醍醐寺


本年も余すところ一ヶ月、暮れも押し迫ってまいりましたが、皆様はいかがお過ごしでございましょうか、老人は忙しさにかまけて、外へ出るようなこともなく、甚だしく外界の刺激を受けておりませんので、日月の過ぎるのも、ただ暦の上だけのこととして、一向に実感がございません。そんな訳で今月も何処へも行かずに、過去の写真を紐解き、何かないかと探していたのですが、‥‥ ‥‥

醍醐寺といえば、「醍醐の花見」というのが、太閤秀吉以来の相場でございますので、この季節に寒々とした写真では気も退けようというものですが、宜いものから順に出しておりますのでね、‥‥まあ仕方ございませんな。花見の季節に花の名所へなんか行きたくもございませんのでね、‥‥

醍醐寺(だいごじ):京都市伏見区醍醐東大路町に在り。深雪山と号し、真言宗醍醐派総本山なり。元と二十五大寺の一。即ち醍醐山上山下の総名にして、之を上醍醐、下醍醐と別称し、其の主院は三宝院門跡なり。醍醐寺縁起に依るに、初め聖宝は普明寺(深草貞観寺子院)に於いて七箇日仏法相応の地を得んことを祈念し、当山笠取山の峯に五色の雲聳ゆるを見、仍りて之に登るに、谿に一老翁(地主横尾明神)あり、泉水を掬みて其の醍醐味を賞し、精舎建立の地なることを告ぐ。是に於いて貞観十六年六月准胝、如意輪並びに諸堂本尊の御衣木を加持し、十八年六月准胝如意輪像を彫造す。尋いで醍醐天皇の朝に至り奏して除病延命の為めに根本本堂を造営し、薬師如来像を安置し、又継帝御願の奉為に准胝堂を造りて七准胝仏母を安置し、朝敵降伏の為めに五大堂を営み、毘沙門像を造立して之を如意輪堂に安置し、又藤原元方は延命院を造営し、老翁の泉水醍醐味に因みて寺を醍醐寺と号すとなせり。延喜七年勅して御願所司となし、十四年正月観堅の奏により定額寺となり、十九年九月勅して座主一員三綱三員及び定額僧六員(即ち十僧)を置き、東寺観堅を座主、東大寺延敒、同延性、同真観を三綱、同神鏡、同仁皎、同元方、同観嘉、同霊治、同喜逢を定額僧となし、且つ其の闕のある毎に必ず聖宝門徒を以って補入し、他門徒を雑えざるべきことを定められたり。延長二年七月東大寺東南院延敒第二世の座主となり、四年十二月釈迦堂仏像を開元供養す。蓋し東南院は貞観十七年聖宝の建立に係り、尋いで延喜四年別当道義は大安寺佐伯院(香積院)を同院に移し、之を聖宝に附せしに依り、爾後同院より東寺長者及び醍醐寺座主に補せらるる者あり。随って東大寺は東寺を別院、当寺を末寺視せしを以って、後世東大醍醐両寺の間に本末の諍を起すに至れり。延長八年九月醍醐天皇崩御あり、当北山陵(後山階陵)に奉葬し、当寺及び勧修寺の沙弥二人をして陵辺に於いて念仏奉仕せしめ、十一月皇后当寺に於いて先帝の御七七日法会を修せらる。承平元年四月、親王及び源氏等をして鋳鐘料銭二十三万を納れ、以って梵鐘を造らしめ、五月勅して近江国正税を以って永く当寺十僧毎日四斗六升の給料に宛てしめ、又別院東安尼寺は爾後尼字を除去し、当寺の上座を以って執当となし、山陵に奉仕せしむ。又源公忠を木工寮に任じて寺門を造営せしめ、九月御仏行事所成り、先帝御周忌の奉為に御斎会を修し、朱雀天皇米三石銭三千、其の他親王等より各僧供料を賜う。同三年十月左大臣貞信新に封戸四十五烟(信濃二十戸、讃岐二十五戸)を寄進し、四年七月又勅して御陵守護料として諸陵寮領の内、陵戸五烟、徭丁二十五人を施入せらる。六年三月五重塔建立を企て、右大臣師輔心柱六枝を採送し、其の四は師輔自ら之を曳き、又淡海常邦は人夫三百余人をして心柱を曳かしめ、八月中宮職より上野国二十五戸、伊予国二十五戸の封戸を賜う。天慶元年十一月法華三昧を始修し、年分度者僧六口を置き、二年二月三昧堂を建て、(一説天暦三年三月)勅して庄田を賜い、五年七月再び三昧堂料稲一万束を加えられ、九年十二月更に甲斐国二十五戸、播磨国は二十五戸を下賜せらる。天慶年中第六世座主定助、先帝の奉為に東院を建立し、天暦元年四月天皇行幸あり。五年五重塔成り、六年八月朱雀院崩じ給うや、来定寺北野陵に奉葬し、御骨を醍醐山陵の傍に納め奉り、当寺に於いて御七七日御斎会を修せらる。又五重塔を供養し、康保元年十二月勅して観音堂に灯分料三千束を施入せらる。蓋し当寺は醍醐朱雀村上三天皇の御願寺にして、上座延賀の設計に係り、村上天皇の朝に至りて竣功せしものの如く、醍醐寺雑事記所載の李部王記延長九年(承平元年)六月九日の條に「近ろ曽て醍醐上座延賀法師来陳して云わく、此の寺は先帝醍醐御宇の時、延賀詔を奉じて諸寺の体勢を歷覧し、善なる者を択定し、図を作り上奏す。即ち此の図に依りて堂宇房廊の数を定め、其の材木等を採進すべきの由、官符を諸国に下され已畢ぬ」と云い、又同十一月五日の條に「主君陳べて云わく、醍醐寺堂宇既に備わる。唯塔なし。密かに興造の志あり、延賀法師に命じて支度を勘う。一昨日善光寺塔の支度を送る」とあり。当寺山上に薬師堂、准胝道、念覚院(如意輪堂)、延命院、観音堂、五大堂等あり。