巻第一
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中論 巻第一
 龍樹菩薩造
 梵志青目釋
 姚秦三藏鳩摩羅什譯


中論觀因緣品第一 (十六偈)

 不生亦不滅  不常亦不斷 
 不一亦不異  不來亦不出 
 能說是因緣  善滅諸戲論 
 我稽首禮佛  諸說中第一
不生にして亦た不滅、不常にして亦た不断、
不一にして亦た不異、不来にして亦た不出なりと、
能く是の因縁を説きて、善く諸の戯論を滅したまえば、
我れは稽首して仏を礼す、諸説中の第一なりと。
諸の、
『法(万物)』は、
『不生であり、亦た不滅である!』、
『不常であり、亦た不断である!』、
『不一であり、亦た不異である!』、
『不来であり、亦た不出である!』と、
是の、
『因縁』を説いて、
諸の、
『戯論』を、
『巧みに!』、
『滅(ほろぼ)された!』。
わたしは、
『仏』を、
『稽首礼して!』、こう言う――、
是の、
『説』は、
諸の、
『説』中の、
『第一である!』、と。
  (しょう):梵語 utpaada の訳、生じる/出生/産出( come forth, birth, production )。梵語 anutpaada は、その否定。
  (めつ):梵語 nirodha の訳、絶滅/終止( destruction, ceasing )。梵語 anirodha は、その否定。
  (だん):梵語 uccheda の訳、切断/一時的( cutting off, impermanent )。梵語 anuccheda は、その否定。
  (じょう):梵語 zaazvata の訳、永久的/不断の/永続的( eternal, constant, perpetual )。梵語 azaazvata は、その否定。
  (いち):梵語 ekaartha の訳、一つ/同一の物/目的/意義( one and the same object, purpose, meaning )。梵語 anekaartha は、その否定。
  (い):梵語 naanaartha の訳、多くの/( many )、[多意義語のように]異なった意味を持つ( having different meanings (as a word of different meanings) )、異なった目的/事物を有する( having a different aim or object )。梵語 anaanaartha は、その否定。
  (らい):梵語 aagama の訳、来る/近寄る/接近する( coming, coming near, approaching )。梵語 anaagama は、その否定。
  (しゅつ):梵語 nirgama の訳、行く/出てくる( going, going forth )。梵語 anirgama は、その否定。
  戯論(けろん):論にたわむれる。自ら正義を信じて、他と諍うことをいう。
  稽首礼(けいしゅらい):尊者の足を頂いて頭につける礼法。
  :以下偈の梵文は"UNIVERSITY OF OSLO"のサイトより引用し、偈の英訳は、印度 Dharamsala在住のチベット仏教研究家Glen Svensson氏のサイト上に存する"THE FUNDAMENTAL TREATISE ON THE MIDDLE WAY CALLED ‘WISDOM’ "なる頁より引用した。詳細は夫々のサイトを参照されたい。又参考として梵文偈の日本語訳を「三枝充悳編《中論偈頌総覽》」より引用して載せる。
参考
anirodham anutpādam anucchedam aśāśvatam |
anekārtham anānārtham anāgamam anirgamam |
yaḥ pratītyasamutpādaṃ prapañcopaśamaṃ śivam |
deśayām āsa saṃbuddhas taṃ vande vadatāṃ varam |
I prostrate to the youthful Manjushri.
I bow down to the most sublime of speakers,
the completely awakened one who taught contingency
(no cessation,
no birth,
no annihilation,
no permanence,
no coming,
no going,
no difference,
no identity) to ease fixations.

参考
I pay homage to the perfect complete Buddha,
The best of teachers,
Who taught that dependent-arisings are
Neither ceasing nor produced,
Neither annihilated nor permanent,
Neither coming nor going and
Neither different nor the same.
And who taught the peace
That is the complete pacification of elaborations.

参考
(何ものも)滅することなく(不滅),(何ものも)生ずることなく(不生),(何ものも) 断滅ではなく(不断),(何ものも)常住ではなく (不常),(何ものも)同一であることな く(不一義),(何ものも)異なっていることなく(不異義),(何ものも)來ることなく(不來),(何ものも)去ることのない(不去)〔ような〕,〔また〕戲論(想定された論議)が寂滅しており,吉祥である (めでたい),そのような縁起を說示された,正しく覚っ者(ブッダ)に,もろもろの說法者のなかで最もすぐれた人として,私は敬礼する。「原典:三枝充悳編《中論偈頌総覽》(以下同様)」
問曰。何故造此論。 問うて曰く、何の故にか、此の論を造る。
問い――、
此の、
『論』を、
何故、
『造ったのか?』。
答曰。有人言萬物從大自在天生。有言從韋紐天生。有言從和合生。有言從時生。有言從世性生。有言從變生。有言從自然生。有言從微塵生。有如是等謬故墮於無因邪因斷常等邪見。種種說我我所。不知正法。 答えて曰く、有る人の言わく、『万物は、大自在天より生ず』、と。有るいは言わく、『韋紐天より生ず』、有るいは言わく、『和合より生ず』、有るいは言わく、『時より生ず』、有るいは言わく、『世性より生ず』、有るいは言わく、『変より生ず』、有るいは言わく、『自然より生ず』、有るいは言わく、『微塵より生ず』、と。是の如き等の謬有るが故に、無因、邪因、断常等の邪見に堕し、種種に我我所を説くも、正法を知らず。
答え、――
有る人は、
こう言う、――
『万物』は、
『大自在天より!』、
『生じる!』、と。
有るいは、
こう言う、――
『韋紐天より!』、
『生じる!』、と。
有るいは、
こう言う、――
『和合より!』、
『生じる!』、と。
有るいは、
こう言う、――
『時より!』、
『生じる!』、と。
有るいは、
こう言う、――
『世性より!』、
『生じる!』、と。
有るいは、
こう言う、――
『変より!』、
『生じる!』、と。
有るいは、
こう言う、――
『自然より!』、
『生じる!』、と。
有るいは、
こう言う、――
『微塵より!』、
『生じる!』、と。
是れ等の、
『謬(あやまち)』を、
『有する!』が故に、
『人』は、
『無因、邪因』、
『断、常』等の、
『邪見』に、
『堕ち!』、
種種に、
『我、我所』の、
『存在』を、
『説いて!』、
『正法』を、
『知らない!』。
  大自在天(だいじざいてん):梵名mahezvara。色界の頂を所在とする三千世界の主。
  韋紐天(いちゅうてん):梵名viSNu。大自在天の別名と為す。
  断常(だんじょう):断見と常見。我は断絶するが故に後世の報を受けないとする見解と、我は常住して後世の報を受けるとする見解。
  微塵(みじん):物質でありながら、微少の故に五感を以って知り得ないもの。
  我我所(ががしょ):我と我の所有。我は霊魂の如きもの、我所は主として人の身心をいう。
佛欲斷如是等諸邪見令知佛法故。先於聲聞法中說十二因緣。又為已習行有大心堪受深法者。以大乘法說因緣相。所謂一切法不生不滅不一不異等。畢竟空無所有。 仏は、是の如き等の諸の邪見を断じて、仏法を知らしめんと欲するが故に、先には、声聞法中に十二因縁を説き、又已に習行し、大心有りて、深法を受くるに堪うる者の為に、大乗法を以って、因縁の相を説く。謂わゆる一切法の不生、不滅、不一、不異等、畢竟じて空、無所有なるなり。
『仏』は
是れ等の、
諸の、
『邪見』を、
『断って!』、
『仏法』を、
『知らせたい!』と、
『思われた!』が故に、
先に、
『声聞の法(阿含経等)』中に、
『十二因縁』を、
『説かれた!』。
又、
已に、
『大心(自他平等の心)』を、
『習行(習慣的な修行)して!』、
『有し!』、
『深法(甚深微妙の法)』を、
『受ける!』に、
『堪えられる!』者の為に、
『大乗の法』を以って、
『因縁の相』を、
『説かれた!』――、
謂わゆる、
一切の、
『法』は、
『生でもなく!』、
『滅でもなく!』、
『一でもなく!』、
『異でもない!』等であり、
畢竟じて、
『空であり!』、
『所有(存在する事物)』が
『無い!』、と。
如般若波羅蜜中說。佛告須菩提。菩薩坐道場時。觀十二因緣。如虛空不可盡。 般若波羅蜜中に説くが如く、仏の須菩提に告げたまわく、『菩薩は、道場に坐せる時、十二因縁を観ずらく、虚空の如く、尽くすべからず、と』、と。
例えば、
『般若波羅蜜経』中には、
こう説いている、――
『仏』は、
『須菩提』に、こう告げられた、――
『菩薩(成道前の釈迦)』は、
『道場』に坐った!時、
こう観察した、――
『十二因縁』は、
『虚空のよう!』に、
『尽くせない!』、と。
  十二因縁(じゅうにいんねん):人が生じて以来、大苦を受けるに至る、十二段階の因縁。阿毘曇中には有部の如く三世の生を計るが故に種種に解釈されているが、十二支各々の名より類推するに、恐らく釈尊の考えられていた十二因縁とは、凡そ以下の如きものと思われる、――

1 無明 未学・無垢 何も学んでいない無垢の状態
2 思考・経験 思考・経験により知識を集める
3 認識・記憶 集まったものを知識として認識し記憶する
4 名色 分別・識別 名前を以って事物を分別する
5 六処 六情具備 眼耳鼻舌身意の六情備わる
6 情塵接触 眼等の六情が色声香味触法の六塵と接触する
7 楽受・苦受 順境に於いては楽、逆境に於いては苦を受ける
8 愛著 苦受に於いて嫌悪、楽受に於いて愛著を生じる
9 取相 境に対して心中に相を取る
10 存在 境に対する自己の存在が確立する
11 自己認識 他人に対する自己の存在を認識する
12 老死 但大苦受 段階的自己の崩壊を大苦聚として受ける

佛滅度後。後五百歲像法中。人根轉鈍。深著諸法。求十二因緣五陰十二入十八界等決定相。不知佛意但著文字。聞大乘法中說畢竟空。不知何因緣故空。即生疑見。若都畢竟空。云何分別有罪福報應等。如是則無世諦第一義諦。取是空相而起貪著。於畢竟空中生種種過。龍樹菩薩為是等故。造此中論 仏の滅度の後、後の五百歳の像法中に、人根転た鈍く、深く諸法に著して、十二因縁、五陰、十二入、十八界等の決定相を求め、仏意を知らず、但だ文字に著して、大乗法中に畢竟じて空なりと聞けども、何の因縁の故に空なりやを知らず、即ち疑見を生ずらく、『若し都て畢竟じて空なれば、云何が分別して、罪福の報応有らん、応に等しかるべし』、と。是の如くんば、則ち世諦も第一義諦も無く、是の空に相を取りて、貪著を起し、畢竟じて空なる中に、種種の過を生ぜん。龍樹菩薩は、是れ等の為の故に、此の中論を造れり。
『仏』の、
『滅度』の後、
『五百年後』の、
『像法』中に、
『人』は、
『根(根本的特質)』が、
『次第に!』、
『鈍くなり!』、
諸の、
『法(事物)』に、
『深く!』、
『著(執著)して!』、
『十二因縁』、
『五陰』、
『十二入』、
『十八界』等に、
『決定した(不動の)!』、
『相』を、
『求めて!』、
『仏の意(こころ)』を、
『知らず!』、
但だ、
『文字』に、
『著し!』て、
『大乗』という、
『法』中に、
『畢竟じて空だ!』と、
『説かれる!』のを、
『聞く!』と、
何のような、
『因縁』の故に、
『空であるか?』を、
『知らず!』、
即ち(すぐさま)、
『疑見』を、
『生じて!』、こう言う、――
若し、
『都()べて!』が、
『畢竟じて!』、
『空であるならば!』、
何を、
『分別して!』、
『罪、福』の、
『果報』が、
『有るのか?』。
『罪、福』は、
『等しいはずだ!』、と。
是のようであれば、
則ち、
『世諦』も、
『第一義諦』も、
『無く!』、
是の、
『空』という!、
『相』を、
自らに、
『都合よく!』、
『取り!』、
『相』中に、
『貪著』を、
『起し!』、
『畢竟』じて、
『空であるにも!』、
『拘らず!』、
『空』中に、
『種種の過(あやまち)』を、
『生じた!』ので、
『龍樹菩薩』は、
是れ等の為めの故に、
此の、
『中論』を、
『造ったのである!』。
  像法(ぞうほう):仏滅後の五百年を正法、仏滅後五百年を過ぎて一千年間を像法と名づける。像とは相似を指し、正法に似た法の意。
  (こん):正法を受けるに必須の根本的要素。信根、精進根、念根、定根、慧根等。
  (ほう):梵語dharmaの訳。保持を意味する語根dhrに由来する語にして、自性を保持する者の義にして、暗に不変の真実に基づく種種の意味を有する、例えば法律、義務、道理、正法、要素、本質、真実、事物等に訳されるが、又一切の名字乃至経法を謂って法と為すこともある。
  五陰(ごおん):人の身心を五種に分類した色受想行識陰をいう。
  十二入(じゅうににゅう):人の身心を十二種に分類した内の眼耳鼻舌身意の六情と、外の色声香味触法の六塵の総称。
  十八界(じゅうはっかい):人の身心を十八種に分類した眼等の六情、色等の六塵、眼識、乃至意識の六識の総称。
  世諦(せたい):世間的正義。因果応報は世諦の故に真実であり、是の故に五戒等を護持する。
  第一義諦(だいいちぎたい):観空的真実。行者は自ら身心の空を観て、身心の労苦に勤める。
 不生亦不滅  不常亦不斷 
 不一亦不異  不來亦不出 
 能說是因緣  善滅諸戲論 
 我稽首禮佛  諸說中第一
不生にして亦た不滅、不常にして亦た不断、
不一にして亦た不異、不来にして亦た不出なりと、
能く是の因縁を説きて、善く諸の戯論を滅したまえば、
我れは稽首して仏を礼す、諸説中の第一なりと。
諸の、
『法(事物)』は、
『不生であり、亦た不滅である!』、
『不常であり、亦た不断である!』、
『不一であり、亦た不異である!』、
『不来であり、亦た不出である!』と、
是の、
『因縁』を説いて、
諸の、
『戯論』を、
『巧みに!』、
『滅された!』。
わたしは、
『仏』を、
『稽首礼して!』、こう言う――、
是の、
『説』は、
諸の、
『説』中の、
『第一である!』、と。
以此二偈讚佛。則已略說第一義。 此の二偈を以って、仏を讃ずれば、則ち已に第一義を略説せり。
此の、
『二偈』を以って、
『仏』を、
『讃じた!』ならば、
已に、
『第一義』を、
『説いたことになる!』。
  (げ):梵語gaathaa。字数を定めて四句を結ぶ詩文。即ち四句を以って一偈と為す。
  第一義(だいいちぎ):空の別名。
問曰。諸法無量。何故但以此八事破。 問うて曰く、諸法は無量なり。何の故にか、但だ此の八事を以って、破する。
問う、――
諸の、
『法(事物)』は、
『無量である!』が、
何故、
但だ、
此の、
『八事(不生不滅等)』を以って、
諸の、
『法』を、
『破るのか?』。
  (は):やぶる。反証を挙げて論破する。
  :八不(はちふ):八種の否定( eight negations ):龍樹に依れば( Attributed to Nāgârjuna )、即ち不生不滅( Neither arising nor ceasing )、不断不常( neither eternal nor impermanent )、不一不異( neither one nor many )、不去不来( neither coming nor going )である。
答曰法雖無量。略說八事則為總破一切法。 答えて曰く、法は無量なりと雖も、八事を略説すれば、則ち総じて、一切の法を破すと為す。
答え、――
『法』は、
『無量である!』が、
此の、
『八事』を、
『略説すれば!』、
則ち、
『一切の法』を、
『破ることになる!』。
不生者。諸論師種種說生相。或謂因果一。或謂因果異。或謂因中先有果。或謂因中先無果。或謂自體生。或謂從他生。或謂共生。或謂有生。或謂無生。如是等說生相皆不然。此事後當廣說。生相決定不可得故不生。 不生とは、諸の論師は、種種に生の相を説きて、或いは因と、果とは一なりとい謂い、或いは因と、果と異なりと謂い、或いは因中に先に果有りと謂い、或いは因中に先に果無しと謂い、或いは自体より生ずと謂い、或いは他によって生ずと謂い、或いは共に生ずと謂い、或いは生有りと謂い、或いは生無しと謂う。是の如き等、生の相を説くも、皆然らず。此の事は、後に当に広く説くべし。生の相は、決定して、得べからざるが故に不生なり。
『不生』とは、――
諸の、
『論議師』は、
種種に、
『生』の、
『相』を、
『説いて!』、
或いは、
こう謂う、――
『因(先世の我)』と、
『果(後世の我)』とは、
『一である!』、と。
或いは、
こう謂う、――
『因』と、
『果』とは、
『異なる!』、と。
或いは、
こう謂う、――
『因』中に、
先に、
『果』が、
『有る!』、と。
或いは、
こう謂う、――
『因』中に、
先に、
『果』は、
『無い!』、と。
或いは、
こう謂う、――
『自ら!』の、
『体より!』、
『生じる!』、と。
或いは、
こう謂う、――
『他』に、
『従って!』、
『生じる!』、と。
或いは、
こう謂う、――
『自』と、
『他』と、
『共に(協力して)!』、
『生じる!』、と。
或いは、
こう謂う、――
『生』は、
『有る!』、と。
或いは、
こう謂う、――
『生』は、
『無い!』、と。
是れ等のように、
説かれた!、
『生』の、
『相』は、
皆、
『正しくない!』。
此の、
『事』は、
『後に!』、
『広説(詳説)しなくてはならない!』が、
『生の相』は、
決定して、
『認められない!』が故に、
『不生である!』。
  (そう):事物の相状。五感を以って察知する所の事物の状態。一切の有為法は、皆生、住、滅の三相を有する。
不滅者。若無生何得有滅。以無生無滅故。餘六事亦無 不滅とは、若し生無くんば、何んが、滅有るを得ん。生無く、滅無きを持っての故に、余の六事も亦た無し。
『不滅』とは、――
若し、
『生』が、
『無ければ!』、
何故、
『滅』が、
『有る!』と、
『認められるのか?』。
『生』も、
『滅』も、
『無い!』が故に、
その他の、
『六事』も、
『無い!』。
問曰。不生不滅已總破一切法。何故復說六事。 問うて曰く、不生、不滅なれば、已に総じて、一切法を破せり。何の故にか、復た六事を説く。
問う、――
『不生』と、
『不滅』とで、
已に、
『一切の法』を、
『破った!』。
何故、
復た、
『六事』を、
『説くのか?』。
答曰。為成不生不滅義故。有人不受不生不滅。而信不常不斷。若深求不常不斷。即是不生不滅。何以故。法若實有則不應無。先有今無是即為斷。若先有性是則為常。是故說不常不斷。即入不生不滅義。 答えて曰く、不生、不滅の義を成さんが為の故なり。有る人は不生、不滅を受けず、而も不常、不断を信ず。若し深く不常、不断を求むれば、即ち是れ不生、不滅なり。何を以っての故に、法は、若し実に有なれば、則ち応に無なるべからず。先に有にして、今無なれば、是れを即ち、断と為す。若し先に性有らば、是れ則ち常と為す。是の故に不常、不断を説けば、即ち不生、不滅の義に入る。
答え、――
『不生』、
『不滅』の、
『義(意義)』を、
『成立させる為である!』。
有る人は、
『不生』、
『不滅』の、
『義』を、
『受容しない!』が、
『不常』や、
『不断』なら、
『信じるだろう!』、
若し、
『不常』や、
『不断』を、
『深く!』、
『求めれば!』、
即ち、
『不生』や、
『不滅』を、
『求める!』のと、
『同じである!』、――
何故ならば、
『法』が、
若し、
『実』に、
『有れば!』、
『無いはずがない!』
若し、
『先』に、
『有った!』、
『法』が、
『今』、
『無ければ!』、
是れを、
『断』と、
『称する!』、
若し、
先に、
『性(常住不変の特質)』が、
『有れば!』、
是れを、
『常』と、
『呼ぶ!』。
是の故に、
『不常』や、
『不断』を、
『説けば!』、
『不生』や、
『不滅』の、
『義』に、
『入ることになる!』。
  (にゅう):理解の門に入る、又は入れる。
有人雖聞四種破諸法。猶以四門成諸法。是亦不然。若一則無緣。若異則無相續。後當種種破。是故復說不一不異。 有る人は四種に諸法を破すを聞くと雖も、猶お四門を以って、諸法を成ず。是れも亦た然らず。若し一なれば、則ち縁無し。若し異なれば、則ち相続無し。後に当に種種に破すべし。是の故に、復た不一、不異を説く。
有る人は、
諸の、
『法』が、
『四種』に、
『破られた!』と、
『聞いても!』、
猶お、
諸の、
『法』を、
『四門』を、
『用いて!』、
『成立させようとする!』が、
是れも、
亦た、
『間違っている!』。
若し、
『因』と、
『果』とが、
『一ならば!』、
『縁』が、
『無いことになり!』、
若し、
『異ならば!』、
『相続』が、
『無いことになる!』。
後に、
種種に、
『破ることになる!』が、
是の故に、
復た、
『不一、不異』を、
『説くのである!』。
有人雖聞六種破諸法。猶以來出成諸法。來者。言諸法從自在天世性微塵等來。出者。還去至本處。 有る人は、六種に諸法を破すを聞くと雖も、猶お来、出を以って、諸法を成ぜんとす。来とは、諸法は自在天、世性、微塵等より来るを言い、出とは、還り去って、本処に至るなり。
有る人は、
諸の、
『法』を、
『六種』に、
『破った!』と、
『聞いても!』、
猶お、
『来』とか、
『出』とかで、
諸の、
『法』を、
『成立させようとする!』。
『来る!』とは、
言わゆる、――
諸の、
『法』は、
『自在天』や、
『世性』や、
『微塵』等より、
『来ることであり!』、
『出る!』とは、
諸の、
『法』が、
還()た、
『本の処』に、
『至ることである!』。
復次萬物無生。何以故。世間現見故。世間眼見劫初穀不生。何以故。離劫初穀。今穀不可得。若離劫初穀有今穀者。則應有生。而實不爾。是故不生。 復た次ぎに、万物に、生無し。何を以っての故に、世間に現に見るが故なり。世間の眼には、劫初の穀の不生なるを見る。何を以っての故に、劫初の穀を離れて、今の穀を得べからざればなり。若し劫初の穀を離れて、今の穀有らば、則ち応に生有るべし。而も実に爾らず。是の故に不生なり。
復た次ぎに、
『万物』は、
『無生である!』、――
何故ならば、
『世間』は、
『現に!』、
『見るからだ!』。
『世間』の、
『眼』は、こう見る、――
『劫初(世界最初)』の、
『穀(もみ)』は、
『生じない!』、と。
何故ならば、
『劫初』の、
『穀』を、
『離れれば!』、
『今』の、
『穀』は、
『得られないからだ!』。
若し、
『劫初』の、
『穀』を、
『離れて!』、
『今』の、
『穀』が、
『有れば!』、
則ち、
『生』は、
『有るはずだが!』、
而し、
『実は!』、
『そうでない!』、
是の故に、
諸の、
『法』は、
『不生である!』。
  劫初(ごっしょ):世界始まって以来最初の。
問曰若不生則應滅。 問うて曰く、若し不生ならば、則ち応に滅なるべし。
問う、――
若し、
『生でなければ!』、
則ち、
『滅のはずだ!』。
答曰不滅。何以故。世間現見故。世間眼見劫初穀不滅。若滅今不應有穀而實有穀。是故不滅。 答えて曰く、不滅なり。世間に現に見るが故なり。世間の眼には、劫初の穀の不滅なるを見る。若し滅なれば、今も応に穀有るべからず。而も実に穀有り。是の故に不滅なり。
答え、――
『滅でない!』、――
何故ならば、
『世間』は、
『現に!』、
『見るからだ!』。
『世間』の、
『眼』は、こう見る、――
『劫初』の、
『穀』は、
『滅しない!』、と。
若し、
『滅すれば!』、
今の、
『穀』は、
『有るはずがない!』。
而し、
実に、
『穀』が、
『有る!』、
是の故に、
『滅でない!』。
問曰。若不滅則應常。 問うて曰く、若し不滅ならば、則ち応に常なるべし。
問う、――
若し、
『滅でなければ!』、
則ち、
『常のはずだ!』。
答曰不常。何以故。世間現見故。世間眼見萬物不常。如穀芽時種則變壞。是故不常。 答えて曰く、不常なり。何を以っての故に、世間に現に見るが故なり。世間の眼には、万物は不常なりと見る。穀が芽の時、種は則ち変壊せるが如し。是の故に不常なり。
答え、――
『常でない!』、――
何故ならば、
『世間』は、
『現に!』、
『見るからだ!』。
『世間』の、
『眼』は、こう見る、――
『万物』は、
『常でない!』、と。
例えば、
『穀』が、
『芽となる!』時、
則ち、
『種』が、
『変壊することになる!』。
是の故に、
『常でない!』。
問曰若不常則應斷。 問うて曰く、若し不常ならば、則ち応に断なるべし。
問う、――
若し、
『常でなければ!』、
則ち、
『断のはずだ!』。
答曰不斷。何以故。世間現見故。世間眼見萬物不斷。如從穀有芽。是故不斷。若斷不應相續。 答えて曰く、不断なり。何を以っての故に、世間に現に見るが故なり。世間の眼には、万物の不断なるを見る。穀によって芽有るが如し。是の故に不断なり。若し断なれば、応に相続すべからず。
答え、――
『断でない!』、――
何故ならば、
『世間』は、
『現に!』、
『見るからだ!』。
『世間』の、
『眼』は、こう見る、――
『万物』は、
『断でない!』、と。
例えば、
『穀』によって、
『芽』が、
『有るようなものだ!』。
是の故に、
『断でない!』。
若し、
『断ならば!』、
『相続するはずがない!』。
問曰。若爾者萬物是一。 問うて曰く、若し爾らば、万物は是れ一なり。
問う、――
若し、
『断でなければ!』、
『万物』は、
『一である!』。
答曰不一。何以故。世間現見故。世間眼見萬物不一。如穀不作芽芽不作穀。若穀作芽芽作穀者。應是一。而實不爾。是故不一。 答えて曰く、不一なり。何を以っての故に、世間に現に見るが故なり。世間の眼には、万物の不一なるを見る。穀は芽と作らず、芽は穀と作らざるが如し。若し穀は芽と作り、芽は穀と作らば、応に是れ一なるべし。而も実に爾らず。是の故に不一なり。
答え、――
『一でない!』、――
何故ならば、
『世間』は、
『現に!』、
『見るからだ!』。
『世間』の、
『眼』は、こう見る、――
『万物』は、
『一でない!』、と。
例えば、
『穀』は、
『芽』と、
『作らない!』し、
『芽』は、
『穀』と、
『作らないようなものだ!』。
若し、
『穀』が、
『芽』と、
『作り!』、
『芽』が、
『穀』と、
『作れば!』、
当然、
『一であるはずだ!』。
而し、
『実に!』、
『そうでない!』、
是の故に、
『一でない!』。
問曰若不一則應異。 問うて曰く、若し不一ならば、則ち応に異なるべし。
問い、――
若し、
『一でなければ!』、
則ち、
『異でなければならない!』。
答曰不異。何以故。世間現見故。世間眼見萬物不異。若異者。何故分別穀芽穀莖穀葉。不說樹芽樹莖樹葉。是故不異。 答えて曰く、不異なり。何を以っての故に、世間に現に見るが故なり。世間の眼には、万物の不異なるを見る。若し異ならば、何の故にか、穀の芽、穀の茎、穀の葉を分別して、樹の芽、樹の茎、樹の葉と説かざる。是の故に不異なり。
答え、――
『異でない!』、――
何故ならば、
『世間』は、
『現に!』、
『見るからだ!』。
『世間』の、
『眼』は、こう見る、――
『万物』は、
『異でない!』と。
若し、
『異ならば!』、
何故、
『穀の芽、穀の茎、穀の葉』を
『樹の芽、樹の茎、樹の葉』と、
『分別して!』、
『説かないのか?』。
『穀の芽、穀の茎、穀の葉』と
『樹の芽、樹の茎、樹の葉』とは、
『異でない!』が故に、
是の故に、
『万物』は、
『異でない!』。
  芽茎葉等:梵語 aGkura- kaaNDa- ptraadi の訳、芽と茎と葉及びその他( sprouts, stems, leaves, and so forth )の意。
  :芽、茎、葉を指す語は多く、それ等の言葉の射程範囲( range )も不明確である、故に此の段の意味は詳らかでない。恐らく芽( aGkura )、茎( kaaNDa )、葉( pattra )の語が米穀にも、樹木にも通用するが故に、異ならないと謂っているのだろう。
問曰。若不異應有來。 問うて曰く、若し不異ならば、応に来有るべし。
問い、――
若し、
『異でなければ!』、
『来る!』ことが、
『有るはずだ!』。
答曰無來何以故。世間現見故。世間眼見萬物不來。如穀子中芽無所從來。若來者。芽應從餘處來。如鳥來栖樹。而實不爾。是故不來。 答えて曰く、無来なり。何を以っての故に、世間に現に見るが故なり。世間の眼には、万物の不来なるを見る。穀子中には、芽の従来する所無きが如し。若し来ならば、芽は応に余の処より来たること、鳥の来たりて、樹に栖むが如くなるべし。而も実に爾らず。是の故に不来なり。
答え、――
『来る!』ことは、
『無い!』、――
何故ならば、
『世間』は、
『現に!』、
『見るからだ!』。
『世間』の、
『眼』は、こう見る、――
『万物』は、
『来ない!』、と。
例えば、
『穀子(たね)』中に、
『芽』の、
『来所(本居た場所)』が、
『無いようなものだ!』。
若し、
『来れば!』、
『芽』は、
『余所』から、
『来たはずだ!』。
例えば、
『鳥』が、
『来て!』、
『樹』に、
『栖()む!』ように。
而し、
『実に!』、
『そうでない!』。
是の故に、
『来ない!』。
問曰。若不來應有出。 問うて曰く、若し不来ならば、応に出有るべし。
問い、――
若し、
『来なければ!』、
『出る(現れる)!』ことが、
『有るはずだ!』。
答曰不出。何以故。世間現見故。世間眼見萬物不出。若有出。應見芽從穀出。如蛇從穴出。而實不爾。是故不出。 答えて曰く、不出なり。何を以っての故に、世間に現に見るが故なり。世間の眼には、万物の不出なるを見る。若し出有らば、応に芽の穀より出づること、蛇の穴より出づるが如きを見るべし。而も実に爾らず。是の故に不出なり。
答え、――
『出ない!』、――
何故ならば、
『世間』は、
『現に!』、
『見るからだ!』。
『世間』の、
『眼』は、こう見る、――
『万物』は、
『出ない!』、と。
若し、
『出る!』ことが、
『有れば!』、
『穀より!』、
『芽』が、
『出る!』のを、
『見るはずだ!』。
例えば、
『蛇』が、
『穴より!』、
『出るようなものだ!』。
而し、
『実に!』、
『そうでない!』、
是の故に、
『出ない!』。
問曰。汝雖釋不生不滅義。我欲聞造論者所說。 問うて曰く、汝は、不生不滅の義を釈すと雖も、我れは、造論者の所説を聞かんと欲す。
問い、――
お前は、
『不生』とか、
『不滅』という、
『義(意味)』を、
『釈した!』が、
わたしは、
『造論者』の、
『所説』が、
『聞きたい!』。
答曰
 諸法不自生  亦不從他生 
 不共不無因  是故知無生
答えて曰く、
諸法は自生にあらず、亦た他に従る生にあらず、
共にあらず因無きにあらず、是の故に無生なるを知る。
答え、――
諸の、
『法』は、
『自ら!』を、
『生じさせない!』し、
亦た、
『他より!』、
『生じることもない!』。
亦た、
『自、他』が、
『協力して!』、
『生じるのでもない!』し、
亦た、
『因』が、
『無いのに!』、
『生じるのでもない!』、
是の故に、
こう知る、――
『生』は、
『無い!』、と。
参考
na svato nāpi parato na dvābhyāṃ nāpy ahetutaḥ |
utpannā jātu vidyante bhāvāḥ kva cana ke cana ||1||
No thing anywhere is ever born from itself,
from something else, from both or without a cause.

