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目     次

はじめに

阿梨咤比丘、悪見を起す

毒蛇の喩

筏(いかだ)の喩

邪見の生ずる六処

仏法に因る恐怖の有無

外道法に因る恐怖の有無

ある見解、および相続した見解を説いても、完全ではない

六見処に神を見ずして、煩悩の河を度る

如来は、法を現わす中に憂い無し

比丘は、罵倒打擲されても瞋らず、恭敬供養されても悦ばない

仏の法は、善く説かれ包み隠されない

 

 

 

 

 

 

  筏喩経(ばつゆきょう)は、小乗経の中の中阿含経第五十四巻に第二百経として、阿梨咤経(ありたきょう)の名で収録されています。 

 

  阿梨咤比丘という人は、比丘に妻室が有っても修行の妨げにならない、婬欲は道法を障礙せずと言いはり、仏に訶責されました。

  仏は、ここで筏(いかだ)に喩(たとえ)を引いて、目的を達するための単なる道具に過ぎない言葉に、いつまでも拘る愚さを説かれます。

 

  すなわち、ある大河が有り、渡るべき橋も船も無い、ある旅人は、岸辺に流木を集めて筏を造り、それで河を渡った。 しかし渡りおえた後にも、この筏は役に立ったからと言って、肩に載せて旅を続けるべきだろうか?

 

  仏は、実際に婬欲は道法を障礙せずと言われたかも知れない。 しかし、それは目的を達するための単なる言葉であり、時と人が代れば、また替らねばならぬものであると、これがこの経の大意です。

  我々は誰しも、常に、ここに留意していなくてはならないのですが、これと類似の喩は他にもあり、例えば、あれを見よと言って月を指さすと、月を見ずに指先ばかりを見るというような喩もあります。

 

   目的と手段を取り違えた場合の、そこに起こる悲惨さは、この国ばかりか世界中に、その例を見ることができます。 やや難しい経ですが、是非この経の真意を汲み取っていただきたいものと思います。

 

  この経の中には、しばしばある部分が繰り返されています。 経を伝えるのに、古くは文書によらず、比丘たちの暗誦によったということですが、これはその名残でしょう。

 

                                           以上

 

 

 

 

 

中阿含經卷第五十四

 東晉罽賓三藏瞿曇僧伽提婆譯

(二○○)大品阿梨吒經第九(第五後誦)

中阿含経巻第五十四

  東晋罽賓(けいひん)の三蔵

  瞿曇僧伽提婆(くどんそうがだいば)訳す

  第二百経 大品阿梨咤(ありた)経 第九(第五後誦)

 阿梨咤(ありた)比丘の邪見を破す。

 

  瞿曇僧伽提婆(くどんそうがだいば):瞿曇は姓、僧伽提婆は名。 東晋代の罽賓(けいひん、カシミール)国の人、慧遠、竺仏念等と共に諸論を訳す。

 

 

阿梨咤比丘、悪見を起す

我聞如是。一時。佛遊舍衛國。在勝林給孤獨園

我、かくの如きを聞けり。 ある時、仏は舎衛国(しゃえいこく)に遊び、勝林給孤獨園(しょうりんぎっこどくおん)に在(ましま)せり。

  わたくしは、このように聞いております、――

  ある時、

    仏は

      舎衛国(しゃえいこく、北印度の大国)に遊行され、

      勝林給孤獨園(しょうりんぎっこどくおん、寺院の名)におられた。

爾時。阿梨吒比丘本伽陀婆梨。生如是惡見。我知世尊如是說法。行欲者無障礙。諸比丘聞已。往至阿梨吒比丘所。問曰。阿梨吒。汝實如是說。我知世尊如是說法。行欲者無障礙耶

その時、阿梨咤(ありた)比丘、本の伽陀婆梨(かだばり)は、かくの如き悪見を生じたり、『我は知る、世尊はかくの如く、『欲を行うは障礙(しょうげ、障碍)無し。』と法を説きたまえり。』と。 諸の比丘聞きおわり、往きて阿梨咤比丘の所に至り、問うて曰く、『阿梨咤、汝は実にかくの如く、『我は知る。世尊はかくの如く、『欲を行うは障礙無し。』と、法を説きたまえり。』と説けるや。』と。

その頃、

  阿梨咤(ありた)比丘、本の伽陀婆梨(かだばり、俗人の時の名)は、

     悪見(あくけん、悪い見解)を生じて、

     このような事を言っていた、――

  『わたしは知っている、――

     世尊は、

       『欲(よく、色声香味触に愛著すること、五欲、欲望、婬欲)を行っても、

          修行をさまたげない。』と、法を、

       お説きになった。』と。

  諸の比丘たちは、

     これを聞いて、

     阿梨咤比丘の所に往き、問うた、――

  『阿梨咤、お前は本当に、このような事を言ったのか?――

      『わたしは知っている、――

         世尊は、

           『欲を行っても、修行をさまたげない。』と、法を、

           お説きになった。』と。』と。

時。阿梨吒答曰。諸賢。我實知世尊如是說法。行欲者無障礙

時に、阿梨咤答えて曰く、『諸賢(しょけん、尊敬の呼びかけ)、我は実に知る、世尊はかくの如く、『欲を行うは障礙無し。』と、法を説きたまえり。』と。

その時、

  阿梨咤はこう答えた、――

  『諸賢(しょけん、皆さん)、わたしは本当に知っています、――

     世尊は、

       『欲を行っても、修行をさまたげない。』と、法を、

       お説きになったと。』と。

諸比丘訶阿梨吒曰。汝莫作是說。莫誣謗世尊。誣謗世尊者不善。世尊亦不如是說。阿梨吒。欲有障礙。世尊無量方便說欲有障礙。阿梨吒。汝可速捨此惡見也

諸の比丘は、阿梨咤を訶して曰く、『汝、この説を作すことなかれ。 誣(あざむ)きて、世尊を謗ることなかれ。 誣きて世尊を謗るは善からざるなり。 世尊は、またかくの如きを説きたまわず。 阿梨咤、欲には障礙有り。 世尊は、無量の方便(ほうべん、手段)して、まさに便(すなわ)ち、『欲には障礙有り。』と説きたまえり。 阿梨咤、汝は速やかにこの悪見を捨つべし。』と。

諸の比丘は、阿梨咤をこう言って訶責(かしゃく、叱責)した、――

  『お前は、

     そのような事を言ってはならない。

     でたらめを言って、世尊を謗ってはならない。

   でたらめを言って、

     世尊を謗ることは、善いことではない。

   世尊も、

     そのような事は

     お説きになっていない。

   阿梨咤、

     欲は、修行のさまたげである。

   世尊は、

     無量の方便(ほうべん、手段)を使って、

     『欲は、修行のさまたげである。』と、

       お説きになった。

   阿梨咤、

     お前は、

       そのような悪見を、

       速やかに、捨てなければならない。』と。

阿梨吒比丘為諸比丘所訶已。如此惡見其強力執。而一向說。此是真實。餘者虛妄。如是再三

阿梨咤比丘、諸の比丘に訶せられおわりれども、かくの如き悪見、それに強力に執(しつ、とりつく)し、一向(ひたすら)に、『これはこれ真実にして、余は虚妄なり。』と説きて、かくの如く再三せり。

阿梨咤比丘は、

  諸の比丘に訶責されたが、

  この悪見に強力に取り付かれていたので、

  ひたすら、『これこそが真実である。 その他は虚妄である。』と、

    二度三度と、言いはった。

眾多比丘不能令阿梨吒比丘捨此惡見。從坐起去。往詣佛所。稽首佛足。卻坐一面。白曰。世尊。阿梨吒比丘生如是惡見。我知世尊如是說法。行欲者無障礙。世尊。我等聞已。往詣阿梨吒比丘所。問曰。阿梨吒。汝實如是說。我知世尊如是說法。行欲者無障礙耶。阿梨吒比丘答我等曰。諸賢。我實知世尊如是說法。行欲者無障礙。世尊。我等訶曰。阿梨吒。汝莫作是說。莫誣謗世尊。誣謗世尊者不善。世尊亦不如是說。阿梨吒。欲有障礙。世尊無量方便說欲有障礙。阿梨吒。汝可速捨此惡見。我等訶已。如此惡見其強力執。而一向說。此是真實。餘者虛妄。如是再三。世尊。如我等不能令阿梨吒比丘捨此惡見。從坐起去

衆多(しゅた、多く)の比丘、阿梨咤比丘をしてこの悪見を捨てしむること能わず、坐より起ちて去り、往きて仏の所に詣で、仏の足を稽首(けいしゅ、頭を地に著けてする礼)し、却(しりぞ)いて一面(いちめん、かべぎわ)に坐り、白(もう)して曰(もう)さく、『世尊、阿梨咤比丘、かくの如き悪見を生ぜり。 『我は知る。 世尊はかくの如く、『欲を行うは障礙無し。』と、法を説きたまえりと。』と。 我等聞きおわり、往きて阿梨咤比丘の所に詣で、問うて曰く、『阿梨咤、汝は実にかくの如く、『我は知る。 世尊はかくの如く、『欲を行うは障礙無し。』と、法を説きたまえりと。』と説けるや。』と。 阿梨咤比丘、我等に答えて曰く、『諸賢、我は実に知る。 世尊はかくの如く、『欲を行うは障礙無し。』と、法を説きたまえりと。』と。 世尊、我等訶して曰く、『阿梨咤、汝はこの説を作すことなかれ。 誣(あざむ)きて世尊を謗ることなかれ。 誣きて世尊を謗るは善からざるなり。 世尊も、またかくの如く説きたまわず。 阿梨咤、欲には障礙有り。 世尊は、無量に方便して、『欲には障礙有り。』と説きたまえり。 阿梨咤、汝は速やかに、この悪見を捨つべし。』と。 我等、訶しおわれども、かくの如き悪見それに強力に執して、一向に、『これはこれ真実なり。 余は虚妄なり。』と説き、かくの如き再三せり。 世尊、我等が如きには、阿梨咤比丘をして、この悪見を捨てしむること能わず、坐より起ちて去れり。』と。

  多くの比丘たちも、

    阿梨咤比丘に、悪見を捨てさせることができず、

    坐を起って去り、仏の所に詣でて、

    仏の足に稽首(けいしゅ、頭を地に著けてする礼)して、

    壁ぎわの一面に坐り、

    こう申した、

      『世尊、阿梨咤比丘が、このような悪見を説いています、――

         『わたしは知っている、――

            世尊は、

              『欲を行っても、修行をさまたげない。』と、法を、

              お説きになった。』と。

       我等は、

         これを聞いて、

         阿梨咤比丘の所に往き、

         こう問いました、――

           『阿梨咤、お前は本当にこのようなことを言ったのか?

