"SWAN" 万年筆
PC がとつぜん故障いたしましたので、老人はまるで両の翅を失ったニワトリのごとく、ぼうぜんと立ちつくし、ただ大きなソファに寝ころがって読書をするか、音楽を聞くかだけの生活を送っておりましたところ、幸いにも一週間ほどで PC が戻ってまいりましたので、ようやく普段の生活に戻れましたのが、今のところその幸いを味わっているのでございます。

ということで日程に余裕がなくなり、何か簡単にできる題材はないものかと探しておりましたところ、どちら様にも為めになるのは、優れたスピーチに勝るものはございませんので、今回はエリザベス女王の2021年のクリスマス・スピーチを訳してみました。

深い意味のある、非常に優れたスピーチだと思いますので、皆様方にもどうぞお楽しみくださるようお願いもうしあげます。

≪エリザベス女王:クリスマスのスピーチ≫

  多くの人にとって、それが幸福であり、ご馳走であったとしても、愛する者を失った人々にとって、クリスマスは耐えがたいものともなり得る。

  今年は殊に、わたしには、その事がよく分かった年であった。

  しかしわたしにとっては、愛するフィリップの死以来、数ヶ月にわたって、彼れの生活と仕事に関する、国や、連邦や、世界中から寄せられる賛辞という、暖かさや思いやりの中から、非常に大きな心地よさを引き寄せてきたのである。

  彼れの奉仕の精神や、知的探究心や、あらゆる状況に於いて楽しさを絞り出す才能は、少しも抑圧されることがなかった。

  そのような子供っぽい、知的好奇心旺盛なきらめきは、彼れが亡くなるまで、わたしが初めて彼れを目にした時と同じように輝いていたのである。

  しかし人生は、当然ながら、最初の出会いと同様に、最後の別れとから成っているが、また、わたしや、わたしの家族が彼れを失ったのと同じほど、わたしは、彼れがわたしたちにクリスマスを楽しむよう願っていることを知っている。

  わたしは、彼れの存在を、わたしたちと同じように、クリスマスの準備がととのった世界中の何百万という人々と同じように、感じとっている。

  コヴィッドのおかげで、わたしたちには、わたしたちが願うほどには、クリスマスを祝うことができないが、それにもかかわらず、わたしたちは、多くの幸福な伝統行事を楽しむことができる。

  人々に良く知られた曲ならば、それがキャロルを歌うようなことであっても、ツリーを飾り付けるようなことや、プレゼントを贈ったり、受け取ったりするようなことや、わたしたちがその結末を既に知っているようなお気に入りの映画を観るようなことでも、それはなんの驚きでもないのに、多くの家族は、彼等の愛蔵するクリスマスの行事として、余りにも頻繁に行っている。

  わたしたちは、わたしたち自身を子供たちや、彼等の家族であるように見做して、その役割と伝統と価値観とを抱きしめているが、その意義は、わたしたちにとっては、余りにも大きく、世代から世代へと、時には時代の移り変わりとともに変化しながら、受け継がれてゆくのである。

  わたしは、そのような事を、わたし自身の家族の中にも見いだしているが、それは大きな幸福の源泉なのである。

  プリンス・フィリップはこのバトンを渡すことの意義を常に意識してたが、――

  それこそが、彼れをして、連邦を通じて、もしくはそれを越えて若者に探検と冒険のチャンスを与えるエディンバラ公爵賞を創設せしめた理由である。

  それは目覚ましい成功をおさめたのであるが、それは彼れの未来に対する信頼に基づいていた。

  彼れはまた我々の地位を取り巻く財産の管理人としての地位を真摯に受け止めるチャンピオンでもあったし、またわたしは彼れの先駆的な仕事が、我々の長男のチャールズと、その長男のウィリアムとによって、カミラとキャサリンの立派な援助を受けながら、受け継がれ、拡大されたことに、言葉を越えた誇りを懐いている。――最近では、グラスゴウに於ける、COP気候変動サミットがそうであった。

