巻第二
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中論 巻第二
 龍樹菩薩造
 梵志青目釋
 姚秦三藏鳩摩羅什譯


中論觀三相品第七(三十五偈)

問曰。經說有為法有三相生住滅。萬物以生法生。以住法住。以滅法滅。是故有諸法。 問うて曰く、経に説かく、『有為法には、三相有りて生、住、滅す。万物は、生を以って法生じ、住を以って法住し、滅を以って法滅す』、と。是の故に、諸法有り。
問い、
『経』には、こう説かれている、――
『有為法(造られた事物)』には、
『三』の、
『相』が、
『有り!』、
『法(事物)』の、
『生』、
『住』、
『滅である!』。
『万物』は、
『生』という、
『相』で、
『法』が、
『生じ!』、
『住』という、
『相』で、
『法』が、
『住し!』、
『滅』という、
『相』で、
『法』が、
『滅する!』、と。
是の故に、
諸の、
『法』は、
『有る!』。
  有為法(ういほう):条件付けられた/縁生の現象/事物( conditioned phenomena )、梵語 saMskRta- dharma, saMskRta の訳、諸の因と縁との和合として造られた顕在的現象( Manifest phenomena that are created as the synthesis of causes and conditions )。それは因縁によって造られ、生起し、変異し、消滅する( That which is created by cause and condition, and which arises, changes and ceases )。それは業の作用によって造られる( That which is created by cause and condition, and which arises, changes and ceases )。造られた事物/縁生の存在/条件付けられた存在( Created things. Conditioned existence. That which is conditioned )。又五蘊の色、受、想、行、及び識をも指す、此等は皆、条件付けられた/有為の法だからである( Also refers to the five skandhas of form, feeling, perception, impulse and consciousness, all of which are conditioned dharmas )。汚染/苦悩( Defilement, affliction )。それは一時的、又は仮りのものである( That which is temporary or provisional )。
  三相(さんそう):三種の様相( three aspects )、梵語 triiNi- lakSaNaani の訳、有為法( saMskRta- dharma )の三種の表れである生相、住相、滅相( The three marks of arising 生相, abiding 住相, and ceasing 滅相 )の意。
  生相(しょうそう):生起を表わす( to mark of arising )、梵語 jaati, utpaad- lakSaNa, saMbhava- lakSaNa 等の訳。三相、或いは四相の一。
  住相(じゅうそう):住居を表わす( to mark of abiding )、梵語 sthiti の訳、三相、或いは四相の一。
  滅相(めっそう):絶滅を表わす( to mark of extinction )、梵語 niruddha- lakSaNa, nirodha- dharmin, anityataa, kSaya- dharman, nirodha- lakSaNa, vyaya- lakSaNa 等の訳、例えば現在は、過去中に遷移して消滅する( Extinction, as when the present passes into the past )。三相、或いは四相の一。
  参考:『舎利弗阿毘曇論巻16』:『何謂無相定。除空定。若餘定。以聖涅槃為境界。是名無相定。復次無相定。行有相。涅槃無相。行有三相。生住滅。涅槃無三相。不生不住不滅。如是行有相。涅槃無相。涅槃是寂滅。是舍宅。是救護。是燈明。是依止。是不終沒。是歸趣。是無燋熱。是無憂惱。是無憂悲苦惱。及餘諸行。思惟涅槃。得定心住正住。是名無相定。』
  参考:『阿毘曇毘婆沙論巻20』:『世尊說三有為相。問曰。何故作此論。答曰。為止他義故。如譬喻者。不欲令一剎那中有三有為相。彼作是說。若一剎那中。有三有為相者。則一法一時。即生即老。即無常。問曰。若然者。其義云何。答言。法初時名生。後時名無常。此二中間名老。如是說者。則一剎那中。無三有為相。此說不如實分別。所以者何。說一生中相似法故。一生中。初生者名生。最後者名無常。此二中間名老。若作是說者。則一法無三相。為止如是說者意。亦明一法有三相故。問曰。若一法有三相者。云何不一法一時即生即老即無常耶。答曰。所作異故。所以者何。法生時。生有所作。法滅時。老無常有所作。以所作次第各異故。而無有過。是故為止他義。欲顯己義亦欲說法相相應義故。而作此論。此三有為相。有為法。有生有滅有住變。云何有為法一剎那中。有生有滅有住變耶。答曰。法起時生。生彼法。法滅時滅。滅彼法。住變是老。老能熟彼法。問曰。若然者。法體是變異者。云何法不捨自體耶。若不變異者。何以說住變是老。答曰。應作是說。法體無變異。問曰。何以說住變是老耶。答曰。此是老名老。名為老亦名住變。復有說者。以其體不異故。名不變異。所作異故。名為變異。所以者何。法生時所作異。滅時所作異。云何生時所作異。滅時所作異。答曰。法生時有力。有功能。有所作法滅時。衰退散壞。以是義故。言有變異。復有說者。法迅速故生。迅速遲微故滅。濕潤故生。萎枯故滅。復有說者。以經三世故變異。所以者何。過去法異未來現在法』
答曰不爾。何以故。三相無決定故。 答えて曰く、爾らず。何を以っての故に、三相に決定無きが故なり。
答え、
『間違っている!』、
何故ならば、――
『三相』は、
『決定する!』ことが、
『無い!』からだ。
是三相為是有為能作有為相。為是無為能作有為相。二俱不然。 是の三相は、是れ有為にして、能く有為相を作すと為(せ)んや、是れ無為にして、能く有為相を作すと為んや。二は倶に然らず。
是の、
『三相』は、――
是れは、
『有為であって!』、
『有為相』を、
『作すのか?』、
是れは、
『無為であって!』、
『有為相』を、
『作すのか?』。
是の、
『二種』は、
『どちらも!』、
『正しくない!』。
  有為相(ういそう):有為法の相( a mark of conditioned phenomena )、梵語 saMskRta- lakSaNa, saMskaara- lakSaNa )の訳、結合された/形成された/完成されたものの目印/シンボル/象徴/特質/属性/資質( a mark, sign, symbol, token, characteristic, attribute, quality of that which is put together, constructed, well or completely formed, perfected )の義。
  三有為相(さんういそう):因縁所造の三種の目印( the three marks of conditioned things )、梵語 tri- saMskRta- lakSaNa の訳、因縁の法則[有作]に帰因する/依存して生起する有らゆる事物の条件付きの状態を指す/( Indicating the conditioned state of all things, resulting from the laws of karma, or arising dependently: )即ち、
  1. 生相 utpaada( the mark of arising )、
  2. 住相 sthiti( the mark of abiding )、
  3. 滅相 niruddha- lakSaNa( the mark of cessation )。
何以故
 若生是有為  則應有三相 
 若生是無為  何名有為相
何を以っての故に、
若し生是れ有為なれば、則ち応に三相有るべし、
若し生是れ無為なれば、何んが有為相と名づくる。
何故ならば、
若し、
『生』が、
『有為ならば!』、
則ち、
『三相』が、
『有るはずだ!』し、
若し、
『生』が、
『無為ならば!』、
何故、
『有為相』と、
『呼ばれるのか?』。
  有為(うい):条件付けられた/~の状態にある( conditioned )、梵語 saMskRta の訳、合成された/創造された/引き起こされた/行動的な/変化する/現象的な/因縁の法則[有作]に帰因する過程( Compounded, created, caused, active, changing, phenomenal, the processes resulting from the laws of karma )の義、無為に対す( unconditioned opposite of )。三有為法は色法・心法・非色非心法である( The three compounded phenomena 三有爲法 are material, or things which have form, mental and neither the one nor the other. )、四有為相は生住異滅である( The four forms of activity are coming into existence, abiding, change, and extinction )、此等は三有為相としても説かれ、中間の住、異が同種の意味をもつものとして扱われる( they are also spoken of as three, the two middle terms being treated as having similar meaning. )。
  無為(むい):条件付けられない( unconditioned )、梵語 asaMskRta の訳、合成されない/被造物でない( Uncompounded, uncreated )の義、原因或は条件に基づいて生起させられないもの( that which is not arisen on the basis of causes and conditions. )、( That which is unconnected with the relationship of cause and effect. )、生住滅を超越した完全に永久・真実なる実在( Absolutely eternal true reality which transcends arising-changing-cessation. )、涅槃/真如の異名( Another name for nirvāṇa or tathatā. )である。阿毘達磨では三種に無為法を分類し( In Abhidharma there are three types of unconditioned dharmas )、瑜伽派は六種に分類する( in Yogâcāra, there are six types )。非活動的・消極的であり、無干渉であり、自然であり、原因がなく、因/縁/依存に従属せず、超越的であり、時間に従属せず、変化せず、永久的であり、活動することが無く、煩悩と感覚を離れ、現象的でなく直感的であるので、亦た涅槃/実相/真実/法界と呼ばれることもある( Non-active, passive; laisser-faire; spontaneous, natural; uncaused, not subject to cause, condition, or dependence; transcendental, not in time, unchanging, eternal, inactive, and free from the afflictions or senses; non-phenomenal, noumenal; also interpreted as nirvāṇa, Dharma-nature, reality, and dharmadhātu. )。
参考
yadi saṃskṛta utpādas tatra yuktā trilakṣaṇī |
athāsaṃskṛta utpādaḥ kathaṃ saṃskṛtalakṣaṇam ||1||
If birth were compounded,
it would possess the three characteristics [of a compound].
If birth were uncompounded,
how would it be a characteristic of a compound?

参考
If production were compounded
It would possess the three characteristics.
If production were uncompounded
How could it be a characteristic of the compounded?

参考
もしも生ずること(生)がつくられたもの(諸現象,有為)であるならば,そこ (生)には,三つの特質[生起(生),持續(住),消滅(滅)の三相]が妥当するであろう。しかし,も しも生がつくられないもの(現象しなもの,無為) であるならば,どうして,[生は]つくられたものという特質(有為相)[が有るであろう]か。 〔三枝充惪《中論偈頌総覧》以下同〕
若生是有為。應有三相生住滅。是事不然。何以故。共相違故。 若し、生是れ有為なれば、応に三相の生住滅有るべし。是の事は然らず。何を以っての故に、共に相違するが故なり。
若し、
『生』が、
『有為ならば!』、
『三相』の、
『生、住、滅』が、
『有るはずだ!』が、
是の、
『事』は、
『正しくない!』。
何故ならば、
『三相』は、
『どれもが!』、
『相違するからだ!』。
相違者。生相應生法。住相應住法。滅相應滅法。 相違するとは、生は生の法に相応し、住は住の法に相応し、滅は滅の法に相応すればなり。
『相違する!』とは、――
『生(生相)』は、
『生法』に、
『相応し!』、
『住(住相)』は、
『住法』に、
『相応し!』、
『滅(滅相)』は、
『滅法』に、
『相応するからである!』。
  生法(しょうぼう):梵語 utpaada- dharma の訳、生という法( Dharma of birth )。
  住法(じゅうほう):梵語 sthiti- dharma の訳、住という法( Dharma of abide )。
  滅法(めっぽう):梵語 nirodha- dharma の訳、滅という法( Dharma of cessation )。
若法生時。不應有住滅相違法。一時則不然。如明闇不俱。 若し法、生の時なれば、応に住、滅の相違の法有るべからず。一時なれば、則ち然らざること、明闇の倶にせざるが如し。
若し、
『法』の、
『生じる!』時ならば、
『住』とか、
『滅』という、
『相違する!』、
『法』は、
『有るはずがない!』。
若し、
『一時』に、
『生』とか、
『住』とか、
『滅』という、
『法』が、
『有れば!』、
是れは、
『間違っている!』。
譬えば、
『明』と、
『闇』とが、
『いっしょにならない!』のと、
『同じことだ!』。
  生住滅(しょうじゅうめつ):有為法の有する三種の相。生、住、滅の三相(The three marks of arising 生相, abiding 住相, and ceasing 滅相.)は、説一切有部に於いては言葉、謂わゆる名衆、句衆、文衆(collections of words, collections of phrases, collections of syllables)等に同じく、行蘊所摂の有為法として心不相応諸行(mental factors not concomitant with mind)中に摂す。有為法に摂すべき単独の生、住、滅と、有為法の三相たる生、住、滅とは本来別に考うべきところ、言葉が同じであるが故に、尚お詭辯の存する余地が有る。蓋し法の定義が曖昧なまま、法を以って有らゆる概念の根本(色法、心法、心所法、心不相応法、無為法)に据えたところに問題があるのかも知れない。
  
以是故生不應是有為法。住滅相亦應如是。 是を以っての故に、生は、応に是れ有為法なるべからず。住、滅の相も亦た応に是の如くなるべし。
是の故に、
『生』は、
『有為法であるはずがない!』。
『住』や、
『滅』も、
亦た、
『是の通りであるはずだ!』。
問曰。若生非有為。若是無為有何咎。 問うて曰く、若し生、有為に非ずして、若し是れ無為なれば、何の咎か有る。
問い、
若し、
『生』が、
『有為でなく!』、
『無為ならば!』、
何のような、
『咎』が、
『有るのか?』。
答曰。若生是無為。云何能為有為法作相。 答えて曰く、若し生、是れ無為ならば、云何が、能く有為法の為めの相と作らん。
答え、
若し、
『生』が、
『無為』ならば、
何故、
『有為法』の為めに、
『相』と、
『作れるのか?』。
何以故。無為法無性故。因滅有為名無為。是故說不生不滅名無為相。更無自相。是故無法。不能為法作相。 何を以っての故に、無為法には性無きが故なり。有為を滅するに因り、無為と名づく。是の故に不生不滅を説いて、無為の相と名づくれば、更に自相無し。是の故に法無く、法の為めに、相と作る能わず。
何故ならば、
『無為法』には、
『性』が、
『無いからだ!』。
『心』中の、
『有為法(妄想の法)』を、
『滅する!』に、
『因り!』、
其の、
『心』を、
『無為(涅槃)』と、
『呼ぶのだ!』。
是の故に、
『不生』とか、
『不滅』とかを、
説いて、――
『無為法』の、
『相』と、
『呼ぶ!』が、
『無為法』には、
更に、これ以上、
『自ら!』の、
『相』は、
『無い!』。
是の故に、
『法(実体)』が、
『無く!』、
『法』の為めに、
『相』と、
『作ることもできない!』。
如兔角龜毛等不能為法作相。是故生非無為。住滅亦如是。 兔角、亀毛等の如く、法の為めの相と作る能わず。是の故に生は、無為に非ず。住、滅も亦た是の如し。
譬えば、
『兎』には、
『角』が、
『無く!』、
『亀』には、
『毛』が、
『無いように!』、
『無為』には、
『自ら!』の、
『相』が、
『無く!』、
『自ら!』の、
『法』も、
『無く!』、
『法』の為めに、
『相』と、
『作ることもできない!』。
是の故に、
『生』は、
『無為でなく!』、
『住、滅』も、
亦た、
『是の通りだ!』。
復次
 三相若聚散  不能有所相 
 云何於一處  一時有三相
復た次ぎに、
三相若し聚散せば、所相有る能わず、
云何が一処に、一時に三相有らん。
復た次ぎに、
若し、
『三相』が、
『集まったり!』、
『散らばったり!』すれば、
『所相の(相を取られる!)』、
『法』は、
『有ることができない!』。
何故、
『一処(一法)、一時』に、
『三相』が、
『有るというのか?』。
参考
utpādādyās trayo vyastā nālaṃ lakṣaṇakarmaṇi |
saṃskṛtasya samastāḥ syur ekatra katham ekadā ||2||
The three such as birth cannot individually be that which characterises compounds.
How is it possible for one at one time to be compounded [of all three]?

参考
Individually, the three – production and so forth
Are not capable to be characteristics of the compounded.
Also how could it be acceptable for them to be included together
In one thing at the same time?

参考
生などの三[相]が別別のものであるならば,[三相が]有為の[生と住と滅という ]特質としてはたらくのに,充分ではない。[それら(三相)が]合一するならば,どう して,同一处に同一時に,存在する[ことができる]であろうか。
是生住滅相。若一一能為有為法作相。若和合能與有為法作相。二俱不然。 是の生住滅の相は、若し一一にして、能く有為法の為めに、相と作り、若しは和合して、能く有為法の与に、相と作らば、二は倶に然らず。
是の、
『生、住、滅』の、
『相』は、――
若しは、
『一一』が、
『個別に!』、
『有為法』の為めに、
『相』と、
『作るのか?』、
若しは、
『三』が、
『和合して!』、
『有為法』の為めに、
『相』と、
『作るのか?』、
是の、
『二』は、
『どちらも!』、
『間違っている!』。
何以故。若謂一一者。於一處中或有有相。或有無相。生時無住滅。住時無生滅。滅時無生住。 何を以っての故に、若し、一一と謂わば、一処中に、或は相有る有り、或は相無き有り、生の時には、住と滅無く、住の時には、生と滅と無く、滅の時には、生と住と無し。
何故ならば、
若し、
こう謂うならば、――
『一一だ!』、と。
則ち、
『一』の、
『処()』中に、
或は、
有る、
『相』は、
『有る!』が、
或は、
有る、
『相』は、
『無いことになる!』。
則ち、
『生じる!』時には、
『住』と、
『滅』とが、
『無く!』、
『住する!』時には、
『生』と、
『滅』とが、
『無く!』、
『滅する!』時には、
『生』と、
『住』とが、
『無い!』。
若和合者。共相違法。云何一時俱。 若し、和合なれば、共に法に相違す。云何が、一時に倶にせん。
若し、
『和合すれば!』、
皆が、
『法』と、
『相違する!』。
何うして、
『一時』に、
『いっしょになれるのか?』。
若謂三相更有三相者。是亦不然。 若し、『三相には、更に三相有り』、と謂わば、是れも亦た然らず。
若し、
こう謂うならば、――
是の、
『三相』は、
更に、
『三相』が、
『有る!』、と。
是れも、
亦た、
『間違っている!』。
何以故
 若謂生住滅  更有有為相 
 是即為無窮  無即非有為
何を以っての故に、
若し生住滅に、更に有為の相有りと謂わば、
是れ即ち無窮と為し、無ければ即ち有為に非ず。
何故ならば、
若し、
こう謂うならば、――
『生、住、滅』には、
更に、
『有為相』が、
『有る!』、と。
是の、
『相』は、
『窮まる!』ことが、
『無い!』が、
更に、
『有為相』が、
『無ければ!』、
是れは、
即ち、
『有為でない!』。
参考
utpādasthitibhaṅgānām anyat saṃskṛtalakṣaṇam |
asti ced anavasthaivaṃ nāsti cet te na saṃskṛtāḥ ||3||
If birth,
abiding and perishing had an other characteristic of being compounded,
this would be endless.
If not, they would not be compounded.

参考
If production, abiding and disintegration
Had the other characteristics of the compounded
There would be an infinite regress.
If they didn’t, they would not be compounded.

参考
もしも生と住と滅とに,[さらにそれらを成立させるための]それ以外の有為相が存在するとするならば,無限遡及(無窮)となってしまうであろう。もしもそのように[ それ以外の有為相は]存在しないとするならば,それら(生と住と滅)は有為ではない, ということになってしまうであろう。
若謂生住滅更有有為相。生更有生有住有滅。如是三相復應更有相。若爾則無窮。 若し『生、住、滅に更に有為の相有り』、と謂わば、生には、更に生有り、住有り、滅有り。是の如き三相は、復た応に更に相有るべし。若し爾らば、則ち無窮なり。
若し、
こう謂うならば、――
『生、住、滅』には、
更に、
『有為相』が、
『有る!』、と。
若し、
『生』に、
更に、
『生、住、滅』が、
『有れば!』、
是のような、
『三相』にも、
復た、
更に、
『三相』が、
『有ることになり!』、
若し、
爾うならば、
『窮まる!』ことが、
『無いことになる!』。
若更無相。是三相則不名有為法。亦不能為有為法作相。 若し、更に相無ければ、是の三相は、則ち有為法と名づけず、亦た有為法の為めに相と作る能わず。
若し、
更に、
『三相』が、
『無ければ!』、
是の、
『三相』は、
『有為法』と、
『呼ばれない!』。
亦た、
『有為法』の為めに、
『相』と、
『作ることもできない!』。
問曰。汝說三相為無窮。是事不然。生住滅雖是有為。而非無窮。 問うて曰く、汝は三相を説いて、無窮と為すも、是の事は然らず。生、住、滅は、是れ有為なりと雖も、無窮に非ず。
問い、
お前は、
こう説いた、――
『三相』には、
『窮まり!』が、
『無い!』、と。
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
『生、住、滅』は、
『有為であっても!』、
而し、
『窮まり!』が、
『無いわけではない!』。
何以故
 生生之所生  生於彼本生 
 本生之所生  還生於生生
何を以っての故に、
生生の生ずる所は? 彼の本生を生ず、
本生の生ずる所は? 還って生生を生ず。
何故ならば、
『生生』に、
『生じさせられる!』ものとは、――
『生生』は、
彼の、
『本生』を、
『生じさせる!』。
『本生』に、
『生じさせられる!』ものとは、――
『本生』は、
また、
『生生』を、
『生じさせる!』。
  生生(しょうしょう):梵語 utpaadotpaada の訳、生の生( the production of production )。
  本生(ほんしょう):梵語 muulotpaada の訳、根本の生( the root production )。
参考
utpādotpāda utpādo mūlotādasya kevalam |
utpādotādam utpādo maulo janayate punaḥ ||4||
The birth of birth gives birth to the root birth alone.
The root birth also is that which gives birth to the birth of birth.

参考
The production of production
Produces just the root production.
The root production
Also produces the production of production.

参考
生を生じさせるもの(生生)は,ただたんに根本の生(生の原理,本生)のみを生ずる。 そしてまた,[その]本生は生生を生じさせる。
法生時通自體七法共生。一法二生三住四滅五生生六住住七滅滅。 法の生ずる時、自体を通じて、七法共に生ず。一に法、二に生、三に住、四に滅、五に生生、六に住住、七に滅滅なり。
『法』は、
『生じる!』時、
『自ら!』の、
『体』を、
『通じて!』、
『七法』が、
『いっしょに!』、
『生じる!』。
一には、
『法(自体)』、
二には、
『生(本の生)』、
三には、
『住(本の住)』、
四には、
『滅(本の滅)』、
五には、
『生生』、
六には、
『住住』、
七には、
『滅滅である!』。
  参考:『阿毘達磨大毘婆沙論巻39』:『問諸有為相於有為法。為是自相為共相耶。設爾何失。若是自相云何一法而有四相。若是共相云何一切有為法各各別有四相耶。有作是說。此是自相。問若爾云何一法有四相耶。答一法四相亦無有失。如一色法有多種相。所謂如病如癰如箭。乃至廣說百四十相。然此自相非如四大種堅濕煖動相。但一一法各各別有生住異滅故名自相。復次自相有二種。一者主自相。二者客自相。此有為相是有為法客自相非主自相。故一法有四相亦無有失。復次自相有二種。一者本性自相。二者他合自相。此有為相是有為法。他合自相。非本性自相故一法有四相亦無有失。有餘師說。此是共相。問若爾云何一切有為法各各別有四相耶。答以相似故名為共相。如一法上有生等四。餘法亦然非如一縷貫在眾花故名共相。復有說者。此非自相亦非共相。諸有為法生住異滅名義同故體各別故。然此生等是法標印。若有此者知是有為。如大士相於彼大士。不名自相亦非共相但是標印。若有此者知是大士。生等亦然評曰。應作是說。此是共相。然共相有二種。一者自體共相。謂一一有為法自體各有生等四義。二者和合共相。謂一一有為法各與生等四相和合。此四但是和合共相問生相復有餘生相不。設爾何失。若有者此復有餘。此復有餘如是展轉應成無窮。若無者誰生此生而生他耶。答應作是說。生復有生。問若爾生相應成無窮。有作是說。許此無窮亦無有失。三世寬博豈無住處。由是因緣生死難斷難破難越眾苦生長連鎖無窮。又同一剎那故無無窮失。有餘師說。諸行生時三法俱起。一者法二者生三者生生。此中生能生二法。謂法及生生。生生唯生一法。謂生。由此道理無無窮失。問何故生能生二法。生生唯生生耶。答法性爾故不應為難。如諸女人有生二子有生一子。豈應為難評曰。應作是說。諸行生時九法俱起。一者法。二者生。三者生生。四者住。五者住住。六者異。七者異異。八者滅。九者滅滅。此中生能生八法。謂法及三相四隨相。生生唯生一法。謂生由此道理無無窮失。問何故生能生八法。生生唯生生耶。答法性爾故不應為難。如雞犬等有生八子有生一子。豈應為難。如生與生生。住與住住。異與異異。滅與滅滅。應知亦爾。問諸行起時除其自性餘有為法皆有作用能生此法。何故唯說生能生此法耶。答諸行起時生正能生。餘但佐助故但說生能生此法。如女產時雖有諸女而為佐助母正生故獨名產者。尊者世友作如是說。要有生故此法得生故但說生能生此法。此義有餘亦待餘緣此法生故。復作是說。若無生者此法不生故但說生能生此法。此亦有餘。若無餘緣法不生故。大德說曰。生相勝故說生能生。謂法起時雖有餘緣而生最勝。如伎書畫染衣等時雖有餘緣而說勝者。如但說生能生此法故名生相。住異滅相應知亦然』
是七法中。本生除自體。能生六法。生生能生本生。本生能生生生。是故三相雖是有為。而非無窮。 是の七法中、本生は、自体を除き、能く六法を生ず。生生は、能く本生を生ず。本生の能く生生を生ずれば、是の故に三相は、是れ有為なりと雖も、無窮に非ず。
是の、
『七法』中、――
『本生』は、
『自体』を、
『除いて!』、
『六法』を、
『生じさせ!』、
『生生』が、
『本生』を、
『生じさせ!』、
『本生』が、
『生生』を、
『生じさせる!』。
是の故に、
『三相』は、
『有為である!』が、
『無窮ではない!』。
答曰
 若謂是生生  能生於本生 
 生生從本生  何能生本生
答えて曰く、
若し是の生生は、能く本生を生ずと謂わば、
生生は本生に従うに、何ぞ能く本生を生ずる。
答え、
若し、
こう謂うならば、――
是の、
『生生』が、
『本生』を、
『生じさせる!』、と。
是の、
『生生』は、
『本生』の、
『後に従う!』。
何故、
『本生』を、
『生じさせられるのか?』。
参考
utpādotāda utpādo mūlotādasya te yadi |
maulenājanitas taṃ te sa kathaṃ janayiṣyati ||5||
If your birth of birth gives birth to the root birth,
how does that which is not yet born from your root give birth to that [root birth]?

参考
If your production of production
Produces the root production
How could that which has not yet been produced by your root production
Produce that root production?

参考
汝の說で,もしも生生が本生を生じさせるというならば,まだ本[生]によって生ぜられていないそれ(生生)が,どうして,それ(本生) を生じさせるのであろうか。
若是生生能生本生者。是生生則不名從本生生。 若し、是の生生、能く本生を生ぜば、是の生生は、則ち本生に従って生ずと名づけず。
若し、
是の、
『生生』が、
『本生』を、
『生じさせれば!』、
是の、
『生生』は、こうは呼ばれない、――
『本生』の、
『後に従って!』、
『生じる!』、と。
何以故。是生生從本生生。云何能生本生。 何を以っての故に、是の生生は、本生に従って生ずれば、云何が、能く本生を生ぜん。
何故ならば、
是の、
『生生』は、
『本生』の、
『後に従って!』、
『生じるからだ!』。
何故、
『本生』を、
『生じさせられるのか?』。
復次
 若謂是本生  能生於生生 
 本生從彼生  何能生生生
復た次ぎに、
若し是の本生は、能く生生を生ずと謂わば、
本生は彼れに従うて生ず、何ぞ能く生生を生ぜん。
復た次ぎに、
若し、
こう謂うとすれば、――
是の、
『本生』は、
『生生』を、
『生じさせる!』、と。
『本生』は、
彼の、
『生生』の、
『後に従って!』
『生じた!』のに、
何故、
『生生』を、
『生じさせられるのか?』。
参考
sa te maulena janito maulaṃ janayate yadi |
maulaḥ sa tenājanitas tam utpādayate katham ||6||
If that which is born from your root birth gives birth to the root,
how does that root which is born from that give birth to that [from which it is born]?

参考
If that produced by your root production
Produces the root production
How could that root production which has not yet produced by that
Produce that production of production?

参考
汝の說で,もしも本[生]によって生ぜられたそれ(生生)が本[生]を生じさせるというならば,それ(生生)によってまだ生ぜられていないその本[生]が,どうして,それ (生生)を生じさせるのであろうか。
若謂本生能生生生者。是本生不名從生生生。 若し、『本生は、能く生生を生ず』、と謂わば、是の本生を、『生生に従って生ず』、と名づけず。
若し、
こう謂うならば、――
『本生』は、
『生生』を、
『生じさせる!』、と。
是の、
『本生』は、こう呼ばれない、――
『生生』の、
『後に従って!』、
『生じる!』、と。
何以故。是本生從生生生。云何能生生生。生生法應生本生。而今生生不能生本生。 何を以っての故に、是の本生は、生生に従って生ずれば、云何が、能く生生を生ぜん。生生の法は、応に本生を生ずべし。而るに今、生生は、本生を生ずる能わず。
何故ならば、
是の、
『本生』は、
『生生』の、
『後に従って!』、
『生じたからである!』。
何故、
『生生』を、
『生じさせられるのか?』。
『生生』という、
『法』は、
『本生』を、
『生じさせるはず!』なのに、
今、
『生生』は、
『本生』を、
『生じさせられない!』。
生生未有自體。何能生本生。是故本生不能生生生。 生生に、未だ自体有らざるに、何ぞ能く本生を生ぜん。是の故に、本生は、生生を生ずる能わず。
『生生』は、
未だ、
『自体』が、
『無い(存在しない)!』のに、
何故、
『本生』を、
『生じさせられるのか?』。
是の故に、
『本生』は、
『生生』を、
『生じさせられない!』。
問曰。是生生生時非先非後。能生本生。但生生生時能生本生。 問うて曰く、是の生生の生ずる時、先に非ず、後に非ずして、能く本生を生ず。但だ生生の生ずる時にのみ、能く本生を生ず。
問い、
是の、
『生生』は、
『生じる!』時の、
『先でもなく!』、
『後でもなく!』、
『本生』を、
『生じさせる!』、
但だ、
『生生』の、
『生じる!』時のみ、
『本生』を、
『生じさせる!』。
答曰不然。 答えて曰く、然らず。
答え、
『間違っている!』。
何以故
 若生生生時  能生於本生 
 生生尚未有  何能生本生
何を以っての故に、
若し生生生ずる時、能く本生を生ぜば、
生生尚お未だ有らざるに、何ぞ能く本生を生ぜん。
何故ならば、
若し、
『生生』は、
『生じる!』時に、
『本生』を、
『生じさせるとすれば!』、
『生生』は、
尚お、
未だ、
『存在しない!』のに、
何故、
『本生』を、
『生じさせられるのか?』。
若謂生生生時能生本生可爾。而實未有。是故生生生時。不能生本生。 若し、『生生は、生ずる時、能く本生を生ずれば、爾るべし』と謂わば、而も実に未だ有らず。是の故に、生生は生ずる時、本生を生ずる能わず。
若し、
こう謂うとすれば、――
『生生』は、
『生じる!』時に、
『本生』を、
『生じさせられる!』、と。
そうかも知れないが、――
而し、
実に、
『生生』は、
未だ、
『存在しない!』。
是の故に、
『生生』は、
『生じる!』時にも、
『本生』を、
『生じさせられない!』。
復次
 若本生生時  能生於生生 
 本生尚未有  何能生生生
復た次ぎに、
若し本生生ずる時、能く生生を生ぜば、
本生尚お未だ有らず、何ぞ能く生生を生ぜん。
復た次ぎに、
若し、
『本生』は、
『生じる!』時、
『生生』を、
『生じさせるとすれば!』、
『本生』は、
尚お、
未だ、
『存在しない!』。
何故、
『生生』を、
『生じさせられるのか?』。
参考
ayam utpādyamānas te kāmam utpādayed imam |
yadīmam utpādayitum ajātaḥ śaknuyād ayam ||7||
If that which has not been born is able to give birth to that,
that of yours which is being born should be able to give birth to that.

参考
If that root production which has not yet been produced
Is able to produce that
This would rely on you accepting that the root production
Which is being produced could produce that.

参考
汝の說で,もしもこのまだ生じていないもの(本生)がそれ(生生)を生じさせることができるとするならば,この現に生じつつあるもの(本生)が,随意に,それ(生生)を生じさせることになるであろう。
若謂是本生生時能生生生可爾。而實未有。是故本生生時。不能生生生。 若し、『是の本生の生ずる時、能く生生を生ず』、と謂いて爾るべくんば、而も実に未だ有らず。是の故に、本生は生ずる時、生生を生ずる能わず。
若し、
こう謂うとすれば、――
是の、
『本生』は、
『生じる!』時
『生生』を、
『生じさせられる!』、と。
そうかも知れないが、――
而し、
実に、
『本生』は、
未だ、
『存在しない!』。
是の故に、
『本生』は、
『生じる!』時、
『生生』を、
『生じさせられない!』。
問曰
 如燈能自照  亦能照於彼 
 生法亦如是  自生亦生彼
問うて曰く、
灯は能く自ら照らし、亦た能く彼を照らすが如く、
生法も亦た是の如く、自ら生じ亦た彼れを生ず。
問い、
譬えば、
『灯』が、
『自ら!』を、
『照らすことができ!』、
亦た、
『彼れ!』を、
『照らすことができる!』ように、
『生法』も、
亦た、
是のように、
『自ら!』を、
『生じさせて!』、
亦た、
『彼れ!』をも、
『生じさせる!』。
参考
pradīpaḥ svaparātmānau saṃprakāśayate yathā |
utpādaḥ svaparātmānāv ubhāv utpādayet tathā ||8||
Just as lamplight illuminates itself and others,
likewise birth too gives birth to both itself and the thing of others.

参考
Just as a light illuminates
Itself and other things
Similarly, also production produces
Both itself and other things.

参考
あたかも灯りがそれ自身と他のものと[の両者]をともに照らし得るように,同樣に, 生はそれ自身と他のものとの両者を,ともに生じさせるであろう。
如燈入於闇室照了諸物。亦能自照。生亦如是。能生於彼。亦能自生。 灯の、闇室に入りて、諸の物を照了し、亦た能く自ら照らすが如く、生も亦た是の如く、能く彼を生じ、亦た能く自らを生ず。
譬えば、
『灯』を、
『闇室』に、
『入れる!』と、
諸の、
『物』を、
『照明しながら!』、
亦た、
『自ら!』を、
『照らす!』ように、
『生法』も、
亦た、
是のように、
『彼れ!』を、
『生じさせて!』、
亦た、
『自ら!』を、
『生じさせる!』。
答曰不然。 答えて曰く、然らず。
答え、
『間違っている!』。
何以故
 燈中自無闇  住處亦無闇 
 破闇乃名照  無闇則無照
何を以っての故に、
灯中には自ら闇無く、住処にも亦た闇無し、
闇を破れば乃ち照と名づく、闇無ければ則ち照無し。
何故ならば、
『灯』は、
『自ら!』に、
『闇』が、
『無く!』、
『住まる処』にも、
『闇』が、
『無い!』。
『闇』を、
『破る!』が故に、
乃ち(ようやく)、
『照らす!』と、
『呼ばれる!』が、
『闇』が
『無ければ!』、
則ち、
『照らす!』ことも、
『無いからだ!』。
参考
pradīpe nāndhakāro ’sti yatra cāsau pratiṣṭhitaḥ |
kiṃ prakāśayate dīpaḥ prakāśo hi tamovadhaḥ ||9||
Wherever lamplight is present there is no darkness.
What does lamplight illuminate?
It illuminates by dispelling darkness.

参考
Since in any place where there is a light
There is no darkness
What would the light illuminate
Since illumination is by dispelling darkness?

参考
灯りのなかにも,またそれ(灯り)が立っているところにも,闇は存在しない。灯りは何 を照らすのか。なぜならば,照らすとは,闇を滅ぼすということなのであるから。
燈體自無闇。明所及處亦無闇。明闇相違故。 灯の体は、自ら闇無く、明の及ぶ所の処にも、亦た闇無し、明と闇と相違うが故なり。
『灯』は、
『自ら!』に、
『闇』が、
『無く!』、
『明の及ぶ処』にも、
『闇』は、
『無い!』。
何故ならば、
『明、闇』が、
『相違(背反)するからである!』。
破闇故名照。無闇則無照。何得言燈自照亦照彼。 闇を破るが故に照と名づく。闇無ければ、則ち照無し。何ぞ、『灯は自ら照らし、亦た彼れを照らす』と言うを得んや。
『闇』を、
『破る!』が故に、
『照らす!』と、
『呼べば!』、
『闇』が、
『無ければ!』、
則ち、
『照らす!』ことは、
『無い!』。
何故、
こう言えるのか?――
『灯』は、
『自ら!』を、
『照らし!』、
亦た、
『彼れ!』をも、
『照らす!』、と。
問曰。是燈非未生有照亦非生已有照。但燈生時。能自照亦照彼。 問うて曰く、是の灯、未だ生ぜずして、照有るに非ず、亦た生じ已りて、照有るにも非ず、但だ灯の生ずる時、能く自ら照らし、亦た彼れを照らす。
問い、
是の、
『灯』は、
未だ、
『生じずに!』、
『照らす!』ことが、
『有るのでもなく!』、
亦た、
已に、
『生じて!』、
『照らす!』ことが、
『有るのでもない!』。
但だ、
『灯』の、
『生じる!』時に、
『自ら!』を、
『照らし!』、
亦た、
『彼れ!』を、
『照らす!』。
答曰
 云何燈生時  而能破於闇 
 此燈初生時  不能及於闇
答えて曰く、
云何が灯の生ずる時、而も能く闇を破らん、
此の灯の初めて生ずる時、闇に及ぶ能わず。
答え、
何故、
『灯』が、
『生じる!』時、
『闇』を、
『破ることができるのか?』。
此の、
『灯』は、
初めて、
『生じた!』時、
『闇』に、
『及ぶことができない!』。
参考
katham utpadyamānena pradīpena tamo hatam |
notadyamāno hi tamaḥ pradīpaḥ prāpnute yadā ||10||
If, when lamplight is being generated,
it does not encounter darkness,
how does the generation of lamplight dispel darkness?

参考
When a light is being produced
If it does not meet with the darkness
How then is the darkness dispelled
By the producing of the light?

参考
現に生じつつある灯りによって,どうして,闇が除かれるのか。なぜならば,現に生じつつある灯りは,そのときにはまだ,闇に到達していないのであるから。
燈生時名半生半未生。燈體未成就云何能破闇。 灯の生ずる時を、半ば生じ、半ば未だ生ぜずと名づく。灯の体の未だ成就せざるに、云何が、能く闇を破らん。
『灯』の、
『生じる!』時を、
こう呼ぶ、――
半ば、
『生じて!』、
半ば、
『生じない!』、と。
『灯』は、
未だ、
『体』が、
『完成していない!』のに、
何故、
『闇』を、
『破ることができるのか?』。
又燈不能及闇。如人得賊乃名為破。若謂燈雖不到闇而能破闇者。是亦不然。 又灯は、闇に及ぶ能わざれば、人の賊を得て、乃ち名づけて、破ると為すが如く、若し、『灯は、闇に到らずと雖も、能く闇を破る』、と謂わば、是れも亦た然らず。
又、
『灯』は、
『闇』に、
『及ぶことができない!』、――
譬えば、
『人』が、
『賊』を、
『捕獲して!』、
ようやく、
『破る!』と、
『呼ばれるようなものだ!』。
若し、
こう謂うならば、――
『灯』は、
『闇』に、
『到らなくても!』、
『闇』を、
『破ることができる!』、と。
是れも、
亦た、
『間違っている!』。
何以故
 燈若未及闇  而能破闇者 
 燈在於此間  則破一切闇
何を以っての故に、
灯若し未だ闇に及ばず、而も能く闇を破らば、
灯は此の間に在りて、則ち一切の闇を破らん。
何故ならば、
『灯』が、
未だ、
『闇』に、
『及ばない!』のに、
『闇』を、
『破ることができれば!』、
則ち、
『灯』が、
此の、
『間()』に、
『在れば!』、
一切の、
『闇』を、
『破ることになるからだ!』。
参考
aprāpyaiva pradīpena yadi vā nihataṃ tamaḥ |
ihasthaḥ sarvalokasthaṃ sa tamo nihaniṣyati ||11||
If darkness is dispelled even though it does not encounter lamplight,
this [lamplight] dwelling here would eliminate the darkness
that dwells in all the worlds.

参考
If the darkness is dispelled
Without even meeting the light
Then the darkness existing in all the worlds
Could be dispelled by that light existing here.

参考
あるいは,もしも〔灯りが闇に〕到達しないまま,その灯りによって闇が除かれるというならば,いまここにとどまっているそれ(灯り)が,一切世間(全世界)にとどまる闇を除いてしまうことになるであろう。
若燈有力。不到闇而能破者。此處燃燈。應破一切處闇。俱不及故。 若し灯に力有りて、闇に到らざるに、能く破らば、此の処に燃ゆる灯は、応に一切の処の闇を破るべし。倶に及ばざるが故に。
若し、
『灯』に、
『力』が、
『有って!』、
『闇』に、
『到らなくても!』、
『破ることができれば!』、
此の、
『処』に、
『燃える!』、
『灯』は、
一切の、
『処』の、
『闇』を、
『破るはずだ!』。
何故ならば、
『灯、闇』は、
『どちらも!』、
『及ぶことがないからだ!』。
復次燈不應自照照彼。 復た次ぎに、灯は、応に自ら照らし、彼れを照らすべからず。
復た次ぎに、
『灯』は、
『自ら!』も、
『彼れ!』も、
『照らすはずがない!』、――
何以故
 若燈能自照  亦能照於彼 
 闇亦應自闇  亦能闇於彼
何を以っての故に、
若し灯能く自ら照らし、亦た能く彼れを照さば、
闇も亦た応に自ら闇にし、亦た能く彼を闇にすべし。
何故ならば、
若し、
『灯』が、
『自ら!』を、
『照らすことができ!』、
亦た、
『彼れ!』をも、
『照らすことができれば!』、
『闇』も、
『自ら!』を、
『闇にして!』、
亦た、
『彼れ!』をも、
『闇にすることができるはずだ!』。
参考
pradīpaḥ svaparātmānau saṃprakāśayate yadi |
tamo ’pi svaparātmānau chādayiṣyaty asaṃśayam ||12||
If lamplight illuminated itself and the thing of others,
darkness too would without doubt obscure itself and the thing of others.

参考
If a light could illuminate
Itself and other things
Then also darkness could, without a doubt, obscure
Itself and other things.