              『わたしは知っている、――

                 世尊は、

                   『欲を行っても、修行をさまたげない。』と、法を、

                   お説きになった。』と。

       阿梨咤比丘は、我等に答えてこう申します、――

         『諸賢、わたしは本当に知っています、――

            世尊は、

              『欲を行っても、修行をさまたげない。』と、法を、

              お説きになりました。』と。

       世尊、我等はこれを訶責してこう申しました、――

         『阿梨咤、お前は

            そのような事を言ってはならない。

            でたらめを言って、世尊を謗ってはならない。

          でたらめを言って、

            世尊を謗ることは、善いことではない。

          世尊も、

            そのような事は、

            お説きになっていない。

          阿梨咤、

            欲は、修行のさまたげである。

          世尊は、

            無量の方便を使って、

            『欲は、修行のさまたげである。』と

              お説きになった。

          阿梨咤、お前は、

            速やかに、この悪見を捨てなければならない。』と。

       我等は、

         このように訶責したのですが、

       このような悪見が、

         阿梨咤比丘に、強力に取り付き、

         ひたすら、『これこそが真実である。 その他は虚妄である。』と

           二度三度と、言いはります。

       世尊、

         我等には、

           阿梨咤比丘に、この悪見を捨てさせることができませんでしたので、

           座を起って、去りました。』と。

世尊聞已。告一比丘。汝往阿梨吒比丘所。作如是語。世尊呼汝

世尊、聞きおわりて、ある比丘に告げたまわく、『汝、阿梨咤比丘の所に往き、かくの如き語を作せ。 世尊は汝を呼びたまえりと。』と。

世尊は、

  これを聞いて、

  ある比丘に命じられた、――

  『お前は、

     阿梨咤比丘の所に往き、

     『世尊が、あなたを呼んでいられます。』と言え。』と。

於是。一比丘受世尊教。即從坐起。稽首佛足。遶三匝而去。至阿梨吒比丘所。即語彼曰。世尊呼汝。阿梨吒比丘即詣佛所。稽首佛足。卻坐一面

ここに於いて、ある比丘は世尊の教えを受け、即ち坐より起ち、仏に足に稽首して、遶(めぐ)ること三匝(さんそう、三回)して去り、阿梨咤比丘の所に至りて、即ち彼に語りて曰く、『世尊、汝を呼びたまえり。』と。 阿梨咤比丘、即ち仏の所に詣でて仏の足に稽首し、却(しりぞ)いて一面に坐せり。

そこで、

  この比丘は、

    世尊の教えを受けて、

      すぐに

        座より起ち、

        仏の足に稽首して、

        仏の回りを三回遶(めぐ)り、

        阿梨咤比丘の所に至って、

        こう言った、

          『世尊が、あなたをお呼びです。』と。

  阿梨咤比丘は、

    すぐに、

      仏の所に詣でて、

      仏の足に稽首し、

      却(しりぞ)いて壁の一面に坐った。

世尊問曰。阿梨吒。實如是說。我知世尊如是說法。行欲者無障礙耶

世尊、問うて曰(のたま)わく、『阿梨咤、実にかくの如く、『我は知る。 世尊は、かくの如く、『欲を行うは障礙無し。』と、法を説きたまえり。』と説けるや。

世尊は、問われた、――

  『阿梨咤、お前は、本当にこのように言っているのか?

     『わたしは知っている。

        世尊は、このように、

          『欲を行っても、修行をさまたげない。』と、法を、

          説かれた。』と。』と。

阿梨吒答曰。世尊。我實知世尊如是說法。行欲者無障礙

阿梨咤、答えて曰く、『世尊、我は実に知る。 世尊は、かくの如く、『欲を行うは障礙無し。』と、法を説きたまえり。』と。

阿梨咤は答えて申した、――

  『世尊、

     わたしは実に知っております、――

       世尊は、このように、

         『欲を行っても、修行をさまたげない。』と、法を、

         お説きになった。』と。

世尊訶曰。阿梨吒。汝云何知我如是說法。汝從何口聞我如是說法。汝愚癡人。我不一向說。汝一向說耶。汝愚癡人。聞諸比丘共訶。汝時應如法答。我今當問諸比丘也

世尊は、訶して曰わく、『阿梨咤、汝は云何が知る、我の、かくの如き法を説けるを。 汝は何なる口より聞ける、我がかくの如き法を説けるを。 汝は愚癡の人なり、我一向に説かざるを、汝一向に説くや。 汝は愚癡の人なり、諸の比丘の共に訶するを聞け。 汝、時(ここ)にまさに如法(にょほう、定められた法に随うこと)に答うべし。 我、今まさに諸の比丘に問うべし。

世尊は、訶責して言われた、――

  『阿梨咤、

     お前は、

       何故、知っている、

         わたしが、そのように法を説いたと?

     お前は、

       誰の口から、聞いたのだ、

         わたしが、そのように法を説いたと?

     お前は、

       愚か者である。

     諸の比丘と、

       わたしは、

         一緒に、訶責してやるから、よく聞け。

     お前は、

       その時、

         規則どおりに、答えよ。

     わたしは、

       今、

         諸の比丘に問うてみよう。』と。

於是。世尊問諸比丘。汝等亦如是知我如是說法。行欲者無障礙耶

ここに於いて、世尊、諸の比丘に問いたまわく、『汝等も、またかくの如く知るや、我のかくの如く、『欲を行うは障礙無し。』と、法を説けるを。』と。

そこで、

  世尊は、

    諸の比丘に問われた、――

      『お前たちも、

         また、このように知っているのか?

       わたしが、

         『欲を行っても、修行をさまたげない。』と、

         このように

           法を説いたと?』と。

時。諸比丘答曰。不也

時に、諸の比丘、答えて曰く、『不(いな)なり。』と。

その時、

  諸の比丘たちは答えて申した、――

    『いいえ。』と。

世尊問曰。汝等云何知我說法

世尊、問うて曰わく、『汝等、云何が知る、我が法を説けるを。』と。

世尊は問われた、――

  『お前たちは、

     何のように知っているのか?

   わたしが、

     法を説いたのを?』と。

諸比丘答曰。我等知世尊如是說法。欲有障礙。世尊說欲有障礙也。欲如骨鎖。世尊說欲如骨鎖也。欲如肉臠。世尊說欲如肉臠也。欲如把炬。世尊說欲如把炬也。欲如火坑。世尊說欲如火坑也。欲如毒蛇。世尊說欲如毒蛇也。欲如夢。世尊說欲如夢也。欲如假借。世尊說欲如假借也。欲如樹果。世尊說欲如樹果也。我等知世尊如是說法

諸の比丘、答えて曰く、『我等は知れり、世尊のかくの如く法を説きたまえるを。 欲には障礙有り。 世尊は『欲には障礙有り。』と説きたまえり。 欲は骨鎖(こつさ、白骨)の如し。 世尊は『欲は骨鎖の如し。』と説きたまえり。 欲は肉臠(にくれん、肉の切り身)の如し。 世尊は『欲は肉臠の如し。』と説きたまえり。 欲は炬(こ、たいまつ)を把(つか)むが如し。 世尊は『欲は炬を把むが如し。』と説きたまえり。 欲は火坑(かきょう、火の燃えさかる坑)の如し。 世尊は『欲は火坑の如し。』と説きたまえり。 欲は毒蛇の如し。 世尊は『欲は毒蛇の如し。』と説きたまえり。 欲は夢の如し。 世尊は『欲は夢の如し。』と説きたまえり。 欲は仮借(かしゃく、借金)の如し。 世尊は『欲は仮借の如し。』と説きたまえり。 欲は樹果の如し。 世尊は『欲は樹果の如し。』と説きたまえり。 我等、世尊のかくの如く法を説きたまえるを知れり。』と。

諸の比丘たちは、答えて申した、――

  『わたくし共は知っています、――

     世尊は、このように法をお説きになりました、――

       欲には障礙が有るについて、

         世尊は、『欲には障礙が有る。』とお説きになり、

       欲は白骨のようであるについて、

         世尊は、『欲は白骨のようである。』とお説きになり、

       欲は肉臠(にくれん、肉の切り身)のようであるについて、

         世尊は、『欲は肉臠のようである。』とお説きになり、

       欲は炬(たいまつ)を把むようであるについて、

         世尊は、『欲は炬を把むようである。』とお説きになり、

       欲は火坑(かきょう、火口)のようであるについて、

         世尊は、『欲は火坑のようである。』とお説きになり、

       欲は毒蛇のようであるについて、

         世尊は、『欲は毒蛇のようである。』とお説きになり、

       欲は夢のようであるについて、

         世尊は、『欲は夢のようである。』とお説きになり、

       欲は借金のようであるについて、

         世尊は、『欲は借金のようである。』とお説きになり、

       欲は樹果のようであるについて、

         世尊は、『欲は樹果のようである。』とお説きになりました。

   わたくし共は知っています、――

     世尊が、こように法をお説きになったと。』と。

世尊歎曰。善哉。善哉。諸比丘。汝等知我如是說法。所以者何。我亦如是說。欲有障礙。我說欲有障礙。欲如骨鎖。我說欲如骨鎖。欲如肉臠。我說欲如肉臠。欲如把炬。我說欲如把炬。欲如火坑。我說欲如火坑。欲如毒蛇。我說欲如毒蛇。欲如夢。我說欲如夢。欲如假借。我說欲如假借。欲如樹果。我說欲如樹果

世尊、歎じて曰わく、『善いかな。 善いかな。 諸の比丘、汝等、我のかくの如く法を説けるを知れり。 所以(ゆえ)は何(いか)んとなれば、我も、またかくの如く説けり。 欲には障礙有り。 我は『欲には障礙有り。』と説けり。 欲は骨鎖の如し。 我は『欲は骨鎖の如し。』と説けり。 欲は肉臠の如し。 我は『欲は肉臠の如し。』と説けり。 欲は炬を把むが如し。 我は『欲は炬を把むが如し。』と説けり。 欲は火坑の如し。 我は『欲は火坑の如し。』と説けり。 欲は毒蛇の如し。 我は『欲は毒蛇の如し。』と説けり。 欲は夢の如し。 我は『欲は夢の如し。』と説けり。 欲は仮借の如し。 我は『欲は仮借の如し。』と説けり。 欲は樹果の如し。 我は『欲は樹果の如し。』と説けり。』と。

世尊は、歎じて言われた、

  『善いぞ、善いぞ、諸の比丘たちよ。

     お前たちは知っている、――

       わたしが、このように法を説いたと。

     何故ならば、

       わたしも、そのように法を説いたのだ。

       欲にはさまたげが有るについては、

         わたしは、『欲にはさまたげが有る。』と説いた、

       欲は白骨のようであるについては、

         わたしは、『欲は白骨のようである。』と説いた、

       欲は肉臠(にくれん、肉の切り身)のようであるについては、

         わたしは、『欲は肉臠のようである。』と説いた、

       欲は炬(たいまつ)を把むようであるについては、

         わたしは、『欲は炬を把むようである。』と説いた、

       欲は火坑(かきょう、火口)のようであるについては、

         わたしは、『欲は火坑のようである。』と説いた、

       欲は毒蛇のようであるについては、

         わたしは、『欲は毒蛇のようである。』と説いた、

       欲は夢のようであるについては、

         わたしは、『欲は夢のようである。』と説いた、

       欲は借金のようであるについては、

         わたしは、『欲は借金のようである。』と説いた、

       欲は樹果のようであるについては、

         わたしは、『欲は樹果のようである。』と説いた。』と。

世尊歎曰。善哉。善哉。汝等知我如是說法。然此阿梨吒愚癡之人。顛倒受解義及文也。彼因自顛倒受解故。誣謗於我。為自傷害。有犯有罪。諸智梵行者所不喜也。而得大罪。汝愚癡人。知有此惡不善處也

世尊、歎じて曰わく、『善いかな。 善いかな。 汝等、我のかくの如く法を説けるを知れり。 然るに、この阿梨咤、愚癡の人は、顛倒(てんどう、さかさま)して義および文(もん、ことば)を受け解きぬ。 彼は、自ら顛倒して受け解けるに因るが故に、誣(あざむ)きて我を謗り、自らを傷害せるには犯せる有り、罪有り。 諸の智と梵行(ぼんぎょう、清浄行)の者は喜ばざるなり。 しかも大罪を得るとは、汝愚癡の人、この悪は不善の処なりと知れ。』と。

世尊は歎じて言われた、――

  『善いぞ、善いぞ。

     お前たちは知っている、――

       わたしが、そのように法を説いたのを。

   それなのに、

     この阿梨咤の愚か者は、

       逆さまに、

         義(ぎ、意味)と文句とを、受けて理解したのだ。

     彼は、

       自ら、

         逆さまに、

           受けて理解したが故に、

           わたしについては、でたらめを言って謗り、

           自らを傷つけ害している。

   このような

     罪を犯せば、

       諸の智慧ある清浄の行者に喜ばれることは無く、

       大罪を得よう。

   お前は愚か者である。

   このようなことは、

     悪と不善の生ずる処であると知れ。』と。

於是。阿梨吒比丘為世尊面訶責已。內懷憂慼。低頭默然。失辯無言。如有所伺

ここに於いて、阿梨咤比丘、世尊に面(まのあたり)に訶責(かしゃく、叱責)せられおわりて、内に憂慼(うしゃく、心を痛める)を懐き、低頭黙然として、辯を失い言うこと無く、伺う所の有るが如し。