之を山上根本六堂と称し、山下に釈迦堂、法華三昧堂、五重塔、東院、東安寺等あり。四至は、東は石間寺東、西は櫃河、南は桂御房掘、北は高岡川、西南は布豆田里十二坪東行河東杜道、西北は大藪里廿坪西縄手行河を限れり。安和二年八月東院を御願寺となし、定額僧三口を置かる。花山天皇又上醍醐に行幸あり、和歌を詠じ給う。寛仁二年当寺座主職は永く門弟に譲補すべきの由宣下あり。仍りて第十一世座主明観席を弟子覚源に譲り、爾後年臘の浅深に依らず、位次の上下を論ぜず、師範の挙状を以って官符を下さることとなれり。応徳二年八月中宮職藤原賢子の御菩提の為め、山上に円光院を建て、中宮の御骨を納め、定賢を検校、義範を別当となす。九月長く伝法阿闍梨三人を置き、東大寺澄慶、同懷深、同定尊等の補任を申請し、近江国柏原庄、越前国牛原庄を施入せらる。寛治三年四月第十四世座主勝覚は上醍醐に神殿を建て、淸瀧権現(一説横尾明神)を西の谷本宮より遷座し、永長二年四月更に下醍醐に淸瀧権現社を建つ。八月無量光院落慶供養し、供料米百石を寄せらる。永久三年十一月勝覚又潅頂院を創建す、即ち三宝院なり。勝覚の乳母の子に賢覚、聖賢の二人あり、賢覚は里性院を剏め、聖賢は金剛王院を造り、各一流を立つ。世に此の三宝、理性、金剛王院醍醐の三流と称す。保安二年正月薬師堂を改築し、大治四年六月源雅定釜一口を大湯屋に施入し、五年七月勅に依り第十五世定海は浄行僧二十口を簡び、三箇日間孔雀経を転読して甘雨を祈り、天承元年二月祈雨の験に依り阿闍梨五口を置かれ、康治年中第十六世元海無量寿院(松橋流本寺)を建つ。当寺伽藍大いに具備せしものの如く、久寿二年三月の在家帳には、堂四十二宇、塔四基、鐘楼三宇、経蔵四宇、神殿十社、高庫二宇、御倉町三所、湯屋三宇、僧房百八十三宇、御所三箇所、帳衆八十六房等ありしことを記せり。承安三年三月後白河法皇、平宗盛等殿上公卿を随伴し御幸あり、先づ南脇門より拝殿に入御、法華経一品許り御読誦あり。次に中門より釈迦堂に詣し、礼堂に於いて同じく法華経を転読せられ、東脇門より三昧堂を経、東大門より、御登山あり、山上に於いて拝殿、准胝堂、薬師堂、如意輪堂並びに毘沙門宝前に詣し、次に五大堂、御影堂、円光院等を御巡拝あらせらる。尋いで俊乗房重源当山円明院に住し、四所の阿弥陀堂及び経蔵等を営み、第二十四世成賢又下醍醐に別院炎魔堂を建て、宣陽門院覲子内親王の御願寺となす。成賢の付法に憲深、道教あり、憲深は報恩院(水本房、後釈迦院本寺)、道教は地蔵院(今光台院)を建立し、各一流を樹つ。世に三宝、理性、金剛王、無量寿、報恩、地蔵院を醍醐六流と呼び、又地蔵を除き他の五院を醍醐の五門跡と称し、座主職は多く此の五院より選任せられたり。文応元年十一月開山堂を消失し、弘安五年第三十七世定済御影堂を建立し、永仁三年十二月金堂炎上し、乾元元年十二月之を重建し、建武年間炎魔堂焼亡し、暦応三年八月慈証之を勧進再興す。足利尊氏京師に入るに及び、三宝院賢俊の功に酬いて食邑六万石を施入し、又諸伽藍を修営し、延文年中開山堂再び消失の厄に遭う。応永三年正月三宝院滿済は将軍義満の猶子として第七十三世座主職を襲い、准三宮の宣を蒙るや、三宝院は頓に勢力を占め、他の四門跡を圧して一山を領し、爾後座主の補任は独り三宝院門跡に限らるることとなれり。永享六年淸瀧権現社拝殿を再建し、応仁元年九月三宝院兵燹に罹りて焼亡し、同月東寺相伝の宝物を当寺に移し、文明二年七月五重塔、経蔵、淸瀧堂拝殿、薬師堂等を除く外、諸堂多く兵火の為めに焼尽す。尋いで通海は金剛輪院を建造し、三宝院潅頂堂を再興す。延徳二年当寺所領の御陵地奪われしを以って、三宝院之を訴えて返附せられ、明応五年九月金堂再建の為めに勧進を始む。豊臣秀吉当寺を尊崇し、天正二年淸瀧権現社本殿を重建し、又金剛輪院の堂舎を造り、三年五月山上山下に四五宇の房舎を搆う。十三年地震により五重塔破損し、十四年三月陽光院御願の為めに五大堂を重興す。慶長二年三月五重塔修理成り、三年正月徳善院玄以は浅野等に命じて三宝院を修営せしむ。二月秀吉当寺に来たり、岳西、光台、金蓮、成身、西住、中往六房を再建し、門跡領千石の中、三百石を以って之に附し、又金堂、講堂、食堂、鐘楼、経蔵、塔、湯屋、三門、並びに金剛輪院(後三宝院に併合す)の常御所、寝殿、書院、潅頂堂、護摩堂、湯殿、中門等の新造を命じ、山号を深雪山と号せしむ。又八足口より鎗山に至り左右に桜樹を植えしめ、聚落の庭より藤波の名石其の他多数の海石を運びて泉水を築造し、三月十五日秀頼及び夫人等を随えて来詣し、盛んに観桜の宴を張る。五年三月金堂、経蔵成り、十年五大堂本尊の内、大威徳金剛夜叉の二尊を修理し、其の他、御影堂、如意輪堂、開山堂等竢成し、一山の美観旧に倍するに至れり。後正徳四年七月幕府は報恩、理性、無量寿の三院家と三宝院との間に於ける紛諍を裁決し、三院家は三宝院の指揮に従うべきことを令す。寛延四年二月に至り准胝堂回禄の災に罹る。