  来年の夏、我々は、いくつかの英連邦競技会に趣くことを楽しみにしている。

  そのバトンは今のところ、連邦中をくまなく巡行しながら、その途中、希望の光に導かれてバーミンガムに向っているが、――

  それはアスリートたちの偉業や、志を同じうする国民の集いを褒め称えるチャンスとなるだろう。

  そして二月には、今からちょうど六週間後には、わたしのプラチナ・ジュビリー(即位70周年)の年が始まることになるが、わたしは、それが国民がどこにあっても連帯感を楽しむ好機となり、この70年間の社会的、科学的、文化的な巨大な変化に感謝し、また自信をもって将来を見据えられる機会となるよう希望する。

  わたしは、誰かが何処かで、クリスマスは子供達のための時間である、と言っているだろうと確信している。

  それは魅力的な真実ではあるが、しかしながら、ただ話の半分であるにすぎない。

  恐らく、クリスマスは、我々皆の中にある子供の心に訴えかけることができる、と言うほうが、より真実に近いだろう。

  大人は、心配事で圧しつぶされそうになっていれば、時には、単純な物事の中に楽しみを見いだすことに失敗することもあるが、そのような場合も、子供はそうでない。

  そして、わたしや、わたしの家族とって、たとえあの聞き慣れた笑い声が失われたこの一年であっても、クリスマスの楽しみが失われることはないだろう。なぜならば、わたしたちは追憶する機会を得ることになり、わたしたちが今年新らしく迎えた四人の子供ような幼い子供の目を通して、クリスマス期間中の不思議を更ためて見なおすことになるからである。

  彼等は、わたしたち皆にある教訓を教えてくれる、――クリスマスの物語がそうであるように――、子供の誕生には、終わりのない可能性という夜明けがあるのだ、と。

  それはクリスマスの物語の簡明な一側面であるが、それは大変普遍的な魅力ある、イエスというある男の活動のスターティング・ポイントを形作る単純な出来事に作り替えられており、――その男の教えが世代から世代に手渡しされ、わたしの信仰の根底となっているのである。

  彼れの誕生が、新たな始まりを示しているのは、――

  キャロルの中で、「生涯の希望と恐怖とが、今宵あなたの中で出会います」、と言われている通りである。

  わたしは、あなた方皆に、極めて幸福なクリスマスであるよう願っている。





≪Queen's 2021 Christmas Day speech≫
Although it’s a time of great happiness and good cheer for many, Christmas can be hard for those who have lost loved ones.

This year, especially, I understand why.

But for me, in the months since the death of my beloved Philip, I have drawn great comfort from the warmth and affection of the many tributes to his life and work – from around the country, the Commonwealth and the world.

His sense of service, intellectual curiosity and capacity to squeeze fun out of any situation were all irrepressible.

That mischievous, enquiring twinkle was as bright at the end as when I first set eyes on him.

But life, of course, consists of final partings as well as first meetings – and as much as I and my family miss him, I know he would want us to enjoy Christmas.

We felt his presence as we, like millions around the world, readied ourselves for Christmas.

While Covid again means we can’t celebrate quite as we may have wished, we can still enjoy the many happy traditions.

Be it the singing of carols – as long as the tune is well known – decorating the tree, giving and receiving presents, or watching a favourite film where we already know the ending, it’s no surprise that families so often treasure their Christmas routines.

We see our own children and their families embrace the roles, traditions and values that mean so much to us, as these are passed from one generation to the next, sometimes being updated for changing times.

I see it in my own family and it is a source of great happiness.

Prince Philip was always mindful of this sense of passing the baton.

That’s why he created The Duke of Edinburgh's Award, which offers young people throughout the Commonwealth and beyond the chance of exploration and adventure.

It remains an astonishing success, grounded in his faith in the future.

He was also an early champion of taking seriously our stewardship of the environment, and I am proud beyond words that his pioneering work has been taken on and magnified by our eldest son Charles and his eldest son William – admirably supported by Camilla and Catherine – most recently at the COP climate change summit in Glasgow.

Next summer, we look forward to the Commonwealth Games.

The baton is currently travelling the length and breadth of the Commonwealth, heading towards Birmingham, a beacon of hope on its journey.

