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(その二)
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第一体性平等地
盧舍那佛言。千佛汝先問。十地者有何義。 |
盧舎那仏の言わく、『千仏、汝が先に問える十地には、何なる義や有らん、―― |
盧舎那仏は言った、―― 千の仏たちよ!お前たちが、 先に問うた『十地には、何のような義が有るのか?』とは、――
十地:体性の平等地、善慧地、光明地、爾焔地、慧照地、華光地、満足地、仏吼地、華厳地、入仏界地。 注:地とは衆生を受ける器、衆生世界の謂である。それに十階位があるが故に十地という。前の十金剛心までは一菩薩一個人の位であるが故に心といったが、ここからは一衆生世界の位をいうが故に地という。十金剛心を過ぎて不壊の位に入ると、菩薩は世世に生を得るごとに皆不退であるが、世世に相続する神我、霊魂の類は存在しないのであるから、それは取りも直さず地前の菩薩の漸進的努力が実を結び、その世界の一切の衆生が既に不退に入ったことを意味する。また、十地に入った菩薩は、その心境にも若干の変化が現れ、菩薩の自他を平等に視るというような、他に対する単なる共感にもとづく空観から、『60華厳経巻9』の偈にいう『一切中知一、一中知一切』、即ち、自らと一切の衆生とを一体化して観るというまさに仏の如き境地に変化して、空の意味にも平等の意味にも変化が見られる。一切の衆生の根性が一不退の菩薩の上に投影され、その菩薩が十地の中の位に入る、即ちその世界の一切の衆生が同じ位の菩薩なのである。まさに一菩薩の如きを説くものと見えるが、一切の衆生を説くものと知らなくてはならない。その世界に一人でも積み残しがあれば、それは大乗とは言えないと、十金剛心中の大乗心に説くのは、これをいうのである。以下、十地の中の一一の地を説くが、それは十の位階というよりは十の側面であり、仏の十号に順じて、一地に対して十の名を与えたものである、ただし仏の十号に直ちに応ずるものではない。 |
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若佛子。菩提薩埵入平等慧體性地。真實法化一切行華光滿足。四天果乘用任化。無方理化。神通十力十號十八不共法。住佛淨土。無量大願。辯才無畏。一切論一切行我皆得入。生出佛家坐佛性地。一切障礙凡夫因果畢竟不受。大樂歡喜。 |
若(なんじ)仏子、菩提薩埵は、『平等慧の体性地』に入りて、真実の法もて化し、一切の行と、華光と満足して四天の果に乗用して化に任う。方里無く化す。神通と、十力、十号、十八不共法とをもて仏の浄土に住す。無量の大願と辯才の無畏なるありて、『一切の論、一切の行は、われ皆入るを得。』という。生まれて仏の家に出で、仏の性地に坐し、一切の障礙と凡夫の因果は畢竟じて受けず、大楽歓喜す。 |
お前たち、仏子よ! 菩提薩埵(ぼだいさった、菩薩)は、 『平等慧の体性地』に入り、 『真実の法』で衆生を教化する。 一切の、 『行(六度、四摂等)』と、『華光(智慧の光)』とを満足し、 『四天の果(四天下の主転輪聖王の七宝)』の中の 『象宝』と、『馬宝』とに乗り、 『主兵臣』と、『主蔵臣』と、『女宝』と、『珠宝』と、『輪宝』とを用いて、教化する。 『衆生の教化』には、 『国』も無く、『聚落も』無い。 『神通(如意足、天眼、天耳、他心智、宿命智、漏尽智)』と、 『十力(処非処、業報、初禅解脱、上下根、種種欲、種種性、一切至処、宿命、生死、漏尽)』と、 『十号(如来、応供、正遍知、明行足、善逝、世間解、無上士、調御丈夫、天人師、仏世尊)』と、 『十八不共(身無失、口無失、念無失、無異想、無不定心、無不知已捨、 欲無滅、精進無滅、念無滅、慧無滅、解脱無滅、解脱知見無滅、 一切身業随智慧行、一切口業随智慧行、一切意業随智慧行、 智慧知過去世無礙、智慧知未来世無礙、智慧知現在世無礙)』とを用い、 『仏の浄土』に住して、 『無量の大願』を発し、 『辯才』に畏れ無く、 『一切の論と、一切の行とを、わたしは皆、会得している』と確信し、 『仏の家』に生まれ出て、『仏の性地』に坐し、 『一切の障礙』も、『凡夫の因果』も、ついに受けず、 『大楽』して、『歓喜』する。
若:『なんじ』と読む。 菩提薩埵:菩提を求める人。菩薩。 平等慧体性地:平等の智慧を体性とする心地。彼此、彼我、衆生と聖者等、一切平等の心地。平等の智慧にもとづき、六道を経巡って衆生を教化する。 体性:物の実質を体といい、体の無改を性という。体とは即ち性なり。本質。本性。生まれつき。 地:性の無改にして堅固なるを地に譬える。地位。 華光:行因を種子と為せば、智慧の華開いて華光もて群生を照らし、四天の果報に乗じて、化す。 四天の果:四天は『大智度論巻第22』に、『また次ぎに、四種の天有り、名天、生天、浄天、生浄天なり。名天とは今国王を天子と名づくるが如し。生天とは四天王天より乃至非有想非無想天なり。浄天とは人中に生ぜる諸の聖人なり。生浄天とは三界の天中に生ぜる諸の聖人なり。』と説くが、ここでは四天下の主とした方が理解しやすい。四天下の主、転輪聖王には七宝あり、七宝とは、一に軍事を領袖する主兵臣、二に理財を専門とする主蔵臣、三に宮内を潤して和らげる女宝(王后)、四に象宝、五に馬宝、六に夜に光って軍営を明るく照らす珠宝、七に千里万里を飛来し、人を驚かせて降伏させる輪宝をいう。これに或いは乗り、或いは用いるが故に、乗用という。 方理:方里に改める。方は邦国、理は村邑。 十力、十号、十八不共:仏のみに有するにより、仏の十力、仏の十号、仏の十八不共ともいう。 注:この地の菩薩は、既に仏の体性を獲得している。 |
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從一佛土入無量佛土。從一劫入無量劫。不可說法為可說法。及照見一切法。逆順見一切法。常入二諦而在第一義中。以一智知十地次第。一一事示眾生。而常心心中道。 |
一仏土より無量の仏土に入り、一劫より無量の劫に入り、説くべからざる法を説くべき法と為し、一切の法を照見するに及びて逆順に一切の法を見、常に二諦(真諦と俗諦)に入るも第一義の中に在り、一智を以って十地を知り、次第して一一の事を衆生に示せども、常に心心は中道にあり。 |
また、 『一仏土』から、次々と『無量の仏土』に入り、 『一劫』が終れば、次々と『無量の劫』に入って、 『説けない法』は、『説けるように工夫』して説き、 『一切の法(事物)を照見する』に及んで、 逆に順に何度も見返し、 常に、 『二諦(空なる真諦と、布施持戒の俗諦)』に入りながら、しかも、 『第一義(平等、涅槃、中道)』に在り、 『一智(平等の大慧)』を以って、 『十地(菩薩の十の心地)』、を知り、 『十地の事の一一』、を次第(大小順序)に、衆生の前に示しながら、 しかも、 常に、心心(諸心)は『中道』に在る。 |
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以一智知一切佛土殊品及佛所說法。而身心不變。以一智知十二因緣十惡種性。而常住善道。以一智見有無二相。以一智知入十禪支行三十七道。而現一切色身六道。以一智知十方色色。分分了起。入受色報。而心心無縛。光光照一切。 |
一智を以って一切の仏土の殊品、及び仏の所説の法を知るも、身心は変らず。一智を以って十二因縁、十悪の種性を知るも、常に善道に住す。一智を以って有無の二相を見、一智を以って十禅支に入ること、三十七道を行ずることを知るも、一切の色身を六道に現わす。一智を以って十方の色色、分分して了起し、入りて色報を受くることを知るも、心心に縛なく、光光は一切を照らす。 |
また、 『一智(平等の大慧)』を以って、一切の 『仏土の衆生の殊別』、及び 『仏の説く所の法』を知りながら、 しかも、 『身心』は知る前と変らない。 また、 『一智』を以って、 『十二因縁(無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死)』と、 『十悪(殺生、偸盗、邪淫、妄語、両舌、悪口、綺語、貪欲、瞋恚、邪見)』との 『種性(空性)』を知りながら、 しかも、常に、 『善道』に住し、 『一智』を以って、 『有無の二相』を見、 『一智』を以って、 『十禅支(地水火風、青黄赤白、空、識の十一切処)』を知り、 『三十七道(四念処、四正勤、四如意足、五根五力、七覚分、八聖道分)』を行いながら、 しかも、 『一切の色身(獄身、鬼身、天身、人身、獣身、虫身、魚身等)』を、 『六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)』の中に現し、 『一智』を以って、 『十方の国土の色色(諸色身)は、 死ねば、分分になって了り、 起れば、三界に入りて色色の報を受ける』、と知りながら、 しかも、 『心心(六道の諸生各各の心)』は、煩悩(なやみ)に縛られず、 『智慧の光光』で、一切を照らす。
十禅支:十一切処。 |
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是故無生信忍空慧常現在前。從一地二地乃至佛界。其中間一切法門一時而行故。略出平等地功コ海藏行願。如海一H毛頭許事 |
この故に、無生の信、忍空の慧を以って、常に前に現在す。一地二地より乃ち仏界に至るまで、その中間の一切の法門を一時に行ずるが故に、略して平等地の功徳海に蔵する行願を出だせるも、海の一H、毛頭ばかりの事の如し。 |
この故に、 『無生(生滅は無い)の信』と、 『忍空(身心は空なりと忍ぶ)の慧』とをもって、常に、 『衆生の前』に現在し、 『一地より仏地』に至るまで、その中間の、 『一切の法門』を、『一時に会得』して行う。 故に、 略して、 『平等地の功徳海に蔵する行願』を説き、 大海中の、 一滴ばかりを出だした。
平等地功徳海蔵行願:平等を心地とする功徳は海のように多く、無量の行願を蔵する。 注:この体性平等地の菩薩は、平等に一切の劫、一切の世界の一切六道の衆生にまで及ぶまで、悉くを教化する。
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第二体性善慧地
若佛子。菩提薩埵善慧體性地。清淨明達一切善根。所謂慈悲喜捨慧。一切功コ本從初觀入大空慧方便道智中。見諸眾生無非苦諦皆有識心。 |
若仏子、菩提薩埵の『善慧の体性地』とは、清浄明達する、一切の善根なり。謂わゆる、慈悲喜捨の慧にして、一切の功徳の本なり。初め大空の慧に観入するより、方便の道智の中にて、『諸の衆生は苦に非ざること無し』と見て、皆識心(心)に有りと諦(あきら)む。 |