徳川時代には朱印三千九百九十八石余(内七百八十六石三斗は五十一坊配当)を領し、寺運甚だ盛んなりしが、明治維新の際上地を命ぜられ、伽藍子院多く頽廃せり。明治二十八年山下成身院の堂宇を以って光台院(旧地蔵院)に充て、又村端東丘上の一言寺に金剛王院の寺名を附し、之を当寺の塔頭に加う。三十三年八月一派独立して真言宗醍醐派と称し、第九十一代座主宥雄は山内の古老と謀りて堂宇維持保存の法を講じ、三十七年釈迦院の本堂を移して報恩院の寺名を附し、三十九年無量寿院焼失の厄に罹る。昭和五年醍醐天皇一千年御遠忌を修し、併せて朱雀村上両天皇及び穏子皇后の御追福を祈り、又無量寿院跡に伝法院(学林)、三宝院南側に霊宝館を建立し、堂舎を修築し、七年四月五大堂(国宝)焼失す。現今山下に三宝院、霊宝館、報恩院、山門(仁王門、旧西大門)、理性院、光台院、金堂(旧釈迦堂)、伝法院、御影堂、五重塔、淸瀧権現堂並拝殿、長尾大神社、菩提寺、女人堂(成身院)、不動堂、山上に淸瀧堂及拝殿、醍醐水(閼伽井)、山上事務所、准胝観音堂及納骨堂、薬師堂、経蔵、書院、客殿、如意輪堂、開山堂、白山権現、並びに醍醐朱雀両天皇、賢子皇后の御陵、及び金剛王院(即ち一言寺)等あり。就中、金堂は秀吉が山門と共に紀州湯浅より移建せしものにして、桃山時代の建造に係り、桁行七間梁間五間、単層入母屋造、本瓦葺なり。本尊薬師如来及び日光月光四天王を安置す。薬師堂は保安二年の建造に係り、五間四面、単層入母屋造、桧皮葺にして、本尊薬師如来及び日光月光両脇侍を安置す。内部の蟇股は本邦建築史上最初の試案なりと云う。淸瀧堂拝殿(上醍醐)は永享六年の建造に係り、桁行七間梁間三間、単層入母屋造、桧皮葺にして、東山時代の宮室建築の好典型なり。経蔵は建久六年の建造に係り、桁行三間梁間二間、単層四注造、杮葺にして、宋板一切経を納む。五重塔は天暦五年の創建に係り、方三間、本瓦葺にして、高さ十九間六十五分あり、九輪の高さ全長の三割五分に当り、本邦現存塔婆中最も長きものに属し、建築史上特に重んぜらるる所なり。又内部心柱は板を以って囲み、天上、四壁と共に悉く極彩色を以って胎蔵界曼荼羅及び真言八祖像等を描き、壮麗優美を極め、所謂醍醐寺様仏画の淵源をなせるものなり。以上五宇は共に今国宝たり。又理性院は古来太元帥法の道場として著われ、光台院の宝蔵には一山の古文書六百有余函を蔵す。准胝観音堂は西国巡礼十一番の札所にして、古来歴代の天皇皇嗣の御生誕を祈らせ給い、今尚お安産、求児の参詣者甚だ多し。以下略(望月仏教大辞典)


前の説明では、醍醐寺と修験道との関係に触れていませんので、少し説明を加えますと、平安初期のことでございますが、やがて真言宗小野流の祖、又当山修験宗の祖と称される聖宝( 832~ 909 )という僧が、山野を跋渉して得た力により、地主明神の霊示を承けて、この地を正法相応の地と定め、諸堂を建立して、それを醍醐寺と名づけたのが、この寺の濫觴だということでございます、‥‥

修験道というのは、山野を歩き回って、霊力を得ようというものですが、その時、悪獣、悪虫より身を守るために錫杖という大きな音を立てる杖を手にして、額のところには兜巾(トキン)と呼ぶ帽子と、身には鈴懸(スズカケ)と称する麻の衣、首には結袈裟(ユイゲサ)という装飾物の付いた輪袈裟を着け、要するに勧進帳の弁慶のような出立ちでもって嶮難の地を踏み歩くわけですな、後は望月仏教大辞典の方を見てください、‥‥
修験道(しゅげんどう):呪法を修持して霊験の証得を期し、専ら山林抖擻を以って修業の要諦となす一派を云う。役小角を開祖とす。蓋し修験の名は修業功積もりて効験を証得するの意にして、聖不動経に「験ありて法の成ぜんことを欲せば、山林寂静の処に入り、清浄の地を求めて道場を建立し、護摩事をなすべし。速かに成就することを得ん」と云うに基づくなり。又一に呪験に作ることあるは、是れ秘密神呪の力を以って霊験を顕現するの謂いにして、陀羅尼集経第十に「此の呪を誦するものは一切の呪験悉く速かに成ず」と云い、又日本国現報善悪霊異記巻上役優婆塞の伝に「修持孔雀王呪法異験力」と題し、又其の文中に「孔雀の呪法を修行して奇異の験術を証し得るなり」と云えるに依れるものなり。又修験宗と言わずして修験道と称するは、此の法は一宗一派に偏せず、広く諸宗に通ずるが故に、特に道の字を用うとなせり。其の濫觴に関しては、踏雲録事に「此れは是れ両部の秘経に本づき、高祖摩訶毘盧遮那如来、所承の元初普賢、金剛手、これ尾悌陀羅呪験能行の法祖として、西天にては、龍猛大士伝灯弘教の先達たるべく、東域にては、東晋の時に高座道人帛尸利蜜多羅、孔雀の法を修して始めて持明有験の聞えあり。此れは漢地にして持呪得験の権輿たるべく、皇朝にては、役聖者蚤くも此の秘法を伝えて、神を召し鬼を役し、現身神通境に独歩して、不死長命の仙道を得、万歳修験の法祖と仰がれさせたまう」と云えり。