巻第三
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中論 巻第三
 龍樹菩薩造
 梵志青目釋
 姚秦三藏鳩摩羅什譯


中論觀有無品第十五(十一偈)

問曰。諸法各有性。以有力用故。如瓶有瓶性布有布性。是性眾緣合時則出。 問うて曰く、諸法には各性有り、力用有るを以っての故なり。瓶に瓶の性有り、布に布の性有るが如し。是の性は、衆縁合する時、則ち出づ。
問い、
諸の、
『法』には、
各、
『性』が、
『有る!』が、
何故ならば、
『力用』が、
『有るからである!』。
例えば、
『瓶』には、
『瓶の性』が、
『有り!』、
『布』には、
『布の性』が、
『有る!』が、
是の、
『性』は、
『衆縁』の、
『合する!』時、
『出ることになる!』。
  力用(りきゆう):作用/機能。梵語 kriyaa, bala の訳、機能/作用/能力( Function, operation, ability )、行為/実行/業務/行動/作業/労働( doing, performing, buisiness, action, act, activity, work, labor )等の義。
答曰
 眾緣中有性  是事則不然 
 性從眾緣出  即名為作法
答えて曰く、
衆縁中に性有りとは、是の事は則ち然らず、
性は衆縁より出づれば、即ち名づけて作法と為す。
答え、
『衆縁』中に、
『性』が、
『有れば!』、
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
『性』が、
『衆縁』より、
『出れば!』、
即ち、
『作法(有為法≒壊れるもの)』と、
『呼ばれるだろう!』。
  (しょう):事物の本質にして変易しないもの。◯梵語 prakRti の訳、以前に/最初に造る/配置する( " making or placing before or at first " )の義、事物の根源的/自然的な形態/状態( the original or natural form or condition of anything )、根源的/原始的な実体( original or primary substance, cause )、原因( original source )等の意。又◯梵語 sva- bhaava の訳、自己の存在/生起( one's own existing, occurring )、存在に至る固有の条件/状況( own condition or state of being )の義、自然な状態/構成( natural state or constitution )、生来/本来の性質( natural state or constitution )、自然/行動の原因/自発性( innate or inherent disposition, nature, impulse, spontaneity )等の意。◯"性"は、次のように解釈される――'肉体で包まれた/原因となる/変化しない'もの;又は'独立した/自立した'もの;表示、或いは表現に背後に存在する根源的本性( The nature interpreted as embodied, causative, unchanging; also as independent or self-dependent; fundamental nature behind the manifestation or expression )。
  作法(さほう):梵語 saMskRta- dharma, kRtaka の訳、[材料から]造られた物/被創造物/人造物( Thing that are made; created things; artificial things )の義。尚お有為法 saMskRta- dharma の如し。
参考
na saṃbhavaḥ svabhāvasya yuktaḥ pratyayahetubhiḥ |
hetupratyayasaṃbhūtaḥ svabhāvaḥ kṛtako bhavet ||1||
It is unreasonable for an essence to arise from causes and conditions.
Whatever essence arose from causes and conditions
would be something that has been made.

参考
An essence arising from causes and conditions
Is not tenable.
An essence that arose from causes and conditions
Would be something that was made.

参考
自性 (固有の実体) が,もろもろの縁(条件)と因(原因)とによって生ずるということは, 正しくない(理に合わない)。自性が因と縁とによって生じたもの〔であるとするならば〕,〔それは〕つくられたものである,ということになるであろう。
若諸法有性。不應從眾緣出。何以故。若從眾緣出。即是作法無有定性。 若し、諸法に性有らば、応に衆縁より出づべからず。何を以っての故に、若し衆縁より出づれば、即ち是れ作法にして、定性有ること無ければなり。
若し、
諸の、
『法』に、
『性』が、
『有れば!』、
当然、
『衆縁より!』、
『出るはずがない!』。
何故ならば、
『法』が、
『衆縁より!』、
『出れば!』、
『作法だということになる!』が、
『作法』には、
『定性』が、
『無いからである!』。
問曰。若諸法性從眾緣作。有何咎。 問うて曰く、若し諸法の性、衆縁より作れば、何の咎か有る。
問い、
若し、
諸の、
『法の性』が、
『衆縁』より、
『作れば!』、
何のような、
『咎』が、
『有るのか?』。
答曰
 性若是作者  云何有此義 
 性名為無作  不待異法成
答えて曰く、
性若し是れ作ならば、云何が此の義有らん、
性を名づけて無作と為し、異法を待って成ぜず。
答え、
『性』が、
若し、
『作法ならば!』、
何故、
『性の義』が、
『有るのか?』、
『性』が、
『無作』と、
『呼ばれる!』のは、
『異法(他の法)』を、
『待たずに!』、
『成立するからだ!』。
  無作(むさ):梵語 akRta, akRtaka の訳、造作されることなき( uncreated, non- established, unconstructed )、非人造/人為の( Not artificial, factitious )、無為の( unconditioned )の義。尚お無為 asaMskRta の如し。
参考
svabhāvaḥ kṛtako nāma bhaviṣyati punaḥ katham |
akṛtrimaḥ svabhāvo hi nirapekṣaḥ paratra ca ||2||
How is it possible for there to be “an essence which has been made?”
Essences are not contrived and not dependent on anything else.

参考
How could a so-called ‘essence that is made’
Be acceptable?
An essence is not fabricated
And does not rely upon something else.

参考
さらにまた,どうして,自性がつくられたもの,ということがあるであろうか。なぜならば,自性とは,つくられたのではないものであり,また他に依存しないものなのであるから。
如金雜銅則非真金。如是若有性則不須眾緣。若從眾緣出當知無真性。 金に銅を雑うれば、則ち真金に非ざるが如く、是の如く若し性有れば、則ち衆縁を須たず。若し衆縁より出づれば、当に知るべし、真の性無し。
譬えば、
『金』に、
『銅』を、
『雑えれば!』、
『真』の、
『金でなくなる!』のと、
『同じように!』、
是のように、
若し、
『性』が、
『有れば!』、
則ち、
『衆縁』を、
『要しないということである!』。
若し、
『性』が、
『衆縁』より、
『出れば!』、
こう知らなくてはならない、――
『真の!』、
『性ではない!』、と。
又性若決定。不應待他出。非如長短彼此無定性故待他而有。 又性、若し決定すれば、応に他出を待つべからず。長短、彼此の如く、定性無きが故に他を待ちて有るに非ず。
又、
『性』が、
若し、
『決定すれば!』、
当然、
『他』の、
『出る!』のを、
『待つはずがない!』。
譬えば、
『長、短』や、
『彼、此』のように、
『定まった!』、
『性』の、
『無い!』が故に、
『他を!』、
『待って!』、
『有るのではない!』。
問曰。諸法若無自性。應有他性。 問うて曰く、諸法に若し自性無ければ、応に他性有るべし。
問い、
諸の、
『法』に、
若し、
『自ら!』の、
『性』が、
『無ければ!』、
『他!』の、
『性』が、
『有るはずだ!』。
答曰
 法若無自性  云何有他性 
 自性於他性  亦名為他性
答えて曰く、
法に若し自性無くんば、云何が他性有らん、
自性も他性に於いては、亦た名づけて他性と為す。
答え、
『法』に、
若し、
『自性』が、
『無ければ!』、
何故、
『他性』が、
『有るのか?』。
『自性』も、
『他性』からは、
『他性』と、
『呼ばれるのだから!』。
参考
kutaḥ svabhāvasyābhāve parabhāvo bhaviṣyati |
svabhāvaḥ parabhāvasya parabhāvo hi kathyate ||3||
If an essence does not exist,
how can the thingness of the other exist?
[For] the essence of the thingness of the other is said to be the thingness of the other.

参考
If there is no own essence
How could there be a different essence?
The essence of a different essence
Is ‘that different essence’.

参考
自性が存在しないときに,どうして,他性(他のものに固有の実体)は,存在するであろうか。なぜならば,他の「存在(もの‧こと)」においての自性が,他性と呼ばれるのであるから。
諸法性眾緣作故。亦因待成故無自性。若爾者。他性於他亦是自性。亦從眾緣生相待故。亦無無故。云何言諸法從他性生。他性亦是自性故。 諸法の性は、衆縁作すが故に、亦た因待して成ずるが故に、自性無し。若し爾らば、他性も亦た、他に於いては是れ自性なれば、亦た衆縁より生じて、相待するが故に、亦た無し。無きが故に、云何が、『諸法は、他性より生ず』と言う。他性も亦た是れ自性なるが故なり。
諸の、
『法の性』は、
『衆縁より!』、
『作られる!』が故に、
亦た、
『因待して!』、
『成立する!』が故に、
『自ら!』の、
『性』は、
『無い!』。
若し、
そうならば、――
『他の性』も、
『他にすれば!』、
『自性であり!』、
亦た、
『衆縁より!』、
『生じて!』、
『因待する!』が故に、
亦た、
『他の性』も、
『無い!』。
即ち、
『他の性』は、
『無い!』が故に、
何故、こう言うのか?――
諸の、
『法』は、
『他性より!』、
『生じる!』、と。
何故ならば、
『他性』も、
亦た、
『自性だからである!』。
問曰。若離自性他性有諸法。有何咎。 問うて曰く、若し自性、他性を離れて、諸法有れば、何の咎か有る。
問い、
若し、
『自性』や、
『他性』を、
『離れて!』、
諸の、
『法』が、
『有れば!』、
何のような、
『咎』が、
『有るのか?』。
答曰
 離自性他性  何得更有法 
 若有自他性  諸法則得成
答えて曰く、
自性、他性を離れて、何ぞ更に法有るを得ん、
若し自他の性有らば、諸法は則ち成ずるを得ん。
答え、
『自性』と、
『他性』とを、
『離れて!』、
何故、
更に、
『法』が、
『有るのか?』。
若し、
『自性』や、
『他性』が、
『有れば!』、
則ち、
『諸の法』が、
『成立したということである!』。
参考
svabhāvaparabhāvābhyām ṛte bhāvaḥ kutaḥ punaḥ |
svabhāve parabhāve ca sati bhāvo hi sidhyati ||4||
Apart from an essence and the thingness of the other,
what things are there?
If essences and thingnesses of others existed,
things would be established.

参考
Apart from own essences and different essences
How could things exist?
If own essences and different essences existed
Things would be established.

参考
さらにまた,自性と他性とを離れて,どうして,「存在(もの‧こと)」〔が成立するであろう〕か。なぜならば,自性または他性が現に存在しているときに,「存在(もの‧こと)」 は成立するのであるから。
汝說離自性他性有法者。是事不然。若離自性他性則無有法 汝が説かく、『自性、他性を離れて、法有り』とは、是の事然らず。若し、自性、他性を離るれば、則ち法有ること無し。
お前は、こう言った、――
『自性』と、
『他性』とを、
『離れても!』、
『法』は、
『有る!』、と。
是の、
『事』は、
『間違いだ!』。
若し、
『自性』と、
『他性』とを、
『離れれば!』、
則ち、
『法』は、
『無いということである!』。
何以故。有自性他性法則成。如瓶體是自性依物是他性。 何を以っての故に、自性、他性有れば、法は則ち成ずればなり。瓶の体は、是れ自性なるも、物に依れば、是れ他性なるが如し。
何故ならば、
『自性』や、
『他性』が、
『有れば!』、
則ち、
『法』が、
『成立するからである!』。
譬えば、――
『瓶』の、
『体』は、
『自性である!』が、
『物』に、
『依れば(従えば)!』、
是れは、
『他性である!』のと、
『同じである!』。
  (え):よる。寄りかかる/依拠する/依存する( lean on, rely on, depend on )、従う/服する/同意する/承諾する( obey, comply with, yield to, agree, consent )、に鑑みて/に照らして/に従って/の通りに( in the light of, in accordance with )、によれば/のように( according to, as )。
問曰。若以自性他性破有者。今應有無。 問うて曰く、若し自性、他性を以って、有を破せば、今は応に無有るべし。
問い、
若し、
『自性』と、
『他性』とを、
『用いて!』、
『有』を、
『破ったとすれば!』、
今は、
『無』が、
『有るはずだ!』。
答曰
 有若不成者  無云何可成 
 因有有法故  有壞名為無
答えて曰く、
有若し成ぜざれば、無は云何が成ずべき、
有法有るに因るが故に、有壊するを名づけて無と為す。
答え、
『有』が、
若し、
『成立しなければ!』、
『無』が、
何故、
『成立できるのか?』。
『有』という、
『法』が、
『有る!』ことに、
『因る!』が故に、
『有』が、
『壊れる!』のを、
『無』と、
『呼ぶからだ!』。
参考
bhāvasya ced aprasiddhir abhāvo naiva sidhyati |
bhāvasya hy anyathābhāvam abhāvaṃ bruvate janāḥ ||5||
If things were not established, non-things would not be established.
[When] a thing becomes something else,
people say that it is a non-thing.

参考
If things have not been established
Non-things could not be established.
A thing that has transformed
Is proclaimed by ordinary people to be a non-thing.

参考
もしも「存在(もの‧こと)」が成立しないならば,「非存在(のもの‧こと)」もまた成立しない。なぜならば,「存在(もの‧こと)」の変異していることを,人人は「非存在(のも の‧こと)」と語るのであるから。
若汝已受有不成者。亦應受無亦無。何以故。有法壞敗故名無。是無因有壞而有。 若し汝、已に有の成ぜざるを受くれば、亦た応に無も亦た無なるを受くべし。何を以っての故に、有法壊敗せるが故に、無と名づけ、是の無は、有の壊するに因りて有ればなり。
若し、
お前が、
已に、
『有』は、
『成立しない!』と、
『認めた!』ならば、
当然、
『無』も、
『無い!』と、
『認めなくてはならない!』。
何故ならば、
『有』という、
『法』が、
『壊敗する!』が故に、
『無』と、
『呼ばれるのであり!』、
『有』の、
『壊れる!』ことに、
『因って!』、
是の、
『無』が、
『有るからだ!』。
復次
 若人見有無  見自性他性 
 如是則不見  佛法真實義
復た次ぎに、
若し人有無を見、自性他性を見れば、
是の如きは則ち、仏法の真実の義を見ず。
復た次ぎに、
若し、
『人』が、
『有』と、
『無』とを、
『見たり!』、
『自性』と、
『他性』とを、
『見たりすれば!』、
是のような、
『人』は、
『仏法』の、
『真実の義』を、
『見ていない!』。
参考
svabhāvaṃ parabhāvaṃ ca bhāvaṃ cābhāvam eva ca |
ye paśyanti na paśyanti te tattvaṃ buddhaśāsane ||6||
Those who view essence, thingness of the other,
things and non-things do not see the suchness
in the teaching of the awakened.

参考
Those who view own essences, different essences,
Things and non-things
Do not see suchness
In the teachings of the Buddhas.

参考
およそ,「自性」と,「他性」と,「存在(もの‧こと)」と,「非存在(のもの‧こと)」とを見る人々は,ブッダの說教において,真実を見ることがない。
若人深著諸法。必求有見。若破自性則見他性。若破他性則見有。若破有則見無。若破無則迷惑。 若し、人、深く諸法に著せば、必ず有見を求む。若し、自性を破すれば、則ち他性を見る。若し他性を破すれば、則ち有を見る。若し有を破すれば、則ち無を見る。若し無を破すれば、則ち迷惑す。
若し、
『人』が、
諸の、
『法』に、
『深く!』、
『著すれば!』、
必ず、
『有』という、
『見』を、
『求めるものである!』。
若し、
『自性』が、
『破れれば!』、
則ち、
『他性』を、
『見ることになり!』、
若し、
『他性』が、
『破れれば!』、
則ち、
『有』を、
『見ることになる!』。
若し、
『有』が、
『破られれば!』、
則ち、
『無』を、
『見ることになり!』、
若し、
『無』が、
『破られれば!』、
則ち、
『迷って!』、
『惑うことになる!』。
  (ぐ):梵語 pary-anviS, pary-AiS の訳、探索する/探求する( to seek for, search after )の義、物色/探求する( To search for, to look for )、願望/念願/要求する( to wish for, pray for, ask for )、捜査する( to investigate )等の意。
若利根著心薄者。知滅諸見安隱故。更不生四種戲論。是人則見佛法真實義。是故說上偈。 若し、利根にして著心薄ければ、諸見を滅して安隠なるを知るが故に、更に四種の戯論を生ぜず。是の人は、則ち仏法の真実義を見るなり。是の故に上の偈を説けり。
若し、
『利根』で、
『著心』が、
『薄ければ!』、
こう知るだろう、――
諸の、
『見』を、
『滅すれば!』、
『安隠である!』が故に、
更に、
『四種』の、
『戯論』を、
『生じない!』ので、
是の、
『人』は、
則ち、
『仏法』の、
『真実の義』を、
『見たのである!』、と。
是の故に、
上の、
『偈』を、
『説くのである!』。
  四種戯論(ししゅけろん):四句分別、謂わゆる有、無、亦有亦無、非有非無の四句を以ってする諍論。
復次
 佛能滅有無  如化迦旃延 
 經中之所說  離有亦離無
復た次ぎに、
仏の能く有無を滅すること、迦旃延を化するが如し、
経中の所説とは、有を離れ亦た無を離れよとなり。
復た次ぎに、
『仏』は、
『有、無』を、
『滅することができる!』、
例えば、
『迦旃延』を、
『化導されたように!』。
『経』中には、こう説かれている、――
『有』を、
『離れて!』、
亦た、
『無』を、
『離れる!』、と。
  参考:『雑阿含経巻12』:『如是我聞。一時。佛住那梨聚落深林中待賓舍。爾時。尊者跚陀迦旃延詣佛所。稽首佛足。退住一面。白佛言。世尊。如世尊說正見。云何正見。云何世尊施設正見。佛告跚陀迦旃延。世間有二種依。若有.若無。為取所觸。取所觸故。或依有.或依無。若無此取者。心境繫著使不取.不住.不計我苦生而生。苦滅而滅。於彼不疑.不惑。不由於他而自知。是名正見。是名如來所施設正見。所以者何。世間集如實正知見。若世間無者不有。世間滅如實正知見。若世間有者無有。是名離於二邊說於中道。所謂此有故彼有。此起故彼起。謂緣無明行。乃至純大苦聚集。無明滅故行滅。乃至純大苦聚滅。佛說此經已。尊者跚陀迦旃延聞佛所說。不起諸漏。心得解脫。成阿羅漢』
参考
kātyāyanāvavāde cāstīti nāstīti cobhayam |
pratiṣiddhaṃ bhagavatā bhāvābhāvavibhāvinā ||7||
Through knowing things and non-things,
the Buddha negated both existence and non-existence in his Advice to Katyayana.

参考
In the Advice to Katayayana, the Bhagavan,
Through knowing things and non-things,
Also made a refutation of both
Existence and non-existence.

参考
『カーティヤーヤナヘの教え』において,「存在(もの‧こと)」と,「非存在(のもの‧こ と)」とを正しく知っている世尊によって,「有る」と「無い」という二つは,ともに否定された。
刪陀迦旃延經中。佛為說正見義離有離無。若諸法中少決定有者。佛不應破有無。 刪陀迦旃延経中に、仏は為に正見の義を説きたまわく、『有を離れ、無を離れよ』、と。若し諸法中に少しく有を決定せば、仏は応に有無を破したもうべからず。
『刪陀迦旃延経』中に、
『仏』は、
『刪陀迦旃延』の為に、
『正見の義』を、こう説かれた、――
『有』を、
『離れて!』、
『無』を、
『離れよ!』、と。
若し、
諸の、
『法』中に、
『有』が、、
『少しでも!』、
『決定すれば!』、
『仏』が、
『有、無』を、
『破られるはずがない!』。
  刪陀迦旃延(さんだかせんねん):不詳。「翻梵語巻1」に、「大智度論巻1」の同語を釈して、「一卷刪陀迦旃延經應云刪剌陀迦旃延譯曰刪剌陀者信迦旃延者姓中論第三卷」と云えり。
若破有則人謂為無。佛通達諸法相故。說二俱無。是故汝應捨有無見。 若し、有を破すれば、則ち人は謂いて無なりと為す。仏は、諸法の相に通達するが故に、二は倶に無しと説きたまえり。是の故に、汝は応に有無の見を捨すべし。
若し、
『有』を、
『破れば!』、
則ち、
『人』は、
『無だ!』と、
『謂うだろう!』。
『仏』は、
諸の、
『法の相』に、
『通達された!』が故に、
こう説かれた、――
『有、無』は、
『どちらも!』、
『無い!』、と。
是の故に、
お前は、
『有、無』の、
『見』を、
『捨てなくてはならない!』。
復次
 若法實有性  後則不應異 
 性若有異相  是事終不然
復た次ぎに、
若し法実に性有らば、後にも則ち応に異なるべからず、
性に若し異相有らば、是の事は終に然らず。
復た次ぎに、
若し、
『法』に、
実に、
『性』が、
『有れば!』、
後に、
『相』の、
『異なるはずがない!』。
『性』に、
若し、
『異なる!』、
『相』が、
『有れば!』、
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
  異相(いそう):◯梵語 anyathaatva の訳、相違( difference )の義、又 bhinna- lakSaNa の訳、壊れた/粉砕された( broken, shattered )の義、変異/変化すること( Differentiation, changing )の意、有為法の四相の一( One of the four marks of conditioned existence )。◯梵語 anyathaa- bhaava の訳、変異/改変、又は相違( alternation, difference )の義、又梵語 vilakSaNa の訳、異なる相を持つ/性格が異なる/異なった/~と異なる( having different marks, varying in character, different, differing from )の義、別異の相( The differentiated aspect )の意。
参考
yady astitvaṃ prakṛtyā syān na bhaved asya nāstitā |
prakṛter anyathābhāvo na hi jātūpapadyate ||8||
If [things] existed essentially,
they would not come to non-existence.
It is never the case that an essence could become something else.

参考
If they existed by way of their own essence
They could not become non-existent.
And an essence that transforms
Could never be admissible.

参考
もしも〔或るものの〕有ということが本性としてあるとするならば,そのものには,無ということは,あり得ないであろう。なぜならば,本性〔そのもの〕が変異するという ことは,決して成り立たないのであるから。
若諸法決定有性。終不應變異。何以故。若定有自性。不應有異相。 若し諸法に決定して、性有らば、終に応に変異すべからず。何を以っての故に、若し定んで自性有らば、応に異相有るべからず。
若し、
諸の、
『法』に、
決定して、
『性』が、
『有れば!』、
終に、
『変異するはずがない!』。
何故ならば、
若し、
『自性』が、
『決定して!』、
『有れば!』、
『変異した!』、
『相』が、
『有るはずがない!』。
如上真金喻。今現見諸法有異相故。當知無有定相。 上の真金の喻の如く、今現に諸法に異相有るを見るが故に、当に知るべし、定相有ること無し。
上の、
『真金の喻』のように、――
今、
現に、こう見える、――
諸の、
『法』には、
『異相』が、
『有る!』、と。
こう知るべきである、――
諸の、
『法』は、
『定相』が、
『無い!』、と。
復次
 若法實有性  云何而可異 
 若法實無性  云何而可異
復た次ぎに、
若し法に実に性有らば、云何が異なるべき、
若し法に実に性無くば、云何が異なるべき。
復た次ぎに、
若し、
『法』に、
実に、
『性』が、
『有れば!』、
何故、
『変異する!』ことが、
『可能なのか?』。
若し、
『法』に、
実に、
『性』が、
『無ければ!』、
何故、
『変異する!』ことが、
『可能なのか?』。
参考
prakṛtau kasya vāsatyām anyathātvaṃ bhaviṣyati |
prakṛtau kasya vā satyām anyathātvaṃ bhaviṣyati ||9||
If essences did not exist,
what could become something else?
Even if essences existed,
what could become something else?

参考
If they did not exist by way of their own essence
What is it that would transform?
Even if they did exist by way of their own essence
How could it be acceptable for them to transform?

参考
もしも本性が現に無いとするならば,変異することは,何において,存在するであろうか。もしも本性が現に有るとするならば,変異することは,何において,存在するであろうか。
若法定有性。云何可變異。 若し法に定んで性有らば、云何が変異すべき。
若し、
決定して、
『性』が、
『有れば!』、
何故、
『変異する!』ことが、
『可能なのか?』。
若無性則無自體。云何可變異。 若し性無くば、則ち自体無し、云何が変異すべき。
若し、
『性』が、
『無ければ!』、
『自体』も、
『無い!』のに、
何故、
『変異する!』ことが、
『可能なのか?』。
復次
 定有則著常  定無則著斷 
 是故有智者  不應著有無
復た次ぎに、
有と定むるは則ち常に著し、無と定むるは則ち断に著す、
是の故に有智の者は、応に有無に著すべからず。
復た次ぎに、
『有る!』と、
『定めれば!』、
『常』に、
『著すことになり!』、
『無い!』と、
『定めれば!』、
『断』に、
『著すことになる!』、
是の故に、
『有智の者』は、
『有、無』に、
『著すべきでない!』。
参考
astīti śāśvatagrāho nāstīty ucchedadarśanam |
tasmād astitvanāstitve nāśrīyeta vicakṣaṇaḥ ||10||
“Existence” is the grasping at permanence;
“non-existence” is the view of annihilation.
Therefore, the wise do not dwell,
in existence or non-existence.

参考
To say ‘They exist’ is a conception of permanence
And to say ‘They do not exist’ is a view of annihilation.
Thus, the wise should not abide
In either existence or non-existence.

参考
「有る」というのは,常住に執着する〔偏見〕である。「無い」というのは,断滅「に執着する」偏見である。それゆえ,聡明な人は,「有る」ということと「無い」ということ とに,依拠してはならない。
若法定有有相。則終無無相。是即為常。 若し法に定んで有相有れば、則ち終に無相無し、是れ即ち常と為す。
若し、
『法』に、
決定して、
『有相』が、
『有れば!』、
終に、
『無相』は、
『無いことになる!』。
是れが、
即ち、
『常である!』。
何以故。如說三世者。未來中有法相。是法來至現在。轉入過去。不捨本相。是則為常。又說因中先有果。是亦為常。 何を以っての故に、三世を説くが如きは、未来中に法相有り、是の法は、現在に来至して、過去に転入し、本の相を捨てず。是れは則ち常と為す。又、因中に先に果有りと説かば、是れも亦た常と為す。
何故ならば、
例えば、
『三世』を、
説けば、こうである、――
『未来』中に、
『法』と、
『相』とが、
『有り!』、
是の、
『法』が、
『現在』に、
『来至して!』、
次に、
『過去』に、
『転入する!』が、
終に、
『本の相』を、
『捨てない!』。
是れが、
則ち、
『常である!』。
又は、
こう説く、――
『因』中には、
先に、
『果』が、
『有る!』と、
是れも、
亦た、
『常である!』。
若說定有無。是無必先有今無。是則為斷滅。斷滅名無相續。 若し定んで、無有りと説かば、是の無は、必ず先に有りて、今無きなり。是れ則ち断滅と為し、断滅を相続無しと名づく。
若し、
こう説けば、――
定んで、
『無』が、
『有る!』、と。
是の、
『無』は、
必ず、こうなくてはならない、――
『先に!』は、
『有った!』が、
『今は!』、
『無くなった!』、と。
是れは、
則ち、
『断滅である!』が、
『断滅』とは、
則ち、
『相続する!』ことが、
『無いということである!』。
因由是二見。即遠離佛法。 是の二見に因由して、即ち仏法を遠離す。
是の、
『有、無』の、
『二見』に、
『因由する( proceed from )!』が故に、
即ち、
『仏法』を、
『遠離するのである!』。
問曰。何故因有生常見。因無生斷見。 問うて曰く、何の故にか、有に因りて、常見を生じ、無に因りて、断見を生ずる。
問い、
何故、
『有』に、
『因って!』、
『常見』を、
『生じ!』、
『無』に、
『因って!』、
『断見』を、
『生じるのか?』。
答曰
 若法有定性  非無則是常 
 先有而今無  是則為斷滅
答えて曰く、
若し法に定性有りて、無に非ざれば則ち是れ常なり、
先に有りて今無ければ、是れ則ち断滅と為す。
答え、
若し、
『法』に、
『定性』が、
『有って!』、
『無でなければ!』、
則ち、
是れが、
『常である!』。
『先に!』、
『有った!』ものが、
『今!』、
『無ければ!』、
是れが、
則ち、
『断滅である!』。
参考
asti yad dhi svabhāvena na tan nāstīti śāśvatam |
nāstīdānīm abhūt pūrvam ity ucchedaḥ prasajyate ||11||
“Since that which exists by its essence is not non-existent,”
is [the view of] permanence.
“That which arose before is now non-existent,”
leads to [the view of] annihilation.

参考
That which could exist by way of its own essence
Would be permanent since it could not become non-existent.
And if it is said ‘That which arose before does not exist now’
It would follow as being annihilated.

参考
なぜならば,およそ自性をもって存在するものが,「存在しないのではない」というなら ば,常住〔への偏見〕が,〔そして〕「以前には存在していたが,いまは存在しない」というならば,断滅〔への偏見〕が,誤りとして付随するからである。
若法性定有。則是有相非無相。終不應無。 若し法の性定んで有れば、則ち是れ有相にして無相に非ず、終に応に無くすべからず。
若し、
『法』の、
『性』が、
『決定して!』、
『有れば!』、
則ち、
是れが、
『有相であり!』、
『無相でない!』ので、
終に、
『無になるはずがない!』。
若無則非有。即為無法。先已說過故。如是則墮常見。 若し無なれば、則ち有に非ず、即ち無法と為す。先に已に説ける過の故に、是の如きは則ち常見に堕す。
若し、
『無ならば!』、
則ち、
『有でないことになり!』、
即ち、
『法』が、
『無いということである!』。
先に、
『過』を、
『説いた!』が故に、
是のようものは、
『常見』に、
『堕ちることになる!』。
若法先有。敗壞而無者。是名斷滅。何以故。有不應無故。 若し法先に有るに、敗壊して無きは、是れを断滅と名づく。何を以っての故に、有は、応に無なるべからざるが故なり。
若し、
『法』が、
先に、
『有りながら!』、
『敗壊して!』、
『無くなれば!』、
是れを、
『断滅』と、
『呼ぶ!』。
何故ならば、
『有』は、
『無のはずがないからである!』。
汝謂有無各有定相故。若有斷常見者。則無罪福等破世間事是故應捨 汝は、『有無、各に定相有り』と謂うも、故に、若し、断、常の見有らば、則ち罪福等無く、世間の事を破る。是の故に応に捨つべし。
お前は、
こう謂っているが、――
『有、無』には、
各、
『定相』が、
『有る!』、と。
故に、
若し、
『断、常の見』が、
『有れば!』、
『罪、福』等が、
『無くなり!』、
『世間』の、
『事』を、
『破ることになる!』ので、
是の故に、
『断、常』の、
『見』は、
『捨てなくてはならない!』。
  世間事(せけんじ):世間の仕事( worldly affairs )、梵語 laukika の訳、世俗的な/現世の/通常の( Mundane, temporal, ordinary )の義。世間の約束事の意。



中論觀縛解品第十六(十偈)

問曰。生死非都無根本。於中應有眾生往來若諸行往來。汝以何因緣故。說眾生及諸行盡空無有往來。 問うて曰く、生死は、都べて根本無きに非ず。中に於いて、応に衆生往来し、若しくは諸行往来すべし。汝は何の因縁を以っての故にか説かく、『衆生、及び諸行は、尽く空にして、往来有ること無し』、と。
問い、
『生死』の、
都(すべ)てに、
『根本』が、
『無いわけではない!』。
『生死』中には、
当然、
『衆生』の、
『往来』が、
『有り!』、
若しくは、
『諸行(有為法)』の、
『往来』が、
『有るはずである!』。
お前は、
何のような、
『因縁』の故に、こう説くのか?――
『衆生』も、
『諸行』も、
尽くが、
『空であり!』、
『生死』中を、
『往来する!』ことは、
『無い!』、と。
答曰
 諸行往來者  常不應往來 
 無常亦不應  眾生亦復然
答えて曰く、
諸行往来すとは、常なれば応に往来すべからず、
無常も亦た応にすべからず、衆生も亦復た然り。
答え、
『諸行』が、
『往来する!』とは、――
若し、
『諸行』が、
『常ならば!』、
『往来するはずがない!』し、
亦た、
『無常であっても!』、
『往来するはずがない!』。
『衆生』も、
亦た、
是の通りだ!。
参考
saṃskārāḥ saṃsaranti cen na nityāḥ saṃsaranti te |
saṃsaranti ca nānityāḥ sattve ’py eṣa samaḥ kramaḥ ||1||
If it is said that impulses are “samsara”,
if they were permanent, they would not move around.
Even if impermanent, they would not move around.
Sentient beings too are similar in this respect.

参考
‘It is the compositional factors aggregate that circles.’
If it were permanent it could not circle
And also if it were impermanent it could not circle.
These steps are also similar for sentient beings.

参考
もしももろもろの形成作用(形成されたもの,現象,諸行)が輪迴するという場合,それらは,常住であるならば,輪迴しないことになり,または無常であるならば,輪迴し ないことになる。生存するもの(眾生,有情)に関してもまた,この次第は同樣である。
諸行往來六道生死中者。為常相往來。為無常相往來。二俱不然。 諸行は、六道の生死中を往来すとは、常相にして、往来すと為すや、無常相にして往来すと為すや、二は倶に然らず。
『諸行』が、
『六道』の、
『生死』中を、
『往来する!』とは、――
『諸行』は、
『常相』として、
『往来するのか?』、
『無常相』として、
『往来するのか?』。
『二』は、
どちらも、
『間違っている!』。
若常相往來者。則無生死相續。以決定故。自性住故。 若し常相にして、往来すれば、則ち生死の相続無し、決定せるが故に、自性住するを以っての故なり。
若し、
『諸行』が、
『常相として!』、
『往来すれば!』、
則ち、
『生死』の、
『相続』は、
『無いことになる!』、
『決定する!』が故に、
『自性』が、
『住まるからである!』。
若以無常往來者。亦無往來生死相續。以不決定故。無自性故。 若し、無常を以って往来すれば、亦た往来する生死の相続する無し、決定せざるが故に、自性無きを以っての故なり。
若し、
『諸行』が、
『無常相として!』、
『往来しても!』、
亦た、
『往来する!』、
『生死』が、
『相続する!』ことは、
『無い!』、
『諸行』は、
『無常相であり!』、
『決定しない!』が故に、
『諸行』には、
『自性』が、
『無いからである!』。
若眾生往來者。亦有如是過。 若し、衆生往来せば、亦た是の如き過有り。
若し、
『衆生』が、
『往来しても!』、
亦た、
是のような、
『過失』が、
『有る!』。
復次
 若眾生往來  陰界諸入中 
 五種求盡無  誰有往來者
復た次ぎに、
若しは衆生、陰界諸入中に往来せん、
五種に求めて尽く無し、誰か往来する者有らん。
復た次ぎに、
若し、
『衆生』が、
『陰、界、入(生死)』中に、
『往来しても!』、
『五種』に、
『求めた!』が、
尽く、
『衆生』は、
『無かった!』。
誰か、
『往来する!』者が、
『有るのか?』。
参考
pudgalaḥ saṃsarati cet skandhāyatanadhātuṣu |
pañcadhā mṛgyamāṇo ’sau nāsti kaḥ saṃsariṣyati ||2||
If it is said that persons “move around,”
if they are non-existent when searched for in five aspects
among the aggregates, sense fields and elements,
what would move around?

参考
‘It is the person who circles.’
When searched for in the five ways but not found
Amongst the aggregates, spheres or constituents
Who is it that would circle?

参考
もしも個人存在(プドガラ)が輪迴するという場合,それ(個人存在)は,構成要素(五 蘊)と領域(十二处)と要素(十八界)とにおいて,五種に檢討してみても,存在していない。何ものが輪迴するのであろうか。
生死陰界入即是一義。若眾生於此陰界入中往來者。是眾生於燃可燃品中。五種求不可得。誰於陰界入中而有往來者。 生死と、陰界入とは、即ち是れ一義なり。若し、衆生、此の陰界入中に往来せば、是の衆生は、燃、可燃品中に五種に求めて得べからず。誰か、陰界入中に、往来する者有る。
『生死』と、
『陰、界、入』とは、
『一義である!』。
若し、
『衆生』が、
此の、
『陰、界、入』中に、
『往来すれば!』、
是の、
『衆生』は、
『燃可燃品』中に、
『五種』に、
『求めた!』が、
『得られなかった!』、
誰か、
『陰、界、入』中に、
『往来する!』者は、
『有るのか?』。
  :燃可燃品中に五種に求めて得べからずとは:五陰と五陰を受くる者、即ち衆生との関係を燃と、可燃とに託して、其の一(同)を一種に破り、異(不同)を四種に破るを云う。即ち以下の如し、(1)燃は即ち可燃なり、(2)燃に因って可燃有り、(3)可燃に因って燃有り、(4)燃中に可燃有り、(5)可燃中に燃有り。
復次
 若從身至身  往來即無身 
 若其無有身  則無有往來
復た次ぎに、
若し身より身に至りて、往来すれば即ち身無し、
若し其れに身有る無ければ、則ち往来有る無し。
復た次ぎに、
若し、
『身』より、
『身』に、
『至って!』、
『往来すれば!』、
即ち、
『身』は、
『無いということだ!』、
若し、
其れに、
『身』が、
『無ければ!』、
則ち、
『往来』も、
『無いことになる!』。
参考
upādānād upādānaṃ saṃsaran vibhavo bhavet |
vibhavaś cānupādānaḥ kaḥ sa kiṃ saṃsariṣyati ||3||
If one moves around in having clung [to something]
and then clinging [to something else],
there would be no becoming.
If there were no clinging and no becoming,
who would move around?

参考
If circling from appropriated to appropriated
There would be no existence in-between.
If there is no existence and no appropriated aggregates
Who whatsoever would be circling?

参考
〔一つの〕執着(取)から〔他の〕執着(取)へと輪迴するものは,身体の無いものとなるであろう。身体が無く,また執着(取)の無いものは,どのようなものであるか。またそれが,どのように輪迴するのであろうか。
若眾生往來。為有身往來。為無身往來。二俱不然。 若し衆生往来せば、身有りて往来すと為すや、身無くして往来すと為すや、二は倶に然らず。
若し、
『衆生』が、
『往来すれば!』、
其の、
『身』が、
『有って!』、
『往来するのか?』、
『身』が、
『無くて!』、
『往来するのか?』、
是の、
『二』は、
どちらも、
『間違っている!』。
何以故。若有身往來。從一身至一身。如是則往來者無身。 何を以っての故に、若し身有りて往来し、一身より、一身に至れば、是の如きは、則ち往来する者に、身無し。
何故ならば、
若し、
『身』が、
『有って!』、
『往来し!』、
『一身』より、
『一身』に、
『至れば!』、
是のような、
『往来する!』者に、
『身』は、
『無いはずだ!』。
又若先已有身。不應復從身至身。若先無身則無有。若無有云何有生死往來。 又、若し先に已に身有れば、応に復た身より、身に至るべからず。若し先に身無ければ、則ち有無し。若し有無ければ、云何が生死の往来有らん。
又、
若し、
先に、
已に、
『身』が、
『有れば!』、
復た、
『身』より、
『身』に、
『至るはずがない!』。
若し、
先に、
『身』が、
『無ければ!』、
則ち、
『有(有るということ: existence )』が、
『無いことになる!』。
若し、
『有』が、
『無ければ!』、
何故、
『生死』の、
『往来』が、
『有るのか?』。
問曰。經說有涅槃滅一切苦。是滅應諸行滅若眾生滅。 問うて曰く、経に説かく、『涅槃有り、一切の苦を滅す』、と。是れ滅すれば、応に諸行滅し、若しは衆生滅すべし。
問い、
『経』には、こう説かれている、――
『涅槃』が、
『有り!』、
『一切の苦』を、
『滅する!』、と。
是れが、
『滅すれば!』、
当然、
『諸行』が、
『滅するはずだ!』し、
若しくは、
『衆生』が、
『滅するはずだ!』。
  参考:『勝思惟梵天所問経巻2』:『梵天。如來為眾生說布施。得大富故。持戒得生天故。忍辱得端正故。精進得具智故。禪定得寂靜故。慧捨諸煩惱故。多聞得智慧故。行十善業道得人天富樂成就故。慈悲喜捨得生梵世故。奢摩陀得毘婆舍那故。學地得無學地故。辟支佛地清淨消諸供養故。佛地示無量智故。涅槃滅一切苦惱故。梵天。我以如是善巧方便。為諸眾生讚說是法。如來實不得我眾生壽命及丈夫等。應知而如來亦不見布施。不見布施果。亦不見慳。不見慳果。亦不見持戒。不見持戒果。亦不見毀戒。不見毀戒果。亦不見忍辱。不見忍辱果。亦不見瞋恚。不見瞋恚果。亦不見精進。不見精進果。亦不見懈怠。不見懈怠果。亦不見禪定。不見禪定果。亦不見亂心。不見亂心果。亦不見般若。不見般若果。亦不見愚癡。不見愚癡果。亦不見苦樂。亦不見苦樂果。亦不見須陀洹。不見須陀洹果。乃至不見菩提。不見涅槃果。梵天。如來常為眾生說法。而諸眾生依如來教。如所說法如實修行勤修諸行。為何義修行勤行彼行。而諸眾生修行彼法。而不能得。而不能證。所謂須陀洹行。乃至阿羅漢果。乃至不得緣覺之地。不得阿耨多羅三藐三菩提。乃至不得涅槃。以是義故。彼諸眾生。不得涅槃。不見涅槃。梵天。是名如來方便說法。梵天。諸菩薩摩訶薩。應勤修行。為令眾生攝取妙法』
答曰。二俱不然。何以故
 諸行若滅者  是事終不然 
 眾生若滅者  是事亦不然
答えて曰く、二は倶に然らず。何を以っての故に、
諸行若し滅すれば、是の事は終に然らず、
衆生若し滅すれば、是の事も亦た然らず。
答え、
『二』は、
どちらも、
『間違っている!』。
何故ならば、――
若し、
『諸行』が、
『滅すれば!』、
是の、
『事』は、
『間違っている!』し、
若し、
『衆生』が、
『滅すれば!』、
是の、
『事』も、
『間違っている!』。
参考
saṃskārāṇāṃ na nirvāṇaṃ kathaṃ cid upapadyate |
sattvasyāpi na nirvāṇaṃ kathaṃ cid upapadyate ||4||
It is in no way feasible that impulses go beyond misery.
And it is in no way feasible that living beings go beyond misery.

参考
Compositional factors passing beyond sorrow
In any manner is inadmissible.
And also sentient beings passing beyond sorrow
In any manner is inadmissible.