参考
もしも灯りがそれ自身と他のものとの両者をともに照らすとするならば,闇もまた,疑いもなく,それ自身と他のものとの両者をともに覆うことになるであろう。
若燈與闇相違故。能自照亦照於彼。闇與燈相違故。亦應自蔽蔽彼。 若し灯と、闇と相違うが故に、能く自ら照らし、亦た彼れを照らさば、闇と、灯と相違うが故に、亦た応に自ら蔽い、彼れを蔽うべし。
若し、
『灯』が、
『闇』と、
『相違する!』が故に、
『自ら!』を、
『照らして!』、
亦た、
『彼れ!』を、
『照らすことができれば!』、
『闇』は、
『灯』と、
『相違する!』が故に、
亦た、
『自ら!』、
『蔽(おお)って!』、
亦た、
『彼れ!』をも、
『蔽うはずだ!』。
若闇與燈相違。不能自蔽蔽彼。燈與闇相違。亦不應自照亦照彼。 若し闇と、灯と相違いて、自ら蔽い、彼れを蔽う能わずんば、灯と、闇と相違いて、亦た応に自ら照らし、亦た彼れを照らすべからず。
若し、
『闇』が、
『灯』と、
『相違する!』が故に、
『自ら!』を、
『蔽わず!』、
亦た、
『彼れ!』をも、
『蔽うことができなければ!』、
『灯』は、
『闇』と、
『相違する!』が故に、
亦た、
『自ら!』を、
『照らさず!』、
亦た、
『彼れ!』をも、
『照らすことができないはずだ!』。
是故燈喻非也。 是の故に灯の喩は非なり。
是の故に、
『灯』は、
『譬喩として!』、
『妥当でない!』。
破生因緣未盡故。今當更說
 此生若未生  云何能自生 
 若生已自生  生已何用生
生の因縁を破りて、未だ尽きざるが故に、今当に更に説くべし、
此の生若し未だ生ぜずんば、云何が能く自ら生ぜん、
若し生じ已りて自ら生ぜば、生じ已りて何んが生を用いん。
『生』の、
『因縁』を、
『破った!』が、
未だ、
『尽くは!』
『破っていない!』ので、
今、更に説くことにしよう、――
此の、
『生』が、
若し、
未だ、
『生じなければ!』、
何故、
『自ら!』を、
『生じさせられるのか?』。
若し、
『生』が、
『生じてから!』、
『自ら!』を、
『生じさせれば!』、
『生』は、
『生じてから!』、
何故、
『生』を、
『用いるのか?』。
  因縁(いんねん):因と緣( cause(s) and condition(s) )、梵語 hetu- pratyaya の訳、因 hetu が結果を直接招く主たる原因をいうに対し、緣 pratyaya は結果を生じることを助け、或いは与る間接的原因をいう( In the most basic sense, the character 因 refers to a main cause, which directly incurs a result, while 緣 refers to an indirect cause, which helps or participates in producing the result)。仏教哲学に於ける、精神作用の要因を記述する術語の中に於いて、此の術語は、直接的な原因となる条件 [緣] を表わす( In terms of the description of the causal factors involved in a mental event in Buddhist philosophy, this term denotes conditions that are direct causes )。唯識と経師部に於いては、原因に関する四種の型 [四縁] の一として明かされている( one of the four types of causes set forth in Yogâcāra 四緣 and Sautrāntika )。意識の理論中極めて狭い文脈に於いては、それは有らゆる精神作用を起す最も直接的原因としての種子を指すこともある( in the narrower context of consciousness theory, it refers to the seeds (種子 bīja) that are the most direct cause for any given mental event )。◯梵語 nidaana の訳、因果関係( causal situation )。十二因縁は、存在の全期間に於ける、原因と結果の連鎖である( The 十二因緣 twelve nidānas or links are 'the concatenation of cause and effect in the whole range of existence.' )。◯梵語 kaaraNa の訳、論理的原因、理由( Logical cause, reason )。◯梵語 pratiitya- samutpaada の訳、縁起( dependent origination )。
  (いん):原因( a cause )、梵語 hetu, kaaraNa, biijatva 等の訳、原因を生じさせるもの( That which produces a result )、原因/種子/起源/元素/根源( Cause, seed, origin, element, root )、説一切有部に於いては六因を説く( In Sarvâstivādin teachings cause is divided into six kinds )。緣に対し、結果を齎す主たる、又は最も密接な関係を有する原因を指す( In contrast to 'condition(s)' 緣 (pratyaya), the term refers to the primary, or most intimately related cause of an effect )。因と緣との関係に於いて、因は、より内面的、直接的な原因であり、一方緣は、外面的、補助的にして、かつ間接的原因を指す( In the case of the relation between 'causes' and 'conditions,' 'cause' refers to a more internal and direct cause, while 'condition' refers to external, auxiliary, and indirect causes )。◯梵語 nidaana の訳、因果関係の基礎( a causal basis )。◯梵語 aagamya の訳、原理/基礎( a basis )。
  (えん):条件( condition )、梵語 pratyaya の訳、間接的原因/二次的原因/補助的原因/原因となるべき状況/原因となるべき条件( ndirect cause; secondary cause; associated conditions; causal situation, causal condition )。有らゆる事物は、原因/結果の原理の対象であるが、結果を生じさせる原因を助ける為めの条件/状況があり、間接的原因と呼ばれる( All things are subject to the principle of cause and effect, but there are conditions/circumstances that aid the causes that produce an effect, which are called indirect causes )。仏教は一般的に因果関係に強い関心を寄せているが、特に因縁生起の法則に見られるような、原因や要因に関する事柄は、ほとんど有らゆる議論に於いて見られる( Given the strong attention that Buddhism pays in general to matters of causation, especially as seen in the theory of dependent arising, the matter of associated causes and factors is seen in almost any discussion )。因を種に喩えれば、緣は土、雨、日光等に喩えられる( Hetu is like a seed, pratyaya the soil, rain, sunshine, etc )。認識に関する仏教理論、特に唯識に於いては、縁は通常、知覚力のある対象をいい、認識機能 [識] の為めに必要なものである( In Buddhist theories of cognition, especially in Yogācāra, 緣 is used to refer to the perceptual objects that are necessary for the function of the consciousnesses 識 )。此の意味に於いて、境といわれる対象の概念と幾分重なっている( In this sense, there is some overlap with the concept of 'object' expressed in Chinese as 境 ( Skt. aalambana ) )。従って、有る対象として捉えること/把握すること/関係づけること/関係づけられること( Thus, to take as an object. To lay hold of; connect with; be connected with )。心が外界の対象に向うこと/感じること/知覚/認識( The mind facing an object of the external world. To sense, perceive or cognize )。◯梵語 nidaana の訳、原因的状況( causal situation )。四縁の一( A reference to the four kinds of causes 四緣 )。
参考
anutpanno ’yam utpādaḥ svātmānaṃ janayet katham |
athotanno janayate jāte kiṃ janyate punaḥ ||13||
How can unborn birth give birth to itself?
If the born gives birth, when it has been born,
what would be born?

参考
Due to not having been produced
How could this production produce itself?
If it is a producer due to having been produced
Since already produced, what is there to be produced?

参考
まだ生じていないこの生は,それ自身をどうして生じさせるのであろうか。しかるに,もしもすでに生じたものが〔それ自身を〕生じさせるとするならば,すでに生じいるのに,そのうえさらに,何を生じさせるか。
是生自生時。為生已生。為未生生。 是の生は、自ら生ずる時、生じ已って生ずと為(せ)んや、未だ生ぜざるに生ずと為んや。
是の、
『生』が、
『自ら!』を、
『生じさせる!』時、
『生』は、
已に、
『生じてから!』、
『生じさせるのか?』、
未だ、
『生じない!』のに、
『生じさせるのか?』。
若未生生則是無法。無法何能自生。 若し未だ生ぜざるに生ぜば、則ち是れ法無し。法無くんば何ぞ能く自ら生ぜん。
若し、
未だ、
『生じない!』のに、
『生じさせれば!』、
是の、
『生』には、
『法()』が、
『無い!』。
『法』が、
『無いのに!』、
何故、
『自ら!』を、
『生じさせられるのか?』。
若謂生已生。則為已成。不須復生。如已作不應更作。 若し『生じ已りて生ず』と謂わば、則ち已に成ずと為し、復た生を須(もち)いず。已に作したれば、応に更に作すべからざるが如し。
若し、
こう謂えば、――
已に、
『生じてから!』、
『生じさせる!』、と。
是の、
『生』は、
已に、
『法』が、
『完成しており!』、
もう、
『生』を、
『必要としない!』。
譬えば、
已に、
『作せば!』、
更に、
『作すはずがない!』のと、
『同じことだ!』。
若已生若未生。是二俱不生故無生。汝先說生如燈能自生亦生彼。是事不然。住滅亦如是。 若しは已に生じ、若しは未だ生ぜざる、是の二は倶に生ぜざるが故に、生無し。汝は、先に、『生は、灯の如く、能く自ら生じ、亦た彼れを生ず』、と説けるも、是の事は、然らず。住、滅も亦た是の如し。
若し、
『生』が、
已に、
『生じていても!』、
未だ、
『生じていなくても!』、
是の、
『二』は、
どちらも、
『生じない!』が故に、
則ち、
『生』は、
『無いことになる!』。
お前は、
先に、こう説いた、――
『生』は、
『灯のように!』、
『自ら!』を、
『生じさせ!』、
亦た、
『彼れ!』をも、
『生じさせる!』、と。
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
『住』も、
『滅』も、
亦た、
『是の通りだ!』。
復次
 生非生已生  亦非未生生 
 生時亦不生  去來中已答
復た次ぎに、
生は生じ已りての生に非ず、亦た未生の生にも非ず、
生ずる時にも亦た生ぜずと、去来中に已に答えたり
復た次ぎに、
『生』は、
已に、
『生じてから!』、
『生じるのでもなく!』、
未だ、
『生じないのに!』、
『生じるのでもなく!』、
亦た、
『生じる!』時に、
『生じるのでもない!』と、
『去来品』中に、
已に、答えた!。
参考
notpadyamānaṃ notpannaṃ nānutpannaṃ kathaṃ cana |
utpadyate tad ākhyātaṃ gamyamānagatāgataiḥ ||14||
The born and the unborn,
the being born do not in any way give birth.
That has been explained by the gone, not gone and going.

参考
The produced, the unproduced and that being produced
Are not produced even in any kind of way.
That has been thoroughly explained by
The traversed, the untraversed and that being traversed.

参考
現に生じつつあるものも,すでに生じたものも,まだ生じていないものも,どうしても生じない。このようなことは,現に去りつつある〔もの〕,すでに去った〔もの〕,いまだ去らない〔もの〕によって,すでに解說された〔とおりである〕。
生名眾緣和合有生。已生中無作故無生。未生中無作故無生。 生は、衆縁和合して、生有りと名づく。已生中には、作無きが故に、生無く、未生中にも、作無きが故に、生無し。
『生』を、こう呼べば、――
『衆縁(多くの縁)』の、
『和合』に、
『生』が、
『有る!』、と。
『過去』の、
『生』中には、
『作( performing )』が、
『無い!』が故に、
則ち、
『生』が、
『無く!』、
『未来』の、
『生』中』にも、
『作』が、
『無い!』が故に、
則ち、
『生』が、
『無い!』。
  (さ):梵語kriyaaの訳。行為、造作、doing、performing、act等の意。
生時亦不然。離生法生時不可得。離生時生法亦不可得。云何生時生。是事去來中已答。 生時も亦た然らず。生法を離れては、生時を得べからず、生時を離れては、生法も亦た得べからず。云何が生時に生ずる。是の事は、古来中に已に答う。
『生じる!』時にも、
亦た、
『そうではない!』。
何故ならば、
『生法』を、
『離れて!』、
『生時』は、
『認められず!』、
『生時』を、
『離れれば!』、
『生法』も、
『認められない!』。
何故、
『生時』に、
『生じる!』と、
『言えるのか?』と、
是の、
『事』は、
『去来品』中に、  ――去来品:去る時にも去らない!――
『已に、答えた!』。
已生法不可生。何以故。生已復生。如是展轉則為無窮。如作已復作。 已生の法は生ずべからず。何を以っての故に、生じ已りて復た生ずればなり。是の如く展転すれば、則ち無窮と為すこと、作し已りて復た作すが如し。
『過去』の、
『生法』は、
『生じない!』、――
何故ならば、
『生じてから!』、
復た、
『生じるからだ!』、
是のように、
展転すれば、  ――どんどん進めば――
則ち、
『窮まる!』ことが、
『無い!』、
譬えば、
『作してから!』、
復た、
『作すように!』。
復次若生已更生者。以何生法生。是生相未生。而言生已生者。則自違所說。何以故。生相未生而汝謂生。 復た次ぎに、若し生じ已りて、更に生ずれば、何の生法を以ってか、生ずる。是の生相、未だ生ぜざるに、『生じ已りて生ず』、と言わば、則ち自ら説く所と違わん。何を以っての故に、生相未だ生ぜざるに、汝は、『生ず』と謂えばなり。
復た次ぎに、
若し、
『生じてから!』、
更に、
『生じれば!』、
何の、
『生法』が、
『生じるのか?』。
是の、
『生相』が、
未だ
『生じていない!』のに、
若し、こう言えば、――
『生』が、
『生じてから!』、
『生じさせる!』と、
則ち、
自ら、
『所説』に、
『相違することになる!』。
何故ならば、
未だ、
『生相』が、
『生じない!』のに、
お前は、
こう謂うからだ、――
『生じる!』、と。
  参考:『阿毘達磨大毘婆沙論巻39』:『問諸有為法生時。為體是生法故生。為與生相合故生耶。設爾何失。若體是生法故生者。生相則應無用。若與生相合故生者。則無為法生相合故亦應可生。答應作是說。體是生法故生。問若爾生相則應無用。答雖體是生法若無生相合者則不可生。故彼生時由生相合生相是彼生勝因故如可破法破因能破及可斷法斷因能斷。故可生法生相能生。有作是說。與生相合故生問若爾無為與生相合亦應可生。答無為無有生相合義故不可生。如虛空等。無破因合故不可破。無斷因合故不可斷。無生相合故不可生應知亦爾。生相與彼未嘗合故。有為住異二種問答應知亦爾。問諸有為法滅時。為體是無常法故滅為與無常相合故滅耶設爾何失。若體是無常法故滅者則無常相應成無用。若與無常相合故滅者。則無為法無常合故亦應可滅答應作是說體是無常法故滅。問若爾無常相則應無用。答雖體是無常法。若無無常相合者則不可滅。故彼滅時由無常合。無常是彼滅勝因故。如可生法生因能生此亦如是。有作是說。與無常相合故滅。問若爾無為與無常合應亦可滅。答無為無有無常合義故不可滅。如虛空等無生相合故不可生。此亦如是無常與彼未嘗合故。有餘師說。有為體是生住異滅若無四相則不可知。猶如闇中有瓶衣等。若無燈照則不可知。此亦如是。故有為相是彼了因。評曰。應知此中初說為善問如有為法有有為相。無為亦有無為相耶。設爾何失。若有者云何無為名非聚法。若無者品類足說當云何通。如說云何不生不住不滅法。謂一切無為法。答應作是說諸無為法無無為相問若爾品類足說當云何通。答翻對有為故作是說。謂有為法有生住滅。無為異彼說不生等。非謂別有不生等相如契經說。佛告苾芻。汝等有生有老有死有沒有出。所以者何。汝等諸行猶如幻事陽焰等故。問此中所說生出死沒有何差別。有作是說無有差別。生即是出死即是沒。一切皆是剎那性故。尊者世友作如是說。入母胎時名生出母胎時名出。諸蘊熟時名沒。捨諸蘊時名死。脅尊者曰。中有諸蘊得時名出。捨時名沒。生分諸蘊得時名生。捨時名死。尊者妙音作如是說。胎卵濕生諸蘊起時名生諸根漸生故壞時名死有餘屍骸故。化生諸蘊起時名出諸根頓出故。壞時名沒無餘屍骸故。大德說曰。於諸趣中初受生時名生。命根盡時名死。中間諸蘊剎那生時名出。剎那滅時名沒。尊者覺天作如是說。有色有情生時名生。死時名死。無色有情生時名出。死時名沒。是謂生出死沒差別』
若未生謂生者。法或可生已而生。或可未生而生。汝先說生已生。是則不定。 若し未だ生ぜざるに、生ずと謂わば、法は、或いは生じ已りて生ずるも可なり、或いは未だ生ぜずして生ずるも可なり。汝は、先に生じ已りて生ずと説けば、是れ則ち定まらず。
若し、
未だ、
『生じずに!』、
『生じさせる!』と、
『謂えば!』、――
『法』は、
或は、
已に、
『生じてから!』、
『生じさせてもよく!』、
或は、
未だ、
『生じずに!』、
『生じさせてもよい!』。
お前は、
先に、こう説いた、――
『生じてから!』、
『生じる!』、と。
而し、
是れは、
『定まらないのだ!』。
復次如燒已不應復燒。去已不應復去。如是等因緣故。生已不應生。 復た次ぎに、焼き已れば、応に復た焼くべからず、去り已れば、応に復た去るべからざるが如し。是の如き等の因縁の故に、生じ已りて、応に生ずべからず。
復た次ぎに、
譬えば、
『焼けば!』
復た、
『焼くはずがない!』し、
『去れば!』、
復た、
『去るはずがないように!』、
是れ等のような、
『因縁』の故に、
『生じれば!』、
復た、
『生じるはずがない!』。
未生法亦不生。何以故。法若未生。則不應與生緣和合。若不與生緣和合。則無法生。 未生の法も亦た生ぜず。何を以っての故に、法、若し未生なれば、則ち応に生の縁と和合すべからざればなり。若し生の縁と和合せざれば、則ち法の生ずる無し。
『未生の法』も、
亦た、
『生じない!』、――
何故ならば、
若し、
『法』が、
『未生ならば!』、
則ち、
『生の縁』と、
『和合するはずがない!』。
若し、
『生の縁』と、
『和合しなければ!』、
則ち、
『法の生』は、
『無いことになる!』。
若法未與生緣和合而生者。應無作法而作。無去法而去。無染法而染。無恚法而恚。無癡法而癡。如是則皆破世間法。是故未生法不生。 若し法、未だ生の縁と和合せざるに、生ぜば、応に作法無くして、作すべく、去法無くして、去るべく、染法無くして、染すべく、恚法無くして、恚るべく、癡法無くして、癡なるべし。是の如きは、則ち皆世間の法を破る。是の故に、未生の法は生ぜず。
若し、
『法』が、
未だ、
『生の縁』と、
『和合しない!』のに、
『生じれば!』、
則ち、
『作法』が、
『無い!』のに、
『作さねばならず!』、
『去法』が、
『無い!』のに、
『去らねばならず!』、
『染法』が、
『無い!』のに、
『染めねばならず!』、
『恚法』が、
『無い!』のに、
『恚らねばならず!』、
『癡法』が、
『無い!』のに、
『癡(おろ)かでなくてはならない!』。
是のようならば、
則ち、
皆、
『世間の法』を、
『破ることになる!』。
是の故に、
『未生の法』は、
『生じない!』。
復次若未生法生者。世間未生法皆應生 復た次ぎに、若し未生の法生ぜば、世間の未生の法も、皆応に生ずべし。
復た次ぎに、
若し、
『未生の法』が、
『生じれば!』、
則ち、
『世間』の、
『未生の法』は、
『皆、生じなくてはならない!』。
一切凡夫。未生菩提今應生菩提不壞法。阿羅漢無有煩惱。今應生煩惱。兔等無角今皆應生。但是事不然。是故未生法亦不生。 一切の凡夫は、未だ菩提を生ぜずとも、今応に菩提、不壊の法を生ずべし。阿羅漢は煩悩の有ること無けれども、今応に煩悩を生ずべし。兔等の角無きも、今皆応に生ずべし。但だ是の事は然らず。是の故に、未だ生ぜざる法も、亦た生ぜず。
一切の、
『凡夫』は、
未だ、
『菩提(正覚)』を、
『生じていなくても!』、
今、
『菩提』や、
『不壊法(涅槃)』を、
『生じるはずである!』。
『阿羅漢』に、
『煩悩』は、
『無いはずだが!』、
今、
『煩悩』を、
『生じねばならない!』。
譬えば、
『兔』等には、
『角』が、
『無いのに!』、
今は、
皆、
『生じなければならないように!』。
但だ、
是の、
『事』は、
『そうではない!』ので、
是の故に、
『未生の法』も、
亦た、
『生じないのである!』。
  不壊法(ふえほう):壊されない法( indestructible dharma )、梵語ahaarya- dharmanの訳、動かされない法( Darmha which is not removed )の義。涅槃の不可壊の状態に関連した言及( A reference to the indestructible state of nirvāṇa. )。
問曰。未生法不生者。以未有緣無作無作者無時無方等故不生。 問うて曰く、未だ生ぜざる法の生ぜざるは、未だ縁有らずして、作無く、作者無く、時無く、方無き等の故に生ぜざるなり。
問い、
『未生の法』が、
『生じない!』のは、――
未だ、
『作、作者、時、方』等の、
『縁』が、
『無く!』、
『作、作者、時、方』等が、
『無い!』が故に、
『生じないのだ!』。
若有緣有作有作者有時有方等和合故未生法生。是故若說一切未生法皆不生。是事不爾。 若し縁の作有り、作者有り、時有り、方等有りて和合すること有るが故に、未だ生ぜざる法生ぜん。是の故に、若し、『一切の未だ生ぜざる法は、皆生ぜず』、と説かば、是の事は爾らず。
若し、
『作、作者、時、方』等の、
『縁』が、
『有り!』、
『作、作者、時、方』等が、
『有って!』、
『和合する!』が故に、
『未生の法』が、
『生じるのだ!』。
是の故に、
若し、こう説くならば、――
一切の、
『未生の法』は、
皆、
『生じない!』、と。
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
答曰。若法有緣有時有方等和合則生者。先有亦不生。先無亦不生。有無亦不生。三種先已破。 答えて曰く、若し法に縁有りて、時有り、方等有りて、和合して則ち生ぜば、先に有るも亦た生ぜず、先に無きも亦た生ぜず、有無なるも、亦た生ぜずと、三種に先に已に破せり。
答え、
若し、
『法』に、
『縁』が、
『有り!』、
『時、方』等が、
『有って!』、
『和合すれば!』、
則ち、
『生じる!』とは、――
先に、
『法』が、
『有っても!』、
『生じない!』し、
先に、
『法』が、
『無くても!』、
『生じない!』、
『法』が、
『有無(半有半無)でも!』、
『生じない!』と、
已に、
『三種』に、
『先に!』、
『破ったはずである!』。
  参考:『中論巻1』:『若緣能生果。應有三種。若有若無若有無。如先偈中說。緣中若先有果不應言生。以先有故。若先無果不應言生。以先無故。亦應與非緣同故。有無亦不生者。有無名為半有半無。二俱有過。又有與無相違。無與有相違。何得一法有二相。如是三種求果生相不可得故。云何言有因緣。』
是故生已不生。未生亦不生。生時亦不生。何以故。已生分不生。未生分亦不生。如先答。 是の故に生じ已りて生ぜず、未だ生ぜずして亦た生ぜず、生時にも亦た生ぜず。何を以っての故に、已に生じたる分生ぜず、未だ生ぜざる分も亦た生ぜずと、先に答うるが如し。
是の故に、
『法』は、
已に、
『生じていても!』、
『生じない!』し、
未だ、
『生じていなくても!』、
『生じない!』、
亦た、
『生じる時』にも、
『生じない!』。
何故ならば、
已に、
『生じた!』、
『分』は、
『生じず!』、
未だ、
『生じない!』、
『分』も、
『生じないからだ!』と、――
是のように、
先に、答えた。
復次若離生有生時者。應生時生。但離生無生時。是故生時亦不生。 復た次ぎに、若し生を離れて、生時有らば、応に生時に生ずべし。但だ生を離れて生時無く、是の故に生時にも、亦た生ぜず。
復た次ぎに、
若し、
『生』を、
『離れて!』、
『生時』が、
『有れば!』、
当然、
『生時』に、
『生じなければならない!』が、
但だ、
『生』を、
『離れれば!』、
『生時』は、
『無い!』ので、
是の故に、
『生時』にも、
亦た、
『生じないのである!』。
復次若言生時生者。則有二生過。一以生故名生時。二以生時中生。二皆不然。無有二法。云何有二生。是故生時亦不生。 復た次ぎに、若し、『生時に生ず』、と言わば、則ち二生の過有り。一には生の故に生時と名づくるを以って、二には生時中の生を以ってなり。二は皆然らず。二法有ること無く、云何が二生有らん。是の故に生時にも亦た生ぜず。
復た次ぎに、
若し、
こう言えば、――
『生時』に、
『生じる!』、と。
則ち、
『二生』という、
『過』が、
『有ることになる!』。
一には、
『生』の故に、
『生時』と、
『呼ばれ!』、
二には、
『生時』中の、
『生である!』が、
是の、
『二』は、
皆、
『間違っている!』。
『二種』の、
『法』は、
『無い!』のに、
何故、
『二生』が、
『有るのか?』。
  無有(むう):無い。不存在。不具有。梵語 abhaava の訳。不実在、無、欠如( non-existence , nullity , absence )等の義。
復次生法未發則無生時。生時無故生何所依。是故不得言生時生。 復た次ぎに、生法未だ発せざれば、則ち生時無く、生時無きが故に生は、何の依る所ぞ。是の故に、『生時に生ず』、と言うを得ず。
復た次ぎに、
『生法』が、
未だ、
『発起しなければ!』、
則ち、
『生時』は、
『無いことになる!』。
『生時』の、
『無い!』が故に、
何が、
『生』の、
『所依なのか?』。
是の故に、
こう言うことはできない、――
『生時に!』、
『生じさせる!』、と。
  所依(しょえ):梵語nilaya、kaaya、sthaana等の訳。住居( house, residence, abode )の義。土台/基礎/場所/根拠( a support, a basis, a ground, a foundation )等の意。
  :生法(生)が、生時に、有る有為法を生じさせる。
如是推求。生已無生。未生無生。生時無生。無生故生不成。生不成故住滅亦不成。生住滅不成故有為法不成。是故偈中說去未去去時中已答。 是の如く推求するに、生じ已りて生無く、未だ生ぜざるに生無く、生時にも生無し。生無きが故に生は成ぜず。生成ぜざるが故に住、滅も亦た成ぜず。生住滅成ぜざるが故に有為法成ぜず。是の故に偈中に説かく、『去、未去、去時中に已に答えたり』、と。
是のように、
『推求する!』と、――
已に、
『生じても!』、
『生』は、
『無く!』、
未だ、
『生じなくても!』、
『生』は、
『無く!』、
亦た、
『生時』にも、
『生』は、
『無い!』。
即ち、
『生』の、
『無い!』が故に、
『生』は、
『成立しない!』。
『生』の、
『成立しない!』が故に、
『生、住、滅』は、
『成立しない!』。
『生、住、滅』の、
『成立しない!』が故に、
『有為法』は、
『成立しない!』。
是の故に、
『偈』中に、こう説く、――
『去』や、
『未去』や、
『去時』中に、
『已に、答えた!』、と。
問曰。我不定言生已生未生生生時生。但眾緣和合故有生。 問うて言わく、我れは定んで、生じ已りて生ずとも、未だ生ぜざるに生ずとも、生時に生ずとも言わず。但だ衆縁和合の故に生有り。
問い、
わたしは、
定んで、こう言うのではない、――
已に、
『生じて!』、
『生じさせる!』とも、
未だ、
『生じずに!』、
『生じさせる!』とも、
亦た、
『生時』に、
『生じさせる!』とも。
但だ、こう言うのだ、――
『衆縁』の、
『和合する!』が故に、
『生』は、
『有る!』、と。
答曰。汝雖有是說。此則不然。 答えて曰く、汝に、是の説有りと雖も、此れは則ち然らず。
答え、
お前には、
是の、
『説』が、
『有る!』が、
此れは、
『間違っているのだ!』。
何以故
 若謂生時生  是事已不成 
 云何眾緣合  爾時而得生
何を以っての故に、
若し生時に生ずと謂わば、是の事は已に成ぜず、
云何が衆縁合して、爾の時に而も生を得ん。
何故ならば、
若し、
こう謂えば、――
『生時』に、
『生じる!』、と。
是の、
『事』は、
『已に!』、
『成立しなかった!』。
何故、
『衆縁』が、
『合する!』と、
『爾の時』に、
『生じることができるのか?』。
参考
utpadyamānam utpattāv idaṃ na kramate yadā |
katham utpadyamānaṃ tu pratītyotattim ucyate ||15||
When being born does not arise in what is born,
then how can one say “[it is] being born in dependence on the born”?

参考
If when production exists
The arisal of that being produced does not exist
How then how could it be said
‘That being produced exists in dependence upon production’.

参考
この現に生じつつあるものが生のうちに現われていないときに,一体,どうして,生 に縁って,現に生じつつあるもの〔が有る〕,といわれるであろうか。
生時生已種種因緣破。汝今何以更說眾緣和合故有生。 生時に生ずるは、已に種種の因縁もて破せり。汝は、今何を以ってか、更に『衆縁和合の故に生有り』、と説く。
『生時』に、
『生じる!』のは、――
已に、
種種の、
『因縁』で、
『破れた!』。
お前は、
今、
何故、
更に、こう説くのか?――
『衆縁』の、
『和合する!』が故に、
『生』は、
『有る!』、と。
若眾緣具足不具足。皆與生同破。 若しは衆縁の具足するも、具足せざるも、皆、生と与(とも)に同じく破せり。
『衆縁』が、
『具足しても!』、
『具足していなくても!』、
皆、
『生』と、
『同じく!』、
『破れている!』。
復次
 若法眾緣生  即是寂滅性 
 是故生生時  是二俱寂滅
復た次ぎに、
若し法を衆縁生ずれば、即ち是れ寂滅の性なり、
是の故に生と生時と、是の二は倶に寂滅せり。
復た次ぎに、
若し、
『法』が、
『衆縁の生ならば!』、
即ち、
是の、
『法』は、
『寂滅の性である!』。
是の故に、
『生、生時』の、
是の、
『二』は、
『どちらも!』、
『寂滅である!』。
参考
pratītya yad yad bhavati tat tac chāntaṃ svabhāvataḥ |
tasmād utpadyamānaṃ ca śāntam utpattir eva ca ||16||
Whatever is dependently arising, that is by nature pacified.
Therefore, being born and what is born too are pacified.

参考
Since that which is a dependent-arising
Is by its nature pacified
That being produced and production
Are also themselves pacified.

参考
およそ縁によって存在しているものは何ものも,すべて固有の実体(自性)としては,寂滅している。それゆえ,現に生じつつあるものも,寂滅しており,生そのものまた同樣である。
眾緣所生法。無自性故寂滅。寂滅名為無。此無彼無相。斷言語道滅諸戲論。 衆縁所生の法は、自性無きが故に、寂滅す。寂滅を名づけて、無と為す。此れも無、彼れも無相、言語の道を断え、諸の戯論を滅す。
『衆縁所生』の、
『法』は、
『自性』の、
『無い!』が故に、
是の、
『法』は、
『寂滅である!』。
『寂滅』を、
『無』と、
『呼べば!』、
此れも、
彼れも、
『無であり!』、
『無相である!』が故に、
『言語の道』を、
『断やして!』、
諸の、
『戯論』を、
『滅することになる!』。
眾緣名。如因縷有布因蒲有席。 衆縁を、縷に因りて布有り、蒲に因りて席有るが如しと名づく。
『衆縁』とは、
譬えば、これと同じである、――
『縷(いと)』に、
『因って!』、
『布』が、
『有り!』、
『蒲(がま)』に、
『因って!』、
『席』が、
『有る!』。
  (ほ、ふ):がま。草の名。茎の高さ四五尺、葉は細長くして尖り、花は褐色。茎葉は嫩き時食う可し。葉は席を織り扇を編む可し。亦た物を裹(つつ)むの具と為す。
若縷自有定相。不應從麻出。若布自有定相。不應從縷出。而實從縷有布。從麻有縷。是故縷亦無定性。布亦無定性。 若し縷に自ら、定相有らば、応に麻より出づべからず。若し布に自ら定相有らば、応に縷より出づべからず。而も実に縷より布有り、麻より縷有り。是の故に縷も亦た定性無く、布も亦た定性無し。
若し、
『縷』に、
『定まった!』、
『自性』が、
『有れば!』、
『縷』は、
『麻より!』、
『出るはずがない!』。
若し、
『布』に、
『定まった!』、
『自性』が、
『有れば!』、
『布』は、
『縷より!』、
『出るはずがない!』。
而し、
『実に!』、
『縷』によって、
『布』が、
『有り!』、
『麻』によって、
『縷』が、
『有る!』。
是の故に、
『縷』にも、
亦た、
『定性』が、
『無く!』、
『布』にも、
亦た、
『定性』が、
『無い!』。
如燃可燃因緣和合成。無有自性。可燃無故燃亦無。燃無故可燃亦無。一切法亦如是。 然、可燃の因縁和合して成ずれば、自性有ること無く、可燃無きが故に、燃も亦た無く、燃無きが故に可燃も亦た無きが如く、一切法も亦た是の如し。
譬えば、――
『燃()、可燃(燃料)』は、
『因縁』の、
『和合する!』が故に、
『成立する!』ので、
『自性』が、
『無く!』、
若し、
『可燃』が、
『無ければ!』、
『燃』も、
『無く!』、
『燃』が、
『無ければ!』、
『可燃』も、
『無いように!』、
一切の、
『法』も、
亦た、
是の通りである。
  (ねん):梵語agniの訳。火( fire )の義。
  可燃(かねん):梵語indhanaの訳。燃料/薪/たきつけ( fuel, kindling )の義。
是故從眾緣生法無自性。無自性故空如野馬無實。 是の故に衆縁より生ずる法には、自性無く、自性無きが故に空にして、野馬の如く実無し。
是の故に、
『衆縁生』の、
『法』には、
『自性』が、
『無く!』、
『自性』の、
『無い!』が故に、
『空であり!』、
譬えば、
『野馬(かげろう)のように!』、
『実』が、
『無い!』。
  野馬(やめ):梵語mariiciの訳。光、陽炎、又は蜃気楼の義。
是故偈中說生與生時二俱寂滅。不應說生時生。 是の故に偈中に説かく、『生は生時と与に、二つながら倶に寂滅す。応に生時に生ずと説くべからず』、と。
是の故に、
『偈』中に、こう説く、――
『生』と、
『生時』との、
『二』は、
『どちらも!』、
『寂滅である!』が故に、
こう説いてはならない、――
『生時に!』、
『生じる!』、と。
汝雖種種因緣欲成生相。皆是戲論非寂滅相。 汝は、種種の因縁に、生相を成ぜんと欲すと雖も、皆是れ戯論にして、寂滅の相に非ず。
お前は、
種種の、
『因縁』で、
『生相』、
『成立させようとする!』が、
皆、
是れは、
『戯論であり!』、
『寂滅の相でない!』。
問曰。定有三世別異。未來世法得生。因緣即生。何故言無生。 問うて曰く、定んで三世の別異有りて、未来世の法生の因縁を得れば即ち生ず。何の故にか、生無しと言う。
問い、
定んで、
『過去、未来、現在』という、
『三世』の、
『別異』が、
『有り!』、
『未来世』の、
『法』が、
『生の因縁』を、
『得て!』、
『生じる!』。
何故、
こう言うのか?――
『生』は、
『無い!』、と。
答曰
 若有未生法  說言有生者 
 此法先已有  更復何用生
答えて曰く、
若し有る未生の法を、説いて生有りと言わば、
此の法は先に已に有り、更に復た何にか生を用いん。
答え、
若し、
『未生の法』が、
『有り!』、
是の、
『法』を説いて、こう言うならば、――
『生』が、
『有る!』、と。
此の、
『法』は、
先に、
『已に!』、
『有るのに!』、
更に、
復た(いったい)、
何に、
『生』を、
『用いるのか?』。
参考
yadi kaścid anutpanno bhāvaḥ saṃvidyate kva cit |
utpadyeta sa kiṃ tasmin bhāva utpadyate ’sati ||17||
If any unborn thing existed anywhere,
on being born that [unborn] thing would not exist.
If so, what would be born?

参考
If some unproduced thing could exist somewhere
That being produced could be produced.
Since such a thing does not exist
What could be produced?

参考
もしもなんらかのまだ生じていない「存在(もの‧こと)」が,どこかに存在するのであるならば,それが生ずるであろう。しかしその「存在(もの‧こと)」が存在しないとき に,どうして,〔それが〕生ずるのであろうか。
若未來世中。有未生法而生。是法先已有。何用更生。有法不應更生。 若しは未来世中に、未だ生ぜざる法有りて、生ぜば、是の法は、先に已に有り、何にか、更に生ずるを用いん。法有らば、応に更に生ずべからず。
若し、
『未来世』中に、
『未生の法』が、
『有って!』、
『生じるならば!』、
是の、
『法』は、
『先に!』、
『已に有るのに!』、
何故、
更に、
『生』を、
『用いるのか?』、
有る、
『法』は、
『更に!』、
『生じるはずがない!』。
問曰。未來雖有。非如現在相。以現在相故說生。 問うて曰く、未来に有りと雖も、現在の相の如きに非ず。現在の相を以っての故に、『生ず』、と説くなり。
問い、
『未来』に、
『有るが!』、
『現在の相』と、
『同じではない!』。
『現在の相』を、
『説こうとする!』が故に、  ――未来の法と現在の生――
『生じる!』と、
『言うのだ!』。
答曰。現在相未來中無。若無云何言未來生法生。若有不名未來。應名現在。現在不應更生。二俱無生故不生。 答えて曰く、現在の相は、未来中に無し。若し無ければ、云何が、『未来生の法生ず』と言う。若し有らば、未来と名づけず、応に現在と名づくべし。現在なれば、応に更に生ずべからず。二は倶に生無きが故に、生ぜず。
答え、
『現在の相』は、
『未来』中に、
『無い!』。
若し、
『無ければ!』、
何故、こう言うのか?――
『未来生』の、
『法』が、
『生じる!』、と。
若し、
『現在の相』が、
『有れば!』、
『未来』とは、
『呼ばれず!』、
当然、
『現在』と、
『呼ばれるはずだ!』が、
『現在ならば!』、
『更に!』、
『生じるはずがない!』。
『二』は、
『どちらも!』、
『無生である!』が故に、
『生じない!』。
復次汝謂生時生亦能生彼。 復た次ぎに、汝が謂わく、『生ずる時に生じ、亦た能く彼を生ず』、と。
復た次ぎに、
お前は、こう謂う、――
『生法』は、
『生時』に、
『生じて!』、
亦た、
『彼れ!』を、
『生じさせる!』、と。
今當更說
 若言生時生  是能有所生 
 何得更有生  而能生是生
今、当に更に説くべし、――
若し生時の生は、是れ能く所生有りと言わば、
何ぞ更に生有りて、而も能く是の生を生ずるを得ん。
今、
更に、説くことにしよう、――
若し、
こう言うならば、――
『生時に!』、
『生じて!』、
是れには、
『生じさせた!』ものが、
『有る!』、と。
何故、
更に、
有る、
『生』が、
是の、
『生』を、
『生じさせることができたのか?』。
参考
utpadyamānam utpādo yadi cotpādayaty ayam |
utpādayet tam utpādam utpādaḥ katamaḥ punaḥ ||18||
If that which has been born gives birth to what is being born,
what [other thing] that has been born would be giving birth
to that which has been born?

参考
If that production
Could produce that being produced
What similar production
Would produce that production?

参考
もしもこの生が,現に生じつつあるものを生じさせるとするならば,この生をどのような生が,さらにそのうえに,生じさせるのであろうか。
若生生時能生彼。是生誰復能生 若し生は生時に能く彼を生ぜば、是の生は、誰か復た能く生ぜん。
若し、
『生』が、
『生時』に、
『彼れ!』を、
『生じさせれば!』、
是の、
『生』は、
復た、
『誰が!』、
『生じさせるのか?』。
  命題:生法(生)が生時に、有る有為法を生じさせる。
 若謂更有生  生生則無窮 
 離生生有生  法皆能自生
若し更に生有りて、生を生ずと謂わば則ち無窮なり、
生を離れて有る生を生ずれば、法は皆能く自ら生ぜん。
若し、
こう謂うならば、――
更に、
有る、
『生』が、
『生』を、
『生じさせる!』、と。
則ち、
『窮まる!』ことが、
『無いことになる!』。
若し、
『生』を、
『離れて!』、
有る、
『生』を、
『生じさせれば!』、
『法』は、
皆、
『自ら!』、
『生じるだろう!』。
参考
anya utpādayaty enaṃ yady utpādo ’navasthitiḥ |
athānutpāda utpannaḥ sarvam utpadyatāṃ tathā ||19||
If another [thing] that has been born gives birth [to it],
this would be endless.
If it is born without [another] which has been born [OR if it is born without being born],
everything would be born like that [i.e. causelessly].

参考
If it is produced by some different production
There would be an infinite regress.
If it is produced without production
Everything could be produced in the same way.

参考
もしも他の生が,これ(生) を生じさせるとするならば,無限遡及(無窮)になってしまう。しかるに,もしも生がなくても,〔この生が〕生じているとするならば,すべてのものが同樣に生ぜられることになるであろう。
若生更有生。生則無窮。 若し生に更に生有らば、生は則ち無窮なり。
若し、
『生』に、
更に、
『生』が、
『有れば!』、
『生』は、
則ち、
『窮まり!』が、
『無い!』。
若是生更無生而自生者。一切法亦皆能自生。而實不爾。 若し是の生に、更に生無くして自ら生ぜば、一切の法も亦た皆、能く自らを生ぜん。而るに実に爾らず。
若し、
是の、
『生』に、
更に、
『生』が、
『無く!』、
而も、
『自ら!』、
『生じられれば!』、
一切の、
『法』も、
亦た、
皆、
『自ら!』、
『生じられることになる!』が、
而し、
『実は!』、
『そうでない!』。
復次
 有法不應生  無亦不應生 
 有無亦不生  此義先已說
復た次ぎに、
法有れば応に生ずべからず、無きも亦た応に生ずべからず、
有無なるも亦た生ぜず、此の義は先に已に説けり。
復た次ぎに、
『法』が、
『有っても!』、
『生じられるはずがない!』し、
『無くても!』、
亦た、
『生じられるはずがない!』。
『有無(半有半無)』も、
亦た、
『生じない!』と、
此の、
『義』は、
先に、
『已に説いた!』。
参考
sataś ca tāvad utpattir asataś ca na yujyate |
na sataś cāsataś ceti pūrvam evopapāditam ||20||
Thus it is not reasonable for what exists or does not exist to be born.
It has been shown above that there is no existent or non-existent.

参考
It has been shown above that
For example, for an existent or even a non-existent
To be produced is not tenable
Nor for something both existent and non-existent.