このように、

  阿梨咤比丘は、

    世尊に面と向って訶責され、

    心を痛めて頭を低くし、

    黙って何も言わずに、

    ただ、

      世尊の顔色を伺っていた。

 

 

 

 

毒蛇の喩

於是。世尊面訶責數阿梨吒比丘已。告諸比丘。若我所說法盡具解義者。當如是受持。若我所說法不盡具解義者。便當問我及諸智梵行者

ここに於いて、世尊、面(まのあたり)に阿梨咤比丘を訶責し、(罪を)数(かぞ)えおわりて、諸の比丘に告げたまわく、『我が説きし所の法の若(ごと)きを、尽(ことごと)く具(つぶさ)に義を解ける者、まさにかくの如く受け持(たも)つべし。 我が説きし所の法の若きを、尽くは具に義を解かざる者は、便(すなわ)ち、まさに我および諸の智と梵行の者に問うべし。

世尊は、

  面と向って、阿梨咤比丘を訶責し、その罪を数えおわると、

  諸の比丘たちに、教えられた、――

    『わたしが説いた法について、

       ことごとく、つぶさに、

         義を、理解した者は、

           必ず、そのように受けて持(たも)たなくてはならない。

     わたしが説いた法について、

       ことごとくは、つぶさに

         義を、理解していない者は、

           ただちに、

             わたし、および、諸の

               智慧がある清浄の行者に、問え。

所以者何。或有癡人。顛倒受解義及文也。彼因自顛倒受解故。如是如是知彼法。謂正經.歌詠.記說.偈他.因緣.撰錄.本起.此說.生處.廣解.未曾有法及說義。彼諍知此義。不受解脫知此義。彼所為知此法。不得此義。但受極苦。唐自疲勞。所以者何。彼以顛倒受解法故

所以(ゆえ)は何(いか)んとなれば、或はある癡人、顛倒して義および文を受け解けばなり。 彼は、自ら顛倒して受け解けるに因るが故に、かくの如くかくの如く彼の法を知りて、(これは)正経なり、歌詠なり、記説なり、偈他なり、因縁なり、撰録なり、本起なり、此説なり、生処なり、広解なり、未曽有法なり、および説義なりと謂う。 彼は、この義を知ると諍えども、解脱することを受けずして、この義を知る。 彼の、この法を知ると為す所は、この義を得ず。 (彼は)ただ極苦を受くるのみにして、唐(いたずら)に自ら疲労す。 所以は何んとなれば、彼は顛倒して法を受け解くを以っての故なり。

     何故ならば、

       或は、

         ある愚か者は、

           逆さまに、

             義を、受けて理解しているからである。

         彼は、

           逆さまに、

             義を、受けて理解しているが故に、

             このように、このように法を知り、

               『これは(1)正経(しょうきょう、仏の直説)、

                これは(2)歌詠(かえい、散文に韻文を重ねたもの)、

                これは(3)記説(きせつ、仏弟子の成仏を記すもの)、

                これは(4)偈他(げた、韻文のみのもの)、

                これは(5)因縁(いんねん、因縁が有ってする仏の説法)、

                これは(6)撰録(せんろく、因縁が無くてする仏の自説)、

                これは(7)本起(ほんぎ、弟子の過去の因縁)

                これは(8)此説(しせつ、譬喩で法義を説く)、

                これは(9)生処(しょうじょ、仏の過去の因縁)、

                これは(10)広解(こうげ、方正広大の真理)、

                これは(11)未曽有法(みぞうほう、仏の神力が不思議を現わすもの)、

                これは(12)説義(せつぎ、論議)である。』と言う。

         彼は、

           この法を知っていると、諍(いさか)うが

           解脱(げだつ、自由であること)を、受けずに、

             この義を知るのである。

         彼の法の知りようは、

           その義を、理解していないので、

           ただ、

             地獄の、極苦を受けるために、

             無駄な、努力をしているに過ぎない。

         何故ならば、

           彼は、

             逆さまに、

               法を、受けて理解しているのだから。

 

  注:正経、歌詠等の謂わゆる十二部経は、通常の分類とは異なるが、ほぼこれに相当するだろうと推測して当てはめた。

譬若如人。欲得捉蛇。便行求蛇。彼求蛇時。行野林間。見極大蛇。便前以手捉其腰中。蛇迴舉頭。或蜇手足及餘支節。彼人所為求取捉蛇。不得此義。但受極苦。唐自疲勞。所以者何。以不善解取蛇法故

譬えば、もし人、蛇を捉えて得んと欲し、便ち行きて蛇を求むるが如し。 彼の蛇を求むる時、野林の間に行きて、極めて大きな蛇を見る。 便ち前(すす)みて手を以ってその腰の中ばを捉らう。 蛇は頭を挙げて迴らし、或は手足および余の支節を蜇(さ、刺)す。 彼の人の、蛇を求めて取り捉うと為す所は、この義を得ず、ただ極苦を受くるのみにて、唐に自ら疲労す。 所以は何んとなれば、蛇を取るの法を解するに善からざるを以っての故なればなり。 

     譬えば、

       人が、

         蛇を、捉えようと思って、

         蛇を、探しにでかけるようなものである。

       彼は、

         その時、野の林の中を行き、

         極めて、大きな蛇を見た。

       彼は、

         前に進み、

         蛇の、腰の辺りを手で把んだが、

       蛇は、

         頭をもたげて、ふり向き、

         その人の手足、或は他の何処かを噛んだ。

 

       この人の蛇の捉えようは、

         義(ぎ、道理)を理解していないので、

           ただ、

             極苦を受けて、

             無駄に、疲労するのである。

       何故ならば、

         蛇の、捉え方を、

         善く、理解していないのだから。

如是或有癡人。顛倒受解義及文也。彼因自顛倒受解故。如是如是知彼法。謂正經.歌詠.記說.偈他.因緣.撰錄.本起.此說.生處.廣解.未曾有法及說義。彼諍知此義。不受解脫知此義。彼所為知此法。不得此義。但受極苦。唐自疲勞。所以者何。彼以顛倒受解法故

かくの如く、或はある癡人、顛倒して義および文を受け解きぬ。 彼は、自ら顛倒して受け解けるに因るが故に、かくの如くかくの如く彼の法を知りて、(これは)正経なり、歌詠なり、記説なり、偈他なり、因縁なり、撰録なり、本起なり、此説なり、生処なり、広解なり、未曽有法なり、および説義なりと謂う。 彼は、この義を知ると諍えども、解脱することを受けずして、この義を知る。 彼の、この法を知ると為す所は、この義を得ず。 (彼は)ただ極苦を受くるのみにして、唐(いたずら)に自ら疲労す。 所以は何んとなれば、彼は顛倒して法を受け解くを以っての故なり。

このように、

  或は、

    ある愚か者は、

      逆さまに、

        義と文句を、受けて理解している。

    彼は、

      逆さまに、

        義を、受けて理解しているが故に、

        このように、このように法を知り、

          『これは正経、

           これは歌詠、

           これは記説、

           これは偈他、

           これは因縁、

           これは撰録、

           これは本起

           これは此説、

           これは生処、

           これは広解、

           これは未曽有法、

           これは説義である。』と言う。

    彼は、

      この法を知っていると、諍うが、

      解脱を、受けずに

        この義を知るのである。

    彼の法の知りようは、

      その義を、理解してはいないので、

      ただ、

        地獄の、極苦を受けるために、

        無駄な、努力をしているに過ぎない。

    何故ならば、

      彼は、

        逆さまに、

          法を、受けて理解しているのだから。

或有族姓子。不顛倒善受解義及文。彼因不顛倒善受解故。如是如是知彼法。謂正經.歌詠.記說.偈他.因緣.撰錄.本起.此說.生處.廣解.未曾有法及說義。彼不諍知此義。唯受解脫知此義。彼所為知此法。得此義。不受極苦。亦不疲勞。所以者何。以不顛倒受解法故

或はある族姓子(ぞくしょうし、仏弟子)は、顛倒せずして善く義および文を受け解く。 彼は、顛倒せず善く受け解けるが故に、かくの如くかくの如く彼の法を知りて、(これは)正経なり、歌詠なり、記説なり、偈他なり、因縁なり、撰録なり、本起なり、此説なり、生処なり、広解なり、未曽有法なり、および説義なりと謂う。 彼は、この義を知ることを諍わず、ただ、解脱することを受くるに、この義を知るのみ。 彼のこの法を知ると為す所は、この義を得て、極苦を受けず、また疲労せず。 所以は何んとなれば、顛倒せずして法を受け解けるが故なればなり。

  或は、

    ある仏弟子は、

      逆さまにすることなく、

        善く、義および文句を受けて理解している。

    彼は、

      逆さまにすることなく、

        善く、受けて理解するが故に、

          このような、このような法を知り、

            『これは正経、

             これは歌詠、

             これは記説、

             これは偈他、

             これは因縁、

             これは撰録、

             これは本起

             これは此説、

             これは生処、

             これは広解、

             これは未曽有法、

             これは説義である。』と言う。

    彼は、

      この義を知ることを、諍わない。

      ただ、

        解脱を受けて(自由自在に)、

        この義を知るのである。

    彼の法の知りようは、

      この義を、理解しているので、

        極苦を、受けることは無く、

        また、

          疲労することも無い。

    何故ならば、

      逆さまにすることなく、

        法を、受けて理解するからである。

譬若如人。欲得捉蛇。便行求蛇。彼求蛇時。手執鐵杖。行野林間。見極大蛇。先以鐵杖押彼蛇頂手捉其頭。彼蛇雖反尾迴。或纏手足及餘支節。然不能蜇。彼人所為求取捉蛇。而得此義。不受極苦。亦不疲勞。所以者何。彼以善解取蛇法故

譬えば、もし人、蛇を捉えて得んと欲して、便ち行きて蛇を求むるが如し。 彼の蛇を求むる時、手に鉄杖を執り、野林の間に行き、極めて大きな蛇を見る。 先に鉄杖を以って彼の蛇の頂(うなじ)を押さえて手にてその頭を捉う。 彼の蛇は尾を反らして迴らし、或は手足および余の支節に纏わんとするといえども、然れども蜇すこと能わず。 彼の人の蛇を求めて取り捉らうと為す所は、この義を得て、極苦を受けず、また疲労せず。 所以は何んとなれば、蛇を取るの法を善く解するを以っての故なればなり。

  譬えば、

    人が、

      蛇を、捉えようと思って、

      蛇を、探しにでかけるようなものである。

    彼は、

      その時、

        手に、鉄の杖を持って野の林の中を行き、

        極めて、大きな蛇を見た。

    彼は、

      先に、

        鉄の杖で、その蛇の首を押さえ、

      後に、

        手で、蛇の頭を捉えた。

    蛇は、

      頭をもたげて、ふり向き、

      その人の手足、或は他の何処かに

        纏(まと)わるが、噛むことはない。

 

    この人の蛇の捉えようは、

      義を、理解しているので、

        極苦を、受けることもなく、

        また、

          疲労もしない。

    何故ならば、

      蛇の、捉え方を、

      善く、理解しているからである。

如是或有族姓子。不顛倒善受解義及文。彼因不顛倒善受解故。如是如是知彼法。謂正經.歌詠.記說.偈他.因緣.撰錄.本起.此說.生處.廣解.未曾有法及說義。彼不諍知此義。唯受解脫知此義。彼所為知此法。得此義。不受極苦。亦不疲勞。所以者何。以不顛倒受解法故

かくの如く、或はある族姓子は、顛倒せずに善く義および文を受け解く。 彼は転倒せずに善く受け解けるに因るが故に、かくの如くかくの如く彼の法を知りて、(これは)正経なり、歌詠なり、記説なり、偈他なり、因縁なり、撰録なり、本起なり、此説なり、生処なり、広解なり、未曽有法なり、および説義なりと謂う。 彼は、この義を知ることを諍わず、ただ、この義を知ることを解脱することを受くるのみ。 彼のこの法を知ると為す所は、この義を得て、極苦を受けず、また疲労せず。 所以は何んとなれば、顛倒せずして法を受け解けるが故なればなり。

