見解にしがみつくこと( clinging to mistaken views )、三に戒禁取 ziila- vrata- upaadaana :戒律、及び目的に関する誤った理解にしがみつくこと( clinging to a mistaken understanding of the precepts and their purpose )、四に我語取 aatma- vaadopaadaana :自己の概念に由来する思想にしがみつくこと( clinging ideas that arise from a notion of self )。
  苦陰(くおん):苦痛の集積( aggregate of suffering )、梵語 duHkha- skandha の訳、苦痛の網に捕えられた五陰を伴う身体( The body with its five skandhas enmeshed in suffering. )の意。
参考
punarbhavāya saṃskārān avidyānivṛtas tridhā |
abhisaṃskurute yāṃs tair gatiṃ gacchati karmabhiḥ ||1||
In order to become again,
those obscured by ignorance are moved into destinies by actions
which are impelled [by] the three kinds of formative impulses.

vijñānaṃ saṃniviśate saṃskārapratyayaṃ gatau |
saṃniviṣṭe ’tha vijñāne nāmarūpaṃ niṣicyate ||2||
Consciousness conditioned by formative impulses enters into destinies.
When consciousness has entered,
name and form develop.

niṣikte nāmarūpe tu ṣaḍāyatanasaṃbhavaḥ |
ṣaḍāyatanam āgamya saṃsparśaḥ saṃpravartate ||3||
When name and form develop, the six senses emerge.
In dependence upon the six senses, impact actually occurs.

cakṣuḥ pratītya rūpaṃ ca samanvāhāram eva ca |
nāmarūpaṃ pratītyaivaṃ vijñānaṃ saṃpravartate ||4||
Just as [it] only arises in dependence on the eye, [visual] form and attention,
so consciousness arises in dependence on name and form.

saṃnipātas trayāṇāṃ yo rūpavijñānacakṣuṣām |
sparśaḥ sa tasmāt sparśāc ca vedanā saṃpravartate ||5||
The gathering of the three:
eye and [visual] form and consciousness, that is “impact.”
From impact feeling totally arises.

vedanāpratyayā tṛṣṇā vedanārthaṃ hi tṛṣyate |
tṛṣyamāṇa upādānam upādatte caturvidham ||6||
Due to the condition of feeling, there is craving;
one craves for what is felt. When one craves,
one clings to the four aspects of clinging
[sense objects, views, morals and rules, and views of self].

upādāne sati bhava upādātuḥ pravartate |
syād dhi yady anupādāno mucyeta na bhaved bhavaḥ ||7||
When there is clinging, the becoming of the clinger fully arises.
When there is no clinging, one is freed; there is no [more] becoming.

pañca skandhāḥ sa ca bhavo bhavāj jātiḥ pravartate |
jarāmaraṇaduḥkhādi śokāḥ saparidevanāḥ ||8||
Becoming is the five aggregates;
from becoming one is born.
Aging, death, torment, lamentation, pain,

daurmanasyam upāyāsā jāter etat pravartate |
kevalasyaivam etasya duḥkhaskandhasya saṃbhavaḥ ||9||
mental unhappiness, anxiety:
these vividly emerge from birth.
Likewise, the entire mass of anguish emerges.

saṃsāramūlaṃ saṃskārān avidvān saṃskaroty ataḥ |
avidvān kārakas tasmān na vidvāṃs tattvadarśanāt ||10||
The root of life is formative impulses.
Therefore, the wise do not form impulses.
Therefore, the unwise are formers,
but not the wise since they see reality.

avidyāyāṃ niruddhāyāṃ saṃskārāṇām asaṃbhavaḥ |
avidyāyā nirodhas tu jñānasyāsyaiva bhāvanāt ||11||
When ignorance stops, formative impulses too do not occur.
The stopping of ignorance [comes] through practising that with understanding.

tasya tasya nirodhena tat tan nābhipravartate |
duḥkhaskandhaḥ kevalo ’yam evaṃ samyag nirudhyate ||12||
By the stopping of the former, the latter will clearly not occur.
The entire mass of anguish will likewise completely stop.

参考
Those obscured by ignorance, for the sake of rebirth,
Form the three types of compositional actions.
Due to those formed actions
They will migrate.

With the condition of a compositional action
Consciousness will enter into migrations.
When the consciousness has entered
Name and form will be established.

When name and form have been established
The six sense spheres will emerge.
In dependence upon the six sense spheres
Contact will actually occur.

It is only produced in dependence
Upon the eye, visual form and recollection.
Thus, in dependence upon name and form,
That which will produce consciousness

And is the assembling of the three –
The eye, visual form and consciousness – is contact.
That contact
Is the source of feeling.

Due to the condition of feeling, there will be craving.
There is craving on account of the feeling.
When there is craving, there will be grasping.
There are four types of grasping.

When there is grasping
Existence for the grasper will fully arise.
When there is no grasping
There will be liberation and hence no rebirth.

Existence, moreover, is the five aggregates.
From existence there will be birth.
Aging, death, sorrow,
Lamentation, suffering,

Mental unhappiness and strife
Will fully arise from birth.
Thus, this entire mass of suffering
Will arise.

Because the root of samsara is compositional actions
The wise do not form them.
Thus, the unwise are agents
But the wise are not because they have seen suchness.

When ignorance has ceased
Compositional actions will also not arise.
Ignorance will cease
By cultivating suchness through knowing it.

Due to this and that prior link having ceased
This and that latter link will not arise.
The entire mass of suffering
Will thus perfectly cease.

参考
およそ,「無明」(根原的無知)に覆われた者は,再生(輪迴)に導く三種の諸「行」(形成するはたらき)を,みずからなしとげ,それらのもろもろの行為(業)によって,〔かれは〕, 生存の場所(趣)におもむく。

〔諸「行」を縁とする「識」(識別するはたらき)が,趣(生存の場所)に入る。そして「識」 が〔趣に〕入ったときに,「名色」(名称と,いろ‧かたちあるもの)(心ともの)が現われる。

そして「名色」が現われたときに,「六处」(眼‧耳‧鼻‧舌‧身‧意)が生ずる。「六处」 にいたったときに,「触」(感官と対象との接触)が生ずるにいたる。

眼と,いろ‧かたちあるもの(色)と,作意(対象への注意)とに縁って,すなわち,「名色」に縁って,そのような「識」が生ずるにいたる。 註:この偈により,十二因縁の「識」→「名色」の系列に「名色」→「識」が,加わることになり,いわば「識」と「名色」との相依が挿入されている。なおこれに相当する偈を青目釈羅什訳は欠く。

およそ,色と識と眼との三者和合(接触)すること,すなわち,それが「触」である。 またその「触」から,「受」(感受するはたらき)が生ずるにいたる。

およそ,色と識と眼との三者和合(接触)すること,すなわち,それが「触」である。 またその「触」から,「受」(感受するはたらき)が生ずるにいたる。

「受」に縁って,「愛」(欲望)が〔有る〕。なぜならば,「受」の対象を愛欲するからである。 。愛欲しているときに,四種の「取」(執着)を取りこむ(執着するようになる)。

「取」が有るとき,取者において「有」(生存)が生ずるにいたる。なぜならば,もしも「取」が無いならば,解脫して,「有」は存在しないであろうから。

そして,その「有」は,五蘊(五つの構成要素)である。「有」から,「生」が生ずるにい たる。「老死」,苦など,悲,憂とともに,

悩,悶(心痛),これらは「生」から生ずるにいたる。このようにして,この純然たる苦の集合体(純苦蘊)が生ずる。

このゆえに,無智の人,輪迴の根本であるもろもろの「行」をなす。それゆえ,無智な人が作者(業をつくる主体)なのである。智ある人は,真実義を知見するがゆえに,〔作 者〕ではない。

「無明」が滅したときには,もろもろの「行」は生じない。ところで,「無明」の滅することは,まさしく智によって,これ(十二因緣)を修習することによるのである。

〔十二支の〕それぞれ〔先のもの(支)〕が減することにより,それぞれ〔後のもの(支)〕 は生ずるにいたらない。このようにして,この純然たる苦の集合体(純苦蘊)は,完全に滅せられる。
凡夫為無明所盲故。以身口意業。為後身起六趣諸行。隨所起行有上中下。識入六趣隨行受身。以識著因緣故名色集。名色集故有六入。六入因緣故有六觸。六觸因緣故有三受。三受因緣故生渴愛。渴愛因緣故有四取。四取取時以身口意業起罪福。令後三有相續。從有而有生。從生而有老死。從老死有憂悲苦惱種種眾患。但有大苦陰集。 凡夫は、無明の盲うる所為るが故に、身口意の業を以って、後身の為に、六趣の諸行を起し、起こす所の行に随いて、上中下有り。識は、六趣に入りて、行に随いて身を受け、識の著する因縁を以っての故に、名と色と集まり、名と色と集まるが故に、六入有り、六入の因縁の故に六触有り、六触の因縁の故に三受有り、三受の因縁の故に渇愛を生じ、渇愛の因縁の故に四取有り、四取の取る時、身口意の業を以って罪福を起し、後の三有をして、相続せしむ。有に従いて、生有り、生に従いて、老死有り。老死に従いて、憂悲の苦悩、種種の衆患有りて、但だ大苦陰の集まる有り。
『凡夫』は、
『無明』に、
『盲(めし)いられている!』が故に、
『身、苦、意』の、
『業』を、
『用いて!』、
『後身』の為の、
『六趣』の、
『諸行』を、
『起し!』、
『起こされた!』、
『行』の
『有する!』、
『上、中、下(善、無起、不善)』に、
『随って!』、
『識』が、
『六趣』に、
『入る!』と、
『行』に、
『随って!』、
『六趣の身』を、
『受け!』、
『識』の、
『名色(心身)』に、
『著する!』、
『因縁』の故に、
『名()』と、
『色()』とが、
『集まり!』、
『名』と、
『色』とが、
『集まる!』が故に、
『六入』が、
『有り!』、
『六入』の、
『因縁』の故に、
『六触』が、
『有り!』、
『六触』の、
『因縁』の故に、
『三受』が、
『有り!』、
『三受』の、
『因縁』の故に、
『渇愛』を、
『生じ!』、
『渇愛』の、
『因縁』の故に、
『四取』が、
『有り!』、
『四取』が、
『取る(執著する)!』時の、
『身口意』の、
『業』の故に、
『罪福』の、
『報』を、
『起して!』、
『後身』の、
『三有』を、
『相続させ!』、
『有』に、
『従って!』、
『生』が、
『有り!』、
『生』に、
『従って!』、
『老死』が、
『有り!』、
『老死』に、
『従って!』、
『憂、悲の苦悩、種種の衆患』が、
『有り!』、
但だ、
『大苦陰』の、
『集まり!』のみが、
『有る!』。
是故知凡夫無智。起此生死諸行根本。智者所不起。以如實見故。則無明滅。無明滅故諸行亦滅。以因滅故果亦滅。 是の故に知る、凡夫は無智にして、此の生死の諸行の根本を起こすも、智者の起こさざる所なるは、如実の見を以っての故に、則ち無明滅し、無明滅するが故に諸行も亦た滅し、因滅するを以っての故に、果も亦た滅すればなり。
是の故に、こう知る、――
『凡夫』は、
『無智である!』が故に、
此の、
『生死の諸行』の、
『根本』を、
『生じる!』が、
是の、
『根本』は、
『智者』に、
『起こされることはない!』。
何故ならば、
『智者』は、
『如実』に、
諸の、
『法』を、
『見る!』が故に、
則ち、
『無明』が、
『滅し!』、
『無明』が、
『滅した!』が故に、
『諸行』も、
『滅している!』、
則ち、
『因(無明)』が、
『滅した!』が故に、
『果(諸行)』も、
『滅したからである!』。
如是修習觀十二因緣生滅智故是事滅。是事滅故乃至生老死憂悲大苦陰皆如實正滅。正滅者畢竟滅。 是の如く修習して、十二因縁の生滅を観る智の故に、是の事滅し、是の事滅するが故に、乃至生老死の憂悲、大苦陰まで、皆如実に正しく滅す。正しく滅すとは、畢竟じて滅するなり。
是のように、
『修習して!』、
『十二因縁』の、
『生』と、
『滅』とを、
『観る!』、
『智慧』の故に、
是の、
『事』は、
『滅するのであり!』、
是の、
『事』が、
『滅する!』が故に、
乃至、
『生老死の憂悲』や、
『大苦陰』まで、
皆、
『如実に!』、
『正しく!』、
『滅する!』。
『正しく!』、
『滅する!』とは、
『畢竟じて!』、
『滅するのである!』。
是十二因緣生滅義。如阿毘曇修多羅中廣說 是の十二因縁の生滅の義は、阿毘曇修多羅中に、広く説くが如し。
是の、
『十二因縁』の、
『生、滅の義』は、
例えば、
『阿毘曇(論蔵)』や、
『修多羅(経蔵)』中に、
『詳しく!』、
『説かれている!』。



