平成29年 元旦
あづさゆみ 長き春日にあくがるる 心を誰によせんとすらん
ひさかたの 空照りわたる春の日は いかにのどけきものにぞありける
良寛   
初春を 待ち焦がれけり梓弓 去年にかはりはなしと思へど
ひさかたの 光のどけきわが庵に かはりなき世をつまと喜ぶ
つばめ   
皆様、明けましてお目出度うございます。
旧年に相変わりませず、今年もひとつ、どうぞ宜しくお願いもうしあげます。

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在原業平は五十一歳の時、「桜花 散りかひくもれ 老いらくの 来むと言ふなる 道まがふがに」と詠み、老年の来るという道を花吹雪で紛らせてくれと桜に頼んだそうですが‥‥、流石は業平、わたくしにはとてもその才気がございませんと、いさぎよく降参いたしましょう‥‥、しかしですな、正月が来るたびに、一つづつ年を取るのは、なんともやむを得ぬ仕儀でございますのでね、桜の花やなんやかやに願ったりして、じたばたせず、さあ何とでもしてくれいと諦観これ努めるというのも、一つの道ではございませんでしょうか‥‥。

冗談はさておき、諦観しようにも諦観しきれないのが、この老人でございますな‥‥、去年も師走に入りますと、久しぶりに老人の物欲にスイッチが入り、火が着いたように、なんやかやと欲しくなって来たのでございますな、‥‥貧乏と物欲との板挟みということで、いやはやなんとも大変な苦しみを舐めさせられたのでございます‥‥。

事の発端はと申しますと、老人はその時、まだ小学生だった時のことを回想していたのでございますが‥‥、当時大変仲好くしていた同級生に尺八の上手な子がおりまして、「六段の調べ」だの、「千鳥の曲」だのを、いろいろ吹いて聞かせてくれたものでしたが、それを思い出しますと、もう居ても起ってもいられなくなり、無性に尺八が欲しくなったのでございますな‥‥、そこでインターネットで価格等を調べて見ますと、不細工な物が150000以上、とても手が出ませんが、更に500000~600000円出したとしても、箒の柄と似たり寄ったり、まったくどうしようもありません、‥‥そこで新品はあっさりと諦め、あらためてオークションで探すことにしたのですが、なんと一番最初に目を引いた飴色に輝く逸品が、4500円で手に入ったのでございますな‥‥。

実際に、その尺八を手にして見ますと、何処の名手の吹き料となされて来たものやら、ほれぼれするような姿形、色艶です‥‥これは絶対に好い音のする楽器に違いありませんのですが‥‥、しかし、そこが苦しみの始まりだとは夢にも思ってはおりませんでした‥‥、好事魔多しとでも言うのでしょうかな、オークションにすっかり味を占めた老人は、さまざまな物に狙いを定めては、落札しようとするのですが、なかなかそうは問屋が卸しません、資本限度の低い老人は、常に突き倒され、蹴落とされて、いいように弄ばれ、悔し涙にかきくれる日々が続いたのでございますな‥‥。げに物欲というものは恐ろしいものでございます。

物欲を抑えるには、その由って来たるところを知らねばなりませんわな、‥‥
ということで、「淮南子」をパラパラめくっておりますと、こんな文章が目につきました、「巻7 精神訓」ですね、‥‥

「夫孔竅者,精神之戶牖也,而氣志者,五藏之使候也。耳目淫于聲色之樂,則五藏搖動而不定矣;五藏搖動而不不定,則血氣滔蕩而不休矣;血氣滔蕩而不休,則精神馳騁於外而不守矣;精神馳騁於外而不守,則禍福之至,雖如丘山,無由識之矣。(夫れ孔竅は精神の戸牖にして、気志は五蔵の使候なり。耳目、声色の楽に淫すれば、則ち五蔵動揺して定まらず。五蔵動揺して定まらざれば、則ち血気滔蕩して休まず。血気滔蕩して休まざれば、則ち精神、外に馳騁して守らず。精神、外に馳騁して守らざれば、則ち禍福の至ること、丘山の如しと雖も、由りて之を識る無し。)」

やはり、ちょっと解説して見ましょうか、――
夫孔竅者,精神之戶牖也,而氣志者,五藏之使候也。
夫(そ)れ孔竅は、精神の戸牖なり、而(しか)して気志は、五蔵の使候なり。

  (ふ):それ。発語の詞。思うところを述べようとするの意。
  孔竅(こうきょう):孔も竅も穴を指す。ここでは耳目の意。
  (しゃ):~は/とは。説明を表す詞。
  (や):なり。断定を表す詞。である。
  戸牖(こゆう):戸口と窓。
  (じ):しかして。そして/しかも/しかし。連接を表す詞。
  気志(きし):気は精神の状態/気分。志は心が向かうこと。
  五蔵(ごぞう):肝・心・脾・肺・腎を指す。皮肉以外の身体。
  使候(しこう):使用人と斥候/偵察の人。
そもそも、耳目は、精神の戸口や窓であり、好奇心は、五蔵に使われる斥候である。
耳目淫于聲色之樂,則五藏搖動而不定矣;
耳目、声色の楽(たのしみ)を淫すれば、則(すなわ)ち五蔵揺動して、定まらず。

  (いん):ふける/ほしいままにする。過度を表す。
  (う):~を。目的語を表す詞。
  (そく):すなわち。連接/説明の詞。~ならば~である。
  揺動(ようどう):動揺。揺れ動く。
  不定(ふてい):さだまらない。落ちつかない。
  (い):なり。断定の辞。である。
耳や目が、声や色の楽に溺れれば、五蔵は動揺して落ちつかない。
五藏搖動而不定,則血氣滔蕩而不休矣;
五蔵揺動して定まらずんば、則ち血気滔蕩として休まず。

  血気(けっき):血流と気息。
  滔蕩(とうとう):滔は河水の氾濫するさま、蕩は水の揺れ動くさま。放縦にして自律することができないさま。
  不休(ふきゅう):やまず。止まらない。
五臓が揺れ動いて落ちつかなければ、血気が盛んに流れて休まない。
血氣滔蕩而不休,則精神馳騁於外而不守矣;
血気滔蕩として休まざれば、則ち精神外に馳騁して、守らず。

  馳騁(ちてい):走り回る。
  (お):おいて。方向を示す詞。~に。
  不守(ふしゅ):まもらない。留守にする。
血気が盛んに流れて休まなければ、精神は外を走り回って、お留守になる。
精神馳騁於外而不守,則禍福之至,雖如丘山,無由識之矣。
精神外に馳騁して守らざれば、則ち禍福の至れること、丘山の如しと雖も、之を識るに由(よし)無し。

  禍福(かふく):災厄と幸運/幸福。
  (し):~の。所有を表す詞。
  (し):いたる。到着する。
  雖如(すいじょ):~のごとしといえども。たとえ~程だとしても。
  丘山(きゅうさん):小高い所と山。
  (ゆ):よし。方法。
  (しょく):しる。認識する。
  (し):これを。前出の名詞を受ける代名詞。
精神が外を走り回っていれば、禍福が山のように至ったとしても、識る方法が無い。
とまあ、こういう事でございますのでね、‥‥老人のような、いつも口をぽかんと開けて、精神の不在が、そのまま人間になったような者にとっては、やはり余程気をつけておらねばならぬようでございます。

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それでは、皆様お待ちかねでございましょう?
今年も、正月の余興と致しまして佐々木邦の小説を読んで戴きましょう。何しろ400頁を超えておりますのでね、入力するのが大変でしたが、皆様に喜んで戴ければ、何よりでございます。屹度何かかにか、得るところがございましょう、――

著者: 佐々木邦   挿絵・装幀: 河目悌二
お屋敷からのお召
  夕刻のことだった。
  『内藤さん、速達!』
と呼ぶ声が玄関から聞えた。郵便物と新聞は正三君が取次ぐ役だ。
  『お父さん、速達ですよ』
  『ふうむ。何御用だろう?』
とお父さんは居住まいを直して、大きな状袋の封を丁寧に鋏で切った。伯爵家から来たのである。
  正三君のところはお祖父さんの代まで花岡伯爵の家来だった。もっともその頃は伯爵ではない。お大名だから、お殿様だった。今でも伯爵のことをお殿様と呼んでいる。正三君のお祖父さんは大殿様から三百石戴いていた。今なら年俸である。お金の代わりにお米を三百石貰う。一石三十円として九千円。今の大臣以上の俸給だった。
  『三百石といえば大したものだよ。陸軍大将になった本間さんなんか三人扶持の足軽だった。実業界で幅を利かしている綾部さんが精々五十石さ。溝口の叔母さんのところが七十石。お前のお母さんの里が百石』
と正三君は三百石の豪いことをお父さんから度々聞かされていた。
  『これ、お貞、お貞、お貞、お貞』
とお父さんは返辞のあるまで呼び続けるのが癖だ。
  『はいはい、はいはい、はい』
とお母さんも返辞だけして、ナカナカ仕事の手を放さない癖がある。


  『お貞や、お屋敷からのお手紙だ』
  『まあ』
  『お殿様が俺(わし)に御相談があるそうだ』
  『御冗談でございましょう?』
  『いや、本当だよ。御覧』
とお父さんは得意だった。
粛啓
時下残暑凌ぎ難く候処益々御清穆の御事と存上候 却説(さて) 伯爵様折入って直々貴殿に御意得度思召(おぼしめし)に被在(あらせられ)候間 明朝九時御本邸へ御出仕可然(しかるべく)此段申進候 早々頓首
   八月十五日
                         花岡伯爵家 富田彌兵衛
  内藤常太郎殿

  富田さんは家令だ。もう年寄で目が悪いから一寸角ぐらいの字で書いてある。
  『まあ、何でございましょうね?』
とお母さんは合点が行かなかった。大将や重役になっている家来達のところへは時折特別に有難いお沙汰があるそうだが、三百石の内藤常太郎さんはそれほどまで出世していない。正月の二日に御機嫌を伺って、四月の観桜会へ招かれるだけだった。
  『何だろうなあ?』
  『あゝ、分りましたよ』
  『何だ?』
  『あなたが余(あんま)り御無沙汰をしていらっしゃるから、呼び出して切腹仰せつけるのかも知れませんよ』
  『馬鹿を言うな。これは決して悪いことじゃない』
  『そうだとよろしうございますがね』
  『そうでなくてどうする?お殿様直々折入ってお願いがあるというんだもの。お前は俺にもっと敬意を表さなければいけないよ』
とお父さんは威張って見せた。
  晩御飯の時も伯爵家の話が出た。何だか分らないが、番町のお屋敷からのお沙汰は皆(みんな)の心持を陽気にした。
  『お父さん、兎に角おでんと蜜豆が戴けますね』
と正三君が言った。
  『おでんと蜜豆?』
  『馬鹿だなあ。あれは観桜会の時だけだよ。お屋敷にふだんおでんや蜜豆があるもんか』
と兄さんの祐助さんが笑った。この春二人で観桜会へお父さんのお供をしたのである。
  正三君は兄さんが二人と姉さんが二人ある。一番上の兄さんはもう帝大を卒業して朝鮮総督府へ勤めている。次の祐助君も来年出る。姉さんは一人女学校が済んで、もう一人在学中だ。正三君はこの四月から府立中学へ入った。五人が五人、皆揃って成績が好い。お父さんは鼻が高い。
  『家(うち)の子供は皆俺に似たんだよ』
とおっしゃる。
  『いゝえ、女の子は女親に似たんでございますよ』
とお母さんも権利を主張する。
  内藤さんの子供が皆優良なのは無論お父さんお母さんの性質を受けている。尚教育方法が与(あづか)って力ある。両親は一生懸命だ。しかし家庭の好いことも忘れてはいけない。好いといっても金持ではない。三百石のお祖父さんは、その後柄にない山仕事をやって失敗してしまった。郷里の家屋敷は人手に渡って、跡に紡績工場が建っている。若し今でもあんな大きな家に住んで昔のまゝに威張っているとすれば、五人のお孫さんがこんなに優良かどうか甚だ疑問だ。
  内藤さんは大蔵相へ勤めている。高等官だけれど、上の方でないから決して贅沢は出来ない。そうかといって生活に不自由を感じるほどの貧乏でもない。子供の為にはこれぐらいの家庭が一番好いのである。
  『内藤君、君のところのお子さん達は皆優等だそうだが、何か秘伝があるのかね?』
と同僚が訊く。
  『秘伝なんかないよ。強いて言えば、僕が酒を飲まないからだろう』
と内藤さんはニコニコする。
  『耳が痛いな』
  『もう一つ、僕の家の金は僕の汗の香(におい)がする。それで子供達も油断をしないんだろう。』
  『汗の香なら僕だって負けない。何か未だ他にあるだろう?』
と同僚は頻りに秘伝を知りたがる。
  さて、内藤さんは翌朝八時半に番町の御屋敷へ出頭した。家令の富田さんも丁度出勤したところで、
  『やあやあ、これはお早い。御苦労ですな』
と言って迎えてくれた。内藤さんは書面のお礼を述べて御無沙汰のお詫をした後、
  『時にお殿様の御用とおっしゃるのは何でございましょうな?』
と伺いを立てた。
  『内藤君、君は羨ましいですよ』
  『どういうわけですか?』
  『君のところのお子さん達の成績がお殿様のお耳に入ったのです』
  『まさか。豚児揃いですもの』
  『いゝや。悪事千里を走る。善何ぞ門を出でざらんやです。そこで今回御三男様のお相手に君のところの末のお子さんを御所望なさるのです』
  『はゝあ。お相手と申しますと?』
  『お学友です。御勉学は申すに及ばず、御武術御運動お慰み、一々お相手を勤めます。大きな声では申されませんが、若様方は皆様どうもお姫様(ひいさま)方ほど御成績が宜しくない。お殿様も奥様も種々(いろいろ)とお考えになって、今度は御三男様を極く平民的に御教育なさる思召で、◯◯中学校へお入れになりました』
  『成程』
  『既に一学期おやりになりましたが、矢張り御成績が面白くありません。水は方円の器に随い人は善悪の友に依ると申しますから、これは成績の好いものをお相手につけるが宜しいということになりました。旧藩士の子弟の中(うち)に現在中学一年生で成績優等のものはないかとの御尋ねでございます。俺は方々問合せましたが、君のところが一番よく条件叶っています。御身分も三百石、申分なり』
  『いや、恐れ入ります。三百石は昔の話で、今は腰弁ですよ』
  『いゝや。兎に角、と言っては失礼ですが、兎に角大蔵相の高等官です。お殿様はせめて高等官ぐらいの家庭でなければ困るとおっしゃいます』
  『何から何までと申しますと学友は無論始終お屋敷へ上っているんでございましょうな?』
  『そうです。御三男様と同じ学校へ通って、お屋敷では同じ家庭教師について勉強致します。今回は全然平民的教育ですから、中学校御卒業後直ぐさまアメリカへお出掛けになって、彼地(あちら)の大学で仕上げるのだそうです。お学友もお供をして全く同様の教育を受けます。いかがですな?』
  『愚息で勤まることなら真(まこと)に光栄に存じます』
  『それじゃお受けしてくれますな?』
  『はあ』
  『そうなくては叶わん。昔は若様の為には伜(せがれ)を身代りに立てたものです。まして御令息将来の立身出世の道が開けることですからな』
と富田さんは大満足でお殿様へ取次いだ。
  お殿様は朝寝坊だから、内藤さんは十時頃まで待たされた。しかしその間に富田さんから、尚種々とお学友の心得を承わった。
  『此方へ』
との案内で漸く応接間へ通って、こゝで又少時(しばらく)待っていると伯爵が現れて、
  『やあ』
とおっしゃった。
  『御無沙汰申上げました。いつも御健勝で祝着に存上げます』
  『有難う、さあ。掛け給え』
  『はあ、はあ、はゝあ』
と内藤さんはお屋敷へ上るとすっかり侍(さむらい)になってしまう。
  『役所の方は相変らず忙しかろうね?』
  『はあ』
  『今日は休んで来たかね?』
  『御前、今日は日曜でございます』
  『成程、そうだったな』
とお殿様は七曜に御頓着ない。今日を日曜と知って大いに感心したのか、その侭黙ってしまった。そこで御家来の方から、
  『この度は‥‥』
と切り出した。
  『富田から聞いてくれたかな?』
  『はあ』
  『承知してくれるかな?』
  『はあ、唯(ただ)愚息に勤まりましょうかどうかと案じて居ります』
  『それは大丈夫だ。君のところは皆揃って抜群の成績だそうだな』
  『どう致しまして』
  『参考の為承わりたいが、一体どうしてそう成績が好いのだろう?』
  『さあ』
  『何か思い当たることはないかな?』
  『強いて申せば、私が酒を一滴も戴かないからでしょうか』
と内藤さんは同僚にもお殿様にも同じように答える。


  『ふうむ。私(わし)は酒を飲む。これは耳が痛いぞ』
  『恐れ入ります』
  『何あに構わん。それからどうだね?』
  『もう一つは‥‥』
  『何だな?』
  『私の家の金に私の汗の香が沁みています。それで子供が油断をしないで勉強するのだろうと存じます』
  『ふうむ。汗?』
  『はあ』
  『汗を金に沁まして置くか?』
  『いゝえ、稼いだばかりの金でございますから』
  『うむ。額の汗か。労働か。皮肉だな。ハッハヽヽ』
とお殿様は快く笑った後、
  『万事富田と相談して、来月早々寄越して貰いたい』
  『はあ』
  『奥も君に会いたがっている。一寸顔を見せてやってくれ給え』
  『はあ』
  『暑いところを御苦労だったね』
  『はあ』
と内藤さんがお辞儀をして頭を上げたら、伯爵はもう出て行ってしまっていた。
  奥様には日本館の方で御機嫌を伺った。内藤さんは今回の平民教育がお殿様よりも奥様の御発意によることを承知した。奥様はお姫様達が女親に似て皆才媛だのに、若様達はどういうものか不成績で困ると訴えた後、
  『内藤さん、どうか助けて下さい』
とおっしゃった。内藤さんは光栄身に余った。三代相恩の主君、その奥方が助けて下さいと仰せある。
  『はあ、はゝあ』
と侍にならざるを得ない。
  『私達の心持を察して下さい』
  『はあ、はゝあ』
  奥様のお話はナカナカ長かった。殿様と違って女の愚癡が交じる。皆が寄ってたかって煽(おだ)て上げるから、若様達は本気になって勉強しないとおっしゃった。我儘もののお相手は随分骨の折れることだろうと、仕事の性質をよく理解していられた。
  『内藤さん、あなただけ御承知下すっても、こういうことはお母様に得心して戴かないと長続きが致しませんから、私、その中に改めてお願いに上がりとうございます』
  『どう致しまして。決してそのような御心配には及びません』
  『いゝえ、昔とは違います』
  『いや、私共は何処までも旧臣の身分でございます。』
  『未だ十三やそこらのお子さんですもの。それを私達の都合で両親の手から取ろうと申すのは余り勝手でございます。私、お母様のお心持が察しられますから、そこのところを直々お目にかゝって念の通じるように申上げたいと存じます』
  『それでは家内を上らせましょう』
  『いゝえ、私の心委(まか)せにしておくれ。それから内藤さん』
  『はあ、はゝあ』
  『これはお家へお土産に』
  『どう致しまして、この上そんな御配慮を煩わせ申上げては益々恐縮でございます』
  『いゝえ、お忙しいところをお呼び立てして申訳ありません』
  『奥様、今日は日曜でございます』
  『あ、そうでしたかね』
と奥様も日曜を御存じない。
  内藤さんは拝領品を平に辞退して、逃げるように玄関へ向った。富田さんが待っていたので、又家令詰所というのへ入ってしばらく打合せをしている中に、
  『自動車のお支度が出来ました』
と女中が知らせに来た。
  『それでは内藤氏(うじ)』
  『富田様』
と一寸芝居のようなことをして、内藤氏は玄関へ出る。
  『さあ、乗っていらっしゃい』
と富田さんは横づけになっている立派な自動車を指さした。
  『いや、どう致しまして』
  『いゝや、お殿様の仰せつけです』
  『恐れ入りましたな』
と内藤さんは一礼して乗り込んだ。すると奥様からの拝領品が中に積んであったのに又々恐れ入った。
  渋谷の内藤家では、
  『ブーブーブー』
と自動車が門前で止った時、
  『家でしょうか?』
と次女の君子さんが玄関へ出て見た。お父さんは丁度下りたところで、
  『正三はいるか?正三は?』
と呼んだ。運転手が土産物を擔ぎ込む。
  『お帰りなさいませ』
  『正三はいるか?正三は?』
  『正ちゃんはお隣りへ遊びに参りました』
  『呼んで来ておくれ』
  『まあ、あなた、お屋敷の御用は何でございましたの?』
とお母さんが訊く。
  『その正三の件さ』
とお父さんは長火鉢の前に羽織袴のまゝ坐り込んで、
  『正三をお屋敷の御三男様のお学友に欲しいとお殿様も奥様もおっしゃる。是非ともという御懇望だ。家の子供がこうまで評判が好いとは思わなかったよ。俺は面目を施して来た。御覧、この通り頂戴物をして来た』
と少し落ちついたようだった。


  『それは結構でございました。そうしてあなたはお受けをなさいましたの?』
  『受けるも受けないもない。此方は家来、むこうはお殿様だ。それに近い中奥様がお前のところへ直々頼みにお出でになる』
  『まあ!私のところ?』
とお母さんは飛び上がらないばかりに驚いた。
  そこへ正三君がお腹の時計でもうお昼時と承知してノコノコ帰って来た。
  『正三!』
  『はい』
  『そこへ坐れ』
  『はい』
と正三君は坐ったが、叱られるのかと思ってビクビクしている。
  『しかしその服装じゃ困るな。袴を穿いて来い』
  『はあ』
  『袴だよ。お貞、袴を出してやれ』
とお父さんは自ら羽織袴でかしこまっている。夏休みに子供の袴はそう右から左には見つからない。
  お母さんはあっちこっち探した末、正三君に袴をつけさせて、
  『これで宜しうございますか?』
と不平そうな顔をした。
  『よし。そこへ坐れ。正三や、お前のお蔭でお父さんは鼻が高い』
とお父さんは鼻の上へ拳を二つ継ぎ足して天狗の真似をした。正三君は何のことやらサッパリ分らない。
  『正三や、今お父さんの言うことはお殿様の仰せつけだ。謹んで承わりなさい。正三や』
  『ハッハヽヽヽ』
とこの時兄さんの祐助さんが笑い出した。
  『何だ?失礼な』
  『‥‥‥‥‥‥‥‥』
  『でも正三や正三やって、まるで正三を売りに来たようじゃありませんか?』
とお母さんも少しおかしかった。
  『正三や、今日お屋敷へ上ったら‥‥』
とお父さんは漸く不断の調子に戻って、お学友の次第を詳しく話して聞かせた。
  『お父さん、それでは正三が可哀そうじゃありませんか?』
と祐助さんは必ずしも喜んでいなかった。
  『何故?』
  『こんな小さなものがお屋敷へ上って他人の間で揉まれるんですもの。奉公人も同じことです。僕がお父さんなら断ってしまう』
  『それはお前、料簡違いだよ。お殿様の仰せ付けじゃないか?』
と内藤さんは昔なら君公の御馬前で討死をする覚悟がある。
  『お殿様は昔のことです。今日では知人に過ぎません。全く対等ですよ。特別の契約を結ばない限り、権利義務の関係はありません』
と祐助君は法科大学生だ。
  『権利義務の関係がないからといっても、お祖父さんの代までは所謂三代相恩の主君だったじゃないか?我々が今日あるのも皆伯爵家のお蔭だよ』
  『いや、お言葉を返しては済みませんが、これぐらいの今日は平民にもあります』
  『どうもお前は思想が好くないよ』
  『まあまあ、祐助はお黙りなさい。けれどもあなた、これは正三の一生涯に関係することですから、一応正三の意向も確かめ、私にも相談して下さるのが本当でございましょう?』
とお母さんも多少言分があるようだった。
家からお屋敷へ
  内藤家では三男の正三君を花岡伯爵家へ御三男様のお学友として差上げることについて相談が続いた。忠義一図のお父さんは一も二もなくお受けをして来たが、次男の祐助君が異議を申立てたのに驚いた。お母さんも無条件の賛成でなかった。得心のような不得心のようなことばかり言う。お殿様や奥様の御懇望を考えると嬉しいが、正三君を手放すのだと思うと悲しくなる。姉さん達も女心は同様だった。そこでお父さんは、
  『他人の中といっても、余所と違ってお屋敷だよ。お殿様は極く平民的で物の道理のよく分ったお方だ。奥様も情深い。奉公人も皆褒めちぎっている。しかし正三は奉公人として上るんじゃない。御三男様のお相手として万事御三男様と同じ待遇を受けるんだ。それから卒業すれば御一緒にアメリカへ留学させて戴ける。正三の為には出世の糸口が開けるわけじゃないか?』
という工合に好いことばかり並べ立てた。


  『それはそうでございますよ。お屋敷の信用を得て置けば何処へ出るにしても都合が宜しうございますわ。けれども、あなた、これまで大きくしたものを見す見す差上げてしまうんですから、私の心持も少しはお察し下さいませ』
とお母さんは痛し痒しだ。姉さん達も、
  『不断は随分憎らしい子ですが、こうなると可哀そうでございますわ』
  『お屋敷へ上ればとてもこんなに我儘は出来ませんよ』
と一種の人身御供のように考えている。
  『どうもお前達は分らないね』
  『いゝえ、お父さん、正三が多少犠牲になることは事実ですよ』
と兄さんの祐助君が又主張した。
  『犠牲なものか、特典だよ。お前達は正三をお屋敷へ奉公にでも出すように言うが、決してそんなわけのものじゃない。お学友だよ』
  『盆正月でなくても帰って来られますの?』
とお母さんが訊いた。
  『藪入かい?馬鹿だなあ。奉公人じゃあるまいし。日曜や休暇には大手を振って帰って来る。寄宿舎へ入っているのも同じことさ』
とお父さんは女連中を安心させることに努めた。
  『お父さん、あゝいうお屋敷では家庭教師でも若様の御機嫌を取らないと勤まらないそうですよ』
と祐助君は反対論を続けた。
  『そんなこともあるまい』
  『いゝえ、僕の友達が矢張り旧藩主のところへ家庭教師に上っていますが、ナカナカ辛いと言っています。僕は正三が卑屈な人間にならなければいゝと思って、それを案じるのです』
  『その辺は正三の心一つさ』
  『正三、お前は正々堂々とやれるかい?』
  『いや、それは俺が訊く』
とお父さんは慌てた。うっかり首を横に振られると大変だから、充分利益を説き尽してから正三君の意向を尋ねようと思っていたのである。
  『お父さんのおっしゃる通り、これは或意味から考えると特典に相違ありません。それで僕は正三が何処までも男子の意気を失わない決心なら賛成です。例えば御三男様と相撲を取る場合、遠慮なく投(ほう)り出してやるようなら宜しい。しかし若し御機嫌を取る料簡で行くようなら大反対です』
と祐助君は力強く言った。
  『正三、どうだね?さっきから色々と話した通りだ。承知してくれるかね?』
とお父さんは到頭直接本人に訊いて見なければならないことになった。
  『承知しました。御三男様をひどい目に合わせてやります』
  『それじゃ困るよ』
  『僕は折角入った府立から私立へ移るのがいやですけれど、お殿様の思召なら仕方ありません。忠義を尽します』
と正三君は子供心にも伯爵の知遇に感じていた。
  『そうでなくてはかなわん。流石にお前は、侍の子だ』
とお父さんは大満足だった。
  『正三、一生の方針に関係することだよ。もっとよく考えて見ろ』
と祐助君は念を入れた。
  『お前は黙っていなさい。もう承知したんだ』
とお父さんは祐助君が打(ぶ)ち毀すのを恐れた。
  『さっきから考えていたんです。お父さんがお屋敷でお受けをしてお出でになったんですから、僕がいやだと言うと困るでしょう。兄さん、僕は正々堂々とやりますよ』
  『お前がその決心なら僕も賛成だ。お父さん、実は僕は最初から全然反対ってわけじゃなかったんです』
  『それじゃ変なことばかり言わないがいゝ』
  『正三は承知さえすれば、忠義にも孝行にもなると同時に、自分の身も立ちます。けれども親や兄貴の権力で圧迫したんじゃ何にもなりません。自発的なところに値打があるんです』
  『無論それはそうさ』
  『それにこれから帝大を出るのとアメリカへ行って勉強するのでは将来が大分違って来ますから、本人の自由意思で定(き)めさせたいと思ったのです』
と兄さんは兄さんだけのことがあった。
  『お前も分からず屋のようでいてナカナカ考えているんだね』
とお父さんはこれも至極満足のようだった。
  お母さんや姉さん達も決心しなければならなかった。しかし今まで一緒にいたものが急に余所へ行ってしまうのは矢張り心許ない。
  お母さんはその翌日、
  『家のお父さんという人は何でも私に相談しないで定める人だから困りますよ。お前達も気をつけていないとどんなところへお嫁にやられるかも知れませんよ』
と厭味を言った。
  『でも縁談は御相談なさいますわ』
と一番上の貴子さんは笑っていた。
  『正三のことは私もう諦めました。お受けしないで帰っても、矢っ張り詰まりはこうなるんですわ。お殿様と奥様お二人の思召ですからね』
とお母さんは納得もしているようだった。尚、
  『それに始終お屋敷へお出入するようになれば、お前達の縁談にはどんなに都合が好いか知れませんわ』
と欲張ってもいた。
  『なぜでございますの?』
  『お父さんも私も矢っ張り御家中の人でなければいけないと思っていますから、お屋敷へ上って丁度好いお婿さんを御詮議して戴きますわ』
  『まあ!いやなお母さん』
  『いゝえ。うかうかしちゃいられませんよ。君子ももう十七ですからね』
  『あら、私、そんなことどうでも宜いんでございますよ』
と君子さんも縁談と聞くと直に赤くなる。内藤さんの家庭は三百石を忘れないだけあって極く昔風だ。
  四日目の午後内藤さんの門前に伯爵家の自動車が止った。
  『お母さんお母さん、お屋敷の奥様でございますよ』
と君子さんが血相を変えて注進した。お風呂場で洗濯をしていたお母さんは、
  『あらまあ、どうしましょうね?』
とシャボンだらけの手で天手古を舞った。


  『困るわねぇ、平民的過ぎて』
  貴子さんも狼狽した。実は事によると本当にお出でになるかも知れないと思って三四日用心していたのを生憎今日から油断したのだった。
  『御免、御免』
ともう運転手が玄関で呼んでいる。
  『はい。はあい』
と君子さんが初めて気がついたように取次に出る。その間に貴子さんが客間を検分する。お母さんは髪を撫でつけたり着物を着替えたり大騒ぎだ。いくら拭いても汗が流れた。
  これは内藤家代々を通じて最も光栄ある日の一つだった。奥様は三十分ばかりお寛ぎになってから、御機嫌麗しくお引取りになった。祐助君は不在だったが、皆々有難いお言葉を賜ったこと申すまでもない。お母さんはもうすっかり得心が行った。後から奥様を褒めるや褒めないではない。
  『あゝいうお優しいお方なら、私、もうなんにも申すことありませんわ。「子持は相身互見です。このお子さんを手放すお心持は私もお察し申上げて居りますから、決して悪いようには計らいません」と涙を浮かべておっしゃった時、私もホロリとなって、これではどんな犠牲でも喜んでお引受けしなければならないと存じましたよ』
と矢張り侍の娘である。夕刻主人公が役所から帰るのを待ち侘びて、
  『あなた、どうぞこれからお礼を申上げに伺って下さいませ』
と意気込んでいた。
  『まあまあ、今夜直にも及ぶまい』
  『でも、あなた』
  『又お土産を頂戴したんだね』
と内藤さんは恐縮だった。
  『奥様は正三を御覧がてらお出でになったのかも知れませんわ。出来そうな子ですって褒めて下さいましたよ。それから「子持は相身互見です。このお子さんを手放すお心持はお察し申上げて居りますから」って涙を浮かべておっしゃいましたの』
とお母さんはお土産よりもこれが何よりだった。姉さん達は姉さん達で、それから二三日の間、
  『弟が伯爵家へ若様のお学友に上りますのよ。それで奥様が態々お出下さいましたの。宅の母と五つしか違いませんのよ。お若いんでございますのよ』
と会う人毎に吹聴した。
  次の日曜に正三君はお父さんに連れられてお屋敷へ伺った。お殿様にはお目通りを許されて、イヨイヨお学友と定まった。
  『照彦には丁度好い相手だ』
とお殿様がおっしゃった。
  『お母様に宜しく。お乳を充分戴いてお出でなさいよ』
と奥様は特に打ち解けた御挨拶だった。正三君は家へ帰って転学の手続を済ませた。それから月末御三男様がお兄様方と一緒に大磯(おおいそ)の別荘からお帰りになると直ぐお屋敷へ引取られた。その折祐助君は、
  『正々堂々とやれよ』
と言った。
  『大いにやります』
  『日曜には屹度帰れよ。お母さんが淋しがる』
  『はい』
と正三君は頭を下げた。それからお母さんや姉さん達にお暇をして門を出た時、団子が喉に閊(つか)えたような心持になった。しかし運転手に笑われるといけないから、肩をいからして自動車へ乗り込んだ。
  伯爵家にはお子様方の教育指導に当る先生が数名勤めている。皆旧藩関係だから御家来だ。御家来でなければ先生になれない。その中安斉さんという老人が指導主事として采配を振っている。この先生は御家中随一の漢学者で、評判のやかまし屋だ。家令の富田さんさえ時折叱られる。あとは皆家庭教師で、三人の若様と一人のお姫様にそれぞれ一人宛(づつ)ついている。上のお姫様お二人がお片付きにならなかった頃は六人だったから、六人の家庭教師がいた勘定になる。
  安斉先生は旧藩時代の面影を顔の痘痕(あばた)に伝えている。疎(まばら)な髯が白い。その昔剣道で鍛えたと見えて、目が少し藪(やぶ)の傾向を帯びている。睨みが利く。ナカナカ怖い。正三君はこの安斉先生に主事室へ呼びつけられてお学友の心得を申渡された。それは生まれて初めて余所に泊まって心細い一夜を過した翌朝だった。漢文の口頭試験のようなものだったが、先生はメントル・テストだとおっしゃった。正三君はメンタルと覚えていたけれど、漢学の方ではメントルかしらと考えた。
  『内藤君、昨日はお出でになったばかりで未だ落ちつかないようだったから控えていましたが、もう宜いでしょう。今日はメントル・テストの流儀に従ってお学友の心得をお話し致しましょう』
  『はあ。どうぞ宜しく御指導を願います』
と正三君はお父さんから教わった通り切口上で言った。
  『君もどうかしっかりやって下さい』
  『出来るだけ勉強致します』
  『時に内藤君、君は四方に使して君命を辱めずという言葉がお分かりですか?』
  『さあ』
  『考えて御覧なさい。メントル・テストです。使于四方、不君命
と安斉先生はその通り奉書紙(がみ)に書いて見せた。
  『これはお殿様の命令を充分に果たすことでございましょう』
  『そうです。ナカナカ頭が好い。この心得がなければいけません。当節の家庭教師には論語読まずの論語知らずが多いから困る。次に、君君たらずとも臣臣たらざるべからず』
  『君君たらずとも‥‥先生、僕は未だ漢文を習い始めたばかりです』
と正三君は弱音を吹いた。これはこの上どんな問題が出るかも知れないと思ったのである。


  『いや、漢学の試験ではありません。メントル・テストです。これが大切ですぞ、殊にお学友は』
と言って、先生は又「君雖不君、臣不以不一レ臣」と書いてくれた。
  『初めの方は申上げるのも恐れ多いことです』
  『うむ、分っていますね。豪い豪い』
  『いや、これは僕には少しむづかしいです』
  『殿様が殿様らしくなくても家来は家来らしくしなければいけない。そうでしょう?』
  『はあ』
  『御三男照彦様は御無理をおっしゃるかも知れません。その折、君君たらざれば臣臣たらずでは困ります』
  『はあ。よく分りました』
  『士は己を知る者の為に死す。これはどうです?』
  『己を知るもの。己を知るもの。自分の本分を知るもの‥‥』
と、これは正三君全然落第だった。
  『少しむづかしいかな?士は自分を認めてくれる人の為に死す。知遇を感じるということです。君は品行方正学術優等、今回それをお認めになって御三男照彦様のお学友にして下すったお方は何方(どなた)ですか?』
  『お殿様です』
  『そうです。あなたはそのお殿様の為に死ぬ覚悟がなければなりません。』
  『はあ』
  『君辱めらるれば臣死す。これはどうですか?』
と先生は又死ぬことを持ち出した。
  『大石良雄です』
  『頭が好い。それでは実際問題として、照彦様が学校で他の生徒に辱められた場合、君はどうしますか』
  『さあ』
  『今、大石良雄とおっしゃったでしょう?』
  『はあ、分りました』
  『照彦様は町人の学校へお入りになりました。私は御指導主事として反対の趣(おもむき)をお殿様へも申上げたのですが、大勢は何とも致し方ありません。私立中学はお兄様達の学習院と違って玉石混淆ですからな。それだけ君の責任が重いですよ。随分いかがわしい家庭の息子と机を並べるのですから、或は君が君公御馬前の臣節を尽すような機会が来ないとも限りません』
  『はあ』
と答えたものの、正三君はそのまゝ考え込んで涙をホロホロこぼした。学校で照彦様が喧嘩をして撲られるかも知れない。帰途(かえり)に電車の中で車掌に剣突(けんつく)を食わされるかも知れない。平民の自動車に泥を跳ねかけられるかも知れない。君辱めらるる場合はいくらでもあり得る。その際一々切腹していた日には命が続くまい。
  『内藤君』
  『はあ』
  『まあ、大体こういう心得で御奉公して下さい。生は難く死は易し。無暗(むやみ)に命を捨てゝは困る。唯精神を忘れなければ宜しい。それからこの紙は持って行って座右の銘になさい』
と安斉先生は申渡しを終わった。必ずしもその都度切腹という意見ではないようだった。
  正三君が廊下へ出ると、照彦様が待っていて麾(さしまね)いた。
  『内藤君、君は安斉先生のメントル・テストを受けたね?』
  『はあ。色々と教えて戴きました』
  『あれは矢っ張り、メントルだとさ。僕がメンタルだと教えて上げたら、先生怒って、ドクトルということはあるがドクタルということはありますまいがなとおっしゃった。お兄様達も大笑いさ。しかし漢学の方は大先生だ。日本一だろう』
  『そうのようでございますな』
  『君は家へ帰りたいか?』
  『いゝえ』
  『でも目が赤い。帰りたがっちゃ困る。その代り僕と仲好しになろう』
  『恐れ入ります』
  『これから弓を引きに行こう。来給え』
  『はあ』
と正三君は大弓場(だいきゅうば)へお供した。
  『君は何でも優等だそうだから、弓も名人だろう?』
と照彦様は身支度をしながら訊いた。
  『いゝえ。やったことがありません』
と正三君は一向心得がない。
  『嘘だろう』
  『ほんとうです』
  『それじゃ僕が教えてやる』
と照彦様は模範を示した。時々的に中(あた)る。正三君は少時(しばらく)見学した後、
  『私もやって見ます』
と興味を催(もよお)した。
  『僕と言い給え。仲好しだ』
  『はあ』
  『はあもいけない。うんと言い給え』
  『うんは失礼です』
  『なあに、構わないよ』
と言いながら、照彦様は初心に手頃の弓を択(え)って渡した。
  『こうですか?』
と正三君は力一杯に引いて放った。しかし矢は地面を這って垜(あづち)まで達しない。
  『もっと高く。矢のゴロは駄目だ』
と照彦様が笑った。
  『これぐらいですか?』
と正三君は少し高い積りで放ったが、矢張りいけない。矢は一度地面へ落ちて又飛び上がった。
  『君の矢はバウンドする』
と照彦様は又笑って、
  『この辺さ。うんと引く』
と手を取って教えてくれた。正三君がその通りにして放つと、今度は馬鹿に高い。矢は垜屋を越して何処かへ行ってしまった。
  『矢のフライ。矢のフライ』
と照彦様は大喜びだった。
  『とても駄目です』
と正三君は諦めた。
  『なあに、少しやれば直ぐ僕ぐらいになる。時時先生が見えるから習い給え』
  『矢を取って来ましょう』
  『いや、後から拾わせる。それよりも君はボールをやるか?』
  『やります』
  『それじゃ彼方へ行こう』
と照彦様の方からお相手を勤めてくれる。正三君は第一日ですっかり仲好しになった。
お薬のお瘤(こぶ)
  正三君は花岡伯爵家に住み込んでから四日になった。御三男の照彦様はこの学友がお気に召して少時も放さない。未だ学校が始まらないから好い遊び相手だ。彼方此方へ引っ張り廻す。お蔭で正三君は広いお屋敷の勝手がほぼ分ってきた。
  『内藤君、お姉様のお部屋へ遊びに行って見よう』
と照彦様が言い出した。
  『さあ。お邪魔でしょう?』
と正三君は躊躇した。
  『いや、昨日はお姉様が遊びにお出でなさいとおっしゃった』
  『それはそうですけれど』
  『行こう。君が来ないと、僕は行けないんだ』
  『何故ですか?』
  『僕は一昨日の晩、お姉様がこの間大姉様から戴いた大切(だいじ)のものを毀(こわ)したんだ。大理石の女さ。弄(いじ)っていて落としたものだから、足が折れてしまった』
  『それはそれは』
  『その時からもうお部屋へ入っちゃいけないって断られている。僕とはろくろく口も利かない』
  『それじゃお詫びの叶うまでいらっしゃらない方がいいでしょう』
  『いや、君が来れば大丈夫だ。行こう。さあ、来給え』
と照彦様は正三君の手を引いて長廊下を駆け出した。
  お姉様は御長男の照正様と御次男の照常様のお次に当る。妙子様といってお年はお十六、女子学習院へ通っていられる。上のお姉様方はお二人とももう片付いていらっしゃるから、お姫様はこのお一方だ。伯爵家ではお姫様方はみんなお成績がおよろしい。殊に妙子様は才媛で、お母様の御鍾愛を恣(ほしいまま)にしている。お部屋もお母様のお隣りだった。
  『お姉様』
  『照彦さん?』
  『はあ』
  『何御用?』
と妙子様はお部屋の内(なか)から訊いた。入れない算段だった。
  『駄目だ。未だ憤(おこ)っている。妙子、妙な子、憤りっ子!』
と呟(つぶや)いて、照彦様は首を縮めた。
  『照彦さん!』
とそれが内まで聞えたようだった。
  『お姉様、内藤君が一寸御機嫌を伺いに上りました。僕はお供です』
と答えて、照彦様は舌を出した。ナカナカ平民的だ。
  『それならお入りなさい』
  正三君はもう仕方なく、照彦様に押されて先に入った。
  『好く来て下さいましたのね。さあ、どうぞ此方へ』
と妙子様は刺繍台の前に坐ったままお愛想好く請じた。
  『綺麗だなあ。お姉様はお上手だなあ』
と照彦様は早速刺繍台の方へ這い進んだ。一昨日の晩の不首尾があるから、特に御機嫌を取るつもりだった。
  『触っちゃいやよ』
  『はいはい』
  『照彦さんは何でも直ぐに毀すから怖いわ』
  『もう大丈夫ですよ。内藤君、見給え。芙蓉だ。これは花壇のを写生したんだぜ』
  『綺麗でございますなあ』
と正三君は遠方から伸び上がって拝見していた。
  『君、飛行機じゃないよ』
  『何故ですか?』
  『でも、君は口を開いて見ているんだもの』
と照彦様は人前で正三君を冷やかすほど親しくなっていた。


  『内藤さん、この通りですから、照彦さんのお相手はお骨折りでしょう?』
と妙子様が同情しておっしゃった。
  『どう致しまして』
と正三君はたった二三日の中にこんなおとなびた言葉遣いを覚えた。大抵の場合これで間に合わせる。
  『照彦さんは茶目さんですからね』
  『どう致しまして』
  『内藤さんは何でもよくお出来になるそうですね?』
  『どう致しまして』
  『それに照彦なぞと違っておとなしいんですから、本当に申分ございませんわ』
  『どう致しまして』
  『先生になって上げて下さい』
  『とてもそんなことは出来ません』
  『御謙遜ね。お年はお幾つ?』
  『矢張り十三です』
  『同い年でも違いますわね。身体まで大きいわ』
  『いや、僕の方が大きいです』
と照彦様は自分が貶(けな)されて正三君ばかり褒められるのが癪に障っていたから、躍起(やくき)になって主張した。
  『まさか』
  『いゝえ、本当に照彦様の方が少しお高いです』
と正三君が花を持たせたにも拘らず、照彦様は、
  『内藤君、もう一辺背比べをして見よう。さあ、立ち給え』
といきまいた。御三男様は癇癖がお強い。正三君は君命黙(もだ)し難く立ち上がった。
  『まあ、丁度同じようね。あら、照彦さん、背伸びをしちゃずるいわ』
と妙子様は少時見較べた末、
  『矢っ張り内藤さんの方が心持ち高いわ』
と判定を下した。


  『そんな筈はありませんよ。昨日杉山が見ていて僕の方が高いと言いました。お姉様は内藤君に贔屓している』
  『いゝえ、照彦さんは頭が伸びているから、高く見えるんですわ』
  『頭が伸びている?ハッハヽヽヽ』
  『何がおかしくて?』
  『ワッハヽヽヽ』
  『変な人ね』
  『髪が伸びているんですよ。頭が伸びていれば布袋だ』
と照彦様は腹癒(はらい)せに天晴れ揚げ足を取った積りだったが、
  『オホヽヽヽ、それは福禄寿のことでしょう?無学な人は矢っ張り違うわ。布袋は頭が禿げているばかりよ』
と妙子様から美事返り討ちを食った。
  『兎に角、頭は伸びません。毛が伸びるんです』
  『理屈っぽい人ね』
  『内藤なんか何をしたって僕に敵(かな)やしない』
と照彦様は八つ当たりを始めた。憤ると額に青筋が立つ。
  『本当に僕は一昨日から照彦様に負け通しです』
と正三君は困り切って調子を合わせた。
  『内藤は身体が大きくても弱虫だ。昨日厩(うまや)へ行って僕が馬の腹を潜(くぐ)って見せても、怖がって続いて来ないんです』
  『そんな危ないことをするものは馬鹿ですよ』
と妙子様は矢張り褒めてくれなかった。
  『ランニングでも僕が勝ったんです』
  『未だ遠慮していらっしゃるのよ。今に本気になって御覧なさい。あなたなんかとても敵いませんわ』
  『弓なんか本気でやったけれど、矢がバウンドをするんです』
  『内藤さん、あなたは負けていちゃ駄目よ』
  『弓は本当に敵わないんです』
と正三君が言った時、照彦様は屹(きつ)となって、
  『弓はって、君、ランニングも三回とも僕が勝っているじゃないか?』
と睨みつけた。
  『あれはお庭の路がよく分らなかったからです』
  『後から苦情をつけるのはずるい。それじゃ、こゝで相撲を取ろう』
  『迷惑ですよ』
と妙子様は驚いて制した。然し照彦様はもう聴分けがない。
  『そら!』
と言って、坐っている正三君を仰向けさまに突っ転ばした。
  『卑怯よ、照彦さん』
と妙子様が窘(たしな)めた。
  『内藤、立て!』
  『駄目ですよ』
  『さあ、かゝって来い』
  『敵いませんよ』
と正三君は逃げ出そうとした。
  『内藤さん、おやりなさいよ、負けていると癖になります』
と妙子様が見るに見かねておっしゃった刹那、照彦様はもう組みついて来た。正三君も今は仕方がない。
  照彦様は相撲なら十三から十五までの子に決して負けないという確信があった。何となれば、伯爵邸の門内には家令の富田さん初め旧藩士が大勢住んでいて、その子供達が時折お相手を仰せつかる。この連中は親から言い含められているから、御三男様を負かしたことがない。随分際どいところまでやるが、最後にはやッと叫んでひっくりかえる。それを照彦様は自分が強いのだと思っていた。さて、組みつかれた正三君も相撲は得意でない。小学時代に時たま冗談に取ったぐらいのものだった。手といっては足搦(がら)みの外(ほか)何も知らないから、今やそれを応用して唯グイグイ押した。負けると後々の為にならないと考えて、真剣だったからたまらない。照彦様はよろめき始めた。しかし押される方も放さないし、押す方も好い加減のところで振り外す工夫をしないから、二人一緒に刺繍台の上に倒れてしまった。下になった照彦様は机の角で頭を打って泣き出した。
  『御免下さい。御免下さい』
と正三君はあやまりながら抱き起こした。照彦様は刺繍台を潰したことに気がつくと、正三君を突き退けて逃げて行った。御丹精の芙蓉が落花狼藉になっている。
  『私、困るわ。これ、暑中休暇のお宿題よ』
と妙子様は涙ぐんで溜息をついた。
  『申訳ございません』
と正三君は平身低頭して罪を待つばかりだった。
  『なんですの?今の音は』
とそこへ奥様が現れた。正三君はシクシク泣き出した。
  『お母様、内藤さんは少しも悪いんじゃありませんのよ』
と妙子様は直ぐに執成(とりな)して、一部始終を申上げた。
  『そうして照彦は逃げてしまいましたの?』
  『えゝ』
  『内藤さんはなんにも泣くことはありませんよ。さあ、もう御機嫌をお直しなさい』
と奥様が劬(いたわ)って下すった。
  『はあ』
  『私から申聞かせますから、照彦を連れて来て下さい』
  『はあ』
と正三君は涙を拭いて長廊下を辿(たど)った。
  照彦様は照常様のお部屋の前にションボリと立っていた。正三君の姿を認めると、先づ目を怒らせて睨みつけた。それから拳骨を拵(こしら)えて息を吐きかけて見せて、
  『今にこれだぞ』
と歯を剥いた。お兄様に加勢を頼んだという意味らしかった。
  『照彦様、お母様がお呼びでございます』
と正三君は近づいた。しかし照彦様は赤んべいをして、学監室に入って了った。
  照彦様はお母様が一番怖いのである。悪いことをした後、お母様から呼ばれて応じる筈はない。正三君の無礼を学監の安斉先生に訴えると直ぐに姿を匿(かく)してしまった。お母様は女中達に命じて彼方此方を探させた。その間に正三君は安斉先生から学監室へ呼びつけられた。
  『内藤君、心配はいらんよ。しかし一体どうしたのですか?』
と先生は極く穏やかな態度で訊いた。
  『お姫様のお部屋へ御機嫌伺いに上りまして、お話しを承わっておりますと、照彦様が是非相撲を取るとおっしゃって‥‥』
と正三君は少しも悪びれずに有りのまゝを申立てた。
  『宜しい。相撲は勇壮な競技で結構です。これからも度々お相手申上げる機会がありましょう。しかし、内藤君』
  『はあ』
  『お怪我をさせ申してはいけませんよ。以来気をつけることですな』
  『お怪我がございましたか?』
  『お頭(つむり)に大きなお瘤が出来ました』
  『申訳ありません』
  『今後もあることですから、一つ考えてみるんですな。勝負は時の運で仕方ないが、同じお負かし申すのでも、君がいつも下になるようにすれば、若様にお怪我は決してありません』
  『しかし下になれば僕が負けます』
  『そこですよ』
  『はあ』
  『御主君ですから、対等と思っては忠節が尽せません』
  『それでは負けて差上げるのですか?』
  『いや、態と負けるには及ばん』
  『はあ』
  『勝つにも及ばん』
  『はあ?』
  『御機嫌を取る為に負けて差上げるのは主君を欺く諂(へつら)い武士です。風上にも置けん。しかし、内藤君、君心あれば臣心あり。すべて君臣主従貴賎上下の別を忘れるものは乱臣賊子ですぞ。分りましたかな?』
  『いゝえ、はあ、しかし‥‥』
  『頭脳明敏の優等生にこれぐらいのメントル・テストが分らない筈はありますまい。君心あれば臣心あり。ハッハヽヽヽ』
と安斉先生は正三君の解釈に委せた。
  正三君は部屋へ引き下がって、安斉先生の所謂メントル・テストを考えた。負けるに及ばん勝つに及ばんでは引分けの外ない。しかし引分けは五分五分だから対等だ。対等では忠節が尽くし難いとある。君臣上下の別を守っていつも此方が下になる。それでは勝てっこないのだが、そこだと言う。何処だろう?
  『矢っ張り負けるのかな』
と、それなら初めから気がついている。しかしそれでは諂い武士で風上にも置けない。君心あれば臣心あり、成程、この辺かな?こゝは先生が二度おっしゃった。必ずしも負けるに及ばんが、無理に勝つにも及ばん。そこを然るべくお相手する。
  『こゝ、こゝ』
と正三君は流石に頭脳明敏だった。
  照彦様は間もなく台所で見つかった。お母様のお部屋へ引かれて行く途中、小間使いの手の甲に歯跡の残るほど咬みついて、又一つ罪が殖えた。しかし正三君が呼ばれて罷り出た時にはもうすっかりお叱り済みになっていた。
  『さあ、照彦や、内藤さんとお仲直りをしなさい』
とお母様がおっしゃった。
  『照彦様、失礼致しました』
と正三君が進み寄った。照彦様は未だ渋面作っていたが、
  『照彦や、お前がそんなに我儘をすると、内藤さんはお家へお帰りになってしまうよ』
と戒めたので、漸(ようや)く頷いた。
  お母様の前を引き下がってお部屋へ戻る途中、照彦様は内藤君を肩で押して来た。内藤君は知らん顔をしていた。この上喧嘩を買いたくない。その中に照彦様は正三君の肩に手をかけて、
  『内藤君、君は憤っているね?』
と訊いた。
  『いゝえ』
  『君は帰る気か?』
  『帰れとおっしゃるなら帰ります』
と正三君は答えた。これでは実際勤まりかねると思っていたのだった。
  『君、帰っちゃ困る。いつまでもいてくれ給え。僕が悪かった』
  『帰りません』
  『仲好くしよう』
と照彦様は内藤君の手を取った。
  正三君はお部屋までお供した。照彦様は勉強机(デスク)に坐ったまゝ少時考えていたが、頭を抑えてシクシク泣き出した。
  『若様、さっき打ったところがお痛いんじゃありませんか?』
と正三君は心配した。
  『いや、頭は何ともないが、いやあな心持がして仕方がない』
  『何処かお悪いんじゃないでしょうか?』
  『いや、そうじゃない』
  『若様、あの相撲は僕のケガ勝ちです』
  『いや、相撲のことでもない』
と照彦様は未だ顔を蔽(おお)っていた。
  『‥‥‥‥』
  『内藤君、君は悪いことをしたことがあるかい?』
  『はあ?』
  『優等生だから、ないんだろう。なければ分らない』
  『‥‥‥‥』
  『お姉様が君を褒めるのは当り前だ』
  正三君は先刻(さっき)憎らしかった照彦様がお可哀そうになった。こんなに後悔しているところを見ると、踏み止まって忠義を尽さなければならない。
  『そんなことはもう宜いじゃありませんか。お庭へ行って遊びましょう』
  『うむ、君はもう本当に憤っていないか?』
  『憤ってなんかいるもんですか』
  『お姉様も堪忍してくれたから君も堪忍して帰らないでくれ』
  『帰りません』
  『先刻内藤と言ったのも悪かった』
  『内藤で結構です』
  『僕は皆に堪忍して貰わないと心持が悪い。それで、もう一つ困ることがある』
  『なんですか?』
  『あやまりに行けないところだ』
  『何処でしょう?』
  『先刻台所で菊やに捉まった時、逃げようと思って手を食いついたんだ』
  『はあ』
  『矢っ張りあやまる方がいゝだろうな?』
  『ひどくお咬みになったんですか?』
  『泣いたくらいだ』
  『お心持がお悪いなら、おあやまりになった方が宜いでしょう』
  『けれども台所と女中部屋へは入れないことになっている』
  『それじゃ僕が行って参りましょうか?』
  『うむ、頼む』
  『菊やですね?』
  『うむ、菊やだ。一番大きい女だ。あれは力がある。僕は未だ腕が痛い』
と照彦様はようやく笑顔が出た。
  正三君は早速使命を果たした後、お昼迄お庭でお相手をした。帰られては困ると思ったのか、照彦様の方から頻りに御機嫌を取る。臣たるもの心あらざるべからずと考えて、
  『若様、この芝の上で相撲を取りましょう』
と君の心を伺って見た。しかし照彦様は、
  『いやだ、屋敷外の人は皆強いとお母様がおっしゃった』
と言って応じなかった。
  昼から若様方は御散髪をなされた。始終散髪屋へ頭を持って行く正三君はこういう工合に散髪屋を呼びつけて刈らせる法のあることを初めて発見した。順番が廻って来た時、照彦様は、
  『こらこら、こゝに大切の瘤が出来ているから、気をつけてくれ』
と注意した。


