問曰。已聞大乘法破邪見。今欲聞聲聞法破邪見。 |
問うて曰く、已に大乗の法に、邪見を破るを聞けり。今は声聞法に、邪見を破るを聞かんと欲す。 |
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五見(ごけん):五種の見解( five views )、梵語 paJca- dRSTi の訳、五種の誤った認識、又五悪見、五邪見と名づく( Five
kinds of mistaken perception, also written as 五惡見, 五邪見 )。乃ち、
- 我見(梵語 satkaaya- dRSTi ):実在化する見解( Entifying view — reifying view, or identity-view.
)。自己という固有の存在に関して実在すると執する見解( The attached view of the reality of the inherent
existence of one's own self, coupled with the belief in the objects in
one's surrounding world as real entities )。又身見、有身見等と云う。
- 辺見(梵語 antaparigraha- dRSTi ):極端な見解( Extreme view )、常、或は断の立場に執する( which
is attachment to the positions of either eternalism or nihilism )。
- 邪見(梵語 mithyaa- dRSTi ):誤った見解( Erroneous view )、因果の関係を適切に認めない( wherein one
does not properly acknowledge the relationship of cause and effect )。
- 見取見(梵語 dRSTi- paraamarza- dRSTi ):見解に執する見解( View of attachment to views
)、例えば、一つの持論を一切に及ぼして強く執著する( i.e. holding rigidly to one opinion over all
others. )。
- 戒禁取見(梵語 ziila- vrata- praamarza- dRSTi ):戒律に固く執著する見解( View of rigid attachment
to the precepts )、禁欲行為や、倫理的修行、及び仏教徒以外の誓約が人を真実に導くとする見解(The view that the
austerities, moral practices and vows of non-Buddhist schools can lead
one to the truth )。
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答曰
我於過去世 為有為是無
世間常等見 皆依過去世
我於未來世 為作為不作
有邊等諸見 皆依未來世 |
答えて曰く、
我は過去世に於いて、有と為すも是れ無と為すも、
世間の常等の見は、皆過去世に依る。
我は未来世に於いて、作と為すも不作と為すも、
有辺等の諸見は、皆未来世に依る。
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答え、
『過去世』に於いて、
『我』は、
『有ったのか?』、
『無かったのか?』、
『世間』の、
『常等の見』は、
皆、
『過去世』に、
『依る!』。
『未来世』に於いて、
『我』は、
『作(有)なのか?』、
『不作(無)なのか?』、
諸の、
『有辺等の見』は、
皆、
『未来世』に、
『依る!』。
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参考:
abhūm atītam adhvānaṃ nābhūvam iti dṛṣṭayaḥ |
yās tāḥ śāśvatalokādyāḥ pūrvāntaṃ samupāśritāḥ ||1||
Those views such as “I occurred or did not occur in the past,”
the world is permanent, are dependent on the extreme of before.
dṛṣṭayo na bhaviṣyāmi kim anyo ’nāgate ’dhvani |
bhaviṣyāmīti cāntādyā aparāntaṃ samāśritāḥ ||2||
Those views such as I will occur or not occur at another time in the future,
the world has an end, are dependent on the extreme of Later.
参考:
Those views such as ‘The self arose in the past’,
‘The self did not arise in the past’,
‘The world is permanent’ and so forth
Are dependent on a start point.
Those views such as ‘The self will arise again in the future’,
‘The self will not arise again in the future’,
‘The world has an end’ and so forth
Are dependent on an end point.
参考:
「過去世に私は存在した」,また「存在しなかった」という,〔および〕「これらの世界は常住である」など〔の誤りの〕諸見解は,過去の〔見解〕に依拠している。
「未来世に私は存在しないであろう」,あるいは「他者として存在するであろう」という,また「〔世界は〕有限である」などの〔誤りの〕諸見解は,未来〔の見解〕に依拠している。
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我於過去世。為有為無。為有無為非有非無。是名常等諸見依過去世。我於未來世。為作為不作。為作不作為非作非不作。是名邊無邊等諸見依未來世。 |
我は、過去世に於いて、有と為すや、無と為すや、有無と為すや、非有非無と為すや、是れを常等の諸見は、過去世に依ると名づけ、我は、未来世に於いて、作と為すや、不作と為すや、作不作と為すや、非作非不作と為すや、是れを辺無辺等の諸見は、未来世に依ると名づく。 |
『過去世』に於いて、
『我』は、
『有なのか?』、
『無なのか?』、
『有無なのか?』、
『非有非無なのか?』、
是れが、
『常等の諸見』は、
『過去世』に、
『依るということである!』。
『未来世』に於いて、
『我』は、
『作なのか?』、
『不作なのか?』、
『作不作なのか?』、
『非作非不作なのか?』、
是れが、
『辺、無辺等の諸見』は、
『未来世』に、
『依るということである!』。
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如是等諸邪見。何因緣故名為邪見。 |
是の如き等の諸の邪見は、何なる因縁の故に名づけて、邪見と為す。 |
是れ等のような、
諸の、
『邪見』は、
何のような、
『因縁』の故に、
『邪見』と、
『呼ばれるのか?』。
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是事今當說
過去世有我 是事不可得
過去世中我 不作今世我
若謂我即是 而身有異相
若當離於身 何處別有我
離身無有我 是事為已成
若謂身即我 若都無有我
但身不為我 身相生滅故
云何當以受 而作於受者
若離身有我 是事則不然
無受而有我 而實不可得
今我不離受 亦不即是受
非無受非無 此即決定義 |
是の事を今当に説くべし、
過去世に我有り、是の事は得べからず、
過去世中の我は、今世の我と作らず。
若し我は即ち是れにして、身に異相有りと謂わば、
若し当に身を離るべくんば、何処にか別に我有る。
身を離れて我有ること無し、是の事已に成ずと為し、
若し身即ち我なりと謂わば、汝には都べて我有る無し。
但だ身のみを我と為さず、身相は生滅するが故なり、
云何が当に受を以って、受者と作さん。
若し身を離れて我有れば、是の事は則ち然らず、
受無くして我有れば、而も実に得べからず。
今我は受を離れず、亦た即ち是れ受なるにあらず、
受無きに非ず無なるに非ず、此れ即ち決定の義なり。
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是の、
『事』を、
今、説こう、――
若し、 ――1――
『過去世』に、
『我』が、
『有る!』とすれば、
是の、
『事』は、
『認められない!』。
『過去世』の、
『我』は、
『今世』の、
『我』と、
『作ることはない!』。
若し、こう謂うならば、―― ――2――
『我』は、
『身』には、
若し、
『身』を、
『離れたならば!』、
『身』と、
『別れて!』、
何処に、
『我』は、
『有るのか?』。
若し、 ――3――
『身』を、
『離れて!』、
『我』は、
『無い!』という、
是の、
『事』が、
『成立した!』として、
こう謂うならば、――
お前( 若)には、
但だ、 ――4――
『身( 五蘊 (The appropriated aggregates themselves) )』を、
『我だ!』と、
『看做すのでもない!』、
何故ならば、
何うして、
『受( 身 (that which is to be appropriated ) )』が、
『受者(我 (the appropriator) )』と、
『作るはずがあろうか?』。
若し、 ――5――
『身』を、
『離れて!』、
『我』が、
『有るとすれば!』、
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
『受』が、
『無いのに!』、
『我』が、
『有ったとしても!』、
実に、
『我だ!』とは、
『認められない!』。
今、 ――6――
『我』は、
『受』を、
『離れることもなく!』、
亦た、
『我』が、
『受だというのでもない!』。
『我』は、
『受』が、
『無いでもない!』し、
亦た、
『我』が、
『無いでもない!』、
此れが、
『決定した!』、
『義である!』。
|
若(にゃく):なんじ( you )。汝に同じ。
注:離身無有我:底本は離有無身我、理に依り他本に従いて現状に改む。 |
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参考:
abhūm atītam adhvānam ity etan nopapadyate |
yo hi janmasu pūrveṣu sa eva na bhavaty ayam ||3||
It is incorrect to say: “I occurred at a time in the past.”
Whatever occurred before, that is not this.
sa evātmeti tu bhaved upādānaṃ viśiṣyate |
upādānavinirmukta ātmā te katamaḥ punaḥ ||4||
If you think that that became me,
then that-which-is-clung-to would be something else.
What is your self apart from that-which-is-clung-to?
upādānavinirmukto nāsty ātmeti kṛte sati |
syād upādānam evātmā nāsti cātmeti vaḥ punaḥ ||5||
Were you [to say] that there exists no self apart from that-which-is-clung-to,
if the very that-which-is-clung-to were the self,
your self would be non-existent.
na copādānam evātmā vyeti tat samudeti ca |
kathaṃ hi nāmopādānam upādātā bhaviṣyati ||6||
The very that-which-is-clung-to is not the self: it arises and passes away.
How can that-which-has-been-clung-to be the one that clings?
anyaḥ punar upādānād ātmā naivopapadyate |
gṛhyeta hy anupādāno yady anyo na ca gṛhyate ||7||
It is not correct for the self to be other than that-which-is-clung-to.
If it were other, with nothing to cling to,
then something [i.e. the self] fit to be apprehended would not be apprehended.
evaṃ nānya upādānān na copādānam eva saḥ |
ātmā nāsty anupādāno nāpi nāsty eṣa niścayaḥ ||8||
In that way,
it is not other than that-which-is-clung-to nor is it that-which-is-clung-to.
The self is not not that-which-is-clung-to, nor can it be ascertained as
nothing.
参考:
To say ‘The self arose in the past’
Is inadmissible.
That very one which arose in past lives
Is not this one.
You might think that very one will become this self
Yet the appropriated aggregates are different.
Apart from the appropriated aggregates
For you, what self is there?
‘Apart from the appropriated aggregates
There is no self.
The appropriated aggregates themselves are the self.’
Then for you, the self would not exist.
The appropriated aggregates themselves are not the self
Since they are arising and disintegrating.
And how could that which is to be appropriated
Be the appropriator?
It is simply inadmissible for the self
To be different from the appropriated aggregates.
If it were different, it should be apprehendable
Without them, yet it is not.
Thus, it is not different from them
And it is also not the appropriated aggregates themselves.
The self is not without appropriated aggregates
And it is also not ascertained to be simply non-existent.