是れ毘盧遮那を以って高祖、龍樹を以って伝灯弘教の先達となし、尾悌陀羅vidhyādhara 即ち持明呪蔵に依りて効験を得んとするものにして、即ち密教の伝承に摸倣せしものなるを見るべし。役小角は夙に大和葛城山に入りて苦修練行し、後又金峰、大峯等の諸山に攀登し、奇異の験術を証得して屡神変を現じたるを以って、称して本邦修験道の開祖となすなり。後義覚、義元、義真、寿元、芳元の所謂五代山伏、相次いで助音、黒珍、日代、日円、長円等其の法を伝承したりと云うも、其れ等の事蹟は皆詳ならず。此の地に又泰澄、開成皇子、教待優婆塞等あり、入山修験を以って聞こゆ。されど平安朝以前に在りては、唯一部の徒が役行者の芳躅に傚いて、山岳の踏破を試みしに止まり、此の風の漸く盛んなりしは、最澄、空海、円仁、円珍等の諸徳が、比叡高野等の諸山を開き、山川を跋渉して経行修練せし以後に属するが如し。就中、円珍は承和年中、大峯葛城の嶮を攀ぢ、熊野三山に入りて那智瀧に籠居し、役行者の遺風を興す所あり。其の徒増命、余慶等相踵いで入峰練行し、円仁の門人相応亦深く当道を証し、叡山に於ける行門修験の業を開けり。尋いで醍醐天皇の時聖宝あり、霊山を跋渉し、殊に小角の行跡を追慕して大和の諸高峰に登り、金峰の嶮径を踏開して金剛蔵王の像を安置し、吉野山鳥栖真言院に於いて峰受潅頂の儀を始行し、又醍醐三宝院を創めて修行の道場となし、大いに当道を恢宏せり。其の門に観賢、助賢あり、助賢は昌泰三年大峰の検校に補せられ、観賢の後、貞崇、淳祐等亦相次いで当道を紹隆し、遂に一派を成せり。之を当山派修験と名づけ、其の徒衆を真言山伏と称す。又堀河天皇の御宇、円珍の法孫増誉あり。顕密修験の三宗を兼ね、寛治四年白河法皇熊野御幸の先達を勤め、始めて熊野三山検校に補せらる。尋いで山城北白河に聖護院を建立して熊野三所権現を勧請し、後行尊、覚讚、良瑜、道輿等皆其の興隆に努め、亦遂に一派をなせり。之を本山派修験と名づけ、其の徒衆を本山衆、又は天台山伏と称す。増誉以後三山検校の職は連綿として、聖護院門跡の襲う所となれり。斯くて修験道の内容外儀共に漸次朝野の帰仰を受くること漸く篤く、尋いで鎌倉時代以降、此の風の全国に伝播するや、豊前の彦山、出羽の羽黒山、相模の箱根山、上野の日光山、信濃の戸隠山、摂津の箕面山、伊豆の走湯山、常陸の筑波山、加賀の白山、伯耆の大山、駿河の富士山、淡路の譲葉(ユズルハ)山、伊豫の石鎚山等にも皆各金剛蔵王、若しくは熊野三所権現を勧請し、大峰修行等の風習に擬して近在の山伏行者を帰属統一し、自ら亦一派を形成するに至れり。就中、大峰山と葛城山を両山又は両峰と呼び、其の他の霊山を国峰(クニミタケ)と称す。諸山の中、彦山と羽黒山とは其の名特に著われ、彦山は天平年間寿元の開創、羽黒山は延暦年間黒珍の踏開する所なりと伝えらる。後戦国時代に及び、当道は武士の尊崇保護を受けて一種の勢力を張り、尋いで慶長十八年幕命により全国の山伏を二分して聖護、三宝の両院に分属せしめ、儀式作法等の規定を見るに至れり。中に於いて本山派に属するものは聖護院を本所とし、熊野より大峰に入りて修行す。之を順の峯入と称し、当山はの山伏は三宝院を本所とし、大峰より熊野に出でて修行す。之を逆の峯入と称す。又彦山派と羽黒派は各独立し、其の風習も他と異なるもの尠からず。其の他、日蓮宗、及び大和薬師寺に属する修験あり。徳川初期には其の勢力盛んなりしが、尋いで寛政文化の頃に至り、漸次衰微し、明治五年十一月太政官布達を以って一旦廃止せられ、其の後幾ばくもなく再興して、本山派は天台宗円城寺派管長の支配に属し、金峰山を本山として、私に管領職を置き、当山派は真言宗醍醐派に属し、慧印部の名を以って管理せられるるに至れり。蓋し修験道は元と唯山林抖擻採果汲水の実修実行により、身神の浄潔を期するを本義となせるものにして、山岳崇拝の思想に基づき、又日本神道、陰陽道、支那道教等の余風を承けたるものあるが如く、別に一定の教旨を有せず。又極めて教相談義を軽視せりと雖も、後世其の道漸次盛んなるに及び、密教に附会して一種の教義を組織し、曼陀羅を建立し、潅頂を行い、顕密二教と相対して三道の鼎立を説き、或は神僧道三道一致の正理なりと唱え、諸種の教義教式を混用するに至れり。但し其の主旨とする所は、密教の当相即道、即事而真の実義に基づき、万法の当体に本来毘盧の万徳具足すとなし、以って自身即仏と覚知して、現身に金剛法身を証得すべしとなすに在るが如し。就中、即身成仏に就きては三種の別を立つ、一に即身成仏、二に即身即仏、三に即身即身なり。此の中、即身成仏は始覚、即身即仏は本覚の義にして、此の二種は生仏相対に約して論ず。即身即身は始本不二の義にして、即ち一心真如海中には本来迷悟染浄等の一切の差別を絶するが故に、父母所生の肉身に即して法身毘盧の体性を表し、底下薄地の凡体を改めずして胎蔵八葉の中胎に居し、我等の造次顛沛は即ち無作三身の直体、語默動静は無相三密の妙用なりとなすを云う。