  『はあ。大きなものでございますな。どうなさいました?』
と散髪屋が触って見た。
  『痛い痛い!』
  『出来たてでございますな』
  『そうだ』
  『飛んだことでございました』
  『いや、これは却ってお薬になる瘤だ。お母様がそうおっしゃった』
と照彦様はもうすっかり御機嫌が直っていた。
若様の頭
  翌日から学校が始まって、正三君はイヨイヨ本式に照彦様のお学友を勤めることになった。その朝、照彦様は制服を着ながら、
  『君、校長は怖いぜ。擔任もナカナカ厳しい。けれども秋山って先生がいる。矢っ張り家の家来だ』
と言った。
  『なんの先生ですか?』
  『英語だよ。僕達の級へ出る。困ることがあったら、秋山さんに言えばいゝ』
  『お屋敷へもいらっしゃいますか?』
  『僕が入ってから時々来る。安斉さんから頼んであるんだもの』
  『それじゃ怠けると直ぐに知れてしまいますね』
  『うむ。僕に六十点しかくれない。家来のくせにして失敬だよ』
  『‥‥‥‥』
  『お兄様方の家来は皆点が安い。頭の悪いものは家来の先生の多い学校へ行く方が得だよ』
  『そんなこともないでしょう』
  『君、その制服は似合うよ』
  『そうですか』
と正三君も新調の制服に身を固めた。
  学校まで電車で三十分ばかりかゝる。正三君は初めての方角だから、一切照彦様の指導に委せた。
  『汚い学校だろう?』
と照彦様は門に着いた時、正三君を顧みた。
  『結構ですよ』
  『僕達の教室は新しい』
  『ナカナカ広いですね』
と正三君は運動場を見廻した。
  教室には同級生が半数以上揃っていた。長い休暇の後再び顔を合せて皆嬉しそうだった。その中の五六名が、
  『やあ、花岡さん』
と呼びながら寄って来た。照彦様は、
  『お早う。これはね、今度入った僕の友達だ。内藤正三といって秀才だよ』
と早速正三君を紹介した。正三君は赤くなって頭を下げた。


  『君のところの家来だろう?』
と一人が訊いた。照彦様はそれに答えずに、
  『府立から来たんで、とても秀才だ。僕とは違う』
と言って、正三君を教員室へ連れて行った。安斉さんから校長先生へ添書を持って来たのである。校長さんは家来でない。しかし家来のところへお嫁に来ている人の伯母さんの御主人だから、つまり、家来の伯父さんだ。全く関係のないこともない。正三君はこの校長さんと級擔任の橋本先生にお目にかゝった。
  間もなく始業式が始まった。照彦様は正三君と並んで席について、
  『君、汚い講堂だろう』
と囁いた。その実立派な講堂だった。照彦様は近頃謙遜ということを覚えたのである。但し自分に関係あるものを思いつき次第に悪く言うのが謙遜だと信じている。何でも手近のものを材料に使う。次に校長さんの訓辞中、
  『詰まらないことばかり言うだろう?』
とおっしゃったのも謙遜の意味だった。この辺が華族様の若様の鷹揚なところだけれど、学校や校長先生こそいゝ面の皮だ。
  式が終わると直ぐに、一同は級擔任の橋本先生に引率されて教室へ戻った。正三君の席は照彦様と同じ机に定まっていた。先生は、
  『皆黒くなったなあ』
と生徒達の日に焼けた顔を見渡して、出席簿を呼び始めた。
  『‥‥花岡、内藤』
と丁度中頃で正三君を呼んだ時、
  『序(ついで)に紹介しますが、今度この内藤君が入学しました。花岡君の友人です。仲好くしてやってくれ給え』
と言って一同に引き合わせた。正三君は立ってお辞儀をした。しかし同級生には礼儀の正しいものばかりはいない。
  『家来だ家来だ』
と後の方で笑った奴があった。
  『時間割は先学期の通り。学科は皆前の続き。明日は日曜。今日は授業なし。ところで諸君は夏中何をしていたね?』
と橋本先生はキビキビした人だった。富士へ登った話をした後、
  『それでは、諸君、明後日から』
と言い捨てて出て行った。
  帰途(かえりみち)に照彦様は、
  『始まると直ぐに日曜は嬉しいね。君は家へ帰るかい?今日昼から』
と急に思いついたように訊いた。
  『いゝえ』
  『有難い。何をして遊ぼう?』
  『今日から御自習があるんでしょう?』
  『いや、明日の晩さ。僕は頭が悪いから、明後日のことを今日からやって置くと忘れてしまう』
  『若様、御自分で頭が悪いと思っちゃ駄目ですよ』
と正三君は胸に浮んだまゝを遠慮なく現した。今朝から学友の任務ということを考えていたのである。
  『そうかね?』
  『そうですとも』
  『けれどもどうしても頭が悪いんだから仕方がない』
  『悪い筈はありません』
  『ありませんて、君は僕の頭の中へ入って見たことがあるか?』
  『それはありませんよ。けれども頭の病気をしなければ、悪くなる筈はないじゃありませんか?』
  『君は議論を吹っかけるのか?』
  『いゝえ』
  『それなら余計なことを言うな。学校の成績が何よりの証拠だ。僕の頭は悪いに定まっている』
と照彦様は詰まらないことを躍起になって主張した。
  正三君は勤め大事と考えているし、照彦様が放すまいとするから、土曜日でも帰宅しないことに定めていた。
  『どうですか?一遍お母さんのお乳を上ってお出でになったら宜いでしょう』
と奥様がおっしゃって下すったが、
  『この次に致します。帰りたくないです』
と強いところを示した。照彦様は大喜びで、
  『ボールをやろう』
と昼から早速お庭へ誘い出した。正三君も遊びたい盛だから、運動は決してお役目の御奉公でない。何でも真剣にやる。しまいには二人ともくたびれて、芝生の上に寝転んだ。
  『やあ、雲が動いている』
と正三君は仰向けになったまゝ言った。
  『海のようだね』
  『烏が飛んだ』
  『又飛んだ』
  『今のは小さい。雀でしょう』
  『君、君、雀を打ちに行こう』
と照彦様が思いついた。
  『パチンコですか?』
  『空気銃だ。君にはお兄様のを借りてやる。行こう』
  『参りましょう』
と正三君は直ぐに応じた。空気銃は小学校時代の夢想だったが、お父さんが危ながって買ってくれなかった。今それが自由に使えるのである。学友でも子供だ。自分の楽しみが先に立つ。
  伯爵家のお屋敷では裏に広い畑があって、その果てが雑木林になっている。附近に肥溜めなぞがあって、無論若様方の立ち入るところでない。しかし運動に倦(あ)きた照彦様は間もなく正三君を従えて、この方面へ志した。
  『昔はこゝに雉がいたそうだ』
  『今でも鳩ぐらいいそうですね』
  『鳩はどうだか分らないが、梟(ふくろ)は確かにいる。夜鳴いていることがある』
  『彼奴(あいつ)なら昼間は目が見えないから、占めたものです』
と二人は期待が大きくなって来た。
  鳩も梟も出なかったが、雀は沢山いた。見当たり次第にポンポンやったけれど、距離が遠いからちっとも中(あた)らない。尚林の中をうろつき廻っている間(ま)に、照彦様は、
  『君、君、素敵なものがある。見給え』
と呼んだ。それは重なり合った雑木の下闇(したやみ)に下がっている蜂の巣だった。
  『大きなものですなあ。いるいる。ウジャウジャいる』
と正三君は覗いて見て後じさりをした。
  『取ろう』
  『いけませんよ。刺されます』
  『こゝから打ち落としてやろう』
と照彦様が二三発放った。正三君も一発打った。蜂はブンブン舞い立った。
  『もうよしましょう。あんなに怒っています』
  『君は弱虫だね』
  『でも、刺されると詰まりません』
  『なあに』
と照彦様は空気銃を逆に持って、
  『二人で叩き落とそう』
と発起した。
  『危ないです』
  『君は勇気がないな。それじゃ相撲に勝っても駄目だ』
  『‥‥‥‥』
  『さあ、胆試しだ。一二三で叩いて逃げ出そう』
  『逃げる胆試しなんかありません』
  『怖いものだから理屈を言っている』
  『それじゃ刺されても知りませんよ』
と正三君も今はよんどころなく鉄砲を逆にした。
  実は二人とも怖いのだった。しかしこうなるとお互いに意地で仕方がない。木の枝を分け蜘蛛の巣を払って奥深く進んだ。実に大きな巣だ。一年や二年で出来たものでない。電灯の笠ぐらいある。諺にも蜂の巣を突いたようだという。既に三発見舞われて、ブンブン唸っている。それを叩いたのだからたまらない。二人は殆ど同時に、
  『アッ!』
と叫んで、その場に平伏(ひれふ)した。顔と頭をやられたのである。今は見栄も外聞もない。主従先を争って逃げ出した。
  『痛い。頭中が熱い』
と照彦様は畑まで来て立ち止まった時、涙を流していた。
  『ひどい目にあいました。若様、こゝで冷やしましょう』
と正三君は傍(かたわら)の井戸を指さした。二人はそこで応急手当に取りかゝった。
  『内藤君、君は変な顔になったぞ』
  『若様も右のお目が腫れています』
  『そうかい?目も痛いが、頭がヒリヒリする。刈りたてだからたまらない』
  『お額のところも少し腫れて来ました』
  『これは早く何かお薬をつけて貰った方が宜い。行こう』
と照彦様が促がした。
  二人が腫れぼったい顔を現して、一部始終を申上げた時、奥様はアンモニアを取り寄せて、お手づから塗って下すった。
  『ひどく刺されたものね。お悪戯(いた)をするから罰が当ったのですよ』
とおっしゃっただけで、別にお小言もなかった。しかし女中が傍(はた)からクスクス笑ってばかりいたので、照彦様は怒って、
  『失敬な奴だ』
ときめつけた。正三君もこれには同感だったが、奥様は、
  『照彦も内藤さんもこの鏡を御覧なさい。藤やが笑うのも無理はありませんよ』
と注意して下すった。二人は姿見の前に立った時、すっかり悲観してしまった。銘々、自分だけはそんなでもなかろうと思っていたのである。


  間もなく晩餐の席上、この二つの顔が問題になった。朝と昼は若様方だけのことが多いが、晩餐は洋間の食堂だから、お殿様も御一緒に召し上がる。家来で毎晩こゝに居並ぶのは正三君唯一人、光栄とも恐縮とも考えているところである。お殿様はこの機会を利用してお子様方と親しくお語らいになる。その晩、正三君は照彦様と申し合わせて成るべく俯向いていた。正三君が末席でその直ぐ上が照彦様だから、いゝ塩梅にお殿様から程遠い。お兄様方もお姉様も二人が蜂に刺されたことは既に御承知である。お殿様の目にさえ留まらなければ宜しい。
  食事半ばに、
  『照彦は今日から学校が始まったのかな?』
とお殿様がお尋ねになった時、照彦様は、
  『はあ』
と頭を下げたまゝ答えた。
  『内藤はどうだな?学校が気に入ったかな?』
  『はあ』
と正三君も面を上げなかった。
  『内藤、お前は私の前でも遠慮をしちゃいかんよ』
  『はあ』
  『顔を上げて返辞をしても宜しい』
とお殿様は単に遠慮と思っていた。
  『はあ』
と正三君はよんどころない。腫れた方が見えないように頭の尖(とんが)りだけをお殿様の方へ向けた。その恰好がいかにもおかしかったので、奥様がクスクス笑い出した。
  『どうしたな?』
  『オホヽヽヽ』
  『お父様、内藤君も照彦も今晩は御覧に入れる顔じゃありません』
と一番上の照正様が素っぱ抜いた。
  『うむ?何の顔?』
  『蜂に刺されました』
  『ふうむ。それはいけなかったな。照彦、此方を向いて御覧』
  『はあ』
と照彦様はもう覚悟した。
  『成程、豪い顔だ。内藤』
  『はあ』
  『おやおや、これもひどい。二人とも何かお能の面に似ているよ』
とお殿様が如何にも感じたようにおっしゃったので、一同大笑いになった。
  『裏の林へ入って巣を取ろうとしたのだそうでございます』
と奥様が説明して下すった。
  『兎に角、世の常の顔じゃない。それで明日学校へ行けるかい?』
  『明日は日曜です』
  『あゝ、そうか』
とお殿様は例によって日曜を御存じない。
  『明日中に精々縮めるそうです』
と照常様まで打ち興じた。
  『内藤さんは照彦のお相伴でございますよ。お可哀そうに』
とお姉様が同情して下すった。
  『無論発頭人は照彦さ。しかし痛かろう?』
  『頭の方が未だチクチクします』
  『頭もやられたのかい?内藤はどうだな?』
  『もう何ともありません』
  『照彦は昨今よく頭へ祟るな』
  『もともと頭が悪い上に散々です』
と照彦様は頭を掻いていた。
  日曜の晩から自習が始まった。伯爵家には学校の教場ぐらいの学習室がある。若様方は三人、こゝで勉強をする。年配の家庭教師が三人、それぞれ大きな机に坐っている。英語の先生と数学の先生と国漢文の先生だ。そこへ若様方が代りがわりに行って、明日の予習とその日の復習をして戴く。学監の安斉先生は別の机に陣取って、若様方の勉強ぶりを拝見しているが、実は先生の監督も兼ねている。家庭教師は元来やりにくいものである。教室で教える時のように、
  『こら、怠けると落第させるぞ』
といった風な威(おど)しが利かない。まして伯爵家のは皆家来だ。若殿様だと思えば、自然御遠慮を申し上げる。少しお厭なお顔をなさると、
  『それでは今晩は先づこの辺までに致しましょうかな』
と御機嫌を伺う。その折、安斉さんは、
  『えへん』
と咳払いをするのが役目の一つだ。すると先生は、
  『しかし堅忍不抜の精神をお起しにならないと学問は大成致しません。矢張り切りまで参りましょう』
と言って又続ける。以前勤めていた英語の先生は雑談の序(ついで)に、
  『学校は百貨店のようなものです。授業料は商品切手です。品物は学問、商品切手を出して手ぶらで帰って来る人がありますか?授業料を出す以上は学校から学問を充分買って来なければいけません』
と譬(たと)えをもって誘導を試みた。決して悪意はない。ところが頻りに咳払いをしていた安斉さんは、
  『吉田さん、一寸来て下さい』
と血相を変えて、先生を学監室へ引っ張って行った。
  『何御用でございますか?』
  『貴公は不届千万だ。学校を百貨店とは何事か?学問はそんなものじゃない』
  『物の譬えです』
  『譬えにもよりけりだ。孔孟の道を百貨店の仕入れ物と一緒にする馬鹿が何処にある?教師からしてそういう不料簡だから、世道日に衰え人心月に荒(すさ)むばかりだ。ちっと反省しなさい』
  『いや、私には私の主張があります』
  『それでは反省せんか?』
  『しません。御当家の家庭教師は唯今限り御免蒙ります』
と吉田先生も一こくものだったから、席を蹴って帰ってしまった。余程癪に障ったと見えて、
  『‥‥貴公の如き前世紀の怪物が花岡伯爵家の子弟教育に従事するは身の程知らず、不届千万なり。時勢を見よ。時勢を見よ‥‥』
という手紙を辞職届に添え寄越した。どっちもどっちだ。若い先生は大抵若様方と安斉先生の間に板挟みになって兔角長続きがしない。安斉先生はその都度、
  『この頃の人間は君公御馬前の精神が足りない』
と慨嘆して、現在のような中老の先生ばかり採用することにした。
  さて、その晩、照彦様と正三君は国文と英語の予習をやった。先生は二人ともナカナカ念入りで、
  『こゝでは先生がこの熟語を本から離して訊くかも知れません。その時は今申し上げた通りに答えるのです』
と一々教室の駈引きまで教えるから、二時間ばかりかゝった。学校の授業と少しも異なるところがない。照彦様は中央の机へ戻ってから、欠伸(あくび)を為ながら、
  『どうも頭へ入らない。不断からいけないところへ蜂に刺されて突っ張っている』
と愚癡をこぼした。これは一つには余り出来の好くないところを初めての正三君に見せたから、その言訳の積りだった。
  『そんなこともありますまい』
  『いや、蜂の毒が頭の中へ沁み込んでいる』
  『ところで今度は数学ですか?』
と正三君が訊いた。


  『明日は数学はないよ』
  『なければやらなくても宜いんですか?』
  『大きな声を出すなよ』
と照彦様は安斉先生の方を偷み見て、安心の胸をたゝく真似をしながら、
  『時間割にないものをやっちゃ損をする』
と鼻を鳴らした。自習がいかにも負担のようだった。
学校とお屋敷
  月曜日に登校した時、照彦様と正三君の顔は同級生の注目を惹(ひ)くくらい未だ腫れぼったかった。
  『花岡さん、どうしたんだい?』
と親しい連中が取り巻いた。照彦様は蜂の巣の一件を話して、
  『顔より頭の方がひどいんだよ。帽子を被(かぶ)ると痛い。蜂の奴等、矢っ張りこゝを狙うに限ると思ったんだろう』
とついでながら頭の好くないことを主張した。
  『二人ともやられたのかい?智恵がないなあ。君達の仇討ちに僕が退治てやろうか?』
と高谷君が言った。
  『とても駄目だ。大きな巣だぜ。何十疋(ひき)ってブンブンいいながら守っている』
  『何十疋何百疋いたって同じことだよ。裸体(はだか)で行けば宜い。蜂って奴は出ているところを狙って刺す。しかし裸体で行くと、すっかり出ているから何処を刺そうかと思って迷ってしまう』
  『まさか』
  『本当だよ』
  『本当とも。それから口笛を吹きながら行く。蜂は口笛が大嫌いだ』
と細井君が横から口を出した。
  『口笛を吹くと逃げるかい?』
  『逃げないけれど、じっとして考えている。その間に巣を叩き落とすのさ。訳はない。お茶の子だ』
  『それじゃ君達は僕の家へ来て退治てくれるか?』
  『宜いとも』
  『今日来るか?』
  『行こう』
と直ぐに約束が成立した。
  華族様の若様は兎に角、民間に育ったいたづらっ子なら、中学校へ入るまでに蜂の巣の一つや二つは必ず取っている。高谷君も細井君もそれだった。蜂について特別の研究が積んでいるのではない。裸体と口笛のことは年寄から聞いた理論の受売りで、未だ実地に応用していない。一寸法螺を吹いたのだった。この故にその日放課後、番町の花岡家へ立寄って林の中の蜂の巣に見参した時、
  『これは大きい』
と言って首を傾(かし)げた。何十疋となく守っているばかりか、彼方此方にブンブンと雄飛しているから、とても裸体になる勇気は出ない。物置の軒先なぞにぶら下がっているのとは桁が違う。
  『僕と内藤君がこゝで口笛を吹きながら、君達の制服を持っていてやる』
と照彦様はそんなことに頓着なかった。
  『花岡さん、本当に取っても叱られやしないのかい?』
と高谷君は今更念を押した。
  『大丈夫だよ』
  『しかし惜しいなあ。こんな大きなのは珍しいぜ』
  『これは取らないで置くと倍にも三倍にもなって今に博覧会へ出せる』
と細井君も保存説を主張した。
  『裸体になってやれば訳はないんだけれど、取ってしまえばもうおしまいだぜ。余(あんま)り大きいから惜しいよ』
  『こんな立派な家を拵えているものを宿なしにしちゃ可哀そうじゃないか?』
と巣を褒めてばかりいる。ナカナカ利巧な子供だ。細井君は一度口笛を吹きながら稍(やや)近くまで忍び寄ったが、慌てて戻って来て、
  『見給え。皆じっとして考えていたろう?口笛が怖いんだ』
と説明した。どっちが怖いんだか分らない。次に高谷君は、
  『広いなあ、花岡さんのところは。何かして遊ぼう』
と全く別のことを発起した。
  夕刻、高谷君と細井君が帰って行った後、正三君は学監室へ呼び込まれた。
  『内藤君、今日遊びに来た子供は同級生ですか?』
と安斉先生が訊いた。
  『はあ』
  『成績の好い子供ですか?』
  『さあ。よく存じません』
  『無論身許は分りますまい?』
  『はあ。僕は入ったばかりですから』
  『お学友には特にあなたを選んであるのですから、たとい同級生でも胡散(うさん)なものをお屋敷へ連れて来てはなりませんぞ』
  『はあ。そうでした』
と正三君は遲蒔きながら気がついた。安斉さんのおっしゃることは無理でない。
  『何様の御家来で何石の御子息と分っていて、品行方正学術優等のものなら、又詮議の仕様もあります。若様が連れてお出でになったことは私にも分っていますが、これからはあなたがお側にいてお諫め申す。お分かりかな?』
  『はあ』
  『学校でも若様のお遊び相手はあなたが吟味する。玉石混淆ですから、その中から然るべく人を選んで下さい。お分かりかな?』
  『はあ』
  『あなたも遊び盛りを辛かろう。しかし御奉公です。むづかしいことばかり註文する老人だと思って、まあまあ、堪忍するさ』
とシンミリ言って、安斉先生は正三君の頭を撫ぜてくれた。怖いようでも矢張り情の人だ。正三君は大層嬉しかった。
  それから二週間たった。照彦様は呑気だが、正三君は常に気を使っているから、学校の様子が略(ほぼ)分った。先づ安心したのは照彦様が同級生から馬鹿にされていないことだった。家来としては君辱められるのが一番恐ろしい。同級生は何々君と君づけで呼び合うが、照彦様だけは花岡さんで通っている。自ら貴公子の威厳が備わっているからだろうと正三君は最初の中極く単純に解釈していた。殊に高谷君と細井君は照彦様贔屓(ひいき)で、
  『僕達はこの間花岡さんの家へ行った。実に大きな蜂の巣があるぞ』
  『僕は花岡さんの家で柔道を習った。花岡さんは柔道が出来る』
と頻りに花岡さんを持ち出す。しかし間もなく正三君はこの「花岡さん」が秋山先生の口癖から来ていることを承知した。秋山さんは同じく花岡家の旧臣だ。
  先生方は出席簿を呼ぶ時、
  『坂本。井上。上村』
と呼び捨てにする。席順は成績順でもイロハ順でもなく、身長順だから、照彦様と正三君は中軸になる。ところで秋山先生の点呼は一種独特だ。
  『坂本。井上。上村』
と規定通り呼び捨てで始めるが、照彦様から三人前へ来ると急に、
  『細井君。島原君、庄司君』
と君づけにして、次に、
  『花岡さん』
とやる。それから、
  『内藤君、中川君、関根君』
と又三人君づけで、以下呼び捨てに戻る。若殿様が教室にいると、先生はやり悪(にく)い。


  『あれは家来だから、あゝするんだ』
  『後先の三人はお相伴だ』
と同級生も察している。但し秋山先生は至って評判が好い。その先生が特別に敬意を表している若様だと思うから、皆、花岡さんと呼ぶ。正三君は兎に角好い徴候だと考えた。
  しかし同級生には数名の無法ものがいた。照彦様も他の生徒同様時折彼等の圧迫を免れ得なかった。就中(なかんづく)堀口という落第生は全級の持て余しものだった。不良分子は皆此奴の子分になっていた。級担任の橋本先生は夙(つと)に見るところあって、この生徒を教壇の直ぐ前に坐らせて置く。身長順では上の方だが、後にいると悪戯をして困る。前列に据えて絶えず睨んでいなければならない。実に厄介な代物(しろもの)だ。落第するくらいだから学問は出来ないが、腕力は強い。皆恐れている。此奴が或日のこと、運動場で正三君と行き違いざま、正三君の帽子を払い飛ばして知らん顔をしていた。これが堀口生の常套手段だ。出ようによっては喧嘩を仕掛ける。
  『何をするんです?』
と正三君はムツとした。
  『家来!貴様は花岡の家来だろう?』
  『家来で悪いですか?』
  『悪いといつ言った?さあ、いつの幾日(いつか)に言った?』
と堀口生は肱を張って押して来た。喧嘩は手も口も優秀だ。正三君は行き詰まって。何とも答えることが出来なかった。
  『覚えていろ』
と無法ものは言いがかりも甚だしい。
  この光景を見ていた高谷君は後から、
  『君、堀口と喧嘩をしちゃいけない』
と注意してくれた。
  『何故?』
  『彼奴(あいつ)は不良少年だ。皆困っている』
  『先生に言いつけてやる』
  『先生も困っている。先学期は退校になりそうだったが、お母さんが泣いてあやまりに来た。何をするか知れない奴だから、相手にならない方がいゝ』
  『誰にでもあんなことをするのかい?』
  『皆にする。しかし黙っていれば、もうしない』
  『厭な奴がいるもんだなあ』
と正三君はその日一日心持が悪かった。
  高谷君と細井君には二週間ですっかり馴染みになった。お互いにもうちっとも遠慮がない。正三君は二人がお屋敷に遊びに来たお蔭で安斉先生から注意を受けたけれど、それを償(つぐな)って余るものがあった。高谷君は二番で細井君は三番だ。一番で級長の松村君諸共(もろとも)、級の善い勢力を代表している。照彦様の為にも申分ない朋輩である。友達は偶然の機会で定まることが多い。主従蜂に刺されて顔が腫れたものだから、高谷君と細井君が巣を見に来た。その日夕方まで打ち寛(くつろ)いだのが始まりで、以来学校では始終一緒だ。
  『内藤君は府立から来た秀才だよ』
と他の善良な生徒にも引き合わせてくれる。何様の御家来か分らないが、学術優良品行方正だけは安斉さんの註文にはまっている。しかし何処までも厄介なのは堀口生だった。正三君は間もなくこの無法ものが誰にでも食ってかゝることを認めた。
  或雨の日の休憩時間に、両三名の生徒が、
  『田代先生が休みだぞ』
という吉報を掲示場から齎(もたら)した。級生一同は、
  『うまいうまい。有難い有難い』
と手をうって喜んだ。小学校の一年生は無暗に学校へ行きたがるが、中学校の一年生は無暗に休みたがる。
  『松村』
とこの時堀口生が大きな声で呼んだ。この悪太郎は誰でも呼び捨てにする。
  『何だい?』
  『繰り上げにして来い』
  『よしよし』
と承知して、級長の松村君は教員室へ向ったが、程なく戻って来て、
  『駄目だよ。橋本先生が補欠に来る』
と報告した。
  『何だ?おケツだ?』
と不良の堀口生は好んで汚いことを言う。子分共はおべっかを使って笑った。
  『補欠だよ』
  『馬鹿!』
  『何が馬鹿だい?』
と級長も少し癪に障った。
  『おケツじゃ儲からない。おまけに、やさしいものとむづかしいものを取り換えて来る奴があるか?』
  『でも仕方がない』
  『貴様が腕がないからよ。去年の一年級は先生が休めばいつでも繰り上げになったぞ』
  『去年は去年だ』
  『何!』
と堀口生はもう腕力を出して、松村君を突き飛ばした。
  『堀口、乱暴なことをするな』
と細井君が出て来た。
  『何だ!』
  『何だ!』
と双方啀(いが)み合ったが、皆に止められてしまった。
  級長でもこの通りだ。堀口生は弱いと見込みをつけたら何処までも苛(いじ)める。何ともされないのは細井君初め稍腕っ節の強い数名に過ぎない。正三君のような新入生には殊に興味を持って突っかゝって来る。教室でも運動場でも因縁をつける機会を探している。しかし正三君が相手にならないものだから、業を煮やして、或時教室の黒板へ、
    花岡の家来、内藤正三位
と書いた。尚蝙蝠傘らしいものを書いて、その下に「若さま」 「家来」と瘤のある顔を入れた。どっちも目から涙が流れている。蜂に刺されたことを諷したものだった。
  『傑作々々』
と子分共が褒めた。餓鬼大将、得意になって、
  『消しちゃいけないぞ』
とこれを先生の御覧に入れるつもりだった。この辺は余程馬鹿だ。
  次の時間は数学で、橋本先生が入って来た。堀口生は、
  『やあ、面白いなあ!』
と反り返って、先生の注意を黒板へ向けようとした。先生は何ともおっしゃらずに落書を拭(ふ)き消したが、その黒板拭を持って進み出て、堀口生の頭をポカリと叩いた。顔が粉屋のように真白になった。


  『先生、ひどいです』
  『ひといって、君だろう』
  『おやおや』
と堀口生は恐れ入った。級担任の橋本先生には頭が上がらない。
  悪い勢力は善い勢力よりも蔓(はびこ)り易い。堀口生は先生から一本参ったが、黒板の広告は充分に効果を奏した。以来正三君に、
  『おい、家来、しっかりしろ』
  『やい、正三位』
なぞとからかうものが出て来た。正三位は間もなくすたって、家来だけが正三君の綽名(あだな)として残った。尤(もっと)も善良組は決してそんなことを言わない。どっちつかずの連中の半数と不良組の全部がこれを用いる。
  この通り学校で気を使う上にお屋敷へ帰っても自分の家のように寛げないから、正三君の立場はナカナカ辛い。晩の予習や復習は自分としては何でもないが、照彦様は自ら頭が悪いと常々主張するくらいだから、出来が宜しくない。足の弱いものと一緒に旅をするようなものだ。始終待っていてやらなければならない。正三君は学友として勤め始めてからこの一月の中に著(いちぢる)しく力がついている。元来優秀なものが学校以外に老巧な家庭教師について予習と復習を受けるのだから、これは当然のことだった。
  『僕は君とは頭が違うんだから、君が進みたがると僕は困る』
と照彦様は苦しがる。
  『君は勉強して僕をいじめるつもりか?』
  『僕に忠義を尽す気なら、もっと怠けろ』
なぞと無理なことばかりおっしゃる。
  照彦様は他のことでは何をしても負けない気だが、学問となると最初から諦めている。ちっとも本気にならない。学習室で一緒の机に坐って先生の講義を聴いている時、正三君は地震が始まったのかと思うことが度々ある。しかしそれは照彦様の貧乏揺すりだ。頭を掻いて見たり足を掴んで見たり、しばらくもじっとしていない。全く上の空だ。
  『散乱心を戒めて』
と時折学監の安斉先生が朗読口調で御注意申上げる。すると照正様照常様までシャキッとする。安斉さんが一番怖い。
  このお兄様方にしても照彦様と大同小異だ。御自分で勉強しようという気がない。正三君は一度、照常様が書生の杉山に数学の宿題を頼んでいるところへ行き当った。
  『杉山、こゝを五番から七番まで明日の朝までにやって置いてくれ。先生に習うと覚えなければならない』
という立派なお心掛けだった。こういう調子だから、時稀(ときたま)安斉先生がお顔を見せないとひどい。
  『先生、もういゝ加減にやめましょう』
なぞと言い出す。
  『まあまあ』
と先生方はしばらく踏みこたえるが、結局譲歩する。照彦様に至っては正三君の耳を引っ張って、
  『少し休めよ』
と机の上に頬杖をつく。
  『お疲れですかな。それではしばらく』
と先生方はもとより諦めている。
  正三君は安斉先生が追々(おいおい)怖くなくなって来た。それはこの老人の信任がダンダン増して来たからである。時々学監室へ呼び込まれるが、註文を承わった後で、いつも犒(ねぎら)って貰える。現にこの間は、
  『内藤君、君は照彦様をどう思いますか?参考の為め腹蔵なく話して下さい』
という懇談だった。
  『若様は頭が悪いと思っていられます。これが一番いけません』
と正三君は日頃感じているままを述べた。
  『そこだ。そこだ』
と安斉先生は二度頷いた。
  『頭が好いとお思いになれば、屹度(きっと)成績が好くなります』
  『そこそこ』
  『先生もそうおっしゃって下さい。僕もなるべく申上げます』
と正三君は一ぱし定見を持っていた。安斉先生は褒めてくれた。
  土曜日は自習がないので照彦様の書き入れになっている。昼からお兄様方の真似をして馬に乗って見た。正三君は馬の背中にへたばりついて皆に笑われた。初心だから是非もない。その折、
  『内藤君、僕は馬に乗れても悲しいことがある』
と照彦様が草原に坐ったまゝ言った。
  『何ですか?』
  『僕は叔父様のように陸軍将校になりたいんだけれど駄目だ』
  『何故です?』
  『軍人には試験がある。しかし僕は頭が悪い』
  『若様、あなたは頭が悪いことは決してありません』
と正三君は力強く否定した。照彦様が目を見張って、
  『君は何故そんな怖い顔をする?』
と驚いたくらいだった。
  『あなたが頭が悪い頭が悪いとおっしゃるなら、僕はもうお暇致します。それではお相手をしても何にもなりません』
  『君が帰れば僕は尚駄目になる』
  『若様、あなたはランニングでは僕に負けないでしょう』
  『大抵勝っている』
  『相撲はどうです?』
  『あれからやらないけれど、そうそう負けないぞ』
  『弓は?』
  『弓は君の方が下手じゃないか?』
  『足も丈夫、腕も丈夫の人が何故頭だけ悪いんですか?』
  『‥‥‥‥』
  『同級生を見ても足の丈夫さは大抵同じです。腕の力も余り違いません。頭だって、病気をしなければ、皆同じの筈です』
  『理屈はそうさ』
  『あなたは本気になって勉強しないからいけないんです』
  『何だ?君は学問が出来ると思って、先生になった積りだな?』
  『そうじゃありません』
  『いや、僕を叱る気だ。失敬な!』
  『若様、僕はもう家へ帰ります』
  『帰れ、余りだ』
  『帰ります』
と正三君はおどかしばかりでなかった。これでは実際仕方がないと思って立ち上がった。
  『早く帰れ』
  『それでは失礼致します』
  『君、内藤君』
  『‥‥‥‥』
  『君、君』
と照彦様は追って来た。


  『何ですか?』
  『僕が悪い』
  『若様がお悪いことはありません』
  『僕はもう頭が悪いとは言わないからいてくれ給え。君と同じように勉強するからいてくれ給え』

家来の一日
  『おい、内藤正三位』
と級(クラス)の持て余しもの堀口生が正三君を呼んだ。運動場で二人出会い頭だった。
  『正三位!家来!』
  『‥‥‥‥』
  『内藤!』
  『何です』
と正三君は初めて答えた。
  『用があるから一寸来い』
  『僕は君に用はありません』
  『まあ宜いから来い。好い話があるんだ』
と堀口生は正三君の腕を捉まえて、小使部屋の後へ引っ張って行った。
  『どういう話ですか?』
  『そう怖い顔をするな。君と仲よしになってやる。上級生に苛められたら、おれのところへ言って来い』
  『そんなことはどうでも宜いです』
  『君はおれを信用しないのか?』
  『‥‥‥‥』
  『おれだって悪い人間じゃないぞ。お母さんも伯父さんもそう言っていらあ。先生が無暗に叱るものだから、態(わざ)と暴れてやるんだ。少しは同情してくれ』
  『‥‥‥‥』
  『おれは学問が出来ない。君は府立から来た秀才だそうだ。それで君はおれを馬鹿にしているのか?』
  『そんなことはありません。僕は誰でも同じです』
  『それは有難い。本当に同じか?』
  『同じです』
  『よし。同じなら相談があるんだ』
  『何ですか?』
  『君は花岡の家来だ。この間高谷と細井を花岡のところへ遊びにつれて行った。おれもつれて行ってくれ。頼む』
  『あれは僕がつれて行ったんじゃありません』
  『でも一緒に帰って行ったじゃないか?おれは見ていたぞ』
  『あれは照彦様がお誘いになったんです。僕はその為め先生に叱られました』
  『橋本先生か?』
  『いゝえ、お屋敷の先生です』
  『先生がいるのか?』
  『四人います』
  『凄いなあ』
  『厳しいです』
  『しかし悪いことをしなければ叱られやしない。僕も花岡に頼んで一遍遊びに行く』
  『それは困ります』
  『何故だ?』
  『高谷君や細井君さえいけないんです』
  『こん畜生!』
と堀口生はいきない正三君の胸倉を取った。
  『何です?』
  『高谷君や細井君さえとは何だ?さえとは何だよ?成績が悪いと思って、おれを馬鹿にするのか?』
  『そういうわけじゃありません』
  『じゃどういうわけだ?』
  『高谷君と細井君は君も知っている通り照彦様の仲よしです。それでもいけないんです。先生が厳しいですから、学校の方が遊びに来ると僕が叱られます』
  『嘘をつけ。高谷と細井は又今度行くと言っている』
  『それは僕の知ったことじゃない。放し給え』
と正三君は堀口生の手を捉まえて外そうとした。頭の上で始業の鐘が鳴り始めたのである。
  『よし。若し他の奴が花岡のところへ遊びに行ったら、貴様を唯置かないぞ』
  『放し給え。もう時間だ』
  『放さない。貴様を遅刻にしてやるんだ』
  『君だって遅刻になる』
  『余計なお世話だ。やい、家来!正三位!』
と言いさま、堀口生はグイッと引いて足をすくった。正三君は危うく倒れるところをよろめいて、宮守(やもり)のように小使部屋の側面にへたばりついた。堀口生は投げ損ねたと見ると、拳を固めて突きに来た。活動で見覚えた拳闘の応用だ。不良だから詰まらないことばかり研究している。温厚な正三君もこうなると自衛上止むを得ない。覚悟を極めて身構えた。しかしその時、鐘を鳴らし終わった小使の関が、
  『こらこら!』
と呶鳴った。この男は兵隊上がりで生徒監督をもって自ら任じている。堀口生は直ぐに逃げて行ってしまった。


  正三君は黙っていたが、一日心持が悪かった。お屋敷へ帰ってからも頻りに考え込んでいた。堀口は落第生だから、年が一つ多い。図体が大きいから或は二つ多いのかも知れない。随って腕力も強い。
  『一番強い奴が一番悪い奴と来ている。其奴と始終喧嘩をするんじゃ堪らない』
と思った。文明人も小学校から中学校の二三年へかけては犬や猫と同じことだ。権力が図体で定まる。その図体は年で定まる。一つの子と三つの子を一緒の床へ入れて置けば、後者は前者を恐らく殺してしまうだろう。七つの子は九つの子に敵わない。十三の子が十五の子に勝てるか知ら?
  『しかし何という失敬な奴だろう?僕ばかりじゃない。皆困っているんだ。負けていると増長する』
と次いで正三君は義憤に燃えた。理は無論此方にある。出るところへ出れば文句は言わせないのだが、先方には図体と腕力がある。所謂「苛めっ子」だ。蛙に臨む蛇のような優勢を持っている。
  その夕刻、食堂から部屋へ戻る廊下で、
  『おい、内藤正三位』
と照彦様が呼びかけた。堀口生のことで煩悶していた矢先、正三君はひとく不愉快に感じて、返辞をしなかった。
  『正三位、君は嘘をついたぞ』
  『‥‥‥‥』
  『内藤君』
  『はあ』
  『正三位』
  『‥‥‥‥』
  『分った。正三位が気に入らないんだね?』
  『当り前です。若様までそんなことをおっしゃると思うと僕は悲しくなります』
  『冗談に言ったんだ』
  『‥‥‥‥』
  『もう言わないから憤るなよ』
  『憤りやしません』
  『正三位は僕が悪かったけれど、君は嘘をついているぞ』
  『何故ですか?』
  『君は僕が予習を自分でやるようなら、僕の言うことを何でも聞くと約束したろう?』
  『致しました』
と正三君は学習室の戸を開けた。照彦様は先に通って、
  『僕は自分でやっている。昨日なんか算術が一題半出来た。今日も国語を自分でやる。それに頭が悪いなんてこともあれから一度も言いはしない』
  『それに限ります』
  『褒めていちゃいけないよ。狡い奴だな』
  『どうすれば宜いんですか?』
  『まるで詐欺師だね、君は。人を瞞(だま)す名人だ。もう勉強してやらないから宜い』
  『高谷君と細井君のことですか?』
  『そうさ』
  『いづれ安斉先生にお願いして見ましょう』
  『これから直ぐにお願いしてくれ給え。いづれなんてことは手間が取れるから嫌いだ』
  『承知しました。しかし若様、僕は今日高谷君と細井君のことで堀口に喧嘩を吹っかけられました』
  『ふうむ』
  『堀口も遊びに来たいんです』
  『あんなものは困るよ』
  『それで僕もそう言ったんです』
と正三君は一部始終を物語った。
  『それじゃ高谷君や細井君が来ると工合が悪いね』
  『いゝえ、構いません。彼奴は高谷君や細井君が来なくても、他のことで喧嘩を吹っかけるに定まっています』
  『強いぞ、堀口は』
  『しかしかゝって来れば仕方ありません』
  『やるか?』
  『やります』
  『その時は皆で手伝う。細井君は是非一遍やらなければ駄目と言っている』
と照彦様は力をつけた。
  正三君は間もなく学監室へ出頭した。安斉先生は頑固のようだが、決して分からず屋でない。正三君の努力を理解して、顔に似合わぬ優しい言葉をかけてくれる。
  『気のついたことは何でも話して下さい。皆若様のお為です』
と、殊にこの間照彦様の頭の問題を申上げてからは信用が増している。
  『先生』
  『さあ、此方へ』
と安斉さんは椅子を薦めて、
  『どうですかな?』
と訊いた。無論照彦様のことである。先頃から頭を悪いと思わせない方針で師弟協力している。
  『巧(うま)く行っています。もうおっしゃいません。御予習も半分ぐらい御自分でなさいます』
  『それは結構だ。御自力はどんな工合ですか?』
  『未だ分りません』
  『長年の習慣ですから、そう右から左へは参りますまい。ジリジリ御誘導下さい。御本人にもおっしゃらせず、側(はた)からも申上げないようにして』
  『ところがチョクチョク申上げる方があるので困ります』
  『誰だね?不都合ものは。まさか先生方じゃあるまい』
  『いゝえ、奥様でございます』
  『成程。奥様はよくおっしゃるな。御謙遜の積りで、頭の悪い子ですからとおっしゃる』
  『それからお殿様でございます』
  『成程。殿様も確かにおっしゃる。これはいかん。本元を忘れていた。ハッハヽヽヽ』
  『先生』
と正三君は安斉さんの御機嫌なのを見て相談を持ち出す算段だった。
  『何だな?』
  『僕は照彦様に頼まれたことがあるんです。何でも自力で御勉強になる代わりに、お兄様方と同じにして戴きたいとおっしゃるんです』
  『はゝあ、條件をおつけになったな?』
  『照正様や照常様のところへは学校のお友達が始終お遊びにお出でになります。照彦様はそれがお羨ましいのです』
  『それでは同じように学校の朋輩をお屋敷へ呼んで遊びたいとおっしゃるのですかな?』
  『はあ』
  『学習院と市井の私立中学校とは同日に論じられません。照正様や照常様のところへお出でになるのは島津様でなければ毛利様、松平様に久松様、鍋島様に堀田様、どう間違っても皆天下の諸侯です』
  『はあ』
  『私立学校は民間ですから何が来るか分りません。矢場の息子、玉ころがしの息子、改良剣舞の息子‥‥』
と安斉先生は三十年昔の下等なものを枚挙した。
  『先生、そんなものは来ていません』
  『いや、新橋ステンショの下等待合室と思わなければなりません』
と何処までも三十年前だ。その頃は汽車の等級が上等中等下等と分かれていたのである。
  『しかし身分が相応で成績が好ければ若様のお為になると存じます』
  『それはどうせ教室で机を並べているんですから、詮議の余地のないことはありません。大勢ですか?』
  『いつか蜂の巣を見に来た高谷君と細井君とそれから級長の松村君です』
  『何様の御家来ですか?』
  『細井君のところは三井様の御家来らしいです』
と正三君は微笑んだ。
  『三井様という大名はない』
  『三井銀行へ出ているんです』
  『それなら銀行員です。浮浪人よりも宜しい。もう一人は何様の御家来ですか?』
  『白木様の御家来です』
と又々窮策だった。
  『白木様?これも聞いたことのない大名ですな』
  『白木屋の店員です』
  『内藤君はナカナカやるな』
と安斉先生は笑い出した。


  『先生、会社員や銀行員はいけませんか?』
  『折角ですが、もう少し身分がはっきりしないと困りますな』
  『陸軍少将の息子ならどうでしょう?』
と正三君は一生懸命だった。
  『陸軍少将というと旅団長、昔なら侍大将です。結構でしょうな』
  『級長の松村君は陸軍少将の息子です。この三人なら学問も品行も申分ありません。照彦様はお仲よしですから、時々お屋敷へお招きしたいとおっしゃるんです』
  『兎に角、私が会って見ましょう。御身分を伺って、メントル・テストにかけます。その上のことにして下さい』
と安斉先生はナカナカ用心深い。
  殿様と奥様は月に一度ぐらい若様方の御自習を御覧なさる。前触れなしにいきないお越しになるから、若様方は素(もと)よりのこと、家庭教師達が面食らう。正三君はその晩初めてこの御参観に廻り合せた。照彦様が国語の読方(よみかた)を有本先生に直して貰う間、自分も一心に黙読していたが、香水の薫りが鼻に迫って来たので、不図(ふと)顔を上げて見ると、それは奥様だった。同時に後の方で照常様の英語訳解が読みのところを妙に急き込んだ。
  『照常、速過ぎるぞ』
という声が聞えた。お殿様だ、正三君は真赤になった。若様方も一生懸命だった。息の詰まるような数分間が続いた。
  照彦様が再三直されて国語の読方を終わった時、
  『有本さん、御苦労でございます。頭の悪い子ですから、特別にお骨が折れましょう』
と奥様は先生を犒(ねぎら)う積りでおっしゃった。
  『エヘン』
と安斉先生が咳払いをした。
  『どう致しまして。内藤君、今のところを読んで御覧なさい』
と有本先生が命じた。正三君がスラスラと読み終わるのを待っていたように、奥様は、
  『よくお出来でございます。照彦とは全く違います』
と褒めた。
  『どう致しまして』
  『いゝえ。照彦や、お前は内藤さんの二倍も三倍もやらなければ駄目ですよ。頭の悪い分を勉強で取り返すのです』
  『エヘン』
  『油断をしてはなりませんよ。人よりも頭の悪いことを始終忘れないようにしましてね』
  『エヘンエヘンエヘン』
と安斉先世は続けさまだった。


  一番上の照正様は黒須先生の前で数学の問題と組討ちをしていた。
  『もう一息のところですよ。よくお考えなさいませ』
と先生が力をつけている。英語の矢島先生は訳解を終わって、
  『照常様、一つ書取りを致しましょう。御用意』
と命じた。
  『先生、明日は書取りはございません』
と照常様は不承知のようだった。
  『語学は書取りに限る。書取りをすると文章の構造を覚えるから上達する』
と殿様がおっしゃった。伯爵はお若い時、英国へ留学して英語がお得意だ。矢島先生は殿様がお見えになると、必ず書取りをやって御覧にいれる。
  『練習でございます。唯今お読みになったところを致しましょう』
と先生は口授を始めたが、照常様は用意がなかったから散々の不成績だった。
  『出来ないね』
  『‥‥‥‥』
  『相変らず頭が好くないな』
  『エヘンエヘン』
  『一寸見せなさい。それぐらいの文章が分っていなくちゃ困る』
と殿様は照常様の教科書を取って撥(はぐ)った。すると写真が三四枚落ち散ったので、
  『おやおや!』
と驚いたのも道理。それは皆西洋の活動女優のだった。
  『‥‥‥‥』
  『こんなものを教科書の中へ入れて置いちゃいけないね』
  『はあ』
  『もっと本気になって毎日書取りをやって御覧。英語は漢文なぞと違って大切(だいじ)だからね』
  『エヘンエヘン』
  『何でございますの?まあ、活動の女優でございますの!照常や』
と奥様も呆れた。
  『‥‥‥‥』
  『これは私、卒業までお預り致しましょう』
  『はあ』
と照常様は頭を掻いていた。
  『照正は数学かな?』
と殿様は照常様を奥様に委せて次の机に移った。
  『はあ』
  『数学には同情する。高等科になっても未だあるのかね?』
  『はあ、此年(ことし)一年苦しみます』
と御長男照正様は得たり賢しで、顔を顰めてみせた。
  『親譲りなら、お前に数学の出来る筈がない』
  『どうもいけません』
  『家のものは皆数学がいけない』
  『エヘン』
  『語学の方はどうにかこうにかやるが、元来花岡家には数理の頭がないのらしい』
  『エヘンエヘンエヘン』
  『安斉は風邪を引いたかな?』
  『いゝえ、一向』
  『先刻から頻りに咳が出る。大切(だいじ)にしたが宜い』
  『はあ、有難う存じます』
  『それでは有本君、矢島君、黒須君、御苦労でした』
と殿様は一々御会釈を賜って、奥様と御一緒に退出した。廊下までお送り申上げた安斉先生が、
  『照常様、一寸学監室へ』
と時を移さず現れた。
  『はあ』
と照常様は立って行った。無論女優の写真を持っていた件で説諭を受けるのである。
  『好い気味好い気味!』
と照彦様が正三君の注意を呼んだ。
  『何ですか?』
  『お兄様と御一緒に内証で活動へ行かれた罰が当ったんだ』
  『こらこら、余計はことは言わないで勉強しろ』
と照正様が窘(たしな)めた。二人は英語の予習を受ける番だったので、矢島先生の机へ進んだ。

小さな胸の悩み
  『照彦様、如何でした?』
と正三君が訊いた。
  『知らん』
  『照彦様』
  『知らん。そんな失敬な奴は知らん』
と睨みつけて、照彦様は運動場をスタスタ歩き出した。
  それは算術の平常試験が済んだ後だった。照彦様と正三君と机が並んでいる。最初の中、照彦様は首を伸ばして正三君の答案を見ようとした。次いで、
  『おい、内藤、二番を教えてくれ。三番も四番もできない』
と囁いた。しかし内藤君はいかに君命でもこういう不正なことには応じなかったのである。
  『内藤正三位!』
と帰りには照彦様の方から呼びかけた。
  『‥‥‥‥』
  『余(あんま)りだぞ』
  『‥‥‥‥』
  『よくも僕をだましたな。君は僕の成績をわるくして自分ひとり褒められたいんだろう?』
  『照彦様、飛んでもないことをおっしゃいますな』
と正三君は漸く口をきいた。
  『いや、君は僕にこの間から自力々々って言っていた。平常試験を自力で受けさせて落第にする積りだったんだ。僕は一題しか出来なかったぞ』
  『もっと勉強なさればもう一題出来ています』
  『出来るもんか』
  『お出来にならなければお出来にならなくてもいゝです』
  『いゝことはない』
  『狡いことをするよりいゝです』
  『何だ?失敬な』
  『照彦様』
  『知らん。もう知らん』
と照彦様は外方(そっぽ)を向いて歩いた。
  お屋敷へついてから正三君は自分の部屋に入ったまゝ出て来なかった。照彦様はもう遊びたくなったが、呼ぶのは負けたようでいまいましいから、
  『エヘン』
と襖越しに咳払いをした。
  『エヘン、エヘンエヘン!』
と再三やったけれど音沙汰がない。それで、
  『やあ?虎が来た』
  『やあ!駱駝が来た』
  『やあ!熊が来た』
と大きな声で誘いをかけていた。折から廊下を通りかゝった照常様が、
  『何だ?熊だ?』
と聞き咎めた。自分のことだと思ったのである。照彦様はよせばいゝのに、
  『ヘン』
  『何?』
  『ヘン、卒業までお預り』
  『此奴!』
  『一寸学監室へ。ヘン。九官鳥ですよ』
とからかったものだから、照常様は入って来て、
  『失敬な!』
  『御免々々!』
  『こら!』
と腕を捻った。
  『痛い!』
  『さあ、どうだ?』
  『もう言わない。言いません。言いませんよ。内藤、内藤、助けてくれ』
  『照常様、照常様』
と正三君は襖を開けて、いきない腕に捉まった。
  『生意気!』
と照常様は正三君の頭を一つ叩いて出て行った。
  『あゝ、痛い痛い』
と照彦様は捻られた腕を擦っていた。
  『僕は頭を打(ぶ)たれました』
  『君が?』
  『えゝ』
  『間違ったんだろう?』
  『そうでしょうな』
と言ったが、正三君は叩かれる覚えがあるような気もした。
  『遊ぼう』
  『遊びましょう』
  『あゝ、痛い。君が直ぐ出て来てくれゝば、こんなことにはならない。これからは「虎が来た」と言ったら兎に角直ぐ出て来給え」
  『お呼びになったらいゝでしょう』
  『僕だって呼びたくないことがあるよ』
と照彦様は笑っていた。
  こんな工合で正三君と照彦様は行き違うと思うと直ぐ又打ち解ける。一月ばかりの中に幾度喧嘩をしたか知れない。いつも照彦様が無理を通そうとして失敗をする。それが一々教訓になるから、正三君も決して無駄奉公をしているのではない。お殿様も奥様もそれを認めていて下さる。殊に奥様は思いやりが好く、土曜日が近づくごとに、
  『内藤さん、決して御遠慮はいりませんのよ。今度こそ一晩ゆっくりお母さんのお乳を召上がっていらっしゃい』
と冗談ながらおっしゃる。正三君は無論家へ帰りたい。しかし同時に強い子だと思って貰いたい。そこで、
  『僕、未だいゝです』
とその都度我慢した。なお照彦様が放さない。土曜日は予習復習の責任がないから、二人で思い存分遊びたいのである。正三君に於いてもこれは決して辛いお相手でない。秋晴れの土曜日曜の早くたってしまうこと!


