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―― 中論解題 ――    

  ≪1. 大要≫
   「中論」を有無、断常等の両極端の見を嫌い、中道を行くことを論ずるものと見るのが大方の見解であり、ことばの意味としても間違いのない所であるが、論の主旨は必ずしもそれを目的としない。結論から先に言えば、寧ろ無意義に論ずることを誡めんが為の造論と見なすべきである。論の「巻1観因縁品第一」に、「仏滅度の後、後五百歳の像法中には人根転鈍にして、深く諸法に著し、十二因縁、五陰、十二入、十八界等の決定相を求め、仏意を知らずして但だ文字のみに著し、大乗法中に畢竟空と説くを聞いて、何の因縁の故に空なるやを知らずして、即ち疑見を生ずらく、若し都て畢竟空ならば云何が罪福報応等有るを分別せんやと。是の如くんば則ち世諦、第一義諦無し、是の空相を取りて貪著を起し、畢竟空中に於いて種種の過を生ず。龍樹菩薩、是れ等の為の故に此の中論を造る」と言うが如きが、則ちそれである。真に仏教的な大事を差し措いて観念的な空観に遊び、無意義の空相に於いて、あれこれと論議することを云うのである。しかしながら、唐中期の「南海寄帰内法伝序(義浄AD691)」には、「云う所の大乗とは二種に過ぐるなし、一には則ち中観、二には乃ち瑜伽なり。中観は則ち俗有真空にして、体虚なること幻の如く、瑜伽は則ち外無内有にして事皆唯識なり」と云い、親光の「仏地経論巻4」に、「菩薩蔵は千載已前清浄一味にして乖諍あることなし。千載已後乃ち空有二種の異論あり」と云い、凝然の「八宗綱要巻上」に、「千一百年、護法、清辨は空有を依他の上に諍う」と云うが如く、羅什の訳(AD409)より凡そ300年の後には既に印度に於いて二派に分かれ、互いに諍った記録がある。此の中瑜伽派とは、「瑜伽師地論100巻」等に依って瑜伽行者は唯識中道の理に悟入すべしとし、「解深密経」、「唯識三十頌」等に依って遍計所執性、依他起性、円成実性の三性を立てて一切法を摂し、遍計所執性の我法に情有理無にして非有、依他起性に理有情無にして非無、円成実性に真空妙有にして非無を見、遍計所執、依他起及び円成実の三性対望して非有非空の中道の理を唱えるものであるが、蓋し「瑜伽師地論」、「大乗阿毘達磨集論」、「大乗阿毘達磨雑集論」等に見るが如き、其の阿毘曇に対する執著は、大乗内一切有部の如き観を呈するのである。対する中観派は「中論」の著者龍樹、並びに「百論」の著者提婆を祖と仰いで、「中論」中の偈文のみを研究信奉する学派にして、概ね「大智度論巻38」に、「仏法の中に二諦あり、一には世諦、二には第一義諦なり。世諦の為の故に衆生ありと説き、第一義諦の為の故に衆生所有なしと説く」と云うが如き俗有真空を奉ずるも、此の派の主旨は、寧ろ「成唯識論巻3」に、「大乗遣相の空理を執して究竟と為す者あり、似比量に依りて此の識及び一切法を撥無す。彼れ特に前に引く所の経を違害し、知と断と証と修との染浄の因果は皆実に非ずと執して大邪見を成ず」と云うが如きに由って知ることができる。即ち此の流派は龍樹の「中論」、「大智度論」、提婆の「百論」の主旨から大きく離れ、謂わゆる般若空を曲解して、唯だ空の一事にすべてを集約して物事の一切を片付けてしまおうという甚だ乱暴、且つ楽観的にして、唯一神教に於ける狂信者にも似た無邪気さすら感じられるものなのである。今禅宗の起源は甚だ詳ならず明言することは大いに憚るべき所であるが、禅宗が以心伝心、師資相承、不立文字、教外別伝を立てて、仏の経説を軽んずる所は広く知られた所であるが故に、その源流は、或は此の中観派ではないかと推す所である。
  
  話を「中論」に戻そう。「巻4四諦品」の偈に、こう説く――
  問うて曰く、四顛倒を破して、四諦に通達すれば四沙門果を得。
若し一切皆空ならば、生も無く亦た滅も無く
是の如くんば則ち、四聖諦の法有ること無し
四諦無きを以っての故に、見苦と断集と
証滅と及び修道と、是の如き事皆無し
是の事無きを以っての故に、則ち四道果無く
四果有る無きが故に、得向の者も亦た無し
若し八賢聖無くんば、則ち僧宝有ること無く
四諦無きを以っての故に、亦た法宝も有ること無し
法僧宝無きを以って、亦た仏法も有ること無し
是の如く法を説かば、是れ則ち三宝を破すべし
(中略)
  復た次ぎに、
空法は因果を壊し、亦た罪福を壊す
亦た復た悉く、一切世俗の法を毀壊す

  答えて曰く、
汝は今実に、空と空の因縁とを知りて
空義を知るに及ぶ能わず、是の故に自ら悩を生ず
(中略)

諸仏は二諦に依りて、衆生の為に法を説きたもう
一には世俗諦を以って、二には第一義諦なり
若し人は二諦を分別すること能わずんば
則ち深き仏法に於いて、真実義を知らず
(中略)

若し俗諦に依らざれば、第一義を得ず
第一義を得ずんば、則ち涅槃を得ざらん
  第一義は皆言説に因る。言説は是れ世俗なり。是の故に若し世俗に依らずんば、第一義は則ち説くべからず。若し第一義を得ずんば、云何が涅槃に至るを得ん。是の故に諸法は無生なりと雖も而も二諦有り。

  復た次ぎに、
正しく空を観ずる能わずんば、鈍根は則ち自ら害す
呪術を善くせず、善く毒蛇を捉えざるが如し
  若し人鈍根にして善く空法を解せずんば、空に於いて失有りて而して邪見を生ず。毒蛇を捉らうるに利有らんとするも、善く捉らうる能わずんば、反って害せらるるが如し。又咒術もて所作有らんと欲するも、善く成ずる能わずんば、則ち還って自ら害するが如し。鈍根の空法を観ずるも亦た是の如し。

  復た次ぎに、
世尊は是の法の、甚深微妙にして
鈍根の及ぶ所に非ずと知る、是の故に説くことを欲せず
(中略)

汝は我れ空に著して、而も為に我れ過を生ずと謂うも
汝の今説く所の過は、空に於いては則ち有ること無し
(中略)

空の義有るを以っての故に、一切法は成ずるを得
若し空の義無くんば、一切は則ち成ぜず
(中略)

  復た次ぎに、
汝は今自ら過有りて、而も以って我れに迴向す
人の馬に乗る者は、自ら所乗を忘るるが如し
(中略)

若し汝諸法は、決定して性有りと見ば、
即ち為に諸法は、因無く亦た縁無しと見ん
(中略)

