名残の薔薇


近くの公園のモニュメントは、90度に交差した楕円形をモチーフにしており、上端近くにUFO型の展望台が設けられておりますが、老人の目には、子供の頃読んだ海野十三の冒険小説「深夜の市長」を彷彿させるものがあり、この通りを通るたびに、ある種の愉快を感じずにはいられません。 言い古された修辞詞の、まさに「物言わぬ」造形物にして、かくも深く老人の心に入るのですから、まして「物言う」言葉の心を打つべき力たるや、言うを待たないのであり、その力を磨くことこそ、学校において国語を学ぶ理由であり、目的なのではないかと思っているのです。

しかるに、老人の学生時代を思い返してみますと、この大切な国語を学ぶべき時間ほど退屈なものはありませんでした。 他の人もそうだと見えて、その時間になりますと、英語だとか、数学だとか、国語以外の教科書を開いている者を見かけることすら、特別なことではなかったように記憶しております。

老人は、この事を考えるたびに、常に憤懣が心中に滞るのを感じますが、この憤懣は、いったい誰に差し向ければよいのでしょう。



国語の性能と、その固有の美を知らず、自ら国語を学ぶべき術を知らず、他人に学ばせるべき術をも知らず、加うるに何等危惧する所なく、要職に就ける文部官僚は、当然、憤懣の標的となりうべき者達ですが、根は今に始まったことではありません。 わが国民をして愚民たらしむべく制定された終戦直後の国語指導要領にまで、想いを致さねばなりませんが、しかし問題を大きくするのは止めましょう。 今はただ現在何をすべきかだけに想いを致し、国語とは、国語教育とは何なのかを考えることにしましょう。

読み書き、謂わゆる国語は自ら考え/意見を明了にする為めの、それを相手に正しく伝える為めの必須の道具であるばかりでなく、他人に重んじられ、一目置かれる為めに身につけるべき教養の基礎でもあります。 国語に疎ければ、相手を説得することもできず、心中を恋人に告白することもできないでしょう。 世間の人に、「言葉を知らないやつ」、と言って憚られるのは、国語に疎いからです。争いごとの大部分は、間違った言葉遣いから起ります。言葉の重要さを示す為めの例は無数にありますが、これ等の一二を引くだけでも十分ではないでしょうか。

われわれの先人は万葉集から始まって、古今集、新古今集と、その努力の跡をたどってみれば歴然たるように、自ら所有の言葉の力を信じ、その力と美とを増大せしむべく、日夜励んで来たのでありました。 また吾人の父母等によって親しまれた言語である文語体に潜む力感や美感は、伸びきったうどんのように腰のない現代国語のはるか及ばない所であり、それを捨て去った愚に想いを遣るたびに、胸中に湧き騰がる無念を禁じることができません。



国語教育とは、この言葉の力を自在に操ることができ、存分にその美を感じ取れるように教育することに他なりません。 老人の貧しい経験から言えば、「古今集」、「新古今集」は中学卒業までに全文を読ませ、凡そその一割ほどを暗記させるべきでしょう。散文は「太平記」か、馬琴の「里見八犬伝」はどうでしょう、中でも血湧き肉躍るいくつかの場面を暗唱させれば、学童の想像力を養い、日本語固有の調子というものを身に着けられるのではないでしょうか。現代文はどうでしょうか、夏目漱石の「三四郎」、泉鏡花の「高野聖」、芥川龍之介の「湖南の扇」等はどうでしょう、中学卒業までに読ませれば、皆無類に面白く、情操を養うに余りあることでしょう。翻訳文にも目を配らなくてはなりません、「嵐が丘」は、全文を読ませ、いくつかの章を暗記させれば、生徒達の想像力をかき立てながら、描写する力を身に着けることになりましょう。この他に、漢文は必須です、「淮南子」より「泰族訓」を読ませ、「李白」より「秋浦の歌」を暗記させましょう。英語教育は国語教育の延長ですが、よい教師が余りにも足りません。 Agatha Cristie, Conan Doyle, G. K. Chesterton 等の面白い短編をできるだけたくさん読ませれば、外国を知る為めの良い端緒となるでしょう。

国語以外は、中学卒業までに加減乗除を学習させ、併びに九九表を暗記させれば、それで十分事足りましょう。物理も化学も社会も生物も地理も、ただ国語を教える中で、自然に学ばせれば、それで十分です。物理や化学を記述するには論理的に記述せねばなりませんが、物理や化学を教えたからと言って、論理的思考力がつくというものではありません。論理的思考力は、知識≒記憶中の言葉を自ら整理しながら培うものだからです。多数の類似の言葉中より、一つの言葉を択んで文章を作りますが、何故その一つを択んだのか、何故、その順に言葉を並べたのか、論理的に説明できなければなりません。そのようにして培うのです。