  正三君は家へ帰らない代わりに毎週怠らず手紙を書いた。殿様や奥様の御親切なことや照彦様と仲の好いことを報告した。家からはお父さんが二三度お役所の帰りに寄って様子を見て行った。しかし男親に男の子だ。
  『どうだね?慣れたかね?』
  『慣れました』
  『どうだね?勤まるかね?』
  『勤まります』
とどっちも強がっていて余り口をきかない。そこへ家令の富田さんが、
  『もうすっかりお馴染みになりましたから、少しも御心配ありません。丁度好いお相手です』
と保証してくれるから、正三君も拠(よんどこ)ろない。退(の)っ引きならず強くなるような傾向があった。
  試験のことで双方お冠を曲げた日の夕刻、二人はもうすっかり御機嫌が直って洋館の食堂へ入った。その卓上、奥様をお相手に話していられたお殿様が、
  『内藤』
とお呼びになった。
  『はあ』
と正三君はお殿様からお声のかゝるのを光栄としている。
  『内藤は豪いぞ。安斉先生が感心している』
  『‥‥‥‥』
  『しかし内藤、お前のお蔭で私も奥も安斉先生から叱られたよ。ハッハヽヽヽ』
  『オホヽヽヽ』
と奥様も共鳴した。
  『何でございますか?』
と御長男の照正様が訊いた。
  『お前達のことさ。お前達は勉強の仕方が間違っている。先生を頼って自分の頭を働かさないからいけない。と、内藤はこう見ている。もっともだ。私もそう思っている。安斉先生と相談して、これから勉強の方針を変えるから、その積りでいなさいよ』
  『はあ』
  『お前達は真剣になったことがないから、頭が好いのか悪いのか未だ本当に分らないのだ。それを悪いと定めてしまって、人を当てにしちゃいけない』
  『はあ』
  『照常、お前は学校の宿題を杉山にやらせるそうだが、どうだな?』
  『はあ。いゝえ。そんなことは‥‥』
と照常様は不意を打たれて面食らった。
  『そうかな?』
  『はあ』
  『兎に角、これからは成るべく自力で勉強する。いゝかな?照正も照彦も』
  『はあ』
  『内藤は豪い。よく気がつく。皆自分の頭が悪いと思ってはいけない』
とお殿様は安斉先生から注意を受けたのだった。しかしこれでは内藤が言ったとおっしゃらないばかりだ。正三君は真赤になっていた。
  『内藤さん』
と奥様がそれと察して寛がせる為お呼びになった。
  『はあ』
  『私、内藤さんにお願いがございますのよ』
  『はあ』
  『今度こそ私の言うことを聞いて是非お乳を召上がっていらっしゃい』
  『‥‥‥‥』
  『内藤は来てからもう幾日になるね?』
と殿様がお尋ねになった。
  『丁度一月でございますのよ』
  『はゝあ、そんなかね、もう。よく辛抱が続いた』
  『本当にお強うございます』
  『内藤も強いが、内藤のお母さんが強いのじゃ。お前ならとてもそうは待ちきれまい』
  『屹度迎いに参りますわ』
  『それも毎週だろう。ハッハヽヽヽ』
  『オホヽヽヽ』
  『内藤、その中に是非顔を見せて来なさい。一月も帰さないで置いては余り手前勝手で申訳がない』
  『恐れ入ります』
  『泊りがけがいゝ。日曜から土曜へかけて』
  『はあ』
  『お父様、日曜から土曜へは少し御無理じゃございませんでしょうか?』
とお姫様が真面目で訊いた。
  『そうか。これは一本参った。ハッハヽヽヽ』
  『オホヽヽヽ』
  『ハッハヽヽヽ』
と若様方も笑った。
  食後学習室へ戻るや否や、
  『内藤』
と照常様が呼んだ。
  『はあ』
と正三君も今度も身に覚えがあった。
  『君は誰の学友だ』
  『照彦様の学友です』
  『それなら余計なことをしゃべるな』
と言いながら、照常様は突如(いきなり)内藤君の襟を捉まえて首を絞めた。
  『こら、乱暴をするな』
と一番上の照正様が止めた。


  『でも失敬だ』
  『腕力はよせ。口で言えば分かる』
  『お兄様はお人が好い。お兄様のことも安斉先生は知っていられる』
と照常様は兎に角放した。内藤君はシクシク泣き出した。
  『お母様に言いつける』
と叫んで、照彦様は廊下を駈け出した。
  『こら。待て!』
と照常様が追って行く。
  『馬鹿で仕方がない。内藤君、泣くことはない。僕がついている。これからあんな乱暴はさせない。よく言い聞かせる』
と照正様が慰めた。
  『お前まで言いつけ口をするのかい?』
と間もなく照常様は照彦様を捉まえて来た。
  『でも、お兄様は乱暴です。先刻も僕の腕を捻ったじゃありませんか?』
  『しかしお前は僕のことを熊と言ったぞ』
  『あれはお兄様のことじゃありません』
  『嘘をつけ』
  『照常、好い加減にしなさい。安斉先生に聞える』
と照正様が窘(たしな)めた。
  『放して下さい』
と照彦様は身をもがいた。
  『言いつけるから放さん』
  『言いつけません』
  『それなら宜しい』
と照常様は漸く安心した。
  正三君は初めて他人の中で揉まれたような気がした。昼間頭を叩かれて夜首を絞められた。その前に照彦様との経緯(いきさつ)があったから、この日は妙に事件が輻輳したのである。家へ帰ったのはその次の土曜日だったから、殊に感慨が深かった。
  『正三や、大きくなったよ、お前は』
  『正ちゃん、いつまでも帰らなかったのね。お屋敷はどんな風?』
とお母さんや姉さん達が歓び迎えたことは言うまでもない。皆でしばらく取巻いていた。その中にお父さんや兄さんが戻って来て、
  『どうだ?正三、お屋敷は?』
と又訊くので、正三君は同じことを幾度も答えなければならなかった。
  『お屋敷ではお殿様や奥様と御一緒に戴くんですってね?』
とお母さんは夕御飯の時もお屋敷の話で持ちきった。
  『晩だけですよ』
  『御一緒の食卓に坐るんですってね?』
  『えゝ』
  『威張ったものね。御家来ではお前だけでしょう?』
  『えゝ』
と正三君は得意だった。
  『時稀(ときたま)お殿様からお言葉のかゝることがあって?』
  『始終ですよ』
  『まあ!どんなことをおっしゃるの?』
  『その時によります』
  『それはそうだろうね、いくらお殿様でも毎日同じことはおっしゃるまいから。お食事の時、お殿様とはどれくらい離れて坐るの?』
  『一間ぐらいのものです』
  『まあ、そんなにお近いの?そうして奥様は?』
  『奥様は丁度お母さんのところです。けれどもお給仕なんかなさいません』
  『それは当り前ですわ。オホヽヽヽ。お給仕はお小間使?』
  『えゝ』
  『無論西洋料理でしょうが、どんな御馳走がありますの?』
  『お母さん、そんな馬鹿なことを訊くものじゃありませんよ』
と兄さんの祐助君がむづかしい顔をした。
  『でも、参考の為ですよ』
  『僕には分らない御馳走ばかりです』
と正三君も食物に重きを置いていない。
  『正ちゃん、お姫様から直々お言葉の下がることがあって?』
と貴子姉さんが横取りをした。


  『えゝ、お部屋へ遊びに上がることもあります。そうそう。姉さん方のことをお訊きになりましたよ』
  『まあ!恐れ入りますわね』
  『園遊会の時には是非来て戴くんですって。一遍申上げたばかりだのに、貴子さんと君子さんでしたわねって、チャンと覚えていらっしゃいますよ』
  『まあ!嬉しいこと』
と君子姉さんも光栄身に余った。
  晩も正三君は伯爵家の楽しいことばかり話した。辛いからといって今更お断りも出来ない立場になっている。やり通す以上は家のものに無駄な心配をかけない方がいゝと思ったのである。それでお屋敷にいる時と同じように虚勢を張って、
  『僕はもう少しも遠慮しません。照彦様とすっかり仲好しになってしまって、家も同じことにしています』
と強いところを見せた。しかし一晩寝て起きると、又すっかり家の子に戻ってしまって、翌朝兄さんの祐助君に種々(いろいろ)と尋ねられた時、覚えず弱音を吹いた。未だ十三、それも今まで甘やかされていた末っ子だから仕方がない。祐助さんは話の中に、
  『照彦様はどうだね?我儘をおっしゃるだろうね?』
と訊いた。
  『それは仕方ありません。けれども僕が帰ると言うと直ぐに後悔します。僕にあやまることもあるくらいです』
  『帰られちゃ遊び相手がなくなって困るだろうからね。帰るとは好いおどし文句を考え出したよ』
  『けれども本当に帰りたくなることがあるんです』
と正三君は周囲を見廻した。これはお父さんやお母さんの耳へ入れたくない。
  『どうして?』
  『照彦様は僕がいくら申上げても勉強なさいません』
  『頭が悪いのかい?矢っ張り』
  『好いにも悪いにも、本気になって頭を使ったことなんかないんです。照彦様ばかりじゃありません。お兄様方も随分怠けます』
  『でも、家庭教師がついているんだろう?』
  『えゝ。照常様なんかはその家庭教師の模擬試験にカンニングをするんです』
  『馬鹿だなあ。家庭教師にカンニングなんかしたって仕様がないじゃないか?』
と祐助さんは笑った。
  『その他種々と狡いことをします。それを僕が安斉先生に言いつけたものだから‥‥』
  『ものだから、どうしたんだい?』
  『‥‥照常様はお殿様に叱られた口惜し紛れに、この間の晩‥‥』
と正三君は又言い淀んだ。
  『言って御覧』
  『僕の首を柔道の手で締めたんです』
  『乱暴だね、こんな小さなものを』
  『けれども照正様が止めてくれたんです』
  『しかし困るだろう?そんな風じゃ。お父さんから富田さんへ注意して貰おうか?』
  『いゝえ、もういゝんです。照正様が照常様を叱って、これからあんな乱暴はさせないとおっしゃって下さいました』
  『そうか。照正様は分っているね』
  『それに照彦様がお母様に言いつけるとおっしゃって大騒ぎでした』
  『頼もしいね』
と祐助君は弟思いだから目の色を変えていた。
  『乱暴なのは照常様だけですから、お屋敷の方は構いませんが‥‥』
  『構いませんが、どうしたんだい?匿さずに言って御覧』
  『学校の方がやり悪いんです。僕は新入生だものですから、皆に馬鹿にされるんです』
  『ふうむ』
  『内藤正三位って言うんです』
  『何だって?』
  『正三位です。内藤正三位、花岡の家来‥‥家来、家来‥‥って‥‥言うんです』
と正三君はしゃくり上げた。
  『いゝよいゝよ。泣かなくてもいゝよ』
  『‥‥‥‥』
  『皆でそんなことを言うのかい?』
  『いゝえ、五六人悪い奴がいるんです』
  『よし、それなら兄さんが学校へ行って先生に話してやる』
と祐助君は正三君が可哀そうで仕方がなかった。
  『兄さん、正義の為なら喧嘩をしてもいゝでしょうか?』
  『それはいゝさ。しかしそんなに大勢に勝てるかい?』
  『此方も大勢いるんです』
と正三君は相手の堀口生に対して此方に級長初め高谷君と細井君のついていることを話した。
  『不良少年だね、その堀口って奴は』
  『誰にでも喧嘩を吹っかけるんです。僕は知らん顔をしていますが、今に照彦様にかゝって来るようなら黙っていられません』
  『それはそうだろうね。その時はやるさ。仕方ない』
  『やります』
  『喧嘩は機先を制さなければ駄目だ。やる時はいきなりやれ』
と祐助さんは又力瘤を入れた。
  『どうだな?お屋敷の話かな?』
とそこへお父さんが入って来た。正三君は今のことを言わないようにと兄さんに目くばせをして、
  『えゝ。それから学校の話です』
と答えた。小さな学友の胸にも人知れぬ苦労がある。

天空海濶(てんくうかいかつ)
  『内藤君、君は土曜に又帰るのか?』
と照彦様が訊いた。
  『いゝえ、もう当分帰りません』
と内藤君は家へ行って、こゝ一月分ばかり發條(ぜんまい)を巻いて来たのだった。
  『昨日は君がいなくて淋しかった。その代り僕は富田さんにねだって好い約束をしたよ』
  『何ですか?』
  『今度の日曜に釣魚(つり)に行くんだ』
  『海ですか?』
  『山へは行かないよ』
  『川かとも思ったんです』
  『品川沖だ。君は釣魚に行ったことがあるかい?』
  『ありません』
  『おやおや、話せないな』
  『若様は始終お出かけですか?』
  『此方じゃ滅多に行かないが、夏大磯でやる。僕は名人だぜ』
  『僕に教えて下さい』
  『宜いとも』
  『鯛が釣れますか?』
  『品川で鯛が釣れて溜まるものか』
  『それじゃ何です?』
  『この頃は鯔(ぼら)と丸太が食うそうだ』
  『何を食うんですか?』
  『君は本当に素人だね』
  『えゝ。何も知らないんです』
  『食うってのは餌を食うことだよ』
  『あゝ、そうですか』
  『餌を食ったところをグイッと上げるから釣針が口へ引っかかる』
  『分りました』
  『鯔と丸太と蒲鉾が釣れる』
  『馬鹿になすっても駄目ですよ』
  『ハッハヽヽヽ』
と照彦様は冗談がお好きだ。学問の方は諦めていて口出しをしない代わりに、遊びごとになると調子に乗る。


  『誰と誰がお供をしますか?』
  『富田さんと黒須先生さ。君も是非来給え』
  『はあ』
  『杉山も連れて行く』
  『富田さんはお上手ですか?』
  『さあ。兎に角天狗だよ。黒須先生もよく講釈をする。しかし僕には敵わない。僕がいつも一番槍だ』
  『豪いですな』
  『エヘン』
  『海は危ないことはありませんか?』
  『大丈夫だ。お台場の少しむこうだもの』
  『僕は舟には渡舟(わたし)にしか乗ったことがありません』
  『それじゃ酔うぜ』
  『困りましたな』
と正三君は考え込んだ。釣魚も初めて、海も初めてだ。危ない危ないと言って親が心配し過ぎるものだから、未だ遊泳(およぎ)も知らない。
  『安斉先生流じゃないか?』
  『先生がどうかなさいましたか?』
  『この春、引っ張って行ったんだが、一遍で懲りてしまったようだ』
  『酔ったんですか?』
  『あゝいう痩我慢(やせがまん)の強い人だから酔ったとは決して言わないが、青い顔をして油汗を流していた』
  『そんなに苦しいものですかね?』
  『生きた心持はしないそうだ』
  『厭だなあ』
  『安斉先生は昼頃まで辛抱していたが、到頭小用(しょうよう)がしたいと言い出した。富田さんが「構いません。舟の中は無礼講ですから、船頭のようにこの舷(ふなべり)からなさい」と教えたけれど、首を振っている』
  『はゝあ』
  『駄目なんだ。先生は陸地でないと小用が出ない性分だそうだ。初めての人にはよくそういうことがある。君も出ない方じゃないかい?』
  『大丈夫ですよ』
  『折角魚(さかな)が食い始めたのに、厄介だと思ったが、青い顔をして震えているから仕方がない。船頭に頼んで船宿へ漕ぎ返して貰った。すると安斉先生は「陸地でも自分の家かお屋敷でないと小用の出ない性分ですから、もう失敬します。さよなら」と、言って、後も見ないで帰って行ってしまった』
  『おやおや』
  『強情な老人だって、富田さんも笑っていた。舟に酔ったと言うのが口惜しいものだから、小用が出ないことにしたのさ』
  『矢っ張り智恵があります。又お誘いして見ましょうか?』
と正三君は成るべく舟に弱い人が道連れに欲しかった。
  そこへ家令の富田老人が廊下を通りかゝったので、
  『富田さん』
と照彦様が呼び止めた。
  『はあ』
  『今度の日曜は本当でしょうね?』
  『お天気さえ好ければ大丈夫です。安斉先生からお殿様へ申上げて、もうお許しが出た時分です』
  『お兄様方は?』
  『お馬だそうです』
  『有難い、僕が大将で行ける』
  『富田さん、安斉先生もお誘い致しましょうか?』
と正三君が訊いた。
  『そうですね。ヘッヽヘヽ』
と富田さんは照彦様と顔を見合わせて意味ありげに笑った。例の陸地の件を思い出したのだろう。
  間もなく照彦様は、
  『内藤君、学監室へ行って見よう』
と発起した。
  『何御用ですか?』
  『お父様からお許しが出たかどうか伺って見る。それに学監室へは時々話に来るようにとおっしゃった』
  『お供致しましょう』
  『君訊け。君の方が信用がある』
  『そんなことはありません』
と謙遜したものゝ、正三君は大喜びで連れ立った。
  安斉先生は出来ることなら毎日のように若様方に訓諭をしたいのである。但し押売りでは効能が薄らぐと思って、相手の来るのを待っている。
  『内藤君、今度は照彦様をお誘い申してお出でなさい。三国志の面白いところをお話して上げます』
と内々宣伝を頼むくらいだ。映画でも西洋物が喜ばれる今日、三国志や水滸伝とは思い切っている。それもお談義入りだから、正三君も自然逃げ足になる。若様方に至っては遮二無二だ。
  『どうですか?お閑(ひま)なら論語の講義でも致しましょうか?』
と先生がおっしゃっても、
  『いや、今日は英語の宿題があります』
とお断りする。不思議と何か宿題がある。この故に照彦様が今、
  『先生』
と言って、正三君諸共(もろとも)学監室へ出頭した時、安斉さんは、
  『やあ、これはこれは、さあどうぞ』
と思いもかけぬ御入来にホクホクもので椅子を薦めた。
  『先生、僕達は今度の日曜に釣魚に連れて行って戴きます』
  『お楽しみですな。先刻富田さんから承わりましたよ』
  『富田さんと黒須先生とそれから遊泳(およぎ)の名人の杉山が一緒ですから、ちっとも心配はありません』
  『釣魚は結構ですよ。しかし海の上のことですから、念の為め後刻お殿様へ申上げましょう』
  『お父様も釣魚はお好きの方です』
  『私も大好きです。「釣すれども網せず」。若様お分かりですか?』
  『さあ』
  『内藤君はどうだね?釣すれども網せず』
  『さあ』
と正三君も首を傾げた。こうだしぬけにメントル・テストをやるものだから、安斉さんは厭がられる。
  『釣すれども網せず。論語の言葉ですよ』
  『どういう意味でございますか?』
  『同じ殺生をするにしても、釣なら一匹一匹ですが、網を打つと、所謂一網打尽で、一遍に何十匹も捕ってしまいます。殺さなくて宜いものまで殺す。それで釣すれども網せず。仁者の心得を述べたものです』
  『はゝあ』
  『舟遊びは浩然の気を養うから宜しい』
  『先生、浩然の気って何でございますか?』
と照彦様がいつになく質問した。
  『敢えて問う何をか謂う浩然之気、曰わく言難し也』
  『‥‥』
  『自ら反(かえりみ)て縮(なお)くんば、千万人と雖も、吾れ往かん』
  『先生むづかしいです』
  『ハッハヽヽヽ』
と安斉さんはひとりで喜んでいる。
  『先生も釣魚にいらっしゃいませんか?』
と正三君が誘った。
  『結構ですな』
  『是非お出で下さい』
と照彦様はからかう積りだった。
  『天空海濶』
  『はあ?』
  『天のむなしきが如く海のひろきが如き心持は舟遊びをすると始めて味わわれます』
と安斉先生は大きなことを言い出した。しかし酔って青くなったのを知っている照彦様は片腹痛く思って、
  『けれども先生は舟にお弱いようなことはございませんか?』
とやった。
  『強いですとも』
  『お酔いになったことはございませんか?』


  『酒にですか?』
  『いゝえ、舟にです』
  『ハッハヽヽヽ』
  『おありでしょう?』
  『舟を飲んだことはありませんよ。ハッハヽヽヽ。一体舟に酔うという言葉が不可解ですな。日本は海国、お互いは海を恐れてはいけまんせん』
と先生はアベコベにお説法を始めた。正三君は照彦様から聞いたことを思い出すとおかしくなって、
  『先生、それでは今度の日曜に是非お供を申上げましょう』
と追求した。
  『いや、私は御免蒙る』
  『お差支えでございますか?』
  『別に用事もないが、皆さんのお邪魔をしたくない』
  『はゝあ?』
  『しかし私は海が大好きだ。舟にも強い。誤解しちゃ困る』
  『それじゃ何故お出でになりませんか?』
  『酔うことなぞは決してないが、唯一つ悪い癖がある』
  『はゝあ』
  『尾籠な話だけれど、陸地でないと小用が出ない』
  『ハッハヽヽヽ』
  『若様、この春は飛んだ御迷惑をおかけ申上げました。ハッハヽヽヽ』
  『私はお酔いになったのかと思いました』
  『いや、子供の時からあゝいう癖があるのです。ハッハヽヽヽ』
と老安斉先生はナカナカ狡い。唯笑って誤魔化してしまう。
  正三君は釣魚に行くのが楽しみで日曜が待ちもどかしかった。土曜日の午後、学校から帰って、お庭を遊び廻っている中に、
  『若様、明日の朝は品川まで歩くんですか?』
と訊いた。
  『いや。自動車だよ』
  『それじゃ釣竿はどうします?』
  『そんなものはいらない』
  『はゝあ?』
  『舟から釣る時は大抵手釣りだよ』
  『そうですか。成程』
  『使う時には継竿を持って行く』
  『はゝあ』
  『君は何も知らないんだね』
と照彦様は侮(あなど)り始めた。
  『えゝ。存じません』
  『君は本当に海へ行ったことがないのかい?』
  『えゝ。汐干(しおひ)に一遍行ったばかりです』
  『ちっとも游(およ)げない?』
  『えゝ』
  『それじゃ落ちると鉄槌(かなづち)だね』
  『杉山さんに頼んで置きました』
  『杉山なんかとても当てにならない。何しろ品川湾は日本三大急流の一つだからね』
  『嘘ばかり』
  『沖へ出ると酔うぜ。屹度』
  『大丈夫でしょう』
  『揺れるからね。陸地でないと小用が出ないなんて言うなよ』
  『それは大丈夫です。この間ブランコに乗って稽古しました』
  『おいおい、汚いことしちゃ困るよ』
  『ハッハヽヽヽ』
と正三君も土曜の午後は書き入れだ。
  『君は釣り方を知っているかい?』
  『存じません』
  『一つ実物教授をしてやろうか?』
  『どうするんです?』
  『お池の鯉を釣るんだ』
  『叱られましょう』
  『なあに、見つからなければ構わない』
と照彦様は早速釣竿を忍ばせて来た。成程、継竿だから目立たない。お学友は蚯蚓を掘って池の傍に待っていた。若様はそれを千切って釣針につけた。
  『汚いですな』
と正三君は感心しながら見学した。
  『こういうものがチョコレートよりうまいんだから、魚なんて変な奴さ』
  『それをガブリと食うんですな?』
  『そうさ。首尾好く行ったらお慰み』
と照彦様は糸を池の中へ投げた。
  『まだですか?』
  『いくら名人でもそう直ぐには釣れない』
  『大きいのが来ましたよ』
  『おっと、どっこい!』
  『どっこい、どっこい!』
  『大きい大きい』
  『あゝ、釣れた』
と正三君が飛び立った時、魚が水面へ現れた。照彦様は糸を巻き縮めて、
  『万歳!』
と叫びながら築山の麓に竿をおつ立てた。鯉が一匹、五月幟(のぼり)のように翩翻としている。
  『万歳!万歳!』
  『これを取るには竿に梯子をかける』
  『嘘ですよ』
と正三君は竿を押し倒した。
  日曜の朝、品川の船宿から漕出した時、
  『今日は僕が大将だ』
と言って、照彦様は大得意だった。お兄様方が来ると頭が上がらないから、単独行動を喜ぶ風がある。正三君は舟に酔うかと内心案じていたが、一向そんなこともなく、
  『海は好いですなあ!』
と所謂天空海濶の心持を味わった。
  『内藤君、なんともないかい?』
  『大丈夫です』
  『それは仕合わせだ。一々陸地へつけるんじゃ溜まらないよ』
と照彦様はいかにも大将らしい。
  『若様、この蚯蚓は少し違いますね』
と正三君は間もなく餌箱の中を覗いて疑問を起した。
  『それは蚯蚓じゃないよ。沙蚕(ごかい)だよ』
  『はゝあ』
  『蚯蚓に似ているけれども、ゴカイしちゃいけない』
  『ハッハヽヽヽ』
と書生の杉山が手を拍って喝采した。この男はお世辞使いだから、若様方が洒落を言うと笑い転げる。
  お台場の沖へ出ると皆ソロソロ仕度にかゝった。秋の好晴だから、他にも釣舟が沢山出ている。
  『今日は僕が又一番槍だぜ』
と照彦様が言った。
  『若様にはとても敵いません』
と杉山が調子を合わせる。
  『数では負けませんが、口明けだけはいつも若様に持って行かれてしまいます』
と富田老人も諦めている。
  『なあに、今日は私がやります』
と黒須さんは確信があるようだった。
  しかし一番槍は照彦様でも黒須先生でもなく、正三君だった。沙蚕をつけて糸を下ろすか下ろさないに、
  『釣れた釣れた!』
と言いながら、大きな鯔を引き上げて、
  『何でしょう?これは』
と訊いた。
  『兎に角魚ですな』
と杉山は問題にしなかった。
  『バカだよ、それは。内藤なんかに釣られる魚は悧巧でないに定まっている』
と照彦様が口惜しがった。富田さんと黒須先生は糸を下ろして顔を見合わせた。
  『又釣れた!』
と正三君は再び成功した。
  『何でしょう?今度のは小さい』
  『矢っ張りバカです』
と杉山は見もしないで判定した。
  『富田さん、僕はもう帰ります』
と照彦様は二三度餌を取られた後、焦(じ)れ始めた。
  『どうかなさいましたか?』
  『詰まらない。今日はバカばかりです』
  『まあまあ、そうおっしゃらずに。今に本当の魚が食います』
と富田さんが慰めた。正三君は自分の一番槍が若様のお癪に障ったと合点した。
  『占めた!』
と折から照彦様が勇み立った。大きな鯔を釣り上げたのだった。
  『お手柄、お手柄』
  『これは大物です』
  『何ですか?』
と正三君が訊いた。
  『鯔ですよ』
と富田さんが小声で教えてくれた。
  『それじゃ僕のも鯔です』
  『君のはバカだよ』
  『でも同じです』
  『いや、僕の方が大きい』
と照彦様は主張した。
  『大きな鯔だ』
  『大きな鯔だ』
と杉山と黒須先生が異口同音に褒めた。照彦様は間もなく御機嫌が直った。富田さんも黒須先生も安心して釣り始めた。
  『昼からの一番槍こそ僕がやってやる』
と照彦様はお弁当を食べながら威張った。
  『内藤さん』
と富田さんが正三君の耳元で囁いた。


  『何ですか』
  『昼から一番槍をしちゃいけません』
  『はあ。分りました』
  『しかし競争はしなければいけません』
  『はあ?』
  『釣る真似だけはするんです』
  『しかし魚が食いますから釣れると困ります』
  『いや、若様がお釣り上げになるまで餌をつけないで釣るんです』
  『はゝあ、成程。はゝあ、成程』
と正三君は感心してしまった

不良と善良
  『ふうむ。成程ふうむ』
と安斉先生は感歎これを久しうして、
  『考えたものだな。ハッハヽヽヽ』
と呵々大笑した。
  『それで昼からは若様が一番槍でございました』
と正三君は餌なしの秘法を説明したのだった。別段言いつけ口をするのではないが、安斉さんは若様方御指導上の参考として種々と尋ねる。
  『御機嫌でしたろうな』
  『はあ』
  『それから君が釣ったかね?』
  『いゝえ、昼からはちっとも釣れません』
  『そんなにいつまでも餌をつけなかったのですか?』
  『いゝえ、本気になったんですが、駄目でした。私は初めてですから、それが当り前です。朝のは魚の方で間違えたんだって杉山さんがおっしゃいました』
  『あれは諂い武士で困る』
  『しかし若様は本当にお上手です。富田さんを二枚もお釣りになりました』
  『何?富田さんを?』
  『はあ。それも三歳ばかりです』
  『これは益々分らんね。富田さんなんている魚はこの年になるまで見たことも聞いたこともない』
  『先生、カレイです』
  『鰈?成程。ハッハヽヽヽ』
  『顔が少し似ています』
  『悪いことを言うな。蓋し国音家令は鰈に通ずればなりか。瓶子は平氏に通じ、醋甕は眇(すがめ)に通ず。面白い。ハッハヽヽヽ』
  『先生、何でございますか?』
  『君は日本外史を読んだことがあるか?』
  『いゝえ、ありません』
  『困るな。この頃の子供は読むべきものを読んでいないから話が通じない。ところで家令は何を釣りましたか?』
  『富田さんは名人です。御自分で御自分を五六枚お釣りになりました』
  『黒須先生は?』
  『黒須先生は富田さんを三枚。杉山さんは一枚でしたが、三歳です。大きかったです』
  『三歳というのは三歳児の三歳かな?』
  『いゝえ、鰈の三歳は大人です。これくらいあります』
と正三君は両手を拡げて寸法を示した。


  安斉先生は少時考えていた後、
  『俺(わし)は知っている。富田さんも黒須先生も杉山も皆諂い武士だ。それでこの前心持を悪くした』
と憤慨した。舟に酔ったのを他(ひと)のせいにしている。
  『‥‥‥‥』
  『風上にも置けん』
  『しかし御機嫌がお悪いと傍(はた)のものが困ります』
  『何あに、忠諌の精神が足らんのさ。申上げれば必ずお分かりになる。罷り間違えば切腹するまでのことじゃないか?』
  『はあ』
  『君は杉山辺(あたり)の真似をしちゃなりませんぞ。上(かみ)に交わりて諂わず下(しも)に交わりて驕らず、男らしくやって貰いたい』
  『はあ』
  『諂い武士に取り巻かれている若様方はお可哀そうです。屋敷内(うち)でお豪いのは世間へ通用致しません』
  『それですから、照彦様は学校へお出でになっても詰まらないらしいです』
  『巧言令色をお喜びになる傾向がある。困ったものです』
  『先生』
  『何かな?』
  『矢っ張り学校のお友達と御交際なさる方が宜しいと存じます』
と正三君は照彦様から頼まれていたところを献策した。尤もこれは自分も同感で既に先頃持ち出したのだった。
  『成程』
  『同級生は決しておベッカを使いません。悪いことは悪い、善いことは善いとハッキリ言います』
  『それはそうだろうが、いつぞやも申した通り私立中学校は玉石混淆です。無礼を働くものがあると追従以上に迷惑致します』
  『無論優良生だけです。不良生は問題になりません』
  『この間のお話しの三人は矢張り遊びに来る気ですか?』
  『はあ』
  『一つ俺がメントル・テストをして見よう』
と安斉先生は例によってメントルだ。思い込んだことは決して改めない。
  『先生』
  『何かな?』
  『僕は安斉先生から口頭試問があるかも知れないと言ったんです。すると‥‥‥‥』
  『すると何かな?』
  『どんな先生かと訊くんです。こんな先生だと答えたんです』
  『こんなとは?』
  『少し怖い先生』
  『怖いことはないよ』
  『兎に角、口頭試問は入学試験で懲りているから厭だと言うんです』
  『それではお目にだけかゝりましょう。どんな人物か会って見れば大抵分ります』
  『皆学術優等品行方正です』
  『照彦様の御都合の宜しい時に誘って来て御覧なさい』
  『はあ。有難うございました』
と正三君は自分の主張が通って満足だった。
  翌日、照彦様は登校して高谷君を見かけるや否や、
  『高谷君、遊びに来給え。安斉先生からお許しが出た』
と話しかけた。
  『そうかい。しかし漢文の口頭試問があるんだろう?』
と高谷君はそれを恐れていた。
  『いや、君は無試験だそうだよ』
  『何故?』
  『優等生だもの。君と細井君と松村君ならいつでも宜いことに内藤君が願ってくれた。ねぇ、内藤君』
  『はあ、どうぞお出下さい』
と正三君はお屋敷にいる時の癖で同級生にも言葉が丁寧だ。
  『いつ?』
  『今日』
と照彦様は短兵急だった。
  『今日はいけない』
  『何故?』
  『普段じゃ直ぐ日が暮れてしまう。土曜日にしよう』
  『よし。それじゃ約束したよ』
  『宜いとも』
と高谷君は喜んで応じた。
  松村君も細井君も同じように誘われて、今度の土曜日ということに定まった。細井君が調子づいて、
  『蜂退治、蜂退治』
と言った時、堀口生の子分の尾沢生が聞きつけて、
  『高谷、貴様は又花岡のところへ遊びに行くのか?』
と訊いた。
  『貴様とは何だ?』
と高谷君は相手の態度が癪に障ったものだから極めつけた。
  『何だ?生意気な』
  『何方(どっち)が生意気だ』
と二人は敦圉(いきま)いたが、
  『よし給え。穏やかに言えば分かる』
と級長の松村君が制した。
  『細井君、君達は花岡君のところへ遊びに行くんだろう?』
と尾沢生は改めて細井君に訊いた。
  『いゝや』
  『嘘を言っても駄目だよ。今蜂退治の話をしていたじゃないか?』
  『それがどうしたんだい?』
と細井君も鼻息が荒かった。
  『堀口君に言いつけてやるぞ』
  『堀口が何だ?あんな低能が』
  『覚えていろ!』
と尾沢生は一同を睨んで行ってしまった。
  『仕様がない奴だ』
と高谷君が呟いた。
  『君達の来ることは皆には内証にして置こうよ。堀口君がうるさい』
と正三君は少々不安を感じた。
  『宜いとも』
と三人は承知だった。堀口生とその一味は級(クラス)の鼻つまみになっている。
  土曜日の放課後、照彦様と正三君は同級生三名を案内して帰って来た。門を通った時、
  『君、叱られやしないかい?』
と高谷君が訊いた。
  『大丈夫だよ』
と照彦様が保証した。
  『漢文のメンタル・テストがあるようなら僕は直ぐ帰るよ』
と細井君が言った。
  『遊ぶんだもの。そんなものはないよ』
と正三君が安心させた。
  『広いなあ』
と初めての松村君は感心していた。
  内玄関(ないげんかん)から上って学習室へ納まると間もなく、
  『どうぞお食事を』
と女中が案内に現れた。


  安斉先生の指図でお昼の支度がしてあったのである。
  『さあ、皆、食堂へ来てくれ給え』
と照彦様が主人振りに努めた。
  『僕は厭だ』
  『僕も厭だ。弁当を持っている』
  『僕も持って来た』
と三人は動かない。同級生もお客となると四角張る。
  『宜いじゃないか?さあ、行こう』
と正三君も勧めたが、
  『厭だよ』
  『御馳走なんかするなら帰るよ』
と皆立ち上がる。
  『困ったなあ』
  『それじゃこゝで弁当を食べ給え。お茶を持って来て貰うから』
と正三君が気を利かした。
  『そうしよう。僕達もこゝで戴く。それなら宜いだろう?』
と照彦様が帰られるのが一番辛い。
近朱者赤
近墨者黒
水随方円器
人依善悪友
と対句が二つ学習室の黒板に書いてあった。真正面だから目につく。ソロソロ弁当を食べ終わった細井君は、
  『オイオイ、メンタル・テストが出ているよ』
と囁いた。
  『厭だぜ厭だぜ。僕はもう帰る』
と高谷君は身体を揺すぶって見せた。
  『これかい?これは何でもないんだよ』
と照彦様は初めて気がついた。
  『先生が出て来るようなら僕は本当に帰る』
と松村君も噂を聞いて恐れている。
  『読んで見ようか』
と正三君は度々のことだから驚かない。
  『僕読む』
と照彦様は進み出て、
  『近来(きんらい)者赤(ものあか)し。春になって花が咲いたという意味さ』
と出鱈目を言った。
  『違う違う』
  『来じゃない』
  『朱に近づけば赤し。墨に近づけば黒し』
と松村君が読んだ。
  『そうだそうだ』
  『此方(こっち)は何だろう?』
  『此奴(こいつ)はむづかしいぞ』
  『水は方円の器に随い、人は善悪の友に依る』
と今度は正三君が読んだ。
  『その通りその通り』
  『これならメンタル・テストも及第だぜ』
  『堀口と交わるべからず』
  『尾沢と交わるべからず』
  『堀口尾沢の不良分子と交わるべからず』
  『賛成々々』
  『ハッハヽヽヽ』
と一同打ち興じている折から、
  『エヘン』
という咳払いが聞えて、安斉先生が入ってきた。
  『安斉先生です』
と正三君が紹介する。
  『皆さん、今日(こんにち)はよくお出下さいました』
と先生は満面に笑みを湛えて一礼した。成るべく怖がらせない算段である。
  『は!』
と松村君も高谷君も細井君も真赤になってしまった。
  『さあ、どうぞお掛け下さい』
と先生は自ら椅子に倚(よ)って相手を寛がせようとする。
  『さあ、掛け給え』
と照彦様も取り持つ。
  『照彦様と内藤君が始終お世話になりまして有難うございます』
  『どう致しまして』
と級長の松村君が一同を代表した。
  『お三人とも優等生だそうで、結構ですな』
と先生は黒板を見返った。ソロソロ得意のメントル・テストにかゝるのである。
  松村高谷細井の三名が土曜日の午後を二回続けて花岡家へ遊びに寄った時、堀口生はそれを嗅ぎつけて業を煮やし始めた。しかし喧嘩をしてしまっては仲間に入れないと思って、最初は種々と計略を繞(めぐ)らした。
  『花岡さん、花岡の若殿様』
と或朝運動場で照彦様を呼び止めたのはその一つだった。
  『何ですか?』
  『エヘヽヽヽ』
とこれはお愛想の積りで、
  『花岡さん、僕は蜂退治の秘伝を知っているから、今度の土曜に君のところへ行くよ』
  『蜂退治なんかしちゃいません』
  『嘘をつき給え。ヘヽヽヽ』
  『笑ってばかりいるんですね』
  『おかしければ僕だって笑うよ。ヘヽヽヽ』
  『知りませんよ』
  『蜂退治をしているじゃないか?君の顔にチャンと書いてある』
  『‥‥‥‥』
  『君達は万物の霊長が五人がかりであんな虫ケラをどうすることもできない。可哀そうに。僕が手伝ってやらあ』
  『可哀そうでも構いません』
と照彦様は行こうとしたが、堀口生は放さない。
  『見給え。僕はこの通り蜂退治の妙薬を持っている』
とポケットから紙包を出した。
  『何ですか?それは』
  『硫黄の塊(かたまり)だよ。これを蜂の巣の下で燻すんだ。君達みたいに唯で向って行っても仕方がない。僕は智恵があるだろう?』
  『本当に利きますか?』
  『利くとも。僕がやってやる。今日行こう。宜いだろう?』
  『いけません。安斉先生に叱られます』
  『君のところは広いそうだから、一人ぐらい内証で入ったって分らないよ』
  『いゝえ、屋敷の友達と遊ぶことになっているんです』
  『しかし松村や細井や高谷は始終行くじゃないか?』
  『あの三人きりです』
  『三人でも行くじゃないか?』
  『あれは特別です』
  『何故特別だ?』
  『優等生です』
  『それじゃ手前(てめえ)は何だ?ビリから五番だぞ。おれより四番上なばかりだ』
と堀口生は不良少年の本性を現した。
  『僕は頭が悪いんです』
  『それ見ろ』
  『悪いからお薬になるように好い人と交際するんです』
  『利己主義だな、貴様は』
  『何でも構いません』
と照彦様は逃げ出した。
  堀口生は次に内藤君を手なづけよう、と努めた。
  『内藤君』
  『何ですか?』
  『今度の一番は君だよ』
  『そんなことはありません』
  『いや、本当だよ。君は級長になる。僕なんか落第坊主だから宜しく頼むぜ』
  『冗談ばかり』
と内藤君は迷惑した。
  『ところで君に注意して置きたいことがある』
  『もう宜いです』
  『聴きもしないで、もう宜いですなんて失敬じゃないか?』
と堀口生は追々(おいおい)に険しくなって来る。
  『‥‥‥‥』
  『君は僕を敵と思っちゃいけない。味方と思い給え』
  『同級ですももの、皆味方です。敵なんかありません』
  『いや、大ありだよ。尾張名古屋の金の鯱鉾だよ。君は敵が多いから気をつけ給えと言うんだ』
  『‥‥‥‥』
  『君は松村や細井や高谷と仲よしの積りだろうが、あの連中は蔭へ廻ると君のことを悪く言っているんだぞ』
  『そんなことはありませんよ』
  『いや、君は正直だからそう思うんだ。しかし君が一番になれば今の一番の松村は二番になる。細井も高谷も一番づつ下がる。皆それが口惜しいんだ。三人で君をひどい目に会わせる相談をしているぞ』
  『そうですか。それじゃ気をつけましょう』
と正三君は争わないことにした。
  『あんな奴等と遊ぶな』
  『しかし急に絶交するわけにも行きません』
  『おれと遊べ。おれと仲よしになればあんな奴等は逃げて行く』
  『‥‥‥‥』
  『何を考えているんだい?』
  『‥‥‥‥』
  『おい、子分になるか?』
と堀口生が詰め寄ったところへ、
  『おいおい、何をしている?』
と細井君が現れた。
  『うるさい、彼方(あっち)へ行っていろ!』
と堀口生は頭から極めつけた。
  『おれの勝手だ』
と細井君は負けていない。


  『細井!』
  『何だ?』
  『貴様は嘘をついたな』
  『どうして?』
  『花岡のところへ遊びに行かないと言って置いて行きやがったじゃないか?こゝにいる尾沢が証拠人だぞ』
  『‥‥‥‥』
  『名前は細井だが、太い野郎だ』
  『大出来々々!』
と今しそこへ寄って来た子分の尾沢生が手を叩いた

やるとも!
  正三君を苛めていた堀口生は、
  『やい、貴様はおれのことを低能と言ったな』
と今度は細井君に喧嘩を吹っかけた。
  『‥‥‥‥』
  『おい、何を考えている?又嘘をつく積りか?』
  『‥‥‥‥』
  『こゝにいる尾沢が証拠人だぞ。さあ、どうだ?』
と両手の拳を逆立てゝ動かしながら詰め寄って来る。拳闘の真似だ。活動で見覚えて始終稽古しているから、堀口は強いということになっている。


  『低能よ、貴様は。それがどうしたんだ?』
と細井君も今更後へ退けない。イヨイヨ決心がついて。
  『こうするんだ』
と堀口生はいきなり突いてかゝった。細井君はうまく外した。
  堀口生はよろめいたが、直ぐにもとの姿勢に戻って狙い始めた。
  『しっかりやれ!』
と尾沢生が声援した。細井君は忽ち頤を突かれたが、同時に堀口生の横ビンタを力一杯に撲った。
  『よし給え』
と正三君は止める積りで堀口生を押した。堀口生は叩かれて面食らっていたところだったから脆くも尻餅をついた。
  『何をしやがる?』
と起き上がりさま、正三君にかゝって来た。しかしその時通りかゝった上級生が堀口生を抱き止めて、
  『よせよせ。こら!』
と窘(たしな)めた。
  『放し給え』
  『いけない』
  『放せ。君の知ったことじゃない』
と堀口生は振りもぎろうとしてもがいた。
  『何だ?生意気な』
と上級生はムッとした。四年の襟章をつけていた。堀口生はそれに気がつくと急に穏やかになって、
  『もうしませんから放して下さい』
と頼んだ。喧嘩はそれで中止になった。細井君の方が少し勝っている。
  堀口生は以来これを根に持って、正三君と細井君を目の敵にした。教室や廊下で擦れ違う時、態(わざ)と寄って来て突き当たる。
  『何でい?』
  『何だ?』
というのが毎日の挨拶になってしまった。松村君にも高谷君にも食ってかゝる。子分を使って悪戯をさせる。天気の好い日は運動場へ出て紛れているが、雨の日は狭い教室の中で始終顔を合せているから始末が悪い。
  正三君の直ぐ後に坐っている横田という生徒は堀口生の子分だ。怠けもので成績が好くない。此奴が授業時間中に正三君のところへ通信を寄越す。これは電信といって無論先生には内証だ。そっと背中を抓るのを合図に、机の下から紙片(かみきれ)を渡す。取らないと抓ってばかりいるから仕方がない。
  ――内藤正三位。早く堀口君にあやまってしまえ。いつでも上級生が止めてくれると思っていると大間違いだぞ。
  ――覚えていろ、と堀口君が言っている。右お知らせ申上げ候。
  ――やい、生意気なことをぬかすと、ドテッ腹へ風穴を明けて、鰹節(かつぶし)を入れて、ブルドックを嗾(け)しかけるぞ!
  ――この間英語の書取りの時、貴様は花岡に教えたな。カンニングは両方とも退校だぞ。神さまが後から見ているから気をつけろ。
  横田生の電信はいつもこういう脅し文句だ。内藤君は背中を抓られる度に、又かと思ってクサクサする。尚お授業中気が散って困る。先生に見つかる心配もある。
  『内藤君、君は僕が電信をかけても一向返事を寄越さないね?』
と横田生はこんなに迷惑をかけていながら好い気なものだ。
  『電信なんかもうよしてくれ給え』
と正三君はこれを機会に断るつもりだった。
  『何故?』
  『学科の邪魔になります』
  『君は勉強家だよ』
  『でも授業中じゃありませんか?』
  『君は道徳家だよう』
  『用があるならこうやって遊んでいる時に話してくれ給え』
  『君は聖人君子だよう』
  『何でもいゝです。今度授業中に邪魔をすれば先生に言いますよ』
  『豪いもんだよう。花岡の家来だよう』
と横田生は理屈で敵わないものだから、おひゃらかすばかりだった。
  その翌日のことである。数学の時間に受持の橋本先生が一通り説明を終わってから教室を見渡した。そういう折から下調べを怠って来た生徒達は小さくなっている。
  『横田君』
と先生が呼んだ。
  『こゝへ出て次の例題をやって見給え』
  『出来ません』
  『いゝから出来るところまでやって見給え』
  『何番ですか?』
  『ボンヤリしていちゃいけないね。君は何をしていた?今の説明を聞いていなかったね?』
  『はあ』
と横田生は恐れ入ってお辞儀をした。
  『お辞儀をすると一回で一点づつ平常点がへるよ』
と橋本先生はナカナカ厳しい。しかしそれだけでもう咎めもせず。次へ廻した。
  『内藤君』、
  『はい』
  『こゝへ来て例題をやる』
  『はあ』
と正三君は元来優秀な上に家庭教師に見て貰っているから安心なものだ。直ぐに教壇へ進み寄って黒板へ向った。しかしその時、皆クスクス笑い出した。襟首のところから短冊(たんじゃく)ほどの紙片が背中へ吊る下がっていて、墨痕鮮やかに「花岡の家来」と書いてある。
  『何だ?これは』
と先生が引っ張り取った時、
  『さあ』
と正三君は初めて気がついて頭を掻いた。皆ドッと笑う。
  『横田』
  『はい』
  『お前だろう?この悪戯は』
  『はあ』
と横田生は机の上に平身低頭した。正直だからでない。橋本先生の怖いことを知っているのだ。匿してお手数をかけると罪が重くなる。
  『君は数学をやらずに、こんなことをしているのか?』
  『申訳ありません』
  『これは今そこで書いたのか?家から書いて来たのか?』
  『家から書いて参りました』
  『大分(だいぶ)念が入っているな』
  『‥‥‥‥』
  『これから気をつけなさい。勉強しないと苦しくなるばかりだぜ』
  『はあ』
  『内藤君、もう宜しい。席へ帰って』
と先生はこの際級担任として一同に注意を与える必要を認めた。
  『諸君。「花岡の家来」云々と言って新入生の内藤君にからかうものが諸君の中に大勢あるようです。花岡家の家来というのがどうしておかしいのですか?内藤君に限らず、苟(いやしく)も士族なら誰でも旧藩主即ち先祖代々の殿様があるに定まっている。現に私は毛利様の家来です。教頭の市来先生は島津さんの家来です。私達は家来たることは恥と思いません。諸君の中には夫々何様かの家来が大勢いるに相違ない。家来でないものは平民だけです。平民は家来以下です。昔は物の数にも入らなかった。然るにこの頃はどうも平民がのさばっていけない。王政維新は誰がやったと思いますか?主に毛利様や島津様の家来達が骨を折っている。平民は一向与(あづか)っていません。唯恩典を受けているだけです。して見れば家来は家来でないものゝ恩人に当る。家来だからと言って馬鹿にする理由はちっともない。云々』
と橋本先生は正三君の立場に同情する余り少々言い過ぎた。家来でないものが百姓をしたり商売をしたりしなかったら、家来は皆乾干(ひぼ)しになっている。王政維新どころでない。訓諭が終わった時、
  『先生』
と堀口生が手を挙げた。