参考
もろもろの形成作用(諸行)においては,ニルヴァーナ(消滅,涅槃)〔に入る〕ということは,どうしても成り立たない。生存するもの(眾生) においてもまた,ニルヴ ァーナ〔に入る〕ということは,どうしても成り立たない。
汝說若諸行滅若眾生滅。是事先已答。 汝が説かく、『若しは諸行滅し、若しは衆生滅す』、と。是の事は、先に已に答えたり。
お前は、
こう説いた、――
若しは、
『諸行』が、
『滅するだろう!』、
若しは、
『衆生』が、
『滅するだろう!』、と。
是の、
『事』は、
先に、已に答えた!、――
諸行無有性。眾生亦種種推求生死往來不可得。是故諸行不滅。眾生亦不滅。 諸行には、性有ること無く、衆生も亦た、種種に生死の往来を推求して、得べからず。是の故に、諸行は滅せず、衆生も亦た滅せず。
『諸行』には、
『性』が、
『無い!』し、
『衆生』も、
種種に、
『推理し!』、
『追求した!』が、
『生死』に、
『往来する!』ことは、
『認識できなかった!』。
是の故に、
『諸行』は、
『滅しない!』し、
『衆生』も、
『滅しない!』。
問曰。若爾者則無縛無解。根本不可得故。 問うて曰く、若し爾らば、則ち縛無く、解無し。根本を得べからざるが故に。
問い、
若し、
そうならば、
『縛(繋縛)』も、
『解(解脱)』も、
『無いことになる!』。
何故ならば、
『縛、解』の、
『根本』が、
『認められないからだ!』。
答曰
 諸行生滅相  不縛亦不解 
 眾生如先說  不縛亦不解
答えて曰く、
諸行なる生滅の相は、縛ならず亦た解ならず、
衆生も先に説くが如く、縛ならず亦た解ならず。
答え、
『諸行』という、
『生滅の相』は、
『縛でもなく!』、
『解でもない!』。
『衆生』も、
先に説いたように、――
『縛でもなく!』、
『解でもない!』。
参考
na badhyante na mucyanta udayavyayadharmiṇaḥ |
saṃskārāḥ pūrvavat sattvo badhyate na na mucyate ||5||
Impulses that have the properties of being born and dying
are not bound and will not be freed.
In the same way as above living beings too
are not bound and will not be freed.

参考
Compositional factors possessing attributes of production and disintegration
Are not bound and could not be liberated.
And as before, also sentient beings
Are not bound and could not be liberated.

参考
もろもろの形成作用(諸行)は,生と滅と性質をそなえているものであって,繫縛されず,解脫しない。同樣に,生存するもの(眾生)も,繫縛されず,解脫しない。
汝謂諸行及眾生有縛解者。是事不然。 汝が謂わく、『諸行、及び衆生に縛解有り』とは、是の事は然らず。
お前は、
こう謂った、――
『諸行、衆生』には、
『縛、解』が、
『有る!』、と。
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
諸行念念生滅故。不應有縛解。眾生先說五種推求不可得。云何有縛解。 諸行は念念に生滅するが故に、応に縛解有るべからず。衆生は、先に五種に推求して得べからずと説けり。云何が、縛解有らん。
『諸行』は、
『念念』に、
『生滅する!』が故に、
『縛』や、
『解』の、
『有るはずがない!』し、
『衆生』は、
先に、説いたように、――
『五種』に、
『推理し!』、
『追求した!』のに、
『得られなかった!』、
何故、
『縛』や、
『解』が、
『有るのか?』。
復次
 若身名為縛  有身則不縛 
 無身亦不縛  於何而有縛
復た次ぎに、
若し身を名づけて縛と為さば、身有れば則ち縛されず、
身無ければ亦た縛されず、何に於いてか縛有らん。
復た次ぎに、
若し、
『身』を、
『縛』と、
『呼べば!』、
『身』が、
『有っても!』、
『縛されず!』、
『身』が、
『無くても!』、
『縛されない!』、
何処に、
『縛』が、
『有るのか?』。
参考
bandhanaṃ ced upādānaṃ sopādāno na badhyate |
badhyate nānupādānaḥ kim avastho ’tha badhyate ||6||
If clinging binds, the one who has clinging would not be bound.
And there would be no bondage without clinging.
In what situation would there be bondage?

参考
If grasping were that which binds
Those with grasping would not be bound.
And since those without grasping are not bound
On what occasion would there be bondage?

参考
もしも執着(取)が繫縛であるならば,執着(取)を〔すでに〕持っているものは,繫縛されないし,〔現に〕執着(取)の無いものも,繫縛されない。それならば,どのような壮態にあるものが,繫縛されるのであろうか。
若謂五陰身名為縛。若眾生先有五陰。則不應縛。 若し、五陰の身を名づけて縛と為すと謂わば、若し衆生に、先に五陰有れば、則ち応に縛すべからず。
若し、
こう謂うならば、――
『五陰』という、 
『身』を、
『縛』と、
『呼ぶ!』、と。
若し、
『衆生()』より、
先に、
『五陰()』が、
『有れば!』、
『縛されるはずがない!』。
何以故。一人有二身故。無身亦不應縛。 何を以っての故に、一人に、二身有るが故なり。身無きも、亦た応に縛すべからず。
何故ならば、
『一人』に、
『二身』、
『有るからだ!』。
『身』が、
『無くても!』、
『縛されるはずがない!』。
何以故。若無身則無五陰。無五陰則空。云何可縛。如是第三更無所縛。 何を以っての故に、若し身無ければ、則ち五陰無し。五陰無ければ、則ち空なり。云何が縛すべき。是の如き第三の更に縛する所無し。
何故ならば、
若し、
『身』が、
『無ければ!』、
『五陰』は、
『無い!』し、
『五陰』が、
『無ければ!』、
『身』は、
『空である!』。
何が、
『縛されるのか?』。
是のような、
『第三』の、
『縛する!』所は、
『更に!』、
『無い!』。
復次
 若可縛先縛  則應縛可縛 
 而先實無縛  餘如去來答
復た次ぎに、
若し可縛を先に縛せば、則ち応に可縛を縛すべし、
而るに先に実に縛無し、余は去来に答うるが如し。
復た次ぎに、
若し、
『可縛』が、
先に、
『縛されていれば!』
則ち、
『可縛』を、
『縛するはずだ!』が、
而し、
先には、
実に、
『縛』は、
『無い!』。
その他は、
『去来品』中に、
『答えた通りだ!』。
参考
badhnīyād bandhanaṃ kāmaṃ bandhyāt pūrvaṃ bhaved yadi |
na cāsti tac cheṣam uktaṃ gamyamānagatāgataiḥ ||7||
If binding existed prior to one who is bound,
[that unbound person] would depend on binding.
That too cannot be.
The rest has been explained by the gone,
the not-gone and the going.

参考
If there were bondage prior to that which is bound
There would be reliance upon bondage, but that however does not exist.
The remaining reasonings have been indicated
By the traversed, the untraversed and that being traversed.

参考
もしも繫縛されるものに先行して,繫縛が存在する,というならば,〔繫縛は〕随意に, 繫縛することになるであろう。しかるに,それ(繫縛)は〔もともと〕存在していない。 そのほかのことは,現に去りつつある〔もの〕,すでに去った〔もの〕,まだ去らない〔も の〕〔の考察〕(第二章)によって,すでに說かれている。
若謂可縛先有縛。則應縛可縛。而實離可縛先無縛。是故不得言眾生有縛。 若し、『可縛に、先に縛有り』、と謂わば、則ち応に可縛を縛すべし。而るに実に可縛を離れて、先に縛無し。是の故に『衆生に縛有り』と言うを得ず。
若し、
こう謂えば、――
『可縛』には、
先に、
『縛』が、
『有る!』、と。
則ち、
『可縛』を、
『縛するはずだ!』が、
而し、
実に、
『可縛』を、
『離れて!』、
先に、
『縛』は、
『無い!』。
是の故に、
こう言うことはできない、――
『衆生』には、
『縛』が、
『有る!』、と。
或言。眾生是可縛。五陰是縛。或言。五陰中諸煩惱是縛。餘五陰是可縛。是事不然。 或いは言わく、『衆生は、是れ可縛にして、五陰は、是れ縛なり』、と。或いは言わく、『五陰中の諸煩悩は、是れ縛なり。余の五陰は、是れ可縛なり』、と。是の事は然らず。
或いは、
こう言う、――
『衆生』は、
『可縛であり!』、
『五陰』は、
『縛である!』、と。
或いは、
こう言う、――
『五陰』中の、
諸の、
『煩悩』が、
『縛であり!』、
他の、
『五陰』は、
『可縛である!』、と。
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
何以故。若離五陰先有眾生者。則應以五陰縛眾生。而實離五陰無別眾生。 何を以っての故に、若し五陰を離れて、先に衆生有らば、則ち応に五陰を以って、衆生を縛すべし。而るに実に五陰を離れて、別の衆生無し。
何故ならば、
若し、
『五陰』を、
『離れて!』、
先に、
『衆生』が、
『有れば!』、
則ち、
『五陰』で、
『衆生』を、
『縛するはずだ!』が、
而し、
実に、
『五陰』を、
『離れて!』、
別に、
『衆生』は、
『無い!』。
若離五陰別有煩惱者則應以煩惱縛五陰。而實離五陰無別煩惱。 若し五陰を離れて、別に煩悩有らば、則ち応に煩悩を以って、五陰を縛すべし。而るに実に五陰を離れて別の煩悩無し。
若し、
『五陰』を、
『離れて!』、
別に、
『煩悩』が、
『有れば!』、
則ち、
『煩悩』で、
『五陰』を、
『縛するはずだ!』が、
而し、
実に、
『五陰』を、
『離れて!』、
別に、
『煩悩』は、
『無い!』。
復次如去來品中說。已去不去。未去不去。去時不去。如是未縛不縛。縛已不縛。縛時不縛。 復た次ぎに、去来品中に説くが如し、『已に去りたれば去らず、未だ去らざれば去らず、去る時にも去らず』、と。是の如く、未だ縛せざれば縛せず、縛し已れば縛せず、縛する時にも縛せず。
復た次ぎに、
『去来品』中に、こう説いたように、――
已に、
『去った!』者は、
『去らない!』、
未だ、
『去らない!』者も、
『去らない!』、
正しく、
『去る!』時にも、
『去らない!』、と。
是のように、
未だ、
『縛されない!』者は、
『縛されない!』、
已に、
『縛された!』者、
『縛されない!』、
正しく、
『縛される!』時にも、
『縛されない!』。
復次亦無有解。 復た次ぎに、亦た解有ること無し。
復た次ぎに、
亦た、
『解』も、
『無い!』。
何以故
 縛者無有解  無縛亦無解 
 縛時有解者  縛解則一時
何を以っての故に、
縛なれば解有る無し、縛無きも亦た解無し、
縛する時に解有らば、縛と解と則ち一時ならん。
何故ならば、
『縛されていれば!』、
『解』は、
『無い!』し、
『縛』が、
『無くても!』、
『解』は、
『無い!』、
『縛される!』時に、
『解』が、
『有れば!』、
『縛』と、
『解』とが、
『一時』に、
『有ることになる!』。
参考
baddho na mucyate tāvad abaddho naiva mucyate |
syātāṃ baddhe mucyamāne yugapad bandhamokṣaṇe ||8||
Those who are bound will not be free.
And those who are not bound will not be free.
If those who are bound become free,
bondage and freedom would be simultaneous.

参考
For example, those bound are not liberated
And also those not bound cannot be liberated.
And if those bound were being liberated
There would be bondage and liberation at the same time.

参考
まず第一に,すでに繫縛されるものは,解脫することがない。〔つぎに〕,まだ繫縛され ていないものも,解脫することはない。もしもすでに繫縛されたものが,現に解脫しつつあるというのであれば,繫縛と解脫とが同時である,ということになってしまうであろう。
縛者無有解。何以故。已縛故。無縛亦無解。何以故。無縛故。若謂縛時有解。則縛解一時。是事不然。又縛解相違故。 縛すれば、解有ること無し。何を以っての故に、已に縛するが故なり。縛無ければ、亦た解無し。何を以っての故に、縛無きが故なり。若し縛する時解有りと謂わば、則ち縛と解と一時なり。是の事は然らず。又縛解相違するが故なり。
『縛されていれば!』、
『解』は、
『無い!』、
何故ならば、
已に、
『縛されているからだ!』。
『縛』が、
『無ければ!』、
『解』も、
『無い!』、
何故ならば、
『縛』が、
『無いからだ!』。
若し、
こう謂うならば、――
『縛される!』時に、
『解』が、
『有る!』、と。
則ち、
『縛』と、
『解』とが、
『一時』に、
『有る!』が、
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
何故ならば、
『縛』と、
『解』とは、
互いに、
『異なるからだ!』。
問曰。有人修道現入涅槃得解脫。云何言無。 問うて曰く、有る人は道を修めて、現に涅槃に入り、解脱を得。云何が、『無し』、と言う。
問い、
有る、
『人』は、
『道』を、
『修めて!』、
現に、――
『涅槃』に、
『入り!』、
『解脱』を、
『得た!』。
何故、
こう言うのか?――
『縛』も、
『解』も、
『無い!』、と。
答曰
 若不受諸法  我當得涅槃 
 若人如是者  還為受所縛
答えて曰く、
若し諸法を受けざれば、我れ当に涅槃を得べしと、
若し人是の如くんば、還って受の縛する所と為らん。
答え、
若し、
諸の、
『法』を、
『受けなければ(取らなければ)!』、
わたしは、
『涅槃』を、
『得るはずだ!』、と、
若し、
『人』が、是のように言えば、――
還って、
『受()』に、
『縛されるだろう!』。
参考
nirvāsyāmy anupādāno nirvāṇaṃ me bhaviṣyati |
iti yeṣāṃ grahas teṣām upādānamahāgrahaḥ ||9||
“I, without clinging, am beyond misery. Nirvana is mine.”
Those who grasp in that way have great grasping and clinging.

参考
‘I, without grasping, will pass beyond sorrow.
Nirvana will be mine.’
Those who grasp in this way
Have great grasping to the appropriated aggregates.

参考
「私は執着(取)がなくニルヴァーナ(涅槃)〔に入る〕であろう,ニルヴァーナは私に存在するであろう」というとらわれを持つものたちには,執着という大きなとらわれ 〔がある〕。
若人作是念。我離受得涅槃。是人即為受所縛。 若し人、是の念を作さく、『我れ、受を離れて、涅槃を得』、と。是の人は、即ち受の縛する所と為らん。
若し、
『人』が、
是の念を作せば、――
わたしは、
『受』を、
『離れて!』、
『涅槃』を、
『得た!』、と。
是の、
『人』は、
即ち、
『受』に、
『縛されているということだ!』。
復次
 不離於生死  而別有涅槃 
 實相義如是  云何有分別
復た次ぎに、
生死を離れずして、而も別に涅槃有り、
実相の義は是の如し、云何が分別有らん。
復た次ぎに、
『生死』を、
『離れずとも!』、
別に、
『涅槃』が、
『有る!』。
是のような、
『実相の義』に、
何故、
『分別』が、
『有るのか?』。
参考
na nirvāṇasamāropo na saṃsārāpakarṣaṇam |
yatra kas tatra saṃsāro nirvāṇaṃ kiṃ vikalpyate ||10||
When nirvana is not born and samsara not eliminated,
then what is samsara?
And what is considered as nirvana?

参考
For a nirvana that cannot be generated
And also for a cylic existence that cannot be eliminated
What cyclic existence
And also what nirvana can be considered?

参考
およそ「ニルヴァーナ〔は有る〕」と想定することがなく,「輪迴〔は無い〕」と否するこ とがない,そのようなところでは,どのような輪迴,どのようなニルヴァーナが,分析的に考えられるであろうか。
諸法實相第一義中。不說離生死別有涅槃。 諸法実相の第一義中には、『生死を離れて、別に涅槃有り』、と説かず。
『諸法』の、
『実相である!』、
『第一義』中には、
こうは説かない、――
『生死』を、
『離れて!』、
別に、
『涅槃』が、
『有る!』、と。
如經說。涅槃即生死。生死即涅槃。如是諸法實相中。云何言是生死是涅槃 経に説くが如し、『涅槃は、即ち生死、生死は、即ち涅槃なり』、と。是の如き諸法の実相中に、云何が、『是れ生死なり、是れ涅槃なり』、と言う。
例えば、
『経』には、こう説かれている、――
『涅槃』とは、
即ち、
『生死である!』。
『生死』とは、
即ち、
『涅槃である!』、と。
是のような、
諸の、
『法』の、
『実相』中に、
何故、
こう言うのか?――
是れが、
『生死である!』、
是れが、
『涅槃である!』、と。
  参考:『思益梵天所問経巻2』:『佛告梵天。汝何能稱說是人功德。如如來以無礙智慧之所知乎。是人所有功德復過於此。若人能於如來所說文字言說章句。通達隨順不違不逆。和合為一。隨其義理。不隨章句言辭。而善知言辭所應之相。知如來以何語說法。以何隨宜說法。以何方便說法。以何法門說法。以何大悲說法。梵天。若菩薩能知如來以是五力說法。是菩薩能作佛事。梵天言。何謂如來所用五力。佛言。一者語說。二者隨宜。三者方便。四者法門。五者大悲。是名如來所用五力。一切聲聞辟支佛所不能及。世尊。何謂為說法。佛言梵天。如來說過去法。說未來現在法。說垢淨法。說世間出世間法。說有罪無罪法。說有漏無漏法。說有為無為法。說我人眾生壽命法。說得證法。說生死涅槃法。梵天。當知是諸言說。如幻人說無決定故。如夢中說虛妄見故。如響聲說從空出故。說如影眾緣合故。說如鏡中像因不入鏡故。說如野馬顛倒見故。說如虛空無生滅故。當知是說為無所說。諸法相不可說故。梵天。若菩薩能知此諸說者。雖有一切言說。而於諸法無所貪著。以不貪著故得無礙辯才。以是辯才。若恒河沙劫說法無盡無礙。諸有言說不壞法性。亦復不著不壞法性。梵天。是名如來說也。梵天。言世尊。何謂隨宜。佛言。如來或垢法說淨淨法說垢。菩薩於此應知如來隨宜所說。梵天。何謂垢法說淨。不得垢法性故。何謂淨法說垢。貪著淨法故。又梵天。我說布施即是涅槃。凡人無智不能善解隨宜所說。菩薩應如是思量布施後得大富。此中無法可得。從一念至一念。若不從一念至一念。即是諸法實相。諸法實相即是涅槃。持戒是涅槃。不作不起故。忍辱是涅槃。念念滅故。精進是涅槃。無所取故。禪定是涅槃。不貪味故。智慧是涅槃。不得相故。貪欲是實際。法性無欲故。瞋恚是實際。法性無瞋故。愚癡是實際。法性無癡故。生死是涅槃。無退無生故。涅槃是生死。以貪著故。實語是虛妄。生語見故。虛妄是實語。為增上慢人故。又梵天。如來以隨宜故。或自說我是說常邊者。或自說我是說斷邊者。或自說我是說無作者。或自說我是邪見者。或自說我是不信者。或自說我是不知報恩者。或自說我是食吐者。或自說我是不受者。如來無有如此諸事。當知是為隨宜所說。欲令眾生捨增上慢故。若菩薩善通達如來隨宜說者。若聞佛出則便信受。示眾生善業色身果報故。若聞佛不出亦信受。知是諸佛法性身故。若聞佛說法亦信受。為喜樂文字眾生故。若聞佛不說法亦信受。知諸法位性不可說故。若聞有涅槃亦信受。滅顛倒所起煩惱故。若聞無涅槃亦信受。諸法無生滅相故。若聞有眾生亦信受。入世諦門故。若聞無眾生亦信受。入第一義故。梵天。菩薩如是善知如來隨宜所說。於諸音聲無疑無畏。亦能利益無量眾生』



中論觀業品第十七(三十三偈)

問曰。汝雖種種破諸法。而業決定有。能令一切眾生受果報。 問うて曰く、汝は、種種に諸法を破すれども、而し業は決定して有り、能く一切の衆生をして、果報を受けしむ。
問い、
お前は、
種種に、
『諸法』を、
『破った!』が、
而し、
『業』は、
『決定して!』、
『有り!』、
『一切の衆生』に、
『果報』を、
『受けさせている!』。
  (ごう):梵語 karma, karman の訳、作用とも訳す、行動/行為/実践/業務( act, action, performance, business )、公職/特務/職業/義務( office, special duty, occupation, obligation )、宗教的な行動/儀式[犠牲、供物等]( any religious act or rite (as sacrifice, oblation ) )の義、必然的な結果を招来するものとしての以前の行動/[以前の生活に於ける行動による必然的な結果としての]運命( former act as leading to inevitable results, fate (as the certain consequence of acts in a previous life) )の意。来世の生に於ける運命を決定すると看做される、現世及び過去世の生に於ける行為の総体( the sum of a person’s actions in this and previous states of existence, viewed as deciding their fate in future existences. )、人の徳性に於ける行為とその結果、特に輪迴に於ける、次の生の形に関連する。意、口、身の三種に分別され、各は善業、悪業、無記という三種の徳性を有する可能性が有る。( Deeds and their effects on the character, especially in their relation to succeeding forms of transmigration, which are included in the three divisions of intention 意, speech 口 and bodily action 身, each of which can have the moral quality of wholesome 善業, unwholesome 惡業, or indeterminate 無記. )。以前の生活に従る業を、宿業といい、現在の行為に従る業を、現業という( Karma from former lives is 宿業, from present conduct 現業. )。
如經說。一切眾生皆隨業而生。惡者入地獄。修福者生天。行道者得涅槃。是故一切法不應空。 経に説けるが如し、『一切の衆生は、皆、業に随うて生ず。悪しき者は、地獄に入り、修福の者は、天に生じ、行道の者は、涅槃を得』、と。是の故に、一切の法は、応に空なるべからず。
例えば、
『経』には、こう説かれている、――
一切の、
『衆生』は、
皆、
『業』に、
『隨って!』、
『生まれる!』、――
『悪い!』者は、
『地獄』に、
『入り!』、
『福を修める!』者は、
『天』に、
『生まれ!』、
『道を行う!』者は、
『涅槃』を、
『得る!』、と。
是の故に、
一切の、
『法』は、
『空であるはずがない!』。
所謂業者
 人能降伏心  利益於眾生 
 是名為慈善  二世果報種
謂わゆる業とは、――
人能く心を降伏して、衆生を利益すれば、
是れを名づけて慈善と為し、二世の果報の種なり。
謂わゆる、
『業』とは、――
『人』が、
『心』を、
『降伏(抑制)して!』、
『衆生』を、
『利益すれば!』、
是れは、
『慈善』と、
『呼ばれ!』、
『二世』の、
『果報』の、
『種である!』。
参考
ātmasaṃyamakaṃ cetaḥ parānugrāhakaṃ ca yat |
maitraṃ sa dharamas tad bījaṃ phalasya pretya ceha ca ||1||
Restraining oneself well and loving thoughts that benefit others are the Dharma
which is the seed of fruits here and elsewhere.

参考
Thoughts of restraining oneself well,
Benefitting others and love are Dharma.
They are the seeds of results
In this and future lives

参考
およそ自己を制御し他人を利益する慈悲の心は,すなわち,法〔にかなった行ない〕 である。それは,今世においても後世においても,果報を受ける種子(原因)である。
人有三毒。為惱他故生行。善者先自滅惡。是故說降伏其心利益他人。 人には、三毒有り、他を悩まさんが為なり。故に行善を生ずる者は、先に自ら悪を滅す。是の故に説かく、『其の心を降伏して、他人を利益す』、と。
『人』には、
『三毒』が、
『有り!』、
『他』を、
『悩ましている!』。
故に、
『行善』の、
『心』を、
『生じた!』者は、
先に、
自らの、
『悪』を、
『滅する!』。
是の故に、
こう説く、――
其の、
『心』を、
『降伏して!』、
『他人』を、
『利益する!』、と。
利益他者。行布施持戒忍辱等不惱眾生。是名利益他。亦名慈善福德。亦名今世後世樂果種子。 他を利益すとは、布施、持戒、忍辱等を行じて、衆生を悩ませざる、是れを他を利益すと名づけ、又慈善の福徳と名づけ、又今世後世の楽果の種子と名づく。
『他』を、
『利益する!』とは、――
『布施、持戒、忍辱』等を、
『行って!』、
『衆生』を、
『悩ませない!』こと、
是れを、
『他』を、
『利益する!』と、
『称し!』、
亦た、
『慈善』の、
『福徳』とも、
『称し!』、
亦た、
『今世、後世』の、
『楽果の種子』とも、
『称する!』。
復次
 大聖說二業  思與從思生 
 是業別相中  種種分別說
復た次ぎに、
大聖は二業を説き、思と思より生ずるとなりと、
是の業を別相中に、種種に分別して説きたもう。
復た次ぎに、
『大聖』は、
『二業』を、こう説かれた、――
『思』と、
『思より生じるもの!』と。
是の、
『業』を、
『別相』中に、
種種に、
『分別して!』、
『説かれた!』。
  (し):思う( to think )、◯梵語 cintA の訳、熟考/思考/想像すること( To contemplate, consider, imagine )、思考/思案( thinking, pondering )の義。又◯梵語 cetana, cetanA 等の訳、自覚/理解/意識/知性( consciousness, understanding, sense, intelligence )の義。意志的な一時の感情/目的を伴う精神作用/意図/志向/意志の活動( Volitional impulse; the function of the mind with a motive; intention, aim; volitional activity )の意。大地法の一。
参考
cetanā cetayitvā ca karmoktaṃ paramarṣiṇā |
tasyānekavidho bhedaḥ karmaṇaḥ parikīrtitaḥ ||2||
The great sage has taught all actions to be intention and what is intended.
The specifics of those actions are well known to be of many kinds.

参考
The Supreme Sage taught that actions
Are either intention or intended actions.
The instances of those actions
Are well known to be of many types.

参考
「業(行為)は,心に思う行為(思業)と,心に思ってから外に現わされる行為(思已業) とである」と,最高の仙人(ブッダ)によって語られた。また「その業には,多くの種 類の区別がある」と,宣言された。
大聖略說業有二種。一者思。二者從思生。 大聖の略説したまわく、『業には、二種有り、一には思、二には思より生ず』、と。
『大聖』は、
略して、こう説かれた、――
『業』には、
『二種』有り、
一には、
『思であり!』、
二には、
『思より!』、
『生じるものだ!』、と。
是二業如阿毘曇中廣說。
 佛所說思者  所謂意業是 
 所從思生者  即是身口業
是の二業は、阿毘曇中に広く説けるが如し、――
仏の所説の思とは、謂わゆる意業是れなり、
思より生ずる所とは、即ち是れ身口の業なり。
是の、
『二業』とは、
例えば、
『阿毘曇』中に、
広く、こう説かれている、――
『仏』の、
『説かれた!』、
『思』とは、――
謂わゆる、
『意業』が、
是れである!。
『思』より、
『生じる!』所とは、――
即ち、
是れは、
『身、口の業である!』。
参考
tatra yac cetanety uktaṃ karma tan mānasaṃ smṛtam |
cetayitvā ca yat tūktaṃ tat tu kāyikavācikam ||3||
In this respect action spoken of as “intention” is regarded as being that of mind.
That spoken of as “what is intended” is regarded as being that of body and speech.

参考
Any actions said to be ‘intention’
Are accepted to be of the mind.
And any said to be ‘intended actions’
Are accepted to be of the body and the speech.

参考
そのうち,およそ心に思う行為といわれている業(思業)は,意に関するもの(意業)と考えられている。一方,およそ心に思ってから外に現わされる行為といわれているも の(思已業)は,身体に関するもの(身業)と,ことばに関するもの(口業)である﹝と考えられている﹞。
思是心數法。諸心數法中能發起有所作故名業。因是思故起外身口業。雖因餘心心數法有所作。但思為所作本。故說思為業。 思は、是れ心数法なり。諸の心数法中より、能く有る所作を発起するが故に、業と名づく。是の思に因るが故に外の身口の業を起こし、余の心、心数法に因りても、所作有りと雖も、但だ思を、所作の本と為すが故に説かく、『思を業と為す』、と。
『思』とは、――
『心数法である!』。
諸の、
『心数法』中に、
有る、
『所作(行為 : action )』を、
『発起させる!』が故に、
『思』を、
『業』と、
『呼ぶのであり!』、
是の、
『思』に、
『因る!』が故に、
外の、
『身、口の業』が、
『起こされるのである!』。
他の、
『心、心数法』も、
有る、
『所作』を、
『起こす!』が、
但だ、
『思』は、
『所作』の、
『本である!』が故に、
こう説くのである、――
『思』は、
『業である!』、と。
是業今當說相
 身業及口業  作與無作業 
 如是四事中  亦善亦不善 
 從用生福德  罪生亦如是 
 及思為七法  能了諸業相
是の業の相を、今当に説くべし、――
身業及び口業と、作と無作の業と、
是の如き四事中には、亦た善あり亦た不善あり。
用によって福徳生ず、罪の生ずるも亦た是の如し、
及び思を七法と為し、能く諸業の相を了らかにせん。
是の、
『業』の、
『相』を、
今、説くことにしよう、――
『身業』と、
『口業』と、
『作業(外に解き放たれた業)』と、
『無作業(内に住まる業)である!』、と。
是のような、
『四事』中には、
『善』も、
『不善』も、
『有り!』、
『用(実際の効果)』に、
『従って!』、
『福徳』を、
『生じる!』し、
亦た、
『罪』の、
『生じることもある!』が、
『思』と、
『併せて!』、
『七法(身業、口業、作業、無作業、善、不善、思)』が、
諸の、
『業相』を、
『了らかにするだろう!』。
  作業(さごう):作用ある業の意。亦表業 vijJapti- karma, vijJapti の如し。表業は外に表れ、他をして知らしむる業の意。
  無作業(むさごう):作用無き業の意。亦無表業 avijJapti- karman, aviJapti の如し。無表業は、外に表れず、他をして知らしめざる業の意。唯識に於いては表業/無表業は唯身口二業にあり、意業にあるに非ずと為すも、説一切有部に於いては身表業は、形色を以って体とし、語表業は言声を以って体とし、無表業は法処所摂の色を以って体とすと云えり。
  (ゆう):用いる( to use )、◯梵語 kRtya の訳、適用する/実践に移す( To apply, to put into practice )、機能[働き]/行動/活躍( Function, action, activity )の義。又◯梵語 paribhoga の訳、楽しみ[特に与えられた事物に関して]( Enjoyment (esp. of given things) )の義、熟語[受用]として見受けられる。
参考
vāgviṣpando ’viratayo yāś cāvijñaptisaṃjñitāḥ |
avijñaptaya evānyāḥ smṛtā viratayas tathā ||4||
Whatever (1) speech and (2) movements
and (3) “unconscious not-letting-go,”
(4) other kinds of unconscious letting-go
are also regarded like that.

paribhogānvayaṃ puṇyam apuṇyaṃ ca tathāvidham |
cetanā ceti saptaite dharmāḥ karmāñjanāḥ smṛtāḥ ||5||
(5) Goodness that arises from enjoyment/use and in the same manner
(6) what is not goodness,[and] (7) intention.
These seven dharmas are clearly regarded as action.

参考
Speech, movement,
And similarly also the other two –
Those called ‘the non-revelatory of non-abandonment’
And ‘the non-revelatory of abandonment’ – are accepted.

Similarly, the meritorious arisen from resources,
The non-meritorious arisen from resources
And intention are accepted.
These seven phenomena are clearly accepted to be actions.

参考
ことばと,〔身体の〕動作と,〔煩惱から〕まだ離れていない無表と名づけられ るものと,また同類で〔煩惱から〕離れている他のもろもろの無表と考えられるもの と,〔善い果報の〕享受と結びついている功德(善行)と,また同種の惡德(惡行) と,さらに心に思うことと,これらの七つの「もの」(七法)が,業を明示する,と考えられている。
口業者四種口業。身業者。三種身業。 口業とは、四種の口業なり。身業とは、三種の身業なり。
『口業』とは、
『四種(妄語、両舌、悪口、綺語)』の、
『口業であり!』、
『身業』とは、
『三種(殺害、偷盗、邪婬)』の、
『身業である!』。
是七種業有二種差別。有作有無作。作時名作業。作已常隨逐生名無作業。 是の七種の業に、二種の差別有り、作有り、無作有り。作す時を、作業と名づけ、作し已りて、常に生に随逐するを、無作業と名づく。
是の、
『七種の業』にも、
『二種の差別』が、
『有り!』、
有るいは、
『作であり!』、
有るいは、
『無作である!』。
『作す!』時の、
『業』を、
『作業』と、
『呼び!』、
『作し已って!』、
常に、
『生(生命)』に、
『随逐する業』、
是れを、
『無作業』と、
『呼ぶ!』。
  (しょう):生起( arising )、梵語 jaati, jana の訳、誕生/生産( birth, production )、再生/生まれかわること( re-birth )、誕生に因って決定される存在の形[例えば人、動物等]( the form of existence (as man, animal, &c ) fixed by birth )、誕生に従り割り当てられる位/地位/カースト/家族/種族/血統( position assigned by birth, rank, caste, family, race, lineage )の義。生命/生活/生産/誕生( Life, living; production; coming into existence )の意。
是二種有善不善。不善名不止惡。善名止惡。 是の二種に善と不善と有り、不善を悪を止めずと名づけ、善を悪を止むと名づく。
是の、
『二種』にも、
『善』と、
『不善』とが、
『有り!』、
『不善』を、
『悪』を、
『遮止しない!』と、
『呼び!』、
『善』を、
『悪』を、
『遮止する!』と、
『呼ぶ!』。
復有從用生福德。如施主施受者。若受者受用。施主得二種福。一從施生。二從用生。 復た用より、福徳を生ずる有り。施主の受者に施すが如きは、若し受者受用すれば、施主は、二種の福を得、一は施より生じ、二は用より生ず。
復た、
『用(実際の効果)』より、
『福徳』を、
『生じる!』。
例えば、
『施主』が、
『受者』に、
『施す!』時、
若し、
『受者』が、
『用』を、
『受ければ!』、
『施主』は、
『二種』の、
『福』を、
『得る!』、
一は、
『施』より、
『生じた!』、
『福であり!』、
二は、
『用』より、
『生じた!』、
『福である!』。
如人以箭射人。若箭殺人有二種罪。一者從射生。二者從殺生。 人の、箭を以って人を射るが如きは、若し箭、人を殺せば、二種の罪有り、一には射より生じ、二には殺より生ず。
例えば、
『人』が、
『箭』で、
『人』を、
『射た!』として、
若し、
『箭』が、
『人』を、
『殺せば!』、
『二種』の、
『罪』が、
『有る!』、
一には、
『射た!』ことで、
『生じる!』、
『罪であり!』、
二には、
『殺す!』ことで、
『生じた!』、
『罪である!』。
若射不殺。射者但得射罪。無殺罪。是故偈中說罪福從用生。 若し射て殺さずんば、射者は、但だ射罪を得、殺罪は無し。是の故に、偈中に説かく、『罪福は、用より生ず』、と。
若し、
『射ても!』、
『殺さなければ!』、――
『射た!』者は、
但だ、
『射た!』、
『罪』のみを、
『得て!』、
『殺す!』、
『罪』は、
『無い!』。
是の故に、
『偈』中には、こう説く、――
『罪、福』は、
『用』より、
『生じる!』、と。
如是名為六種業。第七名思。是七種即是分別業相。是業有今世後世果報。 是の如きを名づけて、六種の業と為し、第七を思と名づく。是の七種は、即ち是れ業相を分別せり。是の業には、今世、後世の果報有り。
是のようなものを、
『六種』の、
『業』と、
『呼び!』、
『第七』を、
『思』と、
『呼ぶ!』。
是の、
『七種』は、
『業相』を、
『分別したものである!』。
是の、
『業』には、
『今世、後世』の、
『果報』が、
『有る!』。
是故決定有業有果報故。諸法不應空。 是の故に決定して、業有り、果報有り、故に諸法は、応に空なるべからず。
是の故に、
『決定して!』、
『業』も、
『有れば!』、
『果報』も、
『有る!』ので、
故に、
諸の、
『法』は、
『空であるはずがない!』。
答曰
 業住至受報  是業即為常 
 若滅即無業  云何生果報
答えて曰く、
業住まりて報を受くるに至れば、是の業を即ち常と為す、
若し滅すれば即ち業無し、云何が果報を生ぜん。
答え、
『業』が、
若し、
『報』を、
『受ける!』まで、
『住まれば!』、
是の、
『業』は、
『常であろう!』。
若し、
『滅すれば!』、
『業』は、
『無い!』、
何故、
『果報』を、
『生じるのか?』。
参考
tiṣṭhaty ā pākakālāc cet karma tan nityatām iyāt |
niruddhaṃ cen niruddhaṃ sat kiṃ phalaṃ janayiṣyati ||6||
If the action remained until the time of ripening,
it would become permanent.
If it stopped, by having stopped,
how could a fruit be born?

参考
If actions remain until the time of fruition
They would be permanent.
And if they cease
How could that which has ceased produce a result?

参考
もしも業が熟〔して果報に至る〕時まで存續しているならば,それ(業)は常住である, ということになるであろう。またもしも〔業が〕すでに滅してしまっているならば, すでに滅したものが,どのようにして,果報を生ずるであろうか。
業若住至受果報。即為是常。是事不然。 業若し住まりて、果報を受くるに至れば、即ち是れ常なりと為す。是の事は然らず。
『業』が、
若し、
『住まって!』、
『果報』を、
『受ければ!』、
是れは、
即ち、
『常となるはずだ!』が、
是の、
『事』は、
『真実でない!』。
何以故。業是生滅相。一念尚不住。何況至果報。若謂業滅。滅則無。云何能生果報。 何を以っての故に、業は、是れ生滅の相にして、一念すら、尚お住まらず。何に況んや、果報に至るをや。若し、『業滅す』と謂わば、滅すれば、則ち無し。云何が能く、果報を生ぜん。
何故ならば、
『業』は、
『生滅の相』であり、
『一念』すら、
『住まることはない!』。
況して、
『果報』を、
『受ける!』まで、
『住まるはずがない!』。
若し、
こう謂えば、――
『業』は、
『滅する!』、と。
若し、
『滅すれば!』、
『業』は、
『無い!』。
何故、
『果報』を、
『生じさせられるのか?』。
問曰
 如芽等相續  皆從種子生 
 從是而生果  離種無相續 
 從種有相續  從相續有果 
 先種後有果  不斷亦不常 
 如是從初心  心法相續生 
 從是而有果  離心無相續 
 從心有相續  從相續有果 
 先業後有果  不斷亦不常
問うて曰く、
芽等の相続は、皆種子より生じ、
是れによって果を生ず、種を離れて相続無きが如し。
種によって相続有り、相続によって果有り、
先の種は後に果有り、断にあらず亦た常にあらず。
是の如く初心より、心法相続して生じ、
是れによって果有り、心を離れて相続無し。
心によって相続有り、相続によって果有り、
先の業は後に果有り、断にあらず亦た常にあらず。
問い、
例えば、こうだ、――
『芽』等の、
『相続』は、
皆、
『種子』より、
『生じる!』が、
是れによって、
『果』を、
『生じる!』ので、
若し、
『種』を、
『離れれば!』、
『相続』は、
『無い!』。
『種』によって、
『相続』が、
『有り!』、
『相続』によって、
『果』が、
『有り!』、
先の、
『種』に、
後に、
『果』が、
『有る!』ので、
『種』と、
『果』とは、
『断でもなく!』、
『常でもない!』。
是のように、
初の、
『心』によって、
『心法(心、心数法)』が、
『相続して!』、
『生じ!』、
是れによって、
『果』が、
『有る!』ので、
『心』を、
『離れて!』、
『相続』は、
『無い!』。
『心』によって、
『相続』が、
『有り!』、
『相続』によって、
『果』が、
『有り!』、
先の、
『業』に、
後に、
『果』が、
『有る!』ので、
『業』と、
『果』とは、
『断でもなく!』、
『常でもない!』。
参考
yo ’ṅkuraprabhṛtir bījāt saṃtāno ’bhipravartate |
tataḥ phalam ṛte bījāt sa ca nābhipravartate ||7||
The continuum of sprouts and so on clearly emerges from seeds,
and from that fruits. If there were no seeds,
they too would not emerge.

bījāc ca yasmāt saṃtānaḥ saṃtānāc ca phalodbhavaḥ |
bījapūrvaṃ phalaṃ tasmān nocchinnaṃ nāpi śāśvatam ||8||
Because continuums are from seedsand fruits emerge
from continuums and seeds precede fruits,
therefore, there is no annihilation and no permanence.

yas tasmāc cittasaṃtānaś cetaso ’bhipravartate |
tataḥ phalam ṛte cittāt sa ca nābhipravartate ||9||
The continuum of mind clearly emerges from mind, and from that fruits.
If there were no mind, they too would not emerge.

cittāc ca yasmāt saṃtānaḥ saṃtānāc ca phalodbhavaḥ |
karmapūrvaṃ phalaṃ tasmān nocchinnaṃ nāpi śāśvatam ||10||
Because continuums are from minds and fruits emerge from continuums
and actions precede fruits,
therefore, there is no annihilation and no permanence.

参考
The continuum of a sprout and so forth
Manifestly arises from a seed.
And from that arises the fruit.
If the seed did not exist that also would not aris

Since the continuum arises from the seed,
The fruit arises from the continuum
And the seed comes before the fruit
There is no annihilation and no permanence.

The continuum of the mind
Manifestly arises from intention.
And from that arises the result.
If intention did not exist that also would not arise

Since the continuum arises from intention,
The result arises from the continuum
And the action comes before the result
There is no annihilation and no permanence.