即ち為に因果、作作者を破し
亦た復た一切万物の、生滅を壊す
(中略)

衆因縁生の法は、我れ即ち是れを無なりと説き
亦た是れを仮名と為す、亦た是れ中道の義なり
未だ曽て一法も、因縁より生ぜざるは有らず
是の故に一切法は、是れ空ならざる者無し
(中略)

若し一切にして空ならずんば、則ち生滅有ること無し
是の如くんば則ち、聖諦の法有ること無し
(中略)

苦にして縁より生ぜずんば、云何が当に苦有るべき
無常は是れ苦の義なり、定性ならば無常無けん
若し苦にして定性有らば、何が故に集より生ぜん
是の故に集有ること無し、空の義を破するを以ての故に
(中略)

苦若し定性有らば、則ち応に滅有るべからず
汝は定性に著するが故に、即ち滅諦を破す
(中略)

  復た次ぎに、
(以下略)

  又、「巻2観行品の終」には、こう説く、――
  問うて曰く、是を破し、異を破すも、猶お空の在ること有らん。空は即ち是れ法なり。

  答えて曰く、
若し不空の法有らば、即ち応に空法有るべし
実に不空の法無し、何んが空法有るを得ん
  若し不空の法有らば、相因の故に応に空の法有るべし。而も上来種種の因縁もて不空の法を破せり。不空の法無きが故に則ち相待無し、相待無きが故に何んが空の法有らん。

  問うて曰く、汝が説かく、不空の法無きが故に空の法も亦た無しと。若し爾らば即ち是れ空を説くなり。但だ相待無きが故に応に執有るべからず。若し有対ならば応に相待有るべし。若し無対ならば則ち相待無し。相待無きが故に則ち無相なり。相無きが故に則ち執無し。是の如きを即ち空を説くと為す。

  答えて曰く、
大聖の空法を説くは、諸見を離れしめんが為の故なり
若し復た空有りと見ば、諸仏の化せざる所ならん
  大聖は六十二の諸見、及び無明、愛等の諸煩悩を破せんが為の故に空を説きたもう。若し人、空に於いて復た見を生ぜば、是の人は化すべからず。譬えば病有らば須く薬を服して治すべし。若し薬も復た病と為らば則ち治すべからざるが如し。火の薪より出づるに、水を以って滅すべきが如し。若し水より生ぜば、何をか用いて滅せん。空は是れ水にして、能く諸煩悩の火を滅するが如し。有る人は罪重くして、貪著の心深く、智慧鈍なるが故に空に於いても見を生じて、或は空有りと謂い、或は空無しと謂い、有無に因って還た煩悩を起して、若し空を以って此の人を化せば則ち、「我れは久しく是の空を知れり」と言わん。若し是の空を離るれば、則ち涅槃の道無し。経に「空無相無作の門を離れて、解脱を得」と説くが如きは、但だ言説有るのみ。


  是れ等の文を以って、論に謂う所の空とは何か、恐らくは多く理解できたものと思う。第一の文に拠れば空には種種の異名が有るが、但だ此には因縁の所生にして、定性無しと名づけ、其れを以って、一切法に定性無きが故に苦を滅することができ、苦を受けし者も涅槃に入ることを得と説き、空とは此の変化転変して住まらざる所の世間を指して、仮に名づけて空の如しと感受することを云うのみで、別に空法が有るわけではない。そしてそれは第二の文に依り、但しこの空の譬喩は、病を治す薬の如きものであるが故に、若しそれに著して分別しようとする者は諸仏の化せざる所であると知る。以上により、空とは、単なる否定に非ず、仮有の上に安住する者をして覚醒せしめんが為に、服ませる劇薬の譬喩であると知ることができる。亦た更に言えば、空には立場が無い、即ち無所依止の意味も有るのである。立場が無いとは、立場が無いという立場に立つことを意味するのではない、仏の所説を含めて一切の有為法は一処に住まらないが故に、有る一の立場に立って発言しながらも、その立場にいつまでも執著しないように見えることであり、特定の一立場に立っていないように見えることを云うのである。以下にそれを示すので、徐々に明らかになろう。

  ≪2. 解題≫
  「中論」は龍樹菩薩造、梵志青目釈、姚秦鳩摩羅什訳。又「中観論」、或は「正観論」とも称す。龍樹の「中論本頌」を解釈せしもの。本頌は総じて445偈、27品に分つ。即ち以下の如し、――
1 観因縁品 pratyaya-pariikSa
2 観去来品 gataagata-p.
3 観六情品 cakSur-aadiindriya-p.     
4 観五陰品 skandha-p.
5 観六種品 dhaatu-p.
6 観染染者品     raaga-raktaa-p.
7 観三相品 saMskRta-p.
8 観作作者品 karma-kaaraka-p.
9 観本住品 puurva-p.
10 観燃可燃品 agniindhana-p.
11 観本際品 puurvaapara-koTi-p.
12 観苦品 duHkha-p.
13 観行品 saMskaara-p.
14 観合品 SaMsarga-p.
15 観有無品 svabhaava-p.
16 観縛解品 bandhana-mokSa-p.
17 観業品 karma-phala-p.
18 観法品 aatma-p.
19 観時品 kaala-p.
20 観因果品 saamagrii-p.
21 観成壊品 saMbhava-vibhava
22 観如来品 tathaagata-p.
23 観顛倒品 viparyaasa-p.
24 観四諦品 aarya-satya-p.
25 観涅槃品 nirvaaNa-p.
26 観十二因縁品 dvaadazaaGga-p.
27 観邪見品 dRSTi-p.

  此の中、「中論」の異名とされる、「中観論」乃至「正観論」は、「中としての立場、或は正としての立場から観て論ずる」の意であり、正しくない。又「中論」は龍樹造の偈頌と、地の文である青目の注釈とに分けて見られることが多いが、若し龍樹作の偈頌は尊重すべきであるが、青目の注釈は無視してよいとすれば、恐らく甚だしき誤解と言うべきである。上に載せた「巻4四諦品」に見るが如く、偈頌は問題の提起と、それに対する回答とで構成されているが、「問うて曰く」と、「答えて曰く」とが偈文の何処にも見当たらないのである。若し「問い」と、「答え」とを付け替えたなら、「中論」の主張する所を逆に為すことも容易だと知らなくてはならない。又単独の「中論頌」は漢訳されていないこと、「中論」と同時代の別の釈論の漢訳が無いこと等を考慮すれば、明確な証拠無しとしながらも、本の「中論頌」は初より存在せず、中観派清辯の「般若灯論」の中の偈頌等も皆此の「中論」より出たと見るべきである。この問題を解決せずして、徒に青目の釈を除いて、偈文のみの「中論」を見るべきでない。長行分の思想には「大智度論」等に現われる般若波羅蜜の不住法の思想が見てとれるだけ、寧ろ長行分は龍樹の思想を敷衍したものと為すべきである。尚お「般若灯論」にも若干の我田引水の跡らしき相違が見られるが、その解明は任としない。