参考
まず第一に,現に存在しているものにおいても,〔つぎに〕,存在していないものにおいても,生〔ずるということ〕は妥当しない。〔さらに〕,存在し且つ存在していないものにおいても,〔生ずるということは,妥当し〕ない。このことは,すでに先に証明されている。
凡所有生。為有法有生。為無法有生。為有無法有生。是皆不然。是事先已說。離此三事更無有生。是故無生。 凡そ有らゆる生は、法有りて生有りと為すや、法無くして生有りと為すや、法有無にして生有りと為すや、是れは皆然らず。是の事は先に已に説けり。此の三事を離るれば、更に生有ること無し。是の故に生無し。
凡そ、
有らゆる、
『生』は、
『法』が、
『有って!』、
『生』が、
『有るのか?』、
『法』が、
『無くて!』、
『生』が、
『有るのか?』、
『法』が、
『有無であって!』、
『生』が、
『有るのか?』だが、
是れは、
皆、
『間違っている!』と、
是の、
『事』は、
『已に説いた!』。
此の、
『三事』を、
『離れれば!』、
更に、
『生』は、
『無いので!』、
是の故に、
『生』は、
『無い!』。
復次
 若諸法滅時  是時不應生 
 法若不滅者  終無有是事
復た次ぎに、
若し諸法の滅する時ならば、是の時は応に生ずべからず、
法若し滅せざれば、終に是の事の有ること無し。
復た次ぎに、
若し、
諸の、
『法』が、
『滅時ならば!』、
『生じるはずがない!』し、
若し、
諸の、
『法』が、
『滅しなければ!』、
終に、
是の、
『事』の、
『有ることはない!』。
参考
nirudhyamānasyotattir na bhāvasyopapadyate |
yaś cānirudhyamānas tu sa bhāvo nopapadyate ||21||
It is not tenable for a thing that is perishing to be born.
It is not tenable for that which is not perishing to be a thing.

参考
For a ceasing thing to be produced
Is inadmissible.
And that which is not ceasing
Is inadmissible to be a thing.

参考
現に滅しつつある「存在(もの‧こと)」において,生ずるということは,成り立たない。 しかるに,現に滅しつつあるのではないもの,それが「存在(もの‧こと)」であるということは,成り立たない。
若法滅相是法不應生。 若し法、滅相なれば、是の法は、応に生ずべからず。
若し、
『法』が、
『滅相ならば!』、
是の、
『法』は、
『生じるはずがない!』。
何以故。二相相違故。一是滅相。知法是滅。一是生相。知法是生。 何を以っての故に、二相の相違するが故なり。一は是れ滅相にして、法の是れ滅なるを知り、一は是れ生相にして、法は是れ生なるを知る。
何故ならば、
『二相』が、
『相違するからだ!』。
一は、
『滅相であり!』、
『法』が、
『滅である!』ことを、
『知り!』、
一は、
『生相であり!』、
『法』が、
『生である!』ことを、
『知る!』。
二相相違法。一時則不然。是故滅相法不應生。 二相の相違する法が、一時なれば、則ち然らず。是の故に滅相の法は、応に生ずべからず。
『二相』の、
『相違する!』、
『法』が、
『一時にあれば!』、
則ち、
『間違っていることになる!』。
是の故に、
『滅相』の、
『法』が、
『生じるはずがない!』。
問曰。若滅相法不應生。不滅相法應生。 問うて曰く、若し滅相の法にして、応に生ずべからずんば、滅相ならざる法は、応に生ずべし。
問い、
若し、
『滅相』の、
『法』は、
『生じるはずがなくても!』、
『滅相でない!』、
『法』は、
『生じるはずだ!』。
答曰。一切有為法念念滅故。無不滅法離有為。無有決定無為法。無為法但有名字。是故說不滅法終無有是事。 答えて曰く、一切の有為法は念念に滅するが故に、滅せざる法無く、有為を離るれば、決定せる無為法の有ること無し。無為法は但だ名字有るのみ。是の故に、滅せざる法の終に是の事有ること無しと説く。
答え、
一切の、
『有為法』は、
『念念(一瞬ごと)』に、
『滅する!』が故に、
『不滅の法』は、
『無い!』が、
『有為』を、
『離れて!』、
『決定した!』、
『無為法』は、
『無い!』。
何故ならば、
『無為法』は、
但だ、
『名字だけ!』が、
『有るからだ!』。
是の故に、こう説く、――
『不滅の法』は、
終に、
是の、
『事』は、
『無い!』、と。
  念念滅(ねんねんめつ):梵語 kSaNa- bhaGgura の訳、時々刻々に断滅する( moment-to- moment extinction )の義。又は念念生滅(梵 kSaNa- kSaNootpanna- niruddha 、 英 arises and ceases from moment to moment )の略。生起、断滅の時々刻々なるの意。次第縁、即ち前念の心心所法が開路避譲して、後念の心心所法を引生するが故に、意識の常に念念生滅、刹那不停、無有間隔なるを云う。「大智度論巻36」参照。
  参考:『大智度論巻36』:『阿毘曇除受想餘心數法。及無想定滅盡定等心不相應法。是名為行眾。識眾者內外六入和合故生六覺名為識。以內緣力大故名為眼識。乃至名為意識。問曰。意即是識。云何意緣力故生意識。答曰。意生滅相故。多因前意故。緣法生意識。問曰。前意已滅云何能生後識。答曰。意有二種。一者念念滅。二者心次第相續名為一。為是相續心故。諸心名為一意。是故依意而生識無咎。』
問曰。若法無生應有住。 問うて曰く、若し法に生無ければ、応に住有るべし。
問い、
若し、
『法』に、
『生』が、
『無ければ!』、
当然、
『住』が、
『有るはずだ!』。
答曰
 不住法不住  住法亦不住 
 住時亦不住  無生云何住
答えて曰く、
住せざる法も住せず、住する法も亦た住せず、
住する時も亦た住せず、生無ければ云何が住せん。
答え、
『住しない!』、
『法』も、
『住しない!』、
『住する!』、
『法』も、
『住しない!』、
『住時にも!』、
亦た、
『住しない!』。
『生』が、
『無いのに!』、
何故、
『住するのか?』。
参考
na sthitabhāvas_tiṣṭhaty_asthitabhāvo na tiṣṭhati |
na tiṣṭhate tiṣṭhamānaḥ ko ’nutpannaś ca tiṣṭhati ||22||
A thing that has remained does not remain.
A thing that has not [yet] remained does not remain.
That which is remaining also does not remain.
What unborn [thing] can remain?

参考
A thing that has abided does not abide
And a thing that has not abided does not abide.
That which is abiding also does not abide.
What thing that has not been produced could abide?

参考
すでに住している「存在(もの‧こと)」は,〔さらに〕住することはない,まだ住していない「存在(もの‧こと)」は,住することはない。現に住している「存在(もの‧こと)」は,住することはない。まだ生じていないどのようなものが,さらに住することがあろうか。
不住法不住。無住相故。 住せざる法の住せざるは、住相無きが故なり。
『住しない!』、
『法』が、
『住しない!』のは、
『法』に、
『住相』が、
『無いからだ!』。
住法亦不住。何以故。已有住故。因去故有住。若住法先有。不應更住。 住する法も亦た住せずとは、何を以っての故に、已に住有るが故なり。去るに因って、故に住有り。若し住する法先に有らば、当に更に住すべからず。
『住する!』、
『法』も、
『住しない!』とは、――
何故ならば、――
已に、
『住』が、
『有るからだ!』。
『去る(=滅する)!』に、
『因る!』が故に、
『住』が、
『有る!』。
若し、
『住法』が、
先に、
『有れば!』、
『更に!』、
『住するはずがない!』。
住時亦不住。離住不住更無住時。是故亦不住。 住する時にも亦た住せず。住すると住せざると離れて、更に住する時無し。是の故に亦た住せず。
『住時にも!』、
亦た、
『住しない!』とは、――
何故ならば、
『住する!』と、
『住しない!』とを、
『離れれば!』、
更に、
『住時』は、
『無いからである!』。
是の故に、
亦た、
『住しない!』。
如是一切處求住不可得故。即是無生。若無生云何有住。 是の如く一切の処に、住を求めて得べからざるが故に、即ち是れ無生なり。若し無生なれば、云何が住有らん。
是のように、
一切の、
『処』に、
『住』を、
『求めた!』が、
『認められない!』が故に、
即ち、
是の、
『住法』は、
『無生である!』。
若し、
『法』が、
『無生ならば!』、
何故、
『住』が、
『有るのか?』。
復次
 若諸法滅時  是則不應住 
 法若不滅者  終無有是事
復た次ぎに、
若し諸法の滅する時、是れ則ち応に住すべからず、
法若し滅せざれば、終に是の事有ること無し。
復た次ぎに、
若し、
諸の、
『法』が、
『滅時ならば!』、
是の、
『法』は、
『住するはずがない!』。
若し、
『法』が、
『滅しなければ!』、
終に、
是の、
『事』は、
『有ったことがない!』。
参考
sthitir nirudhyamānasya na bhāvasyopapadyate |
yaś cānirudhyamānas tu sa bhāvo nopapadyate ||23||
It is not possible for a thing that is perishing to remain.
It is not possible for that which is not perishing to be a thing.

参考
For a ceasing thing to abide
Is inadmissible.
And that which is not ceasing
Is inadmissible to be a thing.

参考
現に滅しつつある「存在(もの‧こと)」においては,住するということは,成り立たない。しかるに,現に滅しつつあるのではないもの,それが「存在(もの‧こと)」であるということは,成り立たない。
若法滅相。是法無有住相。何以故。一法中有二相相違故。一是滅相。二是住相。 若し法にして滅相なれば、是の法に住相有ること無し。何を以っての故に、一法中に二相有りて、相違するが故なり。一には是れ滅相、二には是れ住相なり。
若し、
『法』が、
『滅相』ならば、
是の、
『法』には、
『住相』が、
『無い!』。
何故ならば、
『一法』中に、
有る、
『二相』が、
『相違するからだ!』。
謂わゆる、
一には、
『滅相であり!』、
二には、
『住相である!』。
一時一處有住滅相。是事不然。是故不得言滅相法有住。 一時一処に、住と滅相有らば、是の事は然らず。是の故に、『滅相の法に住有り』と言うを得ず。
『一時、一処』に、
『住』と、
『滅相』とが、
『有れば!』、
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
是の故に、こう言うことはできない、――
『滅相の法』に、
『住』が、
『有る!』、と。
問曰。若法不滅應有住。 問うて曰く、若し法滅せざれば、応に住有るべし。
問い、
若し、
『法』が、
『滅しなければ!』、
『住』が、
『有るはずだ!』。
答曰。無有不滅法。 答えて曰く、滅せざる法の有ること無し。
答え、
『滅しない!』、
『法』は、
『無い!』。
何以故
 所有一切法  皆是老死相 
 終不見有法  離老死有住
何を以っての故に、
有らゆる一切の法は、皆是れ老死の相なれば、
終に有る法の、老死を離れて住有るを見ず。
何故ならば、
有らゆる、
一切の、
『法』は、
皆、
『老死の相である!』、
終に、
これを見ることはない、――
有る、
『法』が、
『老死を離れて!』、
『住』が、
『有る!』、と。
  老死(ろうし):梵語jaraa- maraNaの訳。老と死( old age and death (impermanence) )の義、十二因縁第十二支。
参考
jarāmaraṇadharmeṣu sarvabhāveṣu sarvadā |
tiṣṭhanti katame bhāvā ye jarāmaraṇaṃ vinā ||24||
If all things at all times are aging and dying phenomena,
what things are there which could remain without aging and dying?

参考
If every thing is a phenomenon
That always ages and perishes
Then what things are there that abide
Without aging and perishing?

参考
一切の「存在(もの‧こと)」は,つねに老と死の性質をそなえているのであるから, どのようなもろもろの「存在(もの‧こと)」が老と死とが無くて,住するであろうか。
一切法生時無常。常隨逐無常有二。名老及死。如是一切法。常有老死故無住時。 一切の法は、生時より無常常に随逐す。無常に二有り、老及び死と名づく。是の如き一切の法は、常に老死有るが故に、住時無し。
一切の、
『法』は、
『生時より!』、
『無常』が、
『常に随逐( pursuing )する!』。
『無常』には、
『二種』有り、
『老と死』と、
『称する!』。
是のような、
『一切の法』には、
常に、
『老死』が、
『有る!』が故に、
『住まる時』は、
『無い!』。
復次
 住不自相住  亦不異相住 
 如生不自生  亦不異相生
復た次ぎに、
住は自相の住にあらず、亦た異相の住にもあらず、
生の自生にあらず、亦た異相の生にあらざるが如し。
復た次ぎに、
『住』は、
『自相』に、
『住せず!』、
亦た、
『異相』に、
『住しない!』。
譬えば、
『生』が、
『自相』の、
『生でなく!』、
亦た、
『異相』の、
『生でもないように!』。
参考
sthityānyayā sthiteḥ sthānaṃ tayaiva ca na yujyate |
utpādasya yathotpādo nātmanā na parātmanā ||25||
It is not reasonable for what remains to remain due to something else
that remains or due to itself.
This is like how what has been born is not given birth to by itself or another.

参考
Abiding is not tenable to abide
Due to different abiding or even due to itself.
This is just like how production
Is not produced by itself or something different.

参考
住の住することは,他の住によっても,またそれ自身によっても,妥当しない(正しく ない)。あたかも生の生ずることが,それ自身によっても,また他のものによっても,〔妥当し〕ないようなものである。
若有住法。為自相住為他相住。二俱不然。 若し住法有らば、自相の住と為すや、他相の住と為すや、二は倶に然らず。
若し、
『住法』が、
『有れば!』、
『自相』が、
『住するのか?』、
『他相』が、
『住するのか?』。
是の、
『二』は、
『どちらも!』、
『正しくない!』。
若自相住則為是常。一切有為法從眾緣生。若住法自住。則不名有為。 若し自相にして住すれば、則ち是れを常と為す。一切の有為法は衆縁より生ずるに、若し住法自ら住せば、則ち有為と名づけず。
若し、
『自相』が、
『住すれば!』、
『常だということになる!』。
一切の、
『有為法』は、
『衆縁』より、
『生じる!』ので、
若し、
『住法』が、
『自相』に、
『住まれば!』、
則ち、
『有為』とは、
『呼ばれない!』。
住若自相住。法亦應自相住。如眼不能自見。住亦如是。 住、若し自相にして住すれば、法も亦た応に自相にして住すべし。眼の自らを見る能わざるが如く、住も亦た是の如し。
若し、
『住(住法)』が、
『自相』に、
『住まれば!』、
亦た、
『法(有為法)』も、
『自相』に、
『住まらねばならない!』。
譬えば、
『眼』が、
『自ら』を、
『見られないように!』、
『住』も、
亦た、
『是の通りである!』。
若異相住則。住更有住。是則無窮。 若し異相にして住すれば、則ち住に更に住有り。是れ則ち無窮なり。
若し、
『住法』が、
『異相(自相以外)で!』、
『住すれば!』、
則ち、
『住』に、
更に、
『住』が、
『有ることになり!』、
是れでは、
『窮まり!』が、
『無い!』。
復次見異法生異相。不得不因異法而有異相。異相不定故。因異相而住者。是事不然。 復た次ぎに、異法の異相を生ずるを見るも、異法に因らずして、異相有るを得ず、異相の定まらざるが故に、異相に因りて、住すとは、是の事然らず。
復た次ぎに、
『異法』が、
『異相』を、
『生じる!』のは、
『見られても!』、
『異法』に、
『因らずに!』、
『異相』が、
『有る!』のは、
『認められない!』、
『異相』は、
『定まらないからである!』。
故に、
『異相』に、
『因って!』、
『住すれば!』、
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
問曰。若無住應有滅。 問うて曰く、若し住無ければ、応に滅有るべし。
問い、
若し、
『住』が、
『無ければ!』、
当然、
『滅』が、
『有るはずだ!』。
答曰無。 答えて曰く、無し。
答え、
『無い!』。
何以故
 法已滅不滅  未滅亦不滅 
 滅時亦不滅  無生何有滅
何を以っての故に、
法已に滅すれば滅せず、未だ滅せざるも亦た滅せず、
滅時にも亦た滅せず、生無きに何ぞ滅有らん。
何故ならば、
『法』が、
已に、
『滅すれば!』、
『滅しない!』、
未だ、
『滅しなくても!』、
『滅しない!』、
亦た、
『滅時にも!』、
『滅しない!』、
『生』が、
『無いのに!』、
何故、
『滅』が、
『有るのか?』。
参考
nirudhyate nāniruddhaṃ na niruddhaṃ nirudhyate |
tathā nirudhyamānaṃ ca kim ajātaṃ nirudhyate ||26||
What has ceased does not cease.
What has not ceased also does not cease.
Likewise what is ceasing also does not.
What unborn [thing] can cease?

参考
That which has ceased does not cease
And that which has not ceased also does not cease.
Similarly, that which is ceasing also does not.
What thing that has not been produced could cease?

参考
まだ滅していないものは,滅することはない。すでに滅したものは,〔さらに〕滅する ことはない。現に滅しつつあるものもまた,同樣である。まだ生じていないどのよう なものが,滅するであろうか。
若法已滅則不滅。以先滅故。未滅亦不滅。離滅相故。滅時亦不滅。離二更無滅時。 若し法已に滅すれば、則ち滅せず、先に滅したるを以っての故なり。未だ滅せざるも、亦た滅せず、滅相を離るるが故なり。滅時にも亦た滅せず、二を離れて、更に滅時無ければなり。
若し、
『法』が、
已に、
『滅したならば!』、
『滅することはない!』、
先に、
『滅したからである!』。
『法』が、
未だ、
『滅しなくても!』、
『滅することはない!』、
未だ、
『滅相』を、
『離れているからである!』。
亦た、
『滅時にも!』、
『滅することはない!』。
是の、
『二』を、
『離れれば!』、
更に、
『滅時』は、
『無いからである!』。
如是推求。滅法即是無生。無生何有滅。 是の如く推求するに、滅法は、即ち是れ無生なり。無生なるに何んが滅有らん。
是のように、
推求すれば、――
『滅法』には、
即ち、
『生』が、
『無いことになる!』。
『生』が、
『無い!』のに、
何故、
『滅』が、
『有るのか?』。
復次
 法若有住者  是則不應滅 
 法若不住者  是亦不應滅
復た次ぎに、
法に若し住有らば、是れ則ち応に滅すべからず、
法若し住せざれば、是れも亦た応に滅すべからず。
復た次ぎに、
『法』に、
若し、
『住(住相)』が、
『有れば!』、
是の、
『法』が、
『滅するはずがない!』。
『法』が、
若し、
『住まらなければ!』、
是れも、
亦た、
『滅するはずがない!』。
参考
sthitasya tāvad bhāvasya nirodho nopapadyate |
nāsthitasyāpi bhāvasya nirodha upapadyate ||27||
It is not possible for a thing which has remained to cease.
It is also not possible for a thing which has not remained to cease.

参考
For example, for an abiding thing to cease
Is inadmissible.
And for a non-abiding thing to cease
Is also inadmissible.

参考
まず第一に,すでに住している「存在(もの‧こと)」の滅することは,成り立たない。 〔つぎに〕,まだ住していない「存在(もの‧こと)」の滅することもまた,成り立たない。
若法定住則無有滅。何以故。由有住相故。 若し法が定んで住なれば、則ち滅有ること無し。何を以っての故に、住の相有るに由るが故なり。
若し、
『法』の、
『住』が、
『定まれば!』、
則ち、
『滅』は、
『無いことになる!』。
何故ならば、
『住相』が、
『有るからである!』。
若住法滅則有二相。住相滅相。是故不得言住中有滅。如生死不得一時有。 若し住法滅すれば、則ち二相の住相と滅相有り。是の故に、『住中に滅有り』、と言うを得ず。生、死の一時に有るを得ざるが如し。
若し、
『住法』が、
『滅すれば!』、
則ち、
『住相、滅相』という、
『二相』が、
『有ることになる!』。
是の故に、
こう言うことはできない、――
『住』中に、
『滅』が、
『有る!』、と。
譬えば、
『生、死』が、
『一時に!』、
『有ることができないように!』。
若法不住亦無有滅。何以故。離住相故。若離住相則無法。無法云何滅。 若し法が住ならざれば、亦た滅有ること無し。何を以っての故に、住相を離るるが故なり。若し住相を離るれば、則ち法無し。法無きに、云何が滅する。
若し、
『法』が、
『住まらなくても!』、
亦た、
『滅』は、
『無い!』。
何故ならば、
『法』が、
『住相』を、
『離れるからである!』。
若し、
『住相』を、
『離れれば!』、
則ち、
『法』は、
『無いことになる!』。
『法』が、
『無いのに!』、
何故、
『滅するのか?』。
復次
 是法於是時  不於是時滅 
 是法於異時  不於異時滅
復た次ぎに、
是の法は是の時に於いては、是の時に於いて滅せず、
是の法は異なる時に於いて、異なる時に於いて滅せず。
復た次ぎに、
是の、
『法』が、
是の、
『同相の時ならば!』、
是の、
『同相の時』には、
『滅しない!』。
是の、
『法』が、
是の、
『異相の時ならば!』、
是の、
『異相の時』にも、
『滅しない!』。
参考
tayaivāvasthayāvasthā na hi saiva nirudhyate |
anyayāvasthayāvasthā na cānyaiva nirudhyate ||28||
A particular state [of something] does not cause
that particular state itself to cease.
Moreover, another particular state does not cause
that particular state to cease.

参考
A state of abiding could not cease
Its own state of abiding.
And a different state of abiding
Also could not cease that state of abiding.

参考
実に,或る壮態は,それと同じ壮態によっては,決して滅することはない。また,或る壮態,それとは異なる壮態によってもまた,決して滅することはない。
若法有滅相。是法為自相滅。為異相滅。二俱不然。 若し法に滅相有らば、是の法は自相の滅と為すや、異相の滅と為すや、二は倶に然らず。
若し、
『法』に、
『滅相』が、
『有れば!』、
是の、
『法』の、
『自相』が、
『滅するのか?』、
是の、
『法』の、
『異相』が、
『滅するのか?』。
是の、
『二』は、
『どちらも!』、
『間違っている!』。
何以故。如乳不於乳時滅。隨有乳時。乳相定住故。非乳時亦不滅。若非乳不得言乳滅。 何を以っての故に、乳の乳の時に於いて滅せざるが如し。乳有る時に随いて、乳の相定んで住するが故なり。乳の時に非ざるも、亦た滅せず、若し乳に非ざれば、乳滅すと言うを得ざればなり。
何故ならば、
譬えば、
『乳』は、
『乳の時』には、
『滅しない!』、
何故ならば、
『乳』の、
『有る時』に、
『随って!』、
『乳の相』が、
『定まって!』、
『住するからだ!』。
亦た、
『乳でない時』にも、
『滅しない!』、
若し、
『乳でなければ!』、
こう言えないからだ、――
『乳』が、
『滅する!』、と。
復次
 如一切諸法  生相不可得 
 以無生相故  即亦無滅相
復た次ぎに、
一切の諸法の、生相を得べからざるが如く、
生相無きを以っての故に、即ち亦た滅相も無し。
復た次ぎに、
一切の、
諸の、
『法』は、
『生相』が、
『認められない!』。
『法』には、
『生相』の、
『無い!』が故に、
即ち、
『滅相』も、
『無い!』。
参考
yadaiva sarvadharmāṇām utpādo nopapadyate |
tadaivaṃ sarvadharmāṇāṃ nirodho nopapadyate ||29||
When the birth of all phenomena is not possible,
then the cessation of all phenomena is not possible.

参考
When the production of any phenomenon
Is inadmissible
The cessation of any phenomenon
Is inadmissible.

参考
まさしく,あらゆる「もの」(一切諸法)の生ずることは,決して成り立たないのであるから,そのときには,同樣に,あらゆる「もの」(一切諸法)の滅することも,成り立たない。
如先推求。一切法生相不可得。爾時即無滅相。破生故無生。無生云何有滅。 先に推求せるが如く、一切の法は生相を得べからず。爾の時即ち滅そう無し。生を破するが故に無生なり。無生なれば、云何が滅有らん。
先に、推求したように、――
一切の、
『法』には、
『生相』が、
『認められない!』ので、
爾の時には、
『滅相』も、
『無い!』。
『生』を、
『破った!』が故に、
『生』が、
『無くなった!』。
『生』が、
『無いのに!』、
何故、
『滅』が、
『有るのか?』。
若汝意猶未已。今當更說破滅因緣 若し汝が意、猶お未だ已まずんば、今当に更に、滅を破る因縁を説くべし。
若し、
お前の、
『意(気持)』が、
猶お、
『已()まなければ!』、
今、
更に、
『滅を破る!』、
『因縁』を、
『説かねばならない!』。
 若法是有者  是即無有滅 
 不應於一法  而有有無相
若し法にして是れ有らば、是れ即ち滅有ること無けん、
応に一法に於いて、有無の相有るべからず。
若し、
『法』が、
『有れば!』、
即ち、
『滅』は、
『無いことになる!』。
『一法』中に、
『有、無』の、
『二相』は、
『有るはずがない!』。
参考
sataś ca tāvad bhāvasya nirodho nopapadyate |
ekatve na hi bhāvaś ca nābhāvaś copapadyate ||30||
Cessation is not possible in an existent thing.
Thingness and nothingness are not possible in one.

参考
For example, for an existent thing to cease
Is inadmissible
Since a single base is inadmissible
To be both a thing and non-thing.

参考
まず第一に,
現に存在している「存在(もの‧こと)」の滅することは,成り立たない。 なぜならば,「存在(もの‧こと)」と「非存在(のもの‧こと)」とは,一つのものにおいては,成り立たないからである。
諸法有時推求滅相不可得。何以故。云何一法中。亦有亦無相。如光影不同處。 諸法の有る時に、滅相を推求するも得べからず。何を以っての故に、云何が一法中に、亦有亦無の相あらん。光と影と処を同じうせざるが如し。
諸の、
『法』の、
『有相の時』、
『滅相』を、
『推求しても!』、
『認められない!』。
何故ならば、
『一法』中に、
何故、
『有でもあり!』、
『無でもある!』ような、
『相』が、
『有るのか?』。
譬えば、
『光』と、
『影』とが、
『処』を、
『同じくするようなものだ!』。
復次
 若法是無者  是即無有滅 
 譬如第二頭  無故不可斷
復た次ぎに、
若し法是れ無くんば、是れ即ち滅有ること無し、
譬えば第二の頭の、無きが故に断ず可からざるが如し。
復た次ぎに、
若し、
『法』が、
『無ければ!』、
即ち、
『滅』も、
『無い!』。
譬えば、
『第二の頭』の、
『無い!』が故に、
『断てないように!』。
参考
asato ’pi na bhāvasya nirodha upapadyate |
na dvitīyasya śirasaś chedanaṃ vidyate yathā ||31||
Cessation is not possible also in what is not a thing.
This is similar to how there is no cutting off a second head.
[i.e. a person cannot be beheaded twice]

参考
For that which has become a non-thing to cease
Is also inadmissible.
This is just like how
There cannot be a second beheading.

参考
現に存在していない「存在(もの‧こと)」の滅することもまた,成り立たない。あたかも,第二の頭を切断するということは,存在しないようなものである。
法若無者則無滅相。如第二頭第三手無故不可斷。 法若し無ければ、則ち滅相無し。第二の頭、第三の手の無きが故に、断ずべからざるが如し。
『法』が、
若し、
『無ければ!』、
則ち、
『滅相』が、
『無いことになる!』。
譬えば、
『第二の頭』や、
『第三の手』は、
『無い!』が故に、
『断てないように!』。
復次
 法不自相滅  他相亦不滅 
 如自相不生  他相亦不生
復た次ぎに、
法は自相の滅にあらず、他相も亦た滅にあらず、
自相の生にあらず、他相も亦た生ならざるが如し。
復た次ぎに、
『法』は、
『自相』が、
『滅することはなく!』、
亦た、
『他相』が、
『滅することもない!』。
譬えば、
『自相』を、
『生じさせず!』、
亦た、
『他相』をも、
『生じさせないように!』。
参考
na svātmanā nirodho ’sti nirodho na parātmanā |
utpādasya yathotādo nātmanā na parātmanā ||32||
Cessation does not exist by its own self,
nor does cessation [exist] by something else.
This is like how what has been born
is not given birth to by itself or another

参考
There is no ceasing due to itself
Nor is there ceasing due to something different.
This is just like how production
Is not produced by itself or something different.

参考
滅はそれ自身によっては存在しない。滅は他のものによっては[存在し]ない。あたかも,生の生ずることが,それ自身によっても,他のものによっても[存在し]ないようなものである。
如先說生相。生不自生。亦不從他生。 先に、生相を説けるが如く、生は自ら生ぜず、亦た他に従って生ぜず。
先に、
『生相』を、こう説いた、――
『生(生法)』は、
『自ら!』を、
『生じさせず!』、
亦た、
『他によって!』、
『生じない!』、と。
若以自體生。是則不然。一切物皆從眾緣生。 若し自体を以って生ぜば、是れ則ち然らず。一切の物は、皆衆縁より生ずればなり。
若し、
『自体より!』、
『生じれば!』、
是れは、
『正しくない!』。
一切の、
『物』は、
皆、
『衆縁より!』、
『生じるからだ!』。
  (い):もって。用いる/依存する/看做す( use, depend on, consider as )、原因( reason )、依って/用いて( using, taking, by means of )、在りて/於いて( in )、[変化/行動の起点]従り/由り/自り( from )、為に( in order to, so as to, for )、行為の原因( because of )、[並列関係]~と( and, as well as )、[条件関係]則ち/それで( then )、目的/結果( aim, target )、僅かに/只だ( only )。
如指端不能自觸。如是生不能自生。從他生亦不然。何以故。生未有故。不應從他生。 指端の自ら触るる能わざるが如く、是の如く生も自らを生ずる能わず、他に従りて生ずるも亦た然らず。何を以っての故に、生未だ有らざるが故に、応に他に従いて生ずべからざればなり。
譬えば、
『指端』が、
『自らに!』は、
『触れられないように!』、
是のように、
『生』は、
『自らを!』、
『生じられない!』。
亦た、
『他より!』、
『生じれば!』、
亦た、
『間違っている!』。
何故ならば、
『生』は、
未だ、
『存在しない!』が故に、
『他より!』、
『生じるはずがないからだ!』。
是生無故無自體。自體無故他亦無。是故從他生亦不然。 是の生無きが故に、自体無く、自体無きが故に他も亦た無し。是の故に他より生ずるも亦た然らず。
是の、
『生』の、
『無い!』が故に、
『自体』が、
『無い!』。
『自体』の、
『無い!』が故に、
『他も!』、
『無い!』。
是の故に、
『他より!』、
『生じる!』のも、
亦た、
『間違っている!』。
滅法亦如是。不自相滅不他相滅。 滅法も亦た是の如く、自相にて滅せず、他相にて滅せず。
『滅法』も、
亦た、
是のように、
『自相』でも、
『他相』でも、
『滅しない!』。
復次
 生住滅不成  故無有有為 
 有為法無故  何得有無為
復た次ぎに、
生住滅は成ぜず、故に有為有ること無し、
有為の法無きが故に、何ぞ無為有るを得ん。
復た次ぎに、
『生、住、滅』の、
『成立しない!』が故に、
『有為』は、
『無い!』。
『有為法』の、
『無い!』が故に、
何故、
『無為』が、
『有得るのか?』。
参考
utpādasthitibhaṅgānām asiddher nāsti saṃskṛtam |
saṃskṛtasyāprasiddhau ca kathaṃ setsyaty asaṃskṛtam ||33||
Because birth and remaining and perishing are not established,
there is no conditioned.
Because the conditioned is utterly unestablished,
how can the unconditioned be established?

参考
Since production, abiding and disintegration
Have not been established, compounded phenomena do not exist.
Since compounded phenomena have not been established at all
How could uncompounded phenomena be established?

参考
〔以上のように〕生と住と滅とが成立しないがゆえに,つくられたもの(現象,有為) は存在しない。また,有為は成立しない場合に,どうして,無為が成立するであろう か。
汝先說有生住滅相故有有為。以有有為故有無為。 汝は先に、『生住滅の相有るが故に有為有り、有為有るを以っての故に、無為有り』と説けり。
お前は、
先に、こう説いた、――
『生、住、滅の相』の、
『有る!』が故に、
『有為』が、
『有り!』、
『有為』の、
『有る!』が故に、
『無為』が、
『有る!』、と。
今以理推求。三相不可得。云何得有有為。 今、理を以って推求するに、三相は得べからず。云何が有為有るを得ん。
今、
『理』を以って、
『三相』を、
『推求した!』が、
『認められない!』。
何故、
『有為』が、
『有得るのか?』。
如先說。無有無相法。有為法無故。何得有無為。 先に、『無相の法有ること無く、有為法無きが故に、何ぞ、無為有るを得ん』、と説けるが如し。
先に、こう説いた、――
『無相の法』は、
『無い!』。
『有為法』の、
『無い!』が故に、
何故、
『無為』が、
『有得るのか?』、と。
無為相名不生不住不滅。止有為相故名無為相。無為自無別相。因是三相有無為相。如火為熱相地為堅相水為冷相。無為則不然。 無為の相を、不生、不住、不滅と名づけ、有為の相を止むるが故に、無為の相と名づく。無為は、自ら別の相無く、是の三相に因って、無為の相有り。火を熱相と為し、地を堅相と為し、水を冷相と為すが如き、無為は則ち然らず。
『無為の相』を、
『不生、不住、不滅である!』と、
『呼ぶが!』、
『有為の相』を、
『遮止する!』が故に、
『無為の相』と、
『呼ぶのである!』、
『無為』には、
自らの、
『別相(差別相)』は、
『無く!』、
是の、
『三相』に、
『因って!』、
『無為相』が、
『有る!』。
譬えば、
『火』は、
『熱相であり!』、
『地』は、
『堅相であり!』、
『水』は、
『冷相である!』が、
『無為』は、
『そうでない!』。
問曰。若是生住滅畢竟無者。云何論中得說名字。 問うて曰く、若し是の生住滅畢竟じて無くんば、云何が論中に、名字を説くを得る。
問い、
若し、
是の、
『生、住、滅』が、
『畢竟じて!』、
『無ければ!』、
何故、
『論』中に、
『名字』を、
『説き得るのか?』。
答曰
 如幻亦如夢  如乾闥婆城 
 所說生住滅  其相亦如是
答えて曰く、
幻の如く亦た夢の如く、乾闥婆城の如し、
説く所の生住滅の、其の相も亦た是の如し。
答え、
譬えば、
『幻か!』、
『夢か!』、
『乾闥婆城のようだ!』。
説かれた所の、――
『生とか!』、
『住とか!』、
『滅とか!』も、
其の、
『相』は、
『是の通りだ!』、と。
  乾闥婆城(けんだつばじょう):梵語gandharva- nagara、或いはgandharva- puraの訳。乾闥婆の城市の義。虚空中に見える幻想の市街を云う。蜃気楼。
参考
yathā māyā yathā svapno gandharvanagaraṃ yathā |
tathotpādas tathā sthānaṃ tathā bhaṅga udāhṛtam ||34||
Like a dream, like a magician’s illusion,
like a city of gandharvas,
likewise birth and likewise remaining,
likewise perishing are taught.

参考
Like an illusion, like a mirage
And like a city of Gandharvas.
Production, abiding and disintegration
Have been taught in this way.

参考
あたかも幻のように,あたかも夢のように,あたかも蜃気楼(ガンダルヴァ城)のように, 生はそのようであり,住はそのようであり,滅はそのようである,と說明されている。
生住滅相無有決定。凡人貪著謂有決定。諸賢聖憐愍欲止其顛倒。還以其所著名字為說。語言雖同其心則異。如是說生住滅相。不應有難。 生住滅の相は、決定有ること無し。凡人は貪著して、決定有りと謂う。諸の賢聖は憐愍して、其の顛倒を止めんと欲し、還って其の著する所の名字を以って為めに説けば、語言同じと雖も、其の心は則ち異なり。是の如く、生住滅の相を説けば、応に難有るべからず。
『生、住、滅』の、
『相』には、
『決定』が、
『無いのに!』、
『凡人』は、
『相』に、
『貪著して!』、こう謂う、――
『決定』が、
『有る!』、と。
『諸賢聖』は、
『憐愍して!』、
其の、
『顛倒』を、
『止めさせよう!』と、
『思い!』、
『還って!』、
其の、
『著する!』所の、
『名字』を、
『用いて!』、
『衆生』の為に、
『法』を、
『説かれた!』。
『諸賢聖』の、
『語言』は、
『凡人』と、
『同じである!』が、
其の、
『心』が、
『異なる!』ので、
是のように、
『生、住、滅の相』を、
『説かれても!』、
『非難するような!』ことが、
『有ってはならない!』。
如幻化所作。不應責其所由。不應於中有憂喜想。但應眼見而已。如夢中所見不應求實。 幻化の所作の如く、応に其の所由を責むべからず、応に中に於いて憂喜の想有るべからず、但だ応に眼に見るべきのみ。夢中の所見の如く、応に実を求むべからず。
譬えば、
『幻化』の、
『所作のように!』、
其の、
『所由( reason )』を、
『責めるべきでなく!』、
其の中に、
『憂、喜の想』は、
『有るはずがなく!』、
但だ、
『眼』に、
『見えるだけである!』。
譬えば、
『夢』中の、
『所見のように!』、
『実』を、
『求めてはならない!』。
如乾闥婆城日出時現而無有實。但假為名字不久則滅。生住滅亦如是。凡夫分別為有。智者推求則不可得 乾闥婆城の、日出づる時、現るるも、実有ること無く、但だ仮に名字を為すも、久しからずして、則ち滅するが如く、生住滅も亦た是の如く、凡夫は分別して有りと為すも、智者推求すれば、則ち得べからず。
譬えば、
『乾闥婆(gandharva、尋香神)の城』が、
『日出の時』に、
『現れても!』、
『実』が、
『無く!』、
但だ、
仮に、
『城』と、
『呼ばれても!』、
やがて、
『滅することになるように!』、
『生、住、滅』も、
亦た、
是のように、
『凡夫』は、
『分別して!』、
『有る!』と、
『思う!』が、
『智者』が、
『推求すれば!』、
『有る!』と、
『認められることはない!』。



中論觀作作者品第八(十二偈)

問曰。現有作有作者有所用作法。三事和合故有果報。是故應有作者作業。 問うて曰く、現に作有り、作者有り、用うる所の作法有り、三事和合するが故に、果報有り。是の故に応に作者の業を作すこと有るべし。
問い、
現に、
『作(殺=行為)』、
『作者(殺者)』が、
『有り!』、
『所用の作法(殺法=毒殺、打殺)』が、
『有る!』。
是の、
『三事』の、
『和合する!』が故に、
『果報』が、
『有る!』。
是の故に、
『作者、作業』は、
『有るはずだ!』。
  作者(さしゃ):梵語 kāraka の訳、主宰, 人作, 作, 作者, 作者, 使作者, 所作, 所造, 能, 能令, 能作, 能作者, 能行( making , doing , acting , who or what does or produces or creates )。
  (さ)、作業(さごう):梵語 kriyā の訳、行為/行い/活動/仕事( doing , performing , performance, business, act , action , undertaking, activity , work , labour )の義、又、事, 事業, 事業, 作, 作事, 作業, 作法, 作用, 修, 力用, 功用, 動作, 惡事, 所作, 所作事, 所造, 方, 果, 果生, 業, 業用, 治, 現行, 生起, 用, 用, 能, 行, 行事, 造, 造作等に訳す。
  作法(さほう):梵語 karaṇa の訳、行為( the act of making, doing, producing, effecting )、行うこと/造ること/成し遂げること/引き起こすこと( doing, making, effecting, causing )の義。又行為, 事, 事業, 令作, 作, 作法, 具, 成, 成所作, 成辨, 所作, 所化, 時間, 立, 能作, 造作等に訳す。
  作法(さほう):梵語 saṃskṛta-dharma, kṛtaka の訳、造られた事物/被造物( Thing that are made; created things; artificial things. )。
  作法(さほう):Regulations, protocol, rules of decorum, regarding daily behavior that are followed by renunciant Buddhist practitioners, such as not drinking alcohol, not having sex, as well as rules governing salutations and so forth. See also 行儀. (Skt. karman, kriyā, dharmākara)
  作法(さほう):To perform ceremonies, such as ordination ceremonies. See 授戒 and 羯磨.
  :梵語 karman の訳、行為/仕事( act, action, performance, business )、成果/結果/効果( product, result, effect )の義。又、事, 事業, 作, 作業, 作法, 功報, 因業, 大業, 宿業, 工業, 所作, 所作業, 所造業, 業, 業力, 業因, 業性, 業用, 業行, 業障, 營務, 生業, 用, 相, 罪業, 羯磨, 羯磨法, 行, 行業, 造, 造作と訳す。
答曰。上來品品中。破一切法皆無有餘。如破三相。三相無故無有有為。有為無故無無為。有為無為無故。一切法盡無作作者。 答えて曰く、上来の品品中に、一切の法を破せば、皆余有ること無し。三相を破するが如きは、三相無きが故に有為有ること無く、有為無きが故に、無為無く、有為無為無きが故に、一切法尽きて、作、作者無し。
答え、
上来の、
『品品』中に、
『一切の!』、
『法』を、
『破ったので!』、
『余り!』は、
何も、
『無くなった!』。
例えば、
『三相』を、
『破る!』と、
『三相』の、
『無い!』が故に、
『有為』が、
『無くなり!』、
『有為』の、
『無い!』が故に、
『無為』も、
『無くなり!』、
『有為、無為』の、
『無い!』が故に、
『一切の法』が、
『尽きた!』。
則ち、
『作、作者』は、
『無いのである!』。
若是有為。有為中已破。若是無為。無為中已破。不應復問 若し是れ有為なれば、有為中に已に破せり。若し是れ無為なれば、無為中に已に破せり。応に復た問うべからず。
若し、
是れが、
『有為ならば!』、
『有為』中に、
『破られている!』し、
是れが、
『無為ならば!』、
『無為』中に、
『破られている!』ので、
更に、
『復た!』、
『問うべきでない!』。
汝著心深故。而復更問。 汝は、著心の深きが故に、而も復た更に問えり。
お前は、
『著心』が、
『深い!』が故に、
復た、
『更に!』、
『問うのである!』。
今當復答
 決定有作者  不作決定業 
 決定無作者  不作無定業
今当に復た答うべし、
決定して作者有らば、決定せる業を作さず、
決定して作者無くんば、定まり無き業を作さず。
今、
また、答えよう、――
『決定して!』、
『作者』が、
『有れば!』
『決定した!』、
『業』を、
『作さない!』。
『決定して!』、
『作者』が、
『無ければ!』、
『決定しない!』、
『業』をも、
『作さない!』。
参考
sadbhūtaḥ kārakaḥ karma sadbhūtaṃ na karoty ayam |
kārako nāpy asadbhūtaḥ karmāsadbhūtam īhate ||1||
One who exists as an actor does not do that which exists as an act.
One who does not exist as an actor
also does not do that which does not exist as an act.

参考
That which is an agent
Does not perform that which is an action.
Also that which is not an agent
Does not perform that which is not an action.