中論觀邪見品第二十七(三十一偈)

問曰。已聞大乘法破邪見。今欲聞聲聞法破邪見。 問うて曰く、已に大乗の法に、邪見を破るを聞けり。今は声聞法に、邪見を破るを聞かんと欲す。
問い、
已に、
『大乗の法』で、
『邪見』を、
『破る!』のは、
『聞いた!』、
今は、
『声聞の法』で、
『邪見』を、
『破る!』のを、
『聞きたい!』。
  五見(ごけん):五種の見解( five views )、梵語 paJca- dRSTi の訳、五種の誤った認識、又五悪見、五邪見と名づく( Five kinds of mistaken perception, also written as 五惡見, 五邪見 )。乃ち、
  1. 我見(梵語 satkaaya- dRSTi ):実在化する見解( Entifying view — reifying view, or identity-view. )。自己という固有の存在に関して実在すると執する見解( The attached view of the reality of the inherent existence of one's own self, coupled with the belief in the objects in one's surrounding world as real entities )。又身見、有身見等と云う。
  2. 辺見(梵語 antaparigraha- dRSTi ):極端な見解( Extreme view )、常、或は断の立場に執する( which is attachment to the positions of either eternalism or nihilism )。
  3. 邪見(梵語 mithyaa- dRSTi ):誤った見解( Erroneous view )、因果の関係を適切に認めない( wherein one does not properly acknowledge the relationship of cause and effect )。
  4. 見取見(梵語 dRSTi- paraamarza- dRSTi ):見解に執する見解( View of attachment to views )、例えば、一つの持論を一切に及ぼして強く執著する( i.e. holding rigidly to one opinion over all others. )。
  5. 戒禁取見(梵語 ziila- vrata- praamarza- dRSTi ):戒律に固く執著する見解( View of rigid attachment to the precepts )、禁欲行為や、倫理的修行、及び仏教徒以外の誓約が人を真実に導くとする見解(The view that the austerities, moral practices and vows of non-Buddhist schools can lead one to the truth )。
答曰
 我於過去世  為有為是無 
 世間常等見  皆依過去世 
 我於未來世  為作為不作 
 有邊等諸見  皆依未來世
答えて曰く、
我は過去世に於いて、有と為すも是れ無と為すも、
世間の常等の見は、皆過去世に依る。
我は未来世に於いて、作と為すも不作と為すも、
有辺等の諸見は、皆未来世に依る。
答え、
『過去世』に於いて、
『我』は、
『有ったのか?』、
『無かったのか?』、
『世間』の、
『常等の見』は、
皆、
『過去世』に、
『依る!』。
『未来世』に於いて、
『我』は、
『作()なのか?』、
『不作()なのか?』、
諸の、
『有辺等の見』は、
皆、
『未来世』に、
『依る!』。
参考
abhūm atītam adhvānaṃ nābhūvam iti dṛṣṭayaḥ |
yās tāḥ śāśvatalokādyāḥ pūrvāntaṃ samupāśritāḥ ||1||
Those views such as “I occurred or did not occur in the past,”
the world is permanent, are dependent on the extreme of before.

dṛṣṭayo na bhaviṣyāmi kim anyo ’nāgate ’dhvani |
bhaviṣyāmīti cāntādyā aparāntaṃ samāśritāḥ ||2||
Those views such as I will occur or not occur at another time in the future,
the world has an end, are dependent on the extreme of Later.

参考
Those views such as ‘The self arose in the past’,
‘The self did not arise in the past’,
‘The world is permanent’ and so forth
Are dependent on a start point.

Those views such as ‘The self will arise again in the future’,
‘The self will not arise again in the future’,
‘The world has an end’ and so forth
Are dependent on an end point.

参考
「過去世に私は存在した」,また「存在しなかった」という,〔および〕「これらの世界は常住である」など〔の誤りの〕諸見解は,過去の〔見解〕に依拠している。

「未来世に私は存在しないであろう」,あるいは「他者として存在するであろう」という,また「〔世界は〕有限である」などの〔誤りの〕諸見解は,未来〔の見解〕に依拠している。
我於過去世。為有為無。為有無為非有非無。是名常等諸見依過去世。我於未來世。為作為不作。為作不作為非作非不作。是名邊無邊等諸見依未來世。 我は、過去世に於いて、有と為すや、無と為すや、有無と為すや、非有非無と為すや、是れを常等の諸見は、過去世に依ると名づけ、我は、未来世に於いて、作と為すや、不作と為すや、作不作と為すや、非作非不作と為すや、是れを辺無辺等の諸見は、未来世に依ると名づく。
『過去世』に於いて、
『我』は、
『有なのか?』、
『無なのか?』、
『有無なのか?』、
『非有非無なのか?』、
是れが、
『常等の諸見』は、
『過去世』に、
『依るということである!』。
『未来世』に於いて、
『我』は、
『作なのか?』、
『不作なのか?』、
『作不作なのか?』、
『非作非不作なのか?』、
是れが、
『辺、無辺等の諸見』は、
『未来世』に、
『依るということである!』。
如是等諸邪見。何因緣故名為邪見。 是の如き等の諸の邪見は、何なる因縁の故に名づけて、邪見と為す。
是れ等のような、
諸の、
『邪見』は、
何のような、
『因縁』の故に、
『邪見』と、
『呼ばれるのか?』。
是事今當說
 過去世有我  是事不可得 
 過去世中我  不作今世我 
 若謂我即是  而身有異相 
 若當離於身  何處別有我 
 離身無有我  是事為已成 
 若謂身即我  若都無有我 
 但身不為我  身相生滅故 
 云何當以受  而作於受者 
 若離身有我  是事則不然 
 無受而有我  而實不可得 
 今我不離受  亦不即是受 
 非無受非無  此即決定義
是の事を今当に説くべし、
過去世に我有り、是の事は得べからず、
過去世中の我は、今世の我と作らず。
若し我は即ち是れにして、身に異相有りと謂わば、
若し当に身を離るべくんば、何処にか別に我有る。
身を離れて我有ること無し、是の事已に成ずと為し、
若し身即ち我なりと謂わば、汝には都べて我有る無し。
但だ身のみを我と為さず、身相は生滅するが故なり、
云何が当に受を以って、受者と作さん。
若し身を離れて我有れば、是の事は則ち然らず、
受無くして我有れば、而も実に得べからず。
今我は受を離れず、亦た即ち是れ受なるにあらず、
受無きに非ず無なるに非ず、此れ即ち決定の義なり。
是の、
『事』を、
今、説こう、――
若し、    ――1――
『過去世』に、
『我』が、
『有る!』とすれば、
是の、
『事』は、
『認められない!』。
『過去世』の、
『我』は、
『今世』の、
『我』と、
『作ることはない!』。
若し、こう謂うならば、――    ――2――
『我』は、
是の、
『我である!』が、
『身』には、
『異なる!』、
『相』が、
『有る!』、と。
若し、
『身』を、
『離れたならば!』、
『身』と、
『別れて!』、
何処に、
『我』は、
『有るのか?』。
若し、    ――3――
『身』を、
『離れて!』、
『我』は、
『無い!』という、
是の、
『事』が、
『成立した!』として、
こう謂うならば、――
『身』は、
即ち、
『我である!』、と。
お前()には、
『我』が、
何処にも、
『存在しない!』。
但だ、    ――4――
『身(五蘊 (The appropriated aggregates themselves) )』を、
『我だ!』と、
『看做すのでもない!』、
何故ならば、
『身』の、
『相』は、
『生、滅するからだ!』。
何うして、
『受( (that which is to be appropriated ) )』が、
『受者( (the appropriator) )』と、
『作るはずがあろうか?』。
若し、    ――5――
『身』を、
『離れて!』、
『我』が、
『有るとすれば!』、
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
『受』が、
『無いのに!』、
『我』が、
『有ったとしても!』、
実に、
『我だ!』とは、
『認められない!』。
今、    ――6――
『我』は、
『受』を、
『離れることもなく!』、
亦た、
『我』が、
『受だというのでもない!』。
『我』は、
『受』が、
『無いでもない!』し、
亦た、
『我』が、
『無いでもない!』、
此れが、
『決定した!』、
『義である!』。
  (にゃく):なんじ( you )。汝に同じ。
  :離身無有我:底本は離有無身我、理に依り他本に従いて現状に改む。
参考
abhūm atītam adhvānam ity etan nopapadyate |
yo hi janmasu pūrveṣu sa eva na bhavaty ayam ||3||
It is incorrect to say: “I occurred at a time in the past.”
Whatever occurred before, that is not this.

sa evātmeti tu bhaved upādānaṃ viśiṣyate |
upādānavinirmukta ātmā te katamaḥ punaḥ ||4||
If you think that that became me,
then that-which-is-clung-to would be something else.
What is your self apart from that-which-is-clung-to?

upādānavinirmukto nāsty ātmeti kṛte sati |
syād upādānam evātmā nāsti cātmeti vaḥ punaḥ ||5||
Were you [to say] that there exists no self apart from that-which-is-clung-to,
if the very that-which-is-clung-to were the self,
your self would be non-existent.

na copādānam evātmā vyeti tat samudeti ca |
kathaṃ hi nāmopādānam upādātā bhaviṣyati ||6||
The very that-which-is-clung-to is not the self: it arises and passes away.
How can that-which-has-been-clung-to be the one that clings?

anyaḥ punar upādānād ātmā naivopapadyate |
gṛhyeta hy anupādāno yady anyo na ca gṛhyate ||7||
It is not correct for the self to be other than that-which-is-clung-to.
If it were other, with nothing to cling to,
then something [i.e. the self] fit to be apprehended would not be apprehended.

evaṃ nānya upādānān na copādānam eva saḥ |
ātmā nāsty anupādāno nāpi nāsty eṣa niścayaḥ ||8||
In that way,
it is not other than that-which-is-clung-to nor is it that-which-is-clung-to.
The self is not not that-which-is-clung-to, nor can it be ascertained as nothing.

参考
To say ‘The self arose in the past’
Is inadmissible.
That very one which arose in past lives
Is not this one.

You might think that very one will become this self
Yet the appropriated aggregates are different.
Apart from the appropriated aggregates
For you, what self is there?

‘Apart from the appropriated aggregates
There is no self.
The appropriated aggregates themselves are the self.’
Then for you, the self would not exist.

The appropriated aggregates themselves are not the self
Since they are arising and disintegrating.
And how could that which is to be appropriated
Be the appropriator?

It is simply inadmissible for the self
To be different from the appropriated aggregates.
If it were different, it should be apprehendable
Without them, yet it is not.

Thus, it is not different from them
And it is also not the appropriated aggregates themselves.
The self is not without appropriated aggregates
And it is also not ascertained to be simply non-existent.

参考
「過去世に私は存在していた」ということは,成り立たない。なぜならば,およそ,多くの前世(前生)に〔あった〕ものが,そのままこれ(いまの私)である,ということはないからである。

しかし,もしも「〔前世の〕我(アートマン)がそれ(いまの私)であるけれども,取(執着) が区別されるのである」というならば,それならば,取(執着)を離れて,さらに,どの ような我(アートマン)が,〔そのようにいう〕汝〔に有る〕のであるか。

取(執着)を離れては我(アートマン)は存在しない」ということが成立するとするならば, 「取(執着)が,そのまま我(アートマン)である」ということになるであろう。それならば, 汝たちにとっては,「我(アートマン)は存在しない」ということになるであろう。」

また,取(執着)がそのまま我(アートマン)なのではない。それ(取)は滅したり,生じたりする。実に,取がすなわち取の主体であるということは,どうして,あり得るであろうか。

さらに,取(執着)からは異なる我(アートマン)は,決して成り立たない。なぜならば,もしも〔両者が〕異なっているならば,取(執着)のない〔我(アートマン)〕が把捉されるはずであるのに,しかし,〔そのようなものは,実際には〕把捉されないからである。