  このように、

    或は、

      ある仏弟子は、

        逆さまにすることなく、

          善く、義および文句を受けて理解する。

    彼は、

      逆さまにすることなく、

        善く、受けて理解するが故に、

          このような、このような法を知り、

            『これは正経、

             これは歌詠、

             これは記説、

             これは偈他、

             これは因縁、

             これは撰録、

             これは本起

             これは此説、

             これは生処、

             これは広解、

             これは未曽有法、

             これは説義である。』と言う。

    彼は、

      この義を知ることを、諍わない。

      ただ、

        解脱を受けて、

        この義を知るのである。

    彼の法の知りようは、

      この義を、理解しているので、

        極苦を、受けることは無く、

        また、

          疲労することも無い。

    何故ならば、

      逆さまにすることなく、

        法を、受けて理解するからである。

 

 

 

 

筏(いかだ)の喩

我為汝等長夜說筏法。欲令棄捨。不欲令受故

我、汝等が為に、長夜(ぢょうや、無明の中の生、悟らない状態)に筏喩の法を説くは、棄捨せしめんと欲して、受けしめんと欲せざるが故なり。

  わたしは、

    お前たちの、為に、

    長夜(ちょうや、長く悟りの無い暗闇)に、

      筏(いかだ)の喩(たとえ)を説くが、

  それは、

    捨てさせようと思うが故であり、

    受けさせようと思うが故ではない。

云何我為汝等長夜說筏法。欲令棄捨。不欲令受。猶如山水甚深極廣。長流駛疾。多有所漂。其中無舡。亦無橋梁

云何が、我、汝等が為に長夜に筏喩の法を説いて、棄捨せしめんと欲し、受けしめんと欲せざる。 なお、山水(せんすい、谷川)の甚だ深く極めて広きが如し。 長流(ちょうる、大河)は駛疾(ししつ、迅速)して多く漂う所(の浪)有り。 その中に舡(ふね、船)無く、また橋梁も無し。

  わたしが、

    お前たちの、為に、

    長夜に、筏の喩を説くは、

      捨てさせようと思うが故であり、

      受けさせようと思うが故ではないとは、

  それは、何か?

  それは、このようなことである、――

    谷川が有る、

      甚だ深く、極めて広い、

      流れは速く、多くの浪がたっているが、

    それを、

      渡る為の、

      船も無ければ、橋も無い。

或有人來。而於彼岸有事欲度。彼求度時。而作是念。今此山水甚深極廣。長流駛疾。多有所漂。其中無舡亦無橋梁而可度者。我於彼岸有事欲度。當以何方便。令我安隱至彼岸耶。復作是念。我今寧可於此岸邊收聚草木。縛作椑筏。乘之而度。彼便岸邊收聚草木。縛作椑筏。乘之而度

或は、ある人来たりて、彼の岸に於いて事有るに度(わた、渡)らんと欲す。 彼の度ることを求めし時、この念を作さく、『今、この山水甚だ深く極めて広し。 長流は駛疾して多く漂う所有り。 その中に舡無く、また橋梁の度すべき者も無し。 我、彼の岸に於いて事有りて度らんと欲す。 まさに何なる方便を以ってか、我をして安穏に彼の岸に至らしむべき。』と。 またこの念を作さく、『我、今は寧ろ、この岸の辺にて草木を収聚(しゅうじゅ、集める)し、縛りて椑筏(ひばつ、いかだ)を作り、これに乗りて度るべし。』と。 彼、便ち岸の辺にて草木を収聚し、縛りて椑筏を作り、これに乗って度る。

  ある人が、来て、

    向こう岸に用が有るので、渡ろうと思った。

  彼は、

    渡る方法を探して、こう思った、――

    『今、

       この谷川は、

         甚だ深く、極めて広い、

         流れは速く、多くの浪が立っているが、

       それを、

         渡る為の、

         船も無ければ、橋も無い。

     わたしは、

       向こう岸に、用が有り、

       渡りたいのだが、

     何のようにすれば、

       安穏に、

       向こう岸に、渡ることができるだろう?』と。

  そして、またこう思った、――

    『わたしは、

       今、むしろ

         この岸の辺で、

         草木を取り集め、

       それを、

         縛って、筏を作り、

       それに、

         乗って、

         向こう岸に、渡った方がよいのだろうか?』と。

  彼は、

    すぐさま、

      岸の辺で、草木を取り集め、

    それを、

      縛って、筏を作り、

    それに、

      乗って、

      向こう岸に、渡った。

安隱至彼。便作是念。今我此筏多有所益。乘此筏已。令我安隱。從彼岸來。度至此岸。我今寧可以著右肩或頭戴去。彼便以筏著右肩上或頭戴去。於意云何。彼作如是竟。能為筏有所益耶

安穏に彼(かしこ)に至りて、便ちこの念を作さく、『今、我がこの筏(いかだ)は多くの益する所有り。 この筏に乗りおわり、我をして安穏に彼の岸より来て度らしめ、この岸に至らしめたり。 我、今はむしろ以って右の肩に著け、或は頭に戴いて去るべし。』と。 彼、便ち筏を以って、右の肩に著け、或は頭に戴いて去れり。 意に於いて云何。 彼、かくの如く作しおわりて、よく筏に益する所有りと為(せ)んや。』と。

  安穏に、

    向こう岸に、渡りおわると、

  彼は、こう思った、――

    『今、

       わたしの、

         この筏は、大変役に立った。

     この筏に、乗れたので、

     わたしは、

       安穏に、

       向こう岸より、こちらの岸に、

         渡ることができた。

     わたしは、

       今、むしろ

         この筏を、右肩の上に置き、

         或は、頭上に載せて、立ち去る方がよいだろうか?』と。

  彼は、すぐさま、

    筏を、右肩の上に置き、

    或は、頭上に載せて、立ち去った。

 

  この事を、

    お前たちは、何う思うか?

      彼は、このようにしたのであるが、

      この筏は、

        はたして、

          この後も、役に立っただろうか?』と。

時。諸比丘答曰。不也

時に、諸の比丘の答えて曰く、『不なり。』と。

その時、

  諸の比丘たちは答えて申した、――

    『いいえ、そうではありません。』と。

世尊告曰。彼人云何為筏所作能有益耶。彼人作是念。今我此筏多有所益。乘此筏已。令我安隱。從彼岸來。度至此岸。我今寧可更以此筏還著水中。或著岸邊而捨去耶。彼人便以此筏還著水中。或著岸邊捨之而去。於意云何。彼作如是。為筏所作能有益耶

世尊告げて曰わく、『彼の人は、云何が筏の作す所に、よく益する所有りと為んや。 彼の人は、この念を作さく、『今、我がこの筏は多く益する所有り。 この筏に乗りおわり、我をして安穏に、彼の岸より来て度らしめ、この岸に至らしめたり。 我、今はむしろこの筏を以って、また水の中に著け、或は岸の辺に著け、捨てて去るべきや。』と。 彼の人、便ちこの筏を以って、また水の中に著け、或は岸の辺に著け、これを捨てて去れり。 意に於いて云何。 彼のかくの如きを作せるは、筏の作す所、よく益有りと為んや。』と。

世尊は教えられた、――

  『この人は、

     何故、

       この筏が役に立つと思ったのだろうか?

   この人は、こう思う、――

     『今、

        わたしの、この筏は、大変役に立った。

      この筏に、乗れたので、

        わたしは、

          安穏に、

          向こう岸より、こちらの岸に、

            渡ることができた。

      わたしは、

         今、むしろ

           この筏を、水中に浸けて置き、

           或は、岸の辺に置き去りにして、立ち去った方がよいだろうか?』と。

   この人は、

     すぐに、

       この筏を、水中に浸けて置き、

       或は、岸の辺に置き去りにして、立ち去った。

 

   この事を、

     お前たちは、何う思うか?

       彼は、このようにしたのであるが、

       この筏は、

         はたして、

           この後も、役に立っただろうか?』と。

時。諸比丘答曰。益也

時に、諸の比丘の答えて曰く、『益なり。』と。

その時、

  諸の比丘たちは答えて申した、――

    『役に立ちました。』と。

世尊告曰。如是。我為汝等長夜說筏法。欲令棄捨。不欲令受。若汝等知我長夜說筏法者。當以捨是法。況非法耶

世尊告げて曰わく、『かくの如し。 我、汝等が為に、長夜に筏喩の法を説くは、棄捨せしめんと欲して、受けしめんとは欲せざるなり。 もし、汝等、我が長夜に筏喩の法を説くを知らば、まさに以ってこの法を捨つべし。 況や非法をや。』と。

世尊は教えられた、――

  『そのとおりである。

   わたしは、

     お前たちの為に、

     長夜に、

       筏の喩を説いたのは、

         捨てさせようと思うが故であり、

         受けさせようと思うが故ではない。

   もし、

     お前たちは、

       わたしが、長夜に『筏の喩の法』を説くのを、知ったならば、

   当然、

     この法さえも、捨てなければならない、

   まして、

     非法ならばなおさらである。』と。

 

 

 

 

邪見の生ずる六処

復次。有六見處。云何為六。比丘者。所有色。過去.未來.現在。或內或外。或精或麤。或妙或不妙。或近或遠。彼一切非我有。我非彼有。亦非是神。如是慧觀。知其如真

また次ぎに、六見処(けんじょ、邪見の生ずる処、煩悩の異名)有り。 云何が六と為す。 比丘は、所有(あらゆる)色(1)を、――過去、未来、現在、或は内、或は外、或は精、或は麤、或は妙、或は不妙、或は近、或は遠を。 彼の一切は我が有(う、所有物、存在)に非ず、我は彼の有に非ず、またこれ神(じん、実我)に非ずと、かくの如く慧観(えかん、智慧により観察すること)して、その真の如きを知る。

また次ぎに、

  邪見の生ずる処が、六つ有る。

  その六とは、

    (1)あらゆる色(しき、事物)については、

      過去、未来、現在の、

        或は内(ない、眼耳鼻舌身意、身心)、

        或は外(げ、色声香味触法、身心以外)、

        或は精緻な、或は粗雑な事、

        或は素晴らしい、或は平凡な事、

        或は近くの、或は遠くの事。

      この一切は、我を有らしめるものではなく、

      我は、この一切を有らしめるものでもなく、

      また、

        これは、神(じん、実我)でもない。

 

      比丘は、

        このように、智慧で観察して、

        その真実を知る。

 

  注:色は空である。

  注:六見処とは、身心は存在すると妄見する処をいう。

所有覺.所有想.所有此見非我有。我非彼有。我當無我。當不有。彼一切非我有。我非彼有。亦非是神。如是慧觀。知其如真

あらゆる覚(2、かく、ぼんやりと思うこと)と、あらゆる想(3、そう、心に思想が浮かび上がること)と、あらゆるこの見(4、けん、見解)、――我が有に非ず、我は彼が有に非ず、我はまさに無我なるべく、まさに有(う)ならざるべしと。 彼の一切は我が有に非ず、我は彼が有に非ず、またこれ神に非ずと、かくの如く慧観して、その真の如きを知る。

    (2)あらゆる覚(かく、ぼんやりと思うこと)、

    (3)あらゆる想(そう、心に思想が浮かび上がること)、

    (4)あらゆる見(けん、見解、意見)については、

      これは、我を有らしめるものではなく、

      我は、これを有らしめるものではない。

      我は、

        無我でなくてはならず、

        有るとしてはならない。

      この一切は、我を有らしめるものではなく、

      我は、これを有らしめるものではなく、

      また、

        これは、神でもない。

 

      このように、

        智慧で観察して

        その真実を知る。

 

  注:覚、想、見は空である。

所有此見。若見聞識知。所得所觀。意所思念。從此世至彼世。從彼世至此世。彼一切非我有。我非彼有。亦非是神。如是慧觀。知其如真

あらゆるこの見(5)、――もしは見聞識知して、得る所、観る所、意に思念する所は、この世より彼の世に至り、彼の世よりこの世に至る。 彼の一切は、我が有に非ず、我は彼が有に非ず、またこれ神に非ず。 かくの如く慧観して、その真の如きを知る。