参考
No thing anywhere
Is ever produced
From itself, from something different,
From both or without a cause.

参考
もろもろの「存在(もの‧こと)」は,どこにおいても,どのようなものでも,自身から,また他者から,また﹝自身と他者との﹞両者から,また無因から,生じたものとして存在することは,決してない。
不自生者。萬物無有從自體生。必待眾因。 自生にあらずとは、万物は、自体より生ずる有る無く、必ず衆因を待つ。
『自ら!』を、
『生じさせない!』とは、――
『万物』は、
『自体より!』、
『生じる!』ことは、
『無い!』。
必ず、
『衆因(多くの因)』を、
『待って!』、
『生じる!』。
復次若從自體生。則一法有二體。一謂生。二謂生者。若離餘因從自體生者。則無因無緣。又生更有生生則無窮。 復た次ぎに、若し自体より生ぜば、則ち一法に、二体有らん。一に謂わく生、二に謂わく生者なり。若し余因を離れて、自体より生ぜば、則ち無因、無縁ならん。又生に更に生有らば、生は則ち無窮ならん。
復た次ぎに、
若し、
『自ら!』の、
『体より!』、
『生じれば!』、
則ち、
『一法』に、
『二体』が、
『有ることになる!』、――
一には、
謂わゆる、
『生(生まれた者)であり』
二には、
謂わゆる、
『生者(生む者)である!』。
若し、
『自ら!』を、
『因』と、
『為し!』、
『他の!』、
『因』を、
『離れて!』、
『自ら!』の、
『体より!』、
『生じれば!』、
則ち、
『因、縁』が、
『無いのに!』、
『生じたことになる!』。
又、
『生(生まれた者)』に、
更に、
『生(生まれた者)』が、
『有れば!』、
『生』は、
則ち、
『窮まる!』ことが、
『無い!』。
是の故に
『自ら!』の、
『体より!』、
『生じる!』ことは、
『無い!』。
自無故他亦無。何以故。有自故有他。若不從自生。亦不從他生。共生則有二過。自生他生故。 自無きが故に、他も亦た無し。何を以っての故に、自有るが故に、他有ればなり。若し自に従る生にあらざれば、亦た他に従る生にもあらず。共に生ぜば、則ち二過有らん。自の生と、他の生との故なり。
『自ら』の、
『体より!』、
『生じる!』ことが、
『無ければ!』、
『他』の、
『体より!』、
『生じる!』ことも、
『無い!』、――
何故ならば、
『自ら!』が、
『有る!』が故に、
『他』が、
『有るからだ!』。
若し、
『自ら!』の、
『体より!』、
『生じなければ!』、
亦た、
『他より!』、
『生じることもないだろう!』、
若し、
『自』と、
『他』とが、
『共に(協力して)!』、
『生じるとすれば!』、
則ち、
『自ら!』の、
『体より!』、
『生じ!』、
『他より!』、
『生じるという!』、
『二』の、
『過(あやまち)』が、
『有ることになる!』。
若無因而有萬物者。是則為常。是事不然。無因則無果。若無因有果者。布施持戒等應墮地獄。十惡五逆應當生天。以無因故。 若し無因にして、万物有らば、是れ則ち常と為す。是の事は然らず。無因なれば、則ち無果なり。若し無因にして、果有らば、布施、持戒等は応に地獄に堕すべく、十悪、五逆は応に天に生ずべし。無因なるを以っての故なり。
若し、
『因』が、
『無いのに!』、
『万物』が、
『有れば!』、
則ち、
是れは、
『常である!』が、
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
何故ならば、
『因』が、
『無ければ!』、
則ち、
『果』は、
『無いことになるからだ!』。
若し、
『因』が、
『無いのに!』、
『果』が、
『有れば!』、
当然、
『布施』や、
『持戒』等は、
『地獄』に、
『堕ちなくてはならず!』、
『十悪』、
『五逆』等は、
『天』に、
『生まれるはずだ!』。
何故ならば、
『因』が、
『無いからである!』。
復次
 如諸法自性  不在於緣中 
 以無自性故  他性亦復無
復た次ぎに、
如(も)し諸法の自性、縁中に在らずんば、
自性無きを以っての故に、他性も亦復た無し。
復た次ぎに、
若し、
諸の、
『法』の、
『自性』が、
『縁』中に、
『存在しなければ!』、
『自ら!』の、
『性』が、
『無い!』が故に、
『他』の、
『性』も、
『無いはずだ!』。
参考:
na hi svabhāvo bhāvānāṃ pratyayādiṣu vidyate |
avidyamāne svabhāve parabhāvo na vidyate ||2||
The essence of things does not exist in conditions and so on.
If an own thing does not exist, an other thing does not exist.

参考
There is no essence of things
Existing in conditions and so forth.
If there is no own essence
There cannot be a different essence.

参考
実に,もろもろの「存在(もの‧こと)」の自性(その「存在(もの‧こと)」ならしめ る固有の実体)は,﹝これら四種の﹞縁などのなかには存在しない。自性が存在しないならば,他性(他の「存在(もの‧こと)」の固有の実体)は存在しない。
諸法自性不在眾緣中。但眾緣和合故得名字。自性即是自體。眾緣中無自性。自性無故不自生。 諸法の自性は、衆縁中に在らず、但だ衆縁和合の故に、名字を得。自性は、即ち是れ自体なり。衆縁中に自の性無し。自の性無きが故に、自ら生ぜず。
諸の、
『法』の、
『自性』は、
『衆縁』中に、
『無い!』。
但だ、
『衆縁』の、
『和合』の故に、
『名字(名前)』が、
『認められるだけだ!』。
『自性』とは、
即ち、
『自ら!』の、
『体である!』が、
『衆縁』中に、
『自性』は、
『無い!』。
『自ら!』に、
『性』が、
『無い!』が故に、
『自ら!』の、
『体』を、
『生じさせられない!』。
自性無故他性亦無。何以故。因自性有他性。他性於他亦是自性。若破自性即破他性。是故不應從他性生。若破自性他性即破共義。 自の性無きが故に、他の性も亦た無し。何を以っての故に、自の性に因りて、他の性有り。他の性は、他に於いては亦た是れ自の性なればなり。若し自の性を破せば、即ち他の性を破す。是の故に応に、他の性に従る生なるべからず。若し自の性、他の性を破せば、即ち共の義を破す。
『自ら!』の、
『性』が、
『無い!』が故に、
『他』の、
『性』も、
『無い!』、――
何故ならば、
『自ら!』の、
『性!』に、
『因って!』、
『他』の、
『性』が、
『有るからだ!』。
『他』の、
『性』とは、――
『他』に於いては、
『自ら!』の、
『性である!』。
若し、
『自ら!』の、
『性』を、
『破れば!』、
『他』の、
『性』も、
『破ることになる!』。
是の故に、
『他』の、
『性より!』、
『生じるはずがない!』。
若し、
『自、他』の、
『性』を、
『破れば!』、
『共に!』の、
『義』も、
『破ることになる!』。
無因則有大過。有因尚可破。何況無因。於四句中生不可得。是故不生。 無因なれば、則ち大過有り。因有るも尚お破すべし。何に況んや、因無きをや。四句中に於いて、生を得べからず。是の故に不生なり。
『因』が、
『無いのに!』、
『生じれば!』、
則ち、
『大過』が、
『有ることになる!』。
『因』が、
『有っても!』、
尚お、
『破られる!』、
況()して、
『因』が、
『無ければ!』、
『尚更である!』。
『四句』中に、
『生』を、
『求めた!』が、
『認められない!』、
是の故に、
『不生である!』。
問曰。阿毘曇人言。諸法從四緣生。云何言不生。 問うて曰く、阿毘曇人の言わく、『諸法は、四縁に従って生ず』、と。云何が、不生なりと言う。
問い、――
『阿毘曇人』は、こう言う、――
諸の、
『法』は、
『四縁より!』、
『生じる!』、と。
何故、
こう言うのか?――
『生じない!』、と。
  阿毘曇(あびどん):梵語abhidharma、対法の義。智慧を以って諸法の真理を対観するの意。小乗論部をいう。
何謂四緣
 因緣次第緣  緣緣增上緣 
 四緣生諸法  更無第五緣
何んが四縁と謂う、
因縁、次第縁、縁縁、増上縁なり、
四縁は諸法を生じ、更に第五の縁無し。
何を、
『四縁』と謂うのか?――
『因縁』と、
『次第縁』と、
『縁縁』と、
『増上縁』との、
『四縁』は、
諸の、
『法(事物)』を、
『生じる!』、
更に、
『法』を、
『生じる!』、
『第五』の、
『縁』は、
『無い!』。
  (えん):条件( condition )、梵語 pratyaya の訳、間接的原因( indirect cause )、副次的原因( secondary cause )、補助的条件( associated conditions )、原因となる事情( causal situation )、原因となる条件( causal condition )等の義。 有らゆる事象は、原因、結果の原理に従属し、而も、その結果を招来すべき原因を助ける条件/環境が存在し、それが間接的原因[縁]と呼ばれている。強く注意を促される所であるが、仏教では特に一般的原因に関する問題に注意を払っており、特に従属的生起の問題、原因とその要因に関する問題は、ほとんど有らゆる議論に於いて見られる。[縁は、]その直接的、又は基本的な原因たる因( hetu )との対比に於いて見られ、因は種子に、縁は、土、雨、日光等に喩えられる。縁は、又鉢羅底也とも訳される。( All things are subject to the principle of cause and effect, but there are conditions/circumstances that aid the causes that produce an effect, which are called indirect causes. Given the strong attention that Buddhism pays in general to matters of causation, especially as seen in the theory of dependent arising, the matter of associated causes and factors is seen in almost any discussion. Seen in contrast with 因 hetu, the direct or fundamental cause. Hetu is like a seed, pratyaya the soil, rain, sunshine, etc. pratyaya is transliterated as 鉢羅底也.[Charles Muller, Stephen Hodge; source(s): Nakamura,
JEBD, Yokoi, Iwanami])。
  四縁(しえん):阿毘曇中所説の事物の生起に係わる四種の縁をいう。即ち、「大毘婆沙論巻21」に依れば、謂わく、「問う、もし一法に於いて四縁を具せば、まさにただ一縁なるべし、云何が四を立つ。答う、作用に依りて立て、物体に依りて立てず。一物体中に四用有るが故なり。謂わく一刹那の心心所法は、次後の刹那の同類の心心所を引起するが故に立てて因縁となし、即ちこれ開避して次後の刹那の心心所法をして生ずることを得しむるが故に立てて等無間縁(次第縁)となし、即ちこれよく次後の刹那の心心所法の所取の境となるが故に立てて所縁縁(縁縁)となし、即ちこれ障礙せずして次後の刹那の心心所法をして生ずることを得しむるが故に立てて増上縁となす」、と。
1 因縁 
hetu- pratyaya
原因としての縁:果を生ずる直接的な原因。六情を因と為し、六塵を縁と為し、六情が六塵に対する時、六識を生ずるをいう。
2 次第縁 
samanantara- pratyaya 
認識の対象としての縁:心心数法は次第に無間に相続して起るに、前刹那の心数法を因として、後の刹那の同類の心数法を生ずるをいう。
3 縁縁 
aalambana- pratyaya
精神作用が相続して起るための縁:心心数法の所縁となるべき一切の事物。心が外の所縁に対する時、応じて還た心中に法を生じ、次後の刹那の心数法の所取の境(所縁)となるをいう。
4 増上縁
adhipati- pratyaya 
助力としての縁:一切の法は果となる一法の為めの縁。六情が境を照らして識を誘発するに増上の力用あり、諸の心を生ずるに障礙しないことをいう。
参考
catvāraḥ pratyayā hetur ārambaṇam anantaram |
tathaivādhipateyaṃ ca pratyayo nāsti pañcamaḥ ||3||
There are four conditions:
Causes, objects, immediate and dominant.
There is no fifth.

参考:
The four conditions are causal conditions,
And likewise also observed object conditions,
Immediate conditions and empowering conditions.
There is no fifth condition.

参考
もろもろの縁(条件)は四種である。因﹝縁﹞(原因としての縁),所縁﹝縁﹞(認識の対象 としての縁),等無間﹝縁﹞(心理作用の續いて起るための縁),そしてまた增上﹝縁﹞(助力するという縁)である。第五縁は存在しない。
一切所有緣。皆攝在四緣。以是四緣萬物得生。因緣名一切有為法。次第緣除過去現在阿羅漢最後心心數法。餘過去現在心心數法。緣緣增上緣一切法。 一切の有らゆる縁は、皆、四縁に摂す。是の四縁を以って、万物は生を得。因縁を、一切の有為法に名づけ、次第縁を、過去現在の阿羅漢の最後の心心数法を除く、余の過去現在の心心数法に名づけ、縁縁、増上縁は、一切法なり。
一切の、
有らゆる、
『縁』は、
皆、
『四縁』中に、
『含まれる!』。
是の、
『四縁』を以って、
『万物(諸法)』は、
『生』を、
『得る!』。
『因縁』とは、
一切の、
『有為法』をいう。
『次第縁』とは、
『過去』と、
『現在』の、
『阿羅漢』の、
『最後の心、心数法(小乗涅槃)』を、
『除いた!』、
その他の、
『過去』と、
『現在』の、
『心、心数法である!』。
『縁縁』と、
『増上縁』とは、
一切の、
『法(有為法+無為法)である!』。
  阿羅漢(あらかん):梵語arhat、応供と訳す、供養を受けるに足るの義。正覚を得た者をいう。
  心心数法(しんしんじゅほう):有為法中の心法、及び心数法をいう。
  有為法(ういほう):造作ある者の義。衆縁より生じて生、住、滅三相を有する。これに下表の七十二法あり、この七十二法と無為法の三法とを併せて、七十五法を一切法と名づける。無為法は造作なき者の意にして、涅槃の如く常住不変にして多分に理想的かつ但だ想像的の者をいう。
    有為法
1 色法 3種11法をいう、
1 五根/
五情/
眼、耳、鼻、舌、身
2 五境/
五塵
色、声、香、味、触
3 無表色 戒等の善の身口意三業(即ち色法)は、内心中に住して、直ちに外に表出すること無きが故に、無表の色と名づける、犯戒等の不善の業も亦た同じ
2 心法 唯だ1種の法であり、又心王とも名づけるように、心を主宰し、次に示す所の心数法、即ち種種の精神作用を起こす主体であると考えられる
3 心数法 心法に属する種種の精神作用
1 大地法 一切の心と倶に起る法
1 受 vedanaa
2 想 saMjJaa
3 思 cetanaa
4 触 sparza
5 欲 chanda
6 慧 prajJaa
7 念 smRti
8 作意 manasi- kaara
9 勝解 adhimokSa
10 三摩地 samaadhi
2 大善地法 一切の善心と倶に起る法
1 信 zraddhaa
2 不放逸 apramaada
3 軽安 prazrabdhi
4 捨 upekSaa
5 慚 hrii
6 愧 apatraapya
7 無貪 alobha
8 無瞋 adveSa
9 不害 ahiMsaa
10 勤 viirya
3 大煩悩地法 染汚心と常に相応する煩悩法
1 無明 avidyaa
2 放逸 pramaada
3 懈怠 kausiidya
4 不信 aazraddhya
5 惛沈 styaana
6 掉挙 auddhatya
4 大不善地法 一切の不善心に相応する法
1 無慚 aahriikya
2 無愧 anapatraapya
5 小煩悩地法 小分の染汚心と相応して各別に起る煩悩法
1 忿 krodha
2 覆 mrakSa
3 慳 maatsarya
4 嫉 iirSyaa
5 悩 pradaasa
6 害 vihiMsaa
7 恨 upanaaha
8 諂 maayaa
9 誑 zaathya
10 憍 mada
6 不定地法 その起こること不定なる法
1 悪作 kaukRtya
2 睡眠 middha
3 尋 vitarka
4 伺 vicaara
5 貪 raaga
6 瞋 pratigha
7 慢 maana
8 疑 vicikitsaa
4 心不相応行法 心法と不相応に起る法
1 得 praapti
2 非得 apraapti
3 衆同分 nikaaya- sa- bhaaga
4 無想 aasaMjJika
5 無想定 aasaMjJi- samaapatti
6 滅尽定 nirodha- samaapatti
7 命根 jiivitentriya
8 生 jaati
9 住 sthiti
10 異 anyathaatva
11 滅 vyaya
12 名身 naama- kaaya
13 句身 pada- kaaya
14 文身 vyaJjana- kaaya
答曰
 果為從緣生  為從非緣生 
 是緣為有果  是緣為無果
答えて曰く、
果は縁より生ずと為すや、非縁より生ずと為すや、
是の縁に果有りと為すや、是の縁に果無しと為すや。
答え、――
『果』は、
『縁より!』、
『生じるのか?』、
『非縁より!』、
『生じるのか?』。
是の、
『縁』に、
『果』は、
『有るのか?』、
『果』は、
『無いのか?』。
参考:
kriyā na pratyayavatī nāpratyayavatī kriyā |
pratyayā nākriyāvantaḥ kriyāvantaś ca santy uta ||4||
There is no activity which has conditions.
There is no activity which does not have conditions.
There are no conditions which do not have activity,
and none which do have activity.

参考:
Actions do not have conditions
And actions without conditions do not exist.
Without an action it is not a condition
And conditions that have actions do not exist.

参考
﹝結果を生ずる﹞作用は,縁をそなえたものとして﹝存在するのでは﹞ない。作用は, 縁をそなえていないものとして﹝存在するのでは﹞ない。もろもろの縁は,作用をそな えていないものとして﹝存在するのでは﹞ない。あるいは,﹝もろもろの縁は﹞作用を そなえたものとして存在するであろうか。﹝そうではない﹞。
若謂有果。是果為從緣生。為從非緣生。若謂有緣。是緣為有果為無果。二俱不然。 若し『果有り』と謂わば、是の果は縁に従って生ずと為すや、非縁に従って生ずと為すや。若し『縁有り』と謂わば、是の縁には、果有りと為すや、果為しと為すや。二は倶に然らず。
若し、
『果』が、
『有る!』、と謂えば、――
是の、
『果』は、
『縁より!』、
『生じるのか?』、
『非縁より!』、
『生じるのか?』。
若し、
『縁』が、
『有る!』、と謂えば、――
是の、
『縁』には、
『果』が、
『有るのか?』、
『果』は、
『無いのか?』。
是の、
『二種』は、
どちらも、
『間違っている!』。
何以故
 因是法生果  是法名為緣 
 若是果未生  何不名非緣
何を以っての故に、
是の法に因りて果を生ず、是の法を名づけて縁と為す、
若し是の果未だ生ぜずんば、何んが非縁と名づけざる。
何故ならば、
是の、
『法()』に、
『因って!』、
『果』を、
『生じる!』ので、
是の、
『法』を、
『縁』と、
『呼ぶ!』。
若し、
是の、
『果』が、
『未だ!』、
『生じなければ!』、
是の、
『法』を、
何故、
『非縁』と、
『呼ばないのか?』。
  名為(みょうい):呼ばれる( it is called )、梵語 aakhyaayate , naama 等の訳、と名づけられている/と呼ばれている( to be named , to be called )、又は梵語 kila の訳、と言われている( so said, so reported )等の義。
参考:
utpadyate pratītyemān itīme pratyayāḥ kila |
yāvan notpadyata ime tāvan nāpratyayāḥ katham ||5||
Since something is born in dependence upon them,
then they are known as “conditions”.
As long as it is not born, why are they not non-conditions?

参考:
Since things are produced in dependence upon them
They are said to be conditions.
As long as something is not produced
Why wouldn’t they be non-conditions?

参考
「これらのものに縁って﹝それが﹞生ずる」といわれるとき,﹝その﹞「これら」が﹝ それの﹞「縁」である,と伝えられている。﹝したがって﹞,﹝それが﹞生じないかぎ りにおいて,「これら」は,どうして,非縁(縁でないもの)でないのか。(どうしても非 縁なのである,「これら」は縁にはならない)。
諸緣無決定。何以故。若果未生。是時不名為緣。但眼見從緣生果。故名之為緣。 諸縁に決定無し。何を以っての故に、若し果未だ生ぜずんば、是の時を名づけて、縁と為さざればなり。但だ眼に縁より、果を生ずるを見るが故に之を名づけて、縁と為す。
諸の、
『縁』には、
『決定した!』、
『法』が、
『無い!』、――
何故ならば、
若し、
『果』が、
『未だ!』、
『生じなければ!』、
是の時は、
『縁』と、
『呼ばれない!』、
但だ、
『眼』に、
『縁より!』、
『果』を、
『生じる!』のを、
『見る!』が故に、
是の、
『法』を、
『縁』と、
『呼ぶ!』。
緣成由於果。以果後緣先故。若未有果何得名為緣。如瓶以水土和合故有瓶生。見瓶緣知水土等是瓶緣。若瓶未生時。何以不名水土等為非緣。是故果不從緣生。緣尚不生。何況非緣。 縁の成ずるは、果に由る。果は後、縁は先なるを持っての故に。若し未だ、果有らざれば、何んが、名づけて縁と為すを得ん。瓶は、水と土との和合を以っての故に、有る瓶生ずるに、瓶の縁を見て、水と土等は、是れ瓶の縁なりと知るが如し。若し瓶の未だ生ぜざる時には、何を以ってか、水、土等を名づけて、非縁と為さざるや。是の故に、果は縁より生ぜず。縁すら尚お生ぜざるに、何に況んや、非縁をや。
『縁』は、
『果』に、
『由って( because of )!』、
『成立する!』。
『果』は、
『後で!』、
『縁』が、
『先だからだ!』。
若し、
未だ、
『果』が、
『無ければ!』、
何故、
『縁』と、
『呼ばれることができるのか?』
例えば、
『瓶』は、
『水』と、
『土』との、
『和合』の故に、
有る、
『瓶』が、
『生じる!』が、
『瓶』が、
『水』と、
『土』とを、
『縁とする!』のを、
『見て!』、
『水』と、
『土』とが、
『瓶の縁だ!』と、
『知るようなものだ!』。
若し、
『瓶』が、
『未だ!』、
『生じない!』時、
何故、
『水』や、
『土』等を、
『瓶』の、
『非縁』と、
『呼ばないのか?』。
是の故に、
『果』は、
『縁より!』、
『生じない!』。
『縁』すら、
『尚お!』、
『生じないとすれば!』、
況して、
『非縁』は、
『言うまでもない!』。
復次
 果先於緣中  有無俱不可 
 先無為誰緣  先有何用緣
復た次ぎに、
果は先に縁中に、有るも無きも倶に不可なり、
先に無し誰の為にぞ縁ずる、先に有り何ぞ縁を用うる
復た次ぎに、
『果』が、
先に、
『縁』中に、
『有っても!』、
『無くても!』、
どちらも、
『容認できない!』。
先に、
『果』が、
『無ければ!』、
『縁』は、
『誰れの為の!』、
『縁となるのか?』。
先に、
『果』が、
『有れば!』、
『縁』を、
『何に!』、
『用いるのか?』。
参考:
naivāsato naiva sataḥ pratyayo ’rthasya yujyate |
asataḥ pratyayaḥ kasya sataś ca pratyayena kim ||6||
It is impossible
for something that either exists or not to have conditions.
If it were non-existent, of what would they be the conditions?
If it were existent, why would it need conditions?

参考:
Moreover, conditions are acceptable
For neither non-existent nor existent objects.
If the object is non-existent, for what would they be conditions?
If the object is existent, what would conditions do?

参考
事物が無いときにも,有るときにも,縁は妥當しない。﹝なぜならば,事物が無いときは﹞,無である何ものにとっての縁なのであろうか。また,﹝事物がすでに有るときは, その﹞有るものにおいて,﹝あらたに﹞縁をもって,何を﹝なすの﹞か。(いまさら縁は必要としない)。
緣中先非有果非無果。若先有果不名為緣。果先有故。若先無果亦不名為緣。不生餘物故。 縁中には先に果有るに非ず、果無きに非ず。若し先に果有らば、名づけて縁と為さず、果先に有るが故に。若し先に果無ければ、亦た名づけて、縁と為さず、余の物を生ぜざるが故に。
『縁』中に、
先に、
『果』は、
『有るでもなく!』、
『無いでもない!』。
若し、
先に、
『果』が、
『有れば!』、
『縁』とは、
『呼ばれない!』、
『果』が、
『先に!』、
『有るからだ!』。
若し、
先に、
『果』が、
『無ければ!』、
亦た、
『縁』とは、
『呼ばれない!』、
『縁』は、
『他の物』を、
『生じないからだ!』。
問曰。已總破一切因緣。今欲聞一一破諸緣。 問うて曰く、已に総じて、一切の因縁を破せり。今は一一諸縁を破するを聞かんと欲す。
問い、――
已に、
一切の、
『因縁』を、
『総じて!』、
『破った!』。
今は、
これを聞きたい、――
諸の、
『縁』の、
『一一』を、
『破るのを!』。
答曰
 若果非有生  亦復非無生 
 亦非有無生  何得言有緣
答えて曰く、
若し果に生有るに非ず、亦復た生無きに非ず、
亦た生有無にも非ずんば、何ぞ縁有りと言うを得ん。
答え、――
若し、
『果』に、
『生』が、
『有るでもなく!』
亦た、
『生』が、
『無いでもなく!』、
亦た、
『生』が、
『有/無でもなければ!』、
何故、
『縁』が、
『有る!』と、
『言えるのか?』。
参考:
na san nāsan na sad asan dharmo nirvartate yadā |
kathaṃ nirvartako hetur evaṃ sati hi yujyate ||7||
When things cannot be established as either existent,
non-existent or both,
how can one speak of an “establishing cause.”
Such would be impossible.

参考:
When a phenomenon has not been established
To be either existent, non-existent or both
How could it be said ‘A causal condition is that which acts to establish it’?
Such is not tenable.

参考
「もの」は,有としても,無としても,有であり且つ無としても,生ずることはない。 そのさい,そのようである以上,生じさせる因﹝緣﹞が,一体,どうして,妥当するであろうか。(因﹝縁﹞は妥當しない)。
若緣能生果。應有三種。若有若無若有無。 若し縁の、能く果を生ぜば、応に三種有るべし。若しは有り、若しは無し、若しは有無なり。
若し、
『縁』が、
『果』を、
『生じられるならば!』、
『果』には、
『三種』、
『有るはずだ!』、――
『果』が、
『有る( to be existent )のか?』、
『無い( to be non-existent )のか?』、
『有/無( both being existent and being non-existent )なのか?』だ。
如先偈中說。緣中若先有果不應言生。以先有故。 先の偈中に説くが如く、縁中に若し先に果有らば、応に生ずと言うべからず、先に有るを以っての故なり。
先の、
『偈』中に、こう説く通りである、――
『縁』中に、
若し、
先に、
『果』が、
『有れば!』、
『果』を、
『生じた!』と、
『言うはずがない!』。
『果』は、
『先に!』、
『有るからだ!』。
若先無果不應言生。以先無故。亦應與非緣同故。 若し先に果無くんば、応に生ずと言うべからず、先に無きを以っての故に、亦た応に非縁と同じきが故なり。
若し、
先に、
『果』が、
『無ければ!』、
『縁』が、
『果』を、
『生じた!』と、
『言うはずがない!』、
『果』が、
『先に!』、
『無いからだ!』。
亦た、
『非縁』と、
『同じはずだからだ!』。
有無亦不生者。有無名為半有半無。二俱有過。 有無も亦た不生なりとは、有無を名づけて、半ば有、半ば無と為して、二は倶に過有ればなり。
『縁』中に、
『果』が、
『有/無であっても!』、
亦た、
『果』を、
『生じない!』とは、――
『有/無』を、
『半ば有り!』、
『半ば無い!』と、
『呼ぶならば!』、
『二』は、
『どちらも!』、
『過が有る!』。
又有與無相違。無與有相違。何得一法有二相。 又有は、無と相違し、無は、有と相違すれば、何んが、一法に二相有るを得ん。
又、
『有』は、
『無』と、
『相違し!』、
『無』は、
『有』と、
『相違する!』。
何故、
『一法』に、
『二相有る!』と、
『認められるのか?』。
如是三種求果生相不可得故。云何言有因緣。 是の如く三種に果に生相を求むるも、得べからざるが故に、云何が、因縁有りと言わん。
是のように、
『三種』に、
『求めた!』が、
『果』の、
『生相』は、
『認められない!』。
故に、
何故、こう言うのか?――
『因縁』が、
『有る!』と。
次第緣者
 果若未生時  則不應有滅 
 滅法何能緣  故無次第緣
次第縁とは、
果の未生の時の若きは、則ち応に滅有るべからず、
滅法は何をか能く縁ずる、故に次第縁無し。
『次第縁(前心が後心の縁となる!)』とは、――
『果』が、
その時、
『未だ!』、
『生じていなければ!』、
則ち、
『滅』は、
『有るはずがない!』。
『滅した!』、
『法』が、
何故、
『縁となれるのか?』、
故に、
『次第縁』は、
『無い!』。
参考:
anutpanneṣu dharmeṣu nirodho nopapadyate |
nānantaram ato yuktaṃ niruddhe pratyayaś ca kaḥ ||9||
If phenomena are not born,
it is invalid for there to be cessation.
Therefore, an immediate [condition] is unreasonable.
What, having ceased, can also be a condition?

参考:
To have already ceased when phenomena
Have not yet been produced is inadmissible.
Thus, an immediate condition is not tenable.
What, when it has ceased, could also be a condition?