このように,それ(我(アートマン))は,取(執着)から異なるのでもなく,また,取(執着) そのものでもない。取(執着)のない我(アートマン)は,存在しないし,存在しないのでもない,ということが決定される。
我於過去世有者。是事不然。何以故。先世中我不即作今我。有常過故。 我は、過去世に有らば、是の事は然らず。何を以っての故に、先世中の我は、即ち今の我と作らざればなり。常の過有るが故に。
『我』が、
『過去世』に、
『有る!』とすれば、
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
何故ならば、
『先世』中の、
『我』は、
『今世』の、
『我』と、
『作らない!』、
何故ならば、
『常の過』が、
『有るからだ!』。
若常則有無量過。何以故。如人修福因緣故作天而後作人。若先世我即是今我者。天即是人。 若し常ならば、則ち無量の過有り。何を以っての故に、人は、修福の因縁の故に天と作り、而して後に人と作るが如きに、若し先世の我、即ち此れ今の我ならば、天は即ち是れ人なればなり。
若し、
『常ならば!』、
『無量の過』が、
『有る!』。
何故ならば、
例えば、
『人』は、
『修福の因縁』の故に、
『天』と、
『作り!』、
『後に!』、
『人』と
『作る!』が、
若し、
『先世』の、
『我』が、
『今の!』、
『我ならば!』、
『天』は、
『即ち!』、
『人だからだ!』。
又人以罪業因緣故作旃陀羅。後作婆羅門。若先世我即是今我者。旃陀羅即是婆羅門。 又、人は、罪業の因縁を以っての故に旃陀羅に作り、後に婆羅門と作るも、若し先世の我は、即ち是れ今の我ならば、旃陀羅は即ち是れ婆羅門なり。
又、
『人』は、
『罪業の因縁』の故に、
『旃陀羅』と、
『作り!』、
『後に!』、
『婆羅門』と、
『作る!』が、
若し、
『前世』の、
『我』が、
『今の!』が、
『我ならば!』、
『旃陀羅』は、
『即ち!』、
『婆羅門だからだ!』。
譬如舍衛國婆羅門名提婆達。到王舍城亦名提婆達。不以至王舍城故為異。若先作天後作人。則天即是人。旃陀羅即是婆羅門。但是事不然。 譬えば、舎衛国の婆羅門を提婆達と名づくるに、王舎城に到りても亦た、提婆達と名づけ、王舎城に至るを以っての故に、異と為さざるが如く、若し先に天と作りて、後に人と作れば、則ち天は、即ち是れ人なり。旃陀羅は、即ち是れ婆羅門なり。但だ是の事は然らず。
譬えば、
『舎衛国』の、
『婆羅門』が、
『提婆達』と、
『呼ばれていれば!』、
『王舎城』に、
『到っても!』、
亦た、
『提婆達』と、
『呼ばれ!』、
『王舎城』に、
『至った!』が故に、
『異なることがない!』のと、
『同じように!』、
若し、
『先に!』、
『天』と、
『作り!』、
『後に!』、
『人』と、
『作れば!』、
則ち、
『天』は、
『人であり!』、
『婆羅門』は、
『旃陀羅だということになる!』が、
但だ、
是の、
『事』は、
『真実ではない!』。
何以故。天不即是人。旃陀羅不即是婆羅門。有此等常過故。 何を以っての故に、天は、即ち是れ人にあらず、旃陀羅は即ち是れ婆羅門にあらず、此等の常の過有るが故なり。
何故ならば、
『天』は、
『人でなく!』、
『旃陀羅』は、
『婆羅門でない!』という、
此等の
『常の過』が、
『有るからである!』。
若謂先世我不作今我。如人浣衣時名為浣者。刈時名為刈者。而浣者與刈者雖不異。而浣者不即是刈者。 若し、先世の我は、今の我と作らず、と謂わば、人の衣を浣(すす)ぐ時には、名づけて浣ぐ者と為し、刈る時には名づけて、刈る者と為すに、而も浣ぐ者は、刈る者と異ならずと雖も、而も浣ぐ者は、即ち是れ刈る者ならざるが如し。
若し、
こう謂うならば、――
『先世』の、
『我』は、
『今の我』と、
『作らない!』、と。
譬えば、
『人』が、
『衣』を、
『浣(すす)ぐ!』時には、
『浣ぐ者』と、
『呼ばれ!』、
『草』を、
『刈る!』時には、
『刈る者』と、
『呼ばれながら!』、
『浣ぐ者』は、
『刈る者』と、
『異ならない!』のに、
而も、
『浣ぐ者』が、
『刈る者でない!』のと、
『同じである!』。
如是我受天身名為天。我受人身名為人。我不異而身有異者。是事不然。何以故。若即是者。不應言天作人。 是の如く我は、天身を受くれば、名づけて天と為し、我が人身を受くれば、名づけて人と為すも、我は異ならずして、而も身には、異なる者有り。是の事は然らず。何を以っての故に、若し即ち是れならば、応に天は人を作れりと言うべからざればなり。
是のように、
『我』は、
『天の身』を、
『受ければ!』、
『天』と、
『呼ばれ!』、
『我』が、
『人の身』を、
『受ければ!』、
『人』と、
『呼ばれて!』、
『我』は、
『異ならない!』のに、
『身』には、
『異なる者』が、
『有る!』とすれば、
是の、
『事』は、
『事実でない!』。
何故ならば、
若し、
『是の通りだ!』とすれば、
こう言うはずがない、――
『天』が、
『人』を、
『作った!』、と。
  即是(そくぜ):如此。この通り。等しい。
今浣者於刈者。為異為不異。若不異。浣者應即是刈者。如是先世天即是人。旃陀羅即是婆羅門。我亦有常過。 今、浣ぐ者は、刈る者に於いて、異なりと為すや、異ならずと為すや。若し異ならざれば、浣ぐ者は、即ち是れ刈る者なり。是の如くんば、先世の天は、即ち是れ人にして、旃陀羅は、即ち是れ婆羅門なり。我にも亦た常の過有り。
今、
『浣ぐ者』は、
『刈る者』と、
『異なるのか?』、
『異ならないのか?』。
若し、
『異ならなければ!』、
『浣ぐ者』は、
『刈る者』と、
『等しいことになる!』。
是のようであれば、
『先世』の、
『天』は、
『人』に、
『等しく!』、
『旃陀羅』は、
『婆羅門』に、
『等しい!』、
『我』にも、
亦た、
『常の過』が、
『有る!』。
若異者。浣者即不作刈者。如是天不作人。我亦無常。無常則無我相。是故不得言即是。 若し異なれば、浣ぐ者は、即ち刈る者にあらず。是の如き天は、人と作らず、我も亦た無常なり。無常なれば、則ち我相無し。是の故に『即ち是れなり』と言うを得ず。
若し、
『異なる!』とすれば、
『浣ぐ者』は、
『刈る者』に、
『等しくない!』し、
是のようであれば、
『天』が、
『人』と、
『作ることもなく!』、
『我』も、
亦た、
『無常である!』。
若し、
『無常ならば!』、
『我の相』は、
『無い!』、
是の故に、
『等しい!』と、
『言うことはできない!』。
問曰。我即是。但因受故分別是天是人。受名五陰身。以業因緣故分別是天是人是旃陀羅是婆羅門。而我實非天非人。非旃陀羅非婆羅門。是故無如是過。 問うて曰く、我は、即ち是れ、但だ受に因るが故に、是れ天、是れ人なりと分別す。受を、五陰の身と名づけ、業の因縁を用っての故に、是れ天、是れ人、是れ旃陀羅、是れ婆羅門なりと分別するも、而し我は実に天に非ず、人に非ず、旃陀羅に非ず、婆羅門に非ず。是の故に是の如き過無し。
問い、
『我』とは、
即ち、
是れである、――
但だ、
『受』に、
『因る!』が故に、
是れは、
『天である!』とか、
是れは、
『人である!』と、
『分別され!』、
『受』という、
『五陰』の、
『身』が、
『業の因縁』の故に、
是れは、
『天である!』、
是れは、
『人である!』、
是れは、
『旃陀羅である!』、
是れは、
『婆羅門である!』と、
『分別される!』が、
而し、
『我』は、
『天でもなく!』、
『人でもなく!』、
『旃陀羅でもなく!』、
『婆羅門でもない!』。
是の故に、
是のような、
『過』は、
『無い!』。
答曰。是事不然。何以故。若身作天作人。作旃陀羅作婆羅門。非是我者。則離身別有我。 答えて曰く、是の事は然らず。何を以っての故に、若し身が、天と作り、人と作り、旃陀羅と作り、婆羅門と作りて、是れ我に非ざれば、則ち身を離れて、別に我有ればなり。
答え、
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
何故ならば、
若し、
『身』が、
『天と作り!』、
『人と作り!』、
『旃陀羅と作り!』、
『婆羅門と作りながら!』、
是れが、
『我でない!』とすれば、
則ち、
『身』を、
『離れて!』、
『別に!』、
『我』が、
『有ることになる!』。
今罪福生死往來。皆是身非是我。罪因緣故墮三惡道。福因緣故生三善道。 今、罪福と、生死の往来は、皆、是れ身にして、是れ我の罪の因縁の故に、三悪道に墜ち、福の因縁の故に、三善道に生ずるに非ず。
今、
『罪福』や、
『生死の往来』は、
皆、
是れは、
『身』の、
『罪福であり!』、
『身』が、
『生死』を、
『往来するのであって!』、
是れは、
『我』が、
『罪の因縁』の故に、
『三悪道』に、
『堕ちるのでもなく!』、
『福の因縁』の故に、
『三善道』に、
『生じるのでもない!』。
若苦樂瞋喜憂怖等。皆是身非我者。何用我為。 若し苦楽、瞋喜、憂怖等は、皆是れ身にして、我に非ざれば、何をか我を用いて為さんや。
若し、
『苦楽』や、
『瞋喜』や、
『憂怖』等が、
皆、
『身であり!』、
『我でない!』とすれば、
何の為に、
『我』を、
『用いるのか?』。
如治俗人罪。不豫出家人。五陰因緣相續罪福不失故有解脫。若皆是身非我者。何用我為。 俗人の罪を治すれば、出家人を予(よろこ)ばざるが如く、五陰の因縁相続して、罪福の失われざるが故に、解脱有り。若し、皆是の身にして、我に非ざれば、何んが我を用いて為さんや。
譬えば、
『俗人』として、
『罪』を、
『治した!』者は、
『出家人』と、
『作る!』ことを、
『欲しない!』ように、
『五陰』の、
『因縁』が、
『相続して!』、
『罪、福』が、
『失われない!』が故に、
『解脱』が、
『有る!』。
若し、
皆、
是の、
『身』が、
『我でなければ!』、
何の為に、
『我』を、
『用いるのか?』。
  (よ):快楽/安楽( happy, comfortable )、参与/あずかる( take part in )、欲する( want )、預先/あらかじめ( in advance )。
問曰。罪福等依止於我。我有所知身無所知故。知者應是我。 問うて曰く、罪福等は、我に依止す。我には知る所有り、身には知る所無きが故に、知る者は、応に是れ我なるべし。
問い、
『罪福』等は、
『我』に、
『依止する!』。
『我』には、
『知る!』所が、
『有る!』が、
『身』には、
『知る!』所が、
『無い!』が故に、
『知る!』者は、
『我でなくてはならない!』。
起業因緣罪福是作法。當知應有作者。作者是我。身是我所用。亦是我所住處。 業の因縁を起すに、罪福は是れ作法なり。当に知るべし、応に作者有るべし。作者とは、是れ我なり、身は是れ我の用うる所なり、亦た是れ我の所住の処なり。
『業』の、
『因縁』を、
『起す!』が故に、
『結果』としての、
『罪福』は、
『作法である!』。
当然、
こう知るべきだ、――
『作者』が、
『有るはずだ!』と。
『作者』とは、
是れが、
『我である!』。
『身』とは、
『我』に、
『用いられるものであり!』、
亦た、
『我』の、
『住処でもある!』。
譬如舍主以草木泥墼等治舍。自為身故隨所用治舍有好惡。我亦如是。隨作善惡等得好醜身。六道生死皆我所作。 譬えば、舎主は、草、木、泥、墼等を以って、舎を治するに、自ら身の為の故に、用うる所に隨いて、舎を治するに、好悪有るが如し。我も亦た是の如く、善悪等を作すに随いて、好醜の身を得。六道の生死は、皆我の作す所なり。
譬えば、
『舎(家屋)』の、
『主』が、
『草、木、泥、墼』等を、
『用いて!』、
『舎』を、
『修治する!』とき、
『自ら!』の、
『身』の、
『用いる!』所に、
『随って!』、
『舎』を、
『修治する!』が故に、
『舎』が、
『修治された!』時には、
『好悪』の、
『別』が、
『有る!』。
『我』も、
亦た、
是のように、
『善悪』等を、
『作す!』に、
『随って!』、
『好醜』の、
『身』を、
『受けることになり!』、
『六道の生死』は、
皆、
『我』の、
『所作である!』。
  (げき):未だ焼を経ざる煉瓦( unburned brick )、他本に従う。底本は塈、塗る/飾る( paint, decorate )の義。
是故罪福之身皆屬於我。譬如舍但屬舍主不屬他人。 是の故に、罪福の身は、皆、我に属す。譬えば、舎の但だ舎主に属して、他人に属さざるが如し。
是の故に、
『罪福の身』は、
皆、
『我』に、
『属する!』。
譬えば、
『舎』が、
『舎』の、
『主のみ!』に、
『属して!』、
『他人』に、
『属さない!』のと、
『同じである!』。
答曰。是喻不然。何以故。舍主有形。有觸有力故能治舍。 答えて曰く、是の喻は然らず。何を以っての故に、舎主は形有り、触有り、力有るが故に能く舎を治すればなり。
答え、
是の、
『喻』は、
『間違っている!』。
何故ならば、
『舎主』には、
『形』が、
『有り!』、
『触』が、
『有り!』、
『力』が、
『有る!』が故に、
『舎』を、
『修治できるからだ!』。
汝所說我無形無觸故無作力。自無作力亦不能使他作。 汝が所説の我は、形無く、触無きが故に、作力無し。自ら作力無ければ、亦た他をして作さしむる能わず。
お前の、説いた、――
『我』には、
『形』も、
『無く!』、
『触』も、
『無く!』、
『力』も、
『無い!』。
『自ら!』に、
『作る!』、
『力』が、
『無ければ!』、
『他人』に、
『作らせることはできない!』。
若世間有一法無形無觸能有所作者。則可信受知有作者。但是事不然。 若し世間に、一法の形無く、触無くして、能く所作有る者有らば、則ち信受して、作者有るを知るべし。但だ是の事は然らず。
若し、
『世間』に、
『形』も、
『触』も、
『無い!』のに、
何かを、
『作すことのできる!』者が、
『一法』でも、
『有れば!』、
則ち、
『作者』が、
『有る!』と、
『信受して!』、
『知るだろう!』が、
但だ、
是の、
『事』は、
『真実ではない!』。
若我是作者。則不應自作苦事。 若し我は是れ作者なれば、則ち応に自ら苦事を作すべからず。
若し、
『我』が、
『作者』ならば、
『自ら!』、
『苦しめる!』ような、
『事』を、
『作すはずがない!』。
若是念者。可貪樂事不應忘失。 若し是れ念者なれば、貪るべき楽事を、応に忘失すべからず。
若し、
『我』が、
『念者』ならば、
『貪るべき!』、
『楽事』を、
『失念するはずがない!』。
若我不作苦而苦強生者。餘一切皆亦自生。非我所作。 若し我苦を作さざるに、苦強いて生ぜば、余の一切は、皆亦た自ら生じて、我の所作に非ざらん。
若し、
『我』が、
『苦』を、
『作らない!』のに、
『苦』が、
『強いて!』、
『生じる!』とすれば、
他の、
『一切』も、
皆、
『自ら!』を、
『生じる!』ので、
則ち、
『我』の、
『所作ではないだろう!』。
若見者是我。眼能見色眼應是我。 若し見者是れ我ならば、眼は能く色を見るに、眼は応に是れ我なるべし。
若し、
『見者』が、
『我だ!』とすれば、
『眼』は、
『色』を、
『見ることができる!』ので、
『眼』が、
『我でなくてはならない!』。
若眼見而非我。則違先言見者是我。 若し眼は見るも、我に非ざれば、則ち先の言わく、『見者は、是れ我なり』、に違う。
若し、
『眼』が、
『見る!』のに、
『我でない!』とすれば、
先に、言った、――
『見者』は、
『我である!』と、
『違うことになる!』。