参考
およそ芽に始まる連續(相續)は,種子から現われて,それから果実〔が現われる〕。そ れ(連續)は,種子を離れては,現われることはない。

種子から連續が,またその連續から果実が,生起する。種子を先として果実〔が生起する〕のであるから,それゆえ,〔種子と果実とは〕断滅でもないし,また常住でもない。

およそ心の連續(相續)は,その心から現われて,それから果〔が現われる〕。それ(心の連續)は,心を離れては,現われることはない。

そして,心から連續(相續)が,またその連續から,果が生起する。業を先として,果 〔が生起する〕のであるから,それゆえ,断滅でもないし,また常住でもない。
如從穀有芽。從芽有莖葉等相續。從是相續而有果生。離種無相續生。 穀によって芽有り、芽によって茎、葉等の相続有るが如く、是の相続によって果の生有り。種を離るれば、相続して生ずる無し。
例えば、
『穀(もみ)』によって、
『芽』が、
『有り!』、
『芽』によって、
『茎、葉』等の、
『相続』が、
『有り!』、
是の、
『相続』によって、
『果』の、
『生』が、
『有る!』ので、
『種』を、
『離れては!』、
『相続して!』、
『生じる!』ことも、
『無い!』。
是故從穀子有相續。從相續有果。先種後有果。故不斷亦不常。 是の故に穀子によって相続有り、相続によって果有り、先の種に後に果有り、故に断にあらず、亦た常にあらず。
是の故に、
『穀子』によって、
『相続』が、
『有り!』、
『相続』によって、
『果』が、
『有り!』、
先の、
『種』に、
後に、
『果』が、
『有る!』ので、
故に、
『断でもなく!』、
『常でもない!』。
如穀種喻。業果亦如是。初心起罪福。猶如穀種。因是心餘心心數法相續生。乃至果報。 穀、種の喻の如く、業と果も亦た是の如し。初心の罪福を起こすも、猶お穀、種の如し。是の心に因って、余の心、心数法相続して生じ、乃ち果報に至る。
譬えば、
『穀、種』の、
『喻のように!』、
『業、果』も、
亦た、
『是の通りである!』。
初の、
『心』が、
『罪、福』を、
『起こす!』のは、
猶お、
『穀、種』と、
『同じである!』。
是の、
『心』に、
『因って!』、
『他の心、心数法』が、
『相続して!』、
『生じ!』、
やがて、
『果報』を、
『生じる!』に、
『至るのである!』。
先業後果故不斷亦不常。若離業有果報。則有斷常。 先の業、後の果の故に断にあらず、亦た常にあらず。若し業を離れて果報有らば、則ち断、常有らん。
先に、
『業』が、
『有って!』、
後に、
『果』が、
『有る!』ので、
故に、
『断でもなく!』、
『常でもない!』が、
若し、
『業』を、
『離れて!』、
『果報』が、
『有れば!』、
則ち、
『断、常』が、
『有ることになるだろう!』。
是善業因緣果報者。所謂
 能成福德者  是十白業道 
 二世五欲樂  即是白業報
是の善業の因縁の果報とは、謂わゆる、――
能く福徳を成ずる者は、是れ十白業道なり、
二世の五欲の楽とは、即ち是れ白業の報なり。
是の、
『善業』の、
『因縁』の、
『果報』とは、
謂わゆる、――
『福徳』を、
『成長させる!』者は、
『十白(十善)業道である!』。
『二世』の、
『五欲の楽』とは、
『白業(善業)の報である!』。
参考
dharmasya sādhanopāyāḥ śuklāḥ karmapathā daśa |
phalaṃ kāmaguṇāḥ pañca dharmasya pretya ceha ca ||11||
The ten paths of white action are the means of practising Dharma.
Here and elsewhere, the fruits of Dharma are the five kinds of sensual qualities.

参考
The ten paths of white actions
Are the method to practice Dharma.
The results of Dharma, in this and future lives,
Are the five types of sense pleasures.

参考
十種の白く淨らかな業の道(十白業道)は,法﹝にかなった行ない﹞を成立させる手段 (方便)である。今世と後世とにおける法﹝にかなった行ない﹞の果は,五欲の享受(功德) である。
白名善淨。成福德因緣者。從是十白業道。生不殺不盜不邪婬不妄語不兩舌不惡口不無益語不嫉不恚不邪見。是名為善。 白を善浄と名づく。福徳の因縁を成ずとは、是の十白業道によって、不殺、不盗、不邪婬、不妄語、不両舌、不悪口、不無益語、不嫉、不恚、不邪見を生ずれば、是れを名づけて、善と為す。
『白』を、
『善浄』と、
『称する!』、
『福徳』の、
『因縁』を、
『成長させる!』とは、――
是の、
『十白業道』によって、
『不殺』、
『不盗』、
『不邪婬』、
『不妄語』、
『不両舌』、
『不悪口』、
『不無益語』、
『不嫉』、
『不恚』、
『不邪見』を、
『生じる!』ので、
是れを、
『善』と、
『称する!』。
從身口意生是果報者。得今世名利。後世天人中貴處生。布施恭敬等雖有種種福德。略說則攝在十善道中。 身、口、意によって、是の果報を生ずとは、今世の名利を得て、後世には、天人中の貴処に生ず。布施、恭敬等に種種の福徳有りと雖も、略説すれば、則ち摂して十善道中に在り。
『身、口、意』が、
是の、
『果報』を、
『生じる!』とは、――
今世に、
『名利』を、
『得て!』、
後世に、
『天、人』中の、
『貴処』に、
『生まれるからである!』。
『布施』や、
『恭敬』等にも、
種種の、
『福徳』が、
『有る!』が、
略説すれば、――
皆、
『十善道』中に、
『含まれている!』。
答曰
 若如汝分別  其過則甚多 
 是故汝所說  於義則不然
答えて曰く、
若し汝が如く分別せば、其の過則ち甚だ多し、
是の故に汝が所説は、義に於いて則ち然らず。
答え、
若し、
お前のように、
『分別すれば!』、
其の、
『過失』は、
『甚だ多い!』。
是の故に、
お前によって、説かれた、――
『義』は、
『間違っている!』。
参考
bahavaś ca mahāntaś ca doṣāḥ syur yadi kalpanā |
syād eṣā tena naivaiṣā kalpanātropapadyate ||12||
If it were as that investigation, many great mistakes would occur.
Therefore, that investigation is not valid here.

参考
If it occured as in that analysis
There would be many great faults.
Thus, that analysis
Is inadmissible here.

参考
もしもこのような分別〔がなされる〕ならば,また多くの大きな諸過失が存在することになるであろう。それゆえ,この分別は,ここでは成り立たない。
若以業果報相續故。以穀子為喻者。其過甚多。但此中不廣說。 若し、業と果報の相続を以っての故に、穀子を以って喻と為さば、其の過甚だ多きも、但だ此の中には、広説せず。
若し、
『業、果報』の、
『相続』を、
『説こうとする!』が故に、
『穀子』を、
『用いて!』、
『喻えれば!』、
其の、
『過失』は、
『甚だ多い!』が、
但だ、
此の中に、
『広説しないだけである!』。
汝說穀子喻者。是喻不然。何以故。穀子有觸有形。可見有相續。 汝が説ける穀子の喻は、是の喻は然らず。何を以っての故に、穀子は、触有り、形有れば、相続有るを見るべければなり。
お前は、
『穀子』の、
『喻』を、
『説いた!』が、
是の、
『喻』は、
『間違っている!』。
何故ならば、
『穀子』には、
『触、形』が、
『有り!』、
『相続』が、
『有る!』のを、
『見られるからである!』。
我思惟是事。尚未受此言。況心及業。無觸無形不可見。 我れ、是の事を思惟するも、尚お未だ此の言を受けず。況んや、心、及び業の触無く、形無く不可見なるをや。
わたしは、
是の、
『事(穀子)』を、
『思惟した!』が、
尚お、
未だに、
此の、
『言』は、
『認められない!』。
況して、
『心』や、
『業』には、
『触、形』が、
『無く!』、
之を、
『見られないのであるから!』、
『尚更である!』。
生滅不住欲以相續。是事不然。 生滅住まらずして、以って相続せんと欲すれば、是の事は然らず。
『生、滅』が、
『住まらなくても!』、
『相続させよう!』と、
『思えば!』、
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
復次從穀子有芽等相續者。為滅已相續。為不滅相續。 復た次ぎに、穀子によって、芽等の相続有らば、滅し已りて、相続すと為すや、滅せずして、相続すと為すや。
復た次ぎに、
『穀子』によって、
『芽』等の、
『相続』が、
『有れば!』、
『芽』が、
已に、
『滅してから!』、
『相続するのか?』、
未だ、
『滅しないのに!』、
『相続するのか?』。
若穀子滅已相續者。則為無因。 若し穀子滅し已りて、相続せば、則ち無因と為す。
若し、
『穀子』が、
『滅してから!』、
『相続すれば!』、
則ち、
『無因である!』。
若穀子不滅而相續者。從是穀子常生諸穀。若如是者。一穀子則生一切世間穀。是事不然。是故業果報相續則不然。 若し穀子滅せずして、相続せば、是の穀子によって、常に諸の穀を生ぜん。若し是の如くんば、一穀子は、則ち一切の世間の穀を生ず、是の事は然らず。是の故に業と果報と相続すれば、則ち然らず。
若し、
『穀子』が、
『滅することなく!』、
『相続すれば!』、
是の、
『穀子』より、
常に、
『諸の穀子』が、
『生じるはずだ!』が、
若し、
是の通りならば、
『一』の、
『穀子』が、
『一切の世間』の、
『穀子』を、
『生じることになる!』ので、
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
是の故に、
『業』と、
『果報』とが、
『相続すれば!』、
則ち、
『間違っていることになる!』。
問曰
 今當復更說  順業果報義 
 諸佛辟支佛  賢聖所稱歎
問うて曰く、
今当に復た更に説くべし、業と果報とに順ずる義は、
諸仏と辟支仏と、賢聖の称歎する所なり。
問い、
今、
復た更に、説くとしよう、――
『業』と、
『果報』とに、
『順じた(違背しない)!』、
『義』は、
『諸仏』、
『辟支仏』、
『賢聖』に、
『称歎されたものである!』。
参考
imāṃ punaḥ pravakṣyāmi kalpanāṃ yātra yojyate |
buddhaiḥ pratyekabuddhaiś ca śrāvakaiś cānuvarṇitām ||17||
I will fully declare the investigation which is taught by the Buddhas,
Pratyekabuddhas and Sravakas, which is valid here.

参考
The analysis which is taught by the Buddhas,
Solitary Realizers and Hearers
And which is admissible here
Will now be thoroughly described.

参考
さらに,もろもろの仏により,もろもろの独覚(ひとりでさとりを得る人)により,もろもろの声聞(教えを聞いて実踐する人)によって,称讚されており,およそここに妥当するようなこの分別を,私は〔以下に〕說明しよう。
所謂
 不失法如券  業如負財物 
 此性則無記  分別有四種 
 見諦所不斷  但思惟所斷 
 以是不失法  諸業有果報 
 若見諦所斷  而業至相似 
 則得破業等  如是之過咎 
 一切諸行業  相似不相似 
 一界初受身  爾時報獨生 
 如是二種業  現世受果報 
 或言受報已  而業猶故在 
 若度果已滅  若死已而滅 
 於是中分別  有漏及無漏
謂わゆる、
不失の法は券の如く、業は負財物の如し、
此の性は則ち無記にして、分別して四種有り。
見諦の断ぜざる所、但だ思惟の断ずる所なる、
是の不失の法を以って、諸業に果報有り。
若し見諦所断にして、而も業と相似するに至らば、
則ち破業等の、是の如き過咎を得ん。

一切の諸の行業は、相似するも相似せざるも、
一界に初めて身を受くる、爾の時の報は独り生ず。
是の如き二種の業は、現世に果報を受くるも、
或いは言わく報を受け已りて、而も業は猶お故に在りと。
若しは果を度し已りて滅し、若しは死し已りて滅す、
是の中に於いて、有漏及び無漏を分別す。
謂わゆる、
『不失の法』は、
『債券のようであり!』、
『業』は、
『抵当に入った!』、
『財物のようだ!』が、
此の、
『性』は、
『無記(善悪未決)であり!』、
『分別すれば!』、
『四種(欲界繋、色界繋、無色界繋、不繋)』、
『有る!』。
『不失の法()』は、
『見諦道』では、
『断じられず!』、
但だ、
『思惟道』で、
『断じられる!』、
是の、
『不失の法』を、
『用いて!』、
『諸の業』に、
『果報』が、
『有る!』。
若し、
『不失の法』が、
『見諦道』で、
『断じられ!』、
而も、
『業』に、
『極めて!』、
『似ていれば!』、
則ち、
『業』を、     ――思惟道に於いてのみ、能く前世の業を滅する――
『破る!』、
『過咎のような!』、
是のような、
『過咎』を、
『得るだろう!』。
一切の、
諸の、
『行業(の果報の身)』は、
『現在(の果報の身)』と、
『相似するか?』、
『相似しないか!』だが、
『一界』に、
『初めて!』、
『身』を、
『受ける!』、
爾の時の、
『報()』は、
『独りで!』、
『生じる!』。
是のような、
『業』には、
『二種(善、不善)』有り、
『現世』にも、
『果報』を、
『受ける!』が、
或いは、こうも言う、――
『報』を、
『受けても!』、
『業』は、
猶お、
『故(もと)のように!』、
『存在する!』、と。
『業』は、
『果(聖果)』を、
『度し(過ごし)已れば!』、
『滅する!』し、
若しは、
『死んでも!』、
『滅する!』が、
是の中に、
『分別すれば!』、
『有漏』か、
『無漏である!』。
参考
pattraṃ yathā ’vipraṇāśas tatharṇam iva karma ca |
caturvidho dhātutaḥ sa prakṛtyāvyākṛtaś ca saḥ ||17||
Just like a contract, irrevocable action is like a debt.
In terms of realms, there are four types.
Moreover, its nature is unspecified.

prahāṇato na praheyo bhāvanāheya eva vā |
tasmād avipraṇāśena jāyate karmaṇāṃ phalam ||17||
It is not let go of by letting go, but only let go of by cultivation.
Therefore through irrevocability are the fruits of acts produced.

prahāṇataḥ praheyaḥ syāt karmaṇaḥ saṃkrameṇa vā |
yadi doṣāḥ prasajyeraṃs tatra karmavadhādayaḥ ||17|
If it perished through being let go of by letting go
and the transcendence of the action,
then faults would follow such as the perishing of actions.

sarveṣāṃ visabhāgānāṃ sabhāgānāṃ ca karmaṇām |
pratisaṃdhau sadhātūnām eka utpadyate tu saḥ ||17||
The very [irrevocability] of all actions in similar or dissimilar realms,
that one alone is born when crossing the boundary [i.e. reborn].

karmaṇaḥ karmaṇo dṛṣṭe dharma utpadyate tu saḥ |
dviprakārasya sarvasya vipakve ’pi ca tiṣṭhati ||18||
In the visible world there are two kinds.
Actions of all [types] and that [irrevocability] of actions
are produced as different things
and remain [so?] even on ripening.

phalavyatikramād vā sa maraṇād vā nirudhyate |
anāsravaṃ sāsravaṃ ca vibhāgaṃ tatra lakṣayet ||19||
When the fruit is transcendent and when one dies, that ceases.
One should know its divisions to be without-corruption and with-corruption.

参考
Non-wastage is just like a loan agreement
While the action is like the debt.
In terms of realms, non-wastage is of four types.
And moreover, its entity is unspecified.

It is not abandoned by abandoning
Rather it is also abandoned by meditation.
Thus, due to non-wastage
Results of actions will be produced.

If it were destroyed due to the action
Being abandoned by abandoning or transfering
There would follow the faults
Of the action for it being destroyed and so forth.

At the time of conception,
Only a single non-wastage will be produced
For every congruent and incongruent action
Of the concordant realm.

In this life, the actions of the two types
And the non-wastage of the actions
Will be produced individually
And the fruition also remains.

It will cease
If there is transference to a result or death.
Its classifications can be understood
As uncontaminated and contaminated.

参考
不失﹝法﹞(業の相續において業が消えてもなお失われない別法で輪迴の主体﹝の原理﹞)はあたかも債券のようであり,また業は負債のようである。それ(不失法)は,要素(界)に関していえば,四種(欲界,色界,無色界,無漏界) である。またそれは,本性に関していえば,無記である(善でもなく惡でもない)。

﹝それは﹞﹝最初の位の見道において四諦の觀察によって断ぜられるはずの﹞断によって断ぜられず,実に,﹝反復して修習する第二の位の﹞修道によって断ぜられる。 それゆえ,不失﹝法﹞によって,もろもろの業の果報が生ずるのである。

もしも〔その不失法が〕〔見道の〕断によって断ぜられ,あるいは業の〔他への〕転移 によって〔断ぜられる〕のであるならば,そこでは,業の破壞などという誤りが付随することになるであろう。

同じ要素(界)の,同類ではない,また同類の,もろもろの一切の業が結合するときに, しかしかの一つのもの(不失法)が生ずる。

その〔不失法という〕「原理」(法)は,二種より成る一切の業の一つ一つに,現在において,生ずる。そして,〔それは〕また〔業の果報が〕熟したときにも,存續している。

それ(不失法)は,果報を〔あたえて〕超え出てから〔つぎの修道において〕,あるいは死んでから, 滅する。そのさいに,有漏(煩悩の有るもの)である,また無漏(煩悩 の無いもの)である,という区別を明示するであろう。
不失法者。當知如券。業者如取物。 不失の法とは、当に知るべし、券の如しと。業とは、物を取るが如し。
『不失の法』とは、
『債券のようだ!』、と。
『知らなくてはならない!』。
『業』とは、
例えば、
『物』を、
『取る(奪う)ことである!』。
是不失法。欲界繫色界繫無色界繫亦不繫。若分別善不善無記中。但是無記。是無記義阿毘曇中廣說。 是の不失の法は、欲界繋、色界繋、無色界繋、亦た不繋なり。若し善、不善、無記中に分別すれば、但だ是れ無記なり。是の無記の義は、阿毘曇中に広説せり。
是の、
『不失の法』は、
『欲界繋』か、
『色界繋』か、
『無色界繋』か、
亦たは、
『不繋である!』が、
若し、
『善』、
『不善』、
『無記』中に、
『分別すれば!』、
但だ、
是れは
『無記である!』。
是の、
『無記の義』は、
『阿毘曇』中に、
『広く説かれている!』。
  欲界繋(よっかいけ):梵語 kaama- pratisaMyukta, kaama- dhaatu- bandhana の訳、欲界に繋がれる( bound to the desire realm )の義、欲界の煩悩( Afflictions of the desire realm )の意。
  色界繋(しきかいけ):梵語 ruupa- pratisaMyukta の訳、色界に繋がれる( bound to the realm of form )の義、色界の煩悩( Afflictions of the realm of form )の意。
  無色界繋(むしきかいけ):梵語 aaruupya- pratisaMyukta の訳、無色界に繋がれる( bound to the realm of non- form )の義、無色界の煩悩( Afflictions of the realm of non- form )の意。
  不繋(ふけ):梵語 apratisaMyukta の訳、繋がれない( not bound )の義、煩悩によって繋がれない( Not bound by affliction. )の意。
見諦所不斷。從一果至一果。於中思惟所斷。是以諸業。以不失法故果生。 見諦に断ぜられず、一果より一果に至り、中に於いて思惟に断ぜらる。是を以って、諸業は、不失の法なるを以っての故に、果生ず。
是の、
『不失の法』は、
『見諦』では、
『断じられず!』、
『一果』より、
『一果』に、
『至って!』、
『輪迴し!』、
『生死』中に於いて、
『思惟道』に、
『断じられる!』。
是の故に、
『諸の業』は、
『不失の法である!』が故に、
『果』が、
『生じる!』。
若見諦所斷而業至相似。則得破業過。是事阿毘曇中廣說。 若し見諦所断にして、而も業と相似するに至れば、則ち破業の過を得とは、是の事は、阿毘曇中に広説せり。
若し、
『見諦』に、
『断じられて!』、
而も、
『業』に、
『極めて似ていれば!』、
則ち、
『業を破る!』という、
『過失』を、
『得ることになる!』が、
是の、
『事』は、
『阿毘曇』中に、
『広く説かれている!』。
  参考:『阿毘達磨発智論巻11』:『頗有見修所斷業非前非後受異熟果耶。答有。謂見所斷業色。修所斷業心心所法心不相應行。又見所斷業。心心所法心不相應行。修所斷業色。』
復次不失法者。於一界諸業相似不相似。初受身時果報獨生。於現在身從業更生業。是業有二種。隨重而受報。 復た次ぎに、不失の法とは、一界の諸業に於いて相似するも、相似せざるも、初めて身を受くる時には、果報は独り生じ、現在の身に於いて、業より更に業を生じ、是の業には、二種有りて、重きに隨いて、報を受く。
復た次ぎに、
『不失の法』は、――
『一界』の、
諸の、
『業』と、
『相似しても!』、
『相似しなくても!』、
初めて、
『身』を、
『受ける!』時には、
『果報』は、
『独りで!』、
『生じ!』、
『現在』の、
『身』に於いて、
『業』より、
更に、
『業』を、
『生じる!』。
是の、
『業』には、
『二種(善、不善)』、
『有る!』が、
『果報』は、
『重い方』を、
『受けるのである!』。
或有言。是業受報已業猶在。以不念念滅故。若度果已滅。若死已而滅者。須陀洹等度果已而滅。諸凡夫及阿羅漢死已而滅。於此中分別有漏及無漏者。從須陀洹等諸賢聖。有漏無漏等應分別。 或いは有るが言わく、『是の業は、報を受け已りても、業は猶お在り、念念に滅せざるを以っての故なり』、と。若しは果を度し已りて滅し、若しは死し已りて滅すとは、須陀洹等は、果を度し已りて滅し、諸の凡夫、及び阿羅漢は、死し已りて滅するなり。此の中に於いて有漏、及び無漏を分別すとは、須陀洹等等の諸賢聖に従って、有漏無漏等は、応に分別すべし。
或いは、
有る人は、こう言う、――
是の、
『業』の、
『報』を、
『受け已っても!』、
猶お、
『業』が、
『存在する!』のは、
念念に、
『滅しないからである!』、と。
『業』が、
若しは、
『果』を、
『度し已った!』時に、
『滅する!』、
若しは、
『死んだ!』時に、
『滅する!』とは、――
『須陀洹』等は、
『果』を、
『度し已って!』、
『滅し!』、
『諸の凡夫』と、
『阿羅漢』とは、
『死ねば!』、
『滅するからである!』。
此の中に、
『有漏』と、
『無漏』とを、
『分別する!』とは、――
『須陀洹』等の、
諸の、
『賢聖』に、
『従って!』、
『有漏、無漏』等は、
『分別すべきだからである!』。
  有漏(うろ):汚染された( contaminated, tainted )、梵語 saasrava, aasrava の訳、米を炊く時の泡( the foam on boiling rice )、川に向って開かれ、流れが通ることを容認する扉( a door opening into water and allowing the stream to descend through it )、[ジャイナ教]外界の事物に向って心を駆り立てる感覚の作用[七衆生、又は実体の一、善、悪二種に約される]( (with jainas) the action of the senses which impels the soul towards external objects (one of the seven sattvas or substances ; it is two fold, as good or evil) )、苦痛/苦悩( distress, affliction, pain )、[仏教]不浄/汚染/罪( impurity, defilement, sin )の義、「漏」と漢訳される( Literally translated into Chinese as 'leaking.' )、元と魂( jiiva: 生活/存在/生命/健康な[血] living, existing, alive, healthy (blood) )上の静穏の増長の実現に関するジャイナ教の術語が、仏教に齎され歪曲されたもの( It is a term that is borrowed roughly into Buddhism from Jainism that originally refers to the presence of karmic accretions on the soul (jīva). )、仏教に於いては、それは「ひび割れた」、「汚れた」、或いは「汚染された」の意味があり、故に不正確、或いは口語的な感覚を以って使用される時には、煩悩/汚染のような概念と結びつき、邪悪な行動、或いは要素 [akuzala 不善、悪; 近世の翻訳者は、極めて一般的なことであるが、[不善, 悪]の差別を見失い、汚染と苦悩との概念に結びつけている] からの直接的影響に言及する( In Buddhism it is has the meaning of being flawed, tainted, or contaminated, and because of this, is, when used in a loose or colloquial sense, conflated with such notions as kleśa (煩惱, 染汚) that refer to direct influence from evil activities or factors (akuśala, 不善, 惡; it is quite common for modern translators of Buddhist texts to miss this distinction and conflate the notions of contamination and affliction). )。 1 しかしながら、厳密に言えば、aasrava の概念は、「意識、或いは精神要素の巻き込まれたのは、必ずしも、不健全なことや、苦悩である」と言及しているのではない( 1 However, strictly speaking, the notion of āsrava does not imply that the consciousnesses, or the mental factors involved are necessarily unwholesome or afflicted. )、寧ろ要点は、彼等が、ある種の欲望が、高潔であれ、下賎であれ、実現することが予想されることに関する意図を有していることである( Rather, the point is that they have some sort of intent involved— "the fulfillment of some sort of desire, noble or ignoble, is anticipated." )、2 此の語は、ある人が、禁欲、布施等の健全な活動に従事することは可能であるが、而し志向する目標によっては、未だ汚染される可能性を有することを意味する( 2 This means that a person could be engaged in wholesome activities such as chastity, donation, and so forth, but that these could still be tainted by goal-orientation. )。 aasrava は、故に自他、好悪等の幻想によって騙される無知[無明]に関連する意識の状態である( Āsrava, then, is a condition associated with the state of nescience 無明 which allows the consciousnesses to be tricked by the illusions of subject and object, like and dislike. )。一方、覚醒した精神は、欲望によって動かされることなく、作用することができるので、無漏である( By contrast, the enlightened mind is able to operate without being driven by desire, and is anāsrava 無漏. )。このように、染と不染との差別は、俗と聖との間に見られる差別に似ている( Thus, the distinction between 'contaminated' and 'uncontaminated' is analogous to that seen between unenlightened 俗 and enlightened 聖. )。 Skt. sāsravā dharmāḥ, sānusrava, samala, laukika, sāsrava; bhavâsrava; Pāli sasava.
  無漏(むろ):汚染されていない( untained )、梵語 anaasrava, niraasrava 等の訳、志向された目標によって汚染されないこと( Not tainted by goal-orientations. )。汚染された[有漏]の対語、――有漏はひび割れた、汚染されたの意味であるが、而し、標準的概念よりは、より微細な程度の苦悩[煩悩]を指す( Not tainted by goal-orientations. Its opposite, 'contaminated' — 有漏 means to be flawed, tainted, but at a much more subtle level than the standard notion of 'affliction' (kleśa 煩惱). )。有漏を見よ。
  須陀洹(しゅだおん):梵語 srota- aapanna, srota- aapatti 、入流/預流/至流( stream- winner, or stream- enterer )と訳す。やがて阿羅漢の位に至る声聞道の四果の第一( It is the first of the four realizations 四果 of the śrāvaka 聲聞 path, which eventually leads to the level of arhat 阿羅漢. )。行者は、三界の見惑を破り、彼れ自身を、覚りの道に至る静かな流れに押しやることに成功する( The practitioner succeeds in breaking the deluded view of the three worlds, and pushing his/her own karmic flow clearly onto the path of enlightenment. )。仏道の修行を成就し、三界の見惑を断じて、修道の段階に入った修行者( A practitioner who is fully established in the course of Buddhist practice, who has severed the mistaken views of the three realms, and who has entered the stage of the path of cultivation 修道. )。この位は、そこに入らんとする段階の預流向と、それを完全に達成した預流果とに分けられる( This stage is divided up into the level of entry into the stage 預流向, and its full attainment 預流果. )。
答曰。是義俱不離斷常過。是故亦不應受。 答えて曰く、是の義は、倶に断常の過を離れず。是の故に、亦た応に受くるべからず。
答え、
是の、
『義』は、
どれも、
『断、常の過』を、
『離れていない!』ので、
是の故に、
『認められない!』。
問曰。若爾者。則無業果報。 問うて曰く、若し爾らば、則ち業の果報無けん。
問い、
若し、
そうならば、
『業』の、
『果報』は、
『無いということだ!』。
答曰
 雖空亦不斷  雖有亦不常 
 業果報不失  是名佛所說
答えて曰く、
空なりと雖も断にあらず、有なりと雖も常にあらず、
業の果報の失われざる、是れを仏の所説と名づく。
答え、
『空である!』が、
亦た、
『断でなく!』、
『有である!』が、
亦た
『常でもない!』、
『業』の、
『果報』は、
『失われない!』とは、
是れが、
『仏』の、
『所説である!』。
参考
śūnyatā ca na cocchedaḥ saṃsāraś ca na śāśvatam |
karmaṇo ’vipraṇāśaś ca dharmo buddhena deśitaḥ ||20||
Emptiness is not annihilation and samsara is not permanent.
The dharma of the irrevocability of actions is taught by the Buddha.

参考
Actions are simply empty, not annihilated,
Circling and not permanent.
The phenomena of non-wastage of actions
Is a teaching by the Buddha.

参考
空そのもの(空性)であって,しかも断滅ではなく,また輪迴であって,しかも常住ではないという,そのような業の不失という「原理」(法)が,ブッダによって說き示されている。
此論所說義。離於斷常。 此の論に説く所の義は、断常を離る。
此の、
『論』に、
『説かれた!』、
『義』は、
『断、常』を、
『離れている!』。
何以故。業畢竟空寂滅相。自性離有何法可斷何法可失。顛倒因緣故往來生死。亦不常。 何を以っての故に、業は、畢竟じて空なる、寂滅の相なり。自性を離れて、何の法の断ずべき、何の法の失うべきか有らん。顛倒の因縁の故に、生死を往来するも、亦た常にあらず。
何故ならば、
『業』は、
『畢竟じて!』、
『空であり!』、
『寂滅の相だからである!』。
『自性』を、
『離れて!』、
何のような、
『法』が、
『断じられるのか?』、
何のような、
『法』が、
『失われるのか?』。
『顛倒』の、
『因縁』の故に、
『生死』を、
『往来するので!』、
亦た、
『常でもない!』。
何以故。若法從顛倒起。則是虛妄無實。無實故非常。 何を以っての故に、若し法、顛倒より起れば、則ち是れ虚妄無実なり。無実なるが故に常に非ず。
何故ならば、
若し、
『法』が、
『顛倒』により、
『起れば!』、
是れは、
『虚妄であり!』、
『無実である!』、
則ち、
『実』の、
『無い!』が故に、
『常でない!』。
復次貪著顛倒不知實相故。言業不失。此是佛所說。 復た次ぎに、貪著し、顛倒して、実相を知らざるが故に言わく、『業は、失われずとは、此れは是れ仏の所説なり』、と。
復た次ぎに、
『貪著し!』、
『顛倒して!』、
『実相』を、
『知らない!』が故に、
こう言う、――
『業』が、
『失われない!』とは、
此れは、
『仏』の、
『所説である!』、と。
復次
 諸業本不生  以無定性故 
 諸業亦不滅  以其不生故 
 若業有性者  是則名為常 
 不作亦名業  常則不可作 
 若有不作業  不作而有罪 
 不斷於梵行  而有不淨過 
 是則破一切  世間語言法 
 作罪及作福  亦無有差別 
 若言業決定  而自有性者 
 受於果報已  而應更復受 
 若諸世間業  從於煩惱生 
 是煩惱非實  業當何有實
復た次ぎに、
諸業は本より不生なり、定性無きを以っての故に、
諸業は亦た不滅なり、其の不生なるを以っての故に。
若し業に性有れば、是れ則ち名づけて常と為し、
不作も亦た業と名づく、常なれば則ち作すべからず。
若し不作の業有れば、不作なれど而も罪有り、
梵行を断ぜずして、而も不浄の過有り。
是れ則ち一切の、世間の言語の法を破り、
作罪及び作福にも、亦た差別有ること無し。
若し業は決定して、而も自ら性有りと言わば、
果報を受け已りて、而も応に更に復た受くべし。
若し諸の世間の業が、煩悩より生ずれば、
是の煩悩は実に非ず、業に当に何の実か有るべき。
復た次ぎに、
諸の、
『業』は、
『本より!』、
『不生である!』、
『業』には、
『定性』が、
『無いからだ!』。
諸の、
『業』は、
亦た、
『不滅である!』、
其の、
『業』は、
『不生だからだ!』。
若し、
『業』に、
『性』が、
『有れば!』、
是の、
『業』は、
『常』と、
『呼ばれ!』、
『作らなくても!』、
『業』と、
『呼ばれる!』、
『常』ならば、
『作られることはない!』。
若し、
『作られない!』、
『業』が、
『有れば!』、
『作らない!』のに、
『罪』が、
『有り!』、
『梵行』を、
『断たない!』のに、
『不浄』の、
『過』が、
『有る!』。
是れは、
則ち、
一切の、
『世間』の、
『語言の法』を、
『破り!』、
『罪を作っても!』、
『福を作っても!』、
『差別』が、
『無い!』。
若し、
こう言うならば、――
『業』が、
『決定すれば!』、
『自ら!』の、
『性』を、
『有する!』、と。
『果報』を、
『受け已っても!』、
更に復た、
『果報』を、
『受けるはずだ!』。
若し、
諸の、
『世間』の、
『業』が、
『煩悩』より、
『生じれば!』、
是の、
『煩悩』は、
『実でない!』のに、
何故、
『業』が、
『実なのか?』。
参考
karma notpadyate kasmān niḥsvabhāvaṃ yatas tataḥ |
yasmāc ca tad anutpannaṃ na tasmād vipraṇaśyati ||21||
Because actions are not born, in this way they have no nature.
Therefore, because they are not born, therefore they are irrevocable.

karma svabhāvataś cet syāc chāśvataṃ syād asaṃśayam |
akṛtaṃ ca bhavet karma kriyate na hi śāśvatam ||22||
If actions existed [by] nature, without doubt they would be permanent.
Actions would not be done [by an agent]
because what is permanent cannot be done.

akṛtābhyāgamabhayaṃ syāt karmākṛtakaṃ yadi |
abrahmacaryavāsaś ca doṣastatra prasajyate ||23||
If actions were not done [by anyone],
one would fear meeting what [one] has not done.
Also the fault would follow for that [person] of not dwelling in the pure life.

vyavahārā virudhyante sarva eva na saṃśayaḥ |
puṇyapāpakṛtor naiva pravibhāgaś ca yujyate ||24||
All conventions also without doubt would be contradictory.
Also the distinction between doing good and evil would not be valid.

tad vipakvavipākaṃ ca punar eva vipakṣyati |
karma vyavasthitaṃ yasmāt tasmāt svābhāvikaṃ yadi ||25||
[When] the ripening of that [action] has ripened
it would ripen again and again,
because if it existed [by] nature, it would [always] remain.

karma kleśātmakaṃ cedaṃ te ca kleśā na tattvataḥ |
na cet te tattvataḥ kleśāḥ karma syāt tattvataḥ katham ||26||
This action has the character of affliction and afflictions are not real.
If affliction is not real, how can action be real?

参考
Actions are not produced.
In this way they do not exist by way of their own essence.
Since they have not been produced
There is no wastage.

If actions existed by way of their own essence
They would without a doubt be permanent.
Actions could not be done
Because the permanent lack activity.

If actions were not done
There would be the fear of meeting with that not done.
And there would also follow
The fault of not abiding in pure conduct.

It would also without a doubt
Contradict every worldly convention.
And differentiating between making merit and negativities
Would also be inadmissible.

An action for which the fruition has ripened
Would issue forth fruitions repeatedly
Because if the action existed by way of its own essence
It would remain.

These actions have an afflicted nature
And those afflictions are not real.
If afflictions are not real
How could actions be real?

参考
何ゆえに業は生じないのであるか。どのようにしても,無自性(固有の実体の無いもの) であるから。また,それは生じたものではないから,それゆえ,滅することもな い。

もしも業が自性(固有の実体)をもって存在するのであるならば,〔それは〕疑いなく, 常住であろう。そして業はつくられたものではない,ということになるであろう。な ぜならば,常住であるものはつくられることがないから。

もしも業がつくられたものではないならば,〔みずから〕つくらないのに,〔その結果 を〕受けるという怖れがあることになるであろう。そして,その〔說〕においては, 〔清浄な行ない(梵行)を実行しているのに〕清浄な行ない(梵行)ではない〔果報〕に 住することとなる,という誤りが付随する。

〔それならば〕,一切の言語慣習と,疑いなく,矛盾することになろう。そして,福德 (善)をなす者と罪惡をなす者とを区別することもまた,妥当しないことになるであろう。

もしも,業は確立しているから,自性(固有の実体)の有るものである,というならば, 成熟(すなわち果報)はすでに熟しており,それ(果報)がさらになお熟(果報を受ける) ということになるであろう。

この業は煩悩を本質とするものである。しかし,それらもろもろの煩悩は,真実には ﹝存在して﹞いない。もしもそれらもろもろの煩悩が,真実には﹝存在して﹞いない のであるならば,どうして,業が真実に存在するであろうか。
第一義中諸業不生。何以故。無性故。以不生因緣故則不滅。非以常故不滅。若不爾者。業性應決定有。若業決定有性。則為是常。若常則是不作業。何以故。常法不可作故。 第一義中に、諸業は不生なり、何を以っての故に、無性なるが故なり。不生の因縁を以っての故に、則ち不滅なり、常を以っての故に不滅なるに非ず。若し爾らずんば、業の性は、決定して有るべし。若し、業に決定して性有らば、則ち是れ常なりと為す。若し常なれば、則ち是れ作されざる業なり。何を以っての故に、常なる法は、作すべからざるが故なり。
『第一義』中に、
諸の、
『業』は、
『不生である!』、
何故ならば、
『性』が、
『無いからである!』。
諸の、
『業』は、
『不生』の、
『因縁』の故に、
『不滅である!』が、
『常』の、
『因縁』の故に、
『不滅なのではない!』。
若し、
『常』の故に、
『不滅ならば!』、
『業』の、
『性』は、
『決定して!』、
『有るはずだ!』が、
若し、
『業』に、
『決定して!』、
『性』が、
『有れば!』、
是の、
『業』は、
『常であり!』、
若し、
『常ならば!』、
是れは、
『作られない!』、   ――謂わゆる不作業/無表業に非ず――
『業である!』。
何故ならば、
『常であるような!』、
『法』は、
『作られないからである!』。
復次若有不作業者。則他人作罪此人受報。 復た次ぎに、若し作されざる業有らば、則ち他人罪を作りて、此の人報を受けん。
復た次ぎに、
若し、
『作られない!』、
『業』が、
『有れば!』、
則ち、
『他の人』が、
『罪』を、
『作って!』、
『此の人』が、
『報』を、
『受けるだろう!』。
又他人斷梵行而此人有罪。則破世俗法。 又、他人梵行を断じて、此の人に罪有れば、則ち世俗の法を破る。
又、
『他の人』が、
『梵行』を、
『断じた!』のに、
『此の人』に、
『罪』が、
『有れば!』、
則ち、
『世俗の法』を、
『破ることになる!』。
若先有者。冬不應思為春事。春不應思為夏事。有如是等過。 若し先に有らば、冬には、当に春の事を為さんと思うべからず。春には、応に夏の事を為さんと思うべからず。是の如き等の過有り。
若し、
『作る!』よりも、
先に、
『業』が、
『有れば!』、――
『冬』に、
『春の仕事』を、
『為そう!』と、
『思うはずがなく!』、
『春』に、
『夏の仕事』を、
『為そう!』と、
『思うはずがない!』という、
是れ等のような、
『過』が、
『有る!』。
復次作福及作罪者。則無有別異。起布施持戒等業。名為作福。起殺盜等業。名為作罪。若不作而有業。則無有分別。 復た次ぎに、作福、及び作罪の者は、則ち別異有ること無しとは、布施、持戒等の業を起こすを、名づけて作福と為し、殺、盗等の業を起こすを、名づけて作罪と為す。若し作さざるに、業有らば、則ち分別有ること無けん。
復た次ぎに、
『福を作る!』ことと、
『罪を作る!』ことには、
則ち、
『別異』が、
『無い!』とは、――
『布施、持戒』等の、
『業』を、
『起こす!』ことを、
『福』を、
『作る!』と、
『称し!』、
『殺、盗』等の、
『業』を、
『起こす!』ことを、
『罪』を、
『作る!』と、
『呼ぶ!』が、
若し、
『作らない!』のに、
『業』が、
『有れば!』、
則ち、
『分別』は、
『無いことになる!』。
復次是業若決定有性。則一時受果報已。復應更受。 復た次ぎに、是の業は、若し決定して性有れば、則ち一時に果報を受け已りて、復た応に更に受くべし。
復た次ぎに、
是の、
『業』に、
『決定して!』、
『性』が、
『有れば!』、
則ち、
ある時、
『果報』を、
『受け已っても!』、
復た、
『更に!』、
『受けなくてはならないだろう!』。
是故汝說以不失法故有業報。則有如是等過。 是の故に汝が説かく、『不失の法を以っての故に、業報有り』とは、則ち是の如き等の過有り。
是の故に、
お前は、
こう説いたが、――
『不失の法』を、
『用いる!』が故に、
『業』には、
『報』が、
『有る!』、と。
則ち、
是れ等のような、
『過』が、
『有る!』。
復次若業從煩惱起。是煩惱無有決定。但從憶想分別有。 復た次ぎに、若し業、煩悩より起れば、是の煩悩には、決定有ること無し、但だ憶想、分別によって有り。
復た次ぎに、
若し、
『業』が、
『煩悩』より、
『起っても!』、
是の、
『煩悩』には、
『決定した!』ものが、
『無い!』、
但だ、
『憶想』により、
『有る!』と、
『分別するだけである!』。
若諸煩惱無實。業云何有實。何以故。因無性故業亦無性。 若し、諸の煩悩に実無くんば、業に云何が実有らん。何を以っての故に、無性に因るが故に業も亦た無性なればなり。
若し、
諸の、
『煩悩』に、
『実』が、
『無ければ!』、
何故、
『業』に、
『実』が、
『有るのか?』。
何故ならば、
『煩悩』が、
『無性である!』ことに、
『因る!』が故に、
『業』も、
亦た、
『無性だからである!』。
問曰。若諸煩惱及業無性不實。今果報身現有。應是實。 問うて曰く、若し諸の煩悩及び業、無性にして不実ならば、今、果報の身は、現に有り、応に是れ実なるべし。
問い、
若し、
諸の、
『煩悩と業』が、
『無性であり!』、
『不実であっても!』、
今の、
『果報の身』は、
『現に!』、
『有る!』。
是の、
『身』は、
『実でなくてはならない!』。
答曰。
 諸煩惱及業  是說身因緣 
 煩惱諸業空  何況於諸身
答えて曰く、
諸の煩悩及び業は、是れを身の因縁と説くも、
煩悩と諸業空なれば、何に況んや諸身に於いてをや。
答え、
諸の、
『煩悩と業』は、
こう説かれている、――
『身』の、
『因縁である!』、と。
諸の、
『煩悩と業』が、
『空ならば!』、
況して、
『身』の、
『空である!』ことは、
『言うまでもない!』。
参考
karma kleśāś ca dehānāṃ pratyayāḥ samudāhṛtāḥ |
karma kleśāś ca te śūnyā yadi deheṣu kā kathā ||27||
bodies. If actions and afflictions are empty,
how can one speak of bodies?

参考
Actions and afflictions
Are taught to be conditions for bodies.
If actions and afflictions are empty
How could bodies be spoken of?