是れ蓋し此の道に於いて極致となす所にして、即ち此の心地に位し、山林溪谷に在りて苦修練行せば、心眼自ら開きて本有常恒の曼荼を開覚することを得となすなり。蓋し深山幽谷の寂静境が修行の道場として適せることは、諸経軌の通説たるのみならず、既に斯道の先徳は皆名山霊峰に入りて得道し、亦山は是れ自心の本源たる浄菩提心を意味するものなるが故なり。修験啓白の文に、「夫れ当峰とは金胎両部の淨刹、無作本有の曼荼なり。森々たる嶺岳は金剛九界の円壇、鬱々たる巌洞は胎蔵九葉の蓮台、山河草木は全く遮那の真体、嶺嵐谷響は自ら法身の説法なり」等と云えるは、即ち山岳を以って直ちに本有無作の曼荼となすの意なり。斯くて修験の行者は勇猛の大菩提心を発し、金峰、葛城等の霊山に入りて採菓汲水を事とし、十界の修行(一に床堅、二に懺悔、三に業抨、四に水断、五に閼伽、六に相撲、七に延年、八に小木、九に穀断、十に正潅頂)を積みて正潅頂を受け、仏心一如の義を禀承して心眼即開の大益を得、更に亦他をして修行証悟せしむると同時に、我功徳力、如来加持力、法界力の三力加持によりて国家鎮護、万民豊楽の素願を成就せんと期するに在り。就中、行者の登山修行を入峰修行と云い、之を潅頂入壇に擬するなり。之に種種の定規式目あり、今其の大要を挙ぐれば、先づ二十一日、五十日、乃至百日の間、精進水行等を修して心身を清浄ならしめ、次に入峯の日より捨身求道の練行を励まし、積功累徳の後、八葉中台なる深山に於いて潅頂を伝受す。是れ即ち当道の印可なり。既に是の如く山林溪谷を以って修行の道場とし、専ら十界一如無相三密の法を尚ぶと雖も、化他の方便としては、大日如来に変化法身たる不動明王を本尊とし、法華経普門品及び般若心経を第一所依の経とし、又大日経、金剛頂経、蘇悉地経、梵網経、金光明経、仁王経、不動経、錫杖経、阿弥陀経等を専読の要経となすなり。其の行者には新客、一僧祇、二僧祇、三僧祇、正先達、大先達の階位あり。即ち先達の案内を受けて初めて入峯する者を新客と云い、春秋夏の三峯都法修行を了せるものを一僧祇、又は一修行の山伏と名づけ、六峯を経るものを二劫、九峯を経るものを三劫と称し、而して九峯を満じて応分の瑜伽観行を伝習せる者に初めて深山潅頂を授く。又深山潅頂を受け、出家の修験にして四度皆伝以上のものを正先達と名づけ、具足戒を受けたる大阿闍梨にして、伝法に堪うるものを大先達と称す。或は入峯二度以上のものを度衆、九度なるを大越家、十六度なるを大先達とも名づくなり。又修験者の形相に関し、凡そ当道の義として、真実の修行は敢て外相に拘わらずとなすも、蘇悉地羯囉経第一分別戒品に「応に頂髪を結ぶべし」と云えるに依り、有髪を以って如法となす。蓋し此の有髪無髪に就いて法身形、報身形、応身形の三種の別あり。法身形とは優婆塞形の山伏にして、即ち法身の体性に随いて俗形を改めず、鬚髪を剃らざるを云い、報身形とは摘髪の山伏にして、修因感果の智体を顕し、因の胎蔵界九尊と果の金剛界九会とを合せたる十八の数に擬し、一寸八分に頭髪を苅るを云い、応身形とは剃髪の山伏にして、即ち三乗の初に随類応現せる応身形に准じて頭髪を剃除せるものを云う。又法身形を下山伏、報身形を摘山伏、応身形を剃山伏とも称するなり。又当山派にては聖宝の形像を規模として、入峯精進の間の外は常に剃髪し、本山派にては、門跡の平常剃髪せるに傚う者あるも、開祖役小角の形像に准じて有髪を貴しとす。又其の著用の衣体及び法具に関しては、木葉衣巻下に役小角の形像を掲げ、頭巾、袈裟を著け、右手に錫杖、左手に鉄鉢を持し、高履を穿ちて巌上に立ち、其の形貌悚然たるものあるも、是れ元とより当時の真を写せるものに非ず。又七十一番職人歌合、大江山絵詞、及び善信上人絵詞伝等に山伏の図を載すれども、其の形様区区なり。其の風俗の稍一定し、衣体道具の整えるは徳川時代以後にして、主要なるものは頭巾(トキン)、班蓋(ハンガイ)、鈴繋(スズカケ)、結袈裟(ユイゲサ)、法螺(ホウラ)、念珠(伊良多加数珠 イラタカジュズ)、錫杖(シャクジョウ)、笈(オイ)、肩箱(カタバコ)、金剛杖(コンゴウジョウ)、引敷(ヒキシキ)、脚半(キャハン)等の所謂十二道具、及び之に檜扇(ヒオウギ)、柴打(シバウチ)、走縄(ハシリナワ)、草鞋(ワラジ)を加えたる十六道具、其の他、太刀、長刀、弓矢、斧、閼伽桶、水瓶、小木取、壇箒木(ダンホウキ)、体比、小打木(コウチギ)、花盤(カバン)、鈴(レイ)、誓海、白銅桶、本尊等あり。各意義を寓して自身即仏の理趣を表するものとなすなり。又此の道の修行者を山伏と称し、一に又山臥に作ることは、元と山中に起臥して抖擻練行せしにより起こる所なり。然るに当道に於いては深秘の釈として、山伏の山の字は竪の三画を横の一画にて結べるものにして、即ち三身即一、三諦一念の阿字即身を示し、伏の字は人偏犬旁より成り、即ち法性即無明、真俗不二の義を示すものなりと云い、又伏と臥との別に関し、山伏は法性真如の宝山に入りて無明煩悩の怨敵を降伏するの意なり。