参考
すでに実在しているこの行為者が,すでに実在している行為をなすということは,ない。 また,まだ実在していない行為者が,まだ実在していない行為を試みるということも,ない。
若先定有作者定有作業。則不應作。 若し先に、定んで作者有り、定んで作業有らば、則ち応に作すべからず。
若し、
先に、
『定まって!』、
『作者』が、
『有り!』、
『定まって!』、
『作業( action )』が、
『有れば!』、
則ち、
『作者』は、
『作業』を、
『作すはずがない!』。
若先定無作者定無作業。亦不應作。 若し先に、定んで作者無く、作業無ければ、亦た応に作すべからず。
若し、
先に、
『定まって!』、
『作者』が、
『無く!』、
『定まって!』、
『作業』が、
『無ければ!』、
亦た、
『作者』が、
『作業』を、
『作すはずがない!』。
何以故
 決定業無作  是業無作者 
 定作者無作  作者亦無業
何を以っての故に、
決定せる業に作無く、是の業に作者無し、
定まりたる作者に作無く、作者にも亦た業無し。
何故ならば、
『決定した!』、
『業( things which is done )』には、
『作( doing )』が、
『無く!』、
是の、
『業』には、
『作者( doer )』が、
『無い!』。
『決定した!』、
『作者』には、
『作』が、
『無く!』、
『作者』には、
『業』も、
『無い!』。
参考
sadbhūtasya kriyā nāsti karma ca syād akartṛkam |
sadbhūtasya kriyā nāsti kartā ca syād akarmakaḥ ||2||
One who exists has no activity;
[something] would also exist as an act without an actor.
One who exists has no activity;
[something] would also exist as an actor without an act.

参考
Since that which is an agent has nothing to perform
There would also be an action without an agent.
Since that which is an action has nothing to perform
There would also be an agent without an action.

参考
すでに実在しているもの(行為)には,作用は存在しない。すなわち〔すでに実在してい る〕行為は,行為主体の無いものとなるであろう。すでに実在しているもの(行為者) には,作用は存在しない。すなわち〔すでに実在している〕行為主体は,行為の無いものとなるであろう。
若先決定有作業。不應更有作者。又離作者應有作業。但是事不然。 若し先に決定して、作業有らば、応に更に作者有るべからず。又作者を離れて、応に作者有るべくんば、但だ是の事は然らず。
若し、
先に、
『決定して!』、
『作業』が、
『有れば!』、
更に、
『作者』の、
『有るはずがない!』。
又、
『作者』を、
『離れて!』、
『作業』が、
『有るはずだが!』、
但だ、
是の、
『事』は、
『そうでない!』。
若先決定有作者。不應更有作業。又離作業應有作者。但是事不然。 若し先に決定して、作者有らば、応に更に作業有るべからず。又作業を離れて、応に作者有るべくんば、但だ是の事は然らず。
若し、
先に、
『決定して!』、
『作者』が、
『有れば!』、
更に、
『作業』の、
『有るはずがない!』、
又、
『作業』を、
『離れて!』、
『作者』が、
『有るはずだが!』、
但だ、
是の、
『事』は、
『そうでない!』。
是故決定作者決定作業。不應有作。不決定作者不決定作業。亦不應有作。何以故。本來無故。 是の故に決定せる作者、決定せる作業には、応に作有るべからず。決定せざる作者、決定せざる作業にも、亦た応に作有るべからず。何を以っての故に、本より来(このかた)無きが故なり。
是の故に、
『作者』と、
『作業』が、
『決定すれば!』、
『作』の、
『有るはずがなく!』、
『作者』も、
『作業』も、
『決定しなくても!』、
亦た、
『作』の、
『有るはずがない!』。
何故ならば、
『本来!』、
『無いからである!』。
  本来(ほんらい):開始より/元より/原来/最初は/当然( from the beginning, originally, at first, of cource )。
有作者有作業。尚不能作。何況無作者無作業。 作者有り、作業有るにすら、尚お作す能わず、何に況んや、作者無く、作業無きをや。
『作者』や、
『作業』が、
『有っても!』、
尚お、
『作すことができない!』。
況して、
『作者』も、
『作業』も、
『無ければ!』、
『尚更である!』。
復次
 若定有作者  亦定有作業 
 作者及作業  即墮於無因
復た次ぎに、
若し定んで作者有り、亦た定んで作業有らば、
作者及び作業は、即ち無因に堕せん。
復た次ぎに、
若し、
『決定して!』、
『作者』が、
『有り!』、
亦た、
『決定して!』、
『作業』が、
『有れば!』、
則ち、
『作者』と、
『作業』は、
『無因』に、
『堕ちることになる!』。
参考
karoti yady asadbhūto ’sadbhūtaṃ karma kārakaḥ |
ahetukaṃ bhavet karma kartā cāhetuko bhavet ||3||
If one who does not exist
as an actor did that which does not exist as an act,
the act would have no cause;
the actor too would have no cause.

参考
If that which is not an agent
Were to perform that which is not an action
Actions would be without a cause
And also agents would be without a cause.

参考
もしもまだ実在していない行為者が,まだ実在していない行為をなすのであるならば, 行為は原因の無いものとなるであろう。また行為主体も原因の無いものとなるであろ う。
若先定有作者定有作業。汝謂作者有作。即為無因 若し先に、定んで作者有り、定んで作業有るに、汝、『作者に作有り』、と謂わば、即ち無因と為す。
若し、
先に、
『決定して!』、
『作者』が、
『有り!』、
『決定して!』、
『作業』が、
『有るのに!』、
お前が、こう謂うならば、――
『作者』には、
『作』が、
『有る!』、と。
是れが、
『無因である!』。
離作業有作者。離作者有作業。則不從因緣有。 作業を離れて、作者有り、作者を離れて、作業有りとせば、則ち因縁に従らずして有り。
『作業』を、
『離れて!』、
『作者』が、
『有り!』、
『作者』を、
『離れて!』、
『作業』が、
『有れば!』、
則ち、
『因縁によらずに!』
『有ることになる!』。
問曰。若不從因緣有作者有作業。有何咎。 問うて曰く、若し因縁に従らずして、作者有り、作業有らば、何の咎か有らん。
問い、
若し、
『因縁によらずに!』、
『作者』や、
『作業』が、
『有れば!』、
何のような、
『咎』が、
『有るのか?』。
答曰
 若墮於無因  則無因無果 
 無作無作者  無所用作法 
 若無作等法  則無有罪福 
 罪福等無故  罪福報亦無 
 若無罪福報  亦無有涅槃 
 諸可有所作  皆空無有果
答えて曰く、
若し無因に堕せば、則ち因無く果無く、
作無く作者無く、用うる所の作法も無し。
若し作等の法無ければ、則ち罪福有ること無し、
罪福等無きが故に、罪福の報も亦た無し。
若し罪福の報無ければ、亦た涅槃有ること無し、
諸の有るべき所作は、皆空しく果有ること無し。
答え、
若し、
『無因』に、
『堕ちれば!』、
則ち、
『因、果』は、
『無くなり!』、
『作、作者、所用の作法』も、
『無くなる!』。
若し、
『作』等の、
『法』が、
『無ければ!』、
則ち、
『罪、福』が、
『無くなり!』、
『罪、福』等の、
『無い!』が故に、
亦た、
『罪、福の報』も、
『無くなる!』。
若し、
『罪、福』の、
『報』が、
『無ければ!』、
亦た、
『涅槃』も、
『無くなり!』、
諸の、
『有るべき!』、
『所作(果報)』は、
皆、
『空しく!』、
『無果となる!』。
参考
hetāv asati kāryaṃ ca kāraṇaṃ ca na vidyate |
tadabhāve kriyā kartā kāraṇaṃ ca na vidyate ||4||
If there were no cause,
effect and cause would not be evident.
If they were non-existent,
activity and agent and doing would not be evident.

dharmādharmau na vidyete kriyādīnām asaṃbhave |
dharme cāsaty adharme ca phalaṃ tajjaṃ na vidyate ||5||
If activity etc. did not appear,
dharma and adharma would not be evident.
If dharma and adharma did not exist,
there would be no fruit that comes from them.

phale ’sati na mokṣāya na svargāyopapadyate |
mārgaḥ sarvakriyāṇāṃ ca nairarthakyaṃ prasajyate ||6||
If there were no fruit,
the path of liberation and higher states would not be appropriate.
Also it would follow that all activities are meaningless.

参考
If they are without a cause
Also results and causes would be inadmissible.
If there are no causes and results
Actions, agents and activities would not be tenable.

If actions and so forth are not tenable
Dharma and non-Dharma would not exist.
If there is no Dharma and non-Dharma
Results arisen from them would not exist.

If there are no results
Paths to liberation and high status would be inadmissible.
And it would also follow that
Every action would be simply meaningless.

参考
原因が存在しないならば,行為の結果も,行為の原因も,存在しない。それ(行為の結 果)が存在しないならば,作用も,行為主体も,手段も存在しないことになる。

作用などが存在しないならば,法﹝にかなった行ない﹞と非法﹝の行ない﹞との両者 は,ともに存在しない。法﹝にかなった行ない﹞も,また非法﹝の行ない﹞も存在しないならば,それから生ずる果報も,存在しないことになる。

果報が存在しないならば,解脫にいたる〔道〕も,また天界にいたる道も,成り立たないことになる。〔こうして〕また,一切の作用が無意味である,という誤りが付随する。
若墮於無因。一切法則無因無果。能生法名為因。所生法名為果。是二即無。是二無故無作無作者。 若し無因に堕せば、一切の法は則ち無因、無果なり。能生の法を名づけて、因と為し、所生の法を名づけて、果と為す。是の二即ち無ければ、是の二無きが故に、作無く作者無し。
若し、
『無因』に、
『堕ちれば!』、
一切の、
『法』は、
則ち、
『無因となり!』、
『無果となる!』。
『能生の法』を、
『因』と、
『呼び!』、
『所生の法』を、
『果』と、
『呼ぶ!』が、
是の、
『二』が、
即ち、
『無くなり!』、
是の、
『二』の、
『無い!』が故に、
『作』も、
『作者』も、
『無いことになる!』。
亦無所用作法。亦無罪福。罪福無故亦無罪福果報及涅槃道。是故不得從無因生。 亦た用うる所の作法も無く、亦た罪福も無く、罪福無きが故に、亦た罪福の果報、及び涅槃の道も無し。是の故に、無因より生ずるを得ず。
亦た、
『所用の作法』も、
『無くなる!』が故に、
亦た、
『罪、福の業』も、
『無くなり!』、
『罪、福の業』の、
『無い!』が故に、
亦た、
『罪、福の果報』も、
『涅槃の道』も、
『無くなる!』。
是の故に、
『無因より!』、
『生じる!』ことは、
『認められない!』。
問曰。若作者不定。而作不定業有何咎。 問うて曰く、若し作者不定にして、不定の業を作せば、何の咎か有る。
問い、
若し、
『作者』が、
『定まらず!』、
『作す!』、
『業』も、
『定まらなければ!』、
何のような、
『咎』が、
『有るのか?』。
答曰。一事無尚不能起作業。何況二事都無。 答えて曰く、一事無きすら、尚お作業を起す能わず、何に況んや、二事都(す)べて無きをや。
答え、
『一事』が、
『無くても!』、
尚お、
『作業』を、
『起すことはできない!』。
況して、
『二事』が、
『都()べて無ければ!』、
『尚更である!』。
譬如化人以虛空為舍。但有言說而無作者作業。 譬えば化人の虚空を以って、舎(いえ)と為すが如く、但だ言説のみ有りて、而も作者、作業無し。
譬えば、
『化人』が、
『虚空』を、
『舎(いえ)とするように!』、
但だ、
『言説』が、
『有るのみで!』、
『作者』も、
『作業』も、
『無いのである!』。
問曰。若無作者無作業。不能有所作。今有作者有作業應有作。 問うて曰く、若し作者無く、作業無ければ、所作有る能わず。今は、作者有り、作業有りて、応に作有るべし。
問い、
若し、
『作者』も、
『作業』も、
『無ければ!』、
『所作』は、
『有ることができない!』が、
今、
『作者』も、
『作業』も、
『有るのだから!』、
『作』は、
『有るはずだ!』。
答曰
 作者定不定  不能作二業 
 有無相違故  一處則無二
答えて曰く、
作者の定不定なるは、二業を作す能わず、
有無相違するが故に、一処には則ち二無し。
答え、
『作者』が、
『定不定( Both being and non-being )ならば!』、
『定不定の!』、
『二業』を、
『作すことはできない!』。
『有、無』の、
『相違する!』が故に、
『一処ならば!』、
『二』は、
『無いことになる!』。
  定不定(じょうふじょう):梵語sad- asad- bhuutaの訳、Substantial and unsubstantial(実在することと、実在しないと)、或いは梵語sad- asatの訳、Being and nonbeing(実在することと、実在しないこと)。又実不実、或いは有非有、有無とも云う。蓋し上来作者、作業の有無に関し、四句分別の第一句有、第二句無を破してきたが、今定不定を以って、四句分別の第三句非有非無を破せんとす、即ち四句分別を有無に約すれば、第一句有、第二句無、第三句亦有亦無(Both 有 and 無)、第四句非有非無(Neither 有 nor 無)と為す中の亦有亦無なるが如し。
  四句分別(しくふんべつ):梵語caatuS- koTika- vikalpaの訳。即ち一切法をA、B二法に約するとき、四句を ( 1 ) A 、 ( 2 ) B 、 ( 3 ) 亦A亦B ( Both A and B ( A or B ) ) 、 ( 4 ) 非A非B ( Neither A nor B ( nonA and nonB ) ) となし、是れを四句分別と称す。即ち相待する二法、謂わゆる非有を無となし、非無を有となすが如き、或いは非常を無常となし、非無常を常となすが如き、是の如き二法の分別に関し、上記の四法はその分別の総体を能く摂す。故に是れを四句分別と名づく。
参考
kārakaḥ sadasadbhūtaḥ sadasat kurute na tat |
parasparaviruddhaṃ hi sac cāsac caikataḥ kutaḥ ||7||
One who exists and does not exist
as an actor does not do what exists
and does not exist [as an act].
Since existence and non-existence are mutually contradictory in one [thing],
where can they exist?

参考
That which is and is not an agent
Does not perform that which is and is not an action.
How could that there be that which is and is not an agent
Since that is mutually contradictory for a single base?

参考
実在であり且つ非実在である行為者が,実在であり且つ非実在であるそれ(行為)をなす,ということは,ない。なぜならば,相互に矛盾している実在と非実在とが,どう して,一つのものとして〔あり得るであろう〕か。
作者定不定。不能作定不定業。何以故。有無相違故。一處不應有二。有是決定。無是不決定。一人一事云何有有無。 作者は定にして、不定なれば、定にして不定なる業を作す能わず。何を以っての故に、有無相違するが故に、一処には、応に二有るべからず。有は、是れ決定なり、無は是れ不決定なり。一人、一事なるに、云何が有無有らん。
『作者』が、
『定不定ならば!』、
『定不定』の、
『業』を、
『作すことはできない!』。
何故ならば、
『有、無』の、
『相違する!』が故に、
『一処』に、
『二』は、
『有るはずがない!』。
『有』は、
『決定( being )であり!』、
『無』は、
『不決定( non-being )である!』。
『一人』が、
『一事』に、
何故、
『有』と、
『無』とが、
『有るのか?』。
復次
 有不能作無  無不能作有 
 若有作作者  其過如先說
復た次ぎに、
有は無を作す能わず、無は有を作す能わず、
若し作と作者と有れば、其の過は先に説けるが如し。
復た次ぎに、
『有』は、
『無』に、
『作ることができず!』、
『無』は、
『有』に、
『作ることができない!』。
若し、
『作』と、
『作者』とが、
『有れば!』、
其の、
『過』は、
『先に説いた通りだ!』。
参考
satā ca kriyate nāsan nāsatā kriyate ca sat |
kartrā sarve prasajyante doṣās tatra ta eva hi ||8||
One who exists as an actor does not do an act which is not existent.
One who does not exist [as an actor] also does not do what exists [as an act].
Here too faults will follow for one.

参考
That which is an agent does not perform
That which is not an action.
Also that which is not an agent does not perform
That which is an action. Here also those faults would follow.

参考
実在している行為主体によって実在していない〔もの〕がなされる,ということはないし,実在していない〔行為主体〕によって実在している〔もの〕がなされる,ということもない。なぜならば,そこにはまさしく,それら一切の誤りが付随するからである。
若有作者而無業。何能有所作。 若し作者有りて、業無ければ、何ぞ能く作す所有らん。
若し、
『作者』が、
『有れば!』、
『業』は、
『無いのに!』、
何故、
『所作』は、
『有ることができるのか?』。 
  :作者有れば、則ち業未だ成ぜざる也。
若無作者而有業。亦不能有所作。何以故。如先說。有中若先有業。作者復何所作。 若し作者無くして、業有らば、亦た作す所有る能わず。何を以っての故に。先に説けるが如く、有る中に、若し先に業有らば、作者は、復た何の作す所ぞ。
若し、
『作者』が、
『無いのに!』、
『業』が、
『有れば!』、
亦た、
『所作』は、
『有ることができない!』。
何故ならば、
先に説いたように、――
有る中に、
若し、
先に、
『業』が、
『有れば!』、
『作者』の、
『所作』とは、
『復た何なのか?』。
若先無業云何可得作。如是則破罪福等因緣果報。 若し先に業無ければ、云何が作を得べし。是の如きは則ち、罪福等の因縁の果報を破す。
若し、
先に、
『業』が、
『無ければ!』、
何が、
『作』を、
『得ることになるのか?』。
是のようであれば、
『罪、福』等の、
『因縁、果報』を、
『破ることになる!』。
是故偈中說。有不能作無無不能作有。若有作作者。其過如先說。 是の故に偈中に説かく、『有は無を作す能わず、無は有を作す能わず。若し作と作者と有らば、其の過は先に説くが如し』、と。
是の故に、
『偈』中に、こう説く、――
『有』は、
『無』と、
『作ることができず!』、
『無』は、
『有』と、
『作ることができない!』。
若し、
『作』と、
『作者』とが、
『有れば!』、
其の、
『過』は、
『先に説いた通りだ!』、と。
復次
 作者不作定  亦不作不定 
 及定不定業  其過如先說
復た次ぎに、
作者は定を作さず、亦た不定と、
及び定不定の業を作さず、其の過は先に説くが如し。
復た次ぎに、
『作者』は、
『定まった!』、
『業』を、
『作さず!』、
『定まらない!』、
『業』も、
『作さず!』、
『定不定である!』、
『業』も、
『作さない!』。
其の、
『過』は、
『先に説いた通りだ!』。
参考
nāsadbhūtaṃ na sadbhūtaḥ sadasadbhūtam eva vā |
karoti kārakaḥ karma pūrvoktair eva hetubhiḥ ||9||
One who exists as an actor does not do what does not exist
as an act and what neither exists or not [as an act],
because of what was demonstrated by the proof above.

nāsadbhūto ’pi sadbhūtaṃ sadasadbhūtam eva vā |
karoti kārakaḥ karma pūrvoktair eva hetubhiḥ ||10||
One who does not exist as an actor does not do what exists
as an act and what neither exists or not [as an act],
because of what was demonstrated by the proof above.

参考
That which is an agent having an action
Does not perform either that which is not an action
Or that which is both an action and not an action
Because of the reasons indicated above.

That which is not an agent
Does not perform either that which is an action having an action
Or that which is both an action and not an action
Because of the reasons indicated above.

参考
すでに実在している行為者が,まだ実在していない行為をなすことはないし,また実在しており且つ実在していない〔行為をなすこと〕もない。それは,先に述べたもろ もろの理由(第二偈など)による。
定業已破。不定業亦破。定不定業亦破。今欲一時總破。故說是偈。 定の業は已に破れ、不定の業も亦た破れ、定不定の業も亦た破る。今は、一時に総破せんと欲するが故に、是の偈を説く。
『定まった!』、
『業』は、
『已に破れ!』、
『定まらない!』、
『業』も、
『破れ!』、
『定不定である!』、
『業』も、
『破れた!』。
今は、
『一時に!』、
『総破したい!』と、
『思う!』が故に、
是の、
『偈』が、
『説かれた!』。
是故作者不能作三種業。今三種作者。亦不能作業。 是の故に作者は、三種の業を作す能わず。今三種の作者も亦た、業を作す能わず。
是の故に、
『作者』は、
『三種(定、不定、定不定)』の、
『業』を、
『作すことができない!』ので、
今は、
『三種』の、
『作者』も、
『業』を、
『作すことができなくなった!』。
何以故
 作者定不定  亦定亦不定 
 不能作於業  其過如先說
何を以っての故に、
作者は定、不定、亦定亦不定なれば、
業を作す能わず、其の過は先に説けるが如し。
何故ならば、
『作者』が、
『定でも!』
『不定でも!』、
『定か不定かでも!』、
『業』を、
『作すことができない!』。
其の、
『過』は、
『先に説いた通りだ!』。
参考
karoti sadasadbhūto na san nāsac ca kārakaḥ |
karma tat tu vijānīyāt pūrvoktair eva hetubhiḥ ||11||
One who neither exists nor does not exist
as an actor does not do that which exists and does not exist as an act.
Here too this is to be known through the proof demonstrated above.

参考
That which is both an agent and not an agent
Does not perform that which is both an action and not an action.
This too can be understood
By the reasons indicated above.

参考
すでに実在しており且つまだ実在していない行為者が,すでに実在している行為をなすことはないし,まだ実在していない〔行為をなすこと〕もない。そして,それは,先に 述べたもろもろの理由(第七偈など)によって知られるべきである。
作者定不定。亦定亦不定。不能作於業。 作者は定、不定、亦定亦不定なれば、業を作す能わず。
『作者』は、
『定でも!』、
『不定でも!』、
『定か不定かでも!』、
『業』を、
『作すことができない!』。
何以故。如先三種過因緣。此中應廣說。如是一切處求作者作業。皆不可得。 何を以っての故に、先の三種の過の因縁の如し。此の中に、応に広く説くべし。是の如く一切処に、作者と作業を求むれど、皆得べからず。
何故ならば、
例えば、
先の、
『三種の過』の、
『因縁(理由)』と、
『同じである!』が、
此の中にも、
広く、説かねばならない、――
是のように、
一切の、
『処』に、
『作者、作業』を、
『求めた!』が、
皆、
『認められなかった!』。
問曰。若言無作無作者。則復墮無因。 問うて曰く、若し、『作無く、作者無し』、と言わば、則ち復た、無因に堕せん。
問い、
若し、
こう言うならば、――
『作』も、
『作者』も、
『無い!』、と。
則ち、
復た、
『無因』に、
『堕ちることになる!』。
答曰。是業從眾緣生假名為有。無有決定。不如汝所說。 答えて曰く、是の業は、衆縁より生ずるに、仮りに名づけて、有と為せば、決定有ること無し。汝が所説の如きにあらず。
答え、
是の、
『業』は、
『衆縁より!』、
『生じ!』、
仮に、
『有る!』と、
『呼んでも!』、
是れに、
『決定』は、
『無い!』ので、
お前の、
『所説』と、
『同じではない!』。
何以故
 因業有作者  因作者有業 
 成業義如是  更無有餘事
何を以っての故に、
業に因りて作者有り、作者に因りて業有り、
業を成ずる義は是の如し、更に余事有ること無し。
何故ならば、
『業』に、
『因って!』、
『作者』が、
『有り!』、
『作者』に、
『因って!』、
『業』が、
『有る!』。
『業』の、
『成立する!』、
『義』は、
『是の通りであり!』、
更に、
『余の事』は、
『無い!』。
参考
pratītya kārakaḥ karma taṃ pratītya ca kārakam |
karma pravartate nānyat paśyāmaḥ siddhikāraṇam ||12||
An actor depends on acts and acts too occur in dependence on an actor.
Apart from this, one does not see a cause which is established.

参考
Apart from an agent created in dependence upon an action
And also an action arising in dependence
On that very agent
A cause that establishes them is not seen.

参考
行為者は行為に縁って〔起こり〕,また行為はその行為者に縁って起こる。それ以外の成立の原因を,われわれは見ない。
業先無決定。因人起業。因業有作者。作者亦無決定。 業は、先に決定無く、人に因って業を起し、業に因って作者有れば、作者にも、亦た決定無し。
『業』には、
先に、
『決定』が、
『無く!』、
『業』は、
『人』に、
『因って!』、
『起され!』、
『業』に、
『因って!』、
『作者』が、
『有るので!』、
『作者』にも、
亦た、
『決定』は、
『無い!』。
因有作業名為作者。二事和合故得成作作者。 作業有るに因って、名づけて作者と為し、二事和合するが故に、作と作者とを成ずるを得。
『作業』の、
『有る!』に、
『因って!』、
『作者』と、
『呼ばれ!』、
『二事』の、
『和合』の故に、
『作、作者』を、
『成立させることができる!』。
若從和合生則無自性。無自性故空。空則無所生。但隨凡夫憶想分別故。說有作業有作者。第一義中無作業無作者。 若し和合によって生ずれば、則ち自性無し。自性無きが故に空なり。空なれば、則ち所生無く、但だ凡夫の憶想、分別に随うが故に、『作業有り、作者有り』、と説くも、第一義中には、作業無く、作者無し。
若し、
『和合』より、
『生じれば!』、
『自性』は、
『無いことになる!』。
『自性』の、
『無い!』が故に、
『空であり!』、
『空』ならば、
『所生の作、作者』は、
『無い!』。
但だ、
『凡夫』の、
『憶想』や、
『分別』に、
『随う!』が故に、
『作業』や、
『作者』が、
『有る!』と、
『説かれたが!』、
『第一義』中には、
『作業』も、
『作者』も、
『無いのである!』。
復次
 如破作作者  受受者亦爾 
 及一切諸法  亦應如是破
復た次ぎに、
作と作者を破したるが如く、受と受者も亦た爾り、
及び一切の諸法も、亦た応に是の如く破すべし。
復た次ぎに、
『作、作者』を、
『破ったように!』、
『受、受者』も、
亦た、
『同じようにして!』、
『破り!』、
一切の、
『諸法』も、
亦た、
『是のように!』、
『破らねばならない!』。
参考
evaṃ vidyād upādānaṃ vyutsargād iti karmaṇaḥ |
kartuś ca karmakartṛbhyāṃ śeṣān bhāvān vibhāvayet ||13||
Likewise, one should understand clinging,
because act and actor are dispelled.
Remaining things too should be understood by means of actor and act.

参考
Appropriating can be understood similarly
Because actions and agents have been eliminated.
The remaining things can be understood
Through agents and actions.

参考
以上のように,行為と行為主体とを破斥したところから,同樣に執着(取)﹝の破斥﹞も知られるべきである。行為と行為主体と﹝の以上の考察﹞にもとづいて,そのほかのもろもろの「存在(もの‧こと)」を考察すべきである。
如作作者不得相離。不相離故不決定。無決定故無自性。受受者亦如是。 作、作者の、相離るるを得ず、相離れざるが故に、決定せず、決定無きが故に、自性無きが如く、受、受者も亦た是の如し。
『作、作者』が、
『互に離れられず!』、
『互に離れない!』が故に、
『決定せず!』、
『決定する!』ことの、
『無い!』が故に、
『自性』が、
『無いように!』、
『受、受者』も、
亦た、
『是の通りである!』。
受名五陰身。受者是人。如是離人無五陰。離五陰無人。但從眾緣生如受受者。餘一切法。亦應如是破 受を五陰の身と名づけ、受者は是れ人なり。是の如く人を離れて、五陰無く、五陰を離れて人無し。但だ衆縁より、生ずるのみ。受と受者の如く、余の一切法も亦た、応に是の如く破すべし。
『受』を、
『五陰の身』と、
『呼び!』、
『受者』を、
『人』と、
『呼べば!』、
是のような、
『人』を、
『離れて!』、
『五陰』は、
『無く!』、
『五陰』を、
『離れて!』、
『人』は、
『無い!』。
但だ、
『衆縁より!』、
『人、五陰』を、
『生じるだけである!』。
『受、受者のように!』、
その他の、
『一切の法』も、
亦た、
是のようにして、
『破らねばならない!』。



中論觀本住品第九(十二偈)

問曰。有人言
 眼耳等諸根  苦樂等諸法 
 誰有如是事  是則名本住 
 若無有本住  誰有眼等法 
 以是故當知  先已有本住
問うて曰く、有る人の言わく、
眼耳等の諸根と、苦楽等の諸法は、
誰か是の如き事有らん、是れ則ち本住と名づく。
若し本住有ること無ければ、誰か眼等の法有らん、
是を以っての故に当に知るべし、先に已に本住有りと。
問い、
有る人は、こう言う、――
『眼、耳』等の、
『諸根』や、
『苦、楽』等の、
『諸法』は、
誰に、
是のような、
『事』が、
『属するのか?』。
是れを、
『本の住(よりどころ)』と、
『称する!』。
若し、
『本住』が、
『無ければ!』、
誰に、
『眼』等の、
『法』は、
『属するのか?』。
是の故に、
こう知るべきだ、――
先に、
已に、
『本住』が、
『有ったのだ!』、と。
  本住(ほんじゅう):梵語 pauraaNa- sthiti, vyavasthita の訳、本の住居/依存すべき本の原理( original abode:the original principle that is relied upon. )の義。
参考
darśanaśravaṇādīni vedanādīni cāpy atha |
bhavanti yasya prāg ebhyaḥ so ’stīty eke vadanty uta ||1||
Some say that whatever is involved in seeing,
hearing etc. and feeling etc. exists prior to them.

kathaṃ hy avidyamānasya darśanādi bhaviṣyati |
bhāvasya tasmāt prāg ebhyaḥ so ’sti bhāvo vyavasthitaḥ ||2||
If [that] thing is not evident, how can there be seeing etc?
Therefore, the presence [of that] thing [must] exist before them.

参考
Some propound that something which employs
Seeing, hearing and so forth
And feelings and so forth
Must exist prior to them.

If that thing did not exist
How could there be seeing and so forth?
Thus, the presence of that thing
Exists prior to them.

参考
およそ,見るはたらき(視覚,見),聞くはたらき(聽覚,聞)など,また感受作用(受),或る者(主体)に所属しており,その者はこれら(見‧聞‧受など) に先行して存在していると,そのように,或る人々は主張する。

なぜならば,存在していない「存在(もの‧こと)」においては,どうして,見るはた らきなどが存在し得るであろうか。それゆえ,これら(見るはたらきなど) に先行して 確立されているその「存在(もの‧こと)」が,存在する〔はずである〕。

眼耳鼻舌身命等諸根。名為眼耳等根。 眼、耳、鼻、舌、身、命等の諸根を名づけて、眼耳等の根と為す。
『眼、耳、鼻、舌、身、命』等の、
諸の、
『根』を、
『眼、耳等の根』と、
『呼ぶ!』。
  命根(みょうこん):梵語 jiivita、jiiviteendriya の訳。活きる能力( the life-faculty. )。
苦受樂受不苦不樂受。想思憶念等心心數法。名為苦樂等法。 苦受、楽受、不苦不楽受、想、思、憶、念等の心心数法を名づけて、苦楽等の法と為す。
『苦受、楽受、不苦不楽受』や、
『想、思、憶、念』等の、
『心、心数法』を、
『苦、楽等の法』と、
『呼ぶ!』。
有論師言。先未有眼等法。應有本住。因是本住。眼等諸根得增長。 有る論師の言わく、『先に未だ眼等の法有らざれば、応に本住有るべし。是の本住に因りて、眼等の諸根は、増長することを得』、と。
有る、
『論師』は、こう言う、――
先に、
未だ、
『眼』等の、
『法』が、
『無い!』時にも、
『本住』が、
『有るはずだ!』。
是の、
『本住』に、
『因って!』、
『眼』等の、
諸の、
『根』は、
『増長することができる!』。
若無本住。身及眼等諸根。為因何生而得增長。 若し本住無ければ、身、及び眼等の諸根は、何に因りてか、生じられ、而も増長を得る。
若し、
『本住』が、
『無ければ!』、
『身』や、
『眼』等の、
諸の、
『根』は、
何に、
『因って!』、
『生じて!』、
『増長することができるのか?』、と。
答曰
 若離眼等根  及苦樂等法 
 先有本住者  以何而可知
答えて曰く、
若し眼等の根と、及び苦楽等の法を離れて、
先に本住有れば、何を以ってか知るべき。
答え、
若し、
『眼』等の、
『根』や、
『苦、楽』等の、
『法』を、
『離れて!』、
先に、
『本住』が、
『有れば!』、
何を、
『用いて!』、
『本住』を、
『知ることができるのか?』。
参考
darśanaśravaṇādibhyo vedanādibhya eva ca |
yaḥ prāg vyavasthito bhāvaḥ kena prajñapyate ’tha saḥ ||3||
What configures/makes known that thing
which is present before seeing and hearing etc. and feeling etc.?

参考
Something which is present prior to
Seeing and hearing and so forth
And feelings and so forth,
Through what would it be designated?

参考
見るはたらきと聞くはたらきなどに,また感受作用などに,先行してすでに確立しているその「存在(もの‧こと)」そのものは,それならば,何よって,想定されるのであろうか。
若離眼耳等根苦樂等法。先有本住者。以何可說以何可知。 若し眼耳等の根、苦楽等の法を離れて、先に本住有らば、何を以ってか説くべく、何を以ってか知るべき。
若し、
『眼、耳』等の、
『根』と、
『苦、楽』等の、
『法』を、
『離れて!』、
先に、
『本住』が、
『有った!』とすれば、
何を、
『用いて!』、
『説くことができ!』、
何を、
『用いて!』、
『知ることができるのか?』。
如外法瓶衣等。以眼等根得知。內法以苦樂等根得知。 外法の瓶、衣等の如きは、眼等の根を以って知るを得、内法は、苦楽等の根を以って、知るを得。
例えば、
『外』の、
『法』の、
『瓶』や、
『衣』等は、
『眼』等の、
『根』を、
『用いて!』、
『知ることができ!』、
『内』の、
『法』は、
『苦』、
『楽』等の、
『根』を、
『用いて!』、
『知ることができる!』。
  苦根(くこん):梵語 duHkha, duHkheendriya の訳。苦しむ能力( faculty of suffering )。
  楽根(らくこん):梵語 sukha, sukheendriya の訳。楽しむ能力( faculty of pleasure )。
如經中說。可壞是色相。能受是受相。能識是識相。 経中に説くが如きは、『可壊なるは、是れ色相なり。能受は、是れ受相なり。能識は、是れ識相なり』、と。
『経』中には、こう説く、――
『可壊(こわれる)』とは、
『色』の、
『相である!』、
『能受(受ける!)』とは、
『受』の、
『相である!』。
『能識(識る!)』とは、
『識』の、
『相である!』、と。
汝說離眼耳苦樂等先有本住者。以何可知說有是法。 汝が説かく、『眼耳、苦楽等を離れて、先に本住有り』と。何を以ってか、是の法の有るを知りて、説くべき。
お前は、
こう説いた、――
『眼、耳、苦、楽』等を、
『離れて!』、
先に、
『本住』が、
『有る!』、と。
では、
何を、
『用いて!』、
是の、
『法(本の住)』の、
『存在』を、
『知ることができ!』、
是の、
『法』が、
『有る!』と、
『説くのか?』。
問曰。有論師言。出入息視眴壽命思惟苦樂憎愛動發等是神相。 問うて曰く、有る論師の言わく、『出入息、視眴、寿命、思惟、苦楽、憎愛、動発等は、是れ神相なり』、と。
問い、
有る、
『論師』は、こう言っている、――
『出入息』、
『視眴』、
『寿命』、
『思惟』、
『苦、楽』、
『憎、愛』、
『動、発』等は、
『神( soul )』の、
『相である!』、と。
  視眴(ししゅん):見つめることと、またたくこと。
  (じん):梵語 puruSa, aatman の訳。神我、精神、霊魂等、外道所執の我の本体。
若無有神。云何有出入息等相。是故當知。離眼耳等根苦樂等法。先有本住。 若し神有ること無くんば、云何が出入息等の相有る。是の故に、当に知るべし、眼耳等の根、苦楽等の法を離れて、先に本住有りと。
若し、
『神』が、
『無ければ!』、
何故、
『出入息』等の、
『相』が、
『有るのか?』。
是の故に、こう知るはずだ、――
『眼、耳』等の、
『根』や、
『苦、楽』等の、
『法』を、
『離れて!』、
先に、
『本の住()』が、
『有る!』、と。
答曰。是神若有。應在身內如壁中有柱。若在身外。如人被鎧。 答えて曰く、是の神、若し有らば、応に身の内に在ること、壁中に柱有るが如くなるべし。若し身の外に在らば、人の鎧を被くるが如くならん。
答え、
是の、
『神』が、
若し、
『有れば!』、
当然、
『身』の、
『内』に、
『在るはずだ!』、
『壁』中に、
『柱』が、
『有るように!』。
若し、
『身』の、
『外』に、
『在れば!』、
『人』が、
『鎧』を、
『被けたようだ!』。
若在身內。身則不可壞。神常在內故是故言神在身內。但有言說虛妄無實。 若し身の内に在れば、身は則ち壊すべからず。神は常に内に在るが故なり。是の故に、『神は、身の内に在り』、と言うは、但だ言説有りて、虚妄にして実無し。
若し、
『神』が、
『身』の、
『内』に、
『在れば!』、
『身』は、
『壊れないはずだ!』
『神』が、
常に、
『身の内』に、
『在るのだから!』。
是の故に、
こう言うのは、――
『神』が、
『身の内』に、
『在る!』、と。
但だ、
『神』という、
『言説(ことば)』が、
『有る!』のみで、
『虚妄』であり、
『実』は、
『無い!』。
若在身外覆身如鎧者。身應不可見。神細密覆故。亦應不可壞而今實見身壞。是故當知。離苦樂等先無餘法。 若し身の外に在りて、身を覆うこと鎧の如くなれば、身は応に見るべからず。神の細密に覆うが故なり。亦た応に壊すべからず。而も今、実に身の壊するを見る。是の故に当に知るべし、苦楽等を離れて、先に余法無しと。
若し、
『神』が、
『身』の、
『外』に、
『在って!』、
『鎧のように!』、
『身』を、
『覆っていれば!』、
当然、
『身』が、
『見えるはずがない!』。
『神』が、
『細密』に、
『覆っているからだ!』。
亦た、
『壊れるはずがない!』。
而し、
今、
実に、こう見える、――
『身』は、
『壊れる!』、と。
是の故に、
こう知るはずだ、――
若し、
『苦、楽』等の、
『法』を、
『離れれば!』、
先に、
『他の法』は、
『無い!』、と。
若謂斷臂時神縮在內不可斷者。斷頭時亦應縮在內不應死。而實有死。是故知離苦樂等先有神者。但有言說虛妄無實。 若し、『臂を断つ時、神縮みて内に在れば、断つべからず』、と謂わば、頭を断つ時も、亦た応に縮みて内に在れば、応に死すべからず。而れども実に死有り。是の故に知る、苦楽等を離れて、先に神有らば、但だ言説有るも、虚妄にして実無しと。
若し、
こう謂うならば、――
『臂』を、
『断つ!』時には、
『神』は、
『縮んで!』、
『内』に、
『在る!』ので、
『断たれない!』と。
それならば、
『頭』を、
『断つ!』時にも、
『神』は、
『縮んで!』、
『内』に、
『在るはずだから!』、
『死ぬはずがない!』、
而し、
『実』に、
『死』は、
『有る!』。
是の故に、
こう知る、――
『苦』や、
『楽』等を、
『離れて!』、
先に、
『神』が、
『有る!』とは、――
但だ、
『神』という、
『言説』が、
『有る!』のみで、
『虚妄』であり、
『実』が、
『無い!』、と。
復次若言身大則神大。身小則神小。如燈大則明大燈小則明小者。如是神則隨身不應常。 復た次ぎに、若し、『身大なれば、則ち神も大なり。身小なれば、則ち神も小なり。灯大なれば、則ち明も大にして、灯小なれば、則ち明も小なるが如し』、と言わば、是の如き神は、則ち身に随いて、応に常なるべからず。
復た次ぎに、
若し、
こう言うならば、――
『身』が、
『大きければ!』、
『神』も、
『大きく!』、
『身』が、
『小さければ!』、
『神』も、
『小さい!』、
譬えば、
『灯』が、
『大きければ!』、
『明(あかり)』も、
『大きく!』、
『灯』が、
『小さければ!』、
『明』も、
『小さいように!』、と。
是のような、
『神』は、
『身』に、
『随うものであり!』、
『常のはずがない!』。
若隨身者。身無則神無。如燈滅則明滅。 若し身に随えば、身無きは、則ち神無し。灯滅すれば、則ち明滅するが如し。
若し、
『神』が、
『身』に、
『随えば!』、――
『身』が、
『無ければ!』、
則ち、
『神』も、
『無いことになる!』。
譬えば、こういうことだ、――
『灯』が、
『滅すれば!』、
則ち、
『明』も、
『滅することになる!』、と。
若神無常。則與眼耳苦樂等同。是故當知。離眼耳等先無別神。 若し神無常なれば、則ち眼耳、苦楽等に同じ。是の故に当に知るべし、眼耳等を離れて、先に別に神無しと。
若し、
『神』が、
『無常ならば!』、
則ち
『眼、耳、苦、楽』等と、
『同じだ!』。
是の故に、
こう知る、――
『眼』や、
『耳』等を、
『離れれば!』、
先に、
『別の神』は、
『無い!』、と。
復次如風狂病人。不得自在。不應作而作。若有神是諸作主者。云何言不得自在。 復た次ぎに、風狂病の人は、自在を得ざれば、応に作すべからざるに、作す。若し神有りて、是れ諸の作の主ならば、云何が、『自在を得ず』、と言う。
復た次ぎに、
譬えば、
『風狂病の人』が、
『自在でない!』が故に、
『作すべきでない!』ことを、
『作すように!』、
若し、
『神』が有り、――
諸の、
『作(行為)』の、
『主ならば!』、
何故、
『自在でない!』と、
『言うのか?』。
若風狂病不惱神者應離神別有所作。如是種種推求離眼耳等根苦樂等法。先無本住。 若し風狂病にして、神を悩ませずんば、応に神を離れて、別に作す所有るべし。是の如く種種に推求するに、眼耳等の根、苦楽等の法を離れて、先に本住無し。
若し、
『風狂病』が、
『神』を、
『悩ますならば!』、――
則ち、
『神』を、
『離れて!』、
『別の者』に、
『所作(=作)』は、
『属するはずだ!』と、
是のように、
種種に、
『推理、追求すれば!』、――
『眼、耳』等の、
『根』や、
『苦、楽』等の、
『法』を、
『離れて!』、
先に、
『本住』は、
『無いことになる!』。
  所作(しょさ): 作に同じ。( that which is (to be) done. ) ◯梵語 kriyaa の訳、又作とも訳す、仕事、行為、労苦、努力( doing , performing , performance , occupation with , business , act , action , undertaking , activity , work , labour )等の義。 ◯梵語 karaNa の訳、なすこと、すること、原因、行為、作業、仕事( doing , making , effecting , causing )等の義。 ◯梵語 kaarin の訳、なす、する、作用、実行、行為、作者( doing , making , effecting , producing , acting , an actor )等の義。
若必謂離眼耳等根苦樂等法有本住者。無有是事。 若し必ず、『眼耳等の根、苦楽等の法を離れて、本住有り』、と謂わば、是の事有ること無し。
若し、
必ず、こう謂うならば、――
『眼、耳』等の、
『根』や、
『苦、楽』等の、
『法』を、
『離れて!』、
『本住』が、
『有る!』、と。
是の、
『事』は、
『存在しない!』。
何以故
 若離眼耳等  而有本住者 
 亦應離本住  而有眼耳等
何を以っての故に、
若し眼耳等を離れて、本住有らば、
亦た応に本住を離れて、眼耳等有るべし。
何故ならば、
若し、
『眼、耳』等を、
『離れて!』、
『本住』が、
『有れば!』、
亦た、
『本住』を、
『離れても!』、
『眼、耳』等が、
『有るはずだ!』。
参考
vināpi darśanādīni yadi cāsau vyavasthitaḥ |
amūny api bhaviṣyanti vinā tena na saṃśayaḥ ||4||
If it were present even without seeing etc.,
there would be no doubt that they would exist even without it.