参考:
「過去世に私は存在していた」ということは,成り立たない。なぜならば,およそ,多くの前世(前生)に〔あった〕ものが,そのままこれ(いまの私)である,ということはないからである。
しかし,もしも「〔前世の〕我(アートマン)がそれ(いまの私)であるけれども,取(執着)
が区別されるのである」というならば,それならば,取(執着)を離れて,さらに,どの
ような我(アートマン)が,〔そのようにいう〕汝〔に有る〕のであるか。
取(執着)を離れては我(アートマン)は存在しない」ということが成立するとするならば, 「取(執着)が,そのまま我(アートマン)である」ということになるであろう。それならば,
汝たちにとっては,「我(アートマン)は存在しない」ということになるであろう。」
また,取(執着)がそのまま我(アートマン)なのではない。それ(取)は滅したり,生じたりする。実に,取がすなわち取の主体であるということは,どうして,あり得るであろうか。
さらに,取(執着)からは異なる我(アートマン)は,決して成り立たない。なぜならば,もしも〔両者が〕異なっているならば,取(執着)のない〔我(アートマン)〕が把捉されるはずであるのに,しかし,〔そのようなものは,実際には〕把捉されないからである。
このように,それ(我(アートマン))は,取(執着)から異なるのでもなく,また,取(執着) そのものでもない。取(執着)のない我(アートマン)は,存在しないし,存在しないのでもない,ということが決定される。
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我於過去世有者。是事不然。何以故。先世中我不即作今我。有常過故。 |
我は、過去世に有らば、是の事は然らず。何を以っての故に、先世中の我は、即ち今の我と作らざればなり。常の過有るが故に。 |
『我』が、
『過去世』に、
『有る!』とすれば、
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
何故ならば、
『先世』中の、
『我』は、
『今世』の、
『我』と、
『作らない!』、
何故ならば、
『常の過』が、
『有るからだ!』。
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若常則有無量過。何以故。如人修福因緣故作天而後作人。若先世我即是今我者。天即是人。 |
若し常ならば、則ち無量の過有り。何を以っての故に、人は、修福の因縁の故に天と作り、而して後に人と作るが如きに、若し先世の我、即ち此れ今の我ならば、天は即ち是れ人なればなり。 |
若し、
何故ならば、
例えば、
『人』は、
『修福の因縁』の故に、
『天』と、
『作り!』、
『後に!』、
『人』と
『作る!』が、
若し、
『先世』の、
『我』が、
『今の!』、
『我ならば!』、
『天』は、
『即ち!』、
『人だからだ!』。
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又人以罪業因緣故作旃陀羅。後作婆羅門。若先世我即是今我者。旃陀羅即是婆羅門。 |
又、人は、罪業の因縁を以っての故に旃陀羅に作り、後に婆羅門と作るも、若し先世の我は、即ち是れ今の我ならば、旃陀羅は即ち是れ婆羅門なり。 |
又、
『人』は、
『罪業の因縁』の故に、
『旃陀羅』と、
『作り!』、
『後に!』、
『婆羅門』と、
『作る!』が、
若し、
『前世』の、
『我』が、
『今の!』が、
『我ならば!』、
『旃陀羅』は、
『即ち!』、
『婆羅門だからだ!』。
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譬如舍衛國婆羅門名提婆達。到王舍城亦名提婆達。不以至王舍城故為異。若先作天後作人。則天即是人。旃陀羅即是婆羅門。但是事不然。 |
譬えば、舎衛国の婆羅門を提婆達と名づくるに、王舎城に到りても亦た、提婆達と名づけ、王舎城に至るを以っての故に、異と為さざるが如く、若し先に天と作りて、後に人と作れば、則ち天は、即ち是れ人なり。旃陀羅は、即ち是れ婆羅門なり。但だ是の事は然らず。 |
譬えば、
『舎衛国』の、
『婆羅門』が、
『提婆達』と、
『呼ばれていれば!』、
『王舎城』に、
『到っても!』、
亦た、
『提婆達』と、
『呼ばれ!』、
『王舎城』に、
『至った!』が故に、
『異なることがない!』のと、
『同じように!』、
若し、
『先に!』、
『天』と、
『作り!』、
『後に!』、
『人』と、
『作れば!』、
則ち、
『天』は、
『人であり!』、
『婆羅門』は、
『旃陀羅だということになる!』が、
但だ、
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何以故。天不即是人。旃陀羅不即是婆羅門。有此等常過故。 |
何を以っての故に、天は、即ち是れ人にあらず、旃陀羅は即ち是れ婆羅門にあらず、此等の常の過有るが故なり。 |
何故ならば、
『天』は、
『人でなく!』、
『旃陀羅』は、
『婆羅門でない!』という、
此等の
『常の過』が、
『有るからである!』。
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若謂先世我不作今我。如人浣衣時名為浣者。刈時名為刈者。而浣者與刈者雖不異。而浣者不即是刈者。 |
若し、先世の我は、今の我と作らず、と謂わば、人の衣を浣(すす)ぐ時には、名づけて浣ぐ者と為し、刈る時には名づけて、刈る者と為すに、而も浣ぐ者は、刈る者と異ならずと雖も、而も浣ぐ者は、即ち是れ刈る者ならざるが如し。 |
若し、
こう謂うならば、――
譬えば、
『人』が、
『衣』を、
『浣( すす)ぐ!』時には、
『浣ぐ者』と、
『呼ばれ!』、
『草』を、
『刈る!』時には、
『刈る者』と、
『呼ばれながら!』、
『浣ぐ者』は、
『刈る者』と、
『異ならない!』のに、
而も、
『浣ぐ者』が、
『刈る者でない!』のと、
『同じである!』。
|
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如是我受天身名為天。我受人身名為人。我不異而身有異者。是事不然。何以故。若即是者。不應言天作人。 |
是の如く我は、天身を受くれば、名づけて天と為し、我が人身を受くれば、名づけて人と為すも、我は異ならずして、而も身には、異なる者有り。是の事は然らず。何を以っての故に、若し即ち是れならば、応に天は人を作れりと言うべからざればなり。 |
是のように、
『我』は、
『我』が、
『我』は、
『異ならない!』のに、
『身』には、
『異なる者』が、
『有る!』とすれば、
是の、
『事』は、
『事実でない!』。
何故ならば、
若し、
『是の通りだ!』とすれば、
こう言うはずがない、――
|
即是(そくぜ):如此。この通り。等しい。 |
|
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今浣者於刈者。為異為不異。若不異。浣者應即是刈者。如是先世天即是人。旃陀羅即是婆羅門。我亦有常過。 |
今、浣ぐ者は、刈る者に於いて、異なりと為すや、異ならずと為すや。若し異ならざれば、浣ぐ者は、即ち是れ刈る者なり。是の如くんば、先世の天は、即ち是れ人にして、旃陀羅は、即ち是れ婆羅門なり。我にも亦た常の過有り。 |
今、
『浣ぐ者』は、
『刈る者』と、
『異なるのか?』、
『異ならないのか?』。
若し、
『異ならなければ!』、
『浣ぐ者』は、
『刈る者』と、
『等しいことになる!』。
是のようであれば、
『先世』の、
『天』は、
『人』に、
『等しく!』、
『旃陀羅』は、
『婆羅門』に、
『等しい!』、
『我』にも、
|
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|
若異者。浣者即不作刈者。如是天不作人。我亦無常。無常則無我相。是故不得言即是。 |
若し異なれば、浣ぐ者は、即ち刈る者にあらず。是の如き天は、人と作らず、我も亦た無常なり。無常なれば、則ち我相無し。是の故に『即ち是れなり』と言うを得ず。 |
若し、
『異なる!』とすれば、
『浣ぐ者』は、
『刈る者』に、
『等しくない!』し、
是のようであれば、
『天』が、
『人』と、
『作ることもなく!』、
『我』も、
亦た、
『無常である!』。
若し、
是の故に、
『等しい!』と、
『言うことはできない!』。
|
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|
問曰。我即是。但因受故分別是天是人。受名五陰身。以業因緣故分別是天是人是旃陀羅是婆羅門。而我實非天非人。非旃陀羅非婆羅門。是故無如是過。 |
問うて曰く、我は、即ち是れ、但だ受に因るが故に、是れ天、是れ人なりと分別す。受を、五陰の身と名づけ、業の因縁を用っての故に、是れ天、是れ人、是れ旃陀羅、是れ婆羅門なりと分別するも、而し我は実に天に非ず、人に非ず、旃陀羅に非ず、婆羅門に非ず。是の故に是の如き過無し。 |
問い、
『我』とは、
即ち、
是れである、――
但だ、
『受』に、
『因る!』が故に、
是れは、
『天である!』とか、
是れは、
『人である!』と、
『分別され!』、
『受』という、
『五陰』の、
『身』が、
『業の因縁』の故に、
是れは、
『天である!』、
是れは、
『人である!』、
是れは、
『旃陀羅である!』、
是れは、
『婆羅門である!』と、
『分別される!』が、
而し、
『我』は、
『天でもなく!』、
『人でもなく!』、
『旃陀羅でもなく!』、
『婆羅門でもない!』。
是の故に、
|
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答曰。是事不然。何以故。若身作天作人。作旃陀羅作婆羅門。非是我者。則離身別有我。 |
答えて曰く、是の事は然らず。何を以っての故に、若し身が、天と作り、人と作り、旃陀羅と作り、婆羅門と作りて、是れ我に非ざれば、則ち身を離れて、別に我有ればなり。 |
答え、
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
何故ならば、
若し、
『身』が、
『天と作り!』、
『人と作り!』、
『旃陀羅と作り!』、
『婆羅門と作りながら!』、
是れが、
『我でない!』とすれば、
則ち、
『身』を、
『離れて!』、
『別に!』、
『我』が、
『有ることになる!』。
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今罪福生死往來。皆是身非是我。罪因緣故墮三惡道。福因緣故生三善道。 |
今、罪福と、生死の往来は、皆、是れ身にして、是れ我の罪の因縁の故に、三悪道に墜ち、福の因縁の故に、三善道に生ずるに非ず。 |
今、
『罪福』や、
『生死の往来』は、
皆、
是れは、
『身』の、
『罪福であり!』、
『身』が、
『生死』を、
『往来するのであって!』、
是れは、
『我』が、
『罪の因縁』の故に、
『三悪道』に、
『堕ちるのでもなく!』、
『福の因縁』の故に、
『三善道』に、
『生じるのでもない!』。
|
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若苦樂瞋喜憂怖等。皆是身非我者。何用我為。 |
若し苦楽、瞋喜、憂怖等は、皆是れ身にして、我に非ざれば、何をか我を用いて為さんや。 |
若し、
『苦楽』や、
『瞋喜』や、
『憂怖』等が、
皆、
『身であり!』、
『我でない!』とすれば、
何の為に、
『我』を、
『用いるのか?』。
|
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如治俗人罪。不豫出家人。五陰因緣相續罪福不失故有解脫。若皆是身非我者。何用我為。 |
俗人の罪を治すれば、出家人を予(よろこ)ばざるが如く、五陰の因縁相続して、罪福の失われざるが故に、解脱有り。若し、皆是の身にして、我に非ざれば、何んが我を用いて為さんや。 |
譬えば、
『俗人』として、
『罪』を、
『治した!』者は、
『出家人』と、
『作る!』ことを、
『欲しない!』ように、
『五陰』の、
『因縁』が、
『相続して!』、
『罪、福』が、
『失われない!』が故に、
『解脱』が、
『有る!』。
若し、
皆、
是の、
『身』が、
『我でなければ!』、
何の為に、
『我』を、
『用いるのか?』。
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予(よ):快楽/安楽( happy, comfortable )、参与/あずかる( take part in )、欲する( want )、預先/あらかじめ(
in advance )。 |