参考
もろもろの「もの」がまだ生じていない場合には,滅するということは成り立たない。 それゆえ,直後に﹝滅する﹞ということ(等無間﹝縁﹞)は,正しくない。また,すでに滅したものには,どのような縁が﹝有るのであろう﹞か。
諸心心數法。於三世中次第生。現在心心數法滅。與未來心作次第緣。未來法未生。與誰作次第緣。 諸の心心数法は、三世中に次第して生ず。現在の心心数法滅して、未来の心の与(ため)に次第縁と作る。未来の法、未生なるに、誰の与にか、次第縁と作らん。
諸の、
『心、心数法』は、
『過去』、
『現在』、
『未来』の、
『三世』中に、
『次第に(次々と)!』、
『生じて!』、
『現在』の、
『心、心数法』が、
『滅する!』と、
『未来』の、
『心、心数法のために!』、
『次第縁』と、
『作()る!』が、――
『未来』の、
『法』が、
『未だ!』、
『生じなければ!』、
『誰のために!』、
『次第縁』と、
『作るのか?』。
若未來法已有即是生。何用次第緣。 若し未来の法、已に有らば、即ち是れ生なり。何ぞ次第縁を用いん。
若し、
『未来』の、
『法』が、
『已に!』、
『有れば!』、
即ち、
是れは、
『生である!』。
何故、
『次第縁』を、
『用いるのか?』。
現在心心數法無有住時。若不住何能為次第緣。 現在の心心数法に、住時有る無し。若し不住ならば、何ぞ能く、次第縁と為らん。
『現在』の、
『心、心数法』は、
『住まる(停留する)!』時が、
『無い!』、――
若し、
『心、心数法』が、
『住まらなければ!』、
何故、
『次第縁』と、
『為れるのか?』。
若有住則非有為法。何以故。一切有為法常有滅相故。若滅已則不能與作次第緣。 若し住有らば、則ち有為法に非ず。何を以っての故に、一切の有為法は、常に滅相有るが故なり。若し滅し已れば、則ち与に次第縁と作る能わず。
若し、
『住まる!』ことが
『有れば!』、
則ち、
『有為法でない!』、――
何故ならば、
一切の、
『有為法』は、
常に、
『滅相』を、
『有するからだ!』。
若し、
『滅してしまえば!』、
『次第縁』と、
『作ることができない!』。
若言滅法猶有則是常。若常則無罪福等。 若し滅法にして、猶お有りと言わば、則ち是れ常なり。若し常なれば、則ち罪福等無し。
若し、
こう言うならば、――
『滅した!』、
『法』が、
『猶お!』、
『有る!』、と。
是れは、
則ち、
『常である!』。
若し、
『常ならば!』、
『罪、福』等は、
『無いことになる!』。
若謂滅時能與作次第緣。滅時半滅半未滅。更無第三法。名為滅時。 若し滅時に、能く与に次第縁と作ると謂わば、滅時は、半ば滅、半ば未滅にして、更に第三法無きを名づけて、滅時と為す。
若し、
こう謂うならば、――
『滅する!』時に、
『次第縁』と、
『作ることができる!』、と。
『滅する!』、
『時』とは、
『半ば』は、
『滅した!』が、
『半ば』は、
『未だ!』、
『滅していないということだ!』。
更に、
『第三』の、
『法』が、
『無い!』のに、
是れを、
『滅する時(滅しようとする中の一瞬)』と、
『称すれば!』、
是の、
『二』には、
『どちらも!』、
『過が有る!』。
又佛說。一切有為法念念滅。無一念時住。云何言現在法有欲滅未欲滅。 又仏の説きたまわく、『一切の有為法は、念念に滅して、一念の時にも住する無し』、と。云何が、『現在の法に、欲滅と、未欲滅と有り』と言う。
又、
『仏』は、
こう説かれた、――
一切の、
『有為法』は、
『一念(一瞬)』、
『一念(一瞬)』に、
『滅して!』、
『一念』の、
『時(あいだ)』も、
『住(とど)まらない!』、と。
何故、
こう言うのか?――
『現在』の、
『法』は、
有る、
『部分』は、
『滅しようしており!』、
有る、
『部分』は、
『滅しようとしていない!』、と。
汝謂一念中無是欲滅未欲滅。則破自法。 汝、『一念中には、是の欲滅、未欲滅無し』と謂わば、則ち自法を破せん。
お前が、
若し、こう謂うならば、――
『一念』中には、
是の、
『滅しようとしている!』、
『部分』も、
『無く!』、
『滅しようとしていない!』、
『部分』も、
『無い!』、と。
則ち、
『自ら!』の、
『法』を、
『破ったことになる!』。
汝阿毘曇說。有滅法有不滅法。有欲滅法有不欲滅法。欲滅法者。現在法將欲滅。未欲滅法者。除現在將欲滅法。餘現在法及過去未來無為法。是名不欲滅法。是故無次第緣。 汝が阿毘曇の説かく、『滅法有り、不滅法有り、欲滅法有り、不欲滅法有り』、と。欲滅の法とは、現在の法の、将に滅せんと欲するなり。未欲滅の法とは、現在の将に滅せんと欲する法を除く、余の現在の法、及び過去、未来の無為法なり、是れを不欲滅の法と名づく。是の故に次第縁無し。
お前の、
『阿毘曇』には、こう説いている、――
有る者は、
『滅する!』、
『法である!』、
有る者は、
『滅しない!』、
『法である!』、
有る者は、
『滅しようとする!』、
『法である!』、
有る者は、
『滅しようとしない!』、
『法である!』。
『滅しようとする!』、
『法』とは、――
ちょうど、
『滅しようとしている!』、
『現在の』、
『法である!』、
『滅しようとしない!』、
『法』とは、――
『現在』の、
ちょうど、
『滅しようとしている!』、
『法』を、
『除いた!』、
余の、
『現在』の、
『法』と、
『過去』と、
『未来』の、
『無為法である!』。
是れを、
『滅しようとしない!』、
『法』と、
『呼ぶ!』、と。
是の故に、
『次第縁』は、
『無い!』。
  無為法(むいほう):涅槃の如く常住不変の法。以下の三種が有る、
1 虚空
aakaaza
虚空の如く無礙を以って性となすをいう
2 択滅
pratisaMkhyaa- nirodha
智慧の簡択力を以って数数の繋縛を離れるを以って性となす涅槃をいう
3 非択滅
apratisaMkhyaaa- nirodha
智慧を以って繋縛を離れるに非ず、但だ自ら生法の因縁を欠く聖者の涅槃をいう

  参考:『大智度論巻75』:『須菩提尊重是法故。歎言。世尊。是因緣法甚深。所謂過去心不滅不住而能增益得無上道。是事甚深希有難可信解。此心為住為滅耶。佛反問須菩提。於汝意云何。若心滅已更生不者。諸法雖畢竟空不生不滅。為眾生以六情所見生滅法故。問心已滅更生不。須菩提言。不也世尊。何以故。心滅已云何當更生。若心滅已更生則墮常中。若心生是滅相不者。上問過去心已。今問現在心相當滅不。是故答是滅相。何以故。生滅是相待法。有生必有滅故先無今有。已有還無故。心滅相是滅不者。若心滅相即是滅耶更有滅耶。答言。不也世尊。何以故。若即是滅則一心有兩時生時滅時。說無常者心不過一念時。如阿毘曇經說。有生法有不生法。有欲生法有不欲生法。有滅法有不滅法。有欲滅法有不欲滅法。生法現在一心中有二種。一者生二者欲滅生。非欲滅相。欲滅相非生。是事不然故言不也。當如是住不者。若滅相非即是滅者。應常住不。若常住即是不滅相。佛如是翻覆難。須菩提理窮故作是念。我若言滅相即是滅。則一心墮二時。若言不滅實是滅相。云何言不滅。以上二理有過故。須菩提自以所證智慧答。世尊如是住如如住。若是心如如住。當作實際不者。若說心相同如住者。如即是實際。若爾者心可即作實際不。須菩提言。不也世尊。何以故。須菩提久尊重是實際。心是虛誑法。小乘智慧力少不能觀心。即作實際是故言不也。』
  参考:『衆事阿毘曇論巻4』:『已起法。不起法。今起法。非今起法。已滅法。非已滅法。今滅法。非今滅法。』
  参考:『品類足論巻5』:『已生法。非已生法。正生法。非正生法。已滅法。非已滅法。正滅法。非正滅法。』
緣緣者
 如諸佛所說  真實微妙法 
 於此無緣法  云何有緣緣
縁縁とは、
諸仏の所説の如きは、真実微妙の法なり、
此の無縁の法に於いて、云何が縁縁有らん。
『縁縁(次後の刹那の心所法の所取の境)』とは、――
例えば、
諸の、
『仏』の、
『説かれた!』所の、
『法』は、
『真実!』、
『微妙(知り難い)!』の、
『法である!』、
此の、
『無縁(解し難い)』の、
『法』に於いて、
何故、こう言うのか?――
『縁縁』が、
『有る!』と。
参考:
anārambaṇa evāyaṃ san dharma upadiśyate |
athānārambaṇe dharme kuta ārambaṇaṃ punaḥ ||8||
An existent phenomenon is clearly said to have no object at all.
If the phenomenon has no object,
where can the object exist?

参考:
It is clearly taught that an observed object
For an existing phenomenon simply does not exist.
And if the phenomenon that observes does not exist yet
How could there be an observed object?

参考
この有である「もの」は,実に,対象を有しないもの(無所縁)である,と教示されている。しかし,もしも「もの」が対象を有しないのであるならば,さらにどうして,対象が﹝成り立つであろう﹞か。

  :妄心に所縁無し。耳底に存する仏所説の法は、次後の刹那に起る心所法の所縁の境だと汝は主張するが、謬って妄取されれば、無縁の法に過ぎない。何故、是れが所縁縁なのか?
佛說。大乘諸法。若有色無色有形無形有漏無漏有為無為等諸法相入於法性。一切皆空無相無緣。譬如眾流入海同為一味。實法可信隨宜所說不可為實。是故無緣緣。 仏の説きたまわく、『大乗の諸法の、若し有色、無色、有形、無形、有漏、無漏、有為、無異等の諸法の相の、法性に入れば、一切は皆、空、無相、無縁なり。譬えば衆流は海に入りて、同じく一味と為るが如し』、と。実法の可信は、随宜の所説なれば、実と為すべからず。是の故に縁縁無し。
『仏』は、
こう説かれた、――
『大乗』の、
諸の、
『法』の、
『有色である!』とか、
『無色である!』とか、
『有形である!』とか、
『無形である!』とか、
『有漏(煩悩が有る)である!』、
『無漏(煩悩が無い)である!』、
『有為である!』、
『無為である!』等の、
諸の、
『法』の、
『相』も、
若し、
『法』の、
『性』に、
『入る!』と、
一切は、
『皆』、
『空(無体)となり!』、
『無相(無現相)となり!』、
『無縁(無作為)となる!』。
譬えば、
『多く!』の、
『河川』が、
『海』に、
『入る!』と、
『同じ!』、
『一味』と、
『為るように!』、と。
『実』の、
『法』は、
『信じても!』、
『構わない!』が、
『宜しき(都合)』に随って、
『説かれた!』所の、
『法』を、
『実』と、
『為すべきではない!』。
是の故に、
『縁縁』は、
『無い!』。
增上緣者
 諸法無自性  故無有有相 
 說有是事故  是事有不然
増上縁とは、
諸法に自性無く、故に有相有ること無し、
是の事有るが故に、是の事有りと説かば然らず
『増上縁(次後の刹那の心数法の生起に増上の作用ある法)』とは、――
諸の、
『法』に、
『自ら!』の、
『性』が、
『無ければ!』、
故に、
『有』という、
『相』は、
『無い!』。
是の、
『事』の、
『有る!』が故に、
是の、
『事』が、
『有る!』と、
若し、
是のように、
『説くならば!』、
『間違っている!』。
参考:
bhāvānāṃ niḥsvabhāvānāṃ na sattā vidyate yataḥ |
satīdam asmin bhavatīty etan naivopapadyate ||10||
Because the existence of essence-less things does not exist,
it is incorrect to say:“When this exists, that arises.”

参考:
Since things have no essence
Their existence does not exist.
Thus, it would be inadmissible to say
‘Due to this existing, that arises’.

参考
自性(固有の実体)の無いもろもろの「存在(もの‧こと)」には,有性(有ること一般)は存在しないから,この「これが有るときにかれが有る」ということ(增上縁)は,どうしても成り立たない。
經說十二因緣。是事有故是事有。此則不然。 経に十二因縁を、『是の事有り、故に是の事有り』と説くも、此れは、則ち然らず。
『経』には、
『十二因縁』を、こう説く、――
是の、
『事』の、
『有る!』が故に、
是の、
『事』が、
『有る!』、と。
此の、
『事』は、
『間違っている!』。
何以故。諸法從眾緣生故自無定性。自無定性故無有有相。有相無故。何得言是事有故是事有。是故無增上緣。佛隨凡夫分別有無故說。 何を以っての故に、諸法は、衆縁に従る生なり、故に自ら定性無し、自ら定性無きが故に、有相有ること無し。有相無きが故に、何んが、『是の事有り、故に是の事有り』と言うを得んや。是の故に増上縁無し。仏は、凡夫に随いて、有無を分別したもうが故に、説きたまえり。
何故ならば、
諸の、
『法』は、
『多く!』の、
『縁より!』、
『生じる!』が故に、
『自己』には、
『定まった性』が、
『無い!』。
『自己』の、
『定まった性』が、
『無い!』が故に、
『有( Skt.bhava = existent )』という、
『相』が、
『無い!』。
若し、
『有』という、
『相』が、
『無ければ!』、
何故、こう言えるのか?――
是の、
『事』が、
『有る!』が故に、
是の、
『事』が、
『有る!』、と。
是の故に、
『増上縁』は、
『無い!』。
『仏』は、
『凡夫』が、
『有、無』を、
『分別するのに!』、
『随順された!』。
故に、
『有、無』を、
『説かれたのである!』。
復次
 略廣因緣中  求果不可得 
 因緣中若無  云何從緣出
復た次ぎに、
略広の因縁中に、果を求めて得べからず、
因縁中に若し無くんば、云何が縁より出でん。
復た次ぎに、
『略』と、
『広』との、
『因縁』中に、
『果』を、
『求めた!』が、
『認められない!』。
『因縁』中に、
若し、
『果』が、
『無ければ!』、
何故、
『縁より!』、
『出るのか?』。
参考:
na ca vyastasamasteṣu pratyayeṣv asti tat phalam |
pratyayebhyaḥ kathaṃ tac ca bhaven na pratyayeṣu yat ||11||
There is no effect at all in the conditions individually or together.
How can that which is not in the conditions itself be born from conditions?

参考:
There are simply no results
Existing in conditions individually or collectively.
How could that which does not exist in conditions
Be produced from conditions?

参考
もろもろの縁において,部分的にも,また縂体的にも,それの結果は存在しない。もろもろの縁のなかにおいて﹝存在してい﹞ないものが,どうして,もろもろの縁から生ずるということがあるであろうか。
略者。於和合因緣中無果。廣者。於一一緣中亦無果。若略廣因緣中無果。云何言果從因緣出。 略とは、和合の因縁中に於いて、果無し。広とは、一一の縁中に於いても、亦た果無し。若し略広の因縁中に果無くんば、云何が、『果は、因縁より出づ』、と言わん。
『略』ならば、――
『和合』の、
『因縁』中にも、
『果』は、
『無い!』。
『広』ならば、――
『一一』の、
『縁』中にも、
『果』は、
『無い!』。
若し、
『略』と、
『広』との、
『因縁』中に、
『果』が、
『無ければ!』、
何故、こう言うのか?――、
『果』は、
『縁より!』、
『出る!』、と。
復次
 若謂緣無果  而從緣中出 
 是果何不從  非緣中而出
復た次ぎに、
若し縁に果無くして、縁中より出づと謂わば、
是の果は何んが、非縁中より出でざる。
復た次ぎに、
若し、こう謂うならば、――
『縁』に、
『果』は、
『無い!』が、
而し、
『縁』中より、
『出る!』、と。
是の、
『果』は、
何故、
『非縁』中より、
『出ないのか?』
参考:
athāsad api tat tebhyaḥ pratyayebhyaḥ pravartate |
apratyayebhyo ’pi kasmān nābhipravartate phalam ||12||
If, although the effect is not there,
it is born from those conditions,
why is an effect not born from what are not its conditions?

参考:
If something could be produced from those conditions
Even though it does not exist in them
Why couldn’t it also be produced
From non-conditions?

参考
しかし,もしもそれ(結果)は﹝もろもろの縁のなかに﹞存在していないとしても,﹝それが﹞それらもろもろの縁から現われる﹝というならば﹞,結果は,どうして,もろもろの非縁(縁でないもの)からもまた,現われることがないのであろうか。
若因緣中求果不可得。何故不從非緣出。如泥中無瓶。何故不從乳中出。 若し因縁中に果を求めて、得べからざれば、何の故にか、非縁より出でざる。泥中に瓶無きが如くんば、何の故にか、乳中より出でざる。
若し、
『因縁』中に、
『果』を、
『求めて!』も、
『認められなければ!』、
何故、
『非縁』中より、
『出ないのか?』
譬えば、こうである、――
『泥』中に、
『瓶』が、
『無ければ!』、
何故、
『乳』中より、
『出ないのか?』
復次
 若果從緣生  是緣無自性 
 從無自性生  何得從緣生 
 果不從緣生  不從非緣生 
 以果無有故  緣非緣亦無
復た次ぎに、
若し果にして縁より生ぜば、是の縁は自性無く、
無自性より生ず、何んが縁より生ずるを得ん。
果は縁に従って生ぜず、非縁に従って生ぜずんば、
果は有る無きを以っての故に、縁非縁も亦た無し。
復た次ぎに、
若し、
『果』が、
『縁より!』、
『生じれば!』、
是の、
『縁』には、
『自性』が、
『無い!』、
『果』は、
『無自性より!』、
『生じるのに!』、
何故、
『縁より生じる!』と、
『認められるのか?』。
『果』は、
『縁より!』、
『生じない!』し、
『非縁より!』、
『生じない!』、
『果』という、
『有(存在)』が、
『無い!』が故に、
『縁』や、
『非縁』も、
亦た、
『無い!』。
参考:
phalaṃ ca pratyayamayaṃ pratyayāś cāsvayaṃmayāḥ |
phalam asvamayebhyo yat tat pratyayamayaṃ katham ||13||
Effects [are of] the nature of conditions.
Conditions do not have own nature.
How can those effects of what does not have own nature
[be of] the nature of conditions?

tasmān na pratyayamayaṃ nāpratyayamayaṃ phalam |
saṃvidyate phala_bhāvāt pratyayāpratyayāḥ kutaḥ ||14||
Therefore, [it does] not have the nature of conditions,
nor is there an effect with the nature of non-conditions.
Since there is no effect,
what could [be its] non-conditions or conditions?

参考:
Results are the essence of conditions.
Since conditions do not have their own essence
How could that which results from something lacking an own essence
Be the essence of conditions?

Thus, since they are not the essence of conditions
Results that are the essence of non-conditions do not exist.
Then, since results do not exist
How could something be a condition or non-condition?

参考
結果は「縁から成立したもの」である﹝というとしても﹞,また,もろもろの縁は「それ自身から成立したもの」ではない。結果が,「それ自身から成立したもの」でない﹝縁﹞から﹝現われている﹞とするならば,それ(結果)は,どうして,「縁から成立したもの」である﹝といえよう﹞か。

以上の理由から,結果は,縁から成立したものとして,﹝また﹞非縁から成立したものとして,存在することはない。﹝こうして﹞結果が存在しないのであるから,縁と非縁とは,どうして,﹝成立するのであろう﹞か。
果從眾緣生。是緣無自性。若無自性則無法。無法何能生。是故果不從緣生。 果、衆縁に従って生ずるも、是の縁には自性無し、若し自性無ければ、則ち法無し。法無きに、何ぞ能く生ぜん。是の故に果は、縁に従って生ぜず。
『果』は、
『多く!』の、
『縁より!』、
『生じる!』が、
是の、
『縁』には、
『自性』が、
『無い!』、
若し、
『縁』に、
『自性』が、
『無ければ!』、
『縁』という、
『法』は、
『無いことになる!』。
若し、
『法』が、
『無ければ!』、
何故、
『生じられるのか?』。
是の故に、
『果』は、
『縁より!』、
『生じない!』。
不從非緣生者。破緣故說非緣。實無非緣法。是故不從非緣生。若不從二生。是則無果。無果故緣非緣亦無 非縁に従って生ぜずとは、縁を破するが故に非縁と説く、実に非縁の法無し。是の故に、非縁に従って生ぜず。若し二に従って生ぜざれば、是れ則ち果無し。果無きが故に、縁非縁も、亦た無し。
『非縁より!』、
『生じない!』とは、――
『縁』を、
『破った!』が故に、
『非縁』を、
『説いた!』が、
『実』に、
『非縁』という、
『法』は、
『無い!』、
是の故に、
『非縁より!』、
『生じない!』。
若し、
『縁』と、
『非縁』の、
『二より!』、
『生じなければ!』、
則ち、
『果』は、
『無いことになる!』。
『果』が、
『無い!』が故に、
『縁』も、
『非縁』も、
亦た、
『無い!』。



中論觀去來品第二 (二十五偈)

問曰。世間眼見三時有作。已去未去去時。以有作故當知有諸法。 問うて曰く、世間の眼には、三時に作有るを見る。已去、未去、去時なり。作有るを以っての故に、当に知るべし、諸法有りと。
問い、――
『世間』は、
『眼』に、こう見る、――
『三時』に、
『作(行為)』が、
『有る!』、と。
則ち、
『過去』の、
『去る(去った)!』、
『未来』の、
『去る(未だ去らない)!』、
『去る時』の、
『去る(去りつつある中の一瞬)である!』。
『三時』に、
『作』が、
『有る!』が故に、
こう知ることになる、――
諸の、
『法』は、
『有る!』、と。
  (さ):梵語 kriyaa の訳。行為/造作( doing、performing、act )等の義。
  (こ):出発する( to leave )、梵語 gati, gamana 等の訳、行く/動く/行く動作/態度/一般的な運動/行く動作、又は能力/去る( going, moving, gait, deportment, motion in general, manner or power of going, going away )等の義。
  去時(こじ):梵語 gamyamaana の訳。去りつつある状態( being gone )。去る瞬間。
答曰
 已去無有去  未去亦無去 
 離已去未去  去時亦無去
答えて曰く、
已に去れば去有る無く、未だ去らざるも亦た去無し、
已に去る未だ去らざるを離れ、去る時も亦た去無し。
答え、――
『過去』の、
『去る(去ること)!』に、
『去る!』は、
『無い!』、
『未来』の、
『去る!』にも、
『去る!』は、
『無い!』。
『過去』と、
『未来』との、
『去る!』を、
『離れて!』、
『去る時』の、
『去る!』にも、
『去る!』は、
『無い!』。
参考:
gataṃ na gamyate tāvad agataṃ naiva gamyate |
gatāgatavinirmuktaṃ gamyamānaṃ na gamyate ||1||
Then there is no going in what has gone;
there is no going also in what has not [yet] gone.
Motion is unknowable apart from
what has gone and not [yet] gone.

参考:
For example, there is no going on the traversed
And there is also no going on the untraversed.
And apart from the traversed and the untraversed
That being traversed cannot be known.

参考
まず第一に,すでに去った﹝もの﹞(已去)は去らない。﹝つぎに﹞,まだ去らない﹝もの﹞(未去)も去らない。すでに去った﹝もの﹞とまだ去らない﹝もの﹞とを離れて,現に去りつつある﹝もの﹞(去時)は去らない。
已去無有去已去故。若離去有去業。是事不然。 已去には、去有る無し、已去なるが故なり。若し去を離れて、去業有らば、是の事は然らず。
『過去』の、
『去る!』には、
『去る!』が
『無い!』、
何故ならば、
已に、
『去ったからだ!』。
若し、
『去る!』を、
『離れて!』、
『去る!』、
『業』が、
『有れば!』、
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
未去亦無去。未有去法故。去時名半去半未去。不離已去未去故。 未去も亦た去無し、未だ去法有らざるが故なり。去時を、半ば去、半ば未去と名づく、已去、未去を離れざるが故なり。
『未来』の、
『去る!』にも、
『去る!』が、
『無い!』、
未だ、
『去る!』という、
『法( fact )』が、
『無いからだ!』。
『去る時』の、
『去る!』を、
こう名づける――
『半ば!』は、
『過去』の、
『去る!』、
『半ば!』は、
『未来』の、
『去る!』、と。
何故ならば、
『過去』と、
『未来』との、
『去る!』を、
『離れないからだ!』。
  去法(こほう):去の実体。去に同じ。法は梵語 dharma, dharmatva の訳で、習慣/義務( usage, practice, customary observance or prescribed conduct, duty )や、正義/戒律( right, justice, the law of Buddhism )等の外に、性/相/固有の状態/特質/特性/特徴/独自性( nature, character, peculiar condition or essential quality, property, mark, peculiarity )等の意を有する語であるが、恐らく原文には無く、漢訳時に付加されたものと思われる。去法は、「去る」という言葉に対して、その実体を指すものであり、意味合いとしては、「去るということ」、「去ること」ぐらいなので、但だ「去る」というのと、特に隔絶した意味はない。これに倣って、此の中の日本語訳に於いても、屡々原文にはない「法」を付したが、それはより読みやすくすることを目的とし、且つ、より意味を明確にする為である。
  注釈の1:去る時は常に一瞬ごとに遷移するが、その一瞬を停止させて考える。譬えば道路を横切って、任意の位置に、チョークで引かれた一本の白線がある、白線の手前が過去、白線の向こうが未来だ。去る時(現在)とは、人が白線上を通るほんの一瞬に過ぎない。
  注釈の2:殺罪を考える。命が未だ失われていない時、殺は無い。已に命が失われたとすれば、やはり殺は無い。命は失われたか、失われないかの二種の状態しかないが故に、殺生は無い。殺生が無いが故に殺者も無い。殺者が無いが故に殺罪も無い。
問曰
 動處則有去  此中有去時 
 非已去未去  是故去時去
問うて曰く、
動処には則ち去有り、此の中に去時有り、
已去未去なるに非ず、是の故に去時に去る。
問い、――
『動く!』、
『処』には、
『去る!』が、
『有る!』。
此の中に、
『去る時』に、
『去る!』が、
『有る!』。
『過去』にも、
『未来』にも、
『去らない!』が、
是の故に、
『去る時』に、
『去るのだ!』。
参考:
ceṣṭā yatra gatis tatra gamyamāne ca sā yataḥ |
na gate nāgate ceṣṭā gamyamāne gatis tataḥ ||2||
Where there is moving, there there is going.
Furthermore, because moving is within motion --
and is neither gone nor not [yet] gone,
therefore, there is going within motion.

参考:
Wherever there is movement there is going.
Moreover, because there is movement on that being traversed
And not on the traversed and the untraversed
There is going on that being traversed.

参考
﹝去る﹞運動の﹝有る﹞ところ,そこに去ること(去)は﹝有る﹞。そして,その運動は,現に去りつつある﹝もの﹞(去時)に(有り),すでに去った﹝もの﹞には無く,まだ去らない﹝もの﹞にも無い。それゆえ,現に去りつつある﹝もの﹞(去時)に,去ること(去)は﹝有る﹞。
隨有作業處。是中應有去。眼見去時中有作業。已去中作業已滅。未去中未有作業。是故當知去時有去。 作業を有する処に随い、是の中に応に去有るべし。眼には、去時中に作業有るを見る。已去中の作業は、已に滅し。未去中には、未だ作業有らず。是の故に、当に知るべし、去時に去有りと。
『作業』の、
『有る!』、
『処()』に、
『随って!』、
是の中に、
『去る!』は、
『有るはずだ!』。
『眼』には、
こう見る、――
『去る時』の、
『去る!』中には、
『作業』が、
『有る!』、
『過去』の、
『去る!』中の、
『作業』は、
『滅した!』、
『未来』の、
『去る!』中の、
『作業』は、
『まだ無い!』、と。
是の故に、
こう知るべきだ、――
『去る時』には、
『去る!』が、
『有る!』、と。
答曰
 云何於去時  而當有去法 
 若離於去法  去時不可得
答えて曰く、
云何が去時に於いて、而も当に去法有るべき、
若し去法を離れば、去時を得べからず。
答え、――
何故、こう言うのか?――
『去る時』には、
『去る!』という、
『法』が、
『有るはずだ!』、と。
若し、
『去る!』という、
『法』を、
『離れれば!』、
『去る!』、
『時』を、
『認識できないのに!』。
参考:
gamyamānasya gamanaṃ kathaṃ nāmopapatsyate |
gamyamānaṃ vigamanaṃ yadā naivopapadyate ||3||
How can going be possible within motion?
Because motion that is not going is impossible.

参考:
How could it be admissible
That there is going on that being traversed
When that being traversed where there is no going
Is inadmissible.

参考
現に去りつつある﹝もの﹞(去時)に,実に,どうして,去るはたらき(去法)が成り立ち得るであろうか。現に去りつつある﹝もの﹞に,二つの去るはたらきは,成り立たないからである。
去時有去法。是事不然。何以故。離去法去時不可得。 去時に去法有りとは、是の事は然らず。何を以っての故に、去法を離れて、去時を得べからざればなり。
『去る時』に、
『去る!』という、
『法』が、
『有れば!』、
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
何故ならば、
『去る!』という、
『法』を、
『離れれば!』、
『去る!』、
『時』を、
『認識できないからだ!』。
若離去法有去時者。應去時中有去。如器中有果。 若し去法を離れて、去時有らば、応に去時中に、去有るべし。器中に、果有るが如し。
若し、
『去る!』という、
『法』を、
『離れて!』、
『去る!』、
『時』が、
『有れば!』、
『去る!』、
『時』の中に、
『去る!』が、
『有るはずだ!』。
譬えば、
『器』の中に、
『果』が、
『有るように!』。
復次
 若言去時去  是人則有咎 
 離去有去時  去時獨去故
復た次ぎに、
若し去時に去ると言わば、是の人には則ち咎有り、
去を離れて去時有り、去時に独り去るが故なり。
復た次ぎに、
若し、
こう言うならば、――、
『去る!』、
『時』に、
『去る!』、と。
是の人には、
『咎』が、
『有るだろう!』。
若し、
『去る!』という、
『法』を、
『離れて!』、
『去る!』、
『時』が、
『有れば!』、
則ち、
『去る時』は、
『去る!』という、
『法』を、
『離れて!』、
『独り!』、
『去ることになる!』。
参考:
gamyamānasya gamanaṃ yasya tasya prasajyate |
ṛte gater gamyamānaṃ gamyamānaṃ hi gamyate ||4||
For whomever there is going within motion,
for him it will follow that there [could be] no going within motion,
because there is going within motion.
(“To claim that there is going within motion implies that there could be no going within motion, because it is asserted there is going within motion.”)

参考:
Where there could be going on that being traversed
There it would follow that
There could be that being traversed where there is no going
Because of there being going on that being traversed.

