去年の暮れはちょっとばかし忙しかったものですから、それでつい気が弛んだのでしょう、大晦日の晩にオークションの即決取引で鉄瓶などを求めましたところ、その夜のうちに梱包発送してくれまして、まさかの元旦に荷物を受け取る運びとなったのでございますが、閑閑たるべきわが家の正月は、これですっかりおじゃんになり、まさに鉄瓶狂騒曲の幕開けというところでございますな、‥‥。
老人は先行き、時間に余裕がございませんから、短気になるのも、これはまあ仕方のないことかも知れませんが、何も正月早々、そうまで焦らなくてもと思いながらも、すでに自分を失っておりますので、気の逸るがままに、お屠蘇もそこそこ、気もそぞろに鉄瓶に水を張り、火に掛けて見守ること数分、やがてしゅんしゅんと湯のたぎるの音が聞えてまいります。やれ嬉しや、間違いなくこりゃ鉄瓶じゃわい、というところでございますが、‥‥。
鉄の地肌といい、姿といいまことに結構、、これで書斎に電熱でも持ち込めば、台所で家内の手を煩わさずとも、これからは抹茶を自分で立てることもできますので、非常に気を良くしておりましたところ、ふと魔が差したのですかね、湯の入った鉄瓶を頭上に持上げて下からのぞいて見ますと、中心当りに微かな湿り気が、‥‥一瞬血の気が引き、じんじんと耳鳴りの音まで聞えてきましたが、古い鉄瓶に、水漏れは有り勝ちなことですし、軽度の水漏れは、お粥を煮れば直るとも聞いておりますので、なんとか気を取り直しまして、五勺ばかりの粥を煮させ、正月のお雑煮に替えて、少量のお粥などを食べ終えた頃には、水漏れもどうやら止まったかように見えますので、やれ一安心と胸を撫で下ろしたのでございますが、ここまでが、元旦の朝から晩までの顛末でございますな、‥‥元日から、どうも奇妙な幕開けとなったもので、今年一年の安否が気遣われます、‥‥。
明くれば正月の二日でございますな、昨日の水漏れが気になって、鉄瓶を撫でておりますと、蓋のざらつきがどうも気に入りません。緑青の粉が浮いているようにも見えますので、或はと思い、薄めたお酢に塩をつけて磨いて見ましたところ、見る見る布巾が真っ青になり、塗られていた漆が剥ぎ取られて、ぴかぴかの地肌が見えはじめました。もうこうなればどうとでもなれとばかりに、2000番と3000番の紙やすりを道具箱より取出して、漆を全部擦り取り、漆の塗り直しをすることに致しました。幸いにも昔茶碗を割った時に繕った金継ぎの漆がまだ少し残っていますので、それを薄く塗り、乾燥させるため箱に入れたところまでで、正月の二日が終りました。
更に開くれば正月の三日、漆は乾燥しておりましたが、金属ですので熱を加えて焼き付けないと、漆が固着しません。そこで燻製器で熱を加えたところ、変な黒ずみが出て来て薄汚れたようになり、まったく美しくありません。どうも漆の層が薄すぎたようですので、2000番、3000番の紙やすりで、またしても漆を擦り落とし、刷毛で塗り直すことにいたしました。
更に開くれば正月の四日、箱から取り出して見ますと、平滑であるべき漆の上にまぎれもなく、刷毛の跡が残っております。やはり2000番、3000番の出番です。今度は漆を少し薄めて塗り直しました。
更に開くれば、早くも正月の五日、箱から出して見ますと、薄め液との混合があまかったようで、よく見ると虎縞が出ていますが、平滑度は申分ありません。細かな不平は横に置き、熱を加えてやっと出来上がりました。漆の刷毛が滑って、摘みの梅の花の上にまで、漆が付いていますが、苦労の末ようやく出来上がったところです。最早文句を言うほどの気力は残っておりません。満足することに致しましょう。
わが家の些末事など、皆様方には何の御興味も無かろうとは存じますが、何しろ他人の不幸は蜜の味でございますのでね、あたふたと老人の慌てふためくさまなど、暗い御時世中の明るい話題として、或は喜んでいただけたのではないでしょうか、‥‥。
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