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問曰。罪福等依止於我。我有所知身無所知故。知者應是我。 |
問うて曰く、罪福等は、我に依止す。我には知る所有り、身には知る所無きが故に、知る者は、応に是れ我なるべし。 |
問い、
『罪福』等は、
『我』に、
『依止する!』。
『我』には、
『知る!』所が、
『有る!』が、
『身』には、
『知る!』所が、
『無い!』が故に、
『知る!』者は、
『我でなくてはならない!』。
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起業因緣罪福是作法。當知應有作者。作者是我。身是我所用。亦是我所住處。 |
業の因縁を起すに、罪福は是れ作法なり。当に知るべし、応に作者有るべし。作者とは、是れ我なり、身は是れ我の用うる所なり、亦た是れ我の所住の処なり。 |
『業』の、
『因縁』を、
『起す!』が故に、
『結果』としての、
『罪福』は、
『作法である!』。
当然、
こう知るべきだ、――
『作者』が、
『有るはずだ!』と。
『作者』とは、
『身』とは、
『我』に、
『用いられるものであり!』、
亦た、
『我』の、
『住処でもある!』。
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譬如舍主以草木泥墼等治舍。自為身故隨所用治舍有好惡。我亦如是。隨作善惡等得好醜身。六道生死皆我所作。 |
譬えば、舎主は、草、木、泥、墼等を以って、舎を治するに、自ら身の為の故に、用うる所に隨いて、舎を治するに、好悪有るが如し。我も亦た是の如く、善悪等を作すに随いて、好醜の身を得。六道の生死は、皆我の作す所なり。 |
譬えば、
『舎( 家屋)』の、
『主』が、
『自ら!』の、
『身』の、
『用いる!』所に、
『随って!』、
『舎』を、
『修治する!』が故に、
『舎』が、
『我』も、
亦た、
是のように、
『善悪』等を、
『作す!』に、
『随って!』、
『好醜』の、
『身』を、
『受けることになり!』、
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墼(げき):未だ焼を経ざる煉瓦( unburned brick )、他本に従う。底本は塈、塗る/飾る( paint, decorate )の義。 |
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是故罪福之身皆屬於我。譬如舍但屬舍主不屬他人。 |
是の故に、罪福の身は、皆、我に属す。譬えば、舎の但だ舎主に属して、他人に属さざるが如し。 |
是の故に、
譬えば、
『舎』が、
『舎』の、
『主のみ!』に、
『属して!』、
『他人』に、
『属さない!』のと、
『同じである!』。
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答曰。是喻不然。何以故。舍主有形。有觸有力故能治舍。 |
答えて曰く、是の喻は然らず。何を以っての故に、舎主は形有り、触有り、力有るが故に能く舎を治すればなり。 |
答え、
是の、
『喻』は、
『間違っている!』。
何故ならば、
『舎主』には、
『形』が、
『有り!』、
『触』が、
『有り!』、
『力』が、
『有る!』が故に、
『舎』を、
『修治できるからだ!』。
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汝所說我無形無觸故無作力。自無作力亦不能使他作。 |
汝が所説の我は、形無く、触無きが故に、作力無し。自ら作力無ければ、亦た他をして作さしむる能わず。 |
お前の、説いた、――
『我』には、
『形』も、
『無く!』、
『触』も、
『無く!』、
『力』も、
『無い!』。
『自ら!』に、
『作る!』、
『力』が、
『無ければ!』、
『他人』に、
『作らせることはできない!』。
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若世間有一法無形無觸能有所作者。則可信受知有作者。但是事不然。 |
若し世間に、一法の形無く、触無くして、能く所作有る者有らば、則ち信受して、作者有るを知るべし。但だ是の事は然らず。 |
若し、
『世間』に、
『形』も、
『触』も、
『無い!』のに、
何かを、
『作すことのできる!』者が、
『一法』でも、
『有れば!』、
則ち、
『作者』が、
『有る!』と、
『信受して!』、
『知るだろう!』が、
但だ、
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若我是作者。則不應自作苦事。 |
若し我は是れ作者なれば、則ち応に自ら苦事を作すべからず。 |
若し、
『我』が、
『作者』ならば、
『自ら!』、
『苦しめる!』ような、
『事』を、
『作すはずがない!』。
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若是念者。可貪樂事不應忘失。 |
若し是れ念者なれば、貪るべき楽事を、応に忘失すべからず。 |
若し、
『我』が、
『念者』ならば、
『貪るべき!』、
『楽事』を、
『失念するはずがない!』。
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若我不作苦而苦強生者。餘一切皆亦自生。非我所作。 |
若し我苦を作さざるに、苦強いて生ぜば、余の一切は、皆亦た自ら生じて、我の所作に非ざらん。 |
若し、
『我』が、
『苦』を、
『作らない!』のに、
『苦』が、
『強いて!』、
『生じる!』とすれば、
他の、
『一切』も、
皆、
『自ら!』を、
『生じる!』ので、
則ち、
『我』の、
『所作ではないだろう!』。
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若見者是我。眼能見色眼應是我。 |
若し見者是れ我ならば、眼は能く色を見るに、眼は応に是れ我なるべし。 |
若し、
『見者』が、
『我だ!』とすれば、
『眼』は、
『色』を、
『見ることができる!』ので、
『眼』が、
『我でなくてはならない!』。
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若眼見而非我。則違先言見者是我。 |
若し眼は見るも、我に非ざれば、則ち先の言わく、『見者は、是れ我なり』、に違う。 |
若し、
『眼』が、
『見る!』のに、
『我でない!』とすれば、
先に、言った、――
『見者』は、
『我である!』と、
『違うことになる!』。
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若見者是我。我則不應得聞聲等諸塵。何以故。眼是見者。不能得聞聲等塵故。是故我是見者。是事不然。 |
若し見者は、是れ我ならば、我は、則ち応に声等の諸塵を聞くを得べからず。何を以っての故に、眼が、是れ見者ならば、声等の諸塵を聞くを得る能わざるが故なり。是の故に我は、是れ見者なりとは、是の事然らず。 |
若し、
『見者』が、
『我だ!』とすれば、
『我』は、
『声等の諸塵』を、
『聞くことができないはずだ!』。
何故ならば、
『眼』が、
『見者だ!』とすれば、
『声等の塵』を、
『聞くことができないからだ!』、
是の故に、
『我』が、
『見者だ!』とすれば、
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
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若謂如刈者用鎌刈草。我亦如是以手等能有所作者。是事不然。何以故。今離鎌別有刈者。而離身心諸根無別作者。 |
若し『刈る者の、鎌を用いて草を刈るが如く、我も亦た是の如く、手等を以って、能く所作有り』、と謂わば、是の事は然らず。何を以っての故に、今、鎌を離れて別に刈る者有り、而るに身心諸根を離れて、別の作者無ければなり。 |
若し、こう謂えば、――
譬えば、
『刈る者』が、
『我』も、
是のように、
『手』等を、
『用いて!』、
何かを、
『作すことができる!』、と。
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
何故ならば、
今、
『鎌』を、
『離れて!』、
『別に!』、
『刈る者』が、
『有る!』が、
而し、
『身、心、諸根』を、
『離れて!』、
『別の!』、
『作者』は、
『無いからである!』。
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若謂作者雖非眼耳等所得亦有作者。則石女兒能有所作。如是一切諸根皆應無我。 |
若し、『作者は、眼耳等に非ずと雖も、所得は亦た有り』と謂わば、作者は、則ち石女の児にも、能く所作有らん。是の如き一切の諸根は、皆、応に無我なるべし。 |
若し、こう謂うならば、――
『作者』は、
『眼、耳等ではない!』が、
『作者』とは、
『石女( うまずめ)』の、
『児であり!』、
何かを、
『作す!』ことも、
『可能だろう!』。
是のように、
一切の、
『諸根』に、
皆、
『我』は、
『存在しない!』。
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若謂右眼見物而左眼識。當知別有見者。是事不然。今右手習作左手不能。是故無別有作者。若別有作者。右手所習左手亦應能。而實不能。是故更無作者。 |
若し、『右眼物を見るに、而も左眼識れば、当に知るべし、別に見者有り』、と謂わば、是の事然らず。今、右手作を習うも、左手は能わず。是の故に、別に作者有ること無し。若し別に作者有らば、右手の習う所を、左手も亦た応に能くすべし。而るに実に能わず。是の故に更に作者無し。 |
若し、こう謂うならば、――
『右眼』が、
『物』を、
『見た!』のに、
『左眼』が、
『識っている!』ということは、
当然、こう知るべきだ、――
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
今、
『右手』が、
『作る!』ことを、
『習った!』としても、
『左手』には、
『作れないからだ!』。
是の故に、
若し、
別の、
『作者』が、
『有れば!』、
『右手』の、
『習った!』、
『事』は、
亦た、
『左手』にも、
『出来るはずだ!』が、
而し、
『実には!』、
『出来ない!』。
是の故に、
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復次有我者言。見他食果口中涎出。是為我相。是事不然。何以故。是念力故非是我力。又亦即是破我因緣。人在眾中愧於涎出。而涎強出不得自在。當知無我。 |
復た次ぎに、我有りとする者、『他の果を食するを見て、口中に涎出づるは、是れ我の相なり』、と言わば、是の事然らず。何を以っての故に、是れ念の力の故にして、是れ我の力に非ざればなり。又亦た即ち是れ我の因縁を破るなり。人は、衆中に在りて、涎の出づるを愧(は)づるに、涎の強いて出づるは、自在を得ざればなり、当に知るべし、無我なるを。 |
復た次ぎに、
『我』は、
『有る!』とする者が、こう言う、――
『他人』が、
『果』を、
『食っている!』のを、
『見る!』と、
『口』中に、
『涎』が、
『出てくる!』が、
是れが、
『我』の、
『相である!』、と。
是の、
『事』は、
『真実ではない!』。
何故ならば、
是れは、
『念』の、
『力ではある!』が、
是れは、
『我』の、
『力ではないからである!』。
又亦た、
是れは、
『我』の、
『因縁』を、
『破ることにもなる!』。
謂わゆる、
『人』は、
『衆中』に於いて、
『涎』が、
『強いて!』、
『出たとすれば!』、
『自在ではないからである!』。
当然、
こう知らなくてはならない、――
『我』は、
『存在しない!』、と。
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復次又有顛倒過罪。先世是父今世為子。是父子我一。但身有異。 |
復た次ぎに、又顛倒の過罪有り。先世は是れ父、今世を子と為すに、是の父子の我は一にして、但だ身にのみ異有ればなり。 |
復た次ぎに、
又、
若し、
『先世』が、
『父であり!』、
『今世』が、
『子である!』として、
是の、
『父』と、
『子』は、
『我』が、
『一である!』のに、
但だ、
『身』のみに、
『異』が、
『有るからである!』。
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如從一舍至一舍。父故是父。不以入異舍故便有異。 |
一舎より、一舎に至るも、父は故(もと)より是れ父にして、異舍に入るを以っての故に、便(すなわ)ち異有らざるが如し。 |
譬えば、これと同じである、――