参考
If it were present
Even without seeing and so forth
There would be no doubt
That they could also exist without it.

参考
もしもそれ(その「存在(もの‧こと)」)が,見るはたらきなどが無くても,すでに確立しているのであるならば,それら(見るはたらきなど)もまた,疑いもなく,それ(その「存在(もの‧こと)」)が無くても,存在するであろう。
若本住離眼耳等根苦樂等法先有者。今眼耳等根苦樂等法。亦應離本住而有。 若し、本住が眼耳等の根、苦楽等の法を離れて、先に有れば、今、眼耳等の根、苦楽等の法も亦た、応に本住を離れて、有るべし。
若し、
『眼、耳』等の、
『根』や、
『苦、楽』等の、
『法』を、
『離れて!』、
先に、
『本住』が、
『有れば!』、――
今、
『本住』を、
『離れて!』、
亦た、
『眼、耳』等の、
『根』や、
『苦、楽』等の、
『法』が、
『有るはずだ!』。
問曰。二事相離可爾但使有本住。 問うて曰く、二事の相離るること爾るべし、但だ本住をして有らしめよ。
問い、
『二事』が、
『本住』を、
『離れる!』のは、
『爾うだとして!』、
単に、
『本住』のみが、
『有るとせよ!』。
  (たん):ただ単に。
答曰
 以法知有人  以人知有法 
 離法何有人  離人何有法
答えて曰く、
法を以って人有るを知り、人を以って法有るを知る、
法を離れて何か人有り、人を離れて何か法有る。
答え、
『法(色受想行識)』に、
『依って!』、
『人(衆生)』が、
『有る!』と、
『知り!』、
『人』に、
『依って!』、
『法』が、
『有る!』と、
『知る!』。
『法』を、
『離れて!』、
何処に、
『人』が、
『有るのか?』、
『人』を、
『離れて!』、
何処に、
『法』が、
『有るのか?』。
参考
ajyate kenacit kaścit kiṃcit kena cid ajyate |
kutaḥ kiṃcid vinā kaścit kiṃcit kiṃcid vinā kutaḥ ||5||
It is illuminated by them; they are illuminated by it.
How could it exist without them?
How could they exist without it?

参考
It is made evident by them.
And they are made evident by it.
Without them how could it exist?
And without it how could they exist?

参考
或るものにより或る者は表示され,或る者により或るものは表示される。或るものが 無くて,どうして,或る者〔が有ろう〕か。或る者が無くて,どうして,或るもの〔が有ろう〕か。
法者眼耳苦樂等。人者是本住。 法とは、眼耳、苦楽等なり。人とは、是れ本住なり。
『法』とは、
『眼、耳、苦、楽』等の、
『根』、
『人』とは、
『本の住である!』。
汝謂以有法故知有人。以有人故知有法。今離眼耳等法何有人。離人何有眼耳等法。 汝が謂わく、『法有るを以っての故に、人有るを知り、人有るを以っての故に、法有るを知る』、と。今、眼耳等の法を離れて、何ぞ人有り、人を離れて何ぞ眼耳等の法有る。
お前は、
こう謂った、――
『法』の、
『有る!』が故に、
『人』が、
『有る!』と、
『知り!』、
『人』の、
『有る!』が故に、
『法』が、
『有る!』と、
『知る!』、と。
今、
『眼、耳』等の、
『法』を、
『離れて!』、
何処に、
『人』が、
『有るのか?』、
『人』を、
『離れて!』、
何処に、
『眼、耳』等の、
『法』が、
『有るのか?』。
復次
 一切眼等根  實無有本住 
 眼耳等諸根  異相而分別
復た次ぎに、
一切の眼等の根は、実に本住有ること無けれども、
眼耳等の諸根は、異相をして分別す。
復た次ぎに、
一切の、
『眼等の根』に、
実に、
『本住』が、
『無くても!』、
『眼、耳』等の、
『諸の根』は、
『異なる相』を、
『分別する!』。
参考
sarvebhyo darśanādibhyaḥ kaścit pūrvo na vidyate |
ajyate darśanādinām anyena punar anyadā ||6||
It is not evident prior to the totality of seeing etc.
From among seeing etc.
a different one illuminates [it] at different times.

参考
That thing does not exist
Prior to everything of seeing and so forth.
From among seeing and so forth, it is made evident
By different ones at different times.

参考
或る者が見るはたらきなどの一切に先行して存在する,ということはない。〔それ(先行するもの)は〕,見るはたらきなどのうちのそれぞれ別個のものにより,さらに,それぞれ別個のときに〔機会に応じて〕,表示される。
眼耳等諸根苦樂等諸法。實無有本住。 眼耳等の諸根、苦楽等の諸法は、実に本住有ること無し。
『眼、耳』等の、
『諸の根』や、
『苦、楽』等の、
『諸の法』には、
実に、
『本住』が、
『無い!』。
因眼緣色生眼識。以和合因緣。知有眼耳等諸根。不以本住故知。 眼に因り、色を縁じて、眼識を生じ、因縁を和合するを以って、眼耳等の諸根有るを知るも、本住を以っての故に知るにあらず。
『眼』は、
『色』を、
『縁じて(感じて)!』、
『眼識』を、
『生じる!』が、
『和合した!』、
『因縁(眼、色、眼識)』の故に、――
『眼、耳』等の、
『諸根が有る!』と、
『知るのであり!』、
『本住』の故に、
『知るのではない!』。
是故偈中說一切眼等根實無有本住。眼耳等諸根各自能分別。 是の故に偈中に説かく、『一切の眼等の根は、実に本住有ること無く、眼耳等の諸根は、各自ら能く分別す』、と。
是の故に、
『偈』中には、こう説く、――
一切の、
『眼等の根』は、
実に、
『本住』が、
『無くても!』、
『眼、耳等の諸根』は、
各、
『独自に!』、
『分別することができる!』、と。
問曰
 若眼等諸根  無有本住者 
 眼等一一根  云何能知塵
問うて曰く、
若し眼等の諸根に、本住を有する無くんば、
眼等の一一の根は、云何が能く塵を知らん。
問い、
若し、
『眼』等の、
諸の、
『根』に、
『本住』が、
『無ければ!』、
『眼』等の、
『一一の根』が、
何故、
『塵(色声香味触法)』を、
『知ることができるのか?』。
参考
sarvebhyo darśanādibhyo yadi pūrvo na vidyate |
ekaikasmāt kathaṃ pūrvo darśanādeḥ sa vidyate ||7||
If it is not evident prior to the totality of seeing etc.,
how can it be evident prior to [each of them] seeing etc. individually?

参考
If there does not exist something
Prior to everything of seeing and so forth
How could there exist something
Prior to seeing and so forth individually?

参考
もしも〔それが〕見るはたらきなどの一切に先行して存在しているではないならば,それは,見るはたらきなどの一つ一つに先行して,どうして,存在するのであるか。
若一切眼耳等諸根。苦樂等諸法。無本住者。今一一根。云何能知塵。 若し一切の眼耳等の諸根、苦楽等の諸法に、本住無ければ、今一一の根は、云何が能く塵を知る。
若し、
一切の、
『眼、耳』等の、
『諸の根』や、
『苦、楽』等の、
『諸の法』に、
『本住』が、
『無ければ!』、
今、
『一一の根』は、
何故、
『塵』を、
『知ることができるのか?』。
眼耳等諸根無思惟。不應有知。而實知塵。當知離眼耳等諸根。更有能知塵者。 眼耳等の諸根には、思惟無ければ、応に知ること有るべからず、而も実に塵を知る。当に知るべし、眼耳等の諸根を離れて、更に能く塵を知る者有りと。
『眼、耳等の諸根』は、
『思惟する!』ことの、
『無い!』が故に、
当然、
『知る!』ことの、
『有るはずがない!』。
而し、
実に、
『塵(色声香味触法)』を、
『知る!』。
当然、こう知るはずだ、――
『眼、耳等の諸根』を、
『離れて!』、
更に、
『塵を知る!』者が、
『有る!』、と。
答曰。若爾者。為一一根中各有知者。為一知者在諸根中。二俱有過。 答えて曰く、若し爾らば、一一の根中に各知る者有りと為すや、一の知る者のみ、諸根中に在りと為すや、二は倶に過有り。
答え、
若し、
そうならば、――
『一一の根』中に、
各、
『知者』が、
『有るのか?』、
それとも、
『一知者』が、
諸の、
『根』中に、
『在るのか?』。
『二』は、
どちらにも、
『過が有る!』。
何以故
 見者即聞者  聞者即受者 
 如是等諸根  則應有本住
何を以っての故に、
見る者は即ち聞く者、聞く者は即ち受くる者なれば、
是の如き等の諸根は、則ち応に本住有るべし。
何故ならば、
『見者』が、
即ち、
『聞者であり!』、
『聞者』が、
即ち、
『受者ならば!』、
是れ等のような、
『諸の根』には、
則ち、
『本住』が、
『有ることになる!』。
  受者(じゅしゃ):体験者( an experiencer )、◯梵語 vedaka, bhoktR の訳、意識を復活させる/知らせる/告知する/公布すること(restoring to consciousness, making known, announcing, proclaiming )、楽しんだり食ったりする人/経験することを喜ぶ人/食う人/体験する人/触ってみる人/苦しむ人( one who enjoys or eats, enjoyer, eater, experiencer, feeler, sufferer )の義、印象の[主観的]受取人( The (subjective) receiver of impressions )の意。◯梵語 upaadaatR の訳、施者 daatR/ 施物 daana に対する受者( a recipient, this word is usually accompanied with both/either donator and/or donation )の意。◯梵語 aatman の訳、息/霊魂/生命と知覚の原理/個々の魂/自己/観念的個人(the breath, the soul, principle of life and sensation, the individual soul, self, abstract individual )の義、我が来世の生に於いて善悪の果報を受けるという邪見( The illusory view that the self will receive reward or punishment in a future life )に依る。
参考
draṣṭā sa eva sa śrotā sa eva yadi vedakaḥ |
ekaikasmād bhavet pūrvam evaṃ caitan na yujyate ||8||
If the seer itself [were] the hearer and the feeler [were] it too,
if it existed prior to each, in that way it would not make sense.

参考
If that very seer were the hearer
And also the feeler
Existing prior to them individually
Would thus not be tenable.

参考
もしもかれがすなわち見る者であり,聞く者であり,感受する者であるならば,〔見るはたらきなどの〕一つ一つに先行して,〔かれは〕存在することになるであろう。 しかるに,このようなことは妥当しない。
若見者即是聞者。聞者即是受者。則是一神。如是眼等諸根。應先有本住。 若し見る者即ち是れ聞く者、聞く者即ち是れ受くる者なれば、則ち是れ一神なり。是の如き眼等の諸根は、応に先に本住有るべし。
若し、
『見者』が、
即ち、
『聞者であり!』、
『聞者』が、
即ち、
『受者ならば!』、
則ち、
是れは、
『一神だということになる!』。
是のような、
『眼等の諸根』には、
先に、
『本住』が、
『有るはずだ!』。
色聲香等無有定知者。或可以眼聞聲。如人有六向隨意見聞。若聞者見者是一。於眼等根隨意見聞。但是事不然 色声香等には、定んで知る者の有ること無し、或いは眼を以って声を聞くべし。人に六向有りて、意の随(まま)に見聞するが如く、若し聞く者と見る者と是れ一ならば、眼等の根に於いて、意の随に見聞せん。但だ是の事は然らず。
『色、声、香』等に、
定まった、
『知者』が、
『無ければ!』、
或いは、
『眼』で、
『声』を、
『聞くのだろう!』。
譬えば、
『人』に、
『六』の、
『向(まど)』が、
『有り!』、
『意ままに!』、
『見たり!』、
『聞いたりするように!』、
若し、
『聞者』と、
『見者』とが、
『一』ならば、
『眼』等の、
『根』を、
『用いて!』、
『意のままに!』、
『見たり!』、
『聞いたりするだろう!』。
但だ、
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
  (こう):まど。北向きのまど。窓、牖。
 若見聞各異  受者亦各異 
 見時亦應聞  如是則神多
若し見聞各異なりて、受者も亦た各異ならば、
見る時に亦た応に聞くべし、是の如きは則ち神多し。
若し、
『見者』と、
『聞者』とが、
各、
『異なり!』、
『受者』も、
各、
『異れば!』、
『見る!』時にも、
亦た、
『聞くはずだ!』。
是れでは、
『神』が、
『多いことになる!』。
参考
draṣṭānya eva śrotānyo vedako ’nyaḥ punar yadi |
sati syād draṣṭari śrotā bahutvaṃ cātmanāṃ bhavet ||9||
If the seer were different, the hearer different, the feeler different,
at the time the seer exists, there would be a hearer.
Many selves would come about.

参考
If the seer, the hearer
And the feeler were all different
Then at the time a seer existed there would also be a hearer
And the self would become many.

参考
一方,もしも見る者と聞く者と感受する者とが,〔それぞれ〕互いに別個の者であるとするならば,見る者が存在しているときには,〔それとは別個の〕聞く者が存在する,ということになるであろう。そうであるとすれば,アートマン(主体)もまた多数である,ということになってしまうであろう。
若見者聞者受者各異。則見時亦應聞。何以故。離見者有聞者故。 若し見る者と聞く者と受くる者と各異ならば、則ち見る時にも亦た、応に聞くべし。何を以っての故に、見る者を離れて、聞く者有るが故なり。
若し、
『見者』と、
『聞者』と、
『受者』とが、
各、
『異なれば!』、
則ち、
『見る!』時にも、
『聞くはずだ!』。
何故ならば、
『見者』を、
『離れて!』、
『聞者』が、
『有るからだ!』。
如是鼻舌身中。神應一時行。若爾者。人一而神多。以一切根一時知諸塵。而實不爾。是故見者聞者受者。不應俱用。 是の如き鼻舌身中に、神は応に一時に行うべし。若し爾らば、人は一なるに、神は多く、一切の根を以って、一時に諸塵を知らん。而れども実に爾らず。是の故に見る者、聞く者、受くる者は、応に倶に用うべからず。
是のような、
『鼻、舌、身』中に、
『神』は、
『一時』に、
『行うはずだ!』が、
若し、
そうだとすれば、――
『人』は、
『一』だが、
而し、
『多く!』の、
『神』が、
『一切の!』、
『根』を、
『用いて!』、
『一時に!』、
『諸の塵』を、
『知ることになる!』が、
而し、
『実』には、
『間違っている!』。
是の故に、
『見者』と、
『聞者』と、
『受者』が、
『いっしょに!』、
諸の、
『根』を、
『用いるはずがない!』。
復次
 眼耳等諸根  苦樂等諸法 
 所從生諸大  彼大亦無神
復た次ぎに、
眼耳等の諸根、苦楽等の諸法を、
従り生ずる所の諸大、彼の大も亦た神無し。
復た次ぎに、
『眼、耳等の諸根』や、
『苦、楽等の諸法』は、
諸の、
『大(地水火風空識)』より、
『生じる!』が、
其の、
『大』にも、
『神』は、
『無い!』。
参考
darśanaśravaṇādīni vedanādīni cāpy atha |
bhavanti yebhyas teṣv eṣa bhūteṣv api na vidyate ||10||
Also it is not evident in the elements
from which seeing and hearing etc. and feeling etc. occur.

参考
It does not even exist
In the elements from which
Seeing, hearing and so forth
And also feelings and so forth eventuate.

参考
およそ,見るはたらきや聞くはたらきなど,さらに感受作用などが,それら〔諸元素(地‧水‧火‧風)〕から生じてくる〔としても〕,それら諸元素においてもまた,これ(アートマン)は存在しない。
若人言離眼耳等諸根苦樂等諸法別有本住。是事已破。 若し人、『眼耳等の諸根、苦楽等の諸法を離れて、別に本住有り』、と言わば、是の事は、已に破れたり。
若し、
『人』が、こう言うならば、――
『眼、耳等の諸根』や、
『苦、楽等の諸法』を、
『離れて!』、
『別に!』、
『本住』が、
『有る!』、と。
是の、
『事』は、
『已に!』、
『破れた!』。
今於眼耳等所因四大。是四大中亦無本住。 今は、眼耳等の所因の四大に於いて、是の四大中にも、亦た本住無し。
今は、
『眼、耳』等の、
『因となる!』、
『四大(地水火風)である!』が、
是の、
『四大』中にも、
『本住』は、
『無い!』。
問曰。若眼耳等諸根。苦樂等諸法。無有本住可爾。眼耳等諸根。苦樂等諸法應有。 問うて曰く、若しは眼耳等の諸根、苦楽等の諸法に、本住有ること無ければ、爾るべし。眼耳等の諸根、苦楽等の諸法は、応に有るべし。
問い、
若し、
『眼、耳等の諸根』や、
『苦、楽等の諸法』に、
『本住』の、
『無い!』のは、
『そうかもしれない!』が、
『眼、耳等の諸根』や、
『苦、楽等の諸法』は、
当然、
『有るはずだ!』。
答曰
 若眼耳等根  苦樂等諸法 
 無有本住者  眼等亦應無
答えて曰く、
若し眼耳等の根、苦楽等の諸法に、
本住有ること無ければ、眼等も亦た応に無かるべし。
答え、
若し、
『眼、耳等の根』や、
『苦、楽等の法』に、
『本住』が、
『無ければ!』、
亦た、
『眼』等も、
『無いはずだ!』。
参考
darśanaśravaṇādīni vedanādīni cāpy atha |
na vidyate ced yasya sa na vidyanta imāny api ||11||
If that to which seeing and hearing etc. and feeling etc.
belong is not evident, they too could not be evident.

参考
If something which employs seeing, hearing and so forth
And also feelings and so forth
Does not exist
Then they also do not exist.

参考
およそ,もしも見るはたらきや聞くはたらきなど,さらにまた感受作用などの〔属している〕それ(アートマン)が存在しないならば,これら〔見るはたらきなど〕もまた,存在しない。
若眼耳苦樂等諸法。無有本住者。誰有此眼耳等。何緣而有。是故眼耳等亦無。 若し眼耳苦楽等の諸法に、本住有ること無ければ、誰か、此の眼耳等有らん。何んが縁じて、而も有らん。是の故に、眼耳等も亦た無し。
若し、
『眼、耳、苦、楽』等の、
諸の、
『法』に、
『本住』が、
『無ければ!』、
誰に、
此の、
『眼、耳』等は、
『有るのか?』、
何が、
『眼、耳』等を、
『縁じる!』ので、
『有るのか?』、
是の故に、
『眼、耳』等も、
亦た、
『無い!』。
復次
 眼等無本住  今後亦復無 
 以三世無故  無有無分別
復た次ぎに、
眼等に本住無ければ、今も後も亦復た無し、
三世に無きを以っての故に、有無の分別無し。
復た次ぎに、
『眼』等に、
『本住』が、
『無ければ!』、
『今』も、
『後』も、
亦た、
『本住』は、
『無い!』、
『本住』は、
『三世』に、
『無い!』が故に、
『本住の有、無』という、
『分別』も、
『無い!』。
参考
prāk ca yo darśanādibhyaḥ sāṃprataṃ cordhvam eva ca |
na vidyate ’sti nāstīti nivṛttās tatra kalpanāḥ ||12||
Reject the concepts “it exists,” “it doesn’t exist”
about that which is not evident prior to, now or after seeing etc.

参考
Both the conceptions ‘It exists’ and ‘It does not exist’
Regarding something that does not exist
Prior to, together with or after seeing and so forth
Are to be turned away from.

参考
およそ,見るはたらきなどより以前にも,同時にも,また以後にも,存在していないような,そのようなものについては,「有る」とか「無い」とかという分別は,ここでは停止している。
思惟推求本住。於眼等先無。今後亦無。若三世無。即是無生寂滅不應有難。 思惟して本住を推求するに、眼等より先に無く、今も後も亦た無し。若し三世に無ければ、即ち是れ無生寂滅にして、応に難有るべからず。
『本住』を、
思惟、推理、追求すれば、――
『眼』等に於いて、
『本住』は、
『先にも!』、
『無い!』し、
亦た、
『今、後にも!』、
『無い!』。
若し、
『三世』に、
『無ければ!』、
是れは、
『無生であり!』、
『寂滅である!』。
『有、無』を、 
『難ずる(戯論する)!』ことが、
『有ってはならない!』。
若無本住。云何有眼等。如是問答。戲論則滅。戲論滅故。諸法則空 若し本住無くんば、云何が眼等有らん。是の如き問答に、戯論は、則ち滅せり。戯論滅するが故に、諸法は則ち空なり。
若し、
『本住』が、
『無ければ!』、
何に、
『眼』等は、
『有るのか?』。
是のような、
『問、答』に於いて、
『戯論』は、
『滅した!』。
已に、
『戯論』の、
『滅した!』が故に、
諸の、
『法』は、
『空である!』。



中論觀燃可燃品第十(十六偈)

問曰應有受受者。如燃可燃。燃是受者。可燃是受。所謂五陰。 問うて曰く、応に受と受者と有るべし。燃と可燃との如し。燃は是れ受者なり。可燃は是れ受にして、謂わゆる五陰なり。
問い、
当然、
『受(五陰)』と、
『受者()』とが、
『有るはずだ!』、
譬えば、
『燃()』と、
『可燃()』とが、
『有るように!』。
即ち、
『燃』は、
『受者であり!』、
『可燃』は、
『受だ!』、
謂わゆる、
『五陰(色受想行識)である!』。
  (じゅ):梵語 vedaanaa の訳、知覚、感受、苦痛等の義。又梵語 upaadaana の訳、又取と訳す、執著の義。自分の物にする行為、取る。執著する。十二因縁の一( the act of taking for one's self , appropriating to one's self. )。
  受者(じゅしゃ):梵語 aatman の訳。 霊魂/生命、感覚の原理/主宰( the soul , principle of life and sensation. )。
  (ねん):梵語 agni の訳。火( fire )。
  可燃(かねん):梵語 indha の訳。 たき付け( kindling )、 薪( wood )。
答曰。是事不然。何以故。燃可燃俱不成故。 答えて曰く、是の事は然らず。何を以っての故に、燃と可燃とは、倶に成ぜざるが故なり。
答え、
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
何故ならば、
『燃』と、
『可燃』とは、
『いっしょに!』、
『成立しないからだ!』。
燃可燃。若以一法成。若以二法成。二俱不成。 燃と可燃と、若しは一法を以って成ぜん、若しは二法を以って成ぜん。二は倶に成ぜず。
『燃』と、
『可燃』とは、
『一』の、
『法』として、
『成立するのか?』、
『二』の、
『法』として、
『成立するのか?』、
是れ等は、
『どちらも!』、
『成立しない!』。
問曰。且置一異法。若言無燃可燃。今云何以一異相破。 問うて曰く、且く一異の法を置け。若し、『燃と可変と無し』、と言わば、今は云何が、一異の相を以って破せんとする。
問い、
且(しばら)く、
『一、異の法』を、
『忘れよ!』。
若し、
『燃』も、
『可燃』も、
『無い!』と、
『言うならば!』、――
今、
何故、
『一、異の相』を、
『用いて!』、
『破ろうとするのか?』。
如兔角龜毛無故不可破。世間眼見實有事而後可思惟。 兔角、亀毛の如きは、無きが故に破すべからざるも、世間の眼には、実に事有るを見て、後に思惟すべし。
譬えば、
『兔の角』や、
『亀の毛』は、
『無い!』が故に、
『破ることができない!』が、
『世間』は、
『眼』に、
『事(燃、可燃)』の、
『実に有る!』のを、
『見るから!』、
後に、
『思惟できるのだ!』。
  兔角亀毛(とかくきもう):兔角と亀毛は無きが故に語言有りて、意義無きに喩う。
  参考:『入楞伽経巻4』:『佛告大慧。亦有無法而說言語。謂兔角龜毛石女兒等。於世間中而有言說。大慧。彼兔角非有非無而說言語。大慧。汝言以有言說應有諸法者。此義已破。‥‥如虛空兔角  及與石女兒  無而有言說  如是妄分別  因緣和合法  愚癡分別生  不知如實法  輪迴三有中』
如有金然後可燒可鍛。若無燃可燃。不應以一異法思惟。 金有りて、然る後に焼くべく、鍛うべきが如く、若し燃と可燃と無ければ、応に一異の法を以って思惟すべからず。
譬えば、
『金』が、
『有る!』から、
後に、
『焼くことができ!』、
『鍛えられるように!』、
若し、
『燃』も、
『可燃』も、
『無ければ!』、
『一、異の法』を、
『用いて!』、
『思惟するはずがない!』。
若汝許有一異法。當知有燃可燃。若許有者則為已有。 若し汝、一異の法有りと許さば、当に知るべし、燃と可燃と有り。若し有るを許さば、則ち已に有ると為す。
若し、
お前が、
『一、異の法』の、
『存在』を、
『認めれば!』、
当然、こう知るはずだ、――
『燃』も、
『可燃』も、
『有る!』、と。
若し、
『一、異の法』の、
『存在』を、
『認めれば!』、
已に、
『燃』や、
『可燃』が、
『有る!』と、
『認めたことになるのだ!』。
答曰。隨世俗法言說。不應有過。 答えて曰く、世俗法に随う言説には、応に過有るべからず。
答え、
『世俗の法』に、
『随った!』、
『言説』には、
『過(あやまち)』の、
『有るはずがない!』。
燃可燃若說一若說異。不名為受。 燃と可燃は、若しは一と説き、若しは異と説くとも、名づけて受と為さず。
『燃』や、
『可燃』を、
『一だ!』と、
『説いても!』、
『異だ!』と、
『説いても!』、
是れが、
『受』と、
『呼ばれることはない!』。
若離世俗言說。則無所論。若不說燃可燃。云何能有所破。 若し世俗の言説を離るれば、則ち論ずる所無し。若し燃、可燃を説かざれば、云何が能く、破する所有らん。
若し、
『世俗』の、
『言説』を、
『離れれば!』、
則ち、
『論じる!』所が、
『無いことになる!』。
若し、
『燃』も、
『可燃』も、
『説かなければ(口にしなかれば)!』、
何処に、
『破る!』所が、
『有るのか?』。
若無所說則義不可明。 若し説く所無ければ、則ち義を明すべからず。
若し、
『説く!』所の、
『言説』が、
『無ければ!』、
則ち、
『義』を、
『明かすことができないことになる!』。
如有論者。破破有無。必應言有無。不以稱有無故而受有無。是以隨世間言說故無咎。 有る論者の、有無を破せんと欲すれば、必ず応に有無を言うべきが如く、有無を称うるを以っての故に、有無を受くるにあらず。是を以って、世間の言説に随うが故に咎無し。
例えば、
有る、
『論者』が、
『有、無』を、
『破ろうとすれば!』、
必ず、
『有、無』を、
『言わなければならない!』ように、
『有、無』を、
『称えたとしても!』、
『有、無』を、
『受けたことにはならない!』。
是の故に、
『世間』の、
『言説』に、
『随った!』としても、
是れに、
『咎(とがめ)』は、
『無い!』。
  破破有無:他本に従い、欲破有無に改む。
若口有言便是受者。汝言破即為自破。燃可燃亦如是。雖有言說亦復不受。 若し口に言有りて、便ち是れを受くれば、汝が、『破る!』と言えば、即ち、自らの為めに破らる。燃と可燃とも亦た是の如く、言説有りと雖も、亦復た受けず。
若し、
『口』に、
『言(ことば)』が、
『有り!』、
是の、
『言』が、
『受者(主宰)』ならば、
お前が、
『破る!』と、
『言えば!』、
即ち、
『自らに!』、、
『破られるだろう!』。
『燃』と、
『可燃』も、
亦た、
是のように、
『言説』が、
『有った!』としても、
『受けたことにはならない!』。
是故以一異法。思惟燃可燃。二俱不成。 是の故に、一異の法を以って、燃と可燃を思惟すれば、二は倶に成ぜず。
是の故に、
『一、異の法』を、
『用いて!』、
『燃』と、
『可燃』を、
『思惟した!』が、――
是れ等は、
『どちらも!』、
『成立しない!』。
何以故
 若燃是可燃  作作者則一 
 若燃異可燃  離可燃有燃
何を以っての故に、
若し燃是れ可燃なれば、作と作者と則ち一なり、
若し燃可燃と異なれば、可燃を離れて燃有り。
何故ならば、
若し、
『燃』が、
『可燃ならば!』、
則ち、
『作』と、
『作者』とが、
『一となる!』。
若し、
『燃』が、
『可燃』と、
『異なれば!』、
『可燃』を、
『離れて!』、
『燃』が、
『有る!』。
参考
yad indhanaṃ sa ced agnir ekatvaṃ kartṛkarmaṇoḥ |
anyaś ced indhanād agnir indhanād apy ṛte bhavet ||1||
If firewood were fire, actor and act would be one.
If fire were other than wood,
it would occur even without wood.

参考
If that which is kindling were fire
The agent would be the same as the action.
If fire were different from kindling
It would arise even without kindling.

参考
もしも「およそ薪はすなわち火である」というならば, 行為主体と行為(業)とは同 一である,ということになるであろう。またもしも「およそ火は薪とは異なって別であ る」というならば,〔火は〕薪を離れても,存在することになるであろう。
燃是火。可燃是薪。作者是人。作是業。 燃は是れ火、可燃は是れ薪、作者は是れ人、作は是れ業なり。
『燃』は、
『火であり!』、
『可燃』は、
『薪である!』。
『作者』は、
『人であり!』、
『作』は、
『業である!』。
若燃可燃一。則作作者亦應一。 若し燃と可燃と一なれば、則ち作と作者と亦た応に一なるべし。
若し、
『燃』と、
『可燃』とが、
『一ならば!』、
亦た、
『作』と、
『作者』も、
『一でなければならない!』。
若作作者一。則陶師與瓶一。作者是陶師。作是瓶。陶師非瓶。瓶非陶師。云何為一。 若し作と作者と一なれば、則ち陶師と瓶と一なり。作者は是れ陶師、作は是れ瓶なり。陶師は瓶に非ず、瓶は陶師に非ず。云何が一と為す。
若し、
『作』と、
『作者』とが、
『一ならば!』、
『陶師』と、
『瓶』も、
『一ということになる!』。
然し、
『作者』は、
『陶師であり!』、
『作』が、
『瓶だとしても!』、
『陶師』は、
『瓶でなく!』、
『瓶』は、
『陶師でない!』。
何故、
是れが、
『一になるのか?』。
是以作作者不一故。燃可燃亦不一。 是の作と作者と一ならざるを以っての故に、燃と可燃とも亦た一にあらず。
是の、
『作』と、
『作者』とが、
『一でない!』が故に、
『燃』と、
『可燃』も、
亦た、
『一でない!』。
若謂一不可則應異。是亦不然。 若し、一を不可なりと謂わば、則ち応に異なるべし。是れ亦た然らず。
若し、
『一』が、
『間違っていれば!』、
『異であるはずだが!』、
是れも、
亦た、
『間違っている!』。
何以故。若燃與可燃異。應離可燃別有燃。分別是可燃是燃。處處離可燃應有燃。而實不爾是故異亦不可。 何を以っての故に、若し燃と可燃と異なれば、応に可燃を離れて別に燃有るべし。是れは可燃、是れは燃なりと分別し、処処に可燃を離れて、応に燃有るべし。而るに実に爾らず。是の故に異も亦た不可なり。
何故ならば、
若し、
『燃』が、
『可燃』と、
『異なれば!』、
当然、
『可燃』を、
『離れて!』、
『別に!』、
『燃』が、
『有るはずであり!』、
是れは、
『可燃である!』、
是れは、
『燃である!』と、
『分別すれば!』、
『処処に!』、
『可燃』を、
『離れて!』、
『燃』が、
『有るはずだが!』、
而し、
『実』は、
『そうではない!』。
是の故に、
『燃』と、
『可燃』の、
『異なるのも!』、
亦た、
『間違っている!』。
復次
 如是常應燃  不因可燃生 
 則無燃火功  亦名無作火
復た次ぎに、
是の如きは常なり、応に燃は可燃に因りて生ぜざるべし、
則ち燃に火功無ければ、亦た作無き火と名づく。
復た次ぎに、
是のような、
『常』は、
『可燃』に、
『因らずに!』、
『燃』が、
『生じるはずだ!』。
則ち、
『燃』には、
『火』の、
『功(はたらき)』が、
『無いことになり!』、
亦た、
『作(はたらき)』の、
『無い!』、
『火』と、
『呼ぶことになる!』。
参考
nityapradīpta eva syād apradīpanahetukaḥ |
punarārambhavaiyarthyam evaṃ cākarmakaḥ sati ||2||
[Fire] would burn permanently and would not arise from causes for burning.
Starting [a fire] would be meaningless.
If it were like that, there would also be no act.

参考
It would blaze eternally,
It would not arise from that which causes it to blaze
And starting it would be simply meaningless.
If such were the case, also actions would not exist.

参考
〔火が薪とは異なる別のものであるとすれば,火は〕つねに燃えているものとなるであろうし,また燃える原因を持たないものとなるであろう。あらためて燃え始めることは,無意味になってしまうであろう。そのようであるならば,また〔火は〕作用持たないも のである,ということになるであろう。
若燃可燃異。則燃不待可燃而常燃。 若し燃と可燃と異なれば、則ち燃は可燃を待たずして、常に燃ゆ。
若し、
『燃』と、
『可燃』とが、
『異なれば!』、
則ち、
『燃』は、
『可燃』を、
『待たずに!』、
常に、
『燃えている!』だろう。
若常燃者則自住其體。不待因緣人功則空。 若し常に燃ゆれば、則ち自ら其の体に住して、因縁を待たず、人功は則ち空し。
若し、
『燃』が、
『常に!』、
『燃えている!』ならば、
『燃』は、
『自ら!』の、
『体』に、
『住まって!』、
『因縁』を、
『待たず!』、
『人』の、
『功(はたらき)』は、
『空しいことになる!』。
人功者。將護火令燃。是功現有。是故知火不異可燃 人功とは、将に火を護らんとして、燃えしむ。是の功は現に有り、是の故に知る、火は可燃と異ならずと。
『人の功』とは、
『火』を、
『護ろうとして!』、
『燃えさせる!』ことだが、
是の、
『功』は、
『現に!』、
『有る!』。
是の故に、
こう知る、――
『火』は、
『可燃』と、
『異ならない!』、と。
復次若燃異可燃燃即無作。離可燃火何所然。若爾者火則無作。無作火無有是事。 復た次ぎに、若し燃、可燃と異ならば、燃は即ち作無し。可燃を離れて、火の然(もや)す所は何ぞ。若し爾らば、火は則ち作無し。無作の火なれば、是の事の有ること無し。
復た次ぎに、
若し、
『燃』が、
『可燃』と、
『異なれば!』、
『燃』には、
『作(はたらき)』が、
『無い!』。
『可燃』を、
『離れて!』、
何が、
『火』に、
『燃やされるのか?』。
若し、
そうならば、
『火』には、
『作(はたらき)』が、
『無い!』。
『作』の、
『無い!』、
『火ならば!』、
是の、
『事』は、
『存在しない!』。
問曰。云何火不從因緣生。人功亦空 問うて曰く、云何が、火、因縁より生ぜざれば、人功も亦た空しき。
問い、
何故、
『火』が、
『因縁』より、
『生じない!』と、
『人』の、
『功(はたらき)』が、
『空しいのか?』。
答曰
 燃不待可燃  則不從緣生 
 火若常燃者  人功則應空
答えて曰く、
燃が可燃を待たざれば、則ち縁より生ぜず、
火若し常に燃ゆれば、人功則ち応に空しかるべし。
答え、
『燃』が、
『可燃』を、
『待たずに!』、
『燃えれば!』、
『縁』に、
『従わずに!』、
『生じることになる!』。
『火』が、
若し、
『常に!』、
『燃えていれば!』、
『人』の、
『功(starting fire)』は、
『空しいはずだ!』。
参考
paratra nirapekṣatvād apradīpanahetukaḥ |
punarārambhavaiyarthyaṃ nityadīptaḥ prasajyate ||3||
Because [fire] does not depend on anything else,
it would not arise from causes for burning.
If it burned permanently, starting it would be meaningless.

参考
Since it does not rely upon that which is different
It would not arise from that which causes it to blaze
And since it would blaze eternally
Starting it would be simply meaningless.

参考
他のものに依存することがないから,〔火は〕燃える原因を持たないものとなるであろう。つねに燃えているものであり,あらためて燃え始めることは,無意味になってしまう,という誤りが付随する。
燃可燃若異。則不待可燃有燃。若不待可燃有然。則無相因法。是故不從因緣生。 燃と可燃と若し異なれば、則ち可燃を待たずして燃有り。若し可燃を待たずして燃有れば、則ち相因無き法なり。是の故に因縁に従らずして生ず。
『燃』と、
『可燃』とが、
若し、
『異なれば!』、
則ち、
『可燃』を、
『待たずに!』、
『燃』が、
『有る!』。
若し、
『可燃』を、
『待たずに!』、
『燃』が、
『有れば!』、
則ち、
『燃』と、
『可燃』とは、
『相因する!』ことの、
『無い!』、
『法である!』。
是の故に、
『因縁』に、
『従らずに!』、
『生じる!』。
  相因(そういん):梵語 lakSaNa- hetu の訳。相を起こす原因( the cause of acharakteristic )の義。又は梵語 anyonya- hetuka の訳。相互に原因となるの義。或いは梵語 sahabhuu- hetu 即ち俱有因、又は saMprayukta- hetu 即ち相応因の義、即ち相互に生起の因と為るを云う。
復次若燃異可燃。則應常燃。若常燃者。應離可燃別見有燃。更不須人功。 復た次ぎに、若し燃、可燃と異なれば、則ち応に常に燃ゆべし。若し常に燃ゆれば、応に可燃を離れて、別に燃有るを見て、更に人功を須(ま)たざるべし。
復た次ぎに、
若し、
『燃』が、
『可燃』と、
『異なれば!』、
則ち、
『常に!』、
『燃えているはずだ!』。
若し、
『常に!』、
『燃えていれば!』、
当然、
『可燃』を、
『離れても!』、
『別に!』、
『燃』の、
『有る!』のが、
『見え!』、
更に、
『人』の、
『功』を、
『要しないはずだ!』。
何以故
 若汝謂燃時  名為可燃者 
 爾時但有薪  何物燃可燃
何を以っての故に、
若し汝燃ゆる時を名づけて、可燃と為すと謂わば、
爾の時但だ薪のみ有れば、何物か可燃を燃やす。
何故ならば、
若し、
お前が、こう謂うならば、――
『燃える!』時を、
『可燃!』と、
『呼ぶ!』、と。
爾の時、
但だ、
『薪』のみが、
『有れば!』、
何物が、      ――火を離れて、何物が薪を燃やすのか?――
『可燃』を、
『燃やすのか?』。
参考
tatraitat syād idhyamānam indhanaṃ bhavatīti cet |
kenedhyatām indhanaṃ tat tāvanmātram idaṃ yadā ||4||
Concerning this,
if one thinks that while burning it is firewood,
if it is such only at that time,
by what could that firewood be ignited?

参考
With regard to this, if there is the thought
‘That which is burning is the kindling’
Then if merely that is the kindling
What would burn that kindling?

参考
それについて,もしもこのことから,燃えつつあるものが薪であるというならば,これはただそれだけのもの(この薪はただ燃えつつあるのみのもの)であるという〔だけで,その〕ときには,その薪は,何によって燃やされるのであろうか。
若謂先有薪燒時名可燃者。是事不爾。若離燃別有可燃者。云何言燃時名可燃。 若し、『先に薪有り、焼くる時に、可燃と名づく』、と謂わば、是の事は爾らず。若し燃を離れて、別に可燃有らば、云何が、『燃ゆる時、可燃と名づく』、と言う。
若し、
こう謂うならば、――
先に、
『薪』が、
『有り!』、
『焼かれる!』時を、
『可燃』と、
『呼ぶ!』、と。
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
若し、
『燃』を、
『離れて!』、
『別に!』、
『可燃』が、
『有れば!』、
何故、こう言うのか?――
『燃える!』時を、   ――火が無いのに、何故燃えるのか?――
『可燃』と、
『呼ぶ!』、と。
復次
 若異則不至  不至則不燒 
 不燒則不滅  不滅則常住
復た次ぎに、
若し異なれば則ち至らず、至らざれば則ち焼けず、
焼けざれば則ち滅せず、滅せざれば常住なり。
復た次ぎに、
若し、
『燃』が、
『可燃』と、
『異なれば!』、
『到達しない!』、
『燃』は、
『到達しなければ!』、
『焼くことはない!』、
『燃』は、
『焼かなければ!』、
『滅することもない!』、
『燃』は、
『滅しない!』が故に、
『常住だ!』。
参考
anyo na prāpsyate ’prapto na dhakṣyaty adahan punaḥ |
na nirvāsyaty anirvāṇaḥ sthāsyate vā svaliṅgavān ||5||
Because [fire] is other, it would not connect;
if it did not connect, it would not ignite;
if it did not ignite, it would not die;
if it did not die, it would also remain in possession of its own characteristic.

参考
Because of being different, they would not meet.
If they did not meet, the kindling would not burn.
If it did not burn, it would not perish.
If it did not perish, it would remain with its own characteristics.