参考
業ともろもろの煩悩とは,もろもろの身体の〔生ずる〕諸縁である,と說かれている。 もしもそれらの業ともろもろの煩悩とが,空であるならば,もろもろの身体について, 何の語られることが〔あろう〕か。
諸賢聖說。煩惱及業是身因緣。是中愛能潤生。業能生上中下好醜貴賤等果報。 諸の賢聖の説かく、『煩悩及び業は、是れ身の因縁にして、是の中に、愛能く生を潤(うるお)し、業能く上中下、好醜、貴賎等の果報を生ず』、と。
諸の、
『賢聖』は、
こう説かれている、――
『煩悩と業』は、
『身』の、
『因縁であり!』、
是の中の、
『愛(煩悩)』は、
『生』を、
『潤す(促進する)ことができ!』、
『業』は、
『上、中、下』、
『好、醜』、
『貴、賎』等の、
『果報』を、
『生じることができる!』、と。
今諸煩惱及業。種種推求無有決定。何況諸身有決定果。隨因緣故。 今、諸の煩悩及び業は、種種に推求するも決定有ること無し。何に況んや、諸の身に決定の果有るをや。因縁に隨うが故なり。
今、
諸の、
『煩悩と業』を、
種種に、
『推求した!』が、
何も、
『決定した!』ものは、
『存在しなかった!』。
況して、
諸の、
『身』に、
『決定した!』、
『果』の、
『有るはずがない!』、
『身』は、
『因縁』に、
『隨って!』、
『生じるからである!』。
問曰。汝雖種種因緣破業及果報。而經說。有起業者。起業者有故。有業有果報。 問うて曰く、汝は、種種の因縁に、業及び果報を破すと雖も、而るに経に説かく、『業を起こす者有り。業を起こす者有るが故に、業有り、果報有り』、と。
問い、
お前は、
種種の、
『因縁』で、
『業と果報』を、
『破った!』が、
而し、
『経』には、
こう説かれている、――
『業』を、
『起こす!』者が、
『有る!』。
『業』を、
『起こす!』者の、
『有る!』が故に、
『業』や、
『果報』が、
『有る!』、と。
如說
 無明之所蔽  愛結之所縛 
 而於本作者  不即亦不異
説の如し、――
無明の蔽う所と、愛結の縛する所は、
本の作者に於いて、即ならず亦た異ならず。
例えば、こう説く通りである、――
『無明』に、
『蔽われた!』者や、
『愛結』に、
『縛された!』者は、
是の、
『業』の、
『本の作者』と、
『同じでもなく!』、
『異なるでもない!』。
参考
avidyānivṛto jantus tṛṣṇāsaṃyojanaś ca saḥ |
sa bhoktā sa ca na kartur anyo na ca sa eva saḥ ||28||
People who are obscured by ignorance,
those with craving, are the consumers [of the fruits of action].
They are not other than those who do the action
and they are also not those very ones.

参考
Those persons who are obscured by ignorance
Possess craving; they are the consumers.
They are also not different from the agent
And they are also not the same.

参考
生存するもの(眾生)は,無知(無明)に覆われ,妄執(渴愛)に結ばれている。かれは〔業 の果報を〕受ける者である。またそのかれは,〔業の〕行為主体から,異なっているのでもない,同一であるのでもない。
無始經中說。眾生為無明所覆。愛結所縛。於無始生死中。往來受種種苦樂。 『無始経』中に説かく、『衆生を、無明の覆う所、愛結の縛する所と為し、無始の生死中に於いて、往来し、種種の苦楽を受く』、と。
『無始経』中には、
こう説かれている、――
『衆生』は、
『無明』に、
『覆われ!』、
『愛結』に、
『縛られ!』、
『無始の生死』中に、
『往来しながら!』、
種種の、
『苦、楽』を、
『受ける!』、と。
  参考:『雑阿含経巻12』:『如是我聞。一時。佛住王舍城迦蘭陀竹園。爾時。世尊告諸比丘。愚癡無聞凡夫無明覆。愛緣繫得此識身。內有此識身。外有名色。此二因緣生觸。此六觸入所觸。愚癡無聞凡夫苦.樂受覺。因起種種。云何為六。眼觸入處。耳.鼻.舌.身.意觸入處。若黠慧者無明覆。愛緣繫得此識身。如是內有識身。外有名色。此二緣生六觸入處。六觸所觸故。智者生苦.樂受覺。因起種種。何等為六。眼觸入處。耳.鼻.舌.身.意觸入處。愚夫.黠慧。彼於我所修諸梵者。有何差別。比丘白佛言。世尊是法根.法眼.法依。善哉。世尊。唯願演說。諸比丘聞已。當受奉行。爾時。世尊告諸比丘。諦聽。善思。當為汝說。諸比丘。彼愚癡無聞凡夫無明所覆。愛緣所繫。得此識身。彼無明不斷。愛緣不盡。身壞命終。還復受身。還受身故。不得解脫生.老.病.死.憂.悲.惱苦。所以者何。此愚癡凡夫本不修梵行。向正盡苦。究竟苦邊故。是故身壞命終。還復受身。還受身故。不得解脫生.老.病.死.憂.悲.惱苦。若黠慧者無明所覆。愛緣所繫。得此識身。彼無明斷。愛緣盡。無明斷。愛緣盡故。身壞命終。更不復受。不更受故。得解脫生.老.病.死.憂.悲.惱苦。所以者何。彼先修梵行。正向盡苦。究竟苦邊故。是故彼身壞命終。更不復受。更不受故。得解脫生.老.病.死.憂.悲.惱苦。是名凡夫及黠慧者。彼於我所修諸梵行。種種差別。佛說此經已。諸比丘聞佛所說。歡喜奉行』
今受者於先作者。不即是亦不異。 今の受者は、先の作者に於いて、即ち是れなるにあらず、亦た異なるにあらず。
『今の受者』は、
『先の作者』と、
『同じでもなく!』、
『異なるでもない!』。
若即是人作罪受牛形。則人不作牛。牛不作人。 若し即ち是れならば、人罪を作りて、牛の形を受くるも、則ち人は、牛と作らず、牛は、人と作らず。
若し、
『受者』と、
『作者』とが、
『同じならば!』、
『人』が、
『罪』を、
『作って!』、
『牛の形』を、
『受けても!』、
則ち、
『人』は、
『牛』に、
『作ることがなく!』、
『牛』は、
『人』に、
『作るはずがない!』。
若異則失業果報墮於無因。無因則斷滅。是故今受者於先作者。不即是亦不異。 若し異なれば、則ち業を失いて、果報は無因に堕せん。無因なれば、則ち断滅なり。是の故に、今の受者は、先の作者に於いて、則ち是ならず、亦た異なるにもあらず。
若し、
『受者』と、
『作者』とが、
『異なれば!』、
『果報』は、
『業』を、
『失い!』、
『無因』に、
『堕ちるだろう!』。
『無因ならば!』、
則ち、
『断滅である!』。
是の故に、
『今の受者』は、
『先の作者』と、
『同じでもなく!』、
『異なるでもない!』。
答曰
 業不從緣生  不從非緣生 
 是故則無有  能起於業者 
 無業無作者  何有業生果 
 若其無有果  何有受果者
答えて曰く、
業は縁より生ぜず、非縁より生ぜず、
是の故に則ち、能く業を起こす者有ること無し。
業無く作者無くんば、何ぞ業生の果有らん、
若し其れに果有ること無くんば、何ぞ受果の者有らん。
答え、
『業』は、
『縁』より、
『生じない!』し、
『非縁』より、
『生じない!』、
是の故に、
『業』を、
『起こさせる!』者は、
『無い!』。
『業』や、
『作者』が、
『無ければ!』、
『業』の、
『生じる!』、
『果』が、
何故、
『有るのか?』。
若し、
其の、
『業』に、
『果』が、
『無ければ!』、
何故、
『果』を、
『受ける!』者が、
『有るのか?』。
参考
na pratyayasamutpannaṃ nāpratyayasamutthitam |
asti yasmād idaṃ karma tasmāt kartāpi nāsty ataḥ ||29||
Because the action does not emerge from conditions
and does not emerge from non-conditions,
therefore, the agent too does not exist.

karma cen nāsti kartā ca kutaḥ syāt karmajaṃ phalam |
asaty atha phale bhoktā kuta eva bhaviṣyati ||30||
If neither the action nor the agent exists,
where can there be a fruit of the action?
If the fruit does not exist,
where can the consumer exist?

参考
Since these actions
Did not arise from conditions
And did not arise from non-conditions
Also the agent does not exist.

If there are no actions and agents
How could there be results produced from actions?
If there are no results
How could there be such consumers?

参考
この業は,縁より生起しているものではなく,非縁より生起しているものではない。 それゆえ,〔業の〕行為主体もまた,存在しない。

もしも業も行為主体も存在しないならば,業より生ずる果報は,どうして,存在するであろうか。さらに,果報が存在しないのであるから,〔業の果報を〕受ける者が,どうして,存在するであろうか。
若無業無作業者。何有從業生果報。 若し業無く、作業者無くんば、何ぞ業より生ずる果報有らん。
若し、
『業』も、
『作業の者』も、
『無ければ!』、
『業』より、
『生じる!』、
『果報』が、
何故、
『有るのか?』。
若無果報。云何有受果報者。 若し果報無くんば、云何が、果報を受くる者有らん。
若し、
『果報』が、
『無ければ!』、
『果報』を、
『受ける!』者が、
何故、
『有るのか?』。
業有三種。五陰中假名人是作者。是業於善惡處生。名為果報。 業に三種有り、五陰中に仮りに人と名づくる、是れ作者なり。是の業の善悪の処に於ける生を、名づけて果報と為す。
『業』には、
『三種(善、悪、無記)』、
『有る!』が、
『五陰』中に、
仮りに、
『人』と、
『呼ばれる!』もの、
是れが、
『作者である!』。
是の、
『業』による、
『善、悪の処』の、
『生』、
是れを、
『果報』と、
『呼ぶ!』。
若起業者尚無。何況有業有果報及受果報者。 若しは起業の者すら、尚お無し。何に況んや、業有りて、果報及び果報を受くる者有らんや。
若し、
『業』を、
『起こす!』者すら、
尚お、
『無い!』、
況して、
『業』が、
『有り!』、
『果報』や、
『果報を受ける!』者が、
『有るだろうか?』。
問曰。汝雖種種破業果報及起業者。而今現見眾生作業受果報。是事云何。 問うて曰く、汝は、種種に業、果報及び起業者を破すと雖も、而るに今現に衆生の業を作して、果報を受くるを見る。是の事は、云何。
問い、
お前は、
種種に、
『業』と、
『果報』と、
『業を起こす!』者を、
『破った!』が、
而し、
今、
現に、これが見える、――
『衆生』は、
『業』を、
『作って!』、
『果報』を、
『受ける!』、と。
是の、
『事』は、
何故なのか?
答曰
 如世尊神通  所作變化人 
 如是變化人  復變作化人 
 如初變化人  是名為作者 
 變化人所作  是則名為業 
 諸煩惱及業  作者及果報 
 皆如幻與夢  如炎亦如嚮
答えて曰く、
世尊の神通の、作す所の変化人の如し、
是の如き変化人、復た変じて化人と作る。
初の変化人は、是れを名づけて作者と為し、
変化人の作す所、是れを則ち名づけて業と為すが如し。
諸の煩悩及び業と、作者及び果報は、
皆幻か夢の如く、炎の如く亦た嚮(ひびき)の如し。
答え、
譬えば、
『世尊』が、
『神通』で、
『作られた!』、
『変化人である!』が、
是のような、
『変化人』が、
復た、
『変じて!』、
『化人』を、
『作るようなものだ!』。
譬えば、
初の、
『変化人』を、
『作者』と、
『呼び!』、
『変化人』の、
『作った!』所を、
『業』と、
『呼ぶように!』、
諸の、
『煩悩と業』と、
『作者と果報』とは、
皆、
『幻か?』、
『夢か?』、
『炎か?』、
『嚮(ひびき)のようである!』。
  (こう):ひびき。音響。
参考
yathā nirmitakaṃ śāstā nirmimīta rddhisaṃpadā |
nirmito nirmimītānyaṃ sa ca nirmitakaḥ punaḥ ||31||
Just as a teacher creates a creation by a wealth of magical powers,
and just as if that creation too created, again another would be created,

tathā nirmitakākāraḥ kartā yat karma tat kṛtam |
tadyathā nirmitenānyo nirmito nirmitas tathā ||32||
Like this, whatever action too done by that agent
[is ]also like the aspect of a creation.
It is just like, for example, a creation creating another creation.

kleśāḥ karmāṇi dehāś ca kartāraś ca phalāni ca |
gandharvanagarākārā marīcisvapnasaṃnibhāḥ ||33||
Afflictions, actions and bodies and agents and fruits
are like a city of gandharvas, a mirage, a dream.

参考
Just as the Teacher, through perfect magical emanation,
Emanates an emanation
And that emanation
Also emanates other further emanations,

Similarly, an agent is similar in aspect to that emanation
And also any actions done by it
Are, for example, similar to the other emanations
That have been emanated by that emanation.

Afflictions, actions, bodies,
Agents and results
Are like a city of Gandharvas
And are similar to a mirage and a dream.

参考
あたかも神通をそなえている教主(ブッダ)が,神通で現出された人(化人)を幻出し, その幻出された化人が,さらに他の〔化人〕を幻出するように,

そのように,〔業の〕行為主体は,化人のありかたをしている。それは,つくり出されたどのような業も,化人によって幻出された他の化人のようなものである。

もろもろの煩悩も,もろもろの業も,もろもろの身体も,もろもろの行為主体も,もろもろの果報も,蜃気楼(ガンダルヴァ城)のありかたをしており,陽炎や夢に似てい る。
如佛神通力所作化人。是化人復化作化人。如化人無有實事但可眼見。 仏の神通の作す所の化人の如き、是の化人、復た化人を化作すとは、化人の如きは、実事有ること無く、但だ眼には見るべし。
譬えば、
『仏』が、
 『神通力』で、
『作られた!』、
『化人である!』が、
是の、
『化人』が、
復た、
『化人』を、
『化作するようなものだ!』とは、
『化人のような!』ものは、
『実』の、
『事』は、
『無い!』のに、
但だ、
『眼』には、
『見えるからである!』。
又化人口業說法。身業布施等。是業雖無實而可眼見。如是生死身作者及業。亦應如是知。 又、化人の口業の説法、身業の布施等、是の業は、実無しと雖も、眼には見るべし。是の如き生死の身の作者、及び業も、亦た応に是の如く知るべし。
又、
『化人』の、
『口業の説法』や、
『身業の布施』等は、
是の、
『業』に、
『実』は、
『無い!』が、
而し、
『眼』には、
『見ることができる!』。
是のように、
『生死』の、
『身である!』、
『作者』や、
『業』も、
亦た、
『是の通りである!』と、
『知らなくてはならない!』。
諸煩惱者。名為三毒。分別有九十八使九結十纏六垢等無量諸煩惱。 諸の煩悩とは、名づけて三毒と為し、分別すれば、九十八使、九結、十纏、六垢等の無量の諸煩悩有り。
諸の、
『煩悩』とは、――
『三毒』と、
『呼ばれている!』が、
『分別すれば!』、――
『九十八使』、
『九結』、
『十纏』、
『六垢』等の、
『無量の諸煩悩である!』。
業名為身口意業。今世後世分別有善不善無記。苦報樂報不苦不樂報。現報業生報業後報業。如是等無量作者。名為能起諸煩惱業 業を名づけて、身口意の業と為し、今世後世に分別すれば、善、不善、無記、苦報、楽報、不苦不楽報、現報業、生報業、後報業、是の如き等の無量有り、作者を名づけて、能く諸の煩悩と業を起こすと為す。
『業』は、
『身口意の業』と、
『呼ばれ!』、
『今世、後世』に、
『業』を、
『分別すれば!』、
『善』、
『不善()』、
『無記(善悪不定)』、
『苦報』、
『楽報』、
『不苦不楽報』、
『現報の業』、
『生報(未来報)の業』、
『後報の業』、
是れ等のような、
『無量の業』が、
『有り!』、
其の、
『作者』を、こう呼ぶ、――
諸の、
『煩悩と業』を、
『起こさせる!』者、と。
能受果報者。果報名從善惡業生無記五陰。如是等諸業皆空無性。如幻如夢。如炎如嚮 能く果報を受くとは、果報を、善悪の業より生ずる、無記の五陰と名づくれば、是の如き等の諸業は、皆空にして、無性なれば、幻の如く、夢の如く、炎の如く、嚮の如し。
『果報』を、
『受けることができる!』とは、――
『果報』を、
『善、悪』の、
『業』より、
『生じた!』、
『無記』の、
『五陰』と、
『称すれば!』、
是れ等のような、
諸の、
『業』は、
皆、
『空であり!』、
『性』が、
『無い!』ので、
譬えば、
『幻や!』、
『夢や!』、
『炎や』、
『嚮など!』と、
『同じだからである!』。



中論觀法品第十八(十二偈)

問曰。若諸法盡畢竟空無生無滅。是名諸法實相者。云何入。 問うて曰く、若し、諸法の尽く、畢竟空、無生無滅なるを、是れを諸法の実相と名づけば、云何が入らんや。
問い、
若し
諸の、
『法』が、
尽く、
畢竟じて、
『空であり!』、
『無生』、
『無滅であり!』、
是れを、
諸の、
『法』の、
『実相である!』と、
『言うならば!』、
是の、
『空』中に、
何のように、
『入るのか?』。
  (ほう):[ヒンズー教/仏教の]法/徳/守るべき軌範( dharma )、梵語 dharma の訳、文脈により種種の語に訳される( Rendered into English variously according to the context )、例えば真理/現実/事物/現象/要素/成分/精神的要素/特質である( as: truth, reality; thing, phenomenon, element, constituent, (mental) factor; quality )。「dharma」の語は元と印度語の動詞語幹 √(dhR) より派生し、「保存する/維持する/保つもの」の意を有し、特に「人の活動を保存/維持するもの」の意を有する( The word dharma is originally derived from the Indic root dhr, with the meaning of 'that which preserves or maintains,' especially that which preserves or maintains human activity )。◯仏教に於いては此の語は、広範なる意味を有すると雖も、主要な意味は、仏によって伝えられた、完全に真実に一致する教訓/学説である( The term has a wide range of meanings in Buddhism, but the foremost meaning is that of the teaching delivered by the Buddha, which is fully accordant with reality )。従って真理/真実/真実の原理/法則でもあり( Thus, truth, reality, true principle, law (Skt. satya) )、完全な宗教としての仏教を暗示する。法は、三宝の第二でもある( It connotes Buddhism as the perfect religion. The Dharma is also the second component among the Three Treasures (triratna) 佛法僧 )、そしてそれは法身という観念に於いて、西洋の「霊的」の意に近似している( and in the sense of dharmakāya 法身 it approaches the Western idea of 'spiritual.' )。◯それは一切の事物、或いは何か小/大、可見/不可見、真実/不実の事物、現象、真実、原理、方式、有形の物/抽象的な概念等の意味に於いて使用される( It is used in the sense of 一切 all things, or anything small or great, visible or invisible, real or unreal, affairs, truth, principle, method, concrete things, abstract ideas, etc. )。◯法は、実体を有し、それ自身の性質を帯びるものとして説明され( Dharma is described as that which has entity and bears its own attributes )、特性/特質/性質/要因等の意味に於いて、此の語は、一般に印度の学問的著述に於いて、認識可能な全般的体験の有らゆる詳細を述べることに使用されている( It is in the sense of attribute, quality, characteristic quality, factor, etc. that this term is commonly used in Indian scholastic works to fully detail the gamut of possible cognitive experiences )。◯阿毘曇学派の説一切有部等は、七十五法を列挙し、一方瑜伽唯識派では体験的世界の事象を百種の現象[百法]として分類する( Abhidharma schools such as Sarvâstivāda enumerated seventy-five dharmas 七十五法, while the Yogâcāra school categorized the events of the experiential world into one hundred types of phenomena 百法 )。唯識は、二乗[声聞/縁覚]の修行者に於いては、是れ等の法に於ける自性の欠如が、正しく認識されていないと主張している( Yogâcāras argued that the lack of inherent identity in these dharmas is not duly recognized by the practitioners of the two vehicles 二乘 )。◯六種の認識される対象[六塵]中に於いて、法は、思考的意識[意識]の対象としての概念に等しい( Among the six cognitive objects 六塵, dharmas are equivalent to 'concepts,' being the objects of the thinking consciousness 意識 )。[漢語としての]法には、その他にも慣習/習癖/標準的習性/社会的秩序等の意味を有する( Other meanings include: custom, habit, standard of behavior; social order )。
  (にゅう):梵語 praveza の訳、入る/入口/浸透/侵入( entering, entrance, a place of entrance, penetration or intrusion into )の義、真実に目覚める/理解し始める/真実に心を向けて、知識を発展させる( To awaken to the truth; begin to understand; to relate the mind to reality and thus evolve knowledge )の意。◯梵語 aayatana の訳、休息所/土台/座席/場所/家庭/家/住居( resting-place, support, seat, place, home, house, abode )の義、阿毘達磨及び唯識に於いて、感覚の界域を指す術語であり( In Abhidharma and Yogâcāra, this is a technical term referring to the fields of the senses )、感覚[六根]と、その対境[六境]の接する処( the place of the meeting between the organs and their objects )の意、処に同じ、六根及び六境を総じて十二入と称す。
答曰。滅我我所著故。得一切法空。無我慧名為入。 答えて曰く、我、我所の著を滅するが故に、一切法の空を得。無我の慧を名づけて、入と為す。
答え、
『我、我所』の、
『著』を、
『滅する!』が故に、
一切の、
『法』は、
『空である!』と、
『認識する!』ような、
是の、
『無我の慧』を、
『入』と、
『称する!』。
  (が):自我( self )、梵語 aatman の訳、息/魂、生命/知覚/感覚の本源、独立した魂/自己、個人的存在の基礎( The breath, the soul, principle of life and sensation, The individual soul, self, The basis of personal existence)の義、我れ/我が/我等/我れに/我等が( I, my, we, me, our )、自我/個性( Subject, personality )の意。仏教に於いて、我は、 aatman という印度的概念である、或る不滅、不変の自己と同義語であるが、仏教に於いては、五蘊より成り立つが故に、我は、独立した永久的実体ではないと考えられている( In Buddhism, it is the equivalent of the Indian concept of ātman, an eternal, unchanging 'self,' which in Buddhism is understood as being composed of the five aggregates 五蘊 and hence not an independent and permanent entity. )、我とは、そのような自己に関する確信であるが、それを釈迦牟尼仏陀は、その教の中で論駁したのである( It is the belief in such a self that Śākyamuni Buddha refuted in his teachings. )。仏教はその基本的原理として、無我という観念を採用しているが、但だ我を仮の自己としてならば認めてもいる( Buddhism takes as its fundamental principle the notion of no-self 無我, only recognizing a provisional self. )。不滅の自己が継続的に輪廻するという間違った見解は、有らゆる誤解の基である( The erroneous idea of a permanent self continued in cyclic existence is the source of all illusion. )。大乗に於いて、我という自己の観念は、但だ想像的個人、又は有情的主体に係るのみならず、自己の身心、又は客観的現象に於ける、独立した存在を具象化するような、基本的傾向に係る( In Mahāyāna, the notion of self refers not only to an imagined personality or subject in sentient beings, but also the basic tendency to reify independent existence in either one's own person or objective phenomena, )、即ち人[衆生]無我、及び法無我であり( thus, 'selflessness of person' 人無我 and 'selflessness of phenomena' 法無我. )、涅槃経には、「常住不変の自己は、超越的世界に於いて、輪廻的存在を超え、常、楽、浄と共にある」と説かれている( the Nirvana Sutra posits a permanent self in the transcendental world, above the range of cyclic existence, along with permanence, bliss, and purity 常我樂淨. )。
  我所(がしょ):我が所有( mine )、梵語 aatmiiya の訳、自己の所有( one's own )、自己に付属するもの( That which pertains to the self )の義、個人的/主体的、個人的地位/財産、又は自己に関する有らゆるもの( Personal, subjective; personal conditions, possessions, or anything related to the self 我所有, 我所事. )の意。
問曰。云何知諸法無我。 問うて曰く、云何が、諸法の無我を知る。
問い、
何故、
諸の、
『法(色、受想行識)』は、
『無我である!』と、
『知るのか?』。
答曰
 若我是五陰  我即為生滅 
 若我異五陰  則非五陰相 
 若無有我者  何得有我所 
 滅我我所故  名得無我智 
 得無我智者  是則名實觀 
 得無我智者  是人為希有 
 內外我我所  盡滅無有故 
 諸受即為滅  受滅則身滅 
 業煩惱滅故  名之為解脫 
 業煩惱非實  入空戲論滅 
 諸佛或說我  或說於無我 
 諸法實相中  無我無非我 
 諸法實相者  心行言語斷 
 無生亦無滅  寂滅如涅槃 
 一切實非實  亦實亦非實 
 非實非非實  是名諸佛法 
 自知不隨他  寂滅無戲論 
 無異無分別  是則名實相 
 若法從緣生  不即不異因 
 是故名實相  不斷亦不常 
 不一亦不異  不常亦不斷 
 是名諸世尊  教化甘露味 
 若佛不出世  佛法已滅盡 
 諸辟支佛智  從於遠離生
答えて曰く、
若し我は是れ五陰ならば、我は即ち生滅を為さん、
若し我は五陰と異ならば、則ち五陰の相に非ざらん。
若し我有ること無くんば、何ぞ我所有るを得ん、
我と我所とを滅するが故に、無我の智を得と名づく。
無我の智を得れば、是れを則ち実観と名づけ、
無我の智を得れば、是の人を希有と為す。

内外の我我所は、尽く滅して有ること無きが故に、
諸受即ち滅せらる、受滅すれば則ち身滅す。
業と煩悩と滅するが故に、之を名づけて解脱と為す、
業と煩悩と実に非ざれば、空に入りて戯論滅す。
諸仏は或いは我を説き、或いは無我を説きたまえるも、
諸法の実相中には、我無く非我無し。

諸法の実相は、心行と言語とを断じ、
無生亦た無滅にして、寂滅なること涅槃の如し。
一切は実、非実、亦た実亦た実に非ず、
実に非ず非実に非ず、是れを諸仏の法と名づく。
自ら知りて他に随わず、寂滅して戯論無ければ、
異無く分別無し、是れ則ち実相と名づく。

若し法の縁より生ずれば、即にあらず、因とも異ならず、
是の故に実相は、断にあらず、亦た常にもあらずと名づく。
一にあらず亦た異にあらず、常にあらず亦た断にあらず、
是れを諸の世尊の、教化したもう甘露味と名づく。
若し仏出世せず、仏法已に滅尽せば、
諸の辟支仏の智、遠離より生ぜん。
答え、
――(1)――
若し、
『我』が、
『五陰ならば!』、
『我』は、
即ち、
『生、滅するということだ!』。
若し、
『我』が、
『五陰』と、
『異なれば!』
『我』には、
『五陰』という、
『相がないことになる!』。
――(2)――
若し、
『我』が、
『無ければ!』、
誰が、
『我所(我に所属する身心等)』を、
『所有できるのか?』
『我、我所』の、
『滅した!』が故に、
『無我』という、
『智慧』を、
『得る!』と、
『称する!』。
――(3)――
『無我』の、
『智慧』を、
『得れば!』、
則ち、
『実を観る!』と、
『称する!』。
『無我』の、
『智慧』を、
『得れば!』、
是の、
『人』は、
『希有である。』
――(4)――
『内、外』の、
『我』と、
『我所』が、
『尽く!』、
『滅して!』、
『何も無い!』が故に、
諸の、
『受(苦受、楽受、不苦不楽受)』が、
『滅した!』。
『受』が、
『滅した!』ということは、
則ち、
『身』が、
『滅したということだ!』。
――(5)――
『業』と、
『煩悩』とが、
『滅した!』が故に、
之を、
『解脱』と、
『称する!』が、
『業』も、
『煩悩』も、
『実でない!』という、
『空』に、
『入れば!』、
『有、無』の、
『戯論』が、
『滅する。』
――(6)――
諸の、
『仏』は、
或いは、
『我である!』と、
『説かれ!』、
或いは、
『我』は、
『無い!』と、
『説かれた!』。
諸の、
『法』の、
『実相』中には、
『我である!』ということも、
『無い!』が、
亦た、
『我でない!』ということも、
『無い!』。
――(7)――
諸の、
『法』の、
『実相』とは、
『心』の、
『行(思い!)』も、
『言語』も、
『断えた!』、
『状態であり!』、
是の中は、
『生』も、
『滅』も、
『無く!』、
『涅槃のように!』、
『寂滅している!』。
――(8)――
一切は、
『実であるか!』、
『実でないか!』、
『実であることもあり、実でないこともあるか!』、
『実ということもなく、実でないということもないか!』だとは、
諸の、
『仏』の、
『法だ!』と、
『言われている!』が、
――(9)――
『自ら!』の、
『五陰』中に、
『我』も
『我所』も、
『無い!』ことを、
『知り!』、
『他人』の、
『教』に、
『随わず!』、
『寂滅(寂黙)して!』、
『戯論する!』ことが、
『無ければ!』、
『異論』も、
『正論』も、
『無くなり!』、
『法』を、
『分別する!』ことも、
『無い!』、
是れを、
『実相』と、
『呼ぶのである!』。
――(10)――
若し、
『法』が、
『縁』より、
『生じれば!』、
『法』は、
『縁』と、
『同じでもなく!』、
『因()』と、
『異なるでもない!』。
是の故に、
『法』の、
『実相』は、こう称される、――
『常でもなく!』、
『断でもない!』、と。
――(11)――
一切は、
『一でもなく!』
『異でもなく!』、
亦た、
『常でもなく!』、
『断でもない!』、
是れを、
『諸の世尊』の、
『教化される!』、
『甘露味』と、
『呼ぶ!』。
――(12)――
若し、
『仏』が、
『世』に、
『出られなくて!』、
『仏』の、
『法』が、
『滅尽したとしても!』、
諸の、
『辟支仏』の、
『智慧』が、
『世間』の、
『一、異』、
『断、常』を、
『遠離する!』ことに、
『従って!』、
『生じるだろう!』。
  戯論(けろん):概念の推敲( conceptual elaboration )、梵語 prapaJca, abhilaapya, aakhyaayaka 等の訳、拡張/展開/表明( expansion, development, manifestation )、多数/多様性( manifoldness, diversity )、拡大/くどくどしさ/拡散/おびただしさ( amplification, prolixity, diffuseness, copiousness )、出現/現象( appearance, phenomenon )、宇宙の拡大/可視的世界( the expansion of the universe, the visible world )、共通して誤解された価値( mutual false plaise )、馬鹿げた対話( ludicrous dialogue )、より明瞭な形態に於ける曖昧な習慣の繰り返し( the repetition of an obscure rule in a clearer form )、偽り/トリック/詐欺/エラー( deceit, trick, fraud, error )、反対/逆行( opposition, reversion )の義、[無駄な]論義/観念の増殖/哲学的思索/知的浅薄さ/知的遊戯( (Idle) discourse; ideational proliferation; metaphysical speculation; intellectual frivolity; intellectual play. )の意。龍樹によれば、言葉とは、現実を覆い隠すものであり、主観的欺瞞以外の何ものでもなく、有情を無智と苦悩へ導くものである[対意語:dezanaa ( 指示direction, 指導instruction )](According to Nāgârjuna 龍樹, words that conceal and cover reality, which are nothing but subjective counterfeits, and lead sentient beings further into ignorance and affliction (ant.→ deśanā). )が、中観派と唯識派の聖典を含む、種々の哲学的流派による、非常に多くの、法華経等のよく知られた大乗聖典が、この重要な概念に関しては、各各に彼等自身の定義、及び分類を提案している( Many of the better-known Mahāyāna canonical texts from various philosophical streams—including Madhyamaka and Yogâcāra texts, the Lotus Sutra and others, offer their own definitions and categorizations of this important concept )。
参考
ātmā skandhā yadi bhaved udayavyayabhāg bhavet |
skandhebhyo ’nyo yadi bhaved bhaved askandhalakṣaṇaḥ ||1||
If the aggregates were self,
it would be possessed of arising and decaying.
If it were other than the aggregates,
it would not have the characteristics of the aggregates.

ātmany asati cātmīyaṃ kuta eva bhaviṣyati |
nirmamo nirahaṃkāraḥ śamād ātmātmanīnayoḥ ||2||
If the self did not exist, where could what is mine exist?
In order to pacify self and what is mine,
grasping I and grasping mine can exist no more.

nirmamo nirahaṃkāro yaś ca so ’pi na vidyate |
nirmamaṃ nirahaṃkāraṃ yaḥ paśyati na paśyati ||3||
The one who does not grasp at me and mine likewise does not exist.
Whoever sees the one who does not grasp at me and mine does not see.

mamety aham iti kṣīṇe bahirdhādhyātmam eva ca |
nirudhyata upādānaṃ tatkṣayāj janmanaḥ kṣayaḥ ||4||
When one ceases thinking of inner and outer things as self and mine,
clinging will come to a stop. Through that ceasing, birth will cease.

karmakleśakṣayān mokṣaḥ karmakleśā vikalpataḥ |
te prapañcāt prapañcas tu śūnyatāyāṃ nirudhyate ||5||
Through the ceasing of action and affliction, there is freedom.
Action and affliction [come] from thoughts and they from fixations.
Fixations are stopped by emptiness.

ātmety api prajñapitam anātmety api deśitam |
buddhair nātmā na cānātmā kaścid ity api deśitam ||6||
It is said that “there is a self,” but “non-self” too is taught.
The buddhas also teach there is nothing which is “neither self nor non-self.”

nivṛttam abhidhātavyaṃ nivṛttaś cittagocaraḥ |
anutpannāniruddhā hi nirvāṇam iva dharmatā ||7||
That to which language refers is denied,
because an object experienced by the mind is denied.
The unborn and unceasing nature of reality is comparable to nirvana.

sarvaṃ tathyaṃ na vā tathyaṃ tathyaṃ cātathyam eva ca |
naivātathyaṃ naiva tathyam etad buddhānuśāsanam ||8||
Everything is real, not real; both real and not real;
neither not real nor real: this is the teaching of the Buddha.

aparapratyayaṃ śāntaṃ prapañcair aprapañcitam |
nirvikalpam anānārtham etat tattvasya lakṣaṇam ||9||
Not known through others, peaceful,
not fixed by fixations,
without conceptual thought, without differentiation:
these are the characteristics of suchness.

pratītya yad yad bhavati na hi tāvat tad eva tat |
na cānyad api tat tasmān nocchinnaṃ nāpi śāśvatam ||10||
Whatever arises dependent on something else
is at that time neither that very thing nor other than it.
Hence it is neither severed nor permanent.

anekārtham anānārtham anucchedam aśāśvatam |
etat tal lokanāthānāṃ buddhānāṃ śāsanāmṛtam ||11||
That ambrosial teaching of the buddhas, those guardians of the world,
is neither the same nor different, neither severed nor permanent.

saṃbuddhānām anutpāde śrāvakāṇāṃ punaḥ kṣaye |
jñānaṃ pratyekabuddhānām asaṃsargāt pravartate ||12||
When perfect buddhas do not appear,
and when their disciples have died out,
the wisdom of the self-awakened ones will vividly arise without reliance.

参考
If the aggregates were the self
It would have production and disintegration.
If it were different from the aggregates
It would not have the characteristics of the aggregates.

If there is no self
How could mine exist?
Because of the pacification of the I and mine
There is no grasping at I or mine.

Those who have no grasping at I or mine
Also do not exist.
Anyone who sees those who have no grasping at I or mine
Does not see.

When, with respect to inner and outer things,
The thoughts ‘I’ and ‘mine’ have been extinguished
Grasping will cease.
And by extinguishing that, birth is extinguished.

By extinguishing actions and afflictions, there is liberation.
Actions and afflictions arise from misconceptions
And they arise from elaborations.
Elaborations will cease through cultivating emptiness.

The Buddhas designated a ‘self’.
They also taught ‘selflessness’.
And they also taught
‘Neither self nor selflessness exist at all’.

Something which can be expressed is rejected
Since objects of experience of the mind are rejected.
The nature of reality is neither produced nor ceases.
It is similar to nirvana.

Everything is real. Everything is non-real.
There is the real and the non-real.
There is neither the real nor the non-real.
Those are the subsequent stages taught by the Buddha.

Not known through others, pacified,
Unelaborated by elaborations,
No discursive thought and not a different object.
Those are the characteristics of suchness.

That which arises in dependence upon something
Is, for example, not that thing itself
Nor is it different from it.
Thus, it is not annihilated and not permanent.

Suchness is the nectar of the teachings
Of the Buddhas who are the protectors of the world.
It is not the same, not different,
Not annihilated and not permanent.

When perfect Buddhas have not appeared
And also Hearers have disappeared
The exalted wisdom of Solitary Realizers
Will fully arise without reliance.

参考
もしも我(アートマン)が〔五つの〕構成要素(五蘊)そのものであるならば,〔我は〕生と滅とを持つことになるであろう。もしも〔我が〕〔五〕蘊から異なるものであるならば, 〔我が〕〔五〕蘊の特質(相) を持たないことになるであろう。

我が存在しないならば,我がもの(我所)は,どうして,存在するであろうか。我と我がものとが消滅することによって,我がものという観念を離れ,自我意識を離れる。

我がものという観念を離れ,自我意識を離れた,そのようなものもまた,存在していない。我がものという観念を離れ,自我意識を離れた,そのような〔無い〕ものを見る者, 〔実は〕見ることがないのである。

外に対しても,また內に対しても,「これは」「我がものである」「我れである」という〔観念〕が滅したときに,執着(取)が滅せられる。それの滅によって,生は滅する。

業と煩悩とが滅すれば,解脫が〔ある〕。業と煩悩とは,分析的思考(分別)から〔起こる〕。 それら〔分析的思考〕は,戲論(想定された論議) から〔起こる〕。しかし,戲論は空性(空であること)において 滅せられる

もろもろの仏は「我﹝が有る﹞」とも假說し,「我が無い(無我である)」とも說き,「いかなる我も無く,無我も無い」とも說いている

心の作用領域(對象)が止滅するときには,言語の﹝作用領域(對象)は﹞止滅する。まさに, 法性(真理)は,不生不滅であり,ニルヴァーナ(涅槃)のようである。

「一切は真実(そのようにある)である」,「一切は真実ではない」,「一切は真実であって且つ真実ではない」,「一切は真実であるのではなく且つ真実ではないのでもない」。これが,もろもろの仏が說教である。

他に縁って﹝知るの﹞ではなく(みずからさとるのであり),寂靜であり,もろもろの戲論によって戲論されることがなく,分析的思考を離れ,多義(ものが異なっている)でないこと,これが,真実〔ということ〕の特質(相)である。

およそ或るもの(A)が或るもの(B)に縁って存在しているときには,それ(A)はそれ(B)と,同一なのではなく,また別異なのでもない。それゆえ,断滅でもなく,また常住でもない。

〔何ものについても〕,一義(ものが同一)でもなく,多義(ものが異なっている)でもなく, 断滅でもなく,常住でもない。これが,世間の導師であるもろもろの仏の教說の甘露なるものである。