  『何ですか?』
  『僕は反対です』
  『これは驚いた』
  『先生、士族の方が平民よりも豪いんですか?』
  『いや、そんなことはない』
  『それでも先生は今そうおっしゃいました』
  『それは昔の話です。今日は士族も平民もない。皆同じ待遇を受けている』
  『いゝえ、花岡君は華族だから大切(だいじ)にされています。僕なんかと違って、少しも叱られません』
  『君は乱暴をするからさ』
  『先生、華族と士族と平民では一体何れが一番豪いんですか?』
  『皆同じことだ。唯個人として豪い人が豪いんだ。そんな下らない理屈を言わないで、その暇に数学を勉強する!』
  『先生、それじゃ数学の出来る人が豪いんですか?』
  『無論そうさ』
と先生は自分の鼻を指さして、一同をドッと笑わせながら、
  『家来でも平民でも構わない。私の目から見ると数学の出来るものが一番豪いんだ』
  『参ったなあ』
と堀口生は両手で頭をかゝえて歎息した。ナカナカ愛敬がある。皆は又笑った。
  『いゝかね?分ったかね?この級には華族も士族も平民もいる。しかし一切平等だ。誰が豪いということはない。地理の先生から見れば地理の出来るものが一番豪い。英語の先生から見れば英語の出来るものが一番豪い。しかしお互いにもっと眼界を広くして、もっと大きいところを見なければいけない。日本全体から見ると国家の役に立つ人間が一番豪い。世界全体から見ると人類同胞に貢献するものが一番偉い。いゝかね?分ったかね?』
  『分りました』
  『諸君は一つ奮発して人類同胞に尽すような豪い人間になる気はないか?どうだ?横田君』
  『あります』
  『堀口君はどうだ』
  『尾張名古屋です』
  『何だ?それは』
  『大有りです』
  『大有りなら詰まらないことを言って新入生を苛めちゃいけない。人間は皆同胞だ。殊に同級生は兄弟だ。仲よくし給え。ところでこの級のクラス会はいつやる?』
と先生は生徒を自在に操縦する。
  『級長』
  『はい』
と松村君が立った。
  『日を定めて近々やり給え』
  『はあ』
  『それではこれでおしまい。そら、鐘が鳴った。豪いものだろう?』
と橋本先生は時間きっかりに授業を終わった。流石は数学の専門家だ。
  『面白い先生だなあ』
  『あんなのを瓢箪鯰(ひょうたんなまづ)って言うんだよ』
  『鯰に似ていらあ、髭が』
  『何でも数学へ持って行ってしまう』
  『迚(とて)も敵わないなあ』
と生徒達は不平もなかった。折から雨降りだったので運動場へ出られない。教室の中にブンブンブンブン蜂の鳴くような声が漲った。
  級長の松村君は細井君や高谷君と相談して昼休みの時間に、
  『今週土曜日放課後直ちにクラス会を開きますから、奮(ふる)って御出席下さい。会費十五銭』
と黒板に発表した。それを見ていた堀口生は、
  『おい、松村、チョークを貸せ』
と言って、
  『諸君、奪(うば)って御欠席下さい』
と大きく書き足した。
  『奪って御欠席ってのは一体何んなことをするんだろう?』
と伊東君が笑った。
  『何でい?何がおかしいんだ?』
  『間違っているからさ。奮ってだろう?奮って御欠席だろう?』
  『奮ってよ』
と堀口生は両方見較べて気がついた。しかし負惜しみが強いから、
  『おい、伊東、間違っていたら親切に教えてくれるのが当り前だろう?馬鹿にする奴があるか?同級生は皆兄弟だ。仲よくしろって先刻先生に叱られたばかりじゃないか?』
ともう絡んで来た。伊東君も理屈を言われゝばそれに相違ないから、
  『失敬々々、そんなに憤るなよ』
と気軽くあやまった。
  『憤りやしないよ。しかし俺は奮って欠席だ』
と堀口生は奪ってを奮ってに書き直した。
  『君、そんなことを言わないで出席してくれ給え』
と松村君が頼んだ。
  『厭だよ、おれは』
  『何故?』
  『君は何でも細井と高谷に相談して定めてしまう。この級(クラス)は君と細井と高谷の級か?』
  『そんなことはないよ』
  『いくら成績が好くて先生に信用があるったって、それじゃちっと手前勝手だろうぜ。出るもんか』
  『それじゃ相談するが、君はいつなら都合が好いんだい?』
  『それじゃとは何だ?見ろ。今まで俺を仲間っ外しにしていた証拠だ』
  『そんなことは決してない。しかしこんなに大勢いるんだもの、一人々々皆に訊いても歩けないじゃないか?』
  『それだから君と細井と高谷の級だと言うんだ』
と堀口生はナカナカ承知しない。尾沢生と横田生は、
  『松村君、僕等も一向知らなかったよ。一体何年級のクラス会があるんだい?』
と空とぼけて、堀口生の味方をした。松村君は仕方がないから、粗忽を詫びて、
  『堀口君、君達の都合の好い日を言ってくれ給え』
と下から出た。
  『そうさな、今週は困る。先週の土曜日にしてくれ』
  『君、冗談じゃないよ』
  『それじゃ考えて見て来週の月曜日に返事をしてやらあ』
と堀口生は尚おしばらく駄々をこねてから、
  『しかし級長は級の小使だ。この上面倒をかけるのも気の毒だから奮って出席してやるよ』
と漸く機嫌を直して、
  『級長は級の小便なり』
と書いた。無論小使の間違いだが、言えば又憤る。しかも、
  『どうだい?』
と威張っている。松村君初め手近にいた数名はもう怺(こら)え切れず、廊下へ逃げ出して思いさま笑った。
  こんな具合で堀口生は始末にいけない。何か口実を見つけて言いがかりをする。表だったことのない場合はそれ相応の工夫をして手際好く苦しめる。高谷君はクラス会の折、偶然堀口生の隣りへ坐り合せて尠(すくな)からず迷惑した。
  『高谷君』
  『何だい?』
  『君、その冬服は新しいのかい?』
と堀口生が訊いた。
  『新しい。僕は入学した時いきなり夏服を作ったからね』
と高谷君が答えるや否や、堀口生は、
  『お初!』
と言って、力一杯に背中を叩いた。高谷君は全くの不意打ちで息が止るくらいだった。
  『痛いね』
  『何あに、お初を祝ったのさ』
  『もう沢山だよ』
と断って、高谷君は祝い返す法を考えたが、相手は落第生だから去年のを着ている。
  『僕のは古くて物が悪い。セルだ。君のは上等だね。メルトンかい?ラシャかい?』
  『さあ。何方だろうかね』
  『ラシャかしら』
と堀口生は服地を摘まむ真似をしてひとく抓った。


  『痛い』
  『メルトンかしら』
  『痛いよ。君』
  『ラシャらしい』
  『痛いってば』
  『君も神経があるんだね?』
  『冗談じゃないぜ』
と高谷君は腕を擦りながら抓り返す口実を考えたが、相手はセルだと前もって明言しているから仕方がない。
  『メルトンかな?』
  『よせよ。痛い』
  『ラシャかな?』
と堀口生は時々思い出して抓った。
  照彦様と正三君は素よりのこと、この主従と特に親しい三名は代(かわ)り代(がわ)りに難癖をつけられる。
  『僕はもう厭になってしまう。級長をよそうかと思っている』
と或日温厚な松村君が歎息した。例の通り揃って花岡家へ遊びに来ていた時だった。それが切っかけになって堀口生の話が始まった。
  『おれはどうしてもやるぞ』
と細井君は拳を固めて見せた。
  『えいッ!』
と折から正三君が飛び立って、榎(えのき)の大木の幹を叩いた。
  『どうしたんだい!』
と高谷君が訊いた。
  『堀口を撲る稽古だ。僕は毎日やっている。見給え。手がこの通りだ』
と正三君は硬くなっている掌を示した。
  『君もやる気だったのかい?』
  『やるとも』
  『僕もやる。僕はその積りで相撲ばかり取っているんだ』
と高谷君も同感だった。
  『堀口は強かないよ。口ばかりだ』
と細井君は確信的に言った。
  『いつかの喧嘩は君の方が勝っている。それから僕が押したら尻餅をついたろう?起きてかゝって来た時、僕はやる決心だった』
と正三君は目を輝かした』
  『それじゃ君達は皆やる積りだね?』
と松村君がニコニコした。
  『やるとも!』
と三人は異口同音だった。
  『やれやれ!』
と照彦様は芝生の上で踊り出した。
  『行くぞ』
と高谷君が組みついた。相撲だ。

大和魂の問題
  花岡伯爵家へ出入りする人は大抵家来だ。家庭教師も家来、医者も家来、建築技師も家来、皆家来で間に合わせる。この間来た相撲の錦山(にしきやま)も家来だった。その折照彦様と正三君は手を二つ三つ教えて貰って、
  『今度高谷君達が来たら負かしてやろう』
と勇み立った。しかし次の土曜日に照彦様は虫歯が痛んで学校を休んだ。早速柳田という歯科医を呼んで手当をした。これは家来ではないが、奥さんが家来の娘だから、先づ家来みたいなものだ。照彦様は我儘が利く。
  『今のは痛かったから、もう口を開いてやらない』
  『今度は加減いたしますから、どうぞ御勘弁下さい』
と先生、ナカナカ骨が折れる。
  『おれはお屋敷は厭だ』
と後から愚痴をこぼすけれど仕方がない。それから照彦様は三日四日学校の帰りを柳田さんに寄った。正三君は無論お供をして側についている。柳田夫人も必ずその場に控えて、
  『あなた、ちっともお痛くないようにお気をつけ下さいよ』
と無理な註文をする。
  三日目に照彦様は学校からの途(みち)すがら、
  『僕はもう今日は厭だ。こう毎日ガリガリやられると頭が悪くなる』
と言い出した。
  『しかし後一日二日の御辛抱でしょう?』
と正三君は同情しながら励ました。
  『今日は神経を抜くんだからね』
  『神経を抜いてしまえばもう宜いんです』
  『君は僕の神経だと思ってそんな平気なことを言うんだよ』
  『そんなに痛いものでしょうか?』
  『痛いとも。頭を持って行かれてしまいそうだ。君は歯医者にかゝったことはないのかい?』
  『ありません。歯は丈夫です』
  『犬のようだね』
  『おやおや』
  『羨ましいんだよ。家のものは皆歯が悪い。お母様なんか入歯だぜ』
  『そうですか?』
  『けれどもこれは内証だよ。柳田だって他(わき)へしゃべらないように言いつけられている』
  『お屋敷の歯医者は柳田さんだけですか?』
  『もう一人あるけれど、柳田の方が近いからね。それにもう一人のは歯医者は痛いのが当り前だなんて言ったものだから、お母様の信用がなくなってしまった』
  『それじゃ柳田さんの方が痛くないんじゃありませんか?』
  『痛いよ、矢っ張り。柳田は屋敷へ来た時だけ痛くないようなことを言うんだ。家ではちっとも遠慮しない。こういう時だと思って態(わざ)と痛いことをする』
  『まさか』
  『いや、確かにその積りだよ。僕をサンザ痛い目に合わせて置いて痛いですかなんて笑っているんだもの』
  『ハッハヽヽヽ』
  『君も笑うね?』
  『失敬しました』
  『今日は僕の方から柳田先生を痛い目に合わせてやる』
  『どうなさるんですか?』
  『見てい給え』
  『乱暴をなすっちゃ困りますよ』
  『何あに、口でやる。ハッハヽヽヽ』
と照彦様も笑い出した。
  柳田歯科医院に着いたら、患者が数名控え室に待っていた。しかし照彦様は特別だから、奥さんの案内で客間から治療室へ通って、直ぐに椅子にかけた。
  『若様、今日は神経を取りますから、少しお痛いですよ』
と柳田さんが豫(あらかじ)め断った。
  『厭だな』
  『しかし一寸です。蚤(のみ)に食われたぐらいのものです』
  『蚤は痛いですか?』
  『オホヽヽヽ。若様は蚤なんか御存じありませんわ』
と奥さんが側から説明した。


  『これは大失策(おおしくじり)です。蚊に刺されたぐらいのものでしょう』
  『嘘です。蚊は痒いばかりです』
  『それでは蜂に刺されたぐらい』
  『これは溜まらない』
と照彦様は立ち上がった。蜂では懲りている。
  『冗談ですよ。本当は種痘ぐらいのものです』
  『それなら我慢しましょう』
  『お豪(えろ)うございますわね』
と奥さんが力をつけた。
  『昔の武士は痛くても決して痛いと申しません。そこが大和魂です。若様は大和魂がおありでしょう?』
と柳田さんは一生懸命だ。歯科は上手だが、御機嫌取りは得意でない。
  『あります』
  『ほんの一寸の御辛抱です。日本人は大和魂がありますから、皆平気です』
  『僕もありますよ。種痘を痛いなんて言ったことはありません』
  『実は種痘よりも少し痛いかも知れません』
  『厭だ。狡いんですもの』
と照彦様は、又立ちそうになった。
  『若様の大和魂は少しお弱いようですから、御遠慮申上げたんです』
  『馬鹿にしちゃいけませんよ。痛くはないけれど、ガリガリいうのが頭に響くんです』
  『今日はもうガリガリは殆どありますまい。神経を取る時一寸痛いんです。海月(くらげ)に刺されたぐらいのものです』
  『嘘ばかり』
  『蟹に挟まれたぐらいです』
  『オホヽヽ。動物尽くしね。大丈夫でございますわ。武士(さむらい)どころか、若殿様ですもの、痛いなんて仰有(おっしゃ)るものですか』
と奥さんは口車に乗せようと努めた。
  『言いません。僕も男です』
  『それじゃお願い致しましょう。どうぞお口をお開き下さい』
と柳田さんは治療に取りかゝった。
  照彦様は約束の手前、可なり辛抱が好かった。又ガリガリがあったかれど、苦情を言わなかった。間もなく柳田さんは歯の空虚(うつろ)の中を探針(さぐり)で掻き廻し始めた。忽(たちま)ち照彦様は、
  『あゝ‥‥』
と叫んで、ピクリと身体を動かした。大和魂があるから、痛いとは言わない。
  『豪いですな。もう直ぐですよ』
  『あゝ‥‥』
  『これです』
と柳田さんは探針の先端(さき)について来た糸のようなものを示した。
  『もう宜いんですか?』
と照彦様は伸び上った。
  『もう一つです。神経は三本に分かれていますからね。さあ、もう一遍大和魂ですよ』
  『あゝ‥‥』
  『痛い痛い。痛い!』
と悲鳴を揚げたのは照彦様でなくて柳田さんだった。
  『大和魂、大和魂』
と照彦様は柳田さんの指を咬んだまま言った。


  『若様、痛いです。痛い痛い』
  『若様、もう堪忍して上げて下さい』
と奥さんがあやまった。照彦様は放して、
  『取れましたか?』
と訊いた。余程我慢したと見えて、目に涙が溜っていた。
  『これです。お痛かったでしょう?』
と柳田さんは又探針の先端の神経を示して、
  『大和魂では私が負けましたよ、ハッハヽヽヽ』
と左の人差し指を検(あらた)めたら、歯跡が残っていた。
  『宜しうございましたわね』
と忠義一図の奥さんは御主人が咬まれても満足のようだった。正三君は笑い崩れて、傍(かたわら)の椅子に捉まっていた。余り賑やかだったので控室から患者が覗きに来た。柳田さんは手早く治療を終って、
  『又明日(あした)お出下さい。もう痛いことは絶対にありません』
と言った。
  『さよなら』
と照彦様はお辞儀をしたばかりだった。正三君は気の毒になって、
  『失礼申上げました』
と代ってお詫びをした。
  外へ出てから照彦様は、
  『どうだ?内藤』
と威張った。
  『驚きました』
と答えて、正三君は又笑い出した。照彦様の我儘は今始まったことでないが、これほどまでとは思わなかったのである。
  『僕と柳田さんと何方が大和魂がある?』
  『さあ』
  『僕は痛くても痛いと言わなかった。柳田さんは大騒ぎをしたぜ』
  『しかし‥‥』
  『しかし何だい?』
  『しかしあれは不意打ちを食ったからでしょう?患者に咬まれるとは思わなかったんです』
  『患者だって痛ければ咬むさ』
  『しかし‥‥』
  『しかししかしって、君は柳田贔屓(びいき)か?』
と照彦様は怖い顔をした。
  『そうじゃありませんが、しかし‥‥』
  『又!』
  『‥‥ ‥‥』
  『君は僕に大和魂がないと言う積りだな?』
  『少しあります』
  『よし。それじゃ君はどれぐらいある?』
  『若様ぐらいあります』
  『生意気なことを言うな。歯の丈夫なものに分かるものか』
  『兎に角若様は御辛抱が足りません』
と正三君は思う通りを正直に言った。
  『知らん』
  『しかし明日一日ですからもう宜いです』
  『君のお世話にはならないよ』
  『若様、電車が参りました』
  『知らん』
と照彦様は急に不機嫌になってしまった。
  その晩のことである。食事の折、奥様が、
  『照彦は少し顔色が悪いようですね』
と仰有って、凝(じっ)と見つめていられた。
  『そんなことはないです』
と照彦様が答えた。
  『何ともありませんの?』
  『えゝ。歯医者でガリガリやられて痛かったからでしょう』
  『今日で四日ですね。よく辛抱が続きます』
  『はあ』
  『それにしても少し青いようですわね』
  『お風邪じゃありませんの?』
とお姉様の妙子様も打目(うちま)もった。
  『若様は今朝学校でお喉がお痛いと仰有いました』
と正三君が思い出して申上げた。
  『余計なことを言うな』
と照彦様は正三君を睨みつけた。お殿様が御不在だと若様方も多少荒い。
  『涼しくなりましたから、又ソロソロ寝冷えでございましょう。悪いようなら早くお医者様に見て戴かなければいけません』
と奥様が穏やかにお諭しになった。
  『本当に何ともないんです』
  『お咳はは出ませんの?』
  『えゝ』
  『お喉は?』
  『痛くありません』
と照彦様は否定した。
  『照彦は扁桃腺を切るのが厭なものだから、嘘を言うのだろう』
と一番上の照正様が笑った。
  『そうですよ。大切(だいじ)の大切の扁桃腺ですからね』
とその次の照常様も冷やかした。照彦様は黙っていた。お兄様方には敵わない。
  『兎に角、後からお熱を計って見ましょう』
とお母様が仰有った。
  照彦様は食後お母様のお部屋へ寄って少時(しばらく)手間を取った。
  『若様、如何(いかが)でございましたか?』
と内藤君は廊下で待ち受けて尋ねた。
  『熱はない』
  『それは宜しうございました』
  『内藤、君はおしゃべりをしていけないね』
  『失敬しました』
  『お母様に早く扁桃腺を切れって言われたぜ。春切る積りだったのを痛いと思って延して置いたんだ。これは君にも話してあるじゃないか?』
  『はあ』
  『それだのにお母様の前で喉が痛いなんて言うんだもの。折角好い塩梅に忘れているのを思い出すじゃないか?』
  『済みません』
  『君はお母様に褒められるものだから、僕のことを何でもしゃべるんだろう?お兄様方も内藤は油断がならないって憤(おこ)っているぞ』
  『気をつけます』
  『柳田さんに食いついたことが分かれば君のせいだぜ』
  『それは御無理です』
  『いや、おしゃべりは君ばかりだ』
と照彦様はお兄様方にからかわれた口惜し紛れに散々焦(じ)れた揚句、正三君を廊下の壁へ押しつけた。抵抗しないのを承知で圧迫を加える。


  正三君は照彦様の御機嫌が好いと何も彼も忘れているが、こんな風にお旋毛(つむじ)が曲がって来た場合は兔角家のことを考え出す。そこは未だ子供だ。安斉先生の注文のように君君たらずと雖(いえど)もという心持になれない。叶うことなら押し返してやりたい、忠義を尽しても張合がないと思い込む。
  『若様、僕は今度の土曜日に家へ帰らせて戴きます』
と正三君が学習室へ戻ってから間もなく言い出した。
  『今度の土曜日には高谷君達が来るぜ』
と照彦様は無論帰したがらない。
  『夕方からでも宜いです』
  『君は憤ったな?』
  『‥‥ ‥‥』
  『何が気に入らないんだ?言って見給え』
  『申上げればお憤りになります』
  『憤らん』
  『それじゃ申上げましょうか?』
  『言い給え』
  『若様は扁桃腺をお切りになったら如何ですか?』
  『何?喧嘩か?君は』
  『本当に大和魂がおありなら、一思いにお切りになる方が宜いです』
と正三君はいつになく強硬に出た。
  『君は一思いでも僕は厭だよ。痛いからね』
  『しかし扁桃腺が腫れているから風邪をひくと仰有ったでしょう?』
  『君が引くんじゃないぜ。余計なお世話だよ』
  『しかし風邪を引けば学校をお休みになりますから‥‥』
  『君のしかしは聞きたくない』
  『若様は御辛抱が足りないから何でも駄目です』
  『君こそ辛抱が足りないぞ』
  『何故ですか?』
  『僕が少し憤ると直ぐに帰りたがる』
  『‥‥ ‥‥』
  『それ見給え』
  『それじゃ僕も辛抱しましょう。若様もお痛いのを我慢するのが大和魂です』
  『君は僕を痛い目に合わせたいのか?』
  『そうじゃありません。若様が御丈夫になるようにと思うんです』
  『よし。それじゃ切ろう。僕も男だ。明日切る』
  『明日は柳田さんです』
  『それじゃ明後日切る。その代り君も帰りたいなんて言うな。うんと苛めてやるから辛抱しろ』
と照彦様は額に青筋を立てゝいた。
  二人は自習に取りかゝった。正三君もつい本気になって言い合ったので教科書は上の空だった。そこへ小間使のお菊が現れて、
  『照彦様、藤岡さんがお見えになりましたから、応接間へお出下さるようにと奥様からでございます』
と注進した。
  『ふうむ』
と照彦様は驚いた。藤岡さんというのは耳鼻咽喉科の先生で矢張り家来だ。
  『照彦、お前は狡くて逃げ廻るから、お母様がいきなり先生をお呼びになったんだよ』
と一番上の照正様が申聞かせた。照彦様はお菊について出て行った。
  『照正様、照彦様は扁桃腺をお切りになるんでしょうか?』
と正三君が訊いた。
  『今夜じゃないです』
  『いつでございましょう?』
  『さあ。あれは一週間ぐらい入院しなければなりませんからね』
  『痛いですか?』
  『切った時よりも後の方が痛い。僕も四五年前にやりました』
と照正様は話相手になってくれた。
  少時するとお菊が又やって来て、
  『内藤さん、奥様がお呼びでございます』
  『はあ』
と正三君は立って行った。応接間では照彦様の診察が終ったところだった。
  『内藤さん、お序(ついで)ですから、あなたも見てお戴きなさい』
と奥様がおっしゃった。正三君は否(いや)も応もない。二つ三つお辞儀をして、藤岡さんの前の椅子にかけた。先生は額に反射鏡をつけて、
  『あゝん』
と言った。
  『あゝん』
  『これは可なり大きいですな』
ともう診察が済んでしまった。
  『はあ』
  『立派な手術ものです』
  『はゝあ』
と正三君は驚いた。
  『占めしめ』
と照彦様が手を叩いた。
  『それでは二人御一緒にお願い申上げましょう』
と奥様が仰有った。
  『切るんですか?僕も』
と内藤君は今更慌て始めた。
  『取ってしまう方が宜いですよ。そんなものを大切にして置いても仕方ないでしょう』
と藤岡さんは平気なものだった。
  『内藤さん、何(いづ)れお家へ御相談申上げます。先生はお上手ですから、痛くも何ともありませんのよ。照彦と内藤さんとは何方が強いでしょうね?』
と奥様は二人の気を励ました。
  学習室へ戻る途中、
  『照彦様』
と正三君が寄り添った。
  『何だい?』
  『痛いんでしょうね?切るのは』
  『痛いとも。血が出る』
  『厭だなあ』
  『でも君は先刻(さっき)勧めたじゃないか?』
  『あれは若様ばかりだと思ったからです』
  『それだから君は狡いよ』
  『ハッハヽヽヽ』
  『ハッハヽヽヽ』
と二人は利害が一致したので、先刻の廊下を仲よしになって通った。

若様の御手術
  『自習時間中に何御用でしたか?』
と安斉先生が正三君に訊いた。先生は学習室の全権を握っているから、ナカナカやかましい。
  『お医者さんがお出でになった序でに僕も見て戴きました』
  『はゝあ。君も矢張り喉や鼻がお悪いのですか?』
  『はあ。若様と同じように扁桃腺が腫れているそうです』
  『それはそれは』
  『何ともない積りでしたが‥‥』
と正三君は手術のことを思い出した。
  『この頃の人は武術で身体を錬らないからいけません。それに洋食ばかりしますから、兔角故障が多くなりますよ』
  『そうでございますかな』
  『粗食が宜いです。私なぞは贅沢をしませんから、この年になってもこの通り頑健です』
  『先生、僕は肉を沢山食べなければいけないんですって』
と照彦様が言った。
  『西洋医は日本人の身体が分りませんから、皆そう申します』
  『いけないんですか?』
  『菜根を咬みて百事作すべし』
  『はあ?』
  『菜っ葉で沢山です。困苦欠乏に堪える精神が何よりも大切(たいせつ)です。それはそうとして、御自習をお始め下さい』
と安斉先生は席へ戻った。
  折から照常様が照正様に向って、
  『お兄様、お兄様の方の英語の先生は文法でも平常点を取りますか?』
と訊いた。
  『取るとも』
  『辛(から)いですか?』
  『辛いとも』
  『それじゃ何処も同じことですかな。僕の方は難物に舞い込まれて皆キュウキュウ言っています』
  『誰だい?』
  『森川さんです。関さんが洋行したものですから、九月から代ったんです』
  『その森川さんだよ。僕の方の文法は』
  『そうですか。厳しいでしょう?』
  『グイグイやる。迚(とて)も評判が悪い』
  『僕の方は文法訳解と両方ともあの人ですから苦しいです』
  『しかしよく出来るね、あの先生は』
  『それだけ荒っぽいです。遠慮ってことがありません。一体あれは誰の家来ですか?』
  『島津君の家来だよ』
  『関さんも島津さんの家来でしたね』
  『そうさ』
  『島津君は徳ですな』
  『しかし森川さんはそんな容赦をしない。この間島津君は叱られたぜ。それも頭ごなしだからね、気の毒だったよ』
と照正様はいつまでも雑談の相手をしている。学監の安斉先生はこういう不規律を好まない。幾度も顔をしかめた後、
  『エヘン』
と咳払いをした。それでもコソコソ話すものだから、間もなく、
  『散乱心を戒めてえ!』
と詩吟のような調子でおっしゃった。この注意が響き渡ると、若様方ばかりか、家庭教師の先生方までシャキッとなる。皆居ずまいを直して自習に身を入れた。
  そこへ、
  『内藤さん』
と又々お菊が現れた。
  『何です?』
と安斉先生が睨んだ。
  『内藤さんに奥様が御用でいらっしゃいます』
  『先生、一寸失礼させて戴きます』
と正三君は恐る恐る安斉先生にお断りを申上げた。
  『宜しい』
  『はあ』
  奥様はもうお部屋へ戻っていられた。正三君の姿を見ると、
  『内藤さん、さあ、此方へ』
とお招きになって、
  『お菊はもう宜いのよ』
と小間使を退けた。正三君は敷居際に坐ってお辞儀をした。
  『さあ、此方へ』
  『はあ』
  『度々御苦労ですね』
  『どう致しまして。先程は有難うございました』
と正三君は診察のお礼を申上げた。
  『オホヽヽヽ』
  『‥‥ ‥‥』
  『内藤さん、あれは狂言でございますのよ』
と奥様は又お笑いになった。


  『はあ?』
  『お芝居でございますの』
  『はゝあ』
  『本当を申上げると、あなたの扁桃腺は何ともございませんのよ』
  『でも先生が立派な手術ものだとおっしゃいました』
  『それがお芝居でございます』
  『はゝあ』
と正三君は狐につまゝれたようだった。
  『照彦は弱虫ですから、切るのを厭がって一人では迚(とて)も承知しそうもありません。それであなたに加勢をして戴きます。お分かりになりまして?』
  『さあ』
  『あなたはこれから手術の日まで照彦にお力をおつけ下さい。それから一緒に藤岡先生の病院へ上って、あなたから先に切って戴きます』
  『はゝあ?私から?』
  『手術を受ける真似をなさるのです。そうして思ったほど痛くないとおっしゃって戴きます。すれば照彦も安心して切らせましょう』
  『分りました。それならお安い御用です』
  『誰にもおっしゃってはなりません』
  『はあ』
  『片方に三日かゝるそうですから、一週間入院しなければなりません』
  『私もでございますか?』
  『御苦労ですが、そう願います。このお芝居は余程うまくやりませんと気取られてしまって後が利きません。右左両方でございますからね』
  『先生は無論御承知でございましょう?』
  『打合せがしてあります』
  『けれども嘘を申上げては済まないと思って、僕のも本当にお切りになりはしないでしょうか?』
  『まあ!内藤さんも弱虫ね』
  『いゝえ、それならそれで覚悟があります』
  『でも腫れていないものは切りようがございませんわ』
  『そうでございますか。安心しました』
  『頭の好いことを吹き込んで下さるように手術の痛くないことを吹き込んで下さい。けれどもあなたも少し怖がる方が宜しうございますよ』
  『はあ』
  『余り平気でいらっしゃると感づかれます』
  『怖がりながら強がりましょう。すると若様も負けない気になって我慢をなさいます』
  『そう願いましょう。手術はこの土曜日に定めてあります。私も参りますから、その時又打合せを致します。それまでのところをどうぞ宜しく』
と奥様は尚おクレグレも頼み入った。
  正三君が学習室へ戻ると間もなく、照彦様は、
  『君、何の用だったい?』
と囁いた。
  『後から申上げます』
  『柳田さんに咬みついたことが分ったんじゃないか?』
  『いゝえ』
  『何だい?』
  『僕の扁桃腺です』
  『君の扁桃腺?』
  『若様のより大きいですから、早速切るんですって。ついては家へ相談に行って来るようにとおっしゃいました』
  『帰るのかい?』
  『えゝ』
  『困る』
  『手紙で間に合わせましょうか?』
  『そうしてくれ給え』
  『はあ』
  『いつ切るんだい?』
  『若様と御一緒にこの土曜日らしいです』
と正三君もつい長くなる。
  『散乱心を戒めてえ。臍下丹田に力を入れてえ』
と安斉先生が吟じた。むづかしい爺さんだ。
  翌日学校から歯科医へ廻って帰途に、正三君はソロソロ芝居を始めても宜い頃だと思って、
  『若様、お歯がこれで済んで今度はイヨイヨ扁桃腺ですね』
と切り出した。
  『僕も今丁度それを考えていたところだよ。厭だなあ』
  『厭ですねえ』
  『はゝあ。君も見かけによらない弱虫だね』
  『何故ですか?』
  『昨夜(ゆうべ)初めの中(うち)威張って置きながら、藤岡さんに見て貰ってからの慌て態(ざま)ってなかったよ。やあいやあい!』
  『僕だって、切るのは痛いですからね』
  『それでも僕に勧めたじゃないか?辛抱が足りないとか何とか言って』
  『あれは若様だけだと思ったからです』
  『狡い奴だよ。そんな大和魂があるものか』
  『降参しました。しかし負けません』
  『何だい?それは。慌てちゃいけないよ』
  『あれは僕が悪かったですけれど、イヨイヨ切るとなれば若様の大和魂に負けません』。
  『生意気を言っている。君の大和魂はセルロイド製だ』
  『若様、それじゃ藤岡さんの病院で大和魂の較べっこを致しましょう』
と正三君は追々と手術の方へ漕ぎつける。
  『宜いとも』
  『しかし痛いでしょうな』
  『それ見給え。セルロイドだからペコペコしていらあ』
  『僕は様子が分らないから心配なんです。怖いんじゃありません』
  『巧く言っている。怖いから心配になるんだ。痛いぞ、実際』
と照彦様は威嚇(おどか)した。
  『いゝえ、あれはお薬をつけて切るんですから痛くても知れたものですって奥様がおっしゃいました』
  『お母様は御自分がお痛くないから知れたものさ。昨日の君と同じことだ』
  『照正様は切った時よりも後の方が痛いとおっしゃいました』
と正三君は研究している。
  『ジョオッと音がして血がドクドク出たそうだ。あゝ考えても厭だ』
  『それ御覧なさい。若様の大和魂こそセルロイドです』
  『失敬なことを言うな』
  『それじゃお切りになりますか?』
  『切るとも』
  『僕は御免蒙ります』
  『何?』
  『僕は本当は切りたくないんです』
  『そんな狡いことを言っても今更駄目だよ』
  『家へ逃げて行ってしまいます』
  『よし。僕は今からお母様に言いつけて置く』
と照彦様は本気になった。
  『厭だなあ!僕は痛いことは大嫌いです』
  『誰だってそうだよ。しかし身体を丈夫にする為なら仕方がない』
  『切らなくても丈夫になれば宜いでしょう?』
  『切らなければ丈夫にならない』
  『それじゃ若様はイヨイヨ本当にお切りになりますか?』
  『切るとも。君が切れば切る』
  『僕も若様がお切りになれば切ります』
  『それじゃ約束して置こう』
  『ゲンマンですよ』
  『何だい?ゲンマンてのは』
  『約束を破れば拳固で一万叩くんです』
  『それじゃ僕もゲンマンだ』
  『ゲンマン!』
と正三君は略(ほぼ)目的を達した。これぐらい念を入れて置けば、照彦様もまさかに後へは退けない。
  『しかし土曜日というと明後日だね』
  『そうです』
  『来週の土曜日にして貰いたいな』
  『早い方が宜いですよ』
  『何故?』
  『延すと若様は又お厭になります』
  『何だ。自分だって厭がっているくせに』
と照彦様は計られたとは御存じない。
  翌日、学校で高谷君が、
  『花岡君、明日は又駄目だってね』
と残念がった時、照彦様は、
  『そうそう』
と思い出した。扁桃腺のことばかり考えていて、皆の遊びに来るのを忘れていたのだった。例の仲よし五人、尚お話し合っている中に、
  『僕も扁桃腺を切って貰った』
と松村君が言い出した。
  『いつ?』
  『子供の時に』
  『今でも子供じゃないか?』
と正三君が揚げ足を取った。
  『ハッハヽヽヽ』
  『痛かったかい?』
と照彦様が訊いた。
  『何あに』
  『血が出たろう?』
  『一寸だよ』
と松村君は極く手軽のように言った。
  『僕と照彦様と大和魂の競争をするんだよ』
と正三君は役目を思い出した。
  『負けるものか』
と照彦様は力んだ。
  土曜日の午後、照彦様と正三君は奥様につれられて藤岡耳鼻咽喉病院へ乗りつけた。先生から豫め注意があったので昼食は取らない。これは手術の時吐くといけないから、その用心だった。正三君は食べないお相伴をさせられた。忠義の為には腹のへるぐらい仕方がない。一同は客間へ通された。先生夫婦が下へも置かないように持てなす。手術を受けに来たよりもお客に来たようだった。
  『若様の方は時折お手当を申上げておりましたから、可なり小さくなっています。内藤君の方は難物ですよ。奥へ拡がって胡桃ぐらいの大きさになっています』
と藤岡さんがが用談に取りかゝるまでに大分時間がたった。正三君は奥様からの目くばせを合図に、
  『先生』
と芝居をやり始めた。
  『何ですか?』
  『大きいと痛いんですか?』
  『何あに、一寸ですよ』
  『先生、僕、後からにして戴きます』
  『僕が後からです』
と照彦様がおっしゃった。
  『骨の折れる方から先にやります』
と先生は笑っていた。
  『僕からですか?』
  『そうです』
  『おやおや』
と正三君は頭を掻いた。
  他にも手術の約束があったが、こういう時に繞(めぐ)り合せたものはお気の毒だ。先刻から控室で待たされている。藤岡先生も多少気になると見えて、間もなく、
  『それでは彼方へ参りましょうか』
と診察室へ案内した。照彦様と正三君は防水布の手術着を纏った。何となく物々しい。そこへ安斉先生が駈けつけた。奥様に一礼の後、
  『やあ、藤岡さん』
と進み寄った。
  『これはこれは』
  『どうも安心が出来ませんから立合に上りましたよ』
  『先生には漢籍を習った時代から信用がございませんでしたからな』
と藤岡さんが笑った。旧藩士で中年以上の人は大抵安斉先生のお弟子さんだ。
  『いや、そういう次第(わけ)ではありません。若様に一言申上げるのを忘れましたので、大嫌いな自動車に乗って飛んで参りました』
  『はゝあ、それはそれは』
  『若様、イヨイヨ御手術の折は臍下丹田にお力をお入れ下さい』
  『はあ』
  『無念無想にしていられれば少しもお痛いことはございません』
  『はあ』
  『内藤君もその心得で』
と安斉先生はこれだけのことを注意しに来たのだった。
  正三君が先づ手術室へ進んだ。助手と二名の看護婦が甲斐々々しく従った。藤岡さんは正三君と差向かいに席を占めて、腕時計を見ながら、
  『今日は御苦労ですな』
と笑った。
  『どう致しまして』
  『御忠義はそうありたいものです』
  『いゝえ、一向』
  『私、あなたのお父さんとは御懇意に願っています』
  『はゝあ、そうでございますか』
  『宜しくおっしゃって下さい』
  『はあ』
  『それでは手術にかゝりましょうか。ジョキンジョキンジョキン。もう宜しい』
  『はあ?』
  『もう宜いんです。含漱(うがい)をして』
  『はあ』
と正三君は診察室の方を見返ったが、曇硝子(くもりガラス)だから大丈夫だった。


  『少し痛い顔をして』
  『これぐらいですか?』
  『そうそう、此方へいらっしゃい』
と藤岡さんは診察室へ案内して、
  『もう済みました』
と皆に一礼した。
  『まあ、お早いですこと。お強いお強い』
と奥様が劬(いたわ)った』。
  『痛かったかい?』
と照彦様は真剣な顔をして寄り添った。
  『いゝえ』
  『少しも?』
  『えゝ。痛いなんて思う間はありません。直ぐです』
  『余りお口をおきゝになっちゃいけませんよ。血が出ます。病室へ行ってお休みなさい』
と藤岡さんは正三君を看護婦の手に委せた。
  次ぎに照彦様が手術室へ入った。奥様と安斉先生が立会った。今度は本当の手術だから仕度に手間がかゝる。
  『若様、臍下丹田にお力をお入れ遊ばして』
と安斉先生が側(はた)から励ます。看護婦がお頭(つむり)を抑えている。藤岡さんは照彦様の口へ機械を入れて覗き始めた。
  『凝(じ)っとなすって。未だですよ。凝っとなすって。未だですよ』
  『あゝ!』
と照彦様が首を曲げた。
  『もう済みました。これです』
と藤岡さんは早業をやった。胡桃大のものを切り取ったのである。無論血が出た。
  『あゝ!』
と照彦様は切った跡へ薬を塗られた時又呻いた。
  『お含漱をなすって』
  『未だ出ます』
  『直ぐ止まります。お心持をお静かになすって』
  『臍下丹田ですぞ』
と安斉さんは青くなっていた。
  『有難うございました。大きなものでございますね』
と奥様は血に染まった肉片を見つめた。
  『少し大きい方です。御辛抱でした。若様、お痛いですか?』
  『いゝえ』
と照彦様は思ったほどでなかった。
  『お強いですな。内藤君はもう少しで泣くところでした』
と藤岡さんは如才ない。

忠義の為の嘘と真
  照彦様は手術が済むと直ぐに看護婦に扶けられて病疾へ入った。お母様と安斉先生が後に従った。
  『若様、如何でございました?』
と正三君は我を忘れて元気好く起き上がった。
  『内藤さん、あなたもお静かにしていらっしゃらなければいけませんのよ』
と奥様が目くばせをしながら制した。
  『では失礼致します』
と正三君は横になった。照彦様もベッドに寝転んだ。切った跡がチクリチクリ痛む。しかしここが大和魂の見せどころだと思って我慢している。
  少時すると藤岡先生が入って来て、
  『成るべくお休みになる方が宜しうございますから、もうお引取りを願いましょうか?看護婦と家内をつけて置きますし、私が時々見廻ります。決して御心配はございません』
と言った。
  『それでは照彦や、私達はもう帰りますよ』
  『‥‥ ‥‥』
  『内藤さん、宜しく頼みます』
  『はあ』
  『あら、お起きにならなくても宜いのよ。あなたも病人です』
と奥様は又目まぜをした。
  『それでは若様、臍下丹田の御工夫をお忘れにならないように。内藤君、君もシッカリ』
とこれは安斉先生だった。
  皆が行ってしまった後で、照彦様は頭を擡(もた)げた。
  『内藤君』
  『はあ』
  『後から痛いと言ったが、そんなでもないね』
  『そうですか?』
  『君はどうだ?』
  『僕は何ともありません』
と正三君は切らないのだから実際何ともあるはずがない。
  『大きなことを言うな。僕は知っているぞ』
  『何ですか?』
  『切った時に泣きそうになったくせに』
  『そんなことはありません』
  『いや、先生がおっしゃった。もう少しで泣くところだったとおっしゃった。嘘をついても駄目だよ』
と照彦様はすっかり本気にしていた。
  正三君は余り強がると芝居を感づかれると思ったから、時々、
  『あゝあゝ』
と溜息をついた。それに応じて照彦様も、
  『あゝあゝ』
とやる。但しそれは本当の歎息だ。
  『あゝあゝ』
  『あゝあゝ。痛い!唾を呑むと痛い』
  『僕も少し痛いです』
と正三君は起き直った。
  『それ見ろ』
  『含漱をしよう』
  『うむ忘れていた』
と照彦様も含漱をする。
  『若様、少しお休みしましょう。寢てしまえば痛いのを忘れます』
  『弱い奴だ』
  『僕は口をきくと痛いんです。もう寢ます』
と正三君はそのまゝ目を閉じている中に夢心地になった。照彦様も夕方まで眠った。
  晩は牛乳と重湯だけだった。傷に触るといけないから形のあるものは食べられない。正三君は又有難くないお相伴をした。遣り切れないと思ったが、そこを辛抱するのが忠義というものだ。照彦様はもう痛みが取れたので上機嫌になっていた。
  『内藤君、僕はもう何ともない』
  『僕は唾を呑むと未だ少し痛いんです』
  『それは僕もそうだよ。あんな大きなものを切ったんだから傷が出来ているのさ』
  『血が出ましたか?』
  『出たとも』
  『沢山?』
  『ダラダラ流れた。君だって出たろう?』
  『僕は何が何だか分らなかったんです』
  『ジョオッっといったろう?』
  『ジョキンジョキンジョキンでした。後は夢中です』
  『君は口ばかりだね。成っていない。藤岡先生は僕の方が強いと言っていた』
と照彦様は威張り始めた。
  『それはお世辞ですよ。お屋敷の人は僕と若様が同じなら屹度(きっと)若様を褒めるんです』
  『しかし僕は泣きそうになんかならなかったからね』
  『人が見ていなければ何んな法螺でも吹けます』
  『法螺だ?』
  『えゝ』
と正三君は平気で答えた。
  『内藤!』
  『何ですか?』
  『失敬だぞ』
と照彦様は例の青筋を立てた。


  『後から切ってお威張りになっても駄目です』
  『よし』
  『今度僕は若様のお切りになる時見ていてやります』
  『見てい給え。泣きそうになったら、この首をやるよ』
  『しかし僕は先に切ると、痛い最中ですから、若様のを見ていられません』
  『弱虫!』
  『今度は若様と御一緒に切りましょう』
  『一緒には切れないよ。そんな無理を言っても駄目だ』
  『僕は先生に切って貰います。若様は助手に切って戴けば宜いです』
と正三君は目的があるから無暗に逆らう。
  『内藤正三位!』
  『‥‥ ‥‥』
  『馬鹿!』
  『助手に切って貰えなんて、失敬じゃないか?君こそ助手に切って貰え』
  『僕は厭です』
  『僕も厭だよ』
  『何故ですか?』
  『助手は先生よりも下手だから痛いに定まっている』
  『それ御覧なさい』
  『何だい?』
  『痛がるのは大和魂のない証拠です』
  『あるとも、見せてやる』
  『見せて戴きましょう』
  『よし、今度は僕が先に切る』
  『先に切れるもんですか』
  『切るとも』
と照彦様は又計略にかゝった。内藤正三位、ナカナカ狡い。
  こう直ぐに喧嘩をする殿様と家来は珍しい。しかしこの二人ぐらい直ぐ又仲よしになる主従も少ない。翌朝、
  『若様、如何でございますか?』
と正三君が訊いた時、照彦様は、
  『もう何ともない。うまいぞ。学校へ行かずに遊べるんだ』
と答えて、すっかり御機嫌が直っていた。
  『僕は未だ少し痛いです』
  『痛いと思うから痛いんだよ』
  『若様は思いの外(ほか)お強いですな』
  『君は口でお世辞を使っても、肚(はら)の中じゃ僕を弱いと思っているんだ。今度は僕が先に切って見せるよ』
と照彦様は行きがかり上決心しているようだった。その日、奥様と安斉先生が見舞いに来た。翌日は照正様と照常様が学校の帰りに寄った。
  『内藤君、御苦労様。ハッハヽヽヽ』
と笑ったところを見ると、照正様は仕掛けを御承知だった。照常様も、
  『手術のお相伴じゃ退屈するだろうね』
といつになく同情してくれた。その次の日には富田さんと家庭教師三名が打ち揃って伺候した。小さな扁桃腺一つに大きな騒ぎをする。
  五日目はもう一方の手術だった。奥様と安斉先生が立ち合った。照彦様は競争心が起こっているから、第一回の時のように怖じけなかった。
  『先生、僕は先にやって戴きます』
と申出た。
  『これはお豪いですな』
と藤岡さんは本当に感心した。
  『内藤君、見ていてくれ給え』
  『拝見致します』
と内藤君も手術室へ入った。藤岡先生は、
  『宜いですか?凝っとなすって』
と言うと同時に例の早業をやった。照彦様は、
  『あゝ!』
と首を傾げたが、顔色が青くなっただけで、決して女々しい様子を見せなかった。弱虫の若様をこれまでに激励したのは確かに正三君のお手柄だった。藤岡先生は照彦様を病室へ見送ってから、
  『内藤さん、今日はもうジョキンジョキンに及びませんよ』
と言って笑った。
  二人は土曜日に退院した。丁度一週間休んだ勘定になる。月曜日に学校へ行った時、
  『やあ、どうだったい?』
と仲よし連中が取り囲んだ。
  『花岡君、病気だったの?』
と堀口生も寄って来た。
  『扁桃腺を切ったのさ』
と照彦様は喉のところへ手を当てた。
  『もう快(い)いのかい?』
  『えゝ』
  『正三位、そういえばお前もこの間から見えなかったな』
  『‥‥ ‥‥』
  『内藤君も切ったんだよ』
と高谷君が代って答えた。
  『ふうむ、成程、殿様が腹を切ると家来も切るんだな』
と堀口生は例によって口が悪い。正三君は癪に障ったけれど黙っていた。
  休憩時間には運動場へ出ることになっている。しかし生徒はいろいろの都合から兔角教室に殘りたがる。二時間目の授業が終った時、先生がチョークを忘れて行ったものだから、二三名のものが黒板へ楽書を始めた、その中に一人が、
  『低脳児』
と書いた。
  『違う』
と言って、もう一人が、
  『低能児』
と直した。正三君はそこへ通りかゝって、
  『丁の字』
と大きく書いた。洒落の積りだった。
  『やい』
と堀口生がいきなり後から突いた。
  『何だい?』
  『人の悪口を書くな』
  『君のことじゃないよ』
  『いや、おれの成績表は丁の字揃いだ。おれのことに定まっている』
  『そんなこと僕が知るものか』
  『覚えていろ』
  『知らない』
と否定して正三君は外へ出てしまった。
  級(クラス)の持て余しもの堀口生は先頃細井君と啀(いが)み合った折、正三君に突き倒されたのを深く根に持っている。喧嘩を売る積りで、口実を探しているのだ。正三君も場合によっては買う気がある。細井高谷の両名もいつか一度はやらなければならないと思っている。随って花岡家へ遊びに行くと芝生の上の相撲に身を入れる。又土曜日の交際が続いた。
  或日のこと、堀口生が、
  『花岡君』
と運動場の片隅で照彦様を呼び止めた。
  『何ですか』
  『君達はこの間から相撲の稽古をしているそうだね?』
  『さあ』
と照彦様は考え込んだ。
  『匿しても駄目だよ。僕の子分は皆探偵だからね』
と堀口生は執念深いから、ナカナカ諦めない。何うかして花岡家へ遊びに行きたいのだ。若しこれが叶うなら、正三君初め優良連中と和解しても宜いぐらいに思っている。
  『‥‥ ‥‥』
  『誰が一番強い?』
  『高谷君です』
  『君は高谷君に負けるのかい?』
  『勝ったり負けたりです』
  『弱い同志で取っても強くはならない。今度の土曜日に僕が行って教えてやろう。僕は手を沢山知っているぜ』
  『他の人が来ると僕が安斉先生に叱られます』
  『何でも安斉先生だね。しかし先生だって皆君のところの家来じゃないか?君が宜いって言えば宜いんだ』
  『いゝえ、僕、お母様に叱られるんです』
と照彦様は持て余して歩き出した。
  『花岡君、待ち給え』
  『何ですか?』
  『君に訊きたいことがあるんだ。花岡君、僕は君に何を悪いことをしたい?』
  『‥‥ ‥‥』
  『他の奴と喧嘩をしても、君だけは別にしているじゃないか?』
  『‥‥ ‥‥』
  『先生に信用がないからって、そんなに僕を嫌わなくても宜いじゃないか?』
  『嫌いやしません』
  『落第生だって、そんなに馬鹿にしなくても宜いじゃないか?』
  『馬鹿にしやしません』
  『僕は先生が信用してくれないから、勉強する気にならないんだよ。これでも尋常一年の時は優等だったぜ、嘘だと思うなら免状を見せてやる』
  『‥‥ ‥‥』
  『尋常六年の時には川へ落ちた女の子を助けて校長さんに褒められたことがある。嘘だと思うなら尾沢に訊いて見給え』
  『それはこの間級会(クラスかい)の時に聞きました』
  『この学校へ入ってからいけないんだ。先生に睨まれてしまっちゃ仕方がない。お前は不良だと言うから不良になってやるんだ。少し同情してくれ』
  『同情します』
  『そうれじゃ僕も君の家へ行って宜いかい?』
  『僕は構わないんですが‥‥』
  『構わないんですが、何だい?何だよ?その後は』
と堀口生は照彦様の手を捉まえた。
  『‥‥ ‥‥』
  『内藤がいけないって言うんだろう?』
  『‥‥ ‥‥』
  『そうだろう?』
と引っ張る。
  『そうです』
と照彦様はつい言ってしまった。
  『よし、おれは内藤を撲ってやる』
  『そんなことをしちゃ困ります』
  『それじゃ君の家へ行っても宜いか?』
  『‥‥ ‥‥』
  『おい』
  『‥‥ ‥‥』
  『勝手にしやがれ』
と堀口生は照彦様を突き放した。照彦様はよろけながら逃げ出した。
  その次の休憩時間に堀口生は正三君と擦れ違いさま、帽子を払い落とした。喧嘩はいつもこの手で仕掛ける。
  『何をする』
  『家来、正三位、口惜しければかゝって来い』
  『僕は喧嘩は嫌いだよ』
と正三君は相手にならない。帽子を拾って埃(ほこり)を叩きながら笑っていた。
  『何とか言っていやがる』
  『何でも宜いよ』
  『喧嘩が怖いなら相撲で来い』
  『相撲も嫌いだ』
  『やい、家来、正三位、おれは貴様に恨(うらみ)がある。いつかのことを忘れたか?』
  『何を?』
  『おれを突っ転ばしたじゃないか?やる気なら正々堂々とかゝって来い』
と堀口生は詰め寄って来た。正三君は高谷君や細井君の周囲を繞って巧みに避(よ)けた。二人とも気を利かして、それとなく道を塞ぐ。しかし堀口生は高谷君と細井君の相応手硬(てごわ)いことを知っているから、正三君ばかりつけ廻す。その中に正三君は照彦様の後へ匿れた。堀口生は業を煮やして、突如(いきなり)照彦様の帽子を払い落とした。
  『何をする?』
と照彦様が憤った。
  『こうするのよ』
と堀口生は足元の帽子を踏んで、
  『やい、家来、正三位、貴様は殿様の頭を踏まれても、かゝって来ないのか?意気地無し!』
と正三君を罵った。正三君が屈んで拾おうとすると、堀口生は、
  『どっこい』
と言って、帽子を蹴飛ばした。


  『好い加減にしろ!』
と正三君は我を忘れて堀口生を下から突き上げた。堀口生は、足が浮いていたところへ不意を食ったから一溜まりもない。美事に投げ倒された。正三君は乗りかゝって二つ三つ撲った。
  『卑怯だぞ』
と尾沢生が後から正三君に組みついて引き外した。堀口生は起き上がったが、高谷君に抱き止められた。
  『放せ』
  『放さない』
と高谷君は一生懸命だ。
  『放せ』
  『放さない』
と尾沢生も力一杯に正三君を抱き締めた。尤もこれは止める風(ふり)をして堀口生に打(ぶ)たせる積りだった。
  『おい、放せったら放せ』
  『放し給え』
と堀口内藤、双方怖い顔をして身をもがいている中に授業の鐘が鳴ってしまった。
  喧嘩口論すべからず。善くないことの結果は何うせ宜しくない。負ければ無論のこと、勝っても野球の仕合なぞとは違う。正三君はその時間中英語の訳解が身につかなかった。詰まらないことをしたという感じに責められて、頭を抱えていた。しかし止むに止まれなかったのである。考えて見れ自分が悪かったとは思えない。当然の成り行きだ。照彦様があんな目に会わされるのを学友として黙って見ていられるものでない。君辱めらるれば臣死す。安斉先生のお教えになったところはこゝだ。仕方がない。と結論したが、どうも心持が悪い。
  折から後の机の横田生が先生の目を偷みながら、チクリチクリと正三君の背中を抓り始めた。うるさくて仕様がない。
  『よし給え』
と正三君は肩を振った。
  『電信だよ』
  『そんなものはいらない』
  『堀口君から廻って来たんだよ。先刻のお礼だそうだよ』
と囁きながら、橫田生は机の下から紙片(かみきれ)を押しつけた。こう聞くと正三君も気になる。窃(そ)っと受取って見たら、
  内藤正三位、昼の時間に小使部屋の裏で待っている。一人と一人で男らしくやろう。
という喧嘩やり直しの申込みだった。
  『おい、返事を書け』
  『‥‥ ‥‥』
  『書かなければ言え』
  『行くよ』
  『何?』
  『行くとも!』
と正三君の声は少し高かった。
  『内藤君と橫田君、話をしちゃいけませんよ』
と秋山先生が注意した。
  『‥‥ ‥‥』
  『内藤君、君は大変顔色が悪いね。何うかしましたか?』
  『いゝえ』
と内藤君は俯向いた。
  『愉快々々』
と堀口生が先生の直ぐ下で喜んだ。
  『何です?君は』
と先生が窘(たしな)めた。一年坊主は世話が焼ける。