参考
「現に去りつつある﹝もの﹞に去るはたらき﹝が有る﹞」﹝と主張する﹞ならば,その人には,去ることを離れても,現に去りつつある﹝もの﹞﹝が有る﹞,という誤りが付随する。なぜならば﹝その人は﹞現に去りつつある﹝もの﹞が去る,﹝という﹞からである。
若謂已去未去中無去。去時實有去者。是人則有咎。 若し已去、未去中に去無く、去時に実に去有りと謂わば、是の人には則ち咎有り。
若し、
こう謂うならば、――
『過去』や、
『未来』の、
『去る!』中に、
『去る!』は、
『無い!』が、
『去る!』、
『時』には、
『実に!』、
『去る!』が、
『有る!』、と。
是の人には、
『咎』が、
『有るだろう!』。
若離去法有去時。則不相因待。何以故。若說去時有去。是則為二。而實不爾。是故不得言離去有去時。 若し去法を離れて、去時有らば、則ち相因待せず。何を以っての故に、若し去時に去有りと説かば、是れ則ち二と為し、而も実に爾らず。是の故に、『去を離れて、去時有り』、と言うを得ず。
若し、
『去る( going )!』という、
『法( the fact/action of )』を、
『離れて!』、
『去る!』という、
『時』が、
『有れば!』、
則ち、
『去る!』という、
『法』と、
『去る!』、
『時』とは、
互いに、
『因』を、
『待たない!』。
何故ならば、
若し、
こう説くならば、――
『去る時』に、
『去る!』が、
『有る!』、と。
是れは、
『去る!』、
『時』と、
『去る!』という、
『法』とで、
『去る!』が、
『二種ある!』が、
而し、
『実は!』、
『間違っている!』。
是の故に、
こう言うことはできない、――
『去る!』という、
『法』を、
『離れて!』、
『去る!』、
『時』が、
『有る!』、と。
  去法(こほう):去るということ( going, the fact/action of going )。
  因待(いんたい):梵語 apekSaNiiya、apekSitavya 等の訳。期待されるの義。因を待ちて後起るの意。
復次
 若去時有去  則有二種去 
 一謂為去時  二謂去時去
復た次ぎに、
若し去時に去有らば、則ち二種の去有り、
一には謂わく去る時を為し、二には謂わく去時の去なり。
復た次ぎに、
若し、
『去る!』、
『時』に、
『去る!』が、
『有れば!』、
『二種』の、
『去る!』が、
『有る!』。
一には、
謂わゆる、
『去る!』、
『時』を、
『成立させる為の!』、
『去る!』という、
『法であり!』、
二には、
謂わゆる、
『去る時』の、
『動作としての!』、
『去る!』という、
『法である!』。
  参考:『大智度論巻51』:『【論】者言佛謂須菩提。汝何以但讚摩訶衍無來無去無住。一切法亦如是。無來無去無住。一切法實相不動故。問曰。諸法現有來去可見。云何言不動相無來無去。答曰。來去相先已破。今當更說。一切佛法中無我無眾生乃至無知者見者。故來者去者無。來者去者無故。來去相亦應無。復次三世中求去相不可得。所以者何。已去中無去。未去中亦無去。離已去未去去時亦無去。問曰。有身動處是名為去。已去未去中無身動。以是故。去時身動即應有去。答曰。不然。離去相去時不可得。離去時去相不可得。云何言去時去。復次若去時有去相。應離去相有去時。何以故。汝說去時有去故。復次若去時去應有二去。一者知去時。二者知去時去。問曰。若爾有何咎。答曰。若爾有二去者。何以故。離去者無去相。若離去者無去相。離去相無去者。是故去者不去。不去者亦不去。離去不去亦無有去。來者住者亦如是。以是故佛說。凡夫人法虛誑無實。雖復肉眼所見。與畜生無異。是不可信。是故說諸法無來無去無住處亦無動。何者是。所謂色色法色如色性色相。色名眼見事。未分別好醜實不實自相他相。色法名無常生滅不淨等。色如名色和合有。如水沫不牢固離散則無。虛偽無實但誑人眼。色現在如是。過去未來亦爾。如現在火熱。比知過去未來亦如是。復次如諸佛觀色相畢竟清淨空。菩薩亦應如是觀。色眼法色如何因緣不如凡夫人所見。性自爾故。此性深妙。云何可知。以色相力故可知。如火以煙為相見煙則知有火。今見眼色無常破壞苦惱麤澀相。知其性爾。此五法不去不來不住如先說。乃至無為無為法如性相。不來不去不住亦如是』
参考:
gamyamānasya gamane prasaktaṃ gamanadvayam |
yena tad gamyamānaṃ ca yac cātra gamanaṃ punaḥ ||5||
If there were going within motion,
it would follow that going would be twofold:
that by which one becomes someone in motion [in a place]
and [that by which one] goes in that [place].
参考:
If there could be going on that being traversed
It would follow that going would be twofold –
That by which it would become that being traversed
And that which is the actual going on that.

参考
「現に去りつつある﹝もの﹞に去るはたらき﹝が有る﹞」﹝と主張する﹞ならば,二つの去るはたらき﹝が有る﹞,という誤りが付随してしまっている。﹝すなわち﹞,「現に去りつつある﹝もの﹞」﹝を成り立たせる﹞それ(去るはたらき)と,さらに「そこに去るはたらき﹝が有る﹞」というそれ(去るはたらき)とである。
若謂去時有去是則有過。所謂有二去。一者因去有去時。二者去時中有去。 若し去時に去有りと謂わば、是れ則ち過有り。謂わゆる二去有り、一には去に因って、去時有り、二には去時中に去有り。
若し、
こう謂うならば、――
『去る時』に、
『去る!』が、
『有る!』、と。
是れには、
『過(あやまち)』が、
『有る!』。
謂わゆる、
『二個』の、
『去法』が、
『有る!』、
一には、
『去る!』という、
『法』に、
『因って!』、
『去る!』、
『時』が、
『有り!』、
二には、
『去る!』、
『時』の中に、
『去る!』という、
『法』が、
『有る!』。
問曰。若有二去有何咎。 問うて曰く、若し二去有らば、何の咎か有らん。
問い、――
若し、
『二個』の、
『去法』が、
『有れば!』、
何のような、
『咎』が、
『有るのか?』、と。
答曰
 若有二去法  則有二去者 
 以離於去者  去法不可得
答えて曰く、
若し二の去法有らば、則ち二の去者有り、
去者を離れて、去法得べからざるを以って。
答え、――
若し、
『去る!』という、
『法』が、
『二個』、
『有れば!』、
『去る!』、
『者(主体)』が、
『二個』、
『有ることになる!』。
何故ならば、
『去る!』、
『者』を、
『離れれば!』、
『去る!』という、
『法』は、
『認識できないからだ!』。
参考:
dvau gantārau prasajyete prasakte gamanadvaye |
gantāraṃ hi tiraskṛtya gamanaṃ nopapadyate ||6||
If going were twofold,
the goer also would be twofold,
because going is impossible without a goer.

参考:
If going follows as twofold
Then also the goer would follow as twofold
Because going without a goer
Would be inadmissible.

参考
二つの去るはたらき﹝が有る﹞,という誤りが付随してしまっているならば,二人の去る主体(去者)﹝が有る﹞,という誤りが付随する。なぜならば,去る主体を欠いたならば,去るはたらきは成り立たないからである。
若有二去法。則有二去者。何以故。因去法有去者故。 若し二の去法有らば、則ち二の去者有らん。何を以っての故に、去法に因りて、去者有るが故なり。
若し、
『二個』の、
『去る!』という、
『法』が、
『有れば!』、
『二個』の、
『去る!』、
『者』が、
『有ることになる!』。
何故ならば、
『去る!』という、
『法』に、
『因って!』、
『去る!』、
『者』が、
『有るからだ!』。
一人有二去二去者。此則不然。是故去時亦無去。 一人に二去、二去者有らば、此れ則ち然らず。是の故に、去時にも亦た去無し。
『一人』に、
若し、――
『二個』の、
『去る!』という、
『法!』と、
『二人』の、
『去る!』、
『者』とが、
『有れば!』、
此の、
『事』は、
『間違っている!』。
是の故に、
『去る時』にも、
『去る!』は、
『無い!』。
問曰。離去者無去法可爾。今三時中定有去者。 問うて曰く、去者を離れて、去法無きこと、爾るべし。今は、三時中に定んで去者有らん。
問い、――
若し、
『去る!』、
『者』を、
『離れれば!』、
『去る!』という、
『法』が、
『無い!』のは、
『そうかも知れない!』。
今、
『三時』中には、
何処かに、
『去る!』、
『者』が、
『有るはずだ!』。
答曰
 若離於去者  去法不可得 
 以無去法故  何得有去者
答えて曰く、
若し去者を離るれば、去法は得べからず、
去法無きを以っての故に、何が去者有るを得ん。
答え、――
若し、
『去る!』、
『者』を、
『離れれば!』、
『去る!』という、
『法』は、
『認識できない!』、
『去る!』という、
『法』が、
『無いのに!』、
何故、
認識できるのか?――
『去る!』、
『者』が、
『有る!』、と。
参考:
gantāraṃ cet tiraskṛtya gamanaṃ nopapadyate |
gamane ’sati gantātha kuta eva bhaviṣyati ||7||
If there were no goer, going would be impossible.
If there were no going, where could a goer be existent?

参考:
If there is no goer
Going would be inadmissible.
If there is no going
How could there be a goer?

参考
もしも去る主体を欠いたならば,去るはたらきは成り立たない。もしも去るはたらきが存在しないならば,一体,どうして,去る主体が存在するのであろうか。
若離於去者。則去法不可得。今云何於無去法中。言三時定有去者。 若し去者を離るれば、則ち去法は得べからず。今は云何が、去法無き中に、『三時に、定んで去者有り』、と言う。
若し、
『去る!』、
『者』を、
『離れれば!』、
『去る!』という、
『法』は、
『認識できない!』。
今、
『去る!』という、
『法』が、
『無い!』中に、
何故、こう言うのか?――
『三時』に、
『去る者』が、
『有る!』、と。
復次
 去者則不去  不去者不去 
 離去不去者  無第三去者
復た次ぎに、
去者は則ち去らず、不去者も去らず、
去と不去者を離れて、第三の去者無し。
復た次ぎに、
『去る!』、
『者』は、
『去らない!』し、
『去らない!』、
『者』も、
『去らない!』。
『去る者』と、
『去らない者』とを、
『離れれば!』、
『第三』の、
『去る者』は、
『無い!』。
参考:
gantā na gacchati tāvad agantā naiva gacchati |
anyo gantur agantuś ca kas tṛtīyo ’tha gacchati ||8||
When a goer does not go, a non-goer cannot go;
what third one other than a goer and a non-goer could go?

参考:
For example, a goer does not go
And a non-goer does not go.
Other than a goer and a non-goer
What third thing could go?

参考
まず第一に,去る主体は去らない。﹝つぎに﹞,去らない主体も決して去らない。去る主体と去らない主体とからは異なった,どのような第三者が,実に,去るのであろうか。
無有去者。何以故。若有去者則有二種。若去者若不去者。若離是二。無第三去者。 去者有ること無し。何を以っての故に、若し去者有らば、則ち二種有り、若しは去者、若しは不去者なり。若し是の二を離れば、第三の去者無し。
『去る!』、
『者』は、
『無い!』、――
何故ならば、
若し、
『去る!』、
『者』が、
『有れば!』、
『二種有ることになる!』、――
『去る者か?』、
『去らない者か?』が。
若し、
是の、
『二人』を、
『離れれば!』、
第三の、
『去る者』は、
『無い!』。
問曰。若去者去有何咎。 問うて曰く、若し、去者去らば、何の咎か有らん。
問い、――
若し、
『去る!』、
『者』が、
『去れば!』、
何のような、
『咎』が、
『有るのか?』。
答曰
 若言去者去  云何有此義 
 若離於去法  去者不可得
答えて曰く、
若し去者去ると言わば、云何が此の義有らん、
若し去法を離るれば、去者は得べからず。
答え、――
若し、
こう言うならば、――
『去る!』、
『者』が、
『去る!』、と。
何故、
此の、
『去る者』という、
『義()』が、
『有るのか?』。
若し、
『去る!』という、
『法』を、
『離れれば!』、
『去る!』、
『者』は、
『認識できないのに!』。
参考:
gantā tāvad gacchatīti katham evopapatsyate |
gamanena vinā gantā yadā naivopapadyate ||9||
When a goer is impossible without going,
then how is it possible to say: “a goer goes”?

参考:
When it is inadmissible
For there to be a goer without going
How could it be admissible,
For example, to say ‘A goer goes’?

参考
「まず第一に,去る主体は去る」ということは,実に,どうして,成り立ち得るのであろうか。というのは,去る主体は,去るはたらきが無くては,決して成り立たないからである。
若謂定有去者用去法。是事不然。何以故。離去法。去者不可得故。 若し、『定んで、去者有りて、去法を用う』、と謂わば、是の事は然らず。何を以っての故に、去法を離れて、去者は得べからざるが故なり。
若し、
こう謂うならば、――
『去る!』、
『者』が、
『有り!』、
『去る!』という、
『法』を、
『用いる!』、と。
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
何故ならば、
『去る!』という、
『法』を、
『離れれば!』、
『去る!』、
『者』を、
『認識できないからだ!』。
若離去者定有去法。則去者能用去法。而實不爾。 若し去者を離れて、定んで去法有らば、則ち去者は、能く去法を用いん。而れども、実に爾らず。
若し、
『去る!』、
『者』を、
『離れても!』、
『去る!』という、
『法』が、
『有れば!』、
則ち、
『去る!』、
『者』は、
『去る!』という、
『法』を、
『用いることができる!』が、
而し、
『実は!』、
『そうでない!』。
復次
 若去者有去  則有二種去 
 一謂去者去  二謂去法去
復た次ぎに、
若し去者に去有らば、則ち二種の去有り、
一には謂わく去者の去、二には謂わく去法の去なり。
復た次ぎに、
若し、
『去る!』、
『者』に、
『去る!』が、
『有れば!』、
『二種』の、
『去る!』が、
『有るはずだ!』。
一には、
『去る!』、
『者』の、
『去る!』、
二には、
『去る!』という、
『法』としての、
『去る!』、が。
参考:
gamane dve prasajyete gantā yady uta gacchati |
ganteti cājyate yena gantā san yac ca gacchati ||11||
If the goer goes,
it would follow that going would be twofold:
that which reveals* the goer
and that which goes once [he] has become a goer.

参考:
If a goer could go
Going would follow as twofold –
That by which they become a goer
And the going having become a goer.

参考
さらにまた,もしも「去る主体が去る」というならば,二つの去るはたらき﹝が有る﹞,という誤りが付随することになる。すなわち,それ(去るはたらき)にもとづいて「去る主体」といわれる﹝その去るはたらき﹞と,去る主体でありつつそれ(去る主体)が「去る」という﹝その去るはたらき﹞とである。
若言去者用去法。則有二過。於一去者中而有二去。一以去法成去者。二以去者成去法。去者成已然後用去法。是事不然。 若し『去者は、去法を用う』、と言わば、則ち二過有り。一の去者中に於いて、而も二法有ればなり。一には去法を以って、去者を成じ、二には去者を以って、去法を成ず。去者成じ已りて、然る後に去法を用う、是の事は然らず。
若し、
こう言うならば、――
『去る!』、
『者』が、
『去る!』という、
『法』を、
『用いる!』、と。
是れには、
『二』の、
『過』が、
『有る!』。
何故ならば、
『一人』の、
『去る!』、
『者』中に、
『二個』の、
『去る!』が、
『有る!』。
一は、
『去る!』という、
『法で!』、
『去る!』、
『者』を、
『成立させ!』、
二は、
『去る!』、
『者で!』、
『去る!』という、
『法』を、
『成立させる!』。
則ち、
『去る!』、
『者』が、
『成立した!』後、
『去る!』という、
『法』を、
『用いて!』、
『去る!』、
『者』を、
『成立させる!』が、
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
是故先三時中。謂定有去者用去法。是事不然。 是の故に、先の三時中に、『定んで、去者有りて、去法を用う』、と謂わば、是の事は然らず。
是の故に、
先に、こう謂ったが、――
『三時』中には、
決定して、
『去る!』、
『者』が、
『有り!』、
『去る!』という、
『法』を、
『用いる!』、と。
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
復次
 若謂去者去  是人則有咎 
 離去有去者  說去者有去
復た次ぎに、
若し去者去ると謂わば、是の人は則ち咎有り、
去を離れて去者有り、去者に去有りと説けばなり。
復た次ぎに、
若し、
こう謂うならば、――
『去る!』、
『者』が、
『去る!』、と。
是の人には、
『咎』が、
『有るだろう!』。
何故ならば、
こう説くことになるからだ、――
『去る!』という、
『法』を、
『離れて!』、
『去る!』、
『者』が、
『有る!』、と。
又、こう説くことになるからだ、――
『去る!』、
『者』は、
『去る!』という、
『法』を、
『有する!』、と。
参考:
pakṣo gantā gacchatīti yasya tasya prasajyate |
gamanena vinā gantā gantur gamanam icchataḥ ||10||
To claim that a goer goes implies
that there could be a goer who does not go,
because it is asserted that a goer goes.

参考:
For those who take the position that ‘A goer goes’
For them it would follow that
There would be a goer who does not go
Because of accepting that a goer goes.

参考
「去る主体は去る」と主張するならば,その人には,去るはたらきが無くても,去る主体﹝が有る﹞,という誤りが付随することになる。﹝というのは,実は﹞,去る主体に﹝さらに﹞去るはたらき﹝が有る﹞と主張しているからである。
若人說去者能用去法。是人則有咎。離去法有去者。 若し人、『去者は、能く去法を用う』、と説かば、是の人には則ち咎有り。去法を離れて、去者有ればなり。
若し、
『人』が、
こう説くならば、――
『去る!』、
『者』は、
『去る!』という、
『法』を、
『用いる!』、と。
是の人には、
『咎』が、
『有るだろう!』。
何故ならば、
『去る!』という、
『法』を、
『離れて!』、
『去る!』、
『者』が、
『有るからだ!』。
何以故。說去者用去法。是為先有去者後有去法。是事不然。是故三時中無有去者。 何を以っての故に、『去者は、去法を用う』、と説かば、是れ先に去者有り、後に去法有りと為す。是の事は然らず。是の故に、三時中に去者有る無し。
何故ならば、
こう説くならば、――
『去る!』、
『者』は、
『去る!』という、
『法』を、
『用いる!』、と。
是れは、
先に、
『去る!』、
『者』が、
『有り!』、
後に、
『去る!』という、
『法』が、
『有るということになる!』ので、
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
是の故に、
『三時』中に、
『去る者』は、
『無い!』。
復次若決定有去有去者。應有初發。而於三時中。求發不可得。 復た次ぎに、若し決定して去有り、去者有らば、応に初発有るべし。而も三時中に於いて、発を求めて得べからず。
復た次ぎに、
若し、
決定して、
『去る!』という、
『法』が、
『有り!』、
『去る!』、
『者』が、
『有れば!』、
当然、
『去る!』の、
『始まり!』が、
『有るはずだ!』が、
而し、
『三時』の中には、
『去る!』の、
『始まり!』を、
『求めても!』、
『認められない!』。
何以故
 已去中無發  未去中無發 
 去時中無發  何處當有發
何を以っての故に、
已去中に発無く、未去中に発無く、
去時中に発無し、何処にか当に発有るべき。
何故ならば、
『過去』の、
『去る!』中に、
『始まり!』は、
『無く!』、
『未来』の、
『去る!』中にも、
『始まり!』は、
『無く!』、
『去る!』、
『時』の中にも、
『始まり!』は、
『無いからである!』。
いったい、
『始まり!』は、
『何処に!』、
『有ることになるのか?』
  (ほつ):発動の意。始まり。
参考:
gate nārabhyate gantuṃ gantuṃ nārabhyate ’gate |
nārabhyate gamyamāne gantum ārabhyate kuha ||12||
If a beginning of going does not exist in what has gone,
[if] a beginning of going does not exist also in what has not [yet] gone
[and if] there does not exist a beginning within motion,
wherein is a beginning of going made?

参考:
If there is no commencing to go on the traversed,
Also no commencing to go on the untraversed
And no commencing to go on that being traversed
Where does going commence?

参考
すでに去った﹝もの﹞(已去)においては,去るということは始められない。まだ去らない﹝もの﹞(未去)においては,去るということは始められない。現に去りつつある﹝もの﹞(去時)においては,﹝去るということは﹞始められない。どのようなものに,去るということが始められるであろうか。
何以故。三時中無發
 未發無去時  亦無有已去 
 是二應有發  未去何有發 
 無去無未去  亦復無去時 
 一切無有發  何故而分別
何を以っての故にか、三時中に発無き、
未だ発せざれば去時無く、亦た已去有る無し、
是の二は応に発有るべし、未去に何ぞ発有らん。
去無くんば未去無く、亦復た去時も無し、
一切に発有る無きに、何を以っての故にか分別せん。
何故ならば、
『三時』中には、
『去る!』の、
『始まり!』が、
『無い!』、――
『去る!』が、
未だ、
『始まらなければ!』、
『去る時』の、
『去る!』も、
『無く!』、
『過去』の、
『去る!』も、
『無い!』。
『去る時』と、
『過去』との、
『二時』には、
『去る!』の、
『始まり!』が、
『有るはずだ!』が、
『未来』の、
『去る!』に、
何故、
『始まり!』が、
『有るのか?』。
『過去』にも、
『未来』にも、
『去る時』にも、
一切に、
『去る!』の、
『始まり!』が、
『無いのに!』、
何故、
『去る!』が、
『分別できるのか?』。
参考:
na pūrvaṃ gamanārambhād gamyamānaṃ na vā gatam |
yatrārabhyeta gamanam agate gamanaṃ kutaḥ ||13||
Before a beginning of going,
there is not any motion or anything which has gone
wherein going could begin.
How can going exist in what has not [yet] gone?

gataṃ kiṃ gamyamānaṃ kim agataṃ kiṃ vikalpyate |
adṛśyamāna ārambhe gamanasyaiva sarvathā ||14||
If a beginning of going is simply not apparent in any way,
examine: what has gone? what is motion? what has not [yet] gone?

参考:
Prior to commencing to go
Where could there be a commencing to go?
Neither on that being traversed nor on the traversed.
And how could it exist on the untraversed?

When the commencing to go
Is simply not visible in any way
What path traversed, being traversed,
Or untraversed can be considered?

参考
去るはたらきの始まるより以前にそこで去るはたらきが始められるような,そのよ うな現に去りつつある﹝もの﹞(去時)は﹝存在﹞しない。また,すでに去った﹝も の﹞も﹝存在し﹞ない。まだ去らない﹝もの﹞において,どのようにして,去るは たらき﹝が存在するであろう﹞か。

去るはたらきの始まりが﹝已去、未去、去時の﹞すべての場合にどのようにしても見られないならば,どのようなすでに去った﹝もの﹞(已去),どのような現に去りつつある﹝もの﹞ (去時),どのようなまだ去らない﹝もの﹞(未去)が,分析的に考えられるのか。
若人未發則無去時。亦無已去。 若し人は、未だ発せざれば、則ち去時無く、又已去無し。
若し、
『人』の、
『去る!』が、
『始まらなければ!』、
『去る時』の、
『去る!』も、
『無く!』、
『過去』の、
『去る!』も、
『無い!』。
若有發當在二處。去時已去中。二俱不然。 若し発有らば、当に二処に在るべし、去時、已去中に。二は倶に然らず。
若し、
『去る!』の、
『始まり!』が、
『有れば!』、
当然、
『去る時』の、
『去る!』中か、
『過去』の、
『去る!』中かの、
『二処』に、
『在るはずだ!』が、
『二処』は、
『どちらも!』、
『存在しない!』。
未去時未有發故。未去中何有發。發無故無去。無去故無去者。何得有已去未去去時。 未だ去時ならざれば、未だ発有らざるが故に、未去中に何ぞ発有らん。発無きが故に、去無し。去無きが故に、去者無し。何ぞ已去、未去、去時有るを得ん。
何故ならば、
未だ、
『去る!』、
『時でなければ!』、
『去る!』の、
『始まり!』が、
『無いからだ!』。
未だ、
『去らない!』中に、
何故、
『始まり!』が、
『有るのか?』。
『去る!』という、
『法』に、
『始まり!』が、
『無い!』が故に、
『去る!』という、
『法』が、
『無く!』、
『去る!』という、
『法』の、
『無い!』が故に、
『去る!』、
『者』も、
『無い!』。
何故、
『過去』や、
『未来』や、
『去る時』の、
『去る!』が、
『有る!』と、
『認められるのか?』。
問曰。若無去無去者。應有住住者。 問うて曰く、若し去無く、去者無くんば、応に住と住者と有るべし。
問い、――
若し、
『去る!』という、
『法』が、
『無く!』、
『去る!』、
『者』も、
『無ければ!』、
当然、
『住まる!』という、
『法』が、
『有り!』、
『住まる!』、
『者』が、
『有るはずだ!』。
答曰
 去者則不住  不去者不住 
 離去不去者  何有第三住
答えて曰く、
去る者は則ち住せず、去らざる者も住せず、
去ると去らざる者とを離れ、何ぞ第三の住する有らん。
答え、――
『去る!』、
『者』は、
『住まらない!』し、
『去らない!』、
『者』も、
『住まらない!』。
『去る者』と、
『去らない者』とを、
『離れれば!』、
何処に、
『第三』の、
『住まる者』が、
『有るのか?』。
  (じゅう):住む/滞留する( to abide )、◯梵語 tiSThati の訳、住まる/立ち止まる/住む( to stay, stop, abide )の義。◯梵語 sthaana の訳、完全な静穏状態( a state of perfect tranquillity )、聖地/要塞( a holy place, a stronghold, fortress )、住まること/住むこと( staying, abiding )の義、立つこと/しっかり立つこと/固定した状態、又は静止した状態にあること( The act of standing, standing firmly, being fixed or stationary. )の意。
参考:
gantā na tiṣṭhati tāvad agantā naiva tiṣṭhati |
anyo gantur agantuś ca kas tṛtīyo ’tha tiṣṭhati ||15||
When a goer does not stay, a non-goer cannot stay;
what third one other than a goer and a non-goer could stay?

参考:
For example, a goer does not stay
And a non-goer does not stay.
Other than a goer and a non-goer
What third thing could stay?

参考
まず第一に,去る主体はとどまらない(住することはない)。﹝つぎに﹞,去らない主体も決してとどまらない。去る主体と去らない主体とからは異なった,どのような第三者が,それならば,とどまるであろうか。
若有住有住者。應去者住。若不去者住。若離此二。應有第三住。是事不然。 若し住する有りて住者有らば、応に去る者は住し、若しは去らざる者も住すべし。若し此の二を離るれば、応に第三の住有るべし、是の事は然らず。
若し、
『住まる!』という、
『法』が、
『有り!』、
『住まる!』、
『者』が、
『有れば!』、
当然、
『去る!』、
『者』が、
『住まる!』か、
『去らない!』、
『者』が、
『住まるはずだ!』。
若し、
此の、
『二者』を、
『離れれば!』、
当然、
『第三』の、
『住まる者』が、
『有るはずだ!』が、
是の、
『事』は、
『そうでない!』。
去者不住。去未息故。與去相違名為住。 去る者は住せずとは、去りて未だ息まざるが故に、去と相違するを、名づけて住と為せばなり。
『去る!』、
『者』が、
『住まらない!』とは、――
『去る!』という、
『法』が、
『息(やす)まないからだ!』。
『去る!』と、
『相違する!』ので、
『住まる!』と、
『称するのに!』。
不去者亦不住。何以故。因去法滅故有住。無去則無住。 去らざる者も、亦た住せずとは、何を以っての故に、去法滅するに因るが故に、住有り。去無ければ、則ち住無し。
『去らない!』、
『者』も、
『住まらない!』とは、――
何故ならば、
『住まる!』とは、――
『去る!』という、
『法』の、
『滅する!』に、
『因る!』が故に、
『住まる!』という、
『法』が、
『有るからだ!』。
若し、
『去る!』という、
『法』が、
『無ければ!』、
『住まる!』という、
『法』も、
『無いことになる!』。
離去者不去者。更無第三住者。若有第三住者。即在去者不去者中。以是故。不得言去者住。 去者と不去者とを離れて、更に第三の住者無し。若し第三の住者有らば、即ち去者、不去者中に在り、是を以っての故に、『去者は住す』、と言うを得ず。
『去る者』と、
『去らない者』との、
『二者』を、
『離れれば!』、
更に、
『第三』の、
『住まる者』は、
『無い!』。
若し、
『第三』の、
『住まる者』が、
『有れば!』、
即ち、
『去る!』と、
『去らない!』との、
『二者』中に、
『在ることになる!』。
是の故に、
こう言うことはできない、――
『去る者』が、
『住まる!』、と。
復次
 去者若當住  云何有此義 
 若當離於去  去者不可得
復た次ぎに、
去者若し当に住すべくんば、云何が此の義有らん、
若し当に去を離るべくんば、去者を得べからず。
復た次ぎに、
若し、
『去る者』が、
『住まることになれば!』、
何故、
『去る者』に、
此の、
『義(住まる!)』が、
『有るのか?』。
若し、
『去る!』という、
『法』を、
『離れることになれば!』、
則ち、
『去る者』とは、
『認められないのに!』。
参考:
gantā tāvat tiṣṭhatīti katham evopapatsyate |
gamanena vinā gantā yadā naivopapadyate ||16||
When a goer is not possible without going,
how then is it possible [to say]: “a goer stays.”

参考:
When it is inadmissible
For there to be a goer without going
How could it be admissible,
For example, to say ‘A goer stays’?

参考
去るはたらきが無くては,去る主体は決して成り立たない場合に,「まず第一に,去る主体はとどまる」ということが,どうして,成り立ち得るであろうか。
汝謂去者住。是事不然。何以故。離去法。去者不可得。 汝、『去者は住す』、と謂わば、是の事は然らず。何を以っての故に、去法を離れて、去者を得べからざればなり。
お前は、こう言った、――
『去る者』が、
『住まる!』、と。
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
何故ならば、
『去る!』という、
『法』を、
『離れれば!』、
『去る!』、
『者』は、
『認められないからだ!』。
若去者在去相。云何當有住。去住相違故。 若し去者、去相に在れば、云何が当に住有るべき。去と住と相違うが故なり。
若し、
『去る!』、
『者』が、
『去る!』という、
『相』に、
『在れば!』、
何故、
『住まる!』という、
『相』が、
『有るのか?』、
『去る!』と、
『住まる!』とは、
『相違するのに!』。
復次
 去未去無住  去時亦無住 
 所有行止法  皆同於去義
復た次ぎに、
去と未去とに住無く、去時にも亦た住無し、
有らゆる行、止の法は、皆、去義に同じ。
復た次ぎに、
『過去』と、
『未来』の、
『去る!』には、
『住まる!』が、
『無い!』、
『去る時』の、
『去る!』にも、
『住まる!』が、
『無い!』。
有らゆる、
『行く!』とか、
『止まる!』という、
『法』も、
皆、
『去る!』の、
『義』と、
『同じである!』。
参考:
na tiṣṭhati gamyamānān na gatān nāgatād api |
gamanaṃ saṃpravṛttiś ca nivṛttiś ca gateḥ samā ||17||
There is no reversal of motion*,
nor also of what has gone [and] what has not [yet] gone.
[Reversal of] going, engagement [to stay] and reversal [of staying]
are similar to going.

参考:
There is no stopping on that being traversed,
On the traversed nor on the untraversed.
Going, commencing to stay and
Also stopping to stay are refuted in a similar way to going.