It will be a chance to celebrate the achievements of athletes and the coming-together of like-minded nations.

And February, just six weeks from now, will see the start of my Platinum Jubilee year, which I hope will be an opportunity for people everywhere to enjoy a sense of togetherness, a chance to give thanks for the enormous changes of the last 70 years – social, scientific and cultural – and also to look ahead with confidence.

I am sure someone somewhere today will remark that Christmas is a time for children.

It’s an engaging truth, but only half the story.

Perhaps it’s truer to say that Christmas can speak to the child within us all.

Adults, when weighed down with worries, sometimes fail to see the joy in simple things, where children do not.

And for me and my family, even with one familiar laugh missing this year, there will be joy in Christmas, as we have the chance to reminisce, and see anew the wonder of the festive season through the eyes of our young children, of whom we were delighted to welcome four more this year.

They teach us all a lesson – just as the Christmas story does – that in the birth of a child, there is a new dawn with endless potential.

It is this simplicity of the Christmas story that makes it so universally appealing, simple happenings that formed the starting point of the life of Jesus – a man whose teachings have been handed down from generation to generation, and have been the bedrock of my faith.

His birth marked a new beginning.

As the carol says: ‘The hopes and fears of all the years are met in thee tonight.’

I wish you all a very happy Christmas.
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去年は、ノーブランドの珍品万年筆を購入して、もう万年筆は打ち止めかとも思っていたのですが、またしても古い万年筆を購入してしまいました。

1942年製造の "SWAN self-filler" 万年筆です。 製造は 'Mabie Todd & Co Ltd' 、"SWAN" はその中でも高級品のブランド名であり、二本のキャップバンドと、クリップが金張りです。

ボディーと、キャップはエボナイト( hard rubber )製、ピカールで磨くと漆塗りのような深い艶が出てきます。

ボディーには彫り込みがあって白色のハイライトが施されており、白鳥のトレード・マークの右側には、こう読み取ることができます、――
   一段目:"SWAN" self-filler
   二段目:MABIE TODD & Co Ltd
   三段目:MADE IN ENGLAND

クリップの頭にも、白鳥のトレード・マークがあります。
ペン先は14K、Fine と Extremely Fine との中間ぐらいで、軟らかく、力を少し加えれば太字を書く事もできますし、余り力を入れなければ同じ太さにも書くことができ、極めて快適に文字を書くことができます。

レバーによる吸入式でインクサックは新品に交換されています。吸入方式にはいろいろありますがレバー式は一番確実な方式で、メンテナンスも楽です。またラバーサックはかなり一般的な物であり、アンティークな万年筆が存在するかぎり、無くなるようなことはないでしょうから、その面でも楽だと言うことができます。

キャップをかぶせた全長は 124mm 、軸の太さは 11mm で随分小振りのペンですが、よほど大きな手でなければ、持ちにくいということはないでしょう。

万年筆:"Swan self-filler" nib-size="extremely fine"
インク:Parker "Blue Black"
原稿用紙:
    テーマ:”冬”
    モットー:”維民所止(This is where the people rest)”
    色:”暗橙色”


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今月は、「帰三宝願共往生の偈」を唱えます、お聞きください、――
歸佛得菩提  道心恒不退
  願共諸眾生回願 往生無量壽國

歸法薩婆若  得大總持門
  願共諸眾生回願 往生無量壽國

歸僧息諍論  同入和合海
  願共諸眾生回願 往生無量壽國
それでは意味を説明しましょう、――
「帰仏得菩提、道心恒不退(きぶつとくぼだい、どうしんごうふたい)」
「願共諸衆生回願、往生無量寿国
(がんぐしょしゅじょうえがん、おうじょうむりょうじゅこく)」
仏に帰して菩提を得、道心は恒に退かず、
諸の衆生と共に願を回らせ、無量寿国に往生するを願え。
「帰法薩婆若、得大総持門(きほうさはんにゃ、とくだいそうじもん)」
法の薩婆若に帰して、大総持門を得よ。
「帰僧息諍論、同入和合海(きそうそくじょうろん、どうにゅうわごうかい)」
僧に帰して諍論を息め、同じく和合の海に入れ。