    (5)『見聞識知して、

          得たもの、観たもの、意に思ったことは、

          この世より別の世に行き、別の世よりこの世に来る。』という見解について、

      この一切は、我を有らしめるものではなく、

      我は、これを有らしめるものではなく、

      また、

        これは、神でもない。

 

      このように、

        智慧で観察して

        その真実を知る。

 

  注:見聞識知は空である。

所有此見。此是神。此是世。此是我。我當後世有。常不變易。恒不磨滅法。彼一切非我有。我非彼有。亦非是神。如是慧觀。知其如真

あらゆるこの見(6)、――これはこれ神、これはこれ世、これはこれ我、我、まさに後世に有りて、常に変易せず、恒に磨滅せざる法なりと。 彼の一切は我が有に非ず、我は彼の有に非ず、またこれ神に非ず。 かくの如く慧観して、その真の如きを知る。

    (6)『これは神であり、これは世であり、これは我である。

       我は、後世にも有り、常に変易せず、常に磨滅しないものである。』という見解について、

      この一切は、我を有らしめるものではなく、

      我は、これを有らしめるものではなく、

      また、

        これは、神でもない。

 

      このように、

        智慧で観察して

        その真実を知る。

 

  注:神(実我)、世(世間の事物)、我は空である。

 

 

 

 

仏法に因る恐怖の有無

於是。有一比丘從坐而起。偏袒著衣。叉手向佛。白曰。世尊。頗有因內有恐怖耶

ここに於いて、ある比丘、坐より起ち、偏(かたえ)に袒(はだぬ)いで衣を著け、叉手(さしゅ、十指を交差する合掌)して仏に向かい、白(もう)して曰(もう)さく、『世尊、頗(すこぶ)る内(ない、内法、仏の法)に因(よ)りて、恐怖有ること有りや。』と。

この時、

  ある比丘が、

    坐より起ち、

    片肌を脱いで、衣を著け、

    叉手(さしゅ、十指が交差する合掌)し、

    仏に向って申した、――

      『世尊、

         内(ない、仏の法)により、

           恐怖が有るとは、

           よく有ることでしょうか?』と。

 

  注:内とは、内法、上の六見処で見たこと。

世尊答曰。有也

世尊答えて曰く、『有るなり。』と。

世尊が答えられた、――

  『よく有る。』と。

比丘復問曰。世尊。云何因內有恐怖耶

比丘、また問うて曰く、『世尊、云何が内に因りて恐怖有るや。』と。

比丘は、また問うた、――

  『世尊、

     内により恐怖が有るとは、

     何のようなことでしょうか?』と。

世尊答曰。比丘者。如是見.如是說。彼或昔時無。設有我不得。彼如是見.如是說。憂慼煩勞。啼哭椎胸而發狂癡。比丘。如是因內有恐怖也

世尊答えて曰く、『比丘は、かくの如く見て、かくの如く説かく、『彼、或は昔の時に無くんば、もしは我有ることを得ず。』と。 彼、かくの如く見て、かくの如く説けば、憂慼(うしゃく、憂えて心を痛める)し、煩労(はんろう、悶え苦しむ)して啼哭(たいこく、声を挙げて泣く)し、胸を椎(う)ちて狂癡(ごうち、気が狂う)を発(おこ)す。 比丘は、かくの如く内に因りて恐怖有り。』と。

世尊が答えられた、――

  『比丘は、

     このように見て、このように説く、――

       『彼(それ、人の身心)が、昔の時に無いとするならば、

        もしかしたら、

          我は、有りえないのだろうか?』と。

   彼は、

     このように見、このように説いて、

       憂いて心を痛め、

       声を挙げて泣き、

       胸を打って、

       気が狂いそうになる。

   このように、

     内により、恐怖が有るのである。

比丘歎世尊已。復問曰。世尊。頗有因內無恐怖也

比丘、世尊を歎じおわりて、また問うて曰く、『世尊、頗る内に因りて恐怖無きこと有りや。』と。

比丘は、

  世尊を歎じおわると、

  また問うた、――

    『内により、

       恐怖が無いとは、

       よく有ることでしょうか?』と。

世尊答曰。有也

世尊答えて曰く、『有るなり。』と。

世尊は答えられた、――

  『よく有る。』と。

比丘復問曰。世尊。云何因內無恐怖也

比丘、また問うて曰く、『世尊、云何が内に因りて恐怖無きや。』と。

比丘は、また問うた、――

  『世尊、

     内により、恐怖が無いとは、

     何のようなことでしょうか?』と。

世尊答曰。比丘者。不如是見.不如是說。彼或昔時無。設有我不得。彼不如是見.不如是說。不憂慼。不煩勞。不啼哭。不椎胸。不發狂癡。比丘。如是因內無恐怖也

世尊答えて曰く、『比丘は、かくの如く見ずして、かくの如く説かず、『彼は、或は昔の時に無し。 もしは我有ることを得ず。』と。 かれ、かくの如く見ずして、かくの如く説かざれば、憂慼せず、煩労せず、啼哭せず、胸を椎たず、狂癡を発さず。 比丘は、かくの如く内に因りて恐怖無きなり。』と。

世尊は答えられた、

  『比丘は、

     このようには見ず、このように説かない、――

       『彼(それ、人の身心)が、昔の時に無いとするならば、

        もしかしたら、

          我は、有りえないのだろうか?』と。

   彼は、

     このように見ず、このように説かず、

       憂いて心を痛めず、

       声を挙げて泣かず、

       胸を打たず、

       気が狂うこともない。

   比丘は、

     このように、

     内により恐怖が無いのである。

 

 

 

 

外道法に因る恐怖の有無

比丘歎世尊已。復問曰。世尊。頗有因外有恐怖也

比丘、世尊を歎じおわりて、また問うて曰く、『世尊、頗る外(げ、外道法)に因りて恐怖有ること有りや。』と。

比丘は、

  世尊を歎じおわると、

  また問うた、――

    『世尊、

       外(げ、外道法)により、恐怖が有るとは、

       よく有ることでしょうか?』と。

 

  注:外とは、外道法、上の六見処で見たこと。

世尊答曰。有也

世尊答えて曰く、『有るなり。』と。

世尊は答えられた、――

  『よく有る。』と。

比丘復問曰。世尊。云何因外有恐怖也

比丘、また問うて曰く、『世尊、云何が外に因りて恐怖有る。』と。

比丘は、また問うた、――

  『世尊、

     外により、恐怖が有るとは、

     何のようなことでしょうか?』と。

世尊答曰。比丘者。如是見.如是說。此是神。此是世。此是我。我當後世有。彼如是見.如是說。或遇如來。或遇如來弟子。聰明智慧而善言語。成就智慧

世尊答えて曰く、『比丘は、かくの如く見、かくの如く説かく、『これはこれ神なり。 これはこれ世なり。 これはこれ我なり。 我まさに後世にも有るべし。』と。 彼、かくの如く見、かくの如く説けるに、或は如来に遇い、或は如来の弟子の聡明にして智慧あり、しかも言語善く、智慧を成就せるものに遇う。

世尊は答えられた、――

  『比丘は、

     このように見て、このように説く、――

       『これは神(じん、実我)である、

        これは世(せ、世間)である、

        これは我である。

        我は、

          後世にも、必ず有る。』と。

   彼は、

     このように見て、このように説いている時、

       或は、如来に出会い、

       或は、

         如来の弟子の、

           聡明にして智慧が有り、

           言語を善くして智慧を成就した者に出会う。

彼或如來。或如來弟子。滅一切自身故說法。捨離一切漏.一切我.我所作。滅慢使故說法。彼或如來。或如來弟子。滅一切自身故說法。捨離一切漏.一切我.我所作。滅慢使故說法時。憂慼煩勞。啼哭椎胸而發狂癡。如是說。我斷壞不復有

彼の或は如来、或は如来の弟子は、一切の自身を滅するが故に法を説き、一切の漏(ろ、煩悩の異名)、一切の我と我の所作とを捨離し、慢使(まんし、憍慢)を滅するが故に法を説く。 彼の或は如来、或は如来の弟子が、一切の自身を滅するが故に法を説き、一切の漏、一切の我と我の所作とを捨離し、慢使を滅するが故に法を説く時、(彼の比丘は)憂慼し、煩労して啼哭し、胸を椎ちて狂癡を発し、かくの如く説かく、『我、断壊(だんね、断絶壊滅)して、また有らざるなり。』と。

   その

     或は如来、或は如来の弟子は、

       一切の自身は

         滅したと、法を説き、

       一切の漏(ろ、煩悩)と、

       一切の我と我の所作(しょさ、行い)は、

         捨ててしまったと、法を説き、

       慢使(まんし、高慢ゆえの煩悩)は、

         滅したと、法を説く。

   その

     或は如来、或は如来の弟子が、

       一切の自身は

         滅したと、法を説き、

       一切の漏(ろ、煩悩)と、

       一切の我と我の所作(しょさ、行い)は、

         捨ててしまったと、法を説き、

       慢使(まんし、高慢ゆえの煩悩)は、

         滅したと、法を説く時、

   彼は、

     憂いて、

     心を痛め、

     声を挙げて泣き、

     胸を打って、

       気が狂い、

     このように説く、――

       『我は、

          断壊(だんね、滅断)して、

          ふたたび、有ることはない。』と。

所以者何。彼比丘所謂長夜不可愛.不可樂.不可意念。比丘多行彼便憂慼煩勞。啼哭椎胸而發狂癡。比丘。如是因外有恐怖也

所以は何ん、彼の比丘の謂う所の長夜(ぢょうや、無明の中の生)は、愛すべからず、楽しむべからず、意念(いねん、希望)すべからず。 比丘、多く行えば、 彼、便ち憂慼し煩労して啼哭し、胸を椎ちて狂癡を発せり。 比丘は、かくの如く外に因りて恐怖有るなり。』と。

   何故ならば、

     彼の比丘の、

       いわゆる長夜(ちょうや、悟らざる生)は、

         愛せるものでなく、

         楽しめるものでなく、

         望ましくないにもかかわらず、

     この比丘は、

       多く、これを行っていたからである。

   彼は、

     すぐさま、

       憂いて、

       心を痛め、

       声を挙げて泣き、

       胸を打って、

         気が狂う。

   比丘は、

     このように、

     外により、恐怖が有るのである。』と。

比丘歎世尊已。復問曰。世尊。頗有因外無恐怖耶

比丘、世尊を歎じおわりて、また問うて曰く、『世尊、頗る外に因りて恐怖無きこと有りや。』と。

比丘は、

  世尊を歎じおわり、

  また問うた、――

    『世尊、

       外により、恐怖が無いとは、

       よく有ることでしょうか?』と。

世尊答曰。有也

世尊答えて曰く、『有るなり。』と。

世尊が答えられた、――

  『よく有る。』と。

比丘復問曰。世尊。云何因外無恐怖耶

比丘、また問うて曰く、『世尊、何んが外に因りて恐怖無き。』と。

比丘は、また問うた、――

  『世尊、

     外により、恐怖が無いとは、

     何のようなことでしょうか?』と。

世尊答曰。比丘者。不如是見.不如是說。此是神。此是世。此是我。我當後世有。彼不如是見.不如是說。或遇如來。或遇如來弟子。聰明智慧而善言語。成就智慧

世尊答えて曰く、『比丘は、かくの如く見ず、かくの如く説かず、『これはこれ神なり。 これはこれ世なり。 これはこれ我なり。 我、まさに後世に有るべし。』と。 彼、かくの如く見ず、かくの如く説かずして、或は如来に遇い、或は如来の弟子の、聡明にして智慧あり、しかも言語善くして智慧を成就せるものに遇う。

世尊は答えられた、――

  『比丘は、

     このように見ず、このように説かず、――

       『これは神である、

        これは世である、

        これは我である。

        我は、

          後世にも、必ず有る』と。

   彼は、

     このように見ず、このように説かない時、

       或は、如来に出会い、

       或は、

         如来の弟子の、

           聡明にして智慧が有り、

           言語を善くして智慧を成就した者に出会う。

彼或如來。或如來弟子。滅一切自身故說法。捨離一切漏.一切我.我所作。滅慢使故說法。彼或如來。或如來弟子。滅一切自身故說法。捨離一切漏.一切我.我所作。滅慢使故說法時。不憂慼。不煩勞。不啼哭。不椎胸。不發狂癡。不如是說。我斷壞不復有