お前たち、仏子よ! 菩提薩埵の、 『善慧の体性地』とは、 『清浄』であり、 『涅槃に明達』する、 『一切の善の根本』、である。 謂わゆる、 『慈、悲、喜、捨の智慧』であり、 『一切の功徳の根本』である。 初めて、 『大空(空平等)の慧』に観入(観察三昧)してより、 常に、 『方便の道智(八聖道を行う智慧)』の中で、 『諸の衆生は、苦でないものは無い』と見るが、 明らかに、その苦は、 皆、『識心(心)』の中に有るのである。
善慧体性地:善き智慧を体性とする心地。この地は慈悲喜捨を体性とし、一切の善の根本、一切の功徳の根本である。 観入:観察して定に入る。観察三昧。 道智:道諦を観ずる無漏清浄の智。 識心:六識中の心王。心心数法中の心。 |
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三惡道刀杖一切苦惱緣中生識。名為苦諦三苦相者。如身初覺。從刀杖身色陰二緣中生覺。為行苦緣。次意地覺緣身覺所緣得刀杖及身創腫等法故。覺苦苦緣。重故苦苦。次受行覺二心。緣向身色陰壞創中。生苦覺故。名為壞苦緣。是以三覺次第生三心。故為苦苦。 |
三悪道、刀杖、一切の苦悩の縁の中に識を生ずる、名づけて苦諦と為す。三苦の相とは、身に初めて覚るが如きは、刀杖と身の色陰、二縁中に従いて覚を生ず、これを行苦の縁と為す。次に意地(意根)覚は、身覚の所縁に縁じて、刀杖、及び身の創、腫等の法を得るが故に、苦を覚る。苦縁の重なるが故に苦苦となす。行と覚との二心を受け、縁じて身の色陰の壊創の中に向かい、苦覚を生ずるが故に、名づけて壊苦の縁と為す。この三覚の次第に三心を生ずるを以っての故に苦苦と為す。 |
『三悪道や、刀杖』などの、 『一切の苦悩の縁』の中に、『識』を生じる。 これが、 『苦諦』である。 『三苦(行苦、苦苦、壊苦)の相』とは、 初は、 『身覚(初めて色蘊が覚る)』であり、 『刀杖』と『身の色陰』との、この二縁中に従って、『覚』を生じ、 これを、 『行苦の縁』という。 次は、 『意地覚(意根の覚)』が、『身覚の所縁(身が覚ったもの)』に縁じて、 『先に身に縁じられた刀杖や、身の創腫等の法(事物)』が、 『身に加えられた』ことを覚り、その故に『苦』を覚る。 即ち、 『苦縁』が重なるが故に、『苦苦』である。 次は、 『行(色受想行識中の行、行苦)』と『覚(心数法の一、苦苦)』との二心を受けて、 『身の色陰』の中に縁じて向い、 『壊創中に苦覚』を生じるが故に、 これを、 『壊苦の縁(無意識中に死を感じて苦を覚る)』という。 この 『三覚は、三心(行苦、苦苦、壊苦)を生じる』ことの故に、 これも、 また、『苦苦』である。
三苦:(1)行苦:外境と内色との二縁中に覚を生ずる。身に受けたる行為に心が縁じて生じる苦であるが故に行苦という。(2)苦苦:意根が外境と内色に受けたる行苦あることを覚る。心が重ねて苦を覚るが故に苦苦という。(3)壊苦:既に身に受けたる壊創の中に苦を覚る。身の壊するを覚って生じる苦であるが故に壊苦という。また別の説あり、次の如し、(1)苦苦:自ら寒熱飢渇等の縁に生ずる苦。苦は次の苦を生ずるが故に苦苦という。(2)壊苦:楽の境界の破壊する時生ずる苦。(3)行苦:一切の有為法は無常にして生生遷流するをいう苦。行は流転の意。 意地:意根。 |
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一切有心眾生。見是三苦起無量苦惱因緣故。我於是中入教化道三昧。現一切色身於六道中。十種辯才說諸法門。謂苦識苦緣刀杖緣具。苦識行身創腫發壞。內外觸中或具不具。具二緣中生識識作識受觸識。名為苦識。行 |
一切の有心の衆生、この三苦起りて無量の苦悩の因縁を見るが故に、われ、この中に於いて教化道三昧に入り、一切の色身を六道の中に於いて現わし、十種の辯才もて諸の法門を説けり。謂わゆる、苦の識、苦の縁、刀杖の縁は、苦の識行(認識と遷流)を具え、身の創腫は壊を発す。内外の触中に或いは具わり具わらざるも、二縁を具うる中に識識を生じ、識を作して触識を受く。これを名づけて『苦の識行』と為す。 |
『一切の心有る衆生』は、この 『三苦』の中に、 『無量の苦悩を起す因縁』を見る。 その故に、わたしは、 『この三界』の中で、『道を教化する三昧』に入り、 『一切の色身』を、『六道』の中に現して、 『十種の辯才』で、『諸の法門』を説いた。 謂わゆる、 『苦識』と、『苦縁』と、『刀杖縁』とは、 『苦の識行(心中の認識と活動、行苦の縁)』を具え、 『身の創腫』は壊れようとする。 『内外の触(外の色等五触と内の意触)』の中に、 『根境二縁』は、或いは具わることもあり、具わらないこともあるが、 『根境二縁』の具わる中に、『識』を生じ、 『識』は、 『識』を生じて、 『触識(五根五境五識の和合)』を受ける。 これが、 『苦の識行(行苦の縁)』である。
十種辯才:『60華厳経第37』等に説く所の十住中の第八童真住の菩薩所得の十種の辯才をいう、今その名のみを挙げる、(1)不虚妄取一切法辯、(2)於一切法無所行辯、(3)於一切法無所著辯、(4)於一切法悉空無辯、(5)於一切法無闇障辯、(6)於一切法仏所持辯、(7)於一切法不由他悟辯、(8)於一切法巧方便説句味身辯、(9)於一切法説衆生辯、(10)於一切衆生等心観察令歓喜辯。 觸:根境識の和合をいう。 |
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二緣故心心緣色。心觸觸惱受煩毒時。為苦苦。心緣識初在根覺緣。名為苦覺。心作心受觸識覺觸。未受煩毒時。是名行苦。逼迮生覺如斲石火。於身心念念生滅。身散壞轉變化。識入壞緣緣集散心苦心惱。受念後緣染著心心不捨。是為壞苦。三界一切苦諦。 |
二縁の故に、心心の色に縁じ、心、觸觸して煩毒を悩受する時、これを『苦苦』と為す。心の縁ずる識は、初め根に在りて縁を覚る、これを名づけて苦覚と為す。心は心を作して触識を受け、触を覚る、未だ煩毒を受けざる時、これを『行苦』と名づく。逼迮(臨終)のとき覚を生ずるも、石を斵(き)る火の如く、身心に於いて念念に生滅し、身の散壊して転た変化するとき、識、壊に入るに、縁縁、集散して心苦心悩す。念を受けし後の縁染著して心心捨てず、これを『壊苦』と為し、三界の一切は苦諦なり。 |
『根境二縁』の故に、 『心心』が『色』に縁じる時、 『心』は触触して悩み、 『煩悩の毒』を受ける。 この時を、 『苦苦』という。 また、 『心の縁じる識(眼識等の前五識)』は、 初めは、 『根(眼耳鼻舌身)』に在って、 『境(刀杖等)の縁』、を覚る。 これを、 『苦覚』という。 また、 『心』は、 『心』を生じて、 『触識(根境識の和合)』を受けるが、 未だ、 『煩悩の毒を受けない時』を、『行苦』という。 また、 『臨終』の時、生じる、 『覚』は、 火花のように、 身心の中で、念念に生滅し、 『身が散じて壊れる時』には、転転と変化する。 『識』が、 壊れだすと、 『縁縁が集散』して心苦し心悩し、 『念(記憶)』を受けて、 『後の生の縁』が心に染著しても、 『心心』は捨てようとしない。 これが、 『壊苦』であり、 『三界の一切』は、『苦諦』である。
心作心受触識:想も触も心数法の一であり一一が心(心数法)である。故に心は心を作すという。 |
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復觀無明集無量心作一切業。相續相連習因集因。名為集諦。正見解脫空空智道心心。名以智道道諦。盡有果報盡有因。清淨一照體性。妙智寂滅一諦。慧品具足名根。一切慧性起空入觀。是初善根。 |
また無明を観じて無量心を集め一切の業を作し、相続し相連して因を習い因を集む、これを名づけて『集諦』と為す。正見、解脱、空空、智道の心心、名づくるに智道を以って『道諦』となす。有の果報を尽くし、有の因を尽くして清浄なり、一たび体性を照らせば、妙智、寂滅して、一諦の慧品具足す、これを根と名づく。一切の慧性もて空を起ちて入観す、これ善根の初めなり。 |
また、 『無明(空と因果とを悟らない根本煩悩)』を観察し、 『無量心(慈無量、悲無量、喜無量、捨無量)』を集めて、 『一切の業(身業、口業、意業)』を作り、 相い続け、相い連ねて、 『苦の因』を習い、 『苦の因』を集める。 これが、 『集諦』である。 『正見(空と因果を見る)』と、 『解脱(煩悩の解脱)』と、 『空空(我空と法空)』と、 これ等の、 『智慧の道を行く心』は、『智慧の道を行く心』であるが故に、 これを 『道諦』という。 『有(生滅)の果報を尽くす智慧』と、 『有の因を尽くす智慧』と、 これ等の、 『清浄の智慧』で、一たび、 『体性(自己の本体)』を照せば、 『妙智(清浄の智慧)』は、 『寂滅(寂静、涅槃)』であり、 『一諦(一切平等、涅槃)の慧品(体性中の智慧分)』を具足する。 これが、 『根(根本)』であり、 『一切の慧性(慈悲喜捨の智慧)』が、 『空』より起ちて、 『諸法(衆生、世間)』の観察に入る。 これが、 『善根の初』である。
入観:吾身と観察とが一体になること。観察三昧。 |
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第二觀捨一切貪著。行一切平等空捨。無緣而觀諸法空際一想。我觀一切十方地土。皆吾昔身所用故土。四大海水是吾故水一切劫火是吾昔身故所用火一切風輪是吾故所用氣。我今入此地中。法身滿足捨吾故身。畢竟不受四大分段不淨故身。是為捨品具足。 |
第二観にて、一切の貪著を捨つ。一切は平等にして空なりと行じ、捨てて縁ずること無く、諸法の空際の一想を観ず。われ一切の十方の地土を観ずるに、皆わが昔の身もて用いし所の故土なり。四大海水は、これわが故水なり。一切の劫火は、これわが昔の身の故(むかし)用いし所の火なり。一切の風輪は、これわが故用いし所の気なり。われ今はこの地中に入れるも、法身は満足なり。われ故身を捨つるは、畢竟じて四大分段の不浄なる故身を受けず、これを『捨品具足す』と為す。 |
第二の観察にて、 『一切の貪著』を捨てる。 『一切は、平等にして空である』、として、 『諸法を捨て』て、『諸法に縁じる』こと無く、 『諸法とは、空際(空の極限、涅槃)の一想である』、と観察する。 わたしが、 観察したところ、 『一切の十方の地の土』は、皆、昔、『吾身が用いた故郷の土』であり、 『四大海の水』は、皆、昔、『吾身が用いた故郷の水』であり、 『一切の劫火(世界の終わりの火)』は、皆、昔、『吾身が用いた故郷の火』であり、 『一切の風輪(世界を迴る風)』は、皆、昔、『吾身が用いた故郷の空気』である。 わたしが、今、 滅度して、この地の中に入っても、 『古い吾身』を捨て去るのみで、 『法身』は満足である。 つまり、 『四大(地水火風)』は、分分して散じ、段段に滅して不浄である、 『古い吾身』には、『捨品(体性中の捨分)』が具足していいるのである。 |