高校以上は英語による講義が主となりますが、英語教師がたくさん育たないうちは、なんともなりません。しかし将来的には政治・法律・経済に関する授業は英語でなされるべきでしょう。なぜこの三科目かと言いますと、外国人と最も多く論じ合わなくてはならなくなるからです。この場合、日本語で考えるよりも、英語で考えた方が相手と意見を戦わせやすいのは、言うまでありません。併せてアリストテレスの「弁論術 The Art of Rhetoric 」や、カエサルの「ガリア戦記 The Gallic War 」等の古典の英訳を読んでみるのもよいでしょう。

言語教育は簡単な文法と、後はできるだけ多く暗唱・暗記することに尽きます。暗記とはlearn by heart の意味であり、心中において繰り返して習うことです。暗唱/諳誦とは暗記したものを手本を見ないで唱えることです。暗記して心中に収め、暗唱して韻律/調子を調え、両者を繰り返し習うことをもって会得するに至るのです。もし外国語を身につけようとすれば、これ以外の方法はありません。諸外国では西洋と東洋とを問わず、皆古今の名文を暗記し暗唱することをもって、外国語を身に着け、また同時に教養をも身に着けているのです。

老人の学生時代には、指名された一人が、一章づつ訳すというのが、英語教育の根幹をなしていたように記憶していますが、こんな間の抜けた授業法が、いったい何の役に立つというのでしょう。 むしろ、生徒二人を一組として、互いの暗唱を採点し合うようにすれば、教師一人が生徒一人に対するほどの功果を挙げられるのではないでしょうか。英国のパブリックスクールでは、新入生1人に対して、一人の4年生が割り当てられ、3年間持ち上がり式に寝食を共にしながら、上級生は下級生の勉強を手助けし、下級生は上級生の身の回りの面倒を見るという、謂わゆる Tutorial System を採用しているそうですが、及ばずながらも良き手本とすべきではないでしょうか。 日本は一見、教育が十分行き届いているように見えますが、効果的にはどうでしょうか、質的には最底クラスのシステムに頼っているように見えますが、老人をもって、その良き例証となすまでもなく、この国ほど英語教育において、成果の乏しい国が、他にあるでしょうか。中国人や、韓国人の間でも日本人の英語下手は、いい笑い話の種になっています。中学、高校、大学を通じて、いったい何時間無駄に過ごしたことになるのでしょう。この国の英語教育は方法論的に失敗なのですから、小手先でいくらいじくっても何ともなりません。外国を良き手本として、素直に取り入れるべきなのです。

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最近の事ですが、「中日新聞」において、カツ丼だったか、刺身定食だったか忘れましたが、極めて普通の食べ物を食べるのに、”たしなむ”という言葉が使われていましたので、老人は憮然たる思いがして、つい溜息をついてしまったのですが、本来”たしなむ”の語は、「武道をたしなむ」、「酒をたしなむ」とか、あるいは「紳士のたしなみ」とか、「少しは、たしなむぐらいなら」などと使われますので、「茶道」とか、「華道」とかの稽古事を、「少しかじっただけ」とか、「少しはかじった」というほどの意味で使われるのだろうと思っていたところへ、「うどんをたしなむ」とか、「そばをたしなむ」と言われましたので、つい言われた方が途方に暮れたというような次第で、はからずも国語論に思いを致すことになりました。

本日( 10/30 )も、中日新聞紙上では、アルゼンチンのクリスチナ・フェルナンデス( Christina Fernandez )元大統領を「クリスチナ氏」と呼んでいましたが、女性か、男性かはさて置くとして、家族名でなく、個人名の方に氏をつけるのは、ずいぶん狎れ狎れしく見えるばかりでなく、無礼な態度であるとも受け取られかねません。

そもそも、「氏」とは、姓氏、出自、家系、系統の意味であり、個人名ではなく、姓/家名に付けるものとされておりますので、安直に「さん」の代わりに使われてよいものではありません。

また同紙は、ミャムマーのアウンサンスーチー氏を、「アウン・サン・スー・チー氏」とか、狎れ狎れしくも「スーチー氏」とかいうように呼んでいましたが、ミャムマーの習慣では家族名がなく、個人名があるだけなので、「アウンサンスーチー」と呼ぶべきであると言われています。 文句が出ないことをいいことにして、いつまでも「スーチー氏」とか、「アウン・サン・スー・チー氏」とか呼ぶのは、良識を疑われても仕方がありません。