彼の或は如来、或は如来の弟子は、一切の自身を滅するが故に法を説き、一切の漏、一切の我と我の所作とを捨離し、慢使を滅するが故に法を説く。 彼の或は如来、或は如来の弟子が、一切の自身を滅するが故に法を説き、一切の漏、一切の我と一切の我の所作とを捨離し、慢使を滅するが故に法を説く時、憂慼せず、煩労せず、啼哭せず、胸を椎たず、狂癡を発さずして、かくの如く、『我断壊して、また有らざるなり。』と説かず。

   その

     或は如来、或は如来の弟子は、

       一切の自身は

         滅したと、法を説き、

       一切の漏と、

       一切の我と我の所作は、

         捨ててしまったと、法を説き、

       慢使は、

         滅したと、法を説く。

   その

     或は如来、或は如来の弟子が、

       一切の自身は

         滅したと、法を説き、

       一切の漏と、

       一切の我と我の所作は、

         捨ててしまったと、法を説き、

       慢使は、

         滅したと、法を説く時、

   彼は、

     憂えず、

     心を痛めず、

     声を挙げて泣かず、

     胸を打たず、

     気が狂わず、

     このように説かない、――

       『我は、

          断壊して、

          ふたたび、有ることはない。』と。

所以者何。彼比丘所謂長夜可愛.可樂.可意念。比丘多行彼便不憂慼。不煩勞。不啼哭。不椎胸。不發狂癡。比丘。如是因外無恐怖也

所以は何ん、彼の比丘の謂う所の長夜は愛すべく、楽しむべく、意念すべし。 比丘、多く行えども、彼、便ち憂慼せず、煩労せず、啼哭せず、胸を椎たず、狂癡を発さず。 比丘は、かくの如く外に因りて恐怖無きなり。』と。

   何故ならば、

     彼の比丘の、

       いわゆる長夜(ちょうや、悟っていない生)は、

         愛すべきものであり、

         楽しめるものであり、

         望ましいものであり、

     この比丘は、

       多く、これを行っていたからである。

   彼は、

     すぐさま、

       憂えず、

       心を痛めず、

       声を挙げて泣かず、

       胸を打たず、

       気が狂わない。

   比丘は、

     このように、

     外により、恐怖が無いのである。』と。

爾時。比丘歎世尊曰。善哉。善哉。歎善哉已。聞佛所說。善受持誦。則便默然

その時、比丘、世尊を歎じて曰く、『善いかな、善いかな。』と。 善いかなと歎じおわりて、仏の所説を聞き、善く受持して誦し、則ち便ち黙然たり。

その時、

  比丘は、

    世尊を歎じて申した、――

      『善いかな、善いかな。』と。

    善いかなと歎じおわり、

    仏の所説を

      聞いて、

      善く受けて持(たも)ち、

      誦していたが、

        じきに、黙り込んでしまった。

 

 

 

 

ある見解、および相続した見解を説いても

完全ではない

於是。世尊歎諸比丘曰。善哉。善哉。比丘受如是所可受。受已。不生憂慼。不煩勞。不啼哭。不椎胸。不發狂癡。汝等見所受所可受。不生憂慼。不煩勞。不啼哭。不椎胸。不發狂癡耶

ここに於いて、世尊、諸の比丘を歎じて曰わく、『善いかな、善いかな、比丘の受くるとは、かくの如し。 受けおわりて憂慼を生ぜず、煩労せず、啼哭せず、胸を椎たず、狂癡を発さず。 汝等は、受くる所、受くべき所を見て、憂慼を生ぜず、煩労せず、啼哭せず、胸を椎たず、狂癡を発さざるや。』と。

この時、

  世尊は、比丘を歎じて言われた、――

    『善いかな、善いかな。

       比丘が、

         教えを受けるとは、このようなものである。

       受けるべき教えを、

         受けおわっても、

           憂いを生じず、

           心を痛めず、

           声を挙げて泣かず、

           胸を打たず、

           気が狂うこともない。

 

       お前たちは、

         すでに、受けた教えと、

         これから、受ける教えとを、見て

           憂いを生じないのか?

           心を痛めないのか?

           声を挙げて泣かないのか?

           胸を打たないのか?

           気が狂うこともないのか?』と。

比丘答曰。不也。世尊

比丘答えて曰く、『不(いな)なり、世尊。』と。

比丘は答えて申した、――

  『はい、そのような事はありません、世尊。』と。

世尊歎曰。善哉。善哉。汝等依如是見所可依。見已。不生憂慼。不煩勞。不啼哭。不椎胸。不發狂癡。汝等見依如是見所可依。見已。不生憂慼。不煩勞。不啼哭。不椎胸。不發狂癡耶

世尊歎じて曰わく、『善いかな、善いかな、汝等が依ることも、かくの如し。 依るべき所を見、見おわりて、憂慼を生ぜず、煩労せず、啼哭せず、胸を椎たず、狂癡を発さず。 汝等は、依ることを見るに、かくの如く依るべき所を見、見おわりて、憂慼を生ぜず、煩労せず、啼哭せず、胸を椎たず、狂癡を発さざるや。』と。

世尊は歎じて言われた、――

  『善いかな、善いかな。

     お前たちが、

       教えに依ることも、このようである。

     依るべき教えを、

       見おわっても、

         憂いを生じず、

         心を痛めず、

         声を挙げて泣かず、

         胸を打たず、

         気が狂うこともない。

     お前たちが、

       教えを見て依ることも、このようである。

     依るべき教えを、

       見おわっても、

         憂いを生じないのか?

         心を痛めないのか?

         声を挙げて泣かないのか?

         胸を打たないのか?

         気が狂わないのか?』と。

比丘答曰。不也。世尊

比丘答えて曰く、『不なり、世尊。』と。

比丘は答えて申した、――

  『はい、そのような事はありません、世尊。』と。

世尊歎曰。善哉。善哉。汝等受如是身。所有身常住不變易.不磨滅法。汝等見受如是身所可受身已。常住不變易.不磨滅法耶

世尊歎じて曰わく、『善いかな、善いかな、汝等、かくの如き身を受く。 有する所の身は、常に住まりて変易せず、磨滅せざる法なり。 汝等、かくの如き身を受くるを見て、受くるべき所の身は、すでに常に住まりて変易せず、磨滅せざる法なるや。』と。

世尊は歎じて言われた、――

  『善いかな、善いかな。

     お前たちが、

       受けた身も、このようである。

     受けた身は、

       常に住まって、変わらず、

       磨滅しないものである。

     お前たちは、

       このような、

         すでに、受けた身と、

         これから、受ける身とを、見おわって、

           常に住まって、変らないのか?

           磨滅しないものであったか?』と。

比丘答曰。不也。世尊

比丘答えて曰く、『不なり、世尊。』と。

比丘は答えて申した、――

  『はい、そのような事はありません、世尊。』と。

世尊歎曰。善哉。善哉。所謂因神故有我。無神見無我。是為神.神所有。不可得.不可施設。及心中有見處.結著.諸使亦不可得。不可施設。比丘。非為具足說見及見所相續。猶如阿梨吒比丘本為伽陀婆利耶

世尊歎じて曰く、『善いかな、善いかな、謂う所の、『神に因るが故に我有り』とは、神無くも我無きを見て、これを神と為す。 神の有する所は不可得にして、施設(しせつ、義を安立すること)すべからず。 および心中に有る見処、結著(けつじゃく、煩悩の異名)、諸使(しょし、煩悩の異名)も、また不可得にして、施設すべからず。 比丘の、具足(ぐそく、完全にすること)して見(けん、見解)、および見の相続さるるを説くは、なお阿梨咤比丘、本の伽陀婆利為(た)るが如き為(た)るに非ざるや。』と。 

世尊は歎じて言われた、――

  『善いかな、善いかな。

     『神(じん、実我)に因るが故に、我が有る。』とは、

       神が無くても、無我を見て、

       この無我を、

         神というのである。

      神の所有(じんしょゆう、実我に属する身心)は、

        不可得(ふかとく、識別不能)であり、

        施設(しせつ、定義)できない。

      および、

        心中に有る

          見処(けんじょ、見解の生ずる処、煩悩の異名)も、

          結著(けつじゃく、結使愛著、生死に対する執着、煩悩の異名)も、

          諸使(しょし、人を使い疲れさせるもの、煩悩の異名)も、

        また、

          不可得であり、

          施設できない。

      比丘が、

        ある見解、および相続した見解を説いて、完全だとすることは、

        なお、

          阿梨咤比丘、本の伽陀婆利のようでないだろうか?』と。

比丘答曰。如是。世尊。為具足說見及見所相續。猶如阿梨吒比丘本為伽陀婆梨

比丘答えて曰く、『かくの如し、世尊、具足して見および見の相続さるるを説くは、なお阿梨咤比丘、本の伽陀婆利為るが如しと為す。』と。

比丘は答えて申した、――

  『そのとおりです、世尊。

     ある見解、および受け継いだ見解を説いて、完全だとすることは、

     なお、

       阿梨咤比丘、本の伽陀婆利のようです。』と。

 

 

 

 

六見処に神を見ずして、煩悩の河を度る

復次。有六見處。云何為六。比丘者。所有色。過去.未來.現在。或內或外。或精或麤。或妙或不妙。或近或遠。彼一切非我有。我非彼有。亦非是神。如是慧觀。知其如真

また次ぎに、六見処有り。 云何が六と為す。 比丘は、所有(あらゆる)色(1)を、――過去、未来、現在、或は内、或は外、或は精、或は麤、或は妙、或は不妙、或は近、或は遠を。 彼の一切は我が有(う、所有物、存在)に非ず、我は彼の有に非ず、またこれ神(じん、実我)に非ずと、かくの如く慧観(えかん、智慧により観察すること)して、その真の如きを知る。

また次ぎに、

  邪見の生ずる処が、六つ有る。

  その六とは、

    (1)あらゆる色(しき、事物)については、

      過去、未来、現在の、

        或は内(ない、眼耳鼻舌身意、身心)、

        或は外(げ、色声香味触法、身心以外)、

        或は精緻な、或は粗雑な事、

        或は素晴らしい、或は平凡な事、

        或は近くの、或は遠くの事。

      この一切は、我を有らしめるものではなく、

      我は、この一切を有らしめるものでもなく、

      また、

        これは、神(じん、実我)でもない。

 

      比丘は、

        このように、智慧で観察して、

        その真実を知る。

所有覺行.有想.所有此見。非我有。我非彼有。彼當無我。當不有。彼一切非我有。我非彼有。亦非是神。如是慧觀。知其如真

あらゆる覚(2、かく、ぼんやりと思うこと)と、あらゆる想(3、そう、心に思想が浮かび上がること)と、あらゆるこの見(4、けん、見解)、――我が有に非ず、我は彼が有に非ず、我はまさに無我なるべく、まさに有(う)ならざるべしと。 彼の一切は我が有に非ず、我は彼が有に非ず、またこれ神に非ずと、かくの如く慧観して、その真の如きを知る。

    (2)あらゆる覚(かく、ぼんやりと思うこと)、

    (3)あらゆる想(そう、心に思想が浮かび上がること)、

    (4)あらゆる見(けん、見解、意見)については、

      これは、我を有らしめるものではなく、

      我は、これを有らしめるものではない。

      我は、

        無我でなくてはならず、

        有るとしてはならない。

      この一切は、我を有らしめるものではなく、

      我は、これを有らしめるものではなく、

      また、

        これは、神でもない。

 

      このように、

        智慧で観察して

        その真実を知る。

 

  注:有想は他本に従って、所有想に改める。

所有此見。若見聞識知。所得所觀。意所思念。從此世至彼世。從彼世至此世。彼一切非我有。我非彼有。亦非是神。如是慧觀。知其如真

あらゆるこの見(5)、――もしは見聞識知して、得る所、観る所、意に思念する所は、この世より彼の世に至り、彼の世よりこの世に至る。 彼の一切は、我が有に非ず、我は彼が有に非ず、またこれ神に非ず。 かくの如く慧観して、その真の如きを知る。