『一舎』より、
『一舎』に、
『至っても!』、
『父』は、
『故(もと)のまま!』の、
『父であり!』、
『異なった!』、
『舎』に、
『入る!』が故に、
『父』に、
『異なり!』が、
『有ることにはならない!』。
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若有我是二應一。如是則有大過。 |
若し我有らば、是の二は応に一なるべし。是の如きは則ち大過有り。 |
若し、
『我』が、
『有る!』とすれば、
是の、
『父』と、
『子』の、
『二』は、
『一でなければならない!』が、
是の通りならば、
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若謂無我五陰相續中亦有是過。是事不然。何以故。五陰雖相續。或時有用或時無用。 |
若し、『我無くして、五陰相続する中にも、亦た是の過有り』、と謂わば、是の事は然らず。何を以っての故に、五陰は、相続すと雖も、或は時に、用有り、或は時に、用無し。 |
若し、こう謂えば、――
『我』が、
『無ければ!』、
『五陰』が、
『相続する!』中にも、
是の、
『過(父子即一)』が、
『有る!』、と。
是の、
『事』も、
『真実ではない!』。
何故ならば、
『五陰』が、
『相続しても!』、
或は、
時に、
『用(機能 function )』が、
『有り!』、
或は、
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如蒲桃漿持戒者應飲蒲桃酒不應飲。若變為苦酒還復應飲。五陰相續亦如是。有用有不用。 |
蒲桃の漿を、持戒者は応に飲むべく、蒲桃の酒は、応に飲むべからず、若し変じて苦酒と為れば、還って復た応に飲むべきが如く、五陰の相続も亦た是の如く、用有り、用ならざる有り。 |
譬えば、
『蒲桃』の、
『蒲桃』の、
『酒』は、
『持戒者』が、
『飲む!』には、
『適さない!』が、
若し、
『変じて!』、
『苦酒(酢)』に、
『為れば!』、
復た、
『飲む!』に、
『適するようになるように!』、
『五陰の相続』にも、
是のように、
『用( 働きが有る!)』と、
『不用( 働きが無い!)』が、
『有る!』。
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若始終一我有如是過。五陰相續無如是過。但五陰和合故假名為我無有決定。 |
若し始終一我なれば、是の如きの過有るも、五陰の相続には、是の如き過無し。但だ五陰和合の故に、仮名して我と為し、決定有ること無し。 |
若し、
『始め!』より、
『終り!』まで、
『五陰』の、
但だ、
『五陰』の、
『和合』の故に、
仮に、
『我』と、
『呼んでいる!』が、
決定した、
『我』は、
『存在しない!』。
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如樑椽和合有舍。離樑椽無別舍。如是五陰和合故有我。若離五陰實無別我。是故我但有假名無有定實。 |
梁と椽と和合すれば、舎有るも、梁と椽とを離るれば、別に舎無きが如し。是の如く五陰の和合の故に、我有り。若し五陰を離るれば、実に別の我無し。是の故に我は、但だ仮名のみ有り、定実有ること無し。 |
譬えば、
『梁( ハリ)』と、
『椽( タルキ)』とが、
『梁』と、
『椽』とを、
『離れれば!』、
別に、
『舎』は、
『無いように!』、
是のように、
若し、
『五陰』を、
『離れれば!』、
実に、
別の、
『我』は、
『存在しない!』。
是の故に、
『我』には、
但だ、
『仮名』のみが、
『有り!』、
定まった、
『実』は、
『存在しない!』。
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汝先說離受別有受者。以受分別受者是天是人。是皆不然。當知但有受無別受者。 |
汝が先に説かく、『受を離れて別に受者有り、受を以って、受者を是れ天なり、是れ人なりと分別す』、と。是れは皆然らず。当に知るべし、但だ受有りて、別の受者無し。 |
お前は、
先に、こう説いた、――
『受( 身)』を、
『離れて!』、
『別に!』、
『受者(我)』が、
『有り!』、
『受』を、
『用いて!』、
是れは、
『天だ!』とか、
是れは、
『人だ!』と、
『分別する!』、と。
是れは、
皆、
『間違っている!』。
当然、こう知るべきだ、――
但だ、
『受』のみが、
『存在して!』、
別の、
『受者』は、
『存在しない!』、と。
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若謂離受別有我。是事不然。若離受有我。云何可得說是我相。 |
若し、『受を離れて別に我有り』、と謂わば、是の事は然らず。若し受を離れて、我有らば、云何が、『是れ我の相なり』と説くを得べき。 |
若し、こう謂えば、――
『受』を、
『離れて!』、
『別に!』、
『我』が、
『有る!』、と。
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
若し、
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若無相可說。則離受無我。若謂離身無我但身是我。是亦不然。何以故。身有生滅相。我則不爾。 |
若し相の可説無ければ、則ち受を離れて、我無し。若し『身を離れて、我無し。但だ身、是れ我なるのみ』、と謂わば、是れも亦た然らず。何を以っての故に、身には、生滅の相有るも、我は則ち爾らざればなり。 |
若し、
『説くことのできる!』、
『相』が、
『無ければ!』、
『受』を、
『離れた!』、
『我』も、
『無いことになる!』。
若し、こう謂うならば、――
『身』を、
但だ、
『身』が、
『我なのだ!』、と。
是れも、
亦た、
『真実でない!』。
何故ならば、
『身』には、
『生、滅の相』が、
『有る!』が、
『我』には、
『相』が、
『無いからだ!』。
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復次云何以受即名受者。若謂離受有受者。是亦不然。 |
復た次ぎに、云何が、受を以って、即ち受者と名づくる。若し『受を離れて、受者有り』、と謂わば、是れも亦た然らず。 |
復た次ぎに、
何故、
『受』を、
『用いて!』、
それを、
『受者』と、
『呼べるのか?』。
若し、こう謂うならば、――
『受』を、
『離れて!』、
『受者』が、
『有る!』、と。
是れも、
亦た、
『間違っている!』。
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若不受五陰而有受者。應離五陰別有受者。 |
若し五陰を受けずして、受者有らば、応に五陰を離れて、別に受者有るべし。 |
若し、
『五陰』を、
『五陰』を、
『離れて!』、
『別に!』、
『受者』が、
『有るはずだ!』。
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眼等根可得而實不可得。是故我不離受。不即是受。亦非無受。亦復非無。此是定義。 |
眼等の根は得べくして、而も実に得べからず。是の故に、我は、受を離れず、即ち是れ受にあらず、亦た受無きに非ず、又復た無なるに非ず。此れは是れ定義なり。 |
『眼等の根』は、
『認識できるようでいて!』、
『実は!』、
『認識できない!』。
是の故に、
『我』は、
『受』を、
『離れず!』、
『我』が、
即ち、
『受だということもなく!』、
『我』には、
『受』が、
『無いでもなく!』、
亦復た、
『我』が、
『無いでもない!』、
此れが、
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是故當知。過去世有我者。是事不然。 |
是の故に当に知るべし、過去世に我有らば、是の事は然らず。 |
是の故に、
こう知らなくてはならない、――
『過去世』に、
『我』が、
『有った!』とすれば、
是の、
『事』は、
『間違っている!』、と。
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何以故
過去我不作 是事則不然
過去世中我 異今亦不然
若謂有異者 離彼應有今
我住過去世 而今我自生
如是則斷滅 失於業果報
彼作而此受 有如是等過
先無而今有 此中亦有過
我則是作法 亦為是無因 |
何を以っての故に、
過去の我は作さず、是の事は則ち然らず、
過去世中の我は、今と異なりも亦た然らず。
若し異有りと謂わば、彼れを離れて応に今有るべし、
我は過去世に住まりて、而も今の我自ら生ぜん。
是の如きは則ち断滅にして、業の果報を失う、
彼れ作して此れ受くる、是の如き等の過有り。
先に無くして今有り、此の中にも亦た過有り、
我は則ち是れ作法にして、亦た是れを無因と為す。
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何故ならば、
『過去』の、
『我』が、
『今の我』に、
『作った!』とすれば、
是の、
『事』は、
『真実でない!』。
『過去世』中の、
『我』が、
『今の我』と、
『異なる!』としても、
亦た、
『真実でない!』。
若し、こう謂うならば、――
『過去』の、
彼の、
『過去』の、
『過去』の、
『我』が、
『過去世』に、
『住まったまま!』で、
『今の我』が、
『自ら!』、
『生じるはずだ!』。
若し、是の通りならば、――
『断滅であり!』、
『業』の、
『果報』を、
『失うだろう!』、――
則ち、
而も、
『此れ!』が、
『報』を、
『受ける!』という、
是のような、
『過』が、
『有るだろう!』。
若し、
『先に!』、
『無かった!』、
『我』が、
『今!』、
『有る!』とすれば、
此の中にも、
『過』が、
『有る!』、
『我』とは、
則ち、
『作られた!』、
『法である!』、
是れに、
『因』が、
『無いというのか!』。
|
不作(ふさ):梵語 na-abhuum の訳、我作 abhuum ( I do, I become )の否定。 |
|
参考:
nābhūm atītam adhvānam ity etan nopapadyate |
yo hi janmasu pūrveṣu tato ’nyo na bhavaty ayam ||9||
It is incorrect to say: “I did not occur at a time in the past.”
Whatever occurred before, this is not other than that.
yadi hy ayaṃ bhaved anyaḥ pratyākhyāyāpi taṃ bhavet |
tathaiva ca sa saṃtiṣṭhet tatra jāyeta cāmṛtaḥ ||10||
If this were other, it would arise even without that.
Likewise, that could remain and be born without dying in that [former life].
ucchedaḥ karmaṇāṃ nāśaḥ kṛtam anyena karma ca |
pratisaṃvedayed anya evam ādi prasajyate ||11||
Cut off and actions wasted,
acts committed by others would be experienced by someone else.
Such would be the consequences.
nāpy abhūtvā samudbhūto doṣo hy atra prasajyate |
kṛtako vā bhaved ātmā saṃbhūto vāpy ahetukaḥ ||12||
There is no occurence from what has not occured.
In that case faults would follow:
the self would be something made
or even though it occured it would be uncaused.
参考:
To say ‘The self did not arise in the past’
Is also inadmissible.
That very one which arose in past lives
Is not different from this one.
If this one were different
It would arise even without that self.
