(その一)

 

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梵網経序

梵網經序

夫宗本湛然。理不可易。是以妙窮於玄原之境。萬行起於深信之宅。是以天竺法師鳩摩羅什。誦持此品以為心首。此經本有一百十二卷六十一品。什少踐於大方。齊異學於迦夷。弘始三年淳風東扇。秦主姚興。道契百王。玄心大法。於草堂之中。三千學士。與什參定。大小二乘五十餘部。唯梵網經最後誦出。時融影三百人等。一時受菩薩十戒。豈唯當時之益。乃有累劫之津。故與道融別書出此心地一品。當時有三百餘人誦此一品。故即書是品八十一部。流通於後代持誦相授。囑諸後學好道君子。願來劫不絕。共見龍華

 

梵網経序

夫れ宗の本は湛然にて、理は易うべからず。ここを以って妙は玄原の境に窮まり、万行は深信の宅に起る。ここを以って天竺の法師鳩摩羅什は、この品を誦持して以って心首と為す。この経は本、一百十二巻六十一品有り。什少くして大方を践み、異学を迦夷(かい)に於いて斉う。弘始三年、淳風東扇するに、秦主姚興、道は百王に契(かな)い、玄心は大法にあり。草堂の中に於いて三千の学士、什に参じて大小二乗の五十余部を定むるに、ただ梵網経、最後に誦出する時、融、影の三百人等、一時に菩薩の十戒を受く。豈ただ当時の益のみならんや、乃ち累劫の津有るが故に、道融と与に別にこの心地の一品を書出せり。時に当りて三百余人有り、この一品を誦すが故に即ちこの品を八十一部書き、後代に於いて流通せしめ、持誦し相授して、諸の後の好道を学す君子に嘱せんとす。願わくは、来る劫にも絶えずして、共に龍華を見んことを。

 

梵網經序 沙門僧肇作

夫梵網經者。蓋是萬法之玄宗。眾經之要旨。大聖開物之真模。行者階道之正路。是以。如來權教。雖復無量。所言要趣。莫不以此為指南之說。是以秦主。識達圜中。神凝紛表。雖威綸四海。而沾想虛玄。雖風偃八荒。而靜慮塵外。故弘始三年淳風東扇。於是。詔天竺法師鳩摩羅什。在長安草堂寺。及義學沙門三千餘僧。手執梵文。口翻解釋。五十餘部。唯梵網經。一百二十卷六十一品。其中菩薩心地品第十。專明菩薩行地。是時。道融道影三百人等。即受菩薩戒。人各誦此品。以為心首。師徒義合。敬寫一品八十一部。流通於世。欲使仰希菩提者。追蹤以悟理故。冀於後代同聞焉

梵網経序  沙門僧肇作

夫れ梵網経とは、蓋しこれ万法の玄宗、衆経の要旨、大聖物の真を開くの模、行者階道の正路なり。ここを以って如来の権教、また無量なりと雖も、言う所の要趣は、これを以って指南の説と為さざるもの莫し。ここを以って秦主、識は圜中に達し、神は紛表を凝らし、威は四海に綸(あまね)しと雖も、想は虚玄を沾し、風は八荒を偃(ふせ)ぐと雖も、塵外を静慮するが故に弘始三年淳風東扇す。ここに於いて、天竺の法師鳩摩羅什に詔して、長安の草堂寺に在らしめ、義学の沙門三千余僧とともに手に梵文を執り、口に解釈を翻すこと五十余部なり。ただ梵網経一百二十巻六十一品、その中の菩薩心地品第十のみは、専ら菩薩の行地を明かす。この時、道融、道影の三百人等、即ち菩薩戒を受くるに、人各々この品を誦して、以って心首と為す。師徒の義を合わせ、敬って一品八十一部を写して世に流通するは、菩提を仰ぎ希う者をして、蹤を追わしめ以って理を悟らしめんが故なり。冀わくは後代に於いても同じく聞かんことを。

 

 

 

 

 

 

 

梵網経盧舎那仏説菩薩心地戒品第十巻上

梵網經盧舍那佛說菩薩心地戒品第十卷

 後秦龜茲國三藏鳩摩羅什譯

梵網経、盧舎那仏説菩薩心地戒品第十、巻の上

  後秦亀茲国の三蔵鳩摩羅什訳す

 梵網経、『盧舎那仏の説く菩薩の心地と戒との品』第十、巻の上

   後秦(こうしん、384−417)亀茲(きじ、西域古国名)国の三蔵、鳩摩羅什訳す

 

  梵網:梵は清浄と訳し、網を因陀羅(いんだら、帝釈天)の宮殿を荘厳せる網に譬える。その網、一一の目に皆宝珠あり、この珠無量にて算すべからず。而してその一一の珠に各地の一切の珠影を現じ、互いに相い映現して隠覆することなく、また一珠の中に映る一切の珠の珠影の一一にも、また各一切の珠の珠影を映す、乃至かくの如く交も映じて重々に影現し、隠顕互いに顕れて重々無尽なるをいう。華厳にては、これを以って一多相の即相入して重々無尽なるの義に比し、或いは境に約して因陀羅網境と云い、或いは定に約して因陀羅網定と云い、或いは土に約して因陀羅網土と云えり。即ち、菩薩の心地、清浄なる網に映ずれば隠覆すること無きに譬える。

  鳩摩羅什(くまらじゅう):父は天竺の出家人、西域亀茲国に至り、国王の妹と婚し鳩摩羅什を生む。その頃母出家し道果を得る。羅什七歳にして母に随いて出家し遍く西域に遊び、その間群籍に通じる。その中に大乗の勝れたることを知る。その後亀茲国は秦の苻堅(ふけん)に攻められ、羅什も獲られ還俗せしめられて涼州に至る。後秦の姚興(ようこう)、涼州を伐つ。羅什始めて長安に入り姚興は国師の礼を以って之を礼す。これより已後長安の西明閣および逍遥園に入り、おもに大乗の経典を訳すこと三百六十余巻して長安において寂す。臨終に言わく『吾が伝える所に謬無し。則ち涅槃の後に、舌焦げ爛れざるべし。』と。これにより逍遥園に於いて火葬にしたところ唯舌のみが焼け残ったと云う。

 

 

 

 

盧舎那仏、菩薩の堅信忍、堅法忍、堅修忍、堅聖忍を明かす

爾時釋迦牟尼佛。在第四禪地中摩醯首羅天王宮。與無量大梵天王不可說不可說菩薩眾說蓮花臺藏世界盧舍那佛所說心地法門品。是時釋迦身放慧光所照。從此天王宮乃至蓮花臺藏世界

その時、釈迦牟尼仏、第四禅地の中の摩醯首羅(まけいしゅら)天王宮に在り、無量の大梵天王と不可説不可説の菩薩衆の与(ため)に、蓮花台蔵世界盧舎那仏所説の心地法門品を説く。この時、釈迦身慧光を放ちて、照らす所は、この天王宮従(よ)り、乃(すなわ)ち蓮花台蔵世界に至る。

その時、

  『釈迦牟尼仏』は、

    『第四禅地の中の摩醯首羅(まけいしゅら、大自在)天の王宮』に在り、

    『無量の大梵天王と、不可説不可説(無数)の菩薩衆』のために、

    『蓮花台蔵世界の盧舎那(るしゃな)仏の所説』である

    『心地法門品』を説いた。

この時、

  『釈迦の身』は、

    『智慧の光』を放って、

    『この天王の宮より、蓮花台蔵世界まで』を照らした。

 

  第四禅地:色界の最頂天。

  摩醯首羅:大自在と訳す、神名。色界の頂に在る大自在天と三千界の主。

  大梵天:梵は清浄と訳し、婬欲を離れた色界諸天の通名。今特に色界初禅天の王を大梵天と称す。

  不可説不可説:数の極大を表す単位中の最大。『新訳華厳経第45』によれば、阿僧祇(あそうぎ、無数)、無量、無数、無等、不可数、不可称、不可思、不可量、不可説、不可説不可説。

  蓮花台蔵世界:盧舎那仏の住処。蓮花の台(うてな)の中に世界の一切を蔵する世界。

  盧舎那:毘盧舎那(びるしゃな)、光明遍照、又は遍一切処と訳す。

  心地:菩薩の菩提心と、その地の如き堅実牢固たる状態。

  品(ほん):梵語、典籍の中などで意味を同じくする一括り。或いは章、篇、又は群、類と訳す。

其中一切世界一切眾生。各各相視歡喜快樂。而未能知此光光何因何緣。皆生疑念。無量天人亦生疑念。爾時眾中玄通華光王菩薩從大莊嚴花光明三昧起。以佛神力放金剛白雲色光光照一切世界。是中一切菩薩皆來集會。與共同心異口。問此光光為何等相。

その中の一切の世界の一切の衆生、各々相い視て歓喜快楽するも、未だこの光光に何(いか)なる因あり、何なる縁あるかを知ること能(あた)わずして、皆疑念を生じ、無量の天人もまた疑念を生ず。その時、衆中の玄通華光王菩薩、大荘厳花光明三昧従り起ちて、仏の神力を以って金剛白雲色の光光を放ち一切の世界を照すに、この中の一切の菩薩、皆来たりて集会し、共に同心異口にて問わく、『この光光、何等の相と為すや。』と。

その

  『光』に照らされて、

  『一切の世界の一切の衆生』は、各各、

    たがいに

      見交わして歓喜し、

      快く楽しんだが、この

    『光』が、

      『何の因縁による』ものか、

      知ることができないので、

    皆、

      『疑念』を生じた。

  『無量の天人』も、

    また、同じように

      『疑念』を生じた。

その時、

  『釈迦牟尼仏の衆』の中の

  『玄通華光王菩薩』は、

    『大荘厳花光明三昧』より起ち、

    『仏の神力』を蒙って、

      『金剛白雲色の光』を放ち、

      『一切の世界』を照らした。

この

  『光に照らされた世界』の中の、

    『一切の菩薩』は、

    皆、この

      『法会に来集』し、心を同じうして、

      『この光は、何を表すのだろうか?』と、問いかわした。

 

  衆:会衆(えしゅう)。法会に集まった大勢の仏弟子。

  玄通華光:玄義に通達する智慧を花の光に譬える。

  大荘厳花光明:花の光にも譬うべき智慧で大いに身を荘厳する。

  三昧:禅定。ただし大乗の仏菩薩の三昧は仏道を行じて一心なることの義を含む。

  仏の神力を蒙る:仏の神力に助けられて。

  金剛白雲色:金剛は物を打砕く最も堅固なる武器または金属。金剛の白色なるを白雲に譬える。

是時釋迦即フ接此世界大眾。還至蓮花臺藏世界百萬億紫金剛光明宮中。見盧舍那佛坐百萬蓮花赫赫光明座上。時釋迦佛及諸大眾。一時禮敬盧舍那佛足下已。釋迦佛言。此世界中地及虛空一切眾生。為何因何緣得成菩薩十地道。當成佛果為何等相。如如佛性本原品中廣問一切菩薩種子

この時、釈迦、即ちこの世界の大衆をフ接(きょうしょう)して、蓮花台蔵世界の百万億の紫金剛光明宮の中に還至し、盧舎那仏に見(まみ)ゆるに、百万の蓮花の赫赫(かくかく)たる光明座の上に坐せり。時に、釈迦仏及び諸の大衆、一時に盧舎那仏の足下に礼敬し已り、釈迦仏の言わく、『この世界の中の地及び虚空の一切の衆生は何なる因、何なる縁を為してか、菩薩の十地の道を成ずることを得し、仏果を成ずるに当りては、何等の相をか為す。』と、『如如、仏性の本原品』中に、広く一切の菩薩の種子を問う。

この時、

  『釈迦』は、

    『この世界の大衆』を、フ(かか)げ持ち、

    『蓮花台蔵世界の百万億の紫金剛の光明の輝く宮』中に、帰還して、

    『盧舎那仏』に、見(まみ)えた。

  『盧舎那仏』は、

    『百万の蓮花の放つ光がまばゆい座』上に坐っている。

その時、

  『釈迦仏』は、

    『大衆』と共に、

    『盧舎那仏』の足もとに敬礼して、――

       この世界の地及び虚空中の、

         『一切の衆生』は、

           『何のような因縁』をなして、『菩薩道の十地』を成就し、

           『仏と成ったとき』には、『何のような相』を取るのか?と、

    『如如仏性本原品』中の、

    『盧舎那仏』に、

      『一切の菩薩』の中に在る、

      『仏と成るための種子(たね)』を問うた。

 

  大衆:大勢の仏弟子。

  紫金剛:紫金色の金剛。

  盧舎那:或いは毘盧遮那、光明遍照と意訳す。法身の仏。

  十地:地の如く堅実牢固なる菩提心の十の側面。

  如如:如は如来法身の自性、真如。各各衆生心中に在るが故に如如という、仏性。

  仏性:衆生中に在る仏の本性。非衆生中に在る分を法性という。

  本原:みなもと。

  如如仏性本原品:品は同類の集合。如如、仏性の本原とは法性、法身の盧舎那仏を指す。

爾時盧舍那佛即大歡喜。現虛空光體性本原成佛常住法身三昧。示諸大眾。是諸佛子。諦聽善思修行。我已百阿僧祇劫修行心地。以之為因初捨凡夫成等正覺號為盧舍那。住蓮花臺藏世界海。

その時、盧舎那仏は即ち大いに歓喜して、虚空の光の体性の本原を現わし、仏の常住法身三昧を成じて、諸の大衆に示すらく、『この諸の仏子、諦聴し善思し修行せよ。我が百阿僧祇劫の修行を已(お)えたる心地は、これを以って因と為し、初めて凡夫を捨てて等正覚を成じ、盧舎那と号して、蓮花台蔵世界海に住す。

その時、

  『盧舎那仏』は、

    大いに歓喜して、

      『虚空の光の体性の本原』を現し、

      『仏の常住法身三昧』を成就して、

    この大衆に、示した、――

       諸の仏子たちよ、

         明らかに聞き取り、

         善く思念して、

         修行せよ!

