甘南美寺


岐阜市の北方約20km、人里を少し離れた山の中腹に甘南美寺(かんなみじ)という寺がありますが、この辺には楠木正成の夫人久子が、この地に隠棲するに当り、生地河内国甘南備村の地名を近在の集落に割り振って与えたが故に、現在なお平井、長滝、松尾等の旧村名を遺すというような口碑が伝えらえておりますし、甘南美は甘南備の訛転だとすれば、この寺も亦た楠木氏の縁に連なる者として、一度ぐらいは参詣してもよかろうということで、老人は、涼しい書斎を離れ、車中の暑さに悲鳴をあげながら、はるばるやってまいったのでございますが、‥‥

この辺は標高がやや高くて涼しいからでしょうか、鳴り止まぬ蝉の声には「ひぐらし」の声が混じって聞えてきますし、山から落ちる滝の声も滔々と、霊地特有のひんやりとした冷気が池の辺には漂っています。



低い石垣の上には仁王門がありますが、この石段を登りつめますと、ちょうど橋の欄干のある辺で、ちょっと変った形の、妙に愛想の良い狛犬が出迎えてくれます。三条大橋のたもとの高山彦九郎の銅像のようなものでしょうか、‥‥





ついでにと言ってはなんですが、仁王様の写真も撮ってきましたので、御覧に入れましょう。向って左側の仁王様の右手に抱えられている長い棒は、金剛杵(こんごうしょ)、梵語では vajra-kiila と言い、英語では a thunderbolt(落雷)と訳しているようですが、単に kiila と言う場合は a sharp piece of wood と訳されていますので、漢訳の方が直訳であるように思えます。また金剛と訳された vajra は、英語では the hard or mighty one と訳されており、何か堅い、又は強い物を指しているようでありますので、漢訳では、それにダイヤモンドを意味する金剛を当てたのでしょう。金剛、或は金剛杵は、伝説では金剛力士という神が、山を摧くのに用いると言われています。

昔、テレビに出ていた誰かに似ているような気がしますが、いったい誰でしたか、‥‥この所めっきり記憶力が衰えてきたものですから、簡単な事を思い出すだけでも、一苦労、手間がかかってしようがありません、‥‥まあ、そういうものなんでしょうな、‥‥。





仁王門をくぐりますと、平らな所にお百度石が立っており、その向こうに見える本堂の向拝には三重の屋根が懸けられています。本堂に祀られた本尊は十一面観音だそうで、南無観世音菩薩の幟(のぼり)は、その為だったんですな、‥‥。何はともあれ、石段を登って行きましょう、‥‥





短い二重の石段を登り切ると、狭い前庭に至り、本堂の横手に方形造の小堂があり、中に祀られているのは、音楽の神様弁才天、なかなかお顔のよろしい女の神様ですが、あいにく写真に撮るには光が足りませんので、お目に掛けることができません、残念ですな、‥‥。



本堂を横手から見ますと、内陣と外陣とが二棟並行しており、その上を縦の棟が串ねていますので、形式的に石山寺の本堂に似ていますが、一方は桧皮葺、一方は銅板葺で見た目は相当異なっています。


正面廊下に相当する外外陣の天上には、扁額の左右に天女が描かれており、大変鮮やかです。200%ぐらいに拡大率を上げますと、目鼻立ちがはっきりすると思います。



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長滝七社神社 - 岐阜県山県市長滝
七社神社横に、八王寺宮と刻まれた楠公夫人久子(南江久子)の墓がある。正成の妻が楠木一族郎党の菩提を弔った後、戦乱の中、この地を離れ、美濃乃国伊自良村長滝釜ヶ谷奥の院に隠棲。地域の尊志を得て、久子の生地甘南備村の字名、長滝、平井、掛、松尾等を伊自良に与えた。奥の院にある甘南備神社は、楠木家の遠祖と称える橘諸兄の父、美努王を祀る。甘南備村の口碑には、楠木正成夫人久子は、観音像を念持仏にして、行脚に出たが、終わるところ知らずとある。墓は、伊自良湖の登り口、長滝七社神社境内西にある。楠公夫人がこの地に訪れた最大の理由は、新田義貞亡き後、その弟の脇屋義助が大将となり、北陸で敗れ、美濃の南朝一派と共に、最後の根尾城の戦いでも敗れ、根尾川の下流、本巣地区の北朝の根城を避け、一緒に戦った伊自良次郎左衛門の家臣と共に、伊自良に流れ、吉野に帰ったその経路に従ったものと思われる。(Wikipedia 楠木正成より)