Wikipedia:アウンサンスーチーの名前は、父親の名前(アウンサン)に、父方の祖母の名前(スー)と母親の名前(キンチー)から一音節ずつ取ってつけられたものである。 ミャンマーに住むビルマ民族は、性別に関係なく姓を持たない。アウンサンスーチーの「アウンサン」も姓や父姓ではなく、個人名の一部分に過ぎない。彼女の名前は「アウンサンスーチー」で、原語では分割することはない。したがって、彼女のことを「スー・チー」「スーチー」などと呼ぶのは誤りとなる。

日本でも、太郎の長男は小太郎、次郎の次男は小次郎、太郎の次男は太次郎、三男は太三郎、三男の四男は三四郎と呼ぶ習慣がありましたが、それに類するものと思えばよいでしょう。 やはり「三・四郎」と書かれるのは嫌なことではないでしょうか。

老人は、中日新聞しか取っていないので、他紙の事情については、まったく分かりませんが、編集者の質の堕落は十分に想像することができます。新聞の編集者の質とは、編集者の国語力に他なりません。同じ事を、たとえ百通りの言い方で表現できたとしても、正解はその中のたった一つに過ぎないと思い、その一つに到達すべく日夜努力を重ねるのが、新聞の編集者というものではないでしょうか。

言葉が乱れれば精神が乱れ、精神が乱れれば行動が乱れます。行動の乱れた国を、誰か尊敬するでしょうか。

国民の国語力の向上は、国力の増大と密接につながります。国語力の向上は、適切な国語教育の成果に他なりません。国語教育とは論理構成力と意志疎通力の増大を意味します。これほど大切な国語教育が戦後70年間ないがしろにされて来たのです。ああ、この国はいったいどこへ行こうとしているのか、‥‥。


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大樋焼きの上物で、老人の秘蔵品ですが、土質が軽く、大ぶりながらも掌中にぴったり収まり、熱を手のひらにやさしく伝えるところとか、口触りがよく、非常に飲みやすいところが特徴です。見込みが指先で突いて固められており、その模様が茶筅によく働いて、非常に泡立ちのよいのも好感がもてます。ただ、小さな孔が非常に多いので、「あばた長楽」と呼んで愛玩しておりますが、もっと良い名があればそちらに替えたいと、常々思っております。

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≪タルト・タタン Tarte tatin の作り方≫
<材料:18cm の型>
  1. 薄力粉:100 g
  2. 無塩バター:50g
  3. 塩:1つまみ
  4. 卵黄:1個分
  5. 水:20g
  6. グラニュー糖(カラメル用):60g
  7. 水:少々
  8. 無塩バター:50g
  9. リンゴ:6個
  10. グラニュー糖:60g
<作り方>
  1. ボールに薄力粉100g と無塩バター 50g とを入れ、指先の熱を伝えないように注意しながら、カードで粉状になるまで、細分する
  2. 卵黄1個分と水20g とをボールに加え、カードを使って大きく混ぜながら、ひとかたまりにまとめ、ラップにぴったり包んで、冷蔵庫で寝かせる
  3. リンゴの皮を剥いて4等分し、芯を取り除く
  4. 鍋にグラニュー糖60g と水を約10cc加え、火にかけて焦げ茶色になったら火を止めて、無塩バター50g を加え、カラメルにバターを溶かしこむ。
  5. 鍋にリンゴを加えてカラメルを絡め、グラニュー糖 60g を振りかけ、クッキングシートの蓋をかぶせて、弱火に掛け、40分~1時間ほど煮ながら、リンゴの位置をかえ、均等に色づくようにする。
  6. 鍋でリンゴを煮ている間に、冷蔵庫の生地を板の上に取り出し、麺棒で型より大きめに伸ばし、型を当てながら、周囲を切り取る。
  7. 型に煮えたリンゴを隙間なく詰め込み、生地をかぶせ、200度に予熱したオーブンで30分焼く。
  8. 焼けたタルトを常温まで冷まし、更に冷蔵庫で1晩冷やす。
  9. 冷蔵庫から型を取りだし、皿の上に伏せて置き、蒸しタオル等で型を暖めて、カラメルを緩め、型を外す


   一切れ切り取って食べましたが、味はともかく、リンゴが柔らかくなりすぎて、失敗作であったと言わざるをえません。しかし好みは人それぞれ、失敗作でも美味しいと言ってくださる方がいらっしゃらないとも限りません。どうぞ、ご自由に。
では、今月はここまで、また来月お会いしましょう、それまでご機嫌よう。
  (名残の薔薇  おわり)

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