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第三次觀於所化一切眾生。與人天樂.十地樂.離十惡畏樂得妙華三昧樂。乃至佛樂。如是觀者慈品具足。菩薩爾時住是地中無癡無貪無瞋。入平等一諦智。一切行本。遊佛一切世界。現化無量法身。如一切眾生天華品說 |
第三次観とは、化する所の一切の衆生に於いて、人天の楽、十地の楽、十悪を離れ楽を畏れて得る妙華三昧の楽より、乃ち仏の楽に至るまでを与う。かくの如き観は慈品具足す。菩薩、その時、この地中に住して、無癡、無貪、無瞋たり、平等一諦の智、一切の行の本に入りて、仏の一切の世界に遊び、無量の法身を現化すること、『一切衆生天華品』に説くが如し。 |
第三の観察にて、 『教化すべき一切の衆生に、 人天の楽を与え、 十地(菩薩)の楽を与え、 十悪を離れ、 楽を畏れて得る、 妙華三昧の楽から、 仏の楽に至るまでの、 一切の楽を与えよう』と、 このように、 観察すれば、 『慈品(体性中の慈分)』が具足する。 菩薩は、その時、この 『善慧の体性地の中』、に住して、 『癡』無く、『貪』無く、『瞋』無く、 『平等一諦の智慧』である、 『一切の行の本』に入って、 『仏の一切の世界』に遊び、 『無量の法身』を、 『無量の身』に化して現す。 これは、 『一切衆生天華品』に説くのと同じである。
一切衆生天華品:不明。 注:この体性善慧地の菩薩は、一切の衆生を観察して四無量心を生じ、四諦の智慧、空平等の智慧等のあらゆる智慧を得て、一切の楽を一切の衆生に施す。
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第三体性光明地
若佛子。菩提薩埵光明體性地。以三昧解了智。知三世一切佛法門。十二法品名味句。重誦。記別。直語。偈。不請說。律戒。譬喻。佛界。昔事。方正。未曾有。談說。是法體性名第一義別。 |
若仏子、菩提薩埵の『光明の体性地』とは、三昧の解了智を以って、三世一切の仏の法門を知る。十二法品とは、味句、重誦、記別、直語偈、不請説、律戒、譬喩、仏界、昔事、方正、未曾有、談説と名づく。これ法の体性にして、第一義の別と名づく。 |
お前たち、仏子よ! 菩提薩埵の、 『光明の体性地』とは、 『三昧中に解了する智慧』を以って、 『三世一切の仏の法門』を知ることである。 これに、 十二品有り、それを、 『味句』、『重誦』、『記別』、『直語偈』、『不請説』、『律戒』、 『譬喩』、『仏界』、『昔事』、『方正』、『未曾有』、『談説』という。 これは、 『法の体性』であるが、 『第一義(空平等、中道涅槃)』とは別である。
味句:修多羅(しゅたら)。意味(法義)を有する語句。契経。 重誦:祇夜(ぎや)。散文と同義の韻文を重ねた法。 記別:和伽羅(わから)。仏が弟子に与える成仏の予言。 直語偈:伽陀(かだ)。韻文のみで説かれた法義。 不請説:優陀那(うだな)。弟子の問いを待たず、仏自らが説き出された法。 律戒:尼陀那(にだな)。戒律の因縁。 譬喩:阿波陀那(あばだな)。譬喩を用いて説かれた法義。 仏界:闍多伽(じゃたか)。仏の過去世の因縁。本生。 昔事:伊帝目多伽(いていもくたか)。弟子の過去世の因縁。本事。 方正:毘仏略(びぶつりゃく)。方等。大乗経典。 未曾有:阿浮達摩(あぶだつま)。仏の現す奇跡。 談説:憂波提舎(うばだいしゃ)。論議。 十二部経(参考):(1)修多羅(しゅたら):契経(けいきょう)、経典中直に法義を説く長行の文。契経とは、理に契(かな)い機(き、衆生)に契う経典をいう。(2)祇夜(ぎや):応頌(おうじゅ)、重頌(じゅうじゅ)、前の長行の文にその義の宜しきを説く偈(げ、詩文)を重ねたもの。(3)伽陀(かだ):諷頌(ふじゅ)、長行に依らず、直に偈を説くもの。(4)尼陀那(にだな):因縁(いんねん)、縁起(えんぎ)、経中に仏を見、法を聞く因縁、及び仏の法を説き教化する因縁の処を説く。諸経の序品の如きもの。因縁経。(5)伊帝目多伽(いていもくたか):本事(ほんじ)、如是語(にょぜご)、仏弟子の過去世の因縁の経文。法華経中の薬王菩薩本事品の如きもの。(6)闍多伽(じゃたか):本生(ほんしょう)、仏が自身の過去世の因縁を説く経文。(7)阿浮達摩(あぶだつま):未曾有(みぞう)、仏の現す種種の神力、不思議の事を説く経文。(8)阿波陀那(あばだな):譬喩(ひゆ)、経中の譬喩を説く処。(9)優婆提舎(うばだいしゃ):論議(ろんぎ)、法理を以って論議問答する経文。(10)優陀那(うだな):自説(じせつ)、無問(むもん)、仏の自説の経文。阿弥陀経の如きもの。(11)毘仏略(びぶつりゃく):方等(ほうどう)、方広(ほうこう)、広大平等の理義を宣明する経文。(12)和伽羅(わから):授記(じゅき)、菩薩が成仏の記を受ける経文。この十二部中の修多羅、祇夜、伽陀の三者は経文上の体裁をいい、その他の九部はその経文に記載された別事に従って名を立てるものである。(智33) |
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是名味句中說一切有為法。分分受生。初入識胎。四大搨キ色心名六住。於根中起實覺。未別苦樂名觸識。又覺苦樂識名三受。連連覺著受無窮。已欲我見戒取善惡有。識初名生。識終名死。是十品現在苦因緣果觀。是行相中道。 |
この味句と名づくる中に、一切の有為法の、(1)分分に受生し、(2)初めて識胎に入り、(3)四大増長の色心を六住と名づけ、(4)根中に実覚を起し、(5)未だ苦楽を別たざるを觸識と名づけ、(6)また苦楽を覚る識を三受と名づけ、(7)連連として覚著受窮まり無く、(8)已に我見戒取善悪有らんと欲し、(9)識に初めて生と名づけ、(10)識の終わりを死と名づく。この十品は現在の苦の因と縁と果にして、この行相に中道を観る。 |
この『味句(経)』の中に説く、 『一切の有為法』とは、 (1)分分(バラバラ)に『生』を受けたものが、 (2)初めて『識(心)』と『胎(身)』とに入る。 (3)四大が増長して『色心(身心)』は『六住(眼耳鼻舌身意の六根)』となり、 (4)『五根』中に『実覚(感覚)』を起し、 (5)未だ『苦楽』が別れないのを『触識(五根五境五識和合)』という。 (6)『苦楽を覚る識』を『三受(苦受、楽受、不苦不楽受)』といい、 (7)『感覚』は『執著』を起すにより、『苦楽を受ける』こと連連として窮まり無く、 (8)すでに『我見』より『戒禁取見』までを起して『善悪』が有ることを知る。 (9)その『識(心)の初め』を、『生(自我)』といい、 (10)『識の終り』を、『死』という。 この十品は、現在の 『苦の因、縁、果』であり、この 『行相(心の活動)』に、『中道(理想の道)』を観る。
五邪見(参考):(1)身見:我見我所見をいう。我が身が五陰の和合した仮のものであることを知らず、実在のものと考える。また我が身辺の諸物が一定の所有主が無いことを知らず、我が所有と考える。(2)辺見:我は死後も常住である(常見)、または死後は断絶する(断見)という偏った考え。(3)邪見:因果を認めないこと。(4)見取見:最初に知った誤った見解に執著して、これのみが真実と考える。(5)戒禁取見:苦行をすることのような間違った戒律を修行して涅槃を得る道だと考える。 注:十二因縁を改め、開いて十と為す。 |
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我久已離故。無自體性。入光明神通。總持辯才。心心行空。而十方佛土中現劫化轉化百劫千劫。 |
われ、已に離るることの久しきが故に、自らの体性無く、光明神通、総持辯才に入り、心心空を行じて、十方の仏土中の現劫に於いて化し、転た化すこと百劫千劫なり。 |
わたしは、すでに 『生死を離れて久しい』が故に、 『自らの体性』が無い。 しかし、 『光明三昧』と、 『神通三昧』と、 『総持(記憶)三昧』と、 『辯才三昧』に入って、 『心心に空』を行じ、 『十方の仏土』中の、 『現在の劫』に於いて、転転と、 『衆生を教化』し、 『化導する』こと、百劫千劫に至る。 |
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國土中養神通。禮敬佛前諮受法言。復現六道身。一音中說無量法品。而眾生各自分分得聞心所欲之法。苦空無常無我一諦之音。國土不同身心別化。是妙華光明地中略開一毛頭許。如法品解觀法門千三昧品說 |
国土の中に神通を養い、仏前に礼敬して、法言を諮り受く。また六道に身を現わして、一音中に無量の法品を説くに、衆生は各々自ら分分に心に欲する所の法を聞くことを得。苦、空、無常、無我は一諦の音も、国土、同じからざれば、身心別して化す。この『妙華光明地』中に、略して一毛頭ばかりを開くこと、『法品解観法門』、『千三昧品』に説くが如し。 |
わたしは、各々の 国土の中では、 『神通』を養い、 『仏前に礼敬』しては、 『法言を諮受(しじゅ、質問して答えを受ける)』し、 また、 『六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)』に身を現して、 『一音』中に、 『無量の法門』を説くが、 それでいて、 衆生は、各々皆、 『自分の心に適った法』、を聞くことができる。 しかし、その、 『苦、空、無常、無我』という、 『一諦(四聖諦中の苦諦)の音』も、 また、 『国土が不同』であるからには、 『衆生の差別』に随って、身心を現し、 『衆生の差別』に随って、教化を別にする。 この 『妙華光明地(光明体性地)』中には、略して一毛頭ばかりを開いたが、これは 『法品の解観法門』、及び『千三昧品』に説くのと同じである。
法品解観法門千三昧品:不明。 注:この体性光明地の菩薩は衆生の根性に随って、智慧を理解しやすいように十二部の経、十二因縁、四諦等の無量の法門として説き、一切の衆生を照す光明の如く、分け隔てなく教化する。
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第四体性爾焔地
若佛子。菩提薩埵體性地中。爾真焰俗。不斷不常。即生即住即滅。一世一時一有。種異異現異故。因緣中道非一非二。非善非惡非凡非佛故。佛界凡界一一。是名為世諦。 |
若仏子、菩提薩埵の『体性地中の爾真焔俗』とは、『断にあらず常にあらず』、『即ち生、即ち住、即ち滅』、『一世一時に一有』、『異異を種えて異を現わす』、故に『中道』に因縁して『一に非ず二に非ず』、『善に非ず悪に非ず』、『凡に非ず仏に非ず』、故に仏界、凡界の一一にして、これに名づけて『世諦』と為す。 |
お前たち、仏子よ! 菩提薩埵の体性地中の、 『爾焔(にえん、所知)』とは、 『菩薩の身心』は、 『断でもなく、常でもない』が、 『生じ、住し、滅し』、また 『一世一時に、一身心が有る』のみであるが、 『無量の異る法門』を種えて、 『無量の異る身』を現す。 その故に、 『中道』に因縁して、 『一でもなく、二(多数)でもなく』、 『善でもなく、悪でもなく』、 『凡でもなく、仏でもない』。 その故に、 『仏の境界』と 『凡の境界』との、一一が、 『世諦(俗諦)』である。