       わたしは、

         『百阿僧祇(あそうぎ、無数)劫の間の修行』を、已におえ、

       その『心地』に於いて、初めて、

         『凡夫』たることを捨てて、『仏』と成り、

         『盧舎那』と号して、

         『蓮花台蔵世界』に住す。

 

  体性:物の実質を体といい、体の無改を性という、体は即ち性なり。即ち、法の主質、またはその存立の根本条件となる実体をいう。これに通別、或いは総別の二あり。通というは、空、無相、無我、無常など一切の通性をいい、別は火の熱性、水の湿性、或いは善性、悪性など、個別の事物に特有不変の性質をいう。

  虚空光体性本原:前に説く釈迦身の智慧光、玄通華光王菩薩の金剛白雲色光、蓮花台蔵世界の紫金剛光等、一切の光の本原、即ち法身の盧舎那仏。

  常住法身:法身とは世界に遍満し常住する道理そのものであり、仏の体性である。

  常住法身三昧:現前に常住の法身を顕現する三昧。

  阿僧祇:無数と訳す。

  劫:宇宙の生滅の周期。無限に近似の時間。

  心地:菩提心と、その堅固なることを大地に譬える。また地によって花の生じるがごとく、心によって仏法は生じる。

  凡夫:聖人の反対語。

  世界海:世界が広いことを海に譬える。

  盧舎那仏、蓮花台蔵世界:盧舎那仏は、ここに『わが百阿僧祇劫の修行を已えたる心地、これを以って因と為し、初めて凡夫を捨てて、等正覚を成ず』とあるを以って、この仏を報仏、即ち『修行を因とする果報として得た仏』と考えられ、またここに言う『仏常住法身三昧』を以って、法身仏、即ち『常住不変の真理』であるとも考えられるので、法身報身を兼ね備えた仏であることが分かるが、釈迦牟尼仏のこの娑婆世界は未だ理想境にはほど遠いことに注目して更に考えるならば、蓮花台蔵世界とは釈迦牟尼仏の心中に映ずる架空の理想境であり、その教主盧舍那仏とはその架空境を主宰する釈迦牟尼仏の心中の化身である。

其臺周遍有千葉。一葉一世界為千世界。我化為千釋迦據千世界。後就一葉世界。復有百億須彌山百億日月百億四天下百億南閻浮提。百億菩薩釋迦坐百億菩提樹下。各說汝所問菩提薩埵心地。其餘九百九十九釋迦。各各現千百億釋迦亦復如是。千花上佛是吾化身。千百億釋迦是千釋迦化身。吾已為本原名為盧舍那佛

『その台は周遍して千葉有り、一葉に一世界、千世界を為す。われ化して千釈迦と為って千世界に拠る。後には、一葉世界に就きて、また百億の須弥山、百億の日月、百億の四天下、百億の南閻浮提あり。百億の菩薩釈迦、百億の菩提樹の下に坐して、各汝が所問の菩提薩埵の心地を説く。その余の九百九十九の釈迦も、各各千百億の釈迦を現わすこと、またまたかくの如し。千花上の仏とはこれ吾が化身なり。千百億の釈迦はこれ千釈迦の化身なり。吾は已に本原為り、名づけて盧舎那仏と為す。』と。

その

  『蓮花台』は、まわりに

    『千の花弁』が有り、

    『一一の花弁』には、一世界が有り、

  総じて、

    『千の世界』をなす。

わたしは、化して、

  『千の釈迦』となり、その、

  『千の世界』を拠点とする。

その後の、

  『一一の花弁の中の世界』にも、また

    『百億の須弥山、百億の日月、百億の四天下、百億の閻浮提』があり、

    『百億の菩薩の釈迦』が、百億の菩提樹の下に坐して、各々、今お前の問うた

    『菩提薩埵(ぼだいさった、菩薩)の心地』を説く。

  その他の『九百九十九の花弁』の中の釈迦も、各々、

    『千百億の釈迦』を現して、

    同じように、説く。

  『千の花弁の上の仏』は、皆、

    『わたしの化身』であり、

    『千百億の釈迦』も、みな『千の釈迦の化身』である。

  『わたしこそ』は、その

    『本原』であり、その名を

    『盧舎那仏』という。

 

  百億:千の三乗、即ち十億というのと同じ。三千大千ともいう。

  須弥山:海中に聳える山であり、周囲を四大洲、謂わゆる四天下が取り囲む。

  南閻浮提:閻浮提。印度を中心とする南の大洲。

:一花弁の中の世界にもまた百億の須弥山、百億の四天下、百億の閻浮提、百億の菩薩の釈迦があり、その一一の釈迦はまた同じように、蓮花台蔵世界を胸中に蔵し、毘盧遮那法身を懐くのである。即ち無限大から無限小に至る、あらゆる世界に於いて法身は遍満し同一無二の道理が満ちている。

爾時蓮花臺藏座上盧舍那佛。廣答告千釋迦千百億釋迦。所問心地法品。諸佛當知。堅信忍中。十發趣心向果。一捨心。二戒心。三忍心。四進心。五定心。六慧心。七願心。八護心。九喜心。十頂心。

その時、蓮花台蔵座上の盧舎那仏、広く千釈迦、千百億釈迦の問う所に答えて告ぐらく、『心地法品とは、諸仏、まさに知るべし。堅信忍中には十発趣心の向果、一に捨心、二に戒心、三に忍心、四に進心、五に定心、六に慧心、七に願心、八に護心、九に喜心、十に頂心あり。

その時、

  『蓮花台に蔵する座上の盧舎那仏』は、広く

    『千の釈迦、千百億の釈迦の問い』に答えた、――

      『心地法品』とは、

         諸仏よ、このように知れ!

 『堅信忍』中には、

   『十発趣心の向果』が有り、

     一は『捨心』、二は『戒心』、三は『忍心』、四は『進心』、五は『定心』、

     六は『慧心』、七は『願心』、八は『護心』、九は『喜心』、十は『頂心』である。

 

  堅信忍:堅く信じることに忍び堪える位。

  発趣心:発菩提心。仏に成ろうとする心。最初の心得。

  向果:向は修行中、果はその成果。途中と結果。

:最初の六、捨心、戒心、忍心、進心、定心、慧心は六波羅蜜に相当する。六波羅蜜:(1)布施波羅蜜:菩薩は布施(与える)を以って一切の衆生を彼岸に渡す。(2)持戒波羅蜜:菩薩は持戒(取らない、害しない)を以って一切の衆生を彼岸に渡す。(3)忍辱波羅蜜:菩薩は忍辱(取られても瞋らず、害されても瞋らない)を以って一切の衆生を彼岸に渡す。(4)精進波羅蜜:布施持戒忍辱の各波羅蜜は惓まず怠らずに行う。(5)禅定波羅蜜:布施持戒忍辱精進の各波羅蜜は脇目も振らず一心に行う。(6)般若波羅蜜:布施持戒忍辱精進禅定の各波羅蜜は一切の考慮、分別、疑悔を捨て、ひたすら無心に行う。

諸佛當知。從是十發趣心入堅法忍中。十長養心向果。一慈心。二悲心。三喜心。四捨心。五施心。六好語心。七益心。八同心。九定心。十慧心。

『諸仏、まさに知るべし。この十発趣心より、堅法忍中に入るに、十長養心の向果、一に慈心、二に悲心、三に喜心、四に捨心、五に施心、六に好語心、六に益心、八に同心、九に定心、十に慧心あり。

 諸仏よ、このように知れ!この

 『十発趣心』から入る、

 『堅法忍』中には、

   『十長養心の向果』が有り、

     一は『慈心』、二は『悲心』、三は『喜心』、四は『捨心』、五は『施心』、

     六は『好語心』、七は『益心』、八は『同心』、九は『定心』、十は『慧心』である。

 

  堅法忍:堅く諸法を忍び堪える位。

  長養心:菩提心を長じ養う心。

:最初の四は四無量心に相当し、次の四は四摂法に相当する。四無量心:(1)慈無量心:無量の衆生に無量の楽を与えて一切の衆生を度す。(2)悲無量心:無量の衆生の無量の苦を抜いて一切の衆生を度す。(3)喜無量心:無量の衆生の喜びを自らの無量の喜びとして一切の衆生を度す。(4)捨無量心:無量の衆生を総て平等に見て愛憎怨親の心を起さず一切の衆生を度す。四摂法:(1)布施摂:衆生の根性に随い財を好む者には財を施し、法を好む者には法を施して衆生に親愛の心を生じ、それに依って道を受け入れさせる。即ち布施を以って衆生を摂受する。(2)愛語摂:衆生の根性に随い善言慰喩を以って衆生を摂受する。(3)利行摂:身口意の善行の利益を以って衆生を摂受する。(4)同事摂:衆生と行い事業を同じうするを以って衆生を摂受する。

諸佛當知。從是十長養心入堅修忍中。十金剛心向果。一信心。二念心。三迴向心。四達心。五直心。六不退心。七大乘心。八無相心。九慧心。十不壞心。

『諸仏、まさに知るべし。この十長養心より、堅修忍中に入るに、十金剛心の向果、一に信心、二に念心、三に迴向心、四に達心、五に直心、六に不退心、七に大乗心、八に無相心、九に慧心、十に不壊心あり。

 諸仏よ、このように知れ!この

 『十長養心』から入る、

 『堅修忍』中には、

   『十金剛心の向果』があり、

     一は『信心』、二は『念心』、三は『迴向心』、四は『達心』、五は『直心』、

     六は『不退心』、七は『大乗心』、八は『無相心』、九は『慧心』、十は『不壊心』である。

 

  堅修忍:堅く修めて忍び堪える位。

  金剛心:金剛のごとく堅固なる菩提心。

諸佛當知。從是十金剛心。入堅聖忍中。十地向果。一體性平等地。二體性善慧地。三體性光明地。四體性爾焰地。五體性慧照地。六體性華光地。七體性滿足地。八體性佛吼地。九體性華嚴地。十體性入佛界地。是四十法門品。

『諸仏、まさに知るべし。この十金剛心より、堅聖忍中に入るに、十地の向果、一に体性平等地、二に体性善慧地、三に体性光明地、四に体性爾焔地、五に体性慧照地、六に体性華光地、七に体性満足地、八に体性仏吼地、九に体性華厳地、十に体性入仏界地あり。これ四十法門品なり。

 諸仏よ、このように知れ!この

 『十金剛心』から入る、

   『堅聖忍』中には、

     『十地の向果』が有り、

       一は『体性平等地』、二は『体性善慧地』、三は『体性光明地』、

       四は『体性爾焔(にえん、学問)地』、五は『体性慧照地』、六は『体性華光地』、

       七は『体性満足地』、八は『体性仏吼地』、九は『体性華厳地』、

       十は『体性入仏界地』である。

 これが、

   四十の法門品である。

 

  堅聖忍:堅く聖行を忍び堪える位。

  十地:堅実牢固なる菩提心の完成された十の側面。

  爾焔(にえん):梵語ジュニェーヤ。学ぶべきもの。十八大経等の婆羅門必須の学問など。十八大経:(1)利倶吠陀(りぐべいだ、リグヴェーダ):太古よりの賛美歌の集成。(2)撒買吠陀(さんまいべいだ、サーマヴェーダ):賛歌に音楽を付して祭式に実用する。(3)亜求羅吠陀(あぐらべいだ、ヤジュールヴェーダ):季節ごとの祭祀の時の散文による呪文を集める。(4)加阿他羅滑吠陀(かあたらかべいだ、アタルヴァヴェーダ):さまざまな災難から遁れる呪文等の日常の祈念に用いる祭歌などを集める。(5)式叉(しきしゃ)論:六十四種の能法(のうほう、技芸学問)を釈す。(6)毘伽羅(びから)論:諸音声の法を釈す。(7)柯刺波(からは)論:諸天、仙人の上古以来の因縁と名字を釈す。(8)竪底沙(じゅていしゃ)論:天文地理算数等の法を釈す。(9)闡陀(せんだ)論:仏弟子、五通の仙人等を偈によって説く。(10)尼鹿多(にろくた)論:一切の物名を立て因縁を釈す。(11)肩亡婆(けんもうば)論:諸法の是非を簡単に釈す。(12)那邪毘薩多(なじゃびさった)論:諸法の道理を明かす。(13)伊底呵婆(いていかば)論:伝記、宿世の事を明かす。(14)僧佉(そうきゃ)論:二十五諦なる者を明かす。(15)課伽(かが)論:心を摂する法を明かす。(16)陀菟(だつ)論:用兵の法を釈す。(17)ノ闥婆(けんだつば)論:音楽の法を明かす。(18)阿輸(あゆ)論:医方なる者を明かす。

我先為菩薩時修入佛果之根原。如是一切眾生。入發趣長養金剛十地。證當成果。無為無相大滿常住。十力十八不共行。法身智身滿足

『われ先に菩薩為りし時、仏果の根原に修入せり。かくの如し、一切の衆生、発趣、長養、金剛、十地に入らんに、まさに成ずべき果を証して、無為無相を大いに満じ、常に十力、十八不共行に住して、法身、智身を満足すべし。』

 わたしが、先に、

   『菩薩であった時』に、修行して、

   『仏果の根原に入った』ように、

 『一切の衆生』も、この

   『十発趣』、『十長養』、『十金剛』、『十地』を証得(確証会得)すれば、やがて、

   『仏果』を実証する。その

 『仏果』は、

   『無為』と、『無相』とを大いに満たして、

 常に、

   『十力』と、『十八不共法』とに住し、

   『法身』である、『智身』を満足する。

 