参考
﹝去る主体は﹞現に去りつつある﹝ところ﹞より﹝とどまるのでは﹞ない,すでに去った﹝ところ﹞より﹝とどまるのでは﹞ない,まだ去らない﹝ところ﹞よりもまた,とどまるのではない。﹝とどまる主体の﹞去るはたらきと,動き出すことと, 停止することとは,去ること(去)﹝の場合﹞と共通である﹝と理解されるべきであ る﹞。
若謂去者住。 是人應在去時已去未去中住。三處皆無住。是故汝言去者有住。是則不然。 若し、『去者は住す』、と謂わば、是の人は、応に去時、已去、未去中に在りて、住すべし。三処には、皆住無し。是の故に汝は、『去者に住有り』、と言えども、是れ則ち然らず。
若し、
こう謂うならば、――
『去る者』が、
『住まる!』、と。
是の人は、
『去る時』か、
『過去』か、
『未来』かの、
『去る!』という、
『相』中に、
『住まるはずだ!』が、
『三処』には、
皆、
『住まる!』という、
『法』が、
『無い!』。
是の故に、
お前が、
こう言うならば、――
『去る者』には、
『住まる!』ことが、
『有る!』、と。
是れは、
『間違っている!』。
如破去法住法。行止亦如是。行者。如從穀子相續至芽莖葉等。止者。穀子滅故芽莖葉滅。相續故名行。斷故名止。 去法、住法を破すが如く、行、止も亦た是の如し。行とは、穀子より、相続して芽、茎、葉等に至るが如し。止とは、穀子滅するが故に芽、茎、葉も滅す。相続の故に、行と名づけ、断の故に、止と名づく。
例えば、
『去る!』とか、
『住まる!』という、
『法』を、
『破ったように!』、
『行く(進行)!』とか、
『止まる(停止)!』という、
『法』も、
『破った!』。
『行く!』とは、
譬えば、
『穀子(もみ)より!』、
『相続して!』、
『芽、茎、葉』等に、
『至るようなものだ!』。
『止まる!』とは、
譬えば、
『穀子』が、
『滅した!』が故に、
『芽、茎、葉』も、
『滅するようなものだ!』。
『相続する!』が故に、
『行く!』と、
『呼び!』、
『断絶する!』が故に、
『止まる!』と、
『称する!』。
又如無明緣諸行乃至老死是名行。無明滅故諸行等滅是名止。 又、無明は諸行を縁じて、乃ち老死に至るが如き、是れを行と名づけ、無明滅するが故に、諸行等滅す、是れを止と名づく。
又、
例えば、
『無明』は、
『諸行』を、
『縁じ!』、
乃至、
『生』は、
『老死』を、
『縁じるまで!』、
是れを、
『行く!』と、
『称し!』、
例えば、
『無明』の、
『滅する!』が故に、
『諸行』が、
『滅する!』等、
是れを、
『止まる!』と、
『称する!』。
問曰。汝雖種種門破去去者住住者。而眼見有去住。 問うて曰く、汝は、種種の門にて、去、去者、住、住者を破すと雖も、而も眼には、去、住有るを見る。
問い、――
お前は、
種種の、
『門』に於いて、
『去る!』、
『去る者』、
『住まる!』、
『住まる者』を、
『破った!』が、
而し、
『眼』には、こう見える、――
『去る!』や、
『住まる!』が、
『有る!』、と。
答曰。肉眼所見不可信。若實有去去者。為以一法成。為以二法成。二俱有過。 答えて曰く、肉眼の所見は信ずべからず。若し実に、去、去者有らば、一法を以って成ずと為んや、二法を以って成ずと為んや。二は倶に過有り。
答え、
『肉眼』の、
『見る!』所を、
『信じてはならない!』。
若し、
『実に!』、
『去る!』と、
『去る者』とが、
『有れば!』、
『去る!』と、
『去る者』とは、
『一個』の、
『法』として、
『成立するのか?』
『二個』の、
『法』として、
『成立するのか?』
是れ等は、
どちらも、
『過』が、
『有る!』。
何以故
 去法即去者  是事則不然 
 去法異去者  是事亦不然
何を以っての故に、
去法は即ち去者なり、是の事は則ち然らず、
去法は去者に異なり、是の事も亦た然らず。
何故ならば、
『去る!』という、
『法』が、
『去る者』と、
『同一ならば!』、
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
『去る!』という、
『法』が、
『去る者』と、
『異なれば!』、
是の、
『事』も、
『間違っている!』。
参考:
yad eva gamanaṃ gantā sa eveti na yujyate |
anya eva punar gantā gater iti na yujyate ||18||
It is inappropriate to say: “going and a goer are the same.”
It is inappropriate to say: “going and a goer are different.”

参考:
It is also not acceptable to say
‘The going is the same as the goer’.
And it is also not acceptable to say
‘The going is different from the goer’.

参考
およそ,去るはたらきそのものがすなわち去る主体である,ということは,正しくない。しかしまた,およそ,去る主体は去ることからは異なっている,ということ も,正しくない。
若去法去者一。是則不然。異亦不然。 若し去法と去者と一なれば、是れ則ち然らず。異も亦た然らず。
若し、
『去る!』という、
『法』が、
『去る者』と、
『同一ならば!』、
是れは、
『真実でない!』。
『去る!』という、
『法』が、
『去る者』と、
『異なれば!』、
是れも、
『真実でない!』。
問曰一異有何過。 問うて曰く、一、異には、何の過か有らん。
問い、――
『一』と、
『異』とには、
何のような、
『過(あやまち)』が、
『有るのか?』。
答曰
 若謂於去法  即為是去者 
 作者及作業  是事則為一 
 若謂於去法  有異於去者 
 離去者有去  離去有去者
答えて曰く、
若し去法に於いて、即ち是れ去者と為すと謂わば、
作者及び作業、是の事を則ち一と為すなり。
若し去法に於いて、去者に異なる有りと謂わば、
去者を離れて去有り、去を離れて去者有り。
答え、――
若し、
こう謂うならば、――
『去法( going )』が、
『去る者( goer )だ!』、と。
則ち、
『作者( worker/actor )』と、
『作業( work/action )』とは、
是の、
『事』が、
『同一だということになる!』。
若し、
こう謂うならば、――
『去法』と、
『去る者』とは、
『異なり!』が、
『有る!』、と。
則ち、
『去る者』を、
『離れて!』、
『去法』が、
『有り!』、
『去法』を、
『離れて!』、
『去る者』が、
『有ることになる!』。
参考:
yad eva gamanaṃ gantā sa eva hi bhaved yadi |
ekībhāvaḥ prasajyeta kartuḥ karmaṇa eva ca ||19||
If whatever is going were a goer,
it would follow
that the actor and the act would be the same too.

anya eva punar gantā gater yadi vikalpyate |
gamanaṃ syād ṛte gantur gantā syād gamanād ṛte ||20||
If going and a goer were conceived as different,
there could be going without a goer and a goer without going.

参考:
If the going
Were the goer
It would also follow that
The agent would be the same as the action.

If the going were considered
To be different from the goer
There would be going without a goer
And a goer without going.

参考
さらにまた,もしも去る主体は去ることからは異なっている,と分析的に考えられるならば,去るはたらきは,去る主体を離れても,有ることになるであろうし,去る主体は,去るはたらきを離れても,有ることになるであろう。

さらにまた,もしも去る主体は去ることからは異なっている,と分析的に考えられるならば,去るはたらきは,去る主体を離れても,有ることになるであろうし,去る主体は,去るはたらきを離れても,有ることになるであろう。
如是二俱有過。何以故。若去法即是去者。是則錯亂破於因緣。因去有去者。因去者有去。 是の如き二は、倶に過有り。何を以っての故に、若し去法は、即ち是れ去者なれば、是れ則ち錯乱にして、因縁を破す。去に因りて、去者有り、去者に因りて去有ればなり。
是のような、
『二種』は、
どちらにも、
『過』が、
『有る!』。
何故ならば、
若し、
『去る!』という、
『法』が、
『去る者』ならば、
是れは、
『錯乱であり!』、
『因縁』を、
『破ることになる!』。
何故ならば、
『去る!』という、
『法』に、
『因る!』が故に、
『去る!』、
『者』が、
『有り!』、
『去る!』、
『者』に、
『因る!』が故に、
『去る!』という、
『法』が、
『有るからだ!』。
又去名為法。去者名為人。人常法無常。 又去を、名づけて法と為し、去者を、名づけて人と為すに、人は常、法は無常なり。
又、
『去る!』は、
『法』と、
『呼ばれ!』、
『去る者』は、
『人』と、
『呼ばれる!』が、
『人』は、
『常(永続)であり!』、
『法』は、
『無常(その場限り)である!』。
若一者則二俱應常二俱無常。一中有如是等過。 若し一なれば、則ち二は倶に応に常なるべく、二は倶に無常なるべし。一中には、是の如き等の過有り。
若し、
『去る!』という、
『法』と、
『去る者』とが、
『一ならば!』、
『二』は、
『どちらも!』、
『常でなくてはならず!』、
『二』は、
『どちらも!』、
『無常でなくてはならない!』。
『一』中には、
是れ等のような、
『過』が、
『有る!』。
若異者則相違。未有去法應有去者。未有去者應有去法。不相因待。一法滅應一法在。異中有如是等過。 若し異ならば、則ち相違す。未だ去法有らざるに、応に去者有るべく、未だ去者有らざるに、応に去法有るべし。相因待せざれば、一法滅するに、応に一法在るべし。異中には、是の如き等の過有り。
若し、
『去る!』という、
『法』と、
『去る者』とが、
『異なれば!』、
未だ、
『去る!』という、
『法』が、
『無くても!』、
『去る!』、
『者』が、
『有るはずだ!』。
未だ、
『去る!』、
『者』が、
『無くても!』、
『去る!』という、
『法』が、
『有るはずだ!』。
互いに、
『因』を、
『待たなければ!』、
『一法』が、
『滅しても!』、
『一法』が、
『存在するはずだ!』。
『異』中には、
是れ等の、
『過』が、
『有る!』。
復次
 去去者是二  若一異法成 
 二門俱不成  云何當有成
復た次ぎに、
去と去者との是の二に、若し一異の法成ぜば、
二門は倶に成ぜず、云何が成有るべき。
復た次ぎに、
『去法』と、
『去る者』との、
『二』に於いて、
若し、
『一、異』という、
『法(方法)』が、
『成り立つならば!』、
『二門』は、
どちらも、
『成立しない!』。
何故、
『成立する!』ことが、
『有るはずのか?』。
参考:
ekībhāvena vā siddhir nānābhāvena vā yayoḥ |
na vidyate tayoḥ siddhiḥ kathaṃ nu khalu vidyate ||21||
If things are not established as the same and as different,
how can they be established?
参考:
When they cannot be established
As things that are the same
Or as things that are different
How could those two be established?

参考
同一体であるにしても,また別異体であるとしても,成立が存在しないような,そのような二つのもの(主体とはたらき)において,実に,どうして,成立は存在するのであろうか。
若去者去法。有若以一法成。若以異法成。二俱不可得。 若し去者と去法と有り、若しは一法を以って成じ、若しは異法を以って成ず、二は倶に得べからず。
若し、
『去る者』と、
『去法』とは、
有るいは、
『一法』として、
『成立するのか?』、
若しくは、
『異法』として、
『成立するのか?』、
『二門』は、
どちらも、
『認められない!』。
先已說無第三法成。若謂有成。應說因緣無去無去者。 先に已に『第三の法の成ずる無し』、と説けり。若し『成有り』、と謂わば、応に説くべし、『因縁には去無く、去者無し』、と。
先には、
已に、こう説いた、――
『一』や、
『異』とは、
『別に!』、
『第三の法』が、
『成立する!』ことは、
『無い!』、と。
若し、
こう謂うならば、――
『第三』の、
『法』が、
『成立する!』、と。
当然、
『因縁』を、説くべきだ、――
『第三の門』には、
『去る!』も、
『無く!』、
『去る者』も、
『無い!』、と。
今當更說
 因去知去者  不能用是去 
 先無有去法  故無去者去
今は当に更に説くべし、
去に因りて去者を知らば、是の去を用うる能わず、
先に去法を有する無く、故に去者の去る無し。
今は、
更に、説かなくてはならない、――
若し、
『去法』に、
『因って!』、
『去る者』を、
『知れば!』、
誰が、
是の、
『去法』を、
『用いるのか?』
先に、
『去る!』という、
『法』が、
『無ければ!』、
故に、
『去る者』が
『去る!』ことは、
『無い!』。
参考:
gatyā yayājyate gantā gatiṃ tāṃ sa na gacchati |
yasmān na gatipūrvo ’sti kaścid kiṃcid dhi gacchati ||22||
That very going
by which a goer is made evident does not [enable a goer to] go.
Because there is no [goer] before going,
who would be going where?

参考:
The going by which they become a goer
Is not a going of that goer
Because prior to going there does not exist
Someone who is going somewhere.

参考
去ること(去)によって去る主体(去者)が說かれるならば,かれ(去る主体)は,その去ることを去って行くのではない。なぜならば﹝去る主体が﹞去ることより以前に存在していることはないからである。実に,何ものが何ものを去って行くのであろ うか。
隨以何去法知去者。是去者不能用是去法。何以故。是去法未有時。無有去者。 何なる去法を以ってしても、随って去者を知らば、是の去者は、是の去法を用うる能わず。何を以っての故に、是の去法の未だ有らざる時、去者有ること無ければなり。
何のような、
『去る!』という、
『法』を、
『用いて!』、
『去る!』、
『者』を、
『知るのか?』、――
是の、
『去る者』は、
是の、
『去法』を、
『用いられないのに!』。
何故ならば、
是の、
『去る!』という、
『法』が、
『無い!』時には、
『去る者』も、
『存在しないからだ!』。
亦無去時已去未去。如先有人有城邑得有所起。去法去者則不然。去者因去法成。去法因去者成故。 亦た去時、已去、未去も無し。先に人有り、城邑有りて、起つ所有るを得るが如きは、去法と去者とは則ち然らず。去者は、去法に因って成じ、去法は、去者に因って成ずるが故なり。
亦た、
『去る時』の、
『去る!』も、
『無く!』、
『過去』や、
『未来』の、
『去る!』も、
『無い!』。
譬えば、
先に、
『人』と、
『城邑』とが、
『有る!』ので、
『起つ!』所の、
『人、城邑』が、
『有る!』ことを、
『認められる!』が、
『去る!』や、
『去る者』は、
則ち、
『有る!』と、
『認められない!』。
何故ならば、
『去る者』は、
『去法』に、
『因って!』、
『成立し!』、
『去法』は、
『去る者』に、
『因って!』、
『成立するからである!』。
復次
 因去知去者  不能用異去 
 於一去者中  不得二去故
復た次ぎに、
去に因りて去者を知るに、異去を用うる能わず、
一去者中に於いては、二去を得ざるが故なり。
復た次ぎに、
『去る!』という、
『法』に、
『因って!』、
『去る!』、
『者』を、
『知った!』としても、
『異なった!』、
『去る!』という、
『法』を、
『用いることはできない!』、
何故ならば、
『一』の、
『去る者』中に、
『二』の、
『去法』は、
『認められないからだ!』。
参考:
gatyā yayājyate gantā tato ’nyāṃ sa na gacchati |
gatī dve nopapadyete yasmād eke tu gantari ||23||
[A going] which is other than the going
by which a goer is made evident does not [enable a goer to] go.
Because it is impossible for going to be twofold within a single goer.

参考:
The going that is different from the going by which they become a goer
Is not a going of that goer
Because for a single goer
It is inadmissible for going to be twofold.

参考
去ることによって去る主体が說かれるならば,かれ(去る主体)はそれ(去ること)から異なった﹝去ることを﹞去って行くのではない。なぜならば,一人﹝の去る主体﹞が去って行くときに,二つの去ることは成り立たないからである。
隨以何去法知去者。是去者不能用異去法。何以故。一去者中。二去法不可得故。 何なる去法を以ってしも、随って去者を知らば、是の去者は、異なる去法を用うる能わず。何を以っての故に、一去者中に、二去法を得べからざるが故なり。
何のような、
『去る!』という、
『法』に、
『随って!』、
『去る!』、
『者』を、
『知ったとしても!』、
是の、
『去る者』は、
『異なる(別の)!』、
『去る法』を、
『用いられない!』。
何故ならば、
『一』の、
『去る者』中に、
『二』の、
『去法』は、
『認められないからだ!』。
復次
 決定有去者  不能用三去 
 不決定去者  亦不用三去 
 去法定不定  去者不用三 
 是故去去者  所去處皆無
復た次ぎに、
決定して去者有らば、三去を用うる能わず、
去者を決定せざるも、亦た三去を用いず。
去法は定なるも不定なるも、去者は三を用いず、
是の故に去と去者と、去る所の処と皆無し。
復た次ぎに、
『去る者』が、
『有る!』と、
『決定しても!』、
『三種』の、
『去法』を、
『用いることはできない!』。
『去る者』が、
『有る!』と、
『決定しなくても!』、
『三種』の、
『去法』を、
『用いない!』。
『去法』は、
『有る!』と、
『決定しても!』、
『決定しなくても!』、
『去る者』は、
『三種』の、
『去る法』を、
『用いない!』。
是の故に、
『去法』も、
『去る者』も、
『去られる処』も、
皆、
『存在しない!』。
  三去(さんこ):三種の去法。
  1. 過去の去法。
  2. 未来の去法。
  3. 去る時の去法。
但し、三枝充惪は、こう見ている、――
  1. 実在した去法。
  2. 実在しない去法。
  3. 実在し且つ実在しない去法。《中論偈頌總覽》
参考:
sadbhūto gamanaṃ gantā triprakāraṃ na gacchati |
nāsadbhūto ’pi gamanaṃ triprakāraṃ sa gacchati ||24||
One who is a goer does not go in the three aspects of going.
Also one who is not [a goer] does not go in the three aspects of going.

gamanaṃ sadasadbhūtaḥ triprakāraṃ na gacchati |
tasmād gatiś ca gantā ca gantavyaṃ ca na vidyate ||25||
One who is and is not [a goer] also does not go
in the three aspects of going.
Therefore, going and a goer
and also that which is gone over do not exist.

参考:
That which has already become a goer
Does not go in any of the three ways of going.
Also that which has not yet become a goer
Does not go in any of the three ways of going.

And also that which has both become and not become a goer
Does not go in any of the three ways of going.
Thus, going, the goer
And also that to be traversed do not exist.

参考
去る主体が実在するものであるならば,三種類の去るはたらき(実在する去るはたらき,実在しない去るはたらき,実在し且つ実在しない去るはたらき)﹝のどれによっても﹞去って行くのではない。また﹝去る主体が﹞実在しないものであるとしても,三種類の去るはたらき﹝のどれによっても﹞去って行くのではない。

﹝去る主体が﹞実在し且つ実在しないものであろうとも,三種類の去るはたらき﹝のどれによっても﹞去って行くのではない。それゆえ,去ること(去)と,また去る主体(去者)と,また去られるべきところ(所去处)とは,存在しないのである。
決定者。名本實有。不因去法生。 決定とは、本より実に有り、去法に因らずして生ずと名づく。
『決定する!』とは、
こういうことである、――
『去る者』が、
『本より!』、
『実に有り!』、
『去法』に、
『因って!』、
『生じるのではない!』、と。
去法名身動。三種名未去已去去時。 去法は、身動くと名づけ、三種を未去、已去、去時と名づく。
『去法』とは、
『身』が、
『動くことであり!』、
『三種』を、
こう呼ぶ、――
『未来の去法』、
『過去の去法』、
『去る時の去法』、と。
若決定有去者。離去法應有去者。不應有住。是故說決定有去者不能用三去。 若し決定して、去者有らば、去法を離れて、応に去者有るべく、応に住有るべからず。是の故に説かく、『決定して、去者有らば、三去を用うる能わず』、と。
若し、
決定して、
『去る者( goer )』が、
『有れば!』、
則ち、
『去法( going )』を、
『離れて!』、
『有るはずであり!』、
『去る者』に、
『住法( staying )』は、
『有るはずがない!』。
是の故に、
こう説く、――
決定して、
『去る者』が、
『有れば!』、
『三種』の、
『去法』を、
『用いることができない!』、と。
若去者不決定。不決定名本實無。以因去法得名去者。以無去法故不能用三去。 若し去者にして決定せざれば、不決定を本より実に無く、去法に因り、以って去者と名づくるを得と名づく。去法無きを以っての故に、三去を用うる能わず。
若し、
『去る者』が、
『有る!』と、
『決定しなければ!』、――
『決定しない!』とは、
こういうことである、――
本より、
『実に!』、
『存在しない!』、と。
『去る者』は、
『去る!』という、
『法』に、
『因って!』、
『去る者』と、
『呼ばれる!』が、
『去る!』という、
『法』の、
『無い!』が故に、
『去る者』は、
『三種の去法』を、
『用いられない!』。
因去法故有去者。若先無去法則無去者。云何言不決定去者用三去。 去法に因るが故に、去者有り。若し先に去法無ければ、則ち去者無し。云何が、『不決定の去者にして、三去を用う』、と言わん。
『去法』に、
『因る!』が故に、
『去る者』が、
『有れば!』、
若し、
先に、
『去法』が、
『無ければ!』、
則ち、
『去る者』が、
『無いことになる!』。
何故、こう言うのか?――
『去る者』が、
『決定しなくても!』、
『三種』の、
『去法』を、
『用いる!』、と。
如去者去法亦如是。若先離去者。決定有去法。則不因去者有去法。是故去者。不能用三去法。 去者の如く、去法も亦た是の如く、若し先に去者を離れて、決定して去法有らば、則ち去者に因らずして、去法有り。是の故に去者は、三去法を用うる能わず。
『去る者』と、
『去法』も、
亦た、
是のように、――
若し、
先に、
『去る者』を、
『離れて!』、
『決定して!』、
『去法』が、
『有れば!』、
則ち、
『去る者』に、
『因らずに!』、
『去法』が、
『有ることになり!』、
是の故に、
『去る者』は、
『三種』の、
『去法』を、
『用いることができない!』。
若決定無去法去者何所用。 若し決定して去法無くんば、去者は何をか用うる所なる。
若し、
『決定して!』、
『去法』が、
『無ければ!』、
何が
『去る者』に、
『用いられるのか?』。
如是思惟觀察。去法去者所去處。是法皆相因待。因去法有去者。因去者有去法。因是二法則有可去處不得言定有。不得言定無。 是の如く思惟し、観察するに、去法、去者、去る所の処、是の法は、皆、相因待し、去法に因りて去者有り。去者に因りて去法有り。是の二法に因りて、則ち去るべき処有れば、『定んで有り』、と言うを得ず。『定んで無し』、とも言うを得ず。
是のように、
『思惟して!』、
『観察すれば!』、――
『去法』、
『去る者』、
『去られる処』という、
是の、
『法』は、
皆、
『互いに!』、
『因待している!』。
謂わゆる、
『去法』に、
『因って!』、
『去る者』が、
『有り!』、
『去る者』に、
『因って!』、
『去法』が、
『有り!』、
是の、
『二法』に、
『因って!』、
則ち、
『去るべき処』が、
『有る!』ので、
是れ等は、
『定まって!』、
『有る!』と、
『言うこともできず!』、
『定まって!』、
『無い!』と、
『言うこともできない!』。
是故決定知。三法虛妄。空無所有。但有假名。如幻如化 是の故に決定して知るらく、『三法は虚妄の空、無所有にして、但だ仮名の、幻の如き、化の如き有るのみ』、と。
是の故に、
『決定して!』、こう知る、――
『三種』の、
『法』は、
『虚妄であり!』、
『空であり!』、
『無所有である!』。
譬えば、
『幻のように!』、
『化のように!』、
但だ、
『仮名のみ!』が、
『有る!』、と。



中論觀六情品第三 (八偈)

問曰。經中說有六情。 問うて曰く、経中に説かく、『六情有り』、と。
問い、――
『経』中には、
こう説く、――
『六情(眼耳鼻舌身意)』が、
『有る!』、と。
所謂
 眼耳及鼻舌  身意等六情 
 此眼等六情  行色等六塵
謂わゆる、
眼耳及び鼻舌と、身意等の六情あり、
此の眼等の六情は、色等の六塵を行ず。
謂わゆる、
『眼』、
『耳』、
『鼻』、
『舌』、
『身』、
『意』等の、
『六情だ!』。
此の、
『眼』等の、
『六情』は、
『色』等の、
『六塵(色声香味触法)』を、
『感じる!』。
参考:
darśanaṃ śravaṇaṃ ghrāṇaṃ rasanaṃ sparśanaṃ manaḥ |
indriyāṇi ṣaḍ eteṣāṃ draṣṭavyādīni gocaraḥ ||1||
Seeing and hearing and smelling and tasting and touching,
mind are the six sense organs;
their experienced objects are what-is-seen and so forth.

参考:
Seeing, hearing, smelling,
Tasting, touching and intellect
Are the six sense powers.
Their objects of experience are objects seen and so forth.

参考
見るはたらき(視覚),聞くはたらき(聽覚),嗅ぐはたらき(嗅覚),味わうはたらき(味覚), 觸れるはたらき(触覚),思うはたらき(思考)が,六つの認識能力(六根)である。 見られるもの(いろ・かたち)などが,これら(認識能力)の作用領域(對象)である。
此中眼為內情色為外塵。眼能見色乃至意為內情。法為外塵。意能知法。 此の中に眼を内情と為し、色を外塵と為す。眼は能く色を見、乃至意を内情と為し、法を外塵と為し、意は能く法を知る。
此の中に、
『眼』は、
『内』の、
『情であり!』、
『色』は、
『外』の、
『塵である!』。
『眼』は、
『色』を、
『見ることができる!』。
乃至、
『意』は、
『内』の、
『情であり!』、
『法』は、
『外』の、
『塵である!』。
『意』は、
『法』を、
『知ることができる!』。
答曰無也。 答えて曰く、無きなり。
答え、――
『六情』は、
『存在しない!』。
何以故
 是眼則不能  自見其己體 
 若不能自見  云何見餘物
何を以っての故に、
是の眼は則ち、自ら其の己体を見る能わず、
若し自ら見る能わずんば、云何が余の物を見ん。
何故ならば、
是の、
『眼』は、
『自ら!』の、
『体』を、
『見られない!』。
若し、
『自ら!』の、
『体』を、
『見られないとすれば!』、
何故、
『他!』の、
『物』が、
『見えるのか?』。
  (たい):身( body )、◯梵語 gaatra の訳、身体( the body )の義。◯梵語 aatman の訳、何物かの実体/本質/その物自体( The substance, or essence of something. The thing in itself )の義、その機能[体用]と区別していう( distinct from its function )。
参考:
svam ātmānaṃ darśanaṃ hi tat tam eva na paśyati |
na paśyati yad ātmānaṃ kathaṃ drakṣyati tat parān ||2||
Seeing does not see itself.
How can what does not see itself see anything else?

参考:
That which sees
Simply cannot see itself.
How could something that cannot see itself
See other things?

参考
実に,その見るはたらき(すなわち眼)は,ほかならぬ自分自身を見ることがない。 自分自身を見ないものが,どうして,他のものを見るであろうか。
是眼不能見自體。 是の眼は、自体を見る能わず。
是の、
『眼』は、
『自ら!』の、
『体()』を、
『見ることができない!』。
何以故。如燈能自照亦能照他。眼若是見相。亦應自見亦應見他。而實不爾。 何を以っての故に、灯の能く自らを照らして、亦た能く他を照らすが如き、眼にして若し是の見相なれば、亦た応に自らを見、亦た応に他を見るべし。而も実に爾らず。
何故ならば、
譬えば、
『灯』が、
『自ら!』を、
『照らすことができ!』、
亦た、
『他!』を、
『照らすことができる!』ように、
若し、
『眼』が、
『見る!』という、
『相ならば!』、
『自ら!』を、
『見ることができ!』、
亦た、
『他!』を、
『見ることができるはずだ!』。
而し、
『実は!』、
『そうでない!』。
是故偈中說。若眼不自見何能見餘物。 是の故に偈中に説かく、『若し眼にして、自ら見ざれば、何んが能く、余の物を見ん』、と。
是の故に、
『偈』中に、こう説く、――
若し、
『眼』に、
『自ら!』が、
『見えなければ!』、
何故、
『他!』の、
『物』を、
『見ることができるのか?』、と。
問曰。眼雖不能自見。而能見他。如火能燒他不能自燒。 問うて曰く、眼は、自ら見る能わずと雖も、而も能く他を見る。火の能く他を焼きて、自ら焼く能わざるが如し。
問い、――
『眼』は、
『自ら!』を、
『見ることができない!』が、
而し、
『他!』を、
『見ることはできる!』。
譬えば、
『火』は、
『他!』を、
『焼くことができる!』が、
『自ら!』を、
『焼くことができない!』のと、
『同じことだ!』。
答曰
 火喻則不能  成於眼見法 
 去未去去時  已總答是事
答えて曰く、
火の喩は則ち、眼見の法に於いて成ずる能わず、
去未去去時に、已に総じて是の事を答えたり。
答え、――
『火の譬喩』は、
『眼が見る!』という、
『法』を、
『成立させられない!』。
『過去の去法』、
『未来の去法』、
『去時の去法』で、
已に、
是の、
『事』を、
『総じて答えた!』。
参考:
na paryāpto ’gnidṛṣṭānto darśanasya prasiddhaye |
sadarśanaḥ sa pratyukto gamyamānagatāgataiḥ ||3||
The example of fire is not able to fully establish seeing.
It, along with seeing,
has been refuted by “gone”, “not gone” and “going.”

参考:
The example of fire
Is not able to establish seeing.
That along with seeing has already been answered
By the traversed, the untraversed and that being traversed.

参考
火の喻え(火は自分を燒かないが,他のものを燒く)は,見るはたらきを成立させる証明に, 充分ではない。 それ(火の喻え)は,見るはたらきとともに,﹝第二章において﹞現に去りつつある﹝もの﹞と,すでに去った﹝もの﹞と,まだ去らない﹝もの﹞とによって,すでに論破されている。
汝雖作火喻。不能成眼見法。是事去來品中已答。 汝は、火の喩を作すと雖も、眼見の法を成ずる能わず。是の事は、去来品中に已に答えたり。
お前は、
『火』の、
『譬喩』を、
『作った!』が、
『眼が見る!』という、
『法』は、
『成立させられない!』。
是の、
『事』は、
『去来品』中に、
『已に答えた!』。
如已去中無去。未去中無去。去時中無去。如已燒未燒燒時俱無有燒。如是已見未見見時俱無見相。 已去中に去無く、未去中に去無く、去時中に去無きが如く、已焼、未焼、焼時の如きにも、倶に焼有る無し。是の如く、已見、未見、見時に倶に見相無し。
譬えば、――
已に、
『去った!』中にも、
『去る!』は、
『無く!』、
未だ、
『去らない!』中にも、
『去る!』は、
『無く!』、
ちょうど、
『去る!』時にも、
『去る!』は、
『無いように!』、
譬えば、
已に、
『焼いた!』中にも、
『焼く!』は、
『無く!』、
未だ、
『焼かない!』中にも、
『焼く!』は、
『無く!』、
ちょうど、
『焼く!』時にも、
『焼く!』は、
『無いように!』、
是のように、
已に、
『見た!』中にも、
未だ、
『見ない!』中にも、
ちょうと、
『見る!』時中にも、
何処にも、
『見る!』は、
『無い!』。
復次
 見若未見時  則不名為見 
 而言見能見  是事則不然
復た次ぎに、
見は若し未見の時ならば、則ち名づけて見と為さず、
而も見は能く見ると言わば、是の事は則ち然らず。
復た次ぎに、
『見る!』という、
『法』は、
未だ、
『見ない!』時には、
『見る!』と、
『呼ばれないのだから!』、
若し、こう言うならば、――
『見る!』という、
『法』は、
『見ることができる!』、と。
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
参考:
nāpaśyamānaṃ bhavati yadā kiṃ cana darśanam |
darśanaṃ paśyatīty evaṃ katham etat tu yujyate ||4||
When not seeing the slightest thing,
there is no act of seeing.
How can it [then] be reasonable to say: “seeing sees”?

参考:
When it cannot see even the slightest thing
It is not the means of seeing.
How then could it be tenable
To say ‘It is the means of seeing’ due to seeing?