止むに止まれぬ
  お弁当が済んで級担任の橋本先生がいつもの通り、
  『それでは諸君、運動場へ出て元気に駈け廻る』
と言った時、皆立ち上がった。
  『内藤君、待ち給え』
と高谷君はもう正三君の側へ来ていて、
  『先刻の無線電信は何だい?』
と訊いた。
  『喧嘩さ』
  『そうだろうと思っていた。やろうって言うのかい?』
  『うむ』
と正三君は小使部屋の裏へ出かける決心を話した。
  『やるのか?』
  『やる』
  『やれ。手伝う』
  『僕も手伝う』
と細井君も寄り添っていた。
  『よし給え。喧嘩はよし給え』
と級長の松村君が止めた。
  『何だい?今更』
  『級(クラス)全体の為だ』
と高谷君と細井君が憤慨した。
  『僕は級長として一遍は止めるよ』
  『松村君、君に迷惑はかけない。君が止めたけれどもやったって僕は後から言うよ』
と正三君は級長としての松村君の立場に同情した。
  『なあに、一遍止めれば宜いのさ』
  『しかしやるよ』
  『是非やり給え。僕も手伝う』
と松村君も大いに話せる。
  『照彦様、僕イヨイヨやります』
と正三君は許可を求めた。
  『僕もやる』
  『若様はいけません』
  『いや、僕が元だ。やるとも』
と照彦様は仲間があると強くなる。
  堀口生は子分を従えて、廊下に待っていた。しかし正三君の方に高谷松村花岡の外に尚お数名が附いているので、少し躊躇したようだった。
  『さあ、小使部屋の裏へ行こう』
と高谷君が通り過ぎさま申入れた。
  『貴様に関係はない』
と堀口生は睨んだ。内藤君は運動場へ出て待っていた。堀口生も出て来たが、仲間との相談に余念がない。
  間もなく尾沢生が、命を帯びてやって来た。
  『内藤君』
  『何だ?』
  『堀口君は一人と一人でやろうと言うんだ』
  『それは分っている』
  『それから上級生が止めるといけないから、帰りにしようと言うんだ』
  『宜いとも』
  『それじゃ今度の時間が済んでから君一人で小使部屋の裏へ来てくれ給え』
  『よし』
と正三君は承知した。
  その休憩時間中に内藤堀口の喧嘩が同級生全体に伝わった。いつの間にか正三君のまわりに十数名集まっていた。これは皆同情の余り自然に寄って来たので、イザとなれば助太刀をする気だった。
  『内藤君、やり給え』
と激励しては堀口生の方を憎らしそうに見据えている。呵るに堀口生は人気がない。四人の子分とヒソヒソ話すだけだった。奴、具合が悪いものだから、尾沢生を相手に例の拳闘の真似を始めた。
  『どうだい?今のは』
  『その調子、その調子』
なぞと尾沢生が御機嫌を取っている。


  昼からは習字だった。正三君は手が震えて困った。こんなことでは喧嘩に勝てないと思って、じっと気を落ち着けているところへ、前の席の生徒が、
  『内藤君、おい、おい。内藤君』
と頭で囁いた。時間中後ろと話す時にはこの方法を用いる。
  『何だい?』
  『僕のお清書だよ。下、下』
と机の下から何か渡した。正三君は先生の様子を覗いながら受け取って拡げて見た。
  『一人と一人じゃない。堀口は尾沢に君を捉まえさせて置いて眉間を突くという計略だ。用心し給え』
と半紙一杯にお清書のように書いてある。これは青木という子で仲よしだから態々知らせてくれたのだった。
  『有難う。青木君』
と正三君はお礼を言った。
  『先刻運動場で聞いていたんだよ』
  『ふうん?』
  『それだから尾沢が側へ来た時用心し給え。分ったかい?』
  『分った』
  『二人でかゝって来るんだから、一人じゃ駄目だよ』
  『よしよし』
  『それからね‥‥』
  『そこの二人、青木君と内藤君ですか?前と後ろで話をしちゃいけませんね』
と先生が注意した。正三君は赤面した。朝からこれで二度目になる。秀才も他に屈託があるとこの通りだ。
  放課後、正三君と堀口生は小使部屋の裏で相会した。こゝは行き止まりで、誰も来ないから、喧嘩には屈竟のところだ。堀口生には尾沢橫田篠崎小川の四名がついていた。正三君の左右には高谷細井松村花岡の外に十五六名控えていた。堀口生は稍案外のようだった。尾沢生が先づ進み寄って、
  『内藤君、そんなに野次馬をつれて来ても駄目だ。一人と一人でやるんだ。君一人此方へ出給え』
と言った。
  『出るとも』
と正三君が応じた時、高谷君も進み出た。
  『高谷君、一人と一人だよ』
  『しかし堀口には君がついているじゃないか?』
と高谷が詰(なじ)った。
  『僕は介添えだよ』
  『何?』
  『介添えよ。世話役だ』
  『それじゃ僕も内藤君の世話役だ。介添えだ』
  『そうか。待て』
と尾沢生は自分ひとりで計らうことが出来ない。親分のところへ戻って少時耳打ちをした後、
  『そうれじゃ内藤の介添えになれ。二人で出て来い。しかし手出しをすると承知しないぞ』
と極(き)めつけた。
  『それはお互いだ』
と高谷君は鞄を松村君に渡して、正三君諸共進み出た。
  堀口生はその間に上着を脱いで待っていた。
  『おい、内藤、男らしくやろうぜ』
と進み寄った態度は如何にも落ちついていた。子分の橫田篠崎小川の三名も、鞄を外して仕度をした。
  『内藤、貴様は男らしくないな』
と尾沢生が咎めた。
  『何だ?』
と正三君の顔は青かった。
  『それじゃ堀口君の方が日を受けるから眩しい。不公平のないように、もっと此方へ寄り給え』
と尾沢生は正三君の手を取った。
  『それじゃ俺は何方へ廻れば宜いんだい?こうっと、お天道様が彼処(あそこ)にいるんだから』
と堀口生は空を見上げた。正三君と高谷君がうっかり釣り込まれて太陽の方へ目を向けた刹那に、尾沢生は正三君の腕を捩(ねじ)って、グイッと引いた。これは予定の行動だった。堀口生は猛然として突きかゝった。正三君は口端をやられて、二三步よろめいた。しかし次の瞬間に高谷君は堀口生に後から組みついていた。
  『卑怯だぞ!』
と叫んで高谷君の足を取ろうとした橫田生は細井君に撲り倒された上に、野次馬の足蹴に会って、逸早(いちはや)く逃げ出した。篠崎生と小川生はこれに気を呑まれて手出しがならない。
  『堀口君、しっかり!』
  『尾沢君、しっかり!』
と声援するだけたっだ。
  正三君と尾沢生は直ぐに撲り合いを始めた。正三君は唇から血が滴(したゝ)って物凄かった。尾沢生は忽ち鼻血を流した。一上一下虚々実々とまでは行かないが、一しきりは実に猛烈だった。
  『内藤!内藤!』
と照彦様は気狂のようになって騒ぎ立てる。しかし心配は無用だった。正三君の横撲りは当ると実に利く。榎の幹を叩いて鍛えただけのことがあった。尾沢生は口先ばかりだ。唯だ堀口生に嗾(け)しかけられて気が強くなっているのだから、一騎打ちでは元来正三君の敵でない。間もなく撲り倒されて、
  『参った、参ったよ』
と弱音を吹いた。もう立って戦う勇気がなかったのである。
  高谷君は既に一勝負済ませて二度目だった。しかし今度は同体に倒れて一寸揉み合った末、どうやら下になりかけている。いくら贔屓目に見ても形勢が悪い。
  『高谷君、しっかりしっかり!』
と細井君は気が気でない。場合によっては手伝う積りだった。
  『大丈夫だ!』
と高谷君は敵の手を固く握って下から引っくり返そうとしている。そこへ正三君が駈け寄って、
  『えいッ!』
と叫びさま堀口生に横撲りを食わせた。倒れる。高谷君が上になる。
  『どうだ?』
  『‥‥ ‥‥』
  『これでもか?』
と高谷君は勝ちに乗じた。
  『堀口!』
と正三君が呼んだ。
  『さあ、君やれ!』
と高谷君は初めて気がついて、正三君に委せた。しかし堀口生は倒れたまゝ立てない。俯伏(うつぶ)しになって頭を抱えた。正三君はもう手を出さなかった。
  『堀口君、堀口君』
と鼻血だらけの尾沢生がやって来て扶け起した。篠崎生と小川生も寄り添った。弥次連中はヤイヤイ囃し立てた。
  『堀口君、これに懲りてこれからは気をつけ給え』
と松村君が諭した。
  『‥‥ ‥‥』
  『皆憤って君を撲ると言っている』
  『撲れ!存分撲ってくれ』
と堀口生は腕を組んだ。
  『しかし僕は止めているんだ』
  『止めないでも宜い。どうでもしてくれ』
  『よし。君はこれまで皆を苛めている。これは級(クラス)全体からのその返礼だ。謹んで受け給え』
と言って、松村君はコツンと一つ拳骨で頭を打った。堀口生は目を瞑っていたが、柄になく涙をポロポロこぼした。それから、
  『尾沢』
と呼んだ。
  『何だい?』
  『その上着のポケットからナイフを出してくれ』
  『どうするんだ?』
と尾沢生は顔色を変えた。同時に皆もドキンとした。
  『何でも宜い』
  『厭だよ、乱暴するから』
  『乱暴はしない。腹を切って死ぬんだ』
  『馬鹿を言え』
  『おれは馬鹿だよう』
と堀口生はワイワイ泣き出した。一同顔を見合わせた。喧嘩相手の高谷君と正三君は何となく気の毒な心持がした。
  『誰だ?泣いているのは』
と、そこへ小使が現れた。教室の掃除から戻って来たと見えて、頬被りをして箒を持っていた。
  『‥‥ ‥‥』
  『又喧嘩だね。こんなに大勢寄って群(たか)ってこの子を撲ったんだな』
  『そうじゃない』
と堀口生が否定した。
  『関さん、来ておくれえ。子供が喧嘩をしているう』
とこの小使は新米だから事情が分らない。
  『どうしたんだ?』
と小使長の関さんが出て来て、
  『又堀口さんだね』
と呆れたようだった。


  『‥‥ ‥‥』
  『君はいつもこゝへ弱いものを連れて来て苛めるが、今日はアベコベだったのかい?』
  『‥‥ ‥‥』
  『大きな図体をして見っともない。いつまでも泣いていなさんな。さあさあ、皆も早く帰ったり!』
  『‥‥ ‥‥』
  『グヅグヅしていて先生に見つかると面倒になるよ』
  『堀口君、もう帰ろう』
と尾沢生が上着を肩へかけてやった。堀口生は無言のまゝそれを着て立ち上がった。
  『帰ろう』
と勝った組は高谷君と正三君を取り巻いて、歩き出した。
  『君、目を冷やして行き給え』
と細井君が水道のところで勧めた。
  『宜いよ。何ともないよ』
と答えたものゝ、高谷君は左の方が血目(ちめ)になって、周囲(まわり)に黒斑(くろずみ)が寄っていた。痛いに相違ない。正三君は口端が腫れ上って、烏天狗そのまゝの顔だった。唾ばかり吐いている。唯だ勝ったのでない。何方も犠牲があった。
  運動場の中程まで来た時、
  『おいおい、松村君』
と堀口生が追って来た。野次馬の中には覚えず逃げ出したものがあった。矢張り堀口生は恐れられている。
  『おい、松村君、一寸待ってくれ給え』
  『何だい?』
  『松村君と高谷君と内藤君と細井君。それから皆。一寸記念樹の下まで来てくれ給え。』
  『厭だよ』
と松村君は断った。堀口生の来てくれには皆懲りている。殊に腕力で負けた意趣晴らしにナイフでも振り廻すのかという疑念があった。
  『君は僕が又喧嘩を売りに来たと思うのかい?』
  『そうじゃないのかい?』
  『僕は皆に聞いて貰いたいことがあるんだ。是非来てくれ給え』
と堀口生は松村君の手を取った。
  『どうする?高谷君』
と松村君は相談した。
  『さあ』
と高谷君は正三君を顧みた。
  『僕を信用して来てくれ給え。僕は皆にあやまるんだ』
と堀口生は松村君をグイグイ引っ張る。
  『そんなことをしなくても宜いよ』
  『いや、僕は気が済まない』
  『それじゃ行こう。僕だけ行く』
  『皆来てくれ』
  『どうだ?皆』
  『行こう』
と一同承知した。
  運動場の一隅に古い卒業生の植えた記念樹が十数本今は可なりの大木になっている。その下が一面の芝生で、生徒はいつもそこへ寝転がる。教員室から見通しだから、こゝで喧嘩などは出来ない。そういう考えもあったので、皆は稍安心して堀口生について行った。
  『松村君、こゝへ坐ってくれ給え。さあ、皆』
と堀口生は先づ芝生に腰を下ろして俯向いた。そのまゝ口をきかない。
  『一体何の用だね?』
と松村君が促がした。高谷君と細井君は万一を警戒して中腰になっていた。
  『松村君、僕だって皆と仲よくしたいんだ。先刻君が皆からの返礼だと言って僕の頭を撲った時、僕は死んだお父さんのことを思い出したんだ』
  『‥‥ ‥‥』
  『立派な人間になってくれと言われたのに、級(クラス)中から恨まれるような不良になってしまったと思ったら、僕は、僕は‥‥』
  『分ったよ』
  『堪忍してくれ給え』
と堀口生は芝生に食いついたようになって泣き出した。
  『もう宜いよ、君』
と松村君も声を潤ませた。
  『皆で存分にしてくれ』
  『君の心持は皆分っている。ねえ、皆?』
  『もう宜いよ、堀口君。僕も悪かった。これから仲好くしよう』
と高谷君は堀口生の手を取った。堀口生は又泣き出した。皆少時持て余した後、
  『堀口君、僕達はもう帰るよ』
と松村君が代表して言った。堀口生は突っ伏したまゝ頷くばかりだった。
  学校の門から停留場へ向かう途中、
  『あゝあゝ』
と高谷君が先づ歎息した。
  『何だか厭な心持だ』
と正三君も勝ちごたえがしない。二人とも先刻は凱旋将軍のようだったが、堀口生にあやまられてからすっかり気が弱くなってしまった。
  『矢っ張り喧嘩なんかするものじゃないよ』
と間もなく松村君が感想を洩らした。
  『何とか言っている。コツンとやった癖に』
と細井君も関係者だから黙っていられなかった。
  『あれは仕方がないよ。僕がやらなければ皆で袋叩きにしそうな風雲だったもの』
  『風雲か?実際風雲急なりだったよ』
  『泣いたなあ』
  『泣いた』
  『堀口も根から悪い奴じゃない』
  『そうとも』
  『しかし悪い奴だった方が此方には都合が好いんだ。折角勝ってこんな厭な心持のする喧嘩はないよ』
と高谷君が皆の心持を言い表した。要するに相手の後悔が余りに著(いちぢる)しかったので皆拍子抜けがしている。懲らしめられて善人になったのに相違ないのだが、事実はどうも善人を懲らしめたように考えられて仕方がない。
  この気分は照彦様にも移っていた。お屋敷へ近づいた時、
  『堀口は矢っ張り可哀そうだよ』
と言った。
  『しかしあれで直れば喧嘩も無駄になりません』
  『君はそればかり言っている』
  『若様も堀口の可哀そうなことばかりおっしゃっているじゃありませんか?』
  『実際可哀そうだもの』
  『僕の方が余っ程可哀そうですよ。若様、僕の顔は変になっていやしませんか?』
と正三君が訊いた。
  『なにかに似ているよ』
  『本当のところどんなですか?』
  『口が尖って河童の通りだ』
  『困りましたなあ』
  『面白いよ。僕は先刻から考えていたんだ。晩御飯の時、お父様が見つけて屹度何かおっしゃる』
と照彦様は書き入れにしていた。

喧嘩口論すべからず
  小使部屋の裏の喧嘩は不良と善良の決闘だった。不良は負けた。堀口生は前非を悔いてあやまった。しかし勝った方も負けた方もそれだけでは済まなかった。
  正三君はお屋敷へ帰ると直ぐに洗面所へ行って鏡を見た。成程、照彦様の言った通り河童だ。上顎が腫れ上がって鼻の高さに達している。歩くと何かに支(つか)えるような気がしたのはこれだった。唇を拡げて見たら、裏が裂けていた。痛い。
  『どうだい?』
と照彦様が心配して入って来た。
  『こゝですよ』
と正三君は唇を裏返して見せた。
  『これは大変だ。お医者様に見て貰う方が宜いよ』
  『なあに、大丈夫です』
  『いけない。僕お母様に申上げる』
  『もう何ともないんです。食塩で含漱をすれば直ります』
と正三君は元気が好かった。
  『それじゃ僕貰って来てやる』
  『どうぞ願います。こんな顔をしてお台所へ行くと女中達が笑います』
  『こゝで待ってい給え』
と照彦様は出て行った。


  若様方はお台所へ入ると叱られる。しかしこの際は仕方がない。
  『菊!』
  『はあ?』
  『食塩をくれ』
  『はあ?』
  『食塩だよ』
  『若様。私、奥様へ申上げますよ』
  『何を言っているんだい?』
  『若様はいつかお台所から食塩をお持ち出しになって、青梅をお召し上がりになって、お当てられになって‥‥』
  『うるさい!』
  『私、又奥様に叱られます』
  『馬鹿!今頃青梅があるか?』
  『そんなら何をお召し上がりになりますの?』
  『食べるんじゃない』
  『何にお使いになさいますか?』
とお菊は油断をしない。照彦様はお台所へ来ると必ず問題を惹(ひ)き起す。
  『何に使っても宜いじゃないか?家のものだ』
  『若様は食塩なんか欲しがるものじゃございませんよ』
  『そんなことを言わないで少しくれ。蛞蝓に打(ぶ)っかけてやるんだ』
と照彦様は嘘をついた。本当を言って正三君の河童顔を見に来られては困ると思ったのである。花岡家の女中達は皆物見高い。
  『おいたをなさるんでは尚お差上げられません』
  『含漱をするんだ』
  『本当でございますか?』
  『僕がするんだ』
  『それなら唯今洗面所へ持って参じます』
  『食塩てそんなに高いものかい?』
  『オホヽヽヽ』
とお菊も笑えば、側にいたお藤やお美津も笑った。女中達も宜しくない。若様を馬鹿にする風がある。
  間もなく照彦様と正三君は奥様のところへ御挨拶に上った。
  『唯今』
と照彦様が一つお辞儀をする。正三君は何も言わない代わりに二つ念入りにやる。
  『御苦労でしたね』
と奥様が劬って下さる。この日正三君は特に顔を見られまいとして、お辞儀の姿勢のまゝ引き下がり始めたが、
  『内藤さん、あなたどうなさいましたの?』
と覚られてしまった。鼻よりも唇の方が出ているから仕方がない。
  『内藤君は学校で喧嘩をしたんです』
と照彦様が説明した。
  『まあ』
  『堀口という悪い奴が初めに僕の帽子を払い落としたものですから、内藤君が憤って突き飛ばしたんです』
  『内藤さん、まあお見せなさい』
と奥様が立って来て口の辺りを検めた時、正三君の目から大粒の涙がポロリポロリとこぼれた。
  『お痛うございましょう?』
  『ウヽウヽヽヽ』
と正三君は泣き出した。今まで張り詰めていた気が奥様の優しいお言葉で急に弛んだのだった。照彦様もシクシクやりだした。矢張り恩義を辨(わきま)えている。これでこそ正三君も辛抱出来るというものだ。
  晩餐の折、伯爵は幸い不在だった。照正様と照常様はそれを好いことにして、フォークの上げ下ろしに正三君を笑った。
  『猪八戒だよ』
と照正様が照常様に囁いた。
  『八戒よりも烏天狗です』
  『烏天狗よりも河童の申し子だ』
  『河童六十四』
と照常様が言った。
  『照常』
と奥様は厳しくおっしゃった。
  『はあ』
  『内藤さんは照彦の仇を討って下すったのですよ』
  『はあ』
  『笑うことがありますか?』
  『失礼致しました』
と照常様はその口の下から又クスクス笑った。
  『内藤君はナカナカ強い』
と照正様は褒めた。しかしこれは黙っていると笑いたくなるからだった。照彦様は、
  『実に強かったです。不意打ちを食ったんですけれど、直ぐにこういう具合に‥‥』
と手真似をする拍子に、持っていたナイフを妙子様のお皿のところへカチャンと投げ飛ばした。


  『まあ!危ない照彦さん』
お姉様は伸び上がる。
  『お気をつけなさいよ』
と奥様が窘める。照正様と照常様はそれを幸いに、
  『ハッハヽヽヽ』
と又笑い出す。照彦様は頓着なく、
  『ひどい撲り合いでした。僕は側(はた)から応援です。「内藤、しっかり!内藤、しっかり!」って。ねえ内藤君、聞えたろう?』
  『はあ』
  『君も一生懸命だったが、僕も一生懸命だった。その中に尾沢は鼻を打たれて、鼻血がドクドクドク‥‥』
  『よして頂戴よ』
と妙子様から故障が出た。
  『拭いても拭いても、ダラダラダラダラダラ』
  『照彦!』
と奥様は鶴の一声。照彦様は黙ってしまった。
  喧嘩の物語は学習室で繰り返された。気の荒い照常様が興味を持って、
  『照彦、内藤がどんな風にやったか初めから話せ』
と命じたのだった。
  『豪い』
と照正様も所々で感心した。
  『痛快痛快!内藤、強いんだなあ、君は』
と照常様は大喜びだった。
  『もうやりません』
と内藤君は謙遜した。
  『何あに、搆うものか。照彦にからかう奴があったら、皆やっつけてしまえ。僕が柔道の手を教えてやる』
と照常様は奨励した。
  学監の安斉先生は奥様からの御注意で、後刻、
  『内藤君、一寸』
と呼びに来た。正三君は学監室へついて行って、
  『申訳ありません』
とうなだれた。
  『いや、察しています。平民の学校はこれだからいけないのです』
  『‥‥ ‥‥』
  『君辱められて臣死す。止むに止まれなかったのでしょう?』
  『はあ』
  『今までもそんなことが度々あったのですか?』
  『喧嘩でございますか?』
  『いや、素町人の子が苟(いやし)くも若様のお帽子を足蹴にするなぞということが!』
と安斉先生は怖い顔をした。
  『はあ、いゝえ』
  『何方ですか?』
  『足蹴にはしませんが、若様でも他の生徒でも同じことです。悪い奴が五六人いて皆を苛めるんです』
  『不都合千万。明日学校へ行って校長に談じましょう』
  『先生』
  『何ですか?』
  『僕達、困ります。喧嘩をしたことが分ってしまいます』
と正三君は迷惑した。
  『それでは一つ秋山を呼んで話して見るかな』
と安斉さんは考え込んだ。秋山先生は矢張り花岡家の旧臣だから、照彦様のことを特に頼まれている。
  『‥‥ ‥‥』
  『明日の朝、私から手紙を持って行って下さい』
  『はあ』
  『内藤君、もっと顔を上げて御覧。はゝあ、口が尖りましたな』
  『はあ』
と内藤君は、又俯向いた。
  『恥ずかしいことはありません。昔なら君公御馬前(おんうまさき)の功名です』
  『‥‥ ‥‥』
  『両虎闘えば大なるものは傷つき、小なるものは死す。君は大なるものでしたが、喧嘩は矢張りいけませんよ』
  『はあ』
  『勇は逆徳なり。兵は凶器なり。軽々しく用いてはなりませんぞ』
と安斉先生はダンダンむづかしくなる。
  翌朝学校へ行くと、皆が正三君の周囲に集まった。
  『どうだい?君』
  『もう何ともない』
と正三君は口端を押えた。そこへ高谷君が入って来た。
  『どうだい?君』
と又皆が取り巻く。二人とも大変な人気だ。次に堀口生がノッソリと現れた。今度は誰も寄りつかない。しかし堀口生は自分の方から進み寄って、
  『内藤君、高谷君、昨日は失敬した。それから皆、今までは僕が悪かった。堪忍してくれたまえ』
と言った。後悔したものゝ、一時的だろうと思っていたから、これは案外だったので、
  『僕こそ』
  『もう仲よくしよう』
と高谷君と内藤君も覚えず進み出た。堀口生はお辞儀をした。高谷君と内藤君もお辞儀をした。見ていた連中は手を叩いた。冷やかしたのではない。感心したのだった。
  間もなく鐘が鳴った。第一時間は数学だった。橋本先生は出席点呼を終ったが、授業を始めずに、教室を睨み廻した。一番怖い先生だ。生徒達はもう察した。あの喧嘩があの厳しい級担任に知れないでいる筈はない。先生は教壇から下りて来て、うつむいている堀口生の肩へ手をかけた。
  『君、出給え』
  『はあ』
  『立て』
  『はあ』
  『教壇の前へ行く』
  『はあ』
と堀口生はその通り従った。
  『君も』
と先生は尾沢生を捉まえた。
  『はあ』
と尾沢生も教壇の前へ出た。先生は生徒の顔を一々検めながら教室を廻る。
  『内藤君』
  『はあ』
  『出る』
  『はあ』
と内藤君も立った。
  『高谷君』
  『はあ』
と高谷君はもう歩き出した。
  『この四人は顔で分かる』
と先生が言った時、皆クスクス笑った。堀口生は頭が瘤だらけで額が腫れ上がっている。尾沢生は鼻が膨れている。正三君は口が尖っている。高谷君は左の目が充血してまわりが黒ずんでいる。


  『見給え、諸君。これは皆仮装行列へ出る顔だ。教室へ来る顔じゃない』
  『‥‥ ‥‥』
  『親不孝だよ。家へ帰って叱られたろう?』
  『‥‥ ‥‥』
  『しかしこの外にも関係者がある筈です。覚えのあるものは申出る』
  『先生』
と細井君と松村君が立ち上がった。
  『もうないかね?』
  『少しあります』
と照彦様が立ち上がった時、橫田篠崎小川の三名も顔を見合わせて立ち上がった。
  『宜しい。正直なのは結構だ。皆席について宜しい。今の十人は放課後残る。分ったかね?もしそれまでに又喧嘩をするようなら退校を命じる。分ったかね?』
と、念を押して先生は授業に取りかゝった。折から、
  『なあんだ』
と嘆声を洩らしたものがあった。
  『森本君だね?なあんだとは何だい』
  『はあ』
  『はあじゃ分らん』
  『これで授業がお仕舞いになると思っていたものですから』
  『そう巧く行くものか。怠けたがっちゃいけない。皆一生懸命でやる』
と先生は励ました。しかし級全体の頭に異物が入っている。甚だ不成績な第一時間だった。喧嘩はあらゆる意味に於いて宜しくない。
  放課後の留置(とめおき)という奴は気にかゝるものだ。それも未だ罪が定まっていないだけに不安が増す。
  『停学かしら?』
と照彦様は正三君の為に案じた。
  『大丈夫だ。唯だの喧嘩じゃない』
と細井君は正義で申訳を立てる積りだった。
  『いや、三日ぐらい食わされるかも知れない。先学期四年の人がやられた』
と一番ひどくやっている高谷君は決して楽観はしない。
  五時間目の授業が終ると直ぐに橋本先生は教室へ入って来て、
  『さあさあ、用のないものは早く帰る』
と例のせっかちな調子で皆を追い出した。
  『松村君』
  『はあ』
  『級長の君がこの仲間に入っているのは不都合のようで好都合だ。一体どうして喧嘩をした?わけを言い給え。さあ、言い給え』
  『申上げます』
と松村君が立った時、窓から覗いたものがあった。
  『用のないものは帰る!』
と先生は駈けて行って叱りつけた。
  松村君は最初からの経緯(いきさつ)を説明した後、
  『若し内藤君が負けたら高谷君が出る積りでした。その次ぎ細井君、その次が僕と順番が定めてありました。僕達も悪かったんですけれど、今まで堀口君が余(あんま)りでしたから、つい‥‥』
と手筈まで説明してしまった。
  『堀口君』
  『はあ』
  『今松村の話し通りか?』
と先生が訊いた。
  『違います』
  『何処が違う?』
  『松村君は僕達も悪かったけれど堀口君が余りだったからと言いました。あすこが違っています』
  『それでは君は悪くないと言うのか?』
  『いゝえ。僕ばかり悪いんです』
と堀口生はいつにないことだった。
  『高谷君』
  『はあ』
  『君は喧嘩に勝ったんだが、どんな心持がする?』
と先生は順々に訊いて行く。
  『昨日から厭でたまりません』
  『内藤君、君はどうだ?君も勝ったじゃないか?』
  『‥‥ ‥‥』
  『どうだね?』
  『僕が一番悪いんです』
  『いや、心持さ』
  『尾沢君が鼻血を出した時‥‥』
  『どうした?』
  『僕はまあ何をしているんだと思いました』
  『尾沢君』
  『はあ』
  『君はどうだ?』
  『僕は家でお父さんに縛られました』
  『どうして』
  『‥‥ ‥‥』
  『言い給え。構わないよ』
と堀口生が口を出した。
  『堀口君と遊んじゃいけないって言われているのに‥‥』
  『君が一番馬鹿を見ているよ』
と先生は尚お一人々々について感想を求めた後、
  『君達は皆後悔している。喧嘩をして悪かったということがそれぞれ分っているんだから、この上責めても仕方がない。しかし堀口君だけには約束があったね?』
と堀口生を顧みた。
  『はあ』
  『持って来たかい?』
  『‥‥ ‥‥』
  『先生』
と松村君が立ち上がった。堀口生は今度事件を起したら退校届を持って来ることになっている。
  『何ですか?』
  『堀口君は一番後悔しています。僕後から詳しく申上げます』
  『兎に角、堀口君』
  『先生』
と高谷君が猛然として立ち上がった。
  『何ですか?』
  『僕、困ります。僕が喧嘩をしたんですから、僕、困ります』
  『それでは堀口君を君と松村君に預けましょう。皆数学の仕度をして!』
と先生は方向を転換した。一同顔を見合わせた。聞き間違いかと思ったのである。しかし続いて、
  『教科書、百〇六頁、練習題のところを開ける』
と来たから、もう疑う余地がない。
  『一番から十番までを内藤君と尾沢君がやる。これは普段と違って教え合って差支(さしつかえ)ない。十一番から二十番までを高谷君と堀口君、二十一番から三十番までを橫田君と花岡君‥‥』
と喧嘩の時の組合わせだった。尚お、
  『五時までかゝってゆっくりやりなさい。私は教員室で待っている』

困った立場
  昼からの課業が終って先生が出て行った刹那、
  『皆、一寸待ってくれ給え』
と呶鳴って教壇へ駈け上がったのは堀口生だった。喧嘩事件で留置を食ってから三日目だ。堀口生は二日続けて休んで今日又顔を出したのである。
  『諸君、諸君』
  一同は帰り支度の手を休めて迷惑そうに堀口生を見守った。どうせ碌なことでなかろうと思ったのも、此奴の日頃から察して無理はない。しかし堀口生は喧嘩以来後悔を持ち続けていた。
  『今までは僕が悪かった。勘辨してくれ給え。僕は二日休んで考えた。この通り退校届を持って来た。松村君、松村君』
  『何だい?』
と松村君が答えた。
  『僕は皆に悪いことをしている。君からあやまってくれ給え』
  『もう宜いんだよ。済んでいるじゃないか?』
  『皆、いや、諸君、君達!』
  『‥‥ ‥‥』
  『本当に宜いのかい?』
  『宜いんだよ。宜いんだよ』
と五六人が気の毒になって異口同音に言った。
  『それじゃ僕はもうこれから悪いことをしないようにこゝで約束する。実は昨日お母さんがあやまりに来て、先生にだけはもう一遍堪忍して貰ったんだ。松村君』
  『何だい?』
  『これを君に預けて置く。僕の退校届だ。この通り伯父さんの判がおしてある』
と堀口生は半紙に書いたものを拡げて皆の方へ向けた。
  『そんなものはいらないよ』
  『いや、これを預って置いて、今度僕が悪いことをしたら直ぐに橋本先生に出してくれ給え』
  『‥‥ ‥‥』
  『さあ、君』
  『僕は困る、そんなこと』
  『松村君、そうしてくれなければ僕は除名になる。堪忍して貰えないのも同じことだ』
  『それじゃ皆で預ろう』
  『そうしてくれ給え。しかし君が級長だ。松村君!』
  『よし』
と松村君は教壇へ上って行って、
  『諸君、堀口君の退校届を預るよ』
と皆の同意を求めた。
  『諸君、僕が悪いことをしたら直ぐに松村君に言ってくれ給え。そうすれば松村君がこれを橋本先生に出す。そうすれば僕はもう学校へ来られなくなる。仕方がないんだ』
と堀口生は何処までも神妙だった。それから届書を封筒に入れて渡して、
  『約束、約束。君が代表だ』
と松村君の手を握った。一同拍手喝采した。丁度そこへ弁慶が入って来た。これは小使の関さんが掃除をする時の綽名(あだな)だ。頬被りをして、箒を薙刀のように持っている。
  『何だ?又喧嘩か?』
と吃驚した。


  『関さん、君にもあやまる』
と堀口生はお辞儀をした。同時に皆ワイワイ言いながら教室を出た。
  橋本先生はその後何とも言わなかったが、堀口生を級(クラス)一同に預けたのだった。これが最後のお慈悲のことは分っている。堀口生は今度問題を起せばおっ投(ほ)り出される筈だったが、幸いにして喧嘩は負けになっていた。撲られた上に退学ではいくら今までのことがあっても余り可哀そうだ。橋本先生もそこを考えたのだろう。お母さんを呼び出して、もう一度堪忍することにした。
  『兎に角、退校届を持たせてお寄越し下さい』
と言われた時、お母さんは、
  『それでは矢っ張りいけないのでございましょうか?』
と泣きそうになった。
  『いや、この次に事を起した場合、手数を省く為です』
  『先生、そうおっしゃらずにどうぞこの度(たび)だけは‥‥』
  『分っています。御安心なすって退校届をお持たせ下さい。もうこの上間違いのないように私が計らって上げます』
と先生は考えがあった。
  級(クラス)の持て余しものが退校届を握られてしまってはもう乱暴が働けない。尤も自分でもすっかり後悔している。堀口生は尚お尾沢生や橫田生にもあやまった。
  『俺はお前達に一番悪いことをしている。しかし今日からは堀口改心だ。堀口英太郎じゃない。見てくれ。この通りだ』
と言って、制服のボタンを外してカラーを見せた。それに堀口改心と書いてあった。尾沢生も橫田生も元来悪い奴でない。堀口生が煽(おだ)てなければ極くおとなしくしている。級に平和な日が続いた。
  『堀口さん、お前は本当に豪くなったね』
と尾沢生が感心したくらい堀口生の改悛は著しかった。
  『おれは昨日何年ぶりかでお母さんに褒められたよ』
と堀口生も得意だった。橋本先生も、
  『堀口君は生れ更(かわ)ったね。しかし数学をやって来なければいけないよ』
と時々励ましてくれる。堀口生はその都度頭を掻いて相好を崩す。先生から優しい言葉をかけれらるのが嬉しいのだ。しかし或時、
  『先生、僕はこの頃草臥(くたび)れて駄目です』
と答えた。これは本当だった。おとなしくしているのが大きな努力だから、未だ勉強の方までは手が廻らない。余程気をつけていないと癖が出て、
  『やい、こん畜生!』
なぞとやる。尤も直ぐ後から、
  『しまった。失敬、御免々々』
と断る。一度運動場で足を踏んだ子を突き飛ばしたが、急いで抱き起して埃を叩いてやって、
  『失敬々々、御免よ御免よ』
とあやまった。生憎松村君や正三君が見ていたものだから、大いに慌てゝ、
  『松村君、内藤君、ついしちゃったんだよ。けれども好い塩梅に他の級の生徒だった』
と弁解して逃げて行った。
  『退校届が怖いんだね』
と正三君が言った。
  『そうさ。しかし好くなったよ』
と松村君は監督者だ。
  『堀口改心か』
と細井君が笑った。
  『確かに改心した』
と高谷君も充分認めている。
  『いや、そういう号だよ。教科書にも雑記帳にも堀口改心と書いてある』
  『それぐらい真剣ならもう大丈夫だ』
  『君も撲った甲斐がある』
と細井君は十日前の喧嘩を思い出した。
  『いや、僕だって随分やられている』
と高谷君はこの頃漸く血目がなおった。
  正三君は口の尖りが引っ込んでから土曜日にお暇を貰って家へ帰った。久しぶりだから話が溜っている。それにお父さんや兄さんに相談したいことがあった。
  『いつもお屋敷の自動車ね。豪いものね、正ちゃんは』
と君子姉さんが感心した。正三君は戴いて来たお土産を並べて、
  『奥様からお父様お母様へ宜しくとございました。いづれその中又お伺いして種々(いろいろ)とお話し申上げたいと存じますが、お殿様は御満足でございますから、御安心下さるようにっておっしゃいました』
と淀みなく口上を述べた。
  『少し大きくなったようね』
と君子姉さんと貴子姉さんが代りがわりに頭を撫でてくれた。
  『もう厭ですよ』
と正三君はそんな子供扱いを喜ばない。
  『大人々々して来たよ。矢っ張り苦労をするんだろうからね』
とお母さんは嬉しいやら悲しいやらだった。三人寄って群(たか)って離れない。それからそれと話が続く。正三君もそれが何よりの御馳走だ。
  『正三かい?』
と言って、大学へ通っている兄さんが帰って来た。


  『なんですね?蝙蝠傘を座敷まで持って来て』
とお母さんが窘めた。
  『あらあらあら、繻れてゝよ』
と貴子姉さんが騒ぎ立てた。雨が上がったばかりだった。
  『玄関に正三の下駄らしいものがあったものだから急いで上って来たんだよ』
と祐助兄さん、慌てゝいる。
  『御無沙汰致しました』
と正三君は改まってお辞儀をした。
  『よく来たね。泊って行くんだろう?』
  『はあ』
  『どうだい?』
  『相変らずです』
  『太ったね、少し』
  『そうですか』
  『いつ来たんだい?』
  『二時頃です』
  『それじゃもう大分(だいぶ)話したね?』
  『はあ』
  『何だか大人じみて来たよ』
  『そんなこともございますまい』
  『その通りだもの』
  『ハッハヽヽヽ』
  『ハッハヽヽヽ』
と祐助君は大喜びだった。
  お母さんや姉さん達が晩の支度にかゝった後、正三君は祐助兄さんの書斎へ行った。お屋敷へ上る前はこの部屋に机を並べていたのである。
  『兄さん、矢っ張り僕の机がありますね』
と正三君は懐かしそうに眺めた。
  『お前がいると思ってもとの通りにして置くんだよ。そこへ坐れ』
  『はあ』
  『おれは夜、「おい、正三」って呼んで見ることがあるよ』
  『‥‥ ‥‥』
  『今頃は何をしているのだろうと時々思い出す』
  『‥‥ ‥‥』
  『ベソをかくなよ』
  『はあ』
  『どうだい?お屋敷は』
  『面白いです』
  『本当のことを言えよ』
  『辛いこともあります』
  『我慢が出来るかい?』
  『出来ます』
  『本当のことを言えよ』
  『出来ます』
  『照彦様は相変らず無理をおっしゃるのかい?』
  『時々おっしゃいます。けれどもこの頃は僕も負けていません。喧嘩になることがあります』
  『ふうむ。ナカナカ強いんだね、お前も』
  『そんな時には僕はもう家へ帰ると言うんです。すると照彦様は「内藤君、ねえ内藤君」って御機嫌を取るんです』
  『それで宜いんだよ。学友だもの。おべっかを使う必要はちっともない』
と祐助君は正三君が卑屈になることを恐れて強く言う。
  『殿様も奥様も若様方も皆御親切にして下さいます。それから僕は安斉先生に信用があるんです』
  『照常様は何うだい?いつかお前の首を絞めたって言ったじゃないか?』
  『この頃は僕を可愛がって柔道の手なんか教えてくれます。冬休みには鉄砲を打に連れて行って下さる約束です』
  『それは好い塩梅だ。学校の方は?』
  『大勢友達が出来ました。優等生が三人お屋敷へ遊びに来ます』
  『その悪い奴はどうしたい?お前のことを家来だの何だのって言う奴は』
  『兄さん、到頭やったんですよ』
  『喧嘩をかい?』
  『はあ。口がこんなに腫れました』
  『負けたのかい?』
  『勝ったんです』
と正三君は経緯を詳しく物語って、
  『もう内藤正三位なんて言う奴は一人もありません。皆僕を怖がっているくらいです』
と肩を怒らせて見せた。得意もあったが、兄さんを安心させる為もあった。
  『それは宜かった。時には腕力も必要だ。紳士ばかりはいないからね』
  『しかし堀口って奴は本当に後悔しましたよ。僕達にヘイヘイして可哀そうなくらいです』
  『散々お前を苛めた罰さ』
  『僕は迚(とて)も勝てないと思いましたが、全く高谷君や細井君のお蔭です』
  『おれから宜しく言ってくれ』
  『はあ』
  『漸く安心した』
  『けれども兄さん、一つ困ることがあります』
  『何だい?』
  『もう直ぐ試験ですが、僕一生懸命でやって宜いのか悪いのか分らないんです』
  『何故?』
  『照彦様の御都合があるんです』
  『それは試験前にお前が照彦様をコーチして上げるのさ』
  『コーチって何です?』
  『勉強のお手伝いをして上げるのさ。それが学友の眼目だよ』
  『それは無論やりますが、照彦様は僕が一番でも上になると承知しないっておっしゃるんです』
  『照彦様は一体何番だい?』
  『ビリから五番です』
  『それじゃ落第だろう?』
  『はあ。照彦様の御成績を拝見しましたが、平均点が足りません』
  『その下へ行ったんじゃ危ないね。お前も落第するよ』
  『それで考えているんです』
  『考えることも何もない。殿様と家来が枕を並べて討死したんじゃ態(ざま)はないぜ。それこそ花岡伯爵家の名誉にかゝわる』
と祐助君は笑い出した。
  『僕は落第しっこありませんが、照彦様より上にならないで及第しろって御注文ですから、手加減がむづかしいんです』
  『それは無理だ。お前はお前、照彦様は照彦様、試験の成績は仕方がない』
  『僕もそう言って十番だけ値切って見たんです。十番ぐらい上になっていないと危ないですからね。しかし照彦様は「十番ならおトンカチの尖りで十だぞ」とおっしゃいました』
  『何のことだろう?』
  『僕の頭を鉄槌の尖った方で十叩くんです。一番上りについて一つだろうです』
  『馬鹿馬鹿しい』
  『僕は穴が明くと困るから、尖ってない方にして貰いたいって又値切ったんです。すると「宜しい。その代り倍だぞ」って本気ですよ、照彦様は』
  『随分駄々をこねるんだね』
  『一番になろうものなら三十五やられます。尖っていない方にして貰えば七十です。瘤だらけになってしまいます』
と正三君は真面目で考え込んだ。
  『そんな無茶な話があるものか。お前も及第、照彦様も及第ってことになればそれで宜いのさ』
  『いゝえ。安斉先生も家来が上から一番、若様がビリから一番なんてことになっちゃ困るとおっしゃいました』
  『それは若様がもっと上らなければいけないという意味だろう』
  『照彦様は上る見込みがないんです』
  『そこをお前が骨を折ってコーチするのさ。照彦様は試験勉強が利く方かい?』
  『いゝえ、試験というと直ぐに慌ててしまって、知っていることまで間違います』
  『始末が悪いんだね』
  『そこへ持って来て、君は万事に於いて若様に花を持たせなければいけないって安斉先生がおっしゃるんです。若様よりも下になれってことに相違ありません』
  『成程。分からず屋が揃っている』
と祐助君は思案に余した。
  晩御飯にはお父さんも帰って来て又話に花が咲いた。
  『正三はお屋敷に奉公しているだけあって言葉が好くなった上に大人びて来たよ』
とお父さんも気がついた。


  『それが好いことが悪いことか分りませんよ』
と祐助君が言った。お学友に出すのは反対だったから、ついそれが出たのである。しかしお母さんはお父さん同様、
  『不足を言うと罰が当りますよ。何しろお殿様から毎日直々にお言葉を戴くんですからね』
と有難がっている。
  『それではお母さんはおトンカチってものを御存知ですか?』
と祐助君が訊いた。
  『おトンカチ?そんなもの存じませんよ』
  『鉄槌のことです』
  『へえゝ』
  『そのおトンカチで正三は頭を打たれるんです』
  『馬鹿なことを言うなよ』
とお父さんが取上げなかったので、祐助君は正三君の立場を説明した。
  食後、正三君は、
  『今兄さんがおっしゃった試験のことですが、お父さん、どう致しましょうか?』
と判断を求めた。
  『どうせ忠義序(ついで)だ。及第落第は運を天に委せて、若様の下になるのが家来の分だろう。仕方がない』
とお父さんは簡単だった。
  『その手加減がむづかしいんです』
と正三君は弱っている。一番で及第するよりもビリで落第しない方が曲芸としては一段の工夫を要する。
  『そこは俺(わし)が計らってやる』
  『どうなさいますか?』
  『校長さんにお目にかゝって頼んでやる。お前の成績が一番でも二番でも席順だけは若様の次にして貰う』
  『そんなことが出来るでしょうか?』
  『出来るとも』
  『出来ませんよ、お父さん』
と祐助君が口を出した。
  『何あに、伯爵家から賴み込む。あすこの校長さんは奥さんが旧藩士の親戚になっている』
  『そんな昔の関係が通用するものですか。学校には規則があります』
  『まあまあ、お前は黙って聴いていなさい』
とお父さんは祐助君を制して、
  『正三』
  『はあ』
  『若様とお前と二人とも及第しても、お前が上で若様が下なら、お前が若様を引き上げる形になる。しかしお前が下で若様が上ならお前が若様を押し上げる形になる。臣としては君を引き上げるよりも押し上げる方が礼に適っている』
  『そうれはそうです。後につくのが当り前です』
  『校長ともあろうものがこれくらいの道理の分らない筈はない』
  『その道理が間違っていますよ』
と祐助君は又異議を申立てた。
  『どうして?』
  『学校の成績に身分はありません。出来るものが上席になるのは当然です』
  『それは分っているよ。分っていればこそ折入って校長さんに頼むんだ』
  『まあ、お待ち下さい。これが学期試験だから宜いですけれど、学年の進級試験だったらどうします?照彦様が落第なのに態々その次席へ持って行って貰えば、正三は及第点を取っていても落第になりますよ』
  『その時には落第して貰う。殉死だ』
  『そんな馬鹿なことはありません』
  『馬鹿なことゝは言い過ぎだよ』
  『不合理です』
  『お前は思想が過激でいかん』
  『困りますなあ、お父さんには』
  『君辱めらるれば臣死すということさえある。臣が君より上席に座れば取りも直さず臣が君を辱めることになる』
  『学問は違いますよ』
  『違わない』
  『違います』
  『違わないよ』
  『お父さんも兄さんもまあまあ待って下さい』
と正三君は困り切った。

正三君の駈引(かけひき)
  二学期の試験が近くなったので、花岡伯爵家の学習室は緊張している。しかし若様方よりも家庭教師達、家庭教師達よりも安斉先生が一生懸命だ。若様方が内証話をすると、
  『エヘン、エヘンエヘン』
と来る。それでも黙らないと、
  『散乱心を戒めてえ!照常様』
と名を指されるから、皆ビクビクものだ。
  内藤君の方は明後日からで、照彦様の一番お嫌いな算術が初(しょ)っ端(ぱな)にある。二人は黒須先生について例題をやっている。内藤君は早い。真(ほん)のお付き合いに控えているようなものだ。照彦様は考える風をして先生の助言を待っているから手間が取れる。
  『内藤君、一寸学監室へ来て下さい』
と安斉先生が折を見て呼んだ。先生の一寸は若様方も恐れている。大抵お説法だ。褒めて下さることは滅多にない。内藤君は鉛筆を置いて学監室へお供した。
  『さあ』
と先生は椅子を勧めた。
  『これで結構です』
  『いや、小言ではありません。安心しておかけなさい』
  『はあ』
  『今日お父さんがお見えになりましたよ』
  『はあ。先刻奥様からも承わりました』
と正三君は腰を下ろして膝に手をついた。お父さんが先生のところへ相談に来ることはこの間帰った時の打ち合せだった。
  『いろいろと承わりました。内藤君、君は心配事のある時には遠慮なく私に相談しなければいかん』
  『はあ』
  『お屋敷で御忠義を尽している間は私をお父さんと思って宜しい』
  『はあ』
  『怖いかな?私が』
  『いゝえ』
  『困ることがあったら何でも私に相談して下さい。少しも遠慮はいりませんよ』
と安斉先生はニコニコして見せた。性(たち)の悪い顔で、笑うと却って怖くなる。
  『はあ』
  『しかし内藤君、君はナカナカ感心なものだ。若様の為によく考えてくれました。』
  『何でございますか?』
  『試験の成績のことです。お父さんと相談しました。君は一番になりなさい』
  『はあ。一番なら思い切りさえよければなれますが、危ないです』
  『二番でも宜しい』
  『二番は少しむづかしいです』
  『三番でも宜しい』
  『ビリからですと何番でも加減がナカナカむづかしいです』
  『いや、頭からです』
  『はゝあ』
  『頭から一番になって宜しい。お学友が模範を示す分には少しも差支えありません』
  『はあ、そうですか』
と正三君は安斉先生が思いの外分っているのに驚いた。
  『花岡伯爵家の名誉の為に優秀の成績を取って下さい』
  『はあ、出来るだけやります。頭からなら三番ぐらいには屹度なれますが、先生‥‥』
  『何ですか?』
  『僕、本当に困るんです』
  『その斟酌はいりません。私から照彦様によく申上げます』
  『けれども照彦様は‥‥』
  『何ですか?』
  『舶来のを持っていらっしゃいます』
  『舶来の何ですか?』
  『光っているおトンカチです』
  『おトンカチというと?』
と安斉先生も正三君のお父さんからそれまでは聞いていなかった。正三君は照彦様の條件を詳しく説明した。