  十力:仏の持つ十の智慧。(1)処非処智力:物ごとの道理と非道理を知る智力。処は道理。(2)業異熟智力:一切の衆生の三世の因果と業報を知る智力。異熟とは果報のことであるが、まだその果報の善悪が決定していないこと。(3)静慮解脱等持等至智力:諸の禅定と八解脱と三三昧を知る智力。(4)根上下智力:衆生の根力の優劣と得るところの果報の大小を知る智力。根とは能く生ずること、何かを生み出す能力。(5)種々勝解智力:一切衆生の理解の程度を知る智力。(6)種々界智力:世間の衆生の境界の不同を如実に知る智力。(7)遍趣行智力):五戒などの行によりゥ々の世界に趣く因果を知る智力。(8)宿住隨念智力:過去世の事を如実に知る智力。(9)死生智力:天眼を以って衆生の生死と善悪の業縁を見通す智力。(10)漏尽智力:煩悩をすべて断ち永く生まれないことを知る智力。

  十八不共法:(1)身無失:仏は戒定慧と智慧と慈悲を用いて常にその身を修めるが故に一切の煩悩がない。(2)口無失:その為に身の過失がなく、口の過失がなく、(3)念無失:心に思うことにも過失がない。(4)無異想:仏は一切の衆生を平等に済度して、心に選ぶことがない。(5)無不定心:仏は行住坐臥において勝れた禅定にあって、心が散乱することがない。(6)無不知己捨:仏は一切の物事に通じてそれに執著しない。(7)欲無滅:仏は衆生を済度することを欲して、厭きることがない。(8)精進無滅:仏は衆生を済度して休息することがない。(9)念無滅:仏は三世の諸仏の法と一切の智慧に相応して満足し、その状態から退くことがない。(10)慧無滅:仏は一切の智慧を具えて尽きることがない。(11)解脱無滅:仏は一切の執著を永久に遠離していること。(12)解脱知見無滅:仏は一切に解脱しているため、あらゆることを実相のままに理解することができる。(13)一切身業隨智慧行:仏の智慧はすべて衆生を導くために使われる。(14)一切口業隨智慧行:それは仏のすべての身体の行為と、説法と、(15)一切意業隨智慧行:心の働きのすべてに及ぶ。(16)智慧知過去世無礙:仏の智慧は全ての衆生の過去世を礙(さまたげ)なく照らし知ることができる。(17)智慧知未来世無礙:未来世も同じ。(18)智慧知現在世無礙:現在世も同じ。

爾時蓮花臺藏世界盧舍那佛。赫赫大光明座上。千花上佛千百億佛一切世界佛。是座中有一菩薩名華光王大智明菩薩。從坐而立白盧舍那佛言。世尊佛。上略開十發趣十長養十金剛十地名相。其一一義中未可解了。唯願說之。唯願說之。妙極金剛寶藏一切智門。如來百觀品中已明問

その時、蓮花台蔵世界には、盧舎那仏、赫赫たる大光明座の上にあり、千花上には仏と、千百億の仏と、一切の世界の仏とあり。この座の中に、一菩薩、華光王大智明菩薩と名づくる有り、坐従り立ちて、盧舎那仏に白(もう)して言わく、『世尊の仏、上に略して開きたまいし、十発趣、十長養、十金剛、十地の名相、その一一の義の中は、未だ解了すべからず。唯、願わくはこれを説きたまえ。唯、願わくはこの妙極を、金剛の宝蔵、一切智の門を、如来百観品中に已に明かしたまえる問を、説きたまえ。』

その時、

  『蓮花台蔵世界』には、

    『盧舎那仏』が、大光明のまばゆい座上にあり、

  『千の花弁』の上には、

    『千の仏』と、『千百億の仏』と、『一切の世界の仏』とがあった。

この座の中に、

  『一人の菩薩』があり、名を『華光王大智明菩薩』といった。

この菩薩は、

  座より立ちあがると、『盧舎那仏』にこう言った、――

    世尊の仏よ!

    上に、

      『十発趣』と、『十長養』と、『十金剛』と、『十地』とを

        略して、開明されたが、その

      『一一の義』は、

        未だ、解了できない。

      ただ、これを説かれよ!

      ただ、これを説かれよ!

      『妙の極まり』を、『金剛の宝蔵』を、『一切の智門』を、

      『如来百観品』中に、已に明かされた問いを、説かれよ!

 

  如来百観品:不明。

 

 

 

 

 

堅信忍中の十発趣心

爾時盧舍那佛言。千佛諦聽。汝先言云何義者。發趣中

その時、盧舎那仏言わく、『千仏諦聴せよ。汝が先に言える云何なる義とは、発趣中に、――

その時、

  『盧舎那仏』は言った、――

     千の仏たちよ、明らかに聞け!

     お前たちの、先に言う所の、『何のような義か』に答えよう。

  『発趣』中の――

 

  発趣:菩提心を発して菩提に趣く。

  十発趣心捨心、戒心、忍心、進心、定心、慧心、願心、護心、喜心、頂心。

若佛子捨心者。一切捨。國土城邑田宅金銀明珠。男女己身有為諸物一切捨無為無相。我人知見假會合成。主者造作我見十二因緣。無合無散無受者。十二入十八界五陰。一切一合相無我我所相。假成諸法。若內一切法外一切法不捨不受。菩薩爾時名如假會觀現前。故捨心入空三昧

若(なんじ)仏子、『捨心』とは、一切を捨つるなり。国土、城邑、田宅、金銀、明珠、男女の己が身、有為の諸物の一切を捨つれば、無為無相なり。『我』と『人』との知見は仮に会して合成し、『主者』とは我見を造作する十二因縁なり。合する無く、散ずる無く、受くる無しとは十二入、十八界、五陰は、一切一合の相にして、『我我所』の相も無く、仮に諸法を成ずればなり。もし、内なる一切の法、外なる一切の法を、捨てずして受けずんば、菩薩その時、『仮に会するが如く現前に観るが故の捨心もて空三昧に入る』と名づく。

お前たち、仏子よ!

『捨心』とは、

  『一切を捨てる』ことである。

  『国土、城邑、田宅、金銀、明珠、男女の己の身』など、

  『有為(うい、因縁の和合して造作する所)の諸物の一切』を、捨てれば、

それ等は、

  『無為(むい、因縁和合の造作でないこと)』であり、

  『無相(彼我、彼此、男女等一切の相が無い)』である。

即ち、

  『我(自己)であり、人(他人)である』、と知見するものは、

    『四大(地水火風)』が仮に合会して、

    『五陰(色受想行識、身心)』を合成するのである。

  『主(我の主宰者、心識)』は、

    『我見(空無我を否定する邪見)』を造るが、

  『我見』とは、

    『十二因縁(無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死を生じる妄念)』に過ぎず、

  本より、

    『合する』ことも無く、

    『散ずる』ことも無く、

    『知見を受ける』ことも無い。

  『十二入(六根六境、身心の十二分支)』も、

  『十八界(六根六境六識、身心の十八分支)』も、

  『五陰(色受想行識、身心の五分支)』も、一切は、

    『一に合する相』であり、

  その中には、

    『我()の相』も無く、

    『我所(我の所有、身心)の相』も無く、

  仮に、

    『諸法(万物、五陰十二入十八界等)を成じる』に過ぎない。

  もし、

    『内の一切の法(眼耳鼻舌身意、六根)』と、

    『外の一切の法(色声香味触法、六境)』との知見を、

      『捨てる』ことも無く、

      『受ける』ことも無ければ、

  『菩薩の、その時』を、

    『現前の物を仮の合会である、と観る捨心によって空三昧に入る』という。

 

  若:『なんじ』と読む。

  十二因縁:本来は空であるべき人が、如何にして我は実在するという誤った自覚を得るのか、との問いに対する答え。人は(1)無明(むみょう、愚昧、盲目的無智)という因を中心にして、(2)行(ぎょう、身の活動)と、(3)識(しき、心の活動)とを得て、(4)名色(みょうしき、身心)となり、(5)六処(ろくしょ、眼耳鼻舌身意)を具えて、(6)触(そく、接触)する事物を、(7)受(じゅ、感受)して、(8)愛(あい、愛憎)を生じ、(9)取(しゅ、執著)することにより、(10)有(う、生存、彼我の区別)を自覚し、(11)生(しょう、生命、生活)を自覚し、(12)老死(ろうし、生を失う苦しみ)を自覚する。

  十二入、十八界、五陰:皆人の身心を表し、同じものである。

  空三昧:わが身は無く、わが心も無いと考えて空に同じ、衆生済度に無礙なること。

:布施波羅蜜に則してこれを説けば、捨心は施心である。有る人、一切は空にして諸法は平等なりと教えられ、空に目覚め平等の地平に立ちてこれを観れば、一切の衆生は自己であり、与える者と受ける者とに差別はない、このように悟って無明の自我を捨てる、これが捨心である。この捨心は空平等の智慧を性と為し、これに従って一切の善心を生じる。

若佛子。戒心者。非非戒無受者。十善戒無師說法。欺盜乃至邪見無集者。慈良清直正實正見捨喜等。是十戒體性。制止八倒一切性離一道清淨

若仏子、『戒心』とは、戒に非ずんば受くる者無きに非ず。十善戒は無師の説法にして、欺、盗より乃ち邪見に至るまで集むる者を無からしめ、慈、良、清、直、正、実、正見、捨、喜、等、これ十戒の体性にして、八倒を制止す。一切の性は、離にして一道の清浄なり。

お前たち、仏子よ!

『戒心』とは、

  『戒で無ければ、受けない』ということではない。

『十善(殺生、偸盗、邪淫、妄語、両舌、悪口、綺語、貪欲、瞋恚、邪見)戒』は、

  『無師(自然)の説法』であり、

  『人を欺くことや、物を盗むことから、邪見に至るまで』の、

  『罪を集めさせない』ことである。

『十戒の体性』は、

  『慈(不殺生)』と、『良(不偸盗)』と、『清(不邪淫)』と、

  『直(不妄語)』と、『正(不両舌)』と、『実(不悪口)』と、『正見(不綺語)』と、

  『捨(不貪欲)』と、『喜(不瞋恚)』と、『平等(不邪見)』とであり、

  『八倒(常楽我淨、無常無楽無我無浄の邪見)』を制止することである。

『十戒の一切の性』は、

  『悪を離れる』ことであり、

  『一道(枝道の無い真直ぐな道)』であり、

  『清浄(菩提心を妨げない)』である。

 

  八倒:凡夫の陥る八種の顛倒の境地。八種とは常楽我淨と無常無楽無我無浄をいう。

:謂わゆる十善戒、即ち殺生戒、偸盗戒、邪淫戒、妄語戒、両舌戒、悪口戒、綺語戒、貪欲戒、瞋恚戒、邪見戒は自然の戒であり、一切の衆生中に既に具わる。持戒波羅蜜に則してこれを説けば、空平等の心では、一切の衆生は自己に同一し、殺生、偸盗できる道理が無い、これが戒心である。

若佛子。忍心者。有無相慧體性。一切空空忍一切處忍。名無生行忍一切處得名如苦忍。無量行一一名忍。無受無打無刀杖瞋心皆如如。無一一諦一相。無無相。有無有相。非非心相。緣無緣相。立住動止我人縛解。一切法如。忍相不可得

若仏子、『忍心』とは、有無の相の慧の体性にして、一切の空空を忍じ、一切の処に忍じて、『無生』と名づく。『忍を一切の処に行う』とは、『苦の如きを忍ず』と名づくることを得て、無量の行の一一を『忍』と名づく。受くる無く、打つ無く、刀杖も無くんば、瞋心は皆如如なり。 一として一の諦も一相も無く、無相も有無も有相も無し。心相に非ざるに非ずして、無縁の相に縁ず。『立』、『住』、『動』、『止』、『我』、『人』、『縛』、『解』、一切の法は如にして、『相を忍ずる』ことの、不可得なればなり。

お前たち、仏子よ!

『忍心』とは、

  『有無の相に於ける、智慧の体性』である。

  『一切は空空(諸法の各各が空)である』と、

  『一切の処』に、忍(にん、認識と忍耐)じることであり、

それを、

  『無生』という。

『忍を一切の処に行う』とは、

  『苦の如きを忍じる』ことであり、

  『無量の行の一一』が、

    『忍』である。

危害は、

  『加える者』も無く、

  『受ける者』も無く、

  『武器』も無いとすれば、

『瞋心』でさえ、皆

  『如如(涅槃寂静)』である。

一つとして、

  『一諦(覚知)』も、

  『一相(覚智の対境)』も無く、

  『無相』も、

  『有無相』も、

  『有相』も無い。

一切は、

  『心相(心に映じた相)でない』ものは無く、ただ

  『無縁の相(本来縁じることの無い相)』に縁じているのである。

即ち、

  『立』、『住』、『動』、『止』、『我』、『人』、『縛』、『解』等、

  『一切の法(事物)』は、

    『真如(涅槃寂滅)』であり、

    『忍の相』は、得られない。

 

  忍:逆順の境に於いて、安然自如たること。又、堪え忍び認めることをいう。認めたくないことを忍ぶ。

  空空:諸法の一一が空。あれも空、これも空の意。

  如如:一一の衆生心中の一一の如(真如)。

  一諦一相:一一の相を一一覚知すること。

  非非心相:一切は心に映じた相に他ならない。

  縁無縁相:真如は縁じるものではないが、敢えて縁じるという。

  忍相:忍ぶこと。これが忍であると指摘できる特徴。

:忍辱波羅蜜に則してこれを説けば、空平等の心では、危害を加える者と受ける者とに差別なく、瞋恚を起す道理が無いと認められる、これが忍心である。

若佛子。進心者。若四威儀一切時行。伏空假會法性。登無生山。而見一切有無如有如無。大地青黃赤白一切入。乃至三寶智性。一切信進道。空無生無作無慧。起空入世諦法亦無二相。續空心通達進分善根

若仏子、『進心』とは、四威儀の一切の時に行ずるが若し。空を伏して、仮に法性に会す。無生の山に登りて、一切の有無を有の如く無の如くと

見て、大地青黄赤白の一切入より、乃ち三宝の智性に至るまで、一切を信じて道を進む。空、無生、無作、無慧もて、空を超えて世諦法に入るも、また二相無き、空心に続いて通達する進分の善根なり。

お前たち、仏子よ!