Similarly, that one would remain
And without it dying, this one would be born.
Annihilation, wasted actions,
Actions done by someone
Being experienced by someone else
And so forth would follow.
It does not arise from being non-arisen
Because faults would follow from this.
The self would be made
And it would arise without a cause.
参考:
「過去世に私は存在しなかった」ということは,成り立たない。なぜならば,およそ,多くの前世(前生)におけるものからは異なったものが,これ(いまの私)である,ということはないからである。」
もしもこれ(いまの私)が〔前世の私と〕異なっているとするならば,それ(前世の私)を排除してもまた,〔これ(いまの私)は〕存在する,ということになるであろう。それならば, それ(前世の私)はそのまま存續するであろう,あるいはそこでは,まだ死なない〔のにその〕ものが生まれる,ということになるであろう。
〔その場合には〕,断滅,もろもろの業の〔果報を生じない〕滅失,また,他人によってつくられたもろもろの業が,別の他人によって受用されるであろうことなど,このような誤りが付随する。
〔我(アートマン)は〕,先には存在していなくて,いま生起した,ということはない。なぜならば,そうであれば,誤りが付随するからである。すなわち,あるいは,我(アートマン)はつくられたものとなるであろう。あるいは,原因が無くて生起したもの〔となるであろう〕。
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過去世中我。不作今我。是事不然。何以故。過去世中我。與今我不異。若今我與過去世我異者。應離彼我而有今我。 |
過去世中の我は、今の我と作らず、是の事は然らず。何を以っての故に、過去世中の我は、今の我と異ならざればなり。若し今の我が、過去世の我と異ならば、応に彼の我を離れて、而も今の我有るべし。 |
『過去世』中の、
『我』が、
『今の我』と、
『作らない!』とすれば、
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
何故ならば、
『過去世』中の、
『我』は、
『今の我』と、
『異ならないからだ!』。
若し、
『今の我』が、
彼の、
『過去世』の、
『我』を、
『離れても!』、
『今の我』が、
『有るはずだ!』。
|
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又過去世我。亦應住彼此身自更生。若爾者即墮斷邊。失諸業果報。又彼人作罪此人受報。有如是等無量過。 |
又過去世の我も、亦た応に彼に住まり、此の身は自ら更に生ずべし。若し爾らば、即ち断の辺に墮ち、諸業の果報を失わん。又彼の人は罪を作り、此の人は報を受くる、是の如き等の無量の過有らん。 |
又、
『過去世』の、
『我』も、
彼の、
『過去世』に、
『住まり!』、
此の、
『今の我』は、
自ら、
『更に!』、
『生じるはずである!』。
若し、
爾うならば、
即ち、
『断滅の辺』に、
『墮ちて!』、
諸の、
『業の果報』を、
『失うだろう!』。
又、
|
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又是我應先無而今有。是亦有過。我則是作法。亦是無因生。是故過去我。不作今我。是事不然。 |
又是の我は、応に先に無くして、今有るべし、是れも亦た過有り。我は、則ち是れ作法にして、亦た是れ無因の生なり。是の故に過去の我は、今の我と作らずとは、是の事然らず。 |
又、
是の、
『我』は、
『先に!』は、
『無くて!』、
『今!』、
『有る!』とすれば、
是れも、
『過』が、
『有る!』。
是の、
『我』が、
則ち、
『作られた!』、
『法でありながら!』、
亦た、
『無因』の、
『生だからである!』。
是の故に、
『過去』の、
『我』は、
『今の我』と、
『作らない!』とすれば、
是の、
『事』は、
『正しくない!』。
|
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復次
如過去世中 有我無我見
若共若不共 是事皆不然 |
復た次ぎに、
過去世中の、有我と無我の見、
若しは共若しは不共の如き、是の事は皆然らず。
|
復た次ぎに、
例えば、
『過去世』中に、
『我』は、
『有るのか?』、
『無いのか?』、
『有ることもあり、無いこともあるのか?』、
『有ることもなく、無いこともないのか?』、
是の、
|
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参考:
evaṃ dṛṣtir atīte yā nābhūm aham abhūm aham |
ubhayaṃ nobhayaṃ ceti naiṣā samupapadyate ||13||
Therefore, “the self occured, did not occur, both or neither:”
all those views of the past are invalid.
参考:
Thus, those views
‘The self arose in the past’,
‘The self did not arise’, ‘both’ or ‘neither’
Are inadmissible.
参考:
このようにして,およそ,「過去〔世〕に私は存在しなかった」,「私は存在した」,「その両者である」,「その両者ではない」という,この〔誤りの〕見解は成り立たない。
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如是推求過去世中邪見有無。亦有亦無。非有非無。是諸邪見。先說因緣過故。是皆不然 |
是の如く推求するに、過去世中に邪に有、無、亦有亦無、非有非無を見れば、是の諸の邪見は、先に因縁を説ける過の故に、是れ皆然らず。 |
是のように、推求すると、――
『過去世』中に、
『邪に!』、
『有る!』とか、
『無い!』とか、
『有ることもあり、無いこともある!』とか、
『有ることもなく、無いこともない!』と、
『見る!』とすれば、
是の、
諸の、
『邪見』は、
先に、
『因縁』を、
『説いたような!』、
『過』の故に、
是れは、
皆、
『真実でない!』。
|
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我於未來世 為作為不作
如是之見者 皆同過去世 |
我は未来世に於いて、作と為すや不作と為すや、
是の如きの見は、皆過去世に同じ。 |
『我』は、
『未来世』に於いて、
『作るのか(生起するのか)?』、
『作らないのか(生起しないのか)?』、
是のような、
|
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参考:
adhvany anāgate kiṃ nu bhaviṣyāmīti darśanam |
na bhaviṣyāmi cety etad atītenādhvanā samam ||14||
“I will occur at another time in the future,”
“I will not occur:”
all those views are similar to [those of] the past.
参考:
Those views
‘It will arise again in the future’
Or ‘It will not arise again in the future’
Are similar to the views of the past.
参考:
「未来世に私は存在するであろう」といい,また「存在しないであろう」という,この見解は,〔以上の〕過去世〔に関するもの〕と同樣である。
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我於未來世中。為作為不作。如是四句。如過去世中過咎。應在此中說。 |
我は、未来世中に、作と為すや、不作と為すや。是の如き四句は、過去世中の過咎の如く、応に此の中に在りて説くべし。 |
『我』は、
『未来世』中に、
『作るのか?』、
『作らないのか?』、
是のような、
『四句』は、
『過去世』中の、
『過咎』と、
『同じように!』、
此の中に於いて、
『説かれるはずだ!』。
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復次
若天即是人 則墮於常邊
天則為無生 常法不生故 |
復た次ぎに、
若し天即ち是れ人ならば、則ち常の辺に墮つ、
天則ち無生、常法にして不生と為るが故なり。
|
復た次ぎに、
若し、
『天』が、
即ち、
『人だ!』とすれば、
則ち、
『常の辺』に、
『堕ちるだろう!』。
何故ならば、
『天』が、
『無生となり!』、
『常法となり!』、
『不生となるからだ!』。
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参考:
sa devaḥ sa manuṣyaś ced evaṃ bhavati śāśvatam |
anutpannaś ca devaḥ syāj jāyate na hi śāśvatam ||15||
If the divine were human,
then there would be something permanent.
The divine is utterly unborn,
because there is no birth in permanence.
参考:
If the god were the human
In that case, the god would be permanent.
The god would be unborn
Because the permanent are not produced.
参考:
もしもかの神(天)〔であった〕ものが,そのままこの人間であるとするならば,それならば,常住〔の邪見〕が存在することになる。また,神は生ずることのないものとなるであろう。なぜならば,常住のものは生ずることがないからである。
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若天即是人。是則為常。若天不生人中。云何名為人。常法不生故。常亦不然。 |
若し天は、即ち是れ人ならば、是れを則ち常と為す。若し天にして、人中に生ぜずんば、云何が名づけて、人と為さん。常法は不生なるが故に、常も亦た然らず。 |
若し、
『天』が、
即ち、
『人だ!』とすれば、
是れは、
『常である!』。
若し、
『天』が、
『人』中に、
『生じなければ!』、
何故、
『人』と、
『呼ばれるのか?』。
『常』の、
『法』は、
『生じない!』が故に、
『常』も、
亦た、
『正しくない!』。
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復次
若天異於人 是即為無常
若天異人者 是則無相續 |
復た次ぎに、
若し天は人と異なれば、是れを即ち無常と為す、
若し天にして人と異なれば、是れ則ち相続無し。
|
復た次ぎに、
若し、
『天』が、
『人』と、
『異なる!』とすれば、
是れは、
即ち、
『無常である!』。
若し、
『天』が、
『人』と、
『異なれば!』、
是れには、
『相続』が、
『無いからだ!』。
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参考:
devād anyo manuṣyaś ced aśāśvatam ato bhavet |
devād anyo manuṣyaś cet saṃtatir nopapadyate ||16||
If the human were other than the divine,
then there would be no permanence.
If the divine and the human were different,
there could be no continuity [between them].
参考:
If the human were different from the god
In that case, the human would be impermanent.
If the god and the human were different
A continuum would be inadmissible.
参考:
もしも人間が神(天)からは異なっているとするならば,それから,非常住〔の邪見〕が存在することになるであろう。もしも人間が神からは異なっているとするならば,連續
(相續) ということは,成り立たないことになるであろう。
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若天與人異。則為無常。無常則為斷滅等過。如先說過。若天與人異。則無相續。若有相續。不得言異。 |
若し天と人と異なれば、則ち無常と為す。無常なれば、則ち断滅等の過有り。先に過を説けるが如く、若し天と人と異なれば、則ち相続無し。若し相続有らば、『異なり』と言うを得ざればなり。 |
若し、
『天』が、
『人』と、
『異なる!』とすれば、
則ち、
『天』は、
『無常であり!』、
若し、
『無常ならば!』、
則ち、
『断滅等の過である!』。
例えば、
若し、
『天』が、
『人』と、
『異なれば!』、
則ち、
『相続』が、
『無いことになる!』。
若し、
『相続』が、
『有れば!』、
『異なる!』とは、
『言えないからだ!』。
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復次
若半天半人 則墮於二邊
常及於無常 是事則不然 |
復た次ぎに、
若し半ば天半ば人ならば、則ち二辺に堕せん、
常及び無常に於いて、是の事は則ち然らず。
|
復た次ぎに、
若し、
『天』が、
『半分!』、
『人』が、
『半分!』ならば、
則ち、
『常』が、
『半分!』、
『無常』が、
『半分!』という、
『二辺』に、
『堕ちる!』が、
是のような、
『事』は、
『正しくない!』。
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参考:
divyo yady ekadeśaḥ syād ekadeśaś ca mānuṣaḥ |
aśāśvataṃ śāśvataṃ ca bhavet tac ca na yujyate ||17||
If one part were divine and one part were human,
there would be both permanence and no permanence.