  『はゝあ、成程。君はそれを御相談にお家へ帰ったんですか?』
と先生はニコニコ睨んだ。
  『はあ』
  『ハッハヽヽヽ』
  『御本箱の引出にしまってあります』
  『それは心配いりませんよ。私から照彦様へお諭し申上げます。そういうことがあったら、いつでも私にお話し下さい』
  『有難うございます』
  『君は頭から一番になって宜しい。しかし同時に若様が是非御及第をなさるように骨を折って下さい』
  『はあ』
  『君だけ及第して、若様がお落第を遊ばすようなことがあると、主従学級が分かれてしまいます』
  『はあ。それではお学友が勤まらないことになると思いまして』
と正三君もそこを案じている。
  『一体どんな具合ですか?この頃の御成績は』
  『さあ』
  『前学期よりも御勉強のようにお見受け申上げていますが、矢張りいけませんかな?』
  『もう二三番はお上りになれましょうかと存じます』
  『二三番と申すと七八番になりますね』
と安斉先生はビリから勘定して見て、
  『上からだと宜いですがな』
と歎息した。
  『先生』
  『何ですか?』
  『僕は若様が今度の試験にせめて五六番上って下さらないと御奉公のかいがありません』
  『それは御もっともです』
  『僕はもう覚悟をしています』
  『しかし早まってはなりませんぞ』
  『若様が一番でもお下がりになるようなら、僕はもうお暇を戴いて家へ帰ります』
と正三君は兄さんと相談して来たのだった。
  『御無理もありません。しかし内藤君』
  『はあ』
  『天道善に福(さいわい)し悪に禍(わざわい)す。君の忠誠は大丈夫天に通じています』
  『僕は一つ若様に申上げたいと思っています』
  『何をですか?』
  『もっと御奮発なさるように』
  『それは結構です。面從は忠にあらず。もっと此方へお寄りなさい。謀(はかりごと)を帷幄(いあく)の中に運(めぐ)らして勝ちを千里の外に決しようではありませんか』
と安斉先生は真剣になるとむづかしいことを言い出す。
  学習室は安斉先生の姿が見えなくなると同時に調子を下ろした。英語をやっていた御長男の照正様は、
  『先生、僕、友達のところへ電話をかけるのを忘れていましたから、一寸失礼させて戴きます』
と矢島先生に断って立って行った。国語をやっていた御次男の照常様は、
  『先生、もうこゝまでで大丈夫です』
と教科書を閉じてしまった。
  『それではお作文の宿題を拝見致しましょう』
  『あれは来週の月曜までゝすから、未だ宜いんです』
  『そうでございますか』
と有本先生は穏やかだ。照彦様もあたりの形勢を見廻して、
  『先生、この問題は内藤君が来るまで待ちましょう』
と申入れた。
  『お疲れでございましょう。これで七題、大分(だいぶ)おやりになりましたな』
と黒須先生も決して無理押しをしない。
  照常様は照彦様の方へ遊びに来て、二言三言話す中に、机の上へ何か置いた。
  『照彦』
  『はあ』
  『インキがこぼあれているぞ』
  『はあ?や、大変だ!』
と照彦様が立ち上がった。
  『宜しうございます』
と黒須先生がハンカチを犠牲にしようとした時、照常様は、
  『かゝったかゝった』
と手を叩いて喜んだ。それはインキ壷が倒れてインキが流れているまゝをガラスで拵えた悪戯玩具だった。
  『なあんだ!』
と照彦様は口惜しがったが、
  『よく出来ているなあ、実に』
と取り上げて見た。
  『こんなものがあるんですかねえ』
と黒須先生も感心した。
  『どれどれ、拝見』
と有本矢島の両先生も寄って来た。もうソロソロ中休みの時間だった。
  『照彦』
と照常様が声を潜めた。
  『はあ』
  『お前は勇気があるか?』
  『あります』
  『あるなら後から学監室へ行ってそれを安斉先生のお机の上へ置いて来い』
  『大変です』
  『何あに、大丈夫だ。僕の方の松平君はお父さんのお机の上へ置いて来たそうだ』
  『そうしてどうしました?』
  『褒められたそうだ』
  『何て?』
  『悧巧な子だって』
  『嘘ですよ』
と照彦様は信じない。
  『まだこんなのがいろいろとあるんだぞ』
  『持っていらっしゃる?』
  『いや、松平君が持っている。蛇だの蛙の潰れたんだの犬の糞だの。蛇は面白いぞ。お母さんのお部屋へ置こうものなら目をお廻しになる』
と照常様はいたづらだから人を擔(かつ)ぐことが大好きだ。
  再び自習が始まった頃、正三君と照正様が戻って来た。
  『君、どうしたんだい?叱られたのかい?』
と照彦様が訊いた。
  『いゝえ』
と答えた途端、正三君は、
  『インキがこぼれています』
と気がついた。
  『かゝったかゝった』
と照彦様は打ち興じた。
  『吸取紙を持って来ます』
  『未だかゝっている。ハッハヽヽヽ。これは玩具だよ、君』
  『はゝあ』
と正三君は呆れて手に取って見た。
  『散乱心を戒めてえ。ヘヽヘンのヘン』
と隣の机から照常様が安斉先生の声色(こわいろ)を使った。
  『エヘン』
とそこへ真物(ほんもの)の安斉さんが入って来た。学習室は再び緊張した。先生は少時の間三つの机を見廻っていたが、忽ち、
  『黒須君』
と稍急き込んだ。
  『はあ』
  『お袖にインキがつきます。それそれ!』
  『あ、これでしたか?』
と黒須さんは気がついて、
  『安斉先生、これは玩具でございます』
と頭を掻いた。
  『玩具?』
  『はあ』
  『どれ』
と安斉先生もかゝって見ると好奇心が起こる。手に取って検めながら、
  『成程。念の入ったものですな』
  『恐縮です』
と黒須先生、若様方の遊び相手を勤めていたようで甚だ具合が悪い。
  『何あに、時には座興も寛ぎになって宜しいです』
  『実は私も引っかかったのです』
  『君子も道をもってすればこれを欺くを得べしとあります。ハッハヽヽヽ』
  『先生、僕も引っかかりました』
と照彦様が主張した。
  『それではあなたも君子です。照彦様と存じましたが、これは照常様のおいたづらですか?』
  『はあ。悪いことは大抵僕です』
と照常様が告白した。
  『それはそうと照彦様』
  『はあ』
  『一寸学監室へお出で下さい』
といきなり呼出をかけた。
  照彦様が立って行った後、
  『内藤君、何だろう?』
と照常様が訊いた。
  『さあ。存じません』
  『君は叱られたんじゃないかい?』
  『いゝえ。一向』
  『でも随分長かったじゃないか?』
  『もう直ぐ試験ですから勉強するようにとおっしゃいました』
と正三君は取り繕って答えた。
  『お兄様、これは順番に参りますぞ』
  『お前が馬鹿なことをするからいけない』
  『勉強々々!』
  『今更慌てゝも駄目だ』
と照正様は笑っていた。
  照彦様は間もなく戻って来たが、自習が終ってから、
  『内藤君、一寸来てくれ給え』
と言って、正三君を自分の部屋へ引っ張り込んだ。
  『何か御用でございますか?』
と伺った正三君は照彦様の額に青筋の動くのを認めた。
  『これを君に上げる』
と照彦様はイライラしながら舶来のおトンカチを本箱の引出から取り出した。
  『僕、いりません』
  『いや、上げる』
  『いりません』
  『それじゃ預けて置こう。これは叔父様が西洋からお土産に持って来て下すったのだ。まだ鋸だの鉋だのがあったけれど、なくしてしまった。こんなものがそんなに怖いなら君に預けるよ』
  『‥‥ ‥‥』
  『箸ほどのことを棒ほどに言うってのは君のこどだ。これは玩具だよ。西洋の子供が幼稚園で使う玩具だ』
  『そうですか』
  『安斉先生は玩具なら叱らない。先刻だってそうだったろう?』
  『はあ』
  『僕が威かしに言ったことを言いつけなくても宜いじゃないか?』
  『‥‥ ‥‥』
  『僕は君が一番になっても宜い。怒らない』
  『そうですか』
  『その証拠にこれを君に預ける』
  『それじゃお預り致します』
と正三君はおトンカチを受け取った。


  『僕は君のお蔭で先生に叱られたよ』
  『済みません』
  『それを預けてしまえば文句はあるまい?』
  『はあ』
  『今まで通り仲よしになってくれるか?』
  『はあ。何でも御用を勤めます』
  『よし。嘘はつくまいね?』
  『はあ。何でも申付けて下さい』
  『それじゃ申付ける。厭だと言うと承知しないぞ』
  『決して申しません。何でございますか?』
  『試験の時に手伝ってくれ』
  『それは無論致します。明日から本気になりましょう』
  『試験勉強なら君に頼まない。矢島先生も黒須先生もついている』
  『無論御一緒に勉強させて戴くのです』
  『君は自分さえ好ければ宜いんだね』
  『そんなことはありません』
  『それじゃ試験の時に僕に教えてくれ』
  『教室でゝすか?』
  『そうさ』
  『大変です、若様』
  『見つからなければ大丈夫だ』
  『見つからなくても不正です』
  『しかしやっているものが大勢ある。宮下君や関屋君は僕よりも出来ないんだけれど、二人で教えっこをするからいつでも僕よりも上になっている』
  『他(ひと)はどうでも、若様はいけません。花岡家の若様がおカンニングを遊ばしてはお家の恥になります。それよりも落第する方が余っ程宜いです』
  『これで君の心が分った』
  『何ですか?』
  『君はどうせそうだろうと思っていた。僕に落第させて自分が一番になれば宜いんだ』
  『そんなことはありません。けれども若様』
  『もう宜い。学友は学問の友達だ』
  『学問の友達でも‥‥』
  『行け。もう用はない』
  『若様』
  『内藤正三位!馬鹿!』
と照彦様はすっかり憤ってしまった。
  正三君も骨が折れる。この駄々っ子を騙(だま)し賺(すか)して及第の出来るように計らなければならない。子供の仕事としては荷が勝っている。祐助さんが案じるのもこゝだ。しかし都合の好いことに照彦様は一晩寝ると後悔する。翌朝正三君が、
  『お早うございます』
と挨拶した時、
  『お早う』
と機嫌好く答えたばかりか、食事を済ませて学校へ出かける支度をしながら、
  『君、これを上げる』
と言って、金のメダルを手の平へ乗せて出した。これは照正様が運動競技で取ったのを戴いたのだった。
  『僕、いりません』
  『まあ取って来れ給え』
  『いゝえ。いりません』
と今度は正三君が拗ねる番だった。照彦様は昨夜(ゆうべ)無理を言ったことを後悔している。しかしあやまるのは残念だから、相手の好きそうなものを提供して御機嫌を取るのだった。正三君はそれが分っている。欲しいけれど駈引きがある。
  『君は未だ憤っているのかい?』
  『‥‥ ‥‥』
  『何とか言い給え』
  『僕は馬鹿です』
  『君』
  『何ですか?』
  『さあ』
と照彦様はメダルを正三君の手に押しつけた。
  『僕は厭です。カンニングをしたがるような人から物を戴きません』
  『君、あれは冗談だよ。さあ』
  『僕は試験前に本気になって勉強しないような人から物を戴きません』
  『今夜から一生懸命だ。約束しよう』
  『本当ですか?』
  『嘘は言わない』
  『僕はもう一つあります。大切(だいじ)のことがあります』
  『何だい?』
  『今度の試験で若様が一番でもお下がりになるようなら、僕はお殿様にも奥様にも申訳がありませんから家へ帰ります。昨夜考えて決心しました』
  『内藤君、それは無理だよ。席順ってものは運だもの』
  『運じゃありません。御勉強次第です』
  『勉強はするけれども、僕は試験が下手だ。居据(いすわ)りで堪忍してくれ給え』
  『いけません』
  『それじゃ一番でも上れば宜いのか?』
  『はあ』
  『よし。一番だけなら上って見せる。僕は関屋君には負けない積りだ』
  『宮下君はどうです?』
  『宮下君にだって本気になれば勝てる』
  『それじゃ二番上って下さい。序(ついで)です』
  『よし』
  『大丈夫ですか?』
  『うむ。約束する』
  『それじゃ戴きます。有難う』
と正三君は金のメダルを貰った上に差当たりの目的を達した。

試験の成績
  照彦様は約束通り勉強した。正三君に家へ帰られてしまっては困る。それもあったが、至誠は人を動かす。正三君の真剣さに感じたのである。正三君が又うまく梶を取る。
  『内藤君、こゝはどうだろう?出るだろうか?』
  『きっと出ます』
  『それじゃもう一遍やる』
と照彦様はお復習(さらい)をし直す。全くの試験勉強だ。
  『内藤君、この例題はどうだろう?』
  『きっと出ます』
  『よし。この辺は出来るんだけれど、もう一遍やって置く』
と念を入れる。
  『内藤君、僕はこゝが能く分らない。入院して休んだところだ』
  『そこは大切ですよ』
  『出るかしら?』
  『きっと出ます』
  『それじゃ黒須先生にやり直して貰おう』
  『御自分でおやりになって、分らないところだけをお訊きになる方が宜しいです』
  『しかし初めから皆やって貰う方が早い』
  『その一番は出そうな問題です。出たと思って二人でやって見ましょう』
  『よし』
  『これが二十五点です』
と正三君は点数の香(におい)を嗅がせる。照彦様は華族様で何不自由のない身分だけれど点数だけは貧乏だ。各科総平均六十に足らない。
  『出来た。出来たよ、君』
  『拝見。二十五点』
  『占め占め』
  『次ぎも二十五点の問題です。きっと出ますよ、これも』
  『厭だよ、君』
  『何故ですか?』
  『一番と二番が続けざまに出てたまるものか』
  『ハッハヽヽヽ』
  『君は何でもきっと出ると言うんだもの』
  『ハッハヽヽヽ』
  『嘘をついて勉強させるから厭だ』
  『いや、本当です』
  『嘘をつくのがだろう』
  『いや、本当が嘘、いや、本当ですよ』
  『見給え』
  『ハッハヽヽヽ』
  『狡い奴だ』
  『余り笑ったものだから間違えたんです』
  『兎に角、この二番は出ないよ』
  『出ないとも限りませんよ、もし一番が出なければ』
  『一番が出るって君は言ったじゃないか?』
  『それは出るかも知れません』
  『知れません?』
  『はあ。しかし出ないかも知れません』
  『何だい?あやふやじゃないか?』
と照彦様は不平だ。
  『先生ってものは欲張りです。出来るだけ沢山教えて出来るだけ沢山覚えさせようとします』
  『それは分っている。橋本さんなんか一番狡い方だ』
  『教えたところが五十題あれば、五十題皆試験に出したいんです。決して負けてくれません』
  『しかしそれじゃ答案が書き切れない。五十題なんて出せば、一つの試験に一週間も二週間もかゝる』
  『そこです』
  『何処だい?瞞(だまか)すとおトンカチだぞ』
  『時間があれば皆出す気ですが、時間がないから、その中四五題出すんです』
  『そんなことは君に聞かなくても分っている。その四題か五題を能くやって置いた奴が得をするんだ。他のをやって行った奴は損をするんだ』
  『違います』
  『違わない』
  『それは悧巧なようで猿智恵です』
  『失敬な!』


  『まあ、お聞き下さい』
  『‥‥ ‥‥』
  『五十題皆覚えている証拠に、その中から出された四五題を書くのが試験です』
  『‥‥ ‥‥』
  『そうじゃございませんか?』
  『‥‥ ‥‥』
  『安斉先生のところへ行って伺って見ましょうか?』
  『宜いよ。そんなことをしなくても宜いよ』
  『数学はどれでも二十五点だと思って皆やりましょう』
  『それじゃ山ってことがない』
  『若し山をかけるとすれば、五十題全体にかけるのが本当です』
  『そんな大きな山じゃくたびれてしまう』
  『くたびれるほどやらなければ点は取れません』
  『大変だなあ』
  『運動だって汗の出るほどやらなければ身体の為になりません』
  『それはそうさ』
  『勉強だって同じことです』
  『君は変に理屈が上手だな』
  『二番が二十五点、三番も二十五点です。さあ、ドンドンやりましょう』
と正三君はもう遠慮をしない。引き摺るようにして準備をさせる。
  数学の試験が済んだ時、照彦様は、
  『内藤君、三題半出来たよ』
と大喜びだった。先に運動場へ出て待っていた正三君は一々吟味して、
  『お書きになっただけ皆出来ています。七十点取れたでしょう』
と判定した。
  『有難い』
  『五番は一番やさしいのですが、いけませんでしたか?』
  『書かなかった』
  『おやおや』
  『あれはやれば出来たんだけれど、四番で手間を取っている中に時間がなくなってしまった』
  『出来るのから先にやる方が宜いです』
  『そうだったね』
と照彦様は今更口惜しがったが、励みがついて、
  『明日は出来るのからやるぞ』
と力み返った。
  『英語はお得意ですから、八十点以上取れましょう』
  『全体山をかける』
  『早く帰ってそう致しましょう』
と正三君は如才ない。
  こんな調子で一週間続きの試験が終って冬休みになった。成績は学校から郵便で通知して来る。照彦様はそれが待ち遠しかった。いつもは成績のことを言うと御機嫌を悪くするのだが、今回は充分勉強したから期待がある。
  『内藤君、君はきっと一番だぞ』
と自分の方から問題に触れた。
  『いや、僕はしくじりました』
  『僕は君と約束したぐらい上れる積りだが、若し居据りだったらどうする?君は帰ってしまうか?』
  『はあ』
  『あんなに勉強させて置いて、ひどいじゃないか?』
  『男子の一言金鉄の如し』
  『安斉先生の真似をするなよ』
  『精神一到何事か成らざらん』
  『逃げ出す方の精神一到なんか困る』
  『いや、若様が精神一到です。今度はきっと上っていられます』
  『僕もそう思うんだけれどもなあ』
  『大丈夫です』
と正三君は保証した。
  休暇になってから三日目の朝だった。二人がお庭に下りてボールをやっているところへ書生の杉山が、
  『照彦様、安斉先生がお呼びでございます。内藤君、君も』
と探しに来た。照彦様は感心しない、
  『何の用だい?』
と訊いたら。
  『存じませんが、お急ぎのようでございました』
とあった。
  『照彦様』
  『何だい?』
  『成績が着いたのじゃございませんでしょうか?』
と正三君が言った。
  『そうだ。今日だ』
と照彦様は忽ち駈けだして、
  『杉山、そのバットを持って来い』
と叫んだ。しかし杉山は正三君を睨んだ。正三君はバットを擔いで照彦様の後を追った。
  安斉先生は学監室の入口に迎えて、
  『若様、御成績が参りました。御勉強の効(かい)がございました』
とニコニコした。
  『何番ですか?』
  『二十番でございます。十五番お上がりになりました』
  『どれ』
と照彦様は成績表を受け取って見入った。
  『先生』
と内藤君は安心すると共に自分のが気になった。
  『あなたは無論宜しい。一番です』
と安斉先生は成績表を渡した。
  『内藤万歳!』
と照彦様は正三君の首にかじりついた。
  『若様万歳!』
と正三君も照彦様を抱き締めた。
  『結構でございました』
と安斉先生は目に涙を溜めて、
  『照彦様』
  『はあ』
  『内藤君』
  『はあ』
  『ハッハヽヽヽ』
と如何にも嬉しそうだった。
  『僕はこんなに上るとは思わなかった』
と照彦様は又成績表を見詰めた。
  『御勉強をなさいましたからな』
と正三君も満足だった。
  『君はひどいんだもの』
  『ハッハヽヽヽ』
  『照彦様』
と安斉先生が呼んだ。
  『はあ』
  『若し若様がお上がりにならないようなら、内藤君はお家へ帰る覚悟でした』
  『僕にもそう言って威かしたんです』
  『万一若様がお上がりにならないようなら、私にも覚悟がありました。お殿様や奥様へお合せ申す顔がございません』
  『はゝあ』
と照彦様は目を円くして正三君を見返った。
  『内藤君』
と安斉先生は次に正三君に話しかけた。
  『はあ』
  『御苦労でございましたな』
  『どう致しまして』
  『来年も同じようにお二人で御油断なく御勉強下さいよ』
  『はあ』
  『お殿様も奥様も至極御満足でございました』
  『はあ』
  『御褒美に動物園へでもお供申上げましょう?』
  『いゝえ、結構です』
と二人は慌てゝ遮ったが、
  『ハッハヽヽヽ』
と安斉先生は冗談だった。
  『‥‥ ‥‥』
  『能く勉め、能く遊ぶ。休暇中は充分お寛ぎ下さい』
  『はあ』
と照彦様は正三君に目くばせをした。
  『何か面白い思いつきはございませんかな?御褒美にお殿様へお願い申上げて取り計らいましょう』


  『先生』
  『何でございますか?』
  『僕達は活動を見に行きたいんです』
  『教育映画ですか?』
  『いゝえ。はあ』
  『結構ですな。教育映画の極く為になるところをお屋敷へ呼んでやらせましょう』
と安斉先生は他のものを認めていない。
  『先生』
  『何でございますか?』
  『内藤君はスキーをやって見たいと言っています』
と照彦様は正三君をダシに使った。
  『運動ですか?結構ですな。お庭でおやりなさい』
  『しかしあれは雪のないところでは出来ません』
  『その中に降りましょう』
  『降っても山へ行かないと出来ません』
  『お屋敷にも裏に山があります。スキーにボール、弓術にお相撲』
と安斉先生は万事承知の上で空とぼけている。若様方をよそへ出すことに反対だ。
  二人は学監室を辞し去って又庭へ下りた。
  『二十番、上りも上ったものだ。内藤君』
と照彦様は後から正三君に組みついた。


  『危ないですよ』
  『相撲だ』
  『下駄が脱げました』
と内藤君は芝生の上へ坐ってしまった。照彦様は寝転んで、
  『こゝで話そう』
  『はあ』
  『僕は上って宜かったよ。安斉先生はうっかり出来ない』
  『何故ですか?』
  『あれは切腹する癖がある』
  『まさか』
  『いや、お父様がお若くてむやみにお酒を召し上がった時分、すんでのことに切腹しかけたそうだよ』
  『はゝあ』
と正三君は驚いた。
  『洋行からお帰りになった頃の話だ。僕は富田さんから聞いた。お父様がお泊りがけでお酒を飲むものだから、お母様初め皆で申上げたが、叱られるばかりさ。一番おしまいに安斉先生がお母様から頼まれたそうだ』
  『はゝあ』
  『お父様のお居間に坐り込んで、お酒をおやめになると仰有るまでは動かないと言い出した。安斉さんはお父様にも先生だ。大抵の家来は撲ってしまうが、先生には手が上げられない。安斉先生はそれを知っているものだから、散々に言ったあげく、これ程まで申上げても御承知は願えませんかと訊いたそうだ。「知らん。下がれ!」とお父様は呶鳴りつけた。すると安斉先生は涙をポロポロこぼして、「この上は次の間へ下がって大殿様にお詫び申上げます」と言ったそうだ』
  『大殿様御在世の頃でしたか?』
  『いや、もう亡くなっていられた。つまり切腹の意味さ』
  『はゝあ』
  『安斉先生は次の間へ下がったが、お父様は心配になって覗いて見た。すると大変!「御短慮、御短慮」と言って、富田さんが押えている』
  『本当にやる積りだったんですか?』
  『いや、もう突き立てゝいたんだ』
と照彦様はバットで切腹の真似をして見せながら、
  『引き廻せば直ぐに死んでしまう。お父様は安斉先生の手に縋(すが)りついてお泣きになったそうだ』
  『はゝあ』
  『先生は命を惜しがらないから怖いぞ』
  『はあ』
  『以来お父様はお酒を余り召し上がらない。利いたんだね』
  『切腹されちゃたまりません』
  『しかしお母様はナカナカお狡いぞ』
  『何故でございますか?』
  『お父様にお悪いことがあると、御自分でおっしゃらずに、安斉先生を呼んで言いつける。僕は聞いていたことがあるよ』
  『はゝあ』
  『すると安斉先生がお居間へ上って申上げる。お父様は何でも「宜しい。気をつけよう」とおっしゃるそうだ。切腹が怖いから、決して逆らわない』
  『真剣ですからな』
  『僕も先刻胸がドキッとした。僕が上らなければお父様やお母様に合せる顔がないから覚悟があったとおっしゃったろう?あれは切腹のことだ』
  『まさか』
  『いや、本当だ。もう年を取って死にたいところだから危ない』
  『それじゃ益々御勉強なさらなければなりませんな』
  『もう一生懸命だ』
  『僕も万一若様がお上がりにならないようなら、今頃はこれです』
と正三君はバットを取って切腹の真似をした。
  『御短慮、御短慮!』
  『放せ放せ』
  『放さない。十五番上った』
と照彦様は又正三君に抱きついた。二人は犬ころのように芝生の上を転がって歩く。何方も成績が好かったから、嬉しくて仕方がない。

学監室の会議
  休暇になっても、安斉先生は相変らず御精励だ。朝から学監室に詰めている。先生の咳払いが聞えると聞えないでは若様方の心得が違う。学監室に籠って経書を読んでいるのなら差支えないが、時々出て来て、若様方のお部屋を見廻る。散らかして置くことが大嫌いの先生だ。
  『照常様、おテーブルが大分曲がって居りますぞ』
と言って、直ぐに手をかける。
  『僕やります』
と照常様は仕方がない。先刻照彦様と正三君を一束にして相撲を取った跡だ。
  『珍しい御本がございますな』
と安斉先生は目敏い。
  『はあ』
  『参考書でございますか?』
  『いや、小説です』
  『お求めになりましたか?』
  『いや、松平君から借りて参りました』
と照常様は大抵の事を松平君にかづける。
  『照正様』
と今度は照正様のお部屋へ入る。
  『はあ。どうぞ』
と照正様は、一番の御年長だけに礼儀を守って、直ぐに椅子を薦める。
  『油絵のお稽古でございますか?』
  『はあ』
  『御勉強だけに大層御上達でございますな』
  『いや、一向』


  『ボールでございますか?』
  『林檎ですよ』
  『成程。お台所のお写生でございますな』
  『静物です』
  『はゝあ、林檎とビール壜でございますね』
と安斉先生は今更テーブルの上に置いてあった実物に気がついた。照正様のは実物と比較しないと分り悪(にく)い。先生はボールにバットだと思ったのである。尤も独りで立っているバットなんかあり得ない。先生も絵心がなさ過ぎる。
  『この壜の色がナカナカ出ません』
  『それで結構でございましょう。一枚お下げ渡し願いたいものでございますな』
  『これを差上げましょうか?』
  『いや、戴くとなれば、御註文がございますぞ』
  『その額になっているお徳利は如何ですか?色が能く出ているとおっしゃって、先生が褒めて下さいました』
  『もっと勇壮なものが欲しいです』
  『はゝあ』
  『人物画はお描きになりませんか?』
  『矢張り習っています』
  『南朝の忠臣楠木正成は如何でございましょう?』
  『武者絵は困りますな。油や水彩の方では余りやらないようです』
  『成程。それでは豫譲(よじょう)は如何でございましょう?』
  『はあ?』
  『士は己を知るものゝ為に死す。晋の豫譲です。矢張り忠臣の亀鑑です』
  『むづかしいです。人物画は写真がなければ出来ません』
と照正様は持て余した。
  『成程。少し無理でしょうな』
  『先生の御書斎には矢張り静物が向きます』
  『お台所の御写生でございますか?』
  『お台所ってこともありませんけれど』
  『花鳥は如何でございましょう?』
  『草花ですか?』
  『西洋草花よりも梅に鴬というような意味のあるものが結構でございます』
と安斉先生は日本画の頭で行くから、無理な註文ばかりする。
  『むづかしいです』
  『いけませんかな』
  『先生』
  『何でございますか?』
  『先生を写生致しましょうか?』
  『成程』
  『先生のお顔は静物や草花よりも描き好いです』
  『何故ですか?』
  『特徴があります』
  『それでは一つお願い申上げましょうか?』
  『承知致しました。明日あたりから取りかゝりましょう』
と照正様は引き受けた。
  安斉先生は次に正三君の部屋を覗いて、
  『こゝは綺麗に片付いている。感心な子だ』
と口の中で言った。
  『照彦様も綺麗にしていられる。内藤が手伝ったのだろう。感心な子だ』
と又正三君を褒めた。尤も二人は空気銃を持って裏のお山へ行っていた。
  安斉先生は学監室へ戻ると間もなく、電鈴(ベル)を鳴らした。
  『御用でございますか?』
と書生の杉山が現れた。
  『先生方をお呼び申しておくれ』
  『皆さんでございますか?』
  『うむ。会議を開きますから、十時にお集まり下さいって』
  『はあ』
  『一遍言って御覧』
  『会議を開きますから、十時からお集まり下さい』
  『十時にお集まり下さい』
  『十時にお集まり下さい』
  『宜しい』
  『はあ』
と杉山は出て行った。間違いのないように繰り返させるのが癖である。
  安斉先生は机に向って筆を取った。先づ、
  学監室会議事項
と認(したゝ)めて、それから考え考え、
    一、休暇中御補習の件
    二、武道御奨励の件
    三、御遊楽の件
    四、お肝試しの件
と書き終った。そこへ杉山がもう帰って来て、
  『黒須先生はお留守でございましたが、有本先生と矢島先生は直ぐお見えになります』
と報告した。花岡家の家庭教師三名は矢張りお屋敷内に住んでいる。
  時を移さず、有本さんと矢島さんが打ち揃って出頭した。安斉老は、
  『さあ、どうぞ』
と迎えて、真ん中の大きなテーブルへ進み寄った。
  『失礼致します』
と二人とも着席した。
  『休暇中を朝から御足労かけました』
  『どう致しまして』
  『実は急に思いつきましてな』
  『はゝあ』
  『当休暇中の御指導方針について御意見を伺いたいと存じましてな』
と安斉先生は説明を始めた。この二三日それとなく拝見しているが、若様方はどうも無為に時間をお過ごしになる。御生活が不規則に陥り易い。お側に奉仕するものとしては、この辺を少し考えて見る必要がありはしまいかという要領だった。
  『如何なものでしょうかな?』
  『さあ』
と両先生は首を傾げた。
  『御相談の項目を書き認めて見ました。順次に御意見を伺いましょう。第一は御補習の件です』
  『はあ』
  『休暇中一時間でも二時間でも学科をお勧め申上げることは如何なものでしょうかな』
  『さあ』
  『御無理でしょうかな?』
  『さあ』
  『照彦様だけは兎に角、照正様も照常様も御成績がお宜しくありませんでした』
  『しかし御平常(へいぜい)でも御予習御復習をお好みにならないのですから、休暇中は‥‥』
と有本さんが口ごもった。
  『仮りにお勧め申上げましても、四五日すればお正月ですから、又‥‥』
と矢島さんも遠慮勝ちだった。
  『成程』
  『それよりも新年早々お始めの方が宜しいではなかろうかと存じられます』
  『成程』
  『矢島君のおっしゃる通り、差当たりは御自由にお委せ申上げて、新年からお互いに努力する方が策の得たものかと私も存じます』
と有本さんが賛成した。
  『それでは御両君の御意見に従いまして、御補習は諦めましょう。次は武道御奨励の件です。これは如何なものでしょうかな?』
と安斉先生は次の問題に移った。
  『結構でございますな』
と今度は二人とも異議がなかった。相談の結果、一月五日から柔道の寒稽古を始めることに定まった。照彦様と正三君もそれを機会にお弟子入りをするのである。お屋敷には立派な道場があって、剣道柔道の両先生が毎週見えるのに、照正様は余りおやりにならない。照常様が多少柔道に御熱心なだけで、主に家来の息子達が代ってお稽古を受けている。
  『修行盛りのものが小説を読んでいるようでは仕方ありません』
と安斉先生は溜息をついた。これは照常様のことだった。
  『はあ』
  『血気盛んなものが油絵を描いているようでは仕方ありません』
  『それはそうですけれど、御趣味の方は又特別でございましょう』
と有本さんが一寸弁解の態度を取った。
  『同じ御趣味にしても、もっとお大名式のものであって欲しいです』
  『はゝあ』
  『油絵は林檎、バナナ、徳利、ビール壜。皆お台所の写生です。実に平民的なものですな』
  『はあ』
  『伯爵家の御令嗣が八百屋物や勝手道具をお描きになるのは御品位にかゝわりましょう』
  『はあ』
  『さて、次は若様方御遊楽の件です。これには種々(いろいろ)と御意見がございましょう。現に照彦様は活動写真を御覧になりたいとお申出になりました』
と安斉さんは第三項に移った。
  『先生』
  『承わりましょう』
  『これは一つ御英断にお出になっては如何でございましょうか?』
と矢島さんが有本さんと目を見合わせながら提議した。
  『いつもその積りで居りますが、照正様も照常様も内証でチョクチョクお出掛けになるようです』
  『いや、実は‥‥』
  『何ですか?』
  『寧ろ時折御覧に入れては如何なものでしょうか?』
  『活動写真をですか?』
  『はあ』
  『それは又どういう意味ですか?』
  『活動写真は昨今ではもう世界の大勢です。誰でも見るものですから、全く御覧にならないと、御朋輩とのお話にお差支えはなさりませんでしょうか?』
  『しかし会なぞで御覧になりますから、態々にも及びますまい』
  『会のは主として教育映画です』
  『すると非教育映画をお勧めになりますか?』
  『非教育というわけでもありませんが、普通のものにも教育上無害なものがあります』
  『どんなものですか?』
  『例えばチャプリンの喜劇です』
  『あれは極無邪気なものですな』
と有本さんも助太刀に出た。


  『あなたも御覧でしたか?』
  『はあ』
  『教育上有効という御保証がお出来ですか?』
  『さあ。どうでしょうかな?矢島君』
  『単に無害でしょうな』
と矢島さんも行き詰まった。
  『無害でも結構ですよ。単に御遊楽の目的ですから』
  『語学の方には風物教授というものがありまして、その足しには可なりなります』
  『風物とは?』
  『風俗習慣です。例えば日本語を習うには、日本の生活を多少研究する必要があります。その方が理解が早いです。単に「餅つき」という字を覚えても、餅つきの光景を見ないとどういうことをするのか分りません』
  『成程』
  『西洋の活動写真には西洋の風物を如実に見る便益が確かにあります』
  『成程。一理ですな。それでは無害有益ということになります』
  『さあ。兎に角有害無益ではございますまい』
  『御両君でそういう御保証がお出来なら、若様方年来の御勉強に免じて、一回だけ御覧に入れ申上げましょうか?』
  『必ずお喜びでございましょう』
  『それでは最近に御両君でお供を願います』
  『先生御自身も御検分ながら御出馬下すっては如何でございましょうか?』
  『いや、私はこの年になるまで活動館へ入ったことがありませんから、何なら矢張り入らずのまゝで死にたいと存じます』
  『しかし私達だけではどうも。有本君、如何でしょうか?』
  『さあ。お殿様や奥様の御思召もおありのことでございましょうから、私達だけではどうも』
と両先生は今更恐縮した。
  『私が呑み込んでいます』
  『しかし‥‥』
  『宜しい。その折私もお供致します。若様方の御教育の為に晩節を汚しましょう』
と安斉先生は活動写真を一回見るにもこの通りむづかしい。
  そこへ黒須さんが、
  『どうも相済みません。一寸散髪に行って居りまして』
と言訳をしながら入って来た。
  『さあ、どうぞ』
と安斉先生は請じて、今までの決議を話した後、
  『最後は若様方お胆試しの件です』
と言った。
  『試胆会でございますか?』
と黒須さんが訊いた。
  『そうです。若様方に限らず、この頃の青年はどうも臆病でいけません。胆力養成ということが必要です。これは如何なものでしょうかな?』
  『結構でございましょう』
と一同賛成した。必要だと仰有る以上、反対は出来ない。
  『私達の若い頃は墓地へ行ってやったものです。子供ながら一刀を挟(さしはさ)んで、妖怪変化出で来たらば斬り捨てんという意気込みでした』
  『あれは実際胆力が据わります』
と黒須さんは遅参の申訳に調子を合わせた。
  『あなたもおやりでしたか?』
  『郷里で度々やりました』
  『今晩は陰暦十一月十六日、夜の十時には月高くお裏山の公孫樹にかゝって、老梟(ろうきょう)寒飢(かんき)に鳴く。一陣の疾風雑木林を渡って、颯颯(さつさつ)の声あり。丁度手頃でございますぞ』
  『はゝあ、裏のお山で』
  『お山の稲荷神社を目的地として、若様方が代わる代わる何か印の品を置いて参ることに計らいましょう』
  『本式ですな』
  『ついては黒須君』
  『はあ』
  『私はあなたのお出でを待っていたのです』
  『はゝあ』
  『一つ大入道に化けて若様方を驚(おど)かして下さいませんか?その五分刈が真に結構です』
  『悪い役を仰せつかりますな』
  『多少変装をなすって、祠(ほこら)の辺を徘徊して戴きます』
  『彼処(あすこ)は一寸工合が悪いです。昼さえ誰も寄りつきません』
  『それでは畑の辺に出没して下すっても宜しい』
  『彼処も淋しいです』
  『入道が怖がっちゃいけませんな』
  『先生、この役は私御免蒙ります』
  『黒須君、これで美事あなたの試胆会が済みました』
  『御冗談でしたか?』
  『ハッハヽヽヽ』
  『しまった。ハッハヽヽヽ』
  『ハッハヽヽヽ』
と一同大笑いになった。お屋敷の裏は山と畑になっていて、夜は用のないところだから至って淋しい。先生の黒須さんさえこの通りだ。安斉先生はこゝで若様方のお胆試しをしようというのだった。
  若様方は休暇に入ってから退屈で仕方がない。種々と計画を立てゝいたが、皆安斉先生の反対で実行出来ないことになるのらしい。この日、昼食の折もその苦情が出た。
  『お母様、鉄砲はどうしてもいけないんでございましょうか?』
と照正様はこの間からのねだりごとを繰り返した。
  『来年の五月までお待ちなさい』
  『五月になればもう打てません』
  『仕方がありませんわ』
  『丁年未満でも私の友達は皆書生の名前で買っています』
  『それも申さないことじゃございませんが、安斉先生が御承知下さいませんからね』
とお母様もお殿様同様御子息のことは万事先生委せにしている。
  『お母様、鉄砲がイヨイヨ駄目なら、僕はスキーに行きたいです』
と照常様が申出た。
  『お父様に申上げて、安斉先生に御相談致しましょう』
  『先生は駄目ですよ』
と照彦様が言った。
  『何故?』
と照常様が訊いた。
  『僕、この間申上げたんですが、お庭でおやりなさいとおっしゃいました』
  『お庭で出来るものか』
  『それが先生はお分かりにならないんです。雪の降るまで待っていれば宜いと思うんでしょう』
  『成っていないなあ』
  『スキーが駄目なら、僕は山登りをします』
と照正様はそれからそれと考えている。


  『僕もやります。お母様』
と照常様も御執心だった。その外種々と御注文が出たが、お母様の御返事は、
  『安斉先生に御相談申上げましょう』
と一々定まっていた。
  食後、お部屋へ戻る途中、照正様は、
  『照常、これじゃ仕方がないぞ』
とおっしゃった。
  『安斉先生が威張り過ぎます。何でも安斉先生だ』
  『主人を束縛する。失敬千万だ』
  『分からず屋です。時世遅れです。十九世紀です』
  『十八世紀の怪物だろう。実際これじゃ溜らない』
  『叱るばかりです』
  『一つ相談をしよう』
  『照彦も呼びましょうか?』
  『内藤も呼んでやり給え。彼奴も可哀そうだよ。煽てられて勉強するばかりだ』
  『しかし内通すると困ります』
  『大丈夫だよ』
  『それなら呼んでやりましょう。今朝学監室に会議があったようですな?』
  『宿題が出るぞ、屹度』
  『そうかも知れませんな。此方も宿題をやらない会議だ。余り無理なことを言うようなら、僕行って本郷の叔父様に訴えてやります』
と照常様も憤慨していた。
  間もなく若様方と正三君は学習室のストーブを囲んで話し始めた。
  『安斉先生は失敬だ』
と照正様が議長になった。
  『失敬だ』
と照常様が賛成した。
  『少し失敬だ』
と照彦様が学監室の方を見た。
  『先生がお見えになります』
と正三君が注意した。
  『若様方、お揃いで何か面白いお話しがおありですかな?』
と安斉先生はニコニコしながら学監室から出て来た。

お胆試しの会
  『どうぞ』
と照正様は慌てゝ立ち上がって、椅子を押し薦めた。皆で宜しからぬお噂を申上げていたところだったから工合が悪かった。
  『恐れ入ります』
と安斉先生は会釈して、
  『御退屈でございましょう』
と一同を見廻した。
  『はあ』
  『それで相談をしているところです』
と照常様は正直に言った。
  『期せずして肝胆相照らしましたな。若様方』
  『はあ?』
  『今晩は面白いことがございますぞ』
  『何でございますか?先生』
と皆乗り出した。
  『試胆会を致します』
  『はあ?』
  『若様方のお胆試しの会でございます』
  『胆試し、はゝあ』
  『胆力養成会と申しましょうか?裏のお山で催したいと存じますが、如何でございますかな?』
  『結構でしょう』
と照正様は賛成して、
  『しかし一体どんなことをするんですか?』
と訊いた。
  『夜の十時にお裏山の稲荷神社へお一人宛(づつ)お出掛けを願います。彼処へ硯箱と帳面を用意致して置きますから、御参詣の証拠にお名前をお認めになってお帰り下さい』
  『それだけでございますか?』
  『はあ』
  『お安い御用です』
  『胆は大ならんことを欲し、心は小ならんことを欲す。後日の物笑いになりませんよう、御入念にお認めを願います。昔、私の同輩の北村喜二郎と申すものが、郎の字を落として帰りました。喜二郎の郎がなければ、喜二、即ちキジ、鳥の雉に字音が通じます。そこで雉子(きじ)雉子ケンケン郎(おとこ)を落としたという評判が立ちました。そんなことがあっては武士の名折れでございます』
  『承知致しました。これは一寸面白いです』
  『今晩は旧暦によりますと、霜月の十六日。夜の十時には月高くお裏山の公孫樹にかゝって、老梟寒飢に鳴く。一陣の疾風雑木林を渡って、颯颯の声あり』
と安斉先生は又諳誦を始めた。
  『先生もお入りでございますか?』
  『はあ、黒須有本矢島の面々も馳せ参じます』
  『月がないと宜いですな』
  『いや、今晩は特別物騒でございますよ』
  『何故ですか?』
  『若様の昔のお下屋敷時代に狐、狸の出たお話しを御存じありませんか?』
  『それは富田さんから承わりました』
  『狐狸の類は月明を喜びます。今夜あたりは大入道が出るかも知れません』
  『先生、おどかしっこはなしに致しましょう』
  『お怖いですか?』
  『そんなことはありませんけれども』
  『それでは御参詣下さいますね?』
  『無論』
  『お豪いですな。照常様あなたは如何でございますか?』
  『大入道の一人や二人、取挫(とりひし)いで御覧に入れますよ』
と照常様は力んで見せた。
  『お豪いお豪い。照彦様は?』
  『内藤君、君はどうする?』
と照彦様は正三君の手を引っ張った。
  『さあ。僕は柔道を知りませんから』
と内藤君は首を傾げた。
  『僕も知らん』
  『それに僕はお稲荷さまの側でオシッコをしたことがあります』
  『僕もあるんだ』


  『照彦様、如何でございますか?』
と安斉先生が又訊いた。
  『内藤君、どうする?』
  『若様がお出でになるなら、僕も参ります』
  『内藤君が行くなら、僕も行きます。怖いことはありません』
と照彦様は到頭(とうとう)答えた。
  『お豪いお豪い』
  『僕も怖くありません』
と正三君も褒めて貰いたかった。
  『内藤正三、豪い豪い』
と安斉先生は大御機嫌で、
  『試胆会は勇壮な御遊楽です。早速取計らいましょう』
と言って立ちかけた。
  『先生』
と照正様が呼び止めた。
  『何でございますか?』
  『私は照常と二人でもっと勇壮なことを計画して居ります。お母様に申上げましたら、先生のお許しをお願いなさいということでございました』
  『はゝあ』
  『雪中の日本アルプス征服。考えただけでも血が湧き立ちます』
  『お山登りでございますか?』
  『はあ』
  『お兄様と二人でこの休暇中に是非実行したいと思っています』
と照常様も言葉を添えた。
  『若様方』
  『はあ』
  『それは飛んでもない御料簡違いでございますぞ』
と安斉先生はむづかしい顔をした。
  『何故でございますか?』
と照正様は不服らしかった。
  『御身分をお考え遊ばしませ。山登りは下司下郎の致すことでございますぞ』
  『違います。西洋では名ある貴族が競ってアルプス登山を試みます』
  『その西洋人の真似が私は気に入りません。一も西洋、二も西洋、私はどうも気に入りません』
  『‥‥ ‥‥』
  『古来山に宿るものは山賤(やまがつ)山伏の類に限ります。豊臣秀吉公や徳川家康公が富士登山をしたという史実がございますか?大名は狩座(かりぐら)の外に山野を跋渉致しません』
  『それでは先生、鉄砲をお許し下さい』
  『お殿様にも申上げました通り、若様方は丁年未満でございます』
  『しかし私の友達は皆書生の名前で鑑札を受けています』
  『余所様は兎に角、花岡伯爵家は花岡伯爵家でございます。お上の掟(おきて)に背くことは出来ません』
  『‥‥ ‥‥』
  『御登山のことでございますが、第一、私は日本アルプスという言葉が気に入りません』
  『はゝあ』
  『日本の山々には昔から立派な日本名がついています。何を苦しんで西洋名を用いますか?先年私は名古屋へ参って、日本ラインというところへ案内されました。これが又気に入りません。木曽川は木曽川で宜しい。日本ラインとは浅ましい。私は舟の中で嘔吐を催しました』
  『それは先生がお舟にお弱いからでしょう』
  『ハッハヽヽヽ』
と安斉先生、思い当たるところがあった。
  『ハッハヽヽヽ』
と皆も笑った。品川沖の件である。
  『兎に角、若様方、よくよくお考え下さい。日本アルプスという西洋名がついてから、山で命を捨てる学生の数が年毎に多くなりました』
  『はあ』
  『体(てい)の好い親不孝でございますぞ』
  『‥‥ ‥‥』
  『お山登りは一切相成りません。一命を賭してもお諫め申上げます』
  『それじゃ仕方ありません。油絵でも描いていましょう』
と照正様は諦める外なかった。
  『若様』
  『はあ』
  『私は昔、大殿様のお供をして熱海の温泉へ参ったことがございます。もう三十何年かになりますが、その折感心仕ったことがございますから、御参考の為にお話し申上げます』
  『はゝあ』
  『毎日シケが続きまして、お魚が取れませんでした。宿屋では困却の余り、鰯の目差しを大殿様の御食前に上(のぼ)せました』
  『はゝあ』
  『大殿様はお召し上がりになって、「この小さい魚は何と申す?」とお尋ねになりました。「鰯でございます」と私は恐る恐るお答え申上げました。「実に結構なものじゃの。東京では見たことも聞いたこともない。早速購(あがな)い求めて屋敷へ送るが宜いぞ」と大殿様が仰せになりました。「は、は、はあはあ」と平伏して、私は感極まって涙が止め度なく流れました』
  『一体どうなすったんでございますか?』
  『大殿様は鰯を御存じなかったのでございます。お大名はこうありたいものだと思いました。ところで若様』
  『はあ』
  『これは何でございましょうか?』
と安斉先生は学習室の壁にかけてあった照正様の油絵を指さした。
  『静物でございます』
  『種々(いろいろ)と俎(まないた)の上に載っているようですが、お魚は何でございましょうか?』
  『これは俎じゃありません。テーブルです。お魚は鰊の干したのです』
  『はゝあ。私は鰯かと存じました』
  『こんな幅の広い鰯はございません』
  『しかし鰊も鰯に似たり寄ったりの下魚でございます。お大名の存じていて宜しい魚ではありません。若様がこういうものを御熱心に御写生遊ばされては、地下の大殿様がお泣きになりましょう』
  『先生』
と照正様は意気込んで、議論をする積りだったが、又考え直して、
  『分りました』
と快く頷いた。
  『鯛買うて土産の嘘や汐干狩。せめて鯛をお描き下さい』
  『はあ』
  『下司下郎の真似を致すのがお教育ではございません』
  『はあ』
  『照常様も照彦様もよくよく御身分をお考え下さい。西洋人の真似をして山登りやスキーをなされずとも、日本には剣道柔道がございます。私達はこれで体力を養い精神を錬って参りました。今晩のお胆試しは日本アルプス以上の効験がございますぞ』
と戒めて、安斉先生は立って行った。
  若様方は少時黙っていたが、照正様が先づ、
  『詰まらん』
と呟いた。
  『叱られてしまいました』
と照常様もがっかりしていた。
  『先生はこの頃のことがちっともお分かりにならないから困る』
  『お兄様はもっとおっしゃると宜かったんです』
  『いや、議論をすれば切腹する。迚も仕方ない人だ』
と照正様は恨めしそうに油絵の鰊を見上げた。
  『内藤君、お庭へ行こう』
と照彦様が誘った。
  『はあ』
と正三君は退屈していたところだから直ぐにお供をした。
  『君、どうする?』
  『何ですか?』
  『お胆試しの会さ』
  『僕はバットを持って行きます』
  『僕はおトンカチを持って行く。二人一緒なら大丈夫だろう』
  『一人宛(づつ)でしょう』
  『いや、僕達だけは二人さ』
  『そんなことはないでしょう。それじゃ二人のお胆試しになります』
  『二人行けば二人のお胆試しさ。それは安斉先生も分っている。僕は君が行けば行くと言ったんだもの』
と照彦様は実際その積りだったのかも知れない。
  『僕も若様と御一緒なら助かります』
  『君も僕が行けば行くと言ったじゃないか?』
  『そうです。御一緒に参りましょう』
と正三君も狡い。都合の好い方の意味にしてしまった。
  『けれども大入道が出たらどうしよう?』
  『そんなものはいませんよ』
  『いや、僕は富田さんから聞いた。狐は兎に角、狸は確かにいる』
  『化けたんですか?』
  『うむ。富田さんの兄さんが見たそうだ。電信柱ぐらいあるって』
  『たまらないですなあ』
  『それから、月夜の晩にお山でポンポコポンポコって腹太鼓を叩いていたそうだ』
  『いつのことですか?』
  『僕達の生まれない頃のことだけれども』
と照彦様は怖じ気がついていた。正三君もこんな話を聞かされると、お胆試しの会が益々思いになる。
  学習室に残った照常様は、
  『お兄様、僕は好いことを考えました』
と言った。
  『何だい?』
  『今晩の会に一つ安斉先生を驚(おど)かしてやりましょう』
  『駄目だろう。先生は胆力が据わっていられるようだ』
  『そこを試して見るんです。此方ばかり試されちゃ損をします』
  『どうするんだい?一体』
  『杉山を使います』
  『ふうむ』
  『彼奴に応接間の虎の皮を被(かぶ)せます。藪の中に匿れていて突如(いきなり)出ることにしたら、いくら安斉先生でも吃驚なさいますぜ』
  『成程』
  『あれは顔があって目が光っています』
  『やって見ようか』
と照正様は釣り込まれて、杉山を呼んだ。用向きを申し渡して、
  『どうだい?』
と訊くと、杉山は、
  『やります』
と大喜びだった。此奴、安斉先生には始終叱られている。
  『しかし間違えて僕の時出ちゃ困るよ』
と照常様が念を押した。
  『大丈夫です』
  『僕の時もいけない。それから照彦や内藤の時も出ると大変だぞ。気絶するかも知れない』
  『気をつけます』
  『御褒美には万年筆をやるぞ』
と照正様は尚お驚かし方を詳しく教えた。
  お胆試しの会は大仕掛けだった。お裏山の道を掃き清めて、目的の稲荷神社には宵の口から高張提灯がつけてあった。
  『それは面白かろう』
とお殿様が奥様御同伴で学習室へお出ましになった。参詣の順番は籤で定めた。
  『僕が内藤君のも一緒に引きます』
と照彦様が手を出した時、
  『一人一人お引き下さい』
と安斉先生が註文した。
  『僕達は二人です』
  『はあ?』
  『僕は内藤君が行けば行くと言いました。内藤君も僕が行けば行くと言いました。ねえ、内藤君』
  『はあ』
と正三君は澄ましていた。
  『この二人は小さいから一緒で宜しうございましょう』
と奥様がおっしゃったので、安斉さんも仕方がなかった。しかし二人は狡いことをした罰で一番に当った。
  『内藤君、君は懐(ふところ)がふくらんでいるが、何を入れているんですか?』
と黒須先生が咎めた。
  『バットです』
  『そんなものを持って行っちゃいけません。照彦様あなたも何かお匿しになっていらっしゃいますな』
  『おトンカチです』
  『いけません』
  『黒須さん、この二人は小さいから可哀そうです。持たせてやって下さい』
と奥様が又おっしゃったので、黒須先生も仕方なかった。
  照彦様と正三君は肩を怒らして出掛けたが、畑へ差しかゝった時、手を引き合って歩くことにした。安斉さんの思惑が外れて、雲っていたから、そう明るくない。物が朦朧と大きく見える。
  『君、君』
と照彦様が立ち止まった。
  『はあ?』
と正三君も足が竦(すく)んだ。


  『あれは何だろう?』
  『さあ』
  『動いているぞ』
  『杉の木ですよ』
  『あゝ、そうか、何だ。君、歌を歌いながら行こう』
と照彦様が発起した。しかし長くは続かなかった。
  『何だろう?』
  『音がしましたね』
  『あ、又した。風だ』
  『そうです。大和魂を起しましょう』
  『魂はこんな晩に飛んで歩くそうだぜ』
  『厭ですよ、そんなことをおっしゃっちゃ』
  坂道にかゝってからは提灯が見えたので少し元気が出た。間もなくお稲荷さまへ辿りついた。二人はそこに用意してあった筆を取って姓名を認めた。花岡照彦は角が多いから損だった。内藤正三は少し徳だった。しかし何方も手が震えていた。用が済んでしまうと急に怖くなった。坂道が一番淋しい。風の来る度に藪がガサガサする。下り切った時、その藪の中で、
  『ハクション』
と虎の杉山が嚔(くしゃみ)をした。二人はボールのように跳ね上った。それから畑の中を一目散に走って帰って来た。
  『占(し)まった』
と照彦様が言った。
  『何うなさいました?』
  『おトンカチを落として来た』
  『黙っていて明日の朝拾って来れば宜いです。僕も実はバットがありません。大入道が嚔をした時、放してしまったんです』
と正三君も慌てていた。
  有本さん黒須さん矢島さんと妙に先生の番が続いて、その次が照正様だった。杉山が待っているから怖くない。坂道へかゝった時、
  『杉山』
と小声で呼んで見た。
  『ワーウヽヽ』
と杉山は直ぐ側の藪の中から答えた。
  『あゝ、吃驚した。こんなところにいたのかい?』
  『はあ、上の方は怖くていけません』
  『今度は安斉先生だ。うまくやってくれ』
と照正様は打ち合わせをした。型の如く姓名を認めて、帰り途(みち)に又、
  『杉山』
  『はあ』
  『もっと上の方へ行っていろよ』
  『はあ』
  『寒いだろう』
  『風邪を引いたようです。しかし面白いです。嚔をしたら、黒須先生がひっくりかえりました』
と言いながら、杉山は又嚔をした。
  次に安斉先生が現れた。杉山は帰りに後から飛びかゝる積りだった。慌てゝ躓いたところを、
  『先生、杉山です』
と呵々大笑してやる。まさか憤りもしまいと考えていた。安斉先生は社頭に着いてから大分手間を取った。皆の署名を吟味していたのだった。やがて下駄の音が聞え始めた。杉山はやり過してから、
  『ワーウヽヽ』
と唸りながら先生の肩へ虎の前足を掛けた。その途端、先生が屈んだ。
  『エイッ』
と一声、杉山は背負い投げを食って、崖伝いに下の畑へ転げ落ちた。


  安斉先生は悠然として学習室へ戻って、
  『出ましたよ』
とおっしゃった。
  『はゝあ』
と照正様は先生の顔を凝(じ)っと見詰めた。神色自若としていた。
  『虎ですよ。ハッハヽヽヽ、崖下へ投げましたが、彼処には何かあるんでしょうか?ドブンという音がしました』
  『それは大変です』
と照常様が駈け出した。照正様も後を追った。
  『誰かいないか?杉山、杉山』
と黒須先生も狼狽して加勢を呼んだ。
  『ハッハヽヽヽ』
  『何うなさいました?』
  『ハッハヽヽヽ。ハッハヽヽヽ』
と安斉先生は椅子に捉まって笑い崩れた。