『進心』とは、

  『四威儀(行住坐臥)の一切の時に行う』ことをいい、

  『空』を制圧して、仮に、

    『法性(諸法中の真如)を会得する』ことである。

  『無生()』の山に登って見れば、一切の

    『有無』は、

      『有』のようでもあり、

      『無』のようでもある。

  『大地の青黄赤白の一切に入って観察する(十一切入)』ことから始めて、

  『三宝(仏法僧)の智性』を得るに至るまで、一切の

    『道を信じ』て進めば、

      『諸法は空』であり、

        『生死』も無く、

        『所作』も無く、

        『智慧』も無いと悟る。更に

    『空』を超えて、

      『世諦法(世俗の道理、輪廻、因果)』に入れば、

    また、

      『真諦(空、平等)』も

      『俗諦(輪廻、因果)』も、

        二相として有るものではない。

即ち、

  『空心に続いて通達』すべき、

  『精進という善根』である。

 

  伏空仮会法性:空に住すれば、会得も不会得も無いが故に、仮にという。

  法性:二義有り。一は無漏心を用いて諸法を分別すれば、各自性を有する、二は無量法であり、謂わゆる諸法の実相である。『大智度論第32』参照。ここでは菩薩の空観にもとづき、『諸法』と言うべきを敢えて『法性』と言う。

  十一切入:諸法中に深く入って、一一の法について地水火風青黄赤白空識の十を観察する。

  世諦:世俗の人に理解できる道理。或いは輪廻、或いは因果等。俗世間に顕現する真諦。

  空心:前の忍心。

  進分:菩薩道法中の精進分。

  善根:善の根本。

:精進波羅蜜に則してこれを観れば、空平等の心に於いて、衆生は無数の自己である、云何に困難であろうと、如何なる難処であろうと勇猛に進んでこれを度さずにはいられない、これが進心である。

若佛子。定心者。寂滅無相。無相人爾時入內空。道心眾生。不道緣不見無相.無量行無量心三昧。凡夫聖人無不入三昧。體性相應一切。以定力故。我人作者受者。一切縛見性是障因緣。散風動心不寂而滅空空八倒無緣。假靜慧觀。一切假會念念滅。受一切三界果罪性。皆由定滅而生一切善

若仏子、『定心』とは、寂滅にして無相なり。無相の人は、その時、内なる空に入り、道心に値(あ)う。衆生、道に縁ぜずんば無相無量行無量心三昧を見ず。凡夫も聖人も三昧に入らざる無し、体性は、一切に相応して、定力を以っての故なり。『我』、『人』、『作者』、『受者』の一切の縛と見との性は、これ障の因縁なり。散風にも心を動かさば寂滅せざるも、空を空とすれば、八倒も無縁なり。静慧を仮りて観ずれば、一切は仮の会にして、念念に滅す。一切の三界に果を受くる罪性は、皆定に由りて滅し、しかも一切の善を生ず。

お前たち、仏子よ!

『定心』とは、

  『寂滅(心が乱れないこと)』であり、

  『無相(諸法の相を見ないこと)』である。

『無相(敵味方を区別しない)』の人は、その時、

  『内なる空(無我)』に入って、

  『道心(菩提心)』に出会う。

衆生は、

  『道心の導き』に縁が無ければ、

  『無相三昧(敵味方の区別無く)』も、

  『無量行三昧(無量心をもって六波羅蜜を行ず)』も、

  『無量心三昧(無量の慈悲喜捨心を現す)』も見ることがない。

凡夫も、聖人も、

  三昧に入らない者は無い。

その訳は、

  『三昧の体性』が、一切の凡夫と、聖人とに相応し、

  『三昧』には、定力が有るからである。

また、

  『我』、

  『人』、

  『作者(行為する者)』、

  『受者(行為を受ける者)』等の差別は、

一切が、

  『結縛(煩悩)』であり、

  『邪見(空平等を見ない)』であって、

    『菩提心を妨げる因縁』である。

散風に、

  心を動かしても、

  寂滅することはない、

しかし、

  『空空(衆生中の空)』は、

  『八倒(常楽我淨、無常苦無我不浄)と無縁』である。

『空観に住し』ながらも、仮に

  『静慧をもって観察』すれば、一切は、

    『仮の合会』であり、

    『念念に滅』する。

三界に受ける、一切の

  『果報』とは、

    『罪の性』であるが、

  皆、

    『定』によって滅し、

  しかも、

    『定』は、『一切の善』を生じる。

 

  無相無量行無量心三昧:無相三昧、無作三昧、空三昧に相当する。ここで一を無量行、他の一を無作というは、菩薩行の空観による解釈を表す。無量心と空ともまた同じ。

:禅定波羅蜜に則してこれを観れば、空平等に心が定まれば、自然に道心が生じて、一切の衆生に六波羅蜜と四無量心とを現し、その結果、一切の善が生じる、これが定心である。

若佛子。慧心者。空慧非無緣。知體名心。分別一切法假名主者。與道通同。取果行因入聖捨凡滅罪起福。縛解盡是體性功用。一切見常樂我淨煩惱。慧性不明故。以慧為首。修不可說觀慧入中道一諦。其無明障慧非相非來非緣非罪非八倒。無生滅慧光明焰。為照樂虛。方便轉變神通。以智體性所為慧用故

若仏子、『慧心』とは、空慧は無縁に非ずして、知体を心と名づけ、一切の法を分別するに、仮に『主者』と名づけ、道に同じく通ず。果を取りて因を行じ、聖に入りて凡を捨て、罪を滅して福を起す。『縛』と『解』とは尽く、これ体性の功用なり。一切に『常』、『楽』、『我』、『浄』の煩悩を見るは、慧性の不明なるが故なり。慧を以って首と為し、不可説の観を修むれば、慧は中道の一諦に入る。それ無明は慧を障う。相に非ず、来に非ず、縁に非ず、罪に非ず、八倒に非ず。無生滅の慧は光明の焔となりて、為に楽の虚しきを照らす。方便と、転変と、神通とは、智の体性の為す所の慧の用を以っての故なり。

お前たち、仏子よ!

『慧心』とは、

  『空を観る智慧』は、『道』に無縁ではなく、

  『知の体性』を、『心』という。

『心』は、

  『一切の法(事物)を分別』するので、その仮名を、『主者』といい、

  『道』に通じることは、前と同じである。

その故に、

  『果』を取るためには、『因』を行い、

  『聖』に入るためには、『凡』を捨て、

  『罪』を滅するためには、『福』を起さなくてはならないが、

  『縛』も『解』も、尽く

    『知の体性』たる、

    『心(智慧)』の功用(くゆう、はたらき)である。

『常楽我淨』の煩悩を見るのは、

  『智慧の性』が不明(暗愚)だからである。

『智慧に先導』されて、

  『不可説(無数)の観』を修めれば、

  その智慧は、『中道』の一諦に入る。

そもそも、

  『無明』は、

    『智慧を妨げる』ものであるが、

    『相(覚知の対象)』ではなく、

    『外から来た』のでもなく、

    『心が何かに縁じた(触れた)』のでもない。

    罪でもなく、

    八倒でもない。

『無生の智慧』の光明が、焔をあげて

  『無明』を照せば、

  『楽』は虚しい。

『方便(菩薩の教化法)』も、

『転変(菩薩は六道に転変する)』も、

『神通(転変する力)』も、

  『智慧の体性()の為す所』であり、

  『智慧の功用(働き)』である。

 

  中道:常楽我淨と無常苦無我不浄との両極端を避けた道。

  無明:愚癡。道心を障げるもの。人の本質的な愚鈍。

  智慧:決断は智、簡択は慧。俗諦を知るは智、真諦に通じるは慧というが、通じて一である。

  転変:因縁生の法は、相続する中に於いて前後にその相を異にする。生住異滅の四相中の異相。

:般若波羅蜜に則してこれを観れば、空平等を体得した心は、無生の智慧が生じて因果の道理に目覚め、無明に妨げられない、これが慧心である。ここに六波羅蜜の名を得ないとはいえ、この六心の次第は六波羅蜜を指す以外の何者でもなく、菩薩が菩提心を初めて発し、無明を捨てて智慧に到る過程である。

若佛子。願心者。願大求一切求。以果行因故。願心連願心連相續。百劫得佛滅罪。求求至心無生空一。願觀觀入定照。無量見縛以求心故解脫。無量妙行以求心成。菩提無量功コ以求為本。初發求心中間修道。行滿願故佛果便成。觀一諦中道非照非界非沒。生見見非解慧。是願體性。一切行本原

若仏子、『願心』とは、願うて大いに求め、一切を求む。果を以って因を行ずるの故なり。願心は願心を連ね、連なりの相続すること百劫にして、仏を得て罪を滅す。至心に無生、空一なるを求めに求めんにも、願うて観るに観み、定に入りて照らせば、無量の見縛は、求心を以っての故に解脱し、無量の妙行は、求心を以って為し、菩提の無量の功徳は求むるを以って本と為す。初めて求心を発せしより中間の、道を修めて行満つるまで、願の故に仏果便ち成じて、一諦の中道を観る。照らすに非ず、界に非ず、没するに非ず、見を生ずれど見は解慧に非ず。これ願の体性にして、一切の行の本原なり。

お前たち、仏子よ!

『願心』とは、

  願って

    『大いに求める』ことであり、

    『一切を求める』ことである。

  『果』の為に、

    『因』を行うことである。

  『願心』は、

    『願心』に連なり、連なりは相続して『百劫』に及べば、

    『仏と成る』ことを得て、

    『罪を滅』する。

  求めに求め、心から求めるものは、

    『無生』であり、

    『空と一つになる』ことである。

  『願心』により、

    観るに観て、

    定に入って照せば、

      『無量の見縛(邪見と結縛)』は、求める心の故に解脱し、

      『無量の妙行(修行)』は、求める心の故に成就する。

  『菩提(覚り、仏の境地)』の

      『無量の功徳』も、

      『求めることが本』である。

  初めて、

    『求める心を発した時』から、

    『道を修めて行が満ちる』まで、願い求める。

  その故に、

    『仏果』を成就して、

    『中道』の一諦を観るのである。

『願心』は、

  『照して観る者』でなく、

  『照される界』でもなく、

  『没入すること』でもなく、

  『諸見(邪見)を生じた時の、解脱の智慧』でもないが、

『願の体性』は、

  『一切の行の本原』である。

 

  非照非界非没:ここは種種の取り方がある。

  見見:諸見。諸の邪見。

:六波羅蜜に順じて上の六心を得たとき、一切の衆生を度する願は自然に心に生じる。仏果を得るため無量の願を起し、常に念を継続して道を修める、これが願心である。

若佛子。護心者。護三寶護一切行功コ。使外道八倒惡邪見不嬈正信。滅我縛見縛無生。照達二諦觀心現前。以護根本無相護。護空無作無相。以心慧連入無生。空道智道皆明光明光護觀入空。假分分幻化幻化所起。如無如無。法體集散不可護。觀法亦爾

若仏子、『護心』とは、三宝を護り、一切の行の功徳を護り、外道の八倒、悪邪見をして正信を嬈(なや)ましめず、我縛、見縛を滅する無生にして、二諦に照達して心を現前に観、以って根本を護る。無相の護もて、空、無作、無相を護るに、心に慧を連ぬるを以って無生に入る。空道、智道は皆明光たり、明光もて観を護りて空に入る。仮、分分、幻化、幻化の起す所は、無きが如し。無きが如き法体の集散は護るべからず。法を観ずるもまた爾り。

お前たち、仏子よ!

『護心』とは、

  『三宝を護る』ことであり、

  『一切の行の功徳を護る』ことであり、

  『外道の八倒や、悪見や、邪見に、正信を乱させない』ことである。

また、

  『我見(空無我を否定する邪見)』や

  『諸見の縛』を滅して、

    『無生』を証し、

  『真俗二諦』に照達して

  『心を現前に観る』ことにより、

    『根本を護る』ことである。

また、

  『無相(敵味方を区別しない)の護り』で、

  『空』と、

  『無作』と、

  『無相』とを護れば、

    『心中に智慧』が連なり、

    『無生』に入る。

  『空を観る道』も、

  『智慧による道』も、皆、

    『明光』であり、

  『明光』で、

    『観ること』を護れば、

    『空』に入る。

  『仮りのものの部分部分』、

  『幻化』、

  『幻化の起すもの』、

  これ等は、

    『無い』のと同じであり、

  『無いものの体性』は、

    『集散する』ことであって、

    『護る』ことができない。

  それを

    『観る』ことも、また同じである。

 

:六波羅蜜に順じる六心を得て、更に願心を得れば、邪見より願心を護ろうとする心は自然に生じる、即ち真俗二諦を平等に見て中道に入り、一切の邪見より心を護る、これが護心である。

若佛子。喜心者。見他人得樂。常生喜ス。及一切物假空照寂。而不入有為不無寂然。大樂無合有受而化。有法而見。玄假法性。平等一觀心心行。多聞一切佛行功コ。無相喜智。心心生念而靜照。樂心緣一切法

若仏子、『喜心』とは、他人の楽を得るを見て、常に喜悦を生ず。一切の物は、空を仮りて照すに及ばば、寂として、有為に入らず、無にもあらず。寂然たる大楽は合する無きも、受くるもの有らば化するに法有り、しかも玄(実)と仮との法性を見るに、平等にして一なり。心心の行を観ずるに、多聞など一切の仏行の功徳も、無相なり。喜智は心心に念を生じて静かに照らし、楽心は一切の法に縁ず。

お前たち、仏子よ!