参考
〔火が薪とは〕異なる別のものであるならば,〔火は薪に〕到達しないことになるであろう。まだ到達しないものは,燃えることはないであろう。さらにまた燃えないならば,消えることはないであろう。また消えないものは,それ自身の特相を持って存續するで あろう。
若燃異可燃。則燃不應至可燃。 若し燃、可燃と異なれば、則ち燃は、応に可燃に至るべからず。
若し、
『燃』が、
『可燃』と、
『異なれば!』、
『燃』は、
『可燃』に、
『到達するはずがない!』。
何以故。不相待成故。若燃不相待成。則自住其體。何用可燃。 何を以っての故に、相待たずして成ずるが故なり。若し燃、相待たずして成ずれば、則ち自ら其の体に住す。何ぞ可燃を用いん。
何故ならば、
『相待せずに!』、
『成立する!』からだ。
若し、
『燃』が、
『相待せずに!』、
『成立すれば!』、
『燃』は、
『自ら!』の、
『体』に、
『住するはずだ!』、
何に、
『可燃』を、
『用いるのか?』。
  相待(そうたい):梵語 apekSaa の訳、相互依存( interdependence )の義。例えば、頭と尾とは、相互の関係に於いて成立しており、三角が三本の線に依存しており、眼が色や形や長短を有するものに依存すること( for example, heads and tails are established in their relation to each other; the triangle depends on its three lines, the eye on things having color and form, long on short )を云う。
是故不至。若不至則不燃可燃何以故。無有不至而能燒故。 是の故に至らず。若し至らざれば、則ち可燃を燃やさず。何を以っての故に、至らずして、能く焼くもの有ること無きが故なり。
是の故に、
『燃』は、
『到達しない!』、
若し、
『燃』が、
『到達しなければ!』、
則ち、
『可燃』を、
『燃やさない!』、
何故ならば、
『到達せずに!』、
『焼くことのできる!』ものは、
『無いからだ!』。
若不燒則無滅。應常住自相。是事不爾。 若し焼かざれば、則ち滅する無く、応に自相に常住すべし。是の事は爾らず。
若し、
『焼かなければ!』、
『滅する!』ことも、
『無く!』、
『自ら!』の、
『相』に、
『常住するはずだ!』が、
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
問曰
 燃與可燃異  而能至可燃 
 如此至彼人  彼人至此人
問うて曰く、
燃と可燃と異なるも、能く可燃に至る、
此れ彼の人に至り、彼の人の此の人に至るが如し。
問い、
『燃』が、
『可燃』と、
『異なっていても』、
『可燃』に、
『到達することはできる!』。
譬えば、
『此の人』が、
『彼の人』に、
『到達し!』、
『彼の人』が、
『此の人』に、
『到達するように!』。
参考
anya evendhanād agnir indhanaṃ prāpnuyād yadi |
strī saṃprāpnoti puruṣaṃ puruṣaś ca striyaṃ yathā ||6||
Just as a woman connects with a man and a man too with a woman,
although fire is other than wood, it is fit to connect with wood.

参考
Just as woman can meet a man
And also a man can meet a woman,
Although fire is different from kindling
It is acceptable for it to meet with the kindling.

参考
もしも〔火が〕薪とは異なる別のものであって,〔その〕火が薪に到達するのであるならば,〔それは〕,あたかも,女が男に,また男が女に到達するようなものである。
燃與可燃異。而能至可燃。如男至於女。如女至於男。 燃と可燃と異なりても、能く可燃に至ること、男の女に至るが如く、女の男に至るが如し。
『燃』が、
『可燃』と、
『異なっていても!』、
『可燃』に、
『到達することができる!』、
譬えば、
『男』が、
『女』に、
『会いに行き!』、
『女』が、
『男』に、
『会いに行くように!』。
答曰
 若謂燃可燃  二俱相離者 
 如是燃則能  至於彼可燃
答えて曰く、
若し燃と可燃と、二つは倶に相離ると謂わば、
是の如き燃は則ち能く、彼の可燃に至らん。
答え、
若し、
こう謂うならば、――
『燃』と、
『可燃』との、
『二法』は、
『離れている!』、と。
是のような、
『燃』は、
彼の、
『可燃』に、
『到達することができる!』。
参考
anya evendhanād agnir indhanaṃ kāmam āpnuyāt |
agnīndhane yadi syātām anyo’nyena tiraskṛte ||7||
If fire and wood eliminated each other,
even though fire is something other than wood,
it would have to connect with wood.

参考
If fire and kindling could be removed one by one
This would rely on accepting that
Although fire is different from kindling
It could meet with the kindling.

参考
もしも火と薪とが相互に離れた別のものであるとするならば,〔火は〕薪とは異なる別のものであって,しかも〔その〕火は,随意に,薪に到達することになるであろう。
若離燃有可燃。若離可燃有燃。各自成者。如是則應燃至可燃。而實不爾。 若し燃と離れて可燃有り、若しは可燃と離れて燃有りて、各自ら成ずれば、是の如きは則ち応に燃は、可燃に至るべし。而れども実に爾らず。
若しは、
『燃』を、
『離れて!』、
『可燃』が、
『有る!』とか、
若しくは、
『可燃』を、
『離れて!』、
『燃』が、
『有って!』、
各が、
『自ら!』を、
『成立させれば!』、
是のようならば、
当然、
『燃』が、
『可燃』に、
『到達するはずだが!』、
而し、
『実』は、
『間違っている!』。
何以故。離燃無可燃。離可燃無燃故。 何を以っての故に、燃を離れて可燃無く、可燃を離れて燃無きが故なり。
何故ならば、
『燃』を、
『離れて!』、
『可燃』は、
『無く!』、
『可燃』を、
『離れて!』、
『燃』は、
『無いからだ!』。
今離男有女。離女有男。是故汝喻非也。喻不成故。燃不至可燃。 今、男を離れて女有り、女を離れて男有り。是の故に汝が喩は非なり。喩の成ぜざるが故に、燃は可燃に至らず。
今、
『男』を、
『離れた!』、
『女』が、
『有り!』、
『女』を、
『離れた!』、
『男』が、
『有る!』。
是の故に、
お前の、
『喩(たとえ)』は、
『喩にならない!』。
お前の、
『喩』が、
『成立しない!』が故に、
『燃』が、
『可燃』に、
『到達することはない!』。
問曰。燃可燃相待而有。因可燃有燃。因燃有可燃。二法相待成。 問うて曰く、燃と可燃と相待ちて有り。可燃に因りて燃有り、燃に因りて可燃有れば、二法は相待ちて成ず。
問い、
『燃』と、
『可燃』は、
『相待して!』、
『有る!』。
『可燃』に、
『因って!』、
『燃』が、
『有り!』、
『燃』に、
 『因って!』、
『可燃』が、
『有る!』。
『二法』は、
『相待して!』、
『成立する!』。
答曰
 若因可燃燃  因燃有可燃 
 先定有何法  而有燃可燃
答えて曰く、
若し可燃に因って燃え、燃に因って可燃有らば、
先に定んで何の法有りてか、燃と可燃と有る。
答え、
若し、
『可燃』に、
『因って!』、
『燃』が、
『有り!』、
『燃』に、
『因って!』、
『可燃』が、
『有れば!』、
定めて、
何の、
『法』が、
『先に!』、
『有り!』、
而も、
『燃』と、
『可燃』とが、
『有るのか?』。
参考
yadīndhanam apekṣyāgnir apekṣyāgniṃ yadīndhanam |
katarat pūrvaniṣpannaṃ yad apekṣyāgnir indhanam ||8||
If fire were dependent on wood and wood were dependent on fire,
of what becomes fire and wood dependently,
which would be established first?

参考
If fire is posited in reliance upon kindling
And if kindling is posited in reliance upon fire
Then in reliance upon what would there be fire and kindling?
And which would be established first?

参考
もしも薪に依存して火〔が有り〕,火に依存して薪〔が有る〕のであるならば,どちらが先に成立していて,それに依存して,火〔が有り〕,〔あるいは〕薪〔が有る〕のか。
若因可燃而燃成。亦應因燃可燃成。是中若先定有可燃。則因可燃。而燃成。若先定有燃。則因燃可燃成。 若し可燃に因って、燃成ずれば、亦た応に燃に因って、可燃成ずべし。是の中に若し、先に可燃有りと定まれば、則ち可燃に因って、燃成じ、若し先に燃有りと定まれば、則ち燃に因って、可燃成ずべし。
若し、
『可燃』に、
『因って!』、
『燃』が、
『成立すれば!』、
亦た、
『燃』に、
『因って!』、
『可燃』が、
『成立するはずだ!』。
是の中に、
若し、
『可燃』が、
『先に!』、
『有る!』と、
『定まれば!』、
則ち、
『可燃』に、
『因って!』、
『燃』が、
『成立する!』し、
若し、
『燃』が、
『先に!』、
『有る!』と、
『定まれば!』、
則ち、
『燃』に、
『因って!』、
『可燃』が、
『成立するはずだ!』。
今若因可燃而燃成者。則先有可燃而後有燃。不應待燃而有可燃。何以故可燃在先燃在後故。 今、若し可燃に因りて燃成ずれば、則ち先に可燃有りて、後に燃有り。応に燃を待ちて、可燃有るべからず。何を以っての故に、可燃先に在りて、燃は後に在るが故なり。
今、
若し、
『可燃』に、
『因って!』、
『燃』が、
『成立するならば!』、
則ち、
『可燃』が、
『先に!』、
『有り!』、
『燃』は、
『後に!』、
『有る!』。
『燃』を、
『待って!』、
『可燃』の、
『有るはずがない!』。
何故ならば、
『可燃』が、
『先で!』、
『燃』は、
『後だからだ!』。
若燃不燃可燃。是則可燃不成。又可燃不在餘處離於燃故。若可燃不成。燃亦不成。 若し、燃が可燃を燃やさざれば、是れ則ち可燃を成ぜず。又可燃は、余処に在りて、燃を離るるにあらざるが故に、若し可燃成ぜざれば、燃も亦た成ぜず。
若し、
『燃』が、
『可燃』を、
『燃やさなければ!』、
是れでは、
『可燃』が、
『成立しない!』、
又、
『可燃』が、
『他の処』に、
『燃』を、
『離れて!』、
『在るのでもない!』が故に、
若し、
『可燃』が、
『成立しなければ!』、
『燃』も、
亦た、
『成立しない!』。
若先燃後有可燃。燃亦有如是過。是故燃可燃。二俱不成。 若し先に燃え、後に可燃在れば、燃にも亦た是の如きの過有り。是の故に燃と可燃とは二つながら、倶に成ぜず。
若し、
『燃』が、
『先に!』、
『有り!』、
『可燃』が、
『後に!』、
『有れば!』、
『燃』にも、
是のような、
『過』が、
『有る!』。
是の故に、
『燃、可燃の二法』は、
『どちらも!』、
『成立しない!』。
復次
 若因可燃燃  則燃成復成 
 是為可燃中  則為無有燃
復た次ぎに、
若し可燃に因る燃は、則ち燃成じて復た成ず、
是れ可燃中と為せば、則ち燃有ること無しと為す。
復た次ぎに、
若し、
『可燃』に、
『因って!』、
『燃』が、
『有れば!』、
則ち、
『燃』は、
『成立してから!』、
復た、
『成立させられる!』。
是れは、――
『可燃』中には、
『燃』は、
『存在しないということだ!』。
参考
yadīndhanam apekṣyāgnir agneḥ siddhasya sādhanam |
evaṃ satīndhanaṃ cāpi bhaviṣyati niragnikam ||9||
If fire were dependent on wood,
[already] established fire would be established [again].
Firewood also would be [such] even without fire.

参考
If fire is established in reliance upon kindling
An established fire would be established again.
And also kindling which is that which blazes
Would occur without fire.

参考
もしも薪に依存して火〔が有る〕のであるならば,〔薪は〕すでに成立している火を〔さらに〕成立させることになろう。このようであるならば,火を持たない薪もまた,存在することになるであろう。
若欲因可燃而成燃。則燃成已復成。何以故。燃自住於燃中。 若し可燃に因って、燃を成ぜんと欲すれば、則ち燃成じ已りて、復た成ず。何を以っての故に、燃は、自ら燃中に住すればなり。
若し、
『可燃』に、
『因って!』、
『燃』を、
『成立させようとすれば!』、
則ち、
『燃』は、
『成立してから!』、
『復た!』、
『成立することになる!』。
何故ならば、
『燃』が、
自ら、
『燃』中に、
『住するからだ!』。
若燃不自住其體。從可燃成者。無有是事。是故有是燃從可燃成。 若し燃、自ら其の体に住せず、可燃によりて成ずれば、是の事の有ること無し。是の故に、是の燃有らば、可燃によりて成ぜん。
若し、
『燃』が、
『自ら!』の、
『体』に、
『住しない!』で、
『可燃』に、
『従って!』、
『成立する!』とは、
是の、
『事』は、
『存在しない!』。
是の故に、
是の、
『燃』が、
『有れば!』、
『可燃』に、
『従って!』、
『成立するはずだ!』。
今則燃成復成。有如是過。復有可燃無燃過。 今、則ち燃成じて、復た成ずる、是の如き過有り。復た可燃に燃無き過有り。
今、
則ち、
『燃』が、
『成立して!』、
『復た!』、
『成立する!』という、
是のような、
『過』が、
『有った!』が、
復た、
『可燃』には、
『燃』が、
『無い!』という、
『過』も、
『有る!』。
何以故。可燃離燃自住其體故。是故燃可燃相因待。無有是事。 何を以っての故に、可燃は燃を離れて、自ら其の体に住するが故なり。是の故に、燃と可燃と相因を待たば、是の事有ること無けん。
何故ならば、
『可燃』が、
『燃』を、
『離れて!』、
『自ら!』の、
『体』に、
『住するからだ!』。
是の故に、
『燃』と、
『可燃』とが、
互いに、
『因』を、
『待てば!』、
是の、
『事』は、
『存在しない!』。
復次
 若法因待成  是法還成待 
 今則無因待  亦無所成法
復た次ぎに、
若し法因待して成ぜば、是の法も還た待を成ぜん、
今則ち因待すること無くんば、亦た成ずる所の法も無けん。
復た次ぎに、
若し、
有る、
『法』が、
『因待して!』、
『成立すれば!』、
是の、
『法』は、
還()た、
『待(因待)』を、
『成立させる!』。
今は、
則ち、
『因待』が、
『無い!』ので、
亦た、
『成立させられる!』、
『法』も、
『無い!』。
  因待(いんたい):因を待つ。梵語apekSyaの訳。見ることを以って(with regard)の義。依存する(depending on、relying on)の意。
参考
yo ’pekṣya sidhyate bhāvas tam evāpekṣya sidhyati |
yadi yo ’pekṣitavyaḥ sa sidhyatāṃ kam apekṣya kaḥ ||10||
If a thing (A) is established dependently (on B),
[but] if what it depends upon (B) is established
also in dependence on that very thing (A),
what would be established in dependence on what?

参考
If a thing could be established in reliance
And if in reliance upon that very thing
The object relied upon could also be established
Then in reliance upon what would something be established?

参考
〔B に〕依存して、「存在(もの・こと)」〔A〕が成立しており,その〔A に〕依存して、 〔B が〕成立している〔場合に〕,もしも依存されるべきものが〔先に〕成立するのであ るならば,〔A と B との〕どちらがどちらに依存して〔成立するのであろう〕か。
若法因待成。是法還成本因待。如是決定則無二事。 若し法、因待して成ぜば、是の法も還た本の因待を成ぜん。是の如く決定すれば、則ち二事無し。
若し、
有る、
『法』が、
『因待して!』、
『成立すれば!』、
是の、
『法』は、
還た、
『本の因待』を、
『成立させなくてはならない!』。
是のように、
決定すれば、
則ち、
『二事(二法)』は、
『無いことになる!』。
如因可燃而成燃。還因於燃而成可燃。是則二俱無定。無定故不可得。 可燃に因りて、燃を成ずるが如きは、還って燃を因として、可燃を成ず。是れ則ち二は倶に定無く、定無きが故に得べからず。
例えば、
『可燃』に、
『因って!』、
『燃』を、
『成立させ!』、
還た
『燃』に、
『因って!』、
『可燃』を、
『成立させれば!』、
是の、
『二法』は、
どちらも、
『定まる!』ことが、
『無い!』、
『定まる!』ことが、
『無い!』が故に、
『認められない!』。
何以故
 若法有待成  未成云何待 
 若成已有待  成已何用待
何を以っての故に、
若し法待有りて成ぜば、未だ成ぜざるに云何が待つ、
若し成じ已りて待有らば、成じ已りて何ぞ待を用いん。
何故ならば、
若し、
『法』が、
『因待して!』、
『成立すれば!』、
未だ、
『法』が、
『成立していない!』のに、
『何のようにして!』、
『待つのか?』。
若し、
『法』が、
『成立してから!』、
『因待』が、
『有れば!』、
『成立した法』が、
何故、
『因待』を、
『用いるのか?』。
参考
yo ’pekṣya sidhyate bhāvaḥ so ’siddho ’pekṣate katham |
athāpy apekṣate siddhas tv apekṣāsya na yujyate ||11||
How can a thing (A)
which is established dependently (on B) be dependent (on B)
when it (A) is not established? If one asks,
“how can establishment be dependent?”
It is not reasonable for it (A) to be dependent.

参考
If that which is established in reliance upon a thing
Has not been established how could it be reliant?
It is the established that is reliant.
It is not tenable for that to be reliant.

参考
〔他に〕依存して存在するような,そのような「存在(もの・こと)」は,〔それが〕まだ成立していない時には,どうして依存することがあろうか。 しかるに,もしもすでに成立しているものが〔他に〕依存するとすれば,あらためてそれ(他)に依存するということは,正しくない(理に合わない)。
若法因待成。是法先未成。未成則無。無則云何有因待。 若し法因待して成ずれば、是の法は先に未だ成ぜず。未だ成ぜざれば、則ち無し。無ければ則ち云何が因待有らん。
若し、
有る、
『法』が、
『因待して!』、
『成立すれば!』、
是の、
『法』は、
『先に!』は、
『未だ!』、
『成立していない!』、
『成立していなければ!』、
『法』は、
『無いことになる!』、
『法』が、
『無ければ!』、
何故、
『因待』が、
『有るのか?』。
若是法先已成已成。何用因待。是二俱不相因待。 若し是の法、先に已に成ずれば、已に成じて、何んが因待を用うる。是の二は倶に相因待せず。
若し、
是の、
『法』が、
先に、
『成立していれば!』、
何故、
『成立してから!』、
『因待』を、
『用いるのか?』。
是の故に、
是の、
『二法』は、
どちらも、
『互に!』、
『因待しない!』。
是故汝先說燃可燃相因待成。無有是事。 是の故に、汝は先に、『燃と可燃と相因待して成ず』、と説くも、是の事有ること無し。
是の故に、
お前は、
先に、こう説いたが、――
『燃』と、
『可燃』とが、
『互いに!』、
『因待して!』、
『成立する!』、と。
是の、
『事』は、
『存在しない!』。
是故
 因可燃無燃  不因亦無燃 
 因燃無可燃  不因無可燃
是の故に、
可燃に因って燃無く、因らざるも亦た燃無し、
燃に因って可燃無く、因らざるも可燃無し。
是の故に、
『可燃』に、
『因っても!』、
『燃』は、
『無く!』、
『因らなくても!』、
『燃』は、
『無い!』。
『燃』に、
『因っても!』、
『可燃』は、
『無く!』、
『因らなくても!』、
『可燃』は、
『無い!』。
参考
apekṣyendhanam agnir na nānapekṣyāgnir indhanam |
apekṣyendhanam agniṃ na nānapekṣyāgnim indhanam ||12||
There is no fire that is dependent on wood;
there is also no fire that is not dependent on wood.
There is no wood that is dependent on fire;
there is also no wood that is not dependent on fire.

参考
There is no fire that is reliant on kindling
And there is also no fire that is not reliant on kindling.
There is no kindling that is reliant on fire
And there is also no kindling that is not reliant on fire.

参考
火は薪に依存して﹝有るのでは﹞ない。火は薪に依存しないで﹝有るのでは﹞ない。薪は火に依存して﹝有るのでは﹞ない。薪は火に依存しないで﹝有るのでは﹞ない。
今因待可燃燃不成。不因待可燃燃亦不成。 今、可燃を因待するも、燃は成ぜず、可燃を因待せざるも、燃は亦た成ぜず。
今、
『可燃』を、
『因待しても!』、
『燃』は、
『成立しない!』し、
『可燃』を、
『因待しなくても!』、
『燃』は、
『成立しない!』
可燃亦如是。因燃不因燃。二俱不成。是過先已說。 可燃も亦た是の如く、燃に因りても、燃に因らずしても、二は倶に成ぜずと、是の過は、先に已に説くが如し。
『可燃』も、
亦た、
是のように、
『燃』に、
『因っても!』、
『燃』に、
『因らなくても!』、
『二事』は、
『どちらも!』、
『成立しない!』と、
是の、
『過』は、
『先に!』、
『已に説いた!』。
復次
 燃不餘處來  燃處亦無燃 
 可燃亦如是  餘如去來說
復た次ぎに、
燃は余処より来たらず、燃処にも亦た燃無し、
可燃も亦た是の如し、余は去来に説くが如し。
復た次ぎに、
『燃』は、
『他の!』、
『処』から、
『来たのでもなく!』、
『燃える!』、
『処』にも、
『無い!』。
『可燃』も、
亦た、
『是の通りである!』、
他は、
『去来』中に、
『説いた通りだ!』。
参考
āgacchaty anyato nāgnir indhane ’gnir na vidyate |
atrendhane śeṣam uktaṃ gamyamānagatāgataiḥ ||13||
Fire does not come from something else;
fire also does not exist in wood. Likewise,
the remainder of wood
has been shown by gone, not-gone and going.

参考
Fire does not come from something different from kindling
And there is also no fire in kindling.
Similarly, the remaining reasonings for fire and kindling
Have been indicated by the traversed, the untraversed
and that being traversed.

参考
(gataṃ na gamyate tāvadagataṃ naiva gamyate / gatāgatavinirmuktaṃ gamyamānaṃ na gamyate/
まず第一に,すでに去った﹝もの﹞(已去)は去らない。﹝つぎに﹞,まだ去らない﹝もの﹞(未去)も去らない。すでに去った﹝もの﹞とまだ去らない﹝もの﹞とを離れて,現に去りつつある﹝もの﹞(去時)は去らない。)
āgacchatyanyato nāgnirindhane `gnirna vidyate/
atrendhane śeṣamuktaṃ gamyamānagatāgataiḥ //
火は他から來るのではない。火は薪のなかに存在するのではない。薪に関するそれ以外のことは,〔第二章の〕現に去りつつある〔もの〕と,すでに去った〔もの〕と,まだ去らない〔もの〕と〔の考察〕によって,すでに說かれている。
燃不於餘方來入可燃可燃中亦無燃。析薪求燃不可得故。 燃は、余方より来て、可燃に入るにあらず。可燃中にも亦た燃無し。薪を析(さ)きて燃を求むるも得べからざるが故なり。
『燃』は、
『他から!』、
『来て!』、
『可燃』に、
『入ったのでもなく!』、
『可燃』中にも、
『燃』は、
『無い!』。
『薪』を、
『割いて!』、
『燃』を、
『求めても!』、
『得られないからだ!』。
可燃亦如是。不從餘處來入燃中。燃中亦無可燃。 可燃も亦た是の如く、余処より来て燃中に入らず。燃中にも亦た可燃無し。
『可燃』も、
是のように、
『他から!』、
『来て!』、
『燃』中に、
『入ったのでもなく!』、
『燃』中にも、
『可燃』は、
『無い!』。
如燃已不燃未燃不燃燃時不燃。是義如去來中說。 燃え已りて燃えず、未だ燃えずして燃えず、燃ゆる時にも燃えざるが如き、是の義は、去来中に説くが如し。
已に、
『燃えた!』者は、
『燃えない!』、
未だ、
『燃えない!』者は、
『燃えない!』、
ちょうど、
『燃える!』時にも、
『燃えない!』という、
是のような、
『義』は、
『去来』中に、
『説いた通りだ!』。
是故
 可燃即非然  離可燃無燃 
 燃無有可燃  燃中無可燃 
 可燃中無燃  可燃即非燃。
是の故に、
可燃は即ち燃に非ざるも、可燃を離れて燃無し、
燃に可燃有ること無く、燃中にも可燃無し、
可燃中に燃無ければ、可燃は即ち燃に非ず。
是の故に、
『可燃』は、
『燃でない!』が、
『可燃』を、
『離れれば!』、
『燃』は、
『無く!』、
『燃』にも、
『可燃』は、
『存在しない!』。
『燃』中に、
『可燃』が、
『無いように!』、
『可燃』中にも、
『燃』は、
『無い!』、
『可燃』が、
『燃だというのでもない!』。
参考
indhanaṃ punar agnir na nāgnir anyatra cendhanāt |
nāgnir indhanavān nāgnāv indhanāni na teṣu saḥ ||14||
Wood itself is not fire;
fire is also not something other than wood.
Fire does not possess wood;
wood does not exist in fire;
that (fire) does not exist in it.

参考
Kindling itself is not fire
And also other than kindling there is no fire.
Fire does not possess kindling
And there is no kindling in fire nor is there fire in it.

参考
さらに,火は薪ではない。火は薪とは異なる別のところに〔あるのでも〕ない。火は薪を所有するものではない。また,火のなかに薪〔が有るのでは〕ない。それら(薪)のなかにそれ(火)〔が有るのでは〕ない。
何以故。先已說作作者一過故。 何を以っての故に、先に已に、『作と作者と一なれば過あり』、と説くが故なり。
何故ならば、
先に、
已に、こう説いた、――
『作』と、
『作者』とが、
『一』ならば、
『間違っている!』、と。
離可燃無燃。有常燃等過故。 可燃を離れて燃無し、常なる燃等の過有るが故に。
『可燃』を、
『離れて!』、
『燃』は、
『無い!』。
若し、
『可燃』を、
『離れて!』、
『燃』が、
『有れば!』、
『常に!』、
『燃える!』等の、
『過』が、
『有るからだ!』。
燃無有可燃。燃中無可燃。可燃中無燃。以有異過故。三皆不成。 燃に可燃有ること無く、燃中に可燃無く、可燃中に燃無し。異なる過有るを以っての故に、三は皆成ぜず。
『燃』に、
『可燃』は、
『無い!』。
『燃』中には、
『可燃』が、
『無く!』、
『可燃』中にも、
『燃』は、
『無い!』。
『燃』と、
『可燃』とが、
『異なる!』という、
『過があるからだ!』。
『燃』と、
『可燃』とは、
『一である!』、――(1)――
『燃』中に、
『可燃』が、
『有る!』、 ――(2)――
『可燃』中に、
『燃』が、
『有る!』、 ――(3)――
是の、
『三事』は、
皆、
『成立しない!』。
問曰。何故說燃可燃 問うて曰く、何故にか、燃と可燃を説く。
問い、
何故、
『燃』と、
『可燃』とを、
『説いたのか?』。
答曰。如因可燃有燃。如是因受有受者。 答えて曰く、可燃に因りて、燃有るが如く、是の如く受に因りて、受者有り。
答え、
譬えば、
『可燃』に、
『因って!』、
『燃』が、
『有るように!』、
是のように、
『受(五陰)』に、
『因って!』、
『受者()』が、
『有るからだ!』。
受名五陰。受者名人。燃可燃不成故受受者亦不成。 受を五陰と名づけ、受者を人と名づく。燃と可燃と成ぜざるが故に、受と受者も亦た成ぜず。
『受』を、
『五陰』と、
『呼び!』、
『受者』を、
『人』と、
『呼べば!』、
『燃』と、
『可燃』との、
『成立しない!』が故に、
『受』も、
『受者』も、
亦た、
『成立しない!』。
何以故
 以燃可燃法  說受受者法 
 及以說瓶衣  一切等諸法
何を以っての故に、
燃と可燃の法を以って、受と受者の法を説き、
以って瓶衣、一切等の諸法を説くに及ぶ。
何故ならば、
『燃、可燃の法』を、
『用いて!』、
『受、受者の法』を、
『説けば!』、
則ち、
『瓶、衣』等、
一切の、
『諸の法』を、
『説くことになるからである!』。
参考
agnīndhanābhyāṃ vyākhyāta ātma-upādānayoḥ kramaḥ |
sarvo niravaśeṣeṇa sārdhaṃ ghaṭapaṭādibhiḥ ||15||
Through fire and wood is explained
without exception all the stages of self and the grasped
and at the same time jugs, cloth and so on.

参考
All the stages of the self and the appropriated aggregates
Together with pots, cloth and so forth
Are thoroughly explained without exception
By fire and kindling.

参考
火と薪とにより,アートマン(我)と執着(取)との一切の次第が,瓶と布などとともに,あますところなく解明された。
如可燃非燃。如是受非受者。作作者一過故。 可燃の燃に非ざるが如く、是の如く受は受者に非ず。作と作者と一なる過の故なり。
譬えば、
『可燃』が、
『燃でない!』ように、
是のように、
『受』は、
『受者でない!』。
何故ならば、
『作』と、
『作者』とが、
『一である!』という、
『過があるからである!』。
又離受無受者。異不可得故。以異過故。三皆不成。 又受を離れて受者無し、異を得べからざる故なり。異の過を以っての故に、三は皆成ぜず。
又、
『受』を、
『離れて!』、
『受者』が、
『無ければ!』、
『受』と、
『受者』とに、
『異(ことなり)』は、
『認められない!』。
是のような、
『受』と、
『受者』とが、
『異なる!』という、
『過』の故に、
『三事』は、
皆、
『成立しない!』。
如受受者。外瓶衣等一切法皆同上說。無生畢竟空。 受と受者の如く、外の瓶、衣等の一切の法も、皆上説に同く、無生にして、畢竟じて空なり。
『内』の、
『受』と、
『受者』のように、
『外』の、
『瓶』や、
『衣』等の、
『一切の法』も、
皆、上に説いたように、――
『無生であり!』、
『畢竟じて!』、
『空である!』。
是故
 若人說有我  諸法各異相 
 當知如是人  不得佛法味
是の故に、
若し人、我有り、諸法は各相を異にす、と説かば、
当に知るべし、是の如き人は、仏法の味を得ず。
是の故に、
若し、
有る、
『人』が、
『我』が、
『有る!』と、
『説いて!』、
諸の、
『法』が、
各各、
『相』を、
『異にすれば!』、
こう知るはずである、――
是のような、
『人』は、
『仏法』の、
『味』を、
『理解していない!』、と。
参考
ātmanaś ca satattvaṃ ye bhāvānāṃ ca pṛthak pṛthak |
nirdiśanti na tān manye śāsanasyārthakovidān ||16||
I do not think
those who teach the identity or difference of self and things
are wise in the meaning of the teaching.

参考
I do not consider that anyone
Who teachs that the self along with those things
To be the same or different
Is wise in the meaning of the doctrine.

参考
およそ,アートマン(我)について,またもろもろの「存在(もの‧こと)」について, 本質を持っていると〔說き〕,また互いに異なって別であると說く人々〔がいる〕。私は,かれらを,教えの意義に精通しているものである,とは考えない。
諸法從本已來無生。畢竟寂滅相。是故品末說是偈。 諸法は、本より已来、無生にして、畢竟寂滅の相なり。是の故に品末に是の偈を説く。
諸の、
『法』は、
『本』より、
『無生であり!』、
『畢竟じて!』、
『寂滅』の、
『相である!』、
是の故に、
『品末』に、
是の、
『偈』を、
『説いた!』。
若人說我相。如犢子部眾說。不得言色即是我。不得言離色是我。我在第五不可說藏中。 若し人、我相を説いて、犢子部の衆の説の如くなれば、『色は、即ち是れ我なり』、と言うを得ず、『色を離れて是れ我なり』、と言うを得ず。我は、第五不可説蔵中に在ればなり。
若し、
『人』が、
『我』の、
『相』を、
『説けば!』、
例えば、
『犢子部衆のように!』、
『説けば!』、こうである――
『色』が、
『即ち(とりもなおさず)!』、
『我である!』と、
『言うこともできず!』、
『色』を、
『離れた!』者が、
『我である!』とも、
『言えない!』。
『我』は、
『第五不可説蔵』中に、
『在る!』、と。
  犢子部(とくしぶ):梵名vaastii-ptriiya、小乗二十部の一。舎利弗の説を禀け、彼の阿毘曇を尊重せし一派の名。其の所立の教義は非即非離蘊の我を立て、之を五法蔵中の不可説法蔵に摂するを其の特色となす。
如薩婆多部眾說。諸法各各相。是善是不善是無記。是有漏無漏有為無為等別。異 薩婆多部の衆の如きは、諸法に各各の相を説いて、是れは善、是れは不善、是れは無記、是れは有漏、無漏、有為、無為等別異す。
若し、
『薩婆多部(説一切有部)衆のように!』、
『我を説けば』、――
諸の、
『法』に、
是れは、『善である!』、
是れは、『不善である!』、
是れは、『無記である!』、
是れは、『有漏、無漏、有為、無為である!』等と
各各の、
『相』を、
『分別し!』、
『別異するだろう!』。
  薩婆多部(さつばたぶ):梵名sarvaasti-vaadin、説一切有部と訳す。小乗二十部の一。上座部に属する一派にして、三世一切法皆実有なりと説くが故に此の称あり。
如是等人。不得諸法寂滅相。以佛語作種種戲論 是の如き等の人は、諸法の寂滅相を得ずして、仏語を以って、種種の戯論を作す。
是れ等の、
『人』は、――
『諸の法』の、
『相』が、
『寂滅している!』ことを、
『理解せず!』、
『仏』の、
『語(ことば)』を、
『弄(もてあそ)んで!』、
種種に、
『戯論』を、
『作すからである!』。



中論觀本際品第十一(八偈)

問曰。無本際經說。眾生往來生死。本際不可得。是中說有眾生有生死。以何因緣故而作是說。 問うて曰く、『無本際経』に説かく、『衆生は、生死に往来して、本際不可得なり』、と。是の中に説かく、『衆生有り、生死有り』、と。何の因縁を以っての故にか、是の説を作したまえる。
問い、
『無本際経』には、こう説かれている、――
『衆生』は、
『生死』を、
『往来する!』が、
其の、
『本際(原初の実在)』は、
『認められない!』、と。
是の中に、
『仏』は、――
『衆生』は、
『有る!』、
『生死』は、
『有る!』と、
『説いていられる!』が、
何のような、
『因縁』の故に、
是の、
『説』を、
『作されたのか?』。
  本際(ほんざい):原初の実在( Original reality )、 梵語 koTi, 又はpuurva- koTi の訳。先行する( puurva : former , prior , preceding , previous to , earlier than )究極( koTi : end or top of anything , the highest point )の義。最初/究極の前世の意。前際/真際/実際とも云う。
  参考:『大智度論巻31』:『佛何以説衆生往來生死本際不可得答曰欲令衆生知久遠已來往來生死爲大苦生厭患心』
  参考:『雑阿含巻26(657)経』:『如是我聞。一時。佛住舍衛國祇樹給孤獨園。爾時。世尊告諸比丘。有五根。何等為五。信根.精進根.念根.定根.慧根。若聖弟子成就信根者。作如是學。聖弟子無始生死。無明所著。愛所繫。眾生長夜生死。往來流馳。不知本際。有因故有生死。因永盡者。則無生死。無明大闇聚障礙。誰般涅槃。唯苦滅.苦息.清涼.沒。如信根。如是精進根.念根.定根.慧根亦如是說此五根。慧為首。慧所攝持。譬如堂閣。棟為首。棟所攝持。佛說此經已。諸比丘聞佛所說。歡喜奉行』
答曰
 大聖之所說  本際不可得 
 生死無有始  亦復無有終
答えて曰く、
大聖の所説には、本際は不可得なりと、
生死に始有る無く、亦復た終も有る無し。
答え、
『大聖()』の、
所説は、――
『本際』は、
『認められない!』、と。
『生死』には、
『始(はじめ)』が、
『無い!』し、
亦復た、
『終(おわり)』も、
『無い!』。
参考
pūrvā prajñāyate koṭir nety uvāca mahāmuniḥ |
saṃsāro ’navarāgro hi nāsyādir nāpi paścimam ||1||
When asked, “is a before-extreme evident?”
the great Muni said, “it is not.”
Samsara has no beginning, no end; it has no before, no after.

参考
When asked ‘Is a start point evident?’
The Great Sage said ‘No’.
Cyclic existence which is without beginning or end
Has no start point or end point.

参考
偉大な聖者は,前の究極は知られない,と語った。なぜならば,輪迴は始まりが無く終りの無いものであり,それには,﹝それの﹞先も無く,﹝それの﹞後も無いからである。
聖人有三種。一者外道五神通。二者阿羅漢辟支佛。三者得神通大菩薩佛於三種中最上故言大聖。佛所言說無不是實說。 聖人には、三種有り、一には外道の五神通、二には阿羅漢、辟支仏、三には神通を得たる大菩薩なり。仏は、三種中に於いて最上なるが故に、大聖と言う。仏の言説したもう所には、是れ実説ならざる無し。
『聖人』には、
『三種』有り、
一には、
『五神通』を、
『得た!』
『外道であり』、
二には、
『阿羅漢』と、
『辟支仏』、
三には、
『神通』を、
『得た!』、
『大菩薩である!』が、
『仏』は、
『三種』中の、
『最上である!』が故に、
『大聖』と、
『言い!』、
『仏』の、
『言説された!』所には、
『実説でない!』ものが、
『無い!』。
生死無始。何以故。生死初後不可得。是故言無始 生死は無始なり。何を以っての故に、生死は初も後も不可得なり。是の故に、無始と言う。
『生死』には、、
『始』が、
『無い!』とは、――
何故ならば、
『生死』の、
『初(最初)、後(最後)』が、
『認められないからである!』。
是の故に、
『無始』と、
『言うのだ!』。
  無始(むし):梵語 anaadi の訳。 始りが無い( beginningless , having no beginning )、無限の過去より存在する( existing from eternity )等の義。
汝謂若無初後。應有中者。是亦不然。 汝が、『若し初後無くんば、応に中有るべし』と謂わば、是れも亦た然らず。
お前が、こう謂うならば、――
若し、
『初、後』が、
『無ければ!』、
『中』が、
『有るはずだ!』、と。
是れも、
亦た、
『間違っている!』。
何以故
 若無有始終  中當云何有 
 是故於此中  先後共亦無
何を以っての故に、
若し始と終と有ること無ければ、中は当に云何が有るべき、
是の故に此の中に於いて、先後共も亦た無し。
何故ならば、
若し、
『始(はじめ)』も、
『終(おわり)』も、
『無ければ!』、
何故、
『中』が、
『有るのか?』。
是の故に、
此の中には、
『先、後』は、
『どちらも!』、
『無い!』。
参考
naivāgraṃ nāvaraṃ yasya tasya madhyaṃ kuto bhavet |
tasmān nātropapadyante pūrvāparasahakramāḥ ||2||
For that without beginning [and] end,
where can a middle be in that?
Therefore, it is not possible
for it to have before, after, and simultaneous phases.

参考
How could that which has no beginning or end
Have a middle?
Thus, sequential and simultaneous orders
Are inadmissible with respect to that.

参考
およそ始まりが無く終りも無いような,そのようなものに,どうして,中間が存在するであろうか。それゆえ,ここでは,前と後と同時というもろもろの次第は,成り立たない。
因中後故有初。因初中故有後。若無初無後。云何有中。生死中無初中後。是故說先後共不可得。 中と後とに因るが故に、初有り、初と中とに因るが故に後有り。若し、初無く、後無くんば、云何が中有らん。生死中には、初中後無し。是の故に説かく、『先後共は不可得なり』、と。
『中、後』に、
『因る!』が故に、
『初』が、
『有り!』、
『初、中』に、
『因る!』が故に、
『後』が、
『有る!』が、
若し、
『初』も、
『後』も、
『無ければ!』、
何故、
『中』が、
『有るのか?』、
『生死』中には、
『初』も、
『中』も、
『後』も、
『無い!』、
是の故に、
こう説く、――
『先、後』は、
『どちらも!』、
『認められない!』、と。
何以故
 若使先有生  後有老死者 
 不老死有生  不生有老死 
 若先有老死  而後有生者 
 是則為無因  不生有老死
何を以っての故に、
若し先に生有らしめ、後に老死有らしめば、
老死ならざる生有り、生ならざる老死有らん。
若し先に老死有り、而も後に生有らば、
是れ則ち無因と為し、生ならざるに老死有らん。
何故ならば、
若し、
『先に!』、
『生』を、
『存在させ!』、
『後に!』、
『老死』を、
『存在させれば!』、
則ち、
『老死しない!』、
『生』が、
『有り!』、
『生じない!』、
『老死』が、
『有るからだ!』。
若し、
『先に!』、
『老死』を、
『存在させ!』、
『後に!』、
『生』を、
『存在させれば!』、
是れは、
則ち、
『老死』は、
『無因となり!』、
『生じない!』のに、
『老死』が、
『有ることになる!』。
参考
pūrvaṃ jātir yadi bhavej jarāmaraṇam uttaram |
nirjarā maraṇā jātir bhavej jāyeta cāmṛtaḥ ||3||
If birth were before and aging/death after,
there would be birth without aging/death
and also without dying one would be born.

paścāj jātir yadi bhavej jarāmaraṇam āditaḥ |
ahetukam ajātasya syāj jarāmaraṇaṃ katham ||4||
If birth were after and aging/death before,
how could there be an uncaused aging/death which has no birth?

参考
If birth came first
And then there is aging and death
There would be birth without aging and death
And also without death there would be birth.

If birth comes after
And first there is aging and death
There would aging and death without birth.
Without a cause, how could they occur?

参考
もしも生が前に,老死が後に存在するのであるならば,老死の無い生が存在することになるであろう。また,不死のものが生まれる,ということになるであろう。

もしも生が後に,老死が先に存在するのであるならば,﹝老死は﹞原因の無いもの〔になってしまう〕。まだ生まれていないものに,どうして,〔そのような原因の無い〕老死が存在するであろうか。
生死眾生。若先生漸有老。而後有死者。則生無老死。法應生有老死老死有生。 生死の衆生が、若し先に生じ、漸く老有り、而る後に死有らば、則ち生には、老死無し。法は、応に生に老死有り、老死に生有るべし。
『生死の衆生』が、
若し、
『先に!』、
『生』が、
『有り!』、
『やがて!』、
『老』が、
『有り!』、
『その後!』、
『死』が、
『有れば!』、
則ち、
『生』には、
『老、死』が、
『無いことになる!』が、
『法(事物)』の、
『生』には、
『老、死』が、
『有り!』、
『老、死』には、
『生』が、
『有るはずである!』。
又不老死而生。是亦不然。又不因生有老死。 又老死せずして生ぜば。是れも亦た然らず。又生に因らずして、老死有り。
又、
『老、死しない!』、
『生』が、
『有れば!』、
是れも、
亦た、
『間違っている!』。
又、
『生』に、
『因らずに!』、
『老、死』は、
『有ることになる!』。
若先老死後生。老死則無因。生在後故。 若し、先に老死ありて、後に生あらば、老死は則ち無因なり、生の後に在るが故なり。
若し、
『先に!』、
『老、死』が、
『有り!』、
『後に!』、
『生』が、
『有れば!』、
則ち、
『老、死』は、
『無因となる!』、
『老、死』より、
『生』が、
『後だからである!』。
又不生何有老死。若謂生老死先後不可。謂一時成者。是亦有過。 又、生ぜずんば、何んが老死有らん。若し、生老死の先後は不可得なりと謂い、一時に成ずと謂わば、是れも亦た過有り。
又、
『生じなければ!』、
何故、
『老、死』は、
『有るのか?』。
若し、
こう謂うならば、――
『生、老、死』の、
『先、後』は、
『認められない!』、
『生、老、死』は、
『一時』に、
『成立する!』、と。
是れにも、
亦た、
『過が有る!』。
  :若謂生老死先後不可。謂一時成者は、他本に従い、先後不可得に改む。
何以故
 生及於老死  不得一時共 
 生時則有死  是二俱無因
何を以っての故に、
生及び老死は、一時に共なるを得ず、
生の時に則ち死有らば、是の二は倶に無因なり。
何故ならば、
『生』と、
『老、死』とは、
『一時』に、
『共になることはない!』、
若し、
『生じる!』時に、
『死』が、
『有れば!』、
是の、
『二』は、
『どちらも!』、
『無因である!』。
参考
na jarāmaraṇaṃ caiva jātiś ca saha yujyate |
mriyeta jāyamānaś ca syāc cāhetukatobhayoḥ ||5||
It is not suitable for birth and aging/death to be simultaneous;
that which is being born would be dying and both would be without cause.