故に之を修生の山伏、又は外用の山伏とも云い、或は邪魔伏士と書することは亦此の義に依るとし、山臥は未修行の者の天真仏に対して用い、之を本覚の山臥、或は本有の山臥とも称すとなせり。又山伏中、廻国修行する者を客僧と云い、其の他又修験者(シュゲンザ)、験者(ゲンザ)、行者(ギョウザ)、野伏等とも呼び、或は武術を兼修せるより山武士とも書し、又は「ソミカクダ」とも称せらる。「ソミカクダ」とは俗塵に染み居て他を覚せしむるの意、若しくは修密客の義なりとし、或は御嶽精進する時、経書堂に籠居して経等を書写するより、伊勢斎宮の忌詞に経を曽米加美(ソメガミ)と云うを略してソミとし、之を書するの意にてソミカクダと名づくるなりとせり。又修験道に関する著書少なからず。就中、仏説三身寿量無辺経、峰中正潅頂外場作法、柱源正潅頂儀則、柱源極秘印信、自供養法大事、柱源神法大護摩供次第、庭壇大護摩供次第各一巻は役小角の感得又は伝持せし所と伝え、其の他、修験最勝慧印三摩耶極印潅頂法一巻(聖宝)、修験最勝慧印三摩耶柴灯護摩法一巻(同上)、修験心鑑書一巻(同上)、修験最勝慧印三昧耶法玄深口決一巻(仁海)、修験名称原儀一巻(称浄諦)、修験秘奥鈔二巻(旭蓮)、修験修要秘決集三巻(即伝)、修験頓覚速証集二巻(同上)、修験三十三通記二巻(同上)、資道行物記二巻(朗然撰、宥鑁註)、山伏二字義一巻(宥鑁註)、峰中十種修行作法一巻(不詳)、同鈔二巻(常円)、役君形生記二巻(秀高)、修練秘要義七巻(歓験)、修験故事便覧(日榮)、修験道初学辯談二巻(卓盈)、木葉衣二巻(行智)、踏雲録事一巻(同上)、修験三正流儀教一巻(覚瑄)、曼荼羅総会印信一巻(尊海)等凡そ一百数十部あり。今日本大蔵経第三十六至第三十八巻に収む。此の中、修験三十三通記、修験修要秘決集、修験頓覚速証集、役君形生記、並びに指南抄一巻の五部は修験の五重、又は十巻書と称し重んぜらるる所なり。又塩尻第十、第十八、書礼口訣、諸宗階級巻下、仏教十二宗綱要巻下、日本宗教制度史料類聚考等に出づ。(望月仏教大辞典)


この寺には、国宝や国の重要文化財が多数ありますが、この金堂も国宝だそうでございますな、‥‥望月によれば桁行七間梁間五間、単層入母屋造、本瓦葺に本尊の薬師如来と日光月光両脇侍、及び四天王像を安置すということです。成程ね、‥‥



これは淸瀧権現堂、確か重要文化財に指定されていたと思いますが、何で知ったのやら、すっかり忘れて思い出せません。こんな写真が残っているところを見ると、何処かに美を見いだしたのだと思いますが、‥‥


これは国宝の五重塔ですな、なんでも京都で一番古い(952年)塔だそうですが、あらためて写真を見てみると、基壇が低い為めだと思うのですが、少し野暮ったく感じますな。しかし老人の審美眼は、常々まったく当てにならない、と家人には言われておりますのでね‥‥、やはり御自分の目でお確かめになるのが一番でしょう、‥‥

ということで、いよいよ今年一年を振返って見ようと思うのですが、‥‥新聞紙上では、実の子を虐待する親について、随分多くの記事を見たような気がしますな、それから、「いじめ」という言葉もよく目に付きましたし、何々ハラスメントもよく聞いたような気がします。それから、やはりトランプ大統領ですかな、‥‥よくぞ智恵の絞り甲斐のある問題ばかり出揃ったものですが、‥‥老人も少しばかり無い智恵を絞り、衰えた思考力に鞭打って考えて見ましょうかな、‥‥
  1. 虐待
  2. いじめ
  3. パワー・ハラスメント
  4. トランプ
   対処法を考えてみましょう、――
  1. 虐待:育児放棄は、動物界ではしばしば見受けられるところですが、人間に取っても子育ては大変です。昔ならば他人に頼って、何となくうまくいっていたものが、今では、特に他人に対する関心が非常に薄れているこの時代には、核家族の母親は、とかく孤立無援に陥りやすく、智能の程度、或は性格の適応性によっては育児放棄、引いては虐待にまで発展したとしても不思議ではありません。かなりの確立性をもって起こりうることだと知れば、自づと対処法も見えて来るでしょう。子育ての中心たるべき女性は義務教育の間に適切な対処法を学ばなくてはなりません。又男性に取っては、子供が邪魔者たりうることは、何時の時代も有りうることです。性格に暴力的傾向があれば、一時的にでも、永久的にでも、そこから避難するのが適当です。男性も結婚に付随する暴力問題を義務教育のレベルで学ばなくてはならないでしょう。行政が、もし子供を国の宝だと見ているならば、智恵を尽くして事前対処の方策を立てねばならないし、育児中の母親に対しては、無料のシェルターをいつでも利用できるよう準備しなければなりません。又子供を欲しくて生んだが、もう欲しくなくなったとか、欲しくないのに生んでしまった等々は、皆普通のことであり、特異なことではありません。赤ちゃんポストは非常に重要となりますが、この子等には親属のしがらみがないだけに、上級国家公務員としての優れた適性があります。国は、国家公務員の養成機関として一省を新設すべく、発展させねばなりません。