  では何故に、「中論頌」は存在しないのか?将来明確な回答が得られそうにない今、試みに大胆な仮説を立ててみよう、――(仮説1)青目は「百論」の提婆と同じく、龍樹の弟子であり、「中論頌」は龍樹より青目のみに与えられた卒論のテーマの如きもの、「中論」はその回答である。(仮説2)青目は龍樹の弟子であり、師の意を承けて「中論」を造った。(仮説3)青目は龍樹自身であり、未詳の理由を以って仮に青目と名づけて「中論」を造った。以上。

  ≪3. 戯論≫
  「中論」を読むと、多くの人は恐らく期待を裏切られた感を懐くだろう、「これは詭弁ではないか!」と。理を論ずるよりは寧ろ辯を弄するが如き、是れが正しく「中論」なのである。

  「巻1因縁品」に見てみよう、――
  問うて曰く、阿毘曇人の言わく、「諸法は四縁より生ず」と。云何が不生と言わん。何をか四縁と謂う、――
因縁、次第縁、縁縁、増上縁の
四縁は諸法を生ず、更に第五の縁無し
  一切の有らゆる縁は皆四縁に摂在し、是の四縁を以って万物の生ずるを得。因縁は一切の有為法に名づけ、次第縁は過去現在の阿羅漢最後の心心数法を除いて、余の過去現在の心心数法なり。縁縁、増上縁は一切法なり。

  答えて曰く、
果は縁より生ずと為すや、非縁より生ずと為すや
是の縁に果有りと為すや、是の縁に果無しと為すや
  若し果有りと謂わば、是の果は縁より生ずと為すや、非縁より生ずと為すや。若し縁有りと謂わば、是の縁は果有りと為すや、果無しと為すや。二は倶に然らず。

  何を以っての故に、――
是の法因り果を生ず、是の法を名づけて縁と為す、
若し是の果未だ生ぜざれば、云何が非縁と名づけざる。
  諸縁は決定無し。何を以っての故に、若し果未だ生ぜざれば、是の時を名づけて縁と為さず、但だ眼に縁より生ずるを見るが故に、之を名づけて縁と為すのみ。縁の成ずるは果に由る、果は後、縁は先なるを以っての故に。若し未だ果有らざれば、何んが名づけて縁と為すことを得ん。瓶は水土和合を以っての故に、瓶の生有るが如し。瓶の縁ずるを見て、水土等は是れ瓶の縁なりと知るも、若し瓶未だ生ぜざる時は、何を以ってか水土等を名づけて非縁と為さざる。是の故に果は縁より生ぜず、縁すら尚お生ぜず、何に況んや、非縁をや。

  復た次ぎに、
果は先に縁中に於いて、有無は倶に不可なり
先に無くんば誰に縁ぜん、先に有らば何んが縁を用いん
  縁中に先に果有るに非ず、果無きに非ず。若し先に果有らば、名づけて縁と為さず、果先に有るが故に。若し先に果無くんば、亦た名づけて縁と為さず、余の物を生ぜざるが故に。


  又「巻1去来品」を見てみよう、――
  問うて曰く、世間は眼に、三時に作有るを見る、已去、未去、去時なり。作有るを以っての故に、当に知るべし、諸法有りと。

  答えて曰く、
已去に去有ること無く、未去にも亦た去無し
已去未去を離れて、去時にも亦た去無し
  已去に去有ること無し、已去の故に。若し去を離れて、去業有らば、是の事は然らず。未去も亦た去無し、未だ去法有らざるが故に。去時を半去半未去と名づく、已去未去を離れざるが故に。

  問うて曰く、
動処なれば則ち去有り、此の中に去時有りて
已去未去に非ず、是の故に去時に去る
  作業の有る処に随いて、是の中に応に去有るべし。眼に見る、去時の中には作業有り、已去の中には作業已に滅し、未去の中には未だ作業有らざるを。是の故に、当に知るべし、去時に去有りと。

  答えて曰く、
云何が去時に於いて、而も当に去法有るべき
若し去法を離るれば、去時は得べからず
  去時に去法有らば、是の事は然らず。何を以っての故に、去法を離るれば、去時を得べからざればなり。若し去法を離れて去時有らば、応に去時の中に去有るべし、器の中に果の有るが如く。

  復た次ぎに、
若し去時に去ると言わば、是の人は則ち咎有らん
去を離れて去時有らば、去時は独り去るが故に
  若し已去、未去の中に去無く、去時に実に去有りと謂わば、是の人は則ち咎有らん。若し去法を離れて去時有れば、則ち相因待せず。何を以っての故に、若し去時に去有りと説かば、是れは則ち二と為せばなり。而も実に爾らず。是の故に「去を離れて去時有り」と言うを得ず。

  復た次ぎに、
若し去時に去有らば、則ち二種の去有り
一には謂わく去時と為す、二には謂わく去時の去なり
  若し「去時に去有り」と謂わば、是れ則ち過有らん。謂わゆる二法有ればなり、一には去に因りて去時有り、二には去時の中に去有り。

  問うて曰く、若し二去有らば何の咎か有らん。
  答えて曰く、
若し二去法有らば、則ち二去者有らん
去者を離るるを以って、去法は得べからず
  若し二去法有らば、則ち二去者有らん。何を以っての故に、去法に因りて去者有るが故に。一人に二去、二去者有れば、此れは則ち然らず。是の故に去時にも亦た去無し。


  「論巻1」より「観因縁品第一」と、「観去来品第二」とを見たのであるが、以下「巻4観邪見品第二十七」に至るまで、是れに類似した論法が列なり、仏教的定説、或は経論に説く所を片端から論破するのであるが、それが理を論じて論破するに非ざるが如く、但だ詭辯を弄して論破するが如きが故に、是の中に何かを見出だそうとする者は途方に暮れざるをえない。「大智度論」には明確な論旨が有り、それを人に伝えることを目的とする為に人に理解されやすいよう説かれているが、「中論」はそうでなく、人に教示するよりは、寧ろ但だ人をして困惑せしむることを目的とするが如きである。では本当に人を迷惑する為に説かれたのか?いや無論そうではない。次を見ればその答えは自ずと明確であろう。

  「論巻1五陰品第四」に、こう説く、――
  今、造論者は空義を讃美せんと欲するが故に偈に説かく、――
若し人に問者有らんに、空を離れて答えんと欲せば
是れ則ち答を成ぜず、倶に彼の疑に同ぜん
若し人の問難する有りて、空を離れて其の過を説かば
是れ問難を成ぜず、倶に彼の疑に同ぜん