『喜心』とは、

  『他人』が、

    『楽を得る』のを観て、常に、

    『喜悦を生じる』ことである。

  『一切の物』は、

    『空』によって照してみれば、

      『寂静(不動)』であり、

      『有為(因縁所生の事物)』でもなく、また

      『無い』のでもない。

  『寂然(静か)とした大楽』は、

    『因縁の和合ではない』が、

  しかし、

    『教化を受ける者』が有り、しかも、

    『教化すべき法』が有る。

  『実』と、

  『仮』とは、その

    『法性』を見てみれば、

    『平等』であり、

    『一つ』である。

  『心心の行(衆生心の働き)』を観察すれば、

    『多聞』など、

    『一切の仏道修行の功徳』も、

      『無相』である。

  その故に、

    『心』には、『喜びの智慧』が生じ、その

    『心の中の思い』は、静かに『諸法』を照らす。

  その時、

    『楽心』は、『一切の法』に縁じる。

 

  心心行:衆生心の活動。

  縁じる:心が外境に感応すること。

  楽心は一切法に縁ず:何を見ても楽しい。

:六波羅蜜に順じる六心の上に願心と護心とを得るとき、他人が楽を受けるのを見れば自然に喜悦を生じる、これが楽心である。

若佛子。頂心者。是人最上智。滅無我輪見疑身一切瞋等如頂。觀連觀連如頂。法界中因果。如如一道最勝上如頂。如人頂。非非身見六十二見。五眾生滅。神我主人動轉屈申。

若仏子、『頂心』とは、これ人の最上智にして、無我、輪、見、疑、身、一切の瞋等を滅す。頂より観を連ぬるが如く、観を連ぬること頂の如し。法界中の因果には、如如の一道、最勝の上なること頂の如し。人の頂とするが如きは、身見、六十二見に非ざるに非ず、五衆の生滅に、神我の主人、動転し屈伸するのみ。

お前たち、仏子よ!

『頂心』とは、

  『人の最上の智慧』であり、

    『無我』や、

    『輪廻』や、

    『諸見』や、

    『疑惑』や、

    『身見』や、

    『一切の瞋』等を滅する。

『山の頂』に立って、

  『連なった峰峰を観る』ように、

『連なった峰峰を観る』ために、

  『山の頂に立つ』ようにして、

『法界(意識の所縁の境界、世間)の因果』を観てみれば、

  『如如(諸法中の真如)の一道』は、

    『最勝最上』であり、

    『山の頂』のようである。

『人が頂()として崇める』ものは、

  『身見や六十二見でないもの』は無く、

『五衆(色受想行識、五陰)が生滅する』とき、

  『外道の神我(我の主宰者)』は、

    動転し屈伸(驚き苦しむさま)する。

 

:捨心、戒心、忍心、進心、定心、慧心、願心、護心、楽心を得れば、峰峰の頂上に立つが如く、如如の一道、即ち一切の衆生心の中に真如を見る、これが頂心である。

無作無受無行不可捉縛者。是人爾時入內空道。心眾生不見緣不見非緣。住頂三昧寂滅定。發行趣道。性實我人常見八倒生。緣不二法門。不受八難。幻化果畢竟不受。唯一眾生。去來坐立修行滅罪。除十惡生十善。入道正人正智正行菩薩達觀現前不受六道果。必不退佛種性中。生生入佛家。不離正信。上十天光品廣說

無作、無受、無行は捉縛すべからずとは、この人はその時、内なる空に入りて道心に値うも、衆生に縁を見ず、縁に非ざるも見ず、頂三昧の寂滅定に住し、行を発して道に趣く。性は実に、我、人、常見、八倒生ずるも、不二法門に縁じて、八難を受けず。幻化の果は畢竟じて受けざるも、唯一の衆生(衆生心)のみ、去来し坐立し、修行して罪を滅し、十悪を除いて十善を生じて道に入るに、正人の正智と正行と、菩薩の達観とをもて、現前に六道の果を受けず、必ず不退なる仏の種性中にありて、生生に仏家に入りて、正信を離れざず。上の十天光品に広く説けり。

『空無我』を観じて、

  『無作(他に対して作為せず)』であり、

  『無受(他の作為を受けず)』であり、

  『無行(修行することが無い)』であるならば、

この人は、

  捉縛できない。

即ち、

  この人は、その時、

    『内なる空(無我)』に入って、『道心(菩提心)に出会う』が、

    『衆生』に、

      『化する縁がある』とも見ず、

      『化する縁がない』とも見ない。

    『頂三昧(山頂より眺めるが如き三昧)』に入って、

    『寂滅定(涅槃の如き定)』に住し、

    『行』を発して、

    『道』に趣く。

  この

    『人の性』は、実に、

      『我人見(彼我を差別する邪見)』と、

      『常見(霊魂不滅の邪見)』と、

      『八倒(常楽我淨、無常苦空不浄の邪見)』を生じるが、

  しかも、

    『不二法門(真俗不二の法門)』に縁じて、

      『八難(仏に値遇できない八難処)』を受けず、

      『幻化の如き三界六道の果報』をも、ついに受けない。

  また、

    『唯一の衆生(仏性)』が、

      『去来し、坐立し、修行し、滅罪』して、

      『十悪』を除き、

      『十善』を生じて、

        『道』に入り、

    しかも、

      『正人()の正智と、正行』と、

      『菩薩の達観』とをもって、現前に、

        『六道の果』を受けず、

      『不退の決定した仏の種性』の中で、

        『生生』ごとに、

          『仏家』に入って、

          『正信』を離れない。

これは、

  上の『十天光品』中に、広く説かれている。

 

  無作無受無行:空観にもとづいて自他の境界を起さないことで、不作不受不行を意味しない。

  不見縁不見非縁:縁ぜられず、また縁ぜられざるにも非ず、と訓ずる。

  八難:仏法に値い難い八処。地獄、餓鬼、畜生、鬱単越、長寿天、聾盲瘖唖、世智辨聡、仏前仏後。

  十天光品:不明。

:空平等心に基づいた行動、これがこの経の骨子であるが、この十発趣心、即ち捨心、戒心、忍心、進心、定心、慧心、願心、護心、喜心、頂心をして菩薩心の位階と取るのは、必ずしもそのまま通じるものではない。先に忍心が決定して後に捨心が決定することもあり得るのである。頂心を除いた先の九心、或いは頂心を含めた十心は、その全体が猶予(躊躇)しながら徐々に決定に向うのであるが、これは後に説く十長養心、十金剛心、十地についても同じであり、この四十心、全体が猶予しながら徐々に決定するのである。では何故、有るを発趣といい、有るを長養といい、有るを金剛といい、有るを地というかといえば、やはりそこには決定の因果関係が存在する。捨心の増長する中で戒心が養われ、戒心の増長する中で忍心が養われ、忍心の増長する中で進心が養われるのである。この意味で、この十発趣等を菩薩心の位階というのである。その故に、有るを捨心の菩薩、有るを戒心の菩薩と云うとすれば、それは誤りである。

 

 

 

 

 

堅法忍中の十長養心

盧舍那佛言。千佛汝先問。長養十心者。

盧舎那仏言わく、『千仏、汝が先に問える、長養の十心とは、――

盧舎那仏は言った、――

  千仏よ、お前たちが先に問うた、『長養』の十心とは、――

 

  長養:菩提心を養い育てる。

  十長養心慈心、悲心、喜心、捨心、施心、好語心、益心、同心、定心、慧心。

:堅信忍中に得た十発趣心、即ち捨心、戒心、忍心、進心、定心、慧心、願心、護心、喜心、頂心は、やがて長じるに従いて、捨心からは慈心、施心、益心を生じ、戒心は悲心、好語心に変化し、忍心は喜心、同心に変化し、頂心は定心、慧心に同じる。

若佛子。慈心者。常行慈心生樂因已。於無我智中樂相應觀入法。受想行識色等大法中。無生無住無滅如幻化。如如無二。故一切修行成法輪。化被一切。能生正信不由魔教。亦能使一切眾生得慈樂果。非實非善惡果。解空體性三昧

若仏子、『慈心』とは、常に慈心を行じて、楽因を生ずるのみ。無我の智中に於いて楽は、観入の法に相応し、受想行識色等の大法中には、無生、無住、無滅にして幻化の如きなるも、如如と無二なるが故に一切の修行に法輪を成じ、化を一切に被りて、よく正信を生ぜしめ、魔教に由らずして、またよく一切の衆生をして慈の楽果を得しむ。非実、非善悪の果にして、解空体性三昧なり。

お前たち、仏子よ!

『慈心』とは、常に

  『慈心(他に楽を与える心)』を行じて、

    『楽因を生じる』ことであるに過ぎない。

『菩薩の受ける楽』は

  『無我の智慧』の中では、

    『観入の法(観察と証得)』に相応するが、

  『受想行識色(有我の身心)等の大法』中では、

    『生ずる』ことも無く、

    『住る』ことも無く、

    『滅する』ことも無い。

  『幻化のようなもの』でありながら、

    『如如(真如)と無二である』が故に、

  『一切の修行』は、

    『法輪(仏法)』を成じ、

    『一切の衆生』に、

      『教化』を被らせ、よく

      『正信』を生じさせて、

      『魔の教』に頼らせず、よく

      『慈の楽果』を得させるが、その

    『楽果』は、

      『実』でなく、

      『善悪の業の果』でも無い。

これを、

  『解空体性の三昧』という。

 

  慈:他に楽を与えること。

  :苦の無いこと。

  於無我智中楽相応観入法:菩薩は無我智の中で、他に楽を与え自らも楽を得る。

  大法:色受想行識は世界に遍満するによって大法という。地水火風を四大というに同じ。

  観入:観察と了解。

:空平等の心、即ち無我の智慧より生じる心は他に楽を与えて自ら楽を感じる、これが慈心である。

若佛子。悲心者。以悲空空無相。悲緣行道自滅一切苦。於一切眾生無量苦中生智。不殺生緣不殺法緣不著我緣。故常行不殺不盜不婬。而一眾生不惱。發菩提心者。於空見一切法如實相。種性行中生道智心。於六親六惡親惡三品中。與上樂智。上惡緣中九品得樂。果空現時自身他一切眾生平等。一樂起大悲

若仏子、『悲心』とは、悲の空空無相なるを以って、悲は行道に縁じ、自ずから一切の苦を滅す。一切の衆生の無量の苦の中に於いて智を生じ、不殺生の縁、不殺法の縁、我に著せざる縁の故に、常に不殺、不盗、不婬を行じて、一衆生すら悩まさず。菩提心を発せば、空に於いて一切の法の如実の相を見、種性の行中に道智を心に生じ、六親、六悪、親悪の三品中に於いて、上の楽智を与え、上の悪縁中の九品も楽果を得。空は、時の自身と、他の一切の衆生との平等を現し、一楽は大悲を起す。

お前たち、仏子よ!

『悲心』とは、

  『悲(他の苦を抜く)』は、

    『空空(衆生の苦を抜くことの一一が空)』であり、

    『無相(自他の相無ければ悲の相無し)』であるが、

  『悲』は

    『行く道(地獄餓鬼畜生修羅人間天上)』に縁じて、

    『一切の苦』を滅するのである。

即ち、

  『一切の衆生の無量の苦』を観る中に、『智』を生じて、その

    『智』の、

      『衆生を殺さない縁』と、

      『万物を殺さない縁』と、

      『我に執著しない縁』との故に、

    常に、

      『殺さず』、

      『盗まず』、

      『婬を行わず』、

      『一の衆生』さえ、悩まさない。

  『菩提心』を発せば、

    『空』の中に、

      『一切の法(事物)の如実の相』を見、

    『種性(仏種の性)の行』の中に、

      『道智心(正道を行く智慧)』を生じ、

    『六親(父母妻子兄弟)と、六悪(不明)と、親悪(非親非悪)との三品』中に、等しく

      『上楽』の智慧を与え、

    『上悪』の縁中に、九品(上上乃至下下)の

      『楽果』を得る。

『空』は、

  『その時の自身』と『他の一切の衆生』との、『平等』を現し、

  『一たび楽しむ』ごとに、『大悲』を起す。

 

  悲:他の苦を抜くこと。

  種性行:仏の種性である修行。

  道智:八聖道を行う智慧。

:空平等の心は、あらゆる衆生の苦を自らの苦と感じずにはいられない、その故に六道の衆生の一切の苦を抜く、これが悲心である。

若佛子。喜心者。ス喜無生心時。種性體相道智空空。喜心不著我所。出沒三世因果無集。一切有入空觀行成等喜一切眾生。起空入道捨惡知識。求善知識示我好道使諸眾生入佛法家。法中常起歡喜入法位中。復令是諸眾生入正信。捨邪見背六道苦故喜

若仏子、『喜心』とは、無生を悦喜する心なり。その時の種性体相の道智は空空にして、喜心は我所に著せず、三世に出没する因果を集めず。一切の有は空に入る、と観行成じて、等しく一切の衆生の、空を起ちて道に入り、悪知識を捨て、善知識を求るを喜び、我が好道を示して、諸の衆生をして仏法の家に入らしむ。法中に常に歓喜を起し、法位中に入り、またこの諸の衆生をして正信に入らしめ、邪見を捨てしめ、六道の苦に背くが故に喜ぶ。

お前たち、仏子よ!