    (5)『見聞識知して、

          得たもの、観たもの、意に思ったことは、

          この世より別の世に行き、別の世よりこの世に来る。』という見解について、

      この一切は、我を有らしめるものではなく、

      我は、これを有らしめるものではなく、

      また、

        これは、神でもない。

 

      このように、

        智慧で観察して

        その真実を知る。

所有此見。此是神。此是世。此是我。我當後世有。常不變易。恒不磨滅法。彼一切非我有。我非彼有。亦非是神。如是慧觀。知其如真

あらゆるこの見(6)、――これはこれ世、これはこれ我、我、まさに後世に有りて、常に変易せず、恒に磨滅せざる法なりと。 彼の一切は我が有に非ず、我は彼の有に非ず、またこれ神に非ず。 かくの如く慧観して、その真の如きを知る。

    (6)『これは神であり、これは世であり、これは我である。

       我は、後世にも有り、常に変易せず、常に磨滅しないものである。』という見解について、

      この一切は、我を有らしめるものではなく、

      我は、これを有らしめるものではなく、

      また、

        これは、神でもない。

 

      このように、

        智慧で観察して

        その真実を知る。

所有比丘。此六見處不見是神。亦不見神所有。彼如是不見已。便不受此世。不受此世已。便無恐怖。因不恐怖已。便得般涅槃。生已盡。梵行已立。所作已辦。不更受有。知如真。是謂比丘度塹.過塹.破.無門.聖智慧鏡

あらゆる比丘は、この六見処に、この神を見ず、また神の所有を見ず、彼かくの如く見ずにおわりて、便ちこの世を受けず、この世を受けずにおわりて、便ち恐怖無く、恐怖せずにおわるに因り、便ち般涅槃を得て、生はすでに尽き、梵行すでに立ちて、作す所すでに辦じ、更に有を受けずして、真の如きを知る。 これを、比丘、塹(ほり)を度り、塹を過ぎ、郭(かく、城壁)を破り、門無き、聖智慧の鏡なりと謂う。

あらゆる比丘は、

  この六見処に、

    神を見ず、

    神の所有を見ない。

彼は、

  このように見なければ、便ち、この世に生を受けない。

  この世に生を受けなければ、便ち、恐怖が無い。

  恐怖しなかったに因って、便ち、涅槃を得る。

 

  生は、すでに尽き、

  梵行(ぼんぎょう、浄い行い)は、すでに立ち、

  作さねばならぬこと(煩悩を断つこと)は、すでに作しおわり、

  ふたたび、生を受けることはなく、

  真実を、

    そのとおりに知る。

 

これを、

  『比丘は、

     塹(ほり)を渡る。

     塹を過ぎる。

     城壁を破る。

     生死の門が無い。

     聖智慧の鏡である。』という。

云何比丘度塹耶。無明塹已盡已知。拔絕根本。打破不復當生。如是比丘得度塹也

云何が比丘は塹を度る。 無明の塹すでに尽き、すでに根本を抜いて絶ち、打破してまたまさに生ずべからずと知る。 かくの如く比丘は塹を度ることを得。

比丘が塹を渡るとは、何か?

  無明の塹は、すでに尽きて、すでに知る、――

    根本を、抜いて絶やしたと。

    打破して、ふたたび生じることはないと。

このようにして、

  比丘は、塹を渡ることができる。

云何比丘過塹耶。有愛已盡已知。拔絕根本。打破不復當生。如是比丘得過塹也。

云何が比丘は塹を過ぐる。 有愛(うあい、生存欲)すでに尽き、すでに根本を抜いて絶ち、打破してまたまさに生ずべからずと知る。 かくの如く比丘は塹を過ぐることを得。

比丘が、塹を過ぎたとは、何か?

  有愛(うあい、生存欲)は、すでに尽きて、すでに知る、――

    根本を、抜いて絶やしたと。

    打破して、ふたたび生じることはないと。

このようにして、

  比丘は、塹を過ぎることができる。

云何比丘破耶。無窮生死已盡已知。拔絕根本。打破不復當生。如是比丘得破也。

云何が比丘は郭を破る。 無窮の生死すでに尽き、すでに根本を抜いて絶ち、打破してまたまさに生ずべからずと知る。 かくの如く比丘は郭を破ることを得。

比丘が、城壁を破るとは、何か?

  無窮の生死は、すでに尽きて、すでに知る、――

    根本を、抜いて絶やしたと。

    打破して、ふたたび生じることはないと。

このようにして、

  比丘は、城壁を破ることができる。

云何比丘無門耶。五下分結已盡已知。拔絕根本。打破不復當生。如是比丘得無門也。

云何が比丘は門無き。 五下分結(ごげぶんけつ、欲界の生に結びつける煩悩)すでに尽き、すでに根本を抜いて絶ち、打破してまたまさに生ずべからずと知る。 

比丘は、生死の門が無いとは、何か?

  五下分結(ごげぶんけつ、欲界の生に結びつける煩悩)は、すでに尽きて、すでに知る、――

    根本を、抜いて絶やしたと。

    打破して、ふたたび生じることはないと。

このようにして、

  比丘は、生死の門が無いことを得る。

 

  五下分結(ごげぶんけつ):三界中の欲界の結惑を下分結(げぶんけつ)といい、五結を立てる。

    (1)貪結:貪欲の煩悩。

    (2)瞋結:瞋恚の煩悩。

    (3)身見結:我見の煩悩。

    (4)戒取結:非理無道の邪戒に取執する煩悩。

    (5)疑結:諦の理を狐疑する煩悩。

云何比丘聖智慧鏡。我慢已盡已知。拔絕根本。打破不復當生。如是比丘聖智慧鏡。是謂比丘度塹.過塹.破.無門.聖智慧鏡

云何が比丘は聖智慧の鏡なる。 我慢すでに尽き、すでに根本を抜いて絶ち、打破してまたまさに生ずべからずと知る。 かくの如く比丘は聖智慧の鏡たり。 これを、比丘、塹(ほり)を度り、塹を過ぎ、郭(かく、城壁)を破り、門無き、聖智慧の鏡なりと謂う。

比丘は、聖智慧の鏡であるとは、何か?

  我慢(がまん、我執、自意識)は、すでに尽きて、すでに知る、――

    根本は、抜いて絶やしたと。

    打破して、ふたたび生じることはないと。

このようにして、

  比丘は、聖智慧の鏡なのである。

 

これを、

  『比丘は、

     塹を渡る。

     塹を過ぎる。

     城郭を破る。

     生死の門が無い。

     聖智慧の鏡である。』という。

 

 

 

 

如来は、法を現わす中に憂い無し

如是正解脫如來。有因提羅及天伊沙那。有梵及眷屬。彼求不能得如來所依識。如來是梵。如來是冷。如來不煩熱。如來是不異

かくの如し、正しく解脱せる如来とは。 ある因提羅(いんだいら、帝釈天)、および天伊沙那(てんいしゃな、天王名)、ある梵(ぼん、色界の諸天)および眷属は、彼は、求めて如来の依る所を得ること能わずして、『如来はこれ梵なり、如来はこれ冷なり、如来はこれ煩熱せず、如来はこれ異(い、特別)ならず。』と識る。

このようなものなのである、

  正しく解脱した如来とは。

因提羅(いんだいら、帝釈天)も、

天伊沙那(てんいしゃな、天王名)も、

梵天(ぼんてん、色界の諸天)および眷属も、

彼等は、

  如来の

    依る所を、求めても得られないので、

    このように認識する、――

      『如来とは、梵天である。

       如来とは、冷めている。

       如来とは、煩悩に熱せられない。

       如来とは、特別なものではない。』と。

我如是說。諸沙門.梵志誣謗我。虛妄言不真實。沙門瞿曇御無所施設。彼實有眾生。施設斷滅壞。若此中無我不說

我、かくの如く説けば、諸の沙門、梵志、我を誣(あざむ)きて謗り、虚妄して真実ならざるを言わく、『沙門瞿曇(くどん、釈迦の姓)の御(もち、用)うるは施設(しせつ、義を安立すること)する所無し。 彼は実に衆生有りて、断、滅、壊を施設するのみ。』と。 もし、この中のこと無くんば我は説かず。

わたしが、このように説くと、

  諸の沙門(しゃもん、出家)、梵志(ぼんし、婆羅門の出家)は、

    わたしを、でたらめに謗り、

      嘘をついて、このように言う、――

      『沙門瞿曇(くどん、釈迦の姓)は、

         意味の無いことを、言っている。

       彼は、実に、

         『衆生は、断じ滅し壊する。』というほどの事を言っているに過ぎない。』と。

わたしは、

  もし、

    そのような事が無ければ、説いてはいない。

彼如來於現法中說無憂。若有他人罵詈如來。撾打如來。瞋恚責數者。如來因彼處不瞋恚.不憎嫉。終無害心

彼の如来の説かく、『法を現わす中には憂い無し。』と。 もし、他人、如来を罵詈(めり、罵倒)し、如来を撾打(ただ、打擲)し、瞋恚して責数(しゃくしゅ、罪を数え上げる)する者有らば、如来は、彼の処に因りて瞋恚せず、憎嫉せず、終(つい)に害心無し。

彼の如来は、

  法(ほう、姿)を現わす時には、

  『憂いは無い。』と説かれた。

もし、

  他人が、

     如来を罵倒しても、

     如来を打擲しても、

     瞋恚して罪を数えたてても、

如来は、

  それに因り、

    瞋恚せず、

    憎嫉せず、

    終始、

      害心が無いのである。

若人罵詈如來。撾打.瞋恚責數時。如來意云何。如來作是念。若我本所作.本所造者。因彼致此言。然罵詈如來。撾打.瞋恚責數者。如來作是意

もし、人、如来を罵詈し、撾打し、瞋恚して責数する時、如来が意は云何。 如来はこの念を作さく、『我が本作す所、本造る所の若きに因りて、彼は、この言を致すなり。』と。 然り、如来を罵詈し、撾打し、瞋恚して責数する者には、如来はこの意を作すなり。

もし、

  人が、

    如来を罵倒し、打擲し、瞋恚して罪を数えたてたとしたら、

  如来の意は、

    何うであろうか?

如来は、こう思うのである、――

  『わたしが、

     本、造った原因により、

   彼は、

     こう言うようになった。』と。

そうなのである、――

  如来を、罵倒し、打擲し、瞋恚して罪を数えたてれば、

  如来は、そう思うのである。

若有他人恭敬如來。供養禮事尊重者。如來因此不以為ス。不以為歡喜。心不以為樂。若他人恭敬如來。供養禮事尊重者。如來意云何。如來作是念。若我今所知所斷。因彼致此。若有他人恭敬如來。供養禮事尊重者。如來作是意

もし、他人、如来を恭敬し、供養し礼し事(つか)えて尊重する者有らば、如来はこれに因りて以って悦びと為(せ)ず、以って歓喜と為ず、心は以って楽と為さず。 もし、他人、如来を恭敬し、供養し礼し事えて尊重する者有らば、如来が意は云何。 如来はこの念を作さく、『我が今知る所、断ずる所の若きに因りて、彼はこれを致すなり。』と。 もし、他人、如来を恭敬し、供養し礼し事えて尊重する者有らば、如来はこの意を作すなり。

もし、

  他人が、

    如来を、恭敬し、供養し、礼し事(つか)えて、尊重したならば、

  如来は、

    それに因り、

      悦ぶこともなく、歓喜することもなく、心に楽しむこともない。

もし、

  他人が、

    如来を、恭敬し、供養し、礼し事えて、尊重したならば、

  如来の意は、

    何うであろうか?