  若し人は論議の時、各執する所有り、空義を離れて問答せば、皆問答を成ぜずして、倶に亦た疑を同じくせん。人の、「瓶は是れ無常なり」と言うが如し。問者の言わく、「何を以っての故に、無常なる」と。答えて言わく、「無常の因より生ずるが故に」と。此れを答と名づけず。何を以っての故に因縁の中にも亦た疑いて、「常と為すや、無常と為すや」を知らざればなり。是れを彼の疑う所に同ずと名づく。問者は、若し其の過を説かんと欲するに、空に依らずして、諸法の無常を説かば、則ち問難と名づけず。何を以っての故に、汝無常に因りて我が常を破し、我れも亦た常に因りて汝が無常を破す。若し実に無常ならば、則ち業報無けん。眼耳等の諸法も念念に滅し、亦た分別有ること無けん、と。是の如きの過有りて、皆問難を成ぜず、彼の疑う所を同じうす。若し空に依りて常を破すれば、則ち過有ること無し。何を以っての故に、此の人は空相を取らざるが故に。是の故に、若し問答せんと欲せば、尚お応に空法に依るべし。何に況んや離苦、寂滅の相を求めんと欲する者にをや。


  論者と釈者は、此れを以って、「人は各其の信ずる所を異にするが故に両論並立すれば、正もなく、邪もなく、互いに正邪を諍い、諍論して窮まることなく、破僧事は必然なのである」と説く。あなたが「諸法は無常だ」と言ったから、わたしは「常だ」と説こう、若し実に無常ならば、則ち業報は無いはずだ!又眼等の諸法も念念に滅するのだから、分別するはずがない!と。
  仏は慳貪の心を除くためには、来世の困乏を説いて、来世の生有りと為し、身を愛する者のためには身心の無常を説いて、無性の故に空なりとされたのだが、それは決して来世に執するのでも、空に著するのでもなく、立場(主義)と、教条(ドグマ)とを廃して、但だ三歳の嬰児にすら理解できる、与えられれば嬉しい、打たれれば悲しいの単純、且つ普遍的止悪修善のみを旨とされ、小乗には十不善、十善を説き、大乗には六波羅蜜を説かれたのであるが、「巻2燃可燃品」に、「薩婆多部の衆の諸法は各各相有り、是れ善、是れ不善、是れ無記、是れ有漏、無漏、是れ有為、無為等の別異有りと説くが如し。是の如き等の人は、諸法寂滅の相を得ず。仏語を以って種種の戯論を作す」と云うが如き、これが現状である。此に至って即ち「中論」の目的は明確であろう、「諍論してまで、己が主張を通して、何か得る所は有るのか?」と。

  戯論とは両論並立するに及んで、互いに正邪を諍う無意義の論議を云う。「大智度論巻11」等に依れば、かつて印度には論議師という者がいて、互いに論を闘わすことを業とし、人々に多大の娯楽を提供していた。

  「大智度論巻1」より引用しよう、――
  復た次ぎに、長爪梵志等の大論議師をして、仏法の中に於いて信を生ぜしめんと欲するが故に、是の摩訶般若波羅蜜経を説きたもう。梵志有り号して長爪と名づく。更に先尼婆蹉衢多羅と名づくる有り。更に薩遮迦摩揵提等と名づくる有り。是れ等は閻浮提の大論議師の輩なり。言わく、「一切の論は破すべし。一切の語は壊すべし。一切の執は転ずべし。故に、実法の信ずべく、恭敬すべきものの有ること無し」と。舎利弗本末経の中に説くが如し。舎利弗の舅摩訶倶郗羅は、姉の舎利と論議して如かず。倶郗羅思惟して念言すらく、「姉の力に非ず、必ず智人を懐まん。言を母の口に寄せて未だ生ぜざるに乃ち爾なり。生じて長大に及ばば、当に之を如何せん」と。思惟し已りて、憍慢の心を生じ、広く論議せんが為の故に、出家して梵志と作り、南天竺国に入り、始めて経書を読む。諸人問うて言わく、「汝、何の求めんことを志し、何の経を学習する」と。長爪答えて言わく、「十八種の大経、尽く之を読まんと欲す」と。諸人語りて言わく、「汝寿命を尽くすとも、猶お一をも知る能わず、何に況んや能く尽くさんをや」と。長爪自ら念ずらく、「昔は憍慢を作して、姉の為に勝たれ、今復た此の諸人に軽辱せらる」と。是の二事の為の故に、自ら誓を作して言わく、「我れ爪を剪らずして、要ず十八種の軽を読み尽くさん」と。人、爪の長きを見るに因り号して長爪梵志と為す。是の人は種種の経書智慧力を以って、種種に是れは法、是れは非法、是れは応、是れは不応、是れは実、是れは不実、是れは有、是れは無なりと譏刺して、他を破し論議すること、譬えば大力の狂象の唐突蹴踏して、能く制する者の無きが如し。是の如く長爪梵志は論議の力を以って諸論師を摧伏し已り、還りて摩伽陀国、王舎城の那羅聚落に至り、本生の処に至りて、人に問うて曰わく、「我が姉の生める子は、今何れの処にか在るや」と。有る人の語りて言わく、「汝が姉の子は、適生まるること八歳にして、一切の経書を読み尽くし、年十六に至り、論議一切の人に勝る。釈種の道人にして、姓瞿曇なるもの有り、与に弟子と作る」と。長爪之を聞き、即ち憍慢を起して不信の心を生じ、是の言を作さく、「我が姉の子の如きは、聡明なること是の如し。彼れは何の術を以ってか誘惑し、頭を剃りて弟子と作す」と。是の語を説き已りて直ちに仏所に向う。爾の時、舎利弗は初めて受戒して半月、仏辺に侍立して、扇を以って仏を扇げり。長爪梵志は仏に見え、問訊し訖りて一面に坐し、是の念を作さく、「一切の論を破すべく、一切の語は壊すべく、一切の執は転ずべし。是の中に何者か是れ諸法の実相、何者か是れ第一義、何者の性、何者の相の顛倒せざる」と。是の如く思惟すること、譬えば、大海水の中に、其の崖底を尽くさんと欲するが如し。之を求むること既に久しけれども、一法として実に以って心に入るべき者を得ず。「彼れは何なる論議の道を以ってか、而も我が姉の子を得たる」と、是の思惟を作し已りて、仏に語りて言わく、「瞿曇、我れは一切の法を受けず」と。仏の長爪に問わく、「汝は一切の法を受けずと。是の見を受くるや不や。仏に質す所の義は、汝已に邪見の毒を飲む。今是の毒気を出して一切法を受けずと言う。是の見を汝は受くるや不や」と。爾の時、長爪梵志は、好馬の鞭影を見て即ち覚り、便ち正道に著くが如く、長爪梵志も亦た是の如く、仏語の鞭影の心に入るを得て、即ち貢高を棄捐して慚愧低頭し、是の如く思惟すらく、「仏は我れを置くこと、二処負門の中に著く。若し我れ是の見を、我れ受くと説かば、是の負処の門は麁なるが故に多くの人知らん。云何が自ら一切法は受けずと言う。今是の見を受く、是れは現前の妄語なり。是の麁なる負処の門は多くの人の知る所なり。第二の負処の門は細なり、我れ之を受けんと欲す。多くの人の知らざるを以っての故に」と。是の念を作し已りて、仏に答えて言わく、「瞿曇、一切法を受けず。是の見も亦た受けず」と。仏の梵志に告げたまわく、「汝は一切の法を受けず、是の見も亦た受けずんば、則ち受くる所無く、衆人と異なること無し。何んが自高を用って憍慢を生ずること是の如くなる」と。長爪梵志は答え得ること能わず、自ら負処に堕すを知りて、即ち仏の一切智の中に恭敬を起して信心を生じ、自ら思惟すらく、「我れ負処に堕す。世尊は我が負を彰さず、是非を言わず、以って意と為さず。仏の心は柔軟なり、第一の清浄なり、一切の語論の処滅して、大いに甚だ深き法を得。是れ恭敬すべき処にして、心浄第一なり」と。仏は法を説いて、其の邪見を除きたもうが故に、即ち坐処に於いて、深を遠ざけ、垢を離るるを得、諸法の中に法眼浄を得、時に舎利弗は、是の語を聞いて、阿羅漢を得たり。是の長爪梵志は出家して沙門と作り、大力の阿羅漢を得たり。若し長爪梵志、般若波羅蜜の気分を聞いて、四句を離れずんば、第一義相応の法は、小信すら尚お得ず、何に況んや出家して道果を得るをや。仏は是の如き等の大論議師、利根の人を導引せんと欲するが故に、是の般若波羅蜜経を説きたまえり。