若見者是我。我則不應得聞聲等諸塵。何以故。眼是見者。不能得聞聲等塵故。是故我是見者。是事不然。 若し見者は、是れ我ならば、我は、則ち応に声等の諸塵を聞くを得べからず。何を以っての故に、眼が、是れ見者ならば、声等の諸塵を聞くを得る能わざるが故なり。是の故に我は、是れ見者なりとは、是の事然らず。
若し、
『見者』が、
『我だ!』とすれば、
『我』は、
『声等の諸塵』を、
『聞くことができないはずだ!』。
何故ならば、
『眼』が、
『見者だ!』とすれば、
『声等の塵』を、
『聞くことができないからだ!』、
是の故に、
『我』が、
『見者だ!』とすれば、
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
若謂如刈者用鎌刈草。我亦如是以手等能有所作者。是事不然。何以故。今離鎌別有刈者。而離身心諸根無別作者。 若し『刈る者の、鎌を用いて草を刈るが如く、我も亦た是の如く、手等を以って、能く所作有り』、と謂わば、是の事は然らず。何を以っての故に、今、鎌を離れて別に刈る者有り、而るに身心諸根を離れて、別の作者無ければなり。
若し、こう謂えば、――
譬えば、
『刈る者』が、
『鎌』を、
『用いて!』、
『草』を、
『刈るように!』、
『我』も、
是のように、
『手』等を、
『用いて!』、
何かを、
『作すことができる!』、と。
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
何故ならば、
今、
『鎌』を、
『離れて!』、
『別に!』、
『刈る者』が、
『有る!』が、
而し、
『身、心、諸根』を、
『離れて!』、
『別の!』、
『作者』は、
『無いからである!』。
若謂作者雖非眼耳等所得亦有作者。則石女兒能有所作。如是一切諸根皆應無我。 若し、『作者は、眼耳等に非ずと雖も、所得は亦た有り』と謂わば、作者は、則ち石女の児にも、能く所作有らん。是の如き一切の諸根は、皆、応に無我なるべし。
若し、こう謂うならば、――
『作者』は、
『眼、耳等ではない!』が、
『所得』は、
『それでも!』、
『有る!』、と。
『作者』とは、
『石女(うまずめ)』の、
『児であり!』、
何かを、
『作す!』ことも、
『可能だろう!』。
是のように、
一切の、
『諸根』に、
皆、
『我』は、
『存在しない!』。
若謂右眼見物而左眼識。當知別有見者。是事不然。今右手習作左手不能。是故無別有作者。若別有作者。右手所習左手亦應能。而實不能。是故更無作者。 若し、『右眼物を見るに、而も左眼識れば、当に知るべし、別に見者有り』、と謂わば、是の事然らず。今、右手作を習うも、左手は能わず。是の故に、別に作者有ること無し。若し別に作者有らば、右手の習う所を、左手も亦た応に能くすべし。而るに実に能わず。是の故に更に作者無し。
若し、こう謂うならば、――
『右眼』が、
『物』を、
『見た!』のに、
『左眼』が、
『識っている!』ということは、
当然、こう知るべきだ、――
別に、
『見者』が、
『有るのだ!』、と。
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
今、
『右手』が、
『作る!』ことを、
『習った!』としても、
『左手』には、
『作れないからだ!』。
是の故に、
別に、
『作者』は、
『存在しない!』。
若し、
別の、
『作者』が、
『有れば!』、
『右手』の、
『習った!』、
『事』は、
亦た、
『左手』にも、
『出来るはずだ!』が、
而し、
『実には!』、
『出来ない!』。
是の故に、
更に、
『作者』は、
『存在しない!』。
復次有我者言。見他食果口中涎出。是為我相。是事不然。何以故。是念力故非是我力。又亦即是破我因緣。人在眾中愧於涎出。而涎強出不得自在。當知無我。 復た次ぎに、我有りとする者、『他の果を食するを見て、口中に涎出づるは、是れ我の相なり』、と言わば、是の事然らず。何を以っての故に、是れ念の力の故にして、是れ我の力に非ざればなり。又亦た即ち是れ我の因縁を破るなり。人は、衆中に在りて、涎の出づるを愧(は)づるに、涎の強いて出づるは、自在を得ざればなり、当に知るべし、無我なるを。
復た次ぎに、
『我』は、
『有る!』とする者が、こう言う、――
『他人』が、
『果』を、
『食っている!』のを、
『見る!』と、
『口』中に、
『涎』が、
『出てくる!』が、
是れが、
『我』の、
『相である!』、と。
是の、
『事』は、
『真実ではない!』。
何故ならば、
是れは、
『念』の、
『力ではある!』が、
是れは、
『我』の、
『力ではないからである!』。
又亦た、
是れは、
『我』の、
『因縁』を、
『破ることにもなる!』。
謂わゆる、
『人』は、
『衆中』に於いて、
『涎』が、
『出る!』のを、
『恥じる!』のに、
『涎』が、
『強いて!』、
『出たとすれば!』、
『自在ではないからである!』。
当然、
こう知らなくてはならない、――
『我』は、
『存在しない!』、と。
復次又有顛倒過罪。先世是父今世為子。是父子我一。但身有異。 復た次ぎに、又顛倒の過罪有り。先世は是れ父、今世を子と為すに、是の父子の我は一にして、但だ身にのみ異有ればなり。
復た次ぎに、
又、
『顛倒』の、
『過罪』が、
『有る!』、――
若し、
『先世』が、
『父であり!』、
『今世』が、
『子である!』として、
是の、
『父』と、
『子』は、
『我』が、
『一である!』のに、
但だ、
『身』のみに、
『異』が、
『有るからである!』。
如從一舍至一舍。父故是父。不以入異舍故便有異。 一舎より、一舎に至るも、父は故(もと)より是れ父にして、異舍に入るを以っての故に、便(すなわ)ち異有らざるが如し。
譬えば、これと同じである、――
『一舎』より、
『一舎』に、
『至っても!』、
『父』は、
『故(もと)のまま!』の、
『父であり!』、
『異なった!』、
『舎』に、
『入る!』が故に、
『父』に、
『異なり!』が、
『有ることにはならない!』。
若有我是二應一。如是則有大過。 若し我有らば、是の二は応に一なるべし。是の如きは則ち大過有り。
若し、
『我』が、
『有る!』とすれば、
是の、
『父』と、
『子』の、
『二』は、
『一でなければならない!』が、
是の通りならば、
則ち、
『大過』が、
『有るだろう!』。
若謂無我五陰相續中亦有是過。是事不然。何以故。五陰雖相續。或時有用或時無用。 若し、『我無くして、五陰相続する中にも、亦た是の過有り』、と謂わば、是の事は然らず。何を以っての故に、五陰は、相続すと雖も、或は時に、用有り、或は時に、用無し。
若し、こう謂えば、――
『我』が、
『無ければ!』、
『五陰』が、
『相続する!』中にも、
是の、
『過(父子即一)』が、
『有る!』、と。
是の、
『事』も、
『真実ではない!』。
何故ならば、
『五陰』が、
『相続しても!』、
或は、
時に、
『用(機能 function )』が、
『有り!』、
或は、
時に、
『用』が、
『無いからである!』。
如蒲桃漿持戒者應飲蒲桃酒不應飲。若變為苦酒還復應飲。五陰相續亦如是。有用有不用。 蒲桃の漿を、持戒者は応に飲むべく、蒲桃の酒は、応に飲むべからず、若し変じて苦酒と為れば、還って復た応に飲むべきが如く、五陰の相続も亦た是の如く、用有り、用ならざる有り。
譬えば、
『蒲桃』の、
『漿( Juice )』は、
『持戒者』が、
『飲む!』に、
『適し!』、
『蒲桃』の、
『酒』は、
『持戒者』が、
『飲む!』には、
『適さない!』が、
若し、
『変じて!』、
『苦酒()』に、
『為れば!』、
復た、
『飲む!』に、
『適するようになるように!』、
『五陰の相続』にも、
是のように、
『用(働きが有る!)』と、
『不用(働きが無い!)』が、
『有る!』。
若始終一我有如是過。五陰相續無如是過。但五陰和合故假名為我無有決定。 若し始終一我なれば、是の如きの過有るも、五陰の相続には、是の如き過無し。但だ五陰和合の故に、仮名して我と為し、決定有ること無し。
若し、
『始め!』より、
『終り!』まで、
『一我だ!』とすれば、
是のような、
『過』が、
『有る!』が、
『五陰』の、
『相続する!』中には、
是のような、
『過』は、
『無い!』。
但だ、
『五陰』の、
『和合』の故に、
仮に、
『我』と、
『呼んでいる!』が、
決定した、
『我』は、
『存在しない!』。
如樑椽和合有舍。離樑椽無別舍。如是五陰和合故有我。若離五陰實無別我。是故我但有假名無有定實。 梁と椽と和合すれば、舎有るも、梁と椽とを離るれば、別に舎無きが如し。是の如く五陰の和合の故に、我有り。若し五陰を離るれば、実に別の我無し。是の故に我は、但だ仮名のみ有り、定実有ること無し。
譬えば、
『梁(ハリ)』と、
『椽(タルキ)』とが、
『和合すれば!』、
『舎』が、
『有る!』が、
『梁』と、
『椽』とを、
『離れれば!』、
別に、
『舎』は、
『無いように!』、
是のように、
『五陰』が、
『和合する!』が故に、
『我』が、
『有り!』、
若し、
『五陰』を、
『離れれば!』、
実に、
別の、
『我』は、
『存在しない!』。
是の故に、
『我』には、
但だ、
『仮名』のみが、
『有り!』、
定まった、
『実』は、
『存在しない!』。
汝先說離受別有受者。以受分別受者是天是人。是皆不然。當知但有受無別受者。 汝が先に説かく、『受を離れて別に受者有り、受を以って、受者を是れ天なり、是れ人なりと分別す』、と。是れは皆然らず。当に知るべし、但だ受有りて、別の受者無し。
お前は、
先に、こう説いた、――
『受()』を、
『離れて!』、
『別に!』、
『受者()』が、
『有り!』、
『受』を、
『用いて!』、
是れは、
『天だ!』とか、
是れは、
『人だ!』と、
『分別する!』、と。
是れは、
皆、
『間違っている!』。
当然、こう知るべきだ、――
但だ、
『受』のみが、
『存在して!』、
別の、
『受者』は、
『存在しない!』、と。
若謂離受別有我。是事不然。若離受有我。云何可得說是我相。 若し、『受を離れて別に我有り』、と謂わば、是の事は然らず。若し受を離れて、我有らば、云何が、『是れ我の相なり』と説くを得べき。
若し、こう謂えば、――
『受』を、
『離れて!』、
『別に!』、
『我』が、
『有る!』、と。
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
若し、
『受』を、
『離れて!』、
『我』が、
『有れば!』、
何故、こう説くことができるのか?――
是れが、
『我の相である!』、と。
若無相可說。則離受無我。若謂離身無我但身是我。是亦不然。何以故。身有生滅相。我則不爾。 若し相の可説無ければ、則ち受を離れて、我無し。若し『身を離れて、我無し。但だ身、是れ我なるのみ』、と謂わば、是れも亦た然らず。何を以っての故に、身には、生滅の相有るも、我は則ち爾らざればなり。
若し、
『説くことのできる!』、
『相』が、
『無ければ!』、
『受』を、
『離れた!』、
『我』も、
『無いことになる!』。
若し、こう謂うならば、――
『身』を、
『離れて!』、
『我』は、
『無い!』が、
但だ、
『身』が、
『我なのだ!』、と。
是れも、
亦た、
『真実でない!』。
何故ならば、
『身』には、
『生、滅の相』が、
『有る!』が、
『我』には、
『相』が、
『無いからだ!』。
復次云何以受即名受者。若謂離受有受者。是亦不然。 復た次ぎに、云何が、受を以って、即ち受者と名づくる。若し『受を離れて、受者有り』、と謂わば、是れも亦た然らず。
復た次ぎに、
何故、
『受』を、
『用いて!』、
それを、
『受者』と、
『呼べるのか?』。
若し、こう謂うならば、――
『受』を、
『離れて!』、
『受者』が、
『有る!』、と。
是れも、
亦た、
『間違っている!』。
若不受五陰而有受者。應離五陰別有受者。 若し五陰を受けずして、受者有らば、応に五陰を離れて、別に受者有るべし。
若し、
『五陰』を、
『受けない!』で、
『受者』が、
『有れば!』、
『五陰』を、
『離れて!』、
『別に!』、
『受者』が、
『有るはずだ!』。
眼等根可得而實不可得。是故我不離受。不即是受。亦非無受。亦復非無。此是定義。 眼等の根は得べくして、而も実に得べからず。是の故に、我は、受を離れず、即ち是れ受にあらず、亦た受無きに非ず、又復た無なるに非ず。此れは是れ定義なり。
『眼等の根』は、
『認識できるようでいて!』、
『実は!』、
『認識できない!』。
是の故に、
『我』は、
『受』を、
『離れず!』、
『我』が、
即ち、
『受だということもなく!』、
『我』には、
『受』が、
『無いでもなく!』、
亦復た、
『我』が、
『無いでもない!』、
此れが、
是の、
『定まった!』、
『義である!』。
是故當知。過去世有我者。是事不然。 是の故に当に知るべし、過去世に我有らば、是の事は然らず。
是の故に、
こう知らなくてはならない、――
『過去世』に、
『我』が、
『有った!』とすれば、
是の、
『事』は、
『間違っている!』、と。
何以故
 過去我不作  是事則不然 
 過去世中我  異今亦不然 
 若謂有異者  離彼應有今 
 我住過去世  而今我自生 
 如是則斷滅  失於業果報 
 彼作而此受  有如是等過 
 先無而今有  此中亦有過 
 我則是作法  亦為是無因
何を以っての故に、
過去の我は作さず、是の事は則ち然らず、
過去世中の我は、今と異なりも亦た然らず。
若し異有りと謂わば、彼れを離れて応に今有るべし、
我は過去世に住まりて、而も今の我自ら生ぜん。
是の如きは則ち断滅にして、業の果報を失う、
彼れ作して此れ受くる、是の如き等の過有り。
先に無くして今有り、此の中にも亦た過有り、
我は則ち是れ作法にして、亦た是れを無因と為す。
何故ならば、
『過去』の、
『我』が、
『今の我』に、
『作った!』とすれば、
是の、
『事』は、
『真実でない!』。
『過去世』中の、
『我』が、
『今の我』と、
『異なる!』としても、
亦た、
『真実でない!』。
若し、こう謂うならば、――
『過去』の、
『我』は、
『今の我』と、
『異』が、
『有る!』、と。
彼の、
『過去』の、
『我』を、
『離れて!』、
『今の我』が、
『有り!』、
『過去』の、
『我』が、
『過去世』に、
『住まったまま!』で、
『今の我』が、
『自ら!』、
『生じるはずだ!』。
若し、是の通りならば、――
『断滅であり!』、
『業』の、
『果報』を、
『失うだろう!』、――
則ち、
『彼れ!』が、
『業』を、
『作して!』、
而も、
『此れ!』が、
『報』を、
『受ける!』という、
是のような、
『過』が、
『有るだろう!』。
若し、
『先に!』、
『無かった!』、
『我』が、
『今!』、
『有る!』とすれば、
此の中にも、
『過』が、
『有る!』、
『我』とは、
則ち、
『作られた!』、
『法である!』、
是れに、
『因』が、
『無いというのか!』。
  不作(ふさ):梵語 na-abhuum の訳、我作 abhuum ( I do, I become )の否定。
参考
nābhūm atītam adhvānam ity etan nopapadyate |
yo hi janmasu pūrveṣu tato ’nyo na bhavaty ayam ||9||
It is incorrect to say: “I did not occur at a time in the past.”
Whatever occurred before, this is not other than that.