爾焔(にえん):梵語ジュニェーヤ。所知の境界。智母、智境。学ばるべきもの。よく智慧を生じる境界。今それに真俗の二境有るによって爾真焔俗と訳す。菩薩中に生じる仏の法身。 |
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其智道觀。無一無二。玄道定品。所謂說佛心行初覺定因。信覺思覺靜覺上覺念覺慧覺觀覺猗覺樂覺捨覺。是品品方便道。 |
その智道もて観ずるに、一も無く二も無し。『玄道定品』に謂う所は、仏の心行の初の覚定の因とは、信覚、思覚、静覚、上覚、念覚、慧覚、観覚、猗覚、楽覚、捨覚なりと説く。この品品は方便道なり。 |
その智慧の道で、 観察すれば、一でも無く、二でも無い。 『玄道定品(仏の定分)』では、 『仏の心行(心の活動)』中、 『初めて定(心の不動)を覚る因』とは、 『信覚(因果を信じる)』であり、 『思覚(善悪の因果を思う)』であり、 『静覚(定力により心を静める)』であり、 『上覚(精進力により止悪修善に勤める)』であり、 『念覚(記憶して忘れない)』であり、 『慧覚(疑を断じる)』であり、 『観覚(諸法を観察する)』であり、 『猗覚(いかく、安心して寄りかかる)』であり、 『楽覚(楽しむ)』であり、 『捨覚(涅槃寂静の境地)』であると謂うが、 これ等の品品は、 『方便道』である。
玄道定品:玄妙なる道の定。仏の定分。 覚定:心は本より不動なりと悟ること。 十覚支:『梵網経直解』によれば(1)信覚:実徳に於いて、よく深く忍んで楽欲す。心の浄なるを性と為して不信を対治し、善を楽しむを業と為す。水清珠のよく濁水を清むるが如し、所以は信は乃ち道に入る根本なり。この故に十覚支中に信覚を第一と為す。然るに信ずる所の本定まれりといえども、思惟修行せずんば、終に空しき信を成ずるのみ。故にこれに次いで思覚をいう。(2)思覚:心の造作を性と為し、善品等に於いて心を役するを業と為す。謂わく取境の正因等の相に自心を駆役して諸善を造らしむ。然るに、善思するといえども、もし定力の所持無くんば、恐らく乱思に属すべし。故にこれに次ぐに静覚を以ってす。(3)静覚:静とは即ち定なり。所観の境に専注して散ぜざるを性と為し、智の依なるを業と為す。然るにこの定力の印持(信認受持)は、静覚中を以ってす。もし精進の力無くんば、恐らくは無記に堕さん。故にこれに次ぐに上覚を以ってす。(4)上覚:即ち精進心なり。善悪品に於いて断事を修むる中に、勇悍なるを性と為し、懈怠を対治して満善たるを業と為す。然るに精勤不懈なるも、更にまさにこれを念じ、ここに在りて忘れざるべくも、失するが故に、これに次ぐに念覚を以ってす。(5)念覚:かつて習いし境に於いて、心をして明記せしむるを性と為し、定の依なるを業と為す。然るに念じて心に忘れざるといえども、必ず慧心を加えて境を照さば、分明なるや不やに惑う。故にこれに次ぐに慧覚を以ってす。(6)慧覚:所観の境に於いて簡択するを性と為し、疑を断ずるを業と為す。然るに慧心は境を了らかにして惑うこと無しといえども、粗に属すれば、必ず更に微細の観察を加うるを須うべし。故にこれに次ぐに観覚を以ってす。(7)観覚:所観の境を照察して諦らかに審らかにするを性と為し、理に入るを業と為す。覚観もて理に入るに由って、身心軽安となる。故にこれに次ぐに猗覚を以ってす。(8)猗覚:即ち軽安なり。所観の境に於いて粗重なるを遠離し、身心を調暢して任に堪うるを性と為し、惛沈を対治するを業と為す。また曰く、重を離るるを軽と名づけ、調暢を安と名づけ、この軽安調暢を以って、よく身心をして悦楽ならしむ。故にこれに次ぐに楽覚を以ってす。(9)楽覚:即ち悦喜なり。所証の理を以って顛倒を生ぜざるを性と為し、正智の如如を業と為す。この悦楽の不倒なるを以って解脱を得るが故に、これに次ぐに捨覚を以ってす。(10)捨覚:即ち行蘊中の捨にして、精進等の諸根の心をして平等ならしむるを謂う。正直、無功用に住するを性と為し、掉挙を対治して静に住するを業と為す。 |
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心心入定果。是人住定中。焰焰見法行空。若起念定。入生心定生愛。順道道法化生。名法樂忍住忍證忍寂滅忍。 |
心心入定の果とは、この人、定中に住して、焔焔に法行の空なるを見るも、もし念を起さば、定は心を生ずる定に入りて、愛を生じ、道道(諸道)法に順じて、化生す。これを法楽忍、住忍、証忍、寂滅忍と名づく。 |
『心心』が、 『定(三昧)に入る果』とは、 この人は、 『定』中に住って、 『諸法(事物)も、諸行(活動)も、空である』、と明了に見る。 しかし、もし、 『念(思い)』を起せば、 『定』は、 『心を生じる定』に入って、愛(取著)を生じ、 『諸の道法』に順じて、化して三界に生まれる。 これを、 法の、 『楽忍(定を楽しむ)』、 『住忍(定に住る)』、 『証忍(定中に愛を生じ、衆生を認めて行を起す)』、 『寂滅忍(定と行と寂滅して涅槃に入る)』という。
注:菩薩は三昧に入って六道に生じ、一切の衆生を済度する。 |
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故諸佛於入光光華三昧中。現無量佛以手摩頂一音說法。百千起發而不出定。住定味樂定。著定貪定。一劫千劫中住定。見佛蓮花座說百法門。是人供養聽法。 |
故に諸仏は、『入光光華三昧』中に於いて、無量の仏を現わし、手を以って頂を摩で、一音もて法を説くとき、百千、起発するも定を出でず、定に住して定を味楽し、定に著して定を貪り、一劫千劫中にも定に住して、仏の蓮花座に百法の門を説くを見るに、この人、供養して法を聴くなり。 |
この故に、 諸仏が、 『光光の華に入る三昧』中に於いて、 『無量の仏身』を現し、 手で 『菩薩の頂』を摩でて、 『一音で法』を説くとき、 百千の菩薩は、起されても、 『定』を出ず、 『定』に住り、味わって 『定』を楽しみ、 『定』に著し、 『定』を貪り、 一劫より、 千劫のあいだ 『定』に住って、 『仏が蓮華座に在って百法の門を説く』のを見れば、 この人は、 供養(衆生済度)して法を聴くのである。
摩頂:仏は『よくやった』と褒めて菩薩の頂を摩るが、それに満足せず、更に励んで衆生を済度する。 定中に法を聴く:常に仏、心中に在りて法を説くのを聴くのみならず、また法を聴けば、それに励まされて衆生を済度することをいう。 入定:衆生済度の三昧に入る。 供養:衆生済度して仏国をもたらすのが菩薩の供養である。 |
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一劫住定。時諸佛光中摩頂。發起定品出相進相去向相故。不沒不退不墮不住。頂三昧法上樂忍。永盡無餘。即入一切佛土修行無量功コ品。行行皆光明。入善權方便。化教一切眾生能使得見佛體性常樂我淨。 |
一劫定に住せる時、諸仏は光中に頂を摩でて発起するも、定品の出相、進相、去向相の故に、『頂三昧』にも、『法の上楽忍』にも、『永尽無余(ようじんむよ、無余涅槃)』にも、没せず退せず堕せず住せず。即ち一切の仏土に入り、無量の功徳品を修行す。行行は皆光明ありて、善権方便に入り、一切の衆生を化教して、よく『仏の体性の常楽我淨』を見るを得しむ。 |
『定』に住って一劫が過ぎたとき、 諸仏が、 光の中で、菩薩の頂を摩でて起すが、 『定品(定の類)』には、 『出相(出定入定の無い相)』と、 『進相(精進の相)』と、 『去向相(東奔西走の相)』とがあり、 この故に、 『頂三昧(摩頂と一体化すること)』にも、 『上楽忍(上楽に堪えること)』にも、 『永尽無余(永久に尽きて何も残らないこと、小乗の涅槃)』にも、 没せず、 退せず、 堕せず、 住しない。 即ち、 『一切の仏土』に入って、 『無量の功徳品』を修行し、 『行行』ごとに、 皆、光明を放って衆生を照らし、 『善権方便(善い巧みな方便)の三昧』に入って、 『一切の衆生』を教化し、 『その衆生』に、 『仏の体性』である、 『常、楽、我、浄』を見させる。
定品:品は類、諸菩薩の入る定は各各その細部を異にすることにより、定品という。 |
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是人生住是地中行化法門漸漸深妙華觀智入體性中道。一切法門品滿足。猶如金剛。上日月道品已明斯義 |
この人生じてこの地中に住するに、行化の法門は漸漸に深妙の華ひらき、観智は体性の中道に入り、一切の法門品を満足すること、なお金剛の如し。上の『日月道品』に已にその義を明かせり。 |
この人は、生じて、この 『体性爾焔地』に住るとき、 『修行と教化との法門』は、しだいに深妙の華を開き、 『観察と智慧』とは、『体性の中道』に入り、 『一切の法門品』を満足して、金剛よりも堅固になる。 上の、 『日月道品』の中で、すでにこの義は明かした。
日月道品:不明。 注:この体性爾焔地の菩薩は過去の行業相い成って身に無数の法門を具えおわるが故に、六道の中の云何なる衆生身を受けようと、常に中道の智慧を以って三昧に入り、ただひたすら一切の衆生を教化する。
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第五体性慧照地
若佛子。菩提薩埵慧照體性地。法有十種力生品。起一切功コ行。 |
若仏子、菩提薩埵の『慧照の体性地』とは、法に十種の『力の生ずる品』有りて、一切の功徳行を起す。 |
お前たち、仏子よ! 菩提薩埵の、 『慧照の体性地』とは、 『この地の法』には、 『十種の力が生じる品』が有って、 『一切の功徳の行』を起す。
十力(参考):(1)処非処智力、(2)業報智力、(3)初禅解脱智力(4)上下根智力、(5)種種欲智力、(6)種種性智力、(7)一切至処智力、(8)宿命智力、(9)生死智力、(10)漏尽智力。 |
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以一慧方便知善惡二業別行。處力品。善作惡作業智力品。一切欲求願六道生生果欲力品。六道性分別不同性力品。一切善惡根一一不同根力品。邪定正定不定是名定力品。一切因果乘是因乘是果至果處乘因道是道力品。五眼知一切法見一切受生故天眼力品。百劫事一一知宿世力品。於一切生煩惱滅一切受無明滅解脫力品。 |