  是に論議師等の輩が、「一切の論は破すべし。一切の語は壊すべし。一切の執は転ずべし。故に、実法の信ずべく、恭敬すべきものの有ること無し」と云うが如く、両論並立すれば実に互いに破ることは容易である。諍論すれば互いに傷つけ合って得る所は何も無い。中には一切の信ずべき所を失って虚無に堕ちるものまであるのである。

  是の故に「巻4観如来品」には、こう説く、――
  問うて曰く、汝は受も空、受者も空なりと謂う。則ち定んで空有りや。
  答えて曰く、然らず。何を以っての故に、――
空は則ち説くべからず、非空も説くべからず
共も不共も説くべからず、但だ仮名を以って説く

  諸法の空は則ち応に説くべからず。諸法の不空も亦た応に説くべからず。諸法の空にして不空なるも亦た応に説くべからず。非空非不空も亦た応に説くべからず。何を以っての故に、但だ相違を破するが故に仮名を以って説く。是の如く正観し思惟すれば、諸法の実相の中に応に諸難を以って難と為すべからず。

  何を以っての故に、――
寂滅相の中に、常無常等の四無く
寂滅相の中に、辺無辺等の四無し

  諸法の実相は是の如く微妙寂滅なり。但だ過去世に因りて四種の邪見、世間は有常、世間は無常、世間は常無常、世間は非常非無常を起す。寂滅の中には尽く無し。何を以っての故に、諸法の実相は畢竟清浄にして取るべからず。空すら尚お受けず、何に況んや四種の見有るをや。四種の見は皆受に因りて生ず。諸法の実相には因る所の受無し。四種の見は皆自見を以って貴しと為し、他見を賤しと為す。諸法の実相には此彼有ること無く、是の故に寂滅の中に四種の見無しと説く。過去世に因りて四種の見有るが如く、未来世に因りて四種の見有るも亦た是の如し。世間は有辺、世間は無辺、世間は有辺無辺、世間は非有辺非無辺と。

  問うて曰く、若し是の如く如来を破せば、則ち如来無けん。
  答えて曰く、
邪見深厚なる者は、則ち如来無しと説く
如来は寂滅相なるを、有と分別するも亦た非なり

  邪見に二種有り、一には世間の楽を破す、二には涅槃の道を破す。世間の楽を破すは、是れ麁邪見なり。罪無く福無く如来等の賢聖無し言う。是の邪見を起せば善を捨てて悪を為す。則ち世間の楽を破す。涅槃の道を破すとは、我に貪著して、有無を分別し、善を起して悪を滅す。善を起すが故に世間の楽を得るも、有無を分別するが故に涅槃を得ず。是の故に若し如来無しと言わば、是れ深厚の邪見にして、乃ち世間の楽を失す。何に況んや涅槃をや。若し如来有りと言うも、亦た是れ邪見なり。何を以っての故に、如来は寂滅相なるに、而も種種に分別するが故に。是の故に寂滅相の中に如来有りと分別するも亦た非と為す。

是の如き性空の中には、思惟すれば亦た不可なり
如来滅度の後、有無を分別せんや

  諸法の実相は、性空なるが故に、応に如来の滅後に於いて、若しは有、若しは無、若しは有無を思惟すべからず。如来は本より已来畢竟空なり。何に況んや滅後をや。

如来は戯論を過ぐ、而して人は戯論を生ず
戯論は慧眼を破し、是れは皆仏を見ず

  戯論とは憶念して相を取り、此彼を分別して仏の滅、不滅を言うに名づく。是の人は戯論の為に慧眼を覆わるるが故に、如来の法身を見る能わず。

  此の如来品の中、初中後に思惟するに如来の定性は得べからず。是の故に偈に説く、――
如来の有らゆる性は、即ち是れ世間の性なり
如来に性有ること無く、世間も亦た性無し

  此の品の中に思惟し推求するに、如来の性は即ち是れ一切世間の性なり。

  問うて曰く、何等か是れ如来の性なる。
  答えて曰く、如来は性有ること無く、世間に性無きに同じ。


  以上、有る立場(主義)に立って諍論することの無意義を理解できたものとする。「中論」に論ずる空は、この諍論の空しさを言うのである。但し注意しなくてはならないが、「中論」は必ずしも都ての言説を否定するものではない。老婆心に従い前引「巻4四諦品」より、再載することにしよう、――
  問うて曰く、四顛倒を破して、四諦に通達すれば四沙門果を得。
若し一切皆空ならば、生も無く亦た滅も無く
是の如くんば則ち、四聖諦の法有ること無し
四諦無きを以っての故に、見苦と断集と
証滅と及び修道と、是の如き事皆無し
是の事無きを以っての故に、則ち四道果無く
四果有る無きが故に、得向の者も亦た無し
若し八賢聖無くんば、則ち僧宝有ること無く
四諦無きを以っての故に、亦た法宝も有ること無し
法僧宝無きを以って、亦た仏法も有ること無し
是の如く法を説かば、是れ則ち三宝を破すべし
(中略)

  復た次ぎに、
空法は因果を壊し、亦た罪福を壊す
亦た復た悉く、一切世俗の法を毀壊す

  答えて曰く、
汝は今実に、空と空の因縁とを知りて
空義を知るに及ぶ能わず、是の故に自ら悩を生ず
(中略)

諸仏は二諦に依りて、衆生の為に法を説きたもう
一には世俗諦を以って、二には第一義諦なり
若し人は二諦を分別すること能わずんば
則ち深き仏法に於いて、真実義を知らず
(中略)