『喜心』とは、

  『無生を喜悦する心』であり、

  『その時の種性の体相の道智』は、

    『空空』である。

『喜心』は、

  『我所(身心)に執著しない』が故に、

  『三世に出没する因果』を集めない。

『一切の有(う、存在)は空に入る』との、

  『観行が成る』とき、

    『一切の衆生』が、皆等しく、

      『空より起きて、道』に入り、

      『悪知識(悪の教師)を捨てて、善知識(善の教師)を求める』こと、を喜び、

    『わたしの好道(中道)』を、教え示して、

      『諸の衆生』に、

        『仏法の家』に入らせる。

  『仏法』の中に、常に

    『歓喜』を起して、

    『法位(正法の分限)』の中に入り、

  また、

    『諸の衆生』に、

      『正信』に入らせ、

      『邪見』を捨てさせて、

    『諸の衆生』が、

      『六道の苦』に背く、

    その故に、

      喜ぶ。

 

:空平等の心は、一切の衆生が正道に入ることを喜ぶ、これが喜心である。菩薩は空心をもって、衆生の道心を喜ぶ、このねじれに注意。

若佛子。捨心者。常生捨心。無造無相空法中如虛空。於善惡有見無見罪福二中。平等一照。非人非我所心。而自他體性不可得為大捨。及自身肉手足男女國城。如幻化水流燈焰一切捨。而無生心常修其捨

若仏子、『捨心』とは、常に捨心を生じて、無造、無相の空法の中の虚空の如く、善悪、有見無見、罪福の二の中に於いて平等に一照して、人に非ず、我所の心に非ず。この自他の体性の不可得なるを大捨と為す。自らの身肉、手足、男女、国城に及ぶまで、幻化、水流、灯焔の如く一切を捨てて、無生心もて常にその捨を修む。

お前たち、仏子よ!

『捨心』とは、常に、

  『捨心』が生じて、

  『無造(能造者が無い)』、

  『無相(所造物が無い)』の『空法』中の虚空のように、

  『善悪、有見無見、罪福等の二』の中を、『平等の一』として照らして、

    『人(他人)』でもなく、

    『我所(自己)の心』でもない。

  この

    『自他の体性(自他の本来的区別)の不可得(差別不能)』、

  これが、

    『大捨』である。

  そして、

    『自らの身肉、手足、男女、国城に及ぶまで』、一切を

    『幻化、水流、灯焔でもあるか』のように捨てて、

    『無生の心』で、

      常に、その『捨』を修める。

 

:空平等の心によれば、一切の覚観と分別とを捨て、自他に差別を見ず、自ら一切の所有を捨てて顧みない、これが捨心である。

若佛子。施心者。能以施心被一切眾生。身施口施意施財施法施。教導一切眾生內身外身國城男女田宅。皆如如相。乃至無念財物。受者施者亦內亦外無合無散。無心行化達理達施。一切相現在前行

若仏子、『施心』とは、よく施心を以って一切の衆生を被い、身施、口施、意施、財施、法施もて、一切の衆生を教導す。内身、外身、国城、男女、田宅は、皆如如の相なれば、乃ち財物に至るまで念うこと無し。受者、施者は、また内にあり、また外にありて、合すること無く、散ずること無し。無心に化を行ぜば、理を達し施を達して、一切の相現れ、前に在りて行く。

お前たち、仏子よ!

『施心』とは、

  『施心』をもって、

    『一切の衆生を覆う』ことであり、

  『身施』と、『口施』と、『意施』と、『財施』と、『法施』とをもって、

    『一切の衆生を教え導く』ことである。

即ち、

  『内身(自己)、外身(親属)、国城、男女、田宅等』は、皆、

    『如如の相』であり、

  『内身より財物に至る』一切は、

    『心にかけ』ても、

    『念じ』ても、ならないものである。

また、

  『受者』と『施者』とは、

    『自己の内』にあり、また『自己の外』にあり、

    『合する』ことも無く、また『散じる』ことも無い。

  『無心』にて、

    『教化』を行えば、

    『理』に通達して、

    『施』に通達し、

    『一切の相(空相と衆生相)』が現れて、

      『前』を行く。

 

  如如の相:我が所得と他の所得との差別の無い、真如の相。

:空平等の心で観れば、我が物でもなく他の物でもない、受者もなく施者もないが故に、自己の所有する法と財との一切を施して衆生を導く、これが施心である。

若佛子。好語心者。入體性愛語三昧第一義諦法語義語。一切實語者皆順一語。調和一切眾生心無瞋無諍。一切法空智無緣常生愛。心行順佛意。亦順一切他人。以聖法語教諸眾生。常行如心發起善根

若仏子、『好語心』とは、体性の愛語三昧に入る。第一義諦の法語と、義語との一切の実語は、皆一語に順じて、一切の衆生心に調和し、瞋無く諍無し。一切法の空智は、縁無きにも常に愛を生じ、心行は仏意に順じ、また一切の他人に順ず。聖法の語を以って諸の衆生に教え、常に心の如きを行じて善根を発起す。

お前たち、仏子よ!

『好語心』とは、体性の

  『愛語三昧』に入ることである。

『第一義諦(涅槃中道の真理)の法語や義語』、即ち

『一切の実語』は、

  『空の一語』に順じながらも、

  『一切の衆生心』に調和して、

  『瞋』も無く、『諍』も無い。

『一切法空(万物は皆空)の智慧』によって、

  『無縁』の者にも、常に

    『愛』を生じ、

  『心行(心の動き)』は、

    『仏意に順じ』ながらも、

    『一切の他人』にも順じる。

  『聖法の語』を、

    『諸の衆生』に教え、常に、

  『心のまま』に行って、

    『善根』を起す。

 

:空平等の心では、自他の差別がないが故に、口から出る言葉の一切は愛語でないものはない、これが好語心である。

若佛子。利益心者。利益心時。以實智體性廣行智道。集一切明焰法門。集觀行七財。前人得利益故受身命。而入利益三昧。現一切身一切口一切意。而震動大世界。一切所為所作。他人入法種空種道種中。得益得樂。現形六道。無量苦惱之事不以為患。但益人為利

若仏子、『利益心』とは、利益心は、時に、実智の体性を以って広く智道を行じ、一切の明焔の法門を集め、観行の七財を集め、前人の利益を得るが故に身命を受けて、利益三昧に入る。一切の身、一切の口、一切の意を現わして、大世界を震動せしめ、一切の為す所と作す所とは、他人をして法種、空種、道種の中に入らしめ、益を得しめ楽を得しむ。形を六道に現わすも、無量の苦悩の事は、以って患と為さず、ただ人を益することのみを利と為す。

お前たち、仏子よ!

『利益心』とは、

  『利益心』は、

    『時』に従い、

    『実智の体性』を以って、広く、

    『智慧の道』を行じ、一切の

    『明焔の法門』を集め、

    『観行の七財(信、戒(進を含む)、聞、捨、慧(定を含む)、慚、愧)』を集める。

  『前世の人』の得た

    『利益』の故に、

      『今の身命を受け』て

      『利益三昧』に入り、

  『一切の身』と、

  『一切の口』と、

  『一切の意』とを現して、

    『大千世界』を震動させ、

  『一切の行為と、造作と』をもって、

    『他人』に、

      『法種』と、

      『空種』と、

      『道種』とに入らせて、

      『利益』と、

      『安楽』とを得させ、

  『形(肉体)』を、

    『六道』に現して、

    『無量の苦悩を受ける』が、それを気にせず、

  ただ、

    『他人の為に利益』する。

 

  観行七財:理を観じて、理の如く行う人の集めるべき七つの財宝。信、戒、聞、捨、慧、慚、愧。但し戒には進を含み、慧には定を含む。

:空平等の心で観れば、前世の人の得た無数の利益は、今この一身に集まって無生の智慧となるも、一切の六道の衆生は、これまた皆自らの身である。その故に、常に他人の為に利益すれば、輪廻を経るごとに伝播して、やがて大千世界を六種に震動させ、一切の衆生を度することになる、これが益心である。

若佛子。同心者。以道性智同空無生法中。以無我智同生無二。空同原境諸法如相。常生常住常滅。世法相續流轉無量。而能現無量形身色心等業。入諸六道一切事同。空同無生。我同無物。而分身散形故。入同法三昧

若仏子、『同心』とは、道性の智を以って空に同じうし、無生法中に無我の智を以って生に同じうす。無二の空とは、原境を諸法の如相と同じうすれば、常に生じ、常に住し、常に滅し、世法は、相続して流転すること無量なれば、よく無量の形身と色心とを現して業を等しうし、諸の六道に入りて一切の事を同じうす。空は無生に同じく、我は無物に同じ。身を分かち形を散らすが故に、同法三昧に入る。

お前たち、仏子よ!

『同心』とは、

  『道を行う』ときは、

    『道性の智』を以って、自らを

    『空と同じである』とし、

  『無生法の中に在る』ときには、

    『無我の智』を以って、自らを

    『生と同じである』とする。

  『空』と

  『世法』とは、

    『無二』であり、

    『空』は、

      原境(みなもと)が、

        『諸法(万物)の中の如相(如如の真実相)』と同じであるから、

      常に、『生』じ、

      常に、『住』し、

      常に、『滅』しているし、

    『世法(世間の事物)』は、

      『相続して流転すること無量』であるが、

    この中で、

      『無量の形の身心』を現して、

        『業を衆生と等しく』し、

      『諸の六道』に入って、

        『一切の苦楽の事を衆生と同じう』する。

  『空』は、

    『無生』と同じであり、

  『我』は、

    『無物』と同じであるが、

  『身形を分散』して、その故に、

    『同法三昧』に入る。

 

  同法:三界六道の法(事物、身心)を衆生と同じうする。

:空平等の心は有無の二相を離れるが故に、諸の六道に入って衆生と同じ無量の形の身を現し、一切の苦楽の事を衆生と同じうする、これが同心である。

若佛子。空心者。復從定心。觀慧證空心心靜緣。於我所法識界色界中。而不動轉。逆順出沒故。常入百三昧十禪支。以一念智作是見。一切我人若內若外眾住種子。皆無合散。集成起作而不可得

若仏子、『空心』とは、また心を定むるに従いて、観慧もて空を証し、心心静かに、我所の法の識界、色界中に縁じて、動転せず、逆順に出没するが故に、常に百三昧、十禅支に入り、一念の智を以ってこの見を作さく、『一切は、我も、人も、もしは内なるも、もしは外なる衆も、種子に住して、皆合、散、集、成、起、作すること無く、不可得なり。』と。

お前たち、仏子よ!

『空心』とは、これまた

  『定まった心』による、

    『観察の智慧』で、

    『空』を証忍することである。

  『心心(心の働き)』を静かにして、

    『我所法(身心)』中の、

      『識界と色界と』の中に縁じて、動転せず、

      『識界と色界と』の中を順に逆にと、出没(検査)する。

  この故に、

    常に、

      『百三昧(多くの三昧)』や、

      『十禅支(一切に地水火風青黄赤白色空の十を観察する)』に入り、

    『一念の智慧』で、このように知見する、――

      『一切の

        『我と人と』の、

           『内の五陰(色受想行識)』と、

           『外の五塵(色声香味触)』とは、

             『仏の種子(仏性)』の中に在り、

         皆、

           『合する』ことも、『散じる』ことも、

           『集まる』ことも、『成じる』ことも、

           『起る』ことも、『作す』ことも無く、

         その故に、

           『性』を得られない。』と。

 

  空心:定心と同じ。

  我所法:『我』を主とする心の働き。

  十禅支:一切の諸法の中に地水火風青黄赤白識空の十を観察する禅定。十一切処。

:空平等に心が定まれば、心心寂静して一切の境界に於いて動転せず、一切の衆生の中の仏の種子を認めて、個別の性を認めない、これが定心である。

若佛子。慧心者。作慧見心。觀諸邪見結患等縛。無決定體性。順忍空同故。非陰非界非入非眾生。非一我非因果非三世法。慧性起光光。一焰明明見虛無受。其慧方便生長養心。是心入起空空道。發無生心。上千海明王品。已說心百法明門

若仏子、『慧心』とは、慧を作して心を見るなり。諸の邪見、結患等の縛には、決定せる体性無しと観じて、空に同ずるが故に、陰に非ず、界に非ず、入に非ず、衆生に非ず。一我に非ず、因果に非ず、三世の法に非ずと順忍す。慧性は光光を起し、一焔もて明明に、虚を見るに受くるもの無し。その慧に方便生じて心を長養す。この心は空の空なる道に入起して、無生心を発す。上の千海明王品に、すでに心百法明門を説けり。

お前たち、仏子よ!