もろもろの正覚者(ブッダ)が(世に)生ぜず,またもろもろの声聞(教えを聞いて実踐する人) が滅したときには,もろもろの独覚(ひとつでさとりを得る人)の智が,不執着(遠離)より起こる。
有人說神。應有二種。若五陰即是神。若離五陰有神。 有る人の説かく、『神は、応に二種有るべし。若しは五陰は、即ち是れ神なり。若しは五陰を離れて、神有り』、と。
有る人は、こう説いている、――
『神』には、
『二種』、
『有るようだ!』、――
若しは、
『五陰』が、
即ち、
『神であり!』、
若しは、
『五陰』を、
『離れて!』、
『神』が、
『有る!』、と。
  (じん):心霊の力( psychic power )、心/本質/主体( heart, essence, core )、◯梵語 Rddhi, Rddhika の訳、増加、成長、繁栄、成功、幸運、富、多量( increase, growth, prosperity, success, good fortune, wealth, abundance )、達成/完全/神通力/魔術( accomplishment, perfection, supernatural power, magic )の義、超自然的/超自然的作用( Supernatural; supernormal function )、不可解な精神的神力/能力( Inscrutable spiritual powers, or power )の意。◯梵語 deva, devataa, daivata の訳、神霊/神/神霊の/神の( spirit, god, spiritual, godly )の意。◯梵語 aatman, yakSa の訳、霊魂/亡霊/精神( soul, ghost, spirit )の義。◯梵語 jiiva, ojas の訳、生存/実存すること( living, existing, alive )の義。
  神我(じんが):霊魂( soul )、梵語 aatman, jiiva の訳、バラモン教的な衆生の自己( the self that grounds living beings in brahmanistic thought )の意。◯梵語 puruSa の訳、仏教徒以外によって、輪廻の主体であると考えられている、持続した個性[不滅の人格]に係る概念( A translation of the Sanskrit puruṣa, the notion of an enduring individuality that was understood by non-Buddhists to be the subject of transmigration. )。数論学派に於いて、 purSa は、自性 prakRti と共に、存在に関する二十五分類に基づく原理を形成する( In Sāṃkhya 數論 philosophy, puruṣa, together with prakṛti 冥性 forms the basis of the foundation of the twenty-five categories of existence 二十五諦. )。
  参考:『大智度論巻70仏母品』:『神者。凡夫人憶想分別隨我心取相故計有神。外道說神有二種。一者常二者無常。若計神常者常修福德後受果報故。或由行道故。神得解脫。若謂神無常者為今世名利故有所作。常無常者。有人謂神。有二種。一者細微常住。二者現有所作。現有所作者。身死時無常。細神是常。有人言神非常非無常。常無常中俱有過。若神無常即無罪福。若常亦無罪福。何以故若常則苦樂不異。譬如虛空雨不能濕風日不能乾。若無常則苦樂變異。譬如風雨在牛皮中則爛壞。以我心故說必有神。但非常非無常。佛言四種邪見皆緣五眾。但於五眾謬計為神。神及世間者。世間有三種。一者五眾世間。二者眾生世間。三者國土世間。此中說二種世間。五眾世間國土世間。眾生世間即是神。於世間相中亦有四種邪見。』
若五陰是神者神則生滅相。 若し五陰にして、是れ神ならば、神は則ち生滅の相ならん。
若し、
『五陰』が、
『神ならば!』、
則ち、
『神』は、
『生滅の相ということになる!』。
如偈中說。若神是五陰即是生滅相。何以故。生已壞敗故。以生滅相故。五陰是無常。 偈中に説くが如し、『若し神は、是れ五陰なれば、即ち是れ生滅の相なり』、と。何を以っての故に、生じ已れば壊敗するが故なり。生滅の相を以っての故に、五陰は、是れ無常なり。
『偈』に、こう説く通りだ、――
若し、
『神』が、
『五陰ならば!』、
即ち、
是の、
『神』は、
『生滅の相である!』、と。
何故ならば、
『五陰』は、
『生じれば!』、
『壊敗するからである!』。
『五陰』は、
『生滅の相である!』が故に、
『無常である!』。
如五陰無常。生滅二法亦是無常。何以故。生滅亦生已壞敗故無常。 五陰の無常なるが如く、生、滅二法も亦た、是れ無常なり。何を以っての故に、生、滅も亦た、生じ已れば壊敗するが故に無常なり。
例えば、
『五陰』が、
『無常であるように!』、
『生、滅』の、
『二法』も、
『無常である!』。
何故ならば、
『生、滅』も、
亦た、
『生じれば!』、
『壊敗する!』が故に、
『無常なのである!』。
神若是五陰。五陰無常故。神亦應無常生滅相。但是事不然。 神は、若し是れ五陰なれば、五陰は無常なるが故に、神も亦た応に無常の生滅の相なるべし。但だ是の事は然らず。
『神』が、
若し、
『五陰ならば!』、
『五陰』は、
『無常である!』が故に、
『神』も、
『無常であり!』、
『生滅の相でなければならない!』。
但だ、
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
若離五陰有神。神即無五陰相。 若し五陰を離れて、神有らば、神は、即ち五陰の相無けん。
若し、
『五陰』を、
『離れて!』、
『神』が、
『有れば!』、
『神』には、
『五陰の相』が、
『無いということだ!』。
如偈中說。若神異五陰。則非五陰相。 偈中に説くが如し、『若し神、五陰と異なれば、則ち五陰の相に非ず』と。
例えば、
『偈』中に、こう説く通りである、――
若し、
『神』が、
『五陰』と、
『異なれば!』、
則ち、
『神』は、
『五陰の相でないことになる!』、と。
而離五陰更無有法。若離五陰有法者。以何相何法而有。 而るに五陰を離るれば、更に法有ること無し。若し五陰を離れて、法有らば、何なる相、何なる法を以ってか、有らん。
而し、
『五陰』を、
『離れれば!』、
更に、
『法』は、
『存在しない!』。
若し、
『五陰』を、
『離れて!』、
『法』が、
『有れば!』、
何のような、
『相』の、
何のような、
『法』が、
『有ることになるのか?』。
若謂神如虛空離五陰而有者。是亦不然。何以故。破六種品中已破。虛空無有法名為虛空。 若し、『神は、虚空の如く、五陰を離れて、而も有り』、と謂わば、是れも亦た然らず。何を以っての故に、『破六種品』中に已に破せり。虚空は、法有ること無きを、名づけて虚空と為すと。
若し、
こう謂うならば、――
『神』は、
『虚空のように!』、
『五陰』を、
『離れて!』、
『存在する!』、と。
是れも、
亦た、
『間違っている!』。
何故ならば、
『破六種品』中に、
已に、こう破ったからである、――
『虚空』は、
『法』が、
『存在しない!』ので、
『虚空』と、
『呼ばれる!』、と。
若謂以有信故有神。是事不然。何以故。信有四種。一現事可信。二名比知可信。如見煙知有火。三名譬喻可信。如國無鋀石喻之如金。四名賢聖所說故可信。如說有地獄有天有鬱單曰。無有見者。信聖人語故知。 若し、『信有るを以っての故に、神有り』、と謂わば、是の事は然らず。何を以っての故に、信には、四種有ればなり、一には事現るれば信ずべし。二には、比知して信ずべきに名づく、煙を見て、火有るを知るが如し。三には、譬喩して信ずべきに名づく、国に鋀石無ければ、之を金の如しと喻うるが如し。四には、賢聖の所説の故に信ずべきに名づく、地獄有り、天有り、鬱単曰有りと説くも、見者有ること無きに、聖人の語を信ずるが故に知るが如し。
若し、
こう謂うならば、――
『信』の、
『有る!』が故に、
『神』は、
『有る!』、と。
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
何故ならば、
『信』には、
『四種』、
『有るからである!』、――
一には、
『現象』を、
『見た!』ので、
『信じられる!』。
二には、
『類推して!』、
『知った!』ので、
『信じられる!』、
例えば、
『煙』を、
『見て!』、
『火』が、
『有る!』のを、
『知るようなものである!』。
三には、
『譬喩した!』ので、
『信じられる!』、
例えば、
『国』中に、
『黄銅鉱』が、
『無くても!』、
『金のようだ!』と、
『喩える!』が故に、
『知るようなものである!』。
四には、
『賢聖』の、
『所説である!』が故に、
『信じられる!』。
例えば、
『地獄が有る!』、
『天が有る!』、
『鬱単曰が有る!』と、
『説かれていても!』、
『見た!』者は、
『無い!』が、
『聖人』の、
『語』を、
『信じる!』が故に、
『知るようなものである!』。
  (しん):信頼( faith )、梵語 zraddhaa の訳、信頼すること/忠実であること( to have faith or faithfulness )、確信すること/信用すること( to have belief or confidence )、信じること( to believe )、真実であること/信頼されること( be true or trustful )、信用すること/真実だと思うこと( to credit, think anything true )、誰かに何かを期待すること( to expect anything from )、望んでいる/望む( to be desirous of, wish to )、信頼/信用/確信/他人の信頼性を信じる習性/忠実/信じること( faith, trust, confidence, trustfulness, faithfulness, belief in )の義。阿毘達磨に於いて大善地法の一、唯識に於いては十一善の一( One of the ten wholesome mental factors 大善地法 enumerated in Abhidharma; one of the eleven wholesome mental factors十一善 in Yogâcāra. )、境に対して心に清澄と寂静とを伴い、それに依って、その他の精神作用を清澄にし、寂静にすること( Facing the environment with clarity and calmness, thereby calming and quieting the other mental functions. )、世界を有るがままに容認すること( Accepting the world as it is. )。唯識に於いては、それは実法であり、三界に通ずる( In the Yogâcāra system, it is a 'real dharma' that functions throughout the three realms. )。唯識は信を更に信忍、信楽、善法欲の三種に分類し、夫々信の知、情、志の側面を含ませている( Yogâcāra further distinguishes faith into the three types of 信忍, 信樂, and 善法欲, which respectively connote the cognitive 知, emotive 情, and motivational 志 aspects of faith. )。
  比知(ひち):推論/推理( inference )、梵語 anumaana の訳、推論/推測する、又は与えられた前提より、結論を導く行為( the act of inferring or drawing a conclusion from given premises )、推論/考察/熟考/推測/憶測( inference, consideration, reflection, guess, conjecture )の義、比較し類推して知るの意。
  鋀石(つしゃく):鉱石の名。黄銅鉱。
是神於一切信中不可得。現事中亦無。 是の神は、一切の信中に於いて、得べからず。現事中にも亦た無し。
是の、
『神』は、
一切の、
『信』中に、
『認められず!』、
『現れた!』、
『事』中にも、
『無い!』。
比知中亦無。何以故。比知。名先見故後比類而知。如人先見火有煙。後但見煙則知有火。神義不然。誰能先見神與五陰合。後見五陰知有神。 比知中にも亦た無し。何を以っての故に、比知を、先に見るが故に、後に比類して、知ると名づくればなり。人は、先に火に煙有るを見て、後に但だ煙を見れば、則ち火有るを知るが如きに、神の義は然らず。誰か、能く先に神と、五陰と合するを見て、後に五陰を見て、神有るを知る。
『比べて!』、
『知る!』中にも、
『神』は、
『無い!』。
何故ならば、
『比べて!』、
『知る!』とは、
先に、
『見る!』が故に、
後に、
『比較し』、
『類推して!』、
『知る!』と、
『称するからである!』。
例えば、
『人』が、
先に、
『火』には、
『煙』が、
『有る!』のを、
『見る!』が故に、
後に、
但だ、
『煙』を、
『見るだけ!』で、
『火』が、
『有る!』と、
『知るのである!』が、
『神』の、
『義』には、
『そういうことはない!』。
誰か、
先に、
『神』が、
『五陰』と、
『合する!』のを、
『見て!』、
後に、
『五陰』を、
『見て!』、
『神』が、
『存在する!』と、
『知ることができるのか?』。
若謂有三種比知。一者如本。二者如殘。三者共見。 若しは、『三種の比知有り、一には本の如し、二には残の如し、三には共に見る』、と謂わん。
若し、こう謂うならば、――
『比べて!』、
『知る!』には、
『三種』有る、
謂わゆる、――
一には、
『本』と、
『同じだ!』と、
『知る!』。
二には、
『殘り!』も、
『同じだ!』と、
『知る!』。
三には、
『共に(どちらも)!』、
『見て!』、
『知る!』。
如本。名先見火有煙。今見煙知如本有火。 本の如しとは、先に火に、煙有るを見て、今煙を見るに、本の如く、火有るを知ると名づく。
『本』と、
『同じだ!』と、
『知る!』とは、こういうことである――
先に、
『火』には、
『煙』が、
『有る!』のを、
『見ていた!』ので、
今、
『煙』を、
『見て!』、
『本()』のように、
『火』が、
『有る!』と、
『知るのである!』。
如殘。名如炊飯一粒熟知餘者皆熟。 残の如しとは、飯を炊くに、一粒熟せば、余も皆熟すと知るが如しと名づく。
『殘り!』も、
『同じだ!』と、
『知る!』とは、こういうことである――
例えば、
『飯』を、
『炊いて!』、
『一粒』、
『熟した!』ならば、
『他も!』、
皆、
『熟した!』と、
『知ることである!』。
共見。名如眼見人從此去到彼亦見其去。日亦如是。從東方出至西方。雖不見去以人有去相故。知日亦有去。 共に見るとは、眼に、人の、此より去りて彼に到るを見、亦た其より去るを見るが如きに、日も亦た是の如く、東方より出でて西方に至れば、去るを見ずと雖も、人に去相有るを以っての故に、日にも亦た去ること有りと知る。
『共に!』、
『見て!』、
『信じる!』とは、こういうことである、――
例えば、
『眼』に、
『人』が、
『此(ここ)』を、
『去って!』、
『彼(かしこ)』に、
『到る!』のを、
『見て!』、
亦た、
『其(そこ)』を、
『去る!』のを、
『見る!』ので、
『日』も、
是のように、
『東方』より、
『出て!』、
『西方』に、
『至れば!』、
『其(そこ)』を、
『去る!』のを、
『見なくても!』、
『人』に、
『去る!』という、
『相』が、
『有った!』が故に、
『日』にも、
『去る!』ことが、
『有るはずだ!』と、
『知るのである!』。
如是苦樂憎愛覺知等。亦應有所依。如見人民知必依王。是事皆不然。 是の如く苦、楽、憎、愛、覚、知等も亦た、応に所依有るべきこと、人民を見れば、必ず王に依るを知るが如し。是の事は、皆然らず。
是のように、
『苦、楽、憎、愛、覚、知』等にも、
当然、
『所依()』が、
『有るはずだ!』、
例えば、
『人民』を、
『見れば!』、
必ず、
『王』に、
『依るはずだ!』と、
『知るようなものである!』が、
是の、
『事』は、
皆、
『間違っている!』。
何以故。共相信先見人與去法合而至餘方。後見日到餘方故知有去法。無有先見五陰與神合後見五陰知有神。是故共相比知中亦無神。 何を以っての故に。共に相(み)て信ずるは、先に人の、去る法と合して、余方に至るを見て、後に、日の余方に到るを見るが故に、去る法有るを知ればなり。先に五陰の、神と合するを見て、後に五陰を見て、神有るを知ること有ること無し。是の故に、共に相比(みくら)べて知る中に、亦た神無し。
何故ならば、
『共に!』、
『見て!』、
『信じる!』とは、――
先に、
『人』が、
『去る!』という、
『法』と、
『和合して!』、
『余方』に、
『到る!』のを、
『見て!』、
後に、
『日』が、
『余方』に、
『到る!』のを、
『見た!』ので、
故に、
『去る!』という、
『法』が、
『有る!』と、
『知った!』としても、
先に、
『五陰』が、
『神』と、
『和合する!』のを、
『見て!』、
後に、
『五陰』を、
『見た!』ので、
故に、
『神』が、
『有る!』と、
『知る!』というような、
是のような、
『事』は、
『存在しないからである!』。
是の故に、
『共に!』、
『見比べて!』、
『知る!』中にも、
亦た、
『神』は、
『無い!』。
  (そう):みる。親しく自ら観看する/自らの眼で見る( see for oneself )こと。
聖人所說中亦無神。何以故。聖人所說。皆先眼見而後說。 聖人の所説中にも、亦た神無し。何を以っての故に、聖人の所説は、皆先に眼に見て、而る後に説きたまえばなり。
『聖人』の、
『所説』にも、
亦た、
『神』は、
『存在しない!』、――
何故ならば、
『聖人の所説』は、
皆、
先に、
『眼』で、
『見て!』、
後に、
『説かれたものだからである!』。
又諸聖人說餘事可信故。當知說地獄等亦可信。而神不爾。 又諸の聖人は、余事の信ずべきことを説きたもうが故に、当に知るべし、地獄等を説きたまえば、亦た信ずべきことを。而るに神は爾らず。
又、
諸の、
『聖人』の、
『説かれた!』、
『他の事』が、
『信じられる!』が故に、
当然、こう知るべきである、――
『聖人』の、
『説かれた!』、
『地獄』等も、
『信じなくてはならない!』が、
而し、
『神』は、
『そうでない!』、と。
無有先見神而後說者。是故於四信等諸信中。求神不可得。求神不可得故無。是故離五陰無別神。 先に神を見て、而る後に説く者有ること無し。是の故に、四信等の諸の信中に於いて、神を求むるも不可得なり。神を求めて不可得なるが故に無し。是の故に五陰を離れて、別の神無し。
先に、
『神』を、
『見た!』後に、
『神』を、
『説いた!』者は、
『無い!』。
是の故に、
『四信』等の、
諸の、
『信ずべき!』、
『事』の中に、
『神』を、
『求めて!』、
『認められない!』が故に、
『無い!』。
是の故に、
『五陰』を、
『離れて!』、
『別に!』、
『神』は、
『無い!』。
  四信(ししん):信には、現事の故に、比知の故に、譬喩の故に、賢聖所説の故にの四種あるをいう。。
  参考:『中論巻3法品』:『信有四種。一現事可信。二名比知可信。如見煙知有火。三名譬喻可信。如國無鋀石喻之如金。四名賢聖所說故可信。』
復次破根品中。見見者可見破故。神亦同破。 復た次ぎに、『破根品』中に見、見者、可見の破れたるが故に、神も亦た同じく破る。
復た次ぎに、
『六情品』中に、
『見』も、
『見者』も、
『可見』も、
『破れた!』が故に、
『神』も、
『同じように!』、
『破れた!』。
又眼見麤法尚不可得。何況虛妄憶想等而有神。是故知無我。因有我故有我所。若無我則無我所。修習八聖道分。滅我我所因緣故。得無我無我所決定智慧 又眼に見る麁法すら、尚不可得なり。何に況んや、虚妄、憶想等に神有るをや。是の故に、我無きを知る。我有るに因るが故に我所有り。若し我無ければ、則ち我所無し。八聖道分を修習せば、我、我所の因縁を滅するが故に、無我、無我所の決定せる智慧を得ん。
又、
『眼』に、
『見る!』、
『麁法』すら、
『認められない!』、
況して、
『虚妄』や、
『憶想』にも、
『等しい!』ものに、
『神』の、
『有るはずがない!』。
是の故に、
こう知る、――
『我』は、
『存在しない!』、と。
則ち、
『我』の、
『有る!』に、
『因って!』、
故に、
『我所』も、
『有った!』が、
若し、
『我』が、
『無ければ!』、
則ち、
『我所』も、
『無いことになる!』。
若し、
『八聖道分』を、
『修習しながら!』、
『我』と、
『我所』との、
『因縁(生処)』を、
『滅すれば!』、
『無我』や、
『無我所』という、
『決定した!』、
『智慧』を、
『得るだろう!』。
又無我無我所者。於第一義中亦不可得。 又無我、無我所は、第一義中にも、亦た不可得なり。
又、
『無我』や、
『無我所』は、
『第一義』中に於いては、
亦た、
『認められない!』。
無我無我所者。能真見諸法。凡夫人以我我所障慧眼故。不能見實。 無我、無我所なれば、能く真に諸法を見るも、凡夫人は、我、我所の慧眼を障うるを以っての故に、実を見る能わず。
『無我、無我所』ならば、
『真に!』、
『諸法を!』、
『見ることができる!』が、
『凡夫人』は、
『我』や、
『我所』に、
『慧眼』を、
『遮られる!』ので、
故に、
『実』を、
『見ることができない!』。
今聖人無我我所故。諸煩惱亦滅。諸煩惱滅故。能見諸法實相。內外我我所滅故諸受亦滅。諸受滅故無量後身皆亦滅。是名說無餘涅槃。 今、聖人は我、我所無きが故に、諸の煩悩も亦た滅し、諸の煩悩滅するが故に、能く諸法の実相を見、内外の我、我所滅するが故に、諸受も亦た滅し、諸受滅するが故に、無量の後身も、皆亦た滅す。是れを無余涅槃を説くと名づく。
今、
『聖人』は、
『我、我所』の、
『無い!』が故に、
『諸の煩悩』も、
『滅し!』、
『諸の煩悩』の、
『滅する!』が故に、
『諸法』の、
『実相』を、
『見ることができ!』、
『内、外』の、
『我、我所』の、
『滅した!』が故に、
『諸受』も、
『滅することになり!』、
『諸受』の、
『滅する!』が故に、
『無量の後身』も、
皆、
『滅することになる!』。
是れを、
『無余涅槃』を、
『説く!』と、
『称する!』。
問曰。有餘涅槃云何。 問うて曰く、有余涅槃は云何。
問い、
『有余涅槃』とは、
何を言うのか?
答曰。諸煩惱及業滅故。名心得解脫。是諸煩惱業。皆從憶想分別生無有實。 答えて曰く、諸の煩悩、及び業滅するが故に、心に解脱を得と名づく。是の諸の煩悩、業は、皆、憶想、分別より生じて、実有ること無し。
答え、
諸の、
『煩悩』や、
『業』の、
『滅する!』が故に、
『心』に、
『解脱を得る!』と、
『称する!』。
是の、
諸の、
『煩悩』や、
『業』は、
皆、
『憶想』と、
『分別』より、
『生じる!』ので、
『実』が、
『無い!』。
諸憶想分別皆從戲論生。得諸法實相畢竟空。諸戲論則滅。是名說有餘涅槃。 諸の憶想、分別は、皆、戯論より生じ、諸法の実相の畢竟じて空なるを得れば、諸の戯論は則ち滅す。是れを有余涅槃を説くと名づく。
諸の、
『憶想』と、
『分別』とは、
皆、
『戯論』より、
『生じ!』、
諸の、
『法』の、
『実相』は、
『畢竟じて!』、
『空である!』と、
『認めれば!』、
諸の、
『戯論』は、
『滅することになる!』、
是れを、
『有余涅槃』を、
『説く!』と、
『称する!』。
實相法如是。諸佛以一切智觀眾生故。種種為說。亦說有我亦說無我。 実相の法は、是の如くなるも、諸仏は、一切智を以って、衆生を観るが故に、種種の説を為し、亦た我有りと説き、亦た我無しと説きたもう。
『実相』という、
『法』は、
『是の通りである!』が、
諸の、
『仏』は、
『一切智』を、
『用いて!』、
『衆生』を、
『観られる!』が故に、
種種の、
『説』を、
『作って!』、
亦たは、
『我』が、
『有る!』と、
『説かれたり!』、
亦たは、
『我』は、
『無い!』と、
『説かれたのである!』。
若心未熟者。未有涅槃分。不知畏罪。為是等故說有我。 若し、心の未熟なる者なれば、未だ涅槃の分有らずして、罪を畏るるを知らず、是れ等の為の故に、我有りと説きたもう。
若し、
『衆生』の、
『心』が、
『未熟ならば!』、
未だ、
『涅槃』の、
『分』すら、
『無く!』、
『罪』を、
『畏れる!』ことを、
『知らない!』ので、
是れ等の、
『衆生』の為に、
『我』は、
『有る!』と、
『説かれた!』。
又有得道者。知諸法空但假名有我。為是等故說我無咎。 又有る道を得たる者は、諸法は空にして、但だ仮に我有りと名づくることを知る、是れ等の為の故に、我を説きたまえるも、咎無し。
又、
有る、
『道を得た!』者は、
諸の、
『法』は、
『空であり!』、
但だ、
『我』が、
『有る!』と、
仮に、
『称するだけだ!』と、
『知っている!』ので、
是れ等の、
『人』の為に、
『我』は、
『有る!』と、
『説かれた!』としても、
『仏』に、
『咎』は、
『無い!』。
又有布施持戒等福德。厭離生死苦惱畏涅槃永滅。是故佛為是等說無我。諸法但因緣和合。生時空生。滅時空滅。是故說無我。但假名說有我。 又有るいは布施、持戒等の福徳ありて、生死の苦悩を厭離するも、涅槃の永滅を畏る、是の故に仏は、是れ等の為に説きたまわく、『無我なり、諸法は但だ因縁の和合にして、生時には空生じ、滅時にも空滅するのみ』、と。是の故に説かく、『我無し、但だ仮に名づけて、我有りと説くのみ』、と。
又、
有るいは、
『布施、持戒等の福徳』で、
『生死』という、
『苦悩』を、
『厭離した!』が、
『涅槃』という、
『永久の寂滅』を、
『畏れる!』ので、
是の故に、
『仏』は、
是れ等の為に、
こう説かれた、――
『我』は、
『無い!』、
但だ、
『因縁和合して!』、
『生時』には、
『空』が、
『生じ!』、
『滅時』には、
『空』が、
『滅するのみである!』、と。
是の故に、
こう説くのである、――
『我』は、
『無い!』。
但だ、
仮に、
『衆生』と、
『呼ばれる!』ので、
『我』が、
『有る!』と、
『説くだけである!』、と。
又得道者。知無我不墮斷滅故說無我無咎。是故偈中說。諸佛說有我亦說於無我。若於真實中不說我非我。 又、道を得たる者は、無我を知るも、断滅に堕ちざるが故に無我を説くも咎無し、と。是の故に偈中に説かく、『諸仏は、我有りと説きたまい、亦た我無しと説きたもう』、と。若し、真実中なれば、我も非我も説きたまわず。
又、
『道を得た!』者は、
『我』の、
『無い!』ことを、
『知っても!』、
『断滅』中に、
『堕ちることはない!』。
故に、
『我』は、
『無い!』と、
『説いても!』、
『咎』は、
『無い!』ので、
是の故に、
『偈』中に、こう説くのであるが、――
諸の、
『仏』は、
『我』が、
『有る!』とも、
『説かれる!』し、
亦た、
『我』は、
『無い!』とも、
『説かれる!』、と。
若し、
『真実』中ならば、
諸の、
『仏』は、
『我である!』とも、
『我でない!』とも、
『説かれないだろう!』。
問曰。若無我是實。但以世俗故說有我。有何咎。 問うて曰く、若し無我は、是れ実にして、但だ世俗を以っての故に、我有りと説かば、何なる咎か有らん。
問い、
若し、
『我』は、
『無い!』のが、
『実であり!』、
但だ、
『世俗』の故に、
『我』が、
『有る!』と、
『説いた!』とすれば、
何のような、
『咎』が、
『有るのか?』。
答曰。因破我法有無我。我決定不可得。何有無我。若決定有無我。則是斷滅生於貪著。 答えて曰く、我法を破るに因って、無我有れど、我は決定して不可得なり。何んぞ、無我有らん。若し決定して、無我有れば、則ち是れ断滅にして、貪著を生ずるなり。
答え、
『我』という、
『法』を、
『破る!』ことに、
『因って!』、
『無我』が、
『有るのに!』、
『我』は、
『決定して!』、
『認められなかった!』。
何故、
『無我』が、
『有るのか?』。
若し、
『決定して!』、
『無我』が、
『有れば!』、
則ち、
是れは、
『断滅』の、
『心』が、
『貪著』の、
『心』を、
『生じたのである!』。
如般若中說菩薩有我亦非行。無我亦非行。 般若中に説けるが如し、『菩薩は、有我も亦た行に非ず、無我も亦た行に非ず』、と。
例えば、
『般若経』中には、こう説かれている、――
『菩薩』は、
『我』が、
『有る!』とも、
『考えない!』し、
『我』が、
『無い!』とも、
『考えない!』、と。
  参考:『大品般若経巻20無尽品』:『如是須菩提。菩薩摩訶薩觀十二因緣時。不見法無因緣生。不見法常不滅。不見法有我人壽者命者眾生乃至知者見者。不見法無常。不見法苦。不見法無我。不見法寂滅非寂滅。如是須菩提。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜。應如是觀十二因緣。』
問曰。若不說我非我空不空。佛法為何所說。 問うて曰く、若し我、非我、空、不空を説かざれば、仏法は、何んの為にか、説かるる。
問い、
若し、
『我、非我』、
『空、不空』を、
『説かなければ!』、
何故、
『仏法』が、
『説かれたのか?』。
答曰。佛說諸法實相。實相中無語言道。滅諸心行。心以取相緣。生以先世業果報故有。不能實見諸法。是故說心行滅。 答えて曰く、仏は、諸法の実相を説きたまえり。実相中には、語言の道無く、諸の心行滅す。心は、相を取るを以って、生を縁じ、先世の業の果報を以っての故に有るも、実に諸法を見る能わず。是の故に、『心行滅す』と説く。
答え、
『仏』は、
『諸法』の、
『実相』を、
『説かれたのである!』。
『実相』中には、
『語言』という、
『道』も、
『無く!』、
諸の、
『心行(思考)』も、
『滅している!』。
『心』が、
『相』を、
『取る!』が故に、
『生』を、
『縁じ!』、
『先世の業』の、
『果報』の故に、
『三界』中に、
『有る!』が、
是の、
『心』は、
『諸法』の、
『実を!』、
『見ることができない!』ので、
是の故に、
こう説く、――
『心』の、
『行(思考)』が、
『滅する!』、と。
問曰。若諸凡夫心不能見實。聖人心應能見實。何故說一切心行滅。 問うて曰く、若し諸の凡夫なれば、心に実を見る能わざるも、聖人の心なれば、応に能く実を見るべし。何なる故にか、説かく、『一切の心行滅す』、と。
問い、
若し、
諸の、
『凡夫』ならば、
『心』に、
『実』を、
『見ることができないだろう!』が、
『聖人』の、
『心』ならば、
『実』を、
『見ることができるはずだ!』。
何故、こう説くのか?――
一切の、
『心』の、
『行』が、
『滅する!』、と。
答曰。諸法實相即是涅槃。涅槃名滅。是滅為向涅槃故亦名為滅。 答えて曰く、諸法の実相とは、即ち是れ涅槃なり。涅槃を滅と名づく。是の滅は、涅槃に向わんが為の故なれば、亦た名づけて、滅と為す。
答え、
諸の、
『法』の、
『実相』とは、
『涅槃であり!』、
『涅槃』を、
『滅』と、
『称する!』。
是の、
『滅』は、
『涅槃』に、
『向う!』為に、
『滅する!』が故に、
亦た、
『滅』と、
『称せられる!』。
若心是實。何用空等解脫門。諸禪定中。何故以滅盡定為第一。 若し心は、是れ実ならば、何んが、空等の解脱門を用いる。諸の禅定中には、何んの故にか、滅尽定を以って、第一と為す。
若し、
『心』が、
『実ならば!』、
何故、
『空』等の、
『解脱門』を、
『用いるのか?』。
諸の、
『禅定』中に、
何故、
『滅尽定』が、
『第一なのか?』。
  三解脱門(さんげだつもん):解脱に至る三種の門( three gates of liberation )、梵語 triini- vimokSa- mukhaani )の訳、又三空、或いは三三昧としても知られる( Also known as three kinds of emptiness 三空 and three absorptions 三三昧. )、三種の瞑想的熟慮に関する門( Three approaches to meditative contemplation: )、即ち空解脱門 zuunyataa- vimokSa- mukha :非実在性に関する瞑想( meditation on nonsubstantiality )、無相解脱門 animitta- vimokSa- mukha :無相に関する瞑想( meditation on signlessness )、無作解脱門 apraNihita- vimokSa- mukha :無欲に関する瞑想( meditation on desirelessness )である。是れ等は三種の瞑想的実践である( These are three kinds of meditative practices )。
  禅定(ぜんじょう):瞑想的集中( meditative concentration )、梵語 dhyaana の訳、瞑想/思考/黙想( meditation, thought, reflection )の義、静かな瞑想、又は内観に於ける精神情態( The mind in silent meditation or introspection. )。( A general term for meditative concentration practices, both Buddhist and non-Buddhist )。瞑想的集中の実践に関する仏教徒と非仏教徒とを含む一般的な語( A general term for meditative concentration practices, both Buddhist and non-Buddhist )。禅定の語は、 dhyaana の音訳である禅と、その意訳である定との複合したものである( This word is a combination of two characters where the first is used for transliteration, and the second is used for its meaning. )。
  滅尽定(めつじんじょう):意識の停止的集中[定]( concentration of cessation )、梵語 nirodha- smaapatti の訳、監禁的成就( completion of confilement )の義、停止状態の瞑想的達成( The meditative attainment of cessation )。瞑想的集中[定]の特別深い状態、その中では感覚と分別との精神作用が完全に生滅する( An extremely deep state of meditative concentration where sensory and discriminative mental function is completely extinguished. )。この定が達成されると意識も亦た生滅し、行者を最頂天に再生させることができる( When this concentration is attained, the thinking consciousness 意識 is also extinguished, which enables the practitioner to be reborn into the highest heaven. )。低位の行者、或いは外道は彼等の個性の喪失を畏れるが故に、彼等は完全なる滅定に入ることが出来ず、代わりにせいぜい無想定を達成するぐらいである( Since low-level practitioners and non-Buddhists are afraid to extinguish their individuality, they do not enter this concentration of complete extinction, but instead can only attain, at best, thoughtless concentration 無想定 (asaṃjñī-samāpatti), considered in Yogâcāra to be an inferior state of concentration. )。
又亦終歸無餘涅槃。是故當知。一切心行皆是虛妄。虛妄故應滅。 又亦た終に、無余涅槃に帰すれば、是の故に当に知るべし、一切の心行は、皆、是れ虚妄にして、虚妄の故に応に滅すべし、と。
又、
終には、
『無余涅槃』に、
『帰することになる!』が、
是の故に、こう知るべきである、――
一切の
『心行』は、
皆、
『虚妄であり!』、
『虚妄である!』が故に、
当然、
『滅するはずである!』。
諸法實相者。出諸心數法。無生無滅寂滅相。如涅槃。 諸法の実相とは、諸の心数法を出でて、無生無滅の寂滅相の涅槃の如きなり。
諸の、
『法』の、
『実相』とは、――
諸の、
『心数法』を、
『出た!』、
『無生、無滅』の、
『寂滅の相であり!』、
例えば、
『涅槃のようである!』。
問曰經中說。諸法先來寂滅相即是涅槃。何以言如涅槃。 問うて曰く、経中に説かく、『諸法は、先より来(このかた)寂滅相にして、是れ涅槃なり』、と。何を以ってか、『涅槃の如し』と言える。
問い、
『経』中には、
こう説かれている、――
諸の、
『法』は、
『先来(元来)』、
『寂滅の相であり!』、
『涅槃である!』、と。
何故、
こう言うのか?――
『涅槃のようだ!』、と。
答曰。著法者。分別法有二種。是世間是涅槃。說涅槃是寂滅不說世間是寂滅。 答えて曰く、法に著する者の、法には二種有りとして、是れ世間なり、是れ涅槃なりと分別し、涅槃は、是れ寂滅なりと説くも、世間は、是れ寂滅なりと説かず。
答え、
『法』に、
『著する!』者に、――
『法』には、
『二種』有るので、――
『是れは、世間である!』、
『是れは、涅槃である!』と、
『分別し!』、
『涅槃』とは、
『寂滅である!』と、
『説く!』が、
『世間』が、
『寂滅である!』とは、
『説かない!』。
此論中說一切法性空寂滅相。為著法者不解故。以涅槃為喻。如汝說涅槃相空無相寂滅無戲論。一切世間法亦如是 此の論中には、一切の法性は、空にして寂滅の相なりと説き、法に著する者の解せざるが為の故に、涅槃を以って、喻と為さく、『汝が、涅槃の相は、空、無相、寂滅にして、無戯論なりと説くが如く、一切の世間の法も亦た是の如し』、と。
此の、
『論』中には、
一切の、
『法』の、
『性』は、
『空であり!』、
『寂滅』の、
『相である!』と、
『説いている!』が、
『法』に、
『著する!』者には、
『理解できないかもしれない!』が、故に、
『涅槃』を、
『用いて!』、
『喩としている!』、、――
例えば、
お前が、
『涅槃』の、
『相』は、
『空であり!』、
『無相であり!』、
『寂滅であり!』、
『無戯論である!』と、
『説くように!』、
一切の、
『世間』の、
『法』も、
亦た、
『是の通りなのである!』、と。
問曰。若佛不說我非我。諸心行滅。言語道斷者。云何令人知諸法實相。 問うて曰く、若し仏、我も非我も説きたまわず、諸の心行滅して、言語の道断ぜば、云何が、人をして、諸法の実相を知らしめん。
問い、
若し、
『仏』が、
『我である!』とも、
『我でない!』とも、
『説かれず!』、
諸の、
『心』の、
『行(動き)』が、
『滅し!』、
『言語』の、
『道』が、
『断たれたならば!』、
何のようにして、
『人』に、
『諸法』の、
『実相』を、
『知らせるのか?』。
答曰。諸佛無量方便力。諸法無決定相。為度眾生或說一切實。或說一切不實。或說一切實不實。或說一切非實非不實。 答えて曰く、諸仏は、無量の方便力と、諸法に決定の相無きをもって、衆生を度せんが為に、或いは一切は実なりと説き、或いは一切は不実なりと説き、或いは一切は実、不実なりと説き、或いは非実、非不実なりと説きたもう。
答え、
諸の、
『仏』は、
『無量』の、
『方便』という、
『力』を、
『用いて!』、
『諸法』には、
『決定した!』、
『相』が、
『無い!』が故に、
『衆生』を、
『度す!』為に、
或いは、
一切は、
『実である!』と、
『説き!』、
或いは、
一切は、
『実でない!』と、
『説き!』、
或いは、
一切は、
『実であるか、実でないかだ!』と、
『説き!』、
或いは、
一切は、
『実でもなく、実でないでもない!』と、
『説かれた!』。
一切實者。推求諸法實性。皆入第一義平等一相。所謂無相。如諸流異色異味入於大海則一色一味。 一切は実なりとは、諸法の実性を推求すれば、皆第一義、平等の一相に入りて、謂わゆる無相なり。諸流の色を異にし、味を異にするも、大海に入れば、則ち一色、一味なるが如し。
一切は、
『実である!』とは、――
諸の、
『法』の、
『実の性』を、
『推求すれば!』、
皆、
『第一義』の、
『平等』、
『一相』に、
『入り!』、
謂わゆる、
『相』が、
『無くなる!』。
譬えば、
諸の、
『河川』は、
『色』と、
『味』とが、
『異なる!』が、
『大海』に入れば、
『色』と、
『味』とを、
『一つにする!』のと、
『同じである!』。
一切不實者。諸法未入實相時。各各分別觀皆無有實。但眾緣合故有。 一切は不実なりとは、諸法は、未だ実相に入らざる時、各各を分別して観れば、皆実有ること無く、但だ衆縁の合するが故に有ればなり。
一切は、
『実でない!』とは、――
諸の、
『法』は、
未だ、
『実の!』、
『相』に、
『入らない!』時には、
『各各を!』、
『分別して!』、
『観る!』が、
皆、
『法』には、
『実』が、
『無く!』、
但だ、
『衆縁』の、
『和合』の故にのみ、
『有る!』。
一切實不實者。眾生有三品有上中下。上者觀諸法相非實非不實。中者觀諸法相一切實一切不實。下者智力淺故。觀諸法相少實少不實。觀涅槃無為法不壞故實。觀生死有為法虛偽故不實。 一切は実にして、不実なりとは、衆生には三品有りて、上中下有り。上の者は、諸法の相を実に非ず、不実に非ずと観、中の者は、諸法の相を、一切は実なり、一切は不実なりと観、下の者は智力浅きが故に、諸法の相を実少なし、不実少なしと観、涅槃の無為法を壊せざるが故に実なりと観、生死の有為法を、虚偽なるが故に、不実なりと観る。
一切は、
『実であるか!』、
『実でないかだ!』とは、――
『衆生』には、
『三品』、
『上、中、下』が、
『有り!』、
『上の者』は、――
諸の、
『法の相』は、
『実でもなく!』、
『実でないでもない!』と、
『観る!』。
『中の者』は、
諸の、
『法の相』は、
一切が、
『実である!』と、
『観るか!』、
一切が、
『実でない!』と、
『観る!』。
『下の者』は、
『智』の、
『力』が、
『浅い!』が故に、
諸の、
『法の相』は、
『実』が、
『少し!』と、
『実でない!』ものが、
『少しだ!』と、
『観!』、
『涅槃』は、
『無為法であり!』、
『壊れない!』が故に、
『実だ!』と、
『観!』、
『生死』は、
『有為法であり!』、
『虚偽である!』が故に、
『実でない!』と、
『観る!』。
非實非不實者。為破實不實故。說非實非不實。 実に非ず、不実に非ずとは、実と不実を破らんが為の故に、実に非ず、不実に非ずと説く。
『実でもなく!』、
『不実でもない!』とは、――
『実』と、
『不実』とを、
『破ろう!』と、
『思う!』が故に、
『実でもなく!』、
『不実でもない!』と、
『説くのである!』。
問曰。佛於餘處。說離非有非無。此中何以言非有非無是佛所說。 問うて曰く、仏の、余処に於いて説きたまわく、『有に非ざると、無に非ざるとを離れよ』、と。此の中には、何を以ってか、言わく、『有に非ず、無に非ざるは、是れ仏の所説なり』、と。
問い、
『仏』は、
他の処に、こう説かれている、――
『有でない!』と、
『無でない!』とを、
『離れよ!』、と。
此の中には、
何故、こう言うのか?――
『有でもなく!』、
『無でもない!』とは、
『仏』の、
『所説である!』、と。
答曰。餘處為破四種貪著故說。而此中於四句無戲論。聞佛說則得道。是故言非實非不實。 答えて曰く、余の処は、四種の貪著を破らんが為の故に説きたまえるも、此の中には、四句に於いて戯論無く、仏の説を聞けば、則ち道を得。是の故に言わく、『実に非ず、不実に非ず』、と。
答え、
他の処は、――
『四種(有、無、亦有亦無、非有非無)』の、
『貪著』を、
『破る!』為の故に、
『説かれたのである!』が、
此の中には、――
『四句(有、無、亦有亦無、非有非無)』に、
『戯論』は、
『無く!』、
『仏』の、
『説』を聞けば、
『道』を、
『得られる』ので、
是の故に、
こう言うのである、――
『実でもなく!』、
『実でないでもない!』、と。
問曰。知佛以是四句因緣說。又得諸法實相者以何相可知。又實相云何。 問うて曰く、仏の是の四句の因縁を以って、説きたもうを知る。又、諸法の実相を得たる者は、何なる相を以ってか、知るべき。又実相は云何。
問い、
『仏』が、
是の、
『四句』の、
『因縁』を以って、
『説かれた!』ことは、
『知った!』が、
又、
諸の、
『法』の、
『実相』を、
『得れば!』、
何のような、
『相』を、
『知ることができるのか?』、
又、
何を、
『実相』と、
『言うのか?』。
答曰。若能不隨他。不隨他者。若外道雖現神力說是道是非道。自信其心而不隨之。乃至變身雖不知非佛。善解實相故心不可迴。 答えて曰く、若しは、能く他に随わざらん。他に随わざる者は、若し外道、神力を現して、是れ道なり、是れ非道なりと説くと雖も、自ら其の心を信じて、之に随わず、乃至身を変ずるに、仏に非ざるを知らずと雖も、善く実相を解するが故に、心を迴らすべからず。
答え、
例えば、
『実相』を、
『得れば!』、
『他』には、
『随わないだろう!』、――
『他』に、
『随わない!』者は、
若し、
『外道』が、
『神力』を、
『現して!』、
『是れが道である!』とか、
『是れは道でない!』と、
『説いた!』としても、
自らの、
『心』を、
『信じる!』ので、
是の、
『外道』には、
『随わないだろう!』。
乃至、
『身』を、
『変じて!』、
『仏のような!』、
『身』を、
『現した!』時、
『仏でない!』と、
『知らなかった!』としても、
『善く!』、
『実相』を、
『理解する!』が故に、
『心』を、
『迴らされることはないだろう!』。
此中無法可取可捨故。名寂滅相。寂滅相故。不為戲論所戲論。 此の中には、法の取るべき、捨つるべき無きが故に、寂滅の相と名づく。寂滅の相の故に、戯論の為に戯論されず。
此の中には、
『取ったり!』、
『捨てたりする!』ような、
『法』が、
『無い!』ので、
是れを、
『寂滅の相』と、
『称する!』が、
『寂滅の相である!』が故に、
『実相』は、
『戯論の為に!』、
『戯論されない!』。
戲論有二種。一者愛論。二者見論。是中無此二戲論。二戲論無故。無憶想分別。無別異相。是名實相。 戯論には二種有り、一には愛論、二には見論なり。是の中には、此の二戯論無く、二戯論無きが故に憶想、分別無く、別異の相無し。是れを実相と名づく。
『戯論』には、
『二種』有り、
一には、
『愛』に、
『属する!』、
『戯論であり!』、
二には、
『見』に、
『属する!』、
『戯論である!』。
是の中には、
此の、
『二種』の、
『戯論』が、
『無く!』、
是の故に、
『憶想』も、
『分別』も、
『無く!』、
『相』を、
『別異する!』ことも、
『無い!』ので、
是れを、
『実相』と、
『称する!』。
  参考:『大智度論巻3』:『復次諸結使皆屬愛見。屬愛煩惱覆心。屬見煩惱覆慧。如是愛離故。屬愛結使亦離得心解脫。如是無明離故。屬見結使亦離得慧解脫。』
問曰。若諸法盡空。將不墮斷滅耶。又不生不滅或墮常耶。 問うて曰く、若し諸法にして、尽く空ならば、将(は)た断滅に堕せざらんや。又不生不滅ならば、或いは常に堕せんや。
問い、
若し、
諸の、
『法』が、
『尽く!』、
『空ならば!』、
はたして、
『断滅』に、
『堕ちないだろうか?』。
又、
『法』が、
『不生であり!』、
『不滅でならば!』、
或いは、
『常』に、
『堕ちるのではないか?』。
答曰不然。先說實相無戲論。心相寂滅言語道斷。 答えて曰く、然らず。先に説かく、『実相は無戯論にして、心相寂滅し、言語の道を断ず』、と。
答え、
そうではない!
先には、
こう説いた、――
『実相』には、
『戯論』が、
『無い!』。
是の中は、
『心』中の、
『相()』が、
『寂滅して!』、
『言語』の、
『道』が、
『断たれたからである!』、と。
汝今貪著取相。於實相法中見斷常過。得實相者。說諸法從眾緣生。不即是因亦不異因。是故不斷不常。 汝は、今、貪著して、相を取り、実相の法中に於いて、断常を見て過(あやま)てり。実相を得る者の説かく、『諸法は、衆縁より生ずれば、即ち是れ因にあらず、亦た因に異ならず』、と。是の故に断にあらず、常にあらず。
お前は、
今、
『相』を、
『取る!』ことに、
『貪著し!』、
『実相の法』中にも、
『断、常』を、
『見る!』という、
『過失があった!』が、
『実相を得た!』者は、
こう説くのである、――
諸の、
『法』は、
『衆縁』より、
『生じる!』ので、
是の、
『法』は、
即ち、
『因だということもなく!』、
亦た、
『因』と、
『異なることもない!』、と。
是の故に、
一切の、
『法』は、
『断でもなく!』、
『常でもない!』。
若果異因則是斷。若不異因則是常。 若し、果が、因と異なれば、則ち是れ断なり。若し因と異ならざれば、則ち是れ常なり。
若し、
『果』が、
『因』と、
『異なれば!』、
是れは、
『断である!』。
若し、
『果』が、
『因』と、
『異ならなければ!』、
是れは、
『常である!』。
問曰。若如是解有何等利。 問うて曰く、若し是の如く、解せば、何等の利か有らん。
問い、
若し、
是のように、理解すれば、――
何のような、
『利』が、
『有るのか?』。
答曰。若行道者。能通達如是義。則於一切法。不一不異不斷不常。 答えて曰く、若し道を行ずる者にして、能く是の如き義に通達すれば、則ち一切法に於いて、不一、不異、不断、不常ならん。
答え、
若し、
『道を行う!』者が、
是のような、
『義』に、
『通達すれば!』、
一切の、
『法』を、こう観るだろう、――
『一でもなく!』、
『異でもなく!』、
『断でもなく!』、
『常でもない!』、と。
若能如是。即得滅諸煩惱戲論。得常樂涅槃。是故說諸佛以甘露味教化。 若し能く是の如くんば、即ち諸の煩悩の戯論を滅するを得、常楽の涅槃を得ん。是の故に説かく、『諸仏は、甘露の味を以って、教化したもう』、と。
若し、
是のようにできれば、――
諸の、
『煩悩である!』、
『戯論』を、
『滅することができ!』、
『常楽』の、
『涅槃』を、
『得られる!』。
是の故に、
こう説くのである、――
諸の、
『仏』は、
『甘露の味』を、
『用いて!』、
『教化される!』、と。
如世間言得天甘露漿。則無老病死無諸衰惱。此實相法是真甘露味。 世間に、『天の甘露の漿を得れば、則ち老病死無く、諸の衰悩無し』、と言うが如く、此の実相の法は、是れ真の甘露味なり。
例えば、
『世間』に、こう言うように、――
『天』の、
『甘露水』を、
『得れば!』、
則ち、
『老病死』も、
『無くなり!』、
『諸の衰患』も、
『無くなる!』、と。
此の、
『実相』という、
『法』は、
是れこそ、
『真の!』、
『甘露味なのである!』。
  漿(しょう):比較的濃度の高い液体( any thick fluid )。
佛說實相有三種。若得諸法實相。滅諸煩惱。名為聲聞法。 仏の説きたまわく、『実相には三種有り』、と。若し諸法の実相を得て、諸の煩悩を滅すれば、名づけて声聞法と為す。
『仏』は、
こう説かれた、――
『実相』には、
『三種(声聞、大乗、辟支仏)有る!』、と。
若し、
諸の、
『法』の、
『実相』を、
『得て!』、
諸の、
『煩悩』を、
『滅すれば!』、
是れを、
『声聞法』と、
『称する!』。
若生大悲發無上心。名為大乘。 若し大悲を生じて、無上心を発(おこ)せば、名づけて大乗と為す。
若し、
『大悲』の、
『心』を、
『生じて!』、
『無上菩提』の、
『心』を、
『発(おこ)せば!』、
是れを、
『大乗』と、
『称する!』。
若佛不出世。無有佛法時。辟支佛因遠離生智。若佛度眾生已。入無餘涅槃。遺法滅盡。先世若有應得道者。少觀厭離因緣。獨入山林遠離憒鬧得道。名辟支佛 若し仏出世せず、仏法の有ること無き時、辟支仏は、遠離に因りて、智を生ず。若し、仏、衆生を度し已りて、無余涅槃に入りたまい、遺法滅尽せるに、先世に若し、応に道を得べき者有りて、少しばかり、厭離の因縁を観て、独り山林に入り、憒鬧を遠離して、道を得れば、辟支仏と名づく。
若し、
『仏』が、
『世』に、
『出られず!』、
『仏』の、
『法』の、
『無い!』時に、
『辟支仏』は、
『世間』を、
『遠離する!』ことに、
『因って!』、
『智』を、
『生じる!』。
若し、
『仏』が、
『衆生』を、
『度して!』、
『無余涅槃』に、
『入られ!』、
『遺された!』、
『法』が、
『滅尽しても!』、
若し、
『先世』に、
『道を得る!』、
『因縁』が、
『有れば!』、
『少しばかり!』、
『世間』を、
『厭離する!』、
『因縁』を、
『観て!』、
『独り!』、
『山林』に、
『入り!』、
『騒乱』を、
『遠離して!』、
『道』を、
『得ることができる!』、
是れを、
『辟支仏』と、
『称する!』。
  憒鬧(けにょう):陋巷の騒乱。



中論觀時品第十九(六偈)

問曰。應有時以因待故成。因有過去時。則有未來現在時。因現在時。有過去未來時。因未來時。有過去現在時。上中下一異等法。亦相因待故有。 問うて曰く、応に時有りて、因待を以っての故に成ずべし。過去の時有るに因って、則ち未来、現在の時有り。現在の時に因って、過去、未来の時有り、未来の時に因って、過去、現在の時有り。上中下、一異等の法も亦た、相因待するが故に有り。
問い、
『因』に、
『依存して(待って)!』、
『成立する!』、
『時』が、
『有るはずだ!』、――
『過去』の、
『時』という、
『因』に、
『依存する!』が故に、
則ち、
『未来』と、
『現在』の、
『時』が、
『有り!』、
『現在』の、
『時』という、
『因』に、
『依存する!』が故に、
則ち、
『過去』と、
『未来』の、
『時』が、
『有り!』、
『未来』の、
『時』という、
『因』に、
『依存する!』が故に、
則ち、
『過去』と、
『現在』の、
『時』が、
『有るはずだ!』。
『上、中、下』、
『一、異』等の、
『法』も、
互いに、
『因』に、
『依存する!』が故に、
『有る!』。
  因待(いんたい):依存する( depending on )、梵語 apekSya, apekSitavya の訳、関連して( with regard/ reference to )の義、依存する/前提とする( relying on, supposing )の意。
答曰
 若因過去時  有未來現在 
 未來及現在  應在過去時
答えて曰く、
若し過去の時に因りて、未来と現在と有らば、
未来及び現在は、応に過去の時に在るべし。
答え、
若し、
『過去』の、
『時』という、
『因』に、
『依存する!』が故に、
『未来、現在』の、
『時』が、
『有れば!』、
『未来、現在』は、
『過去』の、
『時』にも、
『存在するはずだ!』。
参考
pratyutpanno ’nāgataś ca yady atītam apekṣya hi |
pratyutpanno ’nāgataś ca kāle ’tīte bhaviṣyataḥ ||1||
If the present and the future were contingent on the past,
then the present and the future would have existed in the past.

