両界山横蔵寺


即身仏というと、湯殿山の鉄門海上人や、鉄龍海上人等が名の有る所でございますが、先月詣でました谷汲山から車で10分の所にも、即身仏が安坐されているのでございます。

ということで、本日は、ドライブに絶好な秋晴れの好天気に恵まれましたので、また秋雨の降らぬうちにということで、車を駆ってやってまいりました。

横蔵寺(よこくらじ):<寺名>美濃国揖斐郡横蔵村神原に在り。又横倉寺に作り、両界山と号し、天台宗に属す。延暦二十四年十一月、最澄の草創に係り、自刻の薬師如来像を安置し、時に当地藤原助基夢に十二神将及び胎蔵金剛界曼荼羅を感見し、仍て伽藍を経営し、両界山と号せりと伝えらる。天暦元年七月村上天皇の勅に依りて会式を修し、爾来恒例となる。盛時には七堂伽藍三十八坊甍を並べ、寺領一千石、末寺三百余を領し、山麓に日吉山王を勧請し、叡山に擬せられたりと云う。嘉吉元年五月後花園天皇より台門弘通殿の宸額を賜い、元亀二年九月織田信長延暦寺を焼き、天正十二年再興に際し、当寺の本尊を以って根本中堂に移安し、越えて山城某寺安置の薬師如来像を当寺に安置す。当時兵乱相次ぎ、房舎屡戦禍に罹り、寺運衰微せしが、慶長十五年徳川家康は附近の山林及び阪本(横蔵の旧名)一村を施入し、後朱印四十石を附せらる。寛文年中定祐は寺基を山上より今の地に移し、堂塔を営修し、稍旧観に復するを得たり。延宝年中仁王門を再建し、文化年間客殿、庫裡、歓喜天堂等を増築し、現今此の地に本堂、三重塔、念仏堂、宝蔵、寺門等あり。又寺宝中、木像薬師如来坐像、大日如来坐像(弘安七年三月の銘、三重塔本尊)、神沙大将立像各一躯、十二神将立像十二躯、四天王立像四躯、金剛力士立像二躯、並びに板彫法華曼荼羅一面は国宝に指定せらる。沙石集第二、寺記、国宝目録等に出づ。(望月仏教大辞典)

辞典には、即身仏に関して一切触れておりませんので、横蔵寺のパンフレットに依り、補間しておきましょう、――
●妙心上人の舎利仏(ミイラ)
   妙心上人は天明元年(一七八一)に横蔵に生まれました。両親の没後、仏道修行のため巡礼の旅に出て、西国、坂東、秩父の三十三ヶ所、四国八十八ヶ所を巡り、やがて信濃の善光寺の万善堂(大勧進)で受戒されました。その後、富士山に登り、自ら富士大行者と称し、富士講の先達を勤めました。山梨の都留郡鹿留村に住し、御正体山にも登りましたが、文化十二年(一八一五、或は文化十四年)御正体山の洞窟で断食し、入定されたのであります。三月二十九日(或は三月二十四日)のことと云います。上人の遺体は村人の手によって祠られていましたが、明治の初め山梨県庁へ移され、明治十三年天皇行幸の際、天覧に供されたと云います。これが縁で明治二十三年出生地の横蔵寺に祠られることになったのであります。全く人工の手を施すこと無く、現在に至っている訳であり、上人の信仰の厚さを物語っているのであります。現在も自然のまま舎利堂に安置されております。

とまあ、このように書かれておりますが、‥‥
三十五才で入定とは、これまた随分若いように思われますな、‥‥
いったい何なんでしょうな、この死に対する情熱とは、‥‥



門柱の所の階段を登ると、掘り割りのようになった清流に朱色の欄干が懸かり、人を涼しい木陰へと導きます。

短い橋を渡り切ると、本坊を囲む白壁塀の石垣に突き当たり、左手に折れると100m足らずの所に楼門形式の山門が見えます。その途中、左側に鎮守社がありますが、写真の中の小さく石灯籠の見える場所がそれです。



この寺の山門は、二階楼造り、謂わゆる三門形式は、空門、無相門、無作門という真理に至る三種の智慧門を正面三間の門を以って象徴的に表し、二階には般若の智慧を象徴する文殊菩薩の像を安置するのが通例ですが、この寺では、二階に梵鐘を吊して鐘楼を兼ねさせています。他に無い訳でもないでしょうが、或は少しぐらいは珍しいのかも知れません。