But that is not reasonable.
参考:
If one part were a god
And one part were a human
There would be both permanence and impermanence.
That too is not tenable.
参考:
もしも一部分が神(天)に属し,一部分が人間に属する,とするならば,非常住と常住とが〔同時に〕存在することになるであろう。しかし,それは正しくない。
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若眾生半身是天。半身是人。若爾則有常無常。半天是常。半人是無常。但是事不然。何以故。一身有二相過故。 |
若し衆生の半身は是れ天、半身は是れ人なれば、若し爾らば、則ち有常無常なり。半天は、是れ常、半人は是れ無常なればなり。但だ是の事は然らず。何を以っての故に、一身に二相有る過の故なり。 |
若し、
『衆生』の、
『半身』が、
『天!』、
『半身』が、
『人!』ならば、
若し、
爾うならば、
『有常無常である!』、
何故ならば、
『半分』の、
『天』は、
『常であり!』、
『半分』の、
『人』は、
『無常だからである!』。
但だ、
是の、
何故ならば、
『一身』に、
『二相を有する!』という、
『過失が有る!』。
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復次
若常及無常 是二俱成者
如是則應成 非常非無常 |
復た次ぎに、
若し常及び無常の、是の二倶に成ぜば、
是の如きは則ち、非常非無常を成ずべし。
|
復た次ぎに、
若し、
『常』と、
『無常』という、
是の、
『二』が、
『いっしょに!』、
『成立する!』ならば、
是のようなものは、
『非常』と、
『非無常』も、
『いっしょに!』、
『成立するはずだ!』。
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参考:
aśāśvataṃ śāśvataṃ ca prasiddham ubhayaṃ yadi |
siddhe na śāśvataṃ kāmaṃ naivāśāśvatam ity api ||18||
If both permanence and impermanence were established,
you would have to assert non-permanence and non-impermance as established.
参考:
If being both permanent and impermanent
Were established
This would rely on accepting that
Being neither permanent nor impermanent could be established.
参考:
もしも非常住と常住との両者が〔同時に〕成立する,とするならば,「常住でもなく,非常住でもない」ということもまた,随意に,成立することになるであろう。
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若常無常二俱成者。然後成非常非無常。與常無常相違故。 |
若し常と無常との二、倶に成ぜば、然る後には、非常非無常成ぜん。常無常と相違するが故なり。 |
若し、
『常』と、
『無常』という、
『相違する!』、
『二』が、
『いっしょに!』、
『成立する!』ならば、
その後、
『非常非無常』が、
『成立するだろう!』、
『非常非無常』と、
『常無常』とは、
『相違するからだ!』。
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今實常無常不成。是故非常非無常亦不成。 |
今、実に常無常は成ぜず、是の故に非常非無常も亦た成ぜず。 |
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復次今生死無始。是亦不然。 |
復た次ぎに、今、生死は無始なりとせば、是れも亦た然らず。 |
復た次ぎに、
今、
『生死』が、
『無始である!』とすれば、
是れも、
亦た、
『真実でない!』。
|
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何以故
法若定有來 及定有去者
生死則無始 而實無此事 |
何を以っての故に、
法若し定んで来たる有り、及び定んで去る有らば、
生死は則ち無始なり、而れども実に此の事無し。
|
何故ならば、
若し、
『法』が、
及び、
定んで、
『去る!』ことが、
『有る!』とすれば、
則ち、
『生死』は、
『無始だということになる!』。
而し、
|
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参考:
kutaścid āgataḥ kaścit kiṃcid gacchet punaḥ kva cit |
yadi tasmād anādis tu saṃsāraḥ syān na cāsti saḥ ||19||
If something came from somewhere and went somewhere,
then samsara would be without beginning.
That is not the case.
参考:
If there were something that could come from somewhere
And could also go somewhere
Then cyclic existence would be beginningless.
That however does not exist.
参考:
もしも何者かが,どこかから来て,さらに,どこかへ去るとするならば,〔その場合には〕,それゆえ,輪迴は,始まりの無いものとなるであろう。しかしながら,そのようなものは存在しない。
|
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法若決定有所從來。有所從去者。生死則應無始。 |
法に、若し決定して従いて来たる所有り、従いて去る所有らば、生死は則ち応に無始なるべし。 |
『法』に、
若し、
『決定して!』、
何処か、
『来た!』所が、
『有り!』、
何処か、
『去る!』所が、
『有れば!』、
則ち、
『生死』は、
『無始でなければならない!』。
|
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是法以智慧推求。不得有所從來。有所從去。是故生死無始。是事不然。 |
是の法を、智慧を以って推求するに、従って来たる所有り、従って去る所有るを得ず。是の故に、生死の無始なるは、是の事然らず。 |
是の、
『法』を、
『智慧』を、
『用いて!』、
『推求すれば!』、――
何処か、
何処か、
『去る!』所が、
『有る!』とも、
『認められない!』。
是の故に、
『生死』が、
『無始である!』とすれば、
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
|
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|
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復次
今若無有常 云何有無常
亦常亦無常 非常非無常 |
復た次ぎに、
今若し常有る無くんば、云何が無常と、
亦常亦無常と、非常非無常と有らん。
|
復た次ぎに、
今、
若し、
何故、
『無常』や、
『常でもあり、無常でもある!』、
『常でもなく、無常でもない!』が、
『有るのか?』。
|
|
|
参考:
nāsti cec chāśvataḥ kaścit ko bhaviṣyaty aśāśvataḥ |
śāśvato ’śāśvataś cāpi dvābhyām ābhyāṃ tiraskṛtaḥ ||20||
If there were nothing permanent at all,
what thing could be impermanent,
permanent and impermanent, free of both?
参考:
If nothing is permanent
What could be impermanent?
What could be both permanent and impermanent
Or free of both?
参考:
もしもどのような常住のものも存在しないのであるならば,どのような非常住のものが,存在するであろうか。〔どのような〕常住であって且つ非常住のもの〔が,存在するであろうか〕。また,これら両者を離れた〔常住でもなく且つ非常住でもない,どのような〕ものが,〔存在するであろうか〕。
|
|
若爾者。以智慧推求。無法可得常者。誰當有無常。因常有無常故。 |
若し爾らば、智慧を以って推求するに、法の常を得べき者無し。誰か当に無常有るべき。常に因りて、無常有るが故なり。 |
若し、
爾うならば、
『智慧』を、
『用いて!』、
『推求すれば!』、――
『常だ!』と、
『認められる!』ような、
『法』は、
『存在しない!』。
何処に、
『無常』という、
『法』が、
『存在するのか?』。
何故ならば、
|
|
参考:『大智度論巻70』:『神者。凡夫人憶想分別隨我心取相故計有神。外道說神有二種。一者常二者無常。若計神常者常修福德後受果報故。或由行道故。神得解脫。若謂神無常者為今世名利故有所作。常無常者。有人謂神。有二種。一者細微常住。二者現有所作。現有所作者。身死時無常。細神是常。有人言神非常非無常。常無常中俱有過。若神無常即無罪福。若常亦無罪福。何以故若常則苦樂不異。譬如虛空雨不能濕風日不能乾。若無常則苦樂變異。譬如風雨在牛皮中則爛壞。以我心故說必有神。但非常非無常。佛言四種邪見皆緣五眾。但於五眾謬計為神。神及世間者。世間有三種。一者五眾世間。二者眾生世間。三者國土世間。此中說二種世間。五眾世間國土世間。眾生世間即是神。於世間相中亦有四種邪見。問曰。神從本已來無故應錯。世間是有云何同神邪見。答曰。但破於世間起常無常相不破世間。譬如無目人得蛇以為瓔珞有目人語是蛇非是瓔珞。佛破世間常顛倒不破世間。何以故現見無常故亦不得言無無常。罪福不失故因過去事有所作故常無常二俱有過故非常非無常。著世間過故。』 |
|
|
若二俱無者。云何有亦有常亦無常。 |
若し二、倶に無くんば、云何が亦有常亦無常有らん。 |
若し、
『常』と、
『無常』の、
『二』が、
『どちらも!』、
『無ければ!』、
何故、
『常でもあり、無常でもある!』が、
『有るのか?』。
|
|
|
|
|
若無有常無常。云何有非有常非無常。因亦有常亦無常故。有非有常非無常。 |
若し有常無常無くんば、云何が非有常非無常有らん。亦有常亦無常に因るが故に、非有常非無常有り。 |
若し、
『常でもあり、無常でもある!』が、
『無ければ!』、
何故、
『有常でもなく、無常でもない!』が、
『有るのか?』。
何故ならば、
『有常でもあり、無常でもある!』に、
『因る!』が故に、
『有常でもなく、無常でもない!』が、
『有るからだ!』。
|
|
|
注:常=A、無常=B とするとき、亦常亦無常は (A+B) となり、非常非無常は=(ーAーB) 、即ち=ー(A+B) となるので、即ち亦常亦無常に因り、非常非無常が有る。 |
|
是故依止過去世常等四句不可得。有邊無邊等四句依止未來世。是事不可得。今當說。 |
是の故に過去世に依止する、常等の四句は得べからず。有辺、無辺等の四句は、未来世に依止するも、是の事も得べからず。今当に説くべし。 |
是の故に、
『過去世』に、
『依止( 依存)する!』、
『常等の四句』は、
『認められず!』、
『有辺、無辺等の四句』は、
『未来世』に、
『依止する!』が、
是の、
『事』も、
『認められない!』ことを、
今、
『説明しよう!』、――
|
|
|
|
|
何以故
若世間有邊 云何有後世
若世間無邊 云何有後世 |
何を以っての故に、
若し世間有辺ならば、云何が後世有らん、
若し世間無辺ならば、云何が後世有らん。
|
何故ならば、
若し、
『世間( this world )』が、
『有辺( has an end )』ならば、
何故、
『後世( next world )』が、
『有るのか?』。
若し、
『世間』が、
『無辺( has no end )』ならば、
何故、
『後世』が、
『有るのか?』。
|
|
|
参考:
antavān yadi lokaḥ syāt paralokaḥ kathaṃ bhavet |
athāpy anantavāl lokaḥ paralokaḥ kathaṃ bhavet ||21||
If this world had an end,
how would the next world come to be?
If this world had no end,
how would the next world come to be?
参考:
If the world has an end
How could the next world eventuate?
If the world has no end
How could the next world eventuate?