若し俗諦に依らざれば、第一義を得ず
第一義を得ずんば、則ち涅槃を得ざらん

  第一義は皆言説に因る。言説は是れ世俗なり。是の故に若し世俗に依らずんば、第一義は則ち説くべからず。若し第一義を得ずんば、云何が涅槃に至るを得ん。是の故に諸法は無生なりと雖も而も二諦有り。


  第一義諦の重要なるが如く、世諦の言説も亦た重要である。諍論に通ずる戯論をこそ否定すれ、都ての言説、論理を否定するものではない。況して三蔵中の経論を否定するものではない。主義を立て、教条を振りかざし、それに執して諍論することを否定するのである。

  ≪4. 龍樹≫
  梵語那伽閼刺樹那naagaarjunaの訳。又那伽夷離淳那、那伽曷樹那、或は那伽阿順那に作り、龍猛、或は龍勝と訳す。南印度の人、婆羅門種なり。「龍樹菩薩伝」に依れば、生まれて天聴奇悟、乳餔の中に在りて諸梵志の四吠陀を誦するを聞き、其の文を諷し義を領す。弱冠にして天文地理を初め、諸の道術悉く綜習せざるなし。時に契友三人と共に青薬を以って身を隠し、王宮に入りて美人を侵陵す。事露れて三人は斬られたるも、師は纔かに身を以って免れ、仍りて欲は苦の本たるを悟り、山に入り一仏塔に詣でて出家受戒し、九十日にして三蔵を誦し、更に異経を求むるも得る所なし。遂に雪山に入り、塔中の一老比丘より大乗経を承け、其の実義を知るも未だ通利せず。既にして外道論師の義宗を摧き、自ら邪慢の心を起し、仏経尚お未だ尽くさざるものありとなし、新戒を立てて新衣を著け、独り静処の水精房中に住す。時に大龍菩薩あり、見て之を愍み、師を接して海に入り、宮殿中に於いて七宝蔵を開き、方等深奥の経典、無量の妙法を授く。師受けて之を読むこと九十日にして通解し、尋いで南印度に還り、大いに仏法を弘め、外道を摧伏し、広く摩訶衍を明して優婆提舎十万偈を作り、又荘厳仏道論、大慈方便論各五千偈、中論五百偈、無畏論十万偈を造り、大乗教をして大いに印度に行わしむ。時に一婆羅門あり、国王に請い、政廳殿に於いて師と呪術を諍い、遂に屈伏せられて其の徳に帰す。又当時南印度王は邪道を信用し、沙門釈子は一も見ることを得ず。師乃ち王を度せんと欲し、其の募に応じて王家の宿衛となり、王と論議して遂に法化に伏せしめたりと云う。但し「提婆菩薩伝」には亦た之を提婆の所為となせり、云々。是のように龍樹に関しては神話的伝説以上のことは何も分かっていない。但だ「大智度論」、「十住毘婆沙論」、「中論頌」の造論者と為せば、此等三論の間に大乗、即ち般若波羅蜜という一本の筋が通っていることが見て取れる。恐らく西暦紀元以後、羅什以前、印度に於いて大いに活躍した大乗の信奉者であろう。

  ≪5. 青目≫
  是の人の経歴も何も分かっていない。恐らく龍樹と同時代、乃至羅什已前の人で龍樹、或は弟子の提婆の門下であろう。「望月仏教大辞典」に依れば、「梵語賓伽羅の訳。又賓羅伽、或は賓頭廬伽に作る。印度の人にして、西暦四世紀頃出世し、龍樹の中論を釈せし論師なり。僧叡の「中論序」に、「今出す所は、是れ天竺の梵志名は賓伽羅、秦に青目と言うものの釈する所なり。其の人、深法を信解すと雖も而も辞雅中ならず。其の中、乖闕煩重なる者は法師皆裁して之を裨け、経に於いて之を通じて理尽く。文或は左右し未だ善を尽くさざるなり」と云い、吉蔵の「中観論疏第一本序釈」に之を釈し、「青目は天親に非ず。付法蔵に云わく、婆藪槃豆は善く一切修多羅の義を解すと。而も青目は斯の論を注するに其の乖失あるが故に非なることを知るなり。其の中、乖闕煩重とは、略して長行に偈を釈するに凡そ四失あることを明す。一には長行釈は偈と意乖く。二に偈を釈すること足らず。而も秤して闕と為す。三に少言にして以って文を通ずべきに、而も長行は重言に在り、煩なり。四に前章に已に明し、後更に説くことを須う。故に秤して重と為す。曇影法師の中論疏には四処に青目の失を敍す。一に因縁品の四縁立偈を此の偈は問たりと云う。蓋し是れ青目、巧処を傷ぶるのみ。二に四縁を釈するに広略あり、影師云わく、蓋し是れ青目、類を取るに勇に、文を尋ぬるに劣ると。三に釈業品の偈に云わく、空なりと雖も断ぜずと。青目は空は断ずべきなしと云う。是れ非釈なり。四に邪見品を釈する長行に云わく、此の中の紛紜は復た彼れをして閙を助くと為すと。復た龍樹自ら偈ありて之を釈すと。今の文に法師裁して之を裨(おぎな)うと云うは、法師は即ち羅什なり。其の煩重を裁し其の乖闕を裨うなり」と云えり。是れ蓋し師の中論釈には幾多の不備あることを指摘せるなり。其の出世年代に関し、「大乗玄論巻2」に、「青目は千年の中に於いて出世し中論を註す」と云えり。但し師の中論釈は既に姚秦鳩摩羅什に依りて訳出せられたるものなれば、其の出世が西暦四世紀頃に在るは明なりというべし。又近時チャンドラ・ダースChandra Daasは、青目は梵語niila-netraの翻名なりとし、提婆の双頬に眼球大の青痣ありしが故に、提婆を呼んで青目と名づけたるものなりと云い、又南條文雄氏は高麗本中論僧叡序に青目の原名を賓伽羅に作れるに依り、之を梵語piGgalanetraなりと推定し、同じく提婆の異名となせり。但しワレザーM.Walleserは西蔵伝に此等の名を伝えざるに依り、「出三蔵記集巻11」所載の中論僧叡序に従って青目の梵名を賓羅伽vimalaakSaとなし、之を「十誦律毘尼序(即ち同律巻60、61)」の翻訳者たる卑摩羅叉なるべしと推定せり。されど青目を以って卑摩羅叉若しくは提婆の別名となすは恐らく可ならざるべし。又唐慧賾の「般若灯論釈序」には、「此の土先に中論四巻あり、本偈大いに同じ。賓頭盧伽其の注釈を為す」と云い、青目の梵名を賓頭盧伽となせるも、未だ其の原語を詳にせず。又「ターラナータ印度仏教史」、「翻訳名義集巻2」等に出づ」云々と、是のように云うも、僧叡の云う「乖闕煩重」には大いに疑う所あり。僧叡は羅什と倶に訳業に当たれる者であるから、若し言いたいことがあれば言える立場に在り、既に羅什の訳業中に反映されていなくてはならない。故に若し此の「中論」中に其れを見れば、応に僻見と言うべきである。