如来は、こう思うのである、――

  『わたしが、

     今は、知り断定できる、あの事に因り、

   彼は、

     こうするようになったのである。』と。

もし、

  他人が、

    如来を、恭敬し、供養し、礼し事えて、尊重するならば、

  如来は、

    そう思うのである。

 

 

 

 

比丘は、罵倒打擲されても瞋らず、

恭敬供養されても悦ばない

於是。世尊告諸比丘。若有他人罵詈汝等。撾打.瞋恚責數者。若有恭敬供養.禮事尊重者。汝等因此亦當莫瞋恚憎嫉。莫起害心。亦莫歡ス歡喜。亦莫心樂

ここに於いて、世尊、諸の比丘に告げたまわく、『もしは、他人、汝等を罵詈し、撾打し、瞋恚して責数する者有り。 もしは恭敬供養して礼し事えて、尊重する者有り。 汝等、ここに因りて、またまさに瞋恚し、憎嫉すること莫かれ、害心を起すこと莫かれ、また歓悦し歓喜すること莫かれ、また心に楽しむこと莫かれ。 

そして、

  世尊は諸の比丘たちに、こう教えられた、――

    『他人は、

       お前たちを、

         或は、罵倒し、打擲し、瞋恚して罪を数えたて、

         或は、恭敬し、供養し、礼して事え、尊重する。

     お前たちは、

       この事に因り、

         或は、瞋恚し、憎嫉し、害心を起してはならず、

         或は、歓悦し、歓喜し、心に楽しんではならない。

所以者何。我等無神.無神所有。猶如今此勝林門外燥草枯木。或有他人持去火燒。隨意所用。於意云何。彼燥草枯木頗作是念。他人持我去火燒。隨意所用耶

所以は何んとなれば、我等に神無く、神の所有無ければなり。 なお、今のこの勝林門外の燥草(そうそう、枯れ草)枯木の如く、或は、他人、持ち去り火に焼くこと有りて、意の随(まま)に用うる所なり。 意に於いて云何。 彼の燥草枯木は、頗るこの念を作すや、『他人、我を持ち去り、火に焼いて意の随に用うる所となす。』と。

     何故ならば、

       我等には、

         神(じん、実我)は無く、

         神の所有(じんしょゆう、実我に属する身心)も無く、

       ちょうど、

         この勝林給孤獨園の門外に広がる、枯れ草、枯れ木のようであり、

       或は、

         他人が、

           持ち去って、火にくべるように、

           意のままに、用いるからである。

 

     お前たちは、これを何う思うか?――

       この枯れ草や枯れ木は、

         しきりに、このように思うだろうか?――

           『他人が、

              わたしを、

                持ち去り、火にくべて、

                意のままに、用いる。』と。

諸比丘答曰。不也。世尊

諸の比丘答えて曰く、『不なり、世尊。』と。

諸の比丘は答えて申した、――

  『いいえ、そんなことはありません、世尊。』と。

如是若有他人罵詈汝等。撾打.瞋恚責數者。若有恭敬供養.禮事尊重者。汝因此亦當莫瞋恚憎嫉。莫起害心。亦莫歡ス歡喜。亦莫心樂。所以者何。我等無神.無神所有。

かくの如し。 もしは、他人、汝等を罵詈し、撾打し、瞋恚して責数する者有り。 もしは、恭敬供養し、礼し事えて尊重する者有り。 汝、ここに因り、またまさに瞋恚し憎嫉すること莫かれ、害心を起すこと莫かれ、また歓悦し歓喜すること莫かれ、また心に楽しむこと莫かれ。 所以は何んとなれば、我等に神無く、神の所有無ければなり。

そのとおりである、――

  他人は、

    お前たちを、

      或は、罵倒し、打擲し、瞋恚して罪を数えたて、

      或は、恭敬し、供養し、礼して事え、尊重する。

  お前たちは、

    この事に因り、

      或は、瞋恚し、憎嫉し、害心を起してはならず、

      或は、歓悦し、歓喜し、心に楽しんではならない。

  何故ならば、

    我等には、

      神は無く、

      神の所有も無いからである。

 

 

 

 

仏の法は、善く説かれ包み隠されない

有我法善說。發露廣布。無有空缺。流布宣傳。乃至天人。如是我法善說。發露廣布。無有空缺。流布宣傳。乃至天人。若正智慧解脫命終者。彼不施設有無窮

我が法には、善説有りて発露(ほろ、包み隠さずに説くこと)し広布す。 空欠なるを流布し宣伝することは、乃ち天人に至るまで有ること無し。 かくの如し、我が法は、善説し発露し広布して、空欠なるを流布し宣伝すること乃ち天人に至るまで有ること無し。 もしは、正智慧にて解脱し、命終らんとする者、彼は有無の窮まりを施設(しせつ、義を安立すること)せず。

わたしの教えは、

  善く説かれており、

  包み隠されずに、

  広く、

    布かれている。

空しく欠けた教えが、

  流布し宣伝されることは、

    天上、人間のように善く聞く者たちにさえ、

      有りえないのである。

そのとおりである、――

  わたしの教えは、

    善く説かれており、

    包み隠されずに、

    広く、

      布かれている。

  空しく欠けた教えが、

    流布し宣伝されることは、

      天上、人間のように善く聞く者たちにさえ、

        有りえないのである。

 

正しい智慧で解脱して、命が終るならば、

  事物の

    有無を極めて、定義しようとはしない。

我法善說。發露廣布。無有空缺。流布宣傳。乃至天人。如是我法善說。發露廣布。無有空缺。流布宣傳。乃至天人。若有五下分結盡而命終者。生於彼間。便般涅槃。得不退法。不還此世

我が法には、善説有りて発露し広布す。 空欠なるを流布し宣伝することは、乃ち天人に至るまで有ること無し。 かくの如し、我が法は、善説し発露し広布して、空欠なるを流布し宣伝することは、乃ち天人に至るまで有ること無し。 もし、五下分結(ごげぶんけつ、欲界の生に結びつける煩悩)尽きて命の終らんとする者有らば、彼の間に生じて、便ち般涅槃(はつねはん、涅槃)して、不退の法を得、この世に還らず。

わたしの教えは、

  善く説かれており、

  包み隠されずに、

  広く、

    布かれている。

空しく欠けた教えが、

  流布し宣伝されることは、

    天上、人間のように善く聞く者たちにさえ、

      有りえないのである。

そのとおりである、――

  わたしの教えは、

    善く説かれており、

    包み隠されずに、

    広く、

      布かれている。

  空しく欠けた教えが、

    流布し宣伝されることは、

      天上、人間のように善く聞く者たちにさえ、

        有りえないのである。

 

もし、

  五下分結(ごげぶんけつ、欲界の生に結びつける煩悩)が尽きて、命が終るならば、

    このような世間に生まれても、

    すぐに、

      涅槃に入って退くこともなく、

    ふたたび

      この世に還らないのである。

我法善說。發露廣布。無有空缺。流布宣傳。乃至天人。如是我法善說。發露廣布。無有空缺。流布宣傳。乃至天人。彼三結已盡。婬怒癡薄。得一往來天上人間。一往來已。便得苦邊

我が法には、善説有りて発露し広布す。 空欠なるを流布し宣伝することは、乃ち天人に至るまで有ること無し。 かくの如し、我が法は、善説し発露し広布して、空欠なるを流布し宣伝することは、乃ち天人に至るまで有ること無し。 彼の三結(さんけつ、我見結、戒取結、疑結)すでに尽き、婬怒癡(いんぬち、貪瞋癡の三毒)薄ければ、天上人間の一往来を得、 一往来しおわれば、便ち苦辺(くへん、涅槃)を得ん。

わたしの教えは、

  善く説かれており、

  包み隠されずに、

  広く、

    布かれている。

空しく欠けた教えが、

  流布し宣伝されることは、

    天上、人間のように善く聞く者たちにさえ、

      有りえないのである。

そのとおりである、――

  わたしの教えは、

    善く説かれており、

    包み隠されずに、

    広く、

      布かれている。

  空しく欠けた教えが、

    流布し宣伝されることは、

      天上、人間のように善く聞く者たちにさえ、

        有りえないのである。

 

あの

  三結(さんけつ、我見結、戒取結、疑結)がすでに尽きて、

  婬怒癡(いんぬち、貪瞋癡の三毒)が薄ければ、

    天上、人間を一往復し、

    その後に、

      涅槃を得る。

 

  三結(さんけつ):聖者の最初に断つべき三つの煩悩。

    (1)見結(けんけつ):我見(がけん、我有りとの見解)のこと。

    (2)戒取結(かいしゅけつ):邪戒を行うこと。

    (3)疑結(ぎけつ):正理を疑うこと。

  婬怒癡(いんぬち):根本的な煩悩で三毒という。

    (1)婬(いん):貪欲、五欲(ごよく、色声香味触)の楽しみを貪ること。

    (2)怒(ぬ):瞋恚、怒ることと嫉むこと。

    (3)癡(ち):因果の道理を知らないこと。

我法善說。發露廣布。無有空缺。流布宣傳。乃至天人。如是我法善說。發露廣布。無有空缺。流布宣傳。乃至天人。彼三結已盡。得須陀洹。不墮惡法。定趣正覺。極七往來天上人間。七往來已。便得苦邊

我が法には、善説有りて発露し広布す。 空欠なるを流布し宣伝することは、乃ち天人に至るまで有ること無し。 かくの如し、我が法は、善説し発露し広布して、空欠なるを流布し宣伝することは、乃ち天人に至るまで有ること無し。 彼の三結すでに尽き、須陀洹(しゅだおん、聖者の最初の段階、預流果)を得ば、悪法に堕せず、定んで正覚に趣き、極むれば天上人間を七往来し、七往来しおわれば、便ち苦辺を得ん。

わたしの教えは、

  善く説かれており、

  包み隠されずに、

  広く、

    布かれている。

空しく欠けた教えが、

  流布し宣伝されることは、

    天上、人間のように善く聞く者たちにさえ、

      有りえないのである。

そのとおりである、――

  わたしの教えは、

    善く説かれており、

    包み隠されずに、

    広く、

      布かれている。

  空しく欠けた教えが、

    流布し宣伝されることは、

      天上、人間のように善く聞く者たちにさえ、

        有りえないのである。

 

あの、

  三結がすでに尽きたならば、

    須陀洹(しゅだおん、聖者の流れに入ること)を得て、

    悪法に惑わされず、

    正覚(しょうがく、正しい覚り)の道を決定して、

  やがて、天上、人間を七往復し、

  その後に、

    涅槃を得る。

我法善說。發露廣布。無有空缺。流布宣傳。乃至天人。如是我法善說。發露廣布。無有空缺。流布宣傳。乃至天人。若有信樂於我而命終者。皆生善處。如上有餘

我が法には、善説有りて発露し広布す。 空欠なるを流布し宣伝することは、乃ち天人に至るまで有ること無し。 かくの如し、我が法は、善説し発露し広布して、空欠なるを流布し宣伝することは、乃ち天人に至るまで有ること無し。 もし、我に於いて信じ楽しんで命終らば、皆、善処(ぜんしょ、天上人間)に生じ、上の如く余有り。

わたしの教えは、

  善く説かれており、

  包み隠されずに、

  広く、

    布かれている。

空しく欠けた教えが、

  流布し宣伝されることは、

    天上、人間のように善く聞く者たちにさえ、

      有りえないのである。

そのとおりである、――

  わたしの教えは、

    善く説かれており、

    包み隠されずに、

    広く、

      布かれている。

  空しく欠けた教えが、

    流布し宣伝されることは、

      天上、人間のように善く聞く者たちにさえ、

        有りえないのである。

 

もし、

  わたしを、信じて楽しんで、命が終れば、

皆、

  善処(ぜんしょ、天上人間)に生まれて、

  上に説いたようなことが有る。

佛說如是。彼諸比丘聞佛所說。歡喜奉行

阿梨吒經第九竟(四千五百七十字)

仏、かくの如く説きたまえり。 彼の諸の比丘は、仏の所説を聞き、歓喜し奉行せり。

阿梨咤経第九竟る(四千五百七十字)

仏は、このように説かれた。

彼の諸の比丘たちは、

  仏の所説を聞いて、歓喜し奉って行った。

 

阿梨咤経第九竟る(四千五百七十字)

 

 

 

 

 

 

 

 

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