最近の事ですが、「中日新聞」において、カツ丼だったか、刺身定食だったか忘れましたが、極めて普通の食べ物を食べるのに、”たしなむ”という言葉が使われていましたので、老人は憮然たる思いがして、つい溜息をついてしまったのですが、本来”たしなむ”の語は、「武道をたしなむ」、「酒をたしなむ」とか、あるいは「紳士のたしなみ」とか、「少しは、たしなむぐらいなら」などと使われますので、「茶道」とか、「華道」とかの稽古事を、「少しかじっただけ」とか、「少しはかじった」というほどの意味で使われるのだろうと思っていたところへ、「うどんをたしなむ」とか、「そばをたしなむ」と言われましたので、つい言われた方が途方に暮れたというような次第で、はからずも国語論に思いを致すことになりました。
本日( 10/30 )も、中日新聞紙上では、アルゼンチンのクリスチナ・フェルナンデス( Christina Fernandez )元大統領を「クリスチナ氏」と呼んでいましたが、女性か、男性かはさて置くとして、家族名でなく、個人名の方に氏をつけるのは、ずいぶん狎れ狎れしく見えるばかりでなく、無礼な態度であるとも受け取られかねません。
そもそも、「氏」とは、姓氏、出自、家系、系統の意味であり、個人名ではなく、姓/家名に付けるものとされておりますので、安直に「さん」の代わりに使われてよいものではありません。
また同紙は、ミャムマーのアウンサンスーチー氏を、「アウン・サン・スー・チー氏」とか、狎れ狎れしくも「スーチー氏」とかいうように呼んでいましたが、ミャムマーの習慣では家族名がなく、個人名があるだけなので、「アウンサンスーチー」と呼ぶべきであると言われています。 文句が出ないことをいいことにして、いつまでも「スーチー氏」とか、「アウン・サン・スー・チー氏」とか呼ぶのは、良識を疑われても仕方がありません。
Wikipedia:アウンサンスーチーの名前は、父親の名前(アウンサン)に、父方の祖母の名前(スー)と母親の名前(キンチー)から一音節ずつ取ってつけられたものである。 ミャンマーに住むビルマ民族は、性別に関係なく姓を持たない。アウンサンスーチーの「アウンサン」も姓や父姓ではなく、個人名の一部分に過ぎない。彼女の名前は「アウンサンスーチー」で、原語では分割することはない。したがって、彼女のことを「スー・チー」「スーチー」などと呼ぶのは誤りとなる。
日本でも、太郎の長男は小太郎、次郎の次男は小次郎、太郎の次男は太次郎、三男は太三郎、三男の四男は三四郎と呼ぶ習慣がありましたが、それに類するものと思えばよいでしょう。 やはり「三・四郎」と書かれるのは嫌なことではないでしょうか。
老人は、中日新聞しか取っていないので、他紙の事情については、まったく分かりませんが、編集者の質の堕落は十分に想像することができます。新聞の編集者の質とは、編集者の国語力に他なりません。同じ事を、たとえ百通りの言い方で表現できたとしても、正解はその中のたった一つに過ぎないと思い、その一つに到達すべく日夜努力を重ねるのが、新聞の編集者というものではないでしょうか。
言葉が乱れれば精神が乱れ、精神が乱れれば行動が乱れます。行動の乱れた国を、誰か尊敬するでしょうか。
国民の国語力の向上は、国力の増大と密接につながります。国語力の向上は、適切な国語教育の成果に他なりません。国語教育とは論理構成力と意志疎通力の増大を意味します。これほど大切な国語教育が戦後70年間ないがしろにされて来たのです。ああ、この国はいったいどこへ行こうとしているのか、‥‥。
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