一慧の方便を以って知る、(1)善悪二業は行を別にすとは、『処力品』なり。(2)善作悪作とは、『業智力品』なり。(3)一切の欲は六道生生の果を求願するなりとは、『欲力品』なり。(4)六道の性分は別して不同なりとは、『性力品』なり。(5)一切の善悪の根は一一不同なりとは、『根力品』なり。(6)邪定、正定、不定とは、これ『定力品』と名づく。(7)一切の因果、この因に乗じ、この果に乗じて、果の処に至る、因に乗ずる道とは、これ『道力品』なり。(8)五眼もて一切法を知る、一切の受生を見るが故に、これ『天眼力品』なり。(9)百劫の事を一一知るとは、これ『宿世力品』なり。(10)一切の生に於いて、煩悩滅し、一切の受と無明と滅すとは、これ『解脱力品』なり。 |
即ち、 『一慧(中道)の方便』を以って、 (1)『善悪二業は、行(六道の果報に趣く)を別にする。』と知る。 これが『処力品』である。 (2)『善の作す(楽報)と、悪の作す(苦報)と』を知る。 これが『業智力品』である。 (3)『一切の欲は、六道に生生輪廻する果を求願する。』と知る。 これが『欲力品』である。 (4)『六道の衆生の性分は別であり、不同である。』と知る。 これが『性力品』である。 (5)『一切の衆生の善悪の根は、一一不同である。』と知る。 これが『根力品』である。 (6)『邪定と、正定と、不定と』を知る。 これが『定力品』である。 (7)『一切の因果』を知り、 『この因に乗じ、この果に乗じて、この果処に至る。』を知り、 『この因に乗ずる道』を知る。 これが『道力品』である。 (8)五眼(肉眼、天眼、慧眼、法眼、仏眼)で、 『一切の法』を知り、 『一切の受生(衆生)』、を見る。 これが『天眼力品』である。 (9)『百劫の事の一一』を知る。 これが『宿世力品』である。 (10)『一切の生にて煩悩が滅した。』と知り、 『一切の受と無明とが滅した。』と知る。 これが『解脱力品』である。
性:衆生の利鈍、得る果の大小、上中下の別、一生、二生、三四五生にてまさに菩提を得べし等。 根:衆生の善悪の種子。善い種子は善を起して現行し、不善の種子は悪を起して現行する等。 邪定:必ず顛倒を破る能わざる定、正定:能く顛倒を破る定、不定:因縁により能不能する。 五眼:(1)肉眼:障礙を通して見れない、(2)天眼:障礙を通して見る、(3)慧眼:ただ空のみを観る、(4)法眼:ただ俗のみを観る、(5)仏眼:千日の如く一切の空俗を照らし観る。 |
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是十力品智。知自修因果。亦知一切眾生因果分別。而身心口別用。以淨國土為惡國土。以惡國土為妙樂土。能轉善作惡轉惡作善。色為非色非色為色。以男為女以女為男。以六道為非六道。非六道為六道。乃至地水火風。非地水火風。 |
この十力品の智もて、自ら修むる因果を知る。また一切衆生の因果の分別を知り、身心口を別用して、浄国土を以って悪国土と為し、悪国土を以って妙楽土と為し、よく善を転じて悪と作し、悪を転じて善と作し、色を非色と為し、非色を色と為し、男を以って女と為し、女を以って男と為し、六道を以って非六道と為し、非六道を以って六道と為し、乃ち地水火風を非地水火風となすに至る。 |
『この十力品の智慧』は、 『自ら修める所の因果』を知り、また 『一切の衆生の因果』を分別して知り、 しかも 『身と心と口とを別用』して、 『浄い国土を、悪い国土であるとし、』 『悪い国土を、妙なる楽土であるとし、』 『善を転じて悪に作りかえ、』 『悪を転じて善に作りかえ、』 『色を色でないとし、』 『色でないものを色とし、』 『男を女であるとし、』 『女を男であるとし、』 『六道を六道でないとし、』 『六道でないものを六道とし、』このようにして、 『地水火風を地水火風でないとする。』までに至る。
身心口別用:身口と心と別して用いる。心に思ってもいない事を言う。 為:みなす。‥‥だと思いこむ。‥‥だと考える。 |
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是人爾時以大方便力。從一切眾生而見不可思議。下地所不能知覺舉足下足事。是人大明智。漸漸進分分智。光光無量無量。不可說不可說法門。現在前行 |
この人、その時、大方便力を以って、一切の衆生に従うも、不可思議の下地の知覚すること能わざる所の挙足下足の事まで見る。この人の大明智とは、漸漸に進みし分分の智なるも、光光の無量無量なる不可説不可説の法門現れ、前に在りて行ず。 |
この人は、その時、 『大方便力』を起して、 『一切の衆生に従い』ながらも、 『思議することもできないほどの事』や、 『下地の菩薩の知覚できない事』を、 例えば、衆生の 『足を挙げたり下ろしたりするような事』まで、を見る。 この人の、 『大明智』とは、 『ゆっくり進み、少しづつ積んだ智慧』ではあるが、 『光光は無量』であり、 『その人の前には、無数の法門が現れる』ので、それを行う。
以大方便力:衆生済度の不思議な力であるが、必ずしも神通力でなく、下に説くような『挙足下足事』を実際に知ることを意味しない。寧ろ、それほど細心に『衆生の事』を知るということであり、衆生済度に必要な事であれば、例え『挙足下足事』でも知るという意味である。 従一切衆生:六道の一切の衆生と同じ形をし、同じ心を持ちながらの意。 不可説不可説:極大数の名として、八十華厳経第45は、(1)阿僧祇、(2)無量、(3)無辺、(4)無等、(5)不可数、(6)不可称、(7)不可思、(8)不可量、(9)不可説、(10)不可説不可説の10を挙げる。 注:この体性慧照地の菩薩は、十力の智慧を以って大方便力を起し、無数の法門を現して一切の衆生の意向に逆らわずに教化する。
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第六体性華光地
若佛子。菩提薩埵體性華光地。能於一切世界中。十神通明智品。以示一切眾生種種變化。 |
若仏子、菩提薩埵の『体性の華光地』とは、よく一切の世界中に於いて、『十神通明智品』を以って、一切の衆生に示して種種に変化す。 |
お前たち、仏子よ! 菩提薩埵の、 『体性の華光地』とは、 一切の世界の中で、 『十神通明智品』を、一切の衆生に示して、 『種種に変化』する。
十神通明智品:十種の神通力。 |
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以天眼明智知三世國土中微塵等一切色。分分成六道眾生身。一一身微塵細色成大色分分知。 |
(1)『天眼の明智』を以って、三世の国土中の微塵等の一切の色の分分に六道の衆生身を成ずと知り、一一の身の微塵の細色は大色を成ずと分分に知る。 |
『天眼の明智』を以って、 『三世の国土の中の微塵に等しい一切の色(四大)が、六道の衆生の身の分分と成る。』と知り、 『一一の身は、微塵の細色(極微の物質)が、大色(肉体の手足等)を成す。』と分分に知る。(1)
微塵:色体の極小、極微。 三世国土中微塵等:三世の国土を微塵にすりつぶして、その一一の微塵の総数に等しい数。 |
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以天耳智知十方三世六道眾生苦樂音聲。非非音。非非聲。一切法聲。以天身智知一切色。色非色。非男非女形。於一念中遍十方三世國土劫量。大小國土中微塵身。 |
(2)『天耳の智』を以って、十方三世六道の衆生の苦楽の音声と、音に非ざるに非ず、声に非ざるに非ざる一切の法声とを知る。(3)『天身の智』を以って、一切の色色は、色に非ず、非男非女の形なるを知り、一念中に於いて、十方の三世の国土に、劫量の大小国土中の微塵の身を遍うす。 |
『天耳の智』を以って、 『十方の三世六道の衆生の苦楽の音声』と、 『音でなくもなく、声でなくもない、一切の法を説く声』とを知る。(2) 『天身の智』を以って、 『一切の色色(諸衆生)は、色(衆生)でなく、男でも女でもない形である。』と知り、 『一念』の中に、 『十方三世の国土』に、 『大小の無数の国土の微塵の数ほどの身』を、遍く現す。(3)
非非音、非非声:山川草木、水流風動、一切諸法の音は、皆法を説く声なり。 劫量:一劫を以って量るほどの量。 |
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以天他心智知三世眾生心中所行。十方六道中一切眾生心心所念苦樂善惡等事。以天人智知十方三世國土中一切眾生宿世苦樂受命。一一知命續百劫。 |
(4)『天の他心智』を以って、三世の衆生の心中の所行と、十方六道中の一切衆生の心心所念の苦楽善悪等の事を知る。(5)『天の人智』を以って、十方三世の国土中の一切衆生の宿世の苦楽と受命を知り、一一に命の続くことの百劫なるを知る。 |
『天の他心智』を以って、 『三世の衆生の心中の所行(心の働き)』と、 『十方の六道中の一切の衆生の心心に念じる所の苦楽善悪等の事』とを知る。(4) 『天の人智』を以って、 『十方三世の国土中の、一切の衆生の宿世の苦楽と受命と』を知り、 『諸の衆生の、命の次第に相続すること』を、一一百劫にわたって知る。(5) |
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以天解脫智知十方三世眾生解脫斷除一切煩惱。若多若少從一地乃至十地滅滅皆盡。以天定心智知十方三世國土中眾生心。定不定非定非不定。起定方法有所攝受三昧百三昧。 |
(6)『天の解脱智』を以って、十方三世の衆生の解脱と、一切の煩悩を断除することの、もしは多く、もしは少なくとも、一地より乃ち十地に至るまでには、滅滅して皆尽くすことを知る。(7)『天の定心智』を以って、十方三世の国土中の衆生の心の、定と不定、非定と非不定、定を起つ方法、摂受する所の三昧には百三昧有るを知る。 |
『天の解脱智』を以って、 『十方三世の衆生の解脱と、断除する一切の煩悩』を知り、 『煩悩は多少にかかわらず、一地より十地に至るまでに滅滅して皆尽きること』を知る。(6) 『天の定心智』を以って、 『十方三世の国土中の衆生の心が、 定に入っているか、定に入っていないか、 定に入ったのではないか、定に入っていないのではないか、 定を起つときの方法は何か。』を知り、 『衆生を摂受する三昧』を、百三昧知る。(7) |
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以天覺智知一切眾生已成佛未成佛。乃至一切六道人心心。亦知十方佛心中所說法。以天念智知百劫千劫大小劫中。一切眾生受命命久近。 |
(8)『天の覚智』を以って、一切衆生は已に成れる仏、未だ成らざる仏なりと知りて、乃ち一切の六道の人の心心にまで至る。また十方の仏の心中の所説の法を知る。(9)『天の念智』とは、(未来)百劫、千劫、大小の劫中の一切の衆生の受命と命の久近を知る。 |
『天の覚智』を以って、 『一切の衆生の、已に仏に成ったか、未だ仏に成っていないか』より、 『一切の六道の人の心心』に至るまでを知り、また、 『十方の仏の心中に説く所の法』を知る。(8) 『天の念智』を以って、 『百劫、千劫、大小の劫中の、一切の衆生の受けた命の、長いと短いと』を知る。(9) |