更に解説しましょう、――
帰:帰依:敬慕して依頼する( to adore and rely on )。
菩提:仏の心の境地( the buddha's mind )。
道心:志向する心( the firm mind going to his destination )。
恒不退:恒に前進する( constantly go forward )。
回願:全ての願いを一目的に向ける( to aim only one purpose )。
往生:理想の国土に生まれる( obtaining the birth in a ideal land )。
法:仏の教え( the teaching of Buddha )。
薩婆若:仏の智慧( the wisdom and knowledge of Buddha )。
大総持門:世代を超えて智慧を保持すること( keeping the wisdom from generation to generation )
息諍論:論争を停止せよ( Stop any dispute! )。
和合海:一心( with only one heart )。


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今月の「百人一首」は、”柿本人麿”と”山部赤人”の二首です。
紀貫之が古今集の序に、「かの御時に、正三位柿本人麿なむ、歌の聖なりける。これは、君も人も身をあはせたりといふなるべし。秋の夕べの竜田河に流るゝ紅葉をば、帝の御目には錦と見たまひ、春の朝吉野の山の桜は、人麿が心には雲かとのみなむおぼえける。又、山の辺の赤人といふ人ありけり。歌に、あやしく妙なり。人丸は赤人が上に立たむ事かたく、赤人は人麿が下に立たむ事かたくなむありける」、と言うように、この二人は万葉集中の好一対、または双璧として知られていますが、作風は異なり人麿は華麗、赤人は平明というように別れています。

柿本人麿:
  あしひきの山鳥の尾のしだり尾の
  長々し夜をひとりかも寝む
  「山鳥」は、キジ科ヤマドリ属に分類される日本固有種の鳥で、「オスの羽色は極彩色のキジと異なり、金属光沢のある赤褐色を呈し、尾は相対的にキジよりも長く、黒、白、褐色の鮮やかな模様があるが、メスの羽色は褐色でキジのメスに似ており、尾は相対的にキジのメスより短い」ということである。また夜になると、雌雄は谷を挟んで、それぞれ別に眠るとも言われている。
  「足引き」は、山に係る枕詞で、山裾が長く広がったさまを連想させるが、ここでは尾の長い山鳥を導き出すために用いられている。

  あしひきの山鳥の尾が長いことから、夜の長さを連想させ、長い夜から独り寝の孤独を連想させるという仕掛けの面白さは月並みに見えて、ちょっと目には理解しがたいが、噛み締めると味が出てくるような趣きがあり、まさに正三位の風格を彷彿させると言ってもよいだろう。

この歌の意味は、――
「山鳥の尾のように長い夜を、今宵はひとりで寝ねばならぬのか、さぞ長々しく思われることだろうよ」、と言うだけのことであるが、
これを声に出し、――
「あしひきの~、山鳥の尾の~」と、「の」の音を長く引いて読むと、
「独り寝のやるかたなさ」が、いかにも思い出されるというのが、この歌の仕掛けである。

山部赤人:
  田子の浦に打ち出でて見れば白妙の
  富士の高嶺に雪は降りつゝ
  「田子の浦」とは、静岡市と沼津市とのちょうど真ん中辺で、海岸線としては富士山の直近である。この歌は、「万葉集」には、「田子の浦ゆうち出でてみれば真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける」とあり、「新古今集」に採られる時、今の形に改められたということである。