参考
何ものをも現に見ていないときには,見るはたらきは決して存在しない。 「見るはたらきが見る」というならば,このようなことは,一体,どうして,妥当するであろうか。
眼未對色。則不能見。爾時不名為見。因對色名為見。 眼は、未だ色に対せざれば、則ち見る能わず。爾の時を名づけて、見と為さず。色に対するに因り、名づけて見と為す。
『眼』は、
未だ、
『色』に、
『対していなければ!』、
『見ることができないのだから!』、
爾の時は、
『見る!』と、
『呼ばれない!』。
則ち、
『色』に、
『対する!』に、
『因って!』、
『見る!』と、
『呼ばれる!』。
是故偈中說。未見時無見。云何以見能見。 是の故に偈中に説かく、『未見の時に見無し。云何が、見を以って、能く見る』、と。
是の故に、
『偈』中に、こう説く、――
未だ、
『見ない!』時に、
『見る!』という、
『法』は、
『無い!』、と。
何故、
『見る!』という、
『法』を、
『用いて!』、
『見ることができるのか?』。
復次二處俱無見法。 復た次ぎに、二処には、倶に見法無し。
復た次ぎに、
『二種』の、
『処』には、
『どちらも!』、
『見る!』という、
『法』が、
『無い!』。
何以故
 見不能有見  非見亦不見 
 若已破於見  則為破見者
何を以っての故に、
見は見を有する能わず、非見も亦た見ず、
若し已に見を破せば、則ち見者を破すと為す。
何故ならば、
『見る!』という、
『法』に、
『見る!』ことは、
『有ることができない!』。
『見ない!』という、
『法』も、
『見ることはない!』。
若し、
已に、
『見る!』という、
『法』を、
『破れば!』、
則ち、
『見る!』、
『者』は、
『破られたことになる!』。
参考:
paśyati darśanaṃ naiva naiva paśyaty adarśanam |
vyākhyāto darśanenaiva draṣṭā cāpy avagamyatām ||5||
Seeing does not see; non-seeing does not see.
It should be understood that seeing explains the seer too.

参考:
That which sees simply does not see.
And that which is non-seeing simply does not see.
Also the explanation of a seer can be understood
By those very reasonings refuting seeing.

参考
見るはたらきが見るのでは決してない。見るはたらきでないものが見るのでも決してない。 実に,見るはたらき﹝を論破したこと﹞によって,見る主体﹝の成立しないこと﹞もまた解明された,と理解されるべきである。
見不能見。先已說過故。 見は見る能わず。先に已に説かく過の故にと。
『見る!』という、
『法』は、
『見ることができない!』、――
先に、
已に、こう説いた、――
『過』が、
『有るからだ!』、と。
非見亦不見。無見相故。若無見相。云何能見。 非見も、亦た見ず、見相無きが故に。若し見相無くんば、云何が、能く見ん。
『見ない!』という、
『法』も、
亦た、
『見ることはない!』。
何故ならば、
『見相( a mark of seeing )』が、
『無いからだ!』。
若し、
『見る!』という、
『相( characteristic )』が、
『無ければ!』、
何故、
『見ることができるのか?』。
  見相(けんそう):梵語 dRSTi- gata の訳、見る動作( seeing motion, a mark of seeing )。
  (そう):特質( characteristic )、梵語 lakSaNa の訳、属性/目印/辨別すべき特徴( An attribute, a mark; distinctive feature )の義。
見法無故見者亦無。何以故。若離見有見者。無眼者。亦應以餘情見。 見法無きが故に、見者も亦た無し。何を以っての故に、若し見を離れて、見者有らば、無眼の者も、亦た応に余情を以って見るべし。
『見る!』という、
『法』が、
『無い!』が故に、
『見る者』も、
『無い!』。
何故ならば、
若し、
『見る!』という、
『法』を、
『離れて!』、
『見る者』が、
『有れば!』。
『眼』の、
『無い!』者も、
『眼以外の情』を、
『用いて!』、
『見ることができるだろう!』。
若以見見。則見中有見相。見者無見相。是故偈中說。若已破於見則為破見者。 若し見を以って見れば、則ち見中に見相有り、見者に見相無し。是の故に偈中に説かく、『若し已に見を破せば、則ち見者を破す』、と。
若し、
『見る!』という、
『法』を、
『用いて!』、
『見れば!』、
則ち、
『見る!』という、
『法』中に、
『見相( seeing- motion )』が、
『有るので!』、
『見る!』、
『者』中には、
『見相』が、
『無いことになる!』。
是の故に、
『偈』中に、こう説く、――
若し、
已に、
『見る!』という、
『法』を、
『破れば!』、
則ち、
『見る!』、
『者』も、
『破ることになる!』、と。
復次
 離見不離見  見者不可得 
 以無見者故  何有見可見
復た次ぎに、
見を離るるも見を離れざるも、見者を得べからず、
見者無きを以っての故に、何んが見と可見と有らん。
復た次ぎに、
『見る!』という、
『法』を、
『離れても!』、
『離れなくても!』、
『見る!』、
『者』は、
『認められない!』。
『見る!』、
『者』が、
『無い!』が故に、
何処に、
『見る!』という、
『法』や、
『見られる!』、
『物』が、
『有るのか?』。
参考:
[tiraskṛtya] draṣṭā nāsty atiraskṛtya tiraskṛtya ca darśanam |
draṣṭavyaṃ darśanaṃ ceva draṣṭary asati te kutaḥ ||6||
Without letting go of [seeing] a seer does not exist;
in letting go of seeing, there is also [no seer].
If there is no seer,
where can there be what-is-seen and seeing?

参考:
There is no seer if seeing has not been rejected.
And there is also no seer if seeing has been rejected.
How could there be an object seen or action of seeing
When there is no seer?

参考
見るはたらきを欠いても,また欠いていなくても,見る主体は存在しない。 見る主体が存在しないときには,それらの見られるものも,見るはたらきも,どのようにして,﹝存在するであろう﹞か。
若有見見者則不成。若無見見者亦不成。見者無故。云何有見可見。 若し見有らば、見者は則ち成ぜず。若し見無くんば、見者は亦た成ぜず。見者無きが故に、云何が、見と可見と有らん。
『見る!』という、
『法』が、
『有っても!』、
『見る!』、
『者』は、
『成立しない!』し、
『見る!』という、
『法』が、
『無くても!』、
『見る!』、
『者』は、
『成立しない!』。
若し、
『見る!』、
『者』が、
『無ければ!』、
故に、
何うして、
『見る!』という、
『法』や、
『見られる!』、
『物』が、
『有るのか?』。
若無見者。誰能用見法分別外色。是故偈中說。以無見者故何有見可見。 若し見者無くんば、誰か能く見法を用いて、外色を分別せん。是の故に偈中に説かく、『見者無きを以っての故に、何んが見と可見と有らん』、と。
若し、
『見る!』、
『者』が、
『無ければ!』、
誰が、
『見る!』という、
『法』を、
『用いて!』、
『外』の、
『色』を、
『分別するのか?』。
是の故に、
『偈』中には、こう説く、――
『見る!』、
『者』が、
『無い!』が故に、
何故、
『見る!』という、
『法』や、
『見られる!』、
『物』が、
『有るのか?』、と。
復次
 見可見無故  識等四法無 
 四取等諸緣  云何當得有
復た次ぎに、
見と可見と無きが故に、識等の四法無し、
四の取等の諸縁の、云何が当に有るを得べき。
復た次ぎに、
『見る!』という、
『法』と、
『見られる!』、
『物』とは、
『無い!』が故に、
『識』等の、
『四法(識、触、受、愛)』も、
『無い!』。
『取』等の、
『四種』の、
諸の、
『縁(取、有、生、老死)』が、
何故、
『有る!』と、
『認められるのか?』。
参考:
pratītya mātāpitarau yathoktaḥ putrasaṃbhavaḥ |
cakṣurūpe pratītyaivam ukto vijñānasaṃbhavaḥ ||7||
Just as it is said that a child emerges in dependence on a father and a mother,
likewise it is said that consciousness emerges in dependence upon an eye and a visual form.

draṣṭavyadarśanābhāvād vijñānādicatuṣṭayam |
nāstīty upādānādīni bhaviṣyanti punaḥ katham ||8||
Because there is no what-is-seen and no seeing,
the four such as consciousness do not exist.
How can clinging etc. exist?

参考:
[Just as it is explained that a child arises
In dependence upon a father and a mother,
Similarly, consciousness is explained to arise
In dependence upon the eye and visual form.]

Since there is no object seen or action of seeing
The four of consciousness and so forth
Do not exist.
How then could grasping and so forth exist?

参考
見られるものと見るはたらきとが存在しないがゆえに,識などの四(識と触と受と愛)は存在しない。 執着(取)などが,さらにどのようにして,存在するであろうか。
見可見法無故。識觸受愛四法皆無。以無愛等故。四取等十二因緣分亦無。 見、可見の法無きが故に識、触、受、愛の四法は皆無く、愛等無きを以っての故に、四の取等の十二因縁の分も、亦た無し。
『見る!』という、
『法』も、
『見られる!』、
『物』も、
『無い!』が故に、
『識、触、受、愛』という、
『四法』は、
『皆、無い!』。
『愛』等の、
『法』が、
『無い!』が故に、
『取』等の
『四種の十二因縁分(取、有、生、老死)』も、
『無い!』。
  参考:『雑阿含経巻8(221)』:『如是我聞。一時。佛住舍衛國祇樹給孤獨園。爾時。世尊告諸比丘。有趣一切取道跡。云何為趣一切取道跡。緣眼.色。生眼識。三事和合觸。觸緣受。受緣愛。愛緣取。取所取故。耳.鼻.舌.身.意亦復如是。取所取故。是名趣一切取道跡。云何斷一切取道跡。緣眼.色。生眼識。三事和合觸。觸滅則受滅。受滅則愛滅。愛滅則取滅。如是知耳.鼻.舌.身.意亦復如是。佛說此經已。諸比丘聞佛所說。歡喜奉行』
復次
 耳鼻舌身意  聲及聞者等 
 當知如是義  皆同於上說
復た次ぎに、
耳、鼻、舌、身、意、声及び聞者等も、
当に知るべし、是の如き義は皆上説に同じ。
復た次ぎに、
『耳、鼻、舌、身、意』や、
『声、香、味、触、法』や、
『聞く者』等も、
当然、こう知るべきだ、――
是のような、
『義』は、
皆、
『上に説いた!』のと、
『同じだ!』、と。
参考:
vyākhyātaṃ śravaṇaṃ ghrāṇaṃ rasanaṃ sparśanaṃ manaḥ |
darśanenaiva jānīyāc chrotṛśrotavyakādi ca ||9||
It should be understood
that seeing explains hearing and smelling and tasting and touching,
mind, hearer, what is heard, etc.

参考:
Hearing, smelling,
Tasting, touching, intellect,
Hearer, object heard and so forth
Can be understood by the explanation of seeing.

参考
聞くはたらき,嗅ぐはたらき,味わうはたらき,触れるはたらき,思うはたらき(思考)。 また聞く主体も,聞かれるもの(対象)なども,実に〔以上の〕見るはたらきによって解明されたところ〔を適用して〕,〔すでに解明されたと〕知られるべきである。
如見可見法空。屬眾緣故無決定。餘耳等五情聲等五塵。當知亦同見可見法。義同故不別說 見と可見の法の空にして、衆縁に属するが故に決定無きが如く、余の耳等の五情も、声等の五塵も、当に知るべし、亦た見、可見の法に同じ。義を同じうするが故に別に説かず。
例えば、
『見る!』という、
『法』や、
『見られる!』、
『物』は、
『空であり!』、
『多くの縁』に、
『従属する!』が故に、
『決定する!』ことが、
『無い!』ように、
他の、
『耳等の五情』や、
『声等の五塵』も、
当然、こう知るべきだ、――
亦た、
『見る!』という、
『法』や、
『見られる!』、
『物』と、
『同じである!』が、
『義』が、
『同じである!』が故に、
『別に!』、
『説かないのだ!』、と。



中論觀五陰品第四 (九偈)

問曰。經說有五陰。是事云何。 問うて曰く、経に説かく、『五陰有り』、と。是の事は云何。
問い、――
『経』には、
こう説く、――
『五つ!』の、
『陰(色受想行識)』が、
『有る!』、と。
是の、
『事』は、
『何うか?』。
  参考:『雑阿含経巻2(41)』:『如是我聞。一時。佛住舍衛國祇樹給孤獨園。爾時。世尊告諸比丘。有五受陰。色受陰。受.想.行.識受陰。我於此五受陰。五種如實知。色如實知。色集.色味.色患.色離如實知。如是受.想.行.識如實知。識集.識味.識患.識離如實知。云何色如實知。諸所有色。一切四大及四大造色。是名色。如是色如實知。云何色集如實知。於色喜愛。是名色集。如是色集如實知。云何色味如實知。謂色因緣生喜樂。是名色味。如是色味如實知。云何色患如實知。若色無常.苦.變易法。是名色患。如是色患如實知。云何色離如實知。若於色調伏欲貪.斷欲貪.越欲貪。是名色離。如是色離如實知。云何受如實知。有六受身。眼觸生受。耳.鼻.舌.身.意觸生受。是名受。如是受如實知。云何受集如實知。觸集是受集。如是受集如實知。云何受味如實知。緣六受生喜樂。是名受味。如是受味如實知。云何受患如實知。若受無常.苦.變易法。是名受患。如是受患如實知。云何受離如實知。於受調伏欲貪.斷欲貪.越欲貪。是名受離。如是受離如實知。云何想如實知。謂六想身。云何為六。謂眼觸生想。耳.鼻.舌.身.意觸生想。是名想。如是想如實知。云何想集如實知。謂觸集是想集。如是想集如實知。云何想味如實知。想因緣生喜樂。是名想味。如是想味如實知。云何想患如實知。謂想無常.苦.變易法。是名想患。如是想患如實知。云何想離如實知。若於想調伏欲貪.斷欲貪.越欲貪。是名想離。如是想離如實知。思。是名為行。如是行如實知。云何行集如實知。觸集是行集。如是行集如實知。云何行味如實知。謂行因緣生喜樂。是名行味。如是行味如實知。云何行患如實知。若行無常.苦.變易法。是名行患。如是行患如實知。云何行離如實知。若行調伏欲貪.斷欲貪.越欲貪。是名行離。如是行離如實知。云何識如實知。謂六識身。眼識身。耳.鼻.舌.身.意識身。是名為識身。如是識身如實知。云何識集如實知。謂名色集。是名識集。如是識集如實知。云何識味如實知。識因緣生喜樂。是名識味。如是識味如實知。云何識患如實知。若識無常.苦.變易法。是名識患。如是識患如實知。云何識離如實知。謂於識調伏欲貪.斷欲貪.越欲貪。是名識離。如是識離如實知。比丘。若沙門.婆羅門於色如是知.如是見。如是知.如是見。離欲向。是名正向。若正向者。我說彼入。受.想.行.識亦復如是。若沙門.婆羅門於色如實知.如實見。於色生厭.離欲。不起諸漏。心得解脫。若心得解脫者。則為純一。純一者。則梵行立。梵行立者。離他自在。是名苦邊。受.想.行.識亦復如是。佛說此經已。諸比丘聞佛所說。歡喜奉行』
答曰
 若離於色因  色則不可得 
 若當離於色  色因不可得
答えて曰く、
若し色の因を離るれば、色は則ち得べからず、
若し当に色を離るべくんば、色の因は得べからず。
答え、――
若し、
『色の因(地水火風空識)』を、
『離れれば!』、
『色』は、
『認められない!』し、
若し、
『色』を、
『離れれば!』、
『色の因』が、
『認められない!』。
  (しき):梵語 ruupa の訳、何物かの外観/現象/色彩/形状( any outward appearance or phenomenon or colour (often pl.), form, shape, figure )の義。
参考:
rūpakāraṇanirmuktaṃ na rūpam upalabhyate |
rūpeṇāpi na nirmuktaṃ dṛśyate rūpakāraṇam ||1||
Apart from the cause of form,
form is not perceived. Apart from “form”,
the cause of form also does not appear.

参考:
Apart from the cause of form
Form cannot be observed.
Also apart from that called ‘form’
The cause of form does not appear.

参考
現象する物質(色)の原因(すなわち四元素)を離れては,現象する物質は知覚されない。 現象する物質を離れてもまた,現象する物質の原因は見られない。
色因者。如布因縷。除縷則無布。除布則無縷。布如色縷如因。 色の因とは、布の縷に因りて、縷を除けば、則ち布無く、布を除けば、則ち縷無きが如し。布は色の如く、縷は因の如し。
『色』の、
『因』とは、――
例えば、
『布』の、
『因(もと)』は、
『縷(いと)である!』。
『縷』を、
『除く!』と、
『布』が 、
『無くなり!』、
『布』を、
『除けば!』、
『縷』が、
『無くなる!』ように、
『布』は、
『色』に、
『似ている!』し、
『縷』は、
『因』に、
『似ている!』。
問曰若離色因有色。有何過。 問うて曰く、若し色の因を離れて、色有らば、何の過か有る。
問い、――
若し、
『色の因』を、
『離れても!』、
『色』が、
『有れば!』、
何のような、
『過』が、
『有るのか?』。
答曰
 離色因有色  是色則無因 
 無因而有法  是事則不然
答えて曰く、
色の因を離れて色有らば、是の色は則ち無因なり、
無因にして而も法有らば、是の事は則ち然らず。
答え、――
若し、
『色の因』を、
『離れて!』、
『色』が、
『有れば!』、
是の、
『色』には、
『因』が、
『無い!』。
若し、
『因』が、
『無いのに!』、
『法』が、
『有れば!』、
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
参考:
rūpakāraṇanirmukte rūpe rūpaṃ prasajyate |
āhetukaṃ na cāsty arthaḥ kaścid āhetukaḥ kva cit ||2||
If there were form apart from the cause of form,
it would follow that form is without cause;
there is no object at all that is without cause.

参考:
If there could be form apart from the cause of form
It would follow that form would be without a cause.
However there is not even one single object anywhere
That is without a cause.

参考
もしも現象する物質が現象する物質の原因を離れているとするならば,現象する物質は原因の無いものである,という誤りが付随する。 しかるに,どのような事物でも,原因の無いものは,どのようにしても,存在することはない。
如離縷有布。布則無因。無因而有法。世間所無有。 縷を離れて布有らば、布は則ち無因なり。無因にして而も法有らば、世間の有する無き所なり。
例えば、
『縷』を、
『離れて!』、
『布』が、
『有れば!』、
『布!』には、
『因』が、
『無いことになる!』。
若し、
『因』が、
『無いのに!』、
『法』が、
『有れば!』、
『世間』に、
『存在しない!』、
『法である!』。
問曰。佛法外道法世間法中皆有無因法。 問うて曰く、仏法、外道法、世間法中には、皆、無因の法有り。
問い、――
『仏の法』や、
『外道の法』や、
『世間の法』中には、
皆、
『無因の法』が、
『有る!』。
佛法有三無為。無為常故無因。外道法中虛空時方神微塵涅槃等。世間法虛空時方等。是三法無處不有。故名為常。常故無因。 仏法には、三無為有り、無為は常の故に、無因なり。外道法中の虚空、時、方、神、微塵、涅槃等、世間法の虚空、時、方等なり。是の三法は、処として、有らざる無し。故に名づけて常と為す。常の故に無因なり。
『仏法』中には、
『三種』の、
『無為法』が、
『有る!』が、
『無為』は、
『常である!』が故に、
『無因である!』。
『外道の法』中の、
『虚空』や、
『時』や、
『方角』や、
『神』や、
『微塵』や、
『涅槃』等は、
『無因である!』。
『世間の法』中には、
『虚空』や、
『時』や、
『方角』等の、
『三法』は、
『無い処』が、
『無い!』が故に、
是れを、
『常であるとし!』、
『常である!』が故に、
『無因である!』。
  三無為(さんむい):条件に依らない三種の現象( three unconditioned phenomena )、梵語 trividham asaMskRtam の訳、因、縁、或は依存に従属しないもの/時間に依らず、永久的な、行為無き、超世俗的な何物か( Anything not subject to cause, condition, or dependence; out of time, eternal, inactive, supra-mundane. )、三種の条件に依らない現象、説一切有部の説に依れば、( The three kinds of unconditioned phenomena according to Sarvâstivāda doctrine: )
  1. 虚空/虚空無為:梵語 aakaazaasaMskRta の訳、空間/天空( space or ether )
  2. 数縁尽/択滅無為:梵語 pratisaMkhyaa- nirodhaasaMskRta の訳、煩悩の汚染の分析的停止( analytical cessation of the contamination of the afflictions )
  3. 非数縁尽/非擇滅無爲 :梵語 apratisaMkhyaa- nirodhaasaMskRta の訳、非分析的、或は努力無き煩悩の汚染の停止( non-analytical or effortless cessation )である。
汝何以說無因法世間所無。 汝は、何を以ってか、『無因の法は世間の無き所なり』、と説く。
お前は、
何故、こう説くのか?――
『世間』には、
『無因の法』が、
『無い!』、と。
答曰。此無因法但有言說。思惟分別則皆無。 答えて曰く、此の無因の法は、但だ言説有るのみにして、思惟、分別すれば、則ち皆無し。
答え、――
此の、
『無因の法』は、
但だ、
『言説(ことば)』としては、
『有る!』が、
思惟し、
分別すれば、――
皆、
『無くなる!』。
若法從因緣有。不應言無因。若無因緣則如我說。 若し法が、因縁より有らば、応に『無因』、と言うべからず。若し因縁無くんば、則ち我が説くが如し。
若し、
『法』が、
『因縁』によって、
『有れば!』、
当然、
『無因』と、
『言うべきでない!』が、
若し、
『法』に、
『因縁』が、
『無ければ!』、
わたしが、
『説く!』のと、
『同じである!』。
問曰。有二種因。一者作因。二者言說因。 問うて曰く、二種の因有り、一には作の因、二には言説の因なり。
問い、――
『二種の因』が有り、
一には、
『作( act )としての!』、
『因であり!』、
二には、
『言説( speech )としての!』、
『因である!』。
是無因法無作因。但有言說因。令人知故。 是の無因の法には、作の因無く、但だ言説の因有るのみ、人をして知らしむるが故に。
是の、
『無因の法』には、
『作』の、
『因』は、
『無い!』が、
但だ、
『言説』の、
『因』が、
『有り!』、
『人』に、
『法』を、
『知らせる!』。
答曰。雖有言說因。是事不然。虛空如六種中破。餘事後當破。 答えて曰く、言説の因有りと雖も、是の事は然らず。虚空を、『六種』中に破し、余事を後に当に破すべきが如し。
答え、――
『言説』の、
『因』が、
『有る!』と、
『言っている!』が、
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
『虚空』を、
『六種(地水火風空識)品』中に、
『破る!』のと、
『同じことである!』。
他の、
『事』は、
『後に!』、
『破るはずである!』。
復次現事尚皆可破。何況微塵等不可見法。是故說無因法世間所無。 復た次ぎに、現事すら、尚お皆破すべし。何に況んや、微塵等の不可見の法をや。是の故に説かく、『無因の法は、世間の無き所なり』、と。
復た次ぎに、
『現れた!』、
『事』すら、
尚お、
『皆!』、
『破ることができる!』。
況して、
『微塵』等の、
『見えない!』、
『法』は、
『言うまでもない!』。
是の故に、
こう説く、――
『無因の法』は、
『世間』に、
『存在しない!』、と。
問曰。若離色有色因。有何過。 問うて曰く、若し色を離れて、色の因有らば、何の過か有る。
問い、――
若し、
『色』を、
『離れて!』、
『色の因』が、
『有れば!』、
何のような、
『過』が、
『有るのか?』。
答曰
 若離色有因  則是無果因 
 若言無果因  則無有是處
答えて曰く、
若し色を離れて因有らば、則ち是れ無果の因なり、
若し無果の因を言わば、則ち是処有る無し。
答え、――
若し、
『色』を、
『離れて!』、
『因』が、
『有れば!』、
是の、
『因』には、
『果』が、
『無いことになる!』。
若し、
こう言えば、――
是の、
『因』には、
『果』が、
『無い!』、と。
是のような、
『処(道理)』は、
『存在しない!』。
  (しょ):梵語sthaanaの訳。適切な場所。道理を有する状態。非理は非処asthaanaと云う。
参考:
rūpeṇa tu vinirmuktaṃ yadi syād rūpakāraṇam |
akāryakaṃ kāraṇaṃ syād nāsty akāryaṃ ca kāraṇam ||3||
If a cause of form existed apart from form,
it would exist as a cause without fruit;
causes without fruit do not exist.

参考:
If there could be a cause of form apart from form
There would be a cause without a result.
However there is no cause
That is without a result.

参考
しかるに,もしも現象する物質を離れて現象する物質の原因が存在するとするならば, 結果の無い原因が存在することになるであろう。 しかるに,結果の無い原因〔というもの〕は存在しない。
若除色果。但有色因者。即是無果因。 若し色の果を除きて、但だ色の因有らば、即ち是れ無果の因なり。
若し、
『色』という、
『果』を、
『除いて!』、
但だ、
『色の因』のみが、
『有れば!』、
是の、
『因』には、
『果』が、
『無い!』。
問曰。若無果有因。有何咎。 問うて曰く、若し無果にして、因有らば、何の咎か有る。
問い、――
若し、
『果』が、
『無いのに!』、
『因』が、
『有れば!』、
何のような、
『咎』、
『有るのか?』。
答曰。無果有因世間所無。 答えて曰く、無果にして因有るは、世間に無き所なり。
答え、――
『果』が、
『無いのに!』、
『因』が、
『有れば!』、
是の、
『因』は、
『世間』に、
『存在しない!』。
何以故。以果故名為因。若無果云何名因。 何を以っての故に、果を以っての故に、名づけて因と為す。若し無果なれば、云何が、因と名づくる。
何故ならば、
『果』を、
『想定する!』が故に、
『因』と、
『呼ぶからだ!』。
若し、
『果』が、
『無ければ!』、
何故、
『因』と、
『呼ばれるのか?』。
復次若因中無果者。物何以不從非因生。是事如破因緣品中說。是故無有無果因。 復た次ぎに、若し因中に果無くんば、物は何を以ってか、非因より生ぜざる。是の事は、『破因縁品』中に説くが如し。是の故に、無果の因有る無し。
復た次ぎに、
若し、
『因』中に、
『果』が、
『無ければ!』、
何故、
『物』は、
『非因より!』、
『生じないのか?』。
是の、
『事』は、
『破因縁品』中に、
『説いた通りだ!』。
是の故に、
『果』が、
『無ければ!』、
『因』は、
『存在しない!』。
復次
 若已有色者  則不用色因 
 若無有色者  亦不用色因
復た次ぎに、
若し已に色有らば、則ち色の因を用いず、
若し色有る無くんば、亦た色の因を用いず。
復た次ぎに、
若し、
已に、
『色』が、
『有れば!』、
則ち、
『色の因』を、
『用いない!』し、
若し、
未だ、
『色』が、
『無ければ!』、
亦た、
『色の因』を、
『用いない!』。
参考:
rūpe saty eva rūpasya kāraṇaṃ nopapadyate |
rūpe ’saty eva rūpasya kāraṇaṃ nopapadyate ||4||
If form existed, a cause of form would be untenable;
if form did not exist, a cause of form would be untenable.

参考:
If form existed
The cause of form would simply be inadmissible.
Also if form did not exist
The cause of form would simply be inadmissible.

参考
現象する物質がすでに存在している場合には,現象する物質の原因は決して成り立たない。現象する物質が存在しない場合にも,現象する物質の原因は,〔やはり〕成り立たない。
二處有色因。是則不然。若先因中有色。不名為色因。若先因中無色。亦不名為色因。 二処に色の因有らば、是れ則ち然らず。若し先に因中に色有らば、名づけて色の因と為さず。若し先に因中に色無くんば、亦た名づけて色の因と為さず。
若し、
『二処(状態)』に、
『色の因』が、
『有れば!』、
是れ等は、
『間違っている!』、――
若し、
先に、
『因』中に、
『色』が、
『有れば!』、
『色の因』と、
『呼ばない!』し、
若し、
先に、
『因』中に、
『色』が、
『無ければ!』、
『色の因』と、
『呼ばれない!』。
問曰。若二處俱不然。但有無因色。有何咎。 問うて曰く、若し二処は倶に然らず、但だ無因の色有らば、何の咎か有る。
問い、――
若し、
『二処』が、
『どちらも!』、
『間違っていた!』としても、
但だ、
『無因』の、
『色』が、
『有れば!』、
何のような、
『咎』が、
『有るのか?』。
答曰
 無因而有色  是事終不然 
 是故有智者  不應分別色
答えて曰く、
無因にして色有らば、是の事は終に然らず、
是の故に智有らば、応に色を分別すべからず。
答え、――
『無因なのに!』、
『色』が、
『有れば!』、
是の、
『事』は、
『終に(結局)!』、
『間違っている!』。
是の故に、
『智慧有る!』者は、
『色』を、
『分別するはずがない!』。
参考:
niṣkāraṇaṃ punā rūpaṃ naiva naivopapadyate |
tasmād rūpagatān kāṃścin na vikalpān vikalpayet ||5||
Forms which do not have a cause are not at all tenable.
Therefore, do not conceive the concept of form at all.

参考:
Forms without a cause are not acceptable.
They are simply inadmissible.
Thus, misconceptions of form
Should not to be considered at all.

参考
さらに,原因を持たない.現象する物質は,どのようにしても,決して成り立たない。 それゆえ,現象する物質に関しては,どのような諸分析的思考をも考えるべきではない。
若因中有果因中無果。此事尚不可得何況無因有色。是故言無因而有色。是事終不然。是故有智者。不應分別色。 若し因中に果有るも、因中に果無きも、此の事は尚お得べからず。何に況んや、無因にして色有るをや。是の故に言わく、『無因にして色有らば、是の事は終に然らず、是の故に智有らば、応に色を分別すべからず』、と。
若し、
『因』中に、
『果』が、
『有るのか?』、
『因』中には、
『果』が、
『無いのか?』、
此の、
『事すら!』、
『容認できない!』のに、
況して、
『無因であって』、
『色』が、
『有るとすれば!』、
尚更、
『容認できない!』。
是の故に、こう言う、――
『無因』の、
『色』が、
『有れば!』、
是の、
『事』は、
『終に!』、
『間違っている!』。
是の故に、
『智有る!』者は、
『色』を、
『分別するはずがない!』、と。
分別名凡夫。以無明愛染貪著色。然後以邪見生分別戲論說因中有果無果等。 分別を、『凡夫、無明の愛染を以って、色を貪著し、然る後に邪見の生ずるを以って、分別し、戯論して、因中の有果、無果等を説く』、と名づく。
『分別』とは、こういうことである――
『凡夫』が、
『無明』という、
『愛染(愛煩悩)』の故に、
『色』に、
『貪著する!』と、
その後、
『邪見』が
『生じる!』が故に、
『分別し!』、
『戯論して!』、
『因』中には、
『果が有る!』とか、
『果が無い!』と、
『説くことになる!』、と。
今此中求色不可得。是故智者不應分別。 今、此の中に色を求めて得べからず。是の故に智者は、応に分別すべからず。
今、
此の中に、
『色』を、
『探し求めた!』が、
『認められなかった!』。
是の故に、
『智者』は、
『色』を、
『分別するはずがない!』。
復次
 若果似於因  是事則不然 
 果若不似因  是事亦不然
復た次ぎに、
若し果、因に似たれば、是の事は則ち然らず、
果、若し因に似ざれば、是の事も亦た然らず。
復た次ぎに、
若し、
『果』が、
『因』に、
『似ていれば!』、
是の、
『事』は、
『正しくない!』。
若し、
『果』が、
『因』に、
『似ていなければ!』、
是の、
『事』も、
『正しくない!』。
参考:
na kāraṇasya sadṛśaṃ kāryam ity upapadyate |
na kāraṇasyāsadṛśaṃ kāryam ity upapadyate ||6||
It is untenable to say, “the fruit is like the cause.”
It is also untenable to say, “the fruit is unlike the cause.”