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以天願智知一切眾生賢聖十地。三十心中一一行願。若求苦樂若法非法。一切求十願。百千大願品具足。是人住地中。十神通明中。現無量身心口分別用。說地功コ。百千萬劫不可窮盡。而爾所釋迦略開神通明品。如觀十二因緣品中說 |
(10)『天の願智』を以って、一切衆生と賢聖との十地、三十心(十発趣、十長養、十金剛心)中の一一の行願の、もしは苦楽を求め、もしは法非法、一切の求むる、十願、百千の大願品の具足するを知る。この人は、住地中、十神通明中に、無量の身心を現わす。口にて用を分別し、地の功徳を説かんにも、百千万劫に窮尽すべからざるも、その所に釈迦は略して『神通明品』を開き、『観十二因縁品』中に説くが如し。 |
『天の願智』を以って、 『一切の衆生と賢聖との、 十地と、三十心(十発趣、十長養、十金剛心)中の、 一一の行願は、 もしは、苦楽を求めるか、 もしは、順法か非法か、 一切は、 十願を求めるか、 百千の大願品を、悉く具足するか』を知る。 この『体性華光地』に住する人は、 この地の中の『十の神通明』の中に、無量の身心を現す。 この地は、 その用を口で分別し、その功徳を説こうにも、 百千万劫にも窮め尽くすことができない。 そこで、 釈迦は、略して『神通明品』を開いた。 これは、 『観十二因縁品』中に説いたのと同じである。
観十二因縁品:不明。 注:この体性華光地の菩薩は、十種の神通力、即ち天眼明智、天耳智、天身智、天他心智、天人智、天解脱智、天定心智、天覚智、天念智、天願智を用いて変化した無量の身心を現し、一切の衆生を教化する。
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第七体性満足地
若佛子。菩提薩埵滿足體性地。入是法中十八聖人智品。下地所不共。所謂身無漏過。口無語罪。念無失念。離八法。一切法中捨。常在三昧。是入地六品具足。 |
若仏子、菩提薩埵の『満足の体性地』とは、この法中に入れば、『十八聖人智品』は、下地と共にせざる所なり。謂わゆる、(1)身に漏過無し。(2)口に語罪無し。(3)念に失念無し。(4)八法を離る。(5)一切法中の捨。(6)常に三昧に在り。これ地に入りて六品具足す。 |
お前たち、仏子よ! 菩提薩埵の、 『満足の体性地』とは、この法の中に入れば、 『十八聖人智品』を、 『下地の菩薩』とは共にしない。 謂わゆる、 (1)『身に漏(煩悩)の過失』が無い。 (2)『口に語罪』が無い。 (3)『念に失念』が無い。 (4)『八法(常楽我淨と無常苦空不浄)』を離れる。 (5)『一切の法(自己の身心を含む一切の事物)』を捨てる。 (6)『常に三昧』に在る。 これが、 この地に入って具足する六品である。
十八不共法(参考):(1)身無失、(2)口無失、(3)念無失、(4)無異想、(5)無不定心、(6)無不知已捨、(7)欲無滅、(8)精進無滅、(9)念無滅、(10)慧無滅、(11)解脱無滅、(12)解脱知見無滅、(13)一切身業随智慧行、(14)一切口業随智慧行、(15)一切意業随智慧行、(16)智慧知過去世無礙、(17)智慧知未来世無礙、(18)智慧知現在世無礙 八法:凡夫の常、楽、我、淨と声聞の無常、苦、空、不浄の八顛倒。 |
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復從是智生六足智。三界結習畢竟不受故欲具足。一切功コ一切法門。所求滿故進心足。一切法事一切劫事一切眾生事。以一心中一時知故念心足。是二諦相。六道眾生一切法故智慧足。知十發趣人中至一切佛無結無習故解脫足。是一切眾生知他人自我弟子無漏無諸煩習故。以智知他身解脫足。 |
またこの智より、六足智を生ず。(1)三界の結と習とを畢竟受けざるが故に、『欲』具足す。(2)一切の功徳、一切の法門は、所求満つるが故に『進心』足る。(3)一切の法事、一切の劫事、一切の衆生事は、一心中に一時に知るを以っての故に『念心』足る。(4)この二諦(真諦と俗諦)の相は、六道の衆生の一切の法なるが故に、『智慧』足る。(5)十発趣人中に一切の仏の無結無習に至ると知るが故に『解脱』足る。(6)一切の衆生を見て、他人、自我、弟子を知るも、無漏にして諸の煩習無きが故に、『智を以って他身を知る解脱』足る。 |
また、 この智慧より、六足智が生じる。 謂わゆる、 (1)『三界の結(煩悩)』と、 『三界の習(煩悩の余気)』とは、もう受けることがない。 その故に、 『欲』が具足する。 (2)『一切の功徳』と、 『一切の法門』とは、求める所を満たす。 その故に、 『進心』が具足する。 (3)『一切の法(事物)の事』と、 『一切の劫(時間)の事』と、 『一切の衆生(六道)の事』とを、『一心中に一時』に知る。 その故に、 『念心』が具足する。 (4)『この二諦の相(真諦の空相と俗諦の六道)は、六道の衆生の一切の法(事物)である』、と知る。 その故に、 『智慧』が具足する。 (5)『十発趣の人(菩提心を発したばかりの人)中に、一切の仏の無結無習に至る心が有る』、と知る。 その故に、『解脱』が具足する。 (6)『一切の衆生』、を見て、 『他人、自我、弟子、師』、を分別して知るが、 『無漏』であり、 『諸の煩悩と習気』が無い。 その故に、 『智を以って他身を知る解脱』が具足する。
注:『是一切衆生』は『見一切衆生』に改める。 注:自他、彼我、彼此の差別を知るも、無漏の中では無罪。 |
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是人入六滿足明智中便起智。身隨六道眾生心行口辯說無量法門品。示一切眾生故。隨一切眾生心行。常入三昧。而十方大地動虛空化華故。能令眾生心行。以大明具足。 |
この人、『六満足明智』中に入るに、便ち智身起りて、(1)六道の衆生の心行に随いて口に無量の法門品を辯説す。(2)一切の衆生に示すための故に一切の衆生の心行に随いて、常に三昧に入るに、十方の大地動いて虚空は華に化するが故に、よく衆生の心行をして、大明を以って具足せしむ。 |
この人は、この 『六満足の明智』中に入れば、すぐにたやすく、 『智身』が起り、 (1)『六道の衆生の心行』に随い、口にて 『無量の法門品』を辯説する。 (2)『一切の衆生』、に示すため、 『一切の衆生の心行』、に随い、常に 『三昧』に入ると、 『十方の大地』が動き、 『虚空』は華に化す。 その故に、 『衆生の心行』に、 『大明を具足』せしめる。 |
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見過去一切劫中佛出世。亦是示一切眾生心。以無著智。見現十方一切國土中一切佛。一切眾生心心所行。以神通智。見未來中一切劫一切佛出世。 |
(3)過去の一切の劫中の仏の出世を見る。(4)またこれを一切の衆生心に示す。(5)無著智を以って、十方に現在する一切の国土中の一切の仏と、一切の衆生の心心の所行を見る。(6)神通智を以って、未来中の一切の劫に一切の仏の出世を見る。 |
(3)『過去の一切の劫』の中に、『仏の出世』を見る。 (4)また、これを『一切の衆生の心』の中に示す。 (5)『無著の智慧』とを以って、 『現在の十方の一切の国土』の中に、 『一切の仏』と、 『一切の衆生』との、 『心心の所行』を見る。 (6)『神通の智慧』を以って、 『未来中の一切の劫』の中の、 『一切の仏の出世』を見る。
注:見現十方一切国土中:他本に従い、見現在十方一切国土中に改める。 |
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一切眾生從是佛受道聽法故。住是十八聖人中心心三昧。觀三界微塵等色是我故身。一切眾生是我父母。而今入是地中。一切功コ一切神光。一切佛所行法。乃至八地九地中一切法門品。我皆已入故。於一切佛國土中。示現作佛成道轉法輪。示入滅度。轉化他方過去來今一切國土中 |
一切の衆生は、この仏に従って道を受け法を聴くが故に、この『十八聖人』中の心心三昧に住し、『三界の微塵等の色は、これわが故の身なり。一切の衆生は、これわが父母なり。しかも今、この地中に入るに、一切の功徳、一切の神光、一切の仏所行の法、乃ち八地、九地中に至るまで、一切の法門品は、われ皆すでに入れり。』と観じ、故に、一切の仏国土中に於いて、仏と作り、道を成じて、法輪を転じ、滅度に入るを示すことを示現し、他方の過去未来今の一切の国土中に転じて化す。
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『一切の衆生』は、 『この仏(智身の菩薩)』に従って、道を受けて法を聴く。 その故に、 『この十八聖人智品中の心心三昧』に住して、 『三界の微塵に等しい色は、わたしの前世の身である。 一切の衆生は、わたしの父母である。 しかも、 わたしは今、 この地中に入って、一切の功徳、一切の神光、一切の仏の所行の法はもとより、 八地、九地中に入るに至るまでの、一切の法門品を得た。』、と観察する。 その故に、 『一切の仏国土』の中に 『身』を現して、『仏』と作り、 『道』を完成させて、『法輪』を転じ、 『滅度』を示して、 また、 『他方の過去、未来、現在の国土』に転じて、 『一切の国土の一切の衆生』を教化する。
入:会得、了解、一体になる。 心心三昧:衆生の心心に種種の別あり、衆生の心心のまま三昧に入り、他の衆生を教化する。 注:この体性満足地の菩薩は、仏の十八不共法の智慧を以って三昧に住し、一切の仏国土中に身を現して仏と成り、法輪を転じ滅度を示して、一切の衆生を教化する。
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第八体性仏吼地
若佛子。菩提薩埵佛吼體性地。入法王位三昧。其智如佛。佛吼三昧故。十品大明定門常現在前。華光音入心三昧。 |
若仏子、菩提薩埵の『仏吼する体性地』とは、『法王位三昧』に入りて、その智は仏の如し。『仏吼三昧』の故に、『十品の大明定門』、常に現れて前に在る、『華光音入心三昧』なり。 |
お前たち、仏子よ! 菩提薩埵の、 『仏吼の体性地』とは、 『法王位三昧』に入れば、 『その智慧』は、仏と同じであり、 『仏吼三昧』に入れば、 『十品の大明定門』が、常に現れて前に在り、 その故に、 『華光音入心三昧』に入る。
仏吼(ぶっく):師子の吼ゆるが如き声を以って、仏は法を説く。 法王位三昧:仏は法の王なることをいう。仏の位に登って法を説く三昧。 仏吼三昧:仏の位に登って法を説く三昧。 十品大明定門:大は仏の持ち物、明は智慧、定は三昧を示す。十種の空慧三昧門をいう。 華光音入心三昧:華、光、音は皆衆生心に入って、それを楽しませ、和ませ、慰める。 |