yadi hy ayaṃ bhaved anyaḥ pratyākhyāyāpi taṃ bhavet |
tathaiva ca sa saṃtiṣṭhet tatra jāyeta cāmṛtaḥ ||10||
If this were other, it would arise even without that.
Likewise, that could remain and be born without dying in that [former life].

ucchedaḥ karmaṇāṃ nāśaḥ kṛtam anyena karma ca |
pratisaṃvedayed anya evam ādi prasajyate ||11||
Cut off and actions wasted,
acts committed by others would be experienced by someone else.
Such would be the consequences.

nāpy abhūtvā samudbhūto doṣo hy atra prasajyate |
kṛtako vā bhaved ātmā saṃbhūto vāpy ahetukaḥ ||12||
There is no occurence from what has not occured.
In that case faults would follow:
the self would be something made
or even though it occured it would be uncaused.

参考
To say ‘The self did not arise in the past’
Is also inadmissible.
That very one which arose in past lives
Is not different from this one.

If this one were different
It would arise even without that self.
Similarly, that one would remain
And without it dying, this one would be born.

Annihilation, wasted actions,
Actions done by someone
Being experienced by someone else
And so forth would follow.

It does not arise from being non-arisen
Because faults would follow from this.
The self would be made
And it would arise without a cause.

参考
「過去世に私は存在しなかった」ということは,成り立たない。なぜならば,およそ,多くの前世(前生)におけるものからは異なったものが,これ(いまの私)である,ということはないからである。」

もしもこれ(いまの私)が〔前世の私と〕異なっているとするならば,それ(前世の私)を排除してもまた,〔これ(いまの私)は〕存在する,ということになるであろう。それならば, それ(前世の私)はそのまま存續するであろう,あるいはそこでは,まだ死なない〔のにその〕ものが生まれる,ということになるであろう。

〔その場合には〕,断滅,もろもろの業の〔果報を生じない〕滅失,また,他人によってつくられたもろもろの業が,別の他人によって受用されるであろうことなど,このような誤りが付随する。

〔我(アートマン)は〕,先には存在していなくて,いま生起した,ということはない。なぜならば,そうであれば,誤りが付随するからである。すなわち,あるいは,我(アートマン)はつくられたものとなるであろう。あるいは,原因が無くて生起したもの〔となるであろう〕。
過去世中我。不作今我。是事不然。何以故。過去世中我。與今我不異。若今我與過去世我異者。應離彼我而有今我。 過去世中の我は、今の我と作らず、是の事は然らず。何を以っての故に、過去世中の我は、今の我と異ならざればなり。若し今の我が、過去世の我と異ならば、応に彼の我を離れて、而も今の我有るべし。
『過去世』中の、
『我』が、
『今の我』と、
『作らない!』とすれば、
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
何故ならば、
『過去世』中の、
『我』は、
『今の我』と、
『異ならないからだ!』。
若し、
『今の我』が、
『過去世』の、
『我』と、
『異なれば!』、
彼の、
『過去世』の、
『我』を、
『離れても!』、
『今の我』が、
『有るはずだ!』。
又過去世我。亦應住彼此身自更生。若爾者即墮斷邊。失諸業果報。又彼人作罪此人受報。有如是等無量過。 又過去世の我も、亦た応に彼に住まり、此の身は自ら更に生ずべし。若し爾らば、即ち断の辺に墮ち、諸業の果報を失わん。又彼の人は罪を作り、此の人は報を受くる、是の如き等の無量の過有らん。
又、
『過去世』の、
『我』も、
彼の、
『過去世』に、
『住まり!』、
此の、
『今の我』は、
自ら、
『更に!』、
『生じるはずである!』。
若し、
爾うならば、
即ち、
『断滅の辺』に、
『墮ちて!』、
諸の、
『業の果報』を、
『失うだろう!』。
又、
彼の、
『過去世の人』が、
『罪』を、
『作り!』、
此の、
『今の人』が、
『報』を、
『受ける!』という、
是れ等のような、
無量の、
『過』が、
『有るだろう!』。
又是我應先無而今有。是亦有過。我則是作法。亦是無因生。是故過去我。不作今我。是事不然。 又是の我は、応に先に無くして、今有るべし、是れも亦た過有り。我は、則ち是れ作法にして、亦た是れ無因の生なり。是の故に過去の我は、今の我と作らずとは、是の事然らず。
又、
是の、
『我』は、
『先に!』は、
『無くて!』、
『今!』、
『有る!』とすれば、
是れも、
『過』が、
『有る!』。
是の、
『我』が、
則ち、
『作られた!』、
『法でありながら!』、
亦た、
『無因』の、
『生だからである!』。
是の故に、
『過去』の、
『我』は、
『今の我』と、
『作らない!』とすれば、
是の、
『事』は、
『正しくない!』。
復次
 如過去世中  有我無我見 
 若共若不共  是事皆不然
復た次ぎに、
過去世中の、有我と無我の見、
若しは共若しは不共の如き、是の事は皆然らず。
復た次ぎに、
例えば、
『過去世』中に、
『我』は、
『有るのか?』、
『無いのか?』、
『有ることもあり、無いこともあるのか?』、
『有ることもなく、無いこともないのか?』、
是の、
『事』は、
皆、
『間違っている!』。
参考
evaṃ dṛṣtir atīte yā nābhūm aham abhūm aham |
ubhayaṃ nobhayaṃ ceti naiṣā samupapadyate ||13||
Therefore, “the self occured, did not occur, both or neither:”
all those views of the past are invalid.

参考
Thus, those views
‘The self arose in the past’,
‘The self did not arise’, ‘both’ or ‘neither’
Are inadmissible.

参考
このようにして,およそ,「過去〔世〕に私は存在しなかった」,「私は存在した」,「その両者である」,「その両者ではない」という,この〔誤りの〕見解は成り立たない。
如是推求過去世中邪見有無。亦有亦無。非有非無。是諸邪見。先說因緣過故。是皆不然 是の如く推求するに、過去世中に邪に有、無、亦有亦無、非有非無を見れば、是の諸の邪見は、先に因縁を説ける過の故に、是れ皆然らず。
是のように、推求すると、――
『過去世』中に、
『邪に!』、
『有る!』とか、
『無い!』とか、
『有ることもあり、無いこともある!』とか、
『有ることもなく、無いこともない!』と、
『見る!』とすれば、
是の、
諸の、
『邪見』は、
先に、
『因縁』を、
『説いたような!』、
『過』の故に、
是れは、
皆、
『真実でない!』。
 我於未來世  為作為不作 
 如是之見者  皆同過去世
我は未来世に於いて、作と為すや不作と為すや、
是の如きの見は、皆過去世に同じ。
『我』は、
『未来世』に於いて、
『作るのか(生起するのか)?』、
『作らないのか(生起しないのか)?』、
是のような、
『見』は、
皆、
『過去世』と、
『同じだ!』。
参考
adhvany anāgate kiṃ nu bhaviṣyāmīti darśanam |
na bhaviṣyāmi cety etad atītenādhvanā samam ||14||
“I will occur at another time in the future,”
“I will not occur:”
all those views are similar to [those of] the past.