参考
To say ‘The result is similar to the cause’
Is inadmissible.
And to say ‘The result is not similar to the cause’
Is also inadmissible.

参考
結果は原因に似ている,ということは成り立たない。 結果は原因に似ていない,ということは成り立たない。
若果與因相似。是事不然。因細果麤故。因果色力等各異。 若し果、因と相似なれば、是の事は然らず。因は細、果は麁なるが故に、因と果との色、力等の各異なればなり。
若し、
『果』が、
『因』と、
『相似すれば!』、
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
何故ならば、
『因』は、
『繊細であり!』、
『果』は、
『粗大である!』が故に、
『因』と、
『果』との、
『色(形状)』や、
『力(能力)』等は、
各各、
『異なるからだ!』。
如布似縷則不名布。縷多布一故。不得言因果相似。 布にして、縷に似たれば、則ち布と名づけざるが如し。縷は多く、布は一なるが故に、『因と果と相似す』、と言うを得ず。
例えば、
『布』が、
『縷(いと)』に、
『似ていれば!』、
是れを、
『布』と、
『呼ぶことはない!』、
何故ならば、
『縷』は、
『多いが!』、
『布』は、
『一だからである!』、
故に、こうは言えない、――
『因』と、
『果』とは、
『相似する!』、と。
若因果不相似。是亦不然。如麻縷不成絹。麤縷無出細布。是故不得言因果不相似。二義不然。故無色無色因 若し因、果相似せざれば、是れも亦た然らず。麻の縷の絹と成らず、麁なる縷に、細なる布を出す無きが如し。是の故に、『因と果と相似せず』、と言うを得ず。二義の然らざるが故に、色無く、色の因無し。
若し、
『因』と、
『果』とが、
『相似しなければ!』、
是れも、
亦た、
『正しくない!』。
例えば、
『麻』の、
『縷』は、
『絹』の、
『布』と、
『成らない!』のは、
『粗雑』な、
『縷』が、
『繊細』な、
『布』を、
『出す!』ことなど、
『無いからだ!』。
是の故に、
こう言うことはできない、――
『因』と、
『果』とは、
『相似しない!』、と。
『二義』は、
どちらも、
『間違っていた!』が故に、
『色』は、
『無く!』、
『色の因』も、
『無いのである!』。
 受陰及想陰  行陰識陰等 
 其餘一切法  皆同於色陰
受陰及び想陰、行陰識陰等の、
其の余の一切法は、皆色陰に同じ。
『受陰』も、
『想陰』も、
『行陰』も、
『識陰』等と、
その他の、
『一切の法』は、
皆、
『色陰』と、
『同じである!』。
参考:
vedanācittasaṃjñānāṃ saṃskārāṇāṃ ca sarvaśaḥ |
sarveṣām eva bhāvānāṃ rūpeṇaiva samaḥ kramaḥ ||7||
Feeling and perception,
impulses and mind and all things are comparable
in every aspect, at every stage with form.

参考:
Also feeling, discrimination, compositional factors,
And consciousness – in fact every functioning thing
Is similar to form in every way
In the steps for refuting them.

参考
感覚(受)と心と表象(想)と,またもろもろの潜在的形成作用(諸行)と,まさにすべてのもろもろの「存在(もの.こと)」についても,すべての点で,現象する物質とまったく同じ次第が〔適用される〕。
四陰及一切法。亦應如是思惟破。 四陰、及び一切法も、亦た応に是の如く思惟して破すべし。
『四陰(受想行識)』や、
『一切の法』も、
亦た、
是のように、
『思惟すれば!』、
『破ることができるはずだ!』。
又今造論者。欲讚美空義 又今、造論者は、空義を讃美せんと欲す。
又、
今、
『造論者』は、
『空の義』を、
『讃美しようとしている!』、――
故。而說偈
 若人有問者  離空而欲答 
 是則不成答  俱同於彼疑 
 若人有難問  離空說其過 
 是不成難問  俱同於彼疑
故に偈に説かく、
若し人に問う者有りて、空を離れて答えんと欲せば、
是れ則ち答を成ぜずして、倶に彼れと疑を同じうせん。
若し人に難問有り、空を離れて其の過を説かんとせば、
是れ難問を成ぜずして、倶に彼れと疑を同じうせん。
故に、
『偈』に、こう説いた、――
若し、
『人』に、
『問う者』が、
『有り!』、
『空』を、
『離れて!』、
『答えよう!』と、
『思えば!』、
是の、
『答』は、
『成功せず!』、
彼れと、
『同じように!』、
『疑うことになる!』。
若し、
『人』に、
『難問したい!』、
『事』が、
『有り!』、
『空』を、
『離れて!』、
其の、
『過』を、
『説明すれば!』、
是の、
『難問』は、
『成功しない!』し、
彼と、
『疑』を、
『同じくする!』。
参考:
vigrahe yaḥ parīhāraṃ kṛte śūnyatayā vadet |
sarvaṃ tasyāparihṛtaṃ samaṃ sādhyena jāyate ||8||
When having argued by means of emptiness,
everything of that one who objects is not an objection;
it is similar to what is to be established .

vyākhyāne ya upālambhaṃ kṛte śūnyatayā vadet |
sarvaṃ tasyānupālabdhaṃ samaṃ sādhyena jāyate ||9||
When having explained by means of emptiness,
everything of that one who finds fault is not a fault;
it is similar to what is to be established.

参考:
When an argument has been made in terms of emptiness
None of the responses offered by anyone
Are actual answers
Because they are similar to that which is to be established.

When an explanation has been made in terms of emptiness
None of the critisicms made by anyone
Are actual critisicms
Because they are similar to that which is to be established.

参考
およそ空であること(空の原理,空性)によって論爭がなされるときには,だれかがそれに反駁を述べたとしても,その人には,すべてが反駁とはなっていない。 〔すべての反駁が〕論証されるべきものと等しいということが生じてくる〔からである〕。

およそ空であること(空性)によって解說がなされるときには,だれかがそれに非難を述べたとしても,その人には,すべてが非難とはなっていない。 〔すべての非難が〕論証されるべきものと等しいということが生じてくる〔からである〕。
若人論議時。各有所執。離於空義而有問答者。皆不成問答。俱亦同疑。 若し人、論義する時、各執する所有り、空義を離れて、問答する有らば、皆、問答を成ぜずして、倶に亦た疑を同じうせん。
若し、
『人』が、
『論義する!』時、
各各、
『執する!』所の、
『事』が、
『有る!』が故に、、
『空の義』を、
『離れて!』、
『問答する!』者が、
『有れば!』、
皆、
『問答』が、
『成功せず!』、
誰もが、
『疑』を、
『同じくするだろう!』。
如人言瓶是無常。問者言。何以故無常。答言。從無常因生故。此不名答。 人の『瓶は是れ無常なり』、と言うに、問者の『何を以っての故にか、無常なる』、と言い、答えて『無常の因より生ずるが故に』、と言うが如きは、此れを答と名づけず。
例えば、
『人』が、
こう言うとする、――
『瓶』は、
『無常である!』、と。
『問者』は、
こう言う、――
何故、
『無常なのか?』、と。
答えて、こう言う、――
『無常』という、
『因より!』、
『生じるからだ!』、と。
此れは、
『答えた!』と、
『呼べない!』。
何以故。因緣中亦疑不知為常為無常。是為同彼所疑。 何を以っての故に、因縁中に亦た疑いて、常と為すや、無常と為すやを知らざればなり。是れを彼れと疑う所を同じうすと為す。
何故ならば、
『因縁(理由)』中にも、
『疑』が、
『有るのに!』、
是の、
『疑』が、
『常なのか、無常なのか?』を、
『知らないからである!』が、
是れを、
彼れと、
『疑』を、
『同じくする!』と、
『呼ぶのである!』。
問者若欲說其過。不依於空而說諸法無常。則不名問難。 問者、若し其の過を説かん欲して、空に依らずして、諸法の無常を説かば、則ち問難と名づけず。
『問者』が、
若し、
其の、
『過』を、
『説明しよう!』と、
『思い!』、
『空』に、
『依らずに!』、
諸の、
『法』は、
『無常である!』等と、
『説けば!』、
是れを、
『問難』と、
『呼ぶことはできない!』。
何以故。汝因無常破我常。我亦因常破汝無常。 何を以っての故にか、汝は、無常に因りて、我が常を破する。我れも、亦た常に因りて、汝が無常を破せん。
何故ならば、
若し、
お前が、
『無常』に、
『因って!』、
わたしの、
『常』を、
『破れば!』、
わたしも、
『常』に、
『因って!』、
お前の、
『無常』を、
『破るからである!』。
若實無常則無業報。眼耳等諸法念念滅。亦無有分別。有如是等過。皆不成問難。同彼所疑。 若し実に無常なれば、則ち業報無し。眼耳等の諸法は念念に滅して、亦た分別有る無し。是の如き等の過有れば、皆問難を成ぜず。彼と疑う所を同じうす。
若し、
諸の、
『法』が、
『実に!』、
『無常ならば!』、
則ち、
『行業』の、
『果報』は、
『無いことになり!』、
『眼』や、
『耳』等は、
『念念に!』、
『滅する!』が故に、
『善、悪』の、
『分別』も、
『存在しなくなる!』という、
是のような、
『過』等が、
『有る!』ので、
皆、
『問難』が、
『成功せず!』、
彼と、
『疑』を、
『同じくするのである!』。
若依空破常者。則無有過。何以故。此人不取空相故。 若し空に依りて、常を破せば、則ち過有る無し。何を以っての故に、此の人は、空相を取らざるが故なり。
若し、
『空』に、
『依って!』、
『常』を、
『破れば!』、
則ち、
『過』は、
『無いことになる!』。
何故ならば、
『此の人』は、
『空』という、
『相』を、
『取らないからである!』。
是故若欲問答。尚應依於空法。何況欲求離苦寂滅相者 是の故に、若し問答せんと欲せば、尚お応に空法に依るべし。何に況んや、離苦寂滅の相を求めんと欲する者をや。
是の故に、
若し、
『世間』の、
『問答をしよう!』と、
『思えば!』、
尚お、
『空』という、
『法』に、
『依らなくてはならない!』。
況して、
『離苦、寂滅の相』を、
『求めようとする!』者は、
『尚更である!』。



中論觀六種品第五 (八偈)

問曰。六種各有定相。有定相故則有六種。 問うて曰く、六種には、各定相有り。定相有るが故に、則ち六種有り。
問い、――
『六種(地水火風空識)』には、
各、
『定まった!』、
『相』が、
『有り!』、
『定まった!』、
『相』の、
『有る!』が故に、
則ち、
『六種』が、
『有る!』。
  参考:『大智度論巻20』:『復次四大及造色。圍虛空故名為身。是中內外入因緣和合。生識種身。得是種和合。作種種事言語坐起去來。於空六種和合中強名為男。強名為女』
  参考:『成実論巻2四諦品』:『又有六種。地水火風空識。四大圍空有識在中數名為人。』
答曰
 空相未有時  則無虛空法 
 若先有虛空  即為是無相
答えて曰く、
空相未だ有らざる時、則ち虚空法無し、
若し先に虚空有らば、即ち是れ無相と為す。
答え、――
『空』の、
『相』が、
『無い!』時には、
『虚空』という、
『法』も、
『無い!』。
若し、
先に、
『虚空』が、
『有れば!』、
是の、
『虚空』は、
『無相ということになる!』。
参考:
nākāśaṃ vidyate kiṃcit pūrvam ākāśalakṣaṇāt |
alakṣaṇaṃ prasajyeta syāt pūrvaṃ yadi lakṣaṇāt ||1||
Not the slightest bit of space exists prior to the characteristics of space.
If [space] existed prior to its characteristics,
it would follow that it would be without characteristics.

参考:
Prior to the characteristics of space
Space does not exist in the slightest.
If it did exist prior to the characteristics
It would follow as being without characteristics.

参考
虛空の特質(形づけるはたらき,相)より以前には,どのような虛空も存在しない。もしも特質より以前に,﹝虛空が﹞存在するとするならば,﹝その虛空は﹞特質の無いものである,という誤りが付随するであろう。
若未有虛空相。先有虛空法者。虛空則無相。何以故無色處名虛空相。 若し未だ虚空の相有らざるに、先に虚空の法有らば、虚空は則ち無相なり。何を以っての故に、無色の処を、虚空の相と名づくればなり。
若し、
未だ、
『虚空』の、
『相』が、
『無いのに!』、
先に、
『虚空』という、
『法』が、
『有れば!』、
『虚空』は、
『相』が、
『無いことになる!』。
何故ならば、
『色』の、
『無い!』、
『処』を、
『虚空(カラッポ)』の、
『相』と、
『呼ぶからだ!』。
色是作法無常。若色未生。未生則無滅。爾時無虛空相。因色故有無色處。無色處名虛空相。 色は、是れ作法にして、無常なり。若し色にして未生なれば、未生には、則ち滅無し。爾の時、虚空の相も無し。色に因るが故に、無色の処有り、無色の処を虚空の相と名づく。
『色』は、
『作法(所造の事物)』で、
『無常である!』。
若し、
『色』が、
『未生ならば!』、
『未生』の、
『法』には、
『滅』が、
『無いので!』、
爾の時には、
『虚空』という、
『相』も、
『無い!』。
『色』に、
『因る!』が故に、
『無色の処』が、
『有り!』、
『無色の処』を、
『虚空の相』と、
『呼ぶからである!』。
  作法(さほう):梵語saMskRta-dharma、kRtakaの訳。作られた法。人造(自然の対)のもの。
問曰。若無相有虛空。有何咎。 問うて曰く、若し無相にして、虚空有らば、何の咎か有る。
問い、――
若し、
『無相』なのに、
『虚空』が、
『有れば!』、
何のような、
『咎』が、
『有るのか?』。
答曰
 是無相之法  一切處無有 
 於無相法中  相則無所相
答えて曰く、
是の無相の法は、一切の処に有る無く、
無相の法中に、相は則ち所相無し。
答え、――
是の、
『無相の法』は、
一切の、
『処』に、
『無い!』ので、
『無相の法』中の、
『相』には、
『所相(相とすべき!)の法』が、
『無い!』。
  所相(しょそう):相とすべき( to be marked )、梵語lakSya、lakSaNa-karmanの訳。特徴/定義とすべき、目印/目標とすべき( to be indicated )、間接的に表現されるべき( To be characterized or defined, indirectly denoted or expressed )、観察/知覚可能な、見える( observable, perceptible, visible )等の義。
参考:
alakṣaṇo na kaścic ca bhāvaḥ saṃvidyate kva cit |
asaty alakṣaṇe bhāve kramatāṃ kuha lakṣaṇam ||2||
A thing without characteristics does not exist anywhere at all.
If a thing without characteristics does not exist,
to what do characteristics extend?

参考:
There is not even one single thing anywhere
That is without characteristics.
If there are no things that are without characteristics
To what are characteristics to be applied?

参考
何であろうとも,特質の無い「存在(もの‧こと)」は,どのようなものも,どのようにしても,決して存在しない。特質の無い「存在(もの‧こと)」が存在していないときに,どうして,特質が現われ出るであろうか。
若於常無常法中。求無相法不可得。如論者言。是有是無云何知各有相。故 若し常、無常の法中に於いて、無相の法を求むるも、得べからず。論者の言えるが如し、『是れ有り、是れ無しと、云何が知らん、各に、相有るが故なり』、と。
若し、
『常』や、
『無常』の、
『法』中に、
『無相』の、
『法』を、
『求めた!』としても、
『認められない!』、
何故ならば、
『認めるべき!』、
『相』が、
『無いからだ!』。
『論者』は、
こう言っている、――
是れは、
『有るのか?』、
『無いのか?』、
何故、知ることができるのか?――
是の、
『有る!』と、
『無い!』とには、
各、
『相』が、
『有るからだ!』、と。
生住滅是有為相。無生住滅是無為相。虛空若無相。則無虛空。 生、住、滅、是れ有為の相なり。生、住、滅無き、是れ無為の相なり。虚空にして、若し無相なれば、則ち虚空無し。
『生、住、滅』は、
『有為の相であり!』、
『生、住、滅』が、
『無ければ!』、
『無為の相である!』。
『虚空』が、
若し、
『無相ならば!』、
則ち、
『虚空』は、
『無いことになる!』。
若謂先無相後相來相者。是亦不然。若先無相。則無法可相。 若し、『先には相無く、後に相来たりて相となる』、と謂わば、是れも亦た然らず。若し先に相無ければ、則ち法の可相なる無し。
若し、
こう謂うならば、――
先には、
『相』は、
『無かった!』が、
後に、
『相』が、
『来て!』、
『相となるのだ!』、と。
是れも、
亦た、
『間違っている!』。
若し、
先に、
『相』が、
『無ければ!』、
『相とすべき(表示すべき)!』、
『法』が、
『存在しないからだ!』。
何以故
 有相無相中  相則無所住 
 離有相無相  餘處亦不住
何を以っての故に、
有相、無相中に、相は則ち所住無し、
有相、無相を離れて、余処にも亦た住せず。
何故ならば、――
『有相、無相』中に、
『相』は、
『所住の処()』が、
『無い!』。
『有相、無相』を、
『離れて!』、
『他の処』にも、
『住まらない!』。
参考:
nālakṣaṇe lakṣaṇasya pravṛttir na salakṣaṇe |
salakṣaṇālakṣaṇābhyāṃ nāpy anyatra pravartate ||3||
Characteristics do not extend to that which has no characteristics;
nor to what possesses characteristics.
They also cannot extend to something other
than what either possesses or does not have characteristics.

参考:
Characteristics could not be applied
To that without characteristics, to that with characteristics
Nor even to something other than
That with or without characteristics.

参考
特質の無いものにおいて,特質の現われ出ることはなく,すでに特質の有るものにおいて,〔特質の現われ出ることは〕ない。また特質のすでに有るものと特質の無いものとからは異なった他のものにおいてもまた,〔特質が〕現われ出ることはない。
如有峰有角尾端有毛頸下垂[古*頁]。是名牛相。若離是相則無牛。若無牛是諸相無所住。是故說於無相法中相則無所相。 峰有り、角有り、尾端に毛有り、頚に胡を下垂すれば、是れを牛相と名づくるが如き、若し是の相を離るれば、則ち牛無く、若し牛無くんば、是の諸相には所住無し。是の故に説かく、『無相の法中に於いて、相は則ち所相無し』、と。
例えば、こういうことだ、――
『峰(首の上のこぶ)が有る!』、
『角が有る!』、
『尾の端に毛が有る!』、
『首の下の肉が垂れている!』等は、
是れを、
『牛の相』と、
『呼んで!』、
若し、
是の、
『相』を、
『離れれば!』、
則ち、
『牛』は、
『無いことになり!』、
若し、
『牛』が、
『無ければ!』、
則ち、
是の、
『諸相の住処』が、
『無いことになる!』。
是の故に、こう説く、――
『無相の法』中に、
『相』は、
『所相の処』が、
『無いことになる!』。
  (ほう):首の上の瘤。頷の上の隆起した肉のある牛を峰牛と云う。
  [古*頁](こ):胡に同じ。頷下に下垂する者。頷の下に垂れた肉。
有相中相亦不住。先有相故。如水相中火相不住。先有自相故。 有相中にも、相は亦た住せず。先に相有るが故なり。水の相中に、火の相の住せざるが如く、先に自相有るが故なり。
『有相』中にも、
『相』は、
『住まらない!』。
先に、
『相』が、
『有るからだ!』。
譬えば、
『水相』中に、
『火相』が、
『住まらないように!』、
先に、
自らの、
『相』が、
『有るからだ!』。
復次若無相中相住者。則為無因。無因名為無法。而有相.相.可相。常相因待故。 復た次ぎに、若し無相中に相住せば、則ち無因と為す。無因を名づけて、無法にして相有りと為す。相と可相と常に相因待するが故なり。
復た次ぎに、
若し、
『無相』中に、
『相』が、
『住まれば!』、
則ち、
『無因となる!』。
『無因』ならば、
こう呼ばれることになる、――
『法』が、
『無いのに!』、
『相』が、
『有る!』、と。
何故ならば、
『相』と、
『可相(所相の法)』とは、
常に、
『互いに!』、
『因待するからである!』。
離有相無相法。更無第三處可相。是故偈中說離有相無相餘處亦不住。 有相、無相の法を離れて、更に第三処に可相無し。是の故に偈中に説かく、『有相、無相を離るれば、余処にも亦た住せず』、と。
『有相の法』と、
『無相の法』を、
『離れれば!』、
更に、
『第三』の、
『可相の法』は、
『無い!』。
是の故に、
『偈』中に、こう説く、――
『有相』と、
『無相』とを、
『離れれば!』、
『他の処』にも、
『住まらない!』、と。
復次
 相法無有故  可相法亦無 
 可相法無故  相法亦復無
復た次ぎに、
相は法の有る無きが故に、可相の法も亦た無し
可相の法無きが故に、相の法も亦た復た無し。
復た次ぎに、
『相の法(有為相)』は、
『無い!』が故に、
『可相の法』も、
『無い!』、
『可相の法(有為法)』が、
『無くなった!』が故に、
『相の法』も、
『無くなる!』。
参考:
lakṣaṇāsaṃpravṛttau ca na lakṣyam upapadyate |
lakṣyasyānupapattau ca lakṣaṇasyāpy asaṃbhavaḥ ||4||
If characteristics do not extend [to something],
something characterized would be impossible.
If something characterized is impossible,
characteristics too would not exist.

参考:
If characteristics cannot not applied
Characterized bases would be inadmissible.
If characterized bases are inadmissible
There would also be no characteristics.

参考
特質が現われ出ないときには,特質づけられるもの(可相)は成り立たない。また, 特質づけられるものが成り立たないときには,特質もまた生じない。
相無所住故。則無可相法。可相法無故。相法亦無。 相の所住無きが故に、則ち可相の法無し。可相の法無きが故に、相法も亦た無し。
『相』には、
『所住の処』が、
『無い!』が故に、
則ち、
『可相の法』も、
『無くなり!』、
『可相の法』が、
『無い!』が故に、
亦た、
『相の法』も、
『無い!』。
何以故。因相有可相。因可相有相。共相因待故 何を以っての故に、相に因りて、可相有り、可相に因りて、相有り。共に相因待するが故なり。
何故ならば、
『相』に、
『因って!』、
『可相』が、
『有り!』、
『可相』に、
『因って!』、
『相』が、
『有る!』が故に、
『相、可相』は、
『互いに!』、
『因待するからである!』。
 是故今無相  亦無有可相 
 離相可相已  更亦無有物
是の故に今無相なれば、亦た可相有る無し、
相と可相を離れ已らば、更に亦た物有る無し。
是の故に、
今、
『相』が、
『無ければ!』、
亦た、
『可相』も、
『無く!』、
『相、可相』を、
『離れれば!』、
更に、
『物(存在)』は、
『無い!』。
  (もつ):事物( matter )、◯梵語 dravya の訳、物質/事物/物体( a substance, thing, object )の義。◯梵語 vastu の訳、実在/物体( an entity, thing )、何か実際に存在する物質/実体/事物/物体/製品( any really existing or abiding substance or essence, thing, object, article )の義。◯梵語 bhaava の訳、存在するもの/事物/物質/存在/生き物( that which is or exists, thing or substance, being or living creature )の義。
参考:
tasmān na vidyate lakṣyaṃ lakṣaṇaṃ naiva vidyate |
lakṣyalakṣaṇanirmukto naiva bhāvo ’pi vidyate ||5||
Therefore, something characterized does not exist
and characteristics do not exist.
There also does not exist a thing
which is apart from being something characterized or a characteristic.

参考:
Thus, there are no charactierized bases
And no characteristics.
Moreover, there are no things
Apart from characterized bases and characteristics.

参考
それゆえ,特質づけられるものは存在しないし,特質も存在しない。特質づけられるものと特質とから離れた「存在(もの‧こと)」もまた,存在しない。
於因緣中。本末推求。相可相決定不可得。是二不可得故。一切法皆無。 『因縁』中に於いて、本末を推求するに、相、可相は決定して得べからず。是の二の得べからざるが故に、一切法は皆無し。
『因、縁』中に、
『本、末』を、
『推求したが!』、
『相、可相』の、
『決定』は、
『認められない!』。
是の、
『二種の法』が、
『認められない!』が故に、
一切の、
『法』は、
『皆、無い!』。
一切法皆攝在相可相二法中。或相為可相。或可相為相。如火以煙為相。煙亦復以火為相。 一切法は、皆相、可相の二法中に摂して在れば、或は相として、可相を為し、或は可相として、相を為すこと、火の煙を以って相と為し、煙も亦復た火を以って、相と為すが如し。
一切の、
『法』は、
皆、
『相、可相』の、
『二法』中に、
『存在して!』、
或は、
『相として!』、
『可相』を、
『成立させ!』、
或は、
『可相として!』、
『相』を、
『成立させる!』ので、
譬えば、
『火』が、
『煙』を、
『相とし!』、
『煙』も、
『火』を、
『相とするようなものである!』。
問曰。若無有有。應當有無。 問うて曰く、若し有有ること無ければ、応当に無有るべし。
問い、――
若し、
『有()』が、
『無ければ!』、
『無()』が、
『有るはずだ!』。
  (う):存在( being, existence, existent )梵語 bhava, bhaava の訳、無、又は空の反対( The antithesis of nothingness, or emptiness )。
  (む):非存在( non-existence )、梵語 abhaava の訳、非存在/無/不在( non-existence, nullity, absence )の義。有の反対。
答曰
 若使無有有  云何當有無 
 有無既已無  知有無者誰
答えて曰く、
若し無をして有有らしめば、云何が当に無有るべき、
有無既に已に無し、有無を知る者は誰ぞ。
答え、――
若し、
『無』に、
強いて、
『有(存在)』を、
『有らせれば!』、
何処に、
『無』が、
『有るのか?』。
若し、
『有』も、
『無』も、
『無ければ!』、
誰が、
『有、無』を、
『知るのか?』。
参考:
avidyamāne bhāve ca kasyābhāvo bhaviṣyati |
bhāvābhāvavidharmā ca bhāvābhāvāv avaiti kaḥ ||6||
If there is not a thing, of what can there be a non-thing?
By whom are the opposites thing and non-thing
known [as] a thing and a non-thing?

参考:
If there are no things
Non-things would be non-things of what?
And since thing and non-thing are discordant phenomena
Who could know of a ‘thing and non-thing’?

参考
「存在(もの‧こと)」が存在しないときには,何ものの「非存在(のもの‧こと)」が存在するであろうか。 「存在(もの‧こと)」と「非存在(のもの‧こと)」とからは異質のどのようなものが, 「存在(もの‧こと)」と「非存在(のもの‧こと)」とを知るであろうか。
凡物若自壞。若為他壞。名為無。 凡そ物の、若しくは自ら壊れ、若しくは他の為に壊らるるを、名づけて無と為す。
凡(およ)そ、
『物()』が、
若しくは、
『自ら!』、
『壊れる!』か、
若しくは、
『他!』に、
『壊されたならば!』、
是れを、
『無』と、
『呼ぶのである!』。
無不自有。從有而有。是故言若使無有有云何當有無。眼見耳聞尚不可得。何況無物。 無は自ら有らず、有より有り。是の故に言わく、『若し無をして有有らしむれば、云何が当に無有るべき。眼に見、耳に聞いてすら、尚お得べからず。何に況んや無物をや。』、と。
『無』は、
『自ら!』、
『有るのではなく!』、
『有』に、
『従って!』、
『有る!』。
是の故に、
こう言う、――
若し、
『無』に、
強いて、
『有』を、
『有らせれば!』、
何処に、
『無』が、
『有るのか?』、と。
『眼』に、
『見たり!』、
『耳』に、
『聞いたりしても!』、
尚お、
『物』が、
『有る!』とは、
『認められない!』、
況して、
『物』が、
『無ければ!』、
『尚更である!』。
問曰。以無有有故無亦無。應當有知有無者。 問うて曰く、無に有有るを以っての故に、無亦た無くとも、応当に有無を知る者有るべし。
問い、――
『無』が、
『有』を、
『有する!』が故に、
『無』が、
亦た、
『無くなったとしても!』、
当然、
『有、無』を、
『知る!』者が、
『有るはずだ!』。
答曰。若有知者。應在有中應在無中。有無既破。知者亦同破 答えて曰く、若し知者有らば、応に有中に在るべしや、応に無中に在るべしや。有無は既に破れたり。知者も亦た同じく破れたり。
答え、――
若し、
『知る者』が、
『有れば!』、
『有』中に、
『在る!』か、
『無』中に、
『在るはずだが!』、
『有』も、
『無』も、
既に、
『破れている!』ので、
同じく、
『知る者』も、
『破れている!』。
 是故知虛空  非有亦非無 
 非相非可相  餘五同虛空
是の故に知る虚空は、有に非ず亦た無に非ず、
相に非ず可相に非ず、余の五も虚空に同じ。
是の故に、
こう知る、――
『虚空』は、
『有でもなく!』、
『無でもなく!』、
『相でもなく!』、
『可相でもない!』、と。
『他!』の、
『五種(地水火風識)』も、
『虚空』と、
『同じだ!』。
参考:
tasmān na bhāvo nābhāvo na lakṣyaṃ nāpi lakṣaṇam |
ākāśam ākāśasamā dhātavaḥ pañca ye ’pare ||7||
Therefore, space is not a thing; it is not a non-thing;
it is not something characterized; it is not a characteristic.
The other five elements too are similar to space.

参考:
Thus, space is neither a thing,
Non-thing, characterized basis
Nor characteristic.
Also the other five constituents
Are similar to space.