参考
If the present and the future
Had reliance upon the past
The present and the future
Would have existed in the past.

参考
もしも現在と未來とが,過去に依存しているならば,現在と未來とは,過去の時のなかに存在することになるであろう。
若因過去時。有未來現在時者。則過去時中。應有未來現在時。 若し過去の時に因りて、未来と現在との時有らば、則ち過去の時中に、応に未来と現在との時有るべし。
若し、
『過去』の、
『時』という、
『因』に、
『依存する!』が故に、
『未来』とか、
『現在』という、
『時』が、
『有れば!』、
則ち、
『過去』の、
『時』中に、
『未来』とか、
『現在』という、
『時』が、
『有るはずだ!』。
何以故。隨所因處有法成。是處應有是法。 何を以っての故に、因る所の処に随うて、有る法成ぜば、是の処には、応に、是の法有るべし。
何故ならば、
『因となる!』、
『処』に随って、
有る、
『法』が、
『成立すれば!』、
是の、
『処』には、
是の、
『法』が、
『有るはずだ!』。
如因燈有明成。隨有燈處應有明。如是因過去時。成未來現在時者。則過去時中。應有未來現在時。 灯に因って、有る明成ずるが如し。灯有る処に随いて、応に明有るべく、是の如く、過去時に因って、未来、現在の時成ずれば、則ち過去時中に、応に未来、現在の時有るべし。
例えば、
『灯』という、
『因』を、
『待つ!』が故に、
有る、
『明』が、
『成立し!』、
『灯』の、
『有る!』、
『処』に、
『随って!』、
『明』も、
『有るはずだが!』、
是のように、
『過去』の、
『時』という、
『因』を、
『待つ!』が故に、
『未来』や、
『現在』の、
『時』も、
『成立すれば!』、
則ち、
『過去』の、
『時』中には、
『未来』と、
『現在』の、
『時』も、
『有るはずだ!』。
若過去時中。有未來現在時者。則三時盡名過去時。 若し過去の時中に、未来と現在の時有らば、則ち三時は尽く、過去の時と名づけん。
若し、
『過去』の、
『時』中に、
『現在』と、
『未来』の、
『時』が、
『有れば!』、
則ち、
『三種』の、
『時』は、
皆、
『過去の時』と、
『呼ばれるだろう!』。
何以故。未來現在時。在過去時中故。若一切時盡過去者。則無未來現在時。盡過去故。 何を以っての故に、未来と現在の時は、過去の時中に在るが故なり。若し一切の時が、尽く過去ならば、則ち未来と現在の時無けん。尽く過去の故なり。
何故ならば、
『未来』と、
『現在』の、
『時』が、
『過去』の、
『時』中に、
『存在するからである!』。
若し、
『一切』の、
『時』が、
皆、
『過去』の、
『時ならば!』、
則ち、
『未来』と、
『現在』の、
『時』は、
『無いだろう!』。
何故ならば、
皆が、
『過去だからである!』。
若無未來現在時。亦應無過去時。何以故。過去時因未來現在時故。名過去時。 若し未来と現在の時無ければ、亦た応に過去の時無かるべし。何を以っての故に、過去の時は、未来と現在の時に因るが故に、過去の時と名づくればなり。
若し、
『未来』と、
『現在』の、
『時』が、
『無ければ!』、
亦た、
『過去』の、
『時』も、
『無いはずだ!』。
何故ならば、
『過去』の、
『時』は、
『未来』と、
『現在』の、
『時』という、
『因』を、
『待つ!』が故に、
『過去』の、
『時』と、
『称するからである!』。
如因過去時成未來現在時。如是亦應因未來現在時成過去時。 過去の時に因って、未来、現在の時成ずるが如く、是の如く亦た応に、未来と現在の時に因って、過去の時も成ずべし。
例えば、
『過去』の、
『時』という、
『因』を、
『待って!』、
『未来、現在』の、
『時』が、
『成立するように!』、
是のように、
亦た、
『未来、現在』の、
『時』という、
『因』を、
『待って!』、
『過去』の、
『時』も、
『成立するはずである!』。
今無未來現在時故。過去時亦應無。是故先說。因過去時成未來現在時。是事不然。 今、未来と現在の時無きが故に、過去の時も亦た応に無かるべし。是の故に、先に説かく、『過去の時に因りて、未来、現在の時成ぜば、是の事は然らず』、と。
今、
『未来、現在』の、
『時』が、
『無い!』が故に、
『過去』の、
『時』も、
『無いはずである!』。
是の故に、
先に、こう説いた、――
『過去』の、
『時』という、
『因』を、
『待って!』、
『未来、現在』の、
『時』が、
『成立すれば!』、
是のような、
『事』は、
『間違っている!』、と。
若謂過去時中無未來現在時。而因過去時成未來現在時。是事不然。 若し、過去の時中に、未来と現在の時無く、而も過去の時に因って、未来と現在の時を成ずと謂わば、是の事は然らず。
若し、
こう謂うとすれば、――
『過去』の、
『時』中に、
『未来、現在』の、
『時』は、
『無い!』が、
『過去』の、
『時』という、
『因』を、
『待って!』、
『未来、現在』との、
『時』は、
『成立する!』、と。
是のような、
『事』は、
『間違っている!』。
何以故
 若過去時中  無未來現在 
 未來現在時  云何因過去
何を以っての故に、
若し過去の時中に、未来と現在無くんば、
未来と現在の時は、云何が過去に因らん。
何故ならば、
若し、
『過去』の、
『時』中に、
『未来、現在』の、
『時』が、
『無ければ!』、
何故、
『未来、現在』の、
『時』は、
『過去』の、
『時』という、
『因』を、
『待たねばならないのか?』。
参考
pratyutpanno ’nāgataś ca na stas tatra punar yadi |
pratyutpanno ’nāgataś ca syātāṃ katham apekṣya tam ||2||
If the present and future did not exist there,
then how could the present and the future be contingent on it?

参考
If the present and the future
Did not exist there
How could the present and the future
Have reliance upon that?

参考
もしもまた現在と未來とが,それ(過去)のなかに存在しないならば,現在と未來とは, どうして,それ(過去)に依存して存在するのであろうか。
若未來現在時。不在過去時中者。云何因過去時。成未來現在時。 若し未来と現在の時が、過去の時中に在らずんば、云何が過去の時に因りて、未来と現在の時を成ぜん。
若し、
『未来、過去』の、
『時』が、
『過去』の、
『時』中に、
『存在しなければ!』、
何のようにして、
『過去』の、
『時』という、
『因』を、
『待って!』、
『未来、現在』の、
『時』が、
『成立するのか?』。
何以故。若三時各異相。不應相因待成。 何を以っての故に、若し三時に、各相を異にすれば、応に相因待して成ずべからざればなり。
何故ならば、
若し、
『三種』の、
『時』の、
各が、
『相』を、
『異にすれば!』、
互いに、
『因』を、
『待つはずがないからである!』。
如瓶衣等物各自別成不相因待。而今不因過去時。則未來現在時不成。不因現在時。則過去未來時不成。不因未來時。則過去現在時不成。 瓶、衣等の物が、各自ら別に成じて、相因待せざるが如きに、而るに今は、過去の時に因らざれば、則ち未来と現在の時成ぜず。現在の時に因らざれば、則ち過去と未来の時成ぜず。未来の時に因らざれば、則ち過去と現在の時成ぜず。
例えば、
『瓶、衣』等の、
『物』は、
各、
自ら、
『別に!』、
『成立して!』、
互いに、
『因』を、
『待つことはない!』のに、
今、
『過去』の、
『時』という、
『因』を、
『待たなければ!』、
『未来、現在』の、
『時』は、
『成立しない!』し、
『現在』の、
『時』という、
『因』を、
『待たなければ!』、
『過去、未来』の、
『時』は、
『成立せず!』、
『未来』の、
『時』という、
『因』を、
『待たなければ!』、
『過去、現在』の、
『時』は、
『成立しない!』。
汝先說過去時中。雖無未來現在時。而因過去時。成未來現在時者。是事不然。 汝が先に説かく、『過去の時中には、未来、現在の時無しと雖も、過去の時に因りて、未来と現在の時を成ず』とは、是の事然らず。
お前は、
先に、こう説いたが、――
『未来、現在』の、
『時』が、
『無くても!』、
『過去』の、
『時』という、
『因』を、
『待って!』、
『未来、現在』の、
『時』が、
『成立する!』、と。
是の、
『事』は、
『間違っているのだ!』。
問曰。若不因過去時。成未來現在時。而有何咎。 問うて曰く、若し過去の時に因らずに、未来、現在の時を成ぜば、何なる咎か有らん。
問い、
若し、
『過去』の、
『時』という、
『因』を、
『待たずに!』、
『未来、現在』の、
『時』が、
『成立すれば!』、
何のような、
『咎』が、
『有るのか?』。
答曰
 不因過去時  則無未來時 
 亦無現在時  是故無二時
答えて曰く、
過去の時に因らざれば、則ち未来の時無く、
亦た現在の時も無し、是の故に二時無し。
答え、
『過去』の、
『時』という、
『因』を、
『待たなければ!』、
『未来』の、
『時』は、
『無く!』、
亦た、
『現在』の、
『時』も、
『無い!』、
是の故に、
『二種』の、
『時』が、
『無いことになる!』。
参考
anapekṣya punaḥ siddhir nātītaṃ vidyate tayoḥ |
pratyutpanno ’nāgataś ca tasmāt kālo na vidyate ||3||
Without being contingent on the past neither can be established.
Hence the present and the future times also do not exist.

参考
Without reliance upon the past
Those two cannot be established.
Thus, present and future times
Also do not exist.

参考
さらに,過去に依存していないならば,それら両者(現在と未來と)が成立することは,存在しない。それゆえ,現在と未來との時もまた,存在しない。
不因過去時。則不成未來現在時。 過去の時に因らざれば、則ち未来、現在の時を成ぜず。
『過去』の、
『時』という、
『因』を、
『待たなければ!』、
『未来、現在』の、
『時』は、
『成立しない!』。
何以故。若不因過去時。有現在時者。於何處有現在時。未來亦如是。於何處有未來時。 何を以っての故に、若し過去の時に因らずして、現在の時有らば、何処に於いてか、現在の時有らん。未来も、亦た是の如く、何処に於いてか、未来の時有らん。
何故ならば、
若し、
『過去』の、
『時』という、
『因』を、
『待たずに!』、
『現在』の、
『時』が、
『有れば!』、
『現在』の、
『時』は、
『何処に!』、
『有ったのか?』。
『未来』の、
『時』も、
『同じである!』、
『未来』の、
『時』は、
『何処に!』、
『有ったのか?』。
是故不因過去時。則無未來現在時。 是の故に、過去の時に因らざれば、則ち未来、現在の時無し。
是の故に、
『過去』の、
『時』という、
『因』を、
『待たなければ!』、
『未来、現在』の、
『時』は、
『無い!』。
如是相待有故。實無有時
 以如是義故  則知餘二時 
 上中下一異  是等法皆無
是の如く、相待して有るが故に、実に時の有ること無し、
是の如き義を以っての故に、則ち余の二時を知り、
上中下、一異、是れ等の法も皆無し。
是のように、
『互いに!』、
『因』を、
『待って!』、
『存在する!』が故に、
『時』は、
『実に!』、
『存在しない!』、――
是のような、
『義』を、
『考慮する!』が故に、
他の、
『二時』も、
『無い!』と、
『知る!』。
亦た、
『上、中、下』や、
『一、異』等、
是れ等の、
『法』も、
皆、
『無い!』ことを、
『知る!』。
  相待(そうたい):相互依存( interdependence )、梵語 anyonyaapekSaa, anyonyaapekSa の訳、相互依存( mutual dependence on )の義、例えば、頭と尾は、互いにそれ等の関係の中に於いて成立する( For example, heads and tails are established in their relation to each other )し、三角形は三本の線に依存し、目は、物体に依存して色と形を獲得し、長は短に依存するが如し( the triangle depends on its three lines, the eye on things having color and form, long on short )。
参考
etenaivāvaśiṣṭau dvau krameṇa parivartakau |
uttamādhamamadhyādīn ekatvādīṃś ca lakṣayet ||4||
These very stages can be applied to the other two.
Superior, inferior, middling etc.,
singularity and so on can also be understood [thus].

参考
By these very same steps
Also the other two rearranged,
Supreme, inferior, middling and so forth
And one and so forth can be understood.

参考
これによって順次,殘りの二つを交替しながら,また上と下と中など,また一つ〔二つ, 三つ〕であること(数)などを,観察すべきである。
以如是義故。當知餘未來現在亦應無。及上中下一異等諸法亦應皆無。 是の如き義を以っての故に、当に知るべし、余の未来と現在も亦た応に無かるべし。及び上中下、一異等の諸法も亦た、応に皆無かるべし。
是れ等の、
『義』を、
『考慮する!』が故に、
当然、
こう知らなければならない、――
他の、
『未来、現在』も、
亦た、
『無いはずであり!』、
及び、
『上、中、下』や、
『一、異』等の、
諸の、
『法』も、
亦た、
皆、
『無いはずだ!』。
如因上有中下。離上則無中下。若離上有中下。則不應相因待。 上に因りて、中、下有るが如きは、上を離るれば、則ち中、下無し。若し上を離れて、中、下有らば、則ち応に相因待すべからず。
例えば、
『上』という、
『因』を、
『待って!』、
『中、下』が、
『有れば!』、
『上』を、
『離れて!』、
『中、下』は、
『無いことになる!』。
若し、
『上』を、
『離れて!』、
『中、下』が、
『有れば!』、
互いに、
『因』を、
『待つはずがないからだ!』。
因一故有異。因異故有一。若一實有不應因異而有。若異實有。不應因一而有。如是等諸法。亦應如是破。 一に因るが故に異有り、異に因るが故に一有り。若し一にして、実に有らば、応に異に因りて有るべからず。若し異にして、実に有らば、応に一に因りて、有るべからず。是の如き等の諸法は、亦た応に是の如く破すべし。
『一』という、
『因』を、
『待つ!』が故に、
『異』が、
『有り!』、
『異』という、
『因』を、
『待つ!』が故に、
『一』が、
『有る!』が、――
若し、
『一』が、
『実』に、
『有れば!』、
『異』という、
『因』を、
『待って!』、
『有るはずがない!』、
若し、
『異』が、
『実』に、
『有れば!』、
『一』という、
『因』を、
『待って!』、
『有るはずがない!』。
是れ等のような、
諸の、
『法』は、
亦た、
『是のようにして!』、
『破られるはずだ!』。
問曰。如有歲月日須臾等差別故知有時。 問うて曰く、歳、月、日、須臾等の差別有るが如く、故に知るらく、『時は有り』、と。
問い、
例えば、
『歳、月、日、須臾(暫時)』等の、
『差別』が、
『有る!』が故に、
『時』が、
『有る!』と、
『知るのだ!』。
答曰
 時住不可得  時去亦叵得 
 時若不可得  云何說時相 
 因物故有時  離物何有時 
 物尚無所有  何況當有時
答えて曰く、
時の住まること得べからず、時の去るも亦た得がたし、
時若し得べからざれば、云何が時の相を説かん。
物に因るが故に時有らば、物を離れて何んぞ時有らん、
物にして尚お所有無し、何に況んや当に時有るべけん。
答え、
『時』は、
『住まる!』のも、
『認識しがたい!』し、
『時』は、
『去る!』のも、
『認識しがたい!』。
『時』が、
若し、
『認識できなければ!』、
何のようにして、
『時』の、
『相』を、
『説こうとするのか?』。
『物』という、
『因』を、
『待つ!』が故に、
『時』が、
『有れば!』、
『物』を、
『離れて!』、
何処に、
『時』が、
『有るのか?』、
『物』すら、
尚お、
『所有(実体)』が、
『無い!』のに、
況して、
何故、
『時』が、
『有ることになるのか?』。
参考
nāsthito gṛhyate kālaḥ sthitaḥ kālo na vidyate |
yo gṛhyetāgṛhītaś ca kālaḥ prajñapyate katham ||5||
Non-dwelling time cannot be apprehended.
Since time which can be apprehended,
does not exist as something which dwells,
how can one talk of unapprehendable time?

bhāvaṃ pratītya kālaś cet kālo bhāvād ṛte kutaḥ |
na ca kaś cana bhāvo ’sti kutaḥ kālo bhaviṣyati ||6||
If time depended on things,
where would time which is a non-thing exist?
If there were no things at all,
where would a view of time exist?

参考
Because it does not abide, time cannot be apprehended
And time that can be apprehended
Does not abide.
How could time that is unapprehendable be designated?

If time depended upon things
Then for non-things how could time exist?
If not a single thing exists
How could such time exist?

参考
まだ住していない時は,把捉(認識)されない。およそ,すでに住している時は,把捉され得るはずであろうが,しかし存在しない。まだ把捉されない時が,どのようにして, 想定されるであろうか。

もしも「存在(もの・こと)」に縁って,時〔は存在する〕とするならば,その「存在(もの・こと)」を離れては,時は,どうして〔存在するであろう〕か。しかるに,いか なる「存在(もの・こと)」も,存在してはいない。どうして,時は存在するであろう か。
時若不住不應可得。時住亦無。若時不可得。云何說時相。若無時相則無時。 時、若し住まらざれば、応に得べからず。時は、住まるも亦た無し。若し時にして得べからざれば、云何が時の相を説く。若し時の相無ければ、則ち時無し。
『時』が、
若し、
『住まらなければ!』、
『認識できるはずがない!』。
『時』が、
若し、
『住まっても!』、
『存在しない!』。
若し、
『時』が、
『認識できなければ!』、
何故、
『時の相』を、
『説こうとするのか?』。
若し、
『時』に、
『相』が、
『無ければ!』、
則ち、
『時』も、
『無いことになる!』。
因物生故則名時。若離物則無時。上來種種因緣破諸物。物無故何有時 物に因りて生ずるが故に、則ち時と名づく。若し物を離るれば、則ち時無し。上来の種種の因縁は、諸の物を破る、物無きが故に何んが時有らん。
『物』という、
『因』を、
『待って!』、
『生じる!』が故に、
『時』と、
『呼ぶ!』が、
若し、
『物』を、
『離れれば!』、
『時』は、
『無いことになる!』。
上に、
種種の、
『因縁』で、
『諸の物』を、
『破った!』。
若し、
『物』が、
『無ければ!』、
何故、
『時』が、
『有るのか?』。



中論觀因果品第二十(二十四偈)

問曰。眾因緣和合現有果生故。當知是果從眾緣和合有。 問うて曰く、衆因縁の和合は、現に果の生ずること有るが故に、当に知るべし、果は、衆縁の和合従り有り、と。
問い、
『衆因縁の和合』は、
有る、
『果』の、
『生じる!』ことに、
『現れる!』。
故に、
こう知るべきだ、――
是の、
『果』は、
『衆縁の和合』により、
『有る!』、と。
答曰
 若眾緣和合  而有果生者 
 和合中已有  何須和合生
答えて曰く、
若し衆縁和合して、果の生ずる有れば、
和合中に已に有り、何んぞ和合を須(も)って生ぜん。
答え、
若し、
『衆縁』が、
『和合して!』、
有る、
『果』が、
『生じれば!』、
已に、
『果』は、
『和合』中に、
『有るはずだ!』、
何故、
『和合』を、
『用いて!』、
『生じるのか?』。
参考
hetoś ca pratyayānāṃ ca sāmagryā jāyate yadi |
phalam asti ca sāmagryāṃ sāmagryā jāyate katham ||1||
If a fruit is born from the combination of cause and conditions
and exists in the combination,
how can it be born from the combination itself?

参考
If a result could be produced
From a collection of causes and conditions
And it existed in that collection
How could it be produced from that collection?

参考
もしも原因ともろもろの縁(条件)との集合(和合)によって,〔結果が〕生ぜられ,しかも結果は,〔すでに〕集合において存在しているならば,〔結果は〕,どのようにして, 集合によって生ぜられるのであろうか。
若謂眾因緣和合有果生。是果則和合中已有。而從和合生者。是事不然。 若し、衆因縁の和合に果の生ずる有りと謂わば、是の果は、則ち和合中に已に有り。而れば和合より生ずとは、是の事然らず。
若し、
こう謂うならば、――
『衆因縁』の、
『和合』に、
有る、
『果』が、
『生じる!』、と。
是の、
『果』は、
已に、
『和合』中に、
『有るはずだ!』。
而し、
『和合』より、
『生じれば!』、
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
何以故。果若先有定體。則不應從和合生。 何を以っての故に、果は、若し先に定まれる体有らば、則ち応に、和合より生ずべからず。
何故ならば、
『果』は、
若し、
先に、
『定体』が、
『有れば!』、
則ち、
『和合』より、
『生じるはずがない!』。
問曰。眾緣和合中雖無果。而果從眾緣生者。有何咎。 問うて曰く、衆縁の和合中に、果無しと雖も、果は衆縁より生ぜば、何なる咎か有る。
問い、
『衆縁』の、
『和合』中に、
『果』は、
『無く!』、
『衆縁』より、
『果』が、
『生じれば!』、
何のような、
『咎』が、
『有るのか?』。
答曰
 若眾緣和合  是中無果者 
 云何從眾緣  和合而果生
答えて曰く、
若し衆縁の和合して、是の中に果無くんば、
何んが衆縁の、和合より果生ずる。
答え、
若し、
『衆縁』が、
『和合して!』、
是の中に、
『果』が、
『無ければ!』、
何故、
『衆縁の和合』より、
『果』が、
『生じるのか?』。
参考
hetoś ca pratyayānāṃ ca sāmagryā jāyate yadi |
phalaṃ nāsti ca sāmagryāṃ sāmagryā jāyate katham ||2||
If a fruit is born from the combination of cause and conditions
and does not exist in the combination,
how can it be born from the combination itself?

参考
If a result could be produced
From a collection of causes and conditions
But it did not exist in that collection
How could it be produced from that collection?

参考
もしも原因ともろもろの縁との集合によって,〔結果が〕生ぜられ,しかも,結果は,集合においては存在していないならば,〔結果は〕,どのようにして,集合によって生ぜられるのであろうか。
若從眾緣和合則果生者。是和合中無果。而從和合生。是事不然。 若し衆縁和合するにより、則ち果生ぜば、是の和合中に、果無きに、而も和合より生ず、是の事は然らず。
若し、
『衆縁』が、
『和合して!』、
『果』が、
『生じれば!』、
是の、
『和合』中に、
『果』が、
『無い!』のに、
『和合』より、
『果』が、
『生じたことになる!』が、
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
何以故。若物無自性。是物終不生 何を以っての故に、若し物に自性無くんば、是の物は終に生ぜず。
何故ならば、
若し、
『物』に、
『自性』が、
『無ければ!』、
是の、
『物』は、
『終(つい)に!』、
『生じないからだ!』。
復次
 若眾緣和合  是中有果者 
 和合中應有  而實不可得
復た次ぎに、
若し衆縁和合して、是の中に果有らば、
和合中に応に有るべし、而るに実に得べからず。
復た次ぎに、
若し、
『衆縁』が、
『和合して!』、
是の中に、
『果』が、
『有れば!』、
当然、
『和合』中に、
『有るはずだ!』が、
而し、
『実に!』、
『認識できない!』。
参考
hetoś ca pratyayānāṃ ca sāmagryām asti cet phalam |
gṛhyeta nanu sāmagryāṃ sāmagryāṃ ca na gṛhyate ||3||
If the fruit exists in the combination of cause and conditions,
it would be correct for it to be apprehendable in the combination
but it is not apprehendable in the combination.

参考
If the result existed
In the collection of causes and conditions
It should be apprehendable in that collection
Yet it is not apprehendable in that collection.

参考
もしも原因ともろもろの縁との集合によって,結果が存在するのであるならば,〔結果は〕,集合において把握(認識)されるべきではないか。しかるに〔実際には,結果は〕, 集合において把握されない。
若從眾緣和合中有果者。若色應可眼見。若非色應可意知。而實和合中果不可得。是故和合中有果。是事不然。 若し、衆縁の和合中より、果有らば、若し色なれば、応に眼に見らるべし。若し色に非ざれば、応に意に知らるべし。而るに実に和合中に果は得べからず。是の故に和合中に果有りとは、是の事は然らず。
若し、
『衆縁』の、
『和合』中に、
『果』が、
『有り!』、
若し、
『色ならば!』、
『眼』に、
『見られるはずだ!』し、
若し、
『色でなければ!』、
『意』に、
『知られるはずだ!』が、
而し、
『実に!』、
『和合』中に、
『果』を、
『認識することはできない!』。
是の故に、
『和合』中に、
『果』が、
『有れば!』、
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
復次
 若眾緣和合  是中無果者 
 是則眾因緣  與非因緣同
復た次ぎに、
若し衆縁和合して、是の中に果無くんば、
是れ則ち衆因縁は、因縁に非ざると同じ。
復た次ぎに、
若し、
『衆縁』が、
『和合して!』、
是の中に、
『果』が、
『無ければ!』、
是れは、
『衆因縁』と、
『非因縁』とが、
『同じだということになる!』。
参考
hetoś ca pratyayānāṃ ca sāmagryāṃ nāsti cet phalam |
hetavaḥ pratyayāś ca syur ahetupratyayaiḥ samāḥ ||4||
If the fruit does not exist in the combination of cause and conditions,
the causes and conditions would be comparable to non-causes and conditions.

参考
If the result did not exist
In the collection of causes and conditions
Causes and conditions would also
Be similar to non-causes and non-conditions.

参考
もしも原因ともろもろの縁との集合によって,結果が存在するのではないならば,もろもろの原因ともろもろの縁とは,もろもろの非因非縁と等しいものとなってしまうであろう。
若眾緣和合中無果者。則眾因緣即同非因緣。 若し衆縁の和合中に果無くんば、則ち衆因縁は、則ち因縁に非ざると同じ。
若し、
『衆縁』の、
『和合』中に、
『果』が、
『無ければ!』、
則ち、
『衆因縁』は、
『非因縁』と、
『同じだということになる!』。
如乳是酪因緣。若乳中無酪。水中亦無酪。若乳中無酪則與水同。不應言但從乳出。是故眾緣和合中無果者。是事不然。 乳は、是れ酪の因縁なるも、若しは乳中にも酪無く、水中にも亦た酪無きが如し。若し乳中に酪無ければ、則ち水と同じなり。応に、但だ乳より出づと言うべからず。是の故に、衆縁和合中に果無しとは、是の事は然らず。
例えば、
『乳』は、
『酪』の、
『因縁である!』が、
若し、
『乳』中に、
『酪』が、
『無ければ!』、
『乳』は、
『水』と、
『同じであり!』、
当然、こう言うべきではない、――
但だ、
『乳から!』、
『出る!』、と。
是の故に、
『衆縁』の、
『和合』中に、
『果』が、
『無ければ!』、
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
問曰。因為果作因已滅。而有因果。無如是咎。 問うて曰く、因は、果の為に、因と作り已りて滅し、而も因と果と有れば、是の如き咎無し。
問い、
『因』は、
『果』の為に、
『因』と、
『作ってから!』、
『滅する!』ので、
『因』と、
『果』とが、
『有っても!』、
是のような、
『咎』は、
『無い!』。
答曰
 若因與果因  作因已而滅 
 是因有二體  一與一則滅
答えて曰く、
若し因が果に因を与え、因と作り已りて滅すれば、
是の因には二体有り、一は与え一は則ち滅す。
答え、
若し、
『因』が、
『果』に、
『因』を、
『与え!』、
『因』と、
『作ってから!』、
『滅すれば!』、
是の、
『因』には、
『二種』の、
『体』が、
『有り!』、
一は、
『与えられた!』、
『因であり!』、
一は、
『滅した!』、
『因である!』。
参考
hetuṃ phalasya dattvā ca yadi hetur nirudhyate |
yad dattaṃ yan nirudhaṃ ca hetor ātmadvayaṃ bhavet ||5||
If the cause stops once it has given the cause to the fruit,
there would be a double nature of the cause:
one that gives and one that stops.

参考
If the cause were to cease
Through the cause contributing to the result
The cause would have two natures –
One that contributed and one that ceased.

参考
もしも原因が,原因となるものを結果にあたえてのちに,滅するのであるならば,あたえられたものと,滅しおわったものという,二つの原因の自体が存在する,ということになるであろう。
若因與果作因已而滅者是因則有二體。一謂與因。二謂滅因。是事不然。一法有二體故。是故因與果作因已而滅。是事不然。 若し、因は、果に与え、因と作り已りて滅すれば、是の因には、則ち二体有り、一には、与うる因を謂い、二には滅する因を謂う。是の事は然らず。一法に二体有るが故なり。是の故に因は果を与え、因と作り已りて、滅すれば、是の事は然らず。
若し、
『因』が、
『果』に、
『因』を、
『与えて!』、
『因』と、
『作ってから!』、
『滅すれば!』、
則ち、
『二種』の、
『体』が、
『有ることになる!』、
謂わゆる、
一には、
『与える!』、
『因であり!』、
二には、
『滅する!』、
『因である!』が、
是の、
『事』は、
『間違っている!』、
何故ならば、
『一種』の、
『法』に、
『二種』の、
『体』が、
『有るからだ!』。
是の故に、
『因』が、
『果』に、
『因』を、
『与えて!』、
『因』と、
『作ってから!』、
『滅すれば!』、
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
問曰。若謂因不與果作因已而滅。亦有果生。有何咎。 問うて曰く、若し、『因は、果に与えずして、因と作り已りて滅し、亦た果の生ずる有り』、と謂わば、何なる咎か有らん。
問い、
若し、
『因』は、
『果』に、
『因』を、
『与えずに!』、
『因』と、
『作ってから!』、
『滅して!』、
亦た、
有る、
『果』が、
『生じれば!』、
何のような、
『咎』が、
『有るのか?』。
答曰
 若因不與果  作因已而滅 
 因滅而果生  是果則無因
答えて曰く、
若し因は果に与えずして、因と作り已りて滅し、
因滅して果生ずれば、是の果は則ち無因なり。
答え、
若し、
『因』が、
『果』に、
『因』を、
『与えずに!』、
『因』と、
『作ってから!』、
『滅して!』、
『因』が、
『滅してから!』、
『果』が、
『生じれば!』、
是の、
『果』には、
『因』が、
『無いことになる!』。
参考
hetuṃ phalasyādattvā ca yadi hetur nirudhyate |
hetau niruddhe jātaṃ tat phalam āhetukaṃ bhavet ||6||
If the cause stops without having given the cause to the fruit,
those fruits which are born after the cause has stopped would be uncaused.

参考
If the cause were to cease
With the cause not contributing to the result
Since the cause has ceased
Those results produced would be without a cause.

参考
もしも原因が,原因〔となるもの〕を結果にあたえずに,滅するのであるならば,原因がすでに滅しているときに生じたその結果は,原因の無いものである,ということになるであろう。
若是因不與果。作因已而滅者。則因滅已而果生。是果則無因。是事不然。 若し、是の因にして、果に与えず、因と作り已りて滅すれば、則ち因滅し已りて、果生ずれば、是の果は、則ち無因なり。是の事は然らず。
若し、
是の、
『因』が、
『果』に、
『因』を、
『与えずに!』、
『因』と、
『作って!』、
『滅すれば!』、
則ち、
『因』が、
『滅して!』から、
『果』が、
『生じることになり!』、
是の、
『果』には、
『因』が、
『無い!』ので、
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
何以故。現見一切果。無有無因生者。是故汝說因不與果作因已而滅亦有果生者。是事不然。 何を以っての故に、現に見る一切の果は、無因にして生ずる者有ること無ければなり。是の故に汝が説かく、『因は、果に与えず、因と作り已りて滅し、亦た果の生ずる有り』とは、是の事は然らず。
何故ならば、
一切の、
『果』を
『現に!』、
『見れば!』、
『無因でありながら!』、
『生じた!』者は、
『無いからである!』。
是の故に、
お前が、説くように、――
『因』は、
『果』に、
『因』を、
『与えずに!』、、
『因』と、
『作ってから!』、
『滅して!』、
亦た、
有る、
『果』が、
『生じれば!』、
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
問曰。眾緣合時而有果生者。有何咎。 問うて曰く、衆縁の合する時、果の生ずる有らば、何なる咎か有らん。
問い、
『衆縁』の、
『和合する!』時、
有る、
『果』が、
『生じれば!』、
何のような、
『咎』が、
『有るのか?』。
答曰
 若眾緣合時  而有果生者 
 生者及可生  則為一時俱
答えて曰く、
若し衆縁合する時、果の生ずる有らば、
生者及び可生は、則ち一時に倶と為す。
答え、
若し、
『衆縁』の、
『和合する!』時、
有る、
『果』が、
『生じる!』ならば、
則ち、
『生じさせた!』者と、
『生じさせられた!』者とが、
『一時に!』、
『いっしょだったことになる!』。
参考
phalaṃ sahaiva sāmagryā yadi prādurbhavet punaḥ |
ekakālau prasajyete janako yaś ca janyate ||7||
If the fruit were also born at the same time as the combination,
it would follow that the producer and the produced would be simultaneous.

参考
Also if the result were produced
Together with the collection
It would follow that the producer and that which is produced
Would occur at the same time.

参考
さらに,もしも結果が集合と同時に現われ出るのであるならば,生ずるものと生ぜられるものとが同一時においてある,という誤りが付随するであろう。
若眾緣合時有果生者。則生者可生即一時俱。但是事不爾 若し衆縁合する時、果の生ずる有らば、則ち生者と可生とは即ち一時に倶なり。但だ是の事は爾らず。
若し、
『衆縁』の、
『和合する!』時、
有る、
『果』が、
『生じれば!』、
則ち、
『生じさせた!』者と、
『生じさせられた!』者とが、
『一時に!』、
『いっしょだったことになる!』が、
但だ、
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
何以故。如父子不得一時生。是故汝說眾緣合時有果生者。是事不然。 何を以っての故に、父と子の一時に生ずるを得ざるが如し。是の故に汝が説かく、『衆縁合する時、果の生ずる有り』、とは、是の事は然らず。
何故ならば、
例えば、
『父』と、
『子』は、
『一時に!』、
『生じないからである!』。
是の故に、
お前は、こう説くが、――
『衆縁』の、
『和合する!』時、
有る、
『果』が、
『生じる!』、と。
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
問曰。若先有果生。而後眾緣合。有何咎。 問うて曰く、若し先に果の生ずる有りて、而る後に衆縁合すれば、何なる咎か有らん。
問い、
若し、
有る、
『果』が、
『先に!』、
『生じて!』、
『衆縁』が、
『後に!』、
『和合すれば!』、
何のような、
『咎』が、
『有るのか?』。
答曰
 若先有果生  而後眾緣合 
 此即離因緣  名為無因果
答えて曰く、
若し先に果の生ずる有り、而る後に衆縁合すれば、
此れ即ち因縁を離るれば、名づけて無因の果と為す。
答え、
若し、
有る、
『果』が、
『先に!』、
『生じて!』、
『衆縁』が、
『後に!』、
『合すれば!』、
此の、
『果』は、
『因縁』を、
『離れたということだ!』、
是れを、
『無因の果』と、
『称する!』。
参考
pūrvam eva ca sāmagryāḥ phalaṃ prādurbhaved yadi |
hetupratyayanirmuktaṃ phalam āhetukaṃ bhavet ||8||
If the fruit were born prior to the combination,
there would occur an uncaused fruit which has no cause and conditions.

参考
If the result were produced
Prior to the collection
A result without causes and conditions
Would arise without a cause.

参考
また,もしも結果が集合に先行して現われ出るのであるならば,その結果は,原因と缘とを離れた原因の無いものである,ということになるであろう。
若眾緣未合。而先有果生者。是事不然。果離因緣故。則名無因果。 若し衆縁、未だ合せざるに、先に果の生ずる有らば、是の事は然らず。果の、因縁を離るるが故に、則ち無因の果と名づけん。
若し、
『衆縁』が、
『和合していない!』のに、
有る、
『果』が、
『先に!』、
『生じれば!』、
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
何故ならば、
『果』が、
『因縁』を、
『離れた!』が故に、
則ち、
『無因の果』と、
『呼ばれるからだ!』。
是故汝說眾緣未合時先有果生者。是事則不然。 是の故に汝が説かく、『衆縁未だ合せざる時、先に果の生ずる有り』とは、是の事は、則ち然らず。
是の故に、
お前は、こう説いたが、――
『衆縁』の、
『和合していない!』時、
有る、
『果』が、
『先に!』、
『生じる!』、と。
是の、
『事』は、
『間違っていることになる!』。
問曰。因滅變為果者。有何咎。 問うて曰く、因滅して、変じて果と為らば、何なる咎か有らん。
問い、
『因』が、
『滅して!』、
『果』に、
『変じれば!』、
何のような、
『咎』が、
『有るのか?』。
答曰
 若因變為果  因即至於果 
 是則前生因  生已而復生
答えて曰く、
若し因変じて果と為らば、因即ち果に至れば、
是れ則ち前生の因にして、生じ已りて復た生ず。
答え、
若し、
『因』が、
『変じて!』、
『果』に、
『為れば!』、
『因』は、
即ち、
『果』に、
『至る(到達する)ことになり!』、
是れは、
則ち、
『因』が、
『前に!』、
『生じ!』、
『生じてから!』、
『復た!』、
『生じることになる!』。
参考
niruddhe cet phalaṃ hetau hetoḥ saṃkramaṇaṃ bhavet |
pūrvajātasya hetoś ca punarjanma prasajyate ||9||
If [when] a cause stops, it is forever transferred to the fruit,
then it would follow that the cause which was born before would be born again.

