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――自 序――
    「中論」は戯論の無意義にして害多きことを示すを唯一の目的とする。それは一目瞭然、一見して非常に明白であるにも係らず、長らく「衆生も四諦も因果も如来も、亦た空さえも、一切は皆無であり、空である」というような誤った論理によって解釈されてきた。自ら思考を停止して先人の轍を踏むに忙しく、邪師に悪導せらるるまま諍論に明け暮れ、唯々諾々として死地に趣くも、疑うことを知らざる結果である。是れは皆仏の遺誡たる「自らに依止し、法に依止し、余に依止せざれ」に違背する所であるが故に、誠に残念なことである。
  
    そもそも般若波羅蜜を定義して慈悲に基づく空観と名づければ、又慈悲を体として不住性、平等性、無戯論性の三性を有し、六波羅蜜を行相とすると定義することもできる。この三性は皆空の一側面なのである。則ち不住性を以って法に著せず、平等性を以って衆生に著せず、無戯論性を以って正邪を含めた有らゆる立場(主義)、主張(ドグマ)に著せず、唯だ三歳の嬰児にすら理解できる与えられれば嬉しく、打たれれば傷つくの天然自然の原理のみを旨として、小乗ならば十善を行じ、大乗なら六波羅蜜を行ずることこそが、般若波羅蜜であるとするのである。このような大乗の空中に住してみれば、無駄な諍論は破僧の危禍を招いて仏教の滅亡を致すものに外ならず、戯論こそ畏るべき所であるのは明白である。
  
    「中論」は、この戯論を否定しながらも、決して仏の所説を否定するものではない。仏は楽を貪る人には来世の苦報が有ると説き、又苦行の外道には来世の楽報は無いと説かれたのであるが、実に是れは倶に真実であり、又倶に虚偽である。一切の語言は有為法であり、衆縁より生ずるが故に、仏の所説も亦た有為法であり、衆縁より生ずる。則ち仏説はその説かれた条件を無視すれば無意義なのである。条件を調えて初めて意義が有る。この道理を無視して衆生の有無、仏性の有無を論ずるのは、まったく無意義であり、非常に多くの過を生ずる。又神の有無等のように両論並立するものを、互いに非難し、応酬すれば傷つけあうのは必定である。いくら諍論しても両論並立の結論は得られないのである。この故に「中論」は説かれた。「中論」に対しては、但だこれだけを心に刻んで読むべきである。以上、中論の意義を説いて明らかにした。


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