甘南美寺の山を下り、麓に差しかかりますと、「七社神社」という社があり石碑が立っています。ここには楠公夫人の墓があると言われておりますので、写真を撮って来ましたが、先に本殿に参ることに致しましょう。



石碑の所から、苔の生えた道をたどって行きますと、やがて赤い鳥居が見えてまいりますが、なんと柱の前後に控え柱があるではありませんか、この形式を「両部鳥居」と言うそうですが、有名な厳島神社の大鳥居以外には見たことがございません。そのようなわけで少なからず驚きましたが、むしろ気の小さい老人にとっては、肝をつぶしたと言う方が相応しいかも知れませんな、‥‥いやはや、こんな無人の山中に、何というものを見るものかは、‥‥



真新しく塗られた丹塗りの鳥居の向こうに、拝殿があり、その向こうに本殿に向う高い階段が見えます。変った形の注連縄が垂れ下がっていますが、これにも何か意味があるのでしょうか、‥‥



近年、拝殿も建て替えられたものと見えて、白木の柱や板には新しさが感じられます。



拝殿の奥の高い所に、本殿が見えますが、雪害を除くためでしょうか、覆舎に蔽われています。両側に三間、中央の一間と併せて、これが「七社神社」の名の所由でしょう。何か由緒書でもないかと探しましたが、そのようなものは何も見受けられませんでした。この神社は近在の人達だけに守られて来たのでしょうか、‥‥。



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それではいよいよ楠公夫人の墓を探しに行きましょう。石碑から鳥居までのちょうど中間ぐらい、横に折れる小路があり、向こうの方に覆屋に蔽われた祠が見えます。あれがそうでしょうか、‥‥



周囲には祠の主を示すものが、何一つありません。記念に写真を撮っておきましょう。





祠の側には、二基の墓標があり、向って左は「稲荷大明神」、右は「八王子宮」の文字が読み取れますが、久子の墓を示すような字は見当たりません。

後にインターネットで調べたところ、「八王子宮」の石碑が久子の墓だとありますが、やはり眉唾者ですかな、それに七からいつの間にか八に増えております。外部の人間にはなにがなにやらさっぱり分りませんが、あえて詮索するものでもありますまい、‥‥

又インターネットに依れば、久子は河内の甘南備村に戻って亡くなり、その墓は「楠妣庵(なんぴあん)観音寺」という寺に存在し、その側には「昭和天皇お手植えのくすの木」が大木になりかかっているのも見られますので、やはり「八王子宮の碑」は、夫人の墓である可能性は低いものとおもわれます。



復たしても終戦記念日の月がやって参りましたが、それに因んで「戦争を避ける法」を御伝授したいと思って、種種の文献資料を集めておりましたが、思いの外、老化の進行速度が疾く、最早知的作業に適応不能であることを悟りましたので、その骨子のみを皆様に問いかけ、それで終りにしたいと思うのです。
  1. 大政翼賛が一番恐ろしい:翼賛とは翼従であり、鳥の両翼が身にぴったり寄添うように、政府の政策に寄添うことである。
  2. 全員一致の見解は正邪に拘わらず恐ろしい:世界中の戦争は全て皆正義を以って旗印としていることからも明らかである。どのような見解の人も、自ら邪義であるとは決して思わないものである。
  3. 自分の意見を持たない者は愚者よりも始末に悪い:他人の見解を無批判に受容れることこそが、翼賛の始まりであると知れば、その意味は自ずと明らかである。
  4. 故に、どんなに愚か者であったとしても、自分の意見を持つべきであり、賢明な者の意見と同様に尊重されなくてはならない。
  5. 此の国が無謀な戦争に突き進んだのは、他人の意見に敢て反対せず、和を乱さない者が善良であり、身分や場所柄を顧みず、自分の意見を有する者を悪邪と看做す、此の国独特の風潮に由るものである。
  6. 故に、今にしてなお同様の国民性を有する此の国には、戦争を回避すべき方法が存在しない。
  7. 先進国は皆、国民の一人一人が独自の意見を有すべく、初等教育の時より配慮されているが、相変らず此の国では、全体の和を乱さないような教育方針が堅持されている。

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(大垣:御菓子 つちや)
  和菓子屋さんで、涼しげな菓子を見掛けましたので、写真に撮ってみました。
では今月はここまで、また来月お会いしましょう、それまで御機嫌よう。
  (甘南美寺 おわり)

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