『慧心』とは、

  『智慧を起して心を見る』ことである。

  『諸の邪見や結使等の縛』には、

    『決定した体性が無い』と観察して、

    『自らは空と同じ』であり、

  その故に、

    『五陰(色受想行識)』でもなく、

    『十八界(六根六境六識)』でもなく、

    『十二入(六根六境)』でもなく

    『衆生(六道に生死するもの)』でもなく、

    『一我(他に対する唯一の我)』でもなく、

    『因果の所生』でもなく、

    『三世の法(三世に在る事物)』でもないと順忍する。

  『慧性』は、

    『智慧の光光(無数の光)』を起し、その一焔をもって明明と、

    『照らし見れ』ば、

    『自ら虚しく』して、

    『苦楽を受ける者』が無い。

  その

    『智慧』は方便を生じて、

    『心』を長養し、

  その『心』が、

    『空空を超えた道』に入って、

    『無生心』を起す。

上の、

  『千海明王品』中に、すでに『心の百法の明門』を説いた。

 

  陰、界、入:五陰、十八界、十二入、共に人の身心なり。

  千海明王品:不明。

:空平等の心とは智慧の心である、この心で一切を観れば、邪見もなく煩悩もない、我もなければ他人もない、一切は因果の所生でなく無生の涅槃以外の何者でもない、これが慧心であり、慈心、悲心以下、このようにして菩提心を長養する、これが長養心である。

 

 

 

 

 

堅修忍中の十金剛心

盧舍那佛言。千佛汝先言金剛種子有十心

盧舎那仏の言わく、『千仏、汝の先に言える金剛種子には十心有り、――

盧舎那仏は言った、――

  『千仏よ、お前たちが先に言った、『金剛種子』には、十心が有る、――

 

  金剛種子:種子は菩提の種子、菩提心をいう。即ち一切の煩悩に破壊されない菩提心。

  十金剛心信心、念心、迴向心、達心、直心、不退心、大乗心、無相心、慧心、不壊心。

:堅法忍中の十長養心、即ち慈心、悲心、喜心、捨心、施心、好語心、益心、同心、定心、慧心は、金剛の如く堅固になるに従い融合して、やがてこの十金剛心に変化する。

若佛子。信心者。一切行以信為首眾コ根本不起外道邪見心。諸見名著。結有造業必不受。入空無為法中。三相無。無無生。無生無住。住無滅滅無。有一切法空。世諦第一義諦智。盡滅異空。色空細心心空。細心心心空故。信信寂滅。無體性和合亦無依。然主者我人名用。三界假我我。無得集相。故名無相信

若仏子、『信心』とは、一切の行は信を以って首とし、衆徳の根本と為せば、外道の邪見を心に起さず。諸見とは著と名づけ、結は業を造ること有るも、必ず受けずんば、空、無為法中に入らん。三相は無無無にして、生無く生無く、住住無く、滅滅無く、一切の法の空なること有るのみ。世諦と第一義諦と、智の尽く滅するは、空に異なり、色は空にして細なる心心も空なり。細なる心心心の空なるが故に、信信寂滅して、体性の和合する無く、また依も無し。然れども、主者、我、人を用と名づくるに、三界の仮我の我には、集め得る相無きが故に無相の信と名づく。

お前たち、仏子よ!

『信心』とは、

  『一切の行』は、

    『信』に、先導され、

    『信』を、『衆徳(善を行う力)の根本』とする。

  『信に先導』されれば、

    『外道の邪見』は、心に起きない。

  『諸見(邪見)』とは、

    『執著する』ことである。

  『結(煩悩)』は、

    『善悪の業』を造るが、必ずしも、

    『苦楽を受ける』ものでなく、

  『空無為法(平等涅槃)』中に入れば、

    『三相(生住滅)』は無無無であり、

    『生生』も無く、

    『住住』も無く、

    『滅滅』も無く、

  ただ、

    『一切の法が空である』ことのみが残る。

  『世諦の智慧』と、

  『第一義諦の智慧』とが、尽く滅するのは、

    『空』とは異るが、

  しかし、

    『色』は、『空』であり、

    『細かな心心(多数の心の働き、心所)』も、『空』である。

  『細かな心心』と、

  『心(心の主宰者)』とが、『空』であるが故に、

    『信信』は、

      『寂滅(涅槃)』し、

      『体性(信心の性)』が心中に和合することも無く、

      『智の依り所』ともならない。

  しかも、

    『主者(我の主宰者)』も

    『我』も

    『人』も、ただの

      『用(働き、作用)』であり、三界の中の、

    『仮我の我』には、

      『集められる相が無い』ので、この

    『信』は、

      『無相の信』である。

 

  三相:生住滅。

:堅固なる空平等心は、信を長養して金剛の如き信心を生じる。この信心は、体性が空であるが故に寂滅であり、相が無く、智の分別を受けても変化することがない、これが信心である。

若佛子。念心者。作念。六念常覺乃至常施第一義諦。空無著無解。生住滅相不動不到去來。而於諸業受者。一合相迴向入法界智。慧慧相乘。乘乘寂滅。焰焰無常。光光無生。無生不起。轉易空道變前轉後。變變轉化。化化轉轉。變同時同住焰焰一相生滅一時。已變未變。變變化。亦得一受亦如是

若仏子、『念心』とは、『六念の常覚より、乃ち常施に至るまでと、第一義諦と、空と、著する無きと、解する無きと』を念ずることを作す。生住滅の相は不動、不到にして去来す。而も諸の業に於ける受者、相を一合すれば、迴向して法界智に入り、慧慧相い乗じて、乗乗に寂滅す。焔焔無常なれば光光無生なり。無生なれば起たず、空道を転易(てんやく)して、前を変じて後に転じ、変変して転化し、化化して転転す。変じて時を同じうし、住を同じうし、焔焔の一相と、生滅の一時とをもて、已に変じて未だ変ぜず。変変して化し、また一受を得んに、またもかくの如し。』と。

お前たち、仏子よ!

『念心』とは、常に、

  『心にかけ』て、

    『六念(念仏、念法、念僧、念戒、念施、念天)』中の

      『常覚(念仏)』から『常施(念施)』に至るまでと、

    『第一義諦(涅槃中道)』と、

    『空』と、

    『執著の無い』ことと、

    『解脱の無い』こととを念じることである。

  『生住滅の相』は、

    『変動する』ことも無く、

    『到着する』ことも無いが、

  しかも、

    『去来』する。

    『諸の業の果報』を受けるときになって、初めて、

      『相を取る』のである。

  故に、

    『心に念じ』、

      『迴向(善の果報を振り向ける)』して、

      『法界智(世俗智)』に入れば、

      『智慧と智慧と』相い乗じ、乗じ乗じて

      『涅槃』に至る。

    『智慧』の、

      『焔焔(世間智)』は、『無常』であり、

      『光光(空智)』は、『無生』である。

    『無生』であるから、起ることなく

      『空道』を転易(転改)して、

        『前世』より、

        『後世』に転変(他土に転じて身を変じること)する。

    自ら

      『身』を変じ、『身』を変じては、

      『他の土』に転じて、『衆生』を教化し、

      化し化して、転じ転じる。

    自ら、

      『身を変じ』て、

      『衆生』と、

        『時を同じう』し、

        『住居を同じう』すれば、

      『焔焔する智慧の一相()』と、

      『生滅する身心の一時』とをもって、

        『前世の身』は、すでに変じ、

        『今世の身』は、未だ変じず、

        『身』を変じ変じて、『衆生』を教化し、

      また、

        『一身を受け』て、また同じようにする。

 

  六念:念仏、念法、念僧、念戒、念施、念天。

  常覚、常施:念仏、念施。

  念天:天に生まれることを念ずるのみ。

  一合相:仮の相を取る。

  迴向:自己所修の功徳を廻転して所期に趣向する。自己の力をある所に振り向ける。

  法界:十八界中の法界、即ち意の対境。また十八界の一一の界は皆尽く法界でもある。

  :倍する。

  転化:他土に転じて衆生を教化する。

:空平等の心を以って、常に六念中の念仏、念法、念僧、念捨、念戒を心に懐き、その功徳を廻向して法界の智慧を得るよう念じれば、智慧と智慧とは相い乗じて涅槃に到る。法界の智慧は無常であるが、空平等の智慧は無生であるが故に、前世より後世に空道を通って身を転じ、常に衆生を教化する、これが念心である。

若佛子。迴向心者。第一義空。於實法空智照有實諦。業道相續因緣中道。名為實諦。假名諸法我人主者。名為世諦。於此二有諦深深入空而無去來。幻化受果而無受。故深深心解脫

若仏子、『迴向心』とは、第一義空なり。実法に於いて空智照らすにより実諦有り、業道の相続して中道に因縁するを名づけて実諦と為す。仮名の諸法、我、人、主者を名づけて世諦と為す。この二に於いて諦有り、深く深く空に入りて、去来するもの無し。幻化果を受くるも受くるもの無きが故に、深く深く心解脱す。

お前たち、仏子よ!

『迴向心』とは、

  『第一義空(中道の涅槃、空平等)』に心を迴らすことである。

  『実法(法、事物)』を、

    『空智』で照せば、そこに、

    『実諦』が有る。

  『実諦』とは、

    『業道(善悪の所作、即ち菩提の因)の相続』は、

    『中道(涅槃)の因縁』である、と覚ることであり、

  『世諦』とは、

    『仮名の諸法』の、

    『我』と、『人』と、『主者』とをいう。

  この二は、

    共に『諦(たい、真実にして不虚妄)』が有るが故に、

    深く深く『空』に入って、

    『去来(生死)』するものが無い。

  譬えば、

    『幻化』が果を受けようにも、

    『受けることが無い』のと同じであり、

  その故に、深く深く

    『心が解脱する』のである。

 

  実法:実法は因縁所生の化法ではない常住不変の法をいうが、空智で照せば実法ならざるは無し。

  業道相続:六道輪廻。業道とは善悪の所作、人をして六趣に向かわしむる道。

  中道:空平等の遍満する世間。因縁所生の法を空といい、また仮名という、これ中道の義なり(中論)。

  無去来:去来即ち生死は『我』、『人』に付随する差別相であり、空平等の中道に於いては無い。

:菩提を求めて、ひたすら菩提の因を種える、即ち衆生に善事を施せば、そこには一分の虚妄もないが故に、深く深く空に入って生死を滅し、身心の縛を解脱して平等に入る、これが迴向心である。

若佛子。達照心者。忍順一切實性。性性無縛無解無礙。法達義達。辭達教化達。三世因果眾生根行。如如不合不散。無實用無用無名用。用用一切空空空照達空。名為通達一切法空。空空如如相不可得

若仏子、『達照心』とは、一切の実性と、性性とを忍順する、無縛、無解、無礙の法なり。義に達し、辞に達し、教化に達し、三世の因果、衆生の根行に達す。如如は合せず散ぜず、実用無く、用無く、用と名づくる無し。用用の一切は空にして、空空照して空に達するを、名づけて一切法の空に通達すと為す。空空なる如如の相は不可得なり。

お前たち、仏子よ!

『達照心』とは、一切の

  『実性(空平等の真如)と、性性(諸法衆生個別の性)とを忍順する』ことであり、

  『無縛(無煩悩)』であり、

  『無解(無解脱)』であり、

  『無礙(無障礙)』の法であり、

これを以って、

  『義(道理、義無礙)』に達し、

  『辞(言語、辞無礙)』に達し、

  『教化(楽説無礙)』に達し、

  『三世の因果(法無礙)』に達し、

  『衆生の根と行』とに達する。

『如如(諸法の真実の体性)』は、

  『合する』こと無く、『散じる』こと無く、

  『実用(真実不滅の作用)』無く、『用(働き、作用)』無く、『仮名の用』無く、

  『用用(諸法の各各用)』の一切は『空』であり、

  『空空(諸法の各各空)の智慧』で『諸法』を照せば、『空』に達する。

これを、

  『一切の法の空』に通達するという。

即ち、

  『空空』と、

  『如如』の相は、得ることができない。

 

  如如:法性の理体は不二平等なるが故に如といい、彼此の諸法は皆如なるが故に如如という。

  不合不散:諸法の生滅にともなって合散しない。

:空平等の心を以って、諸法の個別の性に忍順すれば、煩悩も解脱も無く、法(三世の因果)無礙、義(名義)無礙、辞(言語)無礙、楽説(説法)無礙に達して、衆生の根と行に通達し、一切法の空に通達する、これが達心である。

若佛子。直心者。直照取緣神我入無生智。無明神我空空中空。空空理心在有在無。而不壞道種子。無漏中道一觀。而教化一切十方眾生。轉一切眾生皆入薩婆若空真性真性真行於空。三界主者結縛而不受

若仏子、『直心』とは、取に縁ずる神我を直照して、無生智に入る。無明の神我は空空中の空にして、空空の理心は有に在るも無に在るも、道の種子を壊せず。無漏の中道もて一たび観ずれば、一切の十方の衆生を教化し一切の衆生を転じて、皆薩婆若(さばにゃ)の空、真性に入らしむ。真性の真行は空に於いて、三界の主者たり。結縛すれど受けず。

お前たち、仏子よ!

『直心』とは、

  『取(生に貪著すること)を生じる神我(我の主宰者)』を直に照して、

    『無生智(無生を知る智慧)』に入る。

  『無明(生滅の根本原因、盲目的愚鈍)の神我(我の主宰)』は、

    『空空(諸法空)』中の

    『空(唯一無明空)』であるが、

  『空空(諸法の各各空、衆生心)の理心(道理をわきまえる心)』は、

    『有(う、生滅)』中に在っても、

    『無(む、不生不滅)』中に在っても、

      『道心(菩提心)』を破らず、

  『無漏(無煩悩)の中道』にて、

    一たび

      観察すれば、

      『一切の十方の衆生』を教化し、

      『一切の衆生』を転じて、皆

        『薩婆若(さばにゃ、一切智)』と、

        『空の真性』に入らせる。

  『空の真性』と

  『空の真行』とは、

    『空の観察』中に於いて、

    『三界の主者』であり、

      『煩悩の結縛』に在っても、

      『苦楽の果報』を受けない。

 

  直照:正直に物を照らして、私曲が無いこと。無漏の中道に至って観智すること。

  :所対の境界に取著する義。貪著。

  神我:我の主宰者。不滅の霊魂。心が身心に貪著して生じる。

  事の対なり。平等の方面を指す。表面に認識し難きも、本体に於いて一定不変の理の存する有り。木石を見ずして木石と為すが如く、因縁所生の法を観るが如し。

  薩婆若:一切智と訳す。一切の知識を有する智慧。

:空平等の智慧を以って我を照せば、我の主宰は無明に他ならず空中の空、即ち何者も無いのである。しかし空であるはずの衆生中の理心は道理をわきまえることができ、菩提心を破らず、無漏の中道で観察して一切の衆生を教化して薩婆若(さばにゃ、一切智)に入らせ、空の真性に入らせる。この空の真性、真行、即ち空平等の智慧こそ三界の主者であり、煩悩の中に在っても苦楽の果報を受けることがない。これが直心である。

若佛子。不退心者。不入一切凡夫地不起雜長養諸見。亦復不起習因相似我人。入三界業亦行空而不住退。解脫於第一中道。一合行故不行退。本際無二故而不念退。空生觀智如如相續。乘乘心入不二。常空生心一道一淨。為不退一道一照

若仏子、『不退心』とは、一切の凡夫の地に入らずして、諸見の長養を雑うることを起さず。また、また習に因る相似の我、人を起さず。三界の業に入りて、また空を行じて住退せず。第一の中道に於いて解脱し、一合して行ずるが故に、行じて退かず。本際は無二なるが故に退くことを念ぜず。空観智を生ずれば、如如は相続し乗乗して心は不二に入り、常空は心に一道の一浄なるを生じて、為に一道一照するを退かず。

お前たち、仏子よ!