参考
It is not acceptable for birth
To exist together with aging and death.
That which is being born would be dying
And both would be without a cause.

参考
生が老死と同時にあるということは,正しくない(理に合わない)。〔それならば〕,現に生まれつつあるものが死ぬ,ということになるであろう。また両者(生と老死)は,原因の無いものであることになるであろう。
若生老死一時則不然何以故。生時即有死故。法應生時有死時無。若生時有死。是事不然。 若し生、老、死にして一時なれば、則ち然らず。何を以っての故に、生の時に、則ち死有るが故なり。法は、応に生の時に有りて、死の時には無かるべし。若し生の時に死有らば、是の事は然らず。
若し、
『生、老、死』が、
『一時だとすれば!』、
『間違っている!』。
何故ならば、
『生の時』にも、
『死』が、
『有るからである!』。
『法』は、
『生の時』には、
『有り!』、
『死の時』には、
『無いはずだ!』。
若し、
『生の時』に、
『死』が、
『有れば!』、
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
若一時生則無有相因。如牛角一時出則不相因。 若し、一時なれば、生は則ち相因有ること無く、牛、角の一時に出づれば、則ち相因ならざるが如し。
若し、
『生』と、
『老、死』とが、
『一時ならば!』、
『生』には、
『相因(相互的因果関係)』が、
『無い!』。
譬えば、
『牛』と、
『角』とは、
『一時』に、
『出る!』ので、
『牛』と、
『角』とが、
『相因でない!』のと、
『同じである!』。
是故
 若使初後共  是皆不然者 
 何故而戲論  謂有生老死
是の故に、
若し初後共をして、是れ皆然らざらしむれば、
何の故にか戯論して、生老死有りと謂う。
是の故に、
若し、
『初』と、
『後』と、
『同時』とが、
皆、
『間違いとされたならば!』、
何故、
『戯論して!』、こう謂うのか?――
『生』や、
『老』や、
『死』が、
『有る!』、と。
参考
yatra na prabhavanty ete pūrvāparasahakramāḥ |
prapañcayanti tāṃ jātiṃ taj jarāmaraṇaṃ ca kim ||6||
Why fixate on that birth, that aging/dying,
for which the phases of before, after, simultaneity are impossible?

参考
Why make elaborations about
A birth and an aging and death
Where both sequential and simultaneous orders
Are impossible?

参考
およそ前と後と同時という,これらの次第が成立しないところにおいて,どうして,その生とその老死とを,〔人人は〕戲論(想定された論議)するのか。
思惟生老死三皆有過故。即無生畢竟空。 生老死を思惟するに、三には皆過有るが故に、無生にして畢竟じて空なり。
『生、老、死』とを、
『思惟すれば!』、――
『三事』には、
皆、
『過が有る!』。
故に、
『生』は、
『無く!』、
『畢竟じて!』、
『空である!』。
汝今何故貪著。戲論生老死。謂有決定相。 汝は、今何の故にか、生老死に貪著し、戯論して、『決定の相有り』と謂う。
お前は、
今、
『生、老、死』に、
『貪著し!』、
『戯論して!』、
何故、こう謂うのか?――
『決定した!』、
『相』が、
『有る!』、と。
復次
 諸所有因果  相及可相法 
 受及受者等  所有一切法 
 非但於生死  本際不可得 
 如是一切法  本際皆亦無
復た次ぎに、
諸の有らゆる因果、相及び可相の法、
受及び受者等の、有らゆる一切の法は、
但だ生死の本際のみ、不可得なるに非ず、
是の如き一切の法の、本際も皆亦た無し。
復た次ぎに、
諸の、
有らゆる、
『因と果』、
『相と可相の法』、
『受と受者』等の、
有らゆる、
『一切の法』は、
但だ、
『生死のみ!』、
『本際』が、
『認められないのではない!』。
是のような、
『一切の法』の、
『本際』は、
皆、
『認められない!』。
参考
kāryaṃ ca kāraṇaṃ caiva lakṣyaṃ lakṣaṇam eva ca |
vedanā vedakaś caiva santy arthā ye ca ke cana ||7||
It is not just samsara alone that has no before-extreme,
cause and fruit themselves,
and characteristics and the basis for characteristics themselves,

pūrvā na vidyate koṭiḥ saṃsārasya na kevalam |
sarveṣām api bhāvānāṃ pūrvā koṭī na vidyate ||8||
feeling and the feeler,
whatever is suitable to bear meaning,
also all things have no before-extreme.

参考
It is not only just cyclic existence
That does not have a start point.
Causes and results,
Characteristics and characterized bases,

Feelings and the feeler,
In fact every single thing whatsoever
That has meaning
Also does not have a start point.

参考
ただ輪迴において,前の究極が存在しないだけではなく,結果と原因と,特質づけられるもの(所相)と特質(相)と,感受作用と感受する者と,およそどのようなもの であろうとも,一切の「存在(もの‧こと)」には,前の究極は存在しない。
一切法者。所謂因果相可相。受及受者等。皆無本際。非但生死無本際。以略開示故。說生死無本際 一切の法は、謂わゆる因果、相、可相、受、及び受者等は、皆、本際無し。但だ生死のみ、本際無きに非ず。略して開示するを以っての故に、『生死には、本際無し』と説けり。
『一切の法』は、
謂わゆる、
『因と果』、
『相と可相』、
『受と受者』等は、
皆、
『本際』が、
『無い!』。
但だ、
『生死のみ!』、
『本際』が、
『無いのではない!』が、
『略して!』、
『開示しよう!』と、
『思う!』が故に、こう説くのである、――
『生死』には、
『本際』が、
『無い!』、と。



中論觀苦品第十二(十偈)

有人說曰
 自作及他作  共作無因作 
 如是說諸苦  於果則不然
有る人の曰く、
自ら作し及び他作し、共に作し無因にして作すと、
是の如く諸苦を説くも、果に於いては則ち然らず。
有る人は、こう言う、――
『自ら!』、
『作す!』か、
『他が!』、
『作す!』か、
『自他』、
『共に!』、
『作す!』か、
『無因』で、
『作す!』かであると、
是のように、
諸の、
『苦』は、
『説かれている!』が、
若し、
『苦』が、
『果である!』と、
『説けば!』、
則ち、
『正しくないことになる!』。
参考
svayaṃ kṛtaṃ parakṛtaṃ dvābhyāṃ kṛtam ahetukam |
duḥkham ity eka icchanti tac ca kāryaṃ na yujyate ||1||
Some assert that anguish arises from being made by self,
made by other, by both, without cause.
To do that is not suitable.

参考
Some accept that suffering is made by self,
Some accept made by something different, some both
And some accept that it arises without a cause.
They are unacceptable.

参考
苦は,自身によってつくられたもの(自作),他によってつくられたもの(他作),両者によってつくられたもの(共作),無因のもの(無因作)である,と或る人々は主張する。しかるに,それ(苦)が結果であるというのは,正しくない。
有人言。苦惱自作。或言他作。或言亦自作亦他作。或言無因作。於果皆不然。 有る人の言わく、『苦悩は自ら作す』、と。或いは言わく、『他作す』、と。或いは言わく、『亦た自ら作し、亦た他作す』、と。或いは言わく、『無因にして作す』、と。果に於いては皆然らず。
有る人は、こう言う、――
『苦悩』は、
『自ら!』が、
『作るのだ!』、と。
或いは、こう言う、――
『他(天神等)』が、
『作るのだ!』、と。
或いは、こう言う、――
『自ら!』も、
『作り!』、
『他!』も、
『作るのだ!』、と。
或いは、こう言う、――
『苦悩』を、
『作る!』のは、
『無因(自然)である!』、と。
是れ等は、
諸の、
『苦』が、
『果である!』と、
『説かれている!』が故に、
皆、
『間違っている!』。
於果皆不然者。眾生以眾緣致苦。厭苦欲求滅。不知苦惱實因緣有四種謬。是故說於果皆不然 果に於いて皆然らずとは、衆生は、衆縁を以って、苦を致し、苦を厭うて、滅を求めんと欲するも、苦悩の実の因縁を知らずして、四種の謬有り。是の故に説かく、『果に於いて、皆然らず』、と。
『果』と、
『説けば!』、
皆、
『間違っている!』とは、――
『衆生』は、
『衆縁(多くの縁)』を、
『用いて!』、
『苦』を、
『招いていながら!』、
『苦』を、
『厭うて!』、
『苦の滅』を、
『求めようとしており!』、
『苦悩』の、
『実の!』、
『因縁』を、
『知らない!』が故に、
『四種』の、
『謬(あやまち)』が、
『有る!』。
是の故に、
こう説く、――
『果である!』とは、
皆、
『間違っている!』、と。
何以故
 苦若自作者  則不從緣生 
 因有此陰故  而有彼陰生
何を以っての故に、
苦を若し自ら作せば、則ち縁より生ぜず、
此の陰有るに因るが故に、彼の陰生ずる有り。
何故ならば、
『苦』を、
若し、
『自ら!』、
『作れば!』、
則ち、
『縁より!』、
『生じることはない!』
何故ならば、
此の、
『陰(五陰)』の、
『有る!』に、
『因る!』が故に、
彼の、
『陰』が、
『有るからだ!』。
参考
svayaṃ kṛtaṃ yadi bhavet pratītya na tato bhavet |
skandhān imān amī skandhāḥ saṃbhavanti pratītya hi ||2||
If it were made by self,
therefore it would not be contingently arising,
because those aggregates arise contingently on these aggregates.

参考
If it were made by itself
It would not arise dependently.
Yet those aggregates
Arise in dependence upon these aggregates.

参考
もしも〔苦が〕自身によってつくられるのであるならば,それゆえ,〔苦は〕縁って有るのではなないことになるであろう。なぜならば,これら諸構成要素(五蘊)に縁って,それら〔次代の〕諸構成要素が生ずるからである。
若苦自作。則不從眾緣生。自名從自性生。是事不然。 若し、苦を自ら作せば、則ち衆縁より生ぜず。自らを自性より生ずと名づくれば、是の事然らず。
若し、
『苦』を、
『自ら!』、
『作れば!』、
則ち、
『衆縁』より、
『生じないことになる!』。
『自ら!』とは、――
『自性!』より、
『生じる!』と、
『呼び!』、
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
何以故。因前五陰有後五陰生。是故苦不得自作。 何を以っての故に、前の五陰因り、後の五陰の生有り、是の故に、苦は、自ら作すを得ず。
何故ならば、
『前』の、
『五陰』に、
『因って!』、
『後』の、
『五陰の生』が、
『有り!』、
是の故に、
『苦』は、
『自ら!』を、
『作れないからである!』。。
問曰。若言此五陰作彼五陰者。則是他作。 問うて曰く、若し、『此の五陰、彼の五陰を作す』と言わば、則ち是れ他の作すなり。
問い、
若し、
こう言えば、――
『此()の!』、
『五陰』が、
『彼()の!』、
『五陰』を、
『作る!』、と。
則ち、
是れは、
『他が!』、
『作ることになる!』。
答曰。是事不然。 答えて曰く、是の事は然らず。
答え、
是の、
『事』は、
『正しくない!』。
何以故
 若謂此五陰  異彼五陰者 
 如是則應言  從他而作苦
何を以っての故に、
若し此の五陰、彼の五陰に異なりと謂わば、
是の如きは則ち、応に他によって、苦を作すと言うべし。
何故ならば、
若し、
こう謂えば、――
此の、
『五陰』は、
彼の、
『五陰』と、
『異なる!』、と。
是れならば、
こう言わねばならない、――
『他によって!』、
『苦』は、
『作られる!』、と。
参考
yady amībhya ime ’nye syur ebhyo vāmī pare yadi |
bhavet parakṛtaṃ duḥkhaṃ parair ebhir amī kṛtāḥ ||3||
If that were other than this and if this were other than that,
anguish would be made by other
and that would be made by those others.

参考
If those were different from these
And these were different from those
Then suffering would be made by something different
And they would be made by those that are different.

参考
もしもこれら〔諸構成要素〕がそれら〔次代の諸構成要素〕とは異なっているならば, あるいは,もしもそれらがこれらとは他のものであるならば,苦は,他のものによってつくられることになるであろう。〔また〕それら(諸構成要素)は,他のものであるこれら (諸構成要素)によってつくられることになるであろう。
若此五陰與彼五陰異。彼五陰與此五陰異者。應從他作。 若し此の五陰と、彼の五陰と異なり、彼の五陰と、此の五陰と異なれば、応に他によって作すべし。
若し、
此の、
『五陰』が、
彼の、
『五陰』と、
『異なり!』、
彼の、
『五陰』が、
此の、
『五陰』と、
『異なれば!』、
諸の、
『苦(五陰≒苦)』は、
『他によって!』、
『作られるはずだ!』。
如縷與布異者。應離縷有布。若離縷無布者。則布不異縷。如是彼五陰異此五陰者。則應離此五陰有彼五陰。 縷と布と異なれば、応に縷を離れて布有るべく、若し縷を離れて、布無ければ、則ち布は縷と異ならざるが如し。是の如く彼の五陰、此の五陰に異なれば、則ち応に此の五陰を離れて、彼の五陰有るべし。
譬えば、
『縷』が、
『布』と、
『異なれば!』、
『布』は、
『縷』を、
『離れて!』、
『有るはずであり!』、
若し、
『縷』を、
『離れて!』、
『布』が、
『無ければ!』、
『布』は、
『縷』と、
『異ならないはずだ!』が、
是のように、
彼の、
『五陰』が、
此の、
『五陰』と、
『異なれば!』、
彼の、
『五陰』は、
此の、
『五陰』を、
『離れて!』、
『有るはずである!』。
若離此五陰無彼五陰者。則此五陰不異彼五陰。是故不應言苦從他作。 若し、此の五陰を離れて、彼の五陰無ければ、則ち此の五陰は、彼の五陰に異ならず。是の故に、応に『苦は、他によって作る』、と言うべからず。
若し、
此の、
『五陰』を、
『離れて!』、
彼の、
『五陰』が、
『無ければ!』、
則ち、
此の、
『五陰』は、
彼の、
『五陰』と、
『異ならないことになる!』。
是の故に、
こう言うべきでない、――
『苦』は、
『他によって!』、
『作られる!』、と。
問曰自作者。是人人自作苦。自受苦。 問うて曰く、自ら作すとは、是れ人なり。人は、自ら苦を作して、自ら苦を受く。
問い、
『自ら!』、
『作る!』とは、――
是れは、
『人である!』、
『人』は、
『自ら!』、
『苦』を、
『作り!』、
『自ら!』、
『苦』を、
『受ける!』。
答曰
 若人自作苦  離苦何有人 
 而謂於彼人  而能自作苦
答えて曰く、
若し人、自ら苦を作さば、苦を離れて何んが人有りて、
而も彼の人に於いて、能く自ら苦を作すと謂わん。
答え、
若し、
『人』が、
『自ら!』、
『苦(苦≒五陰)』を、
『作れば!』、
『苦』を、 
『離れて!』、
何のような、
『人』が、
『有り!』、
而も、
彼の、
『人』を、
こう謂うのか?――
彼の、
『人』が、
『自らの苦』を、
『作ったのだ!』、と。
参考
svapudgalakṛtaṃ duḥkhaṃ yadi duḥkhaṃ punar vinā |
svapudgalaḥ sa katamo yena duḥkhaṃ svayaṃ kṛtam ||4||
If anguish were made by one’s own person,
who would that person be who has made anguish by himself,
but is not included in the anguish?

参考
If suffering were made by the person themselves
Then who is that person
Who made the suffering themselves
And yet was excluded from that suffering?

参考
もしも苦が自らの個人存在(自身,プドガラ)によってつくられるのであるならば,およそ,苦を自らつくっているような,そのようなその自らの個人存在は,苦が無い場合,一体,何ものであろうか。
若謂人自作苦者。離五陰苦。何處別有人。而能自作苦。應說是人。而不可說。是故苦非人自作。 若し、『人、自ら苦を作す』と謂わば、五陰を離れた苦なり。何処にか、別に人有りて、而も能く自ら苦を作さん。応に是の人を説くべくして、而も説くべからず。是の故に、苦は、人の自ら作すに非ず。
若し、
こう謂うならば、――
『人』は、
『自ら!』、
『苦』を、
『作る!』、と。
是れは、
『五陰』を、
『離れた!』、
『苦である!』、
何処かに、
『人』が、
『別に!』、
『有って!』、
『自らの!』、
『苦』を、
『作ることができるのか?』。
『苦』とは、
是れは、
『人である!』と、
『説かねばならぬ!』のに、
『説けなければ!』、
是の故に、
『苦』は、――
『人』が、
『自ら!』、
『作るのではない!』。
若謂人不自作苦。他人作苦與此人。者是亦不然。 若し、『人は、自ら苦を作さず、他人、苦を作して、此の人に与う』と謂わば、是れも亦た然らず。
若し、
こう謂うならば、――
『人』は、
『自ら!』、
『苦』を、
『作ることはない!』、
『他!』の、
『人』が、
『苦』を、
『作って!』、
此の、
『人』に、
『与えるのだ!』、と。
是れも、
亦た、
『間違っている!』。
何以故
 若苦他人作  而與此人者 
 若當離於苦  何有此人受
何を以っての故に、
若し苦を他人作して、此の人に与うれば、
若し当に苦を離るるに、何ぞ有るいは此の人受くべき。
何故ならば、
若し、
『苦』を、
『他の!』、
『人』が、
『作って!』、
此の、
『人』に、
『与えるとすれば!』、
若しは、
『苦』を、
『離れているのに!』、
何故、
『離れた!』、
『苦』を、
『受けるような!』、
此の、
『人』が、
『有ることになるのか?』。
参考
parapudgalajaṃ duḥkhaṃ yadi yasmai pradīyate |
pareṇa kṛtvā tad duḥkhaṃ sa duḥkhena vinā kutaḥ ||5||
If anguish arose from another person,
how could it be suitable for there to be [someone] not included in the anguish,
who has been given it by another who made the anguish?

参考
If suffering were to arise from a different person
How could it be acceptable for the one who is to be given
The suffering made by someone else
To be excluded from that suffering?

参考
もしも苦が他の個人存在(プドガラ)から生ずるのであるならば,およそ,他によってつくられたのち,その苦があたえられるという,そのような〔個人存在(プドガラ)〕は,苦が無い場合,どうして,〔有るであろう〕か。
若他人作苦。與此人者。離五陰無有此人受。 若し他人苦を作して、此の人に与うれば、五陰を離れて、此の人の受くる有ること無し。
若し、
他の、
『人』が、
『苦』を、
『作って!』、
此の、
『人』に、
『与えれば!』、
『五陰』を、
『離れて!』、
『苦』を、
『受けるような!』、
此の、
『人』は、
『無い!』。
復次
 苦若彼人作  持與此人者 
 離苦何有人  而能授於此
復た次ぎに、
苦を若し彼の人作り、持して此の人に与うれば、
苦を離れて何んが人有り、而も能く此れに授けん。
復た次ぎに、
『苦』を、
若し、
彼の、
『人』が、
『作り!』、
此の、
『人』に、
『持って!』、
『与えれば!』、
『苦』を、
『離れて!』、
何のような、
『人』が、
『有り!』、
而も、
此の、
『人』に、
『授けられるのか?』。
参考
parapudgalajaṃ duḥkhaṃ yadi kaḥ parapudgalaḥ |
vinā duḥkhena yaḥ kṛtvā parasmai prahiṇoti tat ||6||
If anguish arose [from] another person,
who would that other person be who,
having made it, gives it to someone else,
but is not included in the anguish?

参考
If suffering were to arise from a different person
Then who is that different person who made it
And bestowed it upon someone else
And yet was excluded from that suffering?

参考
もしも苦が他の個人存在(プドガラ)から生ずるのであるならば,およそ,つくられてのち,それ(苦)を他にあたえるという,そのような他の個人存在(プドガラ)は,苦が無い場合,一体,何ものであろうか。
若謂彼人作苦授與此人者。離五陰苦。何有彼人作苦持與此人。若有者應說其相。 若し、彼の人が苦を作りて、此の人に授与すと謂わば、五陰を離れたる苦なり。何んが彼の人、苦を作りて、此の人に持して与うること有らん。若し有らば、応に其の相を説くべし。
若し、
こう謂うならば、――
彼の、
『人』が、
『苦』を、
『作って!』、
此の、
『人』に、
『授与する!』、と。
是の、
『苦』は、
『五陰』を、
『離れている!』。
何故、
これが有るのか?――
彼の、
『人』が、
『苦』を、
『作って!』、
此の、
『人』に、
『授与する!』ことが、
若し、
それが有れば、――
其の、
『人』の、
『相』を、
『説くべきだ!』。
復次
 自作若不成  云何彼作苦 
 若彼人作苦  即亦名自作
復た次ぎに、
自ら作して若し成ぜずんば、云何が彼は苦を作さん、
若し彼の人苦を作せば、即ち亦た自ら作すと名づく。
復た次ぎに、
若し、
『苦』を、
『自ら!』、
『作る!』ことが、
『成立しなければ!』、
何故、
『彼れ!』が、
『苦』を、
『作るのか?』。
若し、
彼の、
『人』が、
『苦』を、
『作れば!』、
即ち、こう呼ばれるだろう、――
『自ら!』、
『苦』を、
『作った!』、と。
参考
svayaṃ kṛtasyāprasiddher duḥkhaṃ parakṛtaṃ kutaḥ |
paro hi duḥkhaṃ yat kuryāt tat tasya syāt svayaṃ kṛtam ||7||
Since it is not established as made by self,
how can anguish have been made by other?
[For] whatever anguish is made by other,
that has been made by his self.

参考
Since made by themselves has not been established
How could suffering be made by someone else?
The suffering that is made by someone else
Would be that made by themselves.

参考
﹝苦が﹞自身によってつくられるということは成立しないがゆえに,苦は,どうして, 他によってつくられるものとしてあろうか。なぜならば,他がつくるであろうというその苦は,その人にとっては,自身によってつくられるものであろうから。
種種因緣彼自作苦不成而言他作苦。是亦不然。 種種の因縁に、彼れの自ら苦を作すこと成ぜざれば、而も、『他、苦を作る』と言えば、是れも亦た然らず。
種種の、
『因縁』で、――
彼れが、
『自ら!』、
『作った!』、
『苦』が、
『成立しなかった!』ので、
『他が!』、
『苦』を、
『作る!』と、
『言ってみた!』が、
是れも、
亦た、
『正しくない!』。
何以故。此彼相待故。若彼作苦於彼亦名自作苦。自作苦先已破。 何を以っての故に、此れと彼れと相待するが故なり。若し彼れ、苦を作せば、彼れに於いては、亦た自ら苦を作すと名づく。自ら苦を作すこと、先に已に破れたり。
何故ならば、
『此れ!』と、
『彼れ!』とは、
『相待するからである!』。
若し、
『彼れ!』が、
『苦』を、
『作ったとしても!』、
『彼れ!』に於いては、
『自ら!』が、
『苦』を、
『作ったことになる!』。
『自ら!』、
『苦』を、
『作れば!』、
先に、
已に、
『破られている!』。
汝受自作苦不成故。他作亦不成。 汝は、自ら苦を作ることの成ぜざるを受くるが故に、他の作ることも、亦た成ぜず。
お前が、こう認めれば、――
『自ら!』、
『作る!』、
『苦』は、
『成立しない!』、と。
故に、
『他の!』、
『作る!』、
『苦』も、
『成立しない!』。
復次
 苦不名自作  法不自作法 
 彼無有自體  何有彼作苦
復た次ぎに、
苦は自ら作すと名づけず、法は自ら法を作さず、
彼れに自体有る無くんば、何ぞ彼れの作せる苦有らん。
復た次ぎに、
『苦』は、
『自らを!』、
『作るものでなく!』、
『法』は、
『自ら!』の、
『法』を、
『作らない!』。
『彼れ!』には、
『自ら!』の、
『体(実体)すら!』、
『無い!』のに、
何故、
『彼れの!』、
『作った!』、
『苦』が、
『有るのか?』。
参考
na tāvat svakṛtaṃ duḥkhaṃ na hi tenaiva tat kṛtam |
paro nātmakṛtaś cet syād duḥkhaṃ parakṛtaṃ katham ||8||
Anguish is not made [by] self;
that is not made by that itself.
If it is not made by an other self,
how can anguish be made by other?

参考
For example, suffering is not made by itself
Since it itself did not make it.
And if something different could not make it by itself
How could suffering be made by something different?

参考
まず第一に,苦は自身からつくられるものではない。なぜならば,それがそのものによってつくられるということは,ないからである。もしも他者が自身からつくられたもの でないならば,どうして,他者によってつくられた苦が存在するであろうか。
自作苦不然。何以故。如刀不能自割。如是法不能自作法。 自ら苦を作せば、然らず。何を以っての故に、刀の自ら割く能わざるが如く、是の如く、法は、自ら法を作す能わざればなり。
『自ら!』、
『苦』を、
『作るとすれば!』、
『正しくない!』。
何故ならば、
譬えば、
『刀』が、
『自ら!』を、
『割ることができないように!』、
是のように、
『法』は、
『自ら!』の、
『法』を、
『作ることができない!』。
是故不能自作。他作亦不然。何以故。離苦無彼自性。 是の故に自ら作す能わず。他の作すも亦た然らず。何を以っての故に、苦を離れて、彼れに自性無ければなり。
是の故に、
『自ら!』が、
『苦』を、
『作ることはできない!』が、
『他が!』、
『苦』を、
『作る!』のも、
亦た、
『正しくない!』。
何故ならば、
『彼れ!』は、
『苦』を、
『離れれば!』、
『彼れの!』、
『自性』は、
『無いからである!』。
若離苦有彼自性者。應言彼作苦。彼亦即是苦。云何苦自作苦。 若し、苦を離れて、彼れの自性有らば、応に、彼れ苦を作ると言うべし。彼れも、亦た即ち是れ苦なり。云何が、苦が、自ら苦を作さん。
若し、
『苦』を、
『離れても!』、
『彼れ!』の、
『自性』が、
『有れば!』、
こう言うはずだが、――
『彼れ!』が、
『苦』を、
『作る!』、と。
而し、
『彼れ!』とは、        
即ち、
是れが、
『苦である!』。
『苦』が、
何故、
『自ら!』、
『苦』を、
『作るのか?』。
問曰。若自作他作不然。應有共作。 問うて曰く、若し自ら作し、他作すこと然らざれば、応に共に作すこと有るべし。
問い、
若し、
『苦』を、
『自ら!』、
『作っても!』、
『他が!』、
『作っても!』、
『正しくなければ!』、
当然、
『いっしょに!』、
『作る!』ことが、
『有るはずだ!』。
答曰
 若此彼苦成  應有共作苦 
 此彼尚無作  何況無因作
答えて曰く、
若し此れと彼れとの苦成ぜば、応に共に苦を作す有るべし、
此れと彼れと尚お作す無し、何に況んや無因にして作すをや。
答え、
『此れ!』が、
『作っても!』、
『彼れ!』が、
『作っても!』、
『苦』が、
『成立すれば!』、
『いっしょに!』、
『作った!』、
『苦』が、
『有るはずだ!』が、
『此れ!』にも、
『彼れ!』にも、
『作られた!』、
『苦』は、
『無い!』、
況して、
『無因』の、
『苦』が、
『作られるはずがない!』。
参考
syād ubhābhyāṃ kṛtaṃ duḥkhaṃ syād ekaikakṛtaṃ yadi |
parākārāsvayaṃkāraṃ duḥkham ahetukaṃ kutaḥ ||9||
If it is made by each, anguish would be made by both.
Not made by self, not made by other,
how can anguish have no cause?

参考
If it were made by each individually
Suffering would be made by both.
However it is not made by itself or something different.
And how could suffering occur without a cause?

参考
もしも一人一人によってつくられた〔苦〕が存在するのであるならば,〔自他の〕両者によってつくられた苦が,存在することになるであろう。(一人一人によってつくられる苦はあり得ないから,〔自他の〕両者によってつくられる 苦もあり得ない)。苦が,他者によってつくられたものでもなく,自身によってつくられたものでもないならば,〔それは〕無因のものとなり,〔そのような苦が〕どうして,〔有るであろう〕か。
自作他作猶尚有過。何況無因作。無因多過。如破作作者品中說。 自ら作し、他作すも、猶尚お過有り。何に況んや無因にして作すをや。無因の過多きこと、『破作作者品』中に説けるが如し。
『苦』を、
『自ら!』、
『作る!』ことにも、
『他!』が、
『作る!』このにも、
尚お、
『過』が、
『有る!』。
況して、
『無因』が、
『作れば!』、
『尚更だ!』。
『無因』に、
『過』が、
『多い!』のは、
譬えば、
『破作作者品』中に、
『説いた通りである!』。
復次
 非但說於苦  四種義不成 
 一切外萬物  四義亦不成
復た次ぎに、
但だ苦に於いて、四種の義の成ぜざるを説くに非ず、
一切の外の万物の、四義も亦た成ぜず。
復た次ぎに、
但だ、
『苦』に於いて、
『四種の義』が、
『成立しないだけでなく!』、
一切の、
『外の万物』の、
『四種の義』も、
『成立しない!』。
参考
na kevalaṃ hi duḥkhasya cāturvidhyaṃ na vidyate |
bāhyānām api bhāvānāṃ cāturvidhyaṃ na vidyate ||10||
Not only does anguish alone not have the four aspects,
external things too do not have the four aspects.

参考
It is not only just suffering
That does not have any of the four forms of production.
Every external thing
Also does not have any of the four forms.

参考
ただ苦〔がつくられること〕に関して,四種(自作‧他作‧共作‧無因)﹝の成立﹞が存在しないだけではなく,外界のもろもろの「存在(もの‧こと)」に関してもまた,四種﹝の成立﹞は存在しない。
佛法中雖說五受陰為苦。有外道人。謂苦受為苦。是故說。不但說於苦四種義不成。外萬物。地水山木等。一切法皆亦不成 仏法中には、『五受陰を苦と為す』と説くと雖も、有る外道の人は、『苦受を苦と為す』と謂う。是の故に説かく、『但だ苦に於いて、四種の義成ぜずと説くにあらず。外の万物、地水山木等の一切の法は、皆亦た成ぜず』、と。
『仏法』中には、
こう説いているが、――
『五受陰(有漏の色受想行識)』が、
『苦である!』、と。
有る、
『外道の人』は、こう謂っている、――
『苦受(苦痛の感覚)』が、
『苦である!』、と。
是の故に、
こう説いたのである、――
但だ、
『苦』の、
『四種の義』のみが、
『成立しない!』と、
『説くのではない!』、
『外』の、
『万物である!』、
『地、水、山、木』等の、
『一切の法』は、
皆、
『成立しない!』、と。
  五受陰(ごじゅおん):梵語 paJca- upaadaana- skandha の訳。染著の対象たる五種の集まり( the five aggregates as objects of impure attachment )の義。五受衆とも云い、即ち有漏の五衆(色受想行識)を指す。即ち煩悩より生じ、或いは煩悩を生ずる有漏の五陰の意である。又五取蘊と名づけ、取より生じ、或いは取を生ずる五種の蘊を云う。
  苦受(くじゅ):梵語 duHkha- vedanaa の訳。苦痛の感覚( painful feeling )苦痛を経験すること( to experience suffering )の義。
  参考:『大智度論巻23』:『問曰。若無常即是苦者。道亦是苦。云何以苦離苦。答曰。無常即是苦。為五受眾故說。道雖作法故無常不名為苦。所以者何。是能滅苦不生諸著。與空無我等諸智和合故。但是無常而非苦。如諸阿羅漢得道時說偈言 我等不貪生  亦復不樂死  一心及智慧  待時至而去  佛取涅槃時。阿難等諸未離欲人。未善修八聖道故皆涕泣憂愁。諸離欲阿那含皆驚愕。諸漏盡阿羅漢其心不變。但言世間眼滅。疾以得道力故。雖從佛得大利益。知重佛無量功德而不生苦。以是故知道雖無常。非苦因緣故不名為苦。但五受眾是苦。何以故。愛著故無常。敗壞故如受念處中。苦義此中應廣說。‥‥問曰。是五受眾為一切皆苦。為苦想觀故苦。若一切皆苦。佛云何說有三種受苦受樂受不苦不樂受。若以苦想故苦。云何說苦諦為實苦。答曰。五受眾一切皆苦。凡夫人四顛倒因緣。為欲所逼以五欲為樂。如人塗瘡大痛息故以為樂瘡非樂也。佛說三種受為世間故。於實法中非是樂也若五受眾中實有樂。何以故佛說滅五受眾名為樂。』



中論觀行品第十三(九偈)

問曰
 如佛經所說  虛誑妄取相 
 諸行妄取故  是名為虛誑
問うて曰く、
仏の経の所説の如く、虚誑は妄取の相なり、
諸行は妄取なるが故に、是れを名づけて虚誑と為す。
問い、
『仏』の、
『経』には、こう説かれている、――
『虚誑』とは、
『妄取』の、
『相である!』、と。
『諸行( thinking≒有為法 )』は、
『妄取する!』が故に、
『虚誑』と、
『呼ばれる!』。
  虚誑(ここう):虚偽( deceit, falseness )、欺瞞( deception )、虚言癖( mendacity )、梵語 visaMvaadana, lapanaa の訳、自らの言葉や約束を破ること( the breaking one's word or promise )の義。
  妄取(もうしゅ):くっついて離れない/執著( clinging )、盗む( to steal )、梵語 moSa の訳、強盗、盗賊( a robber, theif, plunderer )、盗む、強奪する( stealing, plundering )等の義。◯梵語 moSa- dharma, moSa, parigRhNaati...abhUtam, manyanaa, sopaadaana 等の訳、虚偽/空虚なる法則( a false, empty principle )、思考;間違った感覚による識別( discrimination in a negative sense )等の義。◯梵語 sopaadaana の訳、材料を供給された [大工が木材で家を造るように]( furnished with materials (as a carpenter who builds a house with wood) )の義。執著に依って存在する/惑わされて執著する( To exist by clinging; deluded clinging )の意。
  諸行(しょぎょう):有為法( conditioned phenomena [条件付きの現象] )、◯梵語 saMskaara, saMskaaraaH, sarva- saMskaara, samanta- caaritra, saMskRta, sarve saMskaaraaH, abhisaMskaara, bhuuta )等の訳、有らゆる事物は変化と消滅とに従属する( All things that are subject to change and disappearance )/一つの独立した事物、或いは有らゆる存在( One individual thing, or all of existence )の意。◯梵語 saMskaara, saMskaaraaH の訳、澡浴する( cleansing the body )、神聖化する( making sacred, hallowing, consecration )の義、精神的形態、或いは心の産物[例えば客体は、真実であるが如く看做されるが、実際には非実在であるようなこと。十二因縁の一、五陰の一] ( a mental conformation or creation of the mind (such as that of the external world, regarded by it as real, though actually non-existent, and forming the second link in the twelvefold chain of causation or the fourth of the 5 )を指す。又行為、行動、健康的実践( Deeds, actions. Wholesome practices )の意。◯梵語 saMskaaraas, saMskaaraaH の訳、 (plural, with Buddhists) )神聖視すること( making sacred, hallowing, consecration )の義、 精神の形態/心の産物、例えば外界のように、実際には存在しないが、実在であると看做され、そして十二因縁の第二支、五蘊中の第四蘊を構成する( a mental conformation or creation of the mind (such as that of the external world, regarded by it as real, though actually non-existent, and forming the second link in the twelvefold chain of causation or the fourth of the 5 skandhas - ) )の意。◯梵語 saMskaara の本義は、組み立てること/上手に形成すること/完璧に作り上げること/完成させること/潤色すること/飾ること/精製すること/浄化すること/準備を整える/準備万端/食物のドレッシング/金属の精錬/宝石の研磨/動植物の飼育( putting together, forming well, making perfect, accomplishment, embellishment, adornment, purification, cleansing, making ready, preparation, dressing (of food), refining (of metals), polishing (of gems), rearing (of animals or plants) )、身体を洗うこと/化粧すること/盛装すること( cleansing the body, toilet, attire )、知性を形成すること/訓練すること/教育すること( forming the mind, training, education )、正しい形成/言葉を使用する力( correct formation or use of a word )、記憶する能力/心に感じること、或は想いだすこと/心に受ける前世の業に関する痕跡( the faculty of memory, mental impression or recollection, impression on the mind of acts done in a former state of existence )、神聖な/罪を浄める儀式( a sacred or sanctifying ceremony )、死者に施される儀式( the ceremony performed on a dead body )、有らゆる浄めの儀式( any purificatory ceremony )等である。
参考
tan mṛṣā moṣadharma yad bhagavān ity abhāṣata |
sarve ca moṣadharmāṇaḥ saṃskārās tena te mṛṣā ||1||
The Bhagavan said that whatever dharma is deceptive,
that is false. All conditions [are] deceptive dharmas,
thus they are false.

参考
The Bhagavan stated that
‘Any phenomenon that is deceptive, it is false.’
Every compositional factor is a phenomenon that is deceptive.
Thus they are falsities.

参考
「およそいつわりの性質あるもの(妄取法)は虛妄である」と,世尊は語られた。そして,すべての形成作用(形成されたもの,現象)(一切諸行)は,いつわりの性質あるものである。それゆえ,それら(一切諸行)は虛妄である。
佛經中說。虛誑者。即是妄取相。第一實者。所謂涅槃非妄取相。 仏の経中に説かく、『虚誑とは、即ち是れ妄取の相なり。第一の実とは、謂わゆる涅槃にして、妄取の相に非ず』、と。
『仏』は、
『経』中に、こう説かれている、――
『虚誑(嘘つき!)』とは、
是れは、
『妄取(盗み!)』の、
『相である!』、
『第一』の、
『実(嘘でない!)』は、
謂わゆる、
『涅槃であり!』、
是れは、
『妄取』の、
『相ではない!』、と。
以是經說故。當知有諸行虛誑妄取相。 是の経に説けるを以っての故に、当に知るべし、諸行有れば、虚誑にして、妄取の相なりと。
是の、
『経』の、
『説』の故に、
こう知るべきだ、――
『諸行(有為法)』が、
『有れば!』、
『虚誑()であり!』、
是れは、
『妄取(盗み!)』の、
『相である!』、と。
答曰
 虛誑妄取者  是中何所取 
 佛說如是事  欲以示空義
答えて曰く、
虚誑妄取なれば、是の中に何か取る所なる
仏は是の如き事を説いて、以って空義を示さんと欲す
答え、
『虚誑の妄取』ならば、
是の中に、
何が、
『取られた(盗まれた)のか?』。
『仏』が、
是の、
『事』を、
『説かれた!』のは、
それで、
『空の義』を、
『示そうとされたのだ!』。
参考
tan mṛṣā moṣadharma yad yadi kiṃ tatra muṣyate |
etat tūktaṃ bhagavatā śūnyatāparidīpakam ||2||
If whatever is a deceptive phenomenon is false,
what is deceptive about it [in what way is it deceptive]?
That statement by the Bhagavan is a complete presentation of emptiness.

参考
If anything that is a deceptive phenomenon is a falsity
Then what is deceptive?
That statement by the Bhagavan
Is a complete teaching on emptiness.