参考
それゆえ,虛空は,「存在(もの‧こと)」ではなく,「非存在(のもの‧こと)」 でもなく,特質づけられるものでもなく,特質(相)でもない。他の五つの要素(地‧水‧火‧風‧識)も,虛空の場合と同樣である。
如虛空種種求相不可得。餘五種亦如是。 虚空の種種に相を求めて得べからざるが如く、余の五種も亦た是の如し。
『虚空』に、
種種に、
『相』を、
『求めた!』が、
『認められないように!』。、
『他!』の、
『五種』も、
亦た、
是の通りだ。
問曰。虛空不在初不在後。何以先破。 問うて曰く、虚空は初に在らず、後に在らず。何を以ってか、先に破る。
問い、――
『虚空』は、
『地、水、火、風、空、識』の、
『最初』に、
『在るでもなく!』、
『最後』に、
『在るでもない!』。
何故、
『先に!』、
『破ったのですか?』。
答曰。地水火風眾緣和合故易破。識以苦樂因故知無常變異故易破。 答えて曰く、地、水、火、風は衆縁和合の故に破り易し。識は、苦楽の因なるが故に、無常にして、変異するを知るを以って、故に破り易し。
答え、――
『地、水、火、風』は、――
『衆縁(多くの縁)』の、
『和合』の故に、
『有る!』ので、
故に、
『破る!』ことが、
『易(たやす)い!』が、
『識』は、――
『苦』や、
『楽』の、
『因である!』が故に、
『無常であり!』、
『変易する!』と、
『知る!』ことを、
『利用して!』、
故に、
『易(たやす)く!』、
『破ることができる!』。
  参考:『大智度論巻31』:『佛說色從種種因緣生無有堅實。如水波浪而成泡沫暫見即滅。色亦如是。今世四大先世行業因緣和合故而得成色。因緣滅故色亦俱滅。』
虛空無如是相。但凡夫悕望為有。是故先破。 虚空には、是の如き相無く、但だ凡夫の悕望して、有と為すのみ。是の故に、先に破れり。
『虚空』には、
是のような、
『相』が、
『無い!』、
但だ、
『凡夫の希望』が、
『有る!』と、
『思うだけである!』、
是の故に、
『先に!』、
『破った!』。
復次虛空能持四大。四大因緣有識。是故先破根本。餘者自破。 復た次ぎに、虚空は能く四大を持し、四大の因縁として識有り。是の故に先に根本を破らば、余は自ら破れん。
復た次ぎに、
『虚空』は、
『地、水、火、風』の、
『四大』を、
『かかげ持ち!』、
『四大』の、
『因縁』の故に、
『色』が、
『有り!』、
故に、
『色を知る!』、
『識』が、
『有る!』。
是の故に、
『先に!』、
『根本』の、
『虚空』を、
『破れば!』、
『他の!』者は、
『自ら!』、
『破れる!』。
問曰。世間人盡見諸法是有是無。汝何以獨與世間相違。言無所見。 問うて曰く、世間の人は、尽く諸法の是れ有、是れ無なるを見る。汝は何を以ってか、独り世間と相違して、『所見無し』、と言う。
問い、――
『世間』の、
『人』は尽く、
諸の、
『法』を、こう見る、――
是れは、『有る!』、
是れは、『無い!』、と。
お前だけが、
何故、
『世間』と、
『相違して!』、こう言うのか?――
『見る!』所の、
『物』は、
『無い!』、と。
答曰
 淺智見諸法  若有若無相 
 是則不能見  滅見安隱法
答えて曰く、
浅智は諸法に、若しは有若しは無の相を見る、
是れ則ち滅見の、安隠法を見る能わず。
答え、――
『智慧』が、
『浅ければ!』、
諸の、
『法』に、
『有相』や、
『無相』を、
『見る!』が、
是れでは、
『見(固定観念)』を、
『滅すれば!』、
『安隠である!』という、
『法』は、
『見られない!』。
参考:
astitvaṃ ye tu paśyanti nāstitvaṃ cālpabuddhayaḥ |
bhāvānāṃ te na paśyanti draṣṭavyopaśamaṃ śivam ||8||
Those of small minds see things as existent and non-existent.
They do not behold the utter pacification of what is seen.

参考:
Those of little intelligence
Who view things as existent or non-existent
Do not perceive the thorough pacification of objects seen
Nor do they perceive peace.

参考
しかるに,もろもろの「存在(もの‧こと)」の有と無とを見る智慧の少ないものたち〔がいて〕,かれらは,見られるもの(経驗される対象)の寂滅という吉祥なるものを,見ることがない。
若人未得道。不見諸法實相。愛見因緣故種種戲論。見法生時謂之為有。取相言有。見法滅時謂之為斷。取相言無。 若し人、未だ得道せざれば、諸法の実相を見ず、愛と見との因縁の故に、種種に戯論す。法の生時を見て、之を謂いて有と為し、相を取りて、『有り』、と言う。法の滅時を見て、之を謂いて断と為し、相を取りて、『無し』、と言う。
若し、
『人』が、
未だ、
『道』を、
『得ていない!』時には、
諸の、
『法』の、
『実相』を、
『見ない!』ので、
『愛』と、
『見』との、
『因縁』の故に、
種種に、
『戯論して!』、――
『法』の、
『生時』を、
『見れば!』、
『有の相』を、
『取って!』、
『有る!』と、
『言い!』、
『法』の、
『滅時』を、
『見れば!』、
『無の相』を、
『取って!』、
『無い!』と、
『言う!』。
  参考:『大智度論巻3』:『復次諸結使皆屬愛見。屬愛煩惱覆心。屬見煩惱覆慧。』
智者見諸法生即滅無見。見諸法滅即滅有見。是故於一切法雖有所見。皆如幻如夢。乃至無漏道見尚滅。何況餘見。是故若不見滅見安隱法者。則見有見無 智者は、諸法の生を見て、即ち無見を滅し、諸法の滅を見て、即ち有見を滅す。是の故に一切法に於いて、所見有りと雖も、皆幻の如く、夢の如く、乃至無漏道の見すら、尚お滅す。何に況んや、余の見をや。是の故に若し滅見の安隠法を見ざる者は、則ち有を見、無を見る。
『智者』は、
諸の、
『法』の、
『生じる!』のを、
『見れば!』、
即ち、
『無の見』を、
『滅し!』、
諸の、
『法』の、
『滅する!』のを、
『見れば!』、
即ち、
『有の見』を、
『滅する!』ので、
是の故に、
一切の、
『法』に於いて、
『見る!』所の、
『物』が、
『有った!』としても、
皆、
『幻のようであり!』、
『夢のようである!』し、
乃至、
『無漏の道である!』という、
『見』すら、
尚お、
『滅するのである!』から、
況して、
『他の見』は、
『尚更である!』。
是の故に、
若し、
『見』を、
『滅すれば!』、
『安隠である!』という、
『法』を、
『見ない!』者は、
則ち、
『有』や、
『無』を、
『見ることになる!』。



中論觀染染者品第六 (十偈)

問曰。經說貪欲瞋恚愚癡。是世間根本。 問うて曰く、経に説かく、『貪欲、瞋恚、愚癡は、是れ世間の根本なり』、と。
問い、――
『経』には、こう説く、――
『貪欲、瞋恚、愚癡』は、
『世間』の、
『根本である!』、と。
貪欲有種種名。初名愛次名著次名染次名婬欲。次名貪欲。有如是等名字此是結使。依止眾生 貪欲には、種種の名有り、初を愛と名づけ、次を著と名づけ、次を染と名づけ、次を婬欲と名づけ、次を貪欲と名づく。是の如き等の名字有り。此れは是れ結使にして、衆生に依止す。
『貪欲』には、
種種の、
『名』が有る、――
初を、
『愛』、
次を、
『著』、
次を、
『染(汚染)』、
次を、
『婬欲』、
次を、
『貪欲』と、
『呼ぶ!』等、
是れ等のように、
『呼ばれる!』が、
此れは、
『結使(煩悩)であり!』、
『衆生』に、
『依止する!』。
  (せん):梵語 raaga の訳、著色/染色する行為( the act of colouring or dyeing )の義。貪欲/渇望/妄想( greed, desire, delusin )の意。
  依止(えし):根拠( basis )、梵語aazraya、adhiSThaana等の訳、地面/土台( a ground, support )、何物かに属されるもの/何物かに密接に繋属されるもの/何物かが依存したり、休息するもの( that to which anything is annexed or with which anything is closely connected or on which anything depends or rests )、受領者/何等かの性質か物を保持する人、或は物( a recipient, the person or thing in which any quality or article is inherent or retained or received )、座席/休息所/住居( seat, resting-place, dwelling )、避難所( asylum, place of refuge, shelter )、依存/依頼すること( depending on, having recourse to )、援助/庇護( help, assistance, protection )の義。
眾生名染者。貪欲名染法。有染法染者故。則有貪欲。 衆生を染者と名づけ、貪欲を染法と名づく。染法、染者有るが故に、則ち貪欲有り。
『衆生』を、
『染者(汚染した者)』と、
『呼び!』、
『貪欲』を、
『染法(汚染する者)』と、
『呼ぶ!』。
『染法、染者』の、
『有る!』が故に、
則ち、
『貪欲』が、
『有ることになる!』。
餘二亦如是。有瞋則有瞋者。有癡則有癡者。 余の二も亦た是の如し。瞋有れば、則ち瞋者有り。癡有れば、則ち癡者有り。
『他の二種』も、
亦た、
是のようにして、
『瞋(瞋法)』が、
『有れば!』、
『瞋者』が、
『有ることになり!』、
『癡(癡法)』が、
『有れば!』、
『癡者』が、
『有ることになる!』。
以此三毒因緣起三業。三業因緣起三界。是故有一切法 此の三毒の因縁を以って、三業を起し、三業の因縁は、三界を起して、是の故に一切法有り。
此の、
『三毒(貪欲、瞋恚、愚癡)』の、
『因縁』で、
『三業(身業、口業、意業)』が、
『起り!』、
『三業』の、
『因縁』が、
『三界(欲界、色界、無色界)』を、
『起すので!』、
是の故に、
『一切の法』が、
『有る!』。
答曰。經雖說有三毒名字。求實不可得。 答えて曰く、経に、『三毒の名字有り』、と説くと雖も、実を求むれば得べからず。
答え、――
『経』には、こう説くが、――
『三毒』という、
『名字』が、
『有る!』、と。
『実』を、
『求めても!』、
『得る(認める)ことができない!』。
何以故
 若離於染法  先自有染者 
 因是染欲者  應生於染法 
 若無有染者  云何當有染 
 若有若無染  染者亦如是
何を以っての故に、
若し染法を離れて、先に自ら染者有らば、
是の染欲者に因りて、応に染法を生ずべし。
若し染者有ること無くんば、云何が当に染有るべき、
若しは染有らん若しは無けん、染者も亦た是の如し。
何故ならば、――
若し、
『染法(三毒)』を、
『離れて!』、
先に、
『染者』が、
『有れば!』、
是の、
『染者(欲に染まった者)』に、
『因って!』、
『染法』を、
『生じなくてはならない!』。
若し、
『染者』が、
『無ければ!』、
何故、
『染法』が、
『有ることになるのか?』。
若し、
『染』が、
『有っても!』、
『無くても!』、
『染者』も、
亦た、
『是の通りだ!』。
参考:
rāgād yadi bhavet pūrvaṃ rakto rāgatiraskṛtaḥ |
taṃ pratītya bhaved rāgo rakte rāgo bhavet sati ||1||
If a desirous one without desire exists before desire,
desire would exist dependent on that [desirous one].
[When] a desirous one exists, desire exists.

rakte ’sati punā rāgaḥ kuta eva bhaviṣyati |
sati vāsati vā rāge rakte ’py eṣa samaḥ kramaḥ ||2||
If there were no desirous one, how could there be desire?
The same follows for the desirous one too:
[it depends on] whether desire exists or not.

参考:
If prior to attachment
There existed an attached person without attachment
Then attachment would exist in dependence upon that
And attachment of the attached person would come to exist.

Also if there did not exist an attached person
How could attachment come to exist?
The steps are also similar for refuting the existence
Or non-existence of attachment prior to an attached person.

参考
もしも貪りよりも先に,貪りを欠いている貪る者が存在し得るとすれば,その(人(貪る者)に縁って,貪りは存在し得るであろう。﹝そのような場合にはまた﹞,貪る者が存在するときには,貪りは存在し得るであろう。

〔しかし〕貪る者が存在しないときには,一体,どうして,貪りは存在し得るであろうか。貪りが存在するときにも,あるいは存在しないときにも,貪る者に関してもまた,これと同じ次第が〔適用される〕。
若先定有染者。則不更須染。染者先已染故。 若し先に定んで、染者有らば、則ち更に染を須めず。染者は、先に已に染するが故なり。
若し、
先に、
『染者』が、
『有る!』と、
『定まれば!』、
則ち、
『更に!』、
『染法』を、
『必要としない!』。
『染者』が、
『先に!』、
『染まっているからだ!』。
若先定無染者。亦復不應起染要當先有染者然後起染。 若し先に定んで、染者無くんば、亦復た応に染を起すべからず。要らず当に先に染者有りて、然る後に染を起すべし。
若し、
先に、
『染者』が、
『無い!』と、
『定まれば!』、
亦た、
『染』を、
『復た!』、
『起すはずがない!』。
必ず、
『染者』が、
『先に!』、
『有り!』、
その後、
『染』を、
『起すからだ!』。
若先無染者。則無受染者。 若し先に染者無くんば、則ち染を受くる者無し。
若し、
先に、
『染者』が、
『無ければ!』、
則ち、
『染』を、
『受ける!』者が、
『無いことになる!』。
染法亦如是。若先離人定有染法。此則無因。云何得起似如無薪火。 染法も亦た是の如く、若し先に人を離れて、定んで染法有らば、此れ則ち無因なり。云何が、起ることを得ん。薪無き火の如きに似たり。
『染法』も、
亦た、
是のように、――
若し、
先に、
『人』を、
『離れて!』、
『染法』が、
『有る!』と、
『定まれば!』、
此の、
『染法』は、
『無因である!』。
何故、
『起すことができるのか?』。
譬えば、
『薪』の、
『無い!』、
『火』に、
『似ている!』。
若先定無染法。則無有染者。是故偈中說若有若無染。染者亦如是。 若し先に定んで、染法無くんば、則ち染者有る無し。是の故に偈中に説かく、『若しは染有らん、若しは無けん、染者も亦た是の如し』、と。
若し、
先に、
『染法』が、
『無い!』と、
『定まれば!』、
則ち、
『染者』も、
『無いことになる!』。
是の故に、
『偈』中に、こう説く、――
若し、
『染』が、
『有っても!』、
『無くても!』、
『染者』も、
亦た、
『是の通りだ!』、と。
問曰。若染法染者先後相待生。是事不可得者。若一時生有何咎。 問うて曰く、若し染法と染者と先後相待して生ずるに、是の事得べからざれば、若し一時に生ぜば、何の咎か有る。
問い、――
若し、
『染法』と、
『染者』との、
『先、後』に、
『相待して!』、
『生じる!』という、
是の、
『事』が、
『認められなければ!』、
若し、
『一時』に、
『生じれば!』、
何のような、
『咎』が、
『有るのか?』。
答曰
 染者及染法  俱成則不然 
 染者染法俱  則無有相待
答えて曰く、
染者及び染法、倶に成ずれば則ち然らず、
染者と染法と倶に、則ち相待有る無し。
答え、――
『染者』と、
『染法』と、
『いっしょに!』、
『成立すれば!』、
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
『染者』と、
『染法』とは、
『どちらも!』、
『相待(相互依存)する!』ことが、
『無いことになる!』。
  相待(そうたい):相互依存( interdependence )、梵語anyonya-apekSaa、paraspara-apekSaa等の訳、相互に関連すること( mutually relating )の義、例えば頭と尾とのように、彼等の相互の関係中に於いて確立することである( For example, heads and tails are established in their relation to each other )、三角形は、その三本の線に依存し、目は物の有する色や形、長短に依存する( the triangle depends on its three lines, the eye on things having color and form, long on short )。
参考:
sahaiva punar udbhūtir na yuktā rāgaraktayoḥ |
bhavetāṃ rāgaraktau hi nirapekṣau parasparam ||3||
It is not reasonable for desire and the desirous one to arise as co-existent.
In this way desire and the desirous one would not be mutually contingent.

参考:
Attachment and the attached person
Being produced together is inadmissible.
If that were the case, attachment and the attached person
Would be without mutual reliance.

参考
つぎに,貪りと貪る者とが同時に生起するということは,正しくない。なぜならば,〔もしもそうであるならば〕貪りと貪る者とは,相互に依存することなく存在するであろう,ということになってしまうからである。
若染法染者一時成。則不相待。不因染者有染法。不因染法有染者。是二應常。已無因成故。 若し染法と染者と、一時に成ぜば、則ち相待せず。染者に因らずして、染法有り、染法に因らずして、染者有れば、是の二は応に常なるべし、已に無因にして成ずるが故なり。
若し、
『染法』と、
『染者』と、
『一時に!』、
『成立すれば!』、
則ち、
『どちらも!』、
『相待しないことになる!』。
『染者』に、
『因らずに!』、
『染法』が、
『有り!』、
『染法』に、
『因らずに!』、
『染者』が、
『有れば!』、
是の、
『二』は、
『常でなければならない!』。
已に、
『無因として!』、
『成立するからである!』。
若常則多過。無有解脫法。 若し常なれば、則ち過多く、解脱法有る無し。
若し、
『常ならば!』、
『過』が、
『多い!』、
『解脱』という、
『法』が、
『無くなるからだ!』。
復次今當以一異法。破染法染者。 復た次ぎに、今当に、一異の法を以って、染法と染者とを破すべし。
復た次ぎに、
今、
『一、異』という、
『法』を、
『用いて!』、
『染法』と、
『染者』を、
『破るとしよう!』。
何以故
 染者染法一  一法云何合 
 染者染法異  異法云何合
何を以っての故に、
染者と染法と一なれば、一法なるに云何が合する、
染者と染法と異なれば、異法なるに云何が合する。
何故ならば、
『染者』と、
『染法』とが、
『一(同一)ならば!』、
何故、
『一法』が、
『合するのか?』。
『染者』と、
『染法』とが、
『異(別異)ならば!』、
何故、
『異法』が、
『合するのか?』。
参考:
naikatve sahabhāvo ’sti na tenaiva hi tat saha |
pṛthaktve sahabhāvo ’tha kuta eva bhaviṣyati ||4||
Identity has no co-existence:
something cannot be co-existent with itself.
If there were difference,
how could there be co-existence?

参考:
If they were the same they would not be together
Since something cannot be together with itself.
And if they were different
How could they be together?

参考
もしも〔貪りと貪る者とが〕同一であるならば,〔両者の〕結合は存在しない。なぜならば,或るものがそれ自身と結合するということは,決してないからである。一方, 〔両者が〕別異であるならば,〔両者の〕結合が,一体,どうして,存在するであろうか。
染法染者。若以一法合。若以異法合。 染法と染者とは、若しは一法を以って合し、若しは異法を以って合す。
『染法、染者』は、
若しは、
『一法』の、
『状態として!』、
『合するのか?』、
若しは、
『異法』の、
『状態として!』、
『合するのか?』。
  (い):用いる( use )、使令する( take )、恃む( depend on )、看做す( consider as )、従事する( do )、原因( reason )、[手段]~で( using, taking, by means of )、依って/従って( in accordance with, by )、[時、場所]於いて/在りて( in )、[起点]~より( from )、為に( in order to, so as to, for )、[原因]因って/由って( because of )、[並列]~と( and, as well as )。
若一則無合。何以故。一法云何自合。如指端不能自觸。 若し一なれば、則ち合無し。何を以っての故に、一法なれば、云何が自ら合する。指端の自ら触るる能わざるが如し。
若し、
『一ならば!』、
『合(合すること)』は、
『無いことになる!』。
何故ならば、
『一法』が、
何に、
『自らを!』、
『合するのか?』。
譬えば、
『指端』が、
『自らに!』、
『触れられない!』のと、
『同じである!』。
若以異法合。是亦不可。何以故。以異成故。若各成竟不須復合。雖合猶異。 若し異法を以って合すれば、是れも亦た不可なり。何を以っての故に、異を以って成ずるが故なり。若し各成じ竟らば、復た合するを須いず。合すと雖も、猶お異なればなり。
若し、
『異法』の、
『状態で!』、
『合すれば!』、
是れも、
亦た、
『適当でない!』。
何故ならば、
『異種』の、
『法として!』、
『成立しているからである!』。
若し、
各が、
『成立していれば!』、
もう、
『合』を、
『必要としない!』。
若し、
『合したとしても!』、
猶お、
『異なることになる!』。
復次一異俱不可。 復た次ぎに、一も異も倶に不可なり。
復た次ぎに、
『一』も、
『異』も、
どちらも、
『成立しない!』。
何以故
 若一有合者  離伴應有合 
 若異有合者  離伴亦應合
何を以っての故に、
若し一に合有らば、伴を離れて応に合有るべし、
若し異に合有らば、伴を離れて亦た応に合すべし。
何故ならば、
若し、
『一なのに!』、
『合』が、
『有れば!』、
『伴(相手)』を、
『離れて!』、
『合』が、
『有るはずだ!』。
若し、
『異なのに!』、
『合』が、
『有れば!』、
『伴』を、
『離れても!』、
亦た、
『合するはずだ!』。
参考:
ekatve sahabhāvaś cet syāt sahāyaṃ vināpi saḥ |
pṛthaktve sahabhāvaś cet syāt sahāyaṃ vināpi saḥ ||5||
If the identical were co-existent,
[co-existence] would also occur between the unrelated;
if the different were co-existent,
[co-existence] would also occur between the unrelated.

参考:
If a single phenomenon were together
Also that without a companion would be together.
And if different phenomena were together
Also those without a companion would be together.

参考
もしも同一であるときに結合﹝が有る﹞とするならば,それ(結合)は,助伴者が無くても存在することになるであろう。もしも別異であるときに結合﹝が有る﹞とするならば,それ(結合)は,助伴者が無くても存在することになるであろう。
若染染者一。強名為合者。應離餘因緣而有染染者。 若し染染者は一なるに、強いて名づけて合と為さば、応に余の因縁を離れても、染染者有るべし。
若し、
『染、染者』が、
『一なのに!』、
強いて、
『合』と、
『呼ぶならば!』、
是の、
『染、染者』は、
『他(他の一方)の因縁』を、
『離れても!』、
『有るはずだ!』。
復次若一。亦不應有染染者二名。染是法染者是人。若人法為一。是則大亂。 復た次ぎに、若し一ならば、亦た応に染染者の二名有るべからず。染は是れ法なり、染者は是れ人なり。若し人と法とを一と為せば、是れ則ち大乱なり。
復た次ぎに、
若し、
『一ならば!』、
亦た、
『染、染者』の、
『二名』が、
『有るはずがない!』。
何故ならば、
『染』は、
『法であり!』、
『染者』は、
『人だからである!』。
若し、
『人』と、
『法』とが、
『一ならば!』、
則ち、
『大いに!』、
『乱れることだろう!』。
若染染者各異。而言合者。則不須餘因緣而有合。若異而合者。雖遠亦應合。 若し染と染者と各異なるに、而も合す、と言わば、則ち余の因縁を須たずして、而も合有り。若し異にして、而も合すれば、遠しと雖も、亦た応に合すべし。
若し、
『染、染者』が、
各、
『異なる!』のに、
『合だ!』と、
『言えば!』、
則ち、
『他の因縁』を、
『待たなくても!』、
『合』が、
『有ることになる!』。
若し、
『異なるのに!』、
『合すれば!』、
亦た、
『遠くであっても!』、
『合するはずである!』。
問曰。一不合可爾。眼見異法共合。 問うて曰く、一の合せざるは、爾るべし。眼には異法の共に合するを見る。
問い、――
『一』が、
『合しない!』のは、
『その通りだろう!』。
『眼』には、こう見える、――
『異なった!』、
『法』が、
『いっしょに!』、
『合する!』、と。
答曰
 若異而有合  染染者何事 
 是二相先異  然後說合相
答えて曰く、
若し異にして合有らば、染と染者とは何の事ぞ、
是の二相先には異にして、然る後に合相を説く。
答え、――
若し、
『異なる!』のに、
『合』が、
『有れば!』、
『染、染者』は、
何のような、
『事だ!』と、
『言うのか?』。
是の、
『二』は、
先には、
『異相だった!』のに、
その後、
『合相だ!』と、
『説くのは?』。
参考:
pṛthaktve sahabhāvaś ca yadi kiṃ rāgaraktayoḥ |
siddhaḥ pṛthakpṛthagbhāvaḥ sahabhāvo yatas tayoḥ ||6||
If the different were co-existent,
how would desire and the desirous one be established as different or,
if that were so, [how would] those two be co-existent?

参考:
If different phenomena were together
How could attachment and the attached person
Be established to be different
Or due to that how could those two be together?

参考
もしも別異であるときに結合﹝が有る﹞とするならば,貪りと貪る者とは互いに別異のものであるということが,どうして,成立するのであろうか。なぜならば,それら両者はすでに結合しているからである。
若染染者。先有決定異相。而後合者是則不合何以故。是二相先已異。而後強說合。 若し染と染者と、先に決定して異相有るに、而も後に合すれば、是れ則ち合にあらず。何を以っての故に、是の二相は先に已に異なるを、而も後に強いて合と説けばなり。
若し、
『染める!』、
『法』と、
『染められる!』、
『者』とには、
先に、
『決定して!』、
『異なった!』、
『相』が、
『有りながら!』、
後に、
『合した!』とすれば、
是の、
『二個』の、
『法』は、
『合していない!』。
何故ならば、
是の、
『二個』の、
『相』は、
先の、
『異なった!』、
『相!』を、
後に、
強いて、
『合した!』と、
『説くにすぎないからだ!』。
復次
 若染及染者  先各成異相 
 既已成異相  云何而言合
復た次ぎに、
若し染及び染者、先に各異相を成ぜば、
既に已に異相を成ず、云何が合と言わん。
復た次ぎに、
若し、
『染、染者』が、
先に、
各、
『異相』を、
『成立すれば!』、
既に、
『異相』が、
『成立している!』のに、
何故、
『合する!』と、
『言うのか?』。
参考:
siddhaḥ pṛthakpṛthagbhāvo yadi vā rāgaraktayoḥ |
sahabhāvaṃ kim artham tu parikalpayase tayoḥ ||7||
If desire and the desirous were established as different,
because of what could one understand them as co-existent?

参考:
If attachment and the attached person
Were established to be different
Why would they be imagined
To be together?

参考
あるいはまた,もしも貪りと貪る者とが互いに別異のものとして,すでに成立しているとするならば,それら両者の結合を,他方で,何のために汝は想定するのか。
若染染者先各成別相。汝今何以強說合相。 若し染と染者と、先に各、別相を成ぜば、汝は今何を以ってか、強いて合相を説く。
若し、
『染、染者』が、
先に、
各、
『別相』を、
『成立していれば!』、
お前は、
今、
何故、
強いて、
『合相だ!』と、
『説くのか?』。
復次
 異相無有成  是故汝欲合 
 合相竟無成  而復說異相
復た次ぎに、
異相には成有る無し、是の故に汝は合を欲す、
合相は竟に成ずる無し、而も復た異相を説くや。
復た次ぎに、
『異相』の、
『成立』が、
『無さそうなので!』、
是の故に、
お前は、
『合しよう!』と、
『思うのか?』。
『合相』の、
『成立』が、
『結局!』、
『無さそうなので!』、
復たしても、
『異相だ!』と、
『説こうとするのか?』。
参考:
pṛthag na sidhyatīty evaṃ sahabhāvaṃ vikāṅkṣasi |
sahabhāvaprasiddhyarthaṃ pṛthaktvaṃ bhūya icchasi ||8||
If one asserts them to be co-existent
because they are not established as different,
then because they would be very much established as co-existent,
would one not also have to assert them to be different?

参考:
If in order to establish them as being different
They are accepted as being together
Then in order to establish them as being together
Wouldn’t it also be necessary to accept them as being different.

参考
互いに別異であるということは成立しないといって,汝はこのような〔両者の〕結合を求めている。ところが,〔両者の〕結合を成立させるために,汝はさらに,〔両者が〕別異であることを主張しているのである。
汝已染染者異相不成故。復說合相。合相中有過。 汝は已に染と染者との異相を成ぜざるが故に、復た合相を説く。合相中にも過有り。
お前は、
結局、
『染、染者』の、
『異相』を、
『成立させられなかった!』が故に、
復た、
『合相』を、
『説こうとした!』が、
『合相』中にも、
『過』が、
『有ったのだ!』。
染染者不成。汝為成合相故。復說異相。汝自已為定。而所說不定。 染と染者と成ぜざるは、汝は合相を成ぜんが為めの故なり。復た異相を説くは、汝は自ら己をして定めんが為めなり、而も所説は定まらず。
『染、染者』が、
『成立しない!』のは、――
お前が、
『合相』を、
『成立させようとしたからだ!』。
復た、
『異相』を、
『説くのは!』、
お前は、
自ら、
『己を!』、
『定めようとしているからだ!』。
而し、
『所説』が、
『定まっていないぞ!』。
何以故
 異相不成故  合相則不成 
 於何異相中  而欲說合相
何を以っての故に、
異相成ぜざるが故に、合相は則ち成ぜず、
何の異相中に、而も合相を説かんと欲するや。
何故ならば、
『異相』が、
『成立しない!』が故に、
『合相』は、
『成立しない!』。
何の、
『異相』中に、
『合相』を、
『説こうとしているのか?』。
参考:
pṛthagbhāvāprasiddheś ca sahabhāvo na sidhyati |
katamasmin pṛthagbhāve sahabhāvaṃ satīcchasi ||9||
Since different things are not established,
co-existent things are not established.
If there existed any different things,
one could assert them as co-existent things.

参考:
Since things that are different have not been established
Things that are together cannot be established.
Which existing things that are different
Could be accepted as things that are together?

参考
〔両者が〕互いに別異であるということは成立しないがゆえに,〔両者の〕結合は成立しない。 〔両者が〕互いに別異であるということが存在するときに,汝は,いかなるものにおいて結合を主張するのであろうか。
以此中染染者異相不成故。合相亦不成。汝於何異相中而欲說合相。 此の中に、染染者の異相成ぜざるを以っての故に、合相も亦た成ぜず。汝は、何の異相中に、合相を説かんと欲する。
此の中の、
『染、染者』は、
『異相』が、
『成立しない!』が故に、
『合相』も、
『成立しない!』。
お前は、
何の、
『異相』中に、
『合相』を、
『説きたい!』と、
『思うのか?』。
復次
 如是染染者  非合不合成 
 諸法亦如是  非合不合成
復た次ぎに、
是の如き染染者は、合不合の成に非ず、
諸法も亦た是の如く、合不合の成に非ず。
復た次ぎに、
是のような、
『染、染者』は、
『合する!』とか、
『合しない!』とかで、
『成立することはなく!』、
諸の、
『法』も、
是のように、
『合する!』とか、
『合しない!』とかで、
『成立することもない!』。
参考:
evaṃ raktena rāgasya siddhir na saha nāsaha |
rāgavat sarvadharmāṇāṃ siddhir na saha nāsaha ||10||
In that way, desire and the desirous one are not established
as co-existent or not co-existent.
Like desire, all phenomena are not established
as co-existent or not co-existent.

参考:
Thus, attachment and the attached person
Cannot be established to be either together or not together.
Like attachment, no phenomena
Can be established to be either together or not together.

参考
このように,貪りの成立することは,貪る者との結合の場合にも,非結合の場合にも,ない。貪りと同樣に,すべての「もの」の成立することは,結合の場合にも,非結合の場合にも,ない。
如染恚癡亦如是。如三毒一切煩惱一切法亦如是。非先非後非合非散。等因緣所成
中論卷第一
染の如く、恚癡も亦た是の如し。三毒の如く、一切の煩悩も、一切の法も亦た是の如く、非先、非後、非合、非散等の因縁の所成なり。
中論巻第一
『染()のように!』、
『恚』や、
『癡』も、
『同じであり!』、
『三毒のように!』、
『一切の煩悩』や、
『一切の法』も、
亦た、
是のように、
『先でもなく!』、
『後でもなく!』、
『合でもなく!』、
『散でもない!』等の、
『因縁』が、
『成立させている!』。

中論巻第一


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