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其空慧者。謂內空慧門。外空慧門。有為空慧門。無為空慧門。性空慧門。無始空慧門。第一義空慧門。空空慧門。空空復空慧門。空空復空空慧門。 |
その空慧とは、謂わゆる、『内空の慧門』、『外空の慧門』、『有為空の慧門』、『無為空の慧門』、『性空の慧門』、『無始空の慧門』、『第一義空の慧門』、『空空の慧門』、『空空復空の慧門』、『空空復空空の慧門』なり。 |
その『空慧』とは、謂わゆる、 (1)『内空(身心五陰の空)』の慧門、 (2)『外空(境界五塵の空)』の慧門、 (3)『有為空(有為諸法の空)』の慧門、 (4)『無為空(無為涅槃の空)』の慧門、 (5)『性空(諸法自性の空)』の慧門、 (6)『無始空(無前無後の空)』の慧門、 (7)『第一義空(中道第一義諦の空)』の慧門、 (8)『空空(上の空にも無所著の空)』の慧門、 (9)『空空復空(空空もまた空)』の慧門、 (10)『空空復空空(空空復空もまた空)』の慧門である。
第一義空:諸法を離れて外に、別して第一義実相の得べき自性無し。 |
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如是十空門下地所不知。虛空平等地。不可說不可說。神通道智。以一念智。知一切法分分別異。而入無量佛國土中。一一佛前諮受法。轉法度與一切眾生。而以法藥施一切眾生。為大法師為大導師。破壞四魔。法身化化入佛界。 |
かくの如き『十の空門』は、下地の知らざる所の『虚空平等地』の不可説不可説なる『神通の道智』なり。一念の智を以って、一切の法の分分と別異とを知り、しかも無量の仏国土中に入りて、一一の仏の前に諮りて法を受け、法を転じて一切の衆生に与えて度す。しかも法の薬を以って一切の衆生に施し、大法師と為り、大導師と為りて、四魔(煩悩魔、五陰魔、死魔、天魔)を破り、法身、化化して仏界(世間)に入る。 |
この『十の空門』は、 『下地の菩薩』は知らず、 『虚空平等地』に在り、 『無量の神通の道智』である。 この地の菩薩は、 『一念の智(一瞬の智慧)』を以って、 『一切の法の染浄の区分と別異』とを知り、 『無量の仏国土』の中に入り、 『一一の仏』に問うて、 『法の薬』を受け、 『法の薬』を転じて、 『一切の衆生』に施す。 しかも、 『法の薬』を一切の衆生に施して、『大法師』と為り、 『大導師』と為って、『四魔(五陰魔、煩悩魔、死魔、天魔)』を破り、 『法身』を種種に変化して、『仏界(諸仏の境界、世間)』に入る。
道智:道路の峻険、平坦を知る智慧。 虚空平等地:怨親一切を覆う、虚空の如き平等心。 導師:道案内の師。 四魔:修行を遮るもの、五陰魔(身心)、煩悩魔(貪瞋癡)、死魔、天魔。 |
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是諸佛數。是諸九地十地數中。長養法身。百千陀羅尼門。百千三昧門。百千金剛門。百千神通門。百千解脫門。如是百千虛空平等門中。而大自在一念一時行。 |
この諸仏の数と、この九地十地の数との中にて、法身を長養す。百千の『陀羅尼門』、百千の『三昧門』、百千の『金剛門』、百千の『神通門』、百千の『解脱門』、かくの如き百千の『虚空平等門』中に、大自在たりて、一念一時に行う。 |
この諸仏の数の中で、 この九地十地の菩薩の数の中で、 『法身を長養』して、 『百千の陀羅尼(だらに、記憶不忘)門』や、 『百千の三昧(心不散乱)門』、 『百千の金剛(不退不壊)門』、 『百千の神通(六道神出)門』、 『百千の解脱(生死解脱)門』、 このような、 『百千の虚空平等門』の中で、 『大いに自在』であり、 『一念一時』に行うのである。
数:なかま。 法身:仏所説の正法、仏所得の無漏法。所証の理体を理法身、能証の智慧を智法身という。 長養:育て養う。 |
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劫說非劫非劫說劫。非道說道道說非道。非六道眾生說六道眾生。六道眾生說非六道眾生。非佛說佛佛說非佛。而入出諸佛體性三昧中。 |
劫を劫に非ずと説き、劫に非ざるを劫と説く。道に非ざるを道と説き、道を道に非ずと説く。六道の衆生に非ざるを六道の衆生と説き、六道の衆生を六道の衆生に非ずと説く。仏に非ざるを仏と説き、仏を仏に非ずと説いて、しかも『諸仏の体性三昧』中に入出す。 |
この地の菩薩は、 また、 『劫』を説いて、『劫でない』といい、 『劫でないもの』を説いて、『劫である』という。 また、 『道でないもの』を説いて、『道である』といい、 『道』を説いて、『道でない』という。 また、 『六道の衆生でないもの』を説いて、『六道の衆生である』といい、 『六道の衆生』を説いて、『六道の衆生でない』という。 また、 『仏でないもの』を説いて、『仏である』といい、 『仏』を説いて、『仏でない』という。 このようにして、 『諸仏の体性三昧』の中に出入する。
諸仏体性三昧:諸仏の体性に入る。仏に成る。 |
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反照順照逆照。前照後照。因照果照。空照有照。第一中道義諦照。是智唯八地所證。下地所不及。不動不到不出不入不生不滅。是地法門品。無量無量不可說不可說。今以略開地中百千分一毛頭許事。羅漢品中已明 |
反って照らし順に照らし逆に照らす、前に照らし後に照らす、因もて照らし果もて照らす、空もて照らし有もて照らす。第一中道の義諦もて照らす、この智はただ八地の所証にして、下地の及ばざる所なり。不動不倒、不出不入、不生不滅なる、この地の法門品は、無量無量不可説不可説なり。今以って略して地中に開く百千分の一、毛頭ばかりの事は、『羅漢品』中に已に明かせり。 |
この 『仏吼体性の智慧の光』は、 『諸法』を表から照らし、裏から照らし、 『十二因縁』を順に照らし、逆に照らし、 『前世』を照らし、『後世』を照らし、 『因』を照らし、『果』を照らし、 『空理』で照らし、『実有』で照らし、 『中道の第一義諦』で照らす。 この智慧は、ただ 『八地』にのみ、証する所であり、 下地の菩薩の及ぶ所ではない。 また、 不動であり、不倒であり、 不出であり、不入であり、 不生であり、不滅である。 この地の『法門品』は、 無量無量、不可説不可説であり、 今は略して、この地中の百千分の一の毛頭ばかりの事を開いた。 詳細は、 『羅漢品』中に、すでに明かした。
証:智慧の結果を証す。正法を修習し、如実に体験して真理に悟入すること。 羅漢品:不明。 注:この体性仏吼地の菩薩は、十種の空慧を以って無量の仏土で自在に法を説き、諸仏、九地十地の諸菩薩の中で法身を長養する。
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第九体性華厳地
若佛子。菩提薩埵佛花嚴體性地。以佛威儀如來三昧自在王王定。出入無時。於十方三千世界中百億日月百億四天下。一時成佛轉法輪乃至滅度。 |
若仏子、菩提薩埵の『仏花厳の体性地』とは、仏の威儀を以って、如来三昧は自在なる王王のごとく定に出入するに時無し。十方の三千世界中の百億の日月、百億の四天下に於いて、一時に仏と成り、法輪を転じて乃ち滅度に至る。 |
お前たち、仏子よ! 菩提薩埵の、 『仏花厳の体性地』とは、 『仏の威儀』を以って、 『如来三昧』に、自在に入る。 『諸王』が、 城門を、自在に出入するように、 『この定』は、 出入するに、時が無い。 『十方三千世界』の中の、 百億の日月、 百億の四天下に於いて、 『一時』に、 『仏』と成り、 『法輪』を転じて、やがて 『滅度』に至る。
花厳:花は実を生じ、菩薩の万行は仏果仏国を生じる。万行を修めて仏国を荘厳するの意。 威儀:威厳ある態度。起居動作に皆威徳と儀則とが有ること。 如来三昧:一切時一切処に於いて説法自在。 王王:王王は皆城内城外に出入自在なるをいう。 |
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一切佛事以一心中一時示現一切眾生。一切色身。八十種好三十二相。自在樂虛空同。無量大悲光明相好莊嚴。非天非人非六道。一切法外而常行六道。現無量身無量口無量意。說無量法門。 |
一切の仏事は、一心中に一時に、一切の衆生に一切の色身の八十種好、三十二相を示現するを以って、自在に楽しんで虚空に同じ、無量の大悲、光明、相好もて荘厳し、天に非ず、人に非ず、六道に非ず、一切の法の外なれども、常に六道を行じ、無量の身、無量の口、無量の意を現わして、無量の法門を説く。 |
『一切の仏事』とは、 『一心』中に、 『一時』に、 『一切の衆生』に、 『一切の色身』、即ち 『八十種好、三十二相』を、示現することであり、 『自在』に楽しんで、 『虚空』と同じになることであり、 無量の、 『大悲』と、 『光明』と、 『相好』とで荘厳し、 『天』でも、『人』でも、『六道の身』でもなく、 『一切の法(事物)』の外であるが、常に 『六道』に趣き、 『無量の身』と、 『無量の口』と、 『無量の意』とを現して、 『無量の法門』を説く。
相好:好もしいようす。仏には八十種の好(好もしい細部)と三十二相(好もしい部分)とがある。 |
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而能轉魔界入佛界。佛界入魔界。復轉一切見入佛見。佛見入一切見。佛性入眾生性。眾生性入佛性。其地光光光照。慧慧照。明焰明焰。無畏無量十力十八不共法。解脫涅槃無為一道清淨。 |
しかもよく魔界を転じて仏界に入れ、仏界を魔界に入る。また一切の見を転じて仏見に入れ、仏見を一切の見に入る。仏性を衆生性に入れ、衆生性を仏性に入る。その地の光光は光照し、慧慧は照らし、明焔明焔たりて、無畏、無量の十力十八不共法、解脱、涅槃、無為の一道清浄たり。 |
しかも、 『魔界』を転じて、『仏界』に入れ、 『仏界』を転じて、『魔界』に入れる。 また、 『一切の邪見』を転じて、『仏見(正見)』に入れ、 『仏見』を転じて、『一切の邪見』に入れる。 また、 『仏性』を転じて、『衆生の性』に入れ、 『衆生の性』を転じて、『仏性』に入れる。 この『地の智慧』は、 光光光が、明々と一切を照し出して、 『四無畏(一切智無所畏、漏尽無所畏、説障道無所畏、説尽苦道無所畏)』と、 『四無量(慈無量、悲無量、喜無量、捨無量)』と、 『十力(処非処、業報、初禅解脱、上下根、種種欲、種種性、一切至処、宿命、生死、漏尽)』と、 『十八不共法(身無失、口無失、念無失、無異想、無不定心、無不知已捨、 欲無滅、精進無滅、念無滅、慧無滅、解脱無滅、解脱知見無滅、 一切身業随智慧行、一切口業随智慧行、一切意業随智慧行、 智慧知過去世無礙、智慧知未来世無礙、智慧知現在世無礙)』と、 『解脱』と、『涅槃』と、『無為』との一道であり、 清浄である。 |