『不退心』とは、

  『一切の凡夫の地』に入らず、

  『諸見の長養を雑える』ことを起さず、またふたたび、

  『習(習慣)』に起因する、相似の

    『我、人(他人)』を起さず、

  『三界の業報』に入りながら、

    『空』を行じて、そこに

      『住(とどま)る』ことも、そこから

      『退く』こともなく、

  『第一義の中道(空平等)』に於いて、

    『一切の空』と

    『三界の苦報』との二端を、

      『解脱』し、

    『五陰(色受想行識)』が一合(生じる)すれば、また

      『中道』を行き、この故に、

      『行き』て退かない。

  『中道』は、

    『本際(真如、涅槃)』と無二であるから、決して、

    『退く』ことを念(おも)いもしない。

  『空』より生じる『観智』によれば、

    『如如(諸法中の真如)』は世世相続し乗乗(勢いを増す)して、心は

    『世間』と『涅槃』との不二に入る。

  『常に空』であれば、心に

    『中道の一道一浄』なるを生じて、

    『中道の一道一照』するを退かない。

 

  本際:本来存るべき究極の境界。多く真如、涅槃をいう。

  如如:法性の理体は不二平等なり。故に如といい、彼此の諸法は皆如なるが故に、如如という。

:空平等の心を以ってすれば、今の一切の行業は涅槃に至る菩提心の果報を生じ、後の生に身心を受けるごとに中道を行きて退かない、即ち後世にも菩提心を生じる、これが不退心である。

若佛子。獨大乘心者。解解一空故。一切行心名一乘。乘一空智。智乘行乘。乘智。心心任運任用任載任一切眾生。度三界河結縛河生滅河。行者坐乘任用載用。智心趣入佛海。故一切眾生未得空智任用。不名為大乘。但名乘得度苦海

若仏子、『独大乗心』とは、解解の一空なるが故に、一切の行心を一乗と名づく。一空の智の智乗と行乗とに乗れば、智に乗る心心は、(一切の衆生を、)運ぶに任え、用に任え、載するに任え、一切衆生に任えて、三界の河、結縛の河、生滅の河を度す。行者は乗に坐して、任用し載用すれば、智心は仏海に趣入す。故に、一切の衆生の未だ空智を得て任用せずんば、名づけて大乗とは為さずして、ただ乗じて苦海を度ることを得とのみ名づく。

お前たち、仏子よ!

『独大乗心』とは、

  『解解(諸解脱)の一空(平等)』であり、その故に、

  『一切の衆生の行心』は、

    『一乗(一つの乗り物、馬車船舶の類)』である。

  『一空の智』である、

    『智乗(智慧の乗り物)』と、

    『行乗(菩薩行の乗り物)』とに乗れば、

  『智に乗った心心(諸の衆生心)』は、

    『一切の衆生』を運ぶに任(た)え、

    『一切の衆生』の用に任え、

    『一切の衆生』を載せるに任えて、

    『三界の河』、

    『結縛の河』、

    『生滅の河』を度る。

  『行者』は、

    『乗(乗り物)』に坐して、

      任用(乗り物として使用する)し、

      載用(乗せて役立てる)すれば、

      『智心』は趣いて、

      『諸仏の海』に入る。

その故に、

  『一切の衆生』が、未だ

  『空智の乗を得ず、用に任()えられない』ならば、

それは、

  『大乗』ではなく、ただ

  『乗って苦海を度ることができる』だけである。

 

  独大乗:ただ一つの大きな乗り物。

  任運、任用、任載、載用:任は乗り物、または役立つ、運、載は運ぶ、または乗せる、用は役立つ。

:空平等の心で観れば、一切の諸の衆生とは、今涅槃に運ぼうとする所の、この一衆生を指す、自ら智と行の乗り物に乗り、一衆生を運ぶが如く、一切の衆生を運ぶ、一切の衆生が一時に皆諸仏の海に入る、これが大乗心である。その故に一切の衆生が皆、空智を得たとき、初めてそれを大乗というのであり、もし好悪善悪を以って衆生を分別し、一人でも積み残しがあれば、それは大乗ではない。

若佛子。無相心者。忘想解脫。照般若波羅蜜無二。一切結業三世法如如一諦。而行於無生空。自知得成佛。一切佛是我等者。一切賢聖是我同學。皆同無生空。故名無相心

若仏子、『無相心』とは、妄想と解脱と、般若波羅蜜に照せば無二なり。一切の結業の三世の法は、如如の一諦にして、而も無生なる空を行ずれば、自ずから仏と成るを得ることを知る。一切の仏、これわれに等しくんば、一切の賢聖も、これわれと同学なり。皆無生の空に同じきが故に、無相心と名づく。

お前たち、仏子よ!

『無相心』とは、

  『生死の妄想』も、

  『涅槃への解脱』も、

    『般若波羅蜜』に照せば、無二である。

  『一切の結業(煩悩の所作)』である、

  『三世の法(過去と未来と現在)』は、

    『如如の一諦(中道平等の第一義諦)』であり、

  『無生』という名の、

  『空道』を行けば、自ら、

    『わたしも、仏に成り得る。

     一切の仏も、わたしに等しく、

     一切の賢聖も、わたしと同学であり、

     皆、同じく『無生』であり『空』である。』と知る。

  この故に、

    『無相心』という。

 

  般若波羅蜜:一切は平等にして空無二なりと知り、六波羅蜜中に慈悲行を発動する力。

:忘想は妄想に改める。

:空平等の智慧で照せば、生死もなく涅槃もなく、煩悩もなく無生もなく、凡夫もなく賢聖もない、これが無相心である。

若佛子。如如慧心者。無量法界無集無受生。生生煩惱而不縛。一切法門。一切賢所行道。一切聖所觀法。所有亦如是。一切佛教化方便法。我皆集在心中。外道一切論邪定功用。幻化魔說佛說皆分別。入二諦處非一非二。非有陰界入。是慧光明。光明照性入一切法

若仏子、『如如の慧心』とは、無量の法界は集むる無く、生を受くる無く、生生に煩悩あれど縛せず。一切の法門、一切の賢の所行の道、一切の聖の所観の法、所有もまたかくの如し。一切の仏の教化と方便の法は、われ皆集めて心中に在りて、外道の一切の論、邪定の功用、幻化、魔の説も、仏の説も、皆分別して、二諦処に入るるに、一に非ず二に非ず。陰界入有るに非ざれば、これ慧の光明なり、光明性を照して一切の法に入る。

お前たち、仏子よ!

『如如の慧心』とは、

  『無量の法界(一切諸法)』は、

    『苦因』を集めず、

    『苦果の生』を受けず、

    『生生(諸生)の煩悩』にも縛られない。

  『一切の法門』も、

  『一切の賢聖の行く道』も、

  『一切の賢聖の観る法』も、

  『所有(あらゆるもの)』は、皆同じである。

  わたしは、

    『一切の仏』の

      『教化の法』と、

      『方便の法』とを、集めて、

    皆、

      『心の中』に在り、

  『外道の一切の論』も、

  『邪定の功用』も、

  『幻化魔説』も、

  『仏説』も、

    皆、分別して、

    『二諦処(真偽二処)』に入れた。しかし、

  これ等は、

    『一』でもなく、

    『二』でもない。

  『陰界入(おんかいにゅう、人の身心)は有るはずがない』のであるから、

  これ等は、

    皆、『智慧の光明』であり、この

  『光明』で、

    『諸法の性(如如の性、空性)』を照せば、

    『一切の法』を証得したことになる。

 

  陰界入:五陰、十八界、十二入。皆等しく人の身心をいう。

  入一切法:一切の事物を理解し証得する。

:空平等の智慧で観れば、一切の諸法は苦因を集めることも、苦果を受けることもなく、生生に煩悩に縛されることもない、これは一切の法門についても言えることで、仏の法と外道の法と二に分類することはできるが、実は一つである。人の身心はないのであるから、一切の諸法、一切の法門は皆、智慧の光明である、これが慧心である。

若佛子。不壞心者。入聖地智近解脫位。得道正門。明菩提心。伏忍順空八魔不壞。眾聖摩頂諸佛勸發。入摩頂三昧。放身光光照十方佛土。入佛儀神。出沒自在動大千界。與平等地心無二無別。而非中觀知道。以三昧力故。光中見佛無量國土。現為說法。

若仏子、『不壊心』とは、聖地の智に入りて、解脱位に近づくも、道の正門を得て、菩提心を明かす。伏して空に忍順し、八魔に壊せざるも、衆聖頂を摩でて、諸仏勧発するに摩頂三昧に入る。身より光光を放ちて十方の仏土を照らすも、仏の儀神に入りて出没自在に大千界を動かす。平等なること地と心とは無二無別たるも、而も中に道を観知するに非ず、三昧力を以っての故に、光中に仏の無量国土を見(あらわ)し、現れて為に法を説く。

お前たち、仏子よ!

『不壊心』とは、

  『聖地の智慧(四聖諦等)』を証得して、

    『解脱位(阿羅漢位)』に近づくが、

  『道の正門(大乗)』に会得して、

    『菩提心』を明らかにする。

  『空』に伏して忍順して、

    『八魔(常楽我淨及び無常苦無我不浄)』に破られることはないが、

  『衆聖(諸仏)』が頂を摩でて、

    『諸仏の心』を勧発(誘引)すれば、

    『摩頂三昧』に入る。

  『身の光光(諸光)』を放って、

    『十方の仏土』を照らしながらも、

  『仏の儀神(威儀威神)』を証得して、

    『六道』に自在に出没して、

    『大千世界』を動かす。

  『平等なる心』は、

    『地と無二無別』であり、

  しかも、

    その中で、

      道を観知するのではなく、

  『三昧の力』を以って、光中に

    『仏の無量の国土』を見(あらわ)し、そこに現れて、その

    『衆生の為』に法を説く。

 

  聖地:無漏智を生じて四諦を諦観する位。見道。

  解脱位:煩悩を断ち終った位。修道、または無学道。

  八魔:八倒。

:小乗の四諦の智を以って解脱せず、大乗に遇うことを得て自ら菩提心を明らかにし、空平等の身より光光を放って菩薩の慈悲を行じ、諸仏の世界を照らす、六道に自在に出没しては大千世界を震動し、無量の国土に於いて無数の衆生の為に法を説く、これが不壊心である。この不壊心を得た菩薩は、世世に不退となり菩薩としての確固たる地位を確立する。

爾時即得頂三昧。登虛空平等地。總持法門聖行滿足。心心行空。空空慧中道無相照故。一切相滅得金剛三昧門。入一切行門。入虛空平等地。如佛華經中廣說

その時、即ち頂三昧を得て、虚空平等地に登り、総持法門と聖行と満足す。心心に空を行じ、空空の慧中の道を無相なるもの照らすが故に、一切の相滅して、金剛三昧門を得。一切の行門に入りて、虚空平等地に入ることは、仏華経の中に広く説くが如し。

その時、

  『頂三昧』に入ることを得て、

  『虚空平等の地』に登り、

  『総持法門(菩薩所修の念定慧の法門)』と、

  『聖行(菩薩所修の戒定慧の行)』とを満足し、

  『心心(諸心)』に

    『空』を行じて、

    『空空の慧』中に、

    『道の無相』を以って照らせば、

  その故に、

    『一切の相』は滅して、

      『金剛三昧』に入ることができ、

    『一切の行門』を証得して、

      『虚空平等地』に入る。

 これは、

  『仏華経』の中で、広く説いたのと同じである。

 

  総持:善を持ちて失わず、持てる悪は起たしめずの義。念と定慧とを以って体と為し、菩薩所修の念定慧にこの功徳を具う。

  空空:心心各各空なるにより、空空という。

  道の無相:大乗の道は空にして無相、相無きが故に一切摧くこと無し。

  金剛:山を砕く武器。堅固にして自ら摧けないことに譬える。

  虚空平等地:十地中の第一体性平等地。虚空は一切を平等に覆うことに譬える。

  仏華経:『大方広仏華厳経』、この謂わゆる華厳経は、般若経に説く所の空平等の世界観を持つ菩薩の行願は、即ち慈悲行の実践と理想の世界の願求とにより、華によって荘厳されたるが如く美しい世界をこの世に現す、この理想の世界こそ即ち常住の法身であり、毘盧遮那仏である、と説くものである。この梵網経は華厳経の所説に近く、この世に盧舎那仏の世界を現すため、菩薩の心地を説く。

:この十金剛心を得た菩薩は、頂三昧に立って空平等の地平を眺めれば、既に総持法門(世世に大乗の法門を総て保持して忘れない)と菩薩所修の戒定慧の行を満足して、空智で照すが故に一切の相を滅して、金剛三昧に入り、一切の行門を証得して虚空平等地に入る。ここまでは一菩薩一個人としての位であるが、次に入る十地は、一切の衆生を受ける器としての地の位を指し、謂わゆる衆生世間の位をいう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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