  抑も僧叡は「大智度論序」も著わすほど、皇帝の憶えめでたき人ながら、甚だ油断ならない人であり、羅什には余り重んじられなかったようである。同序に、「論は略して本十万偈あり、偈に三十二字あり、併せて三百二十万言あり。梵(印度)夏(中華)既に乖き、又煩簡の異あり。三分して二を除き、此の百巻を得たり。(中略)梵文の委曲なること皆初品の如し。法師(鳩摩羅什)は秦人簡を好むを以っての故に裁して之を略す。若し備さに其の文を訳せば、将に千有余巻に近からんとす」と云い、又同後記に、「論は初品三十四巻に一品を解釈す。是れ全く論の具本なり。二品已下は法師之を略し、其の足るを取りて以って文意を開釈するのみ。復た尽く之を出さば将に此れに十倍せんとす」と云うが、曽て僧叡は羅什に、「何故に初品のみ三十四巻有り、後の八十九品は総じて六十六巻に過ぎないのか?」と尋ねたところ、分かりきったことを尋ねる僧叡に対し羅什が冗談を以って、「支那人は皆簡略が好きだから、無駄を省いて略したが、若し尽く之を訳せば、此の十倍にはなったことだろう」と答えたのである。何故に是れが冗談と知れるのか?「大智度論」が初品のみ詳しいのは、初出の述語を丁寧に説き明し、且つ初品には全体の要旨が説かれているが故に、特に委曲を尽くしたに過ぎないのである。第二品已後を簡略にするのは寧ろ当然の事ではあるまいか?将して言葉に堪能であり、且つ信頼を得た者が、是のような冗談を真に受けるものだろうか?是れを以って之を推すに、「中論」を「乖闕煩重」と非難することは、自ら理解に及ばなかったと自白しているようなものである。恐らく皇帝の機嫌取りに忙しく、助訳に尽力することも、大乗の深奥を極めることもなかったのであろう。

  此の中、吉蔵、曇影の難ずる「一に四縁立偈を此の偈は問たりと云う。蓋し是れ青目、巧処を傷ぶるのみ」とは、「巻1因縁品」に説く、「因縁次第縁、縁縁増上縁、四縁生諸法、更無第五縁」であるが、是れは「阿毘曇」にも、「摩訶般若波羅蜜経」にも説く所であるが故に、問者をして「是れはどうだ!小乗大乗通じて説く所であるぞ!此れならば実であろう!」と問わしめたのみであり、問いであろうが、答えであろうが難ずるに当たらず、巧処を傷ぶることにはならない。次に「二に四縁を釈するに広略あり、影師の云わく、蓋し是れ青目、類を取るに勇に、文を尋ぬるに劣ると。」とは、「因縁は一切の有為法に名づく。次第縁は過去現在の阿羅漢最後の心心数法を除いて、余の過去現在の心心数法なり。縁縁、増上縁は一切法なり」であるが、四縁を縁の一字に集約すれば、縁の果を生ぜざるを説けば足る、故に広略有りとしても難ずるに当たらない。次に「三に釈業品の偈に云わく、空なりと雖も断ぜずと。青目は空は断ずべきなしと云う。此れ非釈なり」と云うは、「巻3業品」に説く、「問うて曰く、若し爾らば則ち業と果報と無けん。答えて曰く、雖空亦不断、雖有亦不常、業果報不失、是名仏所説 此の論の所説の義は断常を離る。何を以っての故に、業は畢竟空にして寂滅の相なり。自性は有を離る、何の法をか大いに断ずべき、何の法をか失すべき。」であるが、業は畢竟空なりと雖も、亦た断ぜずとは、論者の謂であり、空ならば法無し、何なる法が有ってか、大いに断ずべきと云うのが青目の謂である。是れ両者の謂に相違ありと雖も、意は同じである。故に、此の非難は的外れであり、且つ仏説に悖る。何を以っての故に、因果は断ぜずとは仏の所説であるが故に。蓋し此に業を作り、彼に果を受くと雖も、大乗の行者、空中に住すれば、一切は平等にして差別無く、唯一の勝境に住す。則ち此に有る衆生悪を作せば、我が事の如く愧じ、彼に罪を受くる衆生有れば、我が事の如く心を傷めるのである。故に唯一の勝境のみ残りて、一切の衆生は消え失せる。衆生とは作業の者に名づく。作業の者無ければ業無し、何なる業法をか断ずべき。次に「四に邪見品を釈する長行に云わく、此の中の紛紜は復た彼れをして閙を助く。復た龍樹自ら偈ありて之を釈す。」とは、紛紜も閙もごたごた乱れたさまを云うのであるが、一品都てを云うのであれば範囲が広すぎて分からない。難者の力が足らず、単にそう感じただけであろう。煩、重に関しては是れも単に取り方の問題である。蓋し、吉蔵は大いに疑うべきである。三論の創唱者のようであるが、「三論玄義」に、「一切の経論には凡そ三種有り、一には但だ偈論のみ、即ち是れ中論なり。二には但だ長行論のみ、謂わゆる百論なり。三には亦長行亦偈論、即ち十二門論なり」と云うように、「中論」の偈文のみを重んずる中観派の人であるが故に、所詮大乗の深奥に至り得た人ではないのである。又三論中の「十二門論」は龍樹造、羅什訳ながら、龍樹の著作とは認められない。何を以っての故に、「十二門論」は因縁、有果無果、縁、相、有相無相、一異、有無、性、因果、作、三時、生の十二門に空を説くものであるが、「中論」の因縁、去来、六情、五陰、六種、染染者、三相、作作者、本住、燃可燃、本際、苦、行、合、有無、縛解、業、法、時、因果、成壊、如来、顛倒、四諦、涅槃、十二因縁、邪見の二十七品と比較すれば観念的な抽象論に傾き、燃可燃のような明らかなる詭辯が無いこと、又「中論」に説く、「不生亦不滅、不常亦不断、不一亦不異、不来亦不出、能説是因縁、善滅諸戯論、我稽首礼仏、諸説中第一」のように、諸の戯論を滅するの意志が無く、戯論の語すら無いこと、即ち「中論」には34回出現し、「大智度論」に至っては244回も頻出するのであるから、「十二門論」は空を説きながらも、戯論を滅することが目的ではないと知れるのであるが、この二事に由って凡その所は推測できよう。では何の為に空を説くのか?五陰、六情、六種(地水火風空識)、本住(神我)を説かないことから、まさか外道の執を破ることではあるまい。恐らくは観念的空を求める中観派が龍樹の名を騙って権威を求めたものなのであろう。この辺、十分注意すべきである。又、「十二門論巻1観因縁品」には、「説いて曰わく、今当に略して摩訶衍の義を解すべし。問うて曰わく、摩訶衍を解せば、何の義利か有る。答えて曰わく、摩訶衍は是れ十方三世諸仏の甚深の法蔵にして、大功徳の利根の者の為に説く。末世の衆生は薄福鈍根にして、経文を尋ぬと雖も通達する能わず。我れ此等を愍み開悟せしめんと欲し、又如来の無上大法を光闡せんと欲す。是の故に略して摩訶衍の義を解す。(中略)又般若経中に仏自ら説きたもうが如し、摩訶衍の義は無量無辺なりと。是の因縁を以っての故に名づけて大と為す。大分の深義は謂わゆる空なり。若し能く是の義を通達すれば即ち大乗に通達し、六波羅蜜を具足して障礙する所無し。是の故に、我れ今但だ空を解釈す。空を解釈するには、当に十二門を以って、空の義に入るべし。」と云うが、般若経中に敷演する所の般若波羅蜜の精神とは、但だ「自らを後とし、他を以って先と為す」の精神に過ぎず、「十二門論」に説くような空に係る戯論などは到底容るる能わざる所であると知らなければならない。此の解題の冒頭に掲げた所であるが、再度載せることにしよう、即ち「論観因縁品」中に説かく、「仏滅度の後、後五百歳の像法中には人根転鈍にして、深く諸法に著し、十二因縁、五陰、十二入、十八界等の決定相を求め、仏意を知らずして但だ文字のみに著し、大乗法中に畢竟空と説くを聞いて、何の因縁の故に空なるやを知らずして、即ち疑見を生ずらく、若し都て畢竟空ならば云何が罪福報応等有るを分別せんやと。是の如くんば則ち世諦、第一義諦無し、是の空相を取りて貪著を起し、畢竟空中に於いて種種の過を生ず。龍樹菩薩、是れ等の為の故に此の中論を造る。」と。「十二門論」の如きも亦た、是の如き空相を取るものであるが故に、その差違は甚だ大きいのである。