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而以一切眾生作父母兄弟。為其說法盡一切劫得道果。又現一切國土。為一切眾生相視如父如母。天魔外道相視如父母。住是地中從生死際起至金剛際。以一念心中現如是事。而能轉入無量眾生界。如是無量。略說如海一H |
しかも、一切の衆生を以って父母兄弟と作し、その為に法を説き、一切の劫を尽くして道果を得。また一切の国土に現れて、一切の衆生の為に相い視ること父の如く母の如く、天魔外道すら相い視ること父の如く母の如し。この地中に住して、生死の際より起きて金剛の際に至り、一念の心中にかくの如き事を現わすを以って、よく無量の衆生界に転入す。かくの如き無量のこと、略して説くも海の一Hの如し。 |
しかも、 『一切の衆生』を、父母兄弟とし、 『一切の衆生』の為に、法を説き、 『一切の劫』を尽くして、『道果』を得る。 また、 『一切の国土』に現れて、 『一切の衆生』を、父母兄弟のように視、 『天魔』や、『外道』さえ、父母のように視る。 この『地』の中に住して、 『生死の際(世間)』より起きて、『金剛の際(涅槃)』に至り、 『一瞬の心』の中に、 『これ等の事を現す』ために、 『無量の衆生界に転入』する。 このような、 無量の事は、略して海の一滴ばかりを説いた。
注:この体性華厳地の菩薩は、一切の国土に一時に現れて花の如き万行を以って国土を飾り、やがて花に実が生るように、仏国土を生じる。
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第十体性入仏界地
若佛子。菩提薩埵入佛界體性地。其大慧空。空復空空復空。如虛空性。平等智有如來性。十功コ品具足。 |
若仏子、菩提薩埵の『入仏界の体性地』とは、その大慧とは『空空復空空もまた空』にして、虚空の性の如し。平等智には如来の性有りて、十功徳品具足す。 |
お前たち、仏子よ! 菩提薩埵の、 『入仏界の体性地』とは、その 『大慧』は、 『空空復空空も、また空』であり、 『虚空の性』と同じであり、 『平等の智慧』であり、 『如来の性』が有り、 『十功徳品』が具足している。
空空復空空:『第八体性仏吼地の注』参照。 |
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空同一相體性無為。神虛體一法同法性。故名如來。 |
(1)空に一相を同じうして、体性無為なり。神と虚の体は、一法にして法性に同ず、故に『如来』と名づく。 |
その『如来の性』とは、 (1)『相』は、 『空と同一』であり、その 『体性は無為』である。 『神(精神)』は、 『虚空の体性』と、同一の法(事物)であり、 『法性(真如涅槃)』と、同じである。 その故に、 『如来』という。 |
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應順四諦二諦盡生死輪際。法養法身無二。是名應供。 |
(2)四諦二諦に応順して、生死の輪際を尽くし、法養と法身と無二なり、これを『応供』と名づく。 |
(2)『四諦(苦集滅道諦)』と、 『二諦(真諦、俗諦)』とに順じて、 『生死の輪際(輪廻の世間)』を尽くし、 『法養(法による養い)』は、 『法身(仏の自性)と無二』である。 これを、 『応供(おうぐ、供養に相応する)』という。
法養:衆生を教化教導することが法、法で仏を養うとは、世間に仏国を現すことをいう。 |
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遍覆一切世界中一切事。正智聖解脫智。知一切法有無一切眾生根故。是正遍知。 |
(3)遍く一切の世界中の一切の事を覆い、正智と聖解脱智ともて、一切の法の有無と一切の衆生の根を知るが故に、これ『正遍知』なり。 |
(3)『一切の世界』の中の 『一切の事』を、遍く覆い、 『正智』と『聖解脱智』とで、 『一切の法の有無』と、 『一切の衆生の根』とを知る。 その故に、 これは『正遍知(しょうへんち、正しく遍く知る)』である。 |
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明明修行佛果時足故。是明行足。 |
(4)明明として仏果を修行する時足るが故にこれ『明行足』なり。 |
(4)『光光明明』たるは、 『仏果を修行する時』が具足したのである。 その故に、 これは『明行足(みょうぎょうそく、明らかに修行が具足する)』である。 |
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善逝三世佛法。法同先佛。去佛去時善善來時善善。是名善逝。 |
(5)善く三世を逝くとは、仏の法法は、先仏に同じくして、去る仏の、去る時善善、来る時も善善なり、これを『善逝』と名づく。 |
(5)『善く三世を逝く』とは、 『仏の法法』は、 『先仏の法と同じ』であり、 『去る仏』は、 『去る時が見事』であり、 『来る時も見事』である。 これを、 『善逝(ぜんせい、善く去る)』という。 |
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是人行是上コ。入世間中教化眾生。使眾生解脫一切結縛。故名世間解脫。 |
(6)この人の行は、これ上徳なり。世間の中に入りて衆生を教化し、衆生をして、一切の結縛を解脱せしむるが故に、『世間の解脱』と名づく。 |
(6)この人の 『行い』は、 『上徳』である。 『世間』の中に入って、 『衆生を教化』し、 『衆生に一切の結縛を解脱』させる。 この故に、 『世間の解脱』である。 |
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是人一切法上入佛威神。儀形如佛大士行處。為世間解脫。名無上士。 |
(7)この人は、一切法の上にして、仏の威神に入り、儀形は仏大士の行う処の如く、世間の解脱を為せば、『無上士』と名づく。 |
(7)この人は、 『一切法(万物)中の上』であり、 『仏の威神』が、身に備わる。 この人の、 『威儀(振る舞い)』と 『形容』とは、 『仏や大菩薩』と同じであり、 『世間を解脱』させる。 これを、 『無上士』という。
行処:活動の場。 |
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調順一切眾生。名為丈夫。 |
(8)一切の衆生を調順すれば、名づけて『丈夫』と為す。 |
(8)『一切の衆生』を調順(なつける)する。 これが、 『丈夫(じょうぶ、立派な人)』である。 |
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於天人中教化一切眾生。諮受法言故。是天人師。 |
(9)天人中に於いて一切の衆生を教化して、法言を諮受す。故に、これ『天人師』なり。 |
(9)『天上と人間』の中で、 『一切の衆生』を教化して、 『法の言葉』を、諮受(しじゅ、質疑応答)する。 この故に、 これは『天人師(てんにんし、天人の師)』である。 |
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妙本無二佛性玄覺常常大滿。一切眾生禮拜故尊敬故。是佛世尊。 |
(10)妙(肉身)本(法身)無二にして、仏性の玄覚は常常大満たり。一切の衆生の礼拝するが故に、尊敬するが故に、これ『仏世尊』なり。 |
(10)『妙(妙色身)』と、 『本(法身)』とは、 無二であり、 『仏性の玄覚(奥深い覚り)』は、 常に常に大満足である。 これを、 『一切の衆生』は礼拝して、尊敬すが故に、 『仏世尊』という。 |
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一切人諮受奉教故。是佛地。是地中一切聖人之所入處故。名佛界地。 |
一切の人は、諮受し奉教するが故に、これ『仏地』なり。この地中の一切の聖人の所入の処なるが故に、『仏界地』と名づく。 |
『一切の人』が、 諮受(しじゅ、質疑応答)して、 奉教(ぶきょう、慎んで教を受ける)する。 これは、 『仏地』であり、 『この地中の、一切の聖人が入る処』である。 この故に、これを 『仏界地(仏国土、仏境界)』という。
注:この体性入仏界地の菩薩は、その性に相応しい如来、応供、正遍知、明行足、善逝、世間解脱、無上士、丈夫、天人師、仏世尊の称号、謂わゆる如来の十号を得、仏国土を得て仏地に入り、一切の人が教を受ける。 |
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爾時坐寶蓮花上。一切與授記歡喜。法身手摩其頂。同見同學菩薩異口同音讚歎無二。又有百千億世界中一切佛一切菩薩。一時雲集。請轉不可說法輪。虛空藏化導法門。是地有不可說奇妙法門品。奇妙三明三昧門陀羅尼門。非下地凡夫心識所知。唯佛佛無量身口心意可盡其原。如光音天品中說十無畏與佛道同 梵網經卷上 |
その時、宝蓮花上に坐す一切、授記に与りて歓喜するに、法身は手もてその頂を摩で、同じく見、同じく学ぶ菩薩、異口同音に無二なるを讃歎す。また百千億の世界の中の一切の仏、一切の菩薩有りて、一時に雲集し、不可説の法輪、虚空蔵なる化導の法門を転ぜんことを請う。この地には、『不可説奇妙法門品』、『奇妙三明三昧門』、『陀羅尼門』有るも、下地凡夫の心識の知る所に非ず、ただ仏と仏の無量の身口、心意のみ、その原(もと)を尽くすべし。『光音天品』中に説く『十無畏』と仏道とに同じきが如し。
梵網経巻上 |
その時、 『宝の蓮花』の上に坐す、 『千華上の千釈迦』、『千百億の釈迦』、乃至『一切の諸仏菩薩』は、 『盧舎那仏の授記』に与(あづか)り、歓喜し、 『法身(盧舎那仏)』は、 手で、その『諸仏菩薩の頂』を摩でられた。 『見解と学問』を同じくする 『菩薩』たちは、異口同音に、 『法身』と、『肉身』とが無二であることを、讃歎し、 また、 百千億の世界の中の、 『一切の仏と一切の菩薩』は、 『一時に雲集』して、 『不可説(無数)の法輪』と、 『虚空に蔵する化導法門』とを、転じられるよう請うた、―― この地には、不可説の、 『奇妙の法門品』と、 『奇妙三明(宿命明、天眼明、漏尽明)の三昧門』と、 『陀羅尼(総持不忘)門』とが有りますが、 『下地と凡夫の心識』の、 知る所ではなく、ただ 『仏仏の無量の身口、心意』でのみ、 その『根原』を説き尽くすことができます、と。 これは、 『光音天品』中に、 『十無畏と仏道とは同じである。』と説いたのと同じである。
梵網経巻上 |
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