参考:
もしも世界(世間)が〔時間的に〕有限であるならば,どのようにして,他の世界(来世) が存在するであろうか。また,もしも世界が〔時間的に〕無限であるとしても,どのようにして,他の世界(来世)が存在するであろうか。
|
|
若世間有邊。不應有後世。而今實有後世。是故世間有邊不然。 |
若し世間有辺ならば、応に後世有るべからず。而るに今実に後世有り。是の故に世間の有辺は然らず。 |
若し、
『世間』が、
『有辺』ならば、
『後世』は、
『有るはずがない!』。
而し、
今、
是の故に、
『世間』が、
『有辺だ!』とすれば、
『間違っている!』。
|
|
|
|
|
若世間無邊。亦不應有後世。而實有後世。是故世間無邊亦不然。 |
若し世間無辺ならば、亦た応に後世有るべからず。而るに実に後世有り。是の故に世間の無辺も亦た然らず。 |
若し、
『世間』が、
『無辺』ならば、
亦た、
『後世』は、
『有るはずがない!』。
而し、
是の故に、
|
|
|
|
|
復次是二邊不可得。 |
復た次ぎに、是の二辺は得べからず。 |
|
何以故
五陰常相續 猶如燈火炎
以是故世間 不應邊無邊 |
何を以っての故に、
五陰の常にして相続すること、猶お灯の火炎の如し、
是を以っての故に世間は、応に辺無辺なるべからず。
|
何故ならば、
『五陰』が、
『常であり!』、
『相続する!』のは、
猶お、
『灯の火炎』と、
『同じである!』。
是の故に、
『世間』は、
『辺や!』、
『無辺であるはずがない!』。
|
|
|
参考:
skandhānām eṣa saṃtāno yasmād dīpārciṣām iva |
tasmān nānantavattvaṃ ca nāntavattvaṃ ca yujyate ||22||
Because the continuity of the aggregates is similar to the light of a lamp,
therefore the very existence or non-existence of an end is unreasonable.
参考:
Because this continuum of aggregates
Is similar to the light of a lamp,
Having an end or having no end
Are also not tenable.
参考:
もろもろの構成要素(五蘊)のこの連續(相續)は,灯りの炎〔の連續〕のように,〔續いて〕
現われる。それゆえ,〔時間的に〕有限である‧無限であるということも,正しくない。
|
|
從五陰復生五陰。是五陰次第相續。如眾緣和合有燈炎。若眾緣不盡燈則不滅。若盡則滅。是故不得說世間有邊無邊。 |
五陰に従いて、復た五陰を生ずる、是れ五陰の次第相続なり。衆縁の和合に、灯炎有るが如し。若し衆縁尽きざれば、灯は則ち滅せず。若し尽くれば、則ち滅す。是の故に、『世間に辺、無辺有り』と説くを得ず。 |
『五陰』に、
『従って!』、
『復た!』、
『五陰』を、
『生じる!』、
是れは
『五陰』が、
『次第に!』、
『相続したのである!』。
譬えば、
『衆縁』の、
『和合』の故に、
『灯の火炎』が、
『有る!』ので、
若し、
『衆縁』が、
『尽きなければ!』、
則ち、
『灯』は、
『滅しない!』が、
若し、
『尽きてしまえば!』、
『滅する!』のと、
『同じである!』。
是の故に、こう説くことはできない、――
『世間』には、
『辺、無辺』が、
『有る!』、と。
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復次
若先五陰壞 不因是五陰
更生後五陰 世間則有邊
若先陰不壞 亦不因是陰
而生後五陰 世間則無邊 |
復た次ぎに、
若し先の五陰壊れ、是の五陰に因りて、
更に後の五陰を生ぜずんば、世間は則ち有辺なり。
若し先の陰壊れずして、亦た是の陰に因りて、
而も後の五陰を生ぜずんば、世間は則ち無辺なり。
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復た次ぎに、
若し、
『先の五陰』が、
『壊れてしまい!』、
是の、
『五陰』に、
『因って!』、
更に、
『後の五陰』を、
『生じない!』とすれば、
『世間』は、
則ち、
『有辺だということになる!』。
若し、
『先の五陰』が、
『壊れていない!』のに、
亦た、
是の、
『五陰』に、
『因って!』、
更に、
『後の五陰』を、
『生じない!』とすれば、
『世間』は、
則ち、
『無辺だということになる!』。
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参考:
pūrve yadi ca bhajyerann utpadyeran na cāpy amī |
skandhāḥ skandhān pratītyemān atha loko ’ntavān bhavet ||23||
If the former perished and
that [future] aggregate did not arise in dependence upon this aggregate,
then this world would have an end.
pūrve yadi na bhajyerann utpadyeran na cāpy amī |
skandhāḥ skandhān pratītyemāṃl loko ’nanto bhaved atha ||24||
If the former did not perish and
that [future] aggregate did not arise in dependence upon this aggregate,
then this world would not have an end.
参考:
If the previous aggregates could disintegrate
And these aggregates were made in dependence upon those aggregates
Then since they would not arise
The world would have an end.
If the previous aggregates didn’t disintegrate
And these aggregates were made in dependence upon those aggregates
Then since they would not arise
The world would have no end.
参考:
もしも先行する〔諸構成要素〕が破壞され,それらの諸構成要素に縁って,〔あとの〕 これらの諸構成要素が生じないのであるならば,世界は,〔時間的に〕有限なものとなるであろう。
もしも先行する〔諸構成要素〕が破壞されず,それらの諸構成要素に縁って,〔あとの〕 これらの諸構成要素が生じないのであるならば,世界は,〔時間的に〕無限なものとなるであろう。
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若先五陰壞。不因是五陰更生後五陰。如是則世間有邊。 |
若し先の五陰壊(やぶ)れ、是の五陰に因りて、更に後の五陰を生ぜずんば、是の如きは、則ち世間は有辺なり。 |
若し、
『先の五陰』が、
『壊れてしまい!』、
是の、
『五陰』に、
『因って!』、
更に、
『後の五陰』を、
『生じない!』とすれば、
是のようなものは、
『世間』は、
『有辺だということになる!』。
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若先五陰滅已。更不生餘五陰。是名為邊。邊名末後身。 |
若し先の五陰滅し已りて、更に余の五陰を生ぜず。是れを名づけて辺と為し、辺を末後の身と名づく。 |
若し、
『先の五陰』が、
『滅してしまい!』、
更に、
『他の五陰』を、
『生じなければ!』、
是れを、
是の、
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若先五陰不壞。不因是五陰而生後五陰。世間則無邊。是則為常。而實不爾。 |
若し先の五陰壊れずして、是の五陰に因りて、後の五陰を生ぜずんば、世間は則ち無辺にして、是れ則ち常と為す。而るに実に爾らず。 |
若し、
『先の五陰』が、
『壊れない!』のに、
是の、
『五陰』に、
『因って!』、
『後の五陰』を、
『生じなければ!』、
『世間』は、
則ち、
『無辺だということになり!』、
是れは、
則ち、
『常である!』。
而し、
実は、
『爾うでない!』。
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是故世間無邊。是事不然。世間有二種。國土世間。眾生世間。此是眾生世間。 |
是の故に世間の無辺は、是の事然らず。世間には、二種有り、国土世間と、衆生世間なり。此れは是れ衆生世間なり。 |
是の故に、
『世間』は、
『無辺だ!』とすれば、
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
『世間』には、
『二種』有って、
『国土世間と!』、
『衆生世間である!』が、
此れは、
『衆生世間だからである!』。
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復次如四百觀中說
真法及說者 聽者難得故
如是則生死 非有邊無邊 |
復た次ぎに、四百観中に説けるが如し、
真法及び説者、聴者は得難きが故に、
是の如くんば則ち生死は、有辺にも無辺にも非ず。
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復た次ぎに、
例えば、
『四百観』中には、こう説かれている、――
『真の法』も、
『説く者』も、
『聴く者』も、
『認識する!』ことは、
『困難である!』。
是の故に、
則ち、
『生死』は、
『有辺でもなく!』、
『無辺でもない!』。
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不得真法因緣故。生死往來無有邊。或時得聞真法得道故。不得言無邊。 |
真の法を得ざる因縁の故に、生死の往来に辺有ること無く、或は時に真の法を聞くを得て、道を得るが故に、辺無しと言うを得ず。 |
『真の法』を、
『認めない!』、
『因縁』の故に、
『生死の往来』に、
『辺(限り)』が、
『無く!』、
或は時に、
『真の法』を、
『聞くことができ!』、
『道』を、
『得た!』が故に、
こう言うこともできない、――
『辺』は、
『無い!』、と。
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今當更破亦有邊亦無邊
若世半有邊 世間半無邊
是則亦有邊 亦無邊不然 |
今当に更に亦有辺亦無辺を破らん、
若し世は半ば有辺、世間の半ば無辺なれば、
是れは則ち亦有辺、亦無辺なるも然らず
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今、
更に、
『有辺でもあり、無辺でもある!』を、
『破ることにしよう!』、――
若し、
『世間』の、
『半分』は、
『有辺であり!』、
『半分』は、
『無辺である!』とすれば、
是れが、
則ち、
『有辺でもあり、無辺でもある!』だが、
是れは、
『間違っている!』。
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参考:
antavān ekadeśaś ced ekadeśas tv anantavān |
syād antavān anantaś ca lokas tac ca na yujyate ||25||
If one part had an end and one part did not have an end,
the world would be with and without an end.
That too is unreasonable.
参考:
If one part had an end
And one part had no end
The world would both have an end and have no end.
That too is not tenable.
参考:
もしも〔世界が〕,〔時間的に〕一部分は有限であり,一部分は無限であるとするならば, 世界は,〔時間的に〕有限であり且つ無限である,ということになるであろう。しかしながら,そのようなことは,正しくない。
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若世間半有邊半無邊。則應是亦有邊亦無邊。若爾者。則一法二相。是事不然。 |
若し世間は、半ば有辺、半ば無辺なれば、則ち応に是れ亦有辺亦無辺なるべし。若し爾らば、則ち一法にして二相なり。是の事は然らず。 |
若し、
『世間』が、
『半分』は、
『有辺であり!』、
『半分』は、
『無辺である!』とすれば、
則ち、
是れは、
当然、
『有辺でもあり、無辺でもある!』である。
若し、
爾うならば、――
則ち、
『一法』に、
『二相』、
『有ることになり!』、
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
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何以故
彼受五陰者 云何一分破
一分而不破 是事則不然
受亦復如是 云何一分破
一分而不破 是事亦不然 |
何を以っての故に、
彼の五陰を受くる者は、云何が一分破れ、
一分は破れざる、是の事は則ち然らず。
受も亦た是の如し、云何が一分破れ、
一分は破れざる、是の事も亦た然らず。
|
何故ならば、
彼の、
『五陰』を、
『受けた者』は、
何故、
『一分』が、
『破れ!』、
『一分』が、
『破れないのか?』。
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
『受( 五陰)』も、
亦た、
是の通りだ!
何故、
『一分』は、
『破れ!』、
『一分』は、
『破れないのか?』。
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
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参考:
kathaṃ tāvad upādātur ekadeśo vinaṅkṣyate |
na naṅkṣyate caikadeśa evaṃ caitan na yujyate ||26||
How can one part of the one-who-clings perish
while one part does not perish?