昼弁慶
  お胆試しの会は、書生の杉山が安斉老先生にお裏山の畑の肥溜へ投げ込まれて、お屋敷中の評判になった。損をしたのは伯爵だった。しかし流石にお殿様だ。
  『あの虎の皮は英国のハッチンソン卿から贈られたものだが、不浄へ落ちては仕方がない。畑を掘って埋めるが宜い。但し杉山を咎めるなよ。可哀そうじゃ。腕を折った上に、長く臭名を残すことであろう』
とおっしゃった。
  『肩へ手がかゝった時、おのれ妖怪御参(ござん)なれと、臍下丹田に満身の力を込めて』
と安斉先生はお得意だった。同じことを幾度でも話す。
  『先生、先生は杉山ってことを御存知じゃございませんでしたか?』
と照正様は念の為に訊いて見た。覚られているようだと後が恐ろしい。
  『いや、一向』
  『御老体でもお確かなものですな』
  『そこは昔鍛えた関口流です。しかし杉山と分れば、手荒いことは致しません。取押えて説諭を致すのでしたろうが、それ、虎と見て石に立つ矢の例(ためし)でございます』
  『しかし屋敷内に虎の出るわけはありません』
  『後からいきなりかゝって来たものですから、何者か分らなかったのです』
と安斉先生、この辺甚だ曖昧だった。
  『びっくりなすったでしょう』
と照正様はそれも確かめたかった。
  『いや、一向。おのれ妖怪御参なれと、臍下丹田に満身の力を込めて‥‥』
  『妖怪の出る筈もありません』
  『考えてみるとそうですが、ワーウヽヽっと唸りながら飛びかゝりましたので、人間とは思いませんでした。電光石火、エイッと一声。そこは昔鍛えた関口流です。若様、渾身これ鉄でございますよ』
と安斉さんは自慢ばかりしている。
  翌朝早々、書生部屋に杉山を訪れたのは照正様と照常様だった。杉山は腕を違えた上に腰をしたゝか打った。昨夜畑の井戸で行水を使わされたまゝ、擔ぎ込まれて未だ寢ている。無論医者の手当てを受けた。しかし丈夫な男だから、他に異状はない。
  『杉山、何うだい?』
と照正様が訊いた。


  『お蔭さまで豪い目に会いました』
  『痛むかい?腕は』
  『はあ。お蔭さまで』
  『変なことを言うなよ。万年筆を持って来たぞ』
  『戴きます』
と杉山は痛くない方の手を出した。
  『僕は腕時計を持って来たぞ』
と照常様は不用の品を筥(はこ)に入れて来た。
  『いりません』
  『何故?』
  『時計はあります』
  『それじゃ何をやろうか?』
  『何もいりません。戴きたくてお引受けしたんじゃありません』
  『しかし気の毒だ』
  『御同情して下されば、もうそれで有難いです』
  『杉山、僕と照常が頼んだことを誰にも言わないでくれよ』
と照正様はそれが心配でやって来たのだった。
  『申しません』
  『大丈夫だろうね?』
  『僕も男です。しかし若様』
  『何だい?』
  『虎の皮をあんなことにして申訳ございません』
  『あれは構わない。お父様のだから』
  『いや、それですから困るんです。僕はお屋敷を追い出されるかも知れません。昨夜富田さんに叱られました』
  『富田さんが何と言っても大丈夫だ。僕達がついている。僕達がお父様にあやまってやる』
  『けれども若様、若様方のお詫びが叶わないようなら、僕は申上げますよ』
  『無論あやまる時は僕達から申上げる。決して君に迷惑はかけない』
  『そうですか』
  『富田さんがもう一遍ぐらい叱るかも知れないが、その時言っちゃいけない。唯だあやまっていれば宜いんだ』
  『はあ』
  『お父様には分っても構わないが、安斉先生に知れると困るんだ』
  『分りました。決して申しません』
と杉山は安心したようだった。
  『杉山、時計がいらないなら、シャープ鉛筆をやろうか?』
と照常様も何かやらないと気が済まない。
  『いりません』
  『困ったね』
  『若様、その代りお願いがございます』
  『何だい?』
  『女中にお小言をおっしゃって下さい。臭い臭いと言って、少しも僕を見てくれません。僕は未だ朝飯前です』
  『よしよし。しかし君は臭いよ、実際』
  『行水だけじゃ駄目です。お風呂を命じて下さい』
  『早速言いつける』
  『杉山、実際臭いぞ』
と照正様は三尺ばかり引き下がっていた。
  『自分ではそうも思いません。もう慣れたんでしょう』
と杉山は臭いもの身知らずだった。
  『落ちるにも所がありそうなものだった』
と照常様が笑った。
  『いや、液体だったから、助かったんです。真っ逆さまでしたから、地面だったら首の骨を挫(くじ)いています』
  『安斉先生は本当にそんなに強いのかい?』
  『お強いです。力がありますぜ』
  『それにしても老人じゃないか?君が脆過(もろす)ぎたんだろう』
  『丁度背負(しょ)い投げを食うような恰好に身体を持って行ってしまって、何とも仕方がなかったんです。エーイと言われた時、もう駄目だと思いました』
  『関口流だそうだ』
  『ヤワラでしょう?柔道なら負けないんですが』
  『ヤワラも柔道も同じだよ』
  『ハッハヽヽヽ』
  『先生は君だってことを知っていたんじゃなかろうか?』
  『何とも分りませんな。僕は昨夜は無暗に嚔(くしゃみ)が出ましたから』
  『ふうむ』
  『先生は何とおっしゃっていましたか?』
  『おのれ妖怪御参なれ』
  『それじゃ大丈夫でしょう』
  『杉山、臭くて仕方がないから、もう行くぞ。大切(だいじ)にし給え』
  『有難うございました』
  『二三日寢ていれば直るだろう』
  『はあ。もう歩けます』
  『杉山、又見に来る。食事は命じて置くから、自分でお台所へ行くなよ』
と照正様は注意を与える必要を認めた。杉山はそれほど異臭を放っていたのである。
  若様方は書生部屋を出ると間もなく、女中が食事を運んで来るのに会った。
  『お藤』
と照常様が呼び止めた。


  『はあ』
  『杉山をお風呂に入れてやれ』
  『若様』
  『何だ?』
  『杉山さんは当分お屋敷のお風呂へ入れないことに皆で申合せました。とても駄目でございます』
お藤は顔をしかめた。
  『汚いからか?』
  『はあ。富田さんにも御相談申上げて、民間のお風呂へやります』
  『何処の?』
  『お銭湯でございます』
  『成程。お前達は智恵がある』
と照常様は感心した。
  次に書生部屋を見舞ったのは照彦様と正三君だった。二人は杉山が虎に化けた事情を知らない。一存でやったと信じている。
  『杉山、ひどい目に会ったね』
と照彦様が慰めた。
  『何あに』
  『君は口ばかりだ。弱い』
  『何あに』
  『安斉先生は年寄でも、関口流を知っていられるからお強い』
  『何あに。本気になれば先生ぐらいに負けやしません』
  『嘘ん気で怪我をするわけはないよ』
  『虎ですから、柔道の手が使えません。咬みつこうと思っている中に不覚を取ったんです』
と杉山は嘘をついた。
  『エイッと一声か?』
  『はあ』
  『ズデン、ドウと崖の下へか?』
  『はあ。年寄に花を持たせました』
  『何だか臭いね、この部屋は』
  『杉山さんですよ』
と正三君が言った。
  『臭い。もう行こう』
  『杉山さん、何うぞお大切に』
  『内藤君』
と杉山は呼び止めた。
  『はあ』
  『君は臆病者だぞ』
  『そんなことはありません』
  『僕が藪の中で嚔をしたら、バットを捨てゝ逃げ出したじゃないか?』
  『はあ』
と正三君は頭を掻いた。
  『あれは藪の中に匿してある。若様』
  『何だい?』
  『若様も決してお強くありませんぞ』
  『困ったな』
  『おトンカチを落として一目散』
  『もう宜いよ』
  『あれも匿してあります。僕の悪口をおっしゃると、あのおトンカチとバットを出しますよ』
  『御免だ御免だ。杉山君、お大切に』
  『杉山さん、どうぞお大切に』
と二人は早速逃げて来た。
  『内藤君』
  『何ですか?』
  『臭かったね。杉山は未だ肥料(こやし)がついているんだ』
  『洗ったけれど染み込んでいるんでしょう』
  『大きくなるか知ら?』
  『はあ?』
  『身体がさ。肥料が利いて』
  『ハッハヽヽヽ』
  『ハッハヽヽヽ』
と同情がない。杉山は照正様と照常様には忠義だけれど、照彦様を侮(あなど)る風がある。正三君に至っては眼中にない。二人はそれを知っているのだった。
  『若様』
と正三君は不安そうな顔をした。
  『何だい?』
  『お胆試しの会で安斉先生に褒められましたけれど、杉山君がバットやおトンカチのことを話すと困りますね』
  『僕もそれを考えていたところだ。彼奴(あいつ)はきっとしゃべる』
  『仕方ありません。本当は臆病なんですから』
  『僕かい?』
  『二人とも』
  『失敬だね。僕は君ほど震えなかった』
  『若様が僕の手を握ってお震えになったものだから、僕も震えたんです』
  『いや、君がブルブル震えたものだから、僕も震えたんだよ』
と照彦様は水掛論を始めた。
  『それじゃ僕だけ臆病でも宜いです』
  『僕も少し臆病さ。夜だもの。それなら宜いだろう?』
  『はあ』
  『ところで僕は好い法を知っている』
  『何ですか?』
  『杉山が寢ている中に探して持って来てしまうんだ。証拠がなければ、何と言われても大丈夫だろう』
  『しかし嘘はつけませんよ』
  『何あに。僕達がバットとおトンカチを失(なく)して来たことを皆知らなかったもの』
  『兎に角、探して参りましょう。勿体ないです』
  『直ぐ行こう』
  『はあ』
と正三君はお供した。
  おトンカチとバットは藪の中にあった。杉山も怖くて奥へ入らなかったから、探すのに面倒がなかった。
  『これで安心だ。おのれ妖怪御参なれ』
と照彦様はおトンカチを振り上げた。
  『おのれ妖怪御参なれ』
と正三君もバットを振り上げた。
  『ハッハヽヽヽ』
  『ハッハヽヽヽ』
  『杉山の投げられたところは何処だろう?』
  『もっと上でしょう』
  『行って見よう』
  『おのれ妖怪』
  『おのれ妖怪』
  『この辺でしょう?』
  『そうだ。この真下にあれがあるんだ。ハッハヽヽヽ』
  『危ないことでした』
  『関口流の大先生を驚かすなんて、杉山は馬鹿だよ』
  『余(あんま)り悧巧じゃないようです』
  『おのれ妖怪御参なれ。エイッ!』
  『おのれ妖怪御参なれ。エイッ!』
と二人は又振り上げて力み返る。昼間だから無暗に強い。
  翌々日、正三君は暮れから正月の三ヶ日へかけて、久しぶりで家へ帰ることになった。実は試験が済んで、冬休みになり次第と思っていたのだが、照彦様が放さない。もう一日もう一日と引き止める。
  『照彦や、我儘は好い加減になさいよ。内藤さんのお父様お母様は私を何んなにか勝手な人だろうと思って、きっと怨んでいらっしゃいますわ』
とお母様がおっしゃった。照彦様は漸く納得して、
  『それじゃ内藤君、お乳を飲んで来給え』
と言った。
  『はあ』
  『飲み過ぎると赤ん坊になってしまうから、四日に帰って来給え』
  『はあ』
と正三君は争わない。何と言われても帰られれば宜いと思っていた。
  『きっとだよ』
  『はあ。元日には御年賀に参ります』
  『うむ。待っている』
  『四日の朝早く帰って参ります』
  『そうしてくれ給え。お母様、僕、今日内藤君のところまで送って行きます』
  『それも宜しいでしょう』
とお母様はお許し下すった。内藤君は御機嫌の変らない中にと思って、直ぐに支度をしてしまった。
  その昼過ぎに、正三君と照彦様を乗せた伯爵家の自動車が内藤家の門前に止まった。
  『お帰り!』
と運転手が景気好く叫んだ。


  『まあまあ、正三。まあ、若様、まあ、まあまあまあ』
とお母さんは驚いた。運転手は玄関へお土産を山のように積み上げた。姉さん達が出て来てウロウロする。忠義一図の一家だから、お屋敷という声がかゝると大変だ。
  『若様、何うぞお上がり下さい』
と正三君は学友から接待役に早代りをした。照彦様は直ぐ帰る積りだったが、やはり別れが辛い。
  『それじゃ待っていておくれ』
と運転手に命じて、客間へ通った。
  『これはこれは、宜うこそお越し下さいました』
とお母さんは平身低頭して、
  『生憎と主人と次男も不在でございますから、代って申上げます。正三が長々お世話様に相成りまして‥‥』
と御挨拶を申上げる。
  『僕がお世話になりました』
  『何う仕(つかまつ)りまして、我儘ものでございますから、‥‥』
  『僕が我儘ものです』
  『今日(こんにち)は又お頂戴物を仕りまして‥‥』
  『それは僕、知りません』
と照彦様は真赤になって一々答弁した。それからお母さんが引き下がった後、
  『内藤君、僕はもう直ぐに帰るんだから、少し遊ぼう』
と向き直った。
  『何うぞ御ゆっくり』
  『いや、実は君に内証話があるんだから、ここはいけない。君の部屋があるだろう?』
  『兄さんの部屋があります』
  『そこへつれて行ってくれ給え』
  『はあ。一寸お待ち下さい』
と正三君は立って行って、お母さんに相談した。
  『そうれじゃ祐助の部屋へ御案内申上げなさい』
  『お母さんや姉さんは来ない方が宜いです。若様は余所へお出でになったことがありませんから、恥ずかしいんです』
  『でもお茶ぐらい差上げなければ』
  『いけません』
  『何故さ?』
  『そんなものを差上げれば、直ぐにお帰りになります』
と打ち合わせて、照彦様を祐助君の書斎へ通した。
  『机が二つあるね』
と照彦様は見較べた。
  『一つは僕のです』
  『内藤君、僕はこんなことだろうと思ったから、ついて来たんだよ』
  『何でございますか?』
  『君は兄さんと手紙で相談して、もう屋敷へ帰らない積りで来たんだろう?』
  『そんなことはありません』
  『でも、いもしない君の机がチャンと置いてある。座布団まであるじゃないか?』
  『若様、これは兄さんが態とこうして置くんです。僕がいなくて淋しいからです』
  『でも、大人じゃないか?』
  『大人でも僕を可愛がってくれるからです。僕がこの部屋にいる積りで、夜なんか時々、「正三」って呼んで見るそうです』
  『ふうむ』
  『兄さんは始終僕のことを考えていてくれます』
と正三君は俯向いた。
  『好い兄さんだ』
  『はあ。今に帰って来たら喜びましょう!』
  『‥‥ ‥‥』
  『若様』
  『‥‥ ‥‥』
  『何うなさいました?』
  『こゝが痛い』
と照彦様は拳で喉を叩いた。
  『何うなすったんでしょう?』
  『僕、悪かった』
  『何でございますか?』
  『君を打(ぶ)ったりしたのは悪かった』
  『あんなことはもう宜いです』
  『僕は今君のお母さんの顔を見た時、君を大切にしなくて悪かったと思った』
  『若様‥‥』
と今度は正三君の喉が詰まって来た。
  『内藤君、僕はもう我儘を言わない。その代りきっと帰って来てくれ給えよ』
  『はあ』
  『大丈夫か?』
  『はあ』
  『それじゃゲンマンをして帰る』
  『未だ宜しいです』
  『いや、もう帰る。元日に来給え』
  『はあ』
  『一日遊ぼう』
  『はあ』
  『四日の朝、僕が迎いに来る』
  『それには及びません』
  『いや、来る。さあ、ゲンマン』
  『はあ』

一家団欒
  正三君は三度目の帰宅だった。今までは一晩泊りだったが、今度は暮の二十八日から正月の四日までだから、ゆっくり落ちつける。お父さんお母さんは無論のこと、兄さんや姉さん達までお客さん扱いにしてくれる。殊に第一日の晩は、
  『正三』
  『正三や』
  『正ちゃん、正ちゃん』
と皆に取巻かれて、家庭の中心になった。
  『正三正ちゃんて、まるで正三を売りに来たようだね』
と笑った祐助兄さんも、
  『おい、正三』
と直ぐその後から言った。
  『それ御覧なさい。兄さんだって』
と妹達、即ち正三君の姉さん達に笑われた。
  『正三や、お前何か欲しいものはないかい?』
とお父さんが訊いた。
  『ありません』
  『学校道具でも買ってやろうか?』
  『宜いです』
  『何か買ってやりたいんだが、考えて御覧』
  『何もありません』
  『何かあるだろう?』
  『本当に何もないんです』
と正三君は首を振るばかりだった。
  『あなた、それはあなたが御無理ですわ』
とお母さんが口を出した。
  『正三、何か考えて見ろ』
とお父さんは買ってやりたい一心だった。
  『分らない人ね、あなたも』
  『何故?』
  『お屋敷で若様と同じにして下さるんですもの、何の不足があるものですか』
とお母さんはお父さんの心得違いを諭した。
  『宜いわね、正ちゃんは』
と君子姉さんが羨ましがる。
  『正ちゃん、何でも若様と同じ?』
と貴子姉さんは感極まったような声だった。
  『えゝ』
  『大したものね、お学友は』
  『唯だの御奉公じゃないのよ。客分ですわ』
と君子姉さんが主張する。
  『正三や、お前何か食べたいものはない?』
とお母さんが訊いた。
  『ありません』
  『何かあるでしょう?何でも拵えて上げますよ』
  『宜いです』
  『お貞や、それはお前が分らず屋だ』
とお父さんが言った。
  『何故でございますか?』
  『正三は毎日お屋敷で若様と同じ御馳走を戴いているんだもの、何の不足があるものか?』
  『あらまあ、仇討ち?オホヽヽヽ』
とお母さんは却って大喜びだった。
  『正ちゃん、お屋敷には御馳走があるでしょうね?』
と貴子さんもニコニコした。
  『あります』
  『何んな御馳走?』
  『朝と昼は日本食です。晩は洋食です』
  『晩はお殿様も御一緒ですってね?』
  『えゝ』
  『幾皿ぐらい出て?』
  『いやしいことを訊くな』
と祐助兄さんが叱りつけた。


  『宜いじゃございませんか?』
  『お前達はお屋敷というと目の色を変えるから滑稽だよ』
  『御恩になっているお屋敷ですもの。正ちゃん、幾皿?』
と貴子さんは強情だ。
  『三皿か四皿です。僕はいつでも食べ切れません』
  『大したものね』
  『しかし御馳走ばかり食べているといけません』
  『なぜ?』
  『余り贅沢になって考えが間違って来ます』
  『御馳走を有難いと思いませんの?』
  『それもありますが、照常様は試験の時に大間違いをなさいました』
  『何んな?』
  『日本人の副食物という問題にお米のことを書いて来て、「今日の試験は大当たりだ」って威張っていられました」
  『何ういうわけ?お米は主要食物じゃありませんか?』
  『それがお分かりにならないんです。お料理ばかり召し上がって、御飯をほんの少ししか戴きませんから、お米を副食物だと思っていられたのです』
  『やっぱり大したものね、伯爵家の若様は』
  『馬鹿だね、ちっと』
と祐助君が遠慮のないところを言った。
  『これ、祐助』
とお父さんが咎めた。
  『何ですか?』
  『馬鹿だなんて御無礼だぞ』
  『でも常識を欠いています』
  『いや、若様方は鷹揚にわたらせられるんだ』
  『程度問題ですよ』
  『若様方は始終皆にヘイヘイされていますから、何うしても鷹揚です。それで時折常識を欠いているように見えることもおありです』
と正三君は如才ない。お父さんの説と兄さんの説を両立させた。
  『お育ちが違うから、何うしたって鷹揚におなり遊ばす』
とお父さんは尚お主張したが、祐助君はもう黙っていた。
  『その代りお心持はお立派なものです。僕が側で聞いていて、見す見すお世辞だと思うようなことまで本当にしてしまいます』
  『御自分のお心がお綺麗だから、人を疑うことを御存じないんだ』
  『全く然(そ)うです。人が悪い考えを持っているなんてことはちっともお思いになりません』
  『余りお人柄が好過(よす)ぎても困るね。皆おベッカを使うだろう?』
  『はあ、思う通りをおっしゃるのは安斉先生だけです』
  『先生は豪い』
  『この間の試験の時、照正様は「僕は数学が百点で英語が九十点の夢を見た」とおっしゃいました。すると矢島先生は「それは結構なお夢でございます」と申上げました。これなんか見え透いたお世辞です』
  『成程』
  『しかし安斉先生はニヤニヤお笑いになって、「若様、夢は逆夢と申しますから、アベコベにならないようにお気をつけなさいませ」と御注意を申上げました』
  『流石は先生だ』
  『ところが照正様はその意味がお分かりにならないんです。「アベコベなら数学が九十点で英語が百点でしょう。宜いじゃありませんか?」とおっしゃって平気でした。僕はおかしかったのです』
  『安斉先生は何とおっしゃった?』
  『君子の心境をお持ちでございますなと感心していらっしゃいました』
  『そんなことを感心するようじゃ安斉先生も少し変だぜ』
と祐助君が又始めた。
  『いゝえ、安斉先生は別にお考えがおありなんです』
  『何ういう?』
  『御令嗣様というものは鷹揚でなければいけないと思っていらっしゃるんです。それですから照正様が点数のことなんかお話しになると、苦い顔をなすって、「若様、御自分のお書きになった御答案には必ず百点がつくものとお信じになれば、それでもう宜しい」とおっしゃいます」
  『しかし零点がついたら何うする?』
  『零点がついたら、零点で宜しいとおっしゃいます』
  『零点なら、落第するよ』
  『落第したら、落第で宜しいとおっしゃいます』
  『何でも宜しいんだね。何うせ駄目だと思っているんだろう?』
  『然うでもないようですけれど』
と正三君もこの辺はハッキリしていない。
  それからそれとお屋敷の話が続く中に、
  『正三や、元日には御年賀に上るんだろう?』
とお父さんが訊いた。
  『はあ』
  『俺(わし)と一緒に上ろう』
  『お父さん』
  『何だい?』
  『僕、欲しいものがあります。一つ考えつきました』
  『買ってやる。言って御覧』
  『名刺を拵えて戴きたいんです』
  『お安い御用だよ』
  『照彦様に御覧に入れて、びっくりさせてやるんです』
  『若様はお拵えにならないのかい?』
  『はあ、考えていらっしゃらないようですから、出し抜いてやるんです』
  『よしよし。早速誂(あつら)えてやるよ』
  『何うぞ願います。安斉先生やその他の先生のところへも伺います。富田さんにも随分お世話になっています。何ならお屋敷に住んでいる方々の処をすっかり廻りたいと思っています』
と正三君は好い心掛けだった。
  祐助君は正三君のしっかりした態度に安心した。お屋敷擦れがして、おベッカ使いになりはしまいかと案じていたが、いろいろと話して見ると、ごく天真爛漫にやっていることが分ったのである。
  『お父さん、正三もこの塩梅なら大丈夫でしょう』
と満足の意を表した。
  『初めから大丈夫さ。お屋敷へ上っていれば間違いない』
  『お殿様が分ったお方ですから、このまゝお委せしても差支えありますまい』
  『お殿様は代々明君さ』
  『奥様も御聡明なお方らしいです』
  『奥様は婦人の亀鑑さ』
  『それに安斉先生が能く正三の立場を理解して下さるから有難いです』
  『安斉先生は昔なら佐久間象山ぐらいの大人物さ』
とお父さんは素より申分なかった。忠義一図の昔気質だからお屋敷に悪いことがあろうとは信じられない。
  大晦日の前の晩に、祐助君は、
  『正三、お屋敷にいると、夜出歩くことはないだろう?』
  『ありません』
  『それじゃ久しぶりで銀座へつれて行ってやろうか?』
と申出た。
  『お供致します』
と正三君は直ぐに立ち上がった。祐助兄さんは急所を知っている。昨日は近所の活動へつれて行って労を慰めてくれた。


  年の暮の銀座は殊に賑やかだ。兄弟は人浪に押されながら歩いた。
  『これじゃたまらない』
  『しかし面白いです』
  『どうだね?若様方は銀ブラをなさらないのかい?』
  『照正様と照常様は時々土曜の晩にお出でになるらしいです』
  『照彦様とお前は駄目だね?』
  『はあ』
  『銀ブラもこれじゃ骨が折れる』
  『随分込みます』
  『寒いだろう?』
  『然うでもありません』
  『何か温かいものを飲もう』
と祐助君は正三君を資生堂へつれ込んで、ホット・ケーキと紅茶を御馳走した。こゝも込んでいた。客がドンドン入って来る。婦人が少年をつれて、
  『駄目よ。坐るところがないわ』
と言いながら、祐助君の卓子(テーブル)に近づいた。
  『やあ、内藤君』
と少年が呼んだ。
  『やあ、堀口君』
と正三君が伸び上った。
  『お掛け下さい』
と祐助君は明いていた椅子を指した。
  『恐れ入ります』
と婦人は会釈して腰を下ろした。
  『お母さん、これは同級の内藤正三君という秀才です』
と堀口生が紹介した。
  『それはそれは』
  『僕と喧嘩をした内藤正三君です。お母さんからもあやまって下さい』
  『君、君』
と正三君は困った。
  『こゝで会うとは思わなかったよ』
  『僕も』
  『花岡さんは一緒じゃないの?』
  『僕は休暇(やすみ)になってから家へ帰っている』
  『そうかい?これはしまった』
  『何だい?』
  『僕は君のところへ年賀状を出したんだよ。花岡伯爵様方として出しちゃった』
  『それで宜いんだよ、元日に御年賀に上るから』
  『君も僕のところへ年賀状を出してくれないか?』
  『出すよ』
  『僕のところは麹町三丁目三番地だ。明日出せば元日に着く』
と堀口生は熱心に言った。
  『三の三だね。覚えている』
  『君から貰えれば嬉しいんだ』
  『きっと出すよ』
  『僕は五十枚刷って皆のところへ出した。改心の年賀状だ』
  『もう仲よくしようね』
  『僕はもう悉皆(すっかり)後悔した』
  『そんな話はもう宜いよ』
  『君は今度一番だってね?』
  『何あに』
  『やっぱり豪いや。僕はビリ一だぜ』
  『君』
  『何だい?』
  『聞えるよ』
  『構わないよ。改心しても勉強しなければ駄目だ。来年から大いにやる』
  『是非やり給え』
  『僕はお母さんと二人きりだ』
  『そうだってね』
  『僕が不良になればお母さんが死ぬ』
  『君』
と正三君は持て余した。
  間もなく祐助君は、
  『それではお先に失礼致します』
と言って立ち上がった。
  『それじゃ堀口君。さよなら』
と正三君も続いた。外は例によって雑沓している。電車に乗ってから、祐助君は、
  『あれだね?不良は』
と話しかけた。
  『えゝ。しかしもう改心したんです』
  『お母さんが可哀そうだ』
  『はあ』
  『お前とあの子と話をしている間に、お母さんはホロリと涙をこぼしたよ。おれは何とも言えない気の毒な心持になった』
  『お母さんが何とか兄さんにおっしゃったようでしたね?』
  『うむ。今までは友達が悪かったんだそうだ。お前に能く頼んでくれって言っていた』
  『僕、これから堀口君と仲よくしてやります』
  『力になってやれよ。人助けだ』
  『はあ』
と正三君は堀口生のしおらしい態度が身に沁みていた。
  翌日は大晦日で家中忙しかった。大学生の祐助君は朝から障子を張り始めた。正三君も手伝って玄関のを剥がしているところへ、
  『御免下さい』
と言って、婦人客が入って来た。見覚えがあるように思ったのも道理、
  『内藤さん、昨夜は失礼申上げました』
と会釈した。堀口生のお母さんだった。正三君は奥へ駈けて行って、
  『お母さん、昨夜お話し申上げた堀口って子のお母さんが見えましたよ』
と取次いだ。


  『まあ!』
  『何うしたんでしょう?』
  『さあ』
とお母さんは小首を傾げたが、直ぐに挨拶に出て用向きを伺ったら、
  『実は甚だ申兼ねますが、伜(せがれ)のことについて折入って坊ちゃんにお願い申上げたいと存じまして‥‥』
とあった。
  『まあ、何うぞお上がり下さいませ。取り散らしておりますけれど』
とお母さんは請じる外なかった。
  『押し詰まってお邪魔でございましょうが、ほんの少時』
と堀口生のお母さんは恐縮しながら客間へ通った。
  間もなくお母さんが、
  『正三や一寸来ておくれ』
と呼んだ。正三君は客間へ入って行って、お辞儀をした。
  『内藤さん、あなたにも花岡さんにも裕(ゆたか)が一方ならぬ御迷惑をかけまして、何とも申訳ございません』
  『そんなことはもう宜いんです』
  『昨夜あれから家へ帰って、今までのことを種々(いろいろ)と打ち明けまして、ついては私からお詫びを申上げた上に、宜しくお頼み申上げてくれ、と頻(しき)りに申しますので、御無理なお願いに上がりました』
と堀口生のお母さんは詳しく話し始めた。女だから愚痴が交じって長かったが、要するに堀口生は改心したけれど、この上成績が悪いと又自暴(やけ)になるから、何とか一つ力になって貰いたいというのだった。
  『僕、何とも仕方ありません』
と正三君は照彦様一人でも手に余している。
  『唯だ打ち解けて御交際して下されば宜しいのでございます』
  『それは致します』
  『私、裕の成績について橋本先生のところへ伺いましたが、あなたのようなお方と御懇意に願ってさえいれば、自然好い方へ向きましょうとおっしゃいました』
  『そんなことはありません』
  『いゝえ、花岡さんは今度十五番もお上がりになったそうでございます。皆あなたのお力だと橋本先生がおっしゃいました』
  『正三や、お前勉強の仕方を教えて上げたら何う?』
とお母さんは得意だった。
  『僕、そんなことが出来るものですか。友達ですもの』
  『御交際をして戴く間に自然好い感化を受けますから、何うぞ一つ力になってやって‥‥』
と堀口生のお母さんは子を思う一心で、頻りに頼み込む。
  『それはきっと致します。能く御勉強なさるようにも折を見て申上げます』
  『何うぞね』
  『はあ』
と正三君が到頭引き受けたので、堀口生のお母さんは喜んで帰って行った。
  『祐助や、家の正三は豪いものね』
とお母さんは溜息をつきながら一部始終を話した。
  『結構ですな』
  『成績の神様ね』
  『ハッハヽヽヽ』
  『でも、華族様からも平民からも頼みに来るじゃないの?』
  『そんなに褒めると、ダンダン馬鹿になってしまいますよ』
と祐助君は笑いながら障子を張り続けた。

明るい年頭
  元日の朝、正三君はお屋敷の内玄関へ上がると直ぐに、照彦様のお部屋へ急いだ。廊下で家令の富田さんに会ったので、年頭の礼を申述べた。それから周囲を見廻しながら、
  『照彦様』
といきなり襖を開けて覗いた時、
  『お芽出度う!』
と叫んで、照彦様が内から突進したものだから、鉢合わせになった。
  『痛い!』
  『お芽出度う!』
  『新年お芽出度うございます』
  『僕が勝った』
  『今年も相変らずお願い申上げます』
  『あゝ、相変らず。君、僕が勝った』
  『若様はお狡いです。匿れていらっしゃるんですもの』
と正三君は不服だった。西洋では新年の挨拶は早く言い出した方が礼節上の勝利者になる。その話を英語の先生の矢島さんから聞いて二人ともひそかに心掛けていたのだった。
  『ハッハヽヽヽ。僕は鼻を打った』
  『私は口です。それだから言い後れたんです』
  『僕は先に君を見つけた。君が廊下で富田さんと話していた時、占めたと思って匿れたんだ』
と照彦様は得意だった。
  『僕は学習室の方ばかり用心していたんです』
  『嬉しいなあ。元日早々勝っちゃった』
  『しかし若様は新年とおっしゃらなかったです。唯だお芽出度うじゃ何のことか分りません』
  『それは、君、狡いよ。元日にお芽出度うと言えば、新年のことは分っている』
  『それじゃこれは僕の負けとして置きましょう』
  『当り前さ。僕の方は先に二度も言っているんだもの。君、相変らず頼むよ』
  『何うぞ宜しく』
と正三君はニコニコしながら、懐(ふところ)へ手を入れて、
  『若様、手前はこういうものでございます。ヘッヘヽヽヽ』
と名刺を取出した。


  『どっこい』
と照彦様は飛び退いて、グルリと廻ったと思うと、
  『僕もこういうものだよ。ハッハヽヽヽ』
とやはり名刺を突きつけ、
  『おやおや』
  『君もこしらえたのかい?』
  『はあ。若様に御覧に入れて、羨ましがらせて差上げる積りでした』
  『その手は食わない。僕こそ君がこしらえるといけないと思って、態と黙っていたんだ』
  『何うもお狡いですな、若様は』
  『君だって抜け目がないよ』
  『ハッハヽヽヽ』
  『ハッハヽヽヽ』
と二人は名刺を交換した。この年頃は何でも大人の真似がして見たい。
  『若様のは金縁ですな』
  『うむ。それから裏を見給え。エヘン』
  『はゝあ。羅馬(ローマ)字ですね』
と正三君は感心して、
  『これは僕が負けました』
と言った。
  『何あに、アイコだよ』
  『でも僕のは較べものになりません』
  『いや、君のは肩書きがついている。やっぱり学校のことを忘れないから豪い』
と照彦様は数日別かれていた懐かしさが手伝って、極上の御機嫌だった。正三君の名刺には◯◯中学校生徒としてあった。
  『お兄様方は?』
  『学校へ行かれた。式がある』
  『それでは一寸奥へ伺って参ります』
  『一緒に行こう。あゝ、忘れた』
  『何でございますか?』
  『君のところへ年賀状が来ている』
  『堀口からでしょう?』
  『能く知っているね』
と照彦様は机の引出から取出した。他に松村君と高谷君と細井君のがあった。堀口生のは特に紹介に値する。
  改心の御慶芽出度く申納め候。旧年中は御無礼御免下さい。僕は改心しましたが、成績の方は矢張りビリ一です。変だと思って、橋本先生のところへ聞きに行ったら、改心しても勉強しなければダメだそうです。先生は私のいけないワケと勉強の仕方を色々と話して下さいました。新年と共にホントに一生懸命になりますから、何卒御信用下さい。
        麹町区麹町三丁目三番地
                          堀口 裕
  追って私は堀口改心勉強入道と綽名をつけますから、何卒々々宜しく。
入道というのは後悔したシルシであります。

  『勉強入道は面白いですね』
と正三君は笑ったが、思い当たるところがあった。
  『馬鹿だよ、やっぱり』
  『自分で綽名をつける人間もないものです』
  『滑稽な奴さ』
  『しかし改心は本当です。僕は一昨日の晩銀座で会いました』
  『堀口にかい?』
  『はあ。それから昨日の朝、お母さんが僕の家へ来ました。
  『ふうむ』
  『堀口は本当に改心しているから頼むというんです』
  『君は何と言ったい?』
  『仲好くする約束をしました。泣くんですもの、お母さんが』
  『可哀そうだな。不良は親がたまらないってね』
  『しかしあれぐらい後悔していれば大丈夫でしょう。もう悪いことはしませんよ』
  『あれから実際善くなった』
  『僕は高谷君や細井君にも話して、堀口がもっと勉強できるようにしてやりたいと思っています』
  『僕も賛成だ。君は返事を出すか?』
  『もう出しました。年賀状を出したから、僕からもくれと言ったんです』
  『それじゃ僕も出そう』
  『若様、一寸奥へ伺って参ります』
  『僕も行くよ』
と照彦様がつれ立った。
  丁度奥様とお姫様(ひいさま)が御一緒だったので、正三君はお二方に御年賀を申上げた。奥様はお忙しい中にも、
  『内藤さん、照彦はあれから毎日指折り数えて、あなたをお待ち申上げていましたのよ。相変らず面倒を見て上げて下さいませ』
と有難いお言葉を賜った。
  『内藤さん、一寸』
とお姫様がおっしゃった。
  『はあ』
  『あなたがお出でにならないと、照彦はいたづらばかりして困りますのよ』
  『嘘ですよ』
と照彦様は否定した。
  『それじゃ申上げましょうか?』
  『まあまあ、堪忍してお上げなさい。お正月早々』
と奥様がお制しになった。何か問題があったと見える。
  『内藤君、もう宜いんだ』
と照彦様が引っ張った。
  『それでは』
と正三君は行儀を正して退出した。
  学習室の方へ廊下を辿りながら、
  『内藤君、今日はいつまでいてくれる?』
と照彦様が訊いた。
  『昼過ぎまでお邪魔申上げます』
  『そうしてくれ給え。僕は君に見せるものがある』
  『何ですか?』
  『書いたものだ。君はきっと喜んでくれる』
  『是非拝見致します』
  『部屋へ来給え』
  『はあ。しかし僕はまだ先生方のところへ御年賀に上らなければなりません』
  『僕も行こう』
  『お供致しましょう』
と正三君はもとより望むところだった。
  二人はお庭へ下りた。安斉さん初め先生方は皆お屋敷内に住んでいるから都合が好い。
  『君』
  『何ですか?』
  『四日にはきっと帰ってくれ給えよ』
  『はあ』
  『朝からね』
  『はあ』
  『四日の晩は面白いんだぜ』
  『楽しみにしています』
  『去年はお父様に箒が当って大笑いだった』
  『はゝあ』
  『君は福引を考えたかい?』
  『あゝ、忘れていました』
  『僕は考えたよ』
  『何なのですか?』
  『安斉先生ってのさ』
  『何ういう意味です?』
  『薬罐頭さ。景品に薬罐を出す』
  『それはお悪いですよ』
  『お兄様方も宜しくないから考え直せとおっしゃった。しかし好いのがなくて困る』
と照彦様は首を傾げた。
  花岡伯爵家では二日が正式の御年礼で、お殿様が旧藩士を御引見なさる。四日の晩は新年会と称して、お屋敷内のものが集まる。女中や書生の果てまでだから、ナカナカの大人数になる。お出入りの講釈師が来て、御先祖の軍談を一席弁じる。教育映画もある。しかし一番の呼びものは福引だ。家令の富田さんがその係りを承わる。お殿様初め我と思わんものから種を集めて品物を買い揃える。註文が千差万別だから、新年早々一仕事のようだ。富田さんの判定によると、お殿様が毎年一番好い種をお出しになる。これはお閑(ひま)で、御ゆっくり御工夫なさるからだろう。尤もお殿様の御着想を拙いなどとは申上げられない。
  『何でも宜いんですね?』
  『うむ』
  『後で考えましょう』
と言った時、お裏山へ行く道を横切ったので、正三君はお胆試しの会の出来事を思い出した。
  『若様』
  『何かあるかい?』
  『いや、この道ですよ。怖かったですな』
  『君が震え始めたところだよ』
  『若様、杉山は何うですか?』
  『もう臭くないよ』
  『怪我はなおったんですか?』
  『ピンピンしている。丈夫な奴だよ』
  『それは宜かったですな』
  『しかし彼奴はいかん』
  『何故ですか?』
  『僕達のことを女中達にしゃべった』
  『おトンカチとバットの一件ですか?』
  『うむ。皆知っている』
  『しかし本当だから仕方ないです』
  『それでも失敬だ。僕は杉山を福引にしてやろうかな』
と照彦様は又考え込んだ。
  間もなく安斉先生の玄関に着いて、
  『御免』
と正三君が声をかけた。
  『君、駄目だよ』
  『何故ですか?』
  『年賀ってものはコッソリ名刺を置いて逃げるものだ』
と照彦様が言った時、
  『いや、然ういうものじゃございませんぞ』
と障子を開いて、安斉さんが現れた。


  『新年‥‥』
  『お芽出度う‥‥』
  『‥‥ございます』
と二人は大いにあわてた。
  『お早々と恐縮です。さあ、何うぞ此方(こちら)へ』
  『‥‥ ‥‥』
  『さあ。さあさあ』
と安斉先生は頻りに請じる。二人は仕方なしに上り込んだ。
  先生から改まって鄭重な御挨拶があった。続いて奥さんが出て来て、
  『これはこれは、若様と内藤様、旧年中は‥‥』
と頗る長かった。二人は中途で幾度も頭を上げて見て、又下げた。
  『さあ、若様』
と安斉先生は照彦様だけに座布団を薦めた。御自分も畳の上にいる代り、正三君には沙汰がない。君臣の分の堅い人だ。
  『お寛ぎ下さい』
  『はあ』
  『お正月ですから、お小言は申上げませんぞ』
  『はあ』
  『何か面白いお話を致しましょうか?』
  『はあ』
  『一日の計は朝にあり。一年の計は元日にあり』
と諺が出た時、照彦様は、
  『先生』
と呼んだ。
  『何でございますか?』
  『先生は新年会のお福引をお考えになりましたか?』
  『考えましたよ。苦心惨憺です』
と安斉先生は何か軽い話題の欲しい折から、丁度好いことにして、
  『若様は如何でございましたか?』
と膝を進めた。
  『僕も考えたんですが、お兄様に申上げたら、落第でした』
  『何ういう御趣向でございました?』
  『さあ、拙いんです。申上げるほどのものではございません』
と照彦様はごまかした。まさか先生の頭だとは言えない。
  『それでは一つ御伝授申上げましょうか?』
  『何うぞ』
  『私のは少しむづかしいかも知れませんよ。曰く、王者にして、その声天地に遍く、その姿得て捕捉すべからず』
  『先生、大変むづかしいです』
  『やさしく申上げます。その声天地に遍く、その姿捕捉すべからざる王者』
と安斉さんは言い直してもほぼ同じだ。元来人間がむづかしく出来ている。
  『そんなに長いものですと、富田さんが及第にして下さいません』
  『それではもっと通俗啓蒙的に表現致しましょう』
  『先生、むづかしくなるばかりでございましょう』
と正三君が笑いを忍んだ。安斉先生は少時考えた後、
  『それではこう致しましょう。国の果てまで声の届く王様』
  『はゝあ』
と照彦様も今度は文句だけ分った。
  『国の果てまで声の届く王様。如何でございますか?』
  『それぐらいの長さなら丁度宜いんですが、何ういう意味でございますか?』
  『まあ、お考えになって御覧なさい。内藤君も一つ』
  『はあ』
  『国の果てまで声の届く王様ですぞ。王様、王様』
と安斉先生は王という字を指で頻りに空中へ書いた。
  『日本ですか?西洋ですか?』
と照彦様は手がかりを求めた。
  『日本は皇国でございますぞ。王様といえば、支那か西洋に相場が定まっています』
  『昔の王様でございますか?』
  『いや、昨今の王様で西洋生まれです。未だお年が極くお若い』
  『先生、私達は一年生ですから、西洋歴史を習っておりません』
と正三君は持て余した。
  『歴史に関係はありません。あなた方は能く御存じの筈ですよ。日本にも来ています』
  『日本に?』
  『はあ』
  『分りませんなあ』
  『先生、僕も降参です』
と二人は兜を脱いだ。
  『それでは申上げましょう』
  『何うぞ』
  『ラヂ王ですよ』
  『はあ?』
  『ラヂオ、即ちラヂ王です』
  『成程』
  『その声天地に遍く‥‥』
と安斉先生はお得意だった。
  『先生、これは実にうまいです』
  『ハッハヽヽヽ』
  『僕、頂戴致します』
  『差上げましょう』
  『有難うございました。お兄様方をびっくりさせて上げます』
と照彦様は大喜びをした。
  二人は間もなく安斉先生の面前を辞して、矢島さん有本さん黒須さんと順次に廻礼を済ました。これは皆名刺の配達だった。お部屋へ戻った時、照彦様は、
  『内藤君、僕はもう去年の僕と違う積りだよ』
と言った。
  『何ういう意味ですか?』
  『勉強する。こゝで君と約束する』
  『それは何より有難いです』
と正三君はお辞儀をした。
  『君が帰ってから、僕は毎晩君の夢を見た』
  『はゝあ』
  『大抵僕が落第して君が泣く夢だ』
  『厭なお夢でございますな』
  『君、これを見てくれ給え』
と照彦様は新しい日記帳を拡げて突きつけた。
  『拝見しても宜しいんでございますか?』
  『うむ。僕の心が書いてある』
  『それでは』
と正三君は受け取った。
  一月一日。晴。昨夜又夢を見た。やっぱり落第の夢だ。内藤君が泣いた。僕は怒って、
  『おい、泣くな』
とおトンカチで撲った。内藤君は直ぐに死んでしまった。僕は泣き出して、内藤君にかじりついた。目が覚めたら、それは枕だった。しかし何とも言えない厭な心持がした。
  僕が落第すれば、内藤君が泣く、泣くばかりじゃない。死ぬかも知れない。大変だ。これは夢じゃない。
  僕は此年(ことし)から本当に本気になって勉強する、もう決して我儘を言わない。
  これは内藤君が来たら約束しようと思う。内藤君は本当に心配してくれる。家へ帰っていても夢にやって来る。僕は内藤正三を兄さんと思えば宜いんだ。

頑張れ頑張れ
  学校が始まって、照彦様と正三君は又忙しくなった。もっとも他の若様方も同様である。安斉先生が相変らず厳しいから、予習と自習で夜分は殆ど暇がない。それに当分の間柔道の寒稽古がある。これは早朝未明からだから苦しい。
  『厭になってしまうなあ』
と照彦様は不平を鳴らし始めた。
  『何でございますか?』
と正三君が訊いた。もうソロソロ愚図をおっしゃる時分と覚悟していたのである。
  『僕のところは正月でも面白いことがちっともない』
  『新年会が面白かったじゃございませんか?』
  『あれっきりさ』
  『活動へもつれて行って戴きました』
  『あれは当り前だよ。学校の友達は月に二度ぐらい行っている。僕達は年に一度じゃないか?』
  『カルタ会もありました』
  『正月は何処にだってある。あんなものは女に負かされるから詰まらない』
  『柔道を毎朝習っています』
  『あれは勉強だよ。遊びの足しにならない』
  『まだ何かありました』
  『あるものか。僕のところは駄目だよ。正月でもふだんと同じことだ』
  『もうお正月は済みました』
  『未だ正月だよ。一月中は正月だ』
  『理屈をおっしゃれば、それに違いありませんが、七草までがお祭りのお正月で、それから後は唯だのお正月です』
  『君こそ理屈を言っているよ』
  『そうじゃありませんけれど、これが何処でも当り前です』
  『何が?勉強ばかりするのがか?』
  『はあ』
  『もう宜いよ』
  『お分かりになりましたか?』
  『分らん』
  『困りましたな』
  『皆で寄ってたかって僕に勉強ばかりさせる。本当に忠義な奴は一人もいない』
  『若様』
  『知らん』
  『元日のご決心をお忘れになりましたか?』
  『知らん』
  『本気になって御勉強なさるお約束でした』
  『あれはあの時一寸そんな気になったんだ。もう夢なんか見ないからかまわない』
  『若様』
  『知らん』
  『それなら僕も知りませんよ。若様が中から上で御進級なさらなければ、僕は家へ帰ってしまうお約束でした』
  『君のはいつも驚かしだ。本当に帰らないから大丈夫だよ』
と照彦様は到底三日坊主を免れない。もうソロソロ勉強が苦しくなった。
  正三君は相変らず若様の御指導に一生懸命だ。秋からの努力が多少効果を奏したので、励みがついている。尚お新年早々お殿様のお目にかゝった時、特別に有難いお言葉を頂戴した。


  『内藤は今日からかな?』
  『はあ』
  『早々と御苦労だな』
  『はあ』
  『今年も頼む』
  『はあ』
  『来年も頼む』
  『はあ』
  『再来年も頼む』
  『はあ』
  『ハッハヽヽヽ。果てしがないな。照彦は卒業次第英国へやる積りだが、その時も頼む』
  『はあ』
  『奥も私(わし)も若(わか)が一人殖えたと思っている』
とおっしゃって、お殿様は頭を撫でて下すったのである。若とは若様のことだ。正三君たるもの感激せざるを得ない。
  照彦様は楽なことがお好きで、苦しいことがお嫌いだ。これは誰でもそうだけれど、程度による。照彦様のは極端だ。正三君は半年近くお学友を勤めて、こゝに照彦様の弱点があると覚った。例えば二人でピンポンをやっていても、照彦様は落ちた玉を拾わない。
  『落ちたよ』
とおっしゃる。正三君が拾って、又始める。
  『又落ちた』
  『はあ』
  『そらそら』
  『はあ』
と正三君は二人前働かなければならない。勝負が御自分の思い通りに行く間、照彦様は幾らでも続けるが、負けがこんで来ると、御機嫌が悪い。苦しいことはお嫌いだ。
  『もうよそう』
  『はあ』
  『つまらない』
とラケットを台の上へ投(ほう)り出す。正三君は後片付けをしなければならない。
  大弓場へ行って弓を引いている間もそうだ。照彦様は楽なことだけをする。即ち射るばかりで、矢を拾いには決して行かない。
  『若様、今日は少し当りがお悪いですな』
  『何あに、君には負けない』
  『僕はもう二本当てました』
  『僕は三本当てているよ』
  『僕は矢数が少ないんですもの』
と正三君は拾いにばかり行くので、半分しか射る間がない。
  『そんなことを言うなら、考えがあるぞ』
  『何ですか?』
  『矢を取りに行っている時、射ってやる』
  『冗談おっしゃっちゃ困ります』
  『君の頭を射貫けば、まさか当りが悪いとは言うまい』
  『僕はもう取りに行きません』
  『大丈夫だよ』
  『いや、紛れ当りってことがあります』
  『失敬な』
  『ハッハヽヽヽ』
  『それじゃ二人で十本宛(づつ)と定めて腕競(うでくらべ)をしよう』
と照彦様が発起する。正三君は素より望むところだ。尋常の勝負となれば、お相手も張合がある。こう持ちかけないと、拾いにばかり行かされて、楽なことが出来ない。正三君だって当り前の子供だ。苦しいことが天性特別好きな筈もない。
  さて、学期初めの問答に戻る。
  『照彦様』
  『何だい?うるさいじゃないか?』
  『僕、若様のおっしゃる通りです』
  『何が?』
  『帰りません。帰るというのは驚かしです』
  『見給え』
  『その代り今年からは頑張ります』
  『頑張る?』
  『はあ』
  『今までだって随分頑張っているよ、君は』
  『もっと頑張ります。僕はもう逃げないで、いつまでもお側にいて御忠義を尽くします』
  『どんな忠義だか言って見給え。間違った忠義じゃ迷惑する』
  『安斉先生と同じ御忠義です』
  『安斉先生は昔の人だから、色んな忠義を尽くしている。どの忠義だ?』
  『若様が元日の御決心通り御勉強なさるような御忠義です』
  『ふうん』
  『いけませんか?』
  『君はその忠義を尽くしに来たんだから仕方がない。しかし僕が勉強しなければ、どうする』
  『さあ』
  『帰るんだろう?矢っ張り』
と照彦様は実はこれが一番怖いのだ。
  『いや、帰りません』
  『それじゃ約束し給え』
  『帰らないお約束でございますか?』
  『うむ。僕が我儘を言っても帰らないって』
  『帰りません。お約束します』
  『僕は憤った時、「帰れ」って言うかも知れない。それでも帰るなよ』
  『はあ』
  『男子の一言だぞ』
  『はあ』
  『こう約束してしまえば占めたものだ』
  『何故ですか?』
  『僕は怠けるかも知れない』
  『それじゃお約束が違います』
  『君は帰らない約束をしたけれど、僕は勉強する約束なんかしやしない』
  『いや、なさいました。正月の一日になさいました。僕に日記をお見せになって、此年から本気になって勉強するとおっしゃいました』
  『あれは決心だよ。約束じゃない』
  『いや、内藤が来たら約束しようって確かに書いてありました』
  『書いてない』
  『僕は覚えています』
  『覚え違いだろう』
  『それじゃもう一遍拝見させて戴きます』
  『日記は人に見せるものじゃないよ』
  『若様はお狡いです』
と正三君は口惜しがった。
  『僕には僕の考えがある。少しは勉強するけれど、君の言う通りには出来ない』
  『‥‥ ‥‥』
  『内藤正三位』
  『知りません』
  『僕は正三位よりも智恵があるから、計略が巧いんだ。もう帰らない約束をさせてしまった。どうだい?』
  『‥‥ ‥‥』
  『可哀そうだから、少しは勉強してやるぞ』
と照彦様は自分の修業を人事のように思っている。
  『しかし生意気を言えば、自習もしてやらない。学校も休んでやる。正三位、君はどうする?』
  『切腹します』
  『御短慮、御短慮』
  『実はこうするんです』
と正三君はいきなり照彦様に組みついた。
  『何をする』
  『腕力です』
  『負けるものか』
と照彦様は争ったが、不意を食らっているから敵わない。直ぐに押し倒されてしまった。
  『さあ、どうですか?』
  『よせよせ』
  『よしません』
  『痛いよ』
  『お首を締めます』
と正三君は習い覚えた柔道の手を応用した。
  『苦しい苦しい』
  『御忠義です』
  『そんな忠義はない』
  『御勉強なさいますか?』
  『しない』
  『さあ』
  『苦しい』
  『どうです?』
  『うゝんうゝん』
  『さあ、御返辞を伺います』
  『‥‥ ‥‥』
  『これでもですか?』
  『参った』
と照彦様は畳を叩いた。
  『唯だ参ったじゃ分りません』
  『放せ』
  『放しません』
  『畜生!内藤正三位!』
  『何ですか?』
  『うゝんうゝん』
  『御返辞を伺います』
  『参った参った』
  『御勉強なさいますか?』
  『するする』
  『本当ですか?』
  『本当だ』
  『それじゃ放します』
と正三君が手を弛めた時、照彦様はワーッと泣き出した。
  『若様、御免下さい』
と今度は御介抱だ。照彦様は大の字なりに寢たまゝ、幾ら起しても起きない。態と声を立てゝ泣く。この騒ぎに、照常様がお部屋から出て来て、
  『どうした?照彦』
と無論正三君に嫌疑をかけた。
  『申訳ありません』
  『喧嘩か?』
  『いゝえ』
と正三君は首(こうべ)をうなだれた。
  『照彦、起きろ』
  『はあ』
と照彦様は起きるや否や、
  『こん畜生!』
と正三君を撲りつけた。
  『こら!』
と照常様が取押える。力が強いから、照彦様は幾ら暴れても仕方がない。
  『エヘン』
と咳払いの音が聞えて、安斉先生が学監室から現れた。
  『どうなさいましたかな?』
  『二人で喧嘩です。馬鹿な奴等です』
と照常様は大人ぶった。
  『いゝえ、僕が何もしないのに、内藤君がいきなりかゝって来て首を締めたんです』
と照彦様が泣きながら訴えた。
  『内藤君』
  『はあ』
  『それでは君は若様にお手向かいを申上げたのですか?』
  『はあ』
  『不都合千万』
  『申訳ございません』
  『一寸学監室へお出でなさい』
と安斉先生は怖い顔をして先に立った。


