新年、明けましておめでとうございます。
本年も、昨年同様、何卒よろしくお願いもうしあげます。
大黒天、あるいは大国主命のお使いは、いづれも鼠でありますので、鼠に願をかければ、やはりそれなりの霊験があらたかであるはずですが、荼吉尼天や、稲荷神の狐ほど一般的ではございません。
まあ、それだけ鼠は人に嫌われてきたということですが、土蔵の羽目板に巣穴を開けたり、大切な茶碗の桐箱が囓られたりといったことは、今は余り聞かなくなりましたが、昔は鼠の被害として、きわめて当たり前のことでございましたので、あるいはやむを得ないことなのかも知れません。
仏教の方でも、鼠は悪い印象を受けていたようで、”仏説譬喻経”には、このようなことが説かれています、――ある時、世尊は勝光王にこう告げられた、「大王よ、譬えばこういうことである。ある人が、曠野に遊んでいると、悪象に逐われた。怖れて走っていると、空の井戸が見えた。井戸には樹根が垂れ下がっていた。この人は根を伝い、井戸の中に身を潜めた。見回すと黒、白二匹の鼠がおり、互いに樹根を囓っていたし、井戸の四辺には四匹の毒蛇が、その人を噛もうとしており、下には毒龍が待ち構えていた。 毒蛇や龍に脅えながら、樹根が断たれるのを恐れていると、樹根より蜂蜜が垂れてきて、五滴口に入ったが、樹が揺れると、蜂が飛び立って、その人を刺し、しかも野火が出て、この樹を焼いてしまったのである」、と。王が言った、「この人は何故、受ける苦は無量でありながら、貪る味は少いのですか?」、と。世尊は、こう告げられた、「大王よ、曠野とは無明の長い夜を喻えたものであり、人とは輪迴転生する人を喻え、象を無常に喻え、井戸を生死の世界に喻え、樹根を命に喻え、黒白二匹の鼠を昼夜に喻え、四匹の毒蛇を地水火風の四大に喻え、蜜を色声香味の五欲に喻え、蜂を邪思に喻え、火を老病に喻え、毒龍を死に喻えたものである。大王よ、生老病死とは甚だ怖ろしいものである。常にこう思うがよい、五欲に呑みこまれてはならないと」、と。 この中で四匹の毒蛇に喻えられた四大とは、物質を形成する地、水、火、風の四種の要素であり、地は固体的な性質を有する要素、水は液体的、風は気体的、火は熱的要素を指しますが、人間の肉体はこの四種の要素が調和すれば健康であり、不調和ならば病気であるとされます。
この黒、白二匹の鼠の譬喻は、非常に有名であり、老人なども子供の時分より知っていたような気がしますが、日月の進行は遅々として進まざるに似たりといえども、容赦することのないところが、鼠の習性に適合しており、優れた譬喻ではないかと思っております。
|