参考
If the ceased cause were the result
The cause would be constantly transfering.
And it would also follow that the previously produced cause
Would be produced again.

参考
もしも原因が滅したときに結果〔がある〕のであるならば,原因が転移している,ということになるであろう。また,先にすでに生じおわった原因が再び生ずる,という誤りが付随するであろう。
因有二種。一者前生。二者共生。 因に二種有り、一には前に生じ、二には共に生ず。
『因』には、
『二種』有り、
一には、
『果』より、
『前に!』、
『生じ!』、
二には、
『果』と、
『いっしょに!』、
『生じる!』。
若因滅變為果。是前生因應還更生。但是事不然。何以故。已生物不應更生。 若し因滅し、変じて果と為らば、是の前生の因は、応に還って更に生ずべし。但だ是の事は然らず。何を以っての故に、已に生ぜし物は、応に更に生ずべからざればなり。
若し、
『因』が、
『滅してから!』、
『果』に、
『変じれば!』、
是の、
『因』は、
『前に!』、
『生じた!』のに、
『還た!』、
『更に!』、
『生じるはずだ!』が、
但だ、
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
何故ならば、
已に、
『生じた!』、
『物』が、
更に、
『生じるはずがないからだ!』。
若謂是因即變為果。是亦不然。何以故。若即是不名為變。若變不名即是。 若し、『是の因は、即、変じて、果と為る』と謂わば、是れも亦た然らず。何を以っての故に、若し即是なれば、名づけて変と為さず。若し変ずれば、即是と名づけず。
若し、
こう謂うならば、――
『因』が、
『そのまま!』、
『果』に、
『変じた!』、と。
是れも、
亦た、
『間違っている!』。
何故ならば、
若し、
『そのまま!』ならば
『変じる!』とは、
『称しない!』し、
若し、
『変じれば!』、
『そのまま!』と、
『呼ばないからである!』。
  (そく):即座に/疾かに/直ちに( promptly, quickly, immediately )。
  即是(そくぜ):即に同じ。
問曰。因不盡滅但名字滅。而因體變為果。如泥團變為瓶。失泥團名而瓶名生。 問うて曰く、因の尽くは滅せずして、但だ名字滅するのみ、而も因の体は変じて果と為るなり。泥団の変じて瓶と為るに、泥団の名のみ失いて、瓶の名生ずるが如し。
問い、
『因』は、
尽くが、
『滅するのではない!』、
但だ、
『名字のみ!』が、
『滅して!』、
それから、
『因の体』が、
『変じて!』、
『果』と、
『為るのだ!』。
例えば、
『泥団』が、
『変じて!』、
『瓶』と、
『為る!』とき、
『泥団』という、
『名』を、
『失ってから!』、
『瓶』という、
『名』が、
『生じるようなものだ!』。
答曰。泥團先滅而有瓶生。不名為變。 答えて曰く、泥団先に滅して、瓶の生ずる有れば、名づけて変と為さず。
答え、
『泥団』が、
先に、
『滅してから!』、
有る、
『瓶』が、
『生じれば!』、
是れを、
『変じる!』とは、
『呼ばない!』。
又泥團體不獨生。瓶盆甕等皆從泥中出。若泥團但有名。不應變為瓶。變名如乳變為酪。是故汝說因名雖滅而變為果。是事不然。 又泥団の体は、独り瓶のみを生ぜず。盆、甕等も、皆泥中より出づ。若し泥団にして、但だ名のみ有らば、応に変じて瓶と為るべからず。変を、乳変じて酪と為るが如しと名づく。是の故に、汝が説かく、『因の名滅すと雖も、変じて果と為る』とは、是の事然らず。
又、
『泥団』の、
『体』は、
唯だ、
『瓶のみ』を、
『生じるのではない!』、
『盆、甕』等も、
皆、
『泥』中より、
『出る!』。
『泥団』が、
但だ、
『名』のみ、
『有れば!』、
当然、
『瓶』に、
『変じるはずがない!』。
『変じる!』とは、
例えば、
『乳』が、
『変じて!』、
『酪』と、
『為るようなものであり!』、
是の故に、
お前は、こう説くが、――
『因』という、
『名』は、
『滅するが!』、
『変じて!』、
『果』と、
『為るのだ!』、と。
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
問曰。因雖滅失而能生果。是故有果。無如是咎。 問うて曰く、因は、滅失すと雖も、能く果を生ず。是の故に、果有るも、是の如き咎無し。
問い、
『因』は、
『滅失(消失)しても!』、
『果』を、
『生じさせられる!』。
是の故に、
『果』が、
『有っても!』、
是のような、
『咎』は、
『無い!』。
答曰
 云何因滅失  而能生於果 
 又若因在果  云何因生果
答えて曰く、
何んが因滅失して、而も能く果を生ぜん、
又若し因が果に在らば、何んが因は果を生ぜん。
答え、
何故、
『因』が、
『滅失しても!』、
『果』を、
『生じさせられるのか?』。
又、
若し、
『因』が、
『果』に、
『在れば!』、
何故、
『因』は、
『果』を、
『生じさせるのか?』。
参考
janayet phalam utpannaṃ niruddho ’staṃgataḥ katham |
hetus tiṣṭhann api kathaṃ phalena janayed vṛtaḥ ||10||
How can the production of fruit be produced
by the stopping and disappearing [of something]?
Also how can fruit be produced
by related causes which persist with it?

参考
How could a produced result be produced
By that which has ceased and vanished?
Also how could it be produced
By a cause that abides united with the result?

参考
すでに滅して,消滅してしまっているものが,どうして,すでに生じている結果を〔さらに〕生ずるということがあろうか。結果と結合して住している原因もまた,どうして,〔結果を〕生ずるということがあろう か。
若因滅失已。云何能生果。若因不滅而與果合。何能更生果。 若し因滅失し已らば、云何が能く果を生ぜん。若し因滅せずして、果と合せば、何んぞ能く更に果を生ぜん。
若し、
『因』が、
『滅失すれば!』、
何故、
『果』を、
『生じさせられるのか?』。
若し、
『因』が、
『滅失せずに!』、
『果』と、
『合すれば!』、
何故、
更に、
『果』を、
『生じさせられるのか?』。
問曰。是因遍有果而果生。 問うて曰く、是の因に、遍く果有れば、而して果生ずるなり。
問い、
是の、
『因』には、
遍く、
『果』が、
『有り!』、
そして、
『果』が、
『生じるのだ!』。
答曰
 若因遍有果  更生何等果 
 因見不見果  是二俱不生
答えて曰く、
若し因に遍く果有らば、更に何等の果をか生ぜん、
因に果を見るも見ざるも、是の二は倶に生ぜず。
答え、
若し、
『因』に、
遍く、
『果』が、
『有れば!』、
更に、
何のような、
『果』を、
『生じさせるのか?』。
『因』は、
『果』を、
『見ても!』、
『見なくても!』、
どちらも、
『果』を、
『生じさせない!』。
参考
athāvṛtaḥ phalenāsau katamaj janayet phalam |
na hy adṛṣṭvā na dṛṣṭvāpi hetur janayate phalam ||11||
If cause and fruit are not related, what fruit can be produced?
Causes do not produce fruits they either see or don’t see.

参考
If the cause is not united with the result
What result could it produce?
Causes do not produce
Results either seen or unseen.

参考
しかるに,結果と結合していないそれ(原因)は,どのような結果を生ずるのであろうか。なぜならば,原因は,〔結果を〕見ないで,結果を生ずるのでもないし,〔結果を〕 見おわってから,〔結果を生ずるでも〕ないからである。
是因若不見果。尚不應生果。何況見。若因自不見果。則不應生果。何以故。若不見果。果則不隨因。又未有果。云何生果 是の因にして、若し果を見ざれば、尚お応に果を生ずべからず。何に況んや、見るをや。若し因にして、自ら果を見ざれば、則ち応に果を生ずべからず。何を以っての故に、若し果を見ざれば、果は則ち因に随わざればなり。又、未だ果有らざれば、云何が果を生ぜん。
是の、
『因』が、
若し、
『果』を、
『見なくても!』、
尚お、
『果』を、
『生じるはずがない!』、
況して、
『見れば!』、
『尚更である!』。
若し、
『因』が、
自らの、
『果』を、
『見なければ!』、
当然、
『果』を、
『生じさせるはずがない!』。
何故ならば、
若し、
『因』が、
『果』を、
『見なければ!』、
『果』は、
『因』に、
『随わないことになる!』。
又、
未だ、
『果』が、
『無ければ!』、
何のようにして、
『果』を、
『生じさせるのか?』。
若因先見果。不應復生。果已有故。 若し因、先に果を見れば、応に復た生ずべからず。果は已に有るが故なり。
若し、
『因』が、
先に、
『果』を、
『見れば!』、
復た、
『果』を、
『生じさせるはずがない!』、
已に、
『果』が、
『有るからだ!』。
復次
 若言過去因  而於過去果 
 未來現在果  是則終不合 
 若言未來因  而於未來果 
 現在過去果  是則終不合 
 若言現在因  而於現在果 
 未來過去果  是則終不合
復た次ぎに、
若し過去の因は、過去の果に於いてなりと言わば、
未来と現在の果は、是れ則ち終に合せざらん。
若し未来の因は、未来の果に於いてなりと言わば、
現在と過去の果は、是れ則ち終に合せざらん。
若し現在の因は、現在の果に於いてなりと言わば、
未来と過去の果は、是れ則ち終に合せざらん。
復た次ぎに、
若し、
こう言うならば、――
『過去』の、
『因』は、
『過去の果』の、
『因である!』、と。
則ち、
『未来、現在』の、
『果』は、
『終に!』、
『合しないことになる!』。
若し、
こう言うならば、――
『未来』の、
『因』は、
『未来の果』の、
『因である!』、と。
則ち、
『現在、過去』の、
『果』は、
『終に!』、
『合しないことになる!』。
若し、
こう言うならば、――
『現在』の、
『因』は、
『現在の果』の、
『因である!』、と。
則ち、
『未来、過去』の、
『果』は、
『終に!』、
『合しないことになる!』。
参考
nātītasya hy atītena phalasya saha hetunā |
nājātena na jātena saṃgatir jātu vidyate ||12||
The simultaneous connection of a past fruit with a past,
a future and a present cause never exists.

na jātasya hy ajātena phalasya saha hetunā |
nātītena na jātena saṃgatir jātu vidyate ||13||
The simultaneous connection of a present fruit with a future,
a past and a present cause never exists.

nājātasya hi jātena phalasya saha hetunā |
nājātena na naṣṭena saṃgatir jātu vidyate ||14|
The simultaneous connection of a future fruit with a present,
a future and a past cause never exists.

参考
A past result that could
Meet together with a past,
Future or present cause
Could never exist.

A present result that could
Meet together with a future,
Past or present cause
Could never exist.

A future result that could
Meet together with a present,
Future or past cause
Could never exist.

参考
そもそも,過去の結果が,過去の原因と,またまだ生じていないものと,またすでに生じているものと,ともに相い合することは,決して存在しない。

そもそも,すでに生じた結果が,まだ生じていない原因と,また過去のものと,またすでに生じたものと,ともに相い合することは,決して存在しない。

そもそも,まだ生じていない結果が,すでに生じた原因と,またまだ生じていないもの と,またすでに滅したものと,ともに相い合することは,決して存在しない。
過去果不與過去未來現在因合。未來果不與未來現在過去因合。現在果不與現在未來過去因合。如是三種果。終不與過去未來現在因合。 過去の果は、過去、未来、現在の因と合せず。未来の果は、未来、現在、過去の因と合せず。現在の果は、現在、未来、過去の因と合せず。是の如き三種の果は、終に過去、未来、現在の因と合せず。
『過去』の、
『果』は、
『過去、未来、現在』の、
『因』と、
『合しない!』。
『未来』の、
『果』は、
『未来、現在、過去』の、
『因』と、
『合しない!』。
『現在』の、
『果』は、
『現在、未来、過去』の、
『因』と、
『合しない!』。
是のように、
『三種』の、
『果』は、
終に、
『過去、未来、現在』の、
『因』と、
『合しない!』。
復次
 若不和合者  因何能生果 
 若有和合者  因何能生果
復た次ぎに、
若し和合せざれば、因は何んぞ能く果を生ずる、
若し和合有らば、因は何んぞ能く果を生ずる。
復た次ぎに、
若し、
『和合しなければ!』、
『因』は、
何故、
『果』を、
『生じさせられるのか?』。
若し、
『和合すれば!』、
『因』は、
何故、
『果』を、
『生じさせられるのか?』。
参考
asatyāṃ saṃgatau hetuḥ kathaṃ janayate phalam |
satyāṃ vā saṃgatau hetuḥ kathaṃ janayate phalam ||15||
When there is no connection, how can a cause produce fruit?
Even when there is connection, how can a cause produce fruit?

参考
If there is no meeting
How could the cause produce the result?
Also if there were a meeting
How could the cause produce the result?

参考
相い合することが存在しない場合に,どのようにして,原因は結果を生ずるであろうか。 または,相い合することが存在する場合に,どのようにして,原因は結果を生ずるであろうか。
若因果不和合則無果。若無果云何因能生果。 若し因と果と和合せざれば、則ち果無し。若し果無くんば、云何が因は、能く果を生ぜん。
若し、
『因』と、
『果』とが、
『和合しなければ!』、
『果』は、
『無いことになる!』。
若し、
『果』が、
『無ければ!』、
何故、
『因』は、
『果』を、
『生じさせられるのか?』。
若謂因果和合時因能生果者。是亦不然。 若し因と果と和合する時、因は能く果を生ずと謂わば、是れも亦た然らず。
若し、
こう謂うならば、――
『因』と、
『果』とが、
『和合する!』時、
『因』は、
『果』を、
『生じさせられる!』、と。
是れも、
亦た、
『間違っている!』。
何以故。若果在因中。則因中已有果。云何而復生。 何を以っての故に、若し果が、因中に在らば、則ち因中に已に果有るに、云何が、復た生ずる。
何故ならば、
若し、
『果』が、
『因』中に、
『存在すれば!』、
『因』中には、
已に、
『果』が、
『有ることになる!』。
何故、
『復た!』、
『生じさせるのか?』。
復次
 若因空無果  因何能生果 
 若因不空果  因何能生果
復た次ぎに、
若し因空しくして果無くんば、因は何んが能く果を生ぜん、
若し因空しからずして果あらば、因は何んが能く果を生ぜん。
復た次ぎに、
若し、
『因』が、
『空であり!』、
『果』が、
『無ければ!』、
『因』は、
何故、
『果』を、
『生じさせられるのか?』。
若し、
『因』が、
『空でなく!』、
『果』が、
『有れば!』、
『因』は、
何故、
『果』を、
『生じさせられるのか?』。
参考
hetuḥ phalena śūnyaś cet kathaṃ janayate phalam |
hetuḥ phalenāśūnyaś cet kathaṃ janayate phalam ||16||
If a cause is empty of fruit, how can it produce fruit?
If a cause is not empty of fruit, how can it produce fruit?

参考
How could a cause that is empty of the result
Produce the result?
And how could a cause that is not empty of the result
Produce the result?

参考
もしも原因が結果に関して空である(結果を欠如している)ならば,どのようにして,〔そのような原因が〕結果を生ずるであろうか。もしも原因が結果に関して不空である (結果を欠如していない)ならば,どのようにして,〔そのような原因が〕結果を生ずるであろうか。
若因無果者。以無果故因空。云何因生果。如人不懷妊。云何能生子。 若し、因に果無ければ、果無きを以っての故に、因は空なり。云何が因にして、果を生ぜん。人懐妊せざるが如し、云何が能く子を生ぜん。
若し、
『因』に、
『果』が、
『無ければ!』、
『果』の、
『無い!』が故に、
『因』は、
『空である!』、
何故、
『因』が、
『果』を、
『生じさせるのか?』。
譬えば、こうである、――
『人』が、
『懐妊していなければ!』、
何故、
『子』を、
『生めるのか?』。
若因先有果。已有果故不應復生。 若し因に先に果有らば、已に果有るが故に、応に復た生ずべからず。
若し、
『因』に、
『果』が、
『先に!』、
『有れば!』、
『已に!』、
『果』の、
『有る!』が故に、
『復た!』、
『果』を、
『生じるはずがない!』。
復次今當說果
 果不空不生  果不空不滅 
 以果不空故  不生亦不滅 
 果空故不生  果空故不滅 
 以果是空故  不生亦不滅
復た次ぎに、今当に果を説くべし、
果は不空なれば生ぜず、果は不空なれば滅せず、
果の不空なるを以っての故に、不生亦た不滅なり。
果は空なるが故に生ぜず、果は空なるが故に滅せず、
果は是れ空なるを以っての故に、不生亦た不滅なり。
復た次ぎに、
今、
『果』を説くことにしよう、――
『果』は、
『空でなければ!』、
『生じない!』し、
『果』は、
『空でなければ!』、
『滅しない!』。
『果』は、
『空でない!』が故に、
『生じない!』し、
『滅しない!』。
『果』は、
『空である!』が故に、
『生じない!』し、
『果』は、
『空である!』が故に、
『滅しない!』。
『果』は、
『空である!』が故に、
『生じない!』し、
『滅しない!』。
参考
phalaṃ notpatsyate ’śūnyam aśūnyaṃ na nirotsyate |
aniruddham anutpannam aśūnyaṃ tad bhaviṣyati ||17||
Unempty fruit would not be produced;
the unempty would not stop.
That unempty is unstoppable and also unproducable.

katham utpatsyate śūnyaṃ kathaṃ śūnyaṃ nirotsyate |
śūnyam apy aniruddhaṃ tad anutpannaṃ prasajyate ||18||
How would empty [fruit] be produced?
And how would the empty stop?
It follows that that empty too is unstoppable and also unproducable.

参考
A non-empty result could not be produced
And a non-empty result could not cease.
That non-empty result
Would be the non-ceasing and also the non-produced.

How could an empty result be produced
And how could an empty result cease?
Also that empty result
Would follow as being the non-ceasing and also the non-produced.

参考
不空である結果は,生じないであろう。不空である〔結果〕は,滅しないであろう。不空であるそれ(結果)は,不滅であり不生である,ということになるであろう。

空である〔結果〕は,どのようにして,生ずるであろうか。空である〔結果〕は,どのようにして,滅するであろうか。空であるそれ(結果)もまた,不滅であり不生である, という誤りが付随する。
果若不空。不應生不應滅。何以故。果若因中先決定有。更不須復生。生無故無滅。是故果不空故。不生不滅。 果にして、若し不空ならば、応に生ずべからず、応に滅すべからず。何を以っての故に、果が、若し因中に先に決定して有らば、更に復た生を須(ま)たざればなり。生無きが故に、滅無し。是の故に果は、不空なるが故に、不生、不滅なり。
『果』が、
若し、
『空でなければ!』、
『生じるはずがない!』し、
『滅するはずがない!』。
何故ならば、
『果』が、
若し、
『因』中に、
先に、
『決定して!』、
『有れば!』、
更に、
復た、
『生』を、
『待つはずがない!』。
『果』は、
『無生である!』が故に、
『無滅である!』。
是の故に、
『果』は、
『空でない!』が故に、
『生じない!』し、
『滅しない!』。
若謂果空故有生滅。是亦不然。何以故。果若空。空名無所有。云何當有生滅。是故說果空故不生不滅。 若し、『果は空なるが故に、生滅有り』、と謂わば、是れも亦た然らず。何を以っての故に、果が、若し空ならば、空を無所有と名づくるに、云何が、当に生滅有るべき。是の故に説かく、『果は、空なるが故に不生、不滅なり』、と。
若し、
こう謂うならば、――
『果』は、
『空である!』が故に、
『生、滅』が、
『有る!』、と。
是れも、
亦た、
『間違っている!』。
何故ならば、
『果』が、
若し、
『空ならば!』、
『空』を、
『無所有(何もない!)』と、
『呼ぶからである!』。
何故、
『生、滅』が、
『有ることになるのか?』。
是の故に、こう説かれている、――
『果』は、
『空である!』が故に、
『生じない!』し、
『滅しない!』、と。
復次今以一異破因果
 因果是一者  是事終不然 
 因果若異者  是事亦不然 
 若因果是一  生及所生一 
 若因果是異  因則同非因 
 若果定有性  因為何所生 
 若果定無性  因為何所生 
 因不生果者  則無有因相 
 若無有因相  誰能有是果 
 若從眾因緣  而有和合生 
 和合自不生  云何能生果 
 是故果不從  緣合不合生 
 若無有果者  何處有合法
復た次ぎに、今、一異を以って、因果を破せん、
因と果と是れ一ならば、是の事は終に然らず、
因と果と若し異ならば、是の事も亦た然らず。
若し因と果と是れ一ならば、生及び所生は一なり、
若し因と果と是れ異ならば、因は則ち非因に同じ。
若し果に定んで性有らば、因は何をか所生と為す、
若し果に定んで性無くば、因は何をか所生と為す。

因が果を生ぜずんば、則ち因の相有ること無し、
若し因の相有ること無くんば、誰か能く是の果を有せん。
若し衆因縁より、有る和合生ぜば、
和合は自ら生ぜず、云何が能く果を生ぜん。
是の故に果は、縁の合と不合によりて生ぜず、
若し果有ること無くんば、何処にか合の法有らん。
復た次ぎに、
今、
『一異』を、
『用いて!』、
『因果』を、
『破ろう!』、――
『因』と、                ――(1)――
『果』と、
若し、
『一ならば!』、
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
『因』と、
『果』と、
若し、
『異ならば!』、
是の、
『事』も、
『間違っている!』。
若し、                 ――(2)――
『因』と、
『果』と、
『一ならば!』、
『生()』と、
『所生()』とが、
『一である!』。
若し、
『因』と、
『果』と、
『異ならば!』、
『因』は、
『非因』とと、
『同じだということになる!』。
若し、                 ――(3)――
『因』に、
『定んで!』、
『性』が、
『有れば!』、
『因』の、
『所生』とは、
『何ものか?』。
若し、
『因』に、
『定んで!』、
『性』が、
『無ければ!』、
『因』の、
『所生』とは、
『何ものか?』。
『因』が、                ――(4)――
『果』を、
『生じなければ!』、
則ち、
『因の相』が、
『無いことになる!』。
若し、
『因の相』が、
『無ければ!』、
誰が、
是の、
『果』を、
『所有できるのか?』。
若し、                 ――(5)――
『衆因縁』より、
『和合』の、
『生』が、
『有り!』、
『和合』が、
『自ら!』を、
『生じさせなければ!』、
誰が、
是の、
『果』を、
『所有するのか?』。
是の故に、              ――(6)――
『因縁』が、
『和合しても!』、
『和合しなくても!』、
『果』は、
『因縁』より、
『生じない!』。
若し、
『果』が、
『無ければ!』、
何処に、
『合』という、
『法』が、
『有るのか?』。
参考
hetoḥ phalasya caikatvaṃ na hi jātūpapadyate |
hetoḥ phalasya cānyatvaṃ na hi jātūpapadyate ||19||
It is never possible that cause and fruit are identical.
It is never possible that cause and fruit are other.

ekatve phalahetvoḥ syād aikyaṃ janakajanyayoḥ |
pṛthaktve phalahetvoḥ syāt tulyo hetur ahetunā ||20||
If cause and fruit were identical,
produce and producer would be identical.
If cause and fruit were other,
cause and non-cause would be similar.

phalaṃ svabhāvasadbhūtaṃ kiṃ hetur janayiṣyati |
phalaṃ svabhāvāsadbhūtaṃ kiṃ hetur janayiṣyati ||21||
If fruit existed essentially, what would a cause produce?
If fruit did not exist essentially, what would a cause produce?

na cājanayamānasya hetutvam upapadyate |
hetutvānupapattau ca phalaṃ kasya bhaviṣyati ||22||
If it were not productive, the cause itself would be impossible.
If the cause itself were impossible, whose would the fruit be?

na ca pratyayahetūnām iyam ātmānam ātmanā |
yā sāmagrī janayate sā kathaṃ janayet phalam ||23||
If whatever is a combination of causes and conditions
does not produce itself by itself,
how could it produce fruit?

na sāmagrīkṛtaṃ phalaṃ nāsāmagrīkṛtaṃ phalam |
asti pratyayasāmagrī kuta eva phalaṃ vinā ||24||
Therefore, there is no fruit which has been made by combination
[or] made by non-combination. If fruit does not exist,
where can a combination of conditions exist?

参考
It is never admissible
For the cause to be the same as the result.
And it is never admissible
For the cause to be different from the result.

If the cause were the same as the result
The producer would be the same as the produced.
If the cause were different from the result
Causes would be similar to non-causes.

If results existed by way of their own entity
What could a cause produce?
If results did not exist by way of their own entity
What could a cause produce?

If it is not a producer
The cause itself would be inadmissible.
If the cause itself is inadmissible
The result would be the result of what?

If that which is a collection
Of causes and conditions
Does not produce itself by itself
How could it produce a result?

Thus, there is no result made by a collection
And no result made by a non-collection.
If there are no results
How could there be a collection of conditions?

参考
そもそも原因と結果とが同一であるということも,決して成り立たない。そもそも原因と結果とが別異であるということも,決して成り立たない。

もしも結果と原因とが同一であるならば,生ずるものと生ぜられるものとが一体〔である〕,ということになるであろう。もしも結果と原因とが別異であるならば,原因は原因 でないものと等しい,ということになるであろう。

自性(固有の実体)としてすでに実在している結果を,どのような原因が生ずるのであろうか。自性として実在していない結果を,どのような原因が生ずるのであろうか。

〔結果を〕現に生じてはいないものが原因となる,ということは成り立たない。原因となることが成り立たないのであるならば,結果は,何ものについて,存在するであろう か。

もろもろの縁と原因とのこの集合(和合)が,みずから自分自身を生じないのであるならば,それ(集合)は,どのようにして,結果を生ずるであろうか。

集合によりつくられた結果は,無い。集合によらないでつくられた結果は,無い。結果が無いのに,〔もろもろの〕縁の集合が,どうして,存在するであろうか。
是眾緣和合法。不能生自體。自體無故云何能生果。是故果不從緣合生。亦不從不合生。若無有果者。何處有合法 是の衆縁和合の法は、自体を生ずる能わず、自体無きが故に、云何が能く果を生ぜん。是の故に、果は縁の合より生ぜず、亦た不合より生ぜず。若し果有ること無くんば、何処にか合の法有らん。
是の、
『衆縁の和合』という、
『法』は、
『自体』を、
『生じさせられない!』。
『自体』の、
『無い!』が故に、
何故、
『果』を、
『生じさせられるのか?』。
是の故に、
『果』は、
『縁』の、
『和合から!』、
『生じず!』、
亦た、
『和合でないものからも!』、
『生じない!』。
若し、
『果』が、
『無ければ!』、
何処に、
『和合』という、
『法』は、
『有るのか?』。



中論觀成壞品第二十一(二十偈)

問曰。一切世間事現是壞敗相。是故有壞。 問うて曰く、一切の世間の事は、是れ壊敗の相を現す。是の故に壊有り。
問い、
一切の、
『世間』の、
『事』は、
是の、
『壊敗(崩壊/腐敗)の相』を、
『現す!』。
是の故に、
『壊(散壊)』は、
『有る!』。
答曰
 離成及共成  是中無有壞 
 離壞及共壞  是中亦無成
答えて曰く、
成を離るると及び成と共なると、是の中に壊有る無し、
壊を離るると及び壊と共なると、是の中に亦た成無し。
答え、
『成』を、
『離れても!』
『いっしょでも!』、
是の、
『成』中に、
『壊』は、
『無い!』。
『壊』を、
『離れても!』
『いっしょでも!』、
是の、
『壊』中に、
『成』は、
『無い!』。
  (じょう):梵語 saMbhava の訳、誕生/産出/生起/発生( Birth, production, springing up, arising, existence )の義。
  (え):梵語 vibhava の訳、[世界の]崩壊/破滅/破壊( destruction (of the world) )の義。
参考
vinā vā saha vā nāsti vibhavaḥ saṃbhavena vai |
vinā vā saha vā nāsti saṃbhavo vibhavena vai ||1||
Passing does not exist without or together with rising.
Rising does not exist without or together with passing.

参考
Disintegration does not exist
Without arisal or together with it.
Arisal does not exist
Without disintegration or together with it.

参考
壞滅は,生成を離れても,共であるにしても,まったく存在しない。 生成は,壞滅を離れても,共であるにしても,まったく存在しない。
若有成若無成俱無壞。若有壞若無壞俱無成。 若しは成有り、若しは成無きに、倶に壊無し。若しは壊有り、若しは壊無きに、倶に成無し。
若し、
『成』が、
『有っても!』、
『無くても!』、
どちらでも、
『壊』は、
『無い!』。
若し、
『壊』が、
『有っても!』、
『無くても!』、
どちらでも、
『成』は、
『無い!』。
何以故
 若離於成者  云何而有壞 
 如離生有死  是事則不然 
 成壞共有者  云何有成壞 
 如世間生死  一時俱不然 
 若離於壞者  云何當有成 
 無常未曾有  不在諸法時
何を以っての故に、
若し成を離るれば、云何が壊有らん、
生を離れて死有るが如き、是の事は則ち然らず。
成と壊と共に有らば、云何が成と壊有らん、
世間の生死の如き、一時に倶ならば然らず。
若し壊を離るれば、云何が当に成有るべき、
無常の未だ曽て、諸法に在らざる時有らず。
何故ならば、
若し、              ――(1)――
『成』を、
『離れれば!』、
何故、
『壊』が、
『有るのか?』、――
譬えば、
『生』を、
『離れて!』、
『死』が、
『有れば!』、
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
若し、              ――(2)――
『成、壊』が、
『いっしょに!』、
『有れば!』、
何故、
『成、壊』が、
『有るのか?』、――
譬えば、
『世間』の、
『生、死』が、
『一時』に、
『いっしょに!』、
『有れば!』、
是の、
『事』は、
『間違っているように!』。
若し、              ――(3)――
『壊』を、
『離れれば!』、
何故、
『成』が、
『有るのか?』、――
『無常』が、
諸の、
『法』に、
『存在しなかった!』時は、
未だ、
『曽て!』、
『無い!』。
参考
bhaviṣyati kathaṃ nāma vibhavaḥ saṃbhavaṃ vinā |
vinaiva janma maraṇaṃ vibhavo nodbhavaṃ vinā ||2||
How can passing exist without rising?
Is there death without birth?
There is no passing without rising.

saṃbhavenaiva vibhavaḥ kathaṃ saha bhaviṣyati |
na janma maraṇaṃ caivaṃ tulyakālaṃ hi vidyate ||3||
How could passing exist together with rising?
Death does not exist at the same time as birth.

bhaviṣyati kathaṃ nāma saṃbhavo vibhavaṃ vinā |
anityatā hi bhāveṣu na kadācin na vidyate ||4||
How could rising exist without passing?
Things are never not impermanent.

参考
How could there be disintegration
Without arisal?
There would be death without birth.
Thus, there is no disintegration without arisal.

How could there be disintegration
Existing together with arisal?
Death does not exist
At the same time as birth.

How could there be arisal
Without disintegration?
Things are never
Not impermanent.

参考
そもそも,壞滅は,生成を離れて,どうして,存在するであろうか。 生まれることを離れて,死ぬこと〔が存在するであろうか〕。壞滅は,出生を離れては〔存在し〕ないのである。

どうして,壞滅が,生成と共に(同時に)存在するであろうか。なぜならば,生まれることと死ぬこととは,決して同一の時間には存在しないからである。

そもそも,生成は,壞滅を離れて,どうして,存在するであろうか。なぜならば,もろもろの「存在(もの・こと)」においては,無常であることが,どのような場合にも,存在しないことはないからである。
若離成壞不可得。何以故。若離成有壞者。則不因成有壞。壞則無因。又無成法而可壞。成名眾緣合。壞名眾緣散。若離成有壞者。無成誰當壞。如無瓶不得言瓶壞。是故離成無壞。 若し成を離るれば、壊は不可得なり。何を以っての故に、若し成を離れて壊有らば、則ち成に因らずして、壊有れば、壊は則ち無因なればなり。又無成の法にして、而も壊すべし。成を衆縁の合と名づけ、壊を衆縁の散と名づく。若し成を離れて、壊有らば、成無くして、誰か当に壊すべし。瓶無ければ、瓶壊(やぶ)ると言うを得ざるが如し。是の故に、成を離るれば壊無し。
若し、
『成』を、
『離れれば!』、
『壊』は、
『認識できない!』。
何故ならば、
若し、
『成』を、
『離れて!』、
『壊』が、
『有れば!』、
『成』に、
『因らずに!』、
『壊』が、
『有り!』、
則ち、
『壊』が、
『無因となるからだ!』。
又、
『成』の、
『無いのに!』、
『法』が、
『壊れることになる!』。
『成』を、
『衆縁』の、
『和合』と、
『呼び!』、
『壊』を、
『衆縁』の、
『散滅』と、
『呼ぶ!』とき、
若し、
『成』を、
『離れて!』、
『壊』が、
『有れば!』、
『成』が、
『無いのに!』、
誰が、
『壊れることになるのか?』。
譬えば、
『瓶』が、
『無い!』のに、
『瓶』が、
『壊れた!』と、
『言うことができるのか?』。
是の故に、
『成』を、
『離れれば!』、
『壊』は、
『無いことになる!』。
若謂共成有壞者。是亦不然。何以故。法先別成而後有合。合法不離異。 若し成と共に、壊有りと謂わば、是れも亦た然らず。何を以っての故に、法は、先に成と別にして、後に合有らば、合法の、離異せざればなり。
若し、
こう謂うならば、――
『成』と、
『いっしょに!』、
『壊』が、
『有る!』、と。
是れも、
亦た、
『間違っている!』。
何故ならば、
『法』に、
先に、
『別に!』、
『成』が、
『有り!』、
後に、
『合して!』、
『壊』が、
『有れば!』、
『合した!』、
『法』は、
『離異(分離)しないからである!』。
  (い):区別/変化( differentiation, changing )、◯梵語 anyataa の訳、相違( difference )の義。◯梵語 bhinna の訳、部分に分けられた/完全でないもの( divided into parts, anything less than a whole )の義。有らゆる存在の生起より、終息に至る四種の行程の一( One of the four stages that all existences are divided into in the course from their arising to their extinction. )、有為法に関する四相の一( One of the four marks of conditioned existence 四有爲相 )。
  離異(りい):分離( dissociation )。結合の逆。
若壞離異壞則無因。是故共成亦無壞。 若し壊にして、離異すれば、壊は則ち無因なり。是の故に成を共にするも、亦た壊無し。
若し、
『壊』が、
『成』と、
『離異すれば!』、
則ち、
『無因である!』。
是の故に、
『成』と、
『いっしょでも!』、
亦た、
『壊』は、
『ない!』。
若離壞共壞無有成者。若離壞有成成則為常。常是不壞相。而實不見有法常不壞相。是故離壞無成。 若しは壊を離るるも、壊を共にするも成有ること無しとは、若し壊を離れて、成有らば、成は則ち為(こ)れ常なり。常なれば、是れ不壊相なるも、実に有る法の常にして、不壊相なるを見ず。是の故に壊を離れて成無し。
若しは、
『壊』を、
『離れても!』、
『いっしょでも!』、
『成』が、
『無い!』とは、――
若し、
『壊』を、
『離れて!』、
『成』が、
『有れば!』、
是れは、
『常であり!』、
是れが、
『常ならば!』、
『不壊相である!』が、
而し、
有る、
『法』が、
『常であり!』、
『不壊相ならば!』、
実に、
是のような、
『法』は、
『見たことがない!』。
是の故に、
『壊』を、
『離れて!』、
『成』は、
『無い!』。
若謂共壞有成者。是亦不然。成壞相違。云何一時有。 若し壊と共に成有りと謂わば、是れも亦た然らず。成と壊と相違すれば、云何が、一時に有らん。
若し、
こう謂うならば、――
『壊』と、
『いっしょでも!』、
『成』が、
『有る!』、と。
是れも、
亦た、
『間違っている!』、
『成、壊』が、
『相違する!』のに、
何故、
『一時に!』、
『有るのか?』。
如人有髮無髮不得一時俱。成壞亦爾。是故共壞有成。是事不然。 人の髪有ると、髪無きと、一時に倶なること得ざるが如く、成と壊も亦た爾り。是の故に壊と共に成有らば、是の事は然らず。
譬えば、
『人』の、
『髪』が、
『有る!』時と、
『無い!』時とが、
『どちらも!』、
『同時ではありえない!』ように、
『成、壊』も、
亦た、
『是の通りなのだ!』。
是の故に、
『壊』と、
『いっしょに!』、
『成』が、
『有れば!』、
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
何以故。若謂分別法者。說成中常有壞。是事不然。 何を以っての故に、若し、『法を分別する者は、成中に常に壊有りと説く』、と謂わば、是の事は然らず。
何故ならば、
若し、こう謂うとすれば、――
『法』を、
『分別する!』者たちは、こう説いている、――
『成』中には、
常に、
『壊』が、
『有る!』と、と。
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
何以故。若成中常有壞。則不應有住法。而實有住。是故若離壞共壞不應有成。 何を以っての故に、若し成中に常に壊有らば、則ち応に住法有るべからず。而も実に住有り。是の故に若し壊を離るるも、壊を共にするも、応に成有るべからず。
何故ならば、
若し、
『成』中に、
常に、
『壊』が、
『有れば!』、
則ち、
『住』という、
『法』は、
『有るはずがない!』のに、
『実に!』、
『住』が、
『有るからだ!』。
是の故に、
若し、
『壊』を、
『離れていても!』、
『いっしょでも!』、
『成』は、
『有るはずがない!』。
復次
 成壞共無成  離亦無有成 
 是二俱不可  云何當有成
復た次ぎに、
成と壊と共なれば成無し、離るるも亦た成有る無し、
是の二は倶に不可なるに、云何が当に成有るべき。
復た次ぎに、
『成、壊』が、
『いっしょでも!』、
『成』は、
『無い!』し、
『離れていても!』、
『成』は、
『無い!』。
是の、
『二』は、
『どちらも!』、
『有りえない!』のに、
何故、
『成』が、
『有ることになるのか?』。
参考
saṃbhavo vibhavenaiva kathaṃ saha bhaviṣyati |
na janma maraṇaṃ caiva tulyakālaṃ hi vidyate ||5||
How could rising exist together with passing?
Birth does not exist at the same time as death.

参考
How could there be arisal
Existing together with disintegration?
Birth does not exist
At the same time as death.

参考
どうして,生成が,壞滅と共に(同時に)存在するであろうか。なぜならば,生まれることと死ぬこととは,決して同一の時間には存在しないからである。
若成壞共亦無成。離亦無成。若共成則二法相違。云何一時。 若し成と壊と共なるも、亦た成無く、離るるも、亦た成無し。若し成と共なれば、則ち二法相違するに、云何が一時なる。
若し、
『成、壊』が、
『いっしょでも!』、
『成』は、
『無い!』し、
『離れていても!』、
『成』は、
『無い!』。
若し、
『成』と、
『いっしょならば!』、
『二種』の、
『法』は、
『相違する!』のに、
何故、
『一時に!』、
『いっしょなのか?』。
若離則無因。二門俱不成。云何當有成。若有應說。 若し離るれば、則ち無因なり。二門倶に成ぜず、云何が当に成有らんや。若し有らば応に説くべし。
若し、
『離れていれば!』、
『無因ということになる!』。
『二門』は、
『どちらも!』、
『成立しない!』のに、
何故、
『成』が、
『有ることになるのか?』。
若し、
『有れば!』、
『説くべきである!』。
問曰現有盡滅相法。是盡滅相法。亦說盡亦說不盡。如是則應有成壞。 問うて曰く、現に尽滅相の法有り。是の尽滅相の法も亦た、『尽く』と説き、亦た『尽きず』と説く。是の如くんば、則ち応に成、壊有るべし。
問い、
現に、
『尽滅相(何も無くなったように見える!)』という、
『法』が、
『有る!』が、――
是の、
『尽滅相』という、
『法』も、
亦た、
『尽きる!』とも、
『尽きない!』とも、
『説かれる!』。
是の通りならば、
当然、
『成、壊』が、
『有るはずだ!』。
答曰
 盡則無有成  不盡亦無成 
 盡則無有壞  不盡亦不壞
答えて曰く、
尽なれば則ち成有る無く、不尽も亦た成無し
尽なれば則ち壊有る無く、不尽も亦た壊ならず。
答え、
『尽きれば!』、
則ち、
『成』は、
『無く!』
『尽きなくても!』、
亦た、
『成』は、
『無い!』。
『尽きれば!』、
則ち、
『壊』は、
『無く!』、
『尽きなくても!』、
亦た、
『壊』は、
『無い!』。
  (じん):疲弊させる( to exhaust )、梵語 kSaya, kSIna の訳、喪失する/浪費する/欠損する/減少/破壊/衰退する( loss, waste, wane, diminution, destruction, decay )の義、荒廃する/消滅する( To be ruined, perish )、死に絶える/消滅する/衰える( Die out, disappear, fail )、存在しなくなる( Become nonexistent )の意。尽滅も同じ。
参考
sahānyo’nyena vā siddhir vinānyo’nyena vā yayoḥ |
na vidyate tayoḥ siddhiḥ kathaṃ nu khalu vidyate ||6||
How can those that are not established
either mutually together or not mutually together be established?

kṣayasya saṃbhavo nāsti nākṣayasyāsti saṃbhavaḥ |
kṣayasya vibhavo nāsti vibhavo nākṣayasya ca ||7||
The finished does not rise; the unfinished too does not rise;
the finished does not pass; the unfinished too does not pass.

参考
Those that have not been established
As either mutually together
Or mutually not together
How could they be established?

There is no arisal of the extinguished
And also no arisal of the non-extinguished.
There is no disintegration of the extinguished
And also no disintegration of the non-extinguished.