参考
もしも「およそいつわりの性質あるものは虛妄である」というならば,そこでは,何がいつわられているのか。ところで,このことは世尊によって說かれており,〔これは〕 空であること(空性)を明らかにするものである。
若妄取相法即是虛誑者。是諸行中為何所取。佛如是說。當知說空義。 若し妄取の相なれば、法は、即ち是れ虚妄なりとは、是の諸行中に何か取らるる。仏の是の如く説きたまえるは、当に知るべし、空の義を説きたまえるを。
若し、
『妄取(盗み!)』の、
『相である!』ような、
『法』は、
『虚誑(嘘つき)だ!』とすれば、
是の、
『諸行』中の、
何が、
『取られた(盗まれた)のか?』と、
『仏』は、
是のように、
『説かれた!』が、
こう知るべきだ、――
『説かれた!』のは、
『空の義だ!』と。
問曰。云何知一切諸行皆是空。 問うて曰く、云何が、一切の諸行は、皆是れ空なるを知る。
問い、
何故、
こう知れるのか?――
一切の、
『諸行(有為法)』は、
皆、
『空である!』、と。
答曰。一切諸行虛妄相故空。諸行生滅不住。無自性故空。 答えて曰く、一切の諸行は、虚妄の相なるが故に空なり。諸行は生滅して住まらず、自性無きが故に空なり。
答え、
一切の、
『諸行』は、
『虚妄』という、
『相である!』が故に、
『空であり!』、
『諸行』は、
『生じたり!』、
『滅したりして!』、
『住まらず!』、
『自性』が、
『無い!』が故に、
『空である!』。
  虚妄(こもう):偽りの/間違った( false )、嘘、真実でない、本当でない( a lie, not true, not real )、梵語 abhuuta, の訳、何も存在していなかった、又は起らなかった( whatever has not been or happened )の義。◯梵語 mRSaa の訳、徒らに/無駄に( in vain, uselessly, to no purpose )、邪悪に/不誠実に/そらぞらしく/嘘をついて( wrongly, falsely, feignedly, lyingly )等の義。◯梵語 mRSaa- vaac の訳、偽りの演説/皮肉/あてこすり( untrue speech, sarcasm, irony )の義。
諸行名五陰。從行生故。五陰名行。是五陰皆虛妄無有定相。 諸行を五陰と名づけ、行より生ずるが故に、五陰を行と名づく。是の五陰は、皆虚妄にして、定相有ること無し。
『諸行』を、
『五陰』と、
『称する!』が、
『五陰』は、
『行( thinking )』より、
『生じる!』が故に、
『五陰』を、
『行』と、
『称する!』。
是の、
『五陰』は、
皆、
『虚妄であり!』、
定まった、
『相』が、
『存在しない!』。
何以故。如嬰兒時色非匍匐時色。匍匐時色非行時色。行時色非童子時色。童子時色非壯年時色。壯年時色非老年時色。如色念念不住故。分別決定性不可得。 何を以っての故に、嬰児の時の色は、匍匐の時の色に非ず、匍匐の時の色は、行時の色に非ず、行時の色は、童子の時の色に非ず、童子の時の色は、壮年の時の色に非ず、壮年の時の色は、老年の時の色に非ざるが如く、色の如きは、念念に住せざるが故に、決定の性を分別して得べからず。
何故ならば、          ――五陰中の色を破る――
例えば、
『嬰児の時』の、
『色』は、
『匍匐の時』の、
『色でなく!』、
『匍匐の時』の、
『色』は、
『行時の時』の、
『色でなく!』、
『行時の時』の、
『色』は、
『童子の時』の、
『色でなく!』、
『童子の時』の、
『色』は、
『壮年の時』の、
『色でなく!』、
『壮年の時』の、
『色』は、
『老年の時』の、
『色でない!』ように、
例えば、
『色』などは、
『念念にも(一瞬も)!』、
『住まらない!』が故に、
『性』を、
『分別して!』、
『決定しようとしても!』、
『決定できない!』。
  匍匐(ほふく):はい歩くこと( crawl )。膝行。腹を地に着けて前進すること。
  行時(ぎょうじ):梵語 gamana- smaya の訳、旅行の時( time of traveling )、幼児の最初に歩く時( time that an infant first walks )の義。
  念念(ねんねん):有らゆる思考の瞬間( every thought- moment )、一瞬毎に( every moment )、梵語 kSaNa, pratikSaNam, pratikSaNa, citta- kSaNa 等の訳、継続した思考の各瞬間( successive thought- moments )の意。◯時間の単位としても看做され、30迦羅( kaala )、又は4分に等しい、又は(天文では)48分に至り、又は4÷5 又は 24÷35秒である(a moment regarded as a measure of time (equal to thirty kalās or four minutes. ; or (in astron.) to 48 minutes ; or 4÷5 or 24÷35 seconds ))。
嬰兒色為即是匍匐色乃至老年色為異。二俱有過。 嬰児の色は、即ち是れ匍匐の色、乃至老年の色なりと為すも、異と為すも、二は倶に過有り。
『嬰児の色』は、
『匍匐の色、乃至老年の色だ!』としても、
『異なる!』としても、
『二』は、
『どちらも!』、
『間違っている!』。
何以故。若嬰兒色即是匍匐色。乃至老年色者。如是則是一色皆為嬰兒。無有匍匐乃至老年。 何を以っての故に、若し嬰児の色、即ち是れ匍匐の色、乃至老年の色ならば、是の如きは、則ち是れ一色の、皆嬰児為りて、匍匐、乃至老年有ること無ければなり。
何故ならば、
若し、
『嬰児の色』が、
『匍匐の色』、
『乃至老年の色ならば!』、
是のようであれば、
則ち、
是の、
『一色』は、
皆、
『嬰児であって!』、
『匍匐、乃至老年』は、
何処にも、
『無いことになる!』。
又如泥團常是泥團終不作瓶。何以故。色常定故。 又泥団の如きは、常に是れ泥団にして、終に瓶と作らざらん。何を以っての故に、色は常に定まれるが故なり。
又、
例えば、
『泥の団()』は、
常に、
『泥の団であり!』、
絶対に、
『瓶』とは、
『作らない!』。
何故ならば、
『色』が、
『常に!』、
『定まっているからである!』。
若嬰兒色異匍匐色者。則嬰兒不作匍匐。匍匐不作嬰兒。何以故。二色異故。 若し嬰児の色は、匍匐の色と異ならば、則ち嬰児は、匍匐と作らず、匍匐は、嬰児と作らざらん。何を以っての故に、二色異なるが故なり。
若し、
『嬰児の色』が、
『匍匐の色』と、
『異なれば!』、
則ち、
『嬰児』は、
『匍匐』に、
『作らず!』、
『匍匐』は、
『嬰児』に、
『作らないだろう!』。
何故ならば、
『二』の、
『色』は、
『異なるからである!』。
如是童子少年壯年老年色不應相續。有失親屬法無父無子。若爾者。唯有嬰兒應得父。餘則匍匐乃至老年不應有分。是故二俱有過。 是の如き童子、少年、壮年、老年の色は、応に相続すべからずして、有るいは親属の法を失いて、父無く、子無けん。若し爾らば、唯だ嬰児の、応に父を得べき有りて、余は則ち匍匐、乃至老年には、応に分有るべからず。是の故に二は倶に過有り。
是のような、
『童子』、
『少年』、
『壮年』、
『老年』の、
『色』は、
『相続するはずがない!』ので、
有るいは、
『親属』という、
『法』を、
『失って!』、
『父』も、
『子』も、
『無いであろう!』。
若し、
そうだとすれば、
唯だ、
『嬰児』と、
『父たるべき!』者とが、
『有るのみ!』で、
他の、
『匍匐、乃至老年』の、
『分』は、
『有るはずがない!』。
是の故に、
『二』は、
『どちらも!』、
『間違いである!』。
  応得(おうとく):猶お応当/応該のごとし。すべきである( ought to, should, must )。情理上の必須/必然たること此の如し。
問曰。色雖不定。嬰兒色滅已。相續更生乃至老年色。無有如上過。 問うて曰く、色は、定まらずと雖も、嬰児の色滅し已るに、相続して更に、乃至老年の色を生ずれば、上の如き過有ること無し。
問い、
『色』が、
『定まらなくても!』、
『嬰児の色』が、
『滅してから!』、
『相続して!』、
更に、
『乃至老年の色』を、
『生じれば!』、
上のような、
『過』は、
『存在しない!』。
答曰。嬰兒色相續生者。為滅已相續生。為不滅相續生。 答えて曰く、嬰児の色に相続して生ぜば、滅し已りて相続して生ずと為すや、滅せずして相続して生ずと為すや。
答え、
『嬰児の色』に、
『相続して!』、
『生じれば!』、
『嬰児の色』が、
『滅してから!』、
『相続して!』、
『生じるのか?』、
『滅しないうちに!』、
『相続して!』、
『生じるのか?』。
若嬰兒色滅。云何有相續。以無因故。如雖有薪可燃。火滅故無有相續。 若し嬰児の色滅せば、云何が相続有らん。因無きを以っての故に。薪の可燃有りと雖も、火滅するが故に、相続有ること無きが如し。
若し、
『嬰児の色』が、
『滅すれば!』、
『因』の、
『無い!』が故に、
何故、
『相続』が、
『有るのか?』。
譬えば、
『薪』という、
『可燃』が、
『有っても!』
『火』の、
『滅する!』が故に、
『相続』が、
『無くなるようなものである!』。
若嬰兒色不滅而相續者。則嬰兒色不滅。常住本相亦無相續。 若し嬰児の色滅せざるに、相続せば、則ち嬰児の色滅せず。常に本の相に住せば、亦た相続すること無けん。
若し、
『嬰児の色』が、
『滅しないで!』、
『相続すれば!』、
則ち、
『嬰児の色』が、
『滅せずに!』、
常に、
『本の相』に、
『住まる!』ので、
亦た、
『相続』も、
『無いことになる!』。
問曰。我不說滅不滅故相續生。但說不住相似生故言相續生。 問うて曰く、我れは、滅と不滅の故に相続して生ずと説かず、但だ不住の、生に相似するを説かんとするが故に、相続して生ずと言えり。
問い、
わたしは、
『滅、不滅』の故に、
『相続して生じる!』と、
『説いたのではない!』、
但だ、
『不住』が、
『生』に、
『相似する!』と、
『説こうとした!』が故に、
『相続して!』、
『生じる!』と、
『言ったのである!』。
答曰。若爾者。則有定色而更生。如是應有千萬種色。但是事不然。如是亦無相續。 答えて曰く、若し爾らば、則ち有る定まりたる色、更に生ぜん。是の如くんば、応に千万種の色有るべし。但だ是の事は然らざれば、是の如きも亦た相続無し。
答え、
若し、
そうならば、
有る、
『定まった!』、
『色』が、
『更に!』、
『生じることになる!』。
是のような、
『色』は、
『千万種も!』、
『有るはずだが!』、
但だ、
是の、
『事』は、
『正しくなく!』、
是のようなものも、
亦た、
『相続する!』ことは、
『無い!』。
如是一切處求色無有定相。但以世俗言說故有。 是の如く一切処に色を求むるも、定相有ること無く、但だ世俗の言説を以っての故に有り。
是のように、
一切の、
『処』に、
『色』を、
『求めた!』が、
『定まった!』、
『相』は、
『無く!』、
但だ、
『世俗』の、
『言説』の故に、
『有るにすぎない!』。
如芭蕉樹求實不可得。但有皮葉。如是智者求色相。念念滅更無實色可得。不住色形色相。相似次第生難可分別。 芭蕉樹に実を求めて得べからず、但だ皮葉のみ有るが如し。是の如く、智者は、色の相に求むるに、念念に滅すれば、更に実の色の得べき無く、住まらざる色の形と、色の相の、相似して次第に生ずるも、分別すべきこと難し。
譬えば、
『芭蕉の樹』に、
『実』を、
『求めても!』、
『認められず!』、
但だ、
『皮、葉』が、
『有るようなものである!』。
是のように、
『智者』が、
『色』の、
『相』を、
『求めれば!』、
『色』の、
『相』は、
『念念に!』、
『滅するのみで!』、
他に、
『認められるような!』、
『実の色』は、
『無い!』。
『色』の、
『形、相』が、
『住まらず!』に、
『相似しながら!』、
『次々と!』、
『生じる!』ので、
『色』を、
『分別しようとしても!』、
『難しい!』。
如燈炎分別定色不可得。從是定色更有色生不可得。 灯炎の定まりたる色を分別するも、得べからざるが如く、是の定まりたる色より、更に有る色生ずるも、得べからず。
譬えば、
『灯の炎』に、
『定まった!』、
『色』を、
『分別しよう!』としても、
『認められないように!』、
是の、
『定まった!』、
『色』より、
更に有る、
『色』を、
『生じたとしても!』、
『認められない!』。
是故色無性故空。但以世俗言說故有。 是の故に、色は、性無きが故に、空なり。但だ世俗の言説を以っての故に有り。
是の故に、
『色』は、
『性』が、
『無い!』が故に、
『空である!』が、
但だ、
『世俗の言説』を、
『用いる!』が故に、
『有るにすぎない!』。
受亦如是。智者種種觀察。次第相似故生滅難可別知 受も亦た是の如く、智者は、種種に観察するに、次第に相似するが故に、生滅するも、別けて知るべきこと難し。
『受』も、          ――五陰中の受を破る――
亦た、
是のように、
『智者』は、
種種に、
『観察するが!』、
『次第に!』、
『相続する!』が故に、
『生、滅』を、
『別けて知る!』ことが、
『困難である!』。
如水流相續。但以覺故說三受在身。是故當知。受同色說。 水の流れて相続するが如く、但だ覚を以っての故に、三受身に在りと説く。是の故に当に知るべし、受も、色に同じく説けりと。
譬えば、
『水』の、
『流れ!』が、
『相続するように!』、
但だ、
こう説くのみである、――
『覚(知覚)』の故に、
『三受(苦、楽、非苦非楽)』が、
『身』に、
『在る!』と。
是の故に、
こう知らなくてはならない、――
『受』も、
『色と同様にして!』、
『説かれたのだ!』、と。
  (かく):梵語 bodhi (菩提)、 buddha (仏) の訳、悟り( enlightenment )、啓蒙/開明( illumination )、心の本性としての、知覚、分別、覚醒(As the mind's original nature: perception, wisdom, awakening)。心の本質は、完全に錯誤して分別する思考より解放されており、そして有らゆる覚醒と惑との状態を通して等しく、差別も変容もない( The original essence of the mind is completely free from mistaken discriminated thought and is equal throughout all awakened and deluded states without distinction or change )。認識/直感/洞察( Realization, intuition, insight )。◯梵語 buddhi, avabodha, prati- vyadh の訳、理解/会得/知能( Understanding, comprehension; intelligence )の義。◯梵語 mata の訳、[既に為された]思索( [What has been] thought )。◯梵語 saMvedana, sparzana, sprzati 等の訳、楽と不楽の感覚(Pleasant or unpleasant sensation)の義、受の同義語( Synonymous with vedanā )、十二縁起の一( one of the twelve links of dependent arising )。接触/触覚( touch, contact, feeling )。◯梵語 saMjJaa の訳、想像する/考える/概念化する( Ideation, thought, conceptualization )の義、象徴機能( symbolic function )。◯梵語 vitarkita, vitarka, cetana 等の訳、心の分別する機能( the discriminating function of the mind )、有覚有観中の如き。
想因名相生。若離名相則不生。是故佛說。分別知名字相故名為想。非決定先有。從眾緣生無定性。無定性故如影隨形。因形有影。無形則無影。影無決定性。 想は、名相に因りて生じ、若し名相を離るれば、則ち生ぜず。是の故に仏の説きたまわく、『名字の相を分別して知るが故に、名づけて想と為す』、と。決定して先に有るに非ず、衆縁より、生ずれば、定性無く、定性無きが故に、影の形に隨い、形に因りて影有り、形無ければ、則ち影無く、影に決定の性無きが如し。
『想』は、          ――五陰中の想を破る――
『名相』に、
『因って!』、
『生じ!』、
若し、
『名相』を、
『離れれば!』、
『生じない!』。
是の故に、
『仏』は、こう説かれた、――
『名字』の、
『相』を、
『分別して!』、
『知る!』が故に、
『想』と、
『称するのだ!』、と。
『想』は、
『決定して!』、
『先に!』、
『有るのではなく!』、
『衆縁』に、
『従って!』、
『生じる!』ので、
『定まった!』、
『性』が、
『無い!』。
『定まった!』、
『性』が、
『無い!』が故に、
譬えば、こうである――
『影』は、
『形』に、
『隨う!』が、
『形』に、
『因って!』、
『影』が、
『有り!』、
『形』が、
『無ければ!』、
『影』も、
『無い!』。
『影』には、
『決定した!』、
『性』が、
『無いからである!』。
  (そう):概念化する/想像する( ideation )、梵語 saMjJaa の訳、知覚/認識( perception )、想像する( to conceive )、概念的思考( coceptual thought )の義、概念化( conceptualization )、連想的思考( associative thought )、概念/着想( a concept, an idea )、知覚情報の記号化( the symbolification of sensory data )、事物の形相が心に複写され、名前を割り当てられる過程( The process by which the images of things are copied into the mind and are assigned names )、心中に形、色、長短、苦楽等の想念を起す作用( The function of arising thoughts in the mind regarding shape, color, length, pleasure/pain, etc )。五蘊中の想( Ideation is one of the five aggregates )、阿毘達磨では十大地法の一( Abhidharma theory, one of the ten omnipresent factors )、唯識にては五遍行の一( In Yogâcāra, one of the five omnipresent mental factors )。
  名相(みょうそう):名前と形状( name and form )、梵語 naama- saMsthaana の訳、名前と外観、謂わゆる眼に見え、耳に聞こえるもの、( name and appearance that which is seen with the eyes and that which is heard with the ears. )即ち名/色 ;二は倶に非実にして、妄想を生じさせる( i. e. the visible; both are unreal and give rise to delusion )。
若定有者。離形應有影。而實不爾。是故從眾緣生。無自性故不可得。想亦如是。但因外名相。以世俗言說故有。 若し定まりて有らば、形を離れて、応に影有るべし。而し実に爾らず。是の故に、衆縁より生ずれば、自性無きが故に得べからず。想も亦た是の如し、但だ外の名相に因り、世俗の言説を以っての故に有り。
若し、
『定まって!』、
『有れば!』、
『形』を、
『離れて!』、
『影』が、
『有るはずだ!』が、
而し、
『実』は、
『そうではない!』。
是の故に、
『衆縁』に、
『従って!』、
『生じた!』ものは、
『自性』の、
『無い!』が故に、
『認められない!』。
『想』も、
是のように、
但だ、
『外』の、
『名相』に、
『因り!』、
『世俗の言説』を、
『用いる!』が故に、
『有るにすぎない!』。
  (そう):特質( characteristic )、◯梵語 lakSaNa の訳、属性/目印/辨別すべき特徴( An attribute, a mark; distinctive feature )の義。◯梵語 nimitta の訳、知覚的特性/知覚的形状/現象/特性( A perceptual quality, a perceptual form, a sign; defining attribute )の義。◯梵語 aakaara の訳、知覚的心象( Perceptual image )の義。◯梵語 saMjJaa の訳、形状/外観/状態/様相/状況/印象( Form, appearance, state, condition, aspect, situation, expression, external appearance, outwardly expressed appearance )の義。◯識別された様相/自己に関する人、我の如きと連ねられた人相、我相の如きは、言外の意として法、即ち客観的構成概念に等しい( Discriminated aspect(s). When juxtaposed with the notions of self, such as 人 and 我, it is equivalent in connotation to 法, i.e. objective constructs )。
識因色聲香味觸等眼耳鼻舌身等生。以眼等諸根別異故。識有別異。是識為在色為在眼為在中間。無有決定。但生已識塵識此人識彼人。知此人識為即是知彼人識。為異是二難可分別。 識は、色声香味触等と、眼耳鼻舌身等に因りて生じ、眼等の諸根の別異なるを以っての故に、識にも別異有り。是の識は、色に在りと為すや、眼に在りと為すや、中間に在りと為すや。決定有ること無く、但だ生じ已りて、塵を知り、此の人を識り、彼の人を識る。此の人を知る識は、即ち是れ彼の人を知る識と為すや、異なりと為すや。是の二は、分別すべきこと難し。
『識』は、          ――五陰中の識を破る――
『色、声、香、味、触』等と、
『眼、耳、鼻、舌、身』等とに、
『因って!』、
『生じる!』。
『眼』等の、
諸の、
『根』が、
『別であり!』、
『異なる!』が故に、
『識』にも、
『別異(眼識、乃至意識)』が、
『有る!』が、
是の、
『識』は、
『眼』、
『色』、
『中間』の、
何処に、
『在るのか?』、
『識』には、
『決定』が、
『無い!』。
但だ、
『生じる!』と、
『塵(色、声、香、味、触)』や、
『此の人!』や、
『彼の人!』を、
『識るのみである!』。
『此の人!』を、
『知る!』、
『識』は、
『彼の人!』を、
『知る!』、
『識』と、
『同じなのか?』、
『異なるのか?』、
是の、
『二』は、
『分別しようとしても!』、
『難しい!』。
如眼識耳識亦難可分別。以難分別故。或言一或言異。無有決定分別。但從眾緣生故。眼等分別故空無自性。 眼識、耳識の如きも、亦た分別すべきこと難く、分別すること難きを以っての故に、或いは一と言い、或いは異と言いて、決定せる分別の有ること無く、但だ衆縁によりて生ずるが故に、眼等の分別の故に、空にして自性無し。
例えば、
『眼識』や、
『耳識』も、
『分別しようとしても!』、
『難しい!』、
『分別する!』ことが、
『難しい!』が故に、
或いは、
『一だ!』と、
『言い!』、
或いは、
『異なる!』と、
『言って!』、
分別して、
『決定する!』ことが、
『無い!』、
但だ、
『衆縁』によって、
『識』は、
『生じる!』が故に、
『眼』等が、
『分別して!』、
『識る!』が故に、
『識』は、
『空であり!』、
『識』の、
『自性』は、
『無い!』。
如伎人含一珠出已復示人則生疑。為是本珠為更有異。 伎人の如きは、一珠を含んで出し已りて、復た人に示せば、疑を生ずらく、是れは本の珠と為すや、更に異なる有りと為すや、と。
譬えば、
『伎人』が、
『口』に、
『含んだ!』、
『一珠』を、
『出してみせ!』、
『人』に、
復た、
『一珠』を、
『示してみせれば!』、
則ち、
『疑』を、
『生じるようなものである!』、――
謂わゆる、
是れは、
『本』の、
『球だろうか?』、
更に、
『異なる!』、
『球』が、
『有るのだろうか?』と。
識亦如是。生已更生。為是本識為是異識。是故當知。識不住故無自性。虛誑如幻。 識も亦た是の如く、生じ已りて、更に生ずるも、是れ本の識と為すや、是れ異なる識と為すや。是の故に、当に知るべし、識は住せざるが故に、自性無く、虚誑なること幻の如し。
『識』も、
是のように、
『生じてから!』、
『更に!』、
『生じる!』が、
是れは、
『本』の、
『識だろうか?』、
是れは、
『異なる!』、
『識だろうか?』。
是の故に、
こう知らなくてはならない、――
『識』は、
『住まらない!』が故に、
『自性』が、
『無く!』、
『幻のように!』、
『虚誑である!』、と。
諸行亦如是。諸行者身口意。 諸行も亦た是の如し。諸行とは、身、口、意なり。
『諸行』も、          ――五陰中の行を破る――
亦た、
『是の通りである!』、――
『諸行』とは、
『身』と、
『口』と、
『意である!』。
行有二種淨不淨。何等為不淨。惱眾生貪著等名不淨。不惱眾生實語不貪著等名淨。 行に、二種有り、浄と不浄なり。何等か不浄と為す。衆生を悩し、貪著する等を不浄と名づけ、衆生を悩ませず、実語して、貪著せざる等を、浄と名づく。
『行』に、
『二種』有り、
『浄』と、
『不浄である!』。
『不浄』とは、
何のようなものか?――
『身』と、
『口』とは、
『衆生』を、
『悩まし!』、
『心』が、
『事物』に、
『貪著する!』等を、
『不浄』と、
『呼び!』、
『身』は、
『衆生』を、
『悩ませず!』、
『口』は、
『実』を、
『語り!』、
『心』は、
『事物』に、
『貪著しない!』等を、
『浄』と、
『呼ぶ!』。
或增或減。淨行者。在人中欲天色天無色天受果報已則減。還作故名增。 或いは増し、或いは減ず。浄行の者、人中、欲天、色天、無色天中に在りて、果報を受け已れば、則ち減じ、還た作すが故に増と名づく。
『諸行()』の、
『浄、不浄』は、
『増したり!』、
『減ったりする!』、――
『浄行の者』が、
『人中』や、
『欲天』や、
『色天』や、
『無色天』に於いて、
『果報』を、
『受ければ!』、
則ち、
『業』は、
『減ることになり!』、
還た、
『諸行』を、
『作る!』が故に、
『増す!』と、
『称する!』。
不淨行者亦如是。在地獄畜生餓鬼阿修羅中受果報已則減。還作故名增。 不浄行の者も亦た是の如し、地獄、畜生、餓鬼、阿修羅中に在りて、果報を受け已れば、則ち減じ、還た作すが故に増と名づく。
『不浄行の者』も、
是のように、
『地獄』、
『畜生』、
『餓鬼』、
『阿修羅』中に、
『果報』を、
『受ければ!』、
則ち、
『減ることになり!』、
還た、
『諸行』を、
『作る!』が故に、
『増す!』と、
『称する!』。
是故諸行有增有減故不住。如人有病。隨宜將適病則除愈。不將適病則還集。諸行亦如是。有增有減故不決定。但以世俗言說故有。 是の故に、諸行は増有り、減有るが故に住せず。人に病有るに、随宜に将適すれば、病は則ち除愈し、将適せざれば、病は則ち還た集まるが如く、諸行も亦た是の如く、増有り減有るが故に、決定せず、但だ世俗の言説を以っての故に有り。
是の故に、
『諸行』は、
『増す!』ことも、
『有り!』、
『減る!』ことも、
『有る!』が故に、
『住まらない!』。
譬えば、
『人』に、
『病』が、
『有っても!』、
『適当に!』、
『保養すれば!』、
『全快する!』が、
『保養しなければ!』、
『全快しない!』ように、
『諸行』も、
是のように、
『増す!』ことと、
『減る!』こととの、
『有る!』が故に、
『決定しない!』、
但だ、
『世俗の言説』を、
『用いる!』が故に、
『有るにすぎない!』。
  随宜(ずいぎ):適当。適宜。
  将適(しょうちゃく):養生。保養快適。
  除愈(じょゆ):全快。
因世諦故得見第一義諦。所謂無明緣諸行。從諸行有識著。識著故有名色。從名色有六入。從六入有觸。從觸有受。從受有愛。從愛有取。從取有有。從有有生。從生有老死憂悲苦惱恩愛別苦怨憎會苦等。如是諸苦皆以行為本。佛以世諦故說。 世諦に因るが故に、第一義諦を見るを得。謂わゆる無明は諸行を縁じ、諸行より識の著する有り、識著するが故に名色有り、名色より六入有り、六入より触有り、触より受有り、受より愛有り、愛より取有り、取より有有り、有より生有り、生より老死、憂悲、苦悩、恩愛別苦、怨憎会苦等有り、是の如き諸苦は、皆、行を以って本と為すと、仏は、世諦を以っての故に説きたまえり。
『世諦』に、
『因る!』が故に、
『第一義諦』を、
『見ることができる!』。
謂わゆる、
『無明』が、
『諸行』を、
『縁じる!』と、
『諸行』により、
『識』という、
『著』が、
『有り!』、
『識』の、
『著する!』が故に、
『名色』が、
『有り!』、
『名色』により、
『六入』が、
『有り!』、
『六入』により、
『触』が、
『有り!』、
『触』により、
『受』が、
『有り!』、
『受』により、
『愛』が、
『有り!』、
『愛』により、
『取』が、
『有り!』、
『取』により、
『有』が、
『有り!』、
『有』により、
『生』が、
『有り!』、
『生』によって、
『老死、憂悲、苦悩、恩愛別苦、怨憎会苦』等が
『有る!』が、
是のような、
諸の、
『苦』は、
皆、
『行』が、
『本である!』と、――
『仏』は、
『世諦』を、
『用いられた!』が故に、
『説かれた!』。
  世諦(せたい):因習的真実( conventional truth )、梵語 saMvRti- satya の訳、覆い隠くす真実( covering truth )の義、世俗的な真実/相対的真実/世間の真実( Mundane truth; relative truth; worldly truth )、啓蒙されていない有情によって認められた真実( Reality as it is perceived by unenlightened sentient beings )、通常の理解/因習的論説( Ordinary understanding; conventional discourse )、差別する心の見地からの真実( Reality from the standpoint of the discriminating mind )、世俗諦、俗諦等にも訳す、否定的に理解されるならば、此の真実は啓蒙されない民衆の理解の限界を意味し( Understood negatively, this truth represents the limitations of the understanding of unenlightened people )、肯定的に解釈されるならば、諸仏は彼等の最高に理解された世俗的真理を、方便として有情を苦から導いて逃れさせる為めに利用する( Understood negatively, this truth represents the limitations of the understanding of unenlightened people )。究極の真実、勝義諦、真諦に対す( This is distinguished from the ultimate truth 勝義諦, 眞諦 )。
  第一義諦(だいいちぎたい):究極の真実( ultimate truth )、梵語 paramaartha satya の訳、最高の真実/基本的真実( Supreme truth; cardinal truth )、最初の原理としての真実( The truth of the first principle )、真実の二側面中の一、他の一方は、世俗的真実、又は相対的、世間的真実である( One of the two aspects of truth, the other being the secular truth or relative, worldly truth 俗諦 (世俗諦) )、此の頂点的真実は、涅槃、真如、中道、法界、空の同義語であり、真諦、或いは第一義とも訳す( This paramount truth is a synonym for nirvāṇa 涅槃, tathatā 眞如, the middle path 中道, dharmadhātu 法界, and śūnyatā 空. also written as 眞諦 and 第一義 )。
  無明(むみょう):無知/無学/妄想/愚劣( nescience, ignorance, delusion, folly )、梵語 avidyaa の訳、曚昧無知の民衆の有らゆる苦痛の底に横たわる所の真実に関する根本的誤解としての、十二因縁の第一支( As the fundamental misunderstanding of reality that underlies all of the suffering of unenlightened people, it is the first of the twelve links of dependent arising )、知識の欠如よりは、寧ろ事物の有るがままを見ることから、民衆を妨げている認識の方法に関する基本的過失( Rather than a lack of factual knowledge it is a basic error in mode of perception that prevents people from seeing things as they really are 不如實智見 )。例えば有らゆる事物は畢竟じて無常であるという事実 [無常] とか、現実には固有の自我のような事物は存在しないという事実 [無我] に気付かないことである。概して言えば、無明は有らゆる迷いと、煩悩の本であると看做されよう( Generally speaking, nescience is seen as the basis for all delusions 迷 and afflictions (惑, 煩惱) )。
  (ぎょう):行く( going, moving )、◯梵語 gati, gamana の訳。又修行、実行する/練習する( to practice )の義、◯梵語 carya, pratipad prayoga 等の訳、引受ける、指導する、行う、遂行する(To undertake; conduct, do, carry out )、日常的に行う/成し遂げる( to practice; accomplishing, practicing )等の義、通路、宗教上の行為、行為、又は悟りの最終段階に人を近づかせる為めの行動/運動( a path. Religious acts, deeds, or exercises aimed at taking one closer to the final goal of enlightenment )等の意。◯梵語 saMskaara, saMskRta の訳、寄せ集める( putting together )、上手に形づくる( forming well )、 完璧にする( making perfect )、完成( accomplishment )、装飾( embellishment, adornment )、浄化( purification, cleansing )、準備(making ready, preparation )、[食事の]仕上げ( dressing (of food) )、[金属の]精錬( refining (of metals) )、[宝石の]研磨( polishing (of gems) )、 [動物、又は植物の]育成( rearing (of animals or plants) )等の義、転じて丁寧に造り上げられた[物]の意、更に転じて条件付きの事物/原因を通して生成された法、即ち謂わゆる有為法(Conditioned things; dharmas produced through causation, i.e., so- called conditioned phenomena )を指す、即ち心中に投じられた事物の影の意、飽くまでも影であって事物、それ自体ではない。◯又心の形成( forming the mind )、訓練/教育( training, education )の義、思(梵語 cintaa :thought )、又は心行(梵語 caitasika, citta- pracaara:mental functions, the operation of the mind, mental fuctors )に同等の意、即ち心の動きを指す、故に行と名づけ、十二因縁の一、五陰の一と為す。◯梵語 aa- car, √(gam) の訳、近づく( to come near, to approach )の義。梵語 ava- car の訳、やってくる/出て来る( come down from )、適用/応用する( to apply )の義。
  (しき):知る( to know )、梵語 vijJaana の訳、気付いている/意識/識別/意識/知覚/知識/自覚( To be aware of, cognize, discern; consciousness, perception; knowledge, awareness )、意識する精神作用( Conscious mental function )、区別/知覚/認識/識別/理解/把握する行為、識別/知能/学問/学習/智慧( The act of distinguishing, or perceiving, or recognizing, discerning, understanding, comprehending, distinction, intelligence, science, learning. wisdom )の義。識別される対象に対して、心の精神的洞察力/知覚であると解釈される、又了別の意であるとも解釈される( It is interpreted by 心 the mind, mental discernment, perception, in contrast with the object discerned; also by 了別 understanding and discrimination )。六種の対象を知覚する六種の機能としての作用( The function of the six faculties perceiving the six objects )、しばしば心、又は意の同意語とされる。五陰の一、十二因縁の第三支( It is one of the five aggregates, and the third of the twelve aspects of dependent arising )。
  名色(みょうしき):名前と形状( name and form )、梵語 naama- ruupa, kaaya の訳、名色の名義は、初期ウパニシャッドに於いては、有らゆる万有の物理的現象の意味に用いられてきたが、仏教に於いては、心と身、或いは精神と肉体との存在を示唆している( the term 'name and form' was used in the early Upaniṣads to denote all of the physical phenomena in the universe, but in Buddhism, refers to mind and body, or psycho-physical existence )。それは五つの集合 [五蘊]と訳され 、即ち人は、受、想、行、識を名 naama と為し、及び色 ruupa、形状である( It is interpreted as the five aggregates 五蘊 , i. e., a 'body,' sensation 受, perception 想, volition 行, and consciousness 識 being the 'name' and rūpa 色 the 'form' )。最初の四は心であり、後の一は身である( the first-named four are mental and the last material )。色は、物質としての最小の微粒子として看做され、可触である( Rūpa is described as the minutest particle of matter, that which has resistance );胎児の胚体が名色であり、名付けられるべき何物かである( the embryonic body or fetus is a nāmarūpa, something that can be named )。
  六入(ろくにゅう):六根( six bases of the senses )、梵語 SaDaayatana の訳、六種の休息所/土台/座席/場所/家庭/家屋/住居( resting-place, support, seat, place, home, house, abode )の意。十二因縁の第五支( which form the fifth of the twelve links in the chain of dependent arising )。触に先行し、識に続く( with the preceding link being 觸 contact, and the succeeding link 識 perception )。六入は六種の感覚器官の特質と効果であり、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、及び思考 (精神的示現) を生じる( The six are the qualities and effects of the six organs of sense producing sight, hearing, smell, taste, touch, and thought (or mental presentations) )。
  (そく):接触( contact or touch )、梵語 sparza, saMsparza の訳、意識を外境中に向ける精神作用( The mental function that brings consciousness into contact with external objects )。唯識にては、或る訳に於いては、五遍行の一と考えられている( In Yogâcāra theory, in one interpretation it is considered to be one of the five omnipresent mental factors )。十二因縁の一( One of the twelve links of conditioned arising )。◯梵語 spraSTavya の訳、感知可能な触覚的対象、五種/六種の知覚/感覚の対象( angible; a tactile object, one of the five/six objects of perception and sensation 五境・五塵/六境)。
  (じゅ):感覚/知覚( sensation; also commonly rendered as 'feeling' )、梵語 vedanaa の訳、認識、概念化、又は意志作用に先立ち、外界の刺激に対する最初の生物学的反応( A primary biological response to external stimuli that is prior to perception, conceptualization, or volition )。故に受は、五蘊の第二であり、又十二因縁の第七支である( As sensation, the second of the five skandhas, also the seventh of the twelve links of dependent arising )。◯梵語 √(vid), prati- saM- vid, anubhava 等の訳、経験する/受ける、又は忍ぶ/善行、或いは悪行の結果/業を受ける( To receive, or undergo, the results of good and evil actions. To experience karma )。◯梵語 samaadaana, praty- anu- bhuu, prati- grah 等の訳、甘受する/受納( To accept; acceptance )。
  (あい):渇望/喉の渇き( to desire, thirst )、梵語 tRSNaa の訳、又貪欲、渇愛、貪等に訳す。十二因縁の第八支( the eighth of the twelve links of conditioned arising )。◯梵語 kaama, raaga の訳、人間的欲望の最も生の形/愛情( The most raw form of human desire. Love, affection )。梵語 iSTa の訳、願望の( desired )。梵語 anurodha, anunaya, sakta 等の訳、執著、切望、貪欲( Attachment, longing, grasping )、又執著( defiling )、染著( attachment )
とも訳す。
  (しゅ):手に入れる/つかむ/自分のものにする( to obtain, to seize, grasp, appropriate )、梵語 upaadaana の訳、此の言葉の言外の意味の是/非は、文脈に従って変化する( The positive and negative connotations of this term vary according to the context )。十二因縁の第九支( he ninth of the twelve links of dependent arising )。◯梵語 graahaNa ( √(grah) ) の訳、繰り返して、握りしめる/保持する/捕える/受取る/理解することを言外の意味として、頑強にしがみつくを示唆する執の同義語として頻繁に用いられる( its connotations are once again that of seizing, holding, catching, receiving, apprehending, and quite often synonymous with that of 執, which has more clear connotations of stubborn clinging )。
  (う):存在( being, existence, existent )梵語 bhava, bhaava の訳、無、又は空の反対( The antithesis of nothingness, or emptiness )。◯作る、十二因縁の第十支( the tenth precondition among the twelve links of conditioned arising )、此の位に於いて、未来の果報に導く業が生じさせられる( The stage in which karman is produced which will lead to some future reward )。有 bhava には三種の有があり、実有、仮有、妙有という( Existence, of which there are three types: real, provisional and mysterious )又三有あり、三界と名づく、即ち欲有、色有、無色有である、又三有あり、本有、当有、中有である( the realms of desire, of form, and of non-form, all of them realms of mortality; another three are 本有 the present body and mind, or existence, 當有 the future existence, 中有 the intermediate existence )。◯梵語 asti, sat の訳、有る/存在する/生起する/位置する/起る/構成される( There is; to exist, occur, be located, happen, consist of )。◯持つ/所有する/財産( To have, to possess. Possession, ownership, property )。◯有る/或る( some, one, a certain )。
  (しょう):生起( arising )、梵語 jaati の訳、生産する/生む/生まれる( To produce, to bring forth, to beget. To be born )、生命/生活/生産/存在に至る( Life, living; production; coming into existence )、唯識、倶舎論に於いては、有為法の生起( In Yogâcāra and Abhidharmakośa theory, the arising of conditioned dharmas )、亦た出生、或いは有情の生命( Also birth, or the life of sentient beings )、存在に関する四相の第一 (生、住、異、及び滅)( The first of the four aspects 四相 of existence (arising, abiding, changing, and extinction) )、亦た十二因縁の一( Also one of the twelve links of dependent arising )、又四苦の一( and one of the four basic forms of suffering )。誕生の形態は四種の位、四生 catur yoni を取り、それぞれに因って、有情は六道 SaD gati の一に入ることになる( Birth takes place in four forms, catur yoni 四生, in each case causing: a sentient being to enter one of the 六道 six gati, or paths of transmigration )。
  十二因縁(じゅうにいんねん):生起する十二科目の連鎖( twelve links of dependent arising )、梵語 dvaadaza- astanga pratiitya samutpaada の訳、何物が人間の苦悩を生じさせるものであるのかを調査した時、仏は、それが揺るぎない順序で条件付けられた十二段階の連続体であることを発見した( When inquiring into what it is that gives rise to human suffering, the Buddha found it to be a continuum of twelve phases of conditioning in a regular order )。是れ等の十二段階に条件付けられた存在とは、 (1) 無明 avidyaa :無知/(無学/理解の欠如)( nescience (ignorance, unenlightenment) )、 (2) 行 saMskaara :意志作用( action- intention );行為/活動/萌芽/業由来の素質( action, activity, conception, karmic predispositions )、 (3) 識 vijJaana :意識( consciousness )、 (4) 名色 naama ruupa :名前と形状( name and form )、 (5) 六処 SaD aayatana :六重に折りたたまれた感覚機能と接触( the six-fold sphere of sense contact )、 (6) 触 sparza :接触( contact )、 (7) 受 vedanaa :知覚/感覚( sensation, feeling )、 (8) 愛 tRSNaa :渇き/渇望/切望( thirst, desire, craving )、 (9) 取 upadaana :握って放さない/私物化( grasping, appropriation )、 (10) 有 bhaava :作る/存在物/存在( becoming, being, existing )、 (11) 生 jaati :誕生( birth )、 (12) 老死 jaraamaraNa :老齢と死 (無常)( old age and death (impermanence) )。是の順序に於いて、先の段階は、次の段階を生起する縁となる( In this order, the prior situation is the condition for the arising of the next situation )、又同じ順序で、若し先の条件が消滅させらるならば、次の条件も消滅させられる( Also, in the same order, if the prior condition is extinguished, the next condition is extinguished )。古典的決まり文句として、「無明滅するが故に、識滅するが故に‥‥」等と読む( The classical formula reads "By reason of nescience dispositions; by reason of dispositions consciousness," etc. )。◯更に十二因縁は輪迴の原因と看做すまでに変容される:( A further application of the twelve nidānas is made in regard to their causation of rebirth: ) (1) 無明:無始の過去より相続する苦悩に関して無知、 (2) 業:過去の生の善と悪、 (3) 萌芽:知覚の或る形態、 (4) 名色:身と心とに進化する[胎内に於いて]、 (5) 六処:誕生間際の六種の感覚器官、 (6) 触:子供時代の理解力は接触に限定される、 (7) 受:6又は7歳からの感受性、又は芽生え初めた理解力と識別力、 (8) 愛:思春期の渇望、性欲、 (9) 取:感覚的存在としての衝動、 (10) 有:未来の業に関する実質/存在を形成する、 (11) 生:再生の準備としての業が完成する、 (12) 老死( (1) nescience, as inherited affliction from the beginningless past; (2) karma, good and evil, of past lives; (3) conception as a form of perception; (4) nāmarūpa, or body and mind evolving (in the womb); (5) the six organs on the verge of birth; (6) childhood whose intelligence is limited to sparśa, contact or touch; (7) receptivity or budding intelligence and discrimination from 6 or 7 years; (8) thirst, desire, or love, age of puberty; (9) the urge of sensuous existence; (10) forming the substance, bhāva, of future karma; (11) the completed karma ready for rebirth; (12) old age and death )。初の二支は前世に関連し、後の十支は現在世に関連する( The two first are associated with the previous life, the other ten with the present )。その論理は同じく、輪迴の領域に適用される( The theory is equally applicable to all realms of reincarnation )。◯十二因縁は、又図式中に表わされ、その中央に蛇(瞋り)、豚(無知、又は愚鈍)、鳩(渇望)を置いて、根本的罪業を表示する( The twelve links are also represented in a chart, at the center of which are the serpent (anger), boar (nescience, or stupidity), and dove (lust) representing the fundamental sins )。それぞれは他の者の尾を捉えて、命の輪を生じさせる罪の連結を象徴する( Each catches the other by the tail, typifying the train of sins producing the wheel of life )。◯又別の学派では、十二因縁を次のように呈示している:( In another circle the twelve links are represented as follows: ) (1) 無学: 盲目の女性、(2) 行動:仕事中の壷師、又は果実を集める男、 (3) 意識:落ち着かない猿、 (4) 名色:小舟、 (5) 感覚器官:家、 (6) 触:並んで坐る男女、 (7) 感覚:矢の刺さった男、 (8) 渇望:酒を飲む男、 (9) 欲望:結合した男女、 (10) 存在:出産を通して、 (11) 誕生:屍骸を運ぶ男、 (12) 病気/老人/死:杖をつく老女( (1) nescience, a blind woman; (2) action, a potter at work, or man gathering fruit; (3) consciousness, a restless monkey; (4) name and form, a boat; (5) sense organs, a house; (6) contact, a man and woman sitting together; (7) sensation, a man pierced by an arrow; (8) desire, a man drinking wine; (9) craving, a couple in union; (10) existence through childbirth; (11) birth, a man carrying a corpse; (12) disease, old age, death, an old woman leaning on a stick )。
若得第一義諦生真智慧者則無明息。無明息故諸行亦不集。 若し、第一義諦を得て、真の智慧を生ずれば、則ち無明息み、無明息むが故に、諸行も亦た集まらず。
若し、
『第一義諦』を、
『認めて!』、
『真の智慧』を、
『生じれば!』、
則ち、
『無明』は、
『息()み!』、
『無明』の、
『息む!』が故に、
『諸行』も、
『集められることがない!』。
諸行不集故見諦所斷身見疑戒取等斷。及思惟所斷貪恚色染無色染調戲無明亦斷。 諸行集まらざるが故に、見諦所断の身見、疑、戒取等断じ、及び思惟所断の貪、恚、色染、無色染、調戯、無明も亦た断ず。
『諸行』の、
『業』を、
『集めない!』が故に、
『見諦』で、
『断つべき!』、
『身見、疑、戒取』等が、
『断たれて!』、
『思惟』で、
『断つべき!』、
『貪、恚、色染、無色染、調戯、無明』も、
『断たれる!』。
  見諦(けんたい):見道ともいう。見る道( path of seeing )