Likewise, that is unreasonable.
upādānaikadeśaś ca kathaṃ nāma vinaṅkṣyate |
na naṅkṣyate caikadeśo naitad apy upapadyate ||27||
How can one part of that-which-is-clung-to perish
while one part does not perish?
Likewise, that is unreasonable.
参考:
How could one part of the appropriator
Be completely disintegrating
While one part would not be disintegrating?
Such is not tenable.
How could one part of the that to be appropriated
Be completely disintegrating
While one part would not be disintegrating?
Such is also not tenable.
参考:
まず第一に,取(執着)の主体の一部分は消滅し,一部分は消滅しないということが,どうして,〔あり得るであろう〕か。このようなことも,正しくない。
また実に,取(執着)の一部分は消滅し,一部分は消滅しないということが,どうして,〔あり得るであろう〕か。このこともまた,成り立たない。
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受五陰者。云何一分破。一分不破。一事不得亦常亦無常。 |
五陰を受くる者、云何が一分破れ、一分破れざる。一事として、亦常亦無常なるを得ず。 |
『五陰』を、
『受ける者』が、
何故、
『一分』が、
『破れて!』、
『一分』は、
『破れないのか?』。
『一事』として、
『常でもあり、無常でもある!』ものなど、
『認められないのに!』。
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受亦如是。云何一分破。一分不破。常無常二相過故。是故世間亦有邊亦無邊則不然。 |
受も亦た是の如し、云何が一分破れ、一分破れざる。常と無常との二相の過の故に、是の故に世間亦有辺亦無辺なれば、則ち然らず。 |
『受』も、
亦た、
是の通りだ!、――
何故、
『一分』が、
『破れて!』、
『一分』が、
『破れないのか?』。
『一法』に、
『常、無常の二相』が、
『有る!』という、
『過』の故に、
是の故に、
『世間』が、
『有辺でもあり!』、
『無辺でもある!』とすれば、
則ち、
『真実でない!』。
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今當破非有邊非無邊見
若亦有無邊 是二得成者
非有非無邊 是則亦應成 |
今当に、非有辺非無辺の見を破るべし、
若し亦有無辺、是の二成ずるを得ば、
非有非無辺、是れも則ち亦た応に成ずべし。
|
今は、
『有辺でもなく、無辺でもない!』という、
『見』を、
『破らなくてはならない!』、――
若し、
『有辺でもあり!』、
『無辺でもある!』という、
『有辺でもなく!』、
『無辺でもない!』という、
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参考:
antavac cāpy anantaṃ ca prasiddham ubhayaṃ yadi |
siddhe naivāntavat kāmaṃ naivānantavad ity api ||28||
If both the presence and absence of an end were established,
you would have to assert non-presence and non-absence as established.
参考:
If both having an end and having no end
Were established
This would rely on accepting that
Neither having an end nor having no end could be established.
参考:
〔世界は〕〔時間的に〕有限であることと無限であることとの両者が,もしも〔同時に〕 成立するならば,〔時間的に〕有限でもなく無限でもないということもまた,随意に,成立することになるであろう。
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與有邊相違故有無邊。如長相違有短。與有無相違。則有亦有亦無。與亦有亦無相違故。則有非有非無。 |
有辺と相違するが故に、無辺有り。長に相違するが故に短有るが如し。有、無と相違すれば、則ち亦有亦無有り。亦有亦無と相違するが故に、則ち非有非無有り。 |
『有辺』と、
『相違する!』が故に、
『無辺』は、
『有る!』。
譬えば、
『長』と、
『相違する!』が故に、
『短』が、
『有るように!』。
『有』とも、
『無』とも、
『相違する!』が故に、
則ち、
『有でもあり、無でもある!』が、
『有る!』。
『有でもあり!』、
『無でもある!』と、
『相違する!』が故に、
則ち、
『有でもなく、無でもない!』が、
『有る!』。
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若亦有邊亦無邊定成者。應有非有邊非無邊。何以故。因相待故。上已破亦有邊亦無邊第三句。今云何當有非有邊非無邊。以無相待故。 |
若し亦有辺亦無辺定んで成ずれば、応に非有辺非無辺有るべし。何を以っての故に、因の相待するが故なり。上に已に亦有辺亦無辺の第三句を破れり。今云何が当に非有辺非無辺有るべし。相待無きを以っての故なり。 |
若し、
『有辺でもあり!』、
『無辺でもある!』が、
『定んで!』、
『成立する!』とすれば、
当然、
『有辺でもなく!』、
『無辺でもない!』も、
『有るはずだ!』、
何故ならば、
『因』が、
『相待するからだ!』。
上に、
已に、
『有辺でもあり、無辺でもある!』という、
『第三句』を、
『破った!』。
今、
何故、
『有辺でもなく、無辺でもない!』という、
『第四句』が、
『有るのか?』。
何故ならば、
『相待する!』、
『因』が、
『無いからである!』。
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如是推求。依止未來世有邊等四見皆不可得。 |
是の如く推求すれば、未来世に依止する有辺等の四見は、皆得べからず。 |
是のように、推求すれば、――
『未来』の、
『世間』に、
『依止する!』、
『有辺』等の、
|
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復次
一切法空故 世間常等見
何處於何時 誰起是諸見 |
復た次ぎに、
一切の法は空なるが故に、世間の常等の見は、
何処にか何時に於いてか、誰か是の諸見を起さん。
|
復た次ぎに、
『一切の!』、
『法』は、
『空である!』が故に、
『世間』の、
『常等の見』を、
『何処で?』、
『何時に?』、
『誰が?』、
是の、
|
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参考:
atha vā sarvabhāvānāṃ śūnyatvāc chāśvatādayaḥ |
kva kasya katamāḥ kasmāt saṃbhaviṣyanti dṛṣṭayaḥ ||29||
And because all things are empty,
about what and in whom do views
such as that of permanence spring forth?
参考:
Alternatively, because every thing is empty,
What views of being permanent and so forth
Could originate? In what place?
In whom? And through what causes?
参考:
あるいはまた,一切の「存在(もの‧こと)」は空であるがゆえに,常住などの諸見解は,どのようなものが,どこに,何びとに,何ゆえに,あり得るであろうか。
|
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上以聲聞法破諸見。今此大乘法中說。諸法從本以來畢竟空性。 |
上には声聞法を以って、諸見を破り、今は此の大乗法中に、『諸法は、本より以来、畢竟じて空性なり』、と説く。 |
上には、
今は、
此の、
『大乗の法』中に、こう説こう、――
諸の、
『法』は、
本より、
畢竟じて、
『空という!』、
『性である!』、と。
|
|
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如是空性法中無人無法。不應生邪見正見。 |
是の如き空性の法中には、人無く、法無ければ、応に邪見も、正見も生ずべからず。 |
是のような、
『空性』の、
『法』中には、
『人も無く!』、
『法も無い!』ので、
『邪見( 彼れの法は邪見である!)』や、
『正見( 我が法は正見である!)』という、
『諸の見』を、
『生じてはならない!』。
|
|
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|
|
處名土地。時名日月歲數。誰名為人。是名諸見體。 |
処を、土地と名づけ、時を、日月歳数と名づけ、誰を、名づけて人と為し、是れを諸見の体と名づく。 |
『処』とは、
『土地のことであり!』、
『時』とは、
『日月歳数であり!』、
『誰』とは、
『人である!』が、
是れが、
『諸の見』の、
『体である!』。
|
|
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|
|
若有常無常等決定見者。應當有人出生此見。 |
若し常、無常等の決定せる見有らば、応当に此の見を出生せる人有るべし。 |
|
破我故無人生是見。應有處所色法現見尚可破。何況時方。 |
我を破るが故に、人の是の見を生ずる無し。応に処有りて、色法の現るる所なるべし。見たるをすら、尚お破るべし。何に況んや、時、方をや。 |
『我』を、
『破った!』が故に、
是の、
『見』を、
有る、
『処』に、
『色法(人)』が、
『現れるはず!』だが、
『眼』に、
況して、
『見えない!』、
『時間、方角』が、
『破られないはずがあろうか?』。
|
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若有諸見者應有定實。若定則不應破。上來以種種因緣破。是故當知見無定體。云何得生。如偈說。何處於何時。誰起是諸見 |
若し諸見有らば、応に定実なる有るべし。若し定なれば、則ち応に破るべからず。上来種種の因縁を以って破れり。是の故に当に知るべし、見に定体無し、云何が生ずるを得ん。偈に、『何処にか、何時にか、誰か、是の諸見を起さん』、と説けるが如し。 |
若し、
諸の、
『見』が、
『有る!』とすれば、
当然、
『定実の法』が、
『有るはずだ!』が、
若し、
『定ならば!』、
『破られるはずがない!』。
上より、
ずーっと、
種種の、
『因縁』で、
『破ってきた!』。
是の故に、
『偈』に、
|
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瞿曇大聖主 憐愍說是法
悉斷一切見 我今稽首禮 |
瞿曇大聖主、憐愍して是の法を説き、
悉く一切の見を断じたまえば、我れ今稽首礼す。
|
『瞿曇( Gautama )』という、
『大聖主』が、
『衆生』を、
『憐愍して!』、
是の、
『法』を、
『説かれ!』、
悉く、
『一切の見』を、
『断たれた!』。
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参考:
sarvadṛṣṭiprahāṇāya yaḥ saddharmam adeśayat |
anukampām upādāya taṃ namasyāmi gautamam ||30||
I bow down to Gautama,
whose kindness holds one close,
who revealed the sublime dharma
in order to let go of all views.
参考:
I pay homage to Gautama
Who, through fully holding loving concern,
Taught the holy Dharma
For the sake of abandoning all views.
参考:
一切の〔誤りの〕見解を断ぜしめるために,慈愍にもとづいて,正しい真理(正法)を說き示されたそのゴータマ(ブッダ)に,私はいま帰命する。
|
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一切見者。略說則五見。廣說則六十二見。為斷是諸見故說法。大聖主瞿曇。是無量無邊不可思議智慧者。是故我稽首禮
中論卷第四 |
一切の見とは、略説すれば則ち五見なり。広説すれば則ち六十二見なり。是の諸見を断ぜんが為の故に、法を説きたまえる、大聖主瞿曇は、是れ無量無辺不可思議の智慧者なり。是の故に我れは稽首礼す。
中論巻第四 |
『一切の見』とは、
略説すれば、
則ち、
『五見であり!』、
広説すれば、
則ち、
『六十二見である!』。
是の、
『諸の見』を、
『断とう!』と、
『思われた!』が故に、
是の、
『法』を、
『説かれた!』、
『大聖主の瞿曇』は、
『無量』、
『無辺』、
『不可思議』の、
『智慧の者である!』。
是の故に、
わたしは、
『稽首礼する!』。
中論巻第四 |
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