三門の左右二間は、かつて仁王(金剛力士)像が安置されていましたが、重文(旧国宝)に指定されているためかどうか知りませんが、今は宝物庫の方に収蔵されております。

さて、即身仏は中国にもあるということですが、その起源はといいますと、やはり印度ではなかろうかと思うのでございます。「弥勒成仏経」や、「大智度論巻3」等には長老摩訶迦葉が耆闍崛山頂の石窟に入り、禅定に入って弥勒の出現を待つというような記事が見受けられますので、且く「大智度論」に依りますと、――
長老摩訶迦葉は、晡時に禅定より起ち、衆中に入りて坐り、無常を讃じて説かく、諸の一切の有為法は、因縁生なるが故に無常なり。本無きものは今有り、已に有るものは無に還るが故に無常なり。因縁生の故に無常なり。無常の故に苦なり。苦なるが故に無我なり。無我なるが故に有智の者は、応に我我所に著すべからず。若し我我所に著せば、無量の憂愁と苦悩とを得ん。一切の世間の中は、心応に厭うて、欲を離れんことを求むべしと。是の如く種種に世界中の苦を説いて、其の心を開導し、涅槃に入らしむ。此の語を説き竟りて、仏より得し所の僧伽梨を著け、衣鉢を持ち杖を捉りて、金翅鳥の如く虚空に上昇し、四種の身儀を現わして、坐臥行住し、一身もて無量の身を現わし、東方の世界を満たし、無量の身を還た一身と為し、身の上に火を出して身の下に水を出し、身の上に水を出して身の下に火を出せり。南西北方も亦た是の如くして、衆心に世を厭わしめ、皆歓喜せしめ已るに、耆闍崛山の頭(いただき)に於いて、衣鉢と倶に、是の願を作して言わく、我が身をして壊せざらしめよ。弥勒成仏せば、我が是の骨身還た出で、此の因縁を以って、衆生を度せんと。是の如く思惟し已りて、直ちに山頭の石内に入ること、軟埿に入るが如し。入り已りて山還た合わさる。
こんな事が書かれておりますな、‥‥これにはまだ続きがあり、弥勒如来に依って、石窟が開けられますと、摩訶迦葉の骨身が出てきて、種種の神変を現して、時の衆生を教化したとありますが、此の国の諸上人の目的も、その辺にあったのかも知れません。ご興味のあるお方は、更に御自分でお調べになればよろしいでしょう。



山門を過ぎますと、短めの石段があり、香堂の向こうに本堂が見えます。



石段の途中からは、三重塔が見えてまいります。谷汲山の方が三十三番札所とか、土産物屋が軒を列ねた参道とかを持ち出せば、この寺は入定仏と三重塔とで対向するといった所ですな、‥‥。



この寺の紅葉は、筆舌に尽くせぬ美しさだそうですが、日の光に透けて輝く青葉の美しさも、また中々のものを感じさせますな、‥‥ただ塔の細部もお見せしたいので、ぎりぎりのバランスを取って、写真の方は、まあこんなものでしょうか、‥‥。



香舎の所で後を振返ると、山門の桧皮葺に緑の苔が輝いて、大変美しく見えましたので、写真に撮りましたが、これがカメラの限界でしょうか、見た時ほどには美しさが感じられません。

額縁の下辺に見える物は、青銅香炉の縁の所です。鐘楼門に梵鐘の吊り下がっているのが見えます。鐘の下の丸い点状の物は撞木です。



「南無薬師瑠璃光如来」の幟が二本建っています。「薬師如来本願経」に云う、「仏の曼殊室利に告げたまわく、東方に此の仏土を過ぐること、十の恒河沙に等しき仏土の外に、世界有り、浄瑠璃と名づく。彼の土に仏有り、薬師瑠璃光如来と名づく」に依ったものでしょう。

但し六十年に一度きりの秘仏ということですが、次の開帳が何年何月なのか、調べられませんでした。まあ御縁が無ければ、ということですか、‥‥



以前(50年ぐらい前)来た時には、ここに入定仏が祠られていましたが、今は別の所に移されているようです。随分下手な筆で「観音堂」と書かれておりますが、今の御住職の手ですかね、‥‥



いよいよ最後の写真、向こうの建物が「舎利堂」、手前が「琉璃殿(宝物殿)」、左が「聖天堂」、以上でございますが、皆撮影禁止の札が懸かっており、あまつさえ番人までが、片時も観視の目を弛めませんので、皆様方への御紹介も、これまでということに相成ります。

入定仏は直近の場所から、じっくりと拝観できますので、そういう方面に興味をお持ちの方は、行って見られればよろしいかと思いますが、興味のない方まではどうでしょうか、‥‥



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   横蔵寺から帰る途中、買物にスーパーに寄りましたところ、京都展というようなものが開催されており、無性に「くず餅」が食べたくなりましたので、「黒豆くず餅(清風堂)」というのを買って帰りました。
   黒蜜と黄粉をかけて食べました。甘くて美味しかったです。
では今月はここまで、また来月お会いしましょう、それまでご機嫌よう
  (両界山横蔵寺  おわり)

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