  2. いじめ:弱い者や、醜い者を嫌うのは、特に人間に於いて顕著に見られる性格であり、恐らく本性だと言ってもよいと思われますが、それは他に対する思いやりに欠けるという点において、或は卑怯な行為であるという点に於いて、唾棄すべきものであるという共通認識を打ち立てなくてはなりません。これは極く幼年のうちから顕著になる性格ですので、逆に対処は容易だと思います。義務教育の初期に於いて、体罰をもって陶冶し、良性の者に化導しなくてはなりません。敢て体罰をもってと言うのは、理屈は役に立たないからです。他に対する思いやりを教え込むのに、理屈がどれほどにも役に立つと思うのは浅はかです。又昔から体罰が行われて来たのは、それにある程度の実効性を認めたからに他なりません。ただ体罰を与えるということは、極めて専門的行為であることは、やはり知られねばならないでしょう。専門職を養成すべきですが、その前にその技術を学問的に確立して、その効果と非効果とを明確にせねばなりません。
  3. パワー・ハラスメント:主に会社内の事だと思いますが、無能な上司は至る所に満ち溢れているという社会的共通認識を打ち立て、無能な上司を無くすような方策を施さねばなりません。社会学の著名な法則で、「ピーターの法則」というのがありますが、それが無能な上司の満ち溢れる理由を教えてくれます、――
    1. 階層社会では、すべての人は昇進を重ね、おのおのの無能レベルに到達する
    2. やがて、あらゆるポストは、職責を果たせない無能な人間によって占められる
    3. 仕事は、まだ無能レベルに達していない者によって行われる
    この三つの法則より「ピーターの法則」は成り立っていますが、共通認識は卒かには打ち立てられませんので、取りあえず無能な上司を憐れみの目で見ていれば、そのうちに又良い対処法も浮んで来るのではないでしょうか。
  4. トランプ:上の三は皆容易に解決できることばかりでしたが、このトランプには、はたして打つ手があるのでしょうか、非常に悲観的にならざるをえません。この国は戦後、原材料を輸入して、製品を輸出することで生計を立てようとし、それを貿易立国と呼んで来ましたが、自由貿易という錦の御旗を楯に取り、我が国には好い商品があり、アメリカ国民もそれを欲しているのであるから、アメリカは当然をそれを自国民に買わせるべきだという甚だ幼稚な理論をもって迫ったのですが、一方では貿易というのは謂わば先様商売であるという原則を忘れていたが故に、日米の貿易摩擦の発生するごとに、手酷く罰金を払わされて来たのであります。それを列挙して見ますと、
    1. 思いやり予算:アメリカの駐留軍に対して、世界には例を見ないほどの多額の費用を払うよう余儀なくされた。
    2. 大店法改正:非関税障壁をなくして、アメリカの物資を流通させるべく、大店法を改正したが、地方都市のシャッター街化を促進して荒廃させただけでなく、東京の一極集中という、アンバランスな状態に拍車を掛けることとなった。
    3. 湾岸戦争出費:カローラ一台売って得られる純利益が一万円と言われていた時代に、一兆円を優に超える戦費を支払わされた上に、憲法九条という楯が破れて、世界の紛争から遠ざかっていられることに由来する経済的優越性を放棄せざるを得なくなり、以後日本経済は凋落の一途を辿ることとなった。
    4. 決算期毎に円高に自由に誘導されて、実際に得る利益を圧迫される。
    5. 自動車等の製品の欠陥を突いて、莫大な賠償金を払わされる。
    6. 等々
      要するに、店頭に品物を並べて、客を待つべき時に、他人の家に出掛けて行き、無理無体に買わせようとすれば、それ相応のしっぺ返しを食うことになるのは必然です、押売りが罰金を食らうのと同じです。しかし、戦前にも全く同じ構図をもって戦争に突き進んだ、この悪むべき国民性を、どのようにすれば陶冶できるのでしょう。トランプという外圧に頼む所以です。

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  クリスマス・ケーキ代わりにアップル・パイを作ってみました。レシピは版画家の山本容子さんのブログに依ります。

≪材料:19cmのパイ型一台分≫
  ≪煮りんご用≫
  1. りんご:中5個
  2. バター:40g
  3. 砂糖:100g
  4. コニャック:大さじ1杯
  5. レモン:1/2個
  6. シナモン:スティック2本
 ≪パイ生地用≫
  1. 強力粉:50g
  2. 薄力粉:150g
  3. 卵:1個
  4. バター:50g
  5. 塩:一つまみ
 ≪艶出し用≫
  1. 卵:1個(実際に使う分は少々)