参考
Those views
‘It will arise again in the future’
Or ‘It will not arise again in the future’
Are similar to the views of the past.

参考
「未来世に私は存在するであろう」といい,また「存在しないであろう」という,この見解は,〔以上の〕過去世〔に関するもの〕と同樣である。
我於未來世中。為作為不作。如是四句。如過去世中過咎。應在此中說。 我は、未来世中に、作と為すや、不作と為すや。是の如き四句は、過去世中の過咎の如く、応に此の中に在りて説くべし。
『我』は、
『未来世』中に、
『作るのか?』、
『作らないのか?』、
是のような、
『四句』は、
『過去世』中の、
『過咎』と、
『同じように!』、
此の中に於いて、
『説かれるはずだ!』。
復次
 若天即是人  則墮於常邊 
 天則為無生  常法不生故
復た次ぎに、
若し天即ち是れ人ならば、則ち常の辺に墮つ、
天則ち無生、常法にして不生と為るが故なり。
復た次ぎに、
若し、
『天』が、
即ち、
『人だ!』とすれば、
則ち、
『常の辺』に、
『堕ちるだろう!』。
何故ならば、
『天』が、
『無生となり!』、
『常法となり!』、
『不生となるからだ!』。
参考
sa devaḥ sa manuṣyaś ced evaṃ bhavati śāśvatam |
anutpannaś ca devaḥ syāj jāyate na hi śāśvatam ||15||
If the divine were human,
then there would be something permanent.
The divine is utterly unborn,
because there is no birth in permanence.

参考
If the god were the human
In that case, the god would be permanent.
The god would be unborn
Because the permanent are not produced.

参考
もしもかの神(天)〔であった〕ものが,そのままこの人間であるとするならば,それならば,常住〔の邪見〕が存在することになる。また,神は生ずることのないものとなるであろう。なぜならば,常住のものは生ずることがないからである。
若天即是人。是則為常。若天不生人中。云何名為人。常法不生故。常亦不然。 若し天は、即ち是れ人ならば、是れを則ち常と為す。若し天にして、人中に生ぜずんば、云何が名づけて、人と為さん。常法は不生なるが故に、常も亦た然らず。
若し、
『天』が、
即ち、
『人だ!』とすれば、
是れは、
『常である!』。
若し、
『天』が、
『人』中に、
『生じなければ!』、
何故、
『人』と、
『呼ばれるのか?』。
『常』の、
『法』は、
『生じない!』が故に、
『常』も、
亦た、
『正しくない!』。
復次
 若天異於人  是即為無常 
 若天異人者  是則無相續
復た次ぎに、
若し天は人と異なれば、是れを即ち無常と為す、
若し天にして人と異なれば、是れ則ち相続無し。
復た次ぎに、
若し、
『天』が、
『人』と、
『異なる!』とすれば、
是れは、
即ち、
『無常である!』。
若し、
『天』が、
『人』と、
『異なれば!』、
是れには、
『相続』が、
『無いからだ!』。
参考
devād anyo manuṣyaś ced aśāśvatam ato bhavet |
devād anyo manuṣyaś cet saṃtatir nopapadyate ||16||
If the human were other than the divine,
then there would be no permanence.
If the divine and the human were different,
there could be no continuity [between them].

参考
If the human were different from the god
In that case, the human would be impermanent.
If the god and the human were different
A continuum would be inadmissible.

参考
もしも人間が神(天)からは異なっているとするならば,それから,非常住〔の邪見〕が存在することになるであろう。もしも人間が神からは異なっているとするならば,連續 (相續) ということは,成り立たないことになるであろう。
若天與人異。則為無常。無常則為斷滅等過。如先說過。若天與人異。則無相續。若有相續。不得言異。 若し天と人と異なれば、則ち無常と為す。無常なれば、則ち断滅等の過有り。先に過を説けるが如く、若し天と人と異なれば、則ち相続無し。若し相続有らば、『異なり』と言うを得ざればなり。
若し、
『天』が、
『人』と、
『異なる!』とすれば、
則ち、
『天』は、
『無常であり!』、
若し、
『無常ならば!』、
則ち、
『断滅等の過である!』。
例えば、
先に、
『説いた!』、
『過のように!』、
若し、
『天』が、
『人』と、
『異なれば!』、
則ち、
『相続』が、
『無いことになる!』。
若し、
『相続』が、
『有れば!』、
『異なる!』とは、
『言えないからだ!』。
復次
 若半天半人  則墮於二邊 
 常及於無常  是事則不然
復た次ぎに、
若し半ば天半ば人ならば、則ち二辺に堕せん、
常及び無常に於いて、是の事は則ち然らず。
復た次ぎに、
若し、
『天』が、
『半分!』、
『人』が、
『半分!』ならば、
則ち、
『常』が、
『半分!』、
『無常』が、
『半分!』という、
『二辺』に、
『堕ちる!』が、
是のような、
『事』は、
『正しくない!』。
参考
divyo yady ekadeśaḥ syād ekadeśaś ca mānuṣaḥ |
aśāśvataṃ śāśvataṃ ca bhavet tac ca na yujyate ||17||
If one part were divine and one part were human,
there would be both permanence and no permanence.
But that is not reasonable.

参考
If one part were a god
And one part were a human
There would be both permanence and impermanence.
That too is not tenable.

参考
もしも一部分が神(天)に属し,一部分が人間に属する,とするならば,非常住と常住とが〔同時に〕存在することになるであろう。しかし,それは正しくない。
若眾生半身是天。半身是人。若爾則有常無常。半天是常。半人是無常。但是事不然。何以故。一身有二相過故。 若し衆生の半身は是れ天、半身は是れ人なれば、若し爾らば、則ち有常無常なり。半天は、是れ常、半人は是れ無常なればなり。但だ是の事は然らず。何を以っての故に、一身に二相有る過の故なり。
若し、
『衆生』の、
『半身』が、
『天!』、
『半身』が、
『人!』ならば、
若し、
爾うならば、
『有常無常である!』、
何故ならば、
『半分』の、
『天』は、
『常であり!』、
『半分』の、
『人』は、
『無常だからである!』。
但だ、
是の、
『事』は、
『間違っている!』、
何故ならば、
『一身』に、
『二相を有する!』という、
『過失が有る!』。
復次
 若常及無常  是二俱成者 
 如是則應成  非常非無常
復た次ぎに、
若し常及び無常の、是の二倶に成ぜば、
是の如きは則ち、非常非無常を成ずべし。
復た次ぎに、
若し、
『常』と、
『無常』という、
是の、
『二』が、
『いっしょに!』、
『成立する!』ならば、
是のようなものは、
『非常』と、
『非無常』も、
『いっしょに!』、
『成立するはずだ!』。
参考
aśāśvataṃ śāśvataṃ ca prasiddham ubhayaṃ yadi |
siddhe na śāśvataṃ kāmaṃ naivāśāśvatam ity api ||18||
If both permanence and impermanence were established,
you would have to assert non-permanence and non-impermance as established.

参考
If being both permanent and impermanent
Were established
This would rely on accepting that
Being neither permanent nor impermanent could be established.

参考
もしも非常住と常住との両者が〔同時に〕成立する,とするならば,「常住でもなく,非常住でもない」ということもまた,随意に,成立することになるであろう。
若常無常二俱成者。然後成非常非無常。與常無常相違故。 若し常と無常との二、倶に成ぜば、然る後には、非常非無常成ぜん。常無常と相違するが故なり。
若し、
『常』と、
『無常』という、
『相違する!』、
『二』が、
『いっしょに!』、
『成立する!』ならば、
その後、
『非常非無常』が、
『成立するだろう!』、
『非常非無常』と、
『常無常』とは、
『相違するからだ!』。
今實常無常不成。是故非常非無常亦不成。 今、実に常無常は成ぜず、是の故に非常非無常も亦た成ぜず。
今、
実に、
『常無常』は、
『成立しなかった!』。
是の故に、
亦た、
『非常非無常』も、
『成立しない!』。
復次今生死無始。是亦不然。 復た次ぎに、今、生死は無始なりとせば、是れも亦た然らず。
復た次ぎに、
今、
『生死』が、
『無始である!』とすれば、
是れも、
亦た、
『真実でない!』。
何以故
 法若定有來  及定有去者 
 生死則無始  而實無此事
何を以っての故に、
法若し定んで来たる有り、及び定んで去る有らば、
生死は則ち無始なり、而れども実に此の事無し。
何故ならば、
若し、
『法』が、
定んで、
『来る!』ことが、
『有り!』、
及び、
定んで、
『去る!』ことが、
『有る!』とすれば、
則ち、
『生死』は、
『無始だということになる!』。
而し、
実に、
此の、
『事』は、
『無い!』。
参考
kutaścid āgataḥ kaścit kiṃcid gacchet punaḥ kva cit |
yadi tasmād anādis tu saṃsāraḥ syān na cāsti saḥ ||19||
If something came from somewhere and went somewhere,
then samsara would be without beginning.
That is not the case.

参考
If there were something that could come from somewhere
And could also go somewhere
Then cyclic existence would be beginningless.
That however does not exist.

参考
もしも何者かが,どこかから来て,さらに,どこかへ去るとするならば,〔その場合には〕,それゆえ,輪迴は,始まりの無いものとなるであろう。しかしながら,そのようなものは存在しない。
法若決定有所從來。有所從去者。生死則應無始。 法に、若し決定して従いて来たる所有り、従いて去る所有らば、生死は則ち応に無始なるべし。
『法』に、
若し、
『決定して!』、
何処か、
『来た!』所が、
『有り!』、
何処か、
『去る!』所が、
『有れば!』、
則ち、
『生死』は、
『無始でなければならない!』。
是法以智慧推求。不得有所從來。有所從去。是故生死無始。是事不然。 是の法を、智慧を以って推求するに、従って来たる所有り、従って去る所有るを得ず。是の故に、生死の無始なるは、是の事然らず。
是の、
『法』を、
『智慧』を、
『用いて!』、
『推求すれば!』、――
何処か、
『来た!』所が、
『有る!』とも、
何処か、
『去る!』所が、
『有る!』とも、
『認められない!』。
是の故に、
『生死』が、
『無始である!』とすれば、
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
復次
 今若無有常  云何有無常 
 亦常亦無常  非常非無常
復た次ぎに、
今若し常有る無くんば、云何が無常と、
亦常亦無常と、非常非無常と有らん。
復た次ぎに、
今、
若し、
『常』が、
『無ければ!』、
何故、
『無常』や、
『常でもあり、無常でもある!』、
『常でもなく、無常でもない!』が、
『有るのか?』。
参考
nāsti cec chāśvataḥ kaścit ko bhaviṣyaty aśāśvataḥ |
śāśvato ’śāśvataś cāpi dvābhyām ābhyāṃ tiraskṛtaḥ ||20||
If there were nothing permanent at all,
what thing could be impermanent,
permanent and impermanent, free of both?

参考
If nothing is permanent
What could be impermanent?
What could be both permanent and impermanent
Or free of both?