  正三君は学監室へついて行って、先生と向き合った時、涙をホロホロこぼして、
  『先生、申訳ありません』
と面(おもて)を掩(おお)った。
  『宜しいよ、坐りなさい』
と安斉さんは小声でおっしゃった。
  『‥‥ ‥‥』
  『俺(わし)はこゝから覗いていた。すっかり聞いていた。御忠義の為めよんどころない』
  『はあ』
  『叱りはしない。坐りなさい』
  『はあ』
  『お薬になりますよ』
  『はあ』
と正三君は涙の中にも嬉しかった。
  『不都合千万!』
と安斉先生は忽ち大声を立てた。
  『はあ?』
  『宜しいよ』
  『はあ』
  『それぐらいのことで若様にお手向かいするようではお相手が勤まらん』
と又声を張り上げる。学習室にいる照彦様と照常様に聞かせる為めだ。
  『‥‥ ‥‥』
  『君、君たらずと雖も‥‥内藤君、心配はいらんよ』
  『はあ』
と内藤君は漸く意味が分った。
  『不都合千万!』
  『‥‥ ‥‥』
  『そういう料簡ではお相手が勤まらん。明日と言わぬ。今日唯今。帰りなさい。さあ。帰りなさい。自分の家へ帰りなさい』
と安斉先生は破(わ)れ鐘のような声を立てた。
  『先生』
と照彦様が学監室へ飛び込んだ。
  『何でございますか?』
  『僕が悪いんです』
  『いや、若様にお科(とが)はありません。内藤君』
  『はあ』
  『お殿様や奥様へは俺から申上げます。荷物は後から届けます。お父さんへ手紙を書いて上げるから、学習室で少時待っていなさい』
と安斉先生はお芝居がお上手だ。
  『はあ』
と正三君もボンヤリしていられない。幸い有難涙が両眼に溢れている。悄然として立ち上がった。
  『内藤君、待ってくれ給え。先生、先生』
  『何でございますか?』
  『僕が初め冗談半分に嘘をついたのです。それで内藤君が本気になったのです』
と照彦様は正直なところを大略(あらまし)申立てた。
  『それにしても、若様に組みつくという法がありますか?』
  『僕が内藤正三位と言って、馬鹿にしたんです』
  『内藤君、何故君は早く若様にお詫びを申上げない?』
と安斉先生が促がした。
  『若様、申訳ございません。僕は初めは冗談の積りでした』
  『僕が悪かったんだ』
  『いや、僕こそ御無礼申上げました』
  『宜いんだよ。もう、君。帰らなくても宜いんだ。僕の部屋へ来給え。先生、もう仲を好くします。失礼申上げました』
と照彦様は正三君の手を取って学監室から出た。安斉先生は崩れかけた相好を正して、沈黙を守っていた。
  正三君は行きがかりもあったが、強薬(つよぐすり)の必要を感じていた。御機嫌ばかり取ってお相手をしていては若様の成績がおぼつかない。お殿様に頼まれて以来、特別に発憤して、機会を待っていたのである。予定の行動だったから、もう下から出ない。照彦様の部屋へ行った時、
  『頑張れ頑張れ』
と思って度胸を据えた。
  『内藤君、君、君』
と照彦様は慌てゝいた。
  『何でございますか?』
  『君は帰らない約束だったね』
  『帰りません』
  『それじゃもう仲直りをしよう』
  『唯じゃ厭です』
と正三君は首を振った。
  『何を上げようか?』
  『何にもいりません』
  『それじゃ困る』
  『お約束をして下さい』
  『よし。勉強する』
  『それだけじゃ厭です』
  『先刻(さっき)はそれだけで宜かったんじゃないか?』
  『僕はもう御遠慮しません。御忠義を尽くす決心ですから、何処までも頑張りますよ』
  『それじゃどうすれば宜いんだ?』
  『一体、若様はお考えが間違っています』
  『何?』
と照彦様は又顔色を変えたが、思い直して、
  『間違っているところを教えてくれ給え』
と直ぐに穏やかな態度を取った。
  『若様は苦しいことがお嫌いです』
  『それはそうさ』
  『楽なことばかりお好きです。それだからいけないんです』
  『‥‥ ‥‥』
  『これからは苦しいことを平気でやるようにお約束して下さい』
  『それは無理だよ』
  『無理じゃありません。我慢をすれば、苦しいことが楽になります』
  『‥‥ ‥‥』
  『僕はもうお世辞を使いません。若様は今まで通りじゃ迚も駄目です』
  『苦しいことというと、勉強ばかりじゃないね』
  『沢山あります』
  『僕は損をした』
  『何故ですか?』
  『先刻は勉強だけだったもの』
  『苦しいことを平気でなさるお約束をして下さらなければ、僕はもう厭です』
  『帰るかい?』
  『帰りません。しかし僕はもう御遠慮しない決心ですから、又先刻のようなことになって、安斉先生に追い出されてしまいます』
  『それじゃ困る』
  『照彦様』
  『何だい?』
  『僕は帰って家から学校へ通う方が楽です。お屋敷へ上ったばかりの頃は毎晩寢てから泣いていました。黙っていましたけれど、苦しかったです』
  『‥‥ ‥‥』
  『それでも頑張っていたものですから、今では何ともありません』
  『‥‥ ‥‥』
  『若様も頑張らなければいけません』
  『分ったよ』
  『お約束して下さいますか?』
  『うむ、僕も頑張って見る』
  『頑張れば苦しいことが楽になります』
  『うむ』
  『それじゃ先刻のことは御免下さい』
  『僕も君を撲ったのは悪かった』
  『お互いです。しかし僕はこれから頑張りますよ』
  『僕も頑張る』
と主従は和解が成立した。

石炭泥棒
  授業が済んで先生の姿が戸口に消えるか消えないに、生徒達はストーブの側へ駈け寄って、早いもの勝ちに温かいところへ陣取る。休憩時間は運動場へ出なければいけないのだが、戸外(そと)は寒い。毎日空っ風が吹いて、砂塵を巻き上げる。
  『先生、僕は喉を痛めています』
  『宜しい』
  『先生、僕は風邪を引いています』
  『宜しい』
  『先生、僕は流感が直ったばかりですから』
と病人の出ることおびただしい。先生も天候次第で大目に見てくれる。
  このストーブを取囲んで話すのをストーブ会議と称する。クラス会みたいなものだ。先生がついていないだけに、遠慮がなくて好い。十分の休憩時間が惜しいくらいに早くたってしまう。有難いのは雨の日の昼休みだ。天下晴れて語り合う。
  しかし学校では昼から石炭を倹約する。十一時の休憩時間に小使の関さんが武蔵坊弁慶のような恰好をして入って来る。兵隊上りの名物男だ。石炭を持っている時は殊に評判が好い。
  『関さん』
  『関上等兵』
  『関閣下』
なぞと皆御機嫌を取って、
  『沢山入れてくれ給え』
と頼む。
  『よしよし』
と関さんは煽(おだ)てに乗って、思いさま入れて行く。その代わりにもう廻って来ないから、昼休みにはいつもトロ火になっている。ストーブの火力が弱ると、皆の気焔も衰える。
  『不景気だなあ』
と悲観した果てが、
  『誰か行って来いよ』
と相談を始める。小使部屋の物置に石炭が貯蔵してある。大きなのを一塊(ひとかたまり)持って来るとさしあたり凌げる。
  『君、行け』
  『厭だよ、関さんに捉まるよ』
  『意気地のない奴だな。大西君、君、行って来い』
  『御免だ。僕は関さんに追っ駈けられた』
  『堀口君はどうだ?』
  『おれは改心だ』
  『皆話せないな。誰か度胸の好い奴はないか?』
  『君、自分で行け』
  『僕は一遍取っ捉まったんだ』
  『いつ?』
  『この間、関さんは力があるからね。もう少しで教員室へ引っ張られるところさ』
  『危ない危ない』
と皆関さんを恐れている。もう一人の小使はヨボヨボの爺さんだけれど、関さんは兵隊上りで腕っ節が強い。大の力自慢だ。時に軍隊精神を説いて生徒に意見をする。四年生でも五年生でも容赦ない。喧嘩なぞしていると、直ぐに取っ捉まえて教員室へ引っ張って行く。
  或日の午後、晴天にも拘わらず、級(クラス)の半数ばかりが教室に居残って、ストーブ会議をやっていた。先生が廻って来て、
  『皆運動場へ出る』
と注意した時、一同蜘蛛の子を散らすように逃げ出したが、間もなく尾沢生と橫田生と篠崎生がコッソリ引き返して来た。堀口生が改心して以来、この三人が級の不良組を代表している。
  『おい、橫田』
と尾沢生が目をクリクリさせながら言った。活動で見たアメリカの悪漢の真似だ。
  『何だい?』
  『いゝことを考えたぞ』
  『珍しいね。折角お天気が続いているのに、明日雨が降るぜ』
  『馬鹿にするなよ』
  『一体何だい?』
  『例の復習だ。君だって去年の恨を忘れはしまい』
  『しかし迚も駄目だよ。堀口が彼方(あっち)へついてしまったもの』
と橫田生は諦めているようだった。
  『君は意気地がないね』
  『しかし彼方は大勢だ』
  『何人いたって構わないよ』
  『よせよせ、喧嘩口論すべからず』
と篠崎生も懲りていた。
  『それならいゝよ』
と尾沢生は又目をクリクリさせた。
  『‥‥ ‥‥』
  『これじゃ友達だか何だか分らねえ』
  『‥‥ ‥‥』
  『おれが一人でやらあ』
  『何をやるんだい?』
と橫田生が訊いた。そうそう黙っていられない。
  『何でもいゝよ』
  『憤ったね』
と篠崎生も少し気の毒になった。


  『余り意気地がないからさ』
  『しかし多勢に無勢だぜ』
  『何人いたって構わないよ。一人やっつければいゝんだ』
  『正三位かい?』
と橫田生も追々引き込まれる。
  『そうさ』
  『しかし強いよ。高谷と細井がついている』
  『いや、喧嘩をしないでとっちめるんだ』
  『何か法があるのかい?』
  『それを考えついたんだ』
  『どうするんだい?』
  『花岡に恥をかゝせてやる。君辱められゝば臣死す。正三位、切腹するぜ』
  『まさか』
  『本当に腹を切らなくても、正三位は花岡の成績が悪いと、学友が免職になるんだそうだよ』
  『しかし好かったんだぜ、今度は』
  『あれは贔屓があるんだ』
  『僕もそう思っている』
  『当り前さ。英語の秋山先生は花岡の家来だもの』
と篠崎生が主張した。
  『いくら先生が贔屓しても、悪いことをすれば、操行点が下がる』
  『それはそうだけれども』
  『いゝことがあるんだよ』
  『何だい?』
  『これから花岡を石炭取りにやって関さんに取っ捉まえさせる』
  『成程』
  『此奴(こいつ)は面白い』
と二人とも乗り出した。
  『関さんは華族だって何だって堪忍しない。この級のものが一番横着でいけないって憤っているから、花岡が行って取っ捉まれば早速教員室だよ』
  『しかし花岡が行くだろうか?』
と橫田生が疑問を起した。
  『そこは計略さ』
  『どうする?』
  『彼奴(あいつ)はお坊ちゃんだから、煽てが利く。花岡君は豪いって無暗に褒めるんだ』
  『おれもやる』
  『おれもやるぞ』
  『あんな奴の一人や二人、朝飯前だよ』
と尾沢生が得意になって手筈を説明したところへ、今しがた追い出された数名が、
  『寒い寒い』
と言って入って来た。花岡の照彦様も寒がりだから、その一人だった。尾沢生が橫田生と篠崎生に目くばせをして、
  『不景気だなあ』
とストーブの口を覗いた。
  『これじゃ仕方がない。誰か有志はないか?』
と橫田生が調子を合わせた。そこへ又二三人入って来て、
  『寒いなあ』
とストーブに寄り添った。
  『誰か親切な人はないか?』
と尾沢生が一同を見廻した。
  『吉田君、何うだ?』
と橫田生は直接勧誘を試みた。
  『何が?』
  『小使部屋へ行って石炭を取って来ないか?』
  『厭だよ』
  『度胸がないね』
  『なくてもいゝよ』
  『阿部君、君は何うだ?』
と篠崎生も当って見た。しかし敵は本能寺にある。
  『厭だよ』
  『何故?』
  『僕はあたるのは好きだけれど、取りに行くのは嫌いだ』
と阿部君が平気で答えた。
  『僕もさ』
と共鳴するものがあった。
  『感心しちゃった』
と篠崎生が空嘯(そらうそぶ)いた。
  『‥‥ ‥‥』
  『ひどいよ。いつでも僕達が持って来るんだぜ。君達はいつも唯だであたっているんだぜ』
と尾沢生が苦情らくしく言った。
  『‥‥ ‥‥』
  『狡いよ』
  『‥‥ ‥‥』
  『正直なものは損をする。なあ、橫田』
  『うむ。おれ達は馬鹿さ。皆立ち廻りがうまいのさ』
と橫田生が受けた。
  一寸の間沈黙が続いた後、一人の生徒が急に思い立ったように出て行った。
  『有難いぞ。有志有志!』
と尾沢生が手を叩いた。


  『何あに、逃げて行ったんだよ』
と篠崎生は知っていた。
  『おやおや』
  『ハッハヽヽヽ』
と皆笑い出した。
  『実際不景気だなあ。仕方がない、僕、行って来らあ』
と尾沢生は再び橫田生に目くばせした。
  『僕、行くよ』
  『僕が行く』
と篠崎生も主張した。これが予定の筋書で、
  『それじゃジャンケンにしようか?』
  『よし』
  『ジャンケン‥‥』
と橫田篠崎の両名が始めた時、
  『待ち給え。皆であたるんだから皆で鬮(くじ)にしよう』
と尾沢生はごく自然に計略を導き出した。
  『それが宜い』
と二人はジャンケンの拳を引込めた。この時又一人がストーブから離れて、戸口へ向った。
  『佐藤君、待ち給え』
と尾沢生が呼び止めた。
  『何だい?』
  『君は逃げるのか?』
  『いゝや』
  『それじゃ何処へ行く?』
  『便所だよ』
と佐藤君は出て行ってしまった。
  『立ち廻りがうまいや。花岡君、君も便所かい?』
と尾沢生が予(あらかじ)め念を押した。他のものはどうでも宜いのだが、照彦様に行かれてしまっては、折角の苦心が水の泡になる。
  『僕は逃げない』
と照彦様が答えた。
  『感心感心。やっぱり豪いや』
  『その代り鬮も引かない』
  『なぜ?』
  『僕は泥棒は嫌いだ』
  『泥棒じゃないよ。唯取って来るだけだよ』
  『唯取って来れば泥棒じゃないか?』
  『いや、僕達は薪炭料を納めているから、物置の中の石炭は皆僕達のものだ。自分のものを持ってくるのが泥棒かい?』
  『それじゃ何故関さんが憤る?』
  『君は華族様だから鷹揚だね』
  『‥‥ ‥‥』
  『小使なんて下々のものは石炭を倹約して儲けようとするんだ』
  『そんなことはないよ』
  『いや、ある。それだから昼から焚かないんだ』
  『本当かい?』
  『嘘をつくものか。皆に訊いて見給え』
  『五年級の人もそう言っていた。関さんは狡いって』
と橫田生が相槌を打った。全く根も葉もないことだから、関さんこそ好い迷惑だ。
  『四年五年では石炭がないと、腰掛をこわして焚く。薪炭料を出させて置いて寒い思いをさせるんだから、それぐらいのことをしてやってもいゝんだ』
と尾沢生は理屈を並べた。
  『‥‥ ‥‥』
  『教員室へ行って見給え。昼からでも焚いている。あれは先生だけを好くして、生徒を悪くするんだ』
  『‥‥ ‥‥』
  『生徒だけ昼から寒くないって法はない』
  『‥‥ ‥‥』
  『どうだい?』
  『そんなこと分っているよ』
と照彦様はソロソロ煙(けむ)に巻かれ始めた。
  『文句ばかり言っていないで、早く鬮を拵え給え』
と橫田生が促がした。
  『鬮はよせよ。考えて見ると、僕達は損をする』
と篠崎生が故障を申立てた。
  『何故?』
  『始終取って来ているんだもの。今日は普段行かない有志に行って来て貰おうじゃないか?』
  『賛成』
と尾沢生が叫んだ。
  『僕も無論賛成だけれど、見渡したところ、そんな度胸のある人間はいないようだぜ』
と橫田生も予定の行動だった。
  『戸川君、君、どうだ?』
  『‥‥ ‥‥』
  『菊池君』
  『もう時間がないだろう?』
  『あるよ』
  『‥‥ ‥‥』
  『内山君』
と尾沢生は順々に訊く。
  『僕は‥‥ゴホン』
と内山君は咳をした。
  『何だい?』
  『ゴホン』
  『君はランニングが速いから』
  『風邪を引いているよ』
  『そんなことは構わない』
  『今日は駄目だ』
  『何故?』
  『ゴホンゴホンゴホン』
  『あれ、行ってしまやがった。立ち廻りがうまいや。ねえ、花岡君』
と尾沢生が照彦様の顔を見つめた。
  『‥‥ ‥‥』
  『花岡君、君はこの頃柔道を習っているってね?』
  『うむ』
  『強くなったろう?』
  『駄目だよ。内藤に敵わない』
  『内藤君は強いよ。何をやっても君とはダンチだって言っている』
  『それほどでもないよ』
  『相撲もダンチ、柔道もダンチ、ランニングもダンチだそうだ』
  『冗談言っちゃいけないよ』
  『いや、僕はすっかり聞いたよ』
  『誰に?』
  『内藤君に』
  『嘘ばかり』
  『本当だよ。暮に君のところで試胆会ってのをやったろう?』
  『うむ』
  『あれも聞いた。君は慌てゝ溝(どぶ)は落ちたってじゃないか?』
  『あれは書生だよ』
  『兎に角、君は歩けなくなって、内藤君に背負(おぶ)さって来たってね?』
  『そんなことがあるものか』
と照彦様は憤慨した。
  『匿しても駄目だよ。内藤君が皆しゃべっている』
  『君に話したのかい?』
  『うむ。照坊は臆病で、夜になると、便所へも一人で行けないって』
  『失敬な』
  『君、何処へ行く?』
と尾沢生は照彦様の腕を捉まえた。


  『内藤に訊いて見る』
  『家来を苛めたって、些(ちっ)とも強いことはない』
  『‥‥ ‥‥』
  『君は内藤君にばかり威張っている。本当の度胸がない』
  『あるとも』
  『あるなら見せてくれ』
  『見せてやるよ』
  『喧嘩はよし給え』
と橫田生がもっともらしく注意した。
  『喧嘩じゃない。花岡君に度胸を見せて貰うんだ』
と尾沢生が言った。
  『見せてやるとも』
と照彦様は額に青筋を立てていた。
  『それじゃ今直ぐ行って来給え』
  『何処へ?』
  『小使部屋の物置へ』
  『‥‥ ‥‥』
  『やあい。関さんが怖いんだろう』
  『僕は泥棒は嫌いだよ』
  『これで君の度胸が分った。怖ければ怖いと正直に言う方が男らしいぞ』
  『怖いものか』
  『それじゃ行け』
  『行くとも』
と照彦様は歩き出した。
  『よし。ついて行って見てやる』
  『勝手にし給え』
  『逃げるんだろう?』
  『大丈夫だ』
  『さあ、行こう』
と尾沢生が先に立った。照彦様はもうのっぴきならない。
  『花岡、しっかり!豪いぞ豪いぞ!』
と橫田篠崎の両名が煽て上げた。
  小使部屋に近づいた時、尾沢生は立ち止まって、
  『君、安心して行って来給え。僕、こゝで番をしていてやる』
と味方の態度を取った。
  『幾つ持って来ようか?』
  『取れるだけさ。沢山取るほど度胸が好いんだ』
  『よし』
と照彦様は小使部屋の物置へ忍び込んだ。その刹那、尾沢生は、
  『関の馬鹿野郎やあい!』
と叫んで、一目散に逃げ出した。関さんは小使部屋から姿を現すと、直ぐに物置へ廻った。照彦様が足音を聞きつけて出ようとした時、
  『どっこい』
と外から戸を締めて鍵をかってしまった。

改心入道の働き
  尾沢生は教室へ帰って来て、
  『ハッハヽヽヽ』
と笑いながら、教壇の机につかまった。
  『どうした?』
  『うまくやったか?』
と待っていた篠崎橫田の両名がストーブから離れた。
  『ハッハヽヽヽ。ハッハヽヽヽ。花岡の奴』
  『おいおい』
  『笑ってばかりいやがる』
  『ハッハヽヽヽ。まあ、待ってくれ。あんまりおかしくて横っ腹が痛いや』
と尾沢生は体(からだ)を撚(よ)じ伸ばして、
  『物置の中へ締め込まれやがった。関さんは鍵をかってしまった』
とその通りの手真似をした。
  『それはうまい』
  『大成功だ』
と橫田生と篠崎生が喜んだ。他の数名は顔を見合わせた。舌を出したものもあった。
  不良組の三人がなお話し続けているところへ、正三君が戸口に現れて、教室の中を見廻した。照彦様を探しに来たのだが、いないので、そのまゝ踵(きびす)を繞(めぐ)らした。
  『おい、正三位!』
  『‥‥ ‥‥』
  『おいおい。内藤正三位、花岡の家来』
と尾沢生は戸口まで追って行った。
  『‥‥ ‥‥』
  『内藤君』
  『何だ?』
と正三君は初めて答えた。
  『君は誰を探している?』
  『誰でも宜い』
  『それなら勝手にし給え。花岡君のいるところなら、僕だけ知っているんだけれど』
と尾沢生は態と穏やかに言って引き返した。
  『面白い面白い』
と橫田篠崎の両名が調子づいて手を叩いた。他の連中も、
  『探したって分らない』
と多少面白づくになった。
  正三君は休憩時間中も絶えず照彦様から離れないように心掛けている。苟(かりそ)めにも若様に間違があってはならないと思って、遊びながらも油断がない。しかしこの午後は一寸高谷君と話している間に姿を見失ったので、あわてゝ探し始めた。折悪く照彦様のいない方へばかり行って、最後に教室へ来たのだった。尾沢生とは去年の秋の喧嘩以来、どうも打ち解けない。知っていると言ったが、口をきくのがいまいましかったので、そのまゝ又運動場へ出た。堀口生がポケットへ手を入れて、ノソノソ歩いていたから、
  『堀口君、君は花岡さんを見なかったかい?』
と訊いて見た。
  『さあ。今こゝを通ったよ』
  『何方(どっち)へ行ったい?』
  『小使部屋の方へ尾沢君と一緒に行った。行って見ようか?』
  『しかし尾沢君は教室にいるよ』
  『変だね』
と堀口生は教室をのぞいて、
  『おい、尾沢』
と呼んだ。
  『何でい?』
  『花岡さんを知らないか?』
  『知らねえよ、そんな人は』
  『しかし君は今花岡さんと一緒に歩いていたじゃないか?』
  『‥‥ ‥‥』
  『おい。尾沢』
  『気に入らねえな』
と尾沢生はそっぽを向いてしまった。
  『何だ?』
  『‥‥ ‥‥』
  『おい。何が気に入らないんだ?尾沢』
  『お前は改心したのは豪いものだが、華族さんにおベッカを使うのはどういう料簡だ?』
  『おベッカなんか使やしないよ』
  『使っているよ。花岡さんてのはどういう訳だ?お前も正三位になったのかい?』
  『そうか。それは悪かった。それじゃ訊き直すから、堪忍してくれ。おい。尾沢、君は花岡君を知っているか?』
と堀口生は改心以来人に逆らわない。大いに努めている。
  『まだ気に入らねえよ』
  『何故?』
  『尾沢とは何だ?』
  『成程。これも悪かった。それじゃ尾沢君、君は花岡君を知っているか?』


  『‥‥ ‥‥』
  『おい』
  『おいが気に入らねえ』
  『モシモシ、尾沢君』
  『馬鹿にするな』
と何処までも相手が何処までも下から出るのを承知で益々つけ上る。
  『馬鹿になんかしないよ』
  『おれも一遍ぐらいは尾沢さんと呼んで貰いてえんだ』
  『よし。もしもし、尾沢さん、あなたは花岡さんを知っていますか?』
  『知っている。花岡君は華族さんで、正三位の殿様だよ』
  『成程、これはおれのきゝ方が悪かった。それじゃその花岡君は何処にいる?』
  『お屋敷は麹町だそうだよ』
  『今何処にいる?』
  『それならそうと早く訊け。可哀そうに、小使部屋の物置の中で泣いていらあ』
  『え?』
  『華族さんだって石炭泥棒に行って取っ捉まれば牢へ打ち込まれる。関さんはおベッカなんか使わない』
  『おい。本当かい?』
  『行って見ねえ』
  『内藤君』
と堀口生は振り返った時、正三君はもう小使部屋目がけて駈け出していた。堀口生も後を追った。
  『行って見よう。面白いぞ』
と尾沢生初めストーブに当っていた連中が教室から飛び出した。
  『何だい?何だい?』
とそれを見た運動場の同級生達もついて行った。
  『もうしませんから、堪忍して下さい』
と照彦様の泣く声が物置から聞えた。正三君は戸の握りを掴(つか)んで力一杯に引っ張ったが、鍵がかってあるから仕方がない。
  『照彦様、僕です』
と泣きそうになった。
  『もうしません』
  『僕です。内藤です、今開けます』
  『堪忍して下さい。もしません。時間になりますから、堪忍して‥‥』
と照彦様は無我夢中だから聞えない。小使部屋から関さんが出て来て、
  『何だ?君達は』
と一同を睨み廻した。
  『関さん、花岡さんですから堪忍して下さい』
と正三君が進み寄ってお辞儀をした。
  『花岡さんでも誰でもいけない』
  『‥‥ ‥‥』
  『石炭を盗むものは先生のところへつれて行く』
と関さんは承知しない。
  『関さん、しっかり!』
と尾沢生が囃し立てた。
  『今の声は誰だ?』
と関さんが向き直った時、尾沢生は首を縮めた。
  『この級のものは皆性(たち)が悪い。毎日のように取りに来る』
  『関さん、これから皆で気をつけますから、今日だけは堪忍して下さい』
と級長の松村君が進み出た。
  『いけない。仏の顔も三度だ。あんまり人を馬鹿にしている』
  『関さん』
と次に堀口生が進み出た。
  『俺(わし)はテッキリ君だと思っていた』
  『やっぱり信用がないや』
  『君が花岡さんを寄越したんだろう?』
  『僕じゃないです』
  『誰だ?それじゃ』
  『知りませんが、花岡さんだってそんな悪いことをする子じゃありません』
  『でもこの通り現行犯を取っ捉まえている』
と関さんが物置の戸を叩いた時、
  『もうしませんから、堪忍して下さい。時間になるう!』
と照彦様が内(なか)から泣いた。
  『関さん』
と正三君は関さんの手に捉まった。
  『関さん、この通りだ』
と堀口生は大地に両手をついた。お辞儀をするのかと思ったら、そうでない。そのまゝ逆立ちをして歩き出した。
  『やったやった!』
と関さんは驚いて後じさりをした。関さんは逆立ちの名人だ。連隊長殿が感心して見ていたと言って、常に自慢している。
  『どうだ?関さん。これでも堪忍してやらないか?』
と堀口生は逆立ち歩きを続けながら真赤になって頼んだ。妙なあやまり方があったものだ。
  『業(わざ)あり!』
と関さんは手を叩いて、ポケットから鍵を出すが早く物置の戸を開いた。照彦様は石炭の上に突っ伏(ぷ)していた。正三君がたすけ出した。皆は照彦様の顔の黒いに呆れて、
  『どうしたんだろう?』
と言うように目と目を見合わせた。これは石炭の中に埋まって泣いていたからだった。
  『内藤正三位』
と尾沢生が突っかかった。
  『何をする?』
  『君辱められて臣死す』
  『‥‥ ‥‥』
  『切腹しろ』
  『‥‥ ‥‥』
  『貴様は忠臣蔵を知らないか?』
  『よせ!』
と堀口生がいきなり押した。尾沢生がよろけて来た時、関さんはその腕を捉まえて、
  『さあ、教員室へ来い』
と言った。
  『何です?』
と尾沢生は青くなった。


  『何ですもないものだ』
  『何です?僕は教員室へ連れて行かれるわけがない』
  『俺は知っているんだ。文句を言わないで来なさい』
と大力無双の関さんは尾沢生を抱えて行ってしまった。
  尾沢生は次の時間中教員室でお目玉を頂戴した。丁度好くか又は丁度悪く、級担任の橋本先生が手空(てす)きだったから、今度のことよりも普段のことで油を取られた。先生は堀口生の改悛を引合いに出して、大いに学ぶところあるように、コンコン諭した後、
  『これからは気をつけなければいけない。今度こういうことがあると罰ですよ』
  『‥‥ ‥‥』
  『分ったら、もう宜しい』
と頷いた。尾沢生は不服そうに小首を傾げて、
  『先生』
と呼んだ。
  『何ですか?』
  『この学校は不公平です』
  『何故?』
  『僕は石炭なんか取りません。取ったのは花岡君です』
  『花岡は取りはしない』
  『取りに来たんです。それですから、物置へ入っていたんです』
  『しかし平常がある、平常が。君はいつも取りに来るってじゃないか?』
  『嘘です』
  『関が一々帳面につけている』
  『しかし捉まったことは一遍もありません』
  『見給え。白状している』
  『‥‥ ‥‥』
  『もう宜しい』
  『はあ』
と尾沢生は肩を怒らせて、態と足音を立てながら出て来た。
  『困った子だな』
と橋本先生は考え込んだ。
  照彦様は叱られなかったが、尾沢生は充分目的を達した。
  『花岡は弱い。ボイボイ泣いた』
という評判が現場を見ていなかったものにまで伝わった。橫田篠崎の両名は、
  『花岡君、一寸々々』
  『何だい?』
  『君の度胸を拝見しちゃったよ』
  『‥‥ ‥‥』
  『もうしませんから、堪忍して下さい。あゝゝゝあゝ』
とからかう。尾沢生に至っては、照彦様の側を通る時、
  『華族々々カンカラカン。もしませんのカンカラカン。堪忍してくれカンカラカン』
と歌う。
  照彦様は口惜しくて仕方がない。或日の午後、尾沢生は増長して、
  『此奴の度胸はカンカラカン』
と言いながら、照彦様の耳を引っ張った。


  『何をする?』
と照彦様はもう辛抱できなかった。いきなり一つ頬桁(ほゝげた)を食らわせた。雨降りで、皆ストーブを取巻いていた。こういう日には得て事件が起こる。尾沢生が呆気に取られている中に、
  『喧嘩口論すべからず』
と堀口生が割り込んだ。
  『よせよせ』
と皆も止めた。ストーブの側で始められては危なくて困る。
  『覚えていろ』
と尾沢生がいきまいたが、その場は照彦様の撲り徳で物別れになった。
  しかしそれで納まる筈がない。睨み合いが数日続いた。尾沢生は相変らずカンカラカンをやる。気の弱い照彦様は、
  『内藤君、学校へ来るのが厭になった』
と言い出した。
  『若様、こゝで一番頑張るんです』
  『どうしても喧嘩になる』
  『おやりなさい』
  『先方(むこう)は大勢だ』
  『何あに、尾沢一人やっつければ、あとのものは黙ってしまいます』
  『勝てるかしら?』
  『頑張れば勝てます』
  『君も手伝うか?』
  『無論やります。こゝで頑張らなければ、いつまでも駄目です』
と正三君は決心していた。この相談中へ、
  『内藤君、それはいけない。君の考えは間違っている』
と堀口生が口を出した。
  『何故?』
  『喧嘩口論すべからず』
  『しかし果てしがない。僕達はやるんだ』
と正三君は腕を扼(やく)した。
  『いや、いけない。僕が綺麗に仲直りをしてやる。信用して、委せてくれ給え』
  『カンカラカンなんて言わせないように出来るか?』
  『骨を折って見る。僕はこの頃一日に一つ善いことをしないと気が済まない。昨日も一昨日も不漁(しけ)だった』
と堀口生は改心以来、一日一善を実行している。何もない時には往来の犬の頭を撫ぜてやって、一善として帳面へつける。
  やはり昼休みだった。正三君が納得したので、堀口生は尾沢生を運動場の一隅へ呼んで来た。
  『何の用だ?』
と尾沢生は虚勢を張って強く訊いた。
  『物は相談だが、おい、尾沢』
  『尾沢とは何だ?』
  『手前(てめえ)は尾沢じゃねえか?』
  『お前から呼び捨てにされる因縁はない』
  『おい、おれとやる気か?』
  『‥‥ ‥‥』
  『どうもお前は好くねえよ』
  『余計なお世話だい』
  『やるならやろうよ。改心したって、本気になれば、お前達の一人や二人は朝飯前だ』
と堀口生は高飛車に出た。旧(もと)の親分だから、いざとなると押しが利く。
  『お前と喧嘩をするとは言わない』
  『じゃ誰とするんだ?』
  『分ってらあな』
と尾沢生は照彦様を睨んだ。
  『お前はそんなことで面白いか?』
  『何が?』
  『学校へ来て面白いかよ?』
  『ちっとも面白かねえ。癪に障らあ』
  『そうだろうとも。おれも覚えがあるよ』
と堀口生は頷いて、
  『おい、花岡君、此方へ出て貰おう』
と招いた。
  『何ですか?』
  『君は面白いか?』
  『‥‥ ‥‥』
  『花岡君』
  『つまりません。僕は学校が厭になった』
と照彦様は尾沢生を睨んだ。
  『そうだろうとも。おれだって察していらあ。何と物は相談だが、尾沢君に花岡君、もっと面白くなる法はなかろうか?』
  『‥‥ ‥‥』
  『そんなに睨みっこをするとヒラメになってまうぜ。馬鹿々々しいじゃないか?』
  『‥‥ ‥‥』
  『おれ達はこれから五年毎日顔を合せるんだ。おれだけは事によると落第するかも知れないけれど、君達は大丈夫だ。こゝばかりじゃない。都合によっちゃ高等学校も大学も一緒なんだ。おい、どうだい?好い加減にして、仲直りをしろよ』
  『‥‥ ‥‥』
  『君達はお坊ちゃんだからいけない。世間てものが分らないから困る。苦労が足りないんだよ』
  『‥‥ ‥‥』
  『早い話が、君達は人を助けたことがあるまい?おれは自慢じゃないが、尋常科の時に海へ落っこった女の子を助けて、お上から御褒美を貰ったことがある』
  『川へ落っこった子だって言ったぜ』
と尾沢生が揚げ足を取った。
  『大川だ。海に続いていらあ』
  『海に続いていない川があるかい?』
  『まぜっ返すなよ。落っこってアブアブやっているところへ通りかゝったんだ。おれは着物のまゝで飛び込んだぜ。後から考えて見て、自分ながら驚いた。未だ泳ぎを覚えたばかりの時だからね。無鉄砲な話さ。しかし人間てものは感心だよ。可哀そうだと思うと、自分の命なんか忘れてしまう。知らない子でもこの通りだ。あれを思うと、知った同志が喧嘩をするなんてことは考えられない。尾沢君、君は花岡君と睨みっこをしていても、花岡君が海へ落ちたら助けるだろう?』
  『当り前よ』
  『花岡君はどうだい?尾沢君がブクブクしたら助けるかい?』
  『助けます』
と照彦様は微笑んだ。
  『それじゃもういゝじゃないか?仲直りをし給え』
  『します』
  『尾沢君、君は?』
  『しても宜い』
と尾沢生は苦笑いをした。堀口生は年長だけにしゃべり出すとナカナカ巧者で、結局二人を和解させた。

  尾沢君と花岡君(○○○○○○○)
    中直り(●●●)
     一日一善 堀口改心入道

と堀口生が黒板に書いて置いた。教室へ入って来た面々は、
  『やあゝ!』
と喝采した。正三君はチョークを取って、堀口改心入道に◎をつけた。

    堀口改心入道(◎◎◎◎◎◎)

  『賛成々々』
と皆叫んだ。
  『この字が違っている』
と言って、松村君が中を仲に直した。

    仲直り(◎◎◎)

  『賛成!』
と又手を叩く。
  『成程人間同志の中だから人ベンか。ハッハヽヽヽ』
と堀口生は笑っていた。以前は憤ったものだが、大分悧巧になった。
  先生が入って来た。習字の土井さんでナカナカのやかまし屋だ。むづかしい顔をして、黒板を拭き清めて、
  『諸君、楽書をしちゃいけませんぞ』

冬の夜の学習室
  花岡伯爵家の学習室は安斉先生が頑張っているといないで空気が違う。他の先生方ばかりだと甚だ楽だ。御長男の照正様が時計を見上げて、
  『先生、今晩はこれだけに願います』
と申出れば、一も二もない。先生方は、
  『それではこれまでと致しましょう。よく御精が出ました』
と言って、お辞儀をする。しかし安斉先生が控えていると、皆一生懸命だ。若様方も油断がならない。一寸側見(わきみ)をしても、
  『エヘン』
と来る。
  『エヘンエヘン。散乱心を戒めてえ』
  安斉先生のおっしゃる通りにすると、少しも息をつく間がない。学期初めには、
  『若様方、学期は初めが一番大切でございますぞ。第一週の御勉強が第二週の基礎になります。第二週の御奮発が第三週の土台になります。第三週を御辛抱なさると、それから後は習い性となって、行路坦々、御自習が苦になりません』
とおっしゃる。しかし学期半ばになると、
  『若様方、学期は中頃が一番大切でございますぞ。山なら頂上に達した時です。登る折は気が張っていますから、案外に怪我過失(あやまち)がありません。漸く登りつめて、やれ安心と思った時が却って危険でございます。高いだけに落ちるとひどい。唯今は丁度学期半ば、御油断があってはなりませんぞ』
とおっしゃる。それから学期末にかゝると、
  『若様方、学期は終りが一番大切でございますぞ。これは試験があるのでもお分かりでしょう。終りを全うしなければ、今までの御勉強がお役に立ちません。学期末に怠けて悪い成績を取るものは、それ「百日薪を積み、一日にしてこれを焼く。百日これを労し、一日にしてこれを失う」と申して、世上の物笑いになりますぞ』
とおっしゃる。要するにいつでも一番大切なのだ。学期中は初めも中頃も終りも一様に勉強しなければならないから苦しい。
  最近、安斉先生が風邪を引いて三日休んだ時、学習室はやゝ寛いだ。
  『先生は余程お悪いと見える。明日お出でにならないようだと困るな』
と照正様が心配そうな顔をした。
  『御老体ですから肺炎を起すかも知れませんよ。すると今学期中お目にかゝれますまい。困りますな』
と照常様は指を折って日数を数えた。
  『おなくなりになると、来学年も駄目でしょう。本当に困る』
と照彦様は時計を見上げた。
  『大丈夫でございますよ』
と正三君がつい口を出した。
  『どうして分る?』
と照正様は余り感心しないようだった。
  『僕、夕刻一寸お見舞いに上ったんです』
  『およろしいのか?』
  『はあ。しかし未だお咳が取れませんから、御遠慮申上げて、もう一日お休みになるようでございます』
  『明後日からお出でになるんだね』
  『はあ。しかし明後日は日曜です』
  『うむ。そうそう。これは有難い』
  『御無理をなさらない方が宜いね』
と照常様が言った。
  『早い。風邪の方で逃げる』
と照彦様が警句を吐いたので、一同笑い出した。
  間もなく照正様が、
  『矢島先生、どうでしょうか?今晩はこれぐらいのところにして置いては』
と時計を見上げた。
  『もうソロソロ九時ですから、結構でございましょう。ナカナカ御精が出ました』
と矢島先生はお辞儀をして、英語の教科書を閉じた。
  『この時計は少し進んでいやしませんか?』
と数学の黒須先生が自分の腕時計を見較べて首を傾げた。
  『ハッハヽヽヽ』
と照彦様が両手で頭を押えて笑った。
  『こらこら!』
と照常様が叱った。
  『大体これぐらいの時刻でしょう。お寒い晩ですから』
と国語漢文の有本先生は寒ければ時計が早く進むように言って、
  『それでは照彦様、よく御精が出ました』
とお辞儀をした。黒須さんが多少頑張るだけで、他の二人は御機嫌取り専門だ。
  若様方は安斉先生がいると直ぐに各自(めいめい)お部屋へ引き下がるが、他の先生方ばかりだと自習後打ち解けて話し始める。
  『矢島先生』
と照常様がニコニコしながら呼びかけた。
  『何でございますか?』
  『僕、昨日面白い魔法を覚えて来ました。先生を試験して上げます』
  『それはそれは』
と矢島先生は極く人柄が好い。
  『英語ですよ。ブラック・アートというんです。何とお訳しになりますか?』
  『照常』
と照正様が遮った。


  『何ですか?』
  『先生に向って試験なんて失敬だぞ』
  『冗談ですよ』
  『冗談でもいけない』
  『それじゃ照彦、お前に訊こう』
と照常様は上がいけなければ下に向うより外なかった。
  『知りません』
  『知りませんて、何を訊いたのか分っているのか?』
  『分りません』
と照彦様はどうせむづかしいことだろうと思って、相手にならない。
  『ブラック・アートだよ』
  『‥‥ ‥‥』
  『ブラック・アート。お前は英語を習っているじゃないか?どういう意味か一字々々考えて御覧』
  『考えても駄目です』
  『仕方がない奴だ』
と照常様は諦めて、
  『内藤君、君は分るだろう?』
と正三君に訊いた。
  『ブラックは黒です。アートは術です』
  『それで?』
  『黒術』
  『ハッハヽヽヽ。黒術って何だい?』
  『分りません』
と正三君は残念だったが、兜を脱いだ。
  『教えてやる。魔法のことさ。先生、ブラック・アートは魔法ですね?』
と照常様は矢島先生に確かめた。
  『そうです。魔法か手品です』
と先生が答えた。
  『見給え。魔法だ。覚えて置くんだね。試験に及第するよ』
  『はあ』
と正三君は頷いた。
  『実に面白いんだよ。何でも当る。皆きっと感心する』
  『こゝで一つ余興にやって見たらどうだい?今夜はゆっくりで宜い』
と照正様が仰せ出された。先生方は迷惑でも仕方がない。尤も或いたづらものが時計を二十分進めて置いた。
  『それじゃ早速ながら実演を御覧に入れます。内藤君、一寸』
と照常様は正三君を呼んで、少時耳打ちをした。正三君は続けざまに合点首(がてんくび)をした後、
  『分りました』
と微笑んだ。
  『始めます。さあ、内藤君、目を瞑ってい給え。照彦』
  『はあ』
  『お前は何でも宜いから、指で差す。それを内藤君が後から当てるんだ』
  『何を差しましょう?』
  『成るだけ分らないものが宜い』
  『さあ』
  『早く差せ』
  『これ』
と照彦様は自分の鼻を差した。
  『よし、イムプイムプ』
  『‥‥ ‥‥』
  『内藤君、イムプイムプと言ったら君は目を覚すんだよ』
  『はあ』
と正三君は顔を押えていた手を外して目を開(あ)いた。
  『イムプというのは魔物のことだよ』
と照常様は説明して、
  『さあ。イムプイムプ、照彦が何を差した?』
と訊いた。
  『‥‥ ‥‥』
  『このテーブルか?』
  『違います』
  『その電灯か?』
  『違います』


  『黒須先生のお眼鏡か?』
  『違います』
  『お髭か?』
  『違います』
  『照彦の鼻か?』
  『そうです』
と正三君は当てた。
  『もう一遍』
と照彦様は所望して、今度はストーブを差した。
  『イムプイムプ、照彦が何を差した?そこにある石炭か?』
  『違います』
  『ストーブか?』
  『そうです』
と正三君は又当てた。
  『もう一遍、内藤君、瞑り給え』
と言うが早く、照彦様は正三君を差した。正三君はこれも当てた。
  『さて、分らない』
と矢島先生が首を傾げた。
  『摩訶不思議です』
と有本先生が調子を合わせた。
  『なあに、これは順番か何かで手筈が定めてあるんですよ』
と黒須先生はさもありそうなところに見当をつけた。
  『そんなことはありません』
と照常様が否定した。
  『目くばせですか?』
  『違います』
  『それではこゝにないものを差しても当りますか?』
  『何でも当てて御覧に入れます』
  『一度もお訊きにならないで?』
  『それはむづかしいです』
  『御覧なさいませ。ハッハヽヽヽ』
  『そこがブラック・アートですよ』
と矢島先生は分らないくせに応援する。
  『最初お訊きになる時、差したものをチラリと御覧になるんでしょう』
  『そんなことはありませんよ。何なら僕も目を瞑っていて訊いても宜いです』
  『それではこゝに全くないものを差しますが、如何でございます?』
  『当てます。内藤君、なくても当てるね?』
  『はあ。何でもござれです』
と正三君は大威張りだった。
  『聞えるといけませんから、書きます。内藤君、目を瞑って下さい』
と頼んで、黒須先生は数学に使った紙の端に、
  『動物園の河馬』
と鉛筆で書いた。
  『嫌疑がかゝるから、僕も目を瞑ってやります。内藤君、君もそのまゝ答え給え』
と断って、照常様は、
  『イムプイムプ、黒須先生が何をお差しになった?』
  『‥‥ ‥‥』
  『動物園にいるものだ』
  『お教えになっちゃいけません』
と黒須先生は目を見張っていた。
  『虎か?』
  『違います』
  『ライオンか?』
  『違います』
  『象か?』
  『違います』
  『熊か?』
  『違います』
  『河馬か?』
  『そうです』
と正三君は目を瞑ったまゝ当てた。
  『恐れ入りました』
と黒須先生は降参した。
  『内藤君、教えてくれ給え』
と先刻から羨ましそうにしていた照彦様が引っ張った。
  『照常様、申上げて宜しうございますか?』
  『僕が説明する。先生、これは内藤君の謂わゆる黒術です』
  『黒術と申しますと?』
  『黒いものゝ後が本物です』
  『はゝあ』
  『河馬は熊の後でしたろう?』
  『成程』
  『ブラック・アート即ち黒後(ブラックあと)です』
と照常様は得意だった。
  『英語で洒落を言ったね。天晴れ天晴れ』
と照正様が褒めた。皆大笑いをして、有本先生が、
  『これは近頃珍しい学問を致しました。幾重にもお礼申上げます。早速家へ帰って、家内中に驚かしてやりましょう』
と先づ立ち支度をした。それを切っかけに、他の先生方も、
  『若様方、それでは御免蒙ります』
と言って、帰って行った。
  安斉先生は思ったよりも重くて、月曜にもお出でがなかった。
  『内藤君、どんな御様子かお見舞いに行って来給え』
と照正様が命じた。正三君はそれでなくても案じているから、早速伺って来て、
  『もう殆どお宜しいんですけれど、お咳が取れないそうでございます』
と報告した。
  『御老体だから、御無理をなさるといけない』
  『そう申上げました』
  『お目にかゝったのか?』
  『いゝえ、奥様にそう申上げて参りました』
  『宜しい。御苦労』
と照正様は安心した。
  『こゝ二三日は大丈夫です』
と照常様が喜んだ。
  『何が?』
  『楽が出来ます』
  『馬鹿だな』
  『時計をもう十分進めましょうか?』
と照彦様が調子づいた。安斉先生がお出でにならないと、学習室は時間まで狂って来る。
  その次に正三君が見舞った時には、
  『お蔭さまで今朝から起きました。何なら一寸お上がり下さいませんか?』
と老夫人がイソイソして言った。
  『いや、照彦様が待っていらっしゃいますから、これで失礼致します』
  『お目にかゝりたいと申しておりましたから、一寸如何でございますか?』
  『いや、御老体でございますから、どうぞ御大切に』
  『内藤君かい?』
という声が奥から聞えた。
  『はあ』
  『お上がり』
  『どうぞ』
と奥さんも勧めるので、正三君はもう仕方がなかった。上って行った。
  『先生、如何でございますか?』
と初めて直接にお見舞いを申上げた。
  『この間から度々有難う。お蔭さまでもうこの通り快(よ)くなった』
  『結構でございました。しかし御老体でいらっしゃいますから‥‥』
  『馬鹿を言っちゃいけない』
  『はあ?』
  『老体だから、命を惜まん。今晩から出仕致しますぞ』
  『‥‥ ‥‥』
  『どんなお工合だね?学習室は』
  『皆様御勉強でございます』
  『安心した。今朝も有本先生がお出でになって、ナカナカ御精が出るようにおっしゃった』
  『‥‥ ‥‥』
  『学校の方はどんなお工合だね?』
  『お変わりございません』
  『その何とかいう悪い子とお喧嘩はどうなりましたか?』
  『もう済みました』
  『おやりになったか?』
と安斉先生は膝を進めた。
  『いゝえ。堀口改心入道というものが間に入って、もうすっかり仲よしになりました』
  『それは宜しい』
  『もう級(クラス)の中で照彦様のことを彼れ是れ言うものは一人もありません』
  『御苦労でした』
  『いゝえ』
  『何入道?その仲裁をしてくれた子は』
  『改心入道でございます』
  『はゝあ』
  『不良だったのが改心したんです』
と正三君は昨今堀口生に感心しているところだから、最初からの経緯(いきさつ)を説明した。堀口生が改心したのは正三君のお蔭である。そうしてそれが今回照彦様の好都合になった。但し正三君は自分の手柄を抜きにして、照彦様本位に詳しく物語った。


  『長々御苦労でしたな』
  『いゝえ、一向』
  『ところで若様の御成績ですが、御進級は無論お叶いでしょうな?』
  『大丈夫でございます』
  『御進級の上、中どころの席次をお占めになるようなら、申分ありません』
  『もうほんの一息でございます』
  『到頭漕ぎつけましたかな?』
  『はあ』
  『長々御苦労でした』
と安斉先生は目を閉じた。正三君はこの長々という意味が解し兼ねて、
  『先生』
と呼んだ。
  『何ですか?』
  『私はこの上とも御奉公を申上げる決心でございます』
  『そこですよ』
  『はあ?』
  『内藤君、実は俺はこの間君の兄さんに泣かされました』
  『兄が伺いましたか?』
  『お出でになりました。君を返して貰いたいとおっしゃいます。理路整然、豪いものです。敬服致しました』
  『‥‥ ‥‥』
  『正三には正三の天分がある。照彦様には照彦様の天分がおありです。何方を何方の犠牲にしても天下国家の為めにならん』
  『‥‥ ‥‥』
  『俺は目が覚めたような心持がしました。御道理です』
  『‥‥ ‥‥』
  『内藤君、これが昔なら、私達は何を措(お)いても若様を守立てなければなりません。しかし時世は一変しました。内藤正三は一番内藤正三らしい人間になるのが天下国家の為めです。花岡照彦は一番花岡照彦らしい人間になるのが天下国家の為めです。俺は考えが違っていました。しかし過(あやまち)を改むるに吝(やぶさ)かでない。内藤君、お学友の役目は今学期限りで解いて差上げますぞ』
  『先生』
  『何ですか?』
  『僕は照彦様と仲よしですから、帰りたくないです』
  『御交際と御指導は相変らずお願い申上げたい。しかしこの上責任を負わせることは忍びません。今までのところは後日折を見て、俺から御両親へ謝罪申上げます』
  『飛んでもないことでございます』
  『いや』
  『兎に角、僕は若様に御相談申上げます』
  『立場を更(か)えて御自由にお勤め下さる分には差支えありますまい。未だ少時間のあることですから、一度ゆっくりお宅へ伺って、然るべく取計らいましょう』
  『どうぞ宜しく願います』
  『若様方へ老体今晩から出仕、御油断なりませんぞと申上げて下さい。ハッハヽヽヽ』
  『はあ。それでは』
と正三君は一礼して立ち上がったが、涙がホロホロこぼれた。



苦心の学友


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銘:根引松(大口屋)
それでは皆様、今年一年をどうぞ御無事でお過ごしくださいませ
また来月お会いしましょう、それまでご機嫌よう
  (平成29年 元旦  おわり)

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