≪煮りんごの作り方≫
  1. りんごの皮を剥いて芯を取り、櫛形に8等分する
  2. フライパンでバターを溶かし、シナモンスティックを入れる
  3. フライパンにりんごを入れ、水が出るまで20分ぐらい炒める
  4. 形を崩さないように焦げ目をつける
  5. コニャックを入れて、アルコール分を飛ばす
  6. レモンを搾り、砂糖を振り入れる
  7. 形を崩さないように、バットに並べて冷ます
≪パイ生地の作り方≫
  1. あらかじめ冷蔵庫で冷やした粉をふるって調理台の上に山状にし、中央を窪ませて卵1個を割り入れ、卵の殻1/2個分の水と塩一つまみを加え、窪みの状態を崩さないように指1本でかき混ぜる
  2. あらかじめ冷蔵庫で冷やした7mm角のバター50gを粉の上に載せ、捏ねないようにして、すばやく纏め、ラップに包んで冷蔵庫で2時間寝かせる
  3. 生地を冷蔵庫から取出し、強力粉(分量外)を薄く振った調理台の上に載せ、麺棒を使って縦30cmの帯状に延ばす
  4. 強力粉(分量外)を生地の上に振りかけ、刷毛で払ってから、三つに折りたたむ(縦10cm)
  5. 90度生地の向きをずらして粉を振り、又麺棒で30cmに延ばしてから、三つに折りたたむ
  6. 5.の行程を後3回繰り返し、冷蔵庫に入れて寝かせる
≪成形から完成まで≫
  1. パイ皿にバターを塗って冷蔵庫で冷やす
  2. 冷蔵庫から出した生地を縦30cmに麺棒で延ばし、左右上下を1cm幅で切り取り、殘りの中心部分を2等分する
  3. 中心部分1枚を麺棒で円く延ばし、冷蔵庫から出したパイ皿に敷き詰め、底の部分に全体に20箇所ぐらいフォークで穴を開ける
  4. パイ皿に、りんごを敷き詰める
  5. もう1枚の中心部分の生地を麺棒で円く延ばし、りんごの上に被せ、中の空気を押し出しながら縁を指で密着させる
  6. パイ生地の周囲の部分に卵白を塗り、紐状の生地を適当に延ばして貼り付け、縁をフォークで押えながら筋をつける
  7. 卵黄に卵の殻1/2個分の水を加えて溶きほぐし、パイ生地の表面に塗りつける
  8. 210度に余熱したオーブンで40分間焼く
  9. オーブンから取出し、クーラー上で冷まして出来上がり
≪バラの飾り≫
  1. りんごを2分して芯を取り除き、1mm幅に薄切りする
  2. 薄切りのりんごを鍋に入れ、ひたひたの水と砂糖大さじ1杯を加え、りんごがしんなりするまで煮る
  3. 細長いパイ生地を7mm×15cmぐらいに延ばしたところへ、薄切りりんごを水気を拭き取って並べ、端から巻いて筒状にする
  4. アルミホイルを天板に敷き、パイ本体と同時に焼いて、10分ぐらいで取出す。



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  アップル・パイと同じ生地で、ミート・パイ(mince pie)を作ってみました。ただしアップル・パイの生地が堅くて延びにくいので、水を少し余計に加えたところ、焼き上がりが層状(mille-feuille)になりナイフで切れないぐらいに堅くなってしまいました。敢て失敗例として載せます。余計な水を加えないものも作りましたが、これは成功でした。
≪餡(filling)の材料≫
  1. 牛ミンチ:150g
  2. 豚ミンチ:150g
  3. 玉ねぎ:1個
  4. グリーン・ピース:大さじ一杯分
  5. コンソメ・キューブ:1/2個
  6. 水:100cc
  7. ケチャップ:大さじ1杯
  8. 小麦粉:大さじ2杯
  9. 塩、胡椒:適宜
≪餡の作り方≫
  1. 玉ねぎを微塵切りにする
  2. フライパンに、挽肉を入れて水を加え、杓文字等で塊がなくなるまでほぐす
  3. フライパンを火に掛けて、挽肉が固まらないように混ぜ続ける
  4. 挽肉の色が変ったら、汁気のあるうちに玉ねぎ、コンソメ、グリーン・ピースを加える
  5. 全体に火が通ったら、塩、胡椒、ケチャップを入れて味を整える
  6. 火を止めてから、小麦粉を加え、よく混ぜ合せてから、再度火をつける
  7. 全体が煮立ったところで火を止め、粗熱が取れるまで、そのまま冷ます
≪パイ生地の作り方≫:
アップル・パイに同じ
≪成形から完成まで≫:
アップル・パイと同じであるが、但し卵黄を塗った後に、5cmぐらいの空気穴を4箇所ぐらい開けておくこと


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では、今月はここまで、また来年お会いしましょう、それまで御機嫌よう
Merry Christmas
&
Happy New Year
  (醍醐寺  おわり)

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