老人は、物の価値を判断して、一喜一憂するという愚を犯していたのでございますが、いったい茶道具ほど価値の分かりにくいものは、世界中を探して見ても、他にあるとは思えません、‥‥
中でも骨董に属するものは、粗忽者に割られたり、無智の者に捨てられたり、あるいは天災、人災、戦火に遇ったりして、少なくなる因縁は山ほどあるのに反して、多くなる因縁は皆無ですからな、‥‥さだめし骨董屋さんなどは、手持ちの品を然るべきところへ片付けてしまえば、もう商売替えするより外に道はないわけで、そうなれば世の中に骨董屋など有るはずがないと思われるのでございますが、実情は然に非ず、そのような者がしょっちゅうテレビなどに出没しているということは、贋物の骨董が真物として、大手を振って大量に売買されているということなのですな、‥‥
聞く所に依りますと、「箱書き」とか、「極め付け」と呼ばれるものがあって、これさえあれば贋物でも、真物としてまかり通るということですので、骨董屋の輩が無限に真物を売り続けられるというのも道理なのでございます、‥‥物の真贋を横に置いて、「箱書き」、「極め書き」の書判の鑑定のみが価値の基準となるようなことは、譬えば中世の錬金術か、カトリックの「免罪符」や、一遍上人の「決定往生」のお札の如きものを有難がるようなもので、崇拜する茶道の家元の「書付け」は、実物の真贋に勝るという、我が国特有の
Sentimentalism ですので、いくら百万とか、二百万したところで、「箱書き」のお蔭で価値を有するような物を、外国人は誰も欲しがりません。寧ろ、この国の人が、心に留めようともしない、普遍的価値を有する、真に優美な逸品のみを買いあさることになりますのでね、幕末の時見たように、本物の流出は、やはり避けようのないことなのかも知れませんね。
|