参考
滅尽したものには,生成は存在しない。滅尽しないものには,生成は存在しない。滅尽したものには,壞滅は存在しない。滅尽しないものにも,壞滅は〔存在し〕ない。
諸法日夜中念念常滅盡過去。如水流不住。是則名盡。是事不可取不可說。 諸法は日夜中に、念念に常に、過去に滅尽す。水の流れて住まらざるが如く、是れ則ち尽と名づくるも、是の事は取るべからず、説くべからず。
諸の、
『法』は、
『日、夜』中の、
『念念に!』、
『常に!』、
『過去に!』、
『向って!』、
『滅尽する!』。
譬えば、
『水』が、
『流れて!』、
『住まらない!』のと、
『同じように!』。
是れを、
『法』が、
『尽きる!』と、
『称する!』が、
是の、
『事』は、
『取ることもできず!』、
『説くこともできない!』。
如野馬無決定性可得。如是盡無決定性可得。云何可得分別說有成。 野馬に決定の性の得べきもの無きが如く、是の如く尽に、決定の性の得べき無し。云何が分別して、成有りと説くを得べき。
譬えば、
『野馬(陽炎)』に、
『決定して!』、
『認識できる!』、
『性』が、
『無いように!』、
是のように、
『尽きる!』ということにも、
『決定して!』、
『認識できる!』、
『性』は、
『無い!』。
何故、
『法』の、
『尽きる!』ことを、
『分別して!』、
『成』が、
『有る!』と、
『説けるのか?』。
是故言盡亦不成。成無故亦不應有壞。是故說盡亦無有壞。 是の故に言わく、『尽きても亦た成ぜず』、と。成無きが故に、亦た応に壊有るべからず。是の故に説かく、『尽きても、亦た壊有る無し』、と。
是の故に、こう言う、――
『尽きても!』、
亦た、
『成』は、
『無い!』、と。
『成』の、
『無い!』が故に、
『壊』の、
『有るはずがない!』。
是の故に、こう説く、――
『尽きても!』、
亦た、
『壊』は、
『無い!』、と。
又念念生滅常相續不斷故名不盡。如是法決定常住不斷。云何可得分別說言今是成時。 又念念に生滅し、常に相続して断ぜざるが故に、不尽と名づく。是の如き法は、決定して常住不断なり。云何が、分別して、『今は是れ成の時なり』と説いて言うを得べき。
又、
諸の、
『法』は、
『念念』に、
『生じたり!』、
『滅したり!』して、
常に、
『相続して!』、
『断じることがない!』ので、
故に、
『尽きない!』と、
『称する!』。
是のような、
『法』は、
『決定して!』、
『常住であり!』、
『断じることがない!』。
何故、
『分別し!』、
『説いて!』、こう言えるのか?――
今は、
『成』の、
『時である!』、と。
是故說無盡亦無成。成無故無壞。是故說不盡亦無壞。如是推求。實事不可得故。無成無壞。 是の故に説かく、『尽無ければ、亦た成も無し。成無きが故に、壊無し』、と。是の故に説かく、『不尽なるも、亦た壊無し』、と。是の如く推求すれば、実の事は不可得なるが故に、成無く、壊無し。
是の故に、こう説く、――
『尽』が、
『無ければ!』、
亦た、
『成』も、
『無い!』。
『成』の、
『無い!』が故に、
『壊』も、
『無い!』、と。
是の故に、こう説く、――
『尽』が、
『無ければ!』、
亦た、
『壊』も、
『無い!』、と。
是のように、
推求すれば、――
『実』の、
『事』が、
『認識できない!』が故に、
『法』の、
『成、壊』は、
『無いことになる!』。
問曰。且置成壞。但令有法有何咎。 問うて曰く、且く成、壊を置き、但だ法を有らしむれば、何なる咎か有る。
問い、
且く、
『成、壊』を、
『置いて!』、
但だ、
『法』を、
『存在させれば!』、
何のような、
『咎』が、
『有るのか?』。
答曰
 若離於成壞  是亦無有法 
 若當離於法  亦無有成壞
答えて曰く、
若し成、壊を離るるも、是れも亦た法有る無し、
若し当に法を離るべきも、亦た成、壊有る無し。
答え、
若し、
『成、壊』を、
『離れれば!』、
是れに、
『法』は、
『無い!』。
若し、
『法』を、
『離れれば!』、
亦た、
『成、壊』も、
『無いことになる!』。
参考
saṃbhavo vibhavaś caiva vinā bhāvaṃ na vidyate |
saṃbhavaṃ vibhavaṃ caiva vinā bhāvo na vidyate ||8||
Rising and passing do not exist without the existence of things.
Things do not exist without the existence of rising and passing.

参考
Without things
There is no arisal and disintegration.
And without arisal and disintegration
There are no things.

参考
「存在(もの・こと)」を離れては,生成も壞滅も決して存在しない。また,生成と壞滅とを離れては,「存在(もの・こと)」は決して存在しない。
離成壞無法者。若法無成無壞。是法應或無或常。而世間無有常法。 成、壊を離れて法無しとは、若し法に成無く、壊無くんば、是の法は、応に或いは無、或いは常なるべし。而るに世間には、常法有る無ければなり。
『成、壊』を、
『離れて!』、
『法』が、
『無い!』とは、――
若し、
『法』に、
『成、壊』が、
『無ければ!』、
是の、
『法』は、
『無か!』、
『常でなければならない!』が、
而し、
『世間』には、
『常』の、
『法』が、
『無いからである!』。
汝說離成壞有法。是事不然。 汝が説かく、『成壊を離れて、法有り』、と。是の事は然らず。
お前は、こう説いた、――
『成、壊』を、
『離れて!』、
『法』が、
『有る!』、と。
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
問曰。若離法但有成壞。有何咎。 問うて曰く、若し法を離れて、但だ成壊有らば、何なる咎か有らん。
問い、
若し、
『法』を、
『離れて!』、
『成、壊』が、
『有れば!』、
何のような、
『咎』が、
『有るのか?』。
答曰。離法有成壞。是亦不然。何以故。若離法誰成誰壞。是故離法有成壞。是事不然。 答えて曰く、法を離れて成、壊有らば、是れ亦た然らず。何を以っての故に、若し法を離るれば、誰か成じ、誰か壊せん。是の故に法を離れて成、壊有らば、是の事は然らず。
答え、
『法』を、
『離れて!』、
『成、壊』が、
『有れば!』、
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
何故ならば、
若し、
『法』を、
『離れれば!』、
誰が、
『成るのか?』、
誰が、
『壊れるのか?』。
是の故に、
『法』を、
『離れて!』、
『成、壊』が、
『有れば!』、
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
復次
 若法性空者  誰當有成壞 
 若性不空者  亦無有成壞
復た次ぎに、
若し法の性にして空ならば、誰か当に成壊有るべき、
若し性にして不空なれば、亦た成壊有る無し。
復た次ぎに、
若し、
『法』の、
『性』が、
『空ならば!』、
誰に、
『成、壊』が、
『有るのか?』。
若し、
『法』の、
『性』が、
『空でなければ!』、
亦た、
『成、壊』の、
『有るはずがない!』。
参考
saṃbhavo vibhavaś caiva na śūnyasyopapadyate |
saṃbhavo vibhavaś caiva nāśūnyasyopapadyate ||9||
Rising and passing are not possible for the empty;
rising, passing are not possible for the non-empty also.

参考
Arisal and disintegration of the empty
Is inadmissible.
And arisal and disintegration of the non-empty
Is also inadmissible.

参考
生成も壞滅も,空であるものには,決して成り立たない。また,生成も壞滅も,空ではないものには,決して成り立たない。
若諸法性空。空何有成壞。若諸法性不空。不空則決定有。亦不應有成壞。 若し諸法の性空なれば、空にして何んが成壊有らん。若し諸法の性不空なれば、不空なれば則ち決定して有り、亦た応に成壊有るべからず。
若し、
諸の、
『法』の、
『性』が、
『空ならば!』、
何故、
『空』に、
『成、壊』が、
『有るのか?』。
若し、
諸の、
『法』の、
『性』が、
『空でなければ!』、
『空でなければ!』、
則ち、
『決定して!』、
『有ることになる!』、
亦た、
『成、壊』の、
『有るはずがない!』。
復次
 成壞若一者  是事則不然 
 成壞若異者  是事亦不然
復た次ぎに、
成壊若し一ならば、是の事は則ち然らず、
成壊若し異ならば、是の事も亦た然らず。
復た次ぎに、
『成、壊』が、
若し、
『一ならば!』、
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
『成、壊』が、
若し、
『異ならば!』、
是の、
『事』も、
『間違っている!』。
参考
saṃbhavo vibhavaś caiva naika ity upapadyate |
saṃbhavo vibhavaś caiva na nānety upapadyate ||10||
Rising and passing cannot possibly be one;
rising and passing also cannot possibly be other.

参考
It is inadmissible
For arisal to be the same as disintegration.
And it is also inadmissible
For arisal to be different from disintegration.

参考
生成と壞滅とが同一であるということは,決して成り立たない。また,生成と壞滅とが別異であるということは,決して成り立たない。
推求成壞一則不可得。何以故。異相故。種種分別故。 推求するに、成壊一なれば、則ち不可得なり。何を以っての故に、相を異にするが故に、種種に分別するが故なり。
『成、壊』を、
推求して、――
『一ならば!』、
則ち、
『認められない!』。
何故ならば、
『相』を、
『異にする!』が故に、
『種種に!』、
『分別するからである!』。
又成壞異亦不可得。何以故。無有別故。亦無因故。 又成壊異なれば、亦た不可得なり。何を以っての故に、別なること有る無きが故に、亦た無因なるが故なり。
又、
『成、壊』が、
『異であっても!』、
『認められない!』。
何故ならば、
『別異する!』ことの、
『無い!』が故に、
亦た、
『無因となるからである!』。
復次
 若謂以眼見  而有生滅者 
 則為是癡妄  而見有生滅
復た次ぎに、
若し眼を以って見れば、生滅有りと謂わば、
則ち是れ癡の妄(みだ)りに、生滅有るを見ると為す。
復た次ぎに、
若し、こう謂うならば、――
『眼』で、
『見れば!』、
『生、滅』が、
『有る!』、と。
是れは、
『癡である!』が故に、
『混乱して!』、こう見えたのだ、――
『生、滅』が、
『有る!』、と。
参考
dṛśyate saṃbhavaś caiva vibhavaś caiva te bhavet |
dṛśyate saṃbhavaś caiva mohād vibhava eva ca ||11||
If you think that you can see rising and passing,
rising and passing are seen by delusion.

参考
If you think that you see
Arisal and disintegration,
Arisal and disintegration
Are seen simply due to confusion.

参考
生成も壞滅も現に見られていると,汝には〔そのように〕あるであろう。〔しかるに実は〕,生成と壞滅とは,愚かな迷い(愚癡)によって,見られているにほかならない。
若謂以眼見有生滅者。云何以言說破。是事不然。 若し、『眼を以って見れば、生滅有り。云何が言説を以って破せん』、と謂わば、是の事は然らず。
若し、こう謂うならば、――
『眼』で、
『見た!』から、
『生、滅』は、
『有るのだ!』、
何故、
『言説』で、
『破ろうとするのか?』、と。
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
何以故。眼見生滅者。則是愚癡顛倒故。 何を以っての故に、眼に生滅を見るとは、則ち是れ愚癡の顛倒せるが故なればなり。
何故ならば、
『眼』で、
『生、滅』を、
『見たとしても!』、
是れは、
『愚癡(愚者)』が、
『顛倒する!』が故に、
『見えたのだ!』。
見諸法性空無決定如幻如夢。但凡夫先世顛倒因緣得此眼。今世憶想分別因緣故。言眼見生滅。 諸法の性を見るに、空にして決定無きこと、幻の如く、夢の如し。但だ凡夫は、先世に顛倒の因縁ありて、此の眼を得、今世に憶想分別の因縁あるが故に言わく、『眼に生滅を見る』、と。
諸の、
『法』の、
『性』を見れば、――
『空であり!』、
『決定した!』者が、
『無く!』、
譬えば、
『幻か!』、
『夢のようである!』。
但だ、
『凡夫』は、
先世の、
『顛倒の因縁』の故に、
此の、
『眼』を、
『得て!』、
今世の、
『憶想、分別の因縁』の故に、
こう言うのである、――
『眼』で、
『生、滅』を、
『見た!』、と。
第一義中實無生滅。是事已於破相品中廣說。 第一義中には、実に生滅無し。是の事は、已に破相品中に広く説けり。
『第一義』中には、
実に、
『生、滅』は、
『無い!』。
是の、
『事』は、
已に、
『破相(観三相)品』中に、
『広く説かれている!』。
復次
 從法不生法  亦不生非法 
 從非法不生  法及於非法
復た次ぎに、
法より法を生ぜず、亦た非法をも生ぜず、
非法より生ぜざるは、法と及び非法なり。
復た次ぎに、
『法』より、
『法』は、
『生じない!』し、
亦た、
『非法』も、
『生じない!』。
『非法』より、
『生じない!』のは、
『法』と、
『非法だ!』。
参考
na bhāvāj jāyate bhāvo bhāvo ’bhāvān na jāyate |
nābhāvāj jāyate ’bhāvo ’bhāvo bhāvān na jāyate ||12||
Things are not created from things;
things are not created from nothing;
nothing is not created from nothing;
nothing is not created from things.

参考
Things are not produced from things,
Things are not produced from non-things,
Non-things are not produced from non-things
And non-things are not produced from things.

参考
「存在(もの・こと)」は「存在(もの・こと)」から生ぜられることはない。「存在(も の・こと)」は「非存在(のもの・こと)」から生ぜられることはない。「非存在(のも の・こと)」は「非存在(のもの・こと)」から生ぜられることはない。「非存在(のも の・こと)」は「存在(もの・こと)」から生ぜられることはない。(有は有から生じない。有は無から生じない。無は無から生じない。無は有から生じない)。
從法不生法者。若失若至二俱不然。 法より法を生ぜずとは、若しは失い、若しは至るも、二は倶に然らざればなり。
『法』より、
『法』を、
『生じない!』とは、――
『法』が、
若し、
『法(前法)』が、
『滅失してから!』、
『法(後法)』を、
『生じても!』、
若し、
『法(前法)』が
『法(後法)』に、
『至ってから!』、
『法(後法)』を、
『生じても!』、
是の、
『二種』は、
『どちらも!』、
『間違っているからである!』。
  :法従り法を生じる:前刹那の心数法を因として後の刹那の同類の心数法を生ずる、即ち次第縁の如し。
從法生法。若至若失是則無因。無因則墮斷常。 法より、法を生ずれば、若しは至るも、若しは失うも、是れ則ち無因なり。無因なれば、断常に堕す。
『法』より、
『法』が、
『生じれば!』、――
若し、
『法(前法)』が、
『法(後法)』に、
『至って!』、
『生じたとしても!』、
『法(前法)』が、
『滅失してから!』、
『法(後法)』が、
『生じたとしても!』、
是の、
『法(後法)』は、
『無因であり!』、
『無因』の故に、
『断』に、
『堕ち!』、
『無因の生』の故に、
『常』に、
『堕ちる!』。
若已至從法生法。是法至已而名為生。則為是常。 若し已に至りて、法より法を生ぜば、是の法の至り已るを、名づけて生と為し、則ち是れを常と為す。
若し、
『法(前法)』が、
『法(後法)』に、
『至ってから!』、
『法(後法)』を、
『生じれば!』、
是の、
『法(前法)』が、
『至ってから!』、
『法(後法)』が、
『生じるということであり!』、
則ち、
是の、
『法(前、後法)』が、
『常だということである!』。
又生已更生。又亦無因生。是事不然。 又生じ已って更に生ずれば、又亦た無因にして生ず。是の事は然らず。
又、
『生じてから!』、
更に、
『生じれば!』、
亦た、
是れは、
『無因として!』、
『生じることになり!』、
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
若已失從法生法者。是則失因。生者無因。是故從失亦不生法。 若し已に失いて、法より法を生ずとは、是れ則ち因を失えば、生者は無因なり。是の故に失よりも亦た法を生ぜず。
若し、
『法(前法)』が、
『滅失してから!』、
『法(後法)』を、
『生じさせれば!』、
是れは、
『因』を、
『失い!』、
『生じた!』者は、
『無因である!』。
是の故に、
『滅失した!』、
『法から!』も、
亦た、
『法』を、
『生じない!』。
從法不生非法者。非法名無所有。法名有。云何從有相生無相。是故從法不生非法。 法より、非法を生ぜずとは、非法を、無所有と名づけ、法を有と名づく。云何が有相より、無相を生ぜん。是の故に法より、非法を生ぜず。
『法』より、
『非法』を、
『生じない!』とは、――
『非法』を、
『無所有(何物も無い!)』と、
『称し!』、
『法』を、
『有(存在)』と、
『称すれば!』、
何故、
『有相』より、
『無相』を、
『生じるのか?』。
是の故に、
『法』より、
『非法』を、
『生じない!』。
從非法不生法者。非法名為無。無云何生有。若從無生有者。是則無因。無因則有大過。是故不從非法生法。 非法より、法を生じずとは、非法を名づけて、無と為す。無なれば、云何が有を生ぜん。若し無より、有を生ぜば、是れ則ち無因なり。無因なれば、則ち大過有り。是の故に、非法より法を生ぜず。
『非法』より、
『法』を、
『生じない!』とは、――
『非法』を、
『無』と、
『呼べば!』、――
『無』が、
何故、
『有』を、
『生じるのか?』。
若し、
『無』より、
『有』を、
『生じれば!』、
是の、
『有』は、
『無因である!』。
『無因』には、
『大過』が、
『有り!』、
是の故に、
『非法』より、
『法』を、
『生じない!』。
不從非法生非法者。非法名無所有。云何從無所有生無所有。如兔角不生龜毛。是故不從非法生非法。 非法より、非生を生ぜずとは、非法を無所有と名づくれば、云何が無所有より、無所有を生ぜん。兔角の亀毛を生ぜざるが如し。是の故に非法より、非法を生ぜず。
『非法』より、
『非法』を、
『生じない!』とは、――
『非法』を、
『無所有』と、
『呼べば!』、――
何故、
『無所有』が、
『無所有』を、
『生じるのか?』。
譬えば、
『兔角』は、
『亀毛』を、
『生じないようなものだ!』。
是の故に、
『非法』は、
『非法』を、
『生じない!』。
問曰。法非法雖種種分別故無生。但法應生法。 問うて曰く、法と非法とは、種種の分別の故に無生なりと雖も、但だ法は、応に法を生ずべし。
問い、
『法、非法』を、
種種に、
『分別した!』が故に、
『生』は、
『無かった!』が、
但だ、
『法』は、
『法』を、
『生じるはずだ!』。
答曰
 法不從自生  亦不從他生 
 不從自他生  云何而有生
答えて曰く、
法は自より生ぜず、亦た他より生ぜず、
自他より生ぜず、云何が生有らん。
答え、
『法』は、
自らの、
『法』より、
『生じない!』。
亦た、
他の、
『法』より、
『生じない!』し、
自他の、
『法』より、
『生じない!』。
何故、
『生』が、
『有るのか?』。
参考
na svato jāyate bhāvaḥ parato naiva jāyate |
na svataḥ parataś caiva jāyate jāyate kutaḥ ||13||
Things are not created from themselves,
nor are they created from something else;
they are not created from [both] themselves and something else.
How are they created?

参考
Things are not produced from themselves,
Not produced from something different,
And not produced from both themselves and something different.
How could they be produced?

参考
「存在(もの・こと)」は自身から生ぜられることはない。他者から生ぜられることはない。 自身と他者とから生ぜられることはない。〔それは〕どのようにして,生ぜられるのであろうか。
法未生時無所有故。又即自不生故。是故法不自生。 法は、未だ生じざる時には無所有なるが故に、又即ち自ら生ぜざるが故に、是の故に法は、自らを生ぜず。
『法』は、
未だ、
『生じない!』時には、
『無所有である!』が故に、
又、
とりもなおさず、
『自ら!』を、
『生じさせることがない!』が故に、
是の故に、
『法』は、
『自ら!』を、
『生じさせない!』。
若法未生則亦無他。無他故不得言從他生。 若し、法未だ生ぜざれば、則ち亦た他無し。他無きが故に、『他より、生ず』と言うを得ず。
若し、
『法』が、
未だ、
『生じていなければ!』、
『他』も、
『無いことになる!』。
『他』の、
『無い!』が故に、
こう言うことはできない、――
『他』より、
『生じた!』、と。
又未生則無自。無自亦無他。共亦不生。若三種不生。云何從法有法生。 又未だ生ぜざれば、則ち自無し。自無ければ、亦た他も無し。共なるも、亦た生ぜず。若し三種に生ぜざれば、云何が法より、法の生ずること有らん。
又、
『法』が、
未だ、
『生じていなければ!』、
『自ら!』は、
『無いことになる!』、
『自ら!』が、
『無ければ!』、
『他』も、
『無いことになる!』。
『自、他』、
『共に!』、
『無ければ!』、
『法』は、
『生じることがない!』。
若し、
『法』が、
三種に、
『生じなければ!』、
何故、
『法』より、
有る、
『法』が、
『生じるのか?』。
復次
 若有所受法  即墮於斷常 
 當知所受法  為常為無常
復た次ぎに、
若し所受の法有らば、即ち断常に堕せん、
当に知るべし所受の法は、常と為り無常と為るを。
復た次ぎに、
若し、
『受ける(取る)!』所の、
『法』が、
『有れば!』、
即ち、
『断見か!』、
『常見に!』、
『堕ちるだろう!』。
当然、こう知るべきだ、――
『受ける!』所の、
『法』とは、
即ち、
『常か!』、
『無常かだ!』と。
参考
bhāvam abhyupapannasya śāśvatocchedadarśanam |
prasajyate sa bhāvo hi nityo ’nityo ’tha vā bhavet ||14||
If you assert the existence of things,
the views of eternalism and annihilationism will follow,
because things are permanent and impermanent.

参考
If it is asserted that things exist
The views of permanence and annihilation
Would follow because those things
Would be permanent and impermanent.

参考
「存在(もの・こと)」を承認しているものには,常住と断滅との〔偏〕見,という誤りが付随する。なぜならば,その「存在(もの・こと)」は常であるか,あるいは無常であるか,そのどちらかであろうから。
受法者。分別是善是不善常無常等。是人必墮若常見若斷見。 法を受くるとは、是れ善なり、是れ不善なり、常なり、無常なり等を分別するなり。是の人は、必ず若しくは常見、若しくは断見に堕す。
『法』を、
『受ける』とは、――
是れは、
『善である!』とか、
是れは、
『不善である!』、
『常である!』、
『無常である!』等と、
『分別することであり!』、
是の、
『人』は、
必ず、
『常見か!』、
『断見か!』に、
『堕ちることになる!』。
何以故。所受法應有二種。若常若無常。二俱不然。 何を以っての故に、所受の法は、応に二種有るべく、若しは常、若しは無常なるも、二は倶に然らざればなり。
何故ならば、
『受ける!』所の、
『法』には、
『二種』有り、
『常か!』、
『無常かだ!』が、
『二種』は、
『どちらも!』、
『間違っているからである!』。
何以故。若常即墮常邊。若無常即墮斷邊。 何を以っての故に、若し常なれば、即ち常の辺に堕し、若し無常なれば、即ち断の辺に堕すればなり。
何故ならば、
若し、
『常ならば!』、
即ち、
『常の辺(常見)』に、
『堕ちることになり!』、
若し、
『無常ならば!』、
即ち、
『断の辺(断見)』に、
『堕ちるからである!』。
問曰
 所有受法者  不墮於斷常 
 因果相續故  不斷亦不常
問うて曰く、
有らゆる法を受くる者は、断常に堕せず、
因果相続するが故に、断にあらず亦た常にあらず。
問い、
有らゆる、
『法』を、
『受ける!』者は、
『断見』や、
『常見』に、
『堕ちることはない!』。
『因』と、
『果』とは、
『相続する!』が故に、
『断滅もせず!』、
『常住もしないからだ!』。
参考
bhāvam abhyupapannasya naivocchedo na śāśvatam |
udayavyayasaṃtānaḥ phalahetvor bhavaḥ sa hi ||15||
If you assert the existence of things,
eternalism and annihilationism will not be,
because the continuity of the rising and passing of cause -effect is becoming.

参考
Even though it is asserted that things exist
There would not be annihilation or permanence
Because the continuum of the disintegration of the cause
And the arisal of the result is existence.

参考
「存在(もの・こと)」を承認しているものには,断滅もないし,常住もない。なぜならば, この〔われわれの〕生存は,結果と原因とが生じては滅する連續(相續)なのであるから。
有人雖信受分別說諸法。而不墮斷常。 有る人は、受を信じて、分別し、諸法を説くと雖も、断常に堕せず。
有る人は、
『受』を、
『信じて!』、
『分別し!』、
諸の、
『法』を、
『説いた!』が、
『断見』や、
『常見』に、
『堕ちることはなかった!』。
如經說五陰無常苦空無我。而不斷滅。雖說罪福無量劫數不失。而不是常。 経に、『五陰は無常、苦、空、無我なり』と説くも、而も断滅せず、『罪福は、無量劫数にも失せず』と説くと雖も、而も是れ常にあらざるが如し。
例えば、
『経』には、こう説かれている、――
『五陰』は、
『無常、苦、空、無我である!』が、
『断滅することはない!』。
『罪福』は、
『無量劫にも失われない!』が、
『常でもない!』、と。
何以故。是法因果常生滅相續故往來不絕。生滅故不常。相續故不斷。 何を以っての故に、是の法は、因果常に生滅して相続するが故に、往来して絶えず、生滅するが故に常にあらず、相続するが故に断にあらざればなり。
何故ならば、
是の、
『法』は、
『因』と、
『果』とが、
常に、
『生、滅しながら!』、
『相続する!』が故に、
『往来して!』、
『絶えることがない!』。
則ち、
『生、滅する!』が故に、
『常でなく!』、
『相続する!』が故に、
『断でないからである!』。
答曰
 若因果生滅  相續而不斷 
 滅更不生故  因即為斷滅
答えて曰く、
若し因果生滅し、相続して断ぜざるも、
滅すれば更に生ぜざるが故に、因即ち断滅と為らん。
答え、
若し、
『因、果』は、
『生、滅し!』、
『相続して!』、
『断じなくても!』、
『因』が、
『滅すれば!』、
更に、
『生じない!』が故に、
是の、
『因、果』は、
『断滅である!』。
参考
udayavyayasaṃtānaḥ phalahetvor bhavaḥ sa cet |
vyayasyāpunarutpatter hetūcchedaḥ prasajyate ||16||
If the continuity of the rising and passing of cause-effect is becoming,
because what has passed will not be created again,
it will follow that the cause is annihilat

参考
If the continuum of the disintegration of the cause
And the arisal of the result were existence
Then since the disintegrated is not produced again
It would follow that the cause would be annihilated.

参考
もしもこの〔われわれの〕生存は,結果と原因とが生じては滅するという連續である,と するならば,〔いったん〕滅したものには,再び生ずるということはないから,〔その場合に〕原因の断滅,という誤りが付随する。
若汝說諸法因果相續故不斷不常。若滅法已滅更不復生。是則因斷。 若しは汝、『諸法は因果相続するが故に、不断不常なり』、と説かん。若し滅法已に滅して、更に復た生ぜざれば、是れ則ち因の断なり。
若し、
お前が、こう説くとしても、――
諸の、
『法』は、
『因、果』が、
『相続する!』が故に、
『断でもなく!』、
『常でもない!』、と。
若し、
『滅した!』、
『法』が、
『已に、滅して!』、
『更に、生じければ!』、
是れは、
則ち、
『因』が、
『断じたということになる!』。
若因斷云何有相續。已滅不生故。 若し因断ずれば、云何が相続有らん、已に滅して生ぜざるが故に。
若し、
『因』が、
『断じれば!』、
何故、
『相続』が、
『有るのか?』、
『因』は、
已に、
『滅して!』、
『生じない!』が故に、
何故、
『相続』が、
『有るのか?』。
復次
 法住於自性  不應有有無 
 涅槃滅相續  則墮於斷滅
復た次ぎに、
法にして自性に住せば、応に有無有るべからず、
涅槃にして相続を滅すれば、則ち断滅に堕せん。
復た次ぎに、
若し、
『法』が、
『自性』に、
『住まれば!』、
『有、無』の、
『有るはずがない!』。
『涅槃』が、
『自性』の、
『相続』を、
『滅すれば!』、
則ち、
『断滅』に、
『堕ちることになる!』。
参考
sadbhāvasya svabhāvena nāsadbhāvaś ca yujyate |
nirvāṇakāle cocchedaḥ praśamād bhavasaṃtateḥ ||17||
If things exist essentially,
it would be unreasonable [for them] to become nothing.
At the time of nirvana [they] would be annihilated,
because the continuity of becoming is totally pacified.

参考
If things existed by way of their own entity
It would not be tenable for them to become non-things.
They would be annihilated at the time of nirvana
Because the continuum of existence is totally pacified.

参考
自性(固有の自体)としてすでに実在しているものが,実在しないいもの〔になる〕ということは,正しくない。またニルヴァーナ(涅槃)の時には,生存の連續は寂滅しているから, 〔それは〕断滅〔となるであろう〕。
法決定在有相中。爾時無無相。 法決定して、有相中に在らば、爾の時、無相無し。
『法』が、
決定して、
『有相』中に、
『存在すれば!』、
爾の時、
『無相』は、
『無い!』。
如瓶定在瓶相。爾時無失壞相。隨有瓶時無失壞相。無瓶時亦無失壞相。 瓶の定んで、瓶相に在らば、爾の時、失壊相無きが如し。瓶有る時に随うて失壊相無く、瓶無き時にも亦た失壊相無し。
譬えば、
『瓶』が、
決定して、
『瓶相』中に、
『存在すれば!』、
爾の時、
『失壊相』が、
『無い!』のと、
『同じである!』。
『瓶』の、
『有る!』時には、
随って、
『失壊相』は、
『無く!』、
『瓶』の、
『無い!』時にも、
亦た、
『失壊相』は、
『無い!』。
何以故。若無瓶則無所破。以是義故滅不可得。離滅故亦無生。何以故。生滅相因待故。 何を以っての故に、若し瓶無ければ、則ち破する所無ければなり。是の義を以っての故に、滅は不可得なり。滅を離るるが故に亦た生無し。何を以っての故に、生滅は相因待するが故なり。
何故ならば、
若し、
『瓶』が、
『無ければ!』、
『破れる!』所も、
『無いからである!』。
是の、
『義(意味)』を、
『用いる!』が故に、
『滅』は、
『認められない!』し、
『滅』を、
『離れる!』が故に、
『生』も、
『無い!』。
何故ならば、
『生、滅』は、
互いに、
『因』を、
『待ちあうからである!』。
又有常等過故。是故不應於一法而有有無。 又常等の過有るが故に、是の故に応に一法に於いて、有無有るべからず。
又、
『常』等の、
『過』が、
『有る!』が故に、
是の故に、
『一法』すら、
『有、無』の、
『有るはずがない!』。
又汝先說因果生滅相續故。雖受諸法不墮斷常。是事不然。 又汝が先に説かく、『因果は生滅し相続するが故に、諸法を受くと雖も、断常に堕せず』、とは、是の事然らず。
又、
お前は、
先に、こう説いたが、――
『因、果』は、
『生、滅しながら!』、
『相続する!』が故に、
諸の、
『法』を、
『受ける!』と、
『謂った!』としても、
『断、常見』に、
『堕ちることはない!』、と。
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
何以故。汝說因果相續故有三有相續。滅相續名涅槃。若爾者。涅槃時應墮斷滅。以滅三有相續故。 何を以っての故に、汝が説かく、『因果相続するが故に、三有の相続する有り。相続を滅するを涅槃と名づく』、と。若し爾らば、涅槃の時に、応に断滅に堕すべし。三有の相続するを滅するを以っての故なり。
何故ならば、
お前は、こう説いているが、――
『因、果』の、
『相続する!』が故に、
有る、
『三有(今有、当有、中有)』が、
『相続する!』。
『相続』の、
『滅する!』のを、
『涅槃』と、
『呼ぶ!』、と。
若し、
そうならば、――
『涅槃の時』、
『断滅』に、
『堕ちるはずである!』、
『三有』の、
『相続』を、
『滅するのだから!』。
  三有(さんう):三種の存在( three kinds of existence )、梵語 tri- bhava の訳、◯三界に於ける衆生の三種の状態[欲界、色界、無色界]( The three states of mortal existence in the trailokya, i. e. in the realms of desire, of form, and beyond form. )、◯他の定義として現有[現在の存在、或いは現存する身と心]、当有[未来の状態]、中有 [antaraabhava 中間的な状態]をいう( Another definition is 現有 present existence, or the present body and mind; 當有 in a future state; 中有 antarābhava, in the intermediate state. )。
復次
 若初有滅者  則無有後有 
 初有若不滅  亦無有後有
復た次ぎに、
若し初有滅すれば、則ち後有有る無し、
初有若し滅せざれば、亦た後有有る無し。
復た次ぎに、
若し、
『初の!』、
『有(存在)』が、
『滅すれば!』、
『後の!』、
『有』は、
『無い!』。
若し、
『初の!』、
『有』が、
『滅しなくても!』、
『後の!』、
『有』は、
『無い!』。
参考
carame na niruddhe ca prathamo yujyate bhavaḥ |
carame nāniruddhe ca prathamo yujyate bhavaḥ ||18||
If the end stops,
it is unreasonable for there to be a beginning of becoming.
When the end does not stop,
it is unreasonable for there to be a beginning of becoming.

参考
If the last existence has ceased
The next existence would not be tenable.
And if the last existence has not ceased
The next existence would not be tenable.

参考
最後の〔生存が〕滅したときに,最初 最後の生存〔が起こる〕ということも,正しくない。 また最後の〔生存が〕まだ滅していないときに,最初の生存〔が起こる〕ということ も,正しくない。
初有名今世有。後有名來世有。若初有滅次有後有。是即無因。是事不然。是故不得言初有滅有後有。 初の有を、今世の有と名づけ、後の有を来世の有と名づく。若し初の有滅して、次いで後の有有らば、是れ即ち無因なれば、是の事は然らず。是の故に、『初の有滅して、後の有有り』と言うを得ず。
『初の!』、
『有』を、
『今世の有』と、
『呼び!』、
『後の!』、
『有』を、
『来世の有』と、
『呼ぶ!』時、
若し、
『初の!』、
『有』が、
『滅してから!』、
次いで、
『後の!』、
『有』が、
『有れば!』、
是の、
『有』は、
『無因となる!』ので、
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
是の故に、
こう言うことはできない、――
『初の!』、
『有』が、
『滅しても!』、
『後の!』、
『有』が、
『有る!』、と。
若初有不滅。亦不應有後有。何以故。若初有未滅而有後有者。是則一時有二有。是事不然。是故初有不滅無有後有。 若し初の有滅せざれば、亦た応に後の有有るべからず。何を以っての故に、若し初の有未だ滅せざるに、後の有有らば、是れ則ち一時に二有有り、是の事は然らず。是の故に初の有滅せざれば、後の有有ること無し。
若し、
『初の!』、
『有』が、
『滅していなければ!』、
『後の!』、
『有』の、
『有るはずがない!』。
何故ならば、
若し、
『初の!』、
『有』が、
『滅していない!』のに、
『後の!』、
『有』が、
『有れば!』、
是れは、
『一時に!』、
『二有』が、
『存在するからであり!』、
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
是の故に、
『初の!』、
『有』が、
『滅していなければ!』、
『後の!』、
『有』は、
『無い!』。
問曰。後有不以初有滅生。不以不滅生。但滅時生。 問うて曰く、後の有は、初の有の滅するを以って生ぜず、滅せざるを以って生ぜず、但だ滅する時にのみ生ず。
問い、
『後の有』は、
『初の有』が、
『滅してから!』、
『生じるのでもなく!』、
『初の有』が、
『滅しないのに!』、
『生じるのでもない!』、
但だ、
『滅する!』時に、
『生じるのだ!』。
答曰
 若初有滅時  而後有生者 
 滅時是一有  生時是一有
答えて曰く、
若し初の有の滅する時に、後の有生ぜば、
滅する時に是れ一有、生ずる時に是れ一有なり。
答え、
若し、
『初の!』、
『有』の、
『滅する!』時、
『後の!』、
『有』が、
『生じれば!』、
則ち、
『滅する!』時の、
是の、
『有』が、
『一であり!』、
『生じる!』時の、
是の、
『有』も、
『一である!』。
参考
nirudhyamāne carame prathamo yadi jāyate |
nirudhyamāna ekaḥ syāj jāyamāno ’paro bhavet ||19||
If the beginning is created while the end is stopping,
the stopping would be one and the creating would be another.

参考
If a ceasing existence
Were to produce the next existence
The ceasing existence would be one
And the existence being produced would be a further one.

参考
もしも最後の〔生存が〕現に滅しつつあるときに,最初の〔生存が〕生ずる,というので あるならば,現に滅しつつあるものが一つ〔の生存〕であり,現に生じつつあるものは, 他〔の生存〕である,ということになるであろう。
若初有滅時。後有生者。即二有一時俱。一有是滅時。一有是生時。 若し初の有の滅する時、後の有生ぜば、即ち二有一時に倶にして、一有は是れ滅する時、一有は是れ生ずる時なり。
若し、
『初の!』、
『有』の、
『滅する!』時、
『後の!』、
『有』が、
『生じれば!』、
即ち、
『二有』が、
『一時に!』、
『いっしょになる!』、
『一有』は、
『滅する!』時の、
『有であり!』、
『一有』は、
『生じる!』時の、
『有である!』。
問曰。滅時生時二有俱者則不然。但現見初有滅時後有生。 問うて曰く、滅時と生時の二有倶なれば、則ち然らず。但だ現に見る、初の有の滅する時、後の有の生ずるを。
問い、
『滅する!』時と、
『生じる!』時との、
『二有』が、
『いっしょである!』ことが、
『正しくない!』としても、
但だ、
現に、こう見えている、――
『初の!』、
『有』が、
『滅する!』時、
『後の!』、
『有』が、
『生じる!』、と。
答曰
 若言於生滅  而謂一時者 
 則於此陰死  即於此陰生
答えて曰く、
若し『生、滅に於いて』と言い、『一時なり』と謂わば、
則ち此の陰に於いて死し、即ち此の陰に於いて生ず。
答え、
若し、
こう言うならば、――
『生』と、
『滅』とは、
『一時だ!』、と。
則ち、
こういうことになる、――
此の、
『五陰』に於いて、
『死んだのに!』、
此の、
『五陰』に於いて、
『生れた!』、と。
参考
na cen nirudhyamānaś ca jāyamānaś ca yujyate |
sārdhaṃ ca mriyate yeṣu teṣu skandheṣu jāyate ||20||
If it is also unreasonable for stopping and creating to be together,
aren’t the aggregates that die also those that are created?

参考
When it is also not tenable for the ceasing existence
And the existence being produced to exist together
Could aggregates that are dying
Be the ones that take birth?

参考
現に滅しつつあるものと,現に生じつつあるものとが,共にある(同時にある) ということは,正しくない。〔もしもそのようであるならば〕,これらの構成要素(五蘊)において死に, またその〔同じ構成要素〕において生まれる,ということになるであろう。
若生時滅時一時無二有。而謂初有滅時後有生者。今應隨在何陰中死。即於此陰生。不應餘陰中生。 若し生時と滅時と一時なるも、二有無きに、『初の有の滅する時、後の有生ず』、と謂わば、今は応に何なる陰中に在りて死するに随い、即ち此の陰に於いて生ずべく、応に余の陰中に生ずべからず。
若し、
『生じる!』時と、
『滅する!』時と、
『一時だが!』、
『二有』は、
『無い!』として、
而も、
こう謂うならば、――
『初の!』、
『有』の、
『滅する!』時、
『後の!』、
『有』が、
『生じる!』、と。
今、
何の、
『五陰』中に、
『死ぬ!』に、
『随って!』、
『とりもなおさず!』、
此の、
『五陰』中に、
『生れることになり!』、
他の、
『五陰』中には、
『生れるはずがないのか?』。
何以故。死者即是生者。如是死生相違法。不應一時一處。 何を以っての故に、死者即ち是れ生者なれば、是の如き死生の相は法に違えば、応に一時に一処たるべからざればなり。
何故ならば、
『死んだ!』者が、
即ち、
『生れた!』者ならば、
是のような、
『死、生の相』は、
『法(道理)』に、
『違背する!』ので、
『生、死』が、
『一時に!』、
『一処のはずがない!』。
是故汝先說滅時生時一時無二有。但現見初有滅時後有生者。是事不然。 是の故に汝が、先に説かく、『滅時と生時と一時なるも、二有無く、但だ現に、初有の滅する時、後有の生ずるを見る』とは、是の事然らず。
是の故に、
お前は、
先に、こう説いたが、――
『滅する!』時と、
『生じる!』時とは、
『一時だが!』、
是れに、
『二有』は、
『無く!』、
但だ、
現に、こう見える、――
『初の!』、
『有』が、
『滅する!』時、
『後の!』、
『有』が、
『生じる!』、と。
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
復次
 三世中求有  相續不可得 
 若三世中無  何有有相續
復た次ぎに、
『三世』中に有の相続するを、求むるも不可得なり、
若し三世中に無くんば、何んが有の相続する有らん。
復た次ぎに、
『三世』中に、
『有』の、
『相続』を、
『求めた!』が、
『得られなかった!』。
若し、
『三世』中に、
『無ければ!』、
何処に、
『有』の、
『相続』は、
『有るのか?』。
参考
evaṃ triṣv api kāleṣu na yuktā bhavasaṃtatiḥ |
triṣu kāleṣu yā nāsti sā kathaṃ bhavasaṃtatiḥ ||21||
Likewise, if the continuity of becoming is not reasonable at any of the three times,
how can there be a continuity of becoming which isnon-existent in the three times?

参考
Thus, when a continuum of rebirth
Is not tenable in the three times
How could that which does not exist in the three times
Be a continuum of existence?

参考
このように,三つの時(過去,未來,現在)において生存の連續〔がある〕というのは, 正しくない。およそ三つの時において存在しないような,そのような生存の連續が, どのようにして〔ある〕であろうか。
三有名欲有色有無色有。無始生死中不得實智故。常有三有相續。今於三世中諦求不可得。 三有を欲有、色有、無色有と名づく。無始の生死中に、実智を得ざるが故に、常に三有の相続有り。今三世中に諦求して不可得なり。
『三有』を、
『欲有、色有、無色有』と、
『称する!』。
『無始の生死』中に、
『実の智』を、
『得られない!』が故に、
常に、
『三有』の、
『相続』が、
『有る!』ので、
今、
『三世』中に、
『諦(真実)』を、
『求めた!』が、
『得られなかった!』。
  (たい):真実( truth )、梵語 satya の訳、本当/真実の( true, real, actual, genuine, sincere )、正直/誠実な( honest, truthful, faithful )、純粋/善良な( pure, virtuous, good )、成功した/有効な( successful, effectual, valid )の義、仏教徒に於いては真実/教義/原理( a truth, a dogma, an axiom )の義、聖諦 aaryasatya に相当する。
若三世中無有。當於何處有有相續。當知有有相續。皆從愚癡顛倒故有。實中則無
中論卷第三
若し三世中に有無くんば、当に何処に於いて、有の相続有るべし。当に知るべし、有の相続有りとは、皆、愚癡の顛倒によるが故に有り、実中なれば則ち無し。
中論巻第三
若し、
『三世』中に、
『有』が、
『無ければ!』、
何処に、
『有』の、
『相続』が、
『有るのか?』。
当然、
こう知るべきだ、――
『有』の、
『相続』が、
『有れば!』、
皆、
『愚癡の顛倒』に、
『従う!』が故に、
『有る!』が、
『実』中には、
『無い!』、と。

中論巻第三


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