参考
もしもどのような常住のものも存在しないのであるならば,どのような非常住のものが,存在するであろうか。〔どのような〕常住であって且つ非常住のもの〔が,存在するであろうか〕。また,これら両者を離れた〔常住でもなく且つ非常住でもない,どのような〕ものが,〔存在するであろうか〕。
若爾者。以智慧推求。無法可得常者。誰當有無常。因常有無常故。 若し爾らば、智慧を以って推求するに、法の常を得べき者無し。誰か当に無常有るべき。常に因りて、無常有るが故なり。
若し、
爾うならば、
『智慧』を、
『用いて!』、
『推求すれば!』、――
『常だ!』と、
『認められる!』ような、
『法』は、
『存在しない!』。
何処に、
『無常』という、
『法』が、
『存在するのか?』。
何故ならば、
『常』に、
『因って!』、
『無常』が、
『有るからだ!』。
  参考:『大智度論巻70』:『神者。凡夫人憶想分別隨我心取相故計有神。外道說神有二種。一者常二者無常。若計神常者常修福德後受果報故。或由行道故。神得解脫。若謂神無常者為今世名利故有所作。常無常者。有人謂神。有二種。一者細微常住。二者現有所作。現有所作者。身死時無常。細神是常。有人言神非常非無常。常無常中俱有過。若神無常即無罪福。若常亦無罪福。何以故若常則苦樂不異。譬如虛空雨不能濕風日不能乾。若無常則苦樂變異。譬如風雨在牛皮中則爛壞。以我心故說必有神。但非常非無常。佛言四種邪見皆緣五眾。但於五眾謬計為神。神及世間者。世間有三種。一者五眾世間。二者眾生世間。三者國土世間。此中說二種世間。五眾世間國土世間。眾生世間即是神。於世間相中亦有四種邪見。問曰。神從本已來無故應錯。世間是有云何同神邪見。答曰。但破於世間起常無常相不破世間。譬如無目人得蛇以為瓔珞有目人語是蛇非是瓔珞。佛破世間常顛倒不破世間。何以故現見無常故亦不得言無無常。罪福不失故因過去事有所作故常無常二俱有過故非常非無常。著世間過故。』
若二俱無者。云何有亦有常亦無常。 若し二、倶に無くんば、云何が亦有常亦無常有らん。
若し、
『常』と、
『無常』の、
『二』が、
『どちらも!』、
『無ければ!』、
何故、
『常でもあり、無常でもある!』が、
『有るのか?』。
若無有常無常。云何有非有常非無常。因亦有常亦無常故。有非有常非無常。 若し有常無常無くんば、云何が非有常非無常有らん。亦有常亦無常に因るが故に、非有常非無常有り。
若し、
『常でもあり、無常でもある!』が、
『無ければ!』、
何故、
『有常でもなく、無常でもない!』が、
『有るのか?』。
何故ならば、
『有常でもあり、無常でもある!』に、
『因る!』が故に、
『有常でもなく、無常でもない!』が、
『有るからだ!』。
  :常=A、無常=B とするとき、亦常亦無常は (A+B) となり、非常非無常は=(ーAーB) 、即ち=ー(A+B) となるので、即ち亦常亦無常に因り、非常非無常が有る。
是故依止過去世常等四句不可得。有邊無邊等四句依止未來世。是事不可得。今當說。 是の故に過去世に依止する、常等の四句は得べからず。有辺、無辺等の四句は、未来世に依止するも、是の事も得べからず。今当に説くべし。
是の故に、
『過去世』に、
『依止(依存)する!』、
『常等の四句』は、
『認められず!』、
『有辺、無辺等の四句』は、
『未来世』に、
『依止する!』が、
是の、
『事』も、
『認められない!』ことを、
今、
『説明しよう!』、――
何以故
 若世間有邊  云何有後世 
 若世間無邊  云何有後世
何を以っての故に、
若し世間有辺ならば、云何が後世有らん、
若し世間無辺ならば、云何が後世有らん。
何故ならば、
若し、
『世間( this world )』が、
『有辺( has an end )』ならば、
何故、
『後世( next world )』が、
『有るのか?』。
若し、
『世間』が、
『無辺( has no end )』ならば、
何故、
『後世』が、
『有るのか?』。
参考
antavān yadi lokaḥ syāt paralokaḥ kathaṃ bhavet |
athāpy anantavāl lokaḥ paralokaḥ kathaṃ bhavet ||21||
If this world had an end,
how would the next world come to be?
If this world had no end,
how would the next world come to be?

参考
If the world has an end
How could the next world eventuate?
If the world has no end
How could the next world eventuate?

参考
もしも世界(世間)が〔時間的に〕有限であるならば,どのようにして,他の世界(来世) が存在するであろうか。また,もしも世界が〔時間的に〕無限であるとしても,どのようにして,他の世界(来世)が存在するであろうか。
若世間有邊。不應有後世。而今實有後世。是故世間有邊不然。 若し世間有辺ならば、応に後世有るべからず。而るに今実に後世有り。是の故に世間の有辺は然らず。
若し、
『世間』が、
『有辺』ならば、
『後世』は、
『有るはずがない!』。
而し、
今、
『実に!』、
『後世』が、
『有る!』。
是の故に、
『世間』が、
『有辺だ!』とすれば、
『間違っている!』。
若世間無邊。亦不應有後世。而實有後世。是故世間無邊亦不然。 若し世間無辺ならば、亦た応に後世有るべからず。而るに実に後世有り。是の故に世間の無辺も亦た然らず。
若し、
『世間』が、
『無辺』ならば、
亦た、
『後世』は、
『有るはずがない!』。
而し、
『実に!』、
『後世』は、
『有る!』。
是の故に、
『世間』が、
『無辺』ならば、
亦た、
『間違っている!』。
復次是二邊不可得。 復た次ぎに、是の二辺は得べからず。
復た次ぎに、
是の、
『二辺』は、
『認められない!』。
何以故
 五陰常相續  猶如燈火炎 
 以是故世間  不應邊無邊
何を以っての故に、
五陰の常にして相続すること、猶お灯の火炎の如し、
是を以っての故に世間は、応に辺無辺なるべからず。
何故ならば、
『五陰』が、
『常であり!』、
『相続する!』のは、
猶お、
『灯の火炎』と、
『同じである!』。
是の故に、
『世間』は、
『辺や!』、
『無辺であるはずがない!』。
参考
skandhānām eṣa saṃtāno yasmād dīpārciṣām iva |
tasmān nānantavattvaṃ ca nāntavattvaṃ ca yujyate ||22||
Because the continuity of the aggregates is similar to the light of a lamp,
therefore the very existence or non-existence of an end is unreasonable.

参考
Because this continuum of aggregates
Is similar to the light of a lamp,
Having an end or having no end
Are also not tenable.

参考
もろもろの構成要素(五蘊)のこの連續(相續)は,灯りの炎〔の連續〕のように,〔續いて〕 現われる。それゆえ,〔時間的に〕有限である‧無限であるということも,正しくない。
從五陰復生五陰。是五陰次第相續。如眾緣和合有燈炎。若眾緣不盡燈則不滅。若盡則滅。是故不得說世間有邊無邊。 五陰に従いて、復た五陰を生ずる、是れ五陰の次第相続なり。衆縁の和合に、灯炎有るが如し。若し衆縁尽きざれば、灯は則ち滅せず。若し尽くれば、則ち滅す。是の故に、『世間に辺、無辺有り』と説くを得ず。
『五陰』に、
『従って!』、
『復た!』、
『五陰』を、
『生じる!』、
是れは
『五陰』が、
『次第に!』、
『相続したのである!』。
譬えば、
『衆縁』の、
『和合』の故に、
『灯の火炎』が、
『有る!』ので、
若し、
『衆縁』が、
『尽きなければ!』、
則ち、
『灯』は、
『滅しない!』が、
若し、
『尽きてしまえば!』、
『滅する!』のと、
『同じである!』。
是の故に、こう説くことはできない、――
『世間』には、
『辺、無辺』が、
『有る!』、と。
復次
 若先五陰壞  不因是五陰 
 更生後五陰  世間則有邊 
 若先陰不壞  亦不因是陰 
 而生後五陰  世間則無邊
復た次ぎに、
若し先の五陰壊れ、是の五陰に因りて、
更に後の五陰を生ぜずんば、世間は則ち有辺なり。
若し先の陰壊れずして、亦た是の陰に因りて、
而も後の五陰を生ぜずんば、世間は則ち無辺なり。
復た次ぎに、
若し、
『先の五陰』が、
『壊れてしまい!』、
是の、
『五陰』に、
『因って!』、
更に、
『後の五陰』を、
『生じない!』とすれば、
『世間』は、
則ち、
『有辺だということになる!』。
若し、
『先の五陰』が、
『壊れていない!』のに、
亦た、
是の、
『五陰』に、
『因って!』、
更に、
『後の五陰』を、
『生じない!』とすれば、
『世間』は、
則ち、
『無辺だということになる!』。
参考
pūrve yadi ca bhajyerann utpadyeran na cāpy amī |
skandhāḥ skandhān pratītyemān atha loko ’ntavān bhavet ||23||
If the former perished and
that [future] aggregate did not arise in dependence upon this aggregate,
then this world would have an end.

pūrve yadi na bhajyerann utpadyeran na cāpy amī |
skandhāḥ skandhān pratītyemāṃl loko ’nanto bhaved atha ||24||
If the former did not perish and
that [future] aggregate did not arise in dependence upon this aggregate,
then this world would not have an end.

参考
If the previous aggregates could disintegrate
And these aggregates were made in dependence upon those aggregates
Then since they would not arise
The world would have an end.

If the previous aggregates didn’t disintegrate
And these aggregates were made in dependence upon those aggregates
Then since they would not arise
The world would have no end.

参考
もしも先行する〔諸構成要素〕が破壞され,それらの諸構成要素に縁って,〔あとの〕 これらの諸構成要素が生じないのであるならば,世界は,〔時間的に〕有限なものとなるであろう。

もしも先行する〔諸構成要素〕が破壞されず,それらの諸構成要素に縁って,〔あとの〕 これらの諸構成要素が生じないのであるならば,世界は,〔時間的に〕無限なものとなるであろう。
若先五陰壞。不因是五陰更生後五陰。如是則世間有邊。 若し先の五陰壊(やぶ)れ、是の五陰に因りて、更に後の五陰を生ぜずんば、是の如きは、則ち世間は有辺なり。
若し、
『先の五陰』が、
『壊れてしまい!』、
是の、
『五陰』に、
『因って!』、
更に、
『後の五陰』を、
『生じない!』とすれば、
是のようなものは、
『世間』は、
『有辺だということになる!』。
若先五陰滅已。更不生餘五陰。是名為邊。邊名末後身。 若し先の五陰滅し已りて、更に余の五陰を生ぜず。是れを名づけて辺と為し、辺を末後の身と名づく。
若し、
『先の五陰』が、
『滅してしまい!』、
更に、
『他の五陰』を、
『生じなければ!』、
是れを、
『辺』と、
『呼び!』、
是の、
『辺』を、
『末後の身』と、
『呼ぶ!』。
若先五陰不壞。不因是五陰而生後五陰。世間則無邊。是則為常。而實不爾。 若し先の五陰壊れずして、是の五陰に因りて、後の五陰を生ぜずんば、世間は則ち無辺にして、是れ則ち常と為す。而るに実に爾らず。
若し、
『先の五陰』が、
『壊れない!』のに、
是の、
『五陰』に、
『因って!』、
『後の五陰』を、
『生じなければ!』、
『世間』は、
則ち、
『無辺だということになり!』、
是れは、
則ち、
『常である!』。
而し、
実は、
『爾うでない!』。
是故世間無邊。是事不然。世間有二種。國土世間。眾生世間。此是眾生世間。 是の故に世間の無辺は、是の事然らず。世間には、二種有り、国土世間と、衆生世間なり。此れは是れ衆生世間なり。
是の故に、
『世間』は、
『無辺だ!』とすれば、
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
『世間』には、
『二種』有って、
『国土世間と!』、
『衆生世間である!』が、
此れは、
『衆生世間だからである!』。
復次如四百觀中說
 真法及說者  聽者難得故 
 如是則生死  非有邊無邊
復た次ぎに、四百観中に説けるが如し、
真法及び説者、聴者は得難きが故に、
是の如くんば則ち生死は、有辺にも無辺にも非ず。
復た次ぎに、
例えば、
『四百観』中には、こう説かれている、――
『真の法』も、
『説く者』も、
『聴く者』も、
『認識する!』ことは、
『困難である!』。
是の故に、
則ち、
『生死』は、
『有辺でもなく!』、
『無辺でもない!』。
不得真法因緣故。生死往來無有邊。或時得聞真法得道故。不得言無邊。 真の法を得ざる因縁の故に、生死の往来に辺有ること無く、或は時に真の法を聞くを得て、道を得るが故に、辺無しと言うを得ず。
『真の法』を、
『認めない!』、
『因縁』の故に、
『生死の往来』に、
『辺(限り)』が、
『無く!』、
或は時に、
『真の法』を、
『聞くことができ!』、
『道』を、
『得た!』が故に、
こう言うこともできない、――
『辺』は、
『無い!』、と。
今當更破亦有邊亦無邊
 若世半有邊  世間半無邊 
 是則亦有邊  亦無邊不然
今当に更に亦有辺亦無辺を破らん、
若し世は半ば有辺、世間の半ば無辺なれば、
是れは則ち亦有辺、亦無辺なるも然らず
今、
更に、
『有辺でもあり、無辺でもある!』を、
『破ることにしよう!』、――
若し、
『世間』の、
『半分』は、
『有辺であり!』、
『半分』は、
『無辺である!』とすれば、
是れが、
則ち、
『有辺でもあり、無辺でもある!』だが、
是れは、
『間違っている!』。
参考
antavān ekadeśaś ced ekadeśas tv anantavān |
syād antavān anantaś ca lokas tac ca na yujyate ||25||
If one part had an end and one part did not have an end,
the world would be with and without an end.
That too is unreasonable.

参考
If one part had an end
And one part had no end
The world would both have an end and have no end.
That too is not tenable.

