サッカーのW杯( World Cup )で、日本はポーランドと戦い、失点1を背負いながらも、謂わゆる「最少失点で負けるための時間稼ぎ」という戦法を用いて、ラスト10分を満員の観客のブーイングをあびながら、無気力なパス回しに終始したあげく、世界中から、「フェアプレーをないがしろにして、フェアプレーポイントで勝ち上がった」、と揶揄されるに至っておりますが、「日刊スポーツ」によれば、「試合終盤の10分間は本当に恥ずかしい内容だった(デイリー・メール:英国
)」とか、「最後に日本がしたことはW杯で誰も見たくない行動だった。FIFAの規定は恥ずべきもの。おかげで日本は世界的な笑いものになった( BBC放送:英国)」とか、「後味が悪い。恥ずべきだ。素晴らしいW杯が続くが、日本-ポーランド戦でちょっと汚された(元イングランド代表主将のブッチャー氏=英BBC放送)」とか、数多くの記事が世界中に飛び交っているということですので、それを信じる限り、日本の行為は、恥ずべき(
disgraceful )ものであったと言わざるをえません。
世界中のサッカーファンは、無気力な試合を観るために、貴重な時間を使い、高価なチケットを買って、席に坐っているのではありません。言わばフェアプレーを観る為に会場に行くのですから、日本がブーイングを浴びせられたとしても、まったく無理からぬことであり、当然のことなのです。
フェアプレー( Fairplay )のフェア( fair )とは、美しい( beautiful )の同義語ですが、単なる美しさではなく、映画「マイ・フェア・レディー(
My fair lady )」でオードリー・ヘップバーン( Audrey Hepburn )が演じたような、飛び切りの美しさでなくてはなりませんし、フェア・ヘヤー(
Fair hair )と言えば、美しい黒髪ではなく、金髪そのものでなくてはならないように、晴れがましい美しさをも表すのであり、引いては公明正大と訳されるのも、この故なのです。
故に、疑わしいフェア・プレーも、恥ずべきフェア・プレーも、卑怯なフェア・プレーも、臆病なフェア・プレーも存在しませんし、勿論、観客の観たいのも、そんなものではありません。観客の観たいフェア・プレーとは、圧倒的な強さであり、その強さに伴う、優美さ(
grace )なのです。
「恥ずべき( disgraceful )」という単語にも、注意せねばなりません。専ら、「優美さを欠いた」とか、「野卑な」という意味で使われていますが、「Grace」の単語には、神の恩寵の意があるのを忘れてはなりません。故に「恥ずべき( disgraceful )」の語は、「神の恩寵を失った」とも、「神をも畏れぬ」とも訳しうるものであるのです。果して神の恩寵を失った者に、同情するような人がいるでしょうか?もし居れば、必ずその人も、神の恩寵を失っているはずです。また「恥知らずな( shameful, shameless )」という語は、主に性的な不品行を指す語ですので、「 disgraceful 」と同列に扱うべきでないのは言うまでもありません。
或は、宣戦布告前に真珠湾の奥深くに潜航艇を潜ませ、布告と同時に敵艦めがけて魚雷を発射した行為も、「 Disgraceful 」な行為と映ったのではないでしょうか、それ以後、米国民の声が、「日本伐つべし」の一色に染まったのも、その所為ではないでしょうか、もしそうならば、長崎、広島に投じられた原爆は、この国が自ら招いたものに他なりません。
我々の島国根性は、他国の人の気持を推しはかることまでには、ほとんど、心を及ぼすことがないが故に、「ルールブックに書かれていなければ、何をしても良い!」と思いがちですが、その行為の因果律に及ぼす影響について考えることは、決して等閑にしてよいことではありません。
老人は、我国の政策が、フェア・プレーの精神を忘れたものであることを、常々憂えている者ですが、スポーツの世界にも、しばしばそれが形として顕われるのを見るにつけ、この国の先行きに暗澹たる思いを致さざるをえないのです。
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