  新古今集の「田子の浦に」と、万葉集の「田子の浦ゆ」とを比較してみれば、「ゆ」とは、「~から」の意で、時間・空間的な起点を示すことばであるが、「大言海」には、(一)~より、(二)~を、(三)~せらる、(四)~に、の四を挙げ、(四)の例として、「景行紀」、十二年三月の「ハシキヨシ、我家ノ方由(ユ)、雲居立チ来モ」を採っているが、要するに「~から」か、「~の方に」の意味を有するということであり、これを採れば、「田子の浦に」と、「田子の浦ゆ」とは同じ意味ということになる。 しかし、景行紀の例は、「我家の方から、雲が立ちこめて来た」と、我家の外から眺めているようにも取れるので、(一)と同じ意味となり、その故に、もし「田子の浦から」と取れば、田子の浦を出れば、外は海である。わざわざ舟を出して富士山を見たのであろうか? まるで赤人は田子の浦の事情を知らずに、歌を作ったようにも見える。 また旺文社の「古語辞典」には、(1)動作・作用の時間的・空間的な起点を表わす。(2)動作・作用の経過する場所を表わす。とし、(2)の例として、「田子の浦ゆ」の歌を挙げている。ここは是非とも別の例を出して欲しいところである。

  「白妙」は、また「白栲」にも作り、「真白き」ことを表わして雲、雪、波等の枕詞としても用いられるが、白栲の「栲」の字は、意味が未詳である。「白妙の」は、「雪」に係る形容詞であり、他の解釈はないようであるが、「真白にぞ」とくれば、これは副詞であり、「降る」に係ることになるが、意味が取りがたい。 あるいは「真っ白くなった」の意だろうか?「たえ」を、「堪うべからず」の意味にまで敷衍すれば、胸がつまって言葉にならないほど白い」の意味にも取ることができる。

  「雪は降りつゝ」と、「雪は降りける」とを比較すれば、「降りつゝ」は現在進行形であり、「降りける」は、「真白にぞ」の、「ぞ」との係り結びの関係で、「降りけり」が、「降りける」と変化したもので、一種の「驚き」を強調したものとなる。

  「打ち出づ」は、大言海によれば、「打ち」には意味なく、ただ「出づ」と言うのと同じであるが、しかるに、同じく「打つ」は「棄つ」ともしており、「打ち棄てる」、「打ち遣る」の意味を勘案すれば、「何もかも打ち棄てて、表に出てみれば」という意味に取ることもできる。

この故に、
「田子の浦に」の歌の意味は、こうである、――
「富士山に雪が降ったと家人より聞き、何もかも打ち棄てて、田子の浦に出てみれば、言葉にならないほど真白な雪が、富士の高嶺に降りつづいているではないか!」。

「田子の浦ゆ」の歌の意味は、こうである、――
「田子の浦まで出てみれば真っ白になるまで、富士の高嶺に雪が降っていた!」。

  世の中には「原典に忠実であることこそ、最重要事である」と言う人もいるので、むしろ「田児の浦ゆ」の歌を取る人も多いとは思うが、この国には「言霊(ことだま)」という言葉があり、人の口より発せられた言葉には、「霊魂」が宿って別人格を有する、と信じられている/いたが、その意味からすれば、「田子の浦ゆ」と、「田子の浦に」とには、別の霊魂/人格が宿るのであり、人々がその歌から受ける感銘こそが、その本性なのである。このように考えれば、敢て「田子の浦に」を捨てて、「田子の浦ゆ」を取らねばならぬ理由はない。要は各各の気に入った方を取ればよいのである。

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≪菜の花のパスタ≫
材料(2人分):
  1. スパゲッティー:160g
  2. 菜の花:適宜
  3. ベーコン:50g(薄切り)
  4. ニンニク:1片(みじん切り)
  5. 鷹の爪:1本
  6. オリーブオイル:大さじ2杯
  7. 塩胡椒:適宜
  8. 塩:40g(スパゲッティーの茹で汁用)
作り方:
  1. フライパンにオリーブオイル、ニンニク、鷹の爪をいれて弱火に掛け、ニンニクの香りが立ってきたら、ベーコンを炒める。
  2. 大鍋に2リットルの湯を沸かし、塩40gを加え、スパゲッティーを茹でる。表示の時間より2分前にフライパンに移し、中火で茹で汁を加えながら、途中で菜の花を加えて、好みの固さになるまでいっしょに炒める。
  3. 皿に取り分け、オリーブオイルと胡椒を少々ふる。
では今月はここまで、また来月お会いしましょう、それまでご機嫌よう。
  ("SWAN" 万年筆  おわり)

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