参考
もしも〔世界が〕,〔時間的に〕一部分は有限であり,一部分は無限であるとするならば, 世界は,〔時間的に〕有限であり且つ無限である,ということになるであろう。しかしながら,そのようなことは,正しくない。
若世間半有邊半無邊。則應是亦有邊亦無邊。若爾者。則一法二相。是事不然。 若し世間は、半ば有辺、半ば無辺なれば、則ち応に是れ亦有辺亦無辺なるべし。若し爾らば、則ち一法にして二相なり。是の事は然らず。
若し、
『世間』が、
『半分』は、
『有辺であり!』、
『半分』は、
『無辺である!』とすれば、
則ち、
是れは、
当然、
『有辺でもあり、無辺でもある!』である。
若し、
爾うならば、――
則ち、
『一法』に、
『二相』、
『有ることになり!』、
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
何以故
 彼受五陰者  云何一分破 
 一分而不破  是事則不然 
 受亦復如是  云何一分破 
 一分而不破  是事亦不然
何を以っての故に、
彼の五陰を受くる者は、云何が一分破れ、
一分は破れざる、是の事は則ち然らず。
受も亦た是の如し、云何が一分破れ、
一分は破れざる、是の事も亦た然らず。
何故ならば、
彼の、
『五陰』を、
『受けた者』は、
何故、
『一分』が、
『破れ!』、
『一分』が、
『破れないのか?』。
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
『受(五陰)』も、
亦た、
是の通りだ!
何故、
『一分』は、
『破れ!』、
『一分』は、
『破れないのか?』。
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
参考
kathaṃ tāvad upādātur ekadeśo vinaṅkṣyate |
na naṅkṣyate caikadeśa evaṃ caitan na yujyate ||26||
How can one part of the one-who-clings perish
while one part does not perish?
Likewise, that is unreasonable.

upādānaikadeśaś ca kathaṃ nāma vinaṅkṣyate |
na naṅkṣyate caikadeśo naitad apy upapadyate ||27||
How can one part of that-which-is-clung-to perish
while one part does not perish?
Likewise, that is unreasonable.

参考
How could one part of the appropriator
Be completely disintegrating
While one part would not be disintegrating?
Such is not tenable.

How could one part of the that to be appropriated
Be completely disintegrating
While one part would not be disintegrating?
Such is also not tenable.


参考
まず第一に,取(執着)の主体の一部分は消滅し,一部分は消滅しないということが,どうして,〔あり得るであろう〕か。このようなことも,正しくない。

また実に,取(執着)の一部分は消滅し,一部分は消滅しないということが,どうして,〔あり得るであろう〕か。このこともまた,成り立たない。
受五陰者。云何一分破。一分不破。一事不得亦常亦無常。 五陰を受くる者、云何が一分破れ、一分破れざる。一事として、亦常亦無常なるを得ず。
『五陰』を、
『受ける者』が、
何故、
『一分』が、
『破れて!』、
『一分』は、
『破れないのか?』。
『一事』として、
『常でもあり、無常でもある!』ものなど、
『認められないのに!』。
受亦如是。云何一分破。一分不破。常無常二相過故。是故世間亦有邊亦無邊則不然。 受も亦た是の如し、云何が一分破れ、一分破れざる。常と無常との二相の過の故に、是の故に世間亦有辺亦無辺なれば、則ち然らず。
『受』も、
亦た、
是の通りだ!、――
何故、
『一分』が、
『破れて!』、
『一分』が、
『破れないのか?』。
『一法』に、
『常、無常の二相』が、
『有る!』という、
『過』の故に、
是の故に、
『世間』が、
『有辺でもあり!』、
『無辺でもある!』とすれば、
則ち、
『真実でない!』。
今當破非有邊非無邊見
 若亦有無邊  是二得成者 
 非有非無邊  是則亦應成
今当に、非有辺非無辺の見を破るべし、
若し亦有無辺、是の二成ずるを得ば、
非有非無辺、是れも則ち亦た応に成ずべし。
今は、
『有辺でもなく、無辺でもない!』という、
『見』を、
『破らなくてはならない!』、――
若し、
『有辺でもあり!』、
『無辺でもある!』という、
是の、
『二』が、
『成立した!』とすれば、
『有辺でもなく!』、
『無辺でもない!』という、
是の、
『二』も、
『成立するはずだ!』。
参考
antavac cāpy anantaṃ ca prasiddham ubhayaṃ yadi |
siddhe naivāntavat kāmaṃ naivānantavad ity api ||28||
If both the presence and absence of an end were established,
you would have to assert non-presence and non-absence as established.

参考
If both having an end and having no end
Were established
This would rely on accepting that
Neither having an end nor having no end could be established.

参考
〔世界は〕〔時間的に〕有限であることと無限であることとの両者が,もしも〔同時に〕 成立するならば,〔時間的に〕有限でもなく無限でもないということもまた,随意に,成立することになるであろう。
與有邊相違故有無邊。如長相違有短。與有無相違。則有亦有亦無。與亦有亦無相違故。則有非有非無。 有辺と相違するが故に、無辺有り。長に相違するが故に短有るが如し。有、無と相違すれば、則ち亦有亦無有り。亦有亦無と相違するが故に、則ち非有非無有り。
『有辺』と、
『相違する!』が故に、
『無辺』は、
『有る!』。
譬えば、
『長』と、
『相違する!』が故に、
『短』が、
『有るように!』。
『有』とも、
『無』とも、
『相違する!』が故に、
則ち、
『有でもあり、無でもある!』が、
『有る!』。
『有でもあり!』、
『無でもある!』と、
『相違する!』が故に、
則ち、
『有でもなく、無でもない!』が、
『有る!』。
若亦有邊亦無邊定成者。應有非有邊非無邊。何以故。因相待故。上已破亦有邊亦無邊第三句。今云何當有非有邊非無邊。以無相待故。 若し亦有辺亦無辺定んで成ずれば、応に非有辺非無辺有るべし。何を以っての故に、因の相待するが故なり。上に已に亦有辺亦無辺の第三句を破れり。今云何が当に非有辺非無辺有るべし。相待無きを以っての故なり。
若し、
『有辺でもあり!』、
『無辺でもある!』が、
『定んで!』、
『成立する!』とすれば、
当然、
『有辺でもなく!』、
『無辺でもない!』も、
『有るはずだ!』、
何故ならば、
『因』が、
『相待するからだ!』。
上に、
已に、
『有辺でもあり、無辺でもある!』という、
『第三句』を、
『破った!』。
今、
何故、
『有辺でもなく、無辺でもない!』という、
『第四句』が、
『有るのか?』。
何故ならば、
『相待する!』、
『因』が、
『無いからである!』。
如是推求。依止未來世有邊等四見皆不可得。 是の如く推求すれば、未来世に依止する有辺等の四見は、皆得べからず。
是のように、推求すれば、――
『未来』の、
『世間』に、
『依止する!』、
『有辺』等の、
『四種の見』は、
皆、
『認められない!』。
復次
 一切法空故  世間常等見 
 何處於何時  誰起是諸見
復た次ぎに、
一切の法は空なるが故に、世間の常等の見は、
何処にか何時に於いてか、誰か是の諸見を起さん。
復た次ぎに、
『一切の!』、
『法』は、
『空である!』が故に、
『世間』の、
『常等の見』を、
『何処で?』、
『何時に?』、
『誰が?』、
是の、
『諸の見』
『起すのか?』。
参考
atha vā sarvabhāvānāṃ śūnyatvāc chāśvatādayaḥ |
kva kasya katamāḥ kasmāt saṃbhaviṣyanti dṛṣṭayaḥ ||29||
And because all things are empty,
about what and in whom do views
such as that of permanence spring forth?

参考
Alternatively, because every thing is empty,
What views of being permanent and so forth
Could originate? In what place?
In whom? And through what causes?

参考
あるいはまた,一切の「存在(もの‧こと)」は空であるがゆえに,常住などの諸見解は,どのようなものが,どこに,何びとに,何ゆえに,あり得るであろうか。
上以聲聞法破諸見。今此大乘法中說。諸法從本以來畢竟空性。 上には声聞法を以って、諸見を破り、今は此の大乗法中に、『諸法は、本より以来、畢竟じて空性なり』、と説く。
上には、
『声聞の法』で、
諸の、
『見』を、
『破った!』。
今は、
此の、
『大乗の法』中に、こう説こう、――
諸の、
『法』は、
本より、
畢竟じて、
『空という!』、
『性である!』、と。
如是空性法中無人無法。不應生邪見正見。 是の如き空性の法中には、人無く、法無ければ、応に邪見も、正見も生ずべからず。
是のような、
『空性』の、
『法』中には、
『人も無く!』、
『法も無い!』ので、
『邪見(彼れの法は邪見である!)』や、
『正見(我が法は正見である!)』という、
『諸の見』を、
『生じてはならない!』。
處名土地。時名日月歲數。誰名為人。是名諸見體。 処を、土地と名づけ、時を、日月歳数と名づけ、誰を、名づけて人と為し、是れを諸見の体と名づく。
『処』とは、
『土地のことであり!』、
『時』とは、
『日月歳数であり!』、
『誰』とは、
『人である!』が、
是れが、
『諸の見』の、
『体である!』。
若有常無常等決定見者。應當有人出生此見。 若し常、無常等の決定せる見有らば、応当に此の見を出生せる人有るべし。
若し、
『常』とか、
『無常』等の、
『決定した!』、
『見』が、
『有れば!』、
此の、
『見』を、
『出生した!』、
『人』が、
『有るはずだ!』。
破我故無人生是見。應有處所色法現見尚可破。何況時方。 我を破るが故に、人の是の見を生ずる無し。応に処有りて、色法の現るる所なるべし。見たるをすら、尚お破るべし。何に況んや、時、方をや。
『我』を、
『破った!』が故に、
是の、
『見』を、
『生じる!』、
『人』は、
『無い!』。
有る、
『処』に、
『色法()』が、
『現れるはず!』だが、
『眼』に、
『見える!』、
『色法』すら、
『破られた!』。
況して、
『見えない!』、
『時間、方角』が、
『破られないはずがあろうか?』。
若有諸見者應有定實。若定則不應破。上來以種種因緣破。是故當知見無定體。云何得生。如偈說。何處於何時。誰起是諸見 若し諸見有らば、応に定実なる有るべし。若し定なれば、則ち応に破るべからず。上来種種の因縁を以って破れり。是の故に当に知るべし、見に定体無し、云何が生ずるを得ん。偈に、『何処にか、何時にか、誰か、是の諸見を起さん』、と説けるが如し。
若し、
諸の、
『見』が、
『有る!』とすれば、
当然、
『定実の法』が、
『有るはずだ!』が、
若し、
『定ならば!』、
『破られるはずがない!』。
上より、
ずーっと、
種種の、
『因縁』で、
『破ってきた!』。
是の故に、
こう知らなくてはならない、――
『見』には、
『定まった!』、
『体』が、
『無い!』、と。
何故、
『見』を、
『生じる!』、
『機会があろう?』。
『偈』に、
こう説く通りである、――
『何処で?』、
『何時に?』、
『誰が?』、
是の、
『諸の見』を、
『起すのか?』、と。
 瞿曇大聖主  憐愍說是法 
 悉斷一切見  我今稽首禮
瞿曇大聖主、憐愍して是の法を説き、
悉く一切の見を断じたまえば、我れ今稽首礼す。
『瞿曇( Gautama )』という、
『大聖主』が、
『衆生』を、
『憐愍して!』、
是の、
『法』を、
『説かれ!』、
悉く、
『一切の見』を、
『断たれた!』。
わたしは、
『今!』、
『稽首礼する!』。
参考
sarvadṛṣṭiprahāṇāya yaḥ saddharmam adeśayat |
anukampām upādāya taṃ namasyāmi gautamam ||30||
I bow down to Gautama,
whose kindness holds one close,
who revealed the sublime dharma
in order to let go of all views.

参考
I pay homage to Gautama
Who, through fully holding loving concern,
Taught the holy Dharma
For the sake of abandoning all views.

参考
一切の〔誤りの〕見解を断ぜしめるために,慈愍にもとづいて,正しい真理(正法)を說き示されたそのゴータマ(ブッダ)に,私はいま帰命する。
一切見者。略說則五見。廣說則六十二見。為斷是諸見故說法。大聖主瞿曇。是無量無邊不可思議智慧者。是故我稽首禮
中論卷第四
一切の見とは、略説すれば則ち五見なり。広説すれば則ち六十二見なり。是の諸見を断ぜんが為の故に、法を説きたまえる、大聖主瞿曇は、是れ無量無辺不可思議の智慧者なり。是の故に我れは稽首礼す。
中論巻第四
『一切の見』とは、
略説すれば、
則ち、
『五見であり!』、
広説すれば、
則ち、
『六十二見である!』。
是の、
『諸の見』を、
『断とう!』と、
『思われた!』が故に、
是の、
『法』を、
『説かれた!』、
『大聖主の瞿曇』は、
『無量』、
『無辺』、
『不可思議』の、
『智慧の者である!』。
是の故に、
わたしは、
『稽首礼する!』。

中論巻第四


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