  ≪6. 結論≫
  一切の身は有為法であるが故に、仏の身も有為法であるように、一切の言説は有為法であるが故に、仏の所説も有為法である。則ち仏の所説と雖も衆縁の生たることを免れない。仏は作悪の衆生を見れば来世に罪報ありと説かれ、苦行して梵天の生を求める外道には一切は空であり、無我、無常であると説かれた。三蔵中の経論は皆真であると同時に偽である。故に利根の者は是れを知るが故に諍論することはない。何故に鈍根の者は世間の断常を諍うのだろう?
  「南泉斬猫児」と曰う公安が有る。「無門関」に依ればこうである、「南泉猫を斬る。南泉和尚、東西の堂の猫児を争うに因り、泉乃ち提起して云わく、大衆道(い)い得ば便ち救わん!道い得ずんば即ち斬却せん!と。衆に対(こたえ)無し。泉、遂に之を斬る。晩に趙州、外より帰る。泉、挙げて趙州に似(あた)う。州、乃ち履(くつ)を脱ぎ、頭上に安(お)いて出でたり。泉の云わく、子(なんじ)、若し在りせば、即ち猫児を救い得つらん、と。無門の曰わく、且く道え!趙州の草鞋を頂くの意は作麼生(いかん)、と。若し者裏(これ)に向って一転語を下し得ば、便ち南泉の令の虚しく行ぜざりしと見ん。其れ或は未だ然らずんば、険(あやう)し。頌して曰わく、趙州若し在りせば、倒(さかしま)に此の令を行じ、刀子を奪却して、南泉は命を乞わん、と。(大意:南泉が猫を斬った。南泉和尚は、東西両堂の衆が、猫児を争うに因り、乃ち此の猫児を引っ提げて、こう云った、「大衆よ!若し言うことができれば、之を救おう。若し言えなければ、斬って捨てるぞ!」と。大衆に答える者無く、南泉は遂に之を斬った。晩に趙州が外より帰ってきた。南泉は之を趙州に伝えた。趙州は聞き訖ると履(くつ)を脱ぎ、之を頭上に載せて出ていってしまった。南泉はこう云った、「お前が、若し此に居れば、猫児を救い得たものを!」と。無門は曰う、「とりあえず言ってみよ!趙州の草履を頂く意味は何か?若しこの事に向って一転語(転機の語)を下すことができれば、南泉の行いも虚しくはなかったと見えるが、其れがもしそうでなければ、危ういことだ!」と。頌して曰う、「趙州が若し居れば、此れを倒(さかしま)に行っただろう。刀子を奪い取って、南泉は命を乞うたにちがいない!」と。)」と。
  何でも東西両堂の衆は、猫に仏性が有るのか?無いのか?を諍っていたそうだが、其の謂う所の仏性とは、猫より取り出して見られるものなのか?聞くことができるものなのか?何のようにすれば、其れの有る無しを知ることができるのか?仏性とは但だ仮名有るのみ、空である!用を現すに及んで初めて有意義となるが、そうでなければ無意義なもの、是れが戯論である。戯論すれば、危険なことこの上ない!そこに南泉和尚が割って入った。猫を摘み挙げると、こう曰った、「やかましい!有だ、無だと何を言ってやがる。何でも言ってみろ!言えばよし、言わねば、此の猫を叩き斬ってしまうぞ!」と。誰も何にも言わなかったので、とうとう南泉は猫を斬ってしまった。将して諍論の本を斬った南泉は満足したのか?しなかったのか?趙州は頭に草履を載せて、本末顛倒を表わすと、挨拶もせずに出ていってしまった。有に執する者、無に執する者、空(非有非無)に執する者、役者は揃ったが、是れの何処が満足なのか?有る者は言う、是れに因り良い公安ができた!と。公安が一つできれば、諍論の種が一つ増える、此に気が付かぬのか?博多聖福寺の仙厓和尚は、是れを見てこう言った、「斬々々々、爰(ここ)には唯だ猫児と、両堂の首座と、及び王老師のみ!(斬って斬って斬って斬りまくった!此には唯だ猫の児と、両堂の首座と、及び王老師(南泉)のたった四人しかいないのに!)」と。正しくそのとおり、南泉は四人の中の仏性を斬ってしまったのだ!猫児と、両堂の首座と、南泉自身との仏性を一つ残さず斬ってしまったのだ!恐らくは後に続く多くの者の仏性をも!と。是れが「南泉斬猫児」であり、是れが「戯論の相」である。

  大乗に謂う空とは、般若波羅蜜の一分である。抑も般若波羅蜜とは慈悲を本体とし、不住性、平等性、不戯論性の三性を有し、六波羅蜜を行相とするものであるが、此の不住性、平等性、不戯論性は皆空の異名である。大乗の行者は不住の性を以って法に著せず、平等の性を以って衆生に著せず、不戯論の性を以って正邪を判別しない、則ち戯論中に正道を見ることはないのである。慈悲より発したる空観と、慈悲を説くと雖も空より発したる慈悲とでは、その相違は非常に大きい、則ち「中論」を説